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タイ北部お茶散歩2015(2)メーテン リス族の村を探索する

2.リスロッジ ゆるい宿

車はバンタイプで、ゆったりと5人で座れた。チェンマイの道は道路工事があり、途中結構な渋滞があったが、それを過ぎると、スムーズに進み、少しずつ登っていく感じとなり、1時間と少しでメーテンという街に着く。そこから更に田舎道を行くと、目指すリスロッジが近づく。このリス族の村、周辺の道沿いにはいくつものロッジが建てられており、ここはタイでは有名なリゾート地であるらしいことがわかる。

午後2時過ぎ、ついにリスロッジに到着した。バンを下りるとリス族の民族衣装を着た女性が『こんにちは』と言って出迎えてくれた。日本語のできる人がいるなんて。日本人と結婚したリス族の女性だった。今回の旅もまた、かなり期待が持てる展開だ。ロッジの敷地はかなり広く、相当ゆったりとした空間がそこに存在している。空気もいい。さすがリゾート。全員がこの光景に満足して、その空間に吸い込まれていく。

まずは小さな小屋でウエルカムドリンクを頂く。ガイドのチャーリーと名乗るオジサンが英語で話し掛けてきた。なかなかユニークなキャラのようで、皆の笑いを誘う。宿泊代金を支払っていなかったので、その旨伝えると『それは明日でいいじゃないの』と言われ、そんなこせこせしたことより、今日を思いっきり楽しもうよ、という雰囲気が満面に出ていた。何だか気分が一気に高揚した。

部屋に案内される。リス族の伝統的な木造建築の建物に部屋が5つぐらいある。広いリビングはオープンスペースになっており、かなり気持ち良い風が入ってくる。室内はフカフカのベッド、そして奥にはシャワーとトイレがあり、リススタイルと欧米スタイルがミックスされていて、完全な大自然の中にいるという訳ではない。窓からは畑が見え、遠くには山が見える。いい環境だ。皆喜んでリビングに寝転び、はしゃぐ。この緩さ、疑いなく大好きだ。

村散策

ガイドのチャーリーが迎えに来た。ここにはタイムスケジュールなる物はない。みんなが良ければ行動が始まる。この感覚もありがたい。折角ここまで来て、『何時の集合、何時までの旅』などと日本的にやられては適わない。このロッジのコンセプトはエコ。トレッキングをはじめ、サイクリングやラフティングなどいくつものツアーを用意しており、ガイドが誘導していく。欧米人はここに連泊する人が多く、自由にツアーを選び、気分次第で行動していく。今日我々が参加したのは、リス族の村を探索するというもの。ロッジは村の中にあるので、歩き出すとすぐにツアーが始まる。フランス人親子と同行した。

実にのどかな村の午後を散策。豚がいた。『もうすぐ売られていきます』とチャーリーが解説した。旧正月が近く、市場に持っていくと高く売れる。この時期、豚は一番肥えているという話に妙に納得。家の軒には豚肉が干されている。これが村の保存食。豚の全てをきちんと使い、自分たちの生活に合わせて加工している。

村のシャーマンに会いに行くというので緊張した。家の入り口にはしめ縄のような物が飾られ、ムードが高まる。おばあさんが迎えてくれた。この人がシャーマンかと思ったが、皆にお茶を振る舞ってくれる。実は表で木を削っていた男性、彼が村で唯一残るシャーマンだった。とてもそうは見えない穏やかな人だった。既に人口減少が激しいこの村、年老いたシャーマンは亡くなり、新たなシャーマンは現れない。

我々が訪ねたからと言って、特に何か呪術的なことをするわけではない。村の祭事や村人の相談があれば、シャーマンとしての仕事をするが、普段は普通の人。勿論シャーマンは勉強すればなれるものではなく、お告げのあった人のみが認められる。本日会ったシャーマンも子供の頃、体に電気が走り、村人がシャーマンと認定したらしい。この辺の話は良く分からないが、少数民族の信仰とは、仏教などは全く違うし、科学的に説明などできない。でも昔からそれを信じている人々、そこには何か言われない物が必ずあるはずだ。日本のように『目に見えるもの、説明できるものしか信じられない社会』には疑問がある。

それから村のハーブ園を見学。自然に生えている訳ではなく、ちゃんと栽培しているのだが、正直どれがハーブだか、よくわからない。そこを下ると池がある。お寺もあると言われたが、見付からない。リス族でも仏教を信仰している人がいるのだろうか。池の脇を歩いていくと、見事な水田に出た。よくよく見ると、向こうに自分たちの宿泊場所が見える。ここは既にリスロッジの中だった。この自然な流れ、悪くない。記念の植樹?として、苗を植えてから帰る。畑にはタバコが植えられていた。これもリス族の伝統なのだろう。少数民族がタバコの葉を巻いている様子、そしてよくおばあちゃんがタバコを吸っている姿をミャンマー北部あたりで見掛けたが、それと同じような習慣を持っているのだろうか。意外と興味深い。

タイ北部お茶散歩2015(1)チェンマイ 待ち合わせはDin Dee カフェで

《タイ北部散歩2015》  2015年2月14日-21日

カンボジアの旅から戻り、バンコックで定例のお茶会をした。そして今回はもう一つのイベントが待っていた。それはチェンマイ郊外の茶園ツアーへの参加だった。更には折角なので、この機会にチェンマイから足を伸ばしてゴールデントライアングルを越え、ラオス北部の茶畑を目指したいと考えた。ラオス北部には相当に古い茶樹があると聞いていたからだ。ただつてはない、計画性もない。さて、どうなるのだろうか。そうは簡単には行かないのが私の旅のはずだが。

2月14日(土)1.チェンマイ
バレンタインデーにノックエアーで

朝9時のノックエアーでチェンマイへ向かう。今回の茶園ツアーのメンバーはお茶会常連のIMさんとUさん、日本茶アドバイザーのIYさんのバンコック在住組。そしてもう一人は昆明在住の日本人Gさん。何と全て女性である。Gさんは先日のバンコック茶会にラオス北部からバスを30数時間乗り継いで参加。そしてそのまま夜行でチェンマイに先乗りしたつわもの。そのバイタリティー、とても女性とは思えない。茶にかける情熱?は半端ない。

ドムアン空港にかなり早く着くと、既にUさんがPCを開けて仕事をしていた。いつもFacebookでは楽しそうに遊んでいる写真しかアップされないので、真剣に仕事をしている姿は初めて見た。ああ、皆さん仕事のストレス抱えているんだな。この旅がストレス解消になればいいな、と思う。私もつられて旅行記を書いていると、IMさんが飄々と登場。そしてノックエアーファンクラブのIYさんも時間通りやってきた。因みにノックエアーは空港内に独自のWiFiを設置しており、空港無料WiFiよりスピードが速い。

フライトはほぼ定刻に、ほぼ満員の乗客を乗せて出発した。搭乗ゲートで驚いたのは、若いCAが頭に天使のような被り物??をしていたこと。Uさんが思わず『おー』と声を上げた。ノックエアーはタイのLCCながら、預け荷物20kg無料とか、水とパンを出すなど、ちょっとしたサービスでファンが多い。実は今日はバレンタインデー。タイにもバレンタインがあるのか、などと野暮なことを考えていると、何と機内のカップルを探して、彼女が一緒に写真に納まるという奇抜なサービスを展開していた。これはこれで面白い。タイ人もこういう企画には結構ノリが良く、若者も年配者もCAを呼んでいた。

