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ある日の埔里日記2018その3(8)烏山頭ダムで

5月8日(火)
烏山頭へ

朝は早く起きた。昨日は小雨だったが、今日も日差しはなかった。このホテル、朝食が付いているとのことだったが、何とセブンで買うための食券(60元)2枚とコーヒー券2枚が渡されていた。朝7時過ぎにセブンに行くと既に長蛇の列。取り敢えず食べたい物を確保して並ぶ。だが隣の珈琲は8時からしか提供されない。何ともちぐはぐで面白い。

 

9時半にホテルをチェックアウトして、駅に向かう。何しろ目の前だから便利。Kさんと落ち合って電車に乗り込むはずだったが、何と昨晩行った茶荘のオーナーから『明日烏山頭ダムは行事のため一日閉鎖』との情報がもたらされ、Kさんは行くのを断念した。私は台北からSさんが来るので、取り敢えず隆田という駅へ行ってみることにした。

 

昨日行った新栄の方に向かって走る。これなら新栄に泊まってもよかったな。駅に着くと駅員に烏山頭の状況を聞いてみるが『分らない』との回答。そこへSさんと嘉義の大学で勉強している日本の若者がやってきたので、どうなるか分からないが駅前のタクシーに乗ってみることになる。タクシー代は片道300元、まあ3人で割ればたいしたことはない。

 

田舎道を20分ほど走ると烏山頭という門が見えた。今日は命日の行事(追思会)があり、一般観光客の入場は制限されていたが、中に入れてもらうことができたので、タクシーでそのまま進む。小山の上にホテルがあり、その脇で降ろしてもらう。電話でこのタクシーを呼べば帰れることが分かり安心。

 

まだ午前中だったが、追思会は午後にあるというので、それまで付近を散策することにした。会の準備が進む会場、花が沢山飾られたお墓、そして修復された八田与一像をみて、それからダム?湖?の方へ歩く。この付近の灌漑用水の確保のため、1920年に着工されて10年後に完成したという。

 

ちょうど天気が良くなってきてきれいな景色が見える。人も歩いていないので、この景色を独り占めしている感覚になる。なんとなくいい風も吹いてきて、思わず手を広げてしまった。今から90年も前に、ここで日々格闘していた人々がおり、その後のこの地域の農業の繁栄をもたらし、そして今もそれが残されていることが、何とも素晴らしい。

 

紀念碑があり、ヘリポートがあり、そして北京の天壇を模したような建物が見える。周囲をウロウロしているのも疲れてくると、座るところを探して、無駄話をして過ごした。それにも飽きると、記念館を覗き、八田与一とこのダムの歴史を改めてみてみる。会場の方に戻ってみると午後1時半を回り、大勢の参加者が既に椅子に座っていた。

 

この慰霊祭、日本からお孫さんなどのご遺族及び出身地金沢の関係者が日本から来ている。台湾側も地元の顕彰会などから多くの人が参列している。マスコミ関係者もかなりいるようでしきりに写真を撮っている。さっき見たヘリポートの方にヘリが降りてきたような音がした。誰が来るのかと思っていると、何と行政院長の頼清徳氏が歩いて来るではないか。これにはちょっと驚いた。

 

式典が始まり、僧侶による法要、関係者の挨拶が続いた。皆がそれぞれの立場から思いを述べ、日台の交流を語っていた。だが主役であるはずの行政院長はなかなか呼ばれない。何と最後に頼氏は立ち上がり『昨年まで7年間、台南市長として参加していたが、今年も何があっても参加するつもりでいた』と言い始める。一市長と国のトップでは立場が大きく違う。それでもやってくる頼氏に対する信頼、期待は大きいだろう。また行政のトップとしては『日台関係は好転している』とし、相互の災害支援などでも関係が強まっていることを告げながらも、金沢から来た日本人とも親しげに交流している。如何にも台湾らしい光景だった。

 

その後参列者が献花するなど式は続いていたが、我々は先に失礼することにした。タクシーを呼んで、出口に方に向かって歩いていく。ところが門を出てもタクシーは一向に来ない。どうやら駐車場で待っていたようで、行き違ったらしい。『門から駅までなら250元』と言われ、何だかよく分からなかった。

 

電車に乗り、まず嘉義へ、そこでSさんたちと別れ、一人台中を目指す。何だか速い列車だなと思っていたらプユマ号で、1時間ちょっとで台中駅に着いてしまった。そこからバスで埔里に戻り、旅は無事に終了した。

 

5月9日(水)
埔里を去る

実はこれまで1年半、使わせてもらっていた埔里の部屋が、次回から使えないと数日前に通告されていた。私の勝手な都合で借りていた場所なので、残念ではあるがここを退去することになった。ただ荷物は非常に多いので、一度に持ち出すことは出来ず、一部は預かってもらうことをお願いし、昨夜は荷物の整理に追われた。特に茶の歴史調査の資料が多く、色々と思い出すこともあった。

 

朝ご飯は最近気に入っているクラブサンドイッチを食べたが、店の人には特に挨拶しなかった。これまでも旅人であり、また戻って来るつもりもあったからだが、寂しさは否めない。私の心を反映してか、朝からかなり強い雨が降り出した。バスに乗る時間が近づいても雨は止まず、最後は仕方なくスーツケース2つを両手で持って、バスターミナルまで疾走?した。まるで青春が終わったかのように感じた。

 

バスで台北まで行き、午後松山空港から羽田へ向かった。実は僅か1週間でまた戻ることになっていたのだが、いつもとは違う感情が沸いて来ていた。さあ、これからの私の台湾旅は、どう展開していくのか、楽しみでもあり、ちょっと面倒でもある。

ある日の埔里日記2018その3(7)台南の老舗茶荘

5月7日(月)
月曜日に台南に向かう

一度東京へ戻る日が近づいていた。そんな中、Sさんから『八田与一の作ったダムに一緒に行きませんか?』とのお誘いが来た。日にちは5月8日、帰国前日なので予定もなく、行ったことがなかったので行ってみることにした。実は5月8日は八田与一の命日であり、毎年法要が行われているという。ただ昨年は直前に八田与一像を壊される事件が起き、色々と大変だったと聞く。

 

