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ある日の埔里日記2017その4(3)埔里演習林 イベント会議に参加

9月13日(水)
埔里で和食を食べる

ご近所の日本人Iさんに埔里に戻ったことを伝えると、すぐにランチのお誘いが来た。こういう繋がり、埔里に不慣れな人間にとっては何とも有り難い。Iさんは既に日本の企業を退職し、埔里に定住している。奥さんもこちらの人、埔里は以前ロングステイヤーを誘致していたが、最終的に残っている人たちは、奥さんが台湾人であったり、ここに余程ご縁がある方々になっているらしい。

 

Iさんの車でやって来たのは、何と日本食屋さん、日高鍋物!埔里に日本食堂は何軒かあるが、本格的な店は見たことがなかったが、ここでは日本の味が味わえる。ランチの定食はとんかつや生姜焼き、焼き魚まで揃っていて、デザートまでついて250-300元。なかなか良い。埔里のおばさんたちが何組かランチに来ていたので、地元では評判になっているようだ。夜は店名の通り、鍋やしゃぶしゃぶが提供されている。

 

Sさんも一緒に食べたのだが、彼からイベント企画の話があった。5月に連れて行ってもらった埔里に古い建物が残る北大の演習林。ちょうどここが12月で開設100周年を迎えるということで、何とか皆にその歴史を知ってもらいたいと、イベントを企画しているらしい。Sさんは今、埔里郊外でコーヒー栽培を始めており、演習林でもコーヒー栽培の記録があることから、そこを連動させたいともいう。

 

実は今日来たこの日高鍋物は、すぐ近くにある埔里名所のチョコレート屋、18度Cのオーナーが開いた店であり、先日このオーナーにこの企画を持ち込み、興味を持たれた。その時に連れてきてもらってこの店の存在を知ったという。何とも興味深い企画だが、一体どうなるのだろうか。

 

9月14日(木)
両替で

今日もいい天気なのに、午前中は部屋に籠り、気が付くと11時を過ぎていた。急いで馴染みのサンドイッチ屋でクラブサンドを食べようと出掛けたが、何と『今日は早めに仕舞いにしたよ』と素気無い返事。思わず『えー』と餌をねだる子犬のようにしてみると、『仕方ないね』と言いながら、作ってくれた。優しい。いよいよ常連さんかな。こんな交流が嬉しい。

 

そこから台湾銀行に両替に行く。いつものように100米ドルの新札を出したら、いつものお姐さんに『このお金はどこから持ってきたの?』『どうやって手に入れたの?』と聞かれ絶句!確かにヨレヨレのTシャツ着ていたけど??これまでそんなこと聞かれたことないんだけど。ちょっと焦る。

 

思わず『昔香港で一生懸命働いたんです、信じてください』と言ったら周囲の皆に大笑いされた!!因みに『両替した台湾ドルは何に使うの?』とも聞かれたので『魯肉飯が食べたいんです!』と答えておいたが、信じてもらえただろうか?勿論彼女に他意はなく、登録上、一応聞くことになっているらしいが、急に聞かれてもこちらも困るよな。

 

それから夕方まで部屋でお休みした。気が付くと夕日が少しずつ落ちていく。この部屋は夕日がまぶしいのだが、こんなにきれいに空が染められているとは気が付かなかった。今度は建物の無い場所で写真を撮ろう。

 

9月15日(金)
イベントの企画会議に出る

今日は午前10時から18度Cで先日の演習林イベントに関する会議があるというので、特別に入れてもらった。日本時代の演習林の歴史、そしてコーヒーとの関連、実に面白い。台湾でも最近はコーヒーブーム。台湾コーヒー発祥の地は雲林県古坑だとは聞いているがどうなんだろう。台湾でこのようなイベントをする場合、どんな感じで、どんな人が参画して事が進むのかにも興味があった。

 

