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ある日の埔里日記2017その6(5)水沙連珈琲フェスティバル

12月10日(日)
水沙連珈琲フェスティバル

雨が心配された今日だが、何と朝から快晴だった。これは何を意味するのだろうか。ついにその日がやってきたという感じ。いつもはIさんの車に乗せてもらうのだが、今日Iさんは早くも演習林で写生をしているはずだ。私はとぼとぼ歩いて、イベント会場である演習林に向かった。

 

水沙連珈琲フェスティバル、私が何かしたわけではないが、この3か月、打ち合わせに参加したこともあり、感慨深いイベントである。北大から来られた来賓も到着、日本人メンバーも集結し始めた。そして各ブースでは早くも珈琲の香りが漂ってくる。いつもは殺風景な演習林が、今日は何だか立派に見える。

 

9時過ぎに来賓が集まり、開幕式が行われた。南投県、埔里鎮などの偉い人や黄先生など何人かが祝辞を述べ、そして北大からの祝辞も読み上げられた。このイベントの実質の主催者である、18度Cの茆さんも感慨深げにあいさつに立つ。またこのイベントの言い出しっぺである日本人のSさんは功労者として紹介された。

 

それからこの地区のバリスターが100人の来賓にコーヒーを淹れるイベントが始まる。私も北大の方に交じって、コーヒーを飲ませてもらったが、お茶と同じようにコーヒーも淹れる人の個性が強く出るようで、実に柔らかい味わいに驚いた。聞けば、この付近の若手No.1が淹れてくれたらしい。

 

イベントに訪れた人の多くはコーヒーが目当てだったかもしれないが、そもそも演習林とは何か、なぜ今日このイベントがあるのかに注目する人もいた。そしてその100年前の建物をじっくり眺めては、首を傾げたりしている。地元の人にとっても、この建物と敷地は謎だったに違いない。僅かに70歳以上の人の一部がここの由来を記憶している程度だ。

 

日本人会担当の珈琲豆の種飛ばし大会もついに始まった。果たして参加者がいるだろうかと心配されたが、何となく興味を持つ人が多く、途切れることなく、種が飛ばされていった。ほとんどの人が初めてなので、うまくは行かないが、それがまた笑いを誘い、和やかな雰囲気に包まれる。司会はあの下山操子さんが引き受け、非常に上手いリードで参加者を募り、激励していたのは印象的だった。下山さんの教え子という人も何人か現れ、彼女の歴史を少し見ることができた。

 

昼ごはんは弁当が支給されたが、とても豪華だった。これまで台湾では見たこともないような立派さ。聞けば何と茆さんがイベントスタッフ、ブース出展者のために特注、自腹で配ってくれたらしい。何とも驚く気配りだった。北大の人たちもこのイベントの盛り上がりと茆さんの配慮には驚いたようだった。北大は戦前、朝鮮半島や樺太にも演習林を持っていたようだが、今もってこのような扱いを受けることなどなかっただろう。

 

午後も引き続き種飛ばしは行われたが、人出は午前中ほどではなかった。それでも最後までやり切り、男女及び子供の1-3位を決めて、表彰式まで行い、商品が手渡された。その間、下山さんはずっと立ったままで、マイクを握って司会を続けていた。70歳を越えているとはとても思えない、驚くほどの体力だった。やはり鍛え方が違う。

 

片付けが始まったが、何となく皆に達成感があるように見えた。ブースでの珈琲の売り上げは分からないが、イベントとしては十分に成功したのではないだろうか。そしてここに正式に日本人会も立ち上がり、地元の人々と一体となってイベントに参加したことの意義は大きいように感じられた。来年以降も続くだろうか。お楽しみだ。

 

一度部屋に戻り、夕方Iさんの車で出掛けた。今晩は北大の人々の歓迎宴を茆さんが自らのレストランで開くというのでついでに御呼ばれした。牛耳という、郊外にある観光スポットに茆さんは鉄板焼き屋をもっていた。この辺ではかなり立派な場所で驚いた。しかも2つある鉄板の周囲に約20名が座り、ほぼ借り切り状態となる。

 

そして牛肉のステーキは勿論、魚のバター焼きやホタテなど魚介類まで豊富に登場し実に立派な食事が供された。最後は鉄板で作るどら焼きまで、趣向が凝らされており、単に豪華なだけでなく、お客は楽しめる内容となっていた。埔里ではこんなの食べたことがない。茆さんは世界中を旅して、美味しいものを探してくるようだ。

 

実は2人だけこの会と関係ないお客さん、カップルがいた。茆さんはそれに気が付くと、すぐに彼らのもとに行き、居心地が悪いだろうと、色々と気配りを始めた。男性が誕生日なのでここへ来た、と分かると、さっと自社のチョコレートをプレゼントするなど、そのやり方は実にスマートですごい。最後は台湾人同士だから、皆が仲良くなり、お開きとなる。イベントと言い、夕食と言い、茆さんにはすっかりお世話になってしまったが、満足いく1日だった。

ある日の埔里日記2017その6(4)日本人会忘年会&イベント準備

12月7日(木)
日本人会忘年会

今朝はゆっくり起きて疲れを取る。ブランチに、近所でチキンバーガーを食べる。いつもならそれで終わりだが、何だか腹が収まらず、ベーコン蛋餅まで焼いてもらう。最近ちょっと食欲があり過ぎではないだろうか。まあ気候も良いので、食欲が出るのも当然かもしれない。

 

夕方、Iさんと下で待ち合わせて、レストランに向かう。今日は埔里日本人会の忘年会だ。私もその端くれに混ぜてもらい、参加した。因みに日本人会は最近発足したが、それは週末の演習林記念イベントのためであり、以前より日本人の集まりはあったらしい。一時は日本人ロングステイヤーを受け入れると言っていた埔里だが、現在ではごく一部の人が住んでいるだけとなっている。

 

会場はYさんの知り合いのレストラン。個室に10人程度が集まった。懐かしかったのはOさん夫妻。6年前埔里に来た時、カレー屋さんをやっており、2度ほどお邪魔したことがある。あちらも何となく覚えていていただき、懐かしの再開となった。今はカレー屋さんを止め、埔里郊外で悠々自適と伺う。また戦後ずっと台湾に残り台湾籍となっている下山操子さん、誠さん、ご姉弟も参加され、非常に有意義な会になった。

 