1時間ほどでチェンマイ空港に着陸。今回のツアー、まずはチェンマイで休息・ランチして、それから車でチェンマイ郊外メーテンにあるリスロッジへ向かう。空港から予定しているカフェまでは空港タクシー。チェンマイは本当に不思議な所で、タクシーは市内まで一律160バーツ。そして市内にはタクシーは1台も走っていない。何故だろうか。ちょうど大型タクシーがあり、荷物を積んで出発したが、ものの10分で到着した。これで160バーツ?どうみても暴利だ。4人で割ったから、一人40バーツだったので何とか気持ちを納める。

Din Dee カフェ

昨年11月に訪れたチェンマイ。そこでなぜかゆるカフェ巡りをした。そしてたどり着いたのが、この土の家、Din Dee。チェンマイ大学の校内にある。ここの抜群の緩さ、一度で魅了された。今回行くと更に土の家が草深く?なっていた。雨季が近づいているからだろうか。ただ前回と違い、土曜日のせいか、お客さんがそこそこにいた。午前中ということもあり、午後の気だるい雰囲気はなく、午前の爽やかな状況だった。それもまたよい。

店に入るとすでにチェンマイ入りしていたGさんが大きなバックバックを持って来ていた。開店と同時に入ってずっとネットしていたらしい。我々も飲み物を頼んで、まずはお茶タイム。そこでお互いの近況などを語り合い、これからの旅のムードを高める。すると店内にはどんどんお客さんが入ってきて、ほぼ満員になる。何とUさんはここで知り合いの日本人一家と再会していた。チェンマイ在住の日本人なら誰でも知っている場所、チェンマイ大学あたりでイベントでもあれば、皆が立ち寄る場所、という位置づけだろうか。

少し経つと皆さんお茶にも飽きて、チェンマイでも最近お洒落なお店が連なるというニンマヘミン通りへ偵察に出掛けて行く。カフェからほど近く、雑貨や服の店がいくつもあったようだが、私には全く興味がない分野の話。女子にはとてもついていけないので、一人残って、早起きした体を休める。頭をボーっとさせる。この気だるい空間はいい。このカフェのオーナー、日本人だというのでお話してみたかったが、お客が多く、誰がオーナーかよく分からなかった。

それからご飯を注文して、ゆるゆると食べる。ここの食べ物、本当に美味しい。辛いタイ料理に疲れたあなた向け、という感じで胃にやさしい。前回食べてとても美味しかった『ごぼうと雑魚の和風チャーハン(野菜スープ付)』を注文。とても日本を感じさせる味ながら、日本にもないな、という一品。優れものだ。

ダラダラと過ごしていると、IMさんが外にあるトイレから戻り、『もうお迎えの車が来ている』という。リスロッジの場所が分からないので、チャーターしたロッジの車をこのカフェに回してもらっていた。1時の約束だったが、30分前には到着したらしい。もうちょっとタラタラしていたかったが、次のツアーもワクワクするので、早めの出発となる。

メーサローン茶園ツアー2013

《メーサローン茶園ツアー2013》 2013年9月16日-17日

バンコックで茶会を開いて1年、この会の目的は元々が『タイでもお茶が作られており、その品質も年々向上している』ことをバンコック在住者に知らせることにあった。取り敢えず日本人在住者向けに始めて見ると、思いの外、毎回参加者が集まり盛況になって行った。

 

それではタイの茶畑に行こうと、茶会主催者のMさんが茶園ツアーを企画したところ、4名の参加者があり、メーサローンへ行くことが決まった。但し早朝バンコックを出て夜遅くバンコックに戻る日帰り弾丸ツアー。エアアジア就航のお蔭で実現したが、あまりに忙しないので、私はメーサローンに1泊することにした。

 

9月16日(月)

1. チェンライまで

先週のプーケットの旅で懲りた。宿泊先からドムアン空港に行くのがことのほか、不便であることを認識。今回は出発時間が午前7時55分であり、万全を期して5時に起き、6時前には家を出た。前回は全く捕まらなかったタクシー、今回も早過ぎたのか、やはり捕まらない。仕方なくスクンビットまで出ようと歩き出す。途中で空車が見つかり乗車。今回は渋滞前の時間帯でスムーズに進む。だが結局高速道路を使い、料金はスワナンプーンへ行くより、高くなる。高速料金もいつの間にか値上げになっている。

 

空港には6時25分には着いてしまった。ノックエアーなら空港内でWIFIが使えるのだが、エアアジアにはそんなものはない。それでもスムーズに搭乗し、定刻には出発して、定刻にチェンライ空港に着いた。中国などでは飛行機の遅れが目立つ中、これは快適だった。勿論機内では熟睡。1か月前の予約で、僅か片道700バーツの飛行機代は本当に安い。

 

翠峰茶園

チェンライ空港出口に参加者が集合し、チャーターしていた車に乗り込む。今回は全てMさんがアレンジしてくれたので快適。天気は雨期にもかかわらず快晴で気持ちが良い。水田風景などを見て思わず『バンコックの喧騒が嘘のよう』との言葉が飛び出す。本当にのどかな田舎の風景にうっとり。

途中まではメーサイへ行く道を進む。メーサイへ着けば川の向こうはミャンマーだ。ミャンマーへの思いが頭をもたげた頃、車は山道へ入り、坂を上り始めた。それから程なく、今日の最初の目的地、翠峰茶園の茶畑と工場が見えてきた。茶畑では茶摘みがまさに行われており、思わず車を降りて歩き出す。この気持ちの良さは茶畑を歩いた人にしか分からない。茶畑の中に躍り込む。茶摘みをしているのはアカ族の女性たち。比較的年配者が多いが、中には赤ちゃんを負ぶって作業をしている者もいる。カメラを向ける赤ちゃんがにっこり。

茶工場まで1㎞以上歩いただろうか。向こうには大きな墓も見える。この茶園の創業者は2年前に亡くなっており、茶園が見渡せる場所に葬られている。茶樹は比較的若い。この茶園は第2工場建設とともに2005年頃出来たもので、茶樹は5年程度のものが主流。道の反対側には枯れかけた茶樹もあり、どうやらこちらは茶飲料専用に機械摘みする茶畑らしい。海抜は500m程度でそれほど高くはない。

工場では2代目の経営者が待っていた。彼は35歳前後、2人の兄がいながら、この茶園を継いだ。朴訥としたその様子は好感が持てる。工場脇は喫茶コーナーになっており、茶畑を眺めながら茶が飲める。何ともよい風が吹く、好ましい場所だ。お茶だけではなく、茶葉の入った揚げ春巻きやケーキなども出てきた。時間は11時前だがランチの状況になった。

この会社は1977年創業、華人の経営。軟枝烏龍、金宣などを主に作っている。今回のコーディネーターであるMさんの関連先だ。技術は台湾から、商品は主に台湾へ輸出しているが、最近はタイ人も茶を飲むことから国内需要も増えているという。

2代目は『これからは量の拡大は目指さずに、質の向上に努めたい。同時に海外にある観光茶園をモデルに観光客の取り込むに力を入れたい』とし、6‐7か月前に試験的に始めたこの喫茶店を、もっと本格的なスペースとすべく、設計中だという。確かに我々がいる間にタイ人を中心に欧米人などの観光客が何組もここを訪れ、記念写真を撮り、茶を飲み、茶葉を買っていた。Tシャツなど関連グッズの販売も行っている。

