「台湾」カテゴリーアーカイブ

ある日の埔里日記2017その6(15)講茶学院と台大図書館

次に講茶学院の台北店に向かう。ここはトミーのお姉さんがやっているというので、一度行ってみたかったところだ。場所は行天宮の近くのちょっと店が入り組んだ狭いエリア。次回一人で来られる自信はない。そんな中に、おしゃれな空間が存在した。お姉さんには初めて会うのだが、とても初めてとは思えないほど、馴染んでしまった。これも日頃、トミーと一緒に活動しているからだろう。

 

ここでは希望すればお茶のテースティングが出来るだけでなく、色々な説明が受けられる。ここのお茶の品質は既に朝確認済みであり、安心して飲める。W夫妻は嬉々としてお茶を飲み、質問を繰り返している。かなり香りがあるもの、水色がきれいな物など、6種類ほどを勉強がてら飲んでいる。ここはお店というよりは勉強の場であり、もし勉強したい人がいれば、日本語のできるスタッフもいるので、事前に予約した上で訪ねてみるとよいと思う。

 

トミーは用事があると言って帰っていき、我々は早めの夕飯に向かう。食事の場所はトミー姉が案内してくれたが、そこは先日行ったレストランだった。だが料理の注文まで彼女に任せたところ、やはりかなり違ったメニューとなり、それを更に美味しく頂いた。なんでこんなに美味いんだろうか、と言いながら、1日分以上食べた。その上W夫妻にご馳走になってしまう。今日も1日、充実していたな。

 

12月27日(水)
台湾大学図書館

翌朝は涼しかった。今日は東京へ行く予定となっているが、それは午後だったので、取り敢えず台湾大学に向かうことにした。台湾大学の図書館、ここには沢山の資料が眠っていると聞いていたためだが、何と今宿泊しているところから歩いても20分はかからないと知る。これもご縁だろうか。

 

歩いていくには、やはりスマホのマップが必要であった。台湾大学の裏門まで15分位だったろうか。近づくと、学生街らしい安い食堂があったりしてよい。大学内のキャンパスも広そうだ。どこか東大の本郷を思い出してしまう。図書館はほぼ中央?にあり、何とかたどり着く。古びているが立派な建物だ。

 

図書館に部外者が入るのには、手続きがいる。だがそれも設置されたPCを使い、入力すれば自動的に登録され、パスポートと引き換えにパスが渡される。ただ荷物の持ち込みは出来ないとのことで、地下1階にあるコインロッカーに入れに行くのがちょっと面倒だが仕方がない。やっと入館すると1階正面に伊能嘉矩の足跡を示す展示が行われていた。伊能嘉矩は日本統治時代初期に台湾全島を歩き、原住民を分類し、田畑の実態なども調査したという。その困難は大変な物だったろうが、今でもその時の調査記録が引用されるほどだから、当時の台湾にとっては重要な調べだったはずだ。

 

この図書館の5階には、日本時代の資料もあるというので、エレベーターで行ってみる。確かにそこだけ別枠になっており、中に入ると、受付がある。声を掛けられたので、『日本統治時代の茶の資料を探している』というと、PCで検索してくれた。私は注音が打てないので、台湾に来るとこういう羽目になるのだが、ここのスタッフはとても親切だった。

 

ただ思うような資料にはなかなか巡り合わない。時間もあまりない。何とかいくつか資料をピックアップすると、何とスタッフがそれを取りに行ってくれる。有り難いやら申し訳ないやら。一般開放していないのだろう。そして2つの資料をコピーしようと思ったが、何と地下のコピー室からおばさんがやってきて、『こちらでコピーする』というのには驚いた。しかも『すぐにはできないので、後で取りに来て』というではないか。

 

来月またここに来て同じ資料を出してもらい、同じ問答をするのもどうかと思い、予約金を払って、コピーをお願いした。まあ、今回仕組みが分かったので、次回はゆっくり勉強に来よう。その時、コピーを回収すればよい。急いで宿泊先まで歩いて帰り、荷物を取って台北駅からバスに乗り、桃園空港へ向かう。お決まりのパターンでストレスは何もない。年末の東京、電車も空いていた。

 

今年の茶旅が終わった。これまでと異なり、少し定住型に移行してみた。台湾茶の歴史、中国紅茶の連載のため、目的を持った茶旅に変化している。体を少し楽にして、その分頭を使えれば、それもまた良い。2018年も継続して、茶旅が続けられることを願うのみである。

ある日の埔里日記2017その6(14)激白!台湾茶輸出の歴史

12月26日(火)
朝から晩まで茶

翌朝は早く起きた。そしてお湯を沸かす。トミーから昨日もらった茶葉を取り出して、写真を撮る。それから茶葉を湯に浸し、水色を確認する。7種類もある。緑茶、部分発酵茶(包種茶、高山茶、凍頂烏龍茶、白毫烏龍茶、鉄観音茶)、紅茶、これは意外と大変な作業だったが、お茶そのものが予想以上の品質で、美味しいため、思いのほか、口に含んでごくごく飲んでしまう。

 

なんで朝からこんなことをしているかというと、実は台湾の日本語雑誌、『なーるほど・ザ台湾』の2月号にお茶の特集記事を書くように頼まれ、同時にお茶の写真を求められたからだった。台湾茶の種類、という項目だったが、どうやって説明するのかには苦労し、結局改良場のHPに書かれた通りとした。

 

トミーのところには100種類以上の茶葉があるので、それを拝借したのだが、その質が想定より高かったので驚いたわけだ。ただいくら品質が良くても、その味や香りが写真上で表現できるわけもなく、私一人が楽しんで味わってしまっていた。それでも朝から7種類となると、結構な時間がかかり、また飲むのも大変だったことは間違いない。

 