参加者の内、私とYさんを除く全員が、配偶者が台湾人である。奥さん方も参加され、日本語の他、国語も飛び交う。Iさんのお嬢さんは学校での発表練習を皆の前で披露して、元教師の下山さんが、指導をする場面もあった。料理はどんどん運ばれてきて、お酒も回り、愉快な会で3時間も続いた。今後も年に一回は忘年会を開催し、日頃は会わない方々とも、旧交を温めることとなる。

 

12月8日(金)
イベント準備

今日は金曜日。明後日迫ったイベントの定例打合せがあるのかと思っていたが、さすがに皆真剣に準備に入っており、直接会場となる演習林に集まり、実地の最終確認となる。9月頃には一体どうなるかと心配していたこのイベント、私が不在の間に相当の紆余曲折があったらしいが、結果的にここまでこぎつけたのは、素晴らしい。

 

演習林に早めに行くと、入り口のところで、野菜や雑貨を売っているおばさんたちがいた。どっから来たんだ、と聞かれたので、日本と答えると、何でここに、という顔をしていた。地元の人もこの演習林については、日本との関係も含めてほぼ何も知らない。そしてここにはその歴史を示す看板すらないのだ。

 

実行委員、総責任者、イベント会社、当日のMCなどが集まり、具体的な配置と段取り、問題点を確認している。我々日本人は行っては見たものの、殆どやることはなく、ただ演習林を眺めているだけ。最後に日本人会担当の『コーヒー豆の種飛ばし大会』の場所の確認だけを行い、お開きになる。

 

この北大演習林100周年プロジェクトは、諸般の事情により、水沙連珈琲フェスティバルとして、開催されることになった。北大からも結局2名が参加することになり、形は整えたものの、やはり日本統治時代の歴史に対する複雑な思いと、光復後の管理問題が浮き彫りになり、どうも素直に進められる、という雰囲気ではないのが残念だ。

 

打ち合わせ後、日本人でランチを食べに行く。いつもの古月軒の別館だ。ここは車の駐車が楽なので、便利がよいという。麺も小菜も相変わらずおいしいが、お客は満員というわけではないので、経営はどうなのだろうか。いい店には続いて欲しいと思う、一顧客であった。

 

今日は午後魚池の王さんを訪ねることになっていた。ちょうどのこの店の近くに魚池に行くバス停があったはずなので、皆と別れてそちらに向かう。埔里酒廠の前にバス停があり、そこで待っていると、台中行のバスは向こうに見えた。そのバスが信号で止まった時、その向こうに止まったバスは陰で見えなかった。

 

信号が青に変わると2台が一斉に動き出す。あっと思った時はもう遅かった。その向こう側のバスこそ、日月潭行、私が乗るバスだったのだ。田舎のバスの運転手の一部には、乗客に目もくれず、いや故意に乗せないようにして、自分勝手に行ってしまうバスがあるのは事実だ。今回は完全にやられてしまった。はてどうするか。次は1時間後かもしれない。

 

取り敢えず時間つぶしにバスターミナルまで歩いてみる。ターミナルで聞くと5分後に魚池に行くバスはあるという。おかしいなと思いながら乗り込むと、それは裏道を行くバスで山の中を走るので時間がかかった。それでも次の台湾好行に乗るよりは早く魚池に着く。王さんには1時間遅れると連絡したので、店に顔を出すとちょっと驚いた顔をしていた。

 

王さんのところに行くのは半年ぶりだろうか。王さん自身は紅茶を中心に茶を作っているのだが、今はシーズンオフなので、これまでに台湾のみならず各地から収集してきた様々なお茶を出してきて飲む。凍頂の古い茶やプーアル茶、包種茶の老茶まである。一種の骨董趣味とも言えるだろうか。

 

4時過ぎにバスの時間を考えて、帰ろうとすると、『ぜひ隣で飯を食っていけ』という。いや未だ夕飯には早いと断ったが、是非にというので隣に行ってみると、いつの間にか香港式レストランがオープンしていた。何となくいい匂いだったので、思わず中に入ると、王さんが注文した上にお金も払ってくれた。何とも申し訳ない話だ。

 

叉焼と鶏肉の入ったご飯を食べてみたが、これは旨かった。香港や広東で食べる味と遜色がない。聞いてみると、何とここのシェフは香港からやってきたというのだ。道理で本場の味だと感心していたが、そのシェフはなぜこんな田舎街に来たのだろうか。どうやら香港の将来に見切りつけて、台湾に移住したのでは、との話だった。

ある日の埔里日記2017その6(3)茶苗と陶芸

12月6日(水)
再び竹山へ

今日は2日前に連絡だけして、結局会わなかった劉君を訪ねる事にした。さすがに悪いと思い、早めに借りを返すことにしたのだ。一昨日と全く同じバスに乗れば、同じ時間に同じところに着く、と思ったのだが、田舎のバスはそうはいかなかった。一昨日は間一髪乗れた竹山行きバス、今日は、埔里からのバスが5分遅れたため既に行ってしまい、1時間後しかないというのだ。接続などという概念はないことは知っていたが、困った。

 

だが聞いてみると台湾好行が20分後にあり、それで竹山へは行けるという。ただ停まるバス停が違うため、劉君に確認して、工業区で降りることにした。実は彼の家は、そこからほど近かったので結果オーライになる。彼は車で迎えに来てくれ、すぐに自宅へ向かった。お父さん(松ちゃん)は不在のようだった。

 

もう一人、彼の知り合いの若者が入って来た。張君は何と私の分の弁当も買ってきてくれ、3人でランチが始まる。彼らは若いだけあって食欲も旺盛で、すぐに食べ終わってしまう。私はお茶でもスープでもよいから汁けが欲しいのだが、味噌汁とご飯を配分よく食べるというのは日本固有の習慣らしい。食べ終えてから、彼が作ったお茶を飲み始める。焙煎の効いたお茶がよい。

 

さあ、行こうと劉君が立ち上がり車に乗り込む。どこへ行くのかとみていると何と山を登り、鹿谷にやって来た。竹山-鹿谷は車で僅か15分位。いつもとは違う道を行き、1軒の家の前で車は停まる。そこは何と茶苗屋さんだった。茶旅を長くしているが、茶苗を商う家に来たのは初めてではないだろうか。

 

ここでも若者が出てきた。3代目だという。『台湾北部から南部まで、多くの茶農家が顧客』というだけあり、彼は全台湾の茶業の精通しており、各地に行くこともあり、そのお茶の歴史についてもかなりの知識があって驚いた。しかし考えてみれば、今や茶苗を売る所はそれほど多い訳ではないだろう。彼のところに注文が集中してもおかしくはない。ただ彼もまだ若いので、真の歴史を体感しているとまでは言えない。