折角南へ向かうのだから、ここは台南へ行こうと思い立つ。ダムのある烏山頭も台南の一部らしいので、ちょうどよい。台南にある国立歴史博物館は一見の価値があると言われていたので、是非見てみたいと思い、前日から行く日程を立て、ホテルも台南に予約していた。

 

ところが直前になって、『博物館は月曜日、休みでしょう』と言われ、初めて検索すると本当に休館日だった。完全にやらかしてしまった。さて、どうしようか。一緒に行く予定のKさんがちょうど台南にいたので聞いてみると、『それなら茶荘巡りでもしましょうか』と言ってくれたので、それに乗っかってしまう。何ともいい加減なことだ。

 

取り敢えず埔里から台中高鐵駅へ出て、新烏日から区間車で嘉義に向かった。1時間40分かかって嘉義に着くと乗り継ぎの間に駅弁を頬張る。それからやって来た莒光号に乗り、待ち合わせ場所の新栄に向かう。ここはあっという間に着いてしまう。莒光号の車内への出入りは自動ドアではなく、手動なのがなぜだろうととても気にかかる。

 

新栄という駅は初めて降りたが、特に何もなさそうな街に見えた。でも駅の近くに今は使われていない引き込み線などが見え、ここも昔は糖業あたりで栄えたのだろうと感じられた。Kさんも台南から来てくれ、彼が以前一度訪ねた茶荘に行ってみることにした。突然店に飛び込むと、店の人と客が怪訝そうな顔をしたが、日本人でFB知り合いだと説明すると、喜んで受け入れてくれた。

 

そこへ6代目という若い黄さんが戻って来た。慶瑞茶荘は何と1850年創業の老舗だというので驚いた。新栄にそんな古い茶荘があるとは。確かに古そうな茶缶が置かれており、奇種などという文字も見えるので写真を撮らせてもらう。歴史について質問すると、『おじさんの工場へ行こう』と若い黄さんは言い出す。どうやら、黄さんとお父さんは、店で販売担当、おじさんが製茶担当らしい。

 

車で10分ぐらい走る。周囲が畑に替わった頃、その工場に着いた。敷地内には相当に古い、立派な木が植わっている。中にはかなり古い製茶道具や茶缶などもあり、博物館でも出来そうだった。黄さんのおじさんは、製茶だけではなく、台湾茶の歴史についても独力で研究している人だった。そして自分は日本時代末期、父親が商売の関係で厦門にいる時に生まれたという。香港の堯陽茶行などとは繋がりがあるらしい。100年前の包種茶は今とは全く違って、相当発酵度が高く、焙煎も掛けて輸出されていたともいう。品質もそれほどではなく、勿論値段も安かった。思いの他、収穫のある訪問となった。

駅まで車で送ってもらい、自強号に乗って台南へ向かう。新栄は自強号が停まる駅なのである。そういえば自強号の車内へ入るドアはやはり自動だった。莒光号との違いはそこか。そんなことを考えていると台南に着く。取り敢えず駅まで予約した宿に行ってみる。ビルの1階に総合受付があり、ビルの上の方、何フロアーかが、客室になっていた。まあ、駅前で800元、そんなものだろう。

 

Kさんの知っている老茶荘に向かった。台南駅前から歩いていく。思ったより時間がかかったが、昔の街並の中にその茶荘はひっそりと建っていた。振發茶行、1836-41年の間に台北で創業し、1860年には台南に移って開業というから、180年以上の歴史を誇る台湾最古の茶荘だと言える。店内には恐ろしく古い茶缶も見える。

 

店は改修、移動をしているようで、今は小さいが往時はかなりの規模で商いをしていたと、6代目の厳さんが語る。土産物を買いに日本人も訪れるようで、伝統的な紙包みは4両の他、買いやすい2両の包みも用意されており、価格表もしっかりしていて分かりやすい。今は若者が跡を継ぎ、伝統を生かした中に新しい取り組み、FBなどSNSでの発信なども行われている。

 

最後は退勤時の満員バスに乗り、ちょっと離れたところにある、梅山製茶廠というお店に行った。郊外の住宅地、なんでこんなところに、と言う感じだった。というか、Kさん、よく見付けたなあ。そこで夕飯として、肉圓をご馳走になり、高山茶を飲ませてもらう。名前から高山茶の歴史が何らかわかるのでは、と期待したが、この店は梅山製茶廠の代理店に過ぎず、成果は得られなかった。

 

バスで何とかホテルに戻り、暗い中、折角なので付近を散策する。台南の思い出は1995年、出張に出来て、駅前の台南飯店に泊まったことだが、今はこのホテルも立派になっている。部屋に帰ると、ちょうど横に洗濯機が置かれており、学生が洗濯しながら大声で話しているので、煩かった。

ある日の埔里日記2018その3(6)改良場に残る資料と真の茶業

5月3日(木)
桃園へ

嵐のお茶合宿の疲れも癒えぬ中、何の因果かまたもお茶の歴史調査に出ていく私。今回は茶業改良場の本場、楊梅に出掛ける。いつものように台中高鐵でトミーと待ち合わせて北上する。毎回申し訳ないと思いながらも、今や彼の助けなしでは私の調べは前に進めないのだ。

 

実は改良場、魚池には何度も行っているが、楊梅に行くのは、何と7年ぶり2回目。7年前は黄正敏さんに徐英祥先生を紹介して頂き、徐先生に会いに台鉄で埔心駅まで行った。先生とはうまく連絡が取れておらず、黄さんが書いてくれた手書きの地図を頼りに先生の家を訪ねたことは、忘れられない。

 

客家様式の家を案内してもらい、更には足が悪いにも拘らず、車を運転して私を改良場に連れて行ってくれ、全ての案内をしてくれたのは徐先生の人柄だろう。そして『歴史を知るには魚池の試験場へ行きなさい』と言って、わざわざそちらへ電話を掛けて、手配までしてくれた(その時魚池で電話を受けたのが、今の黄正宗場長というご縁)。今の私の歴史調べがあるのは、徐先生のお陰であり、これから何度も伺って話を聞こうと決めていたのだが、何とその僅か3か月後に、先生はこの世から旅立たれた。まさに一期一会。

 

 

