「台湾」カテゴリーアーカイブ

ある日の埔里日記2017その5(3)樹林で骨董を見る

10月23日(月)
樹林で骨董を見る

今日はトミーの車に乗せてもらうため、朝台中に向かった。高鐵駅でいつもの待ち合わせ。もう慣れてきた。そこからどこへ行くのか。元々は新竹県横山へ行きたいという希望を出していたのだが、残念ながら前回会った陳さんは不在だという。横山に茶畑はあるのか、包種茶は作られていたのか。そんな疑問を解明したかったのだが。

 

トミーの車は新竹付近のサービスエリアで休息はしたが、更に走り始めた。どこへ行くのか。30分ぐらい走ると電車が走っていた。もう台北にかなり近づいている。樹林という駅が見えた。ここは自強号などの始発になっている駅ではないか。そこで車は停まり、地下の駐車場に入った。

 

ちょっと渋い茶荘に入る。そこには許さんが待っていてくれた。ここで20年ぐらい茶荘をやっているらしい。名刺をもらうと中華茶芸促進会の会長さんだった。今や茶荘というより、特別な茶館というイメージ。2階に上がると更に骨董系の品々が並んでいる。一体なぜここに来たのだろうか。

 

話は茶の歴史になる。すると許さんは本を持ち出してきた。それは1923年に当時の総督府がアメリカで烏龍茶のプロモーションを行うために作った英語版だった。その中にはきちんと烏龍茶と包種茶を分けて説明しているのが興味深い。それからいくつもの資料を見せてもらい、大いに勉強する。

 

昼時に奥さんが買ってきてくれたお弁当は、何と吉野家の牛丼だった。これは意外と有り難い。台湾の弁当は大体似たり寄ったりだから、たまに牛丼が食べられるのは嬉しい。食後にすっきりしたいいプーアル茶を頂く。台湾茶芸の歴史についても聞きたいと思ったが、『それは別の機会に』と言われてしまう。

 

そして茶荘を出て裏へ行く。今は使われていないが、昔は百貨店だったという。この辺で初めてエスカレーターが設置されたというから、歴史的建物だ。そこの2階と3階が許さんの倉庫だった。何とも驚くほどの物品を収集している、彼はいわゆる収蔵家だったのだ。そしてそこに置かれている物は実に興味深い日本時代のものが沢山あったが、時間的制約で、今回は茶関連だけを拝見した。すごいものが一杯あった。次回はもっと時間に余裕を持って見せてもらいに来よう。

 

横山郷へ
車は新竹方面へ戻っていく。今日の目的地は横山郷だが、先ほどの許さんも、横山郷には既に茶畑はなく、何も掴めないだろうという話だった。ただそのまま帰るのも癪なので、沙坑茶会の許さんのところへ寄ることになった。許さんとは日本でも台湾でも何度か会っているので、ざっくばらんな話を聞こうと思う。

 

古くて、大きな茶工場の前に立つ。往時はここにトラックが横付けされ、茶葉運び出されたと聞く。中を覗き込むと、何人かの人がいた。よく見ると、何と白老師がいるではないか。彼女とは10年以上前に東京で知り合い、2年ぐらい前に台北で再会していたのだが、まさかここで出会うとは。向こうも驚いている。

 

彼女はお茶を世界中に広めようと活動しているが、何と今回はメキシコの生徒を連れてきていた。その生徒は日本にも2週間滞在し、台湾にも同程度滞在するらしい。メキシコのお茶好き、想像すらしなかったが、彼女らは台湾茶、特に東方美人に興味津々だ。許さんも英語で応対している。世界は広いのだ、と再認識。

 

それから許さんから横山郷の茶について話を聞く。彼は私同年代だが、幼い頃にはあった茶畑が今は全くなくなったという。茶工場だって、とうとうここ以外無くなってしまった。1930年代にここで包種茶が作られていたとしても、それは大稲埕に持っていってブレンドするための原料茶だろうと推測する。

 

『茶の歴史など話しても、みんな寝ちゃうだろう』と許さんははっきりと言う。さすが商売人だ、歴史より、儲かることに皆の興味はある、ともいう。本を出すなら、『歴史の本ではなく、台湾の老舗茶荘、茶工場を紹介する本を出せ』という。そうすれば紹介された店の主人は必ずその本を買い、知り合いに配るのだから、100店舗の紹介をすれば、採算は合うだろうというのだ。面白い。ただこのような本は既に10年前に一度出されているので、まずはこの本を参考にしよう。

 

辺りが暗くなり、許さんのもとを失礼した。トミーは夕飯を食べようと言い、関西の街に入った。そしてあの美味しい客家料理の店を目指す。この店、何を食べてもうまいのだが、客家料理としてはやはり内臓系に興味が集中する。若干の酸っぱさがよくご飯に合う。何とも黙々と食べてしまった。それから台中まで送ってもらい、バスで埔里に帰る。

ある日の埔里日記2017その5(2)古月軒と地理中心

10月20日(金)
古月軒

12月に開催予定の埔里北大演習林100周年イベント、毎週金曜日にミーティングがあり、今日も参加してみた。1か月弱前、このプロジェクトが何となく始動したのを見届けて埔里を離れていたのだが、今回行ってみると、相当に具体化されており、これなら開催OKだろうという気分になる。

 

しっかりした運営責任者がおり、出店希望者も集まってきている。そして何より18度Cのオーナーという強い後ろ盾もある。このイベントを最初に言い出したSさんら、埔里在住日本人もこの機会に『埔里日本人会』を立ち上げ、コーヒーの種飛ばし、という競技?を仕切ることになった。日本では山形でサクランボの種飛ばしなどが流行っているらしいが、台湾でこのようなイベントが行われるのは初めてではないかとのこと。興味津々だが、はてどうなるだろうか。

 

ミーティング後、皆でランチに出掛けた。スタバのある道を少し入った所にあるきれいな2階建て建物。新しくできた古月軒という名前だった。実はこの食堂、埔里では有名な麺屋だそうだが、本店とは別に若い息子が、新しい感覚の店を出したというのだ。入ってみるときれいで広々としたスペースがあり、2階でゆったりと食事ができる。

