「日記」カテゴリーアーカイブ

ある日の埔里日記その3(5)Uさんがやってきたが

5月7日(日)
Uさん来訪

今朝は鹿谷からUさんがバイクで遊びに来てくれた。Uさんとは6年前、鹿谷で出会って以来、こちらが鹿谷に行くと世話になっている。今回初めて、彼の方がやって来た。春茶の買付、色々と苦労が多いようで、その気晴らしということらしい。それにしてもバイクというのは便利なものだ。どこへでも移動できる。

 

しかし彼が埔里に来ても行くところがない。正直埔里には鹿谷ほど、良いお茶があるとも思えない。親しくしている茶荘もそれほどない。仕方がないので、ホテル前のベンチに座り、雑談を始める仕儀となる。今年の台湾茶も天候により、かなり厳しい。妥協せず、クオリティを求め、茶葉の買付を行うのは年々難しくなっている。彼の苦悩もどんどん深くなっていく。

 

それから葉さんの店に行くが、彼は茶園に行っており不在。まあこの時期に暇な人はあまりいないだろう。適当に道具を使わせてもらい、茶葉を見付けて飲んでみるが、ちょうどよいお茶には出会えない。こんな遊びにもすぐに飽きてしまう。茶の作り手も茶商同様、苦労しているだろう。

 

昼ごはんでも食べようかと出掛ける。イタリアンが食べたいというが、この街に本格的なイタリアンなどあるのだろうか。私はいつも一人で食事しており、殆ど台湾料理で満足しているので、誰かと行く店を知らない。Uさんは鹿谷にもう1か月もおり、食事の選択肢は埔里より限られているため、何とか新鮮味のあるところを探したい。

 

あまりに台湾ぽいところを避けた結果、若者が行くようなこぎれいな店に入った。イタリアンというより、洋食だろうか。結局よくわからないものを注文し、よくわからない味を食する。日曜日ということか、店は満員なのだが、この中途半端な感じは結構きつい。一般的には台湾人も香港人などと同様に、パスタは麺が柔らかくないと食べない。日本のパスタは硬過ぎるといつも言う。食文化の違いは大きい。

 

食後、葉さんが店に戻ってきたというので、もう一度訪ねた。Uさんと葉さんは初対面。私が初めてここに来た時、鹿谷から車を運転してくれたのはUさんだったが、その時も葉さんは茶園におり、彼が帰った後降りて来た。各地の茶園の状況などが話題に上るが、それほどいい話はない。

 

魚池にも行ってみることになる。Uさんのバイクの後ろに乗り、ヘルメットを借りて出発。今日は山茶の王さんを訪ねることにした。彼も茶園に行っており、連絡するとわざわざ戻ってきてくれた。王さんは茶作りをしているが、様々なお茶を収集しており、紅茶だけでなく、烏龍茶やプーアル茶まで登場してきた。そして前回美味しく頂いたバナナまで出てきて、また持ち帰ってしまう。

 

話の中でUさんが『そういえばこの辺に以前黒肉麺という店があったような』というと、『それはうちの隣にあった店だけど、色々とあったようで』と王さん。いつの間にかなくなり、大陸客を当て込んだ豪華な店ができたが、客が来なくて閉店している。『黒肉麺の店は魚池から埔里に移っているよ』と言われて、はたと気が付いた。そんな店が家の近くにあったことを。

 

Uさんは急にそれが食べたいと言い出し、何と鹿谷とは逆方向の埔里へバイクを走らせる。まあ私は送ってもらって助かった。ところがいざその店に行ってみると、何と昼しか営業していないことが分かる。かなりのショック。Uさんはそのショックを引きずったまま?埔里を離れ、帰っていった。

 

後日この店に行ってみると、黒っぽく揚げられた排骨と麺が出てきた。その味は何となく日本を想起させるものがあり、普通の排骨とは少し違っていた。昼は弁当を買いに来る客でかなり混雑しており、埔里に移っても人気店のようだ。因みに埔里酒廠の近くにもう一店舗あり、そちらは夜もやっているとのこと。謎の看板の意味が分かり収穫があった。

ある日の埔里日記その3(4)埔里の歴史遺産

5月6日(土)
埔里の歴史遺産

昨日午前、久しぶりに黄先生のサロンへ行く。埔里在住の日本人が金曜日の午前中に集まってきて、サロン化しているのだ。先生は御年80歳、埔里では有名な画家で、そのアトリエを開放している。その絵は非常に温かみがあり、埔里や中部台湾の風景、民族が多く描かれている。観光局の絵としても使われているらしい。

 

当初はWさんに連れてきてもらったこの会だが、何と同じ場所に住んでいる日本人Iさんとここで出会い、声を掛けてもらい、車に乗せてもらっていく。そのサロンで話をしていると、埔里の東邦紅茶の話題になり、先生が東邦のお婆さんの長女と同級生だと知り、驚く。アメリカの華人に嫁ぎ、ずっとアメリカ暮らしらしい。するとIさん、そしてSさんが東邦に興味を持ったので、今日一緒に訪ねることにしたのだ。

 

まずはIさんの車でSさんを拾いに行く。Sさんは埔里では有名な牡蠣オムレツ屋の娘さんと結婚しており、今はお父さんが店をやっているという。このお店、40年ほどの歴史があり、埔里人なら誰でも知っているそうだから、今度一度食べに行こう。奥さんは赤ちゃんの関係でお留守番。3人で向かう。

 

東邦紅茶の工場に着くと、郭さんが案内してくれたが、初めての2人は『埔里にこんな歴史的な場所があるとは驚きだ』と感想を述べ、階段の手すりや天井など、60年前の建物に見入る。そして『ぜひここを博物館にして保存し、皆に見せてあげたい』ともいう。郭さんにもそのような構想はあるようだが、資金の問題と親戚の了解を取り付けることはそれほど簡単ではないらしい。

 

2人ともお茶関係者ではないので、製茶機械などは簡単に見て、事務所でお茶を飲む。普段は日月潭の紅茶も飲まないだろうから、ここのお茶はかなり新鮮かもしれない。この敷地では茶を売っていない。一般人が気楽に茶を買えるスペースがないと、普及しないようにも思える。何しろ東邦の知名度は埔里では抜群なのだが、紅茶製造を復活していることを知る人はどれほどいるだろうか。

 

最後に宿舎を見学する。ここは創業者の住まいだったところであり、その中は昭和レトロな雰囲気と洋風が混在している。玄関には上がり框、奥には畳の部屋もある。書斎にはピアノや蓄音機が残され、日本語で書かれた戦前の専門書がそのまま置かれている。まるで骨董屋さんのようだ。

