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人民中国(2015年5月号)『「茶葉の道」を訪ねて各地へ』

筆者は15年前に滞在していた北京で、お茶の美味しさに目覚め、中国各地を巡る『茶旅』を始め、中国各地や台湾の茶畑を回る旅を続けている。3年半前には勤務先を早期退職し、更に活動の場をアジア全体に広げた。現在までに訪れた茶畑は、アジアの10の国と地域、50か所にも及ぶ。茶畑へ行くことは、単に良いお茶を求めるだけではなく、その国や地域の経済、文化、歴史、農業など、様々な面を理解するのにも大いに役立っており、結果として『茶』というキーワードを使ってアジアを読み解く勉強をしていることにもつながっている。

 

最近は単に茶畑に行くだけではなく、様々な人のご縁により、茶畑の無い国にも出向いて行く。ただアジアの場合、大体どんなところでも人々はお茶を飲んでおり、地元民の生活に入り込み、慣習や歴史を知ることが出来る。やはり『茶』というキーワードは有効に作用している。今回はウルムチで買った1冊の本から、偶然にもモンゴル国ヒャクト(ロシアではキャプタ)、そして内モンゴル自治区呼和浩特を旅した内容を簡単にご披露したい。

 

ゲートの向こうに「茶城」

モンゴルの首都ウランバートルから真っ直ぐ北へ車で5時間、草原を快適に下って行くと、そこには豊かな耕作地が広がっていた。モンゴルには元々遊牧民しかいないと勘違いしていたが、こんな立派な農業地帯があるとは想像していなかった。因みにウランバートルは標高が1600mほどの高地、北へ向かうほど標高は下がり、ロシアと国境を接するセレンゲ県では400mほど、ウランバートルよりかなり北にあるセレンゲの方が気候的に温かいという現象を我々は体験した。

 

そのセレンゲ県より車で小1時間ほどの所にあるモンゴル政府が肝いりで始めた『モンゴル-ロシア国境自由貿易区』を視察しに行ったのだが、10年前に策定されたというその計画は、殆ど手つかずの状況にあり、わずかに鉄筋むき出しの骨組みを持つ建物が1つ見えるだけであった。これがロシアとモンゴルの貿易の現状とも言える惨状だった。

 

国境のゲートを案内してもらうと、柵の向こう、ロシア側に白い建物が見えた。何気なく聞いてみると、何と百年以上前の茶城がそのまま残っていた。ここはモンゴルではヒャクトという地名だが、ロシア語はキャプタ。1727年に清とロシアで結ばれた『キャプタ条約』締結の場所、建物は「茶葉之路」(鄧九剛著)という本で紹介されていたロシアと清朝の交易の場、茶城そのものであった。このような歴史的建造物がそのまま放置されている様子に、この建物の価値、意義を見る思いがした。ここは当時鎖国で門を閉ざしていた清朝の北に空いた唯一の窓だったのだ。

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茶葉は雲南省や湖南省など中国中南部で作られ、山西商人など有力商人が現在の内モンゴル、呼和浩特あたりでこの茶葉を集積し、ラクダなどに載せ替えて、ウランバートルを経由してキャプタに至っている。ここキャプタがいかに重要な場所であったかは、その茶城跡を眺めれば想像がつく。まさに絹のシルクロードに対抗した茶のティーロード、ここキャプタは『茶葉の道』の清朝側の終着地点であった。

 

茶葉はこの地を経由してシベリアばかりではなくモスクワなど西方にももたらされ、ロシア全土に拡散し、飲料を必要としていた人々は茶を飲むようになる。そしてやがてはビタミンCなどの欠乏を防ぐため、羊肉の消化のため、生活必需品となった。当時の世界では茶葉は主要な輸出商品、ある意味では戦略物資であり、イギリスやオランダなども中国から海路、茶葉を輸入していた。茶葉を巡り起こった戦争にアヘン戦争があるが、あれはイギリスが中国の茶葉(特に紅茶)を欲した結果であったから、この歴史的な事実を見れば、茶葉の重要性が分かるというものだ。

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フフホトに茶商人の豪邸

300年前の茶葉交易の茶城を見てしまった興奮は収まらない。次にはどうしても茶葉の道の起点である、内モンゴル自治区呼和浩特を訪ねたくなる。正直内モンゴルには過去何度か行ったことはあるが、呼和浩特にはご縁がなかった。北京から飛行機に乗れば僅か50分で到着するが、300年の昔は一体何日掛かったのだろうか。現在の呼和浩特は他の中国の都市とさして変わらないが、清朝時代にはここを拠点に茶葉交易で大儲けした山西商人が大きな店舗を構え、豪邸に住んでいたという。

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大盛魁、呼和浩特で最も栄えた茶葉商人の屋号である。現在はその店舗が復元されており、その規模の大きさが分かるが、往時を偲ぶものは殆どない。その裏の方にもう1つの屋号、元盛徳の四合院造りの邸宅が200年の時を超えて、今もひっそりと残っているだけである。『殆ど全ての建物は混乱の中で失われた』と現在の住人は残念そうに話す。清朝が倒れた時、茶葉商人もこの地を離れていったのである。

 

呼和浩特に住む作家、鄧九剛氏を訪ねた。鄧氏には『茶葉之路』及び『復活的茶葉之路』という著書があり、その中で、清朝時代のロシアとの茶葉交易から現代までを克明に著述している。鄧氏は『茶葉の道ティーロードは、絹の道シルクロードの後継として、中国と世界を繋ぐ一大貿易ルートであり、もっと評価されるべき存在だ』と語る。確かに茶葉は貴重品であり、貿易による莫大な利益は商業だけに留まらず、政治や一国の命運すら左右しかねない、重要物資であった。

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呼和浩特まで運ばれた茶葉はラクダに乗り替えさせられ、ロシア方面、そして新疆方面へと運ばれ、そして世界の歴史を作っていった。現在中国のみならず、モンゴルやロシアも注目する茶葉の道、その更なる解明は世界史を替えるかもしれない。

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