 

茶苗の畑を見に行った。ちょっと小雨が降っていたが、何とか見学できた。本当に色々な品種が植えられており、顧客ニーズに合わせて、出荷されるらしい。同業者が減り、注文はそこそこあるとは思うが、現在台湾茶業全体が縮小傾向にあり、当然ながら茶苗業の前途も明るいとは言い切れない。まるで今日の天気のようだと思えてしまった。

 

鹿谷で他にどこへ行くのだろうかと思っていると、何と竹山に戻ってしまう。折角鹿谷に来たのだから、とちょっと残念だったが、流れに身を任せるしかない。次に向かったのは張君の家。実は彼は陶芸師であり、お父さんはこの付近では有名な陶芸作家であるという。個展なども開いている。1階の店には数々の茶壺が並んでいる。

 

お母さんがお茶を淹れながら、色々と話をしてくれた。陶芸は原料となる土が命。お父さんは元々鶯歌で修行し、中国江蘇省の宜興の土を手に入れ、創作に励んできたという。1980年代には比較的容易に手に入った宜興の土、今では中国でも手に入らない貴重な物となっており、こちらでも台湾本島の土など、様々な物を使っているようだ。

 

非常に形の良い茶壺がいくつもあり、あまり道具には興味のない私ですら、思わず写真に収め、FBで投稿した。するとお茶好きさんから、すぐに反応があり、現物は見ていないが、是非それが欲しいという。そういうものなのか?結局価格が折り合わずにこの話は流れたが、世の中とは面白いものだと思う。

 

既に夕暮れとなり、竹山を後にする。劉君に草屯まで車で送ってもらい、そこからバスで埔里に戻ることにした。バスは20分に一本ぐらいあるとのことだったが、なかなか来なかった。夕方の渋滞のせいかもしれない。ようやく乗り込んだが、バス停が多く、いつになっても埔里に着かない。この路線、田舎道だが、意外と民家が切れずに驚く。

 

結局1時間もかかって埔里の街に入った。トイレに行きたいやら、腹が減るやら大変だった。終点より前で降りて、いつも行く鶏肉飯に立ち寄り、夕飯を済ませる。相変わらず繁盛している店だ。このあっさりした鶏飯はやはり美味い。

ある日の埔里日記2017その6(2)林内という街を知る

12月4日(月)
林内へ

今日はベトナムのダラットで先日出会った張さんを訪ねるために林内に向かう。林内にはどうやって行けばよいか分からなかったが、『竹山まで来てくれれば迎えに行く』と言われ、それに従う。竹山は直線距離では遠くはないが、バスの便がないので、遠く感じる。埔里から高鐵台中駅へ出て、そこで南投客運に乗り換えるのがよいと言われた。駅に着いて聞いてみると、『あそこのバスに乗れ』と言われ、走って飛び乗る。間一髪間に合った。そこから30分で指定されたバス停、竹山秀傳医院に到着した。結構立派な病院が建っていて驚く。

 

そこから張さんに電話してもメールしても応答がないので、かなり焦る。ここに取り残されても、どうしようもない。10分待ったが、何の返事もないので、竹山の劉君に連絡を入れてみた。彼は若者だが、一度埔里で会っており、また会いたいと言われていたのを思い出した。ちょうど彼も竹山におり、これから迎えに行く、と言ってくれた。ちょうどその時、張さんから電話が入り、こちらに向かっているという。何と間の悪い。しかし連絡が取れたので、今日の目的を優先して、劉君に断りの連絡を入れた。本当に申し訳ない。病院の周囲をちょっと回っていると、張さんの車が近づいてきた。

 

林内は雲林県にあるが、南投県と彰化県の境に位置しており、昔は交通の要所だったことが分かる。車で5分位いくと橋を渡り、南投から雲林に入るので、その雰囲気が分かる。しかも林内は台鉄の駅があり、二水、田中と並ぶ茶の集積地だったようだ。そんなところがあろうとは、台湾は狭いと言いながら知らないことはいくらでもある。

張さんの家は街中にあり、林内駅はすぐそこだという。家に招かれると、張さんはお茶を淹れてくれ、奥さんは林内名物という、麺を買ってきてくれた。この麺、ちょっととろみがあり、煮卵が入っており、何とも言えない美味しさで驚く。食後に出された柿とリンゴも甘くてうまかった。台湾のフルーツは時々日本を越えている、と思うことがある。またデザートだと言って、名物の氷芋が出された。これはタロ芋かき氷とでも呼ぼうか。非常に冷たく腹に堪えた。

 

 

お土産の日本茶を渡していると、若者がやって来た。お茶好きらしい。彼は私が出したこーちゃん作成の茶のパッケージを見て、えらく驚き、『これは凄い、誰がこんなもの、作り出したんだ』と喜んだ。10分ぐらいして、そのこーちゃんから突然メッセージを受け取った。『今突然中国語でメッセージを受け取ったのだが、意味が分からないので翻訳して欲しい』と。その若者に、『これはお前が打ったのか』と聞くと、『何で知っているんだ、日本は狭いな』と笑う。今の時代の検索とスピードには脱帽だ。

 

張さんのテーブルの上には新聞記事など、過去の栄光が挟まっている。製茶師として色々と賞を取り、この辺ではけっこう有名なのかも知らない。そしてちょっと目を惹いたのが『世界緑茶コンテスト』という文字だった。これは日本の静岡で行われているものではないのか。何で張さんがこれに関わって賞を取るんだ。

 

すると意外な答えが返って来た。『実はタイで製茶指導をしていた時に、偶然出品の話があり、何で緑茶コンテスト、と思ったが、入賞したんだよ』というではないか。何だか聞いたことがある話だ。しかも2009年の受賞、まさか?タイ北部チェンライの茶園、チョイフォン?そこはバンコック茶会でお世話になっている日本人Mさんの関係先で、彼女がこのお茶を持ち込んでいたのだ。何とこんなところでまた繋がってしまった。茶縁恐るべし。しかもMさん、ちょうどご主人と台北旅行中!すぐにメッセージを送ると本当に驚いていた。ただMさんと張さん、直接の面識はないらしい。

 

 