 

Sさんの奥さんは埔里人で有名な食堂の娘。知り合いも非常に多く、どこに行って声を掛けられるが、ここの設計を担当した人とも幼稚園からの同級生だと言い、魚丸をサービスしてくれるなど、対応がよい。またメニューやサービスに工夫を凝らしており、どんどん新しいことを取り入れたいという。

 

早速色々と意見を出している。ここの麺は確かにあっさりしていて美味しいが、ボリュームがあまりなかった。日本なら『替え玉』が欲しい、また大盛りを用意して欲しいと注文を出した。いずれにしてもこれまで埔里に知り合いが来ても、ゆっくり話ができるこぎれいな食堂がなかったので、ここは有り難い。車で来る人にも駐車スペースの問題もなく、良いようだ。

 

それにしてもこんなに有名な店、且つこんなに美味しい麺を出す本店に、いくら多少遠いとはいえ、これまで一度も行ったことがない、というのが、私の埔里での食のマンネリ化を象徴していると言えようか。これからはもう少し、食事の幅を広げていかねばなるまい。よし。

 

10月21日(土)
地理中心から

土日は、バスなどが混むので、基本的に遠出はしない。今日はちょっと曇りで暑くなかったので、昼食後、散歩してみる。埔里の名所、地理中心、ここは台湾のへそとも呼ばれ、ちょうど真ん中に当たるということで、この名がついているが、実体はもう少しズレた場所らしい。地理中心碑は日本統治時代の1906年に、日本人が台湾全体を測量するために3角点として建てたものだという。

 

下は公園になっており、観光バスが停まっている。そこから400段もの階段を上がって行かなければならないので、これまでは敬遠してきたのだが、今日はついに足を踏み入れた。虎頭山の400段、しかもかなり急な登りにすぐに音を上げたが、横を年配の女性がさらっと抜いて行ったので、こちらも意地になり、足を進める。これは結構辛い。ここをハイキングする台湾人は多い。

 

ようやく登りきるとそこには原住民のポールかと思うようなものが建っていた。これが碑なのか。特に表示もないのでよくわからないが、これしかない。その横から下を見ると、埔里の街が一望できた。この眺めは良い。疲れが吹き飛ぶ感じだ。その勢いでもう少し先に行ってみようと思ったが、山伝いに行くのはかなり遠いと感じられ、下向きに歩き出す。

 

駐車場のある場所からは、なぜか演歌が聞こえてくる。そこへ行くとカラオケが行われており、気持ちよさそうにおじさんが歌っていた。しかも1つではなく、2か所で歌われている。ここは機械を持ち込んだ屋外カラオケ場という位置づけらしい。まあここなら大声を張り上げても怒られはしないだろう。

 

帰りは階段を避けて、車が通る道路沿いを歩いて下る。これはかなり楽だった。曲がりくねった道を降りると、黄先生のアトリエの近くに出てきた。そこからマコモダケの畑の横を歩いて行き、無事の宿に戻った。それにしても体力がなくなっていることを痛感した。もう少し運動をしなければと思うが、歩くことぐらいしか思いつかない。

ある日の埔里日記2017その5(1)日系LCCの最悪な対応

《ある日の埔里日記2017その5》

今年5回目の台湾行。もう慣れたというか、帰る場所という感じになっている。同時に台湾茶の歴史にハマり、その勉強もどんどん進んでいく。今回も何となくワクワク、ドキドキ。

10月18日(水)
地下鉄、そして機内で

いつもと違い昼過ぎのLCCに乗るために、朝8時半頃家を出た。この時間帯は通勤ラッシュ、大きな荷物を持って乗るのはちょっと迷惑なので、空いている各駅停車に乗り込んだ。そして地下鉄に乗り換えた。だが何となく微かな違和感が。何と女性専用車両に乗ってしまっていたことに、降りてから気付く。

 

この女性専用車両、一体何時から何時までがそうなのか、もっとはっきり大きく書いて欲しい。アナウンスもしっかりして欲しい。幸い空いており、誰からも咎められなかったが、外国人などはかなり戸惑うだろう。因みに女性専用車両を初めて導入したのは京王線だということも知る。そういう必要性があったのだろうか。ついでにこの車両については賛否両論、様々な意見や考え方があるのを知り、別途コラムに纏めた。

 

そして成田第3ターミナルへ。LCCだから仕方がないとは言いながら、チェックインは2時間前からしかできず、大行列となっている。その列を見て、まずはコンビニでパンを買い、それをかじりながら順番を待つ。途中までいくと機械で搭乗券を取り出し、それからその列に並んで、荷物を預けることを知る。

 

何と面倒な作業を強いるのだろうか。おまけにカウンターの対応は丁寧過ぎるので、一人ずつの応対時間が長い。更にはよく見ていると、荷物を預けようとして、重量オーバーかどうか、近くに置いてある秤で測っている乗客が多いのに気付く。これもまた時間を大いにロスさせている。結局50分かかってチェックインだ。

 

それから出国審査、税関検査を済ませると殆ど時間は無くなる。搭乗時間が少し遅れても座る所すらない。ようやく機内に乗り込むと、私の席の横にお母さんと女の子がいたのだが、お母さんが『実はおばあちゃんと席が離れてしまった。何とか席を代わってもらえまいか』と聞いてきた。見るとお婆さんが横に立っている。それは当然代わるべきだろうと思い、お婆さんに席を譲って移った。なぜか一番後ろの席だったが、これも人助けだ。

 

ところが少しするとお婆さんがフラフラやって来た。トイレかと思っていると意外な言葉が飛んできた。『CAさんに席を代わるのはダメだと言われた』と。え、意味が分からない。仕方なくCAに確認すると『申し訳ありませんが、規定で駄目なんです』という。お婆さんと孫を引き離すのは可愛そうだ。CAは日本人だから分かってくれるだろうと、もう一人にも声を掛けたが、答えは同じだったから驚いた。

 

仕方なく自分の席に戻ると女の子は悲しそうな顔をしている。お母さんは『どうしてなんでしょうね』と中国語で聞いてきたが答えようがなかった。それから気まずい3時間を過ごすことになる。こんなことってあるのだろうか。アジア世界で家族を引き離すこの対応は最悪だ。3人は今後ずっとこの航空会社の悪い印象を引き摺って行くだろう。これが日系LCCのサービスなのか。どうにもやりきれない。