車は変化の殆どない改良場の敷地に入った。ここでトミーの知り合いの陳さんと落ち合い、まずはお茶を頂く。試験場なのだから、試験中の茶は沢山あるだろう。陳さんは博士であり、当然色々と詳しい。ただ忙しいだろうからと、すぐに話は切り上げて、我々は図書室に向かう。

 

今回の目的はずばり図書室の見学。見学というか、何か役立つ資料はないかと探しに来たわけだ。一般開放はしていないが、知り合いがいれば、入るのは特に問題はない。だが中に入って奥の方へ行くと、驚くことばかり。何と100年以上前の試験資料や報告書などの原本がそのまま置かれている。これを見ただけで、触れただけでももう歴史だろう。

 

そんな中で、今回締め切りを迎える緑茶に絞って資料を探す。見たい物は沢山あるが、そんなことをしていては日が暮れてしまうだろう。特に先日行った三叉河関連の資料は貴重であり、多少残っていた。台湾で緑茶が作られなかった理由を書き留めた貴重な文章も出てきた。何とも有り難い。

 

 

昼ごはんは車で街に出て麺を食べた。そしてまた図書室に戻ったが、やはり資料が多過ぎて手が付けられず、今回は必要なものをコピーして退散した。日本時代の試験場を引き継いだとはいえ、100年以上前の資料を、ちゃんと保管されている(失われたものも多いらしいが)のは凄い。紙がボロボロにならないのはなぜだろうか。

 

続いて龍潭へ向かう。車でそう遠くはない。福源茶業を訪ねる。ここは日本統治時代初期に茶業をはじめ、現在の黄さんは4代目だという。工場は思いの他広く、何でも作っているよ、と言う感じだった。目を惹いたのは、何と珠茶(ガンパウダー)を今も作っていたことだろう。光復後最初に輸出したのは北アフリカ向けのガンパウダーだったはずだ。今では島内で使用されているらしい。

 

 

2階に上がると、実に広い倉庫の空間。黄さんによれば、最盛期にはこの天井一杯茶葉が積み上げられ、トラックが横付けされると、2階の扉を開けてそこから茶葉の袋を落として輸送してというからすごい。従業員も不眠不休、捌いても捌いても注文がやってきて、本当に寝る暇がなかったらしい。ある意味でこれが真の『茶業』の姿ではなかろうか。『極上の茶』を作るのではなく、コスパの良い茶を大量に作り、大量に輸出する、消費者に提供するのが、仕事だと言っているように見えた。

 

因みに龍潭も客家系が多く、こちらも客家だった。客家のお茶として近年脚光を浴びている酸柑茶を購入する。私はこのようなお茶を飲むことはないが、これは6月に佐賀で行うセミナー用、世界でも珍しいお茶の一つにした。柚の皮に茶葉を詰めて作る、その形状の面白さと健康効果?が注目らしい。

 

続いて、大埔茶業に行く。大埔というのは別の場所らしいが、この茶屋はそこから引っ越してきたので、元の名前が付いているという。こちらも問屋と言う感じで、小売りがメインではない。ここも若者が跡継ぎとしており、三峡龍井茶を復元しようと試作品を作っていたのが面白い。三峡と言えば、今では碧螺春だが、光復後一時期は龍井茶が作られており、外省人が飲んでいたという。これもまた小さな歴史だ。

 

もう日も暮れた。急いで台中高鐵駅まで戻ってきたが1時間半以上かかった。夕飯を食べようというので駅にあるロイヤルホストに入る。この店に入るのも何十年ぶりだろうか。私が台北にいた1990年頃、知り合いが日本本社と掛け合い、始めた店だった。今ではどのくらい展開しているのだろうか。久しぶりにステーキを食べる。お代は茶スターがご馳走してくれた。有り難い。

ある日の埔里日記2018その3(5)お茶合宿最終日

5月1日(火)
3日目 合宿最終日

さすがに朝は早く起きた。昨日は昼ご飯を食べずに、夜遅くに弁当を食べたことが影響していたかもしれない。6時台に起きて散歩してみたが、何と1軒だけあるセブンイレブンは午前7時からだった。珍しく朝食は開店を待ってセブンでおにぎりを買う。他に選択肢はあまりなかった。まあ外で食べる朝食は案外気持ちがよい。

 

ここから下に降りると、見事な林があり、観光客が山を眺めるスポットがあった。そこで太極拳?をしている一団がいた。地元の人だろうか。何だかとても気持ちよさそうで、一緒に体を動かしたい、そんな衝動に駆られるほど、疲れは溜まっていた。奮起湖の駅に行ってみたが、何と列車は運休中。横にある博物館も勿論早朝は開いていない。それでも鉄道オタクの台湾人が写真を撮りまくっている。

 

9時に昨日タクシーを降りた場所に迎えが来るはずだったが、やってこなかった。昨日までの2日とは運転手が違うという。遅れてやってきたおじさんは、謝りもせず、荷物を運ぶのも手伝わず、道もよく知らない、という困った人だった。いや、昨日までの運転手のサービスが良すぎただけかもしれないが、一旦それに慣れると、もう取り返しは付かない。この日一日、この運転手への不満は皆の中に充満する。

 

まずは昨日も訪ねた太和村の中で阿里山に一番近い、樟樹湖に向かう。住所は梅山郷だが、実質的には阿里山と言ってもよいかもしれない。樟樹湖というお茶のブランドはなく、普通はあまり聞かない名前だが、基本は卸しに徹しているようで、実は阿里山茶として台北などの茶商が買って行っているらしい。茶畑では茶摘みが行われ、道路脇では日光萎凋が始まっていた。

 

狭いエリア、道の両側に茶荘が数軒並んでいる。我々が車を降りるとすぐに声がかかり、茶を飲みに入る。実はM氏、この一帯でも有名人で、FB友達多数。彼らは前日のFB情報でM氏が今日あたり現れることを知っていた。こんな日本人、いるのだろうか。いや、いるんだな、現に。

 

この付近も1980年頃茶作りが始まったという。梅山龍眼、瑞里辺りから、登って来たのだろう。ここから阿里山へ高山茶の歴史が繋がっていく。ただ今はもう、どこから高山茶が始まったか、などということに興味のある人はいない。昨晩の製茶の疲れもあり、商売にしか頭は働かない。我々のような小口のお客は、日本人だから何とか相手をしてもらえるのだろう。いいお茶はすぐに茶商が大量に買い込んでしまう。2軒ほど訪ねて、この地を後にする。