Iさんの車で画家の黄先生を迎えに行き、18度Cに行く。ここはチョコレート屋さんだが、アイスクリームなどにも人気があり、いつも観光客で賑わっており、10時過ぎでも既に人がいる。まずは近くのオーナーの家へ行く。茆さんは埔里人、日本を含む世界各地でパティシエとしての腕を磨き、2007年に埔里の店をオープンさせた。生チョコやイタリアのジェラート、日本のバームクーヘンなど、美味しいものを台湾に紹介し、人気を博している。茆さんは気さくな感じ、この企画にも埔里の歴史を広めるために興味を持ったようだ。

 

場所を会議室に移したが、まだ人が集まらないので、生チョコを作る工程を何気なく見学する。カカオの歴史など勉強になる。また黄先生がコーヒー大使だと初めて知る!

 

会議には南投県の観光局や議員さんも参加して、本格的に進む気配があったが、まだ纏まりはなく、取り敢えずイベント開催に向けて進める方向で終わった。私は18度Cのチョコとバームクーヘンを頂き、大満足。日本人Sさんの歴史発掘と、埔里の歴史を知りたい、活用したい人々が融合していくのが面白い。日本統治時代の歴史はまだまだ発掘の余地があり、台湾人もそれを知りたがっているのだ。今後の展開が楽しみになって来た。

ある日の埔里日記2017その4(2)大稲埕で

9月8日(金)
大稲埕へ

今日は埔里に戻ることにしていたが、午前中は大稲埕に行ってみることにした。昨日坪林の博物館で見た包種茶を輸出した時の茶箱、そこに『有記』と書かれていたので、何かわかるかもしれないと思い、有記を訪ねたのだ。確か2年程前、Bさんに連れられて一度行ったことがあったので、その記憶を頼りに歩いて見る。

 

茶葉公園という石碑があるのでその場所はすぐに分かった。ただまだ朝の9時過ぎ。店は開いているかと覗いてみると、開いていた。中に入ったが、焙煎が行われている雰囲気はない。前回はここで先代の奥さんが中を案内してくれたのだが、今日はいないだろうな。何気なく聞いてみると、5代目という若旦那が登場した。まだ31歳だそうだ。

 

早々中を見せてもらう。現在は作業をしていないが、この付近では唯一現役の茶工場だ。焙煎も独特の方法で行う。陰火と言って直接火で焙るのではなく、火をいったん消した残りの熱で焙るらしい。非常にまろやかな仕上がりになるという。この店は100年以上前に創業したというが、台湾の技法なのだろうか。実はこの有記は1947年に3代目がバンコックから移ってきたというから驚いた。実際の許可書もその年号になっている。なぜだろうか。日本統治時代も茶工場は大稲埕にあったというから、ここからバンコックにも輸出していたのだろう。

 

5代目に教えてもらった博物館にも行ってみた。新芳春という老舗の茶行だったが、光復後ほどなくして、茶業は辞めてしまったらしい。最近の旧懐ブームでここを博物館にしたという。一部はご先祖様が残した王家の資産の公開であり、茶業の部分はそれほど多くはない。ただ非常に立派なテースティング台が2階に置かれており、目を惹いた。昔は相当勢いのある茶荘だったのだろう。奥には茶工場も併設されており、往時の名残は感じた。

 

実は大稲埕と言えば、買弁として有名な李春生と包種茶の関係を知りたいと思っていたが、その資料はほとんど見当たらない。ここでも書籍を販売しており、李春生関連もあったが、どれも後期の思想物か日本へ旅した時の日記などで、肝心の茶に関する記述が少ないのは解せない。研究者は必ずいるはずだが、どうなんだろうか。取り敢えず日本旅行記を購入して読んでみることにした。

 

そう思っていると自然と足は大稲埕に向かう。入口の写真を撮っただけですぐ細い道に入り、李春生ゆかりの教会を眺める。迪化街など観光地化が進んだ道とは違い、人は殆どいないのがよい。迪化街は昔薬屋や乾物屋が多かったが、今では土産物屋やカフェなどに代わり、あまり面白くない。

 

