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ある日の台北日記2019その3(9)新書発表会へ

11月3日(日)
新書発表会へ

ブランチに、近所にできたきれいなレストランに初めて行く。チェーン店だからとフラッと入り、何気なくサンドイッチセットを頼んだら、何と飲み物は別料金で、いつも食べているサンドイッチ+紅茶の倍の料金を取られた。正直そこまでの価値は見出せないので、もう行かないと思うが、地価の高い台北ではコストを考えた料金設定で、物価を押し上げている。

 

先日映画のお誘いのあったBさんから、今度はトークショーの案内があった。何気なく見ると、その対談相手は一青妙さんだったので、出掛けてみることにした。妙さんは、元々歯医者さんだというが、現在は作家、女優もこなし、更には交流活動のため、頻繁に日台を往復して活躍している。妹は歌手の一青窈さんであり、お父さんは台湾五大財閥の一つ、基隆の顔家出身という、何かと話題の多い人だ。

 

会場は、ニニ八国家紀念館。実は台北には2つのニニ八紀念館があるが、平和公園内にあるのは台北ニニ八紀念館で、例の王添灯関連の人々のサポートもあって作られている。今日行くのは国家の方だ。ここにも以前一度来ており、1931年に建てられた立派な建物だな、と感心した覚えがある。

 

今日のイベントは、一青妙さんの新刊書発表会だった。これまでも多くの作品を送り出しているが、今回はエッセイ集らしい。その対談相手に日本人のBさんが選ばれるというのも何とも不思議な気がするが。入り口を入り、階段を2階に上がる。時間的に早かったので、まずはニニ八関連の展示で、確認したいところを見て回ることにした。

 

それが終わって1階に戻り、受付をしていると、横を妙さんが通りかかったので、思わず声を掛けた。実は初対面だったが、既にFBでお友達になっており、埔里時代に東邦紅茶の件で、お尋ねしていたりしたので、何だか初めてという気はしない。彼女もそのことを覚えてくれており、『おばあさまは元気でしょうか?』などと、気さくに話をしてくれた。

 

おばあさまとは東邦紅茶の創業者、郭氏の奥様で101歳。実は妙さんのお婆様はこの郭さんの妹さんだから、相当にご縁は深い。おばあさまは一時入院していたが、今は元気に埔里で暮らしている。更にはBさんの所に行きましょう、と言って、控室に案内してくれた。妙さん、Bさんと3人、何となく繋がりがあり、面白い。

 

会場の方へ行くと、既に聴衆が集まってきているが、その中には日本人も混ざっていた。旧知Tさんを見つけて横に座る。出版社の社長や紀念館の館長の挨拶があったが、何だか日本人との結婚が話題の林志玲のお父さんもいたようで、『結婚おめでとう』などと言っている人がいる。式は台南で2週間後らしい。

 

妙さんが中国語で話し始めた。彼女は11歳まで台湾で過ごした経験があり、当然ながら中国語は流ちょうだ。話慣れているという部分と、何となく日本人に分りやすい言葉遣いなのがとても聞きやすい。この辺がハーフの強みであろうか。だがニニ八事件で顔家にも相当な被害があったことなどを話し出すと、思わず涙ぐんでしまい、台湾に、そして一族に対するその思いの強さも見られた。

 

いよいよBさんとの対談が始まった。二人とも控室では普通に日本語を話していたのに、ここでは中国語を使っている。Bさんなどは、一緒に留学した上海や北京の言葉を面白おかしく使い、笑いまで取っている。そして話題は日本から見た台湾。まあそれがエッセイにも散りばめられているから、新書の宣伝的要素もあっただろうが、なるほどと思う内容もかなり含まれており、楽しく聞いた。

 

対談後は記念写真、新書の販売と続いていく。やはり台湾の人々にとって、日本は特別なのかな、と思う。そして常に日本を知りたいと思っており、妙さんのような感性で書かれたものを中国語で読めるというのは貴重なのではないだろうか。妙さんを囲む人の列は絶えず、挨拶もしないままに会場から失礼してしまう。

 

Tさんと地下鉄駅に向かって歩き出す。来た時は違う駅を目指すことになったが、この辺りには歴史的な建物が沢山あるようで、楽しい。そしていつの間にか台北市植物園に迷い込む。こんな都会に、木々が生い茂る。日本時代に作られた植物園で、その当時の建物も残っており、市民が楽しそうに散策している。台北市内でも行ったことがない場所がまだまだたくさんあると知る。

ある日の台北日記2019その3(8)新竹関西、そして総統府へ

11月1日(金)
新竹関西へ

昨日に続いて遠出した。今日は羅さんの車で、彼の故郷、新竹関西へ行く。午前10時に羅さんの家の近くまで待ち合わせ、出発。途中で早めの昼ご飯を頂く。やはり客家料理だ。内臓系がたっぷりで本当にうまい。当然ながら客家の羅さんとは、『客家とは』という命題で話し続ける。

 

関西の羅家は、茶業で財を成した一族。そして新竹には義民廟という客家の廟があり、毎年祭りが開かれるという。新竹各地15の代表が持ち回りで幹事を務めるが、関西の代表は羅家であり、羅さんのお父さんが10年前に祭りを取り仕切り、その時羅さんも手伝いで参加、この祭りに強い関心を持ったらしい。お父さんは高齢であり、5年後の仕切りは彼の仕事だ、と今から頭にあるという程、重要な行事だった。

 

初めて羅さんの実家に行った。関西の街から少し離れた、何とも言えないいい感じの田舎だった。そこに大きな家があり、お父さんの兄弟がワンフロアーごとに使っているらしい。お墓もすぐ近くにあり、最近改修して、新しくなっていた。客家の先祖に対する意識は他より強いと感じる。そして伝統を重んじる姿勢、行事を守っていく意識は高い。

 