日本の静岡、韓国のチェジュ島などを参考にして、観光茶園を作っていくという。2009年に静岡で開かれた博覧会で金宣烏龍が金賞を得た際も、静岡の観光茶園を視察している。また2代目の義兄(姉の婿)は韓国人であり、そのルートからチェジュの視察などもしたようだ。ここは海抜も低く、観光客が来やすい場所であり、的確な戦略のように思う。

工場では摘んだ茶葉が外で干されていたが、まだ本格的な茶作りは始まっていなかった。従業員は工場100人、茶摘み100人、最低賃金はここまでは届いていないようだ。茶畑を覗くと、手で摘んでいる部分と機械ですべて摘み取られた部分があることが分かる。ペット飲料向けの茶葉供給も活発のようだ。

101茶園

先日バンコックのポーラの店で出会ったフランス人が『最近メーサローンの101茶園を訪ねた』と言っていた。できれば寄ってみたいと思っていると、ちゃんと寄ることになっていた。こんなのも茶縁だろう。

翠峰茶園から車はかなり坂道を上がり始める。101茶園は山の中腹にあり、喫茶コーナーから下を見ると茶畑が広がっている。雰囲気は悪くない。早々に喫茶を開始。型どおり、ウーロン茶などを頂く。うーん。茶器など大量に売っており、タイ人観光客が多いのかな、と推測する。ここもある意味、観光地化している。

背後に工場があるが、今日は稼働していない。茶畑にも人はいない。好ましい風景だけがそこにあるが、急こう配を歩いて茶畑に入る自信もなく、断念。時間も押していたので、早々に立ち去る。

3. メーサローンビラ

茶工場

そしてメーサローンにやってきた。思いの外、急カーブが多く、ビックリ。実はこれまで2回ここに来たが、カーブを意識したことはなかった。ようやく懐かしのメーサローンビラに到着したが、何とオーナー夫婦と娘は北京へ行っており、今晩帰ってくる予定だという。それでも馴染の従業員がおり、茶工場を見学したらどうかと勧められ、行くことにした。

茶工場はビラから2㎞ほど離れた道沿いにあり、私でも道は直ぐに分かった。今回は車があるので楽に行くことが出来る。既に連絡がいっていたのか、快く迎え入れられる。ちょうど摘みとった茶葉を干しており、萎凋も行われていた。少数民族のおばさん達は枝とり作業に余念がない。

そして昨年も会った茶師の張さんは健在だった。いや、益々元気に茶作りをしていた。今回は女性が多いせいか?こだわり職人の張さんもご機嫌で、色々と話をしてくれた。茶園ツアーの良い所は生産者と直接話が出来、質問できること。作り立ての烏龍茶を張さん自ら淹れてくれ、話が弾む。

今やここで作られる烏龍茶は台湾の阿里山と遜色がない物も出てきている。土壌、環境、技術がなせる業だ。最近は烏龍茶ばかりでなく、紅茶の生産も始まっている。それにしても現地の水で淹れるお茶は何故美味しいのか?不思議なほどだ。

そして今回何より驚いたことには、台湾人だと思っていた張さんが実は福建人だったこと。しかも鉄観音の産地である安渓、しかもしかも私が5月に2日泊まった茶農家の張さんと同じ大坪という村の出身だった(http://www.chatabi.net/chatabi/2186.html)。同じ張姓、聞いてみると何と大坪の張水来さんを知っていた。これこそ茶縁であろう。一気に私と張さんの距離は縮まった。張さんの作るお茶が何となく鉄観音に近いと感じたのはそのせいだったのか。

2011年12月のメーサローン茶旅

メーサローン茶旅2011(2)発展している茶業

ビラのオーナーと

その後ビラに戻り、早めの夕食。野菜炒めが香ばしかったり、豚足をまんとうに詰めて食べたり。アレンジャーMさんがここの食事は美味しい、オーダーしてくれ、みんなで美味しく頂く。屋外で何となく雰囲気もよく、お茶を飲みながらゆっくり食べた。

 

そしてツアーの皆さんはチェンライへ向けて帰って行った。このツアー、日帰りとうたっており、実際2人の人は午後9時の便でバンコックへ戻る。私はオーナーに会いたくて、ここに宿泊することにした。

 

もう3回目の滞在ともなると、従業員も何も言わずに鍵をくれ、部屋へ行く。今はオフシーズンのようで、空いているので、前面の良い部屋に泊まった。朝早かったので、早々仮眠をとる。あっという間、辺りが暗くなっていた。

 

ネットをするため、食堂へ行く。黙っていてもお茶を淹れてくれる。嬉しい。そこへオーナー夫妻が帰ってきた。私が来ることはMさんから聞いていたようだが、『会えてよかった』と言われると、こちらも何となく嬉しくなる。

 

彼らが夕食を食べるというので、ご相伴に預かる。本日2回目の夕飯。美味しい物は美味しい。今回彼らは北京と長春に行ったらしい。北京はお茶の展示会、メーサローン茶の売り込みに力が入っている。長春はタイ人からすると相当に寒かったようだ。ご主人は明日も朝からサンプルを持ってチェンマイへ行くとか。商売は大変だ。

 

9月17日(火)

朝ごはんを食べながら

翌朝8時前に食堂に行くと既にオーナーが出発しようとしていたが、私を見て、一緒に茶を飲み始めた。やはりこれからの茶業の発展には、台湾以外への輸出及びタイ国内需要の喚起が重要だということだ。タイ国内の方は彼の息子がバンコックで販売を手掛けている。少しずつタイ人にも認知されてきているようだ。最大の輸出ターゲットである中国には頻繁に通い、展示会に参加し、売り込んでいる。昨日までは北京だったが、2週後には上海へ行くらしい。とにかく質が向上してきているので、売り先は重要になってくる。日本でも認知度を上げていきたいようだが、どうだろうか。

 

ご主人が行ってしまうと、奥さんがやってきて朝ごはんを食べ始めた。やはり中国行は堪えたようだ。特に北方は食事も合わず、おまけに涼しい。娘は『2度と行きたくない』と言っていた。中国は広い、元中国人と言っても南方人には生き難い。娘はホテル業の手伝いを始めたようで、カウンターに陣取り、色々と手配をしている。息子が茶業、娘はホテル業、頼もしい後継者だ。

 

因みに朝ごはんはいくつか選べるが、私は毎回迷わず、カオトーン。タイのお粥だ。これはにんにくが効いていて美味い。テラスでこれを食べていると幸せな気分になる。宿泊客も楽しそうに食べている。今日はあいにく霧が濃いが、それでも晴れやかな気分。

 

今回もまた車を手配してもらい、チェンライへ降りる。運転手は中国語が話せた。だが何となく景色を眺めながら降りていく。今日はバンコックに帰る前に、チェンライでコーヒーを作っているIさんと会うことになっていた。その待ち合わせのホテルに何とかたどり着く。

 

4. チェンライ

 

郊外の茶園レストラン

 

Iさんが車で迎えに来てくれる。車は郊外へ出ていく。どこへ行くのだろうと思っていると、茶園が広がっている場所へ出た。素晴らしい眺めだ。そこにレストランがあった。タイのビール会社が運営しているとか。

 

 