 

ここには創業者の奥様がそのまま暮らしている。何と今年99歳、今日も日本語で『いらっしゃい。座って』と言ってくれたので、少しお話しした。耳が遠いようだが、健康そうに見える。この方の歴史には非常に興味をそそられるが、余り長居すると疲れると思い、記念写真を撮って退散した。

 

車はSさんの家に戻り、奥さんと赤ちゃんも乗せて、昼ご飯を食べに行く。この付近、食べ物屋が多いが、一軒非常に繁盛している店があった。席がありそうだと分かると、奥さんは車を降り、すぐに席を確保する。元々近所だから店の人とは顔馴染みだ。ここのチャーハンはこれまで埔里で食べた中で一番うまいが、量が半端なく多い。あとはあんかけ飯がうまそうで、大抵の人が食べていた。しかしその後もう一度行ってみようと歩いて行ったが、なぜか見付からない。

 

午後は演習林に行った。私も全く初めて行く場所。古そうな建物が建っているだけで説明書きなどもなく、意味はよくわからない。この演習林を研究しているSさんによれば、『ここはちょうど100年前、北海道帝国大学が設けた恵蓀演習林の埔里事務所のような場所』らしい。当時日本の大学は国内だけではなく、朝鮮や樺太にも演習林を設置し、植民地経営の一環としての研究を進めていたと思われる。

 

因みに演習林とは林学の研究・教育の場としての実験林だという。台湾には東大、京大、九大も別の場所に演習林をもっていた。たしか東大の演習林は台湾大学に引き継がれ、鹿谷にあり、Uさんのバイクで連れて行ってもらったことがある。マラリアの薬であるキニーネを研究していたと聞いた記憶がある。

 

その場所は川沿いにあり、公園のような敷地に木々が生え、その中にポツンと建物が建っている。中には入れない。こんな歴史的な建物があることなど誰からも聞いたことはなかった。往時は隣の家も全て演習林の敷地だったという。今は何も使われておらず、ただ放置されている状態。

 

現在台湾各地で掘り起こされている旧懐日本ブームから見れば、この施設は十分に活用できそう。特にあまり資源がない埔里としては非常にもったいないと思うのだが、現在の管理者は台中の中興大学らしい。ただ植民地時代に作られた施設については、日本側から活用を働きかけるのは難しいだろう。日月潭紅茶のように台湾側が何らかのビジネスと繋がる中で、日本時代を持ち出す、という形しかない。

ある日の埔里日記その3(3)日本茶品茶会と新たな取り組み

5月2日(火)
日本茶品茶会

福州から桃園空港に戻り、そのまま空港バスで台中に向かった。2時間ちょっとで台中駅前に着いたから意外と速い。腹が減ったので、駅近くで探したところ、香港式があり、そこで叉焼などを食す。香港式は意外と人気があり、店が増えているような気がするのだが、埔里の店は1つ潰れてしまい、残念に思っている。

 

台中から1時間で埔里に戻り、宿泊先の窓を開ける。5月初めでもそれほど暑いとは感じられない。例年より涼しいとの話もあるが、ここの気候は昔からよいということらしい。部屋の片づけや旅行荷物の整理をしていると、東邦紅茶の郭さんから連絡があり、迎えに来てくれた。

 

今晩は、埔里郊外のトミー別荘で、日本茶を飲む会を開催してもらった。私が日本各地を歩いた中で自分がいいなと思ったいくつかのお茶を送ってもらい、持参した。それを数人のお茶好き、茶農家の若者に飲んでもらい、感想を聞こうという趣向だった。日本茶は煎茶、ほうじ茶、紅茶を持っていく。トミー別荘は広々とした庭があり、建屋内にテースティング機材などがすべて揃っている素晴らしいお茶の空間だ。

 

皆実に興味津々でやってきた。まずは彼らがちょうど作った日月潭紅茶を試飲する。作り手同士だから真剣に批評し合っている。18号紅玉のメンソールが強いものがあり、好ましい。独特の21号や珍しい20号など、作り手は様々な挑戦をしている。それはまた生き残りをかけた厳しい戦いのようだ。

 

基本的には台湾人には蒸し煎茶は口に合わないようだ。どうしても『海苔の味がする』など、塩気を好まない彼らには馴染まない。むしろほうじ茶の方がうけは良い。中でも茨城から頂いた茎ほうじ茶の原料というのが、彼らにフィットしたのはちょっと驚き。やはり何でも試してみないと分からない。

 

続いて和紅茶。こちらは彼らの専門分野でもあり、一段と興味が沸く様だ。愛知から送られてきたお茶を見て、『どうやってこんなにきれいな紅茶ができるんだ。日本でももうこのレベルなのか。将来こんな茶が作りたい』との声が上がった。特に『手摘みできれいに作れるのは分るが、機械摘みでここまでできるとは』『この茶を作るのに一体どれだけの時間やコストがかかるんだ。これは商品というより芸術品だ』という感想は茶農家ならでは。

 

その他、茨城、静岡、熊本などの和紅茶はどれも比較的良い評価を得ていた。日本が本気で紅茶を作れば、台湾も危うい、という印象のようだった。最後に貴州から持ち帰った紅茶を飲んでみたが、飲んだ瞬間『芋の味だね』と福建品種とすぐに分かるようだった。日本には大葉種の紅茶はないが、台湾中国はアッサム種など大葉種で紅茶を作る強みがあるように思う。

 

あっという間に3時間ほどが過ぎ、夜は更けていく。若者たちは実に熱心に、茶葉、茶色、茶殻を見て討論を続け、自らの将来を考えていた。やはり台湾は高山茶など烏龍茶が主流であり、紅茶が生きる道はかなり険しいと感じる。日本時代に日本主導で始めた紅茶栽培、台湾で復活と見るのは早計かなと。

 

5月5日(金)
茶と観光と

先日の日本茶品茶会で知り合った若者、王さん夫妻。まだ20代なのに、色々と活動しており、また彼のお爺さんが茶葉伝習所の卒業生で、ご存命と聞いたので、彼らを訪ねてみた。昼過ぎにバスターミナルからバスに乗り、魚池のバス停で下車。そこに王さんが迎えに来てくれたが、彼の新しい工場は、何とこのバス停の後ろの小高い所にあり、実に便利な場所。車は2分で頂上に到着した。

 