この付近の茶作りの歴史を聞いてみた。1950-60年代にこの街の上、標高350mぐらいの坪頂で茶業が始まり、2-30軒の製茶場が作られたという。張さんの実家もそこにあり、茶作りをしていたことから、彼の今があるようだ。だが80年代には凍頂など、標高の高いところに茶畑が動いていく中、多くの製茶場が閉鎖されて行ったという。張さんは製茶技術を生かして、外で茶を作り、その茶を売るという商売になった。今では林内で茶業に関わる人がごくわずかだという。

 

 

その坪頂に登ってみる。眺めは良い。張さんの実家にはお母さんが住んでおり、天気が良いので、近所の人とおしゃべりしていた。近くには樹齢200年と言われるマンゴの木などが、高々と聳えている。この村の歴史は長いようだが、また長く困窮が続いていたとも歴史は述べていた。

 

 

夜は古坑に行こうという。古坑と言えば、コーヒー発祥の地などと呼ばれ、今やコーヒーで有名だ。私は行ったことがないので大歓迎だった。林内から車で30分ぐらい、かなり山を登り出す。着いたところは真っ暗。下は見えるが夜景という程の灯りがない。そこにはおしゃれな民宿があり、食事もできる。そこで鍋を食べる。夜はかなり涼しい。標高も高いのだろう。更にそこで古坑コーヒーを味わう。ちょっと酸味がある。

 

山を下りると、何と車で埔里まで送ってくれるというので恐縮した。約1時間半かけて、埔里に着いた。今日は一日張さんに世話になってしまった。ところがシャワーでも浴びようとしていると、何と張さんがすぐ近くのお茶屋に寄ったから来ないか、と聞いてきた。その店は知り合いだから、ちょっと顔を出すと、張さんとそこの許さんは福建で共に茶に関係していたらしい。何とも世界は狭い。更には改良場を引退して埔里に住む老人まで現れ、茶談義が華々しく繰り広げられた。解散したのは深夜12時、張さんは車を飛ばして林内に帰っていった。

ある日の埔里日記2017その6(1)日台イミグレの怠慢?

《ある日の埔里日記2017その6》  12月2日-27日

今年は1月から数えて6回目の台湾訪問となった。勿論これが今年最後の渡台となる。毎回振り回され、そしてワクワクする台湾茶の旅。今回も一体何が起こるのか、自分でも興味津々だ。包種茶の歴史も原稿は書き上げたものの、何となく不完全燃焼だ。果たして今回はどんなドラマが待っているのか、積極的に楽しむしかない。

 

12月2日
埔里まで

もう毎度のことで慣れてしまったが、成田空港までの道のりにも飽き始めている。でも行かねばならない。今日は土曜日だから朝のラッシュもなく、何とものんびりと電車に乗っていた。私は土日に出発することが多いように思えるが、それは週末の方がチケットが安いからなのだろうか。統計を取ったことはない。

 

成田空港でイミグレーションを通る時は、いつもスタンプの場所を指示している。それは日本人なら個人が希望した場所にきちんと押してくれるだろうという十分な期待があるからだ。ところが今日、イミグレを通過して何気なく見てみると、何とスタンプがほぼ判別できない状態になっている。

 

驚いて横にあるオフィスに行き、その旨を伝えると、最初は『何?』という顔をしていた係官。出国スタンプは海外では重要なので、と言い添えると、『確かにこれは良くない。担当にはもうし伝える』と言いながら、取り消し印を押し、再度スタンプしてくれた。ただこれではあまり意味がない。私が場所を指示するのは、少しでも余白を残したいからだが、これではむしろ無駄に使われてしまっている。最近の日本人はスタンプもまともに押せないのか、とちょっと憤慨する。

 

今回は2か月前に抑えていたエバ航空で行く。とにかく最近は台湾行の航空券がどんどん高くなっていて困る。LCCはそれほど安くないので、やはりご飯が出たりする既存の航空会社がよいと思ってしまう。でもANAなどは日本人客ばかりで満員。しかも何となく落ち着かないから、エバはちょうどよい。

 

定刻に桃園空港に着き、いつものルーティン。なぜかシムカード買うといつもスマホ内の残っている日本のシムデータを消したがるから困る。何故なのだろうか。中国でもタイでもそんなことは必要なのだが?パスポートをコピーしようとしたスタッフが何やら困っている。ビザはどうしたんだ、と聞いてくるが、ノービザだよ、と軽く返す。だがそれでも収まらない。よく見るといつもは90日、と入国スタンプに記載されているのに、今日のそれにはないのだ。ええ、ビザ無いのに、居留ビザ用のスタンプ、押しちゃったよ。それとも今日から無限ノービザなのか。中華電信も、まあいいか、ということでなぜか終了。

 

それからMRTに乗り、高鐵に乗り、バスに乗り、いつものように埔里の街に着く。本当に判で押したように午後8時になってしまう。多少のズレがあっても。結局はどこかで調整されて同じになる。鍵はいつものところにあり、重い荷物を持ち上げて3階の部屋に行く。1か月ぶりだが、かなり涼しく感じられる。もう秋を通り越しそうだ。

 

夜8時を過ぎたら食べる所はないので、いつものように餃子屋へ向かう。これまたいつものようにコーンスープとぱりぱりした棒餃子を頂く。この棒餃子、北京では食べたことがあるが、台湾にもあるというのが面白い。台湾に大陸の古い料理がいくつも残っている。外省人の名残だろうか。

 

12月3日(日)
日曜日は休み

今日は日曜日だから動きはなしだ。しかも昨晩来たばかり。いつものように食料などを買い込む。バナナ売りのおじさんと会話。バナナの値段、少しずつ上がってきているようだが、まさか今年の頭ほどは高くないだろうな。暴騰から暴落、台湾農業で演じられる光景だが、あまり見たいものではない。

 

夕方、葉さんと会うと、茶でも飲むか、と言って、飲みだした。一昨日渋谷のヒカリエで開催された日本茶アワードで購入してきた、日本煎茶、紅茶、烏龍茶を飲んでみたが、どれも彼の好みではなかったようだ。確かにアワードでの受賞茶なので、美味しいと言えば美味しいのだが、台湾人にウケるかというと疑問は残った。むしろ狭山茶のこーちゃんが開発した、龍をあしらったティバッグのデザインの方が余程彼のツボに入ったらしい。茶というのは、勿論飲んでなんぼの物だが、その周辺も重要ではあると感じる。

 