それが終わると、MRTで一駅先の大安森林に向かって歩く。今日は以前関西でお世話になった羅さんに、出来上がった雑誌を渡すことになっており、モスバーガーが待ち合わせ場所になっている。このモスバーガー、もう30年近く前、電機屋の黄さんが『これからは台湾でも流行るよ』と言って始めたものだが、今では台北を歩くとよく見掛けるまでになっている。一つずつの店舗は小さいが、着実に伸びているのだろう。

 

取り敢えずその店に入り、朝飯代わりの注文をする。この時間帯でも店が狭いせいか、結構お客がいる。席について、また羅さんに連絡するが電話にも出ない。これは何かあったのでは、と心配になるが、連絡手段をそれ以上持ち合わせておらず、どうしようもない。ただただ待つ。食べ物も食べ終わり、飲み物を飲んでも、事態は変わらなかったので、ついに30分後に店を出て、宿へ帰った。

 

宿に辿り着くと羅さんから電話が入る。どうやら奥さんがちょっとしたけがをして夜中に救急病院に運んだらしい。それが一段落したので寝入っていたという。今から来るというので宿の前で待つと、車でやってきてくれた。そして私の次にアポが製茶公会であると知ると、車を円環方面に回し、ホルモン系の美味しい店に連れて行ってくれた。客家系の料理は何でも好きなのだが、ここのスープも美味しかった。

 

それから製茶公会のビルに向かう。そこで東京から来たWさん夫妻と待ち合わせた。お茶関係の知り合いでたまたま台北に来たので、合流した。公会では、6年ぶりに会う黄正敏さんが待っていてくれた。トミーのアレンジだ。やはり台湾輸出の歴史は黄さんに聞くのが一番良い、という結論に達した訳だ。黄さんは数年前に既に台北のお店も閉め、今は公会顧問の肩書はあるが、悠々自適に見える。

 

黄さんには約7年前、2度ほど流ちょうな日本語で台湾茶の歴史を教えてもらい、大稲埕を一緒に歩いて説明までしてもらっていた。更には当時の第一人者、徐英祥先生まで紹介してもらい、先生が亡くなる直前に一度だけお会いすることができ、そこから魚池の改良場まで繋いでもらい、今の私の立ち位置がある。まさに大恩人なのだ。

 

私は台湾茶輸出の歴史を改めて問うた。そこから2時間半、黄さんの怒涛のような講義が始まった。特に光復後の台湾茶の変遷、10年ごとに変わる流れ。紅茶、包種茶、煎茶、烏龍茶、その生々しい話にはやはり迫力があった。北アフリカから日本や中国、そしてピンクレディーや伊藤園まで登場するから、話の幅が半端ない。

 

我々日本人が知らない日本の歴史も次々に登場する。あー、お茶の歴史は日本史や台湾史、いや世界の歴史に直結しているのだな、と改めて感じる。それにしても80歳の黄さん、どうしてあんなに元気なのだろうか。6年前より確実にアワーアップしている。やはり全てから解放されているのだろうか。

 

それにしても、黄さんの他、理事の羅さん、事務局長の範さんと娘さん、そしてトミー。そうそうたるメンバーがこの会合に出ていたが、黄さん意外にしゃべる人はなく、私が1つ質問すると、滝から流れ落ちる水のように答えが返ってくる。これは録音しておかないととても整理できないな、と思った頃、この会は終わってしまった。刺激は強かったが、私の中に何が残っただろうか。曲がり角にやってきた台湾茶に関しても、参考になる話だったと思う。

ある日の埔里日記2017その6(13)クリスマスの日に

12月25日(月)
老舗上海料理屋

今朝はゆっくりしていた。10時過ぎに朝昼兼用の食事をするためTさんと待ち合わせの場所に向かった。そこは中山堂の裏。中山堂、もう20年以上前に来た記憶があるが、当時の様子は殆ど覚えていない。ここは1936年、台北公会堂として建てられ、日本軍の降伏調印式も行われたところ。光復後は台北中山堂として活用され、今も演劇などが行われているらしい。時間があれば中に入ってみたかったところだ。

 

今日は午後坪林に行くので、Tさんに無理を言って11時からのランチとした。場所は隆記菜館、1953年の開業以来、上海料理の味を守っている老舗だという。私が上海に留学したのは32年前、何となく昔の雰囲気がある。前菜系は店の前で見ることができるが、店に入って選ぶ。

 

出てきた料理は味の濃い、昔上海で食べたような雰囲気のある物で、すぐにご飯が欲しくなる。突然30年も前の味を思い出し、これにはちょっと驚く。紅焼、というのだろうか。豚角煮など、勿論今でもあるのだが、ここのモノは何とも懐かしい。白米ではなく、菜飯という独特のご飯が出てきた。台湾には時々こういう店がある。既に本家では味が変わってしまっているのに、台湾に昔の味が残っているケースだ。

 

数年前に台北の広東料理屋で食べた炒飯などがまさにそれだった。ある意味でブラジル移民の人々に古い日本精神や日本語が残っているようなものではないだろうか。台湾の料理は、実は全中国から来ている。それは国民党とともにやってきたわけで、この店もそういった経緯から出来、そして味を残しているのだと思う。

 

昼前からお客がどんどんやってきて、1階しかない店舗はすぐに満員になってしまった。ある程度年配のお客が多いのは、やはり馴染みの味を求めてくるのだろう。元々上海出身のいわゆる外省人も、もう90代となり、今はその子孫の時代に入っている。こういうお店がこの付近には数軒あるようだが、今後も続いていくだろうか。続いて欲しいものである。

 

坪林へ
Tさんと別れて、新店へ向かった。今日も坪林へ行くのだが、いつも同じルートではつまらないので、今日は大坪林駅で降りて、ここから羅東行のバスに乗ることにした。このバスは新店発に比べて料金がかなり高い?ので、敬遠していたのだ。ただ今日は新店でのバスの時間が分かっていたので、早く着くこちらにしてみた。

 

このバスは待合室もあり、バス自体も豪華で料金が高いのも頷ける。平日の昼間ということもあり、30分ちょっとで坪林に着いてしまった。予定していた時刻よりずいぶん早く着いたものだ。バス停が学校の前だったこともあり、取り敢えず時間潰しに老街を散歩する。数年前に一度歩いたことがあったが、この時期、観光客は皆無だった。あまり歴史も感じられない。

 

祥泰茶荘に行ってみると、馮君がいたので、ラッキーと思ったが、やはり先客があった。若い夫妻、紹介されてみると、何と何と、台北大稲埕のあの新芳春茶行、今は博物館になっている茶商だが、そこの設計を担当しているというのだ。更にはその奥さんは、あの博物館で私に歴史を教えてくれた陳さんの娘だというではないか。やはりお茶の世界は狭い!