先に横山の許さんを訪ねる。許さんと羅さんは仲良しなので連れて行ってもらう。この大きな工場に来るのは何回目だろうか。大体はいつもお客さんが沢山いて、ゆっくり話を聞く時間などないのだが、今日は三人だけだから、工場の外で風に吹かれながら、和紅茶を頂く。最近許さんは日本との交流を一層進めており、今年2月には台湾人茶業者を大勢連れて静岡に研修に行っている。

 

花茶のことを聞くと、ここの庭にも樹蘭の木があるよ、とそれを指す。意外と背の高い木だった。基本的に花茶を作る意味は、烏龍茶としては物足りない品質の物を売り物にするために施す、ともいう。それは恐らく正しいだろう。特に輸出用においては質よりも量だった時代が長く、安い茶に付加価値を付ける必要はあったと推察できる。

 

 

台湾紅茶へ向かう。今日の目的は羅さんのおじさん(台湾紅茶社長)に会うためだった。以前も2度ほど話を聞いているが、その後体調を崩されたとのことで、その回復をお待ちしていたところ、今回の面談に繋がった。確かに羅社長は以前より痩せていたが、元気そうで何よりだった。

 

今回の質問は紅茶や緑茶ではなく、林馥泉や林復について、その思い出を聞くことだった。広い展示室には沢山の写真が飾られていたが、何気なく見たその一枚に、羅社長と林馥泉氏が一緒に写っていたのには驚いた。しかも日本考察団の写真であり、煎茶製造を模索している頃のものだった。歴史がそこにあった。

 

更には台湾に釜炒り緑茶を持ち込んだ唐季珊の写真も目を引いた。何故この写真を大きく飾っているのかと聞くと『彼が光復後の台湾茶業の貢献者だから』と明快に答えられた。今や殆どの人が知らないこれらの人物が、光復後の台湾茶業を復興させ、支えていったことがよく分かる。

 

客家についてもいくつか質問したが、例えば『客家の伝統文化である擂茶』という表現は正しいか、という質問には、即座に『擂茶は伝統文化ではなく、後から取り入れたもの』ときっぱり。客家に対しては、色々と誤解も多いようだが、現代台湾では政治なども絡んでおり、解明するにはなかなか難しい課題のようだ。

 

11月2日(土)
総統府見学

一度行ってみたいと思っていた総統府の公開日。月に一度土曜日と確認して出掛けてみた。混んでいるのではとの不安から、早朝に行くことにした。午前8時開門、地下鉄に乗り、8時10分前に現地に到着した。既に10人以上が並んではいたが、それほどの混雑もなく、いつでも入れそうな感じだった。

 

8時に開門されると、荷物検査などはあったが、入場料無料。正面に行き、写真を撮り中へ入る。今年100周年とは思えない、きれいな内装。殆どの部屋が開放されているのではないかと思われるほど、執務室やら会議室など、どんどん入って行けるのが面白い。更には2階、3階まで登ることもでき、歴代総統や総統府、台湾の歴史なども勉強することができる。

 

廊下の窓から、あの特徴的な塔の部分を見ることもできる。中庭を歩くこともでき、そこには大きな木が植わっている。この木はいつからあるのだろうか。郵便局があり、土産物ショップまである。1階廊下では農産物の即売まで行われているから、台湾産の食べ物のアピールはここでも行われている。

 

1時間ちょっと見学してもまだ午前中だったので、併せて台北賓館の見学に向かう。ここは元々総督官邸、また迎賓館として昭和天皇(皇太子時代)も滞在したという場所。総統府からは歩いて10分もかからない。こちらも総統府と日時を合わせて一般公開しているので、中に入ることができるが、荷物検査などはなく、人も少ない。

 

建物はやはり100年ほどの古さがあるが、展示物は総統府に比べると少なく、見るべきものはあまりない。気にかかったのは、ここが出来るまでの官邸などの変遷が写真で展示されていたことだろうか。裏には思ったより大きな庭があり、ちょっと日本的なところも見られた。建物からして、住居としての使い勝手は良くなく、総督は別邸に住んでいたらしい。昔偶に行った蛋餅屋で朝ごはんを食べて帰る。

ある日の台北日記2019その3(7)三峡の花茶

10月30日(水)
カレー屋へ

今日はいつも会うSさんとカレー屋に行くことになった。私は全く知らなかったが、比較的宿泊先に近く、歩いていくことが出来る場所に人気のカレー店がオープンしていた。12時開店で予約はできないとのことで、少し早めに行ってみたが、既に店の外に行列が出来ており、その中にSさんも混ざっていた。まさかカレー屋がこんなに混んでいるとは思いもよらない。

 

何とか店に入ると、中は至ってシンプルな作りで、カウンター席が8つしかない。だから並ぶわけだ。そして多くの人がテイクアウトしていく。テイクアウトの場合は、料金はちょっと安い。合理的な経営方法だ。我々は豚と鶏のカレールーを半々でオーダーした。味噌汁と漬物が付いてくる。

 

お味は何とも濃厚でかなりうまい。聞けば日本のカレーが好きになり、自分たちで研究して作り出したというのだ。カウンターと店の人との距離が近く、何ともアットホームな雰囲気で面白い。ルーをちょっとだけお替りで乗せてくれるのもよい。セットメニューが230元、というのは、案外安いのかもしれない。また来よう、今度はテイクアウトで。

 

それから近くのカフェに入って話し込む。いつものパターンだ。このカフェの女性店主は日本語が少しできるようだった。コーヒー以外にも烏龍茶や紅茶なども用意されており、ちょっと面白そうだ。最低消費150元とあったが、腹一杯だと告げると、100元のアメリカンで勘弁してくれた。こちらもまた機会があれば来よう。

 

それにしても近所に色々な店があることに気づかされて驚く。一人で簡単に食べるとなると、どうしても決まったいくつかの店しか行かなくなるのが難点だ。やはり偶には人と会って、見識を広げる必要もある。因みに帰りに歩いていると、何とやはり近所に名古屋のコメダ珈琲まで出来ていた。目玉のモーニングもあるようなので、今度朝行ってみることにする。