葉さんの奥さんからは前回『ワカモト、買ってきて』と頼まれたので、今回近所のドラッグストアーで3つ買って持っていった。どうやら台湾ではテレビコマーシャルをしており、かなり人気らしい。価格も日本の空港では免税ながら定価なので、ドラッグストアーで買うのが安く、台湾の売り値の半額ぐらいらしい。

 

夕飯は久しぶりに脂っこいものが食べたくなり、近くの定食屋で鶏腿飯を注文した。この店、あまり愛想はないのだが、飯の盛りがよく、おかずも多くて、好きなのだ。池上弁当屋では鶏腿飯弁当は100元するのだが、こちらは70元とリーズナブル。商売に愛想が要らないようだ。

ある日の埔里日記2017その5(9)鹿谷で勉強

10月31日(火)
鹿谷へ

翌朝は鹿谷へ向かった。これもいつものように高鐵台中駅までバスで行き、そこで台湾好行に乗り換える。今日は平日であり、天気もそれほど良くないので、空いていると思って行ったが、それでも渓頭へ行く観光客はいた。大体は年配者で、トレッキング目的のようだ。私のように途中下車する者は2-3の地元民以外いない。

 

9時半頃には鹿谷農会前に到着した。そこでUさんに電話を掛けたが、また寝ていた。昨晩は夜中の3時まで製茶していたらしい。ちょっと待っていると彼ら3人は2台のバイクでやって来た。ここではバイクは必須アイテムだ。農会にショップがあり、お茶などを販売している。まずはお土産として、Uさんお勧め筍クッキーを購入した。そこへ観光バスから大勢が降りて来たので、退散する。

 

今日は農会の林さんを訪ねることになっていた。林さんには先般、凍頂烏龍茶の歴史をご教授頂き、それらをまとめて雑誌に投稿した経緯があり、そのお礼及び献本のための訪問だった。と言いながら、私には次の目的がある。高山茶の歴史についても、また聞いてしまった。よいヒントが得られたので、これからそれらを検証していこう。

 

それから一軒の茶農家を訪れると、ちょうどお茶を作っていた。そこでも又、高山茶について聞いてみる。私は歴史を追っていくので、いつ始まったが重要なのだが、基本的に茶農家にとっては、いつ商業生産が始まったか、いつ儲かったかが重要のようだ。ただ何処が先に始めたのかは、やはり各地で論争があるのかもしれない。

 

昼ご飯を食べに行く。4人いるとそれなりのものが食べられる。久しぶりに竹筒飯を食べ、炒め物やスープなど、数種類を注文し満足する。これまで鹿谷に来ても、このような観光客が来る店に寄ることはあまりなかった。この店も裏には宿泊施設を持っているが、週末などは泊り客もいるのだろうか。

 

午後はUさんの用事で、茶業改良場の鹿谷工作站に赴く。これまで何度も話には聞いていたが、実際に行くのは初めてで興味津々だった。到着してみると、思っていたよりもはるかに立派な建物で驚いた。てっきり2-3人でやっているのかと勘違いしていたのだ。さすが政府の施設だ。目の前には茶畑が広がっている。

 

ここに先日魚池分場の場長になった黄さんがたまたま来ていたので、Uさんが会いに来たのだ。私も6年前からご縁のある人で、何とも懐かしい。ここでまた、高山茶のこと、緑茶のことなど、様々な歴史について、教えてもらった。これは何とも有り難いことだった。もっと聞きたいことがあったのだが、残念ながら私にはバスの時間が迫っていた。鹿谷は便利な場所だが、夜山を降りるバスは無くなるのが欠点だ。泣く泣くバス停まで送ってもらう。

 

台中駅に戻ると、埔里行バスまで時間があったので、とても気になっていた丸亀製麺に入ってみる。この丸亀製麺、中国でも香港でも見かけており、チェーン展開が非常に早いので注目している。入ってみると、日替わりのようなものもある。どれが一番人気かと聞くと『豚骨うどん』というから驚く。試しに豚骨うどんとお稲荷さん、唐揚げのセットを注文する。

 

豚骨うどんの味をちょっと心配したが、どっこいスープがいい味出していた。麺は心持ち柔らかめだが、ほぼ日本に近い。お稲荷さんだけでなく唐揚げも付くところがいかにも台湾的でよい。これで159元、大盛りでも200元はしないので、日本よりも安く感じられる。メニューも色々と工夫し、麺の硬さも地元に合わせる、この手法、今後どこまで伸びるだろうか。

 

11月2日(木)
東京へ

今日は東京へ戻る日。いつものようにバスで台中、高速鉄道で桃園、MRTで桃園空港に着く。桃園空港でもカウンターは開いておらず待つ。およそ2時間前にチェックインが始まり、早目に済んだ。何しろ成田のカウンターより処理速度がかなり速いのだ。これは有り難い、というか、日本は丁寧にやればよいと思っており、もう少し相手を見た対応を考えるべきだ。

 

今回は往復日系LCCに乗る。座席は予め予約しておいた通路側。確かに予約する時、『この座席はリクライニング出来ない』と書いてあった。私は普段リクライニングしないので問題ないと思っていたが、どうしてその席だけ空いていたのか、搭乗してみてよくわかった。

 

前の人が大きくリクライニングしたので、私のスペースは相当に狭くなってしまったのだ。これではたまらないとリクライニングのボタンを探したがない。それをCAに訴えると『その席はお客様が選んだ』と言われてしまう。確かにそうなのだが、広い座席を売っているこの会社からすれば、狭い座席は割引すべきだろうというと黙ってしまう。

 

まあ3時間のことなので、眠っていればよいと思ったが、ついでに行きの出来事も説明してみた。そのCAは状況をよく理解できたと見え、『家族を引き離してしまったのは申し訳ない』と言い出した。ではなぜそんなことが起こるのかと尋ねたが、彼女はそこをはっきりさせられないようだった。いずれにしてもLCCは安いから不便でも仕方ない、と言ってきたが、既に通常の航空会社がかなり料金を下げてきており、これからはかなり厳しくなるだろうな、と勝手に思ってしまった。

ある日の埔里日記2017その5(7)大稲埕散歩

夜は宿泊先へ戻り、隣の葉さんの家で夕飯をご馳走になる。タイ料理のデリバリー、折角台湾に来たS君にはどうか分らないが、私とUさんには有り難いチョイスだった。久々にタイカレーを食べて満足する。台湾もデリバリービジネスが飛躍的に伸びており、電話一本、いやネット注文で、何でも運ばれてくるようだ。有り難いことだ。