 

馮君は彼らと食事に行ってしまい、私は次男君とお茶を飲んでいた。お父さんもお母さんも『なんだ、また来たのか』という感じで、特にお客扱いされないのが何となく嬉しい。ダラダラしていると馮君が帰ってきて、『2階の倉庫見る?』と聞いてきたので、一緒に2階に上がる。

 

そこには古い布袋が沢山置かれていた。中には米軍が使った小麦袋を流用したものなどもあり、ここにあるお茶の年代は相当古い、しかも量が多い。これが老舗の茶荘だ、ということだろう。ここにどんなお茶が潜んでいるのか、それは当人達でもすべては把握できないという。

 

今回ここに来た目的は、10月下旬にここで作ったお茶を受け取ることだった。あの1泊2日で作られたお茶が一体どんな仕上がりになったのか。飲んでみると、意外や香りがあり、味もまあまあだった。これなら一応人にも飲ませられるなと思い、日本に持ち帰ることになる。

 

帰る前に馮君が連れて行ってくれるというので、車に乗り込んだ。実は先日彼から、『坪林にあった日本時代の茶廠跡』という写真が送られてきたのだ。その現場を訪ねてみる。そこは街からそれほど離れてはいなかった。建物の外壁だけが僅かに残っており、完全な廃墟となっていたが、非常に大きな建物で驚いた。天井も高いので、包種茶というより紅茶でも作ったのかと思ってしまう。現時点で坪林に大規模茶廠があったという歴史には辿り着いていない。機会が有れば、探っていこう。

 

葉さんの家に帰ってみると、トミーがやって来た。ちょうど台北にいるので皆でご飯を食べることになったのだが、今日はクリスマス、外は騒がしいので、食べ物を託送してもらい、家で食べることになったのだ。食後は何と品茶会。先日訪ねた港口茶などを飲み比べた。葉さんのご両親もちょうど来ており、一緒に飲む。さすがに著名茶業家、茶業歴60年以上のお二人からは、結構厳しい評価が飛んできて驚いた。でもこんなお茶会、何とも楽しい。

ある日の埔里日記2017その6(12)原住民の憩いの場

12月24日(日)
原住民の庭へ

今日はクリスマスイブ。台湾でもクリスマスムードが高まっていて驚く。ただケーキを買って食べる習慣はなさそうだ。そんな日に私は地下鉄に乗り、輔仁大学へ向かった。駅を出ると大学キャンパスがある。ここはキリスト教系の大学であり、今晩は盛大なミサが催されるという。偶然ながら、今日ここに来たのには意味があるように思えた。

 

キャンパス内を歩いてみると、教会があり、創設者などの像がある。この大学は中国大陸で設立され、新中国建国後、台湾の地にやって来たらしい。確かに共産中国ではキリスト教系の学校が生き残るすべはなかったかもしれない。そして更に進むと、なぜか台湾原住民の文化が展示されている。

 

そう、本日私は、この大学で民族研究をしているセデック族のパワン先生を訪ねて来たのだ。先生とは先日眉渓でセデック族の結婚儀式の1つを見学した時、出会った。その地域のほとんどの原住民がキリスト教徒だった。それは光復後の政策が関連している。日本が去った後、多くの宣教師が山に入り、布教活動を行った。そして物資欠乏の中で、食べ物を与え、教育の機会を与え、信者を獲得したという。勿論個々の宣教師が困難な中、山の民に尽くしたという功績も大きい。この大学に民族学研究施設があるのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。

 

門のところでパワン先生と会い、車で少し離れた場所に行く。そこは台北とは思えない、のどかな田舎の雰囲気が漂っている。先生夫妻が独力で建てたという小屋と、決して広くはないが、周囲の菜園が心地よい。ここは都会の原住民部落ように見える。昼ご飯としてまずは麺が茹でられ、向こうでは火が熾され、肉や魚が焼かれている。その風景が何とも似合う場所だ。

 

そこに知り合いの女性もやってきて、賑やかな食事となる。現在原住民の多くが台北などで仕事をしている。彼らにはホッとできる、自然な場所がなく、ここに集まって来るらしい。憩いの場だ。中には台湾人で興味を覚えて声を掛けてくる人もいるらしい。そこには民族的な対立という雰囲気はまるで見られない。

 

いい風が吹いてくる。そんな中で台湾の原住民はどこから来たのか、など、素朴な疑問をぶつけていく。パワン先生はまじめな人で、分からなければ他人の論文などを紹介してくれる。大陸の少数民族とは繋がっていないことを言語学的に説明してくれたりもする。やはり台湾は南洋系民族か。

 

話に飽きてくると、先生は立ち上がり、弓矢を持って菜園の向こうへ行く。何とそこには弓道場??が作られている。原住民の弓を引き、矢を放つ。その恰好は実に堂に入っており、格好良い。今では全台湾で競技会なども開かれており、そこで他の原住民とも交流が生まれているという。伝統文化の継承と交流、興味深い。

 