このLCCは先日、身体障碍者ともトラブルを起こしている。この件については当事者ではないので何とも言えないが、今回の件を見る限り、どう見ても常軌を逸した対応をとっていると言わざるを得ない。日台間には沢山のLCCが飛んでいるのだが、私の時間に合っているのはこの航空会社しかないのはとても残念だ。

その後桃園空港でいつものルーティンをこなし、MRTに乗り、高鐵桃園駅へ向かう。高速鉄道で台中、そこからバスで埔里という、いつものルートを使った。それでも到着したのは午後7時ごろ。部屋の鍵を受け取る必要があるのだが、葉さんに連絡しても、家まで来い、というだけだ。

家に着くと、既に1階の美容院は閉まっているではないか。どうするのかと電話すると、待てという。しばらくすると隣の部屋のベトナム人がドアを開けてくれ、無事部屋に入れた。いつもこの鍵の引き渡しに気を遣う。次回はどうなるのだろうか。既に埔里の夜は秋の気配。結構涼しい。

腹が減ったが、もうこの時間になると開いている店が限られる。私はいつもの餃子屋へ向かった。そこに行くのはいつも夜遅い時だ。そしていつも言われるのが『酸辣湯は売切れだよ』だが、今日は言われなかったので頼んでみた。意外とイケる味だ。この酸辣湯というスープは美味しいかマズいかがはっきりしている。何故いつも売切れなのかが何となく分かった。それにしても餃子屋で酸辣湯とは。

ある日の埔里日記2017その4(11)国軍英雄館で朝食を

10月1日(日)
再び坪林へ

翌朝はゆっくり起きて、坪林に向かった。もう慣れてしまった新店からのバス。日曜日で多少人が多いと思い早めに行ったが、その必要もなかったようだ。11時前には目指す祥泰茶荘に着いた。僅か半月前にも来た場所だが、前回は出張で不在だったアカ君が今日は待っていてくれた。

 

彼は本当に勉強熱心で、茶作りの方も常に研究を重ねている。同時に私が質問したい茶の歴史に関しても、色々と本を読みこんでおり、その資料を探してくれたりするから、有り難い。包種茶の歴史は、少しずつ分かってきているが、先日の新竹横山のように突然飛び出してくる産地などもある。そうなると経験がものをいうのでお父さんが登場する。

 

お茶は清香型のものから、中発酵、焙煎のものまで、様々な種類の茶を購入した。これをセミナー開催時に使うことにしたが、まずはその前に原稿の締め切りに間に合うように、資料を整理し、分らない点を明確にする必要があると、今日も話をしていて痛感した。包種茶を舐めてはいかん、実は奥の深い歴史を持っているのだ。

 

昼過ぎまで話し込み、お茶を飲み、疲れたので、そのまま台北へ帰った。いつもなら、もう一、二軒は寄っていくのだが、どうも気力がない。今日の状態ではこれ以上の成果は出ないと判断した。実は台北で行きたいところがあったのだが、その、永康街にあった秋恵文庫が、まさか昨日で閉店してしまったことは、大きなショックだったと言えるかもしれない。あそこには多くの資料が残っていたはずだ。何とも残念でならないが、これも致し方ない。

 

午後は休息に当て、夜もゆっくり休むことにした。腹だけは減ったので、吉野家に向かう。何で明日日本に帰る人間が吉野家へ行くのか、自分でも疑問だが、私は既にある意味日本人ではないので、自分が食べたい物を食べたいときに食べるのがよいとしている。久しぶりに牛丼を食べると意外に美味いのだ。コーラを飲みながら牛丼を食べる、これが台湾だったが、今やコーラは出て来ない。

 

10月2日(月)
国軍英雄館で朝食を

今日は午後便で東京へ向かう日。朝は早めに起きて、西門町へ向かう。西門町なんて、何十年も行っていない場所だ。MRTの駅を降りると、意外にも広々とした空間に出た。指定された場所は役所街だったようだ。その中に、何ともいかつい名前のビルがあった。国軍英雄館!

 

よくわからないが、外国人が入ってよさそうな場所とは思えない。そのビルの前にTさんを発見してホッとする。今朝は30年来の知り合いのTさんと朝食を一緒に食べることにしていたのだ。それにしても不思議な空間に来た。ビルに入り、2階へ向かう。そこには確かに食堂があった。そして大勢の地元の人?が朝ご飯を食べている。

 

ホテルのビュッフェのような朝食だった。自分で好きなものを取り、勝手に席につき食べるだけ。料金は130元。お粥などの台湾風、トーストなどの洋風が並んでいる。この料金が高いか安いかは人によるだろうけれど、何とも珍しい場所で、それもそんなに高くない料金で利用できるのは面白いと思った。本来は軍人さんのための宿舎で、そのための朝食だったのだろうが、今や民間人に開放されている。台湾各地にこのような宿泊施設はあるようだ。いつか機会があれば、一度ぐらい利用してみたい。

 

Tさんと別れて、駅の周囲を見渡すと、何だか懐かしい赤レンガの建物が見えた。西門紅楼という日本時代に建てられ、その後公設市場になった場所。光復後は劇場や映画館として使われたらしい。現在は改修工事中で中を窺うことは出来ない。後ろの建物は観光客向けショップのようだが、まだ開店していない。

 

そこからバスで戻るかと考えたがいつ来るかわからないので、取り敢えずMRTに乗り、宿泊先に帰った。荷物を取り出し、今度は近くのバス停から台北駅行バスを探す。バスは何本もあるのだが、一番空港行バス停に近いバスを探す。これは意外と重要だった。大きな荷物を引き摺って歩くのは思いの他、汗が出るのだ。

 

空港バスに乗り込めば、後は桃園まで連れて行ってくれるのでお仕事は終了だ。MRTがあるのは分かっていてもやはりバスがいい。空港でもいつものルーティンをこなしていると、出発時間となり、エバ航空は定刻にスタートする。機内では食事は食べたが、後は爆睡してしまい、気が付けば着陸態勢に入っている。疲れがたまっているのだろうか。理想的なフライトだった。

