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茶の源流を訪ねるベトナム茶旅2015(4)ムンライのリゾートホテル

4.ムンライ

車で3時間

ディエンビエンフーから本日の目的地、ムンライという街へ向かって進む。私はそこがどんなところかは知らない。ただ車に揺られていくだけの気ままな旅だ。ツアーに対する文句をいくつか書いてきたが、勿論いいこともある。その筆頭が、自分で何も考えなくても、目的地まで自動的に運ばれていくことだろうか。プレッシャーがない旅、これは何とも気持ち的に楽だ。しかも同行してくれる仲間がいるので、おしゃべりしたりして退屈はしない。

 

初めは水田が広がっていた。稲作はタイ族が持ち込み、今もこの地に住んで、行っているという。ベトナムはキン族が80%以上を占めているはずだが、ここは既に中国で言うところの少数民族地域に入っているのだ。道は徐々に上りになってきて、茶畑へ向かう気分が出てきた。だが眼下に見えるのは水田ばかり。タイ族の占める土地が多いことがよく分かる。

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そして山の中の一部から突然煙が見えた。皆が一斉に車から飛び降りる。後から着いて行くと『焼き畑だ!』と声が掛かる。山の斜面が燃えている。これが焼き畑農業か、教科書では見たことがあるが、実際に目にするのは初めてだ。M先生らは興味深そうに眺めている。私はシャッターを押しながら、見る。茶のキーワードは焼き畑だ、そんな声が聞こえてくる。

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焼畑を辞書で引くと『伐採・焼却等の方法を用いることによって整地し、耕耘・施肥を行わず、短期間作物の栽培を行った後、農地を一定期間放置して地力を回復させる農法』ということであるが、現代の我々は何となく、煙を出すなどよくない農法のような印象を持ってしまっている。だがこのベトナムのこの田舎で見ていると、歴史的にはこのような伝統的な手法が必要だった、自然と調和した農法だったのではないか、などと思えてくるから不思議だ。

 

また少し行くと、少数民族、モン族の女性たちが道端で何かを売っていた。近づいてみると、どうやら山で採れた、芋や漢方の生薬のようなものが置かれている。野菜などではなく、一種の薬を売っているとも言えそうだ。中には刺繍をしている人もいて、暇なときはずっと手を動かしている。自分たちの着るものは自分たちの手で作る、何だか遥か昔の日本のお母さん、というイメージが重なる。

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しかしこの道をそんなにたくさんの車が通るのだろうか。ベトナム人が買って行くのだろうか、ちょっと心配になってくる。カメラを向けると、嫌がられる。運転手が地元の言葉で話している。何とも素朴な光景である。Sさんはお茶を商っているが、実は生薬や民族服にも興味があるようで、一生懸命物色している。お婆さんが着ている古い服の刺繍に一番興味があるようで、今にもお婆さんの服を脱がせてしまうのではないかと、こちらも心配になる。

 

リゾートホテル

ディエンビエンフーを出て3時間ほどで、今日の宿泊先、ムンライに到着した。この街の郊外、川沿いに何とリゾートホテルがあった。今日からは山の中、どんなところで寝るのか、寝袋無くて大丈夫か、サバイバルだな、などとワクワクしていた私はちょっと拍子抜け。部屋に入ると、立派なベッドがあり、何とバスタブまで用意されていた。庭には大きなプールまである。何だ、快適じゃない!ここはベトナム人のお金のある人が来るリゾートらしいが、お客の姿は全く見えない。今はシーズンオフなのだろうか。

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部屋で休んでいると、あっという間に暗くなってきた。一番心配していたのはインターネット環境だったが、何とか部屋でも繋がったので、ついそちらの処理をしている間に夜が訪れていた。この付近には民家もない。道路があり、その向こうは川。静かな環境だったが、広い敷地に人影もなく、ちょっと寂しい。

 

食事の場所もかなり広いホールだったが、お客は我々しかないので、丸テーブル1つが使われるのみ。いや、ガイドと運転手のテーブルを入れて2つのみで、かなり寂しい状況だった。食事は肉や野菜の炒め物、焼きそばなど、中華系の料理であり、我々の口に合っていた。地元に人はどんなものを食べているのだろうか。デザートに出てきたバナナが余りにも大きいので驚く。お茶は例の渋めの緑茶。

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部屋に戻り、風呂に入ってみる。きれいなバスタブ、お湯が出るかなと試してみると熱い湯が出たので、早速バスタブに入って湯を溜めようとしたところ、熱い湯しか出ない上、その湯が足にかかって来て危うく火傷するところだった。それでも熱いシャワーを浴びられただけで、幸せな気分で早々に寝入る。

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10月27日(火)

翌朝は鳥のさえずりで目覚める。Sさんがすぐにお湯を沸かして、朝からお茶を淹れてくれる。何とも有難いことだ。他の部屋の皆さんも、明るくなると起き出しており、朝ご飯に向かう。フランスパンと卵焼き。このまま団体旅行を続けていると食べ過ぎに陥ることが間違いない私にとっては、シンプルでよい。昨日の残りの巨大バナナを食べてしまったのは既に胃袋が大きくなった証拠か。

茶の源流を訪ねるベトナム茶旅2015(3)ディエンビエンフー

10月26日(月)

ゆったりとした朝

翌朝は7時半に朝食ということだったが、食堂に行ってみると、既に食べ終わっている組、これから食べる組など、思い思いの対応となっていた。やはり全体的に朝が早いようだ。食事はビュッフェになっており、誰かがフォーが美味いといえばフォーを取り、フランスパンがといえば、それも取り、卵も食べ、といつの間に大盛りになってしまう。貧乏人のサガか。まあ今日は昼ご飯にあり付けるかどうか分からないので、沢山食べていくのは悪くない。

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それから部屋でゆっくりして、9時半にホテルをチェックアウトして、空港へ向かう。昼のフライトで、あのディエンビエンフーに向かうことになっている。それにしても今日も移動日。昨日と合わせて移動日だけで2日という旅をこれまでしたことはないような気がする。

 

空港までは昨日同様40分で到着した。ベトナム航空の国内線カウンターはひっそりしており、チェックインする人も殆どいない。最近はベトナムでも格安航空会社が台頭してきており、客を奪われているのかもしれない。それでもこのハノイ‐ディエンビエンフー路線だけは、ベトナム航空しか飛んでいないので、やむを得ず、これに乗るしかない。ドル箱路線?

