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ある日の台北日記2019その1(8)皆が台湾を好きなのか

1月21日(月)
皆が台湾を好きな訳ではない

今朝も疲れが残っていた。歳をとると疲れが抜けない、と聞いていたが、確かに一度無理をすると、回復するのにかなりの時間を要するようになったと実感する。これはもう仕方のないことだから、いかに回復させるか、どのように休めば回復するのか、など考えながらやって行かねばならない。今日は久しぶりに鉄板サンドイッチを食べて、英気を養う。疲れは気持ちの問題も大きいと思うので、好きな物を食べ、気分をよくするのは良い。そして1時間ほど、当てもなく街を彷徨う。

 

夜は広方圓に行く。ご無沙汰が続いているが、相変わらず湯さんは若々しい。ここで何回も待ち合わせをして食事に行ったKさん、4年半の台北生活にピリオドを打ち、日本に帰るというので、最後に会うことにしたのだ。いつもは会うとすぐに食事に行くのだが、今晩は湯さんと話が弾む。彼女がまだ仕事を決めていないというと、『一緒にやろうよ、色んなことできるよ』と励ましている姿は、やはり日本とは違う。サラリーマンとして仕事を考えるのではなく、ビジネスを中心に仕事を考える、これは大切なことだと思う。

 

話し込んでいるといつの間には夜の8時も過ぎてしまう。慌てて外に出たが、双連付近の店は結構閉まっていた。Kさんが残業後偶に行くという餃子屋が開いていたので、そこで食べた。しみじみ餃子を食べていると、『私はやっぱり台湾より、中国の北部(大連、天津滞在経験あり)が好きなんですよね』という。皆が皆台湾を好きな訳でもなく、中国の東北地方が良い人もいる、というのは、昨晩の火鍋でも実感した。ましてや旅行でちょっと来るのではなく、仕事をするのは台湾とて簡単ではない。彼女のこれからはどうなるのだろうか、ちょっと気になる。

 

1月22日(火)
王さんと再会

今朝も外に出る小雨が降っている。腹は減ったが傘を持っていなかったので、すぐ近所の店に飛び込む。実は前から気になっていたのだが、店構えが可愛らしくて、入りづらかったので、良い機会が与えられた訳だ。店内もどちらかというと女性指向の内装デザイン。若い夫婦がやっているようで、人当たりもよい。

 

圧力トースト、とは何だろうか。コーヒーと共に注文する。出てきたのはパンを2枚使って型にはめ、隙間を無くして、中にチーズやハムを入れたホットサンドだった。これはこれで美味しいのだが、ちょっと私のイメージとは異なる。小さい店でほぼ女性しか客がいないこともあり、場違い感が半端ない。

 

午後は雨も上がり、ニニ八紀念公園に向かう。ちょっと早めに来て、公園内にある台湾博物館を見学する。ここの前は何度も通っていたが、入ったことが一度もなかったのだ。この建物、実に重厚な作りで、重みがある。1915年に児玉源太郎、後藤新平を記念して作られたというから100年以上経っている。この二人の台湾における貢献がよくわかる。

 

館内は2階が修理中で閉鎖スペースが多い。廊下では日本時代の建物が残っている高雄の展示が行われている。3階では、日本時代に各産業において台湾で活躍した日本人が紹介されており、ちょっと勉強になる。特に民俗学、植物学に目が行ってしまうのは、今の勉強テーマの性だろうか。

 

この博物館、公園を出て道路の向かいに別館があった。そこは土地銀行の建物。何と広い金庫室に色々な展示があり、面白い。勿論銀行なので、金融関連の歴史が多く示されているのだが、ちゃんと茶葉貿易の金融についても解説されているから、やはりその時代、茶が一大輸出産業だったことを物語っている。辻利茶舗の旧店舗が写り込んだ写真まである。その上の階には恐竜がいたりして、纏まりはあまりないが、いい暇つぶしにはなる。

 

今日は昨年11月にお会いして、戦前の大連、天津の様子を聞いた王さんと再会する。12月に王さんの話をもとに、この二都市を歩き、戦前の様子を垣間見てきたので、その報告をするためにご連絡をしたわけだ。紹介してくれた黄さんに連絡しなかったのは、王さんが日本語で話すため、気を使ったのだが、黄さんに話を通さなかったから、紀念館の応接室を使うことが出来なかった。館の隣にカフェがあったので、そこで話をする。

 

王さんに今の大連、天津の写真を見せてみる。殆ど面影はないようだが、時々『ここは昔と変わらない』とか、『この付近はこうだった』という反応がある。既に戦後74年、当然大きく変わっている。王さんが住んでいた場所、店などはとうに歴史の中に埋もれてしまっている。それでも懐かしそうに写真を眺め、色々と思い出すことがあるようで、ぽつぽつと思い出が吐き出される。こういうやり取りが実に貴重な体験談を生むことになることを何となく知っている。

 

話が終わると王さんと分かれ、台北駅の方へ歩く。実は明後日突然豊原へ行くことになり、自強号の切符を事前に買う。窓口は混んでいるので、自販機で買ったのだが、思った時間の列車、何と指定席が取れていなかった。慌てて窓口へ行き、一本遅い列車の指定席を確保する。やはり窓口の方が早かったか。

 

そのついでに、駅の2階の食堂街で夕飯を食べようと店を物色した。日本食でもたまには食べようかと思っていると、何とカレー店ばかり4つが集まっている一角がある。思わず名古屋カレーの店でオムライス・カツカレー?を注文して食べてしまう。台湾って、こんなにカレーが好きだったのか。そういえば最近街中でもカレー屋が目につく。

ある日の台北日記2019その1(7)アートを見て、火鍋を食べて

1月19日(土)
アートを見て新鮮な気分に

昨晩台南から戻り、ちょっと疲れが出ていた。やはり4日で台湾一周、もう若くはない私にとっては、厳しい旅だったのかもしれない。朝は今一つ起き上がれない。そして台北はやはり涼しい。風邪でも引かないようにと余計慎重になる。台南での出来事をかなり引き摺っていたかもしれない。

 

昼過ぎに歩き出す。外に出るとかなり暖かいので、ゆっくり歩いていたら、Bさんとの待ち合わせにまさかの遅刻だ。今日はBさんの知り合いがキュレーターとして参加した現代アートを見に行くことになっていた。場所はある財団が建てた市内一等地の施設。台湾にもよく見ると色々な施設があるようだ。

 

この展示会は、台湾だけでなく、日本人やヨーロッパ人など数人のアーティストが、それぞれ独創的な作品を作り、共同で展示したものだった。なぜこれを作ったのか、これにはどんな意味があるのかな、などと思いながら見るのは、何とも新鮮な感覚を持つ。また各作家が幼少期の思い出を表現する作品もあり、各国、各人の個性がはじけていて、大変参考になる。偶にこのような作品に触れると、新たな思考を持てる気がした。

