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ある日の埔里日記2017その4(4)セデック族の結婚お祝いに

9月16日(土)
セデック族の結婚お祝いに

今日もIさんに誘われて、埔里から少し山の方へ向かう。実は彼の奥さんはセデック族の出身であり、親戚に結婚する人がいることから、そのお祝いの儀式があるというので、行ってみることになったのだ。この儀式、何でも朝一番で豚を解体し、親戚一同に配り、集まった者で、肉を焼いて食べるのだそうだ。何だかとても原始的な儀式を想像してしまう。

 

車は霧社へ向かう道を登り始めたところで、横道に入った。眉渓という辺りらしい。そこには教会があり、そこに車を停める。周囲には民家がいくつもあり、想像していた山の中ではない。その一軒の家の前で小型トラックの荷台を使って男性が3人がかりで解体作業が行われていた。周りでは長老など集まった親族がそれを見つめながら話し、子供たちはその辺で遊んでいた。

 

次々に奥さんの親戚を紹介されるも、元々の関係が全く分かっていないので、とても覚えられない。しかも肝心の新郎新婦がどこにいるのかもわからない。後で新郎には挨拶できたが、新婦はこないのだという。この儀式は新郎側で行われていたのだ。結婚式は来週そこの教会で挙げ、披露宴は埔里市内で行うらしい。今日のそれは伝統行事の継承だろうか。

 

肉の解体が終了すると、新郎が長老に結婚報告のような形で、その肉などを渡している。後の人は各自持ち帰るようで、今日来ていない人の分も誰かが預かって持っていくらしい。そして全員が集まり、何かに向かって代表者が祈りの言葉を捧げた。更には殆ど人がキリスト教徒なのか、神にも祈りを捧げている。

 

この辺の宗教事情も知りたいところだ。光復後、物資がない時代にキリスト教の宣教師がやってきて、食べ物を与え、教育を与え、信者を増やしたらしい。今でもインドの山奥ではこのような布教活動が行われていたのを見たことがあるが、アメリカ人やヨーロッパ人が山の中で何十年も住みついているのもすごい。

 

それから食事が始まった。豪快に焼かれた肉の他に、木桶で炊かれたご飯や大皿に盛られたサラダなどがあり、皆好き勝手にとって食べている。肉のスープもあったが、これはあまりにも脂分が多くて濃厚だが、沢山は飲めない。

 

今日集まった人の中に、台北の大学で民族学を教えている人がいた。いわゆる原住民の歴史、これにも大いに関心がある私は、茶との関係などを中心に色々と質問してしまった。台湾に元々茶の木はあったのか、という命題と原住民は何らかのかかわりがあるように思えてならないのだが、そこはどうしてもわからない。ただこの近くの山でもお茶が栽培されているらしい。今度ちょっと調べてみたい気はしている。

 

軍の特殊部隊に所属しているという若者も来ていた。何となく高砂義勇軍なる言葉を思い浮かべてしまったが、不謹慎だろうか。中正記念堂の衛兵なども皆精悍な顔立ちだが原住民が多いと聞いている。勇猛果敢な人々は今も現役なのだろう。因みにこの地区の人々は霧社辺りから降りてきたセデック族で、いわゆる霧社事件のモーナルーダオなどとは系統が違うらしく、この事件については関係がないと言っていた。因みに家々の表札を見ると漢字名があり、その下にローマ字で元の名前が書かれていた。

 

学校の校長先生だったという方は病を得て車いす生活をしていた。それでも随分回復したと言い、皆と楽しそうに談笑していた。普段はインドネシアのメイドさんが世話をしているのだろうか。日本にも昔はこんな集まりがあり、親族が楽しく談笑していただろう。Iさんが日本酒を買ってきて差し入れた。さすがに皆、酒は強そうだった。

 

スマホの電池交換
車で送ってもらい、埔里に戻ってくると、なぜかスマホの電池がほぼゼロになっていた。いくら充電しても、すぐに無くなってしまう。これは充電コードの問題なのか、または電池か、それともアイホーン自体が壊れたのか。実は明後日から旅に出る予定であり、スマホは必須なため、スマホを修理してくれるところを探すことになる。

 

バスターミナル近くに1軒見つけたのでそこに飛び込む。若者がいたが、スマホを見るとすぐに電池の問題と断定した。まだ1年しか使っていないアイホーンだけど、電池の消耗が早過ぎ。でも背に腹は代えられない。電池交換を頼む。30分ほどかかるという。そうか、昔携帯みたいに自分で電池を入れ替えることは出来ないのだ。700元。

 

20分ぐらいして戻ると交換は完了していたが、充電が出来ていないので、そこで少し充電させてもらった。その間彼と話す。『実は彼女が東京旅行に行きたいっていうので先日お金を渡したんですが・・??』とまるで人生相談か。何となく面白いので、そのまま話を続けた。彼は東京旅行に行ったのだろうか。

ある日の埔里日記2017その4(3)埔里演習林 イベント会議に参加

9月13日(水)
埔里で和食を食べる

ご近所の日本人Iさんに埔里に戻ったことを伝えると、すぐにランチのお誘いが来た。こういう繋がり、埔里に不慣れな人間にとっては何とも有り難い。Iさんは既に日本の企業を退職し、埔里に定住している。奥さんもこちらの人、埔里は以前ロングステイヤーを誘致していたが、最終的に残っている人たちは、奥さんが台湾人であったり、ここに余程ご縁がある方々になっているらしい。

 

Iさんの車でやって来たのは、何と日本食屋さん、日高鍋物!埔里に日本食堂は何軒かあるが、本格的な店は見たことがなかったが、ここでは日本の味が味わえる。ランチの定食はとんかつや生姜焼き、焼き魚まで揃っていて、デザートまでついて250-300元。なかなか良い。埔里のおばさんたちが何組かランチに来ていたので、地元では評判になっているようだ。夜は店名の通り、鍋やしゃぶしゃぶが提供されている。

 

Sさんも一緒に食べたのだが、彼からイベント企画の話があった。5月に連れて行ってもらった埔里に古い建物が残る北大の演習林。ちょうどここが12月で開設100周年を迎えるということで、何とか皆にその歴史を知ってもらいたいと、イベントを企画しているらしい。Sさんは今、埔里郊外でコーヒー栽培を始めており、演習林でもコーヒー栽培の記録があることから、そこを連動させたいともいう。

 

実は今日来たこの日高鍋物は、すぐ近くにある埔里名所のチョコレート屋、18度Cのオーナーが開いた店であり、先日このオーナーにこの企画を持ち込み、興味を持たれた。その時に連れてきてもらってこの店の存在を知ったという。何とも興味深い企画だが、一体どうなるのだろうか。