 

3.ディエンビエンフー

小型機で

ディエンビエンフー行きの飛行機はATR72という小型機だった。そんなに乗客はいないだろうと思っていると、欧米人の観光客が何人もいた。フランス人かもしれない。彼らにとって、ベトナムと戦いの鍵を握ったこの地にはどんな意味合いがあるのだろうか。いや、そんなことを考えている人間はここへやってこないかもしれない。みな楽しそうに乗り込んでいる。

 

若い団体さんがいた。ハノイのインターナショナルスクールの生徒たちだった。インターだけあって、国籍はバラバラ。顔つきもバラバラ。共通言語として英語を話している。その中には日本人の子も何人かいた。我々が日本語で話し掛けると、ちょっと驚いた様子だったが、はきはき答えてくれた。企業の進出に合わせて、ベトナムの住む日本人は増えている。隣の子にも話し掛けたが、彼女は韓国人で日本語は分からなかった。韓国人はもっと多い。

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フライトはほぼ満員で出発。機内では水とお絞りが出るだけの例のサービス。そして風景を愛でる間もなく、ちょっと目をつぶっていると、1時間で到着してしまった。ディエンビエンフーの空港はこじんまりしており、タラップを降りるとそこにターミナルビルがあった。写真を撮っていると、係員に制止された。ここは未だに軍事拠点なのか。社会主義の名残か。

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昼飯と茶

何だか南国に来た、というイメージだったが、それほど暑いわけでもない。ランクルが2台やってきた。1台の運転手は前回の旅にも同行したとのことで、M先生たちとは既に顔なじみ、明るい男だった。英語はできないが、笑顔で迎えてくれた。まずは腹ごしらえと、空港近くのレストランに入る。ソーセージが美味い。自家製だ。このあたり、既に山の生活の匂いがある。

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ガイドと運転手は早々食事を終え、ソファーで茶を飲み始める。ベトナムでは、基本的に、食事をする場所と茶を飲む場所は別になっている。古くからの習慣らしいが何故なのだろうか。茶に関心のある我々も、そこへ行き、お茶を飲んでみる。ポットに茶葉を入れ、お湯を差し、1日中飲んでいるお茶。当然かもしれないが、とても渋い。どんな茶葉でこの茶ができているのか、と聞くと、レストランのスタッフが奥から葉っぱを持ってきた。かなり大ぶりで、結構硬い茶葉。あまり見たことがない種類のようだ。

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フランス軍司令部

食後、車に乗り込む。前回もディエンビエンフーを来ているM先生たちは、早く目的地に行きたかったようだが、初めての我々は、少しでも街を見いと思っていた。特にベトナム独立を決定づけた戦いに関連するところはぜひ見学したい。その思いを汲んでくれ、ちょっと観光。

 

車は郊外に向かっていく。そこには戦争当時、フランス軍の司令部だったところがあった。囲いに覆われて中に入ることは出来なかったが、地下司令部のようで、地下に繋がる通路が見えた。この戦いが実際にどのように行われたのか、知識を持ち合わせない私にはよく分からなかったが、アメリカと戦ったベトナム戦争とはかなり様子が違っているように感じられた

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そのすぐ先には戦車が飾られていた。よく考えてみると、何故ここで戦闘が行われたのだろうか。この地にはどのような軍事的な価値があったのだろうか。飛行機でハノイから飛んでくると、イマイチぴんとこないが、当然それだけの意味はあるのだろう。更に知りたいと思ったが、車はそれ以上停まることはなかった。

 

茶の源流を訪ねるベトナム茶旅2015(2)すんなりいかないベトナム

機内で

機内に入るとすぐに携帯に電話が来た。何と旅行会社社員が『空港にいますか?』と確認の電話を入れてきた。何で今頃?Uさんが見当たらないというと、『8時前に電話で確認済みです』という。何で私は9時40分、などと言っている場合か。Uさんに何があったのだろうか?心配だ。

 

ベトナム航空に乗るのは久しぶりだ。機体はかなりきれいでビックリ。個人用画面も席の前にあるので、長時間飛行中、暇がつぶせると喜んでいたが、何とヘッドホーンが壊れていた。CAに伝えるとすぐに替わりをくれたのだが、何とそれもまた耳に掛けようとすると、折れてしまった。私が悪いのだろうか。結局映画を見ることはおろか、音楽を聞くことも出来なかった。

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食事は日本で積み込んだということで、和食がかなりまともでよかった。ベトナム航空の国内線は、水とお絞りしか出ないことを考えると、このサービス本当に良い(笑い)。ソフトドリンクとおつまみも登場し、普通の航空会社のサービスレベルだ。CAも(社会主義的な)昔の硬いイメージからはかなり脱却しており、普通に笑顔があり、サービスしようとしている。

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乗客はほぼ満員。私の横にはクラブツーリズムのツアーに参加したという年配夫婦がおり、反対側は、年配女性3人組。日本人はある程度固められているのだろうか。CAは日本語ができないが、何とか意思疎通はしている。かなり長い間、前の方で赤ちゃんが泣いている。後で聞くと、それはSさんの隣に座った、日本人の赤ちゃんだったそうだ。7時間近くの長い間、辛かっただろうな、赤ちゃんとSさん。

 

2.ハノイ

空港で

フライトは順調で、定刻にハノイに到着した。イミグレも簡単で、帰りのチケットすら見せなかった。荷物のターンテーブルの所に行くと、Sさんがおり、そして悠々とUさんが登場した。どうやって飛行機に乗ったんだろうか?まあとにかくよかった。ただ私の荷物は全然出てこない。いやな予感。そんな時にターンテーブルに日本からお土産に買ったと思われる柿の入った箱がいくつか流れて来る。ベトナム人が日本土産に柿を買う時代か、昔台湾人が日本のリンゴを沢山買っていたな、など思うと何となく感慨深い。それにしてもなぜ柿?

 

何とか荷物が出てきて、税関検査も難なく通過して外へ出た。そこには名古屋から少し前に到着していたM先生、植物学者のY先生、西尾のお茶屋さんTさん、そして大学院生のO君の4人が待っていてくれた。我々3人を合わせた7人がこれから10日間、一緒に行動するメンバーだ。ガイドのベトナム人もおり、さてバスに乗って出発するかと思っていると、何とSさんが機内に土産の煙草を忘れてきたという。ガイドと共に探しに行ったSさん、なかなか戻らなかったが、最終的にはちゃんと手に煙草を持って出てきた。さすが交渉上手。

 

空港自体も何となくきれいになっているように感じられた。駐車場に停めた小型バスに乗り込む。空港から市内へは高速道路が伸びていたが、途中で工事中のところがあり、停まってしまった。なかなかすんなりいかないな、ベトナムは、と感じざるを得ない。道の真ん中に祠が見えた。罰当たりか。

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ハノイのホテル

ホテルは旧市街地に入る前にあったので、渋滞などもなく到着した。かなり古いホテルだった。私はSさんと同室となり、荷物の整理をした。すでに日は西に傾き、本日は明日に備えてハノイで1泊する以外用事はなかった。取り敢えずお湯を沸かし、部屋に備え付けられているティーバッグのお茶を飲む。

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そしてまたバスに乗り、出掛ける。夕飯の場所は、きれいなベトナム料理店。生春巻きやチキンフォーが登場。如何にも日本人好みの料理で、私がこれまで道端で食べていた物に比べれば、かなり上品だった。ただお酒を基本的に飲まない私には、ドリンクとして飲むものがない。温かいお茶を頼むと2万ドンでティーバッグのお茶が出てきた。これならホテルで飲めばよいのだが、自分でレストランを選べない悲しさ。1年前にハノイに来たM先生は『前回も同じレストランだった』という。パッケージツアーとはこんなものなのだろうか。

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そしてバスでホテルへ送られて、1日目は呆気なく終了した。が、これでは詰まらないとSさん、Uさんと夜の散歩に出た。単にホテルの周りを歩いただけだが、暗がりで、美味しそうなものを食べている人々がいた。面白そうなものを売っている店もあった。こっちの方にリアリティがあるな、と思ってしまう。

 