 

成田で問題なのは、LCCに乗ってきた場合、第3ターミナルにつけば、東京駅まで1000円で行けるバスに簡単に乗れるのだが、エバは第2ターミナルなので、空席がないと乗れないのだ。しかも京成ともう一社が非常に面倒な関係で、10分おきに運行されているが、いつ乗れるかははっきりしない。今回は最初の1台に乗れなかったので、止めにして、電車で帰った。誰でもわかりやすい、利用しやすい航空バスであって欲しい。

ある日の埔里日記2017その4(10)南港で包種茶を

9月30日(土)
台北へ

東京へ行く前に台北に寄ることにして、いつのバスに乗り今朝埔里を出た。昼前には台北に着いたが、先日部屋を借りた葉さん夫妻はマレーシアに出張中で、部屋の鍵を葉さんの同級生から受け取る必要があった。荷物を引き摺って彼女の勤め先を探す。今日は土曜日だが、双十節の連休の影響で基本的に出勤日だそうだ。

 

MRTで言われた駅に着く。地下から地上に出ると目の間にあったのは、あの両岸海峡交流基金会、中国と台湾の対話窓口である。何と鍵を求めてやってきたら、カギは海基会にあったという訳だ。全くの偶然ながら、ちょっと興味の湧く場所に来られた。彼女からめでたく鍵を受け取り、またMRTに乗って、葉さんの家を目指す。

 

部屋に荷物を置くと、腹が減ったので駅の方に引き返す。そこに新和風料理という店があったので、興味本位で入ってみた。受付は1階で、食べるのは地下。焼肉丼がお勧めだというので注文する。家族連れが結構来ていて、皆楽しそうに食べていた。焼肉丼には何となくトッポギが入っているようで、和風なのかはよく分からなかったが、味噌汁はついていた。

 

南港へ
先日魚池で偶然出会った謝さん。雑誌社勤務というのでちょっと興味持ち、台北で会いましょうと言って別れたのだが、すぐに再会することになった。私が南港の包種茶の歴史を調べたいというと、彼も行ったことがないのでぜひ、ということになり、二人でバスに乗って行くことにした。MRT昆陽駅からバスが出ているというのでそこへ行く。

 

今日は土曜日だが、平日扱いというので、バスの時刻表が混乱する。何しろそんなに便数がないのだから、乗れなかったら大変だ。午後2時だと分かり、バスを待つ。やって来たのはミニバス。運転手は怖そうな人で、私がカードをかざすと『1回だけだ』と怒られ、謝さんが『その茶園はどこで降りるか』と聞いても返事もなく、微妙な空気が流れる。

 

そんなスタートだったが、途中で南港展示場を通過し、かなりの人が乗り込み、街を通り抜ける頃には大体の人が降りてしまった。その間運転手は誰の合図もなしに停まっては人を下ろしていく。彼は全ての乗客がどこで降りるか知っているのだ。常連さんしか乗らないローカルバス。ついに山を登り始める。

 

訪ねる茶園を通過した。先に上まで行き歩いて降りてくる作戦をとった。南港示範製茶場は30年も前に作られた観光施設であり、今回も取り敢えずそこへ行けば、包種茶の歴史が分かるのではないかと期待していたが、既に閉鎖されていた。中に入ることも出来ずに、2人で呆然と外から眺めた。残念だ。

 

そこから遊歩道を下ってみた。山の木陰は思いのほか涼しくて気持ちがよい。謝さんは植物にも詳しく、木々の名前をすぐに言い当てた。その中でも多かったのが桂花(きんもくせい)。ここ南港は昔から桂花の産地だったのだ。そんなことを考えていると山の中に少しだけ茶畑が見える。更に行くと茶農家があったが、よくわからないので今回は通過した。

 

ちょうどよい散歩をしたと思った頃、目的地の欽明茶園に着いた。ここは謝さんがネットで調べ、この地区の茶葉販売班の班長さんだということで連絡を取ってくれていた。早速お茶を飲ませてもらうと、包種茶という名前ながら、坪林のそれとはちょっと違う。少し濃厚な感じがよい。さすが包種茶は南港発祥も頷ける。

 

余さんは父親が16歳で亡くなった跡を継ぎ、50年間ここで茶を作り続けていた。祖先は200年ぐらい前に福建から渡ってきて、早い時期から茶作りをしていたと聞いている。製茶法は一子相伝、息子にしか教えていないという。だが『ここでは飯が食えない』と言い、息子は台北に働きに出ているらしい。今は夫婦二人で古めかしい製茶機械を使って、細々と茶作りを続けている。この50年間の苦労がしのばれる。

 

謝さんは余さんのお茶が非常に気にいって大量に買い込んでいる。特に東方美人は新竹よりずっと美味しいと言っている。包種茶もコンテストで何度も入賞している。有機茶園の認証も受けており、非常にいい感じの茶だ。バスは少ないので、外で待ちながら、ちょっと茶畑を見ながら話を続ける。バスが登ってきて、それが折り返して降りてくるまで待つのだ。天気が良いので気持ちの良い待ち時間となる。

 

余さんと別れてバスに乗る。南港展示場でバスを降り、謝さんとも別れた。今日は何だかよくわからないがいい一日だった。夜は家の近くの屋台街に行く。いくつも店がある中で、広東粥を注文したが、これは完全に期待外れ。もっと濃厚な、粥を想像していたが、ただの白粥にちょっと味が付いている程度。これが今日唯一の失敗だった。

ある日の埔里日記2017その4(9)緑茶やら包種茶やら

9月25日(月)
竹山から名間へ

先週魚池の李さんと会った時、『台湾の緑茶ならいい人を紹介するよ』と言われていた。ちょうど都合がよかったので、今日は李さんに連れられてそちらへ行ってみることにした。李さんが態々埔里まで迎えに来てくれ、車を飛ばす。目的地は名間だったが、まずは彼の用事で竹山に向かう。

 