 

9月14日(木)
両替で

今日もいい天気なのに、午前中は部屋に籠り、気が付くと11時を過ぎていた。急いで馴染みのサンドイッチ屋でクラブサンドを食べようと出掛けたが、何と『今日は早めに仕舞いにしたよ』と素気無い返事。思わず『えー』と餌をねだる子犬のようにしてみると、『仕方ないね』と言いながら、作ってくれた。優しい。いよいよ常連さんかな。こんな交流が嬉しい。

 

そこから台湾銀行に両替に行く。いつものように100米ドルの新札を出したら、いつものお姐さんに『このお金はどこから持ってきたの?』『どうやって手に入れたの?』と聞かれ絶句!確かにヨレヨレのTシャツ着ていたけど??これまでそんなこと聞かれたことないんだけど。ちょっと焦る。

 

思わず『昔香港で一生懸命働いたんです、信じてください』と言ったら周囲の皆に大笑いされた!!因みに『両替した台湾ドルは何に使うの?』とも聞かれたので『魯肉飯が食べたいんです!』と答えておいたが、信じてもらえただろうか?勿論彼女に他意はなく、登録上、一応聞くことになっているらしいが、急に聞かれてもこちらも困るよな。

 

それから夕方まで部屋でお休みした。気が付くと夕日が少しずつ落ちていく。この部屋は夕日がまぶしいのだが、こんなにきれいに空が染められているとは気が付かなかった。今度は建物の無い場所で写真を撮ろう。

 

9月15日(金)
イベントの企画会議に出る

今日は午前10時から18度Cで先日の演習林イベントに関する会議があるというので、特別に入れてもらった。日本時代の演習林の歴史、そしてコーヒーとの関連、実に面白い。台湾でも最近はコーヒーブーム。台湾コーヒー発祥の地は雲林県古坑だとは聞いているがどうなんだろう。台湾でこのようなイベントをする場合、どんな感じで、どんな人が参画して事が進むのかにも興味があった。

 

Iさんの車で画家の黄先生を迎えに行き、18度Cに行く。ここはチョコレート屋さんだが、アイスクリームなどにも人気があり、いつも観光客で賑わっており、10時過ぎでも既に人がいる。まずは近くのオーナーの家へ行く。茆さんは埔里人、日本を含む世界各地でパティシエとしての腕を磨き、2007年に埔里の店をオープンさせた。生チョコやイタリアのジェラート、日本のバームクーヘンなど、美味しいものを台湾に紹介し、人気を博している。茆さんは気さくな感じ、この企画にも埔里の歴史を広めるために興味を持ったようだ。

 

場所を会議室に移したが、まだ人が集まらないので、生チョコを作る工程を何気なく見学する。カカオの歴史など勉強になる。また黄先生がコーヒー大使だと初めて知る!

 

会議には南投県の観光局や議員さんも参加して、本格的に進む気配があったが、まだ纏まりはなく、取り敢えずイベント開催に向けて進める方向で終わった。私は18度Cのチョコとバームクーヘンを頂き、大満足。日本人Sさんの歴史発掘と、埔里の歴史を知りたい、活用したい人々が融合していくのが面白い。日本統治時代の歴史はまだまだ発掘の余地があり、台湾人もそれを知りたがっているのだ。今後の展開が楽しみになって来た。

ある日の埔里日記2017その4(2)大稲埕で

9月8日(金)
大稲埕へ

今日は埔里に戻ることにしていたが、午前中は大稲埕に行ってみることにした。昨日坪林の博物館で見た包種茶を輸出した時の茶箱、そこに『有記』と書かれていたので、何かわかるかもしれないと思い、有記を訪ねたのだ。確か2年程前、Bさんに連れられて一度行ったことがあったので、その記憶を頼りに歩いて見る。

 

茶葉公園という石碑があるのでその場所はすぐに分かった。ただまだ朝の9時過ぎ。店は開いているかと覗いてみると、開いていた。中に入ったが、焙煎が行われている雰囲気はない。前回はここで先代の奥さんが中を案内してくれたのだが、今日はいないだろうな。何気なく聞いてみると、5代目という若旦那が登場した。まだ31歳だそうだ。

 

早々中を見せてもらう。現在は作業をしていないが、この付近では唯一現役の茶工場だ。焙煎も独特の方法で行う。陰火と言って直接火で焙るのではなく、火をいったん消した残りの熱で焙るらしい。非常にまろやかな仕上がりになるという。この店は100年以上前に創業したというが、台湾の技法なのだろうか。実はこの有記は1947年に3代目がバンコックから移ってきたというから驚いた。実際の許可書もその年号になっている。なぜだろうか。日本統治時代も茶工場は大稲埕にあったというから、ここからバンコックにも輸出していたのだろう。

 

5代目に教えてもらった博物館にも行ってみた。新芳春という老舗の茶行だったが、光復後ほどなくして、茶業は辞めてしまったらしい。最近の旧懐ブームでここを博物館にしたという。一部はご先祖様が残した王家の資産の公開であり、茶業の部分はそれほど多くはない。ただ非常に立派なテースティング台が2階に置かれており、目を惹いた。昔は相当勢いのある茶荘だったのだろう。奥には茶工場も併設されており、往時の名残は感じた。

 

実は大稲埕と言えば、買弁として有名な李春生と包種茶の関係を知りたいと思っていたが、その資料はほとんど見当たらない。ここでも書籍を販売しており、李春生関連もあったが、どれも後期の思想物か日本へ旅した時の日記などで、肝心の茶に関する記述が少ないのは解せない。研究者は必ずいるはずだが、どうなんだろうか。取り敢えず日本旅行記を購入して読んでみることにした。

 

そう思っていると自然と足は大稲埕に向かう。入口の写真を撮っただけですぐ細い道に入り、李春生ゆかりの教会を眺める。迪化街など観光地化が進んだ道とは違い、人は殆どいないのがよい。迪化街は昔薬屋や乾物屋が多かったが、今では土産物屋やカフェなどに代わり、あまり面白くない。

 

建成国民中学と書かれた立派な建物を通り過ぎた。ここは今では中学ではなく、博物館か美術館になっているようだ。この付近の学校はやはり皆由緒正しい、立派なところが多い。この付近が往時の台北の中心だったことがよくわかる。トイレを借りようとしたがなかったので急いで宿へ戻る。

 