コンビニに入ると、ベトナム茶やリプトンティーなど、お茶のコーナーが充実していて驚いた。以前はコーヒーが目に付いたような気がするのだが、どうだっただろうか。お茶のバリエーションが増えているということは、庶民の所得が向上していると解釈できると思うのだが、実態はどうだろう。

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茶の源流を訪ねるベトナム茶旅2015(1)パッケージツアーは不便

《茶の源流を訪ねるベトナム茶旅2015》  2015年10月25日-11月3日

 

これまでベトナムへは2度ほど茶旅に出掛けている。1度目は2008年、ホーチミンに行ったついでに南部の茶畑を訪ねた。バオロックの茶畑はどこか台湾に似ており、聞いてみると、何と台湾が投資して作った茶畑で、茶葉は台湾に輸出されていた。ここで初めて、台湾は茶葉をかなり輸入していることを知る。

 

2回目は3年前、ホーチミンとハノイで飲むお茶に大きな違いがあるので、北ベトナムの茶畑を訪ねるべく、タイグエン県に向かった。何故ハノイの人々はあんなに濃い緑茶を好むのか、なぜベトナムでは紅茶が作られるのか、など、色々と気が付くことがあり、勉強になった。

 

これまでのベトナム茶旅 → http://www.chatabi.net/category/chatabi/vietnam-chatabi

 

そして今回、『茶の源流を訪ねる』を50年以上テーマにアジアを闊歩されているM先生のご縁を頂き、先生と行くベトナムツアーに参加することになった。M先生の著書は何冊も読んでおり、茶の歴史を実体験されている方、という強い印象がった。既に85歳という高齢でありながら、いまだに現役。今回もベトナム山中に分け入るという。これは一度お供せねば。

 

また何とこの5年間で旅行会社が主催するパッケージツアーに参加するのは全く初めてであり、新鮮な驚きの連発。偶にはこのようなツアーに乗ってみるのもよい。日本の旅行業界が置かれている現状が垣間見られた。そして何よりM先生ほか、その道の専門家と一緒に茶旅が出来るのは何よりの喜びであり、そこで見たモノ、聞いたモノには相当の刺激があった。

 

1.ハノイまで

10月25日(日)

ツアーの不便さ

ツアー参加を決めたのは1か月弱前。それから色々とあった。某大手旅行会社の地方支社の対応は本当に驚くことばかり。メールでやり取りしたいと言っても電話を掛けてくるし、書類も全て郵送されてくる。ベトナムに行くのに、インドネシア入国カードの書き方が送られてくる。何といってもEチケットが郵送されてきた時には目が点になった。Eチケットの意味、分かっているのかな?このようなコストが全て旅行代金に含まれていると考えるとなんかちょっと??

 

しかしよく考えてみると、M先生は既に85歳、携帯電話は使っているが、インターネットとは無縁である。他に70代の参加者もおり、ネットを使わないお客さんには電話しかなく、郵送しかないのだと分かる。だがそれでも、パスポートのコピーを送っており、メールアドレスも知らせているのだから、年齢を見て個別に対応すべきではないか。そこに人の手を経る意味がある。

 

前日いつものようにWEBでフライトチェックインを試みたが、なんとできなかった。今回はこれまでの私の旅からすれば、かなりの大金を支払って参加している。それなのに、サービスが悪い、便利さもない、と感じざるを得ない。これも団体旅行扱いだからだろうと勘繰り、思わずムッとしてしまう。

 

成田空港で

当日5時に起きて、成田へ向かう。10時出発なのだが、何となく嫌な予感がして、早めに行く。旅行会社の案内でも2時間前必着となっていた。成田には7時半過ぎに到着。ベトナム航空のカウンターを探していくと、既に長蛇の列ができている。ハノイ行きのカウンターを探したがよく分からない。何とか係員に聞きだすと、横に並んでいる列だった。そこに並び直すと、笑顔の係員が『日本の方ですか?』と声を掛けてくる。私のところで方向を変えてほしいと。『外国人の方にはなかなか意図が伝わらなくて』という。隣の航空会社からクレームが来るらしい。ということは恒常的にこの状態が起きていることを指している。

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それから30分間、我々の列は一歩も動かなかった。どうやら30分前に出発するホーチミン行きの客を捌いているらしい。しかしそれは酷い話だ。早く来ても対応してもらえない。そして何の説明もない。『安いから仕方がないでしょう』と言わんばかりの応対。ところがこちらは高い金を払っているのだ、という思いがあり、怒りがこみ上げる??他の客もイライラし始める。

 

取り敢えずやることもないので、今回同行するSさんとUさんを探してみたが、どちらもこの列にはいない。既にチェックインしたのか、それとも寝坊?他の乗客を眺めると、日本人は年配者のグループが何組かいたが、後はベトナム人が多かった。いやよく見ると爆買い中国人が便座や炊飯器を持って並んでいるし、タイ人らしい観光客も見える。安いベトナム航空を使って日本旅行に来る中国南部やタイ人がいることがここからわかる中国人は中国だけから来るとは限らない。

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結局チェックイン出来たのは空港到着から1時間10分後。飛行機に乗る前から疲れ果てていた。それからイミグレと税関を越えると、もう搭乗時間が近づいている。こんなことは初めてだ。搭乗口でSさんが待っていてくれたが、Uさんは最後まで見付からなかった。我々二人はやむなく搭乗した。

 

ハノイで飲む濃い目のお茶2012(6)ハノイ お爺さんの小さな茶店

タクシーが走っていない

午後紹介のあった日系IT会社を訪問した。オフィスの場所が宿泊先から結構離れていたが、タクシーで言われた通り行くと何とか行き着いた。ベトナムの人の気質や人材状況など、為になるお話を聞く。

そして夕方4時半、オフィスをお暇してまたタクシーで戻ろうとしたが、タクシーが全く走っていない。ビルの前で10分待ったが、1台も走っていない。よもや、と思ったのは、中国でもあるタクシー運転手の食事タイム、または交代時間。もしそうなら捕まえるのは絶望的かもしれない。しかしバス路線は全く分からない。というより、自分の正確な所在地すらはっきりしない。

5時半には宿泊先ホテルでの待ち合わせがある。どうしようか、と思っていると1台の車が停まる。白タクかと思い、ホテルの場所を告げると、「いいから乗れ、金は要らない」という。そういわれると逆に疑ってしまう。それが中国で生きて来た証だ。ただより高い物はない、のだ。残念ながら断る。もしかすると単に親切な人だったのかもしれないが、万が一を考えるといくら焦っていても、乗れなかった。

仕方なくもう少し広い道まで行った。しかしここでは渋滞がひどくなりつつあり、タクシーなど全く見付からない。するとバイクに乗ったオジサンが声を掛けて来た。バイクタクシー、これに賭けてみることにする。行先を何度が言い直したが、大丈夫か。バイクは私を後ろに乗せ、渋滞の車の間を縫っていく。そして意外なほど安全運転で、危ない感じはない。何とタクシーとほぼ同じ時間で着いてしまった。勿論料金は半分以下だ。ベトナムにも色々と便利な手段がある。もう少し言葉が出来、地理が分かれば、是非活用した所だ。

夜は大学の後輩のご主人がハノイに駐在しており、会う。ついでに会社の方々を数人連れて来て頂き、中国とベトナムの違いなどをヒアリングする。中国人は素晴らしい、という言葉が何度も出た。中国ではなかなか聞かれない言葉だったが新鮮だった。