ちょっとゴルフ場のクラブハウスを思わせるおしゃれな郊外のレストラン、外は茶畑。最高の情景だった。メニューにも、茶葉を使ったサラダや天ぷらなどが並ぶ。空気もよく、美味しく頂く。勿論お茶も飲む。

 

 

Iさんは大手商社を辞めて、チェンライに移り住み、コーヒーの焙煎をし、販売している。チェンライ産の米も扱っている。最近はほうじ茶作りにもチャレンジしており、近々発売するという。チェンライには茶の木、やぶきたを植えている人がいるのだという。香ばしい香りのほうじ茶はタイ人にもうけるかもしれない。勿論日本への輸出も目論んでいる。但し大量生産をするつもりはない。自分の納得のいく茶が出来れば売る、という感じだろう。職人気質だ。

 

 

Iさんに車で市内に送ってもらい、WIFIが繋がるカフェを紹介してもらって別れる。そのカフェはオープンで気持ち良い風が入ってきた。それから2時間、溜まっていたメール処理などを行う。周囲はテレビのバドミントン中継に夢中だ。タイの女子選手が今、強いのだ。19歳で世界チャンピオン、これまであり得なかったことが起こっている。

 

 

そしてタクシーを呼んでもらい、空港へ。実は自分がチェンライのどこにいるのか分からなかった。カフェの従業員は英語が出来たので、何とか凌いだ。昨日は本当に安いエアアジア便だったが、今日は普通料金のノックエアー。3倍も違っていたが、私はやはりノックが好きだ。買い込んだ茶葉も難なく持ち込めた。

 

 

空港での飛行機を眺めていると、夕日が落ちてきた。何とも美しい。タイ北部、バンコックとは違い、喧噪もなく、落ち着ける場所。また来たいところだ。

 



メーサローン茶旅2011(3)茶摘み見学

(8)段将軍墓園

広場を離れると直ぐに『段将軍墓園』と書かれたアーケードがあったので登って行く。思ったよりきつい上りである。途中にリゾート用のロッジが見える。前はなかったような気がするので、最近出来たものかもしれない。タイ人のカップルがロッジから出て来る。今はかなり涼しいシーズンだが、国内旅行ブームがここにも見て取れる。

墓園は丘の上にあった。かなり大きな廟である。建物は綺麗であり、改修されているのかもしれない。階段を上ると大きな福の字が見える。上から見るとメーサローンの街が一望できる。

段将軍、名前は希文、1911年、雲南省生まれ。国民党軍に従軍し、抗日戦争を戦う。国共内戦では雲南省の指揮官として戦い、ビルマへ。その後一軍を率いてビルマからメーサローンへ。彼は現在のメーサローン国民党残党の首領であったわけだ。最後は病で台北の病院で死去している。段将軍の戦いは一体どんなものであったのか、どのような苦難の道を歩んだのか、機会があれば見てみたい。

祭壇に近づくと椅子に座ってウトウトしていたオジサンが急に起き上がる。今でも従軍しているのか、墓守なのか、ただその目は鋭いものの、動作は緩慢であり、メーサローンが既に平和であることを示していた。

帰りに道端の麺屋に入る。先程李さんと食事をしたが、ちょっと物足りなくなった。今回はクリアースープに叉焼、ゆで卵が入ったパスタ風麺。うーん、美味い。どこで食べても麺は美味い。幸せだ。

(9)茶の試飲

メーサローンビラに戻る。途中にセブンイレブンがあるのは昔からだが、何となく街の雰囲気にそぐわない。更に歩いて行くとお茶屋さんが数軒ある。観光客用、と言った感じで、ちょっと敷居が高い。

1軒、普通の家がある。向かい側ではお婆さんやおばさんが世間話に興じていた。子供同士がけんかしていた。お婆さんはそれを止めることもなく、まるで『子供は喧嘩して大きくなるんだ』と言っているように笑いながら見つめている。片方の子が泣きだすと初めて母親が間に入る。何だか子育ての意味を見る。

その家の奥では男性が茶葉を選り分けていた。家族と親せきが飲む分だけ茶を作っているらしい。中国の大工場などと違い、こうやって小さな茶工場が片手間でやっている、こんな光景が望ましい。

ビラに戻ると食堂でお茶の試飲をした。烏龍茶は前日飲んだ通り品質が明らかに向上していたが、同時に紅茶が美味しかった。これも台湾の影響だというが、簡単に作れるのだろうか。

そしてここに宿泊する人、外からご飯を食べに来る人、特にタイ人がお茶を飲むようになったという話を聞いて、少し驚く。確かに外では結構涼しいのに、何故かテントを張ってキャンプなどをしている。これがいわゆる中産階級の勃興ということだろうか。健康志向、烏龍茶が血圧を下げる、などと聞き、香が良いことも手伝って、タイ人がお土産に買っていく。数年前には考えられない変化である。

これまでは台湾など輸出先の要請で茶を作ってきたが、これからはタイ人の好みに合うお茶を作ることになるだろうか。しかしタイ人は甘い物好き。甘みが無いと飲まれないだろうか、それとも薬として飲むだろうか。

色々なことを考えながらお茶を飲むのは楽しい。タイ産烏龍茶、紅茶の宣伝をしてみると面白そうだ。そのまま夕飯となり、ここの名物、豚足とマントウを頂く。相変わらず美味い。食堂内にはWifiが設置されており、ここでネットも繋がる。昔はそんなものはなかったな。

12月29日(木)

(9)懲りずに散歩し、茶摘みを見る

夜は12-3度しかないのだろう。タイとしては涼しいというより寒いぐらいで良く眠れる。翌朝の目覚めもよい。標高1300mの高原というものは人を散歩に誘う。昨日山道に迷い懲りたにもかかわらず、又歩き出す。

ビラの裏を歩いて行くと、茶畑があった。こんな近くにあるとは今まで気が付かなかった。坂を下って行くと歌が聞こえてきた。誰がこんな所で歌など・・。それは何と茶摘み歌だった。

比較的緩やかな斜面にある茶畑で3人の茶摘み娘?が茶葉を摘んでいた。歌が終わるとけたたましい話声で世間話をしている(と思う)。明らかに少数民族だが、思い切って声を掛けてみた。残念ながら中国語は誰も話せなかったが、時々中国語を話す人間も来るようで、中国語は出来ない、とだけ中国語で言い、けたたましく笑う。

茶摘みは辛い仕事、その辛さを少しでも和らげるために、歌を歌ったり、大声で話したり笑ったり。ここの労賃もどんどん上がっていると聞く。厳しい仕事をやりたい人間は少なくなってきている。手摘みで茶葉を摘むことも無くなって行くのだろうか。

(10)車に乗ってチェンライへ

今日はバンコックに帰らねばならない。チェンライからエアアジアのバンコック行きを予約している。空港へ向かうにはメイチャンまでソンテウで行き、そこからタクシーに乗るしかない。

ソンテウは午前9時半に出る。次の11時半では飛行機に間に合わない。だが、ソンテウは時々欠便するとも言う。もし来なかったら大変だし、来てもメイチャンまでどれくらいの時間を要するか、そしてメイチャンから空港までは・・・、考えている面倒になる。

結局ビラに頼んでタクシーをチャーターしていく。楊さんからもう一人同乗してもよいかと聞かれる。勿論と答えると、途中で寄り道するとも言う。時間もあるので、その行先にも行って見ることに。