 

展示館の外に出ると、そこには高雄の軍から借りてきたという、大砲が設置されていた。その上には大砲に支えられた?部屋があり、中に入ると、ソファーがある。そこに座っていると僅かに揺れが感じられ、台湾の独立は、そして我々の平和は武器によって支えられている、というメッセージを強く感じた。この作品が日本人によって作られたものとは、ちょっと意外であった。

 

昼ご飯を食べようと近くの有名食堂に行ったが、土曜日でもあり、長い行列が出来ていた。2人とも行列してまで食べるタイプではないので、他を当たることになる。ちょっと歩くと、馬祖乾麺という看板が見える。珍しいので入ってみると結構お客がいる。名物黒麻麺、というのを頼んでみる。まあ黒胡麻ペーストを混ぜて食べる麺か。以前馬祖に行ったことがあるが、こんな麺、あったのだろうか。確かあの時は食堂がなく、あっても早く閉まるので困った思い出しかない。

 

まだ時間があったので、どこかでお茶を飲もうと探し回るが、適当なカフェが見付からない。以前あったところもいつの間にか閉店していたりで、移り変わりが早い。いつもなら歩いていれば簡単に見つかるカフェが、敢えて見付けようとすると見付からないのは実に腹立たしい。

 

Bさんがスマホで検索して、ちょっと離れたカフェを見つけ出し、行って見た。そこは小さなスペースだったが、本格的なカフェで、バリスターの店長?がじっくりコーヒーを淹れていた。先日行った芝山のカフェほどではないが、十分にいい料金を取っている。それでも後から若者が入ってきて、店は満員盛況だ。台湾では現在間違いなくコーヒーブーム、ちょっとしたスペースで気軽にカフェを開き、自らの腕を試している若者も多いようだ。我々は若くはないが、そこに交じって30年前の若い頃の話をした。帰りはまた歩いて行く。

 

1月20日(日)
東北火鍋を堪能する

何とも涼しい日が続いている。昨晩遅くに、広東系の蝋焼定食を食べて腹が一杯になり、翌朝は絶食?した。食べ過ぎは体調を悪くすることが十分に分かっていた。部屋で大人しく、旅行記を書き、資料を眺めて過ごす。こういう時間が私には必要なのだ。もう若くはないのだから。

 

夕方、それでも出掛けた。小雨が降り、寒い夕暮れだった。MRTに乗り、指定された食堂を目指す。今日は後輩のSさんといつも茶旅でお世話になっている黄さん夫妻と4人で火鍋を食べることになっていた。台湾にも沢山の火鍋はあるが、これから行くところは中国の東北人がやっている本格的な店だと聞いていた。Sさんはその昔、長春に留学経験があり、そこにはこだわりもある。

 

店の前に行くと、寒いのに外まで客が溢れていた。午後5時半の予約が取れない店なのだ。これは期待が持てる。店内では、あの懐かしい先が尖った煙突を持つ鍋が煙を吹いている。涮羊肉、まさにそれだった。たれも自分たちで配合して作るように専用テーブルに置かれている。

 

先ず出てきたのが、地三鮮。これは北の料理の定番で、台湾では普通は見ない。水煮肉も登場する。これは四川料理だが、北京では定番品だ。そして羊肉が出てきて、しゃぶしゃぶが始まると、夢中で食べてしまった。寒いだとか、疲れたとか、全て吹き飛んだ。恐るべき威力を持つ。Sさんには感謝しかない。

 

2時間制ということで、多くの客が待っているので外へ出た。満足した。その後デザートを食べに行く。豆花、これも色々とバリエーションがあってよい。寒いから暖かい豆花を注文する。そして政治から文化まで、様々な話題で話は尽きず、何と閉店まで話し込む。帰りも小雨が降っていたが、体は暖かかった。

ある日の台北日記2019その1(6)台南の災難

1月18日(金)
台南の災難

台南の災難?はまだ続く。今日は国立歴史博物館へ行こうと思い、早々にホテルをチェックアウトして、駅前のバス停に向かう。博物館行きのバスは一本しかなく、それは南駅から出ると書かれていたが、南駅とは駅の南側なのだろうか。分からないのでホテルの前へ行くと北駅との表示がある。聞いてみると、何と南駅と北駅は道路一本挟んでいるだけでほぼ同じ場所にあった。なんでこんな表示にするんだ、と言っても誰も取り合ってくれないだろう。

 

こんなことならもう少しゆっくりホテルを出ればよかった後悔しても、仕方がない。バス停に座ってボーっとしていると、8時発と時刻表に書かれているそのバスが、何と10分も前にやってきた。駅前で時間調整するのだろうと、ノロノロしていると、バスはすぐにドアを閉めようとするので、慌てて乗り込む。まさか10分前に出発するなんて、あり得ない。しかも次のバスは1時間半後なのだから、もし私は8時を目指してきていたら、全く乗れていなかったことになる。どうなっているんだ、台南。

 

バスは混んでいたが座れた。市内を抜ける頃にはほぼお客はいなくなり、ゆったり。そして40分後には博物館に到着する。博物館のバス停もなぜか2つあり、どちらで降りたらよいかなどは誰も教えてくれない。皆が降りた方で降りる。だが博物館は9時から開館なので、外で待たねばならない。

 

9時になって入場しようとすると、市内の中学生だろうか、数百人が社会科見学?で博物館に押し入って来た。真面目に見学する生徒もいるが、多くはアソビ気分で、大声を出して、走り回る者までいる。折角台湾の歴史をトータルに展示していてくれて、興味深いところだが、ゆっくり考えながら見ることもできない。取り敢えずお茶関連、日本時代関連の一部をさらって見て、早々に退散する。

 

ただ退散すると言ってもバスはすぐには来ない。ちょっと庭を散歩してから、降りたところとは別のバス停に行きバスを待つが誰も待っている人などいない。本当に来るのだろうかと心配になった頃、ようやくやってきて私は拾われ、昼前には台南駅前に戻って来た。途中バスには学生が大勢乗ってきた。学校は半日なのだろうか。

 

駅前から少し歩く。腹が減ったので適当に食堂に入ったところ、そこは4人掛けのテーブル席が10以上あったが、お客は4テーブルしかいなかった。私は入り口の席をベテラン店員に指定され、そこに座りメニューを見ていた。そこへもう一人客が入ってきたので、店員は私との相席を指示する。更にもう一人来た時、店員は私に向かって『お客さんが座るから荷物をどけて』というではないか。さすが驚いて『他にも一杯席は空いているだろう』というと、お客の方がスタスタと別の席に座った。店員はとても嫌な顔をしていたが、こんな扱い、台湾で受けたことはない。食べた物の味も忘れてしまった。