竹山の郊外、場所はどこか分らないが、大きな木のある家を訪ねていく。小さな店でお母さんは檳榔を作っていた。この家の李さんは茶を商いながら自らも作っているという。魚池の李さんはここに茶の包装用パックを買いに来た。何だか話はよく見えないが、面白そうだ。李さんが作ったという紅茶や烏龍茶を飲ませてもらう。とても熱心な人だ。

 

どこかで見たことがあると思っていたら、3月に新竹の沙坑茶会で出会っていた。やはり世の中は狭い。たしか彼は熱心に日本の手もみ技法を赤堀さんから学んでいたはずだ。二人の李さんは、基本的には談笑しているのだが、茶が入ると突然真剣な顔になり、論評し合っている。まさに切磋琢磨と言った感じがよい。

 

それから名間へ行く。この辺の距離はバスで来たら大変だが、車なら非常に近い。表の看板に蒸青緑茶と書かれているその茶工場は新鮮だった。横には茶畑もある。台湾でこのような看板を見るのは初めてだ。中に入りと林さんが待っていてくれ、色々と茶の話をしてくれた。従来台湾では煎茶はもう生産されていない、あまり好まれないなどとも聞いていたが、最近は様子も随分と変ってきており、また日本との関係、抹茶ブームなどもあり、ある意味、ビジネスチャンスは広がっているらしい。これはやはり現地に来て実際に聞いてみないと分からないことだ。

 

高速道路での帰り道、南投サービスエリアに立ち寄った。ここで昼ご飯を食べる。最近台湾のSAはかなり充実してきている。大手企業が請け負っているとかで、非常にきれいだ。ただ日本に比べるとまだまだ現地特産品の売り込みなどは弱く、ご当地グルメ的な店も少ない。どこに行っても同じようだ。

 

9月27日(水)
関西へ

今日はトミーの誘いで、新竹へ行く。いつものように高鐵台中駅で待ち合わせて、彼の車で向かう。行先は横山という場所。それがどこにあるのか全く分からず、ただ付いていく。今日はトミーの弟子?チャスターも一緒だ。横山という電車の駅があった。北埔方面へ行く途中のようだ。

 

陳さんの家に招き入れられた。この付近は客家の人が多く住み、彼もまた客家、そして客家文化などを研究し、この横山地区で論壇を作って、勉強しているという。60年ぐらい前に建てられたという客家様式の家に住む陳さん。室内には様々な資料があり、それを見せてもらいながら茶を飲む。客家人の歴史、精神など、それは実に興味深いテーマである。

 

『昔は横山にも茶畑が沢山あった』と言いながら見せてもらった資料の中に目を引くものがあった。そこには横山包種茶というポスターがあり、1930年代には相当量が輸出されたとある。1970年に最後の工場が閉鎖され、横山包種茶の時代は終わったらしい。そして現在は、残念ながら茶畑はない。それでもこの事実は全くの想定外。包種茶と言えば、坪林、または日本時代の文山地区で作られたとばかり思っていたので、相当のインパクトがあり、これについて調べる気になる。

 

昼ごはんは関西鎮に行き、客家料理屋に入る。ここの飯も非常に美味かった。どうして客家料理はこんなに美味いのだろうか。炒め物をご飯で食べると何杯でも食べられそうになる。ちょっと酸っぱかったり、辛かったりと味も絶妙な感じだ。いつもこんなものが食べられれば幸せだな。

 

午後は錦泰製茶工廠にお邪魔した。以前関西では関西紅茶会社を2度訪問しているが、同時期に製茶をはじめ、今も茶を作っている工場があるというのでこちらにも来てみた。1936年創業、関西紅茶と同姓の羅さんという客家人が設立し、紅茶や包種茶を作っていた。光復後は煎茶も作っていたという。

 

奥の部屋には年代物の品々が仕舞われていた。相当古い茶も保存されており、その歴史が窺われる。更には工場を見学すると、日本製の製茶道具があり、多くの日本企業と取引があったことが分かる。実は現在でもある日本企業に長年に渡り烏龍茶を供給しているのだ。この工場の設備は骨董品のようなものもあるが、現役工場だ。案内してくれた羅さんは70歳を超えており、後継者はいるのか心配になるが、このような工場は続いてほしいと思う。

ある日の埔里日記2017その4(8)眉原で下山操子さんと会う

9月22日(金)
東邦紅茶から魚池へ

今朝は宿にKさんを迎えに行き、いつもの店で朝食を食べた。それから歩いて東邦紅茶に向かう。郭さんは紅茶作りに忙しかったが、その中を相手してくれた。古い工場の2階を見て、それからちょうど揉捻機が動いている新しい1階の方へ移る。更には事務所で簡単に紅茶を頂く。Kさんのように品茶に興味がある人には、ちょっと形が違う歴史アプローチだった。

 

そこへIさんが迎えに来てくれ、私は一旦Kさんと別れ、イベント打ち合わせのため、18度Cへ向かう。今日は実施的な実行委員長も決まって、各地区の珈琲班の人々が参加しており、このイベントがかなりの速度で動いてきたことが分かる。初めはどうなることかと思ったが、18度Cオーナーの度量もあり、何だか出来そうな気がしてきた。

 

その後宿に戻り、再びKさんと会って、昼ご飯は黒肉飯を食べる。これから魚池へ行こうとしていたが、1時のバスに乗りそこないそうになり、慌ててターミナルへ。何とか乗れたのでホッとしていたが、老茶廠で下車して連絡してみると、会う予定の李さんは何と埔里に来ており、入れ違いになってしまった。李さんとKさんはFB上の知り合いで、今回初めて会うので私も同席することになったのだ。

 

仕方なく、老茶廠をゆっくり見学する。平日はお客さんもおらず、茶作りも止まっていたので、特に見る物もない。Kさんの最近の動向を聞きながら李さんを待ち、彼の迎えで家へ。ちょっとお茶を飲んですぐに茶畑を見学。ちょうど茶摘みが行われていた。そのまま李さんの知り合いの女性のところへ回る。彼女のところでも紅茶を作っているが、女性らしくかなり可愛らしいパッケージを作り、売り出しているようだ。

 