頂上付近はキャンプ場として使えるようになっていた。最近特にアウトドアライフが盛んになっている台湾で、車で観光地にやってきて安い料金でキャンプする人が増えている。ここは日月潭にも近く、また一応街でもあるので、好都合だろう。更にはその下には茶畑があり、景色もよい上、その下には宿泊施設2棟の建設が進んでいる。『どうしてもキャンプではなく、屋内で寝たい人のために』ということらしいが、凄く大掛かりな投資だ。

 

そしてその横には真新しい3階建ての工場があり、既に一部最新鋭の機械が搬入され、茶作りは始まっていた。王さんは茶作りをしながら、私に説明をしてくれた。お爺さんの時代には紅茶を作っていたが、お父さんの時代には造林業などをしている。自分も奥さんも大学では観光学を学んでおり、今後は茶業と観光業の両立を目指していく。確かにこの地域、現在は紅茶ブームではあるが、将来を見据えた戦略を立てている。

 

外に出るとお父さんが植えられた木を見ていた。その中には樹齢100年近い茶樹もある。最近ここを整備する中で他から移植してきたという。まだ根がおぼつかない木もある。ここが本当に最近開発されたことがよくわかる。年内には宿もオープンし、本格的に稼働するらしい。

 

王さんに連れられて、オフィスというか自宅に行く。ここは茶業と造林業のオフィス機能があり、また茶葉の倉庫にもなっている。周囲は木々で囲まれており、フルーツがなっており、環境は良い。お茶を飲んでいるとお爺さんが入って来た。私を見ると『日本人と会うのは久しぶりだ』と日本語で言い、えらく喜んでくれた。

 

このお爺さんが光復後、林口の茶葉伝習所で茶作りなどを学んだ人だった。後で名簿を確認すると5期の卒業生だ。もうその頃は日本人の先生は帰国しており、台湾人から習ったというが、伝習所で勉強できたことを懐かしんでいた。更には『この付近は渡辺さんの茶園だった。自分のお父さんは渡辺さんと働き、子供だった私は渡辺さんの奥さんに可愛がられたよ』と。既にお爺さんは87歳、どんどん歴史は過ぎていく。

ある日の埔里日記2017その3(2)安宿から華信航空に乗る

4月25日(火)
台北へ

 

昨日の疲れが相当に残っていた。いや昨日だけではない。数か月の疲れが噴き出してきて、起き上がれなかった。それでも今日は台北に行かなければならない。明日福州に行くフライトは早朝で、しかも松山から出るのに気が付かなかった。どうやっても今日中に台北に行き、明日の始発前に松山へ行かなければならない。

 

午後2時にバスに乗った。一昨日と違い、空いていた。夕方のラッシュ時にぶつかるかと思ったが、極めて順調に5時すぎには台北に戻って来た。ちょうど二日ぶりだった。今回はまさに寝るだけだと思い、いつもの定宿ではなく、ネットで一番安い個室の宿を探したところ、何と1泊700元というのがあったので、怖いもの見たさに予約してみた。

 

場所も森林北路で、長春路の近くと便利な場所。バスターミナルからゆっくり荷物を引いて行っても15分位で着いた。ビルの3階だったが、中はきれいだった。昨年改修工事をしたばかりだという。以前は何だったのだろうか。フロントの女性の対応はとても親切で好ましい。

 

部屋はかなり狭く、椅子が壁にぶつかるが特段問題はない。小さな窓もあり、料金相応だろう。ただ部屋のドアは自動ロックで内側から開けるのになぜか苦労した。ちょっとシステムに問題があるのだろうか。一瞬閉じ込められたかと思った。またクーラーの調節ができないのは老人の私にとってはちょっと残念。

 

取り敢えず夕飯を食べに外へ出る。双連駅近くに屋台があると聞いたので出かけてみた。以前も何度か前は通ったが、一度食べたきりで全貌は分らなかったので興味津々。でも意外と数が少ない。後で見てみるとかなり広範囲にわたって店があるようだったが、腹が減っていたので、普通の弁当屋さんに入り、定食で済ませる。私の場合『台北に行ったらこれを食べなきゃ』といった執着は既にない。

 

まだ夜も7時だったが、大人しく部屋に帰り、ちょっとネットをいじってからシャワーを浴びる。勿論トイレ・シャワーは共同なのだがお客に殆ど会わず、すんなりとシャワーを浴びることができた。これは私にとっては有り難い。ただここにはどんなお客が泊まるのかは分からず、それは残念。また夜中にトイレに起きても、誰もいないので気が楽だった。何となくクーラーがきついので良くは眠れなかったが、午前4時半には起き上がった。

 

4月26日(水)
福州へ

フロントも寝ているかと思いきや、ちゃんと男性がいてすんなりチェックアウトできた。安宿はこういうところで躓き易いがここはOKだった。午前5時に森林北路へ出たのは初めてではないだろうか。なんとまだ煌々と灯りをつけている店があり、驚く。往時?飲み屋街だったこの辺、今はどんな客がいるのだろうか。

 

地下鉄の始発は未だなので、タクシーに乗る。安い航空券を買ったのはよいが宿に泊まり、タクシーに乗らなければならいのはちょっとした出費だ。しかも車など走っていない早朝のこと、ものの10分で空港まで着いてしまう。空港には明かりはついていたが、チェックインは始まっていなかった。乗客も殆ど着ていない。なんでこんな早く来てしまったのだろうと悔やんでも遅い。

 

華信航空のチェックインは5時45分からと表示されていた。それまで大人しく待つ。頭の中には27年前、私が台北に駐在している時、お世話になっている台湾企業が、この華信航空を設立したことが急に思い出された。李登輝総統になり、色々な変化がある中、航空業界も中華航空1社というのは如何なものかとの議論があり、2人の財閥オーナーに新航空会社設立の打診があったと聞く。

 

1人がエバーグリーンの張栄発氏。昨年亡くなり、2011年の東日本大震災で10億円を寄付した台湾人として急に有名になったが、私がお目に掛かった20数年前も、すでに世界の最大手コンテナ会社のオーナーだった。彼は長栄航空(エバエアー)を創設した。私はこの会社の当初の訓練も見学し、CAさんの実験台として乗客役などをしたのが懐かしい。

 

そしてもう一つの航空会社が華信であった。この会社を設立したのが中国信託グループの辜濂松氏。私はこちらにお世話になっていたので、微力ながら力添えをした。ただその後、中華航空の傘下に入ったと聞き、残念に思っていたが、今日初めて搭乗できると思うと、ちょっとワクワクした。因みに張栄発氏と辜濂松氏が同時に日本より旭日重光章の叙勲を受けているのは、その貢献度の高さから言って当然だろう。