 

ついに阿里山公路を走る。1時間ほどで目的地、石棹近くに着いたが、運転手は場所が分からず右往左往。むしろM氏の方が詳しく、詳細な指示をして何とか到着。ここも皆が初めて訪れる場所だった。ちょうど昼時のせいか、約束の時刻からかなり遅れたせいか、何となく会話がかみ合わず、退散。それからもう一軒、M氏の思い入れがある茶園の茶を商っているところを聞いて訪ねるも、先方は売る気もなく、茶も?で、やはり?空振り。

 

そして午後1時ごろ、阿里山公路唯一のガソリンスタンド前の茶荘に入る。オーナーの伍さんはまじめな人。ちょうど茶作りの最中で忙しいそうだったので、昼ごはんを食べてから出直すことにした。M氏からランチという言葉が聞けるとは夢にも思わず、嬉しいやらなにやら。先ほど来た道を戻り、鶏飯とタケノコスープを食べたが、やけに美味かった。

 

それから先ほどの茶荘に戻る。実は私は15年ぐらい前から数年間、この茶荘のすぐ横の茶農家と非常に親しく付き合っていた。最近はご無沙汰していたので、ちょっと抜けて店に行ってみたが、残念ながら夫婦ともに外出中で会うことは出来なかった。戻って伍さんに聞いてみると、親戚だという。何とも懐かしい。帰ってから、FBで繋がったのは有り難いことだった。

 

それから車は山道を下っていく。最後の一軒は2年前に訪ねた隙頂。その際、M氏から紹介されたのが蘇さんだった。蘇さんは非常に探究心の強い人で、コンテスト用の茶を作り、数々の賞を受賞している。我々が入っていくと蘇さんは何と私を覚えていてくれ、しかもFBも見ていてくれていて驚く。

 

何ともいい焙煎の香りがする。ここではなかなか普通では飲めないお茶がいくつも出てきたが、我々が手に入れられる物は限られていた。それほど貴重、または売ることができないものだった。蘇さんは焙煎作業を続けながらも、楽しそうに相手をしてくれていた。きっとこの日は茶作りの調子もよかったのだろう。

 

ついにお茶屋訪問が終了した。3日間で一体何軒のお茶屋を回り、どれだけのお茶を飲んだことだろう。1時間で車は嘉義の高速エリアに着いて休憩後、更に1時間ちょっとで台中まで何とかやって来た。そして駅近くで車を降りて皆と別れ、重い体を引きずりながら、バスに乗り、埔里に戻っていった。

 

今回の旅は言ってみれば、『全ての余計なものをそぎ落とした究極の茶旅』であり、そのスタイルを極めたM氏には感動すら覚えた。ただ旅のスタイルとしてありかな、とは思うものの、私の旅とはあまりにも異なっており、付いて行けなかった、というのが正直な感想だ。私も歳をとったものだ、と言うほかはない。

ある日の埔里日記2018その3(4)お茶合宿2日目

4月30日(月)
2日目

翌朝は快晴だった。6時台には起きてしまい、鹿谷を散歩する。山の方に少し登りたかったが、その時間はなく、あまり遠くには歩けないので、知っている道を上がり下がりしながら、僅かに残る茶畑を見る。そしてどこかで朝ご飯をと考え、探したが、意外と見付からない。何とかありついたのは、やはりサンドイッチ。場所は廟の前。何ともローカル感があってよい。

 

午前8時に宿を出発。今日はどこへ行くのだろう。鹿谷の中と聞いていたが、車に1時間も乗る。鹿谷郷も相当に広い。皆初めて行くところで、何とか探し当てたその場所は、普通の民家、いや花生糖の看板が出ており、お茶屋とは思えない。あまり外国人が来たことがない様子だ。ここではこれまで聞いたことがない茶産地のお茶を味わい、お土産に花生糖をもらう。

 

それからまた車を走らせ、李さんのところへ行く。彼は焙煎師として有名で、いいお茶を沢山持っていた。台東の原住民出身ということで、様々な苦労を乗り越えて、食べるために茶業をやって来た、と率直に明るく語る姿が何とも素晴らしい。焙煎室を見せてもらうなど、参考になった。

 

竹山のインタチェンジ付近でお菓子を買う。これも私にはあまり縁はないが、お茶会などで使う重要なアイテムだと言い、試食してみると意外と美味しいので驚く。そんな店がこの付近には数軒あり、台湾人も多くが買っていくのだろう。そしてそこから車は高速に乗り、梅山を目指していく。梅山には先月も行っており、2か月連続になる。九十九折を登っていく際は、後部座席3人の真ん中に座ったので、揺れが直撃した。

 

太平で標高1000mとなり、天空の橋を見ながら、トイレ休憩を取る。既に時間は12時を回っているが、この休憩所にはあまり食べるものがないということで、トイレだけで素通りする。全てにおいてお茶が優先、食事は二の次というのは、本当にすごい。

 

前回訪ねた瑞里などへは行かず、瑞峰という場所へ行く。この辺M氏は以前バイクで行き来していたという。結構な登りでカーブもきつい。私などはバイクで行くというだけでも尊敬してしまう。今回訪ねた茶荘も、悪天候の際に雨宿りして知り合ったというからご縁としか言いようがない。呉母子が迎えてくれる。M氏は中国語が出来ないということだが、まるでエンジニアのように茶の専門用語は知っており、それだけでも会話が成立してしまうから恐ろしい。

 

更に坂を上って行くと、もう一つ茶農家があった。ここには94歳の老人がいるというので、梅山の茶の歴史を教えてもらおうと張り切って行ったのだが、残念ながら不在で、お嫁さんが対応してくれた。聞けばなんと、茶畑の草取りをしに行っているというから、驚きだ。恐らくは人手がないという大きな理由以外に、草取りをしながら、茶畑、茶樹の状況を把握しているのだろう。お茶を飲ませてもらって早々に退散する。

 

続いて、メイン道路から外れていく。そこは皆が初めて行く場所で周囲には家もまばら。ここに茶荘があるのかというところだった。もう日も西に傾き、疲れがかなり出ていた。取り敢えず席に着き、お茶が出された頃、私は疲れから睡魔に襲われてしまう。M氏が何かを話したが、もう耳には入って来ず、通訳の任を果たせなかった。