 

そんなことがあり、心の動揺からか、目的地に着けず、道に迷う。そしてフラフラと、昔何度か歩いた懐かしい場所を転々とした。そして最後に公会堂に辿り着く。目的の場所はこの裏にあった。池があり、木々が茂る安らかなところ。そこに昨年王育徳紀念館が建てられたと聞いていたので訪ねてみた。

 

王育徳氏は台南出身で、国民党の弾圧を逃れて日本に亡命、東大で学び、大学で台湾語などを教えていた人だ。実は私も大学3年の時に、興味本位で王先生の授業を取ったが、北京語すらままならない中、台湾語の難しさを恐れて、3回しか授業に行かずに放棄してしまった苦い思い出がある。それ以来、私にとって台湾語は鬼門となっている。

 

今日改めてここに展示されている物を見ると、王先生は単なる教師ではなかった訳だが、当時の私にはその人物の重要性など分かるはずもない。私が卒業した年に先生は亡くなってしまい、その死亡記事を見て初めて、王先生の別の一面を知った。以来33年、ずっと気になる人だったが、台湾の民主化や軍属問題などに真摯に取り組んでいた姿を見て、もう少し先生の話が聞きたかった、と勝手に思うのである。展示品の中にはあの頃授業で使っていた教科書など、懐かしい品々も見え、ここに来てよかったと思った。

 

ちょっと余韻に浸るため、また歩く。ロータリーがあり、そこにニニ八事件で犠牲になった台南の弁護士、湯徳章氏の胸像があると聞いたので、見に行ってみた。ところが像はあるのだが、その周囲は乱雑で、ちょっとビックリ。王先生には申し訳ないが、今回の台南訪問は、なぜか悪いイメージばかりが先行してしまった。

 

駅前に戻り、ホテルに預けた荷物を取り出し、駅に向かった。本当はもう少し台南を見て回るつもりだったが、これだけ災難?が重なれば、早く離れた方がよいと本能が訴えていた。台北行きの自強号の切符も買えたので、敢えて高鐵には乗らず、ゆっくりと眠りながら4時間かけて台北に戻った。

ある日の台北日記2019その1(5)東台湾の旅 鹿野で

1月17日(木)
鹿野にて

朝ちょっと早く目覚める。今日は鹿野一帯を訪ねるのだが、お茶と関係ない場所に行く余裕はないだろうと思い、一人で宿を抜け出し、鹿野神社を参拝する。実は鹿野にも3年近く前に一度来たことがあり、その際、日本移民100周年記念で再建された真新しい神社を見ていたのだ。鹿野の街は日本時代にきれいに区割りされて開拓されたため、道に迷うこともない。雨も上がっており、散歩にはちょうどよい。古い建物がチラホラ見える。

 

朝ご飯はリビングで頂く。大きな肉まんとサラダ、フルーツ。健康的な朝飯だ。平日なのに満室だったようで、他のグループも食べていて、賑やか。台湾も60代、リタイア世代が元気で旅している光景をよく見かける。トミー達、若者には少し物足りない食事だったかもしれない。

 

今日はまず、トミーの知り合い、博雅斎という茶荘?骨董屋?に伺う。ここは紅烏龍茶などを作り、販売しているという。ご主人が、お父さんが残したという本を見せてくれた。驚いたことに日本時代の写真が沢山入った、『東台湾展望』というこの地域に関するものだった。当時お茶はなく、お茶の歴史ではないが、相当に興味深い写真が多く、しばし見入る。それにしても昨晩もそう思ったが、紅烏龍茶は数年前よりかなり美味しくなっていると感じる。

 

車で高台に上がる。福鹿山、日本語の『高台』をそのまま使っているところが面白い。ここからは鹿野が一望でき、きれいに区割りされた街もよく分かる。こういうところが、『日本は凄い』と台湾人が思うところだろう。気球を飛ばす場所もあるが、今はお客さんがいないのか、何もやってはいない。

 

続いて、紅茶産業文化館に向かう。ここも数年前にちょっと訪れた。そのとき案内してくれた3代目が覚えていてくれた。だが歴史となるとお父さん、2代目が登場し、かなり細かな歴史について、説明してくれた。鹿野に移住して、茶業を始めたのは1960年代だから、瑞穂よりは早い。こちらも新竹から移住した客家だった。文化館の後ろには古い機会が残る茶工場があり、歴史を感じさせた。

 

お昼は地元民が行くレストランに連れて行ってもらい、お腹いっぱい食べた。地元の野菜や鶏は実にうまい。食べるなと思っても自然と手が伸びてしまうのを抑えることは出来ない。困ったものだ、体が重い。

 

午後は茶業改良場台東分場に行く予定になっていたが、時間調整が必要となり、コーヒーを飲むため、何と刑務所へ。その中にカフェが併設されており、地元産のコーヒーが提供されていた。刑務所内に入れるだけで、ちょっと驚く。刑務所の管理棟はちょっとおしゃれな洋風で更にビックリ。コーヒーは普通に美味い。

 

更には刑務所内には茶畑まであった。こちらは特別に入れて頂いた訳だが、作業が行われている中、自由に写真を撮らせてもらった。この茶畑で採れる茶葉も紅烏龍の原料になるのだという。野菜など色々なものが植えられており、これも作業の一環という。日本にはこのような刑務所、あるのだろうか。

 

改良場の分場にも以前偶然にも来たことがあり、その時の場長にはお世話になった。ちょうど場長は交代しており、新任が文山から来ていた。台東の茶の歴史を知りたいというと、すぐに改良場内の検討会の資料をくれ、色々と説明もしてくれた。何とも有り難いことで、今回の旅はある意味でここに来れば完結したのかもしれない。

 

話しているうちに新場長は宜蘭の方で、文山の前は魚池にいたと分かる。その時、突然ひらめいた。7年前、私が初めて魚池分場を訪ねた時、対応してくれたのは、この簫さんだったのだと。何よりも、新井耕吉郎さんと一緒に働いた最後の台湾人、楊さんのところに連れて行ってくれたのも簫さんだった。何という再会だろうか。さすがにお互い驚くが、お茶の世界ではよくあることだ。

 

話が弾んでしまい、広大な試験茶園を見る余裕もなく、分場を後にした。何しろこれから私は台南へ、彼らは台中まで帰るのだから大変だ。台湾一周、最近の言い方では2泊3日の環島、はかなりきつい。午後4時半に鹿野を出て、台東から屏東を回り、高雄を経て台南へ。暗い道を4時間ほどかかっただろうか。