歩いて宿まで帰り、荷物を引き出し、バスターミナルへ向かう。国光号に乗れば3時間半後にはきちんと埔里についてしまう。台湾の高速道路は本当に車が少なくてよい。鍵を受け取り3か月ぶりに部屋に入る。さすがにまだ9月初旬で温かい。この部屋は西日がきついので暑く感じる。この部屋でクーラーなしで寝てみたが、正直少し寝苦しい。特に夜の一定時間、風が止まるのが分る。

 

9月11日(月)
鉄観音茶を味わう

土日は基本的の外には出ない。特に人が多いのでバスに乗るなどはしない。少し暑いが部屋に籠って原稿などを書いて過ごす。そして月曜日、また動き出す。昼ご飯を食べた後、珍しく魚池の劉さんのところへ向かう。確か会うのは1年半ぶりになる。魚池までバスに乗り、そこまで迎えに来てもらった。

 

茶工場では茶作りが行われていた。そこで魚池出身で現在台北の雑誌社で働く謝さんと会った。彼は趣味で茶を作っており、時々実家に戻っては劉さんの指導を受けているという。劉さんはなかなか怖い先生のようで、一生懸命茶を作り、汗を流していた。因みに彼の勤める会社は最近新しい雑誌を創刊したばかり。この時代に新しい雑誌って、ちょっと興味が沸く。

 

劉さんは紅茶も作っているが、雲南に行ったりして、その収蔵品が増えていた。プーアル茶、白茶、などを買い求め、自ら餅にしている。よいお茶はすぐに売らず保存する。彼の動きを見ていると、この付近の紅茶の将来性が見えてくるようだ。今回は高山鉄観音茶をじっくり味わう。中国安渓が発祥の鉄観音だが、今や見る影もない。台湾の鉄観音は木柵だけではない。最近時々見かけるが意外とうまい。帰りは劉さんの車で埔里まで送ってもらう。

ある日の埔里日記2017その4(1)坪林 包種茶の歴史調査

《ある日の埔里日記2017その4》

今年4回目の台湾行。もうかなり慣れてきたが、3か月ぶりとなると、ちょっと懐かしい気分になる。今回もまた色々な出会いがあり、様々な情報・知識を習得して有意義だった。日常の中で新たなものに出会い、ワクワクできるのはなんとも好ましい。

 

9月6日(水)
泊まる所がない

今回もエバ航空に乗って、桃園空港に行く。エバ航空、今年はじめぐらいまでは、本当に安いチケットが手に入ったのだが、現在は徐々に値上がりしている。台湾人の日本観光が凄い勢いであり、LCCすらだいぶん高くなっているので、当然のことかもしれない。困ったものだ。

 

いつも着く第2ターミナルではなく、LCCが多い第1ターミナルに到着したとアナウンスがある。そんなことは時々起こるらしい。折角先頭の方を歩いてきたのに、電車に乗ることになる。ホームは狭く人でごった返している。天気はいいようだ。第2ターミナルから出て、新設の地下鉄に乗るかとも思ったが、慣れ親しんだバスの方に進んでしまう。これは仕方がないことかもしれない。

 

台北駅前に着く。今晩はお知り合いのHさんが宿を用意してくれるというので、そちらに向かう。ところがそこへ行ってみると、日本人女性が出てきたが『宿泊の話は聞いていない』と言われてしまう。Hさんに連絡してみても繋がらない。その内この宿のオーナーがやって来た。台湾人女性だ。彼女と話すと『今日はバンコックのKさんが泊っている』と言い、その部屋しか今は使っていないのだという。話が全く分からずに困ってしまう。

 

ようやくHさんたちがやってきたが、結局今晩はKさんと同室で寝ることになった。ここは今後宿屋をやる予定だが、今はただの家だと分かって驚いた。Kさんには何とも申し訳ないし、Hさんには正直違和感を覚えた。それでも皆知り合いなので、3人でご飯を食べに行く。それでも今日のことがなぜ起こったのか判然としない。牛肉麺を食べ、マックでコーヒーを飲みながらKさんと近況について話した。

 

宿に戻るとなぜかHさんも一緒にやってきて、ここに泊まるという。オーナーの台湾人女性もいるし、日本人女性も住んでいる中で、強引にリビングのソファーに寝てしまった。私もかなり疲れていたので、ベッドへ潜り込むと全てを忘れて寝込む。何とも不可解な1日だった。

 

9月7日(木)
坪林へ

翌朝は8時前に目覚めて、荷物を預けたまま、すぐに出掛ける。地下鉄で新店まで行き、そこからバスに乗ろうとしたが、何と時間を間違えてしまい、相当に時間が余る。仕方なく、新店駅付近を散策する。すぐ横には川が流れており、きれいな橋も架かっている。散歩する老人などがおり、実にゆったりした空気が流れていた。

 

朝ご飯も食べていなかったので、サンドイッチセットを注文する。50元で、温かいものが食べられるのだから、安いと言える。ようやくバスが来て乗車。しかしよく見るとこのバス、全体の3分の1は優先席になっている。乗っている人も老人が多い。いっそのこと、全席優先席にした方がよいのではないだろうか。因みにバスは高速道路を走るため、立って乗ることは出来ならしい。運賃30元、乗車時間40分。

 

今日坪林に来たのは他でもない。包種茶の歴史調査だった。まずは馴染みの祥泰茶荘を訪ねる。親しくしている長男は、何とチェコに出張中で不在だったが、歴史のことならお父さんだろう、ということで、相手をしてもらった。沢山の資料を見せてもらい、昔話も聞き、何と紙に包まれた73年前の包種茶まで登場し、調査は上々の成果を上げた。お父さんに感謝!

 

この店には引っ切り無しにお客が入ってくる。家族連れは何と横浜から来た華僑だった。元々ここの出身、横浜でレストランをやっているらしい。里帰りのそのおじさんが『台湾へのみやげはこれが一番だ』と言って煎餅をくれた。確かに台湾人には甘いものより煎餅かもしれない。更にお父さんの知り合いが集まってきたので、昼ご飯に混ぜてもらった。全て台湾語で話しているので内容は分からないが、皆懐かしそうだったので遠くから来たのだろう。

 

午後は坪林博物館へ向かう。ここに行けば包種茶の歴史は簡単に分かるだろうと思ったが、そうではなかった。確かに一通りに展示はあったが、核心は分からない。更には包装の特別展もあり、こちらには色々と参考になるものがあったが、もっと資料が欲しいと欲をかき、ちょうど雨が降ってきたので休憩方々、博物館の人に尋ねる。

 