2晩お世話になったメーサローンビラを後にする。何だか、故郷を離れるような気分になる。それがなぜなのかは、分からない。でも懐かしい気持ちがこみ上げる。また来よう。

車はソンテウより遥かに速く、山を下って行く。あまり余韻に浸る時間はなかった。麓の街に着くと、車は街道沿いの店に入って行く。助手席に座っていた女性が降りて行き、また戻る。何をしているのか、どうやらバンコックに出す茶葉を預けるため運送会社に持ち込もうとしている。

だが最初に行った店では断られた。今日は12月29日、年末で配送に時間が掛かるらしい。一般的にタイの配送会社は宅急便などとは違い、自分で荷物を持ち込み、配送してもらい、目的地で、また荷物を受け取るシステムらしい。

次に行った店ではバンコックに送った荷物を指定先に届けてくれるらしい。ここから送ることにしたようだ。今晩送って翌朝バンコックに到着するらしい。これならバンコックでの茶葉販売にも便利だ。

それから空港まで30分も掛からなかった。エアアジアにチェックインし、時間があったので空港内でハンバーガーを食べながらネットを使った。あれ、と気が付いた。何とビラの鍵を返していなかったのだ。恐らく楊さん達もあまりに親しくしていたので、鍵のことを忘れてしまったらしい。ちょうどチェンライ空港内には彼らの直営茶葉販売店があることを思い出し、行ってみたが、昼休みなのか誰もいなかった。30分待って店員が戻ったので鍵を渡した。怪訝そうな顔をしていたが、細かく話さず、ゲートへ向かう。エアアジアは定刻を少し遅れてバンコックに向け飛び立った。





メーサローン茶旅2011(2)発展している茶業

(2)工場見学

直ぐに茶畑に行きたかったが、ちょうどフランス人が取材に来ていて、ご主人が連れていったと言うことで明日お願いすることに。代わりに近くに移った工場へ行って見る。以前はメーサローンビラの下のスペースで作業していたが、今ではホテルの下は使っていない。工場のスタッフが車で迎えに来てくれた。

工場は想像したより大きく、更に増築中。やはりかなり生産量が伸びている。既に午後4時であり、今日収穫した茶葉は天日干しから、室内へ移され、乾かされていた。更に中央には非常に大きなスペースがあり、台湾製の機械が並んでいた。壁にはこれまでの歴史、訪問した著名人の写真などが張られているが、何だか小型体育館のよう。

オジサンが入ってきた。台湾人の茶師。阿里山から来たそうで、59歳。前回私が訪れた直ぐ後にここに来て約5年。彼は厳しく現地スタッフを指導していた。茶の品質もかなり向上したという。「阿里山に比べればここのお茶はまだまだでしょう」と意地の悪い質問をしても、「茶は阿里山で採れてもよくない物もあり、ここで採れてもよい物もある。一概には言えない」と自信を覗かせる。

メーサローンは特に気候と土壌が茶の栽培に適しているという。そこに台湾の茶樹を植え、台湾の技術を使い、台湾製の機械で作り上げるのであるから、良いお茶が出来るはずと。基本は高山茶であるが、最近は台湾や大陸のブームにより、紅茶の生産も始めた。ここの紅茶は茶葉を丸めて作り、香りと甘みがあり、良くできている。

台湾への輸出が中心ではあるが、ヨーロッパからの注文も増えており、また中国へ直接売り込むことも始めた。台湾と遜色ないお茶が作れれば、コスト面からタイ産は極めて有利になるとみる。

茶作りに休みはない、と工場に寝泊まりする茶師の張さん。65歳の定年まで台湾に帰らず、ここで働くという。若者が選った茶葉を指し、「こんなに枝が入っているじゃないか」と怒鳴る姿に昔の日本人の匠のイメージが重なる。

(3)メーサローンビラ

メーサローンビラは今から25年前の1986年に作られた。この村は国共内戦で敗れ、ビルマに逃れた国民党軍とその家族が、更にビルマの革命により、その地を追われ、苦難の末辿りついた場所であった。1970年代蒋介石が亡くなった頃には大陸への反抗は実質的に不可能となり、この山の国民党軍にも転機がやって来た。

1974年、段希文将軍がタイ国王の謁見を賜り、当時の幹部の一人、雷雨田将軍は、「メーサローンで観光と茶を主産業とする」という方針を打ち出した。タイに土着するシグナルである。そしてメーサローンリゾートと言うホテルを作り営業を開始。当時雷将軍のもとで支配人を任されたのが現在メーサローンビラのオーナーである、李泰増氏である。 

彼はその後自らホテル事業に乗り出し、メーサローンビラが誕生する。それでも最初は簡単にお客が来るわけでもなく、台湾人観光客が僅かに来ただけであったらしい。現在の繁栄は25年の努力の賜物である。

李氏夫人の楊明菊さんは、1984年に生まれ故郷のミャンマー、ラショーから台湾へ働きに行く途中、親せきのいるこの地に寄り、そのまま李氏と結婚。ビラ開業当時から苦楽を共にしてきている。

   

現在傾斜面に60室を有し、茶畑が望める景色を持つメーサローンビラ。バンコックから見ればチェンマイでも十分涼しいようだが、ここまで上がってくれば本当に避暑が可能となる。

尚このホテルの建物正面には女性軍人の写真が飾られている。李氏の母親、梅景女史である。彼女は雲南出身、国民党の黄埔士官学校の一つを卒業するなど、幹部の一人。ご主人も雷将軍と同じ軍で働いたという。実はここの家族は歴史的には実に貴重な証人なのである。

12月28日(水)    (4)地獄の散歩

朝早く起きる。6時頃まだ外は暗い。7時になり、散歩に出る。最初は5年前も行った、巨大急須のモニュメントがある場所。前回は連れて行ってもらったが、今回は一人で行く。一つの小さな村を通る。既に人々は活動を開始しており、小学生は学校へ向かう。村を抜け、下るとそこには以前と変わらぬモニュメントが。なぜこんなものを作ったからは未だに疑問であるが、何となく懐かしい。

そこから下を見ると茶畑がきれいに並んでいた。思わず降りていく。ここの茶樹にも蜘蛛の巣が張り、自然な様子が伺われる。向こうを見ると上りの道が見えた。そしてその道を行けば、ちょうどビラに着く。では、ということで、どんどん降りて行き、その道を目指したのだが。

所謂谷底、には小川が流れていた。そして向こうへは渡れない。仕方なく道沿いに歩く。かなり外れた所に橋があり、やっと渡ったが、どんどん思っていた場所より離れていく。しかも今度は上り。これはきつい。しかし既に山の中、戻ることもできず、困る。かなり上った所で道が分かれる。えいやで道を選び更に進む。

山沿いに道が回る。茶畑も見えない。小屋もない。心持安心なのは、相当向こうではあるが、村が見えること。兎に角そこへ向かおうとする。が、また二股。ちょうど上から降りてくる茶摘みのおばさん達(少数民族)に話し掛けると道を教えてくれた。何とかもう一度橋を渡る。これであとは元に戻る方向へ行けばよいはずだが。そうではなかった。

木を切っているおじさんは私の思う方と反対を指した。どうなっているのか、分からないが従う。ようやく家が見えた。また私が行こうとした方と反対を指す人が。結局その道を行くと小さな村があり、そしてビラの下へ着いた。私の方向感覚が悪いのではなかった。山道がそのように出来ている、という知識がなかった、いや忘れていたのだ。長らく山に入らなければ、全く感覚がなくなることを知る。1時間半の壮絶な散歩であった。疲れた。