 

台南駅前で降ろしてもらい、今日の宿へ一人で向かう。前回も泊まった駅前ホテル。何と窓なしの部屋なら、1泊2000円もしない。夕飯を食べていなかったので腹が減ったが、駅付近にはご飯を食べられるところがなかった。仕方なく、モスバーガーに入る。疲れていたので1階の席に座ろうとすると、掃除するから2階へ行けと言われ、2階で30分待ったが注文したものは出てこない。

 

掃除している若いスタッフに聞いたら、彼は掃除に夢中で商品をデリバリーしていなかった。腹も減っていたので、ちょっとムカつく。その帰り、怒ると腹が減るらしく、セブンでサンドイッチを買い、温めてくれと告げたが、スタッフの若者は自分のおにぎりに夢中で、サンドイッチを2分も温めてしまい、パンはへなへなになってしまった。これは台湾の問題か、それとも若者の問題か、いや私の運が悪いだけだろうか。

ある日の台北日記2019その1(4)東台湾の旅 瑞穂で

1月16日(水)
瑞穂で

夜中に雨が降っていた。朝、道路は濡れていたが、雨が上がったのは助かった。午前8時過ぎには鍵を置いて宿を出て、近所で朝ご飯。ハンバーガーを頬張る。それから舞鶴台地を登る。茶畑が見えてきたので、記念撮影。北回帰線の記念碑もあるので、そこにも立ち寄り、撮影。

 

2年ほど前に一度訪ねた嘉茗茶園を再訪する。ここは蜜香紅茶を発明した高さん、粘さん夫妻のお店。お嬢さんも結婚後、花蓮から戻ってきて、茶作り、販売を手伝っていた。トミーはここの農会に招かれ、講演したことがあるとのことで、先生の扱いを受ける。蜜香紅茶の歴史、そしてここ舞鶴茶の歴史について話しを聞く。

 

まあ、どちらかというと、話は蜜香紅茶の作り方、そして各茶のテースティング、如何にして販売するかと言ったマーケッティング戦略などの方に行ってしまうのは仕方がないことか。更には先日NHKの番組に取材され、放映されたビデオを見せられ、簡単な翻訳をする羽目にもなる。いいお茶を作るだけではなく、如何に売るかが、やはり焦点だと言える。

 

昼ごはんは高さんとお嬢さんが付き合ってくれ、地元のレストランに行く。レストランのお客さんも誰かは必ず高さんを知っている。彼は地元の有名人である。ここの料理はちょっと独特で、料理にフルーツのキウイが入っていたりして、とても面白い。美味しく頂く。ご馳走様でした。

 

午後は、葉さんの実家、富源茶荘に向かう。ここも過去2回ほど来ているので、葉さんの兄嫁などはすぐに私を認識してくれた。お母さんとも挨拶、お父さんは恐らくお昼寝の最中だろう。お兄さんも急いで会合から戻ってきて、話をしてくれた。この舞鶴台地に最初に茶を持ち込んだのは、ここの葉家であることは、昨年台中で会った、元農林庁で東部開発に携わった張さんも言っていたので、間違いはないだろう。1973年頃のことだ。

 

だがお兄さんによれば、『実は茶畑は日本時代からあったと聞いている』というではないか。それはどこにあったのか。一緒にその末裔を訪ねた。その店は何と北回帰線記念碑の横にあり、観光バスが停まると、観光客に土産物を売っており、忙しくしていた。一段落したところで話を聞くと、お爺さんが1940年頃茶樹を植えたらしい。ただそれが実る前に戦争になり、茶業は進まなかったという。

 

むしろここで面白かったのは、どのようにして、ここに移民してきたかという話だった。こちらの黄さんのお爺さんは新竹の出で、日本時代に新天地を求めて、兄弟一家で東部を目指したらしい。だが台北で仕事が見付かった者はそこに定住し、花蓮で見つかった者もそこに住み、残った者がここまでやってきたというのだ。だから今でも各地に親戚がいる。如何にも客家的な精神、興味深い。

 

最後に念のため、鶴岡紅茶を売るっているという場所に向かった。鶴岡紅茶も瑞穂の茶の歴史には必ず登場する。光復後、茶業が上手く行かずに、銀行が差し押さえ、その管理下で茶が作られたというユニークな歴史がある。だが最近は、あるお坊さんがこの紅茶を復活させ、宣伝していると聞いていた。

 

そこには、古い製茶機械などがあるということだったが、『製茶師がいないのでそれは見せられない』と言われる。鶴岡紅茶の歴史を聞いてみても、しきりに茶を勧められ、鶴岡紅茶を日本にも宣伝して欲しい、と担当の女性が言うので、ちょっと困ってしまった。ここは本当にお寺?お坊さんが経営しているのだろうか。そしてその歴史を尊重しているのだろうか。甚だ疑問な対応を受けて、すぐに立ち去る。

 

これで瑞穂の調査は終了。そのまま今晩の宿泊先、鹿野に移動した。約1時間半で到着。昨日に比べれば楽だ。今日の民宿はかなりきれいな作りで、居心地もよさそうだ。聞けば、今台湾人が東部に来ると、政府から補助が出るので安く泊まれるらしい。観光振興策、東部振興策だろうか。残念ながら外国人は対象外だそうだ。

 

ここに来る途中、茶工場の看板が出ていた。トミー達は知り合いであるここに行きたかったようで、すぐに連絡して訪問した。ここのオーナー林さんは、茶業を始めて僅か十数年。だが紅烏龍の品質向上、画期的な工場経営などが高く評価され、昨年神農賞を受賞した兵だ。確かにきれいな工場があり、生産は順調のように見えるが、話しぶりはかなり謙虚だった。

 

夕飯は林さんに連れられて、他のお客さんも一緒に牛肉麺を食べに行く。ここの料理人は台北で修行して戻った人で。味は本格的だった。夕飯だから大椀を頼め、と言われて頼んでみたが、あまりの大きさにビビってしまった。それでも美味しいので、ついに最後まで食べつくす。最近の食欲は一体どうなっているのだろうか。その後宿に戻り、シャワーを浴びてから寝る。トミー達は宿の向かいにも知り合いがいるらしく、夜遅くまでお茶を飲んでいたらしい。

ある日の台北日記2019その1(3)東台湾の旅 宜蘭へ

1月15日(火)
東台湾の旅 宜蘭へ

今日から宜蘭、瑞穂、鹿野という東台湾の旅に出る。勿論これは茶旅であり、これまであまりスポットが当たって来なかった、東海岸のお茶の歴史を学ぶのが目的だった。今回も旅のアレンジ、全面的なサポートをしてくれるのはトミーとチャスター、そしてビンセントの3人組。