 

そんなことを考えていると、チェックインが始まり、私は出遅れてしまい、折角あんなに早く来たのに後ろに並ぶ羽目になった。飛行機に乗り込むと機体は新しく、きれいでよかった。朝ご飯としてパンと飲み物が出ただけで、フライトとしては僅か1時間ちょっと。サービスを受ける間もなく、かなり物足りない中、福州に到着した。

ある日の埔里日記2017その3(1)休む間もなく雨の紅香へ

《ある日の埔里日記2017その3》

春茶を目指して台湾に戻って来た。だが茶畑への関心は少し薄れ、むしろその歴史に大いに惹かれていく自分がいた。ちょうど雑誌への連載が始まった。4月の中国2週間の旅などで体はボロボロだ。もう少しゆっくりとした生活をしてみよう、そのためにも埔里に籠り、歴史の勉強を強く意識し始めた。

 

4月23日(日)
台北からバスに乗れない?

最近台湾に行く時は成田から桃園が定番になっているが、今回は珍しく羽田から松山になった。それも午後便だからゆったりと空港に行けてよい。さすが日系航空会社だと乗客も日本人が多い。現在日本人の台湾観光ブーム。年間200万人もの人が台湾を訪れているらしい。

 

確かに他の国で日本人観光客を見かけることは少なくなっているが、台湾では特定の場所で多くの日本人に出会って驚くことがある。皆がガイドブックに沿って同じところに行き、同じようなものを食べているのはちょっと残念だが、それでも外へ出ないよりはずいぶんマシだと思う。自国に閉じこもって、作られたテレビ番組を見て世界が分かった気になるのは何とも恐ろしい。

 

フライトはスムーズで午後4時前には松山空港に着いた。ここのイミグレは桃園ほど混んでいないのですぐに荷物を取り、外へ出た。ルーティーンとなっている、両替とシムカードの購入が完了すれば、下におり、地下鉄に乗る。取り敢えず台北駅へ向かう。1度乗り換えるが30分程度で駅に着き、そのままバスターミナルを目指す。

 

今日は台北に泊まらず、埔里に行くことにしていた。確か5時のバスがあるはずであり、何とかそれには間に合うはずだった。昨年までと乗り場が異なり、大きなターミナル内に吸収されている。チケット売り場を探してちょっと迷うがそれでも時間内だ。だが窓口へ行くと無情にも『5時のバスは売り切れ』と言われてしまう。日曜日の夕方のせいかな。

 

何だか拍子抜けてしまい、6時以降のバスに乗る気が失せた。じゃあ、高鐵にしようと咄嗟に思い、荷物を引き摺って高鐵駅へ向かう。地下を通り切符売り場を探し当て、5時20分の列車を抑えた。ここの自販機、うっかり1000元札など入れてしまうと、お釣りは全て50元コインで返ってくるという洗礼を受けるので、慎重に小銭を探して投入する。

 

台中まではちょうど1時間。バスなら3時間以上乗っているので眠れるのだが、こちらは眠る時間もない。台中高鐵からバスに乗りまた1時間、8時前には宿泊先に着いていた。これならバスより早いのだ。但し料金はバスの方が半分以下。時間に余裕があればバスの方がよいが、今日のように満員だと乗れないリスクもある。

 

葉さんが待っていてくれ、鍵を受け取る。まだ1か月も経っていないのに何とも懐かしい。そこへ葉さんから『明日紅香へ行かないか』と誘いを受ける。実は今回なぜ急いで埔里に戻ったかというと、26日から急きょ中国へ行くため、25日の夜にはまた台北に戻らなければならないのだ。まずは埔里に荷物を置きに来ただけだった。

 

それでも紅香という場所は聞いたことはあったが、行ったことはなかったので、当日戻るという話を受け、行くことを決意した。ところが夜半は凄い雨が降っていた。朝6時出発と聞いたが、どう見ても茶摘みなどできる訳はないと思い、5時を過ぎても起きなかった。やはり疲れていたのだ。

 

4月24日(月)
雨の紅香へ

朝5時50分、スマホが鳴った。何と葉さんは下で待っているというではないか。まだ雨は止んではいない。慌てて服を着て、車に乗り込む。予報では雨は止むというのだが、そうは見えないほど強く降っている。朝ご飯のサンドイッチを買い込み、車は山道を行く。霧社、清境農場を越えていく。松崗あたりだろうか、車は急に横道を下り出す。雨が濁流のように道を流れていく。一体どこへ行くのだろうか。

 

1時間半ほど車に乗っていただろうか。茶畑が見え、茶工場が見えてきた。紅香には沢山の茶工場があるようだが、その内の一つに車は滑り込んでいく。何となく雨が弱くなっている。車を降りて驚いたのは、そこに雨合羽を被り、バイクに乗って来た多数の外国人労働者がいたからだ。何とその中にはご近所のベトナム人夫婦も含まれていた。

 

ベトナム人やインドネシア人は休む間もなく、茶畑に出て行き、茶摘みが始まった。私はここで茶を作っている張さんを紹介され、事務所で茶を飲み始める。更には裏に宿泊できる建物があり、そちらを見学する。いわゆる台湾の民宿、昨今流行りの自然の中で過すための施設のようだ。張さんはここ以外にもいくつかの有名な茶産地で時期になると茶作りをしているという。

 

1時間以上経つと、茶葉が運び込まれてきた。雨に濡れた茶場だが、即座に乾燥に回され、それから普段の工程に入る。と言っても萎凋が十分にできるのだろうか。『最近は天候不順だが、摘み手の確保が難しく、雨で摘むことは多い。それをどうやって製茶していくか、それも技術だよ』と説明される。

 

ベトナム人の摘み手、スピードは早いが、当然摘みは粗くなる。それもまた時間との闘い、彼らからすれば給与との闘いとなるのである程度仕方がない状況のようだ。それにしても自らのバイクで海抜1400mまで上がってきて、昼ごはんも持参。あまり休まず、ひたすら摘んで、終わればすぐに帰っていくたくましいベトナム人。これでかなりの稼ぎになるようだ。我々は奥で昼ご飯を頂く。

 

2時に茶摘みは終了。これから本格的な製茶が始まるのだが、葉さんも帰るというので、私も失礼した。今日のこの体験は、ある意味で現在の台湾茶業の状況をよく表していると思う。とてもよい勉強になった。