李さんの車で魚池まで送ってもらう。夜は豚足でも食べに行こうということになり、有名店だという店まで歩いて行ってみた。結構遠かった。店にはお客は誰もおらず、店の対応もイマイチ。まあ、わざわざ食べに来る必要はなかったなと思う。埔里には残念ながら名物と呼ばれるものがない。

 

9月24日(日)
眉原で下村さんに会う

今日はIさんからお誘いがあり、車で中原へ向かった。この付近はセデック族が移住した場所であり、Iさんの奥さんの実家、お母さんもここに住んでいる。まずはお母さんの家に寄る。中原には思ったより家がある。この手前には、あの霧社事件の後、生き残ったセデック族が移住させられた川中島という村もあった。今は清流部落という。このあたりは本当に環境がよい。

 

それから車は更に進み、眉原という部落に入った。その本道から少し降りた場所に、民宿を開いている人がいた。下山誠さん、本日お訪ねする下山操子さんの弟さんだった。誠さんは、随分前にこの土地を買い、草花や野菜を植えている。とても素敵な庭を持っていた。奥さんは現地の人だ。

 

そこへ操子さんが入って来た。日本の敗戦直前、埔里で生まれた。お爺さんは警察官で、タイアル族の頭目の娘と政略結婚した。原住民融和政策の一環であり、彼女のお父さん、下山一さんらが生まれた。ただお爺さんは日本へ帰国してしまい、お婆さんの願いで一家はマレッパというお婆さんの故郷に残った。あの霧社事件とは直接関係はないという。

 

操子さんが生まれてすぐに日本が降伏、下山一家も日本に帰還するはずだったが、お婆さんはどうしても日本行きを拒み、一家は山の中に残った。その結果、お婆さんが亡くなった後もここに置き去りにされ、またまた父一氏はスパイなどの容疑を掛けられ、度々拘留される。そして帰還船に乗ることが出来ず、ついに台湾国民として生きることになった。敗戦国民として一般台湾人、そして外省人から厳しい対応を受けるなど、日本人と台湾との関係をもう一度考えさせられる話が一杯だった。

 

その壮絶な生きざまを淡々と話されると逆にすごみがある。それは私が28年前に会った霧社事件の生き残り、高山初子さんの話を聞いた時と同じ印象を受けた。本当に厳しい、過酷な状況に置かれた人の本音の話というのはそういうものではないだろうか。操子さんの著書『故国はるか 台湾霧社に残された日本人』を読んで、勉強したいと思った。

 

そして操子さんの家にもお邪魔した。『私は2回に死にかけた。その時天から救われた』と言い、家の横には大きなイエス像が建てられていた。庭はとても広く、草花が沢山植わっていた。家の中にも写真が貼られており、引き続き下山家の話を聞いた。操子さんは逆境にもめげず、努力を重ねて、学校の先生を定年まで勤められた。実は今日一緒に来た人の中にも教え子がいた。先生らしい言葉遣い、そして昔の日本のおばさんのような心遣い、その歴史と相まって不思議な時間を過ごした。

ある日の埔里日記2017その4(7)花蓮散策

花蓮散策

自強号に乗れば1時間ちょっとで着くはずだった花蓮に2時間かけてようやく到着した。これも旅としては良いだろう。ここは日差しが強い。駅前をうろつき、ちょうどよさそうなホテルを探す。少しきれいなホテルがよいと思い、入った所は1泊1000元だったが、取り敢えずそこに泊まることにした。

 

そして腹が減ったので、フロントに『花蓮の名物はなにか』と聞いてみると、『扁食』という答えが返って来た。どこに行けば食べられるのかと聞いてみると『ここからちょっと遠い』といい、道順を教えてくれたが、結局面倒になり、バイクでそこまで送ってくれた。何と親切なことか。

 

花蓮の街の中心は駅前ではなく、そこからバイクで10分ほど行ったところだと分かる。バイクから降りて、街を歩くとすぐに扁食の店があったので入る。扁食とはワンタンのことである。ここでは基本的に雲吞スープを売っており、皆がそれを食べている。私も70元のものを食す。正直何故花蓮名物がこれなのか、不思議に思う。他にないからだろうか。

 

少し暑いがそのまま花蓮の街の散策を始めた。街の様子を理解するには歩くのが一番だ。海辺までは遠いようだったので、大きな道を歩いて行くと、突然日本家屋にぶち当たる。日本統治時代は軍関係者の宿舎だったというが、今は史跡指定を受けて一般開放している。大きな木が印象的だ。ただ残念なことに参観者は全くおらず、日本の演歌が空しく響いていた。

 

更に歩いて行くと松園別館と書かれた看板が見えたので行ってみる。そこは高台にあり、階段を上って行くとかなり足が痛くなる。その門に辿り着くと、入場料50元を払い中へ。そこからは花蓮の海がよく見える絶好のスポットだった。しばし海を眺めて和む。いい風も吹いて来る。

 

松園別館は、戦争末期に花蓮での兵役募集・管理のために作られた施設、旧名を『花蓮港陸軍兵事部』という。ここで終戦を迎えた軍幹部の中には、自決した者もいたらしい。光復後は米軍軍事顧問団のレジャー施設として使われたらしいが、地元では長年幽霊屋敷のような扱いだったのではないか。その後ホテル建設計画があったが、保護運動により今日に至る。日本時代の軍施設としてほぼ完璧に保存されている稀な建物だ。

 

現在園内には4棟の建物が残されている。母屋は2階建てで、今は展示スペースなどに使われている。その廊下からはやはりきれいに海が見え、まるで映画のロケにでも使えそうな雰囲気を出している。若者が自撮りに余念がないのも頷ける。他の建物にはカフェが出来ており、居心地のよさそうな空間が用意されている。庭には松の木などが沢山植わっており、素晴らしい。

 

土産物を売る店も作られていた。実は入場料には30元に買い物券が付けられていたが、土産を買わない私は水を一本もらい、渇きを癒した。それから元来た道を降り、30分ほど歩いてホテルまで帰った。暑くてのどがカラカラになる。飲料をコンビニで買い、部屋でぐったりと休む。

 