 

朝8時過ぎに台北まで迎えに来てくれ(彼らは台中からやって来た)、一路宜蘭を目指す。2時間も経たずに、黄さんのところに到着した。彼とは以前一度会ったことがあり、宜蘭で熱心に茶作りをしているという印象があった。お茶などなさそうなところに茶荘があり、横の敷地には最新鋭の設備を備えた工場を新設しているところだった。

 

彼のところはお父さんの代、1970年代に茶業を始め、色々な品種を植え、烏龍茶でも紅茶でも、何でも作って来たという。現在は特色ある茶作りということで、有機栽培を中心に、コンテストでも、有機王の称号を得ている。茶畑は山の方にあるということだった。環境はよさそうだ。様々な種類のお茶を飲み、午前が終わる。

 

昼ご飯を食べようと言って車で出掛ける。道を眺めていて不思議だったのは、空き地のような場所の一角に、ポツンと家が建っているところがいくつもあったことだ。聞いてみると、それを農舎というらしい。どうやら農地に住宅を建てる一つの手法であり、宜蘭までの道が開かれて以降、台北からたくさんの投資があったという。グレーゾーンというヤツだろうか。いや黒にしか見えないが。

 

近くで、と言っていたはずだが、車で30分も離れた食堂へ行った。これは田舎感覚の距離感だ。私にはない発想だが、周囲に店がないということだろう。ちょっと味付けが濃いが確かに料理は美味しい。そして客が次々に入ってくる人気店だ。行列が出来てきたので、すぐに席を立つ。

 

そのまま車は、山を登り始めた。日本時代より前からある茶畑に行こう、というのだ。ここ宜蘭では1885年頃から茶樹が植えられ始めた記録があるという。私も日本時代初期に宜蘭で茶の話が出てくる新聞記事を見ていたので、十分考えられると思って行って見る。確かにかなり古い茶樹が所々に自然と残っていた。

 

そして新しい茶畑も一部にあるが、決して多くはない。日本時代は、山を見れば一面茶畑だったとの証言もあったが、今この山の中腹には淡江大学など2つの大学のキャンパスが作られており、その様相は一変していると言ってよい。ここから見える夜景は素晴らしいので、デートスポットでもあるらしい。街の向こうに太平洋が見える。

 

それから宜蘭県茶業公会の理事長のお店を訪問して、宜蘭茶の歴史のヒントを探る。宜蘭茶の最盛期は光復後のことであり、その後輸出競争力の衰えてと共に、茶作りから茶商へと、変わっていった人々がいたことを知る。一部は中国に台湾茶を輸出しているが、その台湾茶も自分では作っていないというのが現状だろうか。

 

ここには最初に茶業を始めたと言われる一族の人も来てくれ、やはり宜蘭茶は1885年頃に始まったという話を聞く。そして日本時代の茶工場が今も残っているよ、という耳寄りの情報を得たので、是非見たいということで、車で向かう。行って見ると確かに古めかしい、かなり大きな建物があり、ドアなどには日本も感じられる。

 

ただ中に入ると古い製茶機械は残っているが、既に生産はしていない。林さんという老人が、一人でここに住み、先祖が残した茶工場を守っていた。私が日本人だと分かると、一層親切になり、思い出話を色々と聞かせてくれる。この建物は林さんのお父さんが自ら設計して建てたという。かなり凝った造りになっている。もし林さんが居なくなれば、この建物も取り壊されてしまうかもしれない。こういう貴重な建物を保存することは意外と難しいので、困る。

 

宜蘭での調査は終了したので、黄さんを家まで送った後、今日の内に次の目的地である、瑞穂に向かって走り出す。だが瑞穂は花蓮県とは言ってもかなり遠い。まずは花蓮市まで行くのに、2時間以上はかかった。周囲は真っ暗になり、海岸沿いをトラックなどが多く走り、車の運転も何となく危険な感じがする。

 

ようやく花蓮市内に入り、夕飯の場所を探すがすでに夜8時を回り、いいところが見付からない。仕方なく麺屋に入り、4人とも違う麺を頼んで、啜る。何となく味気ない夕飯となったが、やむを得ない。更にここから瑞穂まで、1時間以上車を飛ばした。夜9時半、やっと予約した民宿に入る。

 

民宿の奥さんも我々に早く来て欲しかったようだ。部屋割と簡単な説明をするとすぐに行ってしまう。明日の朝は鍵を置いて勝手に出て行く、と言ったスタイルだ。今日は日中晴れてはいたが、気温はそれほど高くはなった。不思議な作りの民宿の部屋も若干涼しい。疲れたので、早々に寝入る。

ある日の台北日記2019その1(2)慈湖 蒋介石象の墓場

1月13日(日)
蒋介石象の墓場

先日食事を一緒にしたTさんから『慈湖に行くけど』と言われたので、ついて行くことにした。慈湖と言えば、35年前、私が初めて台湾に来た時、当時同級生の台湾人、陳さんに連れられて行ったことをはっきりと思いだす。当時は山深い場所だったということと、蒋介石の遺体が安置されている建物の前で、突然衛兵の号令で3回頭を下げさせられた。それ以来、何度台湾に来ても行くことはなかった場所。

 

板橋で待ち合わせた。三猿広場の前で、と言われていたが、三猿って何だろうと思っていた。そして何と読むのだろうかと見てみると、何とそのまま『Sanzaru』と日本語ではないか。最近台湾には本格的な日本も導入されているが、未だ不思議な名前を付けているケースも多い。

 

もう一人初対面のFさんも同行していた。Fさんも80年代からずっと台湾にいる(関わっている)古参。この3人が出会えば、懐かしい名前が飛び出したり、80年代から90年代前半の出来事が突然思い出されたりと、話に花が咲く。Tさん運転の車で慈湖まで、あっという間に感じられた。

 

当然ではあるが、私が来た35年前とは雰囲気もかなり変わっている。しかも今日は何と蒋経国の命日とあって、要人の参拝などもあるのか、警備も厳重で、午前中はそちらには近づけないと言われた。広場の様な場所に行って見て、ビックリした。胸像、座像、立像など、無数の?像が、ところ狭しと置かれているのだ。しかもその像は基本的に蒋介石、そして蒋経国と孫文の3つだけ。2000年頃に開園したこの場所、数百体の像はどうしてやって来たのだろうか。

 

聞くところによれば、蒋家の時代には、どの町、どの学校、どの職場にも蒋介石象、蒋経国像はあった。その時代が終わった後、その像をどうするのか、議論があったようだ。確か中国でも毛沢東像をどうするかという話があったので、それに似ている。結果的にここにかなりの数が集められ、展示?されるようになった。それはある意味で、蒋介石象の墓場とも言えるかもしれない。