雨が上がったので坪林の図書館へ向かう。この建物、ちょっと古そうでよい。そこに包種茶関連の本があると聞いたのだが、係員に聞くと『誰かが借りて行ってしまったらしい』と言い、見つけることは出来なかった。また近所の茶荘オーナーも紹介され、訪ねてみた。彼は台湾茶の歴史全般を調べているようで、パワーポイントで説明してくれたが、包種茶の詳細な歴史資料を持っているのかは分からなかった。

 

台北に戻り、荷物を引き取って、定宿に向かう。Kさんとはもっと話したかったが、狭い部屋で一緒に寝るのは申し訳ないので、宿を移った。それから歩いて旧知のS氏のオフォスに向かう。すると突然後輩のSさんからメッセージが入った。元々は彼と会うつもりだったのだが、返事がなかったので、S氏を誘ったのだ。

何とこの二人、同業でオフィスも隣同士という偶然。これは一緒に食事をしようと話し、三人で楽しく夕飯を食べた。あまり意図していなかったのだが、こういう結びつきもあるのだな、と気づく。台湾は狭い、そして面白い。

ある日の埔里日記その3(12)千客万来

5月27日(土)
Mさんがやってきた

埔里のゲストハウスにYさんに連れられて泊まりに来たのは昨年の5月。その時、お手伝いをしていたのがMさんだった。何となくMさんの話を聞いているときわめて個性的な女性で面白いなと思った。その後オーストラリアへ行っていると思っていたが、いつの間にか岡山に住んでいるらしい。そのMさんから連絡があり、埔里に数日滞在するという。

 

GHに会いに行ってみる。このGHの常連、Iさんという女性もいた。この人も個性的で、埔里によく来るらしいが、特にやることもないという。何となく3人で夕飯を食べに行くことになった。と言っても、埔里で一人ご飯以外は殆ど知らない私。Mさんの後ろをついていくだけだ。

 

埔里にもこぎれいな食堂があった。だがそこは何と満員で入れなかった。仕方なくその辺をふらつくと、ビヤホールかと思うようなレストランがあった。よくわからないが原住民が経営しているらしい。ちょっと興味を惹かれ、入ってみる。店の中ではギターの生演奏をやっている。原住民仲間の集まりなのかもしれない。生ビールを飲んでワイワイやっている。

 

オーナーは勿論国語は話すが英語もうまい。名物は牛肉麺だというので、頼んでみた。この麺はこしがあり、なかなかうまい。山豚肉の炒め物もうまい。原住民の中に日本人が3人紛れ込んだので、先方も興味津々。こちらも彼らの歌を聞きながら、興味津々。何だかもっと両者が出会える場があればよいのに、と勝手に思ってしまった。Mさんといると何かが起こる気がする。

 

5月28日(日)
茶酔いさんがやって来た

今年三回目の埔里滞在もあとわずかだが、ラストスパートとばかりに、お客さんが来る。今日は夕方茶酔いさんがバスでやって来た。彼は台湾茶好きの人で、年に数回茶を求めて台湾に来るという。こちらもMさんの宿泊するGHへ投宿。ここへ来た目的は李さんに会うためらしい。中国語が殆どできないのに、台湾の茶農家と交流する茶酔いさんのバイタリティには敬服する。

 

茶酔いさんが到着すると、李さんが魚池からすぐにやって来た。この2人の関係はよくわからないが、李さんは何とも親切な人である。今は茶農家だが、昔はコックだった人で、何とGHから歩いて3分のところに、昔のオーナーが店を出していると言って連れて行ってくれた。ここは海鮮料理と書かれているが、日曜日のせいか、お客が多く、席はない。だが李さんは事前に連絡していたのか、ちゃんと席が設けられる。

 

注文をさばききれずに少し待ったが、李さんは自ら厨房の方に出向いていき、焼き魚やイカ、貝などの料理がどんどん出てきた。埔里で海鮮なんて初めてだ。我々は酒を飲まないので黙々と食べた。そしてお茶の話はまた明日、と約束して別れる。茶酔いさんは魚池に行くつもりはなかったようだが、流れ上そうなる。

 

5月29日(月)
茶摘み見学

翌朝は7時半にGHに行き、茶酔いさんと朝ご飯を探す。すぐ近くに古びた食堂があり、米粉を食べさせるというので寄ってみる。米粉は埔里名物と言われているが、埔里の街で食べられるところは多くない。何とも不思議だ。周りの人でも米粉を食べている人は多くない。まあ確かにすごく旨いということはない。

 

李さんが迎えに来て、魚池に向かう。天気が良く、ちょうど茶摘みが始まった茶園に直行した。地元のおばさんたちが手摘みしている姿を写真に撮る。既に気温はかなり上がっており、茶摘みは辛い作業になっている。完全防備のおばさんたちが手に刃を付けて起用に摘んでいく。

 

それから李さんのお兄さんの家でお茶を飲む。ここにも2度ほどお邪魔しているのでもう慣れたものだ。李さんは作業があるので我々はここで待機している。少しすると李さんが摘まれた茶葉を運んできて、茶工場へ向かうというので同行する。彼は道路沿いの茶工場を借りていた。生葉を2階に上げ、すぐに萎凋槽に入れる。

 

ここは博物館にもなっており、台湾紅茶の初心者や観光客が訪れ、土産を買う場所となっている。ここのオーナーが最初に日月潭紅茶をブランド化したということらしい。古い製茶機械が展示され、日本時代以降の歴史が語られている(一部に誤りあり)。そして2階では製茶の実演が一部見られるという訳だ。

 

もう昼時だというので魚池の牛肉麺屋へ行く。埔里でもあまり牛肉麺を食べないので久しぶり。上品というは店の名前だろうか。その後、李さんが埔里まで送ってくれ、茶酔いさんはバスターミナルからバスに乗って台中の方へ去っていく。何とも慌ただしい旅だが、普通の人の旅はそんなものか。

 

夜はまたMさんと食事をした。先日満員だった店に行ってみると、今晩は空いている。かなり波があるのだろう。そこで色々と話していて、ふと思い出した。私も明後日埔里を離れるのだが、部屋にはゴミが残っており、ごみ収集車は今晩来るということを。これを逃してはまずい。取りものも取り敢えず、Mさんを残して走り出したが、何と無情にも収集車はエリーゼのために、の音楽を鳴らしながら去って行ってしまった。ボー然と立ち尽くすのみ。最近ボケが進んでいるようだ。

ある日の埔里日記その3(11)廬山温泉へ

5月24日(水)
廬山温泉へ

昨晩宿へ帰ると、近所のおばさんから『早くシャワーを浴びなさい。今晩9時から丸一日断水だから、トイレに水を溜めておいて』と急に言われる。後で見ると確かに張り紙があったが見落としていたようで、おばさんに感謝してすぐに言われた通りにした。寝る前に歯をみがいたが、水は普通に出ており、且つトイレの水も問題なかった。まあ台湾だから時間のズレもあるだろうと思って寝た。