ある日の埔里日記2017その2(9)桃米坑から鹿篙へ

3月30日(水)
鹿篙へ

 

本日は埔里滞在2回目の最終日。Wさんがバイクでお茶屋さんに連れて行ってくれるというので、お言葉に甘えて、後ろに跨る。私もバイクに乗れれば行動範囲が大いに広がると思うのだが、どうも長年、車にすら乗らないので、バイクも怖くてしり込みする。そのくせ、人の後ろに乗るのは慣れており、問題はない。

 

まず向かったのは、埔里郊外の桃米坑という場所。ここの山間部にも茶畑がある、とWさんが言うので、行ってみた。確かに狭い道路脇に茶樹が植わっている。それも結構古い。但し人の手は入っており、誰かが管理して茶を作っているように見える。それでも産量は殆どないだろう。ここがもし日本時代に植えられた場所なら、さる有名人が茶園を作った場所ではないかと勝手に妄想が膨らむ。Wさんによれば、この付近にはほたるが多く生息し、夜はほたる見物客が訪れる所らしい。

 

進んでいくと、小さな牧場のような場所に出会う。ここでキャンプができるらしい。最近の台湾のトレンドだな。更に行くと山の中にきれいな茶畑が見られた。これは最近植えた台茶18号だろうか。実はこの先まで行くと蓮華寺という、相当古い文献にも名前が出てくる茶畑があった場所に至る。この付近全体が台湾でもかなり古い茶の産地だったのだ。

 

バイクで走ると結構速い。私は茶畑が見えるとすぐに反応するが、Wさんは樹木に反応する。ある木をパッと見て、すぐに『ああ、ここにはカブトムシが来る』と叫ぶ。人間というのは自分の興味により、見ているところが全然違うと悟る。鹿篙へ向かって、バイクは進んでいく。

 

昼ごはんを食べようというのだが、こんなところに食堂があるのか?ところがあるのだ。ここには大学がある。日本人でこの大学で教えている人がいるそうで、その人から教わったとWさんは言う。昼時、若者で満員だった。食堂は1軒ではなく、3軒ぐらいある。結構ビックリだ。そして出てきた食べ物はかなりうまかった。学生街だからボリュームもある。嬉しい。腹一杯食べた。

 

そして鹿篙へ。大きな通りから道を入る。ここは6年前から何度も通っている。見知ったお茶屋さんもあるが通過。そして日據紅茶廠というところに着いた。ちょうど茶摘みを終えた地元のおばさんたちが皆でお茶を飲んでいるところに遭遇。何だか楽しそうだな、と一緒に混ざって紅茶を飲む。

 

ここの老板、王さんに話を聞くと、日本時代ここは持木さんの畑があり、おじいさんはその茶園管理の仕事もしていたらしい。その持木茶園は今では全く無くなっているという。1980年頃には紅茶作りをする家はほぼ無くなっていたが、お父さんは細々と作っていたともいう。そして紅茶ブームが到来し、皆が一斉に作り始めた。大陸の観光客も来て、一時は飛ぶように売れ、レクサスを買うまでになった。だが、最近は茶葉の価格が下がり、観光客も来なくなり、厳しい状況に陥っているという。

 

工場には若者が茶作りの修行をしていた。ジャカルタから来たというインドネシア籍の女性も手伝っている。紅茶に将来性があると思い、この道を選んだというが、製茶修行も大変なら、その前途にも暗雲が立ち込めている。裏山のかなり急な斜面には、アッサムや台茶18号が植えられている。所々にコーヒーも見られた。パイナップルなどフルーツと共に植えられているのがよい。

 

帰りもバイクで送ってもらう。バイクならいつでも行けるのだが、歩いて行くわけにもいかず、自転車でも坂がきつそうだ。次はいつ行けるだろうか。夜は大腸麺線を食べて満足した。帰りに廟の前でお祭りのように、皆が食事をしている姿が見られた。

 

3月31日(木)
大陸へ

ついにまた埔里を離れる日が来た。今朝は5時に起き、6時半のバスで高鉄駅に向かった。バスで桃園空港に行くことも考えたが、万が一に備えて、電車を使ってみることにした。高鉄駅では、指定席は40分先までなかったが、自由席なら20分後があるというので、自由席にしてみる。まあ座れなくても40分の旅だから問題はない。

 

結局自由席は空いていて、席にも座れたし、荷物も何とか置くことができた。高鉄の問題点は荷物置き場が狭いことなのだ。そして8時過ぎには高鉄桃園駅に着いた。これまではバスで空港に向かうのだが、ついに先月MRTが開通した。初めて乗ってみることになる。正直席はツルツルで座り難いし、やはり荷物置き場は狭い。でも桃園駅から15分位で着くし、何よりバスのように待つ必要がなく、時間が読めるのは有り難い。モノレールなので景色もよい。今月は料金も半額で嬉しい。

 

9時には空港に到着する。フライトは12時過ぎなので、なんとチェックインカウンターすら開いていない。埔里の家から空港までこのルートなら3時間はかからないのが分かり、今後の参考となる。さあ、次はいつ来るのだろうか、台湾。

ある日の埔里日記2017その2(8)清境農場の茶畑

3月28日(月)
清境農場へ

時々タイのメーサローンを思い出すことがある。ここは国民党残党が雲南・四川から逃げ込んだ場所として知られているが、同時に近年は茶業が発展している。その発展には当然国民党繋がりで台湾が大きくかかわっているのは言うまでもない。国民党の残党たちの一部が1960年代に台湾へやって来た時、台湾では受け入れる土地がなく、山中に入ることになる。そこは原住民の土地であったようだが、蒋介石は彼らの功績を尊重して、この地を与え、そして農場とした。

 

昨年松崗の茶工場に行った時、清境農場の歴史を語る写真集を見た記憶がある。そこにこの残党の話が出てきたので、一度はちゃんと農場へ行って、その歴史を確かめてみたいと思っていた。だが今の普通の台湾人にとって清境農場と言えば、一大観光地なのであり、どうしても足が向かなかった。

 

ついに今日、その地に行ってみようと思ったのは、そこにも茶畑がある、と聞いていたからだ。まずは腹ごしらえにと、ハンバーガーを食べた。この付近から農場行きのバスに乗れるはずなのだが、いつ来るかわからないバスを待つ気にはなれず、バスターミナルまで歩いて行く。するとすぐにバスは来た。平日だが、乗客がそこそこいる。老人の観光客だ。

 