 

10月31日(木)
三峡へ

何だか小雨が降っている。前回三峡を訪ねた時もそうだったと記憶している。何か行いが悪いのだろうか、それとも三峡は鬼門?取り敢えず地下鉄で新店駅まで向かう。そこで前回同様黄さんの車に乗せてもらい、軽い山越えをして、三峡に入る。本当に車で20分ぐらいの距離にあり、その近さが実感できる。100年以上前、この山道を農民が茶葉を担いで行く風景が何となく見える。

 

前回台湾緑茶の歴史を知るために訪れた場所にまた車を停める。だが今回訪ねたのは隣の家だった。同姓であり、親戚なのだろうが、花茶の歴史を知っているということで、今回は道路に面して店を構えている黄さんと会った。日本統治時代にはこの付近にも日本人が多く来ており、彼らとの交流もあったと語る。

 

光復後、三峡は外省人向けの緑茶、三峡龍井茶を生産していたが、その過程で、夏茶に花をつけたことはあるという。花茶というのは、下級の夏茶に付加価値を付けるために作られた、と考えられる。だが以前は花茶の製造法自体を知らなかったので、緑茶を原料として台北に送るだけだったらしい。1980年代、茶農家が直接茶葉販売をできるようになった際、製法を学んで自分たちでも作ったということだろうか。だがその期間は長くなかった。恐らくは中国などから大量に安価な花茶が流入したからだろう。

 

そして現在、夏茶で作るのは、価格が高い蜜香紅茶や東方美人になっている。そして最近高値で売れる桂花茶も作り出してはいるが、桂花を摘むのに手間がかかり過ぎ、また摘み手の高齢化などもあり、コスト面から言っても、決して安い花茶は出来ないという。この辺りは南港でも聞いた話だ。

 

帰りに裏の黄さんの所に寄ってみたが、寄り合いに出ているというので、会うことは出来なかった。一応『台湾緑茶の歴史』を書いた雑誌を奥さんに手渡して去る。日本語だから読めないだろうが、写真が掲載されているので、何となく分かるだろう。三峡には緑茶はあるが、花茶の歴史はあまりないことを確認して、車で新店駅に戻った。

ある日の台北日記2019その3(6)花茶の歴史を追って

10月26日(土)
ステーキから試飲へ

週末は外へ出ないで部屋でお勉強、それが一応の決まり事だった。わざわざ人が多い時に出ていくのは、折角平日に時間がたっぷりある人にとってはあまり意味がないと考えている。アドバンテージを生かせない、ということだろうか。今日も朝から昨日聞いた花茶の歴史を追っていた。

 

夕方どうしても腹が減る。いつも行く魯肉飯屋を目指したが、少し先に安いステーキ屋が出来ているのに気が付き、覗いてみると席があった。思わず中に入る。ステーキセット150元と宣伝していたのに、中のメニューは200元。これは騙されたのだろうか。既に席に着いてしまったので、取り敢えず頼んでみた。

 

スープとサラダはビュッフェ形式でいくらとっても良い。店内は出来たばかりできれいだった。家族連れが続々と入ってきたが、隣のおじさんは一人黙々とスープをお替りしている。出てきたステーキは、うーん、まあ食べられるか、というもの。肉は柔らかくもなく、味がよいとも言えないが、何となく昔の屋台ステーキを思い出す。会計すると150元だった。急にコスパは悪くない、と思えてしまう自分を笑う。

 

部屋に帰ると葉さんがやってきた。実は今回お世話になっていながら、殆ど会うことがなかった。彼らは色々なイベントに出店しており、非常に忙しそうに見えたので、敢えて声を掛けなかった。もう一つの大きな理由は、葉さんのお父さんが亡くなってすぐだったこともある。お父さんには何度か茶の歴史の話を聞いており、先日交流協会に書いた『東台湾茶の歴史』の雑誌を渡すと『お父さん、これ見られなかったね』と寂しそうだった。

 

折角だからと、久しぶりにお茶を飲みながら話をした。上の階に住む葉さんの同級生も参加して、賑やかに話す。私は北京でもらってきた花茶などを渡してみる。花茶の歴史、今や台湾では花畑自体が減っているらしい。彰化の花壇も一時の勢いはなく、数軒の花農家があるだけという。

 

10月28日(月)
製茶公会から台湾大学へ

また黄顧問に連絡してしまった。困った時は製茶公会へ行く。これが私の原則になってしまっていた。公会に行くまで時間が少しあったので、付近を散歩した。有記銘茶の横を通ると、その先に福興宮という廟があり、その寄付者の名前を何気なく見ていると、林華泰の林家の先祖の名前が見られた。この辺の歴史も知りたいな、と思う。

 

花茶全体の歴史を把握するには黄顧問に聞くのがよい、と思われたのでやってきたが、今回顧問以上には話をしてくれたのは、総幹事の范さんだった。彼は実際に花茶に関わっていたようで、流れるように整理されたその歴史を話してくれた。基本的には光復前の包種花茶、光復後の外省人向け花茶(緑茶の製造も)、そして現在の化学香料入り花茶の3段階だろうという。

 

花は基本的に茉莉花であり、それ以外に樹蘭、桂花などが加わる。中国の改革開放が始まるまでは、台湾での花茶製造は盛んだった。だが今や台湾での製造コストは高く、輸入花茶もどんどん増えている(現在中国からの花茶の輸入は禁止項目)。政府は危機感を深めているようだが、花畑の減少は著しく、止めようはないという。

 

お昼に近くの鍋屋さんに連れて行ってもらった。一人一人の前に鍋があるタイプ。お店は満員盛況。和牛肉を扱っているが、オーナーは30年以上も店をやっており、『これはオーストラリアの和牛だよ』と教えてくれる。柔らかくて美味しいオーストラリア和牛、もう日本の和牛は要らないな、との声が聞こえてきたようにも思う。ご馳走様でした。

 