 

だが翌朝も何の問題もない。しかも下の店は通常通り開いている。朝飯を食べながら聞いてみると、『ああ、屋上に貯水槽があるから1日ぐらいは問題ないよ』と言われて唖然。天気が怪しげだったので、昼間はどこへ行こうかと考えていたが、その必要は無くなっていた。ただ急に晴れ間が見えたので、思い立って廬山温泉を目指してみる。

 

いつものようにバスターミナルへ行き、バスを探すが、平日の午後廬山温泉へ行く人などいない。地元の老人が数人乗り込んだが、すぐに降りてしまい、霧社までに中国から来たスーツケースを持った女性3人組だけになる。ただ霧社では学校帰りの子供たちが乗り込んできて賑やかになる。霧社からは山道をくねくね。バスを降りた子供2人がけんかをはじめ、お互いを叩き合っているのに、ちょっとビックリ。

 

1時間半で廬山温泉に到着したが、バス停近くの商店街は余りにもひっそりしていて寂しい。実は私は1989年の暮れ、廬山温泉に1泊したことがある。当時はお客も多く、賑わいがあったと覚えている。その時泊まった温泉旅館を経営していたのが、あの霧社事件で逃れた高山初子さん(花岡次郎夫人)とそのご長男(事件当時初子さんのお腹の中にいた)だった。そこで初めて霧社事件について、彼女の口から出る流ちょうな、そして淡々とした日本語で聞いたわけだが、その時までこの事件の存在すら知らず、全く理解できなかったのを覚えている。

 

その時の旅館はもうないようだ。既に初子さん、ご長男とも他界されたと聞く。私はないとは分っているが、何となく当時の面影を求めて彷徨う。だが、川には吊り橋?が掛かり、高所恐怖症の私の前途を遮った。この橋には見覚えがある。ずっと回り道すると、普通の橋があり、そこから登ってみる。

 

その先にはいくつか温泉宿が開いてはいたが、もう風前の灯。ここは2008年、2012年に起きた台風・洪水で大きな被害が出ており、政府としては安全面からこの温泉郷全体の閉鎖を促しているが、まだ一部が応じていないのだ、という話もあった。その先はもう何もなさそうだったが、バスの時間まで間があったので散歩してみる。天仁銘茶のホテルなどがあるが、やはり既に閉鎖されている。少し古い建物が見えるが、そこはこの地を好んだ蒋介石ゆかりの蒋公行館。今は特に使われていない。

 

そこから山を登っていくと、マヘボ社という石碑に出くわす。ここが霧社事件の首謀者、モーナルーダオの部落であった。その上に記念碑があるというので上って行くとかなり時間が掛かってしまう。何とか碑を見つけたが、そこには抗日英雄、莫那魯道という文字。何となく違和感あり。廟に入っても、中国式の構えになっており、どう見ても原住民が作ったとは思えない。不満はあるだろう。僅かに香炉にタバコがさしているのが、ささやかな抵抗なのだろうか。

 

ふと気が付くと雨が降り出し、その雨は次第に強くなり始める。私は帰るタイミングを逸してしまい、ただ廟の脇にたたずんでいる。そして先日初めて見たセデックバレという映画を思い起こしている。原住民を単に可哀そうだとか、英雄視するとか、それはどうも違うように思う。彼らはこの山の中で昔から受け継がれた生活をしたかっただけだろうが、時代がそれを許さなかった。それは罪なのか。モーナルーダオが私に考える時間を与えてくれたのだろうか。

 

小雨になったので急いで山を下りた。バスの時間が迫っていたのだ。ところが温泉街まで来るとまた雨が強くなる。強くなるどころか、豪雨になってしまったが、雨宿りしていては、次にバスは1時間半以上ない。あたりも暗くなる。道は濁流のようになり、足はずぶ濡れとなったが、それでも傘を差して前に進んだ。何とかバス停に到着したが、お客は誰もいなかった。私が乗りこむとすぐに発車したが、車内は冷え込んでおり、風邪をひきそうになる。これは何か啓示なのだろうか。

 

埔里に戻ると、雨がすっかり止んでいる。異常に腹が減り、終点まで行かずにバスを降り、ワンタンの店に飛び込む。ちょっと冷えた体にワンタンスープがしみいる。何となく夢を見ているような1日だった。

ある日の埔里日記その3(10)鹿谷の歴史を勉強する

5月21日(日)
鹿谷へ

新竹、羅東、台北、三峡、桃園と回ってようやく埔里に帰り着いたが、翌日の朝はゆっくり起きたものの、また昼前からバスに乗り鹿谷へ向かった。鹿谷へはいくつか行く方法があったが、面倒なので高鐵台中経由台湾好行バスにした。まずは腹ごしらえで、いつもの店でサンドイッチをつまんだが、ちょっと足りないので蛋餅まで注文してしまった。少し気持ちが高ぶっていただろうか。

 

2時過ぎに鹿谷に着き、Uさんと合流。実は彼は明日の朝ここを引き払う予定で何かと忙しい。取り敢えずは彼の用事を済ませる。まずは昨年実に美味しいお茶をお土産にもらった張さんのところへ行く。また美味しい烏龍茶があればぜひ購入したと思ったが、なかなかそうはいかない。あれはよほどの当たりのお茶だったのだろう。もっと大切に飲めばよかった。

 

それから鹿谷の下の方へ向かった。ここに凍頂のお茶の元祖、林鳳池の生家があるという。その家は中心の道から少し入った所にあり、表示などもないので普通には分らない。Uさんに連れて行ってもらい、初めて行ける場所だった。その廟にお参りすると、確かによく見掛ける林鳳池の絵が額に入っておかれている。この家が古いことも分る。だが家に前にある茶畑の茶樹は林さんが持ち帰ったものではないという。末裔の人々も、1855年に先祖が福建から36株の苗木を持ち帰ったという話を懐疑的に見ているのではないか、と思えてしまった。

 

それから焙煎で有名な人のところへ行ったが、ちょうどお客が来ており、Uさんが渡すものを渡して退散した。ここでちょっとお茶を買いたいなと思ったがそうはいかない。もう一軒農会の会長をしている人のところへ行く。彼は福寿山で高山茶を作っているというので、次回機会があれば茶作りの時期に訪ねてみたいと思う。ここには30年前に鹿谷で作られた烏龍茶があったので、写真に撮る。彼が子供の頃(1950-60年代)はこの付近にそれほど沢山の茶畑はなく、70年代以降急激に増えたらしい。それも99年の地震でほぼ姿を消したようだ。