建成国民中学と書かれた立派な建物を通り過ぎた。ここは今では中学ではなく、博物館か美術館になっているようだ。この付近の学校はやはり皆由緒正しい、立派なところが多い。この付近が往時の台北の中心だったことがよくわかる。トイレを借りようとしたがなかったので急いで宿へ戻る。

 

歩いて宿まで帰り、荷物を引き出し、バスターミナルへ向かう。国光号に乗れば3時間半後にはきちんと埔里についてしまう。台湾の高速道路は本当に車が少なくてよい。鍵を受け取り3か月ぶりに部屋に入る。さすがにまだ9月初旬で温かい。この部屋は西日がきついので暑く感じる。この部屋でクーラーなしで寝てみたが、正直少し寝苦しい。特に夜の一定時間、風が止まるのが分る。

 

9月11日(月)
鉄観音茶を味わう

土日は基本的の外には出ない。特に人が多いのでバスに乗るなどはしない。少し暑いが部屋に籠って原稿などを書いて過ごす。そして月曜日、また動き出す。昼ご飯を食べた後、珍しく魚池の劉さんのところへ向かう。確か会うのは1年半ぶりになる。魚池までバスに乗り、そこまで迎えに来てもらった。

 

茶工場では茶作りが行われていた。そこで魚池出身で現在台北の雑誌社で働く謝さんと会った。彼は趣味で茶を作っており、時々実家に戻っては劉さんの指導を受けているという。劉さんはなかなか怖い先生のようで、一生懸命茶を作り、汗を流していた。因みに彼の勤める会社は最近新しい雑誌を創刊したばかり。この時代に新しい雑誌って、ちょっと興味が沸く。

 

劉さんは紅茶も作っているが、雲南に行ったりして、その収蔵品が増えていた。プーアル茶、白茶、などを買い求め、自ら餅にしている。よいお茶はすぐに売らず保存する。彼の動きを見ていると、この付近の紅茶の将来性が見えてくるようだ。今回は高山鉄観音茶をじっくり味わう。中国安渓が発祥の鉄観音だが、今や見る影もない。台湾の鉄観音は木柵だけではない。最近時々見かけるが意外とうまい。帰りは劉さんの車で埔里まで送ってもらう。

ある日の埔里日記2017その4(1)坪林 包種茶の歴史調査

《ある日の埔里日記2017その4》

今年4回目の台湾行。もうかなり慣れてきたが、3か月ぶりとなると、ちょっと懐かしい気分になる。今回もまた色々な出会いがあり、様々な情報・知識を習得して有意義だった。日常の中で新たなものに出会い、ワクワクできるのはなんとも好ましい。

 

9月6日(水)
泊まる所がない

今回もエバ航空に乗って、桃園空港に行く。エバ航空、今年はじめぐらいまでは、本当に安いチケットが手に入ったのだが、現在は徐々に値上がりしている。台湾人の日本観光が凄い勢いであり、LCCすらだいぶん高くなっているので、当然のことかもしれない。困ったものだ。

 

いつも着く第2ターミナルではなく、LCCが多い第1ターミナルに到着したとアナウンスがある。そんなことは時々起こるらしい。折角先頭の方を歩いてきたのに、電車に乗ることになる。ホームは狭く人でごった返している。天気はいいようだ。第2ターミナルから出て、新設の地下鉄に乗るかとも思ったが、慣れ親しんだバスの方に進んでしまう。これは仕方がないことかもしれない。

 

台北駅前に着く。今晩はお知り合いのHさんが宿を用意してくれるというので、そちらに向かう。ところがそこへ行ってみると、日本人女性が出てきたが『宿泊の話は聞いていない』と言われてしまう。Hさんに連絡してみても繋がらない。その内この宿のオーナーがやって来た。台湾人女性だ。彼女と話すと『今日はバンコックのKさんが泊っている』と言い、その部屋しか今は使っていないのだという。話が全く分からずに困ってしまう。

 