因みに連れて行ってもらった日本料理屋さんは最近ハノイに出て来た。元は岐阜の料理屋で名古屋に支店を出した次は、東京ではなく、ハノイとなったようだ。日本の景気は外食産業を海外に押し出している。

3月22日(木)   ルーさんのお茶

いよいよハノイ最後の朝。一昨日行った庭園お茶屋で聞いた、お爺さんが朝だけ、常連にだけ開くお茶屋があるという話、気になってしまう。ズンさんも気になったようで、行って見ようか、と言ってくれ、連れて行ってもらう。タクシーでどこをどう走ったのか、郊外の公団住宅が建つ場所にやって来た。一体どこにあるのかと見ていると、何と建物と建物の間の小さなスペースでお茶を飲んでいる人が見えた。まさかと思って行って見ると、まさにそこがお茶屋さんだった。これはこれで凄い。

ご主人はルーさん、83歳。既に庭園茶屋など仕事は書道家の息子さんに譲り、今は好きな時に常連さんだけにお茶を淹れて過ごしている。こんな生活良いな、と思ったが、ここまで来るのは大変だったようだ。学校の先生をしていたルーさんは、60歳で定年になったが、年金は少なく、折からのドイモイ政策で物価は上がるばかり。これでは生活できないと好きなお茶を商売にしたという。その拘りは相当なもので、先日我々も行ったタイグエン県のタングンの茶農家を飲み歩き、気に入った所に自分のお茶を作らせたという。

ルーさんの茶屋には如何にも常連という人々が数人、新聞を読んだり、話したりしている。お茶は黙ってルーさんが出す。その日のお茶は1種類のみ。今週のお茶は張り出されており、好きなお茶の日に来るのかもしれない。料金は格安らしい。お茶はやはり渋め。

壁には黒板があり、何やら書き込まれているがベトナム語なので分からない。きっとお茶に関することが書かれているのだろう。新しいお客さんが来たので席を譲って失礼する。なかなかいい空間だ。

最後のブンチャー

それからズンさんにホーチミン廟へ送ってもらい、見学した。凄い人が行列を作っていたが、何とか見ることは出来た。北京の毛沢東記念堂と同じ感じ。ホーチミンさんは安らかに眠っていた。今のこの国をどう思っているか、聞いてみたかったが、直ぐ立ち去るように言われて外へ出た。

そしてホテルへ戻り、最後のランチへ向かう。数々のB級グルメを堪能したハノイだが、やはり最後はブンチャーだろう。ホテルで聞いて、ブンチャー専門店へ向かう。そこは昼時でかなり混んでいたが、席を確保する。何も言わなくてもブンチャーしかないのか、さっと出て来た。本当に、本当にここのブンチャーは美味かった。

併せて揚げ春巻きが出て来たが、こちらもぱりぱりして美味しい。ベトナムというと生春巻き、というイメージが強いが、実は基本は揚げ春巻きらしい。これなら我々も安心して食べられるし、味も良い。素晴らしい。

そしてホテルで予約したタクシーで空港へ送ってもらい、香港航空で香港へ戻った。帰りの便もホットドックが出たが、もう手を付けなかった。ハノイは美味しい街だった。



ハノイで飲む濃い目のお茶2012(5)ハノイ お茶屋の6代目に歴史を聞いたが

韓国が目立つハノイ

午後タクシーに乗り、もう1軒の茶屋へ行く。ところがズンさんが調べた住所に茶屋はなく、近所で聞くと既に廃業していた。お茶屋はそんなに簡単なビジネスではないようだ。その近くに民族博物館があったので、覗いてみる。ベトナムに居る各民族の特徴が述べられており、また屋外にはそれぞれの民族の家屋なども展示されている。

続いて、市内視察。一際聳え立つ70階建てのビル、これは韓国資本が建てたという。同時期に日本企業にも話があったが、リーマンショックで断念したらしい。何故韓国に出来て日本に出来ないのか。隣には48階建ての高層マンションが2棟。発売と同時に売り切れるほどの人気だったらしい。日本円で数千万円もするマンションが買える人って、今のベトナムでは誰なんだ。海外帰りのベトナム人ではないらしい。

日本大使館は広大な敷地であった。何でこんなに大きいのか、ODAに対する見返り、とも言われている。実際ハノイでは道路も空港も皆日本のODAで作られている。韓国は実利を取り、日本は支援を取っているのか。日本大使館の向かいには巨大ショッピングモールの建設が進んでいた。ここも韓国系だった。どうなっているのか、日本。

茶屋の6代目と会う

そして今日のメインイベント。ハノイで19世紀から続くお茶屋さんを訪問。そこでベトナム茶の歴史を聞こうという企画だ。ズンさんが事前に根回ししてくれており、アポも取れている。お店に行くと、周囲は古い街並みの残しており、気分が盛り上がる。そしてお店も非常に古めかしい家屋に茶を飲ませるスペースがなかなか心地よい。聞けば50年前の建築物を借りて営業しているという。ベトナム戦争など相次ぐ戦争で、建物も全てが残っている訳ではない。

中は畳ではないが、板の間にござが敷かれているのか、椅子ではなく座るスタイルの部屋がある。正直ベトナム人の生活習慣が分からないが、恐らくはリラックスする空間として、直に座る文化があるのだろう。書画も掛かっており、雰囲気は出ている。裏には中庭があり、そこでもお茶が飲める。

この店の店主、6代目のスオンさんと話す。このお店は1800年代に初代の女性が茶葉を売り始めて、その後戦争などの混乱があった中、今日まで引き続き、スオンさんが父親の代を継いで6代目だという。スオンさんはお茶屋の主人の傍ら、実は新聞記者としても活躍しており、二足の草鞋を履いている。

この店には日本人の茶道家や仏教関係者なども立ち寄り、お茶の話をしていくという。中にはハノイで茶道のイベントをする人もおり、日本のメディアや雑誌でも紹介されている。スオンさんはハノイのお茶の世界の有名人だ。

ベトナムのお茶の歴史、彼によれば、それこそ戦乱で資料も散逸し、お茶屋も開店休業であった時期もあり、はっきりしたことは分からないという。当然であろう。いつからどんなお茶を飲んでいたのか、何故濃い、渋いお茶をハノイでは好むのか、分からない。1950年代にハノイでプーアール茶が作られていた歴史を聞いてみると、それも初耳とのことで、こちらが漢字で書かれた資料を提供した。

スオンさんのおじさんという人も傍で控えて聞いていたが、歴史はお手上げという感じでどこかへ行ってしまう。ベトナム茶の歴史は、老齢な茶樹が発見されたこともあり、これから少しずつ解明されていくと思われるが、資料がない以上、ある部分は憶測の域を出ないだろう。

3月21日(水)   ハノイ 普通話ができる人は誰

前日夜はホテル近くでまたB級グルメ。おこわご飯の上に豚の角煮と煮卵。これはまた美味い。本当に簡単に食べられる物が安くて美味い。ハノイの魅力を知ってしまうと、他の都市では生きづらい。

翌朝は午前中街歩き。ハノイの特徴は街角の至る所で茶を飲んでいること。例の風呂場の低い椅子に座り、何をするでもなく茶を飲む。この光景は福建省のアモイなどで見たことがあるが、実はそうそうあるものではない。お茶を日常空間で飲む文化がある街、歩いていて居心地が良い。