 

夕飯に粥を食べた後、鹿谷の茶の歴史に一番詳しいという林さんのところへ勉強に行く。ちょうど外国人も訪ねて来ており、注目度の高い人だ。林さんは農会の秘書という立場であるが、率直に色々と教えてくれた。お茶の歴史というのは文献、記載がない物が多いので、そう簡単に言えるものではないとしながら、手元にある資料を見せてくれ、丁寧に答えてくれた。またよく言われる伝説がそのまま歴史になることもあるという。凍頂烏龍茶の歴史と現在、取り敢えずしっかりとメモした。

 

今日はもう帰る手立てがないので、鹿谷に泊まることになる。前回はUさんの家に泊めてもらったが、彼は明日早朝ここを出るので、今晩は偉信のところに泊めてもらうことになった。彼はちょうど近所の知り合いと飲み会中とのことで、そこへ向かう。鹿谷の夜は早く、楽しいこともあまりないようで、知り合い同士で飲むことが多いらしい。

 

Uさんは10時頃先に帰ったが、飲み会は延々と続く。鹿谷は何となく裕福な街だと感じる。これも80年代のお茶バブルの恩恵だろうか。12時すぐにようやく偉信の家に辿り着く。勿論家族は寝ているので、そっと部屋に入り、シャワーを借りて、すぐに寝入ってしまった。さすがに疲れていたのかもしれない。

 

5月22日(月)
埔里へ戻る

翌朝8時頃目が覚めた。皆さん、何時に起きるのかよくわからず、部屋から出てみる。ちょうど子供が学校に行く準備をしていた。何だか夜中にやってきて、奥さんにも申し訳ない。まあ、顔は知っているので、突然知らない男が出てきたわけでもなく、笑顔で迎えられる。偉信のご両親も隣の家からやってきて、孫と戯れている。奥さんは朝ご飯を買ってきてくれ、有り難く頂く。

 

それからボーっとお茶を飲んでいたが、偉信は最近大陸に茶を売り込んでいるとの話を聞く。紹興だ、広東だ、武漢だという話が出てくる。台湾経済の現状なども考えると、中国は無視できないということだろうか。ただ以前大陸に支店などを出して台湾茶を売っていた人々は結構苦戦していると聞いているのがちょっと心配。

 

今日は日月潭経由のバスで帰ろうと思い、バス停に向かった。台湾好行の台中行が来た後に、そのバスは緩々とやって来た。竹山から日月潭へ向かう。地元の老人などが多く、そこそこ乗り降りがある。こんな道を通るんだとワクワクしながら見ている。新しい路線は何となく楽しい。

 

ただ水社に着いたのは1時間半後だった。しかも埔里行きバスは今出たばかり。次まで50分も待つことになる。これでは台中経由で帰っても時間的には変わらない。やはり田舎のバスは難しい。仕方なくここで昼ご飯を食べたが、観光地価格で安くはない。食後はゆっくり散歩をしてからバスを待つ。バスは何種類も出ており、台北行きなど、埔里に停まるのに、埔里で下車する人間は乗せないという。どうなっているんだ。何となく釈然とせずに埔里に辿り着く。

ある日の埔里日記その3(9)三峡、桃園の茶農家へ

5月19日(金)
交流協会へ

翌朝は9時前に荷物をフロントに預けてチェックアウトした。今日は交流協会の図書室で調べ物をしようと思っていた。今年1月に初めて現在の交流協会の建物に足を踏み入れた際、2階にかなりの本が置かれている図書室を見て、一度訪ねたいと思っていた。当然台湾関連の日本語の本が多数所蔵されているから、参考になるものもあるだろう。

 

林森と南京路の交差点からバスに乗ると10分ほどで交流協会に着いてしまった。もしMRTに乗っていれば、駅まで歩いて行き、電車を待つので、こうはいかない。台北ももう少しバスを有効活用できれば、時間が短縮できる。しかもバス代は高くない。少し勉強してみようか。

 

やはり図書室には沢山の本があり、参考になりそうなものをピックアップした。特に日本統治時代に日本語で書かれた本が目を惹く。ただ図書室にはコピー機がなく、この本を借りて行き、コピーしなければならない。それでも借りるのはパスポートがあれば簡単だったし、コピーは一番近いコンビニで出来るので、確かにそれほど不便ではない。

 

昼前には作業を終え、交流協会にいる知り合いのHさんを訪ねた。彼とは香港で知り合い、当時中国国内の同じような場所によく行っていたので、何となく気が合っていた。その後彼は台北転勤となり、2年前に一度会っていたが、今回ご縁があり、また会うことになった。近くの客家料理の店で昼飯をご馳走になってしまう。彼はもうすぐ台北を離れることになっていると聞いた。次に会うのはどこだろうか。

 

三峡へ
それからバスで宿に戻り、荷物を受けだして台北駅へ。これから鶯歌駅を目指すため、台鉄の鈍行に乗る。鶯歌と言えば陶器の街であり、お茶関係者はここに茶道具などを買いに来るようだが、興味のない私はご縁がない。鶯歌までは小1時間かかるが、約束の時間より早く着いてしまった。なぜか富山県高岡の陶芸家の展示会がここで開かれるとポスターが言っている。今度富山を再訪するのでちょっと気になる。

 

駅で待っていると谷芳の李夫妻が車で迎えに来てくれた。3月に一度訪ねているので、気軽に迎えをお願いした。ところが道中、突如腹痛に襲われる。理由は全く思い当たらないが、車に乗っていることが出来ない。こういう時、台湾には田舎でもセブンイレブンがある。そこでトイレを借りると収まったので助かった。こんなことは滅多にないので自分でも驚いた。

 

工場に着くと、すぐに生葉が運ばれてきた。若者がバイクで持ってきたが、彼はUターン組。お茶で食べていけるなら、田舎に戻りたい人はいるだろう。李さんは生葉を処理しながら私に色々と説明してくれた。戦前の写真なども探し出し、かなり昔から茶作りしていたことを証明してくれた。

 

それから場所を上のお店に移して、お茶を飲む。Gaba茶なども作っており、興味深い。何でも新しいことに挑戦する李さんらしい。お母さんはここで50年近く商売しているので、どのお茶が売れるかに詳しい。双子の息子、高校生も帰ってきて、一緒に茶を飲む。彼らは既に親の仕事を継ぐことを決めているから真剣だ。奥さんはパンなどを作るライセンスを取得、これからお茶に合う食品を見据えていく。実に面白いファミリーだ。