夜になり、夕飯を食べに外に出た。駅前の食堂に入り、鶏肉飯を頼むと、何と魯肉飯と同じような小さな椀で出てきた。埔里で食べる奴は野菜などが添えられており、ボリュームがあるのだが、これでは夕飯にならないとおかずを三品ほど足した。僅か三品だったが、会計すると意外なほど高く、店のおばさんが計算を間違えたのかなとは思ったが、面倒なのでそのまま払って出てきた。だがそれからずっとそのことが頭から離れない。やはりはっきりさせるべき時はきっぱり言うべきだった。最近では珍しい後悔だ。疲れてはいたが、何となく寝心地も悪い。

 

9月21日(木)
プルマ号で

今朝は早めに起きて散歩に出た。朝食は繁盛している店に入り、サンドイッチと紅茶で済ませる。それから街中を歩き回り、古い建物などを見て回る。まだ花蓮には老建築が少し残っていた。朝は比較的涼しいので、散歩には適している。本当は海を見るべきだが、一昨日車から見たので、今回はカットした。

 

花蓮発のプユマ号に乗り込む。これだと一番早く、且つ台中まで一気に行けるのである。但し昨日切符を購入した時、『4人掛けの席しかありませんがいいですね』と聞かれた。とにかく一日に何本もない、常に満員の列車なので、それでよいと答えたが、車両に乗り込むとその意味が分かる。基本は新幹線のように2人ずつ進行方向を向いて座るのだが、家族用に2人ずつ向かい合わせの席を2-3、用意しているのだ。

 

知り合い同士ならよいが赤の他人だとちょっと気まずい。その上座席が狭い。窓側の進行方向逆向きの席は最悪だ。隣のおじさんは寝ているので勝手に席を立って動くこともできない。その上逆方向で長時間同じ姿勢でいると普段の倍以上疲れることが分かった。何とか4時間の乗り切り、電車を降りた時はぐったり疲れた。この4人掛けの席は廃止すべきだと思う。

 

それからバスで埔里に戻って休む。夜は広島のお茶好きKさんがやってきたので、宿の主人と共に夕飯を食べる。ちょっと立派な定食屋なのだが、メニューに大阪風とあったので頼んでみた。何とメインディッシュがお好み焼きという訳だ。取り敢えず美味しく頂き、宿で少し話をした。

ある日の埔里日記2017その4(5)茶葉入りアイス

9月18日(月)
茶葉アイス

今日から旅に出る。まずは台北を目指すため、9時発のバスに乗る。もう乗りなれているので寝ていると難なく着いてしまう。知り合いの紹介で葉さんと台北駅で待ち合わせた。西出口で待っていると夫妻で迎えに来てくれ、車で彼らの工場のある三重に向かった。三重は今バスで通って来た場所。分かっていれば三重で降りたのに。

 

大きな建物の駐車場に車は入った。ここは小さな工場が入居する工業ビル。そこに彼らの小さな工場はあった。元々は電子部品を作っていたが、今は食品関係を作っているという。なぜかおしゃれなカフェのような場所で驚く。作っていたのは、お茶のティバッグやアイスクリーム。何とも興味深い。

 

茶葉を入れて作ったアイスは紅茶や抹茶だけでなく、鉄観音など変わった品種まであり、全部で12種類。実は葉さんの実家は茶農家なのだ。元々の出身は龍潭、そこからお父さんが花蓮の瑞穂に移住して、今でも茶作りをしている。明日は彼女の実家を見学するため、今日ここにやってきたわけだ。実家の素材をうまく利用して高級アイスを作るなんて面白い!

 

アイスは全然甘くない。『もうハーゲンダッツの時代は終わった』と言い、少なくても台湾では甘くないアイスが好まれているというのだ。更にはそこにイタリアのジェラートの感覚も取り入れている。これは正直ちょっと意外だった。このアイスの値段は結構高いが、台湾では好評で、近々工場を拡張する計画もあるという。ティバッグの受注も伸びている。これからの茶業の新しい形かなと思う。

 

彼らは仕事が忙しいので、ここの一部屋を借りて、お茶の勉強をする。その部屋には茶に関する本がたくさんあり、中でも製茶組合の歴史の本など、普通は手に入らないものがあるので、それを読み始めたら止まらない。途中で葉さんが実家で作っているという文旦をくれたが、これがまた美味い。益々読書に身が入ってしまう。

 

結局夜まで本を読み続ける。我ながら勉強熱心だと思う。それから夫妻に連れられ、市内へ戻り、夕飯を食べる。最近流行りだという麺の店へ行くが、そこは熱炒の要素も取り入れ、客の注文で調理もする。初めの一店舗が成功して、今は横に4店舗まで広げたらしい。確かに味がよく、客は引っ切り無しに入ってくる。

 

今晩は葉さんの家に泊めてもらう。家と言ってもマンションの同じ階の部屋を2つもっていて、その一つは空いているというのでお言葉に甘える。広い家だが、オウムと亀がいるだけだった。明日の朝は早起きなのでシャワーを浴びてすぐに寝入る。夜中にオウムの奇声を聞いたような気もするがぐっすりと休む。

 

9月19日(火)
花蓮 太魯閣

朝4時半起床!昨晩『明日早いから』と言われたのだが、まさかこんなに早いとは思わなかった。真っ暗な中車に乗り込む。今日は花蓮の南部、瑞穂を目指すわけだが、なぜこんなに早く出るのかはよくわからない。ただ連れて行ってもらう以上、相手に合わせるのが流儀。黙って着いて行く。車はすぐに高速道路に上がり、宜蘭の方へ向かってひた走る。5時半頃には陽が登り始める。

 

更にどんどん進み、6時半頃には海岸線へ出る。久しぶりの太平洋。しばし車を停めてもらい、海を眺める。断崖と書かれている場所もある。以前は花蓮へ行くのに、相当の時間が掛かったが、今では道路が整備され、随分と便利になっている。実は花蓮自体を見るのがなんと27年ぶりなのだ。

 

車は太魯閣渓谷の方へ向かっていく。どうやらこの近くで用事があるようだが、まだ時間が早いので、寄り道するらしい。私にとっては願ってもない機会だ。27年前にここに来た時は、その2週間前に前代未聞の台風による自然災害があり、道路は崩れて殆ど何も見られなかったのだ。