バスは霧社を通り過ぎ、農場付近にやって来た。さて、どこで降りるのがよいだろうか。全く調べていないので、よくわからず、取り敢えず観光センターが見えたので皆が降りないのに、降りてしまった。観光センターなら、農場の歴史に関する資料か本があるだろうと思って行ったのだが、あては完全に外れた。そこは土産物売り場だったからだ。農場を見学するにはもう少し上に上がる方がよいと言われたが、次のバスまで時間があった。

 

センターの向かいには清境農場と書かれた門が見えた。そこを潜ると木々に囲まれた雰囲気の良い場所がある。だがそこは農場の事務所であり、観光の場所でもなく、何があるわけでもなかった。いい風景を眺めながら、道なりに下に降りていく。そこにはスイスガーデンと書かれた場所があった。まるでスイスの高地を思わせる造りだ。併設されているセブンイレブンが何とも台湾的ではあるが。清境農場は私のイメージしている昔の農場ではなく、今や台湾のヨーロッパンを売りに集客しているのがよくわかる。

 

その向かいには国民賓館というホテルがあった。この道路沿いには沢山のホテルがある。宿泊客も多いのだろう。その賓館の脇を見ると、ちらっと茶畑が見えた。ここを入って行けば多くの茶があると直感し、歩いて行く。やはり茶畑はあった。1987年に開園した高山茶園とある。海抜1600m、金宣と烏龍が植えられているという。出来上がった茶は宿霧茶という名前で売られているらしいが、見たことはない。

 

ヤギが斜面にある茶畑の中で草を食べている。ちょうど歩きやすい道があったので、どんどん入っていき、更に下ってしまった。もうバスの時間などどうでもよくなっていた。いや、農場そのものへ行く気もなくなりつつある。それでも何とか大きな道へ出てバス停を探したが、バスは全然来なかった。

 

そこはきれいなホテルの横だったが、下りのバスは1台来たが、上りは来ない。こういうホテルには普通は車で来るのだろうか。何とそこで1時間近く立って待っていたが、来たのは埔里に戻る下りだった。もうどうでもよくなり、それに乗って帰ってしまった。結局清境農場を見ることもなく、何だったのか、全く分からないまま訪問が終わる。

 

埔里の街に入るとすぐにバスを降り、腹が減ったので、先日の餃子屋に入り、たらふく焼き餃子を食べた。どうも私は観光地が苦手のようだ。観光地で名物料理を食べる、などというのも得意ではない。その日の夜は、封印していた肉圓も食べて大満足!

ある日の埔里日記2017その2(7)民雄のベトナム人と

3月25日(土)
嘉義へ

 

正月に台中で会った蔡君から『阿里山へ行かないか?』と誘いがあった。阿里山には久しく行っていないので、是非行きたいと告げたが、なかなか日程が決まらなかった。結局前々日に、土曜日出発と決まる。彼は朝台北からやってくるというので私もそれに合わせて高鐵台中に向かい、そこから台鉄で嘉義を目指す。

 

ところが台中に着いた頃、彼から『電車に乗り遅れたので、到着が大幅に遅れる』と連絡があった。実は今日の待ち合わせ場所は嘉義駅ではなく、その手前の民雄駅になっている。何故その駅に行くのかはよくわからず、そこで2時間近くも待つのは難しいので、私は途中駅で下車することにした。

 

斗六駅、そこで民雄駅行の電車に乗り換えるのを機に、ちょっと寄り道した。斗六はあまり有名ではないが、実は歴史的に見ても結構栄えた街らしい。駅前から少し歩くと、古い街並みが見えてくる。ただ古いとは言っても、光復後の商店街といった感じだ。石造りの2階建てが道の両側にある。そしてかなりきれいに整備されている。

 

更に歩いて行くと、斗六行啓記念館という建物が見える。ここは昭和天皇が皇太子時代の1923年に台湾を訪れた際に建てられたものだ。こういう建物は台湾各地に建てられたが、実際には泊まることがなかった場所もいくつかある。ここ、斗六も皇太子が通過した場所となっている。今やがらんどうの建物を記念館として、わずかな展示品で飾っている。皇太子の台湾訪問とは一体何だったんだろうか。最近は台湾サイドでこの行幸を見直す動きがあるが、これは商業的な感じがしている。

 

街を歩き回ったが、それ以上のものは特になかった。腹が減ったので、その辺で麺を食べた。そしてまた台鉄に乗り、民雄に着いた。だが、蔡君はまだ来ていない。それから30分待ってようやく彼は現れた。台北から出る自強号で民雄に停まる列車は多くなく、大幅遅刻となったらしい。

 

どうしてこの駅で待ち合わせたかは、ここに来て分かった。蔡君がどこかへ電話を掛けると、女の子がやって来た。親し気に彼に話しかけ、我々は駅から降りていった。下には女性が待っていた。彼女はベトナム人で蔡君とは親しい間柄。彼女らはずっと我々を待っていたらしい。

 

駅前には鵝肉と書かれたレストランがあった。後で知ったのだが、民雄はガチョウの肉で有名だったのだ。既に2時頃だったが、中に入り、大量の料理が注文された。確かにガチョウは美味しかったが、先ほど麺を食べてしまい、それほど沢山は食べられずに残念だ。ベトナム姐の娘、10歳は実にきびきびと料理を取り、お茶を注ぐ。そしてはっきりした口調で話す。昔風に言えば、ませた子なのだが、日頃の行動、母親に指導がそこからよく読める。

 

食べ終わってもレストランを離れない。なぜかと思っていると、外に車がやって来た。運転している女性とベトナム姐は知り合いで、彼女の車で嘉義へ行くという。彼女は花道の先生だと言い、日本にもしばしば行っているらしい。阿里山へ行くのかと思っていたが、完全な勘違いだったらしい。嘉義と言っても私が知る駅前ではなく、かなり郊外に到着する。そこには故宮博物院の南院というのがあった。見てみたかったが、今回はパス。

 

蔡君からはメッセージで『蒜頭糖廠で阿里山茶文化の茶業博覧会がある』と聞いていたのだが、その阿里山という文字に引っ張られ、会場である蒜頭糖廠も阿里山にあると思い込んでいた。ところがここは元糖廠、山の中にはない。会場に着くと、広々とした敷地に倉庫が見える。その屋外と倉庫内で茶芸や茶の販売などが行われている。もう流れに任せるしかない。

 

倉庫内に入ると、多くのブースが出ており、思ったより多くの人が買い物をしている。阿里山茶が多いようだが、茶器なども売られており、週末のイベント感が強い。更に行くと、幻想的な空間があり、また日本の陶芸作家の作品なども展示されている。時間によっては各国の茶のパフォーマンスも行われているようだった。