ようやくHさんたちがやってきたが、結局今晩はKさんと同室で寝ることになった。ここは今後宿屋をやる予定だが、今はただの家だと分かって驚いた。Kさんには何とも申し訳ないし、Hさんには正直違和感を覚えた。それでも皆知り合いなので、3人でご飯を食べに行く。それでも今日のことがなぜ起こったのか判然としない。牛肉麺を食べ、マックでコーヒーを飲みながらKさんと近況について話した。

 

宿に戻るとなぜかHさんも一緒にやってきて、ここに泊まるという。オーナーの台湾人女性もいるし、日本人女性も住んでいる中で、強引にリビングのソファーに寝てしまった。私もかなり疲れていたので、ベッドへ潜り込むと全てを忘れて寝込む。何とも不可解な1日だった。

 

9月7日(木)
坪林へ

翌朝は8時前に目覚めて、荷物を預けたまま、すぐに出掛ける。地下鉄で新店まで行き、そこからバスに乗ろうとしたが、何と時間を間違えてしまい、相当に時間が余る。仕方なく、新店駅付近を散策する。すぐ横には川が流れており、きれいな橋も架かっている。散歩する老人などがおり、実にゆったりした空気が流れていた。

 

朝ご飯も食べていなかったので、サンドイッチセットを注文する。50元で、温かいものが食べられるのだから、安いと言える。ようやくバスが来て乗車。しかしよく見るとこのバス、全体の3分の1は優先席になっている。乗っている人も老人が多い。いっそのこと、全席優先席にした方がよいのではないだろうか。因みにバスは高速道路を走るため、立って乗ることは出来ならしい。運賃30元、乗車時間40分。

 

今日坪林に来たのは他でもない。包種茶の歴史調査だった。まずは馴染みの祥泰茶荘を訪ねる。親しくしている長男は、何とチェコに出張中で不在だったが、歴史のことならお父さんだろう、ということで、相手をしてもらった。沢山の資料を見せてもらい、昔話も聞き、何と紙に包まれた73年前の包種茶まで登場し、調査は上々の成果を上げた。お父さんに感謝!

 

この店には引っ切り無しにお客が入ってくる。家族連れは何と横浜から来た華僑だった。元々ここの出身、横浜でレストランをやっているらしい。里帰りのそのおじさんが『台湾へのみやげはこれが一番だ』と言って煎餅をくれた。確かに台湾人には甘いものより煎餅かもしれない。更にお父さんの知り合いが集まってきたので、昼ご飯に混ぜてもらった。全て台湾語で話しているので内容は分からないが、皆懐かしそうだったので遠くから来たのだろう。

 

午後は坪林博物館へ向かう。ここに行けば包種茶の歴史は簡単に分かるだろうと思ったが、そうではなかった。確かに一通りに展示はあったが、核心は分からない。更には包装の特別展もあり、こちらには色々と参考になるものがあったが、もっと資料が欲しいと欲をかき、ちょうど雨が降ってきたので休憩方々、博物館の人に尋ねる。

 

雨が上がったので坪林の図書館へ向かう。この建物、ちょっと古そうでよい。そこに包種茶関連の本があると聞いたのだが、係員に聞くと『誰かが借りて行ってしまったらしい』と言い、見つけることは出来なかった。また近所の茶荘オーナーも紹介され、訪ねてみた。彼は台湾茶の歴史全般を調べているようで、パワーポイントで説明してくれたが、包種茶の詳細な歴史資料を持っているのかは分からなかった。

 

台北に戻り、荷物を引き取って、定宿に向かう。Kさんとはもっと話したかったが、狭い部屋で一緒に寝るのは申し訳ないので、宿を移った。それから歩いて旧知のS氏のオフォスに向かう。すると突然後輩のSさんからメッセージが入った。元々は彼と会うつもりだったのだが、返事がなかったので、S氏を誘ったのだ。

何とこの二人、同業でオフィスも隣同士という偶然。これは一緒に食事をしようと話し、三人で楽しく夕飯を食べた。あまり意図していなかったのだが、こういう結びつきもあるのだな、と気づく。台湾は狭い、そして面白い。