 

夕飯後、台湾の珍しいお茶を並べた品茶会が始まる。葉さん夫妻はお茶全般への興味と業務上から、実に様々な茶を集めており、初台湾のS君のために何種類も淹れてくれた。このダイニングは品茶が出来るような高さになっている。勿論料理教室などにも使える台だ。面白い。お茶も台湾最南端の港口茶から、蜜香紅茶、緑茶など、あまりお目に掛かれない台湾茶が続出。夜更けまで茶を飲み続けることになる。

 

更には葉さん夫妻の現在作っている茶葉入りアイスクリームの試食まで行った。本当に茶葉を混ぜ込んでおり、全部で12種類もある。抹茶や緑茶などお馴染みのモノもあれば、鉄観音や紅玉などの品種モノもあり、食べてみると微かにその品種の味がするという趣向だ。しかも甘さは相当控えめ。これは日本に持っていっても、少なくともお茶好きにはウケるのではないだろうか。台湾では観光地の日月潭などで、既に順調に売り上げを伸ばしているという。

 

10月28日(土)
大稲埕へ

翌朝は台北を離れる前にS君と大稲埕へ行ってみる。S君は昼からUさんと一緒に南投の鹿谷へ行くことになっていた。私は埔里へ帰る。その前に、ここ数日話に出ていた昔の輸出拠点、大稲埕を歩いて見る。MRTで双連駅まで行き、そこから歩きだす。途中にお粥の屋台があったので朝ご飯を食べる。お粥というより、昨日のスープの残りに米を入れたおじやかな。出汁が効いており、何だかとても懐かしい味がした。

 

それから有記茶荘に行く。まだ午前9時過ぎだったが、店主の王さんは既に店にいて、中の焙煎室を見せてもらった。焙煎は行われていなかったが、ほのかに残る茶の香りがいい。大稲埕の茶の輸出、その往時を偲ぶものはもうほとんどないが、ここに微かな残影があった。焙煎包種茶を淹れてもらうと、昨日、一昨日とはまた違った味わいがある。王さんとS君、ほぼ同じ世代の若者たちは、茶業をどうしていくだろうか。

 

それから大稲埕の門まで行ってみる。もうあまり時間が無いので、川を見ることはなく、そこから李春生の教会の脇を抜け、観光客向けの道を少し歩いた。今日は天気があまりよくない。そして最後に林茂森へ行く。ここは林華泰の分家だというがやけにきれいな店になっていた。ここも代替わりし、若者が経営しているという。観光客が大きな缶に入った茶葉を選んでいた。雰囲気は以前と様変わりだ。

 

その店の番頭さんに教わり、ちょっと北に歩くとMRTの駅があった。台北にはいつの間にか駅はどんどんできており、私の頭では追い付かない。ただその路線はちょっと遠回りになっており、私は途中の台北駅でS君と別れ、一人部屋に戻った。S君は指定された駅まで乗って行ったが、Uさんとの待ち合わせに遅れてしまったようで、申し訳ない。

 

荷物を持ちだして台北バスターミナルへ戻る。午後2時のバスは空いていた。そのままバスで眠っていると、もうすぐ埔里というところまで来ていた。やはり結構疲れてしまったようだ。若者と一緒に行動していると、自分がもう若くないことを改めて実感してしまうは悲しい。

 

疲れが出ている時に食べる物、それはニンニクの効いたこってり排骨スープと魯肉飯。これを食べると本当に体がポカポカ温まり、気力が湧いてくる。昼ご飯が何となくなく食べられなかったこともあり、凄い勢いで平らげてしまった。まだ10月末だというのに、何となく涼しい埔里であった。

ある日の埔里日記2017その5(6)南港の包種茶

10月27日(金)
南港へ

本当は一昨日の午後行くはずだった南港に向かう。S君と一緒に泊まっているので、まずは朝飯をと思ったが、ちょうどよいところがなく、サンドイッチでも食べようと駅近くの店に入った。ホットドッグがあったのでそのセットを頼んだが、いつになってもパンが来ない。忘れたのかと思って聞くと、『パン?ホットドッグはそれだ!』と言われたのは、ソーセージ。台湾では熱狗と書いて、ソーセージと読むのだな。初めて知ったぞ。

 

それからMRTに乗り、先月も行った昆陽駅に向かう。ここから前回同様、ミニバスに乗る。U夫妻も合流し、U夫人はスマホを駆使して、行先をチェックしてくれた。前回は黙っていた運転手も可愛らしい女性が行き先を尋ねると、ちゃんと答えていたのでビックリした!10時半には余さんの家に前で降りられたのでよかった。

 

家に上がっていく短い坂の途中から、いい香りがしてきた。何と茶作りをしていたのだ。前回はいなかった奥さんと二人、作業に勤しんでいるところにお邪魔した。もう一人女性がいたが、近所の人かと思っていたら、後で聞くとお茶の研究者だったらしい。名刺交換していくべきだったと悔やむがもう遅い。

 

前日我々は製茶作業を体験済み。設備は馮君のところとほぼ変わらない感じだ。更に機械には年季が入っている。作業内容もちょうど揉捻から乾燥をやっていたが、それほど変わっているようには見えない。二人は昨日の延長でちょっと作業を手伝ったりしているのが面白い。ただ淹れてもらって飲んでみた茶は、ちょっと違っていた。品種の違いもあるだろうが、いい味出している茶があった。

 

余さんはどちらかというと口下手だが、奥さんの方が販売を担当しているのか、色々と話をしてくれた。ただ製茶技術の話しだけは余さんに口を挟まない。何だかとてもいい雰囲気の茶工場だと、Uさんなどは気に入ってしまい、午前中だけの予定を勝手に延長することにした。

 

道路の向かいの茶畑にも降りていき、茶樹や土壌を確認したりもした。やはり今日は昨日と比べると天気は良くない。気候の変化が重要だ。更に家に戻って桂花茶を飲む。この仄かな香りがなかなか良い。この花はちょうど今がシーズンだという。ただ手摘みは梯子を掛けて小さな花を取る重労働。一人が1日で600gしか採れないというから大変高級な花だと知る。

 

昼になると、奥さんが麺を煮てくれた。初めは大鍋に単に麺を煮ただけだと思っていたが、非常に出汁が出たいいスープで驚く。何と中には肉や海鮮などがふんだんに入っているご馳走麺だったのだ。出てきた漬物もうまい。突然やって来たのに、何とも申し訳ないが、喜んでご馳走になった。