 

外へ出ると、茶席が各所に設けられ、皆がお茶を飲んでいる。その横には線路があり、観光用のさとうきび列車が走っている。蒜頭糖廠は1906年、明治製糖の工場として作られ、日本時代の台湾三大製糖の1つ。光復後は台湾製糖となり、つい10年前まで稼働したという。その歴史的施設を観光用に改修したのが今の状況だ。

 

そよ風に吹かれながら、広々とした屋外でお茶を頂く。何とも幸せな気分になる。何よりも皆が思い思いにお茶を飲み、実に楽しそうなのだ。こんなお茶会が日本にもあるといいな、と思う。招待されたらしい日本人の一団が和服で記念写真に応じている。茶の博覧会には今や日本というテイストは欠かせない台湾だ。

 

帰りに嘉義の街に行く。ベトナム姐のお気に入りの店でご飯を食べるためだ。しかしさっき2時過ぎにたらふく食べたばかりなのに、また食べるのか。出てきた牛雑湯、それはそれは美味しかった。ここの牛肉はとても新鮮で評判が良いというので、わざわざ連れてきてくれたのだが、その甲斐はあった。ベトナム姐は12年前に台湾に嫁いできて今では台湾人以上に台湾を知り、商売もやっているらしい。

 

今晩は泊まって行け、と姐に言われたが、蔡君を残して帰ることにした。途中で姐は修理に出していた車を取り、民雄の駅まで送ってくれる。何とも豪快な人だった。自強号で台中へ行く。来る時は各停で来たので、随分と速い。今日も夜遅く埔里に戻った。

ある日の埔里日記2017その2(6)龍潭、関西、三峡を転戦

3月23日(木)
龍潭、関西、三峡へ

 

今朝は早起き。7時半のバスに乗り、高鉄台中駅へ。駅で湯さんと待ち合わせ。これも先日同様の行動だ。湯さんに相当に迷惑を掛けているが、台湾茶の歴史を勉強するためにはどうしても彼の力が必要だったので、お言葉に甘えた。今回の目的地は関西だったが、そちらの約束時間が12時だったので、その前に龍潭の緑茶工場を訪ねることになった。

 

先日の沙坑茶会でも会った葉さんという若者の工場がそこにあった。新福隆、1866年に創業したとある。そうであれば、非常に古い工場である。川沿いに建つ工場は確かに古めかしかった。外には日本製と思われる中古の製茶機械が放置されていた。工場の中もやはり古めかしく、歴史を感じさせる。

 

昔の写真を見せてもらう。日本統治時代の工場、今とそれほど変わっていないように見える。資料を見ても1925年前後、この辺には沢山の製茶工場があり、葉さんのところもその1つだったことが分かる。烏龍茶と包種茶を製造していたとある。三井農林の工場が近くにあり、そこで働き、紅茶の製造法を学んだともいう。かなり裕福だったようだ。

 

光復後、一族が分かれ、規模は縮小されたらしい。葉さんのお祖母さんが日本語で色々と話をしてくれた。戦争末期、自身は台北に住み、お兄さんや従兄弟は京都に留学していたという。その後茶業は緑茶生産に切り替わり、今も蒸し製緑茶や粉末茶を作って、茶飲料の原料として供給したり、日本に輸出しているという。日本人が知らない、緑茶の歴史である。工場内に設置された機械を見ても、日本製の機械が並んでいた。

 

続いて車で高速に乗り30分ぐらい行くと、新竹県関西鎮に着く。街中に古い建物が見えた。関西茶廠と書かれた看板もあるが、台湾茶業文化館という文字が見える。古い工場を改装して作った博物館のようだ。ここが台湾紅茶株式会社の本拠地である。お店に入っていくと、先日沙坑茶会でも会った羅吉平さんが迎えてくれ、そして彼のお父さん、おじさんを次々に紹介される。

 

まずは昼ご飯を食べようと言われ、店の向かいにある客家料理屋さんへ行く。そう、ここの羅一族は客家である。この付近には客家の人が実に多い。客家と茶の繋がりについては、とても興味深いテーマであり、後日また話を聞きたいと思っている。それにしても出された料理の数々、実にうまい。ホルモン系の料理などが絶品で、思わずご飯をお替りするほどだった。1つのテーブルを囲み、皆で食べたのであるが、年配の皆さん、日本語ができる。この辺もまた、歴史ではないかと思われる。

 

食後、台湾の紅茶の歴史について、レクチャーを受ける。話は羅一族の歴史から始まり、関西の歴史、日本時代の日本との繋がり、茶業の発展から光復、そして紅茶から緑茶への転換と、余りにも目まぐるしい。目を白黒させていると、『文化館で資料を見ながら話そう』と言われ、木の階段を上がって二階へ進む。ここには貴重な写真や資料が多く展示されているが、写真撮影禁止ということで、話だけを聞いていると内容が豊富過ぎて、全てを頭に入れることはできなかった。

 

取り敢えず簡単な歴史を理解して、皆で記念写真を撮って、ここを離れた。もし台湾紅茶の輸出の歴史を書くのであれば、もう一度訪問しなければならないだろうと、その時覚悟を決めた。紅茶は日本が始めた茶であると言われているが、勿論台湾人も様々な形で関与している。そして光復後に紅茶が全盛になるという皮肉、更には紅茶輸出が難しくなった時の転換、興味は尽きない。

 

また高速道路に乗り、台北方面に向かう。三峡という場所は、昨年老街にバスで行ったことがある。そこを通り抜けて更に進むと谷芳の小さな工場があった。実は彼らとは昨年11月、台北の茶業展覧会の会場で出会っていた。FBでかなり目立った投稿をしていたので声を掛けた。『三峡で緑茶を作っている』という話も魅力的だった。台湾で緑茶、と思う人が殆どの中、数年前から緑茶という文字が見られるようになっていた。

 

今回湯さんに行きたいと告げると『ああ、谷芳はうちの受講生だよ』と言って、後は連絡を取ってくれた。台湾の茶業は本当に狭い。そして谷芳は本当に勉強熱心だ。中に入ると、ちょうど茶作りをしていた。生葉が来て、棚に置かれている。これは緑茶になるのだろうかと思うのだが、その後殺青、揉捻していた。

 