ビラで朝飯を頼む。出て来たお粥はタイのカオトーン。ニンニクが効いており、美味い。疲れがとれた。豆乳も甘くて、疲れた体には沁みた。

(6)茶畑

楊さんから「今日は茶畑に連れて行く」と言われ、運転手の手配の関係でお昼頃になったが、その運転手と言うのが何と娘さんだった。彼女はバンコックの大学卒業を控え、一時的に戻ってきて、ホテルを手伝っていた。専攻は観光学科、将来はここを継ぐのだろうか。「まだ分からない」というが、数年バンコックあたりで研修してから戻るのが良いだろう。因みに長男は既に茶業を手伝っているとのことだが、当日はバンコックの展示会に行っていた。

茶畑はビラから6㎞離れているという。確かに途中からかなりの山道に入った。運転はかなり難儀な状態になる。ぽつぽつと質素な家が見える。アカ族やリス族の村だという。彼らが茶摘みの担い手だ。

30分ぐらい掛けてようやく茶畑に到着。これは本当に奥深い所。きれいに茶樹が並んでおり、その規模も大きい。母と子は久しぶりの再会なのか、二人で写真など撮っている。その姿が実に幸せそう。そう、幸せそうな雰囲気の中でよい茶が出来るような気がした。

ちょうど茶摘みは終わっており、スプリンクラーで散水が行われていた。茶摘みは全て手摘みだが、水撒き他は機械がやっている。1990年、この地に最初に茶樹を植えた頃は色々と大変だったと話すが、今は極めて順調な様子。山の上から見える茶畑はじつに見事。

(7)お茶博

メーサローンビラのオーナー李さんにも会いたいと思っていたが、とても忙しいそうでなかなか顔が見えない。どこへ行ったのかと聞くと、何と『メーサローンの茶会』が開催されていて、そこに出店しているという。これは行って見ねば、ということで、茶畑帰りに連れて行ってもらった。

村の外れの広場に確かにイベント会場があった。ただ茶会というよりお茶博覧会、いやお茶を名目にした村のお祭りといった雰囲気。少数民族のアカ族やリス族が民族衣装に身を包み、皆で歌を歌ったり踊ったり、といったパフォーマンスを披露している。こんな光景はインドのダージリンやミャンマーのシャン州でも見たような気がする、何か共通項があるのだろうか。農作物などを持ちより、地面に座って売っている人々もいる。朝一のようで、何だか好ましい。

40-50軒のお茶関係のお店が出店している。基本的にはメーサローンで採れる烏龍茶を中心に売っていると見ていたが、緑茶あり、プーアール茶ありと、ほぼ同じ大きさの小屋に個々に個性を出して店づくりをしている。

李さんの小屋も準備が進んでいた。店先に大きな円盤型のプーアール茶が飾られている。これは何かの記念に作られたそうだが、残念ながら字も読めず、分からなかった。それにしてもメーサローンにプーアール茶、ちょっと意外な気もするが、李さん達の先祖は雲南省出身者が多く、縁は続いているのかもしれない。

李さんはとても忙しいようだが、私も昼飯に誘う。自身は食事の時間もないほど働いている。直ぐ近くに麺屋に入り、麺を頼んでくれる。この地方としては意外なほど辛い、が美味い。食べながら話を聞く。

   

実は李さんはタイの茶葉協会?会長の要職にあるという。勿論タイの茶葉生産量はそれほど多いわけではないが、それでも徐々に増やして来ている。品質も向上してきており、自信も出て来ている。現在は台湾への輸出が中心であるが、今後はタイ国内の販売促進、そして中国本土への直接輸出を目指して、活動している。中国語が出来る利点を生かして、李さん自らアモイの茶葉博覧会に出向いて、講演するなど着実に動いている。

李さんは麺を素早く口に入れ、そして立ち上がり小屋に戻っていった。タイの茶産業はこれから発展していくような気がした。






メーサローン茶旅2011(1)ソンテウで行く

《メーサローンお茶散歩2011》   2011年12月27-29日

12月27日(火)   1. メーサローンまで   バスの旅

Tさん夫妻に車で送ってもらい、難なくバスターミナルに到着。バスを探すと既に人がかなり乗っていた。遅れたかと思ったが、それは8時半のバス。私の予約は9時。乗せてもらえなかった。

仕方なくトイレへ。3b取られるが、中はきれい。ゆったりと過ごし、出ようとして手を洗う場所に女性を発見して唖然。私は男女を間違えたのか、どうしようかと。しかしよく見るとその女性は男だった。というかどちらか判別できないが、私がいるトイレは明らかに男子用。ホッと胸をなでおろすと同時に、これがタイのニューハーフかと、その艶やかさに驚く。

グリーンバスは座席指定で、2列2列。座席の間隔も狭くはない。先ずは快適と言えよう。何しろ初めて気が付いたが、私はタイでバスの旅をしたことが無い。字が読めないし、言葉もしゃべれない。でもどうやらそれは杞憂。

9時定刻にほぼ満員の乗客を乗せ、出発。女性がマイクを持ち、タイ語で挨拶を始める。後で私の所へ来て、英語で繰り返してくれた。どうやらこのバスに乗る外国人は私一人のようだ。途中で2人乗ってきたがバス会社の社員。原則はノンストップでチェンライまで行くらしい。

30分ほど平地を走ると山登りが始まる。僅か180㎞に3時間掛かるのはこのせいか。いや、このバス、中国の基準から言えば、相当の安全運転でもある。山には棚田もあり、景色が良い。道路は舗装で問題はなく、快適。1時間半ほどで山を下り、トイレ休憩となる。

この休憩所の売店、色々な物を売っている。ランプーンのSさん農園で頂いた、龍眼の他、名前を忘れてしまった沢山の物が置かれていた。農産物はこのようにして、売られていくのかと、今更ながら感激。

バスの乗り換え

チェンライが近くなると、ぽつぽつと降りる人が出て来た。バスターミナルに入ったので私も降りようとすると、まだと言われる。ここは郊外のターミナルでもう一つ市内のターミナルがあるらしい。15分ほどで市内に近いターミナルへ到着。時間は到着予定時刻通り。これは凄い。

車掌さんに「メーサローン」と告げると、直ぐに誰かを探してくる。きっぷを買うのかと思えば、そのニーちゃんに連れられて、そのまま小型バスへ。私の荷物はあっと言う間に屋根に上がり、既にほぼ満員の車内に放り込まれる。恐らく全員タイ人。若者が多い。どこへ行くのだろうか。

このバスは先ほどと異なり、スピードを出す。車掌の姐さんに25b徴収される。彼女は客である現地の男性(恐らく彼氏)といちゃいちゃしており、如何にもタイらしい。そして30分で私は降ろされる。姐さんが「メーサローン」と辺りに声を掛けるとオジサンが出て来て、私の荷物を引いてソンテウへ。ここがメイチャンらしい。外国人でも、言葉が出来なくても行先さえ告げられればスムーズに乗り換えられる。

ソンテウには既にかなりの人が乗っている。民族衣装を着ているお婆さん、ジーンズの可愛らしい女の子たち、そして一目で西洋人と分かる男性が子犬を抱いていた。皆街で大量に買い物をしたらしく、車内は野菜やプラステック製品で足の置き場がない。満員で出発。またかなり速度が遅くなる。30分以上走り、ようやく山登りへ。