 

かなり楽しい時間を過ごし、ミニバスが登っていった時間に外へ出て降りてきたところを捕まえて、帰った。結局4時間ぐらいお邪魔していたことになる。製茶作業中なのに申し訳ない。そのままバスで南港駅へ向かい、そこから動物園まで端から端までMRTに乗っていた。午後の日差しを浴びて寝入る。

 

木柵へ
当初、午後の予定がなかったので、葉さんに『木柵に知り合いはいないか』と聞いてみると、適当な茶荘を探してくれていたので、ちょっと遅くなったが、訪ねることにした。何しろ私などは木柵自体に行ったこともない。どうやって行くのかさえ、知らなかった。動物園駅からバスに乗る。この辺になるとU夫人が活躍する。

 

10分ほどバスに乗ると大きな大学があり、そこで降りる。すぐそこに目指す張協興というお店があった。中にいると、カウンターがあり、そこに座ると向こうからお茶が出てくる。ここは喫茶店ではないが、昔からこのスタイルのようだ。カウンター越しの商売の交渉をしていたのだろうか。さすが木柵、焙煎の効いた私好みのお茶が出てくる。

 

木柵鉄観音茶の歴史を知りたいというと、オーナーの張さんが語り出す。ただその話は鉄観音に留まらない。何と見せてもらった資料には包種茶も出てくる。『実はこの木柵も鉄観音より前から包種茶を作っていた』と言い、更には坪林などとの商売の様子を記す60年前の出納帳が出てくるに及び、当時の包種茶や鉄観音の価格から、お茶だけでなく、日用品まで売買していた記録を見た。往時茶葉を売った金で油などを買っていたのだ。坪林が交通不便な場所にあったことを示す資料ともいえる。

 

鉄観音茶の生産はどんどん減っているようだ。品種としての鉄観音もあまり見られなくなっており、近年は別品種を他の産地から持ち込み、作らざるを得ない状況だという。この鉄観音の歴史及びその製法などにはとても興味があり、次回機会があれば張さんの焙煎室などを見せてもらうことを約した。

ある日の埔里日記2017その5(5)突然坪林で製茶する

突然の坪林

黄さんに坪林の駅まで送ってもらい、台北へ引き返そうとしていた。台北駅では初めて台湾にやって来た静岡のS君と、台湾に仕事で来ているUさんとの待ち合わせがうまくいかずに悪戦苦闘していた。その様子をSNSでみていたので、何とか合流して、皆で南港へ行こうと考えた。

 

そこへ坪林の馮さんから連絡が入って来た。『今日は天気がいいので茶摘みが行われている。明日は雨の可能性もあるので、今日来てくれないか』というのだ。これには驚いた。確かにここ数日天気が悪く、お願いしていた製茶が出来るのか心配はしていた。だがまさかこんな展開になろうとは。

 

どうするか、今晩は茶工場に泊まりこむのにその用意は何もしていない。お土産は勿論、資料も全て部屋に置いて来てしまっている。これでも行くべきなのか。しかしもし明日茶摘みが無ければ製茶を見る、することは出来ない。結局製茶を優先するため、急いでUさんに連絡を入れ、S君も探して連れてきてもらうことにした。

 

新店から坪林へ行くバスは1時間に一本。ちょうど1時間待って彼らはなんとかやって来た。そしてバスに乗り込み、坪林へ向かう。Uさんの奥さんも一緒だが、何も持っていなのも一緒。申し訳ないが、何とも致し方ない。3時過ぎには坪林の祥泰茶荘に到着したが、やはり天気は良かった。

 

ところが馮君は悠々としている。茶作りするなら忙しい時間のはずだが、お茶など淹れてくれている。30分ぐらいして、どこからか連絡が入り、ようやく工場の方へ移動した。ここは以前、間違って製茶体験に参加してしまった場所なのでよく覚えている。我々が到着後、誰かが生葉を持ち込んできた。既に時刻は4時、日は西に傾き、日光萎凋のタイミングはギリギリだ。

 

いや、日光萎凋はなかった。そのまま室内に持ち込まれた茶葉は萎凋槽に放り込まれ、堆積されていく。それからは馮君の温度管理が始まり、いわゆる熱風萎凋が行われている。時々温度を見ながらかき混ぜている。S君も自分の機械を持ち込み、色々と調査をしている。2時間後には茶葉を笊に移す作業があった。この辺の手作業はかなりしんどい。ついでに攪拌作業も行われる。

 

夜7時ごろ、夕飯になる。労働の後の飯は旨い!と言っても私は殆ど何もしていない。麺と卵焼きだ。でもゆっくり食べている時間はない。かなり作業がせわしない。その後も断続的に攪拌、揺青が続き、かなり夜も更けていく。S君は『お茶を飲まないと眠れない』と言い、自分の茶を取り出して、台所で飲み始める。確かにお茶を飲むとホッとする。でも製茶している時に悠長にお茶を飲んでいる人などいるのだろうか。

 

一体どこで寝るのかと思っていると、何と茶作りをしているその部屋に寝袋が持ち込まれている。さすがにこの季節に寝袋かと思ったが、何と室内では空調が使われており、寝袋から出た頭が寒いのだ。風邪ひきそうだと思いながら、12時頃に一番乗りで寝入ったらしい。さすがやはり、どこでも寝られるタイプ。

 

10月26日(木)
製茶2日目

夜中12時に寝たのだが、午前3時に目覚ましが鳴る。ここでまた揺青の作業が始まる。茶葉を笊から揺青機に移し、機械を回したらまた茶葉を笊に戻すという何とも原始的な作業だ。ただ意外と力がいる。寝ぼけ眼でやる作業ではない。体がかなり温まる。そしてまた寝袋へ収まる。更に朝方トイレに起きる。その後はもう眠れなかった。でも6時にはまた作業が始まる。そういえばスマホの充電器だけはバックに入れておいたので、充電できてよかった。これからも何があるかわからないのだから、常に充電器は持ち歩くようにしよう。これがないと時間も分らず、連絡も取れず、大変なことになるのだ。

 

朝ご飯を食べ、バタバタ過ごしていると、馮君のお爺さんがやって来た。85歳、足が少し悪いので杖をついているが、元気だ。お爺さんはここに住んでいる。昔の話を聞くと、実に面白い。体の大きなその老人は、若い頃は自ら茶葉を担いで商売に精を出していたのだろうと見受けられた。