 

それにしても様々なポーズ、様々な顔、様々な年齢の蒋介石がいるものだ。国民党が台湾に来た頃は、製造特需だったに違いない。ただ明るい内は問題ないが、もし夜にここに来たら、それはそれは、恐ろしい光景になるだろう。肝試しをこういう場所でやると言えば、不謹慎だろうか。

 

河沿いを歩いて行くと、経国紀念館という建物に出くわした。中には蒋経国関連の資料が沢山展示されており、興味深いものもあった。その向かいには御陵があるようだったが、命日のため一般人は立ち入れなかった。それではと先ほどの場所に戻り、更に行くと、今度は蒋介石の御陵がある。

 

蒋介石は将来中国に戻るということで、遺体は火葬されていないと聞いている。35年前はその安置所に入れたと思うが、今はガラスの壁があり、建物内に入ることは出来ない。これは昨年、事件があったからだ、と言われたが、よく分からない。一人の年配の女性が『なぜ私は中に入れないのだ』と訴えており、スタッフが丁寧に対応しているのが印象的だった。最近台湾にも色んな人が色んな主張をしているらしい。台湾人観光客?が周囲を取り囲み、写真を撮っている。

 

昼になったので、車を走らせ、道沿いのローカル食堂を探す。台湾の場合、立派なレストランではなく、昔からあるB級食堂が本当に美味いし、満足できることが多い。それをよく知るTさんは、毎回ふらっと目に付いた食堂に入り、地元の人が食べている料理に目を走らせ、ウマそうなものを注文しているという。今回も確かに豆腐や油条が旨かったな。

 

午後は桃園神社に向かう。日本時代、神社は台湾中に作られたが、光復後、その殆どが壊されたと聞いている。今ある神社も後から復元したものなどが多く、残っているのは鳥居や灯篭だけというところが多い。そんな中、桃園神社は社殿など、建物が日本時代のまま残っている台湾でもほぼ唯一の神社だと聞き、大いに興味が沸く。ところが行って見ると、10か月間の修復工事に入っており、中には入れなかった。外からちょっと見る感じでは確かに雰囲気がある。次回修復後に再訪しよう。

 

車は板橋に戻り、今日の反省会?がスタバで行われる。それにしても日曜日の午後のスタバは混んでいる。そして3人分のコーヒー代は、ランチの食事とほぼ変わらない料金。何だか不思議な感じがする。今日は台湾の歴史について、再度考える機会が与えられた。国民党とは一体何なのか、そして台湾に及ぼした影響は。話題はいくらでもあるが、時間には限りがある。

 

1月14日(月)
コーヒーを飲む

朝昼兼用の食事。これが何もない日の日課である。今日は大好きになったサンドイッチ屋に行ったが、いつも同じものばかりではと、推薦されたハンバーガーを食してみた。ところがやって来たバーガー、そのあまりの高さ?に唖然。これ、どうやって食べるのだろうか。思わず店員に聞くと、自分で袋に入れて押しつぶして食べるらしい。味は悪くないが、食べにくいこと甚だしい。もう一度頼む気にはなれない、食べるのに疲れる。

 

夕方MRT芝山駅に降り立つ。今日は旧知のSさんとコーヒーを飲むことにした。実はシェフのSさんが、コーヒー屋さんに転職したというので、その仕事場を訪ねることにしたのだ。彼は非番なので、そこでゆっくりお話しする。このコーヒー店、日本人経営で、既にかなり有名。

 

ベテランスタッフが手で入れてくるコーヒーは1杯300元と高いが、非常に上質な感じがする。コーヒーブームに乗り、このようなコーヒーが台湾に受け入れられ始めている。合わせて食べたスコーンも美味しい。Sさんも早く自分の手でコーヒーを淹れてお客さんに出したという。これは面白い挑戦かもしれない。台湾のお茶はどうなるのだろうか。

ある日の台北日記2019その1(1)台北から始まる2019年

《ある日の台北日記2019その1》  2019年1月7日-30日

正月明け、やはり今年も台湾から始めよう。と言っても、お茶の歴史の勉強、そろそろ方向を考えなければならない。今回は2019年をどうしていくのかも考えながら、過ごしていくことになる。新たな展開は果たして見出せるのか。

 

1月7日(月)
台北へ

今日は昼過ぎの便で台北に向かう。羽田発なので、ゆったりと出向く。世の中は今日が仕事始めらしい。空港は正月明けで、さほど混んでいない。イミグレを通ると、免税店のレイアウトが少し変わっている。そして常滑焼の急須や越前の漆器などが、特別に展示されていた。外国人がそれを興味深く眺めている。正月7日、ちょうど七草がゆを食べられるところがあったので、久しぶりに食べる。案外とよい。

 

いつものエバ航空に乗り込む。もう慣れてしまい、一番使いやすい航空会社になってはいるが、料金もどんどん上がってきており、毎回乗る訳にはいかない。特に羽田便に乗るのはこれが最後かもしれない、などと思う程だ。機内では名探偵コナンを見て、寝入る。

 

ふと気が付くと着陸態勢に入っており、その速さに驚く。松山空港は乗客が少ないので、イミグレも簡単で、すぐに外に出られる。いつもの桃園便より、だいぶん早く市内に着くので、葉さんは当然家にいないだろうと思い、Tさんと約束して、早めの夕飯を食べることにしていた。荷物を初めて空港のロッカーに入れ、少し早いので、空港周辺を散策する。

 

5時にTさんが予約してくれた小籠包屋で落ち合う。こんなところに店があるのか、という場所。聞けばTさんのお知り合いがオーナーだとか。空港からそれほど離れていなので、今後も使えるお店ではないかと思う。私は小籠包も好きなのだが、ここでは敢えて牛喃を頼んでみる。なぜか先日夢に見て?食べたいと思っていたのだが、ここで食べられるとは。

 

話に夢中になって時間は過ぎて行った。空港のロッカーから荷物を取り出そうとしたら、何と80元の支払いを求められている。3時間80元と書かれていたのだが、3時間を過ぎると、更に3時間分の料金を払わなければならないのか。たった30分のためには、高い代償だった。次回は気を付けよう。

 

葉さんに家に着く。今日は早くに家に帰っていたようで、ホームパーティーをしていた。気を使って時間を調整する必要はなかったかもしれない。いずれにしても、また資料がぎっしり詰め込まれた部屋に戻ってくることが出来た。もう腹も一杯だったので、すぐにぐっすりと寝込む。

 