そのままU-bikeに乗り、台湾大学まで行く。バスに乗って地下鉄駅まで行くより、こちらの方が遥かに早い。そして快適で安い。ここでもいつものようにたくさんの資料を見つけて、読み込んだり、コピーを取ったりして過ごす。特に花茶に関する日本時代の資料があったのは、有り難い。日本人も相当花茶の研究をしている。午前中の話に加えて、日本時代の緑茶製造に関して更に詰める必要がある。

 

夜、近所の刀削麺屋が復活しているのを発見した。ここの麺が好きだったが、今回戻ってから一度も店は開かれていなかった。ここは家族でやっており、親子喧嘩が原因ではないかと危惧していたが、何とか仲直りして?復活した模様だ。早速牛肉湯肉糸麺を頼み、スープをすする。1か月も店をやっていなかったせいか、スープのコクがあまり感じられなかったが、今後徐々に回復していくだろう。期待しよう。

ある日の台北日記2019その3(5)全祥茶荘へ

《ある日の台北日記2019その3》  2019年10月24日-11月21日

10月24日(木)
台北へ

3時間ちょっと飛行機に乗ると、北京から台北に戻ってきた。朝早いフライトなので、基本的には目をつぶっていれば着いてしまう。フラフラと空港内を歩いて行くと、入国審査より前に検査台がある。先日東京から来た時は、飛行機を降りる時に『検査不要』のカードをもらい、それを提示して、検査なしで通過したが、今回は中国大陸からなので、機械に荷物を通した。

 

すると、私の荷物に何か反応した。日本人だと分かると、日本語を話す若い女性職員が対応する。バッグの中に果物が2つ入っており、廃棄されてしまう。肉類がダメとは聞いていたが、果物もダメとは知らなかった。ただその時に職員の日本語と対応がとてもお茶目で感心した。

 

宿泊先に戻ると、いつもの果物売りのおばさんが挨拶してくれた。さっき空港でバナナを没収されたことを思い出し、すぐに台湾産バナナを買った。バナナに関しては台湾の方が中国よりはうまい、のは当たり前か。今後の中台関係はどうなっていくのか、そんなことを考えながら、バナナを頬張る。

 

10月25日(金)
全祥茶荘へ

北京から戻り、日常の歴史調査を再開する。今回の目的は台湾花茶の歴史であるが、果たしてどこから手を付けたらよいだろうか。先日訪ねた坪林の馮君が、『全祥茶荘に行けばきっと何か分かるよ』といい、そこの3代目を紹介してくれた。折角なのでネット検索して全祥茶荘本店に行ってみる。

 

そこはニニ八公園から歩いてすぐ、近くの角には日本時代、辻利茶舗が店を構えていた(現在はスタバ)いい場所である。以前フラフラしている時に、このお店を見つけて興味を持っていたが、古めかしいその作りに慄いて、入ることはなかった。今日は紹介があるので、堂々と入っていく。

 

ところが3代目はもう一つの忠孝店に方にいるとのことで、あえなく店を出ることになった。西門町から地下鉄に乗って、忠孝復興駅で降りる。SOGOの目の前に店があった。既に連絡が本店からあったようで、林さんが出迎えてくれ、早々花茶の歴史の話に入る。勿論数種類の花茶が用意され、試飲もしてみる。全祥は光復後、台北で開業した。そして外省人を相手に茶を売る店となった。今でもお客は外省人が多いと聞くと、ちょっと不思議な感じがするが。

 

そして一番驚いたこと、それは全祥の創業者はあの林華泰と兄弟だというのだ。石碇から出てきた林家のメンバーがそれぞれ店を構えたらしい。顧客を分けるため、林華泰は台湾人向け、全祥は外省人相手に商売した。なぜ全祥が外省人を対象にしたのか、それは光復前、日本時代、全祥の創業者(今の林さんの祖父)は何と天津で茶葉を売っていたのだという。だから中国人の好みなどが分かっていたのだろう。そして言葉も通じたに違いない。これはまさに歴史だ。

 

肝心の花茶については、毛峰香片などの商品が並んでおり、中国から来た人々に受けが良い名前を付けたという。品質により5層ぐらいの料金体験になっている。今は、茉莉花、桂花などが多く使われている。花は彰化の花壇などから、緑茶は三峡などから来るらしい。その昔は台北郊外に花畑が沢山あり、ここの創業者の奥さんも、蘆州の花農家から嫁いできたというから、その結びつきも想像できる。

 

林さんには初めて会ったが、実に気さくに何でも話してくれ、また飲ませてくれた。更には昼ご飯まで取り寄せてくれ、お店で作ったお粥と一緒に食べた。これも馮君の紹介のお陰だろう。馮君の世代は、茶の歴史に関心がある人も多く、単なる商売ではなく、とても頼もしい。今度は本店に行き、お父さんに話を聞こうと思う。

 

SOGOは30年前、よく来た場所だったが、最近は寄ったことはない。今や台北にはどれだけの百貨店があるのだろうか。その裏の方に、昔偶に行った和昌という茶荘があったのを思い出す。7-8年前に行った時は、既にお父さんが亡くなり、息子さんの時代になっていて、たくさんの日本人観光客がお茶を買いに来ていた。折角なので最近の様子を見ようかと思い、店の前まで行ったが、なぜか入らずに帰る。

 

少し休んでいたら、無性にとんかつが食べたくなる。そこで百貨店地下のとんかつ屋へ行き、食べる。午後5時代なのにお客が多くビックリ。ある意味で日本のサボテンや和幸で食べるよりは、コスパがよいかもしれないな。それにしても、台湾人女子が一人で来て、とんかつとご飯お替り、そしてもう一品ペロッと食べている姿はすごい。

 