今晩はクリスマスのミサがあるのでパワン先生たちは準備のために家に帰り、この楽しいひと時は終わりを告げた。そして私はバスに乗り、台北駅まで引き返した。台北駅の脇には北門が建っている。その横にいつの間にか、古い建物が現れていた。日本統治時代の総督府交通局鉄道部の建物だったと書かれている。後ろには食堂などの建物も残されている。現在ここの改修工事が行われており、将来的には観光資源になるのだろう。

 

夜はクリスマスイブということもあり、友人たちに声を掛けることはしなかった。しかし一人でレストランに行く気にもなれない。そこで夜市を目指した。夜市ならフラッと言って何か食べられるだろう。折角なのでこれまで行ったことのない松山駅近くの饒河街観光夜市を訪ねて見た。ここは駅からすぐなので行きやすい。

 

夕暮れ時でもすでにかなりの人はいた。店はかなり細い道の両側に並んでいたが、何となく同じようなもの、売れ筋が多いのは致し方ないのだろうか。大型夜市なので特徴はないのだろう。最近は松坂豚肉とか卵焼きなど日本風の食べ物が多い。思わず、まるまる焼というお好み焼きのようなものを買ってしまった。鰹節とマヨネーズに惹かれてしまう。これは日本にあるのだろうか。

 

他に刺身なども出ていたが、いくら涼しくても、なかなか手は出ない。韓国のブテチゲなどがあるのも面白い。だが何といっても人込みを歩くのは疲れる。1時間も経たないうちに人はどんどん増えていき、今日の疲れがピークとなり、腹は満ちてはいなかったが、早々に退散した。

ある日の埔里日記2017その6(11)猫空の鉄観音茶

12月23日(土)
猫空へ

朝荷物を持って埔里を出る。今年最後の滞在は何となく終わってしまった。また来年も来ればよい。いつものバスに乗り、いつものように台北駅に着く。ただいつもと違うのは、今日は昼間に着いたこと。土曜日なので葉さんも会社は休みなので、昼でも鍵が受け取れるという。そして折角なので、鉄観音茶の歴史調査に誘うと、車で連れて行ってくれるというから有り難い。

 

家に行くと葉さんはケーキを焼いている。どこかへ持っていくらしい。台湾でも自分でお菓子を焼くことが流行っていると聞いたが、かなり本格的だった。そろそろ出発の時間だったが、一向に出掛ける様子がないのが台湾的。こちらは一応相手と約束しているので、気が気ではないかが、行かないものは行かないのだ。

 

ご主人、林さんのお兄さんがアメリカから帰ってきており、彼を待っていたことが分かる。後で聞くとお兄さんは日本に何度もスキーに行っている。雪の質が良いのと便利だからだという。ようやく出発したが、台湾大学で開かれている農業博覧会に立ち寄る。そこに出店している農家に先ほどのケーキを差し入れるためだった。それが済んで、ついに動物園方面に車が動いていく。

 

今日会う予定の張さんに遅れるとメッセージを入れると、『それなら先に博物館に寄ってから来てくれ』と言われる。確かに午後2時を過ぎており、張さんのところに先に行くと博物館が閉まってしまうらしい。葉さんにお願いして、そちらに連れて行ってもらう。ところが週末の猫空は観光客で混みあっていて車も渋滞気味だ。私一人で来たら、バスに乗るのも大変だっただろう。

 

何とか上まで上がるが、駐車場がなく、車が入れないエリアも多く、随分下の方に車を停めて歩いて向かう。途中ほんの少し茶畑が見えたが、基本的にはこのあたりではもう茶は植えられていないことを確認した。到着したところは『台北市包種茶鉄観音茶研発推広中心』という名前だった。

 

何とも驚くのは包種茶という文字が入っていたこと。ここは木柵から続く鉄観音の産地のはずだがなぜ包種茶の名前があるのか。中に入ると、鉄観音茶の歴史の展示があったが、それはほんの少しだけ。やはりこのお茶はマイナーでその歴史は重視されているようには見えない。更にはこの地でも鉄観音の前に包種茶を作っていたという事実が語られている。だからその名前があるのだ。お茶の歴史なんて、そんなものだ。思い込みや刷り込みで語ってはならない。

 

一応事務室に行って、案内を乞うたが、ここには歴史に詳しい方はいないようだった。もう一つ博物館があるので、そちらへ行くとよいと言われたが、今回は時間が無いので断念した。そうか、博物館を間違えてしまったのだ。この建物の一角ではお茶の試飲が無料で、多くの人はそちらへ流れていき、美味しいと思えば購入して帰るようだった。

 

我々は張さんの工房へ向かうべく、車に戻り、出発した。だが週末は一部通行止めもあり、真っすぐに向かうことは出来なかった。何と一度下へ降り、また違う道を登っていくことになる。何とかたどり着いたそこは、賑わいとはかけ離れた静かな場所で、景色もよい。だが張さんは不在だった。

 

連絡するとバイクで来てくれた。どうやら今は焙煎作業中、作業の合間に木柵の店に戻り、別の作業をしているらしい。12月だが、意外と忙しい。思えば、10月末に張さんの店を訪ねた時は、それほど忙しいそうではなかった。我々が前回彼を訪ねたのは、実は葉さんの紹介だった。だが彼女も張さんに会ったことはない、というので、またご縁が繋がっていく。

 

焙煎室も見せてもらった。そこには、温度管理や焙煎方法など様々な工夫が凝らされており、実に繊細な作業が行われていた。安渓の鉄観音に比べても、木柵鉄観音茶を作るのは本当に大変なことだと感じる。焙煎が命の鉄観音、心して飲む必要があるが、その数量は極めて少ない。代金が高いのも頷けるが、今や木柵鉄観音茶は風前の灯火だろうか。

 