1月9日(水)
大稲埕から中和へ

今朝は製茶公会に向かった。黄さんから、黄さん他のインタビューが載っている本を頂戴するためだった。この本には、6人の茶業人が掲載されており、その内容は台湾茶業の歴史を知る上で大いに参考になるものだった。既に出版元にも在庫がなく、黄さんにお願いした。実は11月にお会いするはずだったが、腰痛とのことで、1月に延期になっていた。

 

約束の時間に公会に行ったが、黄さんは現れなかった。30分過ぎて電話すると、『今行く』との返事。どうやら茶業者と熱の入った議論をしており、時間を忘れてしまったらしい。80歳を過ぎてもこの情熱、すごい。そしてまたこちらでも1時間近く熱弁を振るって、私の質問に答えてくれた。有り難い。

 

昼になったので、近くの鍋屋に連れて行ってもらった。カウンター席に一つずつ鍋が置けるコンロが設置され、鍋に野菜や豆腐などの具材を入れて煮て食べる仕組み。私の記憶に間違いがなければ、この一人鍋は30年以上前に台湾でお目見えしたものだ。あの頃単身赴任だった私には便利な鍋だったので、時々食べに行ったのを覚えている。それと比べれば、今日の鍋は調理器具も具材も相当進歩している。

 

午後は中和の図書館に出掛ける。以前は何度もここを訪ね、日本時代の新聞記事の検索をしていたが、最近はご無沙汰だった。図書館は823紀念公園の中にあり、初めてその敷地内を一周した。1958年に共産党と戦って勝利したことは、その後の台湾に大きな力を与えたのだろう。

 

図書館に行って見ると1階は改修中だったが、6階は特に変わりはなかった。今回は特に調べる目的はなかったので、カウンターの人に告げて、開架図書を見て回る。実はこのフロアーは、まずは目的を告げて、それに合わせて司書が本を探したり、PC使用を許可したりするシステムになっているが、さすがに顔馴染みになっているので、すんなり入れてくれた。

 

ここに置かれている日本時代関連の図書、こんなに沢山あるのかと驚いてしまう。いつもは手前しか見ていなかったが、奥が深い。本の範囲や内容も奥が深い。何だか沼に嵌ったような気分で数冊を手に取り、パラパラ見だす。日本語も中国語も合わせれば、興味深い資料がいくつもあり、いくら時間があって読み切れない。

 

その中で特に『日治時期 在満州の台湾人』という本に目が行った。先日訪ねた大連や天津に日本時代に渡った台湾人、その後はどうなっているのか知りたかったが、その資料は殆どなかった。この本は今から20年ほど前に、中央研究院が当時の人々から直接聞き取りを行った記録で極めて貴重。終戦後台湾に引き上げるまでの過程も一部語られていた。ただここで取り上げられている方の多くが医者であり、一般の、特に商人の記録は殆どないのは残念だった。

 

何故中和に来たのかというと、夜旧知のSさんとの食事場所がこの近くだったからだ。指定された場所を探すと、普通は来ないだろうと思われる、不思議な場所にある鉄板焼き屋。聞けばSさんの知り合いが近くに住んでおり、先日食べて美味しかったから、連れて来たという。シェフは海外で修行して戻って来て開業。住宅地で気楽だが、本格ステーキなどを出しており、お客は多かった。

ある日の台北日記2018その3(15)包種茶の謎

12月2日(日)
仁愛路散歩

土日は人と会うのも少なく、図書館に行く気も起きない。いつもブランチを食べる店も混んでおり、そこも敬遠すると食事の場所にも困る。今日は天気も良いので少し遠くまで散歩してみることにした。仁愛路、30年前に台北にいた時から高級住宅街、というイメージがあったが、大きな街路樹が植わる広い道は今も堂々としている。

 

きれいな道、そして立派なビル。いかにも高級住宅街らしく、高価な骨董や絵画を売るギャラリーなどがある。だが、ビルの1階には空き店舗が目立つのも事実だ。家賃高騰に商売が合わなくなっているのだろう。台湾経済の低迷?はこんなところにも表れているように思える。

 

途中に飯屋があったので入ってみる。仁愛路から少し外れており、庶民的な店だ。ここで内臓系のスープを飲む。こういうスープ、日本にはないのかな。美味しいのになあ。腹ペコだったのであっという間に平らげる。すると腹が膨らみ、またゆっくりと散歩することになる。

 

東門外市場という昔からありそうな市場へ迷い込む。何となく懐かしい雰囲気がある。屋根のある屋内から外へ出ても市場は続いていた。狭い道の両側に露店が並び、盛んにお客に声を掛けている。そこへ突然救急車がサイレンを鳴らして入って来た。道の真ん中に野菜や果物を並べていたおばさんたちは急いで片づけをして道を開け、救急車は何とか通り抜けていく。特になんだということはないが、さり気ないこういう光景には癒される。

 

12月3日(月)
包種茶の謎

先日トミーから『包種茶について、SNSで面白い議論があるよ』と連絡があった。それは1840年の新聞広告に、Pou Chong Teaという名前が出ているというのだ。Pou Chong Teaといえば、中国語名は当然包種茶のはずだが、この時期、一体どこに包種茶はあったのだろうか。

 

その新聞記事を送ってもらうと確かにNYに輸入され、売り出される茶の中にこの名前がある。中国福建で包種茶を発明したのは、1796年の王義程という歴史も見ているので、当時福建からアメリカに輸出されても不思議ではないが、やはり現実にこのような証拠があると、本当にあったのだな、と妙に納得する。

 

そしてこの新聞記事を持っていたのは、以前紅茶の調査で出向いたこともある、新竹関西の台湾紅茶という会社の子孫で、現在の紅茶館(博物館)を作った羅さんだと聞き、一度会って見たくなる。トミーが連絡してくれ、すぐに会うことができたのは幸いだった。羅さんも当然ながら茶の歴史に詳しく、特に自分の実家の茶業や紅茶の歴史を独自に研究しているという。いわば同好の士だ。

 

例の新聞記事については、実は記事を入手しただけで詳しいことは何も分からないと言い、それでSNS上で歴史好きが議論していたのだという。実は私もちょっと聞いてみたところ、東京の紅茶専門店のKさんから、『イングリッシュ ブレックファースト』という紅茶はブレンドだが、その中にはPou Chongが含まれている、と教えられていた。しかもこのブレンドが発売されたのは1843年だというから、大体符合する。これは面白くなってきたが、今日はここまで。次はいつ新しい発見があるだろうか。

 

因みに食事をした場所は、どんぶり屋という名前の和食店。海鮮丼が一押しということで食べてみたが、魚も新鮮で美味しかった。このレベルなら、十分に堪能できる。確かに最近どんぶりを売り物にする店が増えているようだが、一種の流行だろうか。また食べに来たい。

 