メーサローンへ

ここは5年半前に通った道。しかし車で登るのとソンテウでは雰囲気がまるで違う。やはりここの山登りはソンテウが良い。隣のおばさんは途中で腰でも痛くなったのか、立ち上がり、何と後部の空いている所から身を乗り出し、手すりにつかまって運動している。風が爽やかでよいが、私にはとても出来ない。

1時間以上走った所で、休憩に。休憩があるとは知らなかった。ここには数台のソンテウが停まっており、行先ごとに分かれるらしい。我々のソンテウは他の車両の到着を待っている。ドイツ人に話し掛けてみた。トイレはあるが、その辺で一緒に用を足しながら。

彼は1年前からメーサローンが気に入り、住んでいる。現状ビザはなく、14日に1回、メーサイヘ出向く。メーサイの向こうはミャンマーのタチレイであり、出国入国を行っている。現在の家は1か月3,000b。仕事はしていない。レストランを開きたいが今の住まいは場所がよくないらしい。メーサローンには他にも外国人が住んでいるようだが、よくしらないとのこと。

結局30分ほど待たされ、ようやくほかのソンテウが到着して出発。何と乗車したのはドイツ人とそのパートナー、そして私の3人だけ。後の人はバイクでどこかへ行ったか、他のソンテウに乗り込んだようだ。道に桜がちらほら。ここはタイの桜の名所。とは言っても日本のように道の両脇に咲いているような所はなく、本当にヤマザクラがちらほら。

そしてドイツ人も降りて行き、私一人が残される。それでも行き先が決まっているので、安心。メーサローンビラ、ようやく到着した時にはチェンマイを出発してから6時間が経過していた。メイチャンから乗ったソンテウは100b。高いのか安いのか。

2. メーサローン  (1)5年半ぶりの再会

5年半ぶりにメーサローンビラに入る。雰囲気はそれほど変わっていないが、ホテルの下にある茶工場の前で数人の少数民族が民族衣装で民芸品を売っていた。従業員が出て来て私の荷物を2階へ運ぶ。頭の上に荷物を乗せるのはミャンマースタイル。


 

2階の食堂は前回と違い、大勢の人々が食事をしていた。受付には懐かしいミンさんが座っていた。彼女は私を見て一瞬戸惑い、「予約した人?」と聞く。私が首を振り、5年半前に来たと告げると、輝くような笑顔で迎えた。何となく覚えてくれていたようだ。

部屋は安くて良いと告げると1泊、600bに。前回は上の方の良い部屋であったが、上り下りが大変。安い上に便利でよかった。「最近どう?」と聞くと「何も変わってないよ」と言う。確かに全体的な雰囲気が同じだが、インターネットはWifiだし、結構進歩している。腹が減ったのでチャーハンを頼み、搔き込む。チキンが上に載っておりウマい。

前回は7月の雨季でお客が少なかったが、今は観光シーズン。年末休みでもあり、お客が多い。西洋人もいるが、タイ人観光客が相当に増えている。「彼らは最近お茶の効能に気が付き始めた」と言う。血圧を下げる、血糖値を抑えるためにも、お茶が良い。観光でホテルに泊まる、食事をしたついでに買っていくらしい。内需拡大。

部屋は簡素なツインだが、中国製の湯沸かし器を導入。瞬時にお湯が沸く。ここメーサローンは特に夜が冷えるため、ホットシャワーは必須。ここも改善されていた。





《バンコックお茶散歩2008》(2)

(5)海鮮

3時間の面談??はあっと言う間に過ぎた。日が暮れてきた。そして電話が鳴る。同窓のOさんが海鮮料理屋で待っている。バーンタオ氏と出掛ける。

バンコックの中華海鮮ではソンブンなるお店が有名で美味しいらしい。しかしOさんの奥さんはマレーシアンチャイニーズ。これは期待できる。バンコック一の中華にありつけるかも。

タクシーでラーマ四世通りへ。その道路脇にソントンはあった。店の外にテーブルがはみ出し、如何にもローカルチック。Oさんが笑顔で出迎えてくれた。『予約したんだけど席がないって??』一生懸命交渉してくれていたらしい。まさにローカル。

Oさんと奥さん、お嬢さんが二人、そしてOさんのご両親も一緒で賑やか。上のお嬢さんは最近日本人学校からインターに移籍。下の子もインターの幼稚園。向こうのテーブルにはインターの同級生(シンガポール人)がいるとか。やはり中国系に人気の店らしい。

確かに味はよかった。特に春雨海老炒めは最高。台湾にもある牡蠣のオムレツなどもある。中華の地域は分かり難いが、潮州あたりだろうか??値段もリーズナブルなようで(ご両親にご馳走して頂く、甚く恐縮)、当然行列が出来る訳である。

我々が帰る時も店は大賑わい、店の外ではサテーを炭で焼いていた。南国風でなかなかいい店であった。ハウスに戻ってからまた茶を飲む。しかし今日は早く寝ることにした。流石に詰め込んだ日程であった。歳には堪える??

1月14日(月)(6)ヤワラー2

また朝鳥のさえずりで起こされる。さて、今日は何をしようか??元々はアユタヤに行ってみたかったのだが、何だか億劫になってしまい、寝坊した。こんな短い旅行でこんなことでよいのだろうか??

8時半頃のこのこと階下におり、散歩に出る。突然散歩の目的が決まる。カスタード中村。ムード歌謡の歌手かと思うその名前、パン屋である。確か初めてバンコックに来た時に行った記憶がある。

歩くこと10分、富士スーパーという有名な日本スーパーの手前にその店はある。丁度9時からで開店していた。中に入るとまだ出来てないパンが多数。それでもいきなりハムカツサンドに手が伸びる。アンパンも買う。

ハウスまで待ちきれずに食べることに。飲み物を富士スーパーで調達。何とタイ製キリン生茶である。特に甘さは感じられなかった。日本人向けであろうか??タイ人は甘くない飲み物に手は出さない。これを改善しないと糖尿病患者が増えるばかりである。

そしてそのままヤワラーへ。昨日も行ったのに何で??理由は2つ。1つは昨日ちらっと見掛けたお茶屋(日曜日は休み)に入ってみたかったこと。もう1つは昨日見学したSPAを体験してみたかったこと。

先ずはSPAへ。『陰陽』と言う名前の如何にも漢方っぽいこと。丁度10時開店でお客は誰もいない。チャイナタウンだが、北京語も通じず、片言の英語。受付が懸命に説明しようとするのを制して、お得セットを注文。何しろタイマッサージ90分+脚マッサージ60分で800バーツである。これは安そう。

この店はかなり広いし、きれいである。広々としたスペースをカーテンで仕切る。薄暗い空間は安らぎを与える。マッサージのお姐さんがやってきて丁寧に脚を洗ってくれる。脚マッサージからかと思いきや、布団の上に寝ることに??