張さんが夕飯を食べに行こうと誘ってくれた。猫空の夜、張さん行きつけのレストランのお客さんは多かった。夜景はハッキリとは見えなかったが、やはり週末は人が多いらしい。蒸し鶏がぷりぷりしていて絶品だった。他の料理もなぜか美味しい。やはり地元の人と行くと違うのだろうか。最後は張さんがバイクで先導してくれて、山を下りた。

ある日の埔里日記2017その6(10)18度C巧克力工房

12月20日(水)
東邦紅茶へ

南部から帰った次の日、東邦紅茶の郭さんに連絡を入れた。トミーが『東邦紅茶には煎茶を作った機械があったはずだ』と言い出したからだ。ちょうど台湾緑茶の歴史を勉強中で、港口茶について話していたので、是非見てみたかった。台湾で日本向け煎茶が作られたという歴史は各地で聞いており、実際にその機械なども見たことがあった。だがここ埔里でも作られたとは意外だった。

 

工場内には古い機械が沢山置かれているが、更にその奥にはすでに使われなくなった機械が積まれていた。その中を掘り起こしてみると、僅かに『SHIZUOKA』という文字が見えるではないか。ここでは1960年代に数年だけ、日本向け緑茶を作ったことがあるらしい。ただその品質はそれほどではなかったようで、すぐに飲料茶の方向へ切り替えたようだ。

 

工場の庭にはほんの少し茶樹が植えられており、ちょうど花が咲いていた。茶の葉を見るとかなり大きい。郭さんは『緑茶はこの葉を使ってつくられたと聞いている。この葉っぱでは日本でいう番茶のようなものしかできなかったのでは』という。創業者である郭少三氏は煎茶製造の知識もあったのではないかともいうが、やはりこの地域で緑茶という選択はなかったのかもしれない。

 

12月22日(金)
牛耳で

金曜日の午前中はいつも黄先生のサロンへ行くことになっているが、今日は18度Cの茆さんの声掛けで、先日の珈琲イベントの打ち上げが行われるというので、Iさんの車に乗せてもらい、牛耳に向かう。牛耳はイベント当日の夜、北大関係者の歓迎会が行われた場所で、素晴らしい鉄板焼きをご馳走になった。

 

前回は夜だったが、昼の牛耳は観光バスでごった返していて驚いた。天気が良いのでこの高台から埔里郊外がよく見える。原住民のシンボルのようなモニュメントがある。敷地もかなり広く、建物もいくつもあり、どこで食べるのかが分からないほどだ。観光バスの団体さんは次々に大きな食堂へ吸い込まれていく。

 

我々は前回食事をした建物に案内されたが、鉄板焼きコーナーではなく、その横へ。我々日本人と黄先生は個室に入った。スペースの関係で茆さんたちは2階へ行ったようだ。今日の会は今回のイベントの反省と、次回の開催に向けての話し合いの場と聞いていたので、これはちょっと残念だったが仕方がない。私個人としては、皆さんの思いと現実の売り上げなどの状況を把握したかったが、それは叶わなかった。

 

目の前には沢山のご馳走が並んでいく。写真映えするきれいな盛り付けがよい。非常に食べ甲斐のある、刺身・焼き魚・巨大茶わん蒸しなど和食風のメニュー。まあ今日はこの料理を満喫するか。楽しいランチが終了する頃、茆さんから、今回のイベント参加者との話し合いの内容が一部伝えられた。どうやら皆さん、次回にも前向きのようでよかった。果たして次はどうなるのだろうか。

 

また日本好きの茆さんは、これを機会に北海道との結びつきも深めたいと考えている。埔里から訪問団を編成して北海道を訪れることを検討するという。そういえば日本の『道の駅』に感銘を受けた彼は、埔里でも道の駅を作りたいと言っている。話がすべて具体的なのがとてもよい。

 

一度部屋に帰って休んでから、18度C巧克力工房に向かった。実は明日からの台北行きのお土産に18度Cのバームクーヘンを持っていこうと考えたからだ。私が何かを少しばかり買ったからと言って、店の売り上げに貢献できるとは思えないが、今回イベントで茆さんから受けた様々な恩恵に少し報いたい気持ちがあった。更には埔里名物を台北にも広めたいという狙いもある。

 

部屋から始めて歩いて店に行ってみたが、こんなに近かったのかと驚く。どうして今まで来なかったのか不思議に思う。今年はイベント打ち合わせのために何度も来ており、その度にここのチョコレートやクッキーが出され、それを食べていた。それが楽しみだったとも言え、満足してしまっていた。

 

バームクーヘンの店に入り、商品を選ぶ。ただ生は日持ちがしないので、焼いたものを求める。すると店員さんが、『これは試供品ですので、是非食べてみてください』と別の味を渡される。更には『1000元以上購入ですので、あちらでチョコももらえますよ』というではないか。ジェラートも食べたかったが、その横でチョコを受け取る。お客さんの心をつかむサービス、なかなか見られないものだった。埔里でここだけが常に賑わっている理由が何となく分かった思いだ。

ある日の埔里日記2017その6(9)台湾農林の挑戦

12月19日(火)
台湾農林の挑戦

翌朝は気持ちよく?目覚めた。1階におり、何とかシャッターを開けて、外へ出てみる。夜はちょっと怪しげに見えた宿だが、朝は爽やか。朝食もちゃんとついていて、お粥の上におかずも豊富でよい。ここの客はカップルもいたが、若者男子4人組とか、女子2人組とか。老夫婦までいて、その利用層の幅はかなり広い。利用者に支持され、儲かっているのではないだろうか。

 

今日は私の希望で屏東市内から車で20分ぐらい離れた台湾農林の茶畑を見学することになっていた。聞くところによれば、台湾でも有数に広い、平地の茶畑が今まさにここで開拓されているという。なぜこんな南部に広大な茶畑を作る必要があるのだろうか。是非見てみたいと思ったのだ。トミーの知り合いの陳さんに案内を乞う。陳さんは苗栗の出身で、昔から茶業関係者であり、今は台北に家があるという。1週間で屏東、苗栗、台北を行き来しているというから、台湾縦断、大変だ。