古い教会の建物が街並みに合っている。昔誰かの邸宅だったらしい建物もおもちゃのようで可愛らしい。私の歩く旧市街地は、戦争の影響をどの程度受けたのか分からないが、古めかしくてよい。

大きな通りに出るとコンベンションセンターのような場所があり、そこでエネルギー博をやっていた。何気なく覗くと中へ入れられ、そのまま登録が行われ、会場内に滑り込む。会場内にはドイツなどヨーロッパ勢がブースを出しており、省エネ機器などを売り込んでいる。残念ながら日本企業はない。

台湾企業のブースで女性に声を掛けると、普通話が出来た。彼女は何と広西壮族自治区出身。ハノイの大学でベトナム語を勉強中、たまたまバイトの募集があり、働いているらしい。台湾系企業で中国人がバイト、ハノイにはそれほど普通話が出来る人が不足しているのだろうか。それともコストが安いのだろうか。いや、ベトナム人で普通話を学ぶ人が少ないということか。分からない。

昼は紹介された日本人とランチ。彼は日本企業の駐在員を長くやりながら、現在はコンサル業もこなしている。ベトナム人について、ベトナムの進出事情についてなど、様々な情報を得る。後で気付いたことだが、彼は大学の1年後輩であった。何とも奇遇。




ハノイで飲む濃い目のお茶2012(4)ハノイ お茶屋でブンチャーを食べる

ハノイへの帰り道

帰りは一気に山を下る。そして元来た道をひたすら戻る。ところが意外にも、一度通ったにもかかわらず、結構違った風景に出会う。特にきれいな田園風景、段々畑などに興味を惹かれ、車を降りて歩いて見たりする。ここには私が子供の頃の風景が克明に残っている。ウットリする。

途中で昼食を取る。普通の家かと思うようなレストランに入る。裏で採れた野菜を炒めたようで新鮮でおいしい。食事が終わると、横には自らお茶を淹れ、寛ぐスペースがある。このあたりにお茶文化が垣間見える。人々はここでお茶を飲み、水タバコを吸う。ここは雲南省か、はたまた福建省か。驚くほどに似ているのは何故だろう。恐らくは昔中国からこの地に渡って来た人が伝えたのではなかろうか。

エンバイ市近くでハノイに向かう幹線に入る。そのあたりで鉄道の線路と遭遇。ちょうど列車が通るのか、遮断機が下りていた。どんな長距離列車が通るのかと期待して待っていたが、やって来たのは一両のみ。中国とベトナムはこの線論で結ばれているのだろうか。

幹線道路を快調に飛ばす。道路脇で何か果物を売っている。見れば私の大好物なザボンだ。中国では買ってよく食べた。ここでは試食もさせてくれ、ズンさんと運転手さんは大量に買い込んでいた。尚ここではザボンに塩を付けて食べる。日本でスイカに塩を掛けるようなものか。十分甘いのになぜ。そしてここにもお茶セットが用意されており、お茶を飲んだ。

ティエンクワンパゴダ、と書かれたお寺に寄り道した。ティエンクワンとは恐らくは観音か。13-14世紀に創建されたお寺はその後何度か再建され、現在は2000年に改修され、整備されている。ベトナム解放時、ディエンビエンフーの戦いの勝利したホーチミンがこの寺を訪れ、勝利を感謝したことから有名になっている。ズンさんも昔教科書で学んだ寺だと言っていた。

お寺の敷地は広大で、しかも寺の建物は小山の上にある。結構上るのが大変だが、信心のある人は老人でも自分の足で上がるという。門には中国語が書かれており、寺は中国の影響を受けていることがはっきり分かる。今でも寺の祭事には大勢の人々がハノイやベトナム全土からやって来て、この付近の渋滞は物凄くなるらしい。ベトナム人の信仰の一端を見る。

因みにベトナムでは以前は水田などに自らの家のお墓を建てることが出来たが、最近は禁止されており、市営の墓地を使用する。ハノイまであと60㎞ほどの所で、ズンさんが「この辺に母親のお墓があり、時々来ます」と言っていた。ベトナムでは戦争などで多く人が亡くなっている。お墓も足りなくなってきている。

ハノイに戻ると日が暮れていた。夕飯はホテルで教えてもらった汁なし牛肉フォーを食べる。これもなかなか美味い。この店は有名らしく、欧米人も沢山来ていた。店の従業員も英語が話せた。しかし量はそう多くはなく、また初日に行った店に行き、今度はカタ焼きそばのような物を食べた。これも牛肉が乗っており、美味かった。ハノイでの食事に殆ど外れはなかった。

3月20日(火)   庭の茶屋

翌朝はまた屋上で朝食。そして昨日買ったザボンを切ってもらう。何しろナイフが無いと切れない。ところがいつになってもザボンを持ってこない。あれ、みんなで食べちゃったかな、と思うほど経った頃、何ときれいに皮をむいたザボンがお皿に載って出て来た。これには感激。私はただ皮に切れ目を入れてくれればよかったのに。この親切、忘れられない。

ズンさんが迎えに来てくれ、今日はハノイ市内のお茶探索。先ずはタクシーで旧市街を少し出た所にあるお茶屋さんへ。ところがなかなか見つからない。ズンさんも初めていく場所だ。色々と聞いてようやく辿りついた場所は、何と民家の庭。道から少し下り、鳥かごを売っている店の下の小さな門を潜るとそこは別世界。

広い庭の真ん中に大きな木がどっしりと構え、周囲も緑にあふれる。そこにイスとテーブルがあり、パラソルも出ていて、ゆったり座れる。半分覆われている小屋には書画が掛かっており、文化的な雰囲気もバッチリ。一体誰がこんな店を開いたのだろうか。

店番のおばさんに寄れば、ここは彼女の家。親戚がお茶に詳しく、ここを貸してほしいというので、開いているらしい。お茶は例の濃い目の緑茶。急須でしっかり入れてくれる。しかしハノイ市内のクラクションの音、人々の喧騒など嘘のような空間がそこにあった。この店を開いた親戚のお爺さんに是非会いたいと思ったが、彼の家はここからも遠く、また朝だけ常連客を相手に茶店を開いていると聞き、断念した。

この店のお客は若者、大学生からお年寄りまで様々。ハノイもようやく多様な文化が芽生えてきている、そんな風に感じられた。

お茶屋で昼ごはん

優雅なお茶屋を出ると、その付近は画廊などもあり、ちょっとおしゃれなエリアであることに気が付いた。ズンさんと2人、次に向かって歩き出す。途中にローカル市場があり、立ち寄る。理由はベトナムの生茶を探すため。生茶と言えば中国茶の世界ではプーアール茶の一つ。だが、ベトナムで生茶と言えば、まさに生の茶葉。それを市場から買ってきて自分で煮出して飲むという。最近では珍しいもののようで、お婆さんなどが買いに来るらしい。店でも奥にビニールに入れてしまってあった。

また少しオシャレな通りに出る。そこにもう一つの茶屋がった。こちらは昔の家屋をうまく利用して、個室を作り、細長い廊下の向こうには喫茶室があった。何となく腹が減る。ズンさんも同じだったらしく、先に昼飯を食べてからお茶を飲もう、という話になる。すると店員2人が自分の昼飯をどこからか出前していた。それを見て、我々もお願いしてしまう。この辺の融通の利くところが素晴らしい。