 

帰りは暗くなる中、駅まで送ってもらった。今晩は桃園駅近くのホテルに泊まる予定。桃園駅に着くと、何だかかなりの疲れを覚えた。そんな中、歩いてホテルに入る。結構いい料金、ここはビジネスマンが出張で泊まるところだと思っていたが、部屋はかなり広く、なぜかダブルベッドが2つ置かれていた。ファミリータイプの部屋だろうか。ちょっと雨も降っており、体調もすぐれないので早々に寝込む。

 

5月20日(土)
桃園

翌朝は体調を考慮して、宿代に入っている朝食を食べずにチェックアウトした。林口方面行きのバスは、駅の反対側から出ているという。まずは駅で荷物をコインロッカーに預ける。バス停に行ってみると長蛇の列がちょうど動いており、乗るべきバスが来ていることを知る。土曜日の朝、なんでこんなに混んでいるんだろうか。

 

バスで40分ぐらい行くと、既に見慣れたバス停があり、降りる。そこから緩やかな上り坂を歩く。到着してみると以前はなかったコンテナが置かれている。事務所を作ったという。林さんとはここで会うのが三回目。彼は今や若手茶農家のホープとして、神農賞を受賞するほど、注目された存在だ。何しろアイデアマンである。

 

林さんのお父さんは東方美人茶作りの名人と言われており、日本語もうまいので、話を聞く。それから林さんと台湾茶業の将来について、延々と話し続けた。これは日本茶業にも繋がる話だと思う。伝統的な茶業を守ること、しかし時流をきちんと読まないと滅んでしまうこと、何とも難しい。あっという間に3時間ほど過ぎ、弁当をご馳走になって退散した。日本語で話しているので理解度が高いことも事実だが、林さんと話していると、ちょっと違った視点で物が考えられるような気がする。

 

帰りがけに茶畑を見せてもらったが、今年の春は天候が悪く、新芽の出も悪く、茶作りが思うように進まないという。雨が降りそうだったので、そのままバス停に送ってもらう。元来た道を帰り、桃園駅で荷物を取り出す。30元と書いてあったが、これは3時間までで、追加料金を取られる。それでも日本のように一日いくら、というよりよほど合理的にできている。

 

桃園駅で台中までの自強号の切符を買うと『新竹で席を代わって』と言われ、2枚の切符を渡される。これはシステムの問題なのだろうか。日本でもこんなことあるのだろうか。乗り込んでみると老夫婦も同じ問題で困っていた。大きな荷物を持って車内を移動するのは大変だ。しかし訴える相手がいない。しかも立っている人も沢山いるから文句も言えない。かなり疲れた状態で埔里まで戻った。

ある日の埔里日記その3(7)皇太子が泊った部屋、そして魚池改良場で

5月12日(金)
皇太子が泊った部屋

今日は恒例の金曜日、黄先生のサロンの日だった。Iさんの車に乗せてもらい、アトリエに向かう。ここには埔里在住日本人が集まってくる。埔里と言えば、一時期日本人のロングステイヤーを募っており、多くの人が住んでいると聞いていたが、その後ブームは下火になり、今はご縁のある方々が十数名、リストに上がっているという。

 

このサロンに来るとちょっとした面白い話が聞けるからよい。今日は作家の佐藤春夫が1920年に埔里に来たと聞いた。佐藤春夫を研究している日本人が態々ここまで来て色々と調べて行き、それが本になっているという。このサロンにこの本の中文訳があり、しばし眺める。

 

埔里に来たと言えば、昭和天皇が皇太子であった1923年に台湾を訪れたことは有名であるが、この埔里にも宿泊したと黄先生が言う。そして何と皇太子が泊った部屋はこのアトリエの横に移築されているというから驚いてしまう。当時は日月館という宿を日本人が経営しており、何かの都合で日月潭ではなく、ここに泊まったとある。この日月館を光復後、譲り受けて経営していたのが、黄先生のご一家だというからすごい。因みに日月館は埔里のバスターミナル前にあったが、今は取り壊されている。

 

とにかくそのお部屋を見せてもらった。木造家屋の中に入ると、広々とした10畳ぐらいある和室、床の間があり、色々と飾りもある。屋根や壁は修繕されているようで意外ときれいだった。やっぱりちょっと緊張してしまう。トイレをお借りすると、これまた昭和レトロな雰囲気だった。

 

実はこの部屋は皇太子が来るから建てられたのではなく、その10年前、1912年に5代総督佐久間左馬太がこの地を視察する際、作られたのだという。しかも翌年も再訪しており、総督がこの辺鄙な地に2年続けてくるという異例の行動の裏には、理蕃政策があったと言われている。佐久間総督は明治天皇の信任が厚く、特に天皇が亡くなっても、台湾全島が天皇の命に従っていない現状の打開に努めたはずだ。原住民にとっては迷惑な話だが、植民地とはそういうものだろう。

 

5月15日(月)
茶業改良場で

土日は観光客などが多くなり、バスなども込み合うため、大人しく埔里で引き籠り。そして今日は先日出会ったSさんが、魚池の改良場に行きたい、というので、先方に連絡を取ると『ちょうどいい。新井さんのお孫さんが来るから来たらどうか』と誘われる。新井さんとは、昨今有名になった試験支所最後の所長、新井耕吉郎氏のことである。ただお孫さんが何の用事で来るのかなどは全く分からないまま、取り敢えず訪ねることにした。

 

Iさんの車に乗り、Sさんと奥さん、そして赤ちゃんで日月潭に向かう。昼前に出発し、昼ごはんはS奥さんイチ押しのお店へ。日月潭、水社の街を過ぎ、ちょっと寂しくなったところにそのお店はあった。丼物とおでんの店。そこで角煮丼とおでんを少々つまむ。面白いのはここの奥さんはタイから来たという。バンコック付近の出身だが華僑ではない。ただもう10年以上台湾に住んでいるので中国語に問題はない。

 

それから少し戻り、坂道を上がると改良場がある。一般人はここまで登れても中には入れないが、今日は約束があるので、入れてくれる。ここから眺める日月潭の風景は最高だ。Sさんは改良場の場誌を見たいというので見せてもらい、我は昨今の茶業事情などの情報を得ていた。

 

そこへ新井さんのお孫さんがやって来た。奥さんとそのお子さん2人と家族旅行とのことで、我々も加わり、話し始めた。お孫さんは新井さんのお嬢さんのお子さんで、苗字は新井さんではない。勿論台湾生まれでもない(お母様はいわゆる台湾生まれの湾生、15歳までこの地で過し、終戦で帰国している)。この後、お母様の通った小学校も訪問するという。