 

その敷地は見るからにあまりに広大だった。取り敢えず門のすぐ近くにある事務所に招き入れられる。早速お茶を飲み始める。お茶の仲間というのは何を置いてもお茶を飲むものだ。トミーも自分の学院で作った100種類もの茶葉が入っている立派な木箱を贈呈する。プロジェクトの簡単な説明を聞く。

 

台湾農林とは、日本統治が終わった後、日本関連の茶工場などを引き継いだ会社。その歴史はある意味で謎に包まれており、今回『台湾農林の歴史を知りたい』と無邪気に言ってみても、『そう簡単じゃないよ』と言われるだけだった。台湾茶の歴史を学ぶものとしては何とかこの会社に取り組みたい。今は民間の上場会社とはいえ、当然政府との連携が密なのだと思っていた。

 

だがこの土地買収(台湾鳳梨から)だけで、100億元も超えると言われる大型投資だが、政府からの支援はない、全くの民間企業として投資していると言われ、唖然とした。勿論地元政府は大歓迎だろうが、その影響力が大きすぎて、何も言えない状況なのかもしれない。雇用も生まれるだろうし、成功すれば税収も見込める。まあ台湾も日本もまずは民間にやらせて、うまく行きそうなら政府が出てくるという悪しき習慣は健在だ。

 

それにしても4期にわかれた工事の1期が既に始まり、茶樹が植えられていた。ビニールテントの下では数種類の品種の茶苗が大量に育てられている。その光景は壮観だ。早ければ来年より試験的な製茶が始まるという。そのための茶工場も今から建設される。このどこまでも続く平地での大量生産には機械化が欠かせない。既に日本からも乗用機などを購入しており、これが活躍しそうだ。また灌漑が重要であり、水の供給がチェックされていた。

 

もしここが稼働すれば、主に茶飲料用として台湾が現在輸入している茶葉を台湾産に切り替えられる効果がある。更には現在南投などに限られている、台湾内の飲料原料の分散化も図れる。それは台湾茶業の一大変革になるのではないだろうか。現在の台湾の茶葉生産量を20%も押し上げるこのプロジェクト、その行方に注目したい。

 

お昼ごはんもここで頂いた。当然ながらこれだけのプロジェクトだから、注目度も高く、様々な人々がかかわっており、ここに宿泊する人も多い。また出張などでここを訪れる人もおり、食堂も大きく、そこで出される食事も美味しい。ついつい食べ過ぎてしまう。食後またお茶を頂き、失礼する。

 

帰りも順調に高速道路を走った。台湾の道路は昔より空いているな、と最近特に感じる。これは経済の鈍化が原因か、また企業の海外進出が多くて、島内では以前ほど車が走らないのか。ちょっと気になるが答えは簡単には見いだせない。トミーは今晩埔里に泊まるというので、埔里まで車で送ってもらった。何とも有り難い。

 

かなり疲れたので部屋で休んでいたが、あれだけ食べても腹は減る。夜は珍しく、虱目魚を食べてみる。恐らく埔里で食べるのは初めてだろう。やはり脂っこいものはちょっとという感じだったのだろう。あっさりしたこの魚は食べやすい。台湾南部で養殖が盛んなこの魚をなぜ埔里に帰って食べたのかは不明だが、美味しければそれでよい。

ある日の埔里日記2017その6(8)港口茶を再訪する

12月18日(月)
屏東へ

朝7時のバスに乗る。いつものように台中へ行き、そこでトミーを待ち合わせだ。今回は南部、それも台湾最南端に向かう。これまでトミーには様々なところに連れて行ってもらったが、泊りがけで行くのは初めてである。どんなことになるのか、それは全て彼に任せている。面白い旅になりそうだ。

 

車は高速道路を快調に飛ばし、途中一度休憩しただけで、12時前には恒春の街までやって来た。ここは昨年来たことがあるので、様子は分かっていつもりだったが、車で来るのとバスで来るのではかなり景色が違って見えた。取り敢えず腹が減ったので道路沿いの牛肉麺屋に入る。台湾牛とか屏東牛とか書かれると、食べてみない訳には行かない。麺は結構いい値段で、ここが観光客向けだと分かる。まあそんなものだろう、という味だった。

 

それから満洲郷へ向かう。恒春の門を出て、東に10㎞、前回も訪ねた朱松雄さんの家があった。ここは道路沿いにあり、分かりやすい。既にトミーが訪問することを事前に告げていたので、朱さん夫妻に歓迎された。ここは1年前に訪れた時と、特に変わった様子はない。『港口茶は緑茶か』という質問への回答はちょっと曖昧になる。

 

トミーが茶を教えていると聞くと『ぜひこの茶の欠点がどこにあるか、アドバイスして欲しい』と非常に前向きな態度で、尋ねてくる。朱さんは定年まではサラリーマンだった人だから、常に勉強しようという姿勢が感じられる。港口茶は初め緑茶だったが、少しずつ改良が加えられた、という話もあったが、確かに常に改良しているのかもしれない。

 

朱さんに伴われて、茶園に向かう。私は昨年も見ていたが、海が一望できる素晴らしい景色だった。今はシーズンオフでお茶は作っておらず、茶樹は修繕されていた。かなり茶の実が付いており、これがまた自然交配して雑種となるのだろうか。別のところには金萱が植えられてもいるようだ。

 

道路まで戻り、朱さんと別れた。我々には気になる所があり、もう一か所、訪問することにした。そこは前回私が行った時は誰もおらず、話も聞けなかったが、正宗港口茶と書かれた古びた建物がある家だった。実はある人に『港口茶は緑茶か』と質問した時、『あそこは兄弟で違うお茶を作っている。弟のところへ行ってみろ』と言われていたのだ。