 

通訳はI氏に任せて、気分転換に外へ出た。隣には古そうな民家がある。覗きに行くと犬に吠えられた。茶荘の奥さんが案内してくれ、外から民家の様子を見る。100年以上は経過しているらしい。茶作りは最近のことだが、人は昔から住んでいた訳だ。その横には更に古そうな建物がある。

 

その建物は既に壊れており、中を覗くことができたが、家は太い柱で支えられており、かなり立派だ。更には何と畳の部屋があり、襖絵が描かれていた。これは日本時代の設えに違いないが、一体なぜこんな山奥にこんなものが残されているのだろうか。お宝を発見した気分になる。

 

少し回復したところで、また車に揺られていく。段々と苦行のように思えてくる。次に向かったのは、油車寮というところにある茶工場。ここはかなり大きく、立派な車が停まっていた。従業員が一日の作業を終えて寛いでいた。主人の郭さんは、日本の茶道具などに興味があり、今回もわざわざM氏が日本から持ってきたものを渡していた。台湾人で日本の骨董などに興味のある人は実に多い。もうこの辺まで来ると、疲れ果てて、飲んだお茶も全く覚えていなかった。

 

そしてそこから車で1時間強、ついに阿里山の奮起湖に辿り着く。もう辺りは真っ暗だが、車は予約した宿の前には行けないということで、かなりの上り階段を歩く。何とか辿り着いたそこは、如何にも観光地。阿里山鉄道の駅があるところだから、仕方がないか。部屋にはなぜか日本時代のポスターの復刻版が貼られていて、何となくおかしい。

 

夕飯は一応ここの名物の焼肉弁当を食べる。180元だが、他に食べる所もなく、味もまあまあなので良しとしよう。夜の奮起湖、鉄道駅周辺以外は完全な山だ。標高も1700mぐらいあるようで、かなり涼しい。これだけ疲れていて、静しければぐっすり寝られるだろうと思ったが、意外と寝つきが悪かった。

ある日の埔里日記2018その3(3)お茶合宿が始まった

お茶合宿スタート

それからホテルで待っていたM夫人を拾い、埔里からバスで高鐵台中駅に移動した。午後1時過ぎにR氏と台北から来るI氏と合流予定だった。それまでに昼ご飯を食べよう、ということで、まいどおおきに食堂を目指したが、日曜日で大混雑、席もなく、退散。何とか丸亀製麺に潜り込む。この駅は選択肢が多くてよい。うどんを食い終わる頃にはメンバーが揃う。

 

今回は3日間、タクシーをチャーターしていた。運転手は非常に気の利いた人で、環島ツアーなどを得意としていると言い、かなり楽しい雰囲気のスタートとなる。まずは私の知り合いの張さんのいる林内に向かう。M氏は海外で高山茶などを作る張さんに興味を持ったようで、どんなお茶、どの程度の品質か見てみたいということで出掛ける。

 

1時間ちょっとで張さんの家に着くと同時に試飲が始まる。タイやベトナムのお茶が出てくる。基本的にM氏は無駄口を叩く前に茶葉を見て、試飲を重ね、必要な質問だけをして、必要な茶葉だけを分けてもらい、さっさと次に向かうスタイルだった。これには張さんもびっくり。私はいつも数時間ダラダラしているのに、本日の滞在は僅か30分ちょっとだった。因みにこのツアーの通訳はI氏がするとのことだったが、張さんの関係で私がやってしまい、これ以降ずっと私の担当になってしまった。

 

次に竹山の劉さんのところへ向かう。ここも私は以前訪問したことがあり、FBで繋がっているので、劉さんも覚えてくれていた。前回は茶の歴史の話ばかり聞いていたが、実は劉さんはいいコンテスト茶を作る人で、茶葉のクオリティーは非常に高い。今年作った茶がいくつか出てくる。

 

竹山の包装屋にちょっと寄る。私にはあまり必要のない場所だが、他の皆さんはお茶を小分けにしたりするための包装袋などを調達している。それから上りに入り、鹿谷方面に向かう。鹿谷で鉄観音茶を作っているという家を訪ねた。全員が初めていく場所だった。台湾の鉄観音茶については、その歴史を勉強中で興味があり、私も乗り出す。先方も日本人が来たということで、力が入り、小雨の中、茶畑まで案内してくれた。基本的にここでは鉄観音品種ではなく、小葉種を使い、鉄観音製法で作っていることが判明。台湾の鉄観音とは品種ではなく、製法なのだ。

 

続いて、焙煎名人の阿堯師のところへ行ったが、既に辺りは暗くなり、戸は閉まっていた。仕方なく反対側に大きく回り、何とか入れてもらう。基本的に訪問先にはM氏が事前に連絡を入れているが、これだけスケジュールが立て込んでいては、何時に到着するかなど全く分からない。先方も心得ているのだろう。因みに運転手には訪問する可能性がある先のリストが渡されており、その場その場で次に行き先を判断して運転手に伝えるから、彼も大変なことだろう。

 

 

陳さんは焙煎施業を終えて寛いでいた。過去何度も訪問しているが、こんな遅くに行ったことはなく、こんなに寛いだ彼の顔を見たことはなかった。いつもはU氏と行くため、激しいバトルになっているだけのなかもしれないが、やはり仕事中とは緊張度がまるで違うのだろう。ここのお茶はいつもいい香りがする。この時間だから何度も飯を食って行けと勧められた。私なら間違いなくなんかを頂くところだが、M氏は基本的に接待を受けない。この辺のスタンスはだいぶ違う。

 

さて、さすがに今日はこの辺で終了か、と思っていたがさにあらず。もう一軒行くというので驚く。もう時間は夜の8時近い。鹿谷ならいくらでも行くところはあるだろうが、飯も食わずにこれではねえ、と正直呆れる。運転手も可哀そうだと思ったが、I氏から『彼は仕事だからいいんです』と言われる。I氏は台湾で20年ビジネスをしているそうだ。私の感覚は中国仕様だろうか。最後の一軒、何さんの家では今日は来ないと思っていたのか、ちょうど製茶中ということで忙しいそうだったので、適当なところで切り上げた。

 