12月4日(火)
新店へ

明日は日本へ向かう。2018年台北最後の前日。荷造りなども終わり、少し時間が出来た。散歩も飽きたので、バスに出乗ってみようと思う。ちょうど新店行きのバスが来た。新店と言えば、先日1つの廟の名前が出てきていたので行って見る。バスは高架を走りMRT新店駅を越え、橋を渡る。そこで降りて太平宮を目指した。少し登った場所に思ったより大きな、立派な廟があった。参拝する人は誰もいない。3階まで登るとかなりの景色が見える。建物自体は建て替えられているのだろうが、最初の廟は200年ぐらい前に樟州から渡って来た人々が建立したらしい。

 

実はここは、現在調べている王添灯氏の故郷に近い。そして説明文を読んでいくと、この廟の管理を光復後長い間行っていたのが、添灯氏の兄、王水柳氏だと書かれている。王家にゆかりの廟なのだ。この規模からして、茶業で儲けた資金でここの管理をしていたのだろう。家もすぐ近くらしいが、どこにあるのか見つけることは出来ない。周囲を歩いていると、お墓に突き当たった。それもかなり大規模な墓地だった。何とここは空軍墓地。1950-60年代に亡くなった人、そしてその遺族が多く葬られていた。

 

夜は旧知のKさんと食事。いつもと違うところにしようというので、歩いていると、新しい小籠包屋さんが目に入る。きれいな作りだ。中はなぜか回転すし屋のようになっており、何と注文したものが、レールに乗って運ばれてくる。日本のどこかでも見たサービスだったが、それを模倣したのだろうか。相変わらず台湾も色々とやってくれる。翌日は何事もなく東京に戻った。

ある日の台北日記2018その3(14)懐かしの床屋&包種茶コンテスト

11月28日(水)
懐かしの床屋へ

昼まで原稿を集中して書いており、何も食べていなかった。午後1時を過ぎ、さすがに腹ペコとなって、外へ出た。魯肉飯が突然食べたくなることがある。今日がその日だったようだ。更には暖かい大根スープも欲しい。そして付け合わせに?三層肉を頂く。生姜と一緒に食べると絶品だ。こういうものが簡単に食べられることにとても満足している。

 

実は9月に東京で床屋に行って以来、髪の毛を切っていなかった。これまでは埔里で世話になっていた家が美容院だったので、暇な時に下に降りて行って切ってもらう習慣がついていたのだが、台北で髪の毛を切るのは恐らく30年ぶりではないだろうか。どこへ行って切ればよいか全く分からずに迷う。

 

勿論きれいな美容院は沢山あるが、私にはそんな必要はない。駅の近くには日本のQBハウスの看板も見られたが、料金は300元と、埔里の美容院より高い。日本の10分、1000円よりも感覚的にかなり高いので、入るのはためらわれた。因みに東京の家のすぐ近くにはランチサービス、690円という床屋があるので、どうしても高く感じてしまうのだった。

 

実は宿泊先のすぐ近くに屋台街のような場所があり、その裏通りには何軒も床屋がある。これがまた流行りの美容院とは完全に一線を画す、レトロな床屋ばかりで、こちらに入るのもなかなか勇気がいる。ただもう髪が伸び切ってしまったので、一度は体験、ということでそのうちの一軒に突撃してみた。

 

本当にそこにあったのは、私が子供の頃に行った床屋さん、椅子もそうだし、頭を洗う流しもそのままだった。愛想のいいおばさんが一目で『あんた、日本人だね』と言ったのにも驚いた。台南から出てきてこの道40年、昔は日本人駐在員が沢山来たのだという。その頃のことを懐かしそうに話してくれると、私も懐かしくなり、ついつい話が弾む。

 

勿論最近はお客も減ってはいるようだが、台湾のおじさんたちはこの辺へ来て、髪を切るらしい。古いビルの狭いスペースだから、家賃も安いのだという。頭を洗ってもらう時、鼻に水が入らないように、息が詰まらないように呼吸を整えていると、本当に小学生に戻った気分になる。髪を切り、シャンプーで頭を洗い、多少剃ってくれる、これで300元なら、QBハウスに行くよりはずっといい。そして何よりも楽しく会話するのは何とも良い。

 

11月29日(木)
坪林へ

先日台中で張瑞成氏と会った時、コンテストの話が出た。1976年の鹿谷コンテストはとても有名でその後の凍頂烏龍茶の発展に大いに貢献したと聞いているが、実はその1年前に新店で包種茶コンテストがあったことはあまり知られていない。張氏によれば、1975年に鹿谷、新店で同時開催を目論んでいたが、鹿谷は道路工事があり、1年遅れたのだとか。この新店のコンテストがどんなものだったのか、それを知るために、坪林に向かった。

 

午後2時頃行くと伝えていたが、何と新店から坪林に行くいつものバスはちょうどよい時間が無い。そういう時は大坪林から羅東行に乗ればよいと思い出し、MRT大坪林で降り、バス乗り場に向かった。ちょうど1時発のバスがあったのだが、その前後はなく、もし1時過ぎに来ていたら、大変なことになっていた。やはりバスは確実に時刻表を確認した方がよい。

 

バスは空いていた。道も空いていた。30分ちょっとで坪林に着いてしまった。このバス停は川沿いに着く。向こうには博物館が見えるが、改装は終わったのだろうか。随分と転じない夜が変わると聞いているが。歩いていつもの祥泰茶荘に向かう。大体いつも誰かお客がいてお茶を飲んでいる。ちょうど店では昼ご飯の時間だった。

 

コンテストの話を切り出すと、お父さんが『あの時は現場にいたよ』とサラっという。その時のコンテストは初めてだったから出品も多くはなかったらしい。そして『うちもちゃんと受賞しているよ』と言って、見せてもらったのは、農林庁から得た特等賞のプレートだった。優勝記念、とも書かれているから、この年のトップを取った。しかもその後4年連続優勝したらしい。ちょっと感動した。

 

実はこの祥泰茶荘の歴史は古く、一番古いコンテスト受賞プレートは1960年のものだった。この時も優勝記念だから、何ら変わらないのではと思ってしまうが、以前のコンテストは製茶技術コンテストではなかったろうか。1975年以降は、内需促進のため政府が仕掛けたコンテストだから、かなり趣は違ったはずだが。

 

因みに75年の主催者は農林庁だが、78年は坪林農会になっているのは何故だろうか。相変わらず謎は深まるばかりだが、その答えは見いだせず、凍頂烏龍茶が絶頂を迎える中、包種茶はさほどのヒットを飛ばすことが出来なかったようだ。当時は既に清香型が主流だったようだが、台湾人は濃厚な凍頂を好んだということだろうか。