帰りに気になっている本を探しに本屋へ。検索してもらうと残念ながら売切れ。どこかにないか、と聞いてみると、別の本屋ならあるだろうと言い、場所を教えてくれた。そこはバスで30分ぐらい離れた場所だったが、流れで行ってみる。だがそこで『うちも売切れだよ。他の本屋がうちの在庫が分かるわけがない』と言われて思わず納得。しかしなぜ別の本屋を紹介したのだろうか。因みにこの本屋では出版元まで電話で確認してくれたが、無い、の一言であった。後日国家図書館でこの本を見つけて読んでみたが、必要な個所はごく一部で買うほどのことはなかったと分かる。

ある日の台北日記2019その3(4)台湾映画を見る

10月19日(土)
台湾映画を見る

数日前に、盟友のBさんからメッセージが来た。『出演した映画をロータリークラブ社長が映画館を借り切って上演してくれる』というのだ。まさにBさんの人徳であり、Bさんの応援のために人が集まるのだという。『江湖無難事』、主役ではないが、今日のスクリーンでは間違いなく彼が主役だ。

 

ちょうど1週間前の連休中に、彼といつものように食事をした。場所は前回同様、ミャンマー人が経営する和食屋だった。ここのミャンマー人の足跡については、今回も聞くことは出来なかった。いつか聞いてみたい、なぜ東京へ行き、そして台北にやってきたのかと。彼とは異業ながら共通するところが多くて、話がしやすい。今後のお互いの方向性なども、軽い感じで話し合う。二人とも随分歳を取った。そしてフラフラしながらも、何だかかんだでご飯が食べられ、今日を生きている幸せがここにある。

 

実はほとんど映画を見ない私だが、こういうご縁の上でのお誘いであれば、偶には台湾の映画館に行ってみるのも悪くないと思い、出掛けてみることにした。その映画館は西門町にあるという。地下鉄駅から歩き出すと、土曜日の午後で若者を中心に人が多くて歩きにくい。10分ほど行くと、そこには映画館街が出現する。基本的に映画を見ない私にとっては、映画館が競うように並んでいる風景は、何とも新鮮な場所だ。古いビルも建っており、その処理に困っている様子も見て取れる。

 

ロータリークラブ主催のため、入り口付近で受付をしてチケットをもらう。先日ロータリークラブで数年ぶりに再会した林さんが仕切ってくれたので助かる。私以外の日本人は、俳優を目指す若者の男性と、雑誌の編集者で映画好きの女性だった。残りは皆台湾人で、Bさんの大応援団とその友人たち、といった雰囲気が漂う。

 

俳優志望の日本人は、北京で留学し、台湾でのチャンスを求めてきていた。息子が留学した学校にもそういう若者がいて、そのうちの数人をその後テレビドラマなどでみていたが、その世界は思うよりずっと厳しいようだ。編集者さんも上海から台北に移って来た人で、異常に台湾・中国・香港映画に詳しいオタク系。

 

館内は100席以上あったが、ほぼ満員の盛況。無料だからと言って、ここまで人が集まるとも思えず、本日のスポンサー及びBさんの人柄が思われる。映画はブラックコメディーと書かれており、内容的には、コメディー要素が強い構成になっていた。舞台は台湾と日本?Bさんは日本人やくざの親分役で結構出演時間が多かったが、最後は呆気なく??

 

普段映画をあまり見ない私にとって意外だったのは、この台湾映画、全編基本的に台湾語が使われており、字幕スーパーはあるものの、台湾人観客が笑っているところで、字幕を追い切れずに笑えない自分がいた。いや字幕で見ても国語では笑いのツボが分からない可能性もある。

 

やはり台湾語は台湾において重要だと痛感するものの、今から勉強するのは難しい。大学時代は授業に3回行っただけで投げてしまった(先日恥ずかしながらその恩師のお嬢さんと出会ったことは既に書いた)。30年前の台北駐在時にも、個人的な家庭教師をお願いしたが、残念ながら一向に上達せずに、いつの間にか、勉強しなくなっていた。どこが難しいのかはよく分からないが、なぜか生理的に?覚えられないのだ。

 

 

映画が終わって、周囲を少し歩いてみた。私が初めて台湾に来た35年前、確か最初の宿は西門町だったと思う。その頃も相当賑やかな場所だったが、その面影は徐々に見られなくなってきている。その時は若かった私も随分と歳をとり、昔を回顧する日々になっている。

 

映画がテーマの公園があり、古い建物の壁にはきれいなペインティングが施されていた。そして若者たちがスケートボードなどを楽しんでいる。日本のアニメ、ワンピースの専門店もあり、また様々なアニメ関連グッズの店があり、そこには若者が列をなしていた。このアニメに向けられるエネルギーが日本向けに良い方向を保ってくれることを期待したい。映画もそうだが、文化というのは、国境を越えていくので、今後更に有効な交流手段となるだろう。

ある日の台北日記2019その3(3)台湾世界遺産登録応援会と南投茶博

10月15日(火)
台湾世界遺産登録応援会

ご縁というのは繋がるものだ。13日に辛さんのお店に行った際、『明後日ロータリークラブの会合に、台湾世界遺産登録応援会のメンバーが10名程度参加されるので来ませんか?』とのお誘いを受けた。台湾世界遺産登録応援会は以前、『日本から台湾の世界遺産候補地を応援する会』という名前で聞いたことがあった。現在会の代表は、あの平野久美子さんだという。平野さんとは前から一度お会いしたと思っていたので、辛さんのお誘いに乗ってみることにしたのだ。

 

旭ロータリークラブでは、今年1月末に一度『台湾茶と日本』について、お話をしたことがあったので、馴染みがあったことも幸いした。会場はかなりの人々が集っており、盛況だった。台湾には世界遺産に成り得る観光地がいくつもあるが、それが登録されることはなく、現在に至っている。我々もそのような目線で観光地を見てみると、ちょっと面白いかも、と今回の話を聞いて思う。そこに茶関連は入ってくるのだろうか。

 