そしてついに宿に入った。ここはM氏の定宿らしい。すごく広い部屋に一人で寝ることになった。その前に腹が減ったが、基本的にM氏は食へのこだわりはないとのことで(昨晩もそうだった)、何とか開いている食堂を見つけて、適当に食い、スーパーで必要なものを調達して、今日が終了した。何とも恐ろしい茶葉調達ツアー初日だった。

ある日の埔里日記2018その3(2)媽祖祭り、そしてM氏現る

4月28日(土)
媽祖祭り

台湾緑茶の歴史、その締め切りが段々と迫ってくる。これまで誰もやっていない歴史、何となくは分かって来たものの、それでよいのかという自問自答が続く。図書館で集中して書いている時は、いいペースで行けるのだが、宿泊先に戻ると、また色々と考えてしまう。天候もそれほど良くなく、シャワーが降ったりして、洗濯物も乾きが悪い。

 

今日は土曜日、ボーっとそんなことを考えていると、外から大きな音が聞こえてくる。覗いてみると、お祭りの行列のような一団が向こうから練り歩いて来るではないか。何だあれは。そうか、今日は埔里で媽祖祭りが行われると、街頭にポスターが貼ってあったことを思い出す。

 

媽祖の祭りと言えば、数年前、馬祖島に渡った時に偶然出くわしたことがある。人口の少ないあの島では全島挙げての一大イベントであり、台湾における媽祖信仰の厚さを感じさせてくれた。それ以降も福建省に向かう飛行機に乗る時、偶に媽祖様と出会うこともあった。大陸に里帰りする媽祖様が荷物検査機を通っていく様は、何ともユーモラスだった。

 

埔里の媽祖祭りはどんなものだろうか。興味が出てきたので、歩いて集合場所付近まで行ってみた。大きなテントが張られ、媽祖様が鎮座している。大きな人形があり、山車に載せられた小型のものもあり、1つ1つが意味するものは不明だが、既に多くの人が集まってきている。

 

各団体の練り歩きが終わり、山車が置かれ、皆が休息していた。何となく、日本の祭りの風景を思い出す。よく見ると、ある場所に列が出来ている。何と山車の下を、老若男女が潜っているのだ。これが何を意味するのかは分からないが、一つの信仰の形であろうか。その後再び、街中を練り歩き、最後は天后廟に向かうのだろうが、小雨も降ってきたので、退散した。

 

M氏来訪
本日から台湾茶の専門家、M氏が日本からやってくることになっていた。今日は埔里に泊まるというので、ここで合流することにしていたが、なかなかやってこない。聞けば、豊原あたりで留め置かれているようだ。この人の茶旅の仕方に興味があり、今回は4日間ほど、同行することにしていた。

 

午後魚池の彼の知り合いの茶農家に行くことになっていたが、いつ来るのか分らず、埔里まで迎えに来てくれた茶農家の王さんも少しイライラしている。ようやくやって来たM氏夫妻はまず予約した宿にチェックインし、それからおもむろに車に乗り込み、王さんの家に向かった。

 

以前私も一度この家を訪れ、美味しいガチョウ料理をご馳走になった記憶がある。M氏は早々に試飲をはじめ、当然のように私が通訳に回る。紅玉で作った紅茶の他、最近流行りの白茶も出てきた。白茶の値段が思いのほか高いのでビックリ。やはり紅茶の需要はそれほど伸びていないので、作っているのだろうか。茶畑をちょっと眺めて、王さんに送ってもらい、埔里に帰る。

 

夜は葉さんと会う予定だったが、製茶の関係で彼はなかなか山から戻ってこなかった。M夫妻は一度チェックインした宿を出て、我が宿泊先の横のホテルに移動していたので、ゆっくり待つことにした。ただ既に夜8時、埔里ではこの時間になると、食事ができる場所が限られてくる。

 

M夫妻は茶葉買付の時は食へのこだわりはないとのことで、すぐ近く、私も入ったことのないステーキ屋に行ってみることにした。サラダとスープは取り放題で、ステーキはまあ夜市の屋台並、というところか。それからホテル前の椅子に座り、ずっと待っていると10時前になってようやく葉さんが帰ってきて、試飲が始まった。さすがに疲れた。そして明日の朝5時に起きて、武界に行くことになる。初日から激しい茶旅だ。

 

4月29日(日)
武界へ

翌朝は4時半には起きて、5時にM氏と共に葉さんの車で武界に出発した。私は昨年も一度行っているが、その後の変化も見てみたいので同行した。標高1400m程度だが、埔里からは比較的近く、1時間半はかからない。山を登っている間に夜が明け、周囲が明るくなると、景色がよい。今日は快晴だ。

 

葉さんが預かっている茶工場をちょっと覗くと、何か問題が発生しているようだった。昨晩も遅かったから、まだ始末が付いていないのかもしれない。すぐに我々は別の場所に移動した。そこは何とキャンプ場、茶畑が見え、簡易な大型テントがいくつか並んでいる。朝から車が動いており、テントから出てきてチェックアウト?する人がいる。

 

ここのオーナーが管理小屋におり、お茶を淹れてくれた。彼は元々茶農家だが、昨今のキャンプブームに目を付けて、これを始めたらしい。お客さんに泊ってもらい、自然を満喫してもらう。ついでにお茶も買ってもらうという作戦。聞けば料金は1200元、週末は満員の盛況だそうだ。

 

茶工場の方に戻ると、見たことがある人がいた。高雄の長信茶業の黄さんだ。彼はここの茶葉を使って高山茶を作って、販売している人だ。以前M氏の紹介で高雄の店を訪ねたが、娘は日本語ができると言って、すぐにいなくなってしまったのを思い出す。M氏もまさかここで会うとは思っていなかっただろう。結局葉さんは忙しいので高雄に戻る黄さんの車に便乗して、埔里に戻った。

ある日の埔里日記2018その3(1)改良場に勤めた人々

《ある日の埔里日記2018その3》

福建から戻って今年3回目の台湾滞在。2週間ちょっとで一度東京へ戻る予定になっており、滞在は短かったが、意外なことが起こり、混乱する。更にはM先生ツアーに交じって激闘茶旅を繰り広げる。そして最後は台南へ。

 