 

あの1938年に建てられた茶工場の前に立った。お子さんと言っても二人とも成人して、仕事をしている若者がそれを見て『うちのご先祖が台湾でお茶を作っていたとは聞いていたが、まさかこんなに大きな、立派なものを作り、今でも台湾の人から尊敬されているなんて夢にも思わなかった』と感慨深げに眺めていた。そう、功績は大きいが、わずか数年前まで茶業関係者ですらその名を知らなかった新井さん。突如偉大だと言われても遺族は戸惑っただろう。

 

 

記念館に入り、様々な展示物からその功績が更にビジュアルに見られる。そして許文龍氏作成の胸像を前に記念撮影。今回の旅は家族の歴史を受け継ぐものとなっただろう。眼下に見える茶畑、『恐らくあのあたりに埋められたと聞いたが、今は何も残っていない』とここで亡くなった新井さんのお墓がないことを悲しむ。戦後すぐに混乱状況ではそれも仕方がないか。

 

最後に改良場に上る道の途中にある記念碑にお参りした。私は何度もこの碑を見てはいたが、きちんとお参りしたことはない。改良場の場長は歴代、朝ここにお参りするのが習わしだと聞いたがどうだろうか。台湾式のお線香をあげ、皆で手を合わせた。偉人の功績は静かに称えるものだ、と心で思った。

 

帰りがけ、Sさんが『コーヒーを飲んでいきましょう』という。車は魚池の山の中に入り、こんなところに店がある訳ないだろうという場所に停まった。まさにそこは木々に覆われた大自然のコーヒーショップだった。風景を見ながら飲もうと先端に出て行くと突然嵐のような大雨に見舞われ、退散する。

 

この店のオーナーはコーヒーに深いこだわりがあり、自らコーヒーを栽培・焙煎し、自ら淹れてくれた。ご自慢の珈琲を何種類も出てくるのには驚くしかない。嵐の中で飲むコーヒー、この感覚は新鮮だった。雨がほぼ止むまで、コーヒーの嵐が私の中を駆け巡っていった。

ある日の埔里日記その3(6)国史館台湾文献館へ

5月11日(木)
国史館へ

ここ数日は台湾茶の歴史関連の資料を読むため、部屋に籠っていた。その歴史は予想以上に面白く、夢中で読み進んでいたが、やはり生来の旅人は、どうしても外へ出たくなる。そこで今日は、前から気になっていた国史館へ行ってみることにした。そこには日本時代の膨大な資料が眠っていると図書館で聞いたからだ。

 

ただ場所は南投の田舎。どうやって行くのか一応ネットで調べたが、バスを乗り継いで行かなければならないらしい。バスはどれほどあるのだろうか?不安の中、取り敢えず埔里からいつもの好行で高鐵台中駅まで行き、そこから南投客運に乗り換える。如何にもローカルバスで、地元の老人などが多く乗っている。40分以上経って、草屯に着いた。更にそのまま乗って行くと、何と中興新村が見えるではないか。

 

中興新村は1957年から約40年間、中華民国台湾省の省都であったところ。確か初めて台湾に来て、台中から日月潭に行く時、通りかかったような記憶があり、降りてみたい衝動にかられたが、台湾の複雑な歴史を見るのは国史館の後にしようと先を急ぐ。バスはその少し先に行き、ついに私は降りた。

 

そこは大木などもあり環境抜群の場所だったが、同時にその昔に作られた人工的な街にもなっている。しかも現在は政府施設が点在するだけで、歩いている人も殆どいない。バス停から国史館までの場所を聞くことも出来ず、スマホを頼りに適当に歩いて見る。5分ほどで何とか到着。

 

そこには立派な建物が建っていた。国史館台湾文献館、1992年に完工した建物が3つあり、閔南式、バロック式、中国宮廷式の様式で建てられたとある。この中には日本統治時代の総督府及び戦後の行政長官の文書などが保存されている。正面の建物に入ると、そこは展示室になっており、文献は横の建物にあると言われてそこへ移る。

 

その建物の入り口に人は誰もいなかったが、偶然通りかかった人に聞くと、資料の閲覧は地下だという。そこへ行くと受付があり、資料を見たいというと『えー、何でここまで来たの!資料ならネットでも見られるでしょう』と言われてしまう。それは知っていたが、わざわざやって来たのに、それはないでしょう!パスポートを見せるとその女性も納得したようで、PCの使い方を教えてくれる。

 

確かに検索は家でもできるのだが、キーワードに何を入れるかで出てくるものが相当に違ってくる。私が知りたい具体名などは入れても何も出て来ないが、彼女の教えてくれた簡単なワードを入れるといくつも出てくるから不思議だ。それでも勿論本命には辿り着かない。

 

ただこの歴史的文献を見ていると、総督乃木希典や児玉源太郎、民政長官後藤新平などという歴史上著名な人物の名前が頻繁に登場する。これはある意味で歴史好きな人にとってはたまらないかもしれない。私もちょっとワクワクしてしながら、何枚ものコピーを取る。今日は収穫があったのだろうか、いや単なる気晴らしにしては良かったといえよう。

 

やはりどうしても中興新村に寄りたいと思い、やってきたバスに飛び乗ってバス停2つで降りた。そこには今は機能を停止されている台湾省議会の建物が見えた。人の出入りは殆どない。何年か前に金門島で見た台湾省政府の建物の記憶が蘇る。昔のクイズで『中華民国の首都はどこでしょう?』とか、『台湾省の省都はどこでしょう?』などがあったが、あれは日本人が台湾という場所をどれほどの深さで理解しているかの一つのバロメーターだったように思う。

 

中華民国の地図には南京に赤い三重丸が付いており、台北は臨時首都、台湾省政府はここ中興新村にあった。28年前台北で仕事をしている時、政府高官や企業の偉いさんに会おうとすると『その日は省議会だからいないよ』と言われたことが懐かしい。台湾というのは、大いなる無駄をして、建前で何十年も生きてきたのだ。政府の建前と庶民の本音がこれほど違う国?を見たことはなかったように思う。

 

帰りのバスはいつ来るのだろうか。少し歩くと国光号のバス停がある。ここから台北行きのバスが出ているらしい。これも往時の名残だろうか。草屯までのバスは時々来るようで、それほど待たずに、省都を離れた。草屯駅で降りると、反対側に埔里行きのバスが来ると聞き、その短い間に昼ご飯をかき込んだ。わざわざ台中まで行かなくてもここで乗り換えれば簡単だったことはやはり来てみて初めて分かる。それほど時間もかからずに埔里まで帰り着いた。