 

訪ねてみると、主人が出てきた。やはり朱さんという苗字。朱金成さんだった。この地区で茶を作っているのは3軒だけで全て親族だという。彼は松雄さんの弟さんだと思うのだが、親族の話などにちょっとした食い違いがあるが不思議だ。彼の方はずっとこの地で茶を作り続けていたと言い、この辺の一族は皆客家で広東から来たともいう。

 

だが彼の茶園も先ほどと同じところにあるのだ。これは何を意味するのだろうか。結局は、先代からの相続を3つに分けたのではないかと推測する。そしてどうやら親族間には色々とあるようだと感じるが、それは私には関係のないことなので、話をそのまま聞いて、茶を飲ませてもらったところ、こちらの方が緑茶に近かった。なるほど。何故という疑問は色々とあったが、ちょっと茶を買ってお暇した。

 

今晩は屏東市内に泊まるというので、車は北上を始めた。同じ屏東県だから近いだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。何と車で2時間もかかってしまう。屏東は大きいのだ。市内に入っても街は思っていたより大きい。今晩はトミーの知り合いと会う約束だということで彼らの店を探すが、なかなか見つからない。

 

ようやく見つけたそこはやはり茶荘だった。屏東の街も茶荘はかなりある。ただ単にお店を開いていても、なかなか厳しい。彼らは新しい茶荘の形を模索しており、トミーの講座で勉強し、指南を仰いでいた。イベント出店用の格好いい台車やコーヒーを淹れるマシーンのようなお茶淹れ機の話など、茶業界も動いていかなければならないだろう。

 

夕飯も彼らにご馳走になった。新鮮な魚介類などがふんだんに出てきて、満足。お腹も一杯になり、眠気が襲う。確かに今日は朝早くから起きていたので、早めに休みたいが、彼らが予約してくれていたホテルに行ってビックリ。いわゆる汽車旅館、日本ではラブホテルではないかと思うような作りだった。しかも名前は六本木Motelだ。

 

実際部屋の1階に車を駐車して、2階へ上がる仕組みであり、車中の人物は外から遮断されていて見えない。更にはシャッターまで閉まるので、車の番号すら分からない。部屋はかなりきれいで広くて驚くがラブホ感も満載。こんなところに一人で泊まってよいのか、という感じだが、日本と違って台湾では、誰がここに泊まるは自由だった。これで1泊1600元は安い、と言わざるを得ない。何だかちょっと落ち着かない夜を過ごす。

ある日の埔里日記2017その6(7)サンバフェスティバル

12月16日(土)
サンバフェスティバル

先日の珈琲イベントが終了し、何となく一段落。ホッとしてそれから数日間は、部屋に籠り、お茶の歴史の調べ物に没頭した。外に出るのは昼ご飯と夕飯の2回だけ。気分転換に埔里で有名な牛肉麺屋に行ってみたりした。前回は凄く混んでいて入れなかったが、昼時を少し外すと何とか入れた。スープがちょっと独特だったが、やはり味は美味しく、ボリュームもかなりあり、100元はお値打ちだった。だから混んでいるのは頷ける。

 

天気の良い日は、クラブサンドイッチを食べるのもいつの店ではなく、店舗の外に椅子がある所へ行き、かなり寛いだ姿勢で食べた。12月の埔里、日中はそれなりの紫外線はあるが、実に爽やかな風が吹き、気持ちがよい。心なしかサンドイッチも美味しく感じられるし、フライドポテトが付いているのもよい。

 

その後で、先日イベントがあった埔里演習林に行ってみる。まさに祭りの後、静けさだけが残り、あの賑わいはどこにもない。老人が一人近づいてきて、『子供の頃、ここでよく遊んだよ。だからここが北大演習林だと知っている』と言いながら、遠い目をしていた。あのイベントで子供の頃を思い出してくれたのかもしれない。こんなところにもイベント開催の意義はあったのではないか。

 

そして土曜日、この日は天気が今一つだったが、食事に出かけると、バスターミナル近くの五差路の真ん中にイベント舞台が出来ており、既に大勢の人が集まっている様子が見えた。何だろうと近寄ってみると、その舞台の上には、先週の珈琲イベントの際もMCをしていた埔里の有名人、頼さんが元気にマイクを握っている。

 

埔里サンバフェスティバル。何故この街でサンバが行われているのかはよくわからないが、既に何度か開かれており、この時期の風物詩にもなっているというから驚きだ。珈琲イベントは前週になったのも、このイベントに配慮したからだという。舞台では若者によるダンスパフォーマンスが披露され、私の近くには格好いいオープン車が並び、その横には大型バイクに跨った若者が仮装していた。これは一体何なのだろうか。サンバじゃなくて、仮装フェスではないのか。

 

道は通行止めになっており、舞台のすぐ横には高校のブラスバンドがお揃いの服で並んでいる。その後ろにはどう見ても、パクリだろうという被り物をした人々が列をなし、観客から盛んにカメラを向けられていた。更には各地区の団体の旗や幟も見え、山車を引っ張る姿もある。これは完全に街の祭りであり、サンバは出てこない。

 

そう思っていると、後ろの方に、寒そうな格好で露出の高い服を着て、背中に羽を付けているサンバの一団がいた。まだ出番は先なのか、皆寛いでいる。しかしこの寒空でサンバは厳しいだろうか。いや、踊り始めてみれば、きっと体は熱くなるのだが、待っている間が辛いかなと思う。

 

サンバは始まりそうもないので、帰ろうとしたが、帰り道にも巨大野球ボールが転がって来た。皆楽しそうだからよいのだが、この無軌道な玉、ちょっと危険は気がする。昔運動会に大玉転がしというのがあったが、それを応用したのだろうか。一度家に帰ると、もう外に出る気力がなく、結局サンバを見ることもなく、私のサンバフェスは終わってしまった。