応援会のメンバーとして台湾南部を回って来られた平野さんとも初めて顔を合わせた。既にFBでお友達ではあったので、私の活動も多少見て頂いていたようで、初対面とは思われないお話なども出て嬉しかった。平野さんは20年近く前から台湾茶に関する著書もあり、現在は更に広がって台湾全体の歴史を丹念に調べて書いている。今回は1874年に起きた牡丹社事件について執筆され、ゆかりの地を巡ったという。

 

会のメンバーには、烏山頭ダムを造った八田与一氏(台湾では教科書にも載っている有名人)のお孫さんもおり、お話しする機会を得た。また数日前に茶業者から名前が出ていた徳光さん(前台湾加賀屋支配人)とも面識を得た。一度にこれだけのメンバーと会えたのはラッキーだったと言えよう。更にはロータリーメンバーの台湾人からも貴重な情報を得るなど、時にはこのような場に出る必要もあるな、と感じた。

 

10月17日(木)
南投茶博へ

今日は朝早起きして、高鐵に乗る。目的地は台中だ。午前9時前に高鐵台中駅で降りると、いつもの場所にトミーの車があった。彼も親族にけが人が出て、色々と大変であるらしいが、平日の日中だけなら時間があるというので、今回は中興新村で開催されている南投茶博を見学することにした。

 

40分ほど走ると中興新村に着く。ここはその昔台湾省議会が開かれていた街であり、20年前の議会停止以降は、どんどん寂れていく。今では古めかしい住宅が多く残っているが、住んでいる人は少ない。この古い家を改造してカフェでも始めれば人気が出るかもしれない、との話もあったが、役人の住宅だけにその権利関係と使用制限が邪魔をしているらしい。

 

駐車場所を探すのに苦労した。この南投茶博は何と11日間連続開催で、今日は後半に入った平日。まさかこんなにお客さんが来ているとは正直信じられなかった。だがそれは現実であり、車は相当遠くに停め、会場までかなりの距離を歩いていく。台北の茶博でも4日間なのに、なぜ11日間もあるのだろうか。そしてなぜこんなにお客が来るのだろうか。

 

会場に入ると驚いてしまった。茶荘のブースだけで200以上あるという。主催団体の鹿谷農会の林さんと出会ったが、忙しそうに動き回っていた。茶荘もテーマ別に分かれていくつもの会場に分散していた。そこを一つ一つ覗いて行くと、魚池や鹿谷の旧知の人々に出会い、旧交を温める。

 

国際茶席館などもあり、ペルシャやインド、そして日本の茶席もあった。日本茶席にはIさんがいたようだったが、挨拶せずに通り過ぎてしまった。日月潭紅茶専門の会場もあり、南投茶の特徴がよく出ていた。芝生の広場では千人茶会なども行われたようで、様々な茶イベントが続くのもすごい。

 

聞くところによると、連日お客が多く、茶葉の売れ行きも好調という店が多かった。特に入場料を取らない、というのが、来客数の増加、茶葉の購入に繋がっているという。また南投県の茶農家の出店が多く、宿泊など余計なコストがかからず、収支がよいとの話もあった。このあたりが、11日間も連続で茶博が開かれている主因だろうか。やはり儲けがなければ続かないはずだ。日本でこの規模の茶博が開ける可能性は殆どないだろう。さすが台湾の茶業界にはまだまだ力がある。

 

トミーの車で高鐵台中駅まで送ってもらう。まだちょっと早いので、台中駅まで行き、自強号で台北に帰ることにした。これだと2時間以上かかるが、料金は高鐵の半額で行けるのがよい。更には台鉄が好き、というのもある。台北駅に着くと、すぐに誠品書店に行き、『南投茶業誌』を探すが、中山店にあるというので、そこまで歩いて行き、確保した。これから少しずつ南投の歴史を学んでいこう。

ある日の台北日記2019その3(2)坪林と天母で

10月11日(金)
連休に坪林へ

実は私は極めて間の悪い時に台湾に来てしまっていた。双十節の祝日の認識はあったが、実質的に木曜日から日曜日まで休みだとは思っていなかったのだ。だから台湾の知り合いに声を掛けてもここ数日は忙しい、と言われ、色よい返事はなかった。一昨日会ったTさんも連休を持て余しているというので、今日は一緒に坪林に行ってみることにした。

 

昼の12時のバスに乗るため、新店駅で待ち合わせた。だがTさんは地下鉄に乗る人ではなく交通カードすら所持したことがないという。そしてタクシーで坪林へ行こうと、運転手に声を掛けたが、ひと声『1000元で行く奴いるかな?』と言われて、バスの方に向かうことになる。バスなら一人30元なのだから。

 

連休中ながら、昼のバスは満員にはならず、無事乗車できた。朝ならハイキングに行く年配者などが多いのだが、むしろ連休で家族と過ごしているのかもしれない。連休なので、道が混んでいるのかと思ったが、途中の宜蘭方面の高速以外はそれほどでもなく、1時間かからずに坪林に着く。

 

初めてのTさんを案内して、老街を歩く。連休とは思えぬ人の少なさ。坪林はやはり観光地ではなく、むしろ隠れ家的でよいともいえる。それから改装されてから初めて茶葉博物館へ入る。展示が充実したとの話もあり、期待して行ったのだが、予想と違って一般人向けの基礎的な展示が多くなりがっかり。包種茶の里なのに、その歴史はカットされており、代わりに一般的な世界の茶の歴史の展示がなされており、学ぶ者にとっては誠に物足りない。80元の入場料がむなしい。

 

いつもの祥泰茶荘に行くと、お父さんがお茶を淹れてくれた。長男の馮君は台北から戻ってくる途中らしく、バスに乗っているという。やはり連休なので車は確実に渋滞する。バスは早いということは我々も体験済みだった。ここで台湾花茶の歴史について基礎知識を得る。私の理解では初期の花茶は包種茶に花を燻製したものだったように思う。

 