そしてそこで出会ったのが、ブンチャーと呼ばれる、焼き肉と野菜をスープに入れ、そこに麺を入れて食べるベトナム風つけ麺。このブンチャー、圧倒的に美味い。肉の旨みと麺が非常にマッチしている。これを食べてしまうと、フォーをあまり食べないと言われても納得出来る。うーん、ハノイのB級グルメは相当に奥が深い。

その後は、お茶屋で鉄観音などを飲み、かなり寛ぐ。店番の女性は大学生。お茶が好きというより、ちょうど良いバイトとして働いているそうだ。お茶よりジュースが好きなのかなと思えるほど素直な子だった。

ハノイで飲む濃い目のお茶2012(3)エンバイ 樹齢500年の茶樹

凄い夕飯

夕飯を食べに行く。どこへ行くのだろうか、ズンさんも運転手さんもこの街に詳しいとは聞いていないが、何となく確信を持って道を進んでいる。街の端から端に行ったあたりで車が停まる。そこには、この辺にしては相当綺麗なレストランが出現した。しかも何となく中国風。西北飯店との漢字名すらある。

中は広い。母屋に進むと、何と1階には茶道具が揃っており、席が空くまでそこで茶を飲んでいる人々が。その奥の中にはおしゃれな個室も。一体どんな人が経営しているのか。「実は私の東ドイツ時代の友人が経営しています」、そう運転手さんが話し始めた時、一瞬何の話か分からなかった。そうか、この国は80年代にドイモイ政策があり、チャンスのある人は海外に出ていた。アメリカや日本、そして元宗主国のフランスに行った人のことばかり考えていたが、実は当時社会主義国の東ヨーロッパにも多くのベトナム人が働きに行っていたのだ。

そして2階に上がり食事をする。大部屋には大勢のベトナム人が家族や仲間で食事をしていた。既に豊かになった人達がそこにいた。中国経済の恩恵もあるらしい。皆楽しそうだ。ビールも進む。

焼きナマズが出て来た。思いの外、美味。ベトナムでは雷魚を食べると聞くがナマズも美味い。山羊の肉も出て来た。こちらも柔らかくて美味い。赤飯も登場。ごま塩を掛けると涙が出るほど美味い。スープも美味い。何でも美味い。知らず知らずの内、物凄い量のご飯を食べていた。腹がきつくて、苦しかった。

3月19日(月)  朝

翌朝は前夜の食べ過ぎの影響か、あまりよく眠れずにグズグズする。これではいけないと起き上がり、散歩に出る。ホテルの周りを一周するつもりが、池の周りを一周へ。ところが道が無くなり、引き返す。ハノイまで177㎞との表示あり。そんな距離なんだ。

昨晩かなりの雨が降っていた。実はホテルの庭で朝食が食べられると楽しみにしていた。とても残念。室内の味気ない部屋で、フォーをすする。フォーはやはり屋台で食べる物だと思う。一時雨音が大きくなり心配したが、その後止む。

そしてホテルをチェックアウトして、西へ向かう。今日はどこへ行くのか。どうもシャンチュエット、と言う名前の茶産地へ行くらしい。途中の道には、薄い木の皮のような物が沢山干されていた。何とそれは将棋盤の材料だという。ここのプラタナス?を使い、将棋盤が出来る、日本にも輸出されている、と聞くと、俄かに興味を持ち、車を降りる。そこには農作業に出るおばさんがこちらを向き、不思議そうに私を見る。

向かい側から音がする。行ってみると、そこは学校。小学校1年生か、と思う幼い子達が、先生の音頭に合わせて運動していた。こんな小学校、のどかでいいな。写真を撮っていいかと身振りで示すと問題ないとの反応。ちょうど子供たちの頭の上に茶畑が広がる。良い風景だ。

紅茶畑

更に走ると集落が見えてきた。と同時に茶畑も見えてきた。道路の両脇の斜面に植えられている。かなりきれいに整備された畑だ。これは機械で摘む紅茶畑かと思っていると、上の方でおじさんと若者が二人一組で獅子舞のように?機械を動かしていた。やはり機械摘みだ。それにしてもオジサンが若者を叱っている。親子かもしれない。

ベトナムの紅茶生産は、旧ソ連への供出品として生産が始まったと言われている。ベトナム人自体は紅茶を飲む習慣はなかった。フランスの植民地時代に一部飲まれたかもしれないが、むしろコーヒーの方が名高い。ロシアは伝統的に紅茶を飲むが自国では茶葉が取れない。どうしても他国へ依存している。

共産国家に対してソ連は様々な経済援助を行ってきたが、その見返りも要求している。ベトナムに対しては紅茶が一つの要求品目になった。実は60年代初めまでは中国からも紅茶を輸入していた。同じ理由である。中ソ蜜月が断交に変わり、茶葉輸出も途切れたようだ。

またロシアンティーは基本的にジャムなどを入れて甘くして飲むため、紅茶の品質を追求することはあまりなかった。ベトナムの紅茶の質もそれほど高い物が要求されることはなく、そのまま数十年来た。ところが最近、この10年ほど、台湾が紅茶を求めてベトナムへやって来た。エンバイ市のあたりでも大規模な紅茶工場が台湾資本で作られ、近隣の農家から茶葉を買い取って加工している。道沿いになった1軒の工場を訪ねたが、生憎台湾人オーナーが不在で話は聞けなかった。ただ、恐らくは今見ていた茶畑の茶葉もこの工場へ運び込まれるのだろう。何となく不思議な気もするがこれが現実だ。

山の上の老茶樹

更に進むと車は山道をどんどん上る。山の上に茶畑が見えてきた。シャンチュエットに着いたようだ。だがズンさんにも当てがある訳ではなく、村に突撃し、1軒のお店に入り込む。そこにはこの辺の山で採れた奇岩というべき石が加工され、椅子やテーブル、工芸品として売られていた。何でこの店に入ったのか。

オーナーがやって来た。この付近の村はモン族が中心だが、彼はベトナムの主流、キン族。奥さんは他の少数民族の出身とか。20年前からこの村に住み、20歳の時からお茶作りをしているとのこと。最初は普通の緑茶を作っていたが、最近では中国に研究にも行き、高級緑茶を作っている。飲ませてもらうと、ベトナムの濃い緑茶ではなく、すっきりした感じのお茶に仕上がっている。ちゃんと冷蔵庫に仕舞ってもいる。この辺は中国での研究成果か。

茶器も中国から急須を買い込み、本格的に淹れている。ベトナムではローカルの安い茶器を使うのが一般的だから、この山の中では驚く。どうやら石のビジネスは上手くいっており、その資金をお茶に使えるようだ。因みに弟さんも石の事業を別途やっており、店は近所にあった。少数民族の人々は貴重な石があることが分かっても、それを如何に加工し、如何に売るか、そこには慣れていない。彼らはそこを繋いで、いいビジネスをしている。

この家の子供達が珍しそうに覗きこんでくる。近所の子供達も実に素直で可愛らしい。この付近では余所から来た人は珍しいのだろう。ましてや外国人となると滅多に来ないだろう。坂を少し上がると村の学校があった。3月のこの時期、山の上はかなり寒い。民族衣装の上からダウンジャケットを来ている子がいて少し驚く。学校は活気がある。学校に行く喜びがある。日本とは根本的に違う。