湯さんは台北で用事があると言って先に行ってしまった。残った私は谷芳の李さんから話を聞く。緑茶作りは25年ぐらい前から始めたが、年々茶農家は減っていった。李さん自身は10歳からお茶の販売を手伝い、製茶をはじめ、18歳で今の奥さん(当時16歳)と結婚、長女は既に18歳の大学生だという。その間の苦労は相当のものがあったらしい。

 

作業を終えて、車で茶畑に連れて行ってくれた。小山の上にある小さな畑。黄柑種という今では珍しい品種まで植わっていた。丘の上で李夫妻は夕日を背に記念写真を撮っている。何とも仲の良い夫婦だ。年齢も30代半ば、茶業に対しても非常に熱が入っていて、話は尽きない。

 

それから谷芳のお店がある場所へ行く。そこには古い大きな木があり、廟があり、人が集まる場所らしい。彼はここに来るお客に対して子供の時から茶を売っていたというのだ。貧しい中でも、茶業への思いが強く、斜陽と言われながらも茶作りを継いだ。普通なら台北などへ働きに行ってしまうだろうに。そして今や娘や息子も茶業を継ぐと言っており、この仲良し谷芳親子は業界でも目を惹く存在になっている。これは一つのドラマになりそうだ。

 

日が暮れたので、車で鶯歌の駅まで送ってもらった。そこから桃園へ行き、自強号に乗り換えて、台中へ。そしてバスで埔里に戻った。夕飯は李さんの奥さんが自ら焼いたというレーズンパンを食べた。これがまたとても美味くて、素人とは思えない味だった。埔里に着いたのは11時過ぎていた。

ある日の埔里日記2017その2(5)小埔社の老茶樹

3月22日(水)
小埔社の老茶樹

1日休みがあって、先日約束した東邦紅茶の茶園に連れて行ってもらえることになった。茶摘みはその日の天気次第だが、当日は快晴。朝8時に工場の方に行ってみたが、まだ誰も来ていなかった。少し待つと郭さんがやってくる。同時にピックアップがやってきて、それに乗れという。今日は郭さんではなく、おじさんが茶畑に連れて行くというのだ。

 

喜んで助手席に乗る。おじさんは35年前に東邦紅茶で働き始め、茶作りが無くなった後は、他で働いたが、最近の復活で戻って来た。最盛期の東邦紅茶では埔里の何人かに一人はここで働いていた、と言われるほどの、規模を誇っていた。創業者の郭少三氏の印象を聞くと『すごく厳格な人で、まるで日本人、という感じ』だったと話す。また昔作られていた物と今の茶の違いについては『当然作り方も変わっているし、品種も違うので、味は昔とは同じでない』という。

 

そんな話をしていると、早くも茶畑のある小埔社に着いた。まずは老茶樹のある畑を見に行こうと車を降りる。緩やかな斜面に茶樹が植わっているが、これが80年前、郭少三氏がタイより持ち帰ったというシャン種だった。向こうの方のかなり背の高い木が見える。おじさんが『普通は茶摘みに都合の良いように木を切ってしまうのだが、あれだけは見本として残してある』というのだ。

 

記録によれば、郭少三氏は1933年、タイのチェンマイから山中に入り、苦節1か月、紅茶作りに向いていると思われるシャン種を見付けて台湾に持ち帰った。基本的に日本がアッサム種を持ち込んでいたので、それに対抗する、いや特色を出すためにシャン種が使われたらしい。日本統治下の台湾で、台湾人がビジネスをしていく、というのはどのような困難があったのだろうか。シャン種の持ち込みに関しても、恩師の山本亮教授の支援があった、という話は出てくるが、果たして妨害行為などはなかったのだろうか。

 

その貴重なシャン種の茶樹を目の前にすると、やはり歴史、ということを考えざるを得ない。東邦紅茶は少三氏の努力により、広大な茶園を有するようになり、ここ小埔社一帯はほぼ東邦の土地だったと言われている。しかしその後の困難な時期に土地を切り売りし、茶樹もビンロウ樹などに代わっていった。それでも残った茶樹、何とも愛おしい。

 

もう少し車を進めると、斜面に茶畑が広がり、いい天気の中、茶摘みが行われていた。摘んでいるのはインドネシアからの出稼ぎ者だという。何となく以前見たベトナム人の摘み手に比べて、動作がゆっくりしている。というか、こちらが近づいていくと、にっこり笑ってくれたりして、ベトナム人のような緊張感がない。それがよい所だろうか。おじさんによれば、『ベトナム人はもっと稼げる高山の茶摘みに行くので、使えない』とのこと。茶葉の品質を保つため、収量ではなく、固定給として、ゆっくり摘んでもらっているともいう。

 

斜面をずっと降りていくと、茶樹が途切れる。その下に人がいたので近づいてみると、コーヒーを植えているという。最近始めたそうだが、『これからはコーヒーだ』という声を時々聞いているので、実際の珈琲畑でその実感が沸いてきた。だが果たしてこの試み、うまくいくのだろうか。

 

茶畑の中に、大きな木があったりする。『普通は大きな木は土の養分を吸い取るため、茶樹の近くにあると、その茶樹は育ちにくいのだが、ここではむしろいい茶樹が育っている』と説明される。この茶畑には最近流行りの台茶18号、紅玉が植えられている。『18号は良く育つし、収量が多いから、皆が競って育てるんだ』という。尚このあたりでは春に2回以上茶摘みをするが、18号は18日程、日を開けて摘むが、シャン種なら14日で摘めるという。

 

この茶畑の周囲もコーヒーの他、野菜なども植えられており、茶だけで食べていける状況ではないように思われる。ボーっと茶畑を眺めているとおじさんが『茶摘み人の弁当を取りに行くけど、戻るか』というので車に乗せてもらい、工場まで戻って来た。郭さんと最後の確認をして、東邦紅茶の歴史の一端を取り敢えず文章にすることができた。

 

交流協会雑誌『交流』2017年4月号「埔里の紅茶工場」

https://www.koryu.or.jp/ez3_contents.nsf/15aef977a6d6761f49256de4002084ae/466e98259720a5184925811a0024804b/$FILE/%E4%BA%A4%E6%B5%81_913%E5%8F%B7_2%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%82%8B.pdf

 

尚この文章の中で、郭春秧を郭少三の祖父と書いてしまったが、これは完全な思い違いであり、郭さんからも『郭春秧は少三の父、郭邦彦の良き雇用主』と説明を受けている。ただ同じ郭姓であり、春秧の墓は邦彦一族の墓に横にあり、現在も一緒に供養している、と聞いていたので、つい錯誤してしまった。申し訳ない。