Tさんと通りをフラフラした。今や坪林に来ても祥泰茶荘にしか行かなくなっており、街歩きなど久しぶりだ。茶荘の数はそれほど変わっていないように見えるが、茶荘の傍ら、レストランや土産物屋などを開いている店が多くなっているのが気になる。やはりお茶だけで食べていくには限界があるのだろうか。しかし連休なのに観光客の姿はまばらだ。最近できたという旅遊センター、新しくてきれいだが、どれだけ活用されているのだろう。

 

Tさんはバスで台北に帰って行き、私は祥泰茶荘に戻る。馮君が台北から戻って来て、ここから本格的なお茶の歴史談義が始まる。花茶については『台北の全祥茶荘に行けば分かるよ』と言われ、紹介してもらった。とにかく何も分からない時には、ひたすら人と話をすることだ。そうすれば自ずと道は開かれる。他のお客が来たのを潮に、バスで台北に戻った。

 

10月13日(日)
天母へ

連休最終日、実に久しぶりに天母に行く。実は多くの知り合いから『一度辛さんの新しい店を訪ねるとよい』とアドバイスされていたので、行ってみることにしたのだ。そこは宿泊先からバス一本でかなり近くまで行けるので、意外と便利な場所にあった。朝早めに出て、バス停近くで朝ごはんを食べる。さすが住宅街、朝ご飯を食べるところは沢山ある。

 

辛さんのお店、東京彩健茶荘は、住宅街にひっそりとした、実にデザイン性があるお店だった。茶荘や茶館という表現よりはサロンというのがふさわしいだろうか。ちょうどお店にはこのデザインをした台中在住日本人も家族で来ており、賑やかだった。子供たちにも心地よい空間なのだろう。

 

辛さんとは初対面ながら、色々と話が弾んだ。台南人だが日本生まれで、ずっと日本で暮らし、最近台北に移住してきたと言う経歴も面白い。お母様は有名な料理研究家。知り合いのTさんが初代を務めたロータリークラブの会長も引き受けている。非常に多彩で広い交友関係を持っている人だった。このお店も、良質な高山茶などを扱っているが、お茶の専門というより、サロンとして使われるのが好ましいと考えているようで、今後人が集う場所になっていくだろう。

 

お店に入ってきた女性を紹介された。何と大学時代、台湾語の授業を3回だけ受けた時の先生、王育徳氏(日本に亡命した台湾民主化運動家)のお嬢さんだと聞いて驚いた。先方も『父の学生さんですか』と言い、ご存命のお母さまに見せると言って、一緒に写真に収まってしまったが、とても王先生の学生と呼ばれる資格がないのが恥ずかしい。それでもこんな出会いがサラッと実現してしまう、まさにサロンだろう。

 

 

一度帰り、夕方また出掛ける。Tさんに広東料理をご馳走になる。さすが連休最後の日、お客で満員だった。最近は香港あたりか移住してくるシェフも増えたのか、台湾における広東料理の質が進化しているように感じられる。それは果たして香港にとって良いことなのかどうかは分からないが、食べる方としては有難い話だ。

ある日の台北日記2019その3(1)台北に戻って

《ある日の台北日記2019その3》  2019年10月8日-11月21日

今年3回目の台湾滞在。今回は花茶の歴史を調べてみたいと思っているが、どうなるだろうか。また懐かしい人々、会いたかった人々とも会うことが出来て、有意義ではあった。来年の方向性も考える時期に来ていた。

 

10月8日(火)
台北へ

今年何度台北に降り立ったことだろうか。台湾茶の歴史を本格的に訪ねて3年、初歩的な調べはある程度終わったかもしれない。ただ学べば学ぶほど疑問は出てくるし、資料は出て来ないし。益々『謎は深まるばかり』という決め台詞もすでに使い古してしまっている。さてどうするか。

 

桃園空港からいつものバスに乗りながら、そんなことを考える。今回は6月に台北を離れる際に鍵を持ったまま出てきたので、すぐにいつもの部屋に入ることができ、なんともスムーズな台北入りとなった。だがどうしても食べたいと思っていたいつも行く牛肉麺の店がまさかの休業中。なかなか世の中上手くは運ばない。台北も夜はちょっと涼しいので、鴨麺を食べて満足する。

 

10月9日(水)
旧知の人々と

今日は旧知のTさんと会うことになった。いつもは夜、彼の家の近くで食事をするのだが、今回はなぜか彼のオフィスのあるビルで待ち合わせ、昼ご飯を食べることになった。いつもと違うパターンは大歓迎だ。そして待ち合わせ場所にはいつも本屋に行く時に乗るバスで行けるので楽だった。

 

早く着いてしまったので本屋に立ち寄ろうとしたところで、メッセージが来たので急いで移動したが、よく見てみると『着いたら連絡してくれ』とのことで、何と30分も早く待ち合わせてしまった。そしてビルの地下の韓国料理屋で、なぜかビビンバを食べた。台湾で韓国料理、最近は流行りのようだが、30年前を思い返すと、焼き肉屋も殆どなかった。韓国に対する台湾人の感情変化と言ってよいのだろうか。世代は確実に変わっている。

 

その後、コーヒーを飲むところもないというので、かき氷などのスイーツを食べる店に移動した。Tさんはかき氷を食べていたが、私はさすがに冷たい物を食べる雰囲気ではなかったので、メニューに唯一あった汁粉のような物を食べた。この汁粉1つが、私が食べる牛肉麺より高い、というのが、今のおしゃれな台北だろうか。

 

帰りに本屋に立ち寄ると、やはり何かしら買いたくなるものだ。1冊持ってレジに行くと、いつものように会員カードはあるかと聞かれたので、『ないけど作りたい。外国人も作れるのか』と聞いてみた。すると店員は『日本パスポートは何年かで番号が変わるでしょう。番号が変わらない身分証はないのか』と聞いてくるので、驚いた。

 

そこまで日本の事情に詳しいなら、日本人には身分証がないことも知っているだろう、というと、黙ってカードを作ってくれた。あれは何だったのだろうか。そして海外では面倒が多いので、日本も統一身分証を早く作って欲しい。パスポート番号を変更しないというのでもよい。

 