4月25日(水)
突然魚池へ

埔里に戻ってくると、図書館の陳さんから連絡をもらう。『先日会った老人が昔東邦紅茶で運送の仕事をしていたという。彼によれば、東邦紅茶全盛期に番頭のような役割を果たした人が、今も90歳前後で生きているらしい』との情報だった。早速図書館で詳細を聞いたが、その老人の住所などは分からない。本件は郭さんに聞いてみることにしよう。

 

その図書館4階に一人の老人が来ていた。彼は思い出したように『今は埔里で茶商をしている人で、昔茶業改良場に勤めていた人がいる。彼なら茶の歴史を知っているのではないか』という。ぜひ紹介して欲しい、と依頼すると、その夜、ちゃんと連絡先が送られてきたので、早々に連絡してみた。

 

その林さんという人に電話すると、『ああ、今から来て』と言われ、早口で住所を言われたが、聞き覚えのあるものではなく、まずは電話を切って地図を眺めてみたがさっぱりわからない。漢字が思い浮かばなければ検索すら出来ず、これは意外と困ったことである。仕方なくもう一度電話して、近くの目印などを聞いて、何とか歩き出す。

 

かなり歩いてみたが、なかなか目的地にたどり着かない。気が付いたことは、『車を運転する人が近くだ、すぐだ、と言ってもそんなに近い訳ではない』ということ。先方はまさか私が歩いて来るとは思っていないのだ。何とか探し当てた頃には、林さんも心配して道路まで出てきてくれていた。

 

林さんが改良場魚池分場で働いていたのは20年も前のことだという。それも数年だけで、後は自らお茶関係の商売などをしてきたらしい。現在は自宅の1階で簡単な茶荘をやっている。彼はまだそれほどの年齢ではないので、歴史的なことは分からないという。そして『やはり魚池の改良場に資料があるのではないか』と言い、これから魚池へ行こうと言い出す。

 

彼の車で30分、今年3度目の改良場へ到着した。今日は天気が悪く、日月潭を望む景色ももやっている。林さんはすぐに旧知の女性を見つけて、資料の話をするが『そんなものないね』という顔をされる。私はここで以前一度だけ会った陳さんを思い出し、今居るかどうか聞いてみる。暫くして陳さんが来てくれた。

 

彼は自らまとめた資料を持ってきてくれた。それを見ると、実は前回もらっているものもかなりある。しかし前回は知識がなかったので、その資料を見ても、何が重要なのか、何が貴重なのか、さっぱり分からなかったが、今回はいくつも驚くような話が載っていた。そして魚池でも歴史的な茶業関係者の末裔などがおり、彼らが資料や写真を持っている可能性があると聞いた。だがこの掘り出し作業はそう簡単ではなく、今後徐々に行っていきたいが、彼も忙しいようだった。

 

次に林さんが連れて行ってくれたのは、改良場よりさらに先にある家。と言っても看板もなく、犬がいるだけで、何をしているのかは分からない。入っていくと、何と簡単な製茶設備がある。ここに陳さんという人がいた。20年前、林さんが改良場に勤めていた時、改良場でメインに茶作りをしていた人らしい。昔気質の職人さんの雰囲気がある。

 

お茶を飲ませてもらったが、紅茶には独特の風味が感じられた。最近俄かに作り始めた人とは違う、と言いたいようなお茶だった。これを林さんが売っているのだろう。そういう補完関係にあれば、2人ともお茶のことはよくわかっているのだから、それは結構強力な関係だ。なぜか日本のフィギャアが沢山置かれているのがご愛敬だ。夕方まで改良場の人々ことなど色々と話して、林さんの車で埔里まで送ってもらった。

ある日の埔里日記2018その2(15)台北経由で福州へ

4月14日(土)
台北経由で福州へ

今日は福州へ行くことになっていた。安いフライトを探したら、何と松山から出る夜便だったので、ちょっと気になっていたところへ寄り道してから飛行機に乗ることにした。いつものようにバスに乗り台北へ向かう。土曜日でもほぼ時間通りに台北駅へ着いてしまうから有り難い。荷物をコインロッカーに入れて準備万端。

 

ちょうど知り合いのTさんから、Kさんという日本人女性を紹介されていたので、連絡を入れると、中山駅付近にいるとのことで、歩いて地下道を通り、向かう。お茶好きだというKさんを誘って、そのまま中山から大稲埕方面へ歩き出す。途中で手頃な喫茶店でもあれば入ろうと思ったが、残念ながらなかったので、重慶北路を越えて、228事件にも出てくる天馬茶房の隣、延平北路の交差点にある森高砂珈琲に入る。

 

ここは前から気になっていたので寄った訳だが、台湾産コーヒーの種類がかなりある。今台湾は珈琲店が増えている。店員は簡単な日本語を話し、席に案内してくれた。コーヒーは国姓産を選ぶ。料金は一般的な台湾感覚からするとちょっと高いが、淹れ方も面白い。いれたての珈琲を試験管のようなものに入れて、アイスにして飲んだりする。お店は土曜の午後ということか超満員で台湾のコーヒーブームを感じる。

 

それから目的の茶荘を探して歩く。迪化街も観光客と台湾人で人通りが多い。調べておいた住所を探していくと、かなり北の方にその店はあった。王福記、ここは1930年代に斗六で創業されたお店、そして創業者は布揉法を台湾に広めたと言われている王泰友氏だ。これまでこういうお店が残っていると気が付かなかったのだ。

 

何故知ったかと言えば、先日訪ねた梅山で、王泰友の名前が出て、王福記が存在することを教えられたからだ。ただその店は意外なほどきれいで新しくちょっとイメージとは違っている。数年前に建て替えたばかりだという。店に入り、店の歴史について聞こうとしたが、現在の店主である3代目は『資料はないよ』と最初は素っ気なかった。

 

そこへそのお母さん(2代目の奥さん)が助け舟を出してくれた。わかる範囲でこのお店や義父である王泰友について語ってくれる。何と王泰友は僅か10年数年ほど前、100歳でこの世を去っていたので、晩年の印象はかなり残っている。資料はないが、その息子であるご自分のご主人(2代目)の書いた文章なども見せてくれた。

 

今日は出掛けているとのことで、後日2代目に会うために出直すことにした。尚店の片隅にお婆さんが座っていたが、まさかまさかの王泰友の奥様だった。100歳でご健在、毎日店に来ているらしい。これもお茶の力だろうか。一気に歴史が近づいてきた感じがする。