 

翌日の日曜日も天気はあまりよくはなかった。やはり昼ご飯を食べた後、散歩に出掛けた。埔里の街は小さいので10分も歩けば、完全な田舎になってしまう。畑が広がり、農村風景が見られる。更に行くと上り坂になっていく。そこを自転車がぴゅーっと通り抜けていく。最近流行りのツーリングだろうか。ちゃんと自転車用の山道が整備されているようだが、歩いていくのは大変そうだったので断念した。

 

別の方角を見ると山の上には寺が見えたが、こちらもかなりの急坂で途中まで行って息が上がり、引き返さざるを得なかった。体を鍛える必要を痛感する。フラフラしながら、畑の中を歩き、何とか部屋まで辿り着く。先日会った下山さんなどは私よりも一回り以上上なのに、登山もスイスイできるというから、何とも自分が情けない。

ある日の埔里日記2017その6(6)恵蓀農場へ行く

12月11日(月)
恵蓀農場へ

イベントから一夜明けた。今日は北大の方々に付き合って、北大演習林の所在地、眉原にある恵蓀農場へ行くことになっていた。アレンジは北大出身のSさんだ。まずは朝9時半にイベントの実質主催者である茆さんの家を訪ねて、お礼を述べた。茆さんはイベントの成功を大変喜んでおり、毎年継続してやろう、と力強く言っていた。

 

そしてクリスマスが近いからというので、ドイツで食べられるシュトーレンというお菓子を出してくれた。こんなものまで作るようになったのかと、驚いて聞いてみると、何と東京から持ち帰ったというのだ。しかも友人のパティシエが帝国ホテルに勤めているおり、彼からもらったというから、本当に驚きだった。茆さんは我々より遥かに日本を知っている。

 

茆さんの家を失礼して駐車場に向かった。18度Cの店舗の横では、たい焼きが売られており、美味しそうだった。バームクーヘンもいち早く作っている。日本の良いものはどんどん取り入れて、紹介しているは凄い。ジェラートやチョコもイタリアからその技術を入れている。

 

それから車で日月潭に向かった。いい天気だったが観光はなしで魚池の茶業改良場に行く。ここは日本時代に建てられたが、その初代から3代までの日本人所長は、全て北大出身者だというので、北大ゆかりの地として訪問した。ここには1938年建造の茶工場が現役で残っているほか、その後ろには新井耕吉郎の記念館がある。

 

第3代、最後の所長である新井耕吉郎は近年台湾でとみに有名になっているが、初代の谷村愛之助、2代の古市誠も北大を出てここにやって来た。なぜ茶畑の無い北海道の大学の人々が台湾へ来て、茶の研究をしたのか。実に興味深いテーマだが、それに答えてくれる研究はされていないらしい。

 

昼は埔里に戻り、埔里名物と言われる米粉を食べた。名物と言いながら、食べられる食堂が殆どない不思議。埔里酒廠の向かいにある食堂で何とかスープ麺にあり着いた。まあ特にどうということもないが、一応名物なので観光客が押し寄せ、席もない。何とか注文したが、私の麺には肉丸が入っていないというお粗末ぶり。その後軽く酒廠を見学し、そこで下山操子さんと合流。

 

埔里郊外にあるSさんの家にも寄る。ここでは少量ながらコーヒーの栽培が行われ、ちょうど豆が太陽の下で干されていた。元々Sさんが演習林に興味を持ったのも、演習林でコーヒーが植えられたという歴史を知ったからであり、そのコーヒーを今は自分が作っていることを見せたかったのだろう。

 

そこからは下山さんが先導して、恵蓀農場へ向かう。1時間弱走って門まで到着すると、入場料を払わなければならないが、下山さんが地元に貢献しているということで無料となる。すごい。この農場、相当な山の中にあり、その門から事務所の建物までは4㎞以上の登りとなっていた。とても歩いては行けない場所だ。昔はバスすら走っていなかったというから、北大の人々は当時、ここに来るまでが大変だっただろう。広大な敷地に大自然、素晴らしい環境だ。

 

事務所に行き事情を話すと、突然だったにもかかわらず、場長が直接応対してくれた。やはり北大の名前はここではよく知られている訳だ。事務所の中の設備を拝見し、林の中を歩いていき、そして100年前に建てられたという木造の建物に案内してくれた。今は改修工事を行い、宿泊できる施設となっていた。中は昔の日本の家だった。横の建物はもう少し新しいらしいが、それでも趣はあった。

 

それにしても素晴らしい自然が残っていた。恐らくは日本時代からこうだったのだろう。今は台中の中興大学が管理しており、恵蓀という名前は中興大学の先生の名前からとったということだった。屋外で美味しいコーヒーをご馳走になる。ここでは茶樹も少しはあるが、今はコーヒーが主であるらしい。この近くには台湾の原生種と言われる茶樹もあるので、ちょっと残念。

 

最後に下山さんの弟の誠さんの家へ行き、そして操子さんの家にも行き、日本時代の歴史、霧社事件などについて、写真を見ながら詳しく話しを聞いた。台湾の日本時代、日本は良いこともしたかもしれないが、地元の人にとって決して宜しくないこともしていたと思う。演習林なども原住民の人々の土地を奪うことになっていたかもしれない。

 

夕飯は下山さんが近くの客家料理の店に連れて行ってくれた。この付近には客家が多いという。原住民も霧社事件後に強制移住された人々をはじめ、多くが住んでいる。更にはもう少し埔里に近い所には、日本時代前後に沖縄から移住した人の子孫が今も住んでいるというのにはびっくり。山深い不便な場所には土地があり、移住者が開拓したということか。客家料理は非常に美味しい。そして北大の方々はIさんの車で台中駅へ向かい、今夜は台北に泊まるというので別れた。私は下山さんの車で埔里まで送ってもらう。