一度部屋に戻り、勉強を始めた所で、Rさんから『今晩空いている?』との連絡をもらう。彼とは茶の歴史について色々と話したいこともあったので、指定されたレストランに向かった。何とそこは、昨日空港から乗ったバスの中から見たレストランで懐かしいな、と思ったところだったので驚いた。

 

モンゴル焼肉、行ったことはあったが、その内容は全く覚えていなかった。席に着くと、テーブルでは鍋が暖められ、既にRさんの息子が何か食べていたので、私もそれを取りに行った。生の野菜と肉を取って戻ってくれると、『それは向こうで焼いてもらうの』というではないか。よく見ると一番端に大きな石焼用の機材があり、コックが二人で焼いていた。調味料をどの程度入れるかが、美味しく食べられるかどうかのポイントらしい。

 

それから鍋に羊肉など入れて食べた。焼餅も出てくる。ここは基本的に食べ放題らしいが、代金を支払ってもらったので、その仕組みはよく分からなかった。それから地下鉄でRさんの家に移動して、お茶を飲みながら雑談した。そこではお茶の話から客家のことまで、様々な話題が飛び交い、気が付くと日付が変わりそうな時間になっている。そこからトボトボ部屋まで歩いて帰る時、何となく充実感を味わえるのが嬉しい。

ある日の台北日記2019その2(18)台北国際食品展へ

6月21日(金)
食品展へ

19日の夕方、厦門から戻る。もう明後日には今年前半の台北滞在を終了して、東京へ一旦引き上げる予定となっていた。さすがにこの3か月でため込んだ資料の整理、持ち帰るものの仕分けなど、予想以上に細かい作業が続き、丸1日を費やしても終わらない。何しろ、ここから3か月は台湾に戻らないため、書かなければならない原稿用の資料は確実に持ち帰り、または今日書いてしまわなければならない。

 

しかし資料1つ1つに目を通すと、色々と思い出が頭をよぎり、ついつい読みふけってしまったりして、なかなか進むものではない。それほどに思い入れがある物、ということだろうか。そしてまだ足りていないところも浮き彫りになってくるので、片付けているのか、調べているのか、分からない状態になってしまう。

 

そして何より疲れが溜まっていた。さすがに安渓での濃い滞在を通して、体が消耗していた。自分のペースでできる旅だとそこまで消耗しないが、団体行動に振り回されるとあとが厳しい。特に食事をとり過ぎることが、どれだけ体力を落とし、疲れを増幅させるかは、今後の参考にしなければならない。

 

行けなければならないところもあったのだが、全て取り止めて宿泊先で荷物整理と格闘していた。前日の夜にはきちんとゴミ出しも行った。最終日の朝、葉さん夫妻に挨拶して、今後のことなど話していると、今ちょうど101で国際食品展をやっているから、ちょっと一緒に覗いて見ない、と誘われた。101ならそれほど遠くもないし、お茶屋の出店もあるとのことだったので、その話に乗っかっていく。

 

実は台北食品展は南港で行われていたのだが、規模拡大なのか、今年は101と2会場併用で開催されていた。葉さんたちの会社のブースは南港に出しているのだが、参考にするため101会場も見てみようということで出かけた。午前10時から開始なのだが、9時半には到着。既に会場前には出展者が列をなして入場している。

 

準備中のブースを回り始めると後ろから『久しぶり』と言われる。誰かと思って振り向くと4月に行った高雄の茶農家だった。彼は3月には幕張Foodexにも来ていたし、かなり活発に動いている。日本からも京都や静岡など数軒のお茶屋さんが出店していた。抹茶に興味ある葉さんは1軒ずつ回って、品定めを始めた。簡単な通訳をしながら一緒に話を聞いていると為になることも多い。

 

日本企業のブースで台湾人が売込みをしているのは台北開催だから当たり前だろう。勿論日本から来た社員がサポートして、うまく中国語で説明している。だがある一社はインド系社員が来ていた。彼の売り込みは、切り込み方がうまく、如何にもインド商法という感じで面白かった。今や日本でも外国人が普通に働いており、彼らは彼らのやり方で海外市場と対峙しようとしている。こういうアプローチがないと、日本茶はなかなか発展していかないように思う。

 

その後南投県のブースに行くと、日月潭紅茶を紹介していたが、そこの女性2人が突然『あなたのことは見たことがある』と言い出して驚く。聞けば、トミーの講座に参加しており、その中で台湾紅茶の歴史の講義を受けた時、写真に私も写りこんでいたらしい。確かにトミーとは何度も歴史茶旅を繰り返していた。今彼はその成果を講義の中で生かしている。これはとても大事なことだと思う。

 

タピオカミルクティーも大きなブースを構えていた。今や台湾だけではなく、日本でも、アジアでも大人気のドリンクとなったタピオカミルクティー。当然注目が集まっており、内外の多くのバイヤーが試飲をし、商談していた。このブーム、いつまで続くのだろうか。タピオカ、そんなに美味しいのだろうか。

 

宿泊先に帰り、荷物をまとめる。松山空港まではすぐなのでタクシーに乗ろうと思ったが、貧乏癖か、MRTに行ってしまう。大きなケースが2つもあるのに、何をしているんだ、効率を考えるべき。しかも空港でチャックインしようとしたら、1個の荷物の重さは23㎏までです、と言われ、3㎏を段ボール箱に移す羽目になった。合計重量には相当の余裕があるのだが、なぜこんな規則にしているのだろうか。ビジネスクラスは32㎏までOKなのに。(東京に着いてから、ケース2個と中型段ボール1個を持って家に帰るのは大変だった)

 

今回はマイレージでANAを使ったのに、とちょっと思っていたが、実は数日前からエバー航空は従業員のストライキに入っており、私がいつも乗る便も欠航になっていた。何か月も前から予測できるわけなく、何ともラッキーだった。機内では『飛んで埼玉』という映画を見たが、特に笑えなかった。そして私の上半期の台湾は終了した。