 

朝が早いせいか、観光客は見当たらない。なんとも天気がよく、空が澄んでみる。川の水も清らかだ。あくまでもトイレ休憩なので、じっくりと歩くことは出来なかったが、十分に堪能できた気はする。東西横貫公路が出来ており、西側へ行くこともできるようだが、その道は険しそうだ。日本人の団体を乗せたバスがやってきてすれ違った。

 

それから花蓮市の少し先の吉安郷に行き、用事を済ませた。彼らは非常に熱心に価値ある農産物を食品に入れるべく、探しているのが分かった。こういう人々の努力で、我々の口に物が入るのだ。東海岸の平坦な道を車は走っていく。横には線路が見え、電車が走るのだろう。

 

瑞穂
11時半頃、目的地に着いた。台北を出てから6時間半が過ぎていた。驚いたことに、葉さんの実家、富源茶葉には、昨年瑞穂に来た時に寄ったことがあったのだ。それは台北の茶荘の紹介だったが、その時は別の茶荘に行った関係で寄らないつもりでいたのだ。ただ朝の散歩で偶然見つけていきなり押し掛けた経緯がある。葉さんのお兄さんが対応したのだが、そのことは覚えていてくれ、お互い驚く。

ある日の埔里日記2017その4(4)セデック族の結婚お祝いに

9月16日(土)
セデック族の結婚お祝いに

今日もIさんに誘われて、埔里から少し山の方へ向かう。実は彼の奥さんはセデック族の出身であり、親戚に結婚する人がいることから、そのお祝いの儀式があるというので、行ってみることになったのだ。この儀式、何でも朝一番で豚を解体し、親戚一同に配り、集まった者で、肉を焼いて食べるのだそうだ。何だかとても原始的な儀式を想像してしまう。

 

車は霧社へ向かう道を登り始めたところで、横道に入った。眉渓という辺りらしい。そこには教会があり、そこに車を停める。周囲には民家がいくつもあり、想像していた山の中ではない。その一軒の家の前で小型トラックの荷台を使って男性が3人がかりで解体作業が行われていた。周りでは長老など集まった親族がそれを見つめながら話し、子供たちはその辺で遊んでいた。

 

次々に奥さんの親戚を紹介されるも、元々の関係が全く分かっていないので、とても覚えられない。しかも肝心の新郎新婦がどこにいるのかもわからない。後で新郎には挨拶できたが、新婦はこないのだという。この儀式は新郎側で行われていたのだ。結婚式は来週そこの教会で挙げ、披露宴は埔里市内で行うらしい。今日のそれは伝統行事の継承だろうか。

 

肉の解体が終了すると、新郎が長老に結婚報告のような形で、その肉などを渡している。後の人は各自持ち帰るようで、今日来ていない人の分も誰かが預かって持っていくらしい。そして全員が集まり、何かに向かって代表者が祈りの言葉を捧げた。更には殆ど人がキリスト教徒なのか、神にも祈りを捧げている。

 

この辺の宗教事情も知りたいところだ。光復後、物資がない時代にキリスト教の宣教師がやってきて、食べ物を与え、教育を与え、信者を増やしたらしい。今でもインドの山奥ではこのような布教活動が行われていたのを見たことがあるが、アメリカ人やヨーロッパ人が山の中で何十年も住みついているのもすごい。

 

それから食事が始まった。豪快に焼かれた肉の他に、木桶で炊かれたご飯や大皿に盛られたサラダなどがあり、皆好き勝手にとって食べている。肉のスープもあったが、これはあまりにも脂分が多くて濃厚だが、沢山は飲めない。

 

今日集まった人の中に、台北の大学で民族学を教えている人がいた。いわゆる原住民の歴史、これにも大いに関心がある私は、茶との関係などを中心に色々と質問してしまった。台湾に元々茶の木はあったのか、という命題と原住民は何らかのかかわりがあるように思えてならないのだが、そこはどうしてもわからない。ただこの近くの山でもお茶が栽培されているらしい。今度ちょっと調べてみたい気はしている。

 

軍の特殊部隊に所属しているという若者も来ていた。何となく高砂義勇軍なる言葉を思い浮かべてしまったが、不謹慎だろうか。中正記念堂の衛兵なども皆精悍な顔立ちだが原住民が多いと聞いている。勇猛果敢な人々は今も現役なのだろう。因みにこの地区の人々は霧社辺りから降りてきたセデック族で、いわゆる霧社事件のモーナルーダオなどとは系統が違うらしく、この事件については関係がないと言っていた。因みに家々の表札を見ると漢字名があり、その下にローマ字で元の名前が書かれていた。

 

学校の校長先生だったという方は病を得て車いす生活をしていた。それでも随分回復したと言い、皆と楽しそうに談笑していた。普段はインドネシアのメイドさんが世話をしているのだろうか。日本にも昔はこんな集まりがあり、親族が楽しく談笑していただろう。Iさんが日本酒を買ってきて差し入れた。さすがに皆、酒は強そうだった。

 

スマホの電池交換
車で送ってもらい、埔里に戻ってくると、なぜかスマホの電池がほぼゼロになっていた。いくら充電しても、すぐに無くなってしまう。これは充電コードの問題なのか、または電池か、それともアイホーン自体が壊れたのか。実は明後日から旅に出る予定であり、スマホは必須なため、スマホを修理してくれるところを探すことになる。

 

バスターミナル近くに1軒見つけたのでそこに飛び込む。若者がいたが、スマホを見るとすぐに電池の問題と断定した。まだ1年しか使っていないアイホーンだけど、電池の消耗が早過ぎ。でも背に腹は代えられない。電池交換を頼む。30分ほどかかるという。そうか、昔携帯みたいに自分で電池を入れ替えることは出来ないのだ。700元。

 

20分ぐらいして戻ると交換は完了していたが、充電が出来ていないので、そこで少し充電させてもらった。その間彼と話す。『実は彼女が東京旅行に行きたいっていうので先日お金を渡したんですが・・??』とまるで人生相談か。何となく面白いので、そのまま話を続けた。彼は東京旅行に行ったのだろうか。