 

午前9時過ぎについに殺青が始まった。ここからは流れ作業で殺青された茶葉は揉捻され、その後乾燥する。この作業は人数がいた方がスムーズだった。結局3時間弱これが続き、一応の終息を見た。尚乾燥の機械はとてもユニークで子供の遊びのようで、リズミカルに茶葉を下へ落としていく。

 

軽く昼ご飯を頂いて作業は終了した。店に戻って、お茶を飲んでいると、トミーがやって来た。忙しい中、時間を作ってくれ、我々をもう一軒の茶工場に連れて行ってくれるというのだ。何とも有り難い。ただ近いと思っていたその場所は坪林の街から山道を車で20分以上入ったので驚いた。

 

こちらもちょうど夕方に茶葉が運び込まれ、熱風萎凋の最中だった。ここのオーナーも代替わりして、30歳ちょっとの若者兄弟が茶作りに励んでいた。機械設備はかなり新しく、量産する方向なのだろうか。最近いいお茶を作っていると評判だという。青農とも呼ばれる若手農業家、これからが楽しみだ。茶畑を見に行くと手で茶葉を摘んでいた。今やごく一部らしいが、機械摘みよりよい風景だ。

 

トミーの車で台北まで送ってもらった。取り敢えずS君の荷物を部屋に置き、4人で夕飯を食べに出る。腹が減っており、近くの餃子チェーン店に入った。S君は初の台湾で、昨日、今日とほぼ普通では味わえない体験をしており、今晩も焼き餃子中心。なかなか凄い台湾体験だ。

ある日の埔里日記2017その5(4)新店の包種茶

10月24日(火)
台北へ

昨日台北の近くまで行きながら、埔里に帰った。しかし今日から数日は台北に滞在することになっている。これなら昨日のうちに台北へ行けば楽だったはずだが、まあ旅とはそんなものだ。効率的な動きをすればよいというものでもない。包種茶の歴史を調べる為の準備も必要になる。結局午前中はその準備に追われ、慌ただしく荷物をまとめてバスターミナルに向かった。

 

午後3時発の台北行きバスに乗り込む。週末に比べてバス代が少し安いのがよい。ただ夕方の到着なので、渋滞などでの遅れが気にかかる。特に新竹あたりが込み合うらしいが、この日はそれほどひどい状況はなく、6時過ぎには台北に入ってしまった。今晩も葉さんのところに厄介になる予定なのだが、LINEしてみると『まだ会社にいる』というのだ。

 

取り敢えず最寄り駅まで行き、どこかで食事でもして暇をつぶそうかと考えた。駅を上がるとふと思い当たることがあった。確かこの近くに茶荘があったはずだ。探すとその店はすぐに見つかった。茗心坊、ソロっと入っていくと、林さんがそこにいた。FBではお互い見ているので、1年ぶりとは思えない。

 

ここに荷物を置いて、お茶を飲みながら、葉さんの帰りを待つことになった。何とも有り難いことだ。おまけにお茶のヒントももらえるし、お茶の本まで頂戴してしまった。林さんが得意の高密度焙煎によって作られたお茶、これを球形にして保存する活動も更に進んでいた。何年経っても飲めるお茶、面白い。

 

約1時間お邪魔して、帰って来たとの連絡を受け、葉さんの家へ行く。鍵を受け取り、それから食事に出た。この付近にはレストランは沢山あるが、なぜか吉野家へ向かう。日本ではまず行くことはないのだが、なぜか台湾だとたまに行きたくなるのだ。それはきっと28年前、単身赴任していた時、良くタクシーに乗って吉野家に行ったことが頭から離れないのかもしれない。牛丼とコーラ、このあり得ない組み合わせに嵌ってしまい、その後苦労した。だが今では台湾の吉野家にもこの組み合わせはない。

 

10月25日(水)
新店の山の上

翌朝は9時前に宿を出て、近くの銀行に向かう。9時ちょうどに銀行が開き、両替を行う。どうも埔里の両替レートは低いのではないかと思い、台北で行ったのだが、結果はあまり変わらない。台湾ドルが強くなっているだけなのだろう。ビル内のトイレに入ると、禁止事項が絵で示されていたが、何と便座で逆立ちしている絵を見て、思わず『台湾人凄い!』と思ってしまった。

 

それからMRTに乗り、新店駅へ向かう。今日は先日紹介された黄さんに会いに行く。彼は『実は包種茶は新店が発祥だという先生がいる』と言い、その先生とは何と家のゴミ出しで知り合ったというのだから、いかにも台湾的だ。その先生に話しを聞きたいとお願いした訳だ。

 

黄さんが迎えに来てくれ、山道を走る。彼の家も駅から4㎞離れているというが、すぐに山になる。そのままドンドン山の中へ。聞けば先生のところではなく、別の場所を訪ねるというのだ。着いた場所は、完全に山の中の一軒家。そこからは台北が一望できるほど、景色は良い。

 

ここに高さんが居た。高さんの家は代々お茶を作ってきたが、今も細々と続けているらしい。この家はお客がくれば、お茶を出し、食事も出す、レストランにもなっている。ここで高さんから新店の包種茶の歴史を聞き、大いに勉強する。包種茶の発祥は南港なのは間違いないが、そこから皆が学んでいき、新店では素晴らしい作り手が出たという。だが1960年代には、既に茶畑は無くなり始め、包種茶も見られなくなったらしい。

 

昼時になり、ご飯をご馳走になった。肉団子のスープに麺を付けて食べるつけ麺、台湾で初めて食べたがうまい。野菜も新鮮でよい。思わぬご馳走に唸る。このいい景色で、美味しい料理、黄さんも初めて来たと言い、今度は新店在住者で再訪したいと言っていた。これも茶旅の副産物だろう。

 

高さんが『文山農場に行こう』と言い、車2台で出かけた。山をだいぶ下ったところに、農場はあった。ただ今は農場というより、キャンプ場、BBQ場として使われているらしい。その中に古い製茶場が残されている。今は観光用として、簡単な展示が行われている。ここが昔の茶業伝達場だったというから、包種茶の講習会も行われたのではないだろうか。

 

因みに農場の入り口付近には石碑が建っていた。そこには1916年に道路が修繕されたとあり、大稲埕の会社が資金を出したらしい。これはこの付近に当時人がかなり住んでおり、且つ何らかの産業が営まれていたことを示している。これが茶業である可能性も高いのではないだろうか。