 

因みに私がなーるほどザ台湾の2月号にお茶の特集記事を書いたが、そこに広告を出していたのが、この店だと分かり、一気に打ち解けた。この雑誌は残念ながら4月号で休刊となってしまったが、頼まれ物を書いておいてよかったと思う。最後は店の人々とも打ち解け、突然茶旅に同行したKさんもこの展開にはびっくり。

 

それから2人で大稲埕のお茶関係の場所を歩いてみた。李春生、陳天来など日本統治時代の茶業関係者ゆかりの建物や徳記など外資系の茶業者が残したビルもある。港の横、この狭い路地には往時の歴史がかなり詰まっているが、今やそれを知るべき表示などはない。更に範囲を広げて、日本時代の病院や鉄道駅の跡へも行ってみるが、やはり痕跡は殆ど見られない。

 

最後は台北駅まで歩いていき、現在修復作業が行われている鉄道部関連の建物を見て、Kさんと別れた。私はそのまま荷物をロッカーから出して、松山空港に向かった。夜の空港にはあまり乗客はおらず、ちょっと寂しい雰囲気だった。何度も行って慣れている福州だが、ちょっと不安になるほどだ。フライトはほぼ定刻に離陸し、一路福州に向かった。

ある日の埔里日記2018その2(14)三義に行ったが

4月12日(木)
三義へ

台湾緑茶の発祥はどこか、何とか調べたかった。ある資料には苗栗という文字が出てきており、先日は頭份という街に行ってみたが、どうやら苗栗内でも、北側ではなく、銅鑼か三義だろう、という話になっていた。三義とは、歴史の資料に出てくる三叉河のことか。行ってみたかったが、ただ行ってもツテがないと、何もわかりそうになかった。

 

三義には台湾農林の茶工場があると分かり、先日出会った陳さんに紹介を依頼したところ、直前になってOKが出たので、急遽三義に向かった。埔里からバスで台中駅へ。そこから台鉄の区間車に乗っていく。豊原を過ぎるとすぐに苗栗に入る。この辺になると電車の本数が減ってくる。

 

苗栗に入ると何となく空気も変わった。そして急に雨が降って来た。この雨が非常に激しくなった頃、三義駅に到着した。紹介されていた魏さんに連絡を取ると、すぐに迎えに来てくれる。車に乗り込む際のほんの一瞬でもかなり濡れたほど、その雨は凄かった。この付近でも数日ぶりの雨に皆驚いていた。

 

車は5分ほど、坂を上り、茶工場に着いた。裏に少しだけ茶畑が見えた。雨だったが、昨晩摘んだ茶葉の処理が行われている。烏龍茶作りが行われているようだった。今この工場では烏龍茶、東方美人、紅茶などは作っているが、緑茶は全く作っていないと言われてしまう。

 

私の訪問趣旨を魏さんに話すと、『うーん』と考え込んでしまった。自分はこの付近の出身だが、昔緑茶が作られていたことなど、誰からも聞いたことがなかったという。工場の上司に聞いてみても『俺が入ったのは1980年頃だからさ』と言って、やはり全く覚えはないという。むしろ、そのちょっと前には日本向けに煎茶を作ろうとしていた歴史には記憶があると言い出した。

机の中をごそごそ探してくれて出てきたのは古い写真。その写真には木造の茶工場が写っていたが、『これは1950年代の台湾農林の工場。駅前にあったが、30年前に取り壊してここに移転した。昔の工場は日本時代に三井の紅茶工場だったのさ』という。そうか、三井の主力工場は、大寮、大渓、そしてここ三叉河にあったのだ。それを戦後農林が引き継いだわけだ。

 

魏さんは電話を掛けているがなかなかその人は捕まらなかった。ようやくバイクで現れたその人物は蘇さん。元ここの副工場長で75歳だというが、今でも毎日工場に現れ、茶葉の出来を見ている。彼のおじさんは日本時代に三井の工場に勤めて紅茶を作り、お父さんも農林でそれを引き継ぎ、更には蘇さんもそれを引き継いだ、3代にわたり茶に人生を捧げてきたというのだ。

 

『ちょうど90歳代の人々は全て亡くなってしまい、その昔のことは分からない。ただ爺さんから茶のことは色々と聞いているが、緑茶の話が出たことは一度もない』と言われてしまう。三義が台湾緑茶発祥の地かもしれないというのに、あまりにも意外な反応だった。どうしてこんなことになっているのだろう。

 

ちょうどそこへ三義郷の郷長だという人もやってきたので、『三義郷誌に緑茶生産の話は載っていないのか?』と聞いてみるも、日本時代の紅茶の話は有名だが、それ以前の緑茶の話は全く記載されていないし、聞いたこともない』と同じ反応をされてしまい、完全に途方に暮れる。

 

何故なんだろうか、と自問自答を繰り返して何もならない。心優しい魏さんは弁当を頼んでくれ、一緒に食べた。そういえば、もう一つ銅鑼という場所にも茶工場があるようだが、と切り出してみても、『あれは後から作った観光用だ』と言われてしまい、ほぼ万事休すとなり、本日の調査は終了した。

 

そして収穫のないまま、この地を後にして、駅までまた車で送ってもらった。雨はすっかり止んでいる。魏さんが『ここからここまでが昔の工場の敷地(日本時代に三井の日東紅茶が作られた場所)だった』と教えてくれたが、そこはマンションや商店になっており、工場の跡を示すものは何一つ見当たらなかった。記念碑の1つぐらいあってもよいのでは、と思うのは日本人だからだろうか。

 

魏さんと別れて駅に入ったが、次の列車が来るまで30分以上あったので、周囲を歩いてみた。駅前付近には本当に何もなかった。鉄道の下を通る道に、鉄路英雄地下道と書かれているのが目を惹く。1903年にここに出来た鉄道駅、その完成までにはどれだけの苦労があったのだろうか。同時にそこまでの苦労をしても、鉄道を通したかった日本、その犠牲になった台湾人、それも今や歴史なのだ。この昔三叉河と呼ばれた地域には、まだまだ知られざる歴史が眠っているようだが、今はひっそりと息をひそめている。