そして村にある500年の老茶樹を見せてもらう。ある家の前に数本の幹の太い茶の木が植えられている。きちんとプレートが嵌っていたから、ベトナム政府も認定なのだろう。現在は茶葉を摘むことはなく、茶を作ることもないが、作ったとしても美味しいとは思われない。それでもこのような木が、このような山の上の残されていることに重みがある。恐らくはこの木と同等、または更に古い木がベトナムのどこかにあることだろう。今度はそれを求めてもっと奥地に分け入りたい。

 

ハノイで飲む濃い目のお茶2012(2)タイグエン タングン茶はエスプレッソ

3月18日(日)   4. タイグエン

(1)    タイグエンへ   ホテル

翌朝、ズンさんがホテルに迎えに来てくれた。8年ぶりの再会である。先ずは昨晩のホテル騒動の後始末で、2日後に戻った際に、以前予約したホテルではなく、このホテルに泊まりたい旨を伝える。これには全く迷いが無い。

実は朝食も気持ちが良かった。ここも最上階を食堂としており、朝食をここで食べるのだが、何とも眺めが良い。小雨は降っていたが、それがまた風情を誘う。この辺りは旧市街地で、家々も密集しているが、皆細長いビルを建てており、隣もよく見える。面白い。朝食はビュッフェで質素。欧米人の旅行者も多く泊まっている。

またフロントの愛想は相変わらずよい。みんなニコニコしている。どうしてだろうか。昨晩のあのホテルは本当に愛想が悪かったから、ハノイ全部が愛想がよいわけではない。やはりこのホテルが優れているということか。

タングン

車で2時間ほど走る。日曜日であり、車はそう多くはない。平日の8時過ぎは相当のラッシュだそうだ。日曜日でラッキー。道路は市内は狭く、郊外は広いが所々ガタガタ。それでも、以前より大分道路事情はよくなっているらしい。

ハノイの北西約100㎞、タイグエン県タイグエン市、ここがベトナムで有名なお茶の産地だと聞く。ベトナムのお茶、というと、どうしてもハス茶、ロータスティが登場する。だがズンさんによれば、北ベトナム(ハノイなど)では、ハス茶を飲む人はあまりいない。飲むのはここタイグエンの濃い緑茶。その産地の中でも北ベトナム人が最も好むのが、タングンという村の緑茶ということで、先ずはその村へ行って見る。ズンさんにあてがあるわけではなく、突撃するだけだ。タイグエン市の郊外にあり、茶畑が広がる。その茶畑の中に、お墓がある所など、如何にもベトナムらしい。

道沿いにあった1軒のお茶屋に入る。ここは40年前からお茶造りをしている夫婦がお茶を販売していた。奥には焙煎機も置かれ、ここで茶作りが行われている。いきなり出て来たお茶を飲むと、かなり苦い。それ程濃いお茶だということ。何故こんな濃いお茶が好まれるのかは分からないという。実は後で台湾人及び潮州人の茶商に聞いた所、恐らくは100-200年前に福建南部、潮州などから工夫茶を持ってハノイに行った者がいたのだろうということ。確かに工夫茶はかなり小さなカップに濃いお茶を淹れて飲む。まるでエスプレッソだ。茶樹は10-20年が良く、数年前にも新しい茶樹を植えたという。輸出は殆どなく、国内需要を賄っている。

帰りに昨年11月に開かれたベトナム初の国際お茶博覧会の会場を見に行った。立派な建物が目に入ったが、残念ながら人はおらず、見学すらできなかった。これも一つの箱モノ行政であろうか。ベトナムのお茶事業はまだまだこれからだ。

韓国留学を熱望する娘

お昼はタイグエン市に戻り、ズンさんのお知り合いと一緒に取る。彼は学生時代の友人だそうだが、今はこの街の鉄鋼関係の会社で働いている。このタイグエン市には昔ソ連の援助で出来た鉄鋼工場などがあり、実は意外と重要な街となっている。彼は車に乗っており、高級そうなレストランに案内される。勿論友人の来訪を最大限歓迎しているようで、酒まで持ち込んできた。何となく中国的。個室に入り、3人で食事。料理はかなり美味い。

話が韓流ブームに及ぶと彼は突然「実は娘が韓国に留学したいと言って聞かない。同じ留学するなら、英語圏のシンガポールにして欲しいのだが、韓流スターの影響で頑として聞かない。どうしよう」と言い出した。正直、ベトナムの地方にまで韓流は浸透し、若者が虜にされている。日本のことを聞いてみたが、「日本はバイトが出来るので親としては助かるが、それだけ」とつれない。ただ韓国も、「韓国語が出来ても就職先は韓国企業のみ。働き辛いと聞いているし、汎用性が無い」と厳しい。留学資金も今のベトナムの一般家庭にとっては大変な額だというし、ある種の投資と考えると日本や韓国にはとても投資出来ない、と言われているようなもの。残念だがこれが現実。

レストランにはタイグエンの茶が売られていた。だが何故か日本酒も用意されていた。どうしてだろうか。またレストランを出ると、仏壇屋さんがあり、そこに日本の招き猫が置かれていた。仏壇に招き猫、この感性は理解できないが、これも商売か。

市内の博物館に寄り、ベトナムの少数民族の特性などを見る。モン族(ミャオ族)など、お茶に関係した民族も登場して、興味深かったが、説明はあまりなく、残念。ここでご友人とはお別れして、エンバイへ向かう。

5. エンバイ   延々エンバイへ

それから延々と車に乗る。延々と思うほど、山道を進み、時々平地を走る。地図ではグエンタイからエンバイまでは100㎞ちょっとに見えたが、地形が平地ではない。道もよくない。途中茶畑は結構あった。この辺り一帯、地形が傾斜していれば段々畑か茶畑を作るようだ。それ程に茶はポピュラー。小さな農家が1軒ずつ栽培しているらしい。何となくよい雰囲気。

セメント工場が見えた。石灰が取れる場所もあるらしく、かなり大掛かりな工場であった。特に産業も見いだせない地域だが、まだまだ発展はこれからか。今回のハノイの発展ぶりは十分実感できたが、それに比べて地方の遅れはかなり深刻。いや、地方は特にハノイになろうとはしていないのだろう。こんな場所でも土地の強制収用なども起こるのだろうか。ベトナムの中国的な部分は、実に中国的らしい。

午後2時頃タイグエンを出て、エンバイ市には行ったのは、暗くなる頃。延々5時間も走った。かなり疲れた。

ホテル

ホテルは湖沿いの大型。広い敷地、大きな玄関。面白いのが、部屋のドアノブ。何故か分からないが、下の方についている。非常に不便。恐らく何か秘密があるに違いないが、フロントの女性は英語出来ないし、ズンさんに聞いてもらっても知らないようだった。

部屋は比較的広く清潔。バスルームは無駄に広く、便器がポツン。如何にも昔の風、社会主義国ホテル。中国の昔を思い出してしまう。ソ連の援助で建てたのだろうか。外にはテニスコートがあり、ナイターでテニスする人も。

インターネットはロビーにPCが設置されており、メールチェックなどは出来る。今やベトナムの昔風のホテルでも最低限のサービスはある。というか、従業員も時々見ているようで、彼らの福利厚生のためにあるのかもしれない。




ハノイで飲む濃い目のお茶2012(1)ハノイ フォーと言えば牛肉か

《ハノイでお茶を 2012》   2012年3月17日-22日

2004年、家族旅行でハノイに行った。旧正月の寒い日で、また鳥インフルエンザの発生もあり、休暇気分になれなかった。店も大半が閉まっており、お茶を飲むことも殆どなかった。ある日、誰かが「茶樹の原産は雲南か、それともベトナムか」と言い出した。なんだそれ?最近ベトナム北部の茶樹が中国の茶樹より古いという話が出たのだという。よく分からないが、香港滞在中にハノイに行って見ようという気になる。

1. 出発まで

ハノイには家族旅行で行った際に会ったズンさんというベトナム人がいた。彼に連絡すると一生懸命にハノイのお茶を調べてくれた。これで茶畑に行けるし、通訳も確保した。幸先が良い。またもう一つの課題、それは「ベトナムの生産効率は中国より劣るのか」。これに関しては大学時代の後輩のご主人がハノイ駐在となっており、彼にお願いして、昔中国に駐在した経験があるハノイ駐在員にお話を聞くことにした。

ベトナム行きは近い割には航空券が意外と高い。ネットで検索すると香港航空が一番安いとある。今回はこの航空会社にチャレンジしてみよう。日本ではちょっと色々とあったが、気を取り直して、ハノイを満喫しよう、そう思える出だしであった。

3月17日(土)

2. ハノイまで

香港航空の出発を空港で待っていたが、残念ながら少し遅れるとの情報が入った。やはり機体をギリギリで遣り繰りしているのだろうか。仕方なく、空港内を散策。最近は寿司コーナーなどもあり、レストランは充実している。まあ、機内食も出るだろうから、食事は取らずに眺める。

出発ゲートに戻ったが、何となく雰囲気がおかしい。先程まで居た人々がいないような気がする。念のため、係員に聞くと、何とゲート変更があったという。アナウンスはしたようだが、完全に聞き漏らす。変更ゲートを聞くと、耳慣れない三桁の番号。そんなゲートあるのか、と半信半疑で探す。ようやく見付けたゲートは何と通常ゲートより一階下にあった。これはちゃんと聞いておかないととても来られるものではない。そしてすぐに搭乗が始まり、バスで移動。もう少し気が付かなかったら、乗り遅れていたかもしれない。危ない、危ない。

機内は満員、格安航空会社の雰囲気がする。嫌な予感があったが、やはり食事はホットドック1つ。何も出ない格安航空会社より良いが、嫌返って食事が無いと分かっている方が備えが出来て良い。空腹を抱えて2時間弱のフライトに耐える。

3. ハノイ   (1)    一日目夜

空港で

8年ぶりのノイバイ空港は特に変わった様子はなかった。前回来た2004年に新空港開港直後だった気がする。イミグレはスムーズで問題はない。先ずは両替所に行き、両替する。午後8時過ぎ、ズンさんから指示があった両替所以外は全て閉まっていた。有難い。続いて携帯のシムカード購入。こちらも10ドルで簡単に購入できた。ベトナムも便利になった。

外へ出ると、タクシーの声が掛かる。白タクは嫌だったのでタクシーの列を探すが、制服を着た女性が凄い勢いで「こちらへどうぞ」とばかりに手を広げる。その勢いに押されて乗り込む。大丈夫だろうか。こういう時、結構不安に陥ったりする。空港を出ると外は真っ暗、あまり変わりがないように見える。ある程度行くと以前も見たキャノンの工場が見え、方向性は確認できる。

どこをどう通ったのか分からないが、かなり細い道に入った。時間は9時半を過ぎ、外は小雨。とうとう予約されたホテルに着き、タクシーはほぼ正規料金を取り、去っていった。さて、疲れたし、空腹を感じながら、チェックイン。ところが・・・。

予約はベッド1つ

ボーイが私の荷物を持ち狭い階段を上がり始めた。このホテル、6階建てだがエレベーターはない。どこまで上がるのか、と思うとボーイはスルスルと6階まで上がってしまう。私は息も絶え絶えに??後を追う。ようやく追いつき、部屋に入ると、そこにはベッドが3つあり、何と真ん中に西洋人の女性が寝ていた。驚いていると、そこを通り過ぎて、更に奥に。そこにもベッドが3つあり、ボーイが1つを指す。

私には何がどうなっているのか理解できなかったが、分かったことは、私の予約は個室ではなく、ベッド1つだということ。驚いてズンさんに電話を入れると彼も驚いてボーイと話し出す。どうやら話がついたようでボーイが荷物を持って降りていく。安心して着いて行ったが、何と1階まで降りてきてしまい、また息が切れる。先程チェックインした時の女性に話すと、「部屋はない、取り敢えず今晩はあるベッドに寝てくれ」とすげなく答える。このような対応には腹が立つ。文句を言うと彼女も四の五の言うが、最後は「他のホテルを探す」を言い、電話を掛ける。

2-3軒に掛けてどこか見付かったのか、不機嫌そうにボーイを顎で呼び、何か伝える。そして私に向かって、ボーイについて行けと軽くいい、申し訳ないの一言もない。何故なのだろうか。ボーイは外へ出ると私の大きめのバックをバイクの前に挟み、後ろへ乗れと言う。小雨は降るが何とバイクは走り出す。そして3分ほどで、ホテルの前へ。

系列ホテルかと思ったが、全く違うホテルにチェックイン。ここのフロントは実に愛想がよく、またエレベーターもあり、個室も広かった。ネットも繋がり快適。これで20ドルなら満足。実は部屋がここしか空いていなく、前のホテルが差額の5ドルを負担して、私が泊まっていることが翌日分かったのだが。

フォーは牛肉だけ

時間は既に夜10時。ようやく部屋に落ち着いたが、兎に角腹が減る。どうしようか、先ずはロビーに行き、フロントの女性に「この辺で食事が出来る場所」を聞く。すると彼女はすぐに紙を取り出し、説明を始める。地図に手書きで書きこまれた場所と食べ物、これはその後も実に役に立った。大きなホテルではこのようなサービスはない。旧市街地の安宿ならではの素晴らしいサービスであった。

先ずはベトナムと言えば、フォー、ということで、探す。地図にあった場所は見付からず、その辺の屋台でチキンフォーを頼む。すると店のお婆さんが「チキンなんてあるわけないでしょう」という顔をした。そして牛肉を指す。後で聞くとハノイではフォーと言えばビーフなのだそうだ。チキンは戦争でチキンが手に入らない時に中部や南部でチキンを使ったとのこと。これは知らなかった。

牛肉入りのフォー、ボーフォーは実にウマかった。勿論空腹であったことも一因だが、何よりスープが良い。セロリと香菜も効いている。夜10時でもお客は歩道にせり出した椅子に座って皆食べている。これがハノイの食文化か。8年前にはない体験だった。1杯、5万ドンは勿論かなり値上がりしている。

続いて歩いていると男たちがビールを飲んでいる店があった。何となく入ると店内に何故か漢字で「禅茶一味」と書かれた額が掛かっている。華人の店なのだろうか。ハノイのベトナム人は中国人が嫌い、とよく聞いていたので、意外。だが店の誰も中国語は話せず、返って英語は通じた。ただこういう店は、外国人料金なので高くて不味い。ここではチャーハンを頼んだが、やはりそうだった。残念。