頭からじっくり解してくれる。これは北京の頭マッサージに匹敵する気持ちのよさ。その後典型的なタイ伝統マッサージが行われた。しかしこれまで受けたものほど激しさは無く、とにかくリラックスを重視している模様。

だが結局脚マッサージが無いまま??終了。時間も2時間であった。入り口で聞こうとしたところ、料金は576バーツだと言う。それで分かった。はやり私の英語は通じていなかった。そこで受付は典型的なマッサージを入れた。かつどうやら10%の割引があった模様で、当初予定より相当安かった。これで十分、得した気分となる。

もう昼も過ぎていたので、麺を食べることに。数年前にヤワラーで食べた内臓入り麺が忘れられない。うろ覚えの記憶を基に店を探す。漸くそれらしい店があり、店内で食べている人を発見。チャイナタウンなのに北京語は通じないので、人の椀を指して注文。

この卵麺、鴨の内臓と肉、そして少し濃い味のスープが絶妙。周りでは鴨肉とご飯を食べている人が多いので、鴨の有名な軽食屋なのであろう。1杯30バーツは以前と同じ値段。本当に満足した。

午後はこの辺のお茶屋さんに飛び込む。林銘記茶行、獅子が二匹向き合っている格好いいマークを付けているこのお店。入っていくとおじさんが一人。しかし北京語は全く通じない。潮州系だという。店の中には仏様があり、商売の神様もいる。典型的な華僑の店である。

試飲は出来ないのでパッケージで選ぶ。というよりかなりレトロないいパッケージである。店の住所もちゃんと漢字で書かれている。しかしこれを見ても、どこだか分かる人はこの辺の人だけだろう。紙でくるんだ10バーツの鉄観音も買い込む。如何にも土産用。飲むのはちょっと躊躇う。

更に奥にはいると昔の日本の問屋のような間口で、中のテーブルでお茶を飲んでいる人がいた。林明記茶行、こちらも店内の看板が何ともレトロ。非常によい。ここのおじさんは北京語が通じた。かなり高級な鉄観音も福建から輸入しているとのこと。

そして何とそのお茶を横浜に住む日本人が買いに来ているらしい。何で??態々??地元日本語ミニュコミ紙にも掲載されたらしく、コピーが張られている。私も一番高い鉄観音を買ってバーンタオ氏への土産とした。バンコックで茶館を開く一歩かもしれない。

(7)Chiko

既に時刻は3時。うだうだしている間に時間はどんどん過ぎている。今日の夜中には北京に帰るというのに??思い出してバーンタオ氏に電話。確かお知り合いでお茶を出す店をやっている日本女性がいたはず。うろ覚え??

一旦ハウスに戻り、歩いて行くことに。先ずはバーンタオ氏のオフィスに顔を出す。そのオフィスの前にはワットポー直営のマッサージ店がある。日本人のお客さんが平日にもかかわらず、多い。優雅な駐妻(駐在員夫人)なども見える。いいなあー??時間が無いのでマッサージなしで次へ。

スクンビットソイ53、歩いて10分ほど。この道はお洒落な店がいくつか見える。私はあまりこの辺を歩いたことが無かったので新鮮。そして結構奥にはいりこんなところにお店があるの??という所に雑貨の店『Chico』はあった。

一軒家を改造しており、庭も広く、思ったより大規模。中に入ると何と猫がお出迎え。バーンタオ氏とは猫繋がりとガッテン。店内は広く、半分以上にお洒落なバックや小物が置かれている。ここにも駐妻軍団、そして観光客もガイドブックを見ながら登場。日本人はこういう所にいるのだと初めて知る??

ここでタイのお茶が飲めると言うのでアイスグリーンティをオーダー。ついでにワッフルもオーダー(何しろ昼が麺一杯だったもんで)。ワッフルはチェンマイに行った時も美味しく食べた記憶がある。

ティーを飲んでみると恐らくメーサローンの緑茶と思われる味。まあアイスにすれば美味しく飲める。他にもいろいろなお茶があるが、どこから仕入れているのだろうか??

バーンタオ氏が『オーナーのチコさんを呼びましょう』と言う。やってきたチコさんは小柄な日本人女性。この人がオーナー、正直、へー、たいしたもんだと思う。こんな大きな店をどうやって??実は様々な苦労を経ておられるようだが、今回は初回であり、そのお話はまた。

お茶はやはりメーサローン産もあるようで、既に私が考えていた『バンコックでタイのお茶を飲ませること』を実践している方がいた。更に話によるとこの近所に『中国茶に嵌って火鍋屋を開いた』方がいることも判明。早々紹介頂き、夕飯はそこに決まる。実に意外な、しかしよくある展開に。

(8)火鍋

Chicoさんと別れて、一度バーンタオ家へ戻る。丁度よい散歩コースかもしれない。そして夜になり。タクシーでレストランに向かう。既に闇に包まれた市内を北東へ。なかなかお洒落な建物、ネオンサインがきらめく一角に到着。『膳(しゃん)』と書かれた看板に導かれて3階へ。そしてレストランの前に来ると??

どうみてもフレンチかイタリアンのレストランがそこにあり、一歩中に踏み込むとそこではピアノの生演奏が行われており、思わずごめんなさいして、ドアの外へ。しかしChicoさんの『かなりお洒落なお店』という紹介フレーズを思い出し、再度中へ入ると予約が確認される。

白いテーブルクロスの敷かれた雰囲気の良い席を勧められ、ちょっと気後れ。本当に中国茶はあるのかと聞いてもらうと、メニューが登場。確かにあるのだが、うーん。頼んだお茶は素晴らしい透明の茶器に入り、透明の急須が暖められ、お洒落に飲むことに。

そしてここのメニューは火鍋。うーん、益々雰囲気が違う。と思っていると日本人オーナーが登場。お話を聞いてみると大阪で商売をやっているとか。ところがタイに嵌り、漢方薬に嵌り、お茶に嵌り、何と中国で有名な火鍋チェーンの小肥羊のレシピを研究し、こちらにお店を出したとか。その拘り方は尋常ではない。

このお店は元々イタリアンレストランであり、それをそのまま居ぬきで借りただけで、特にお洒落な火鍋屋を目指したのではないらしい。料理がやってくると、確かに中国の火鍋であった。バンコックで食べる火鍋はそれはそれで美味しい。材料は中国から入れるものもあるようだ。

何だか、以前渋谷センター街の小肥羊で食事をしたことを思い出す。女子高生が歩いている脇にお洒落な店があり、上品に食べる。友人のFさんが接待の後で掛け付けてくれ、4名で楽しく夕食を取った。

そしてバーンタオハウスに戻り、空港まで一直線。午前1時のフライトということで、ラウンジで休憩。タイ航空のラウンジは世界でも屈指と言われており、その名に恥じないリラックスできる空間であった。午前1時は北京時間の2時、到着は朝6時半、殆ど寝られないまま、自宅に戻り、そのまま出勤した。何だか夢の中を歩いているような気分であった。

《バンコックお茶散歩2008》(1)

2008年1月12-14日

広州での24時間を過ごし、バンコックへ。しかしこの展開は当初予想もしていなかった。とにかく暖かい所へ、という切なる願い。しかし1月の広州には悪夢のように寒い日が数日あることを思い出す。帰りの北京行きを探しているとBeijingの直ぐ上にBangkokの文字が。これは行かねば、かくしてバンコック行きと相成る。何と短絡的、しかし魅力的。

2.バンコック (1)バーンタオ民宿

広州からのフライトは原因不明で1時間出発が遅れる。フライト時間は3時間弱。予定時刻からも丁度1時間遅れで到着。今回は友人バーンタオが迎えに来てくれているので、焦ってイミグレへ。何と空いており、10分後には外へ出た。

しかし居ない??電話するとこちらが出口を間違えていた。慌てるものではない。おまけに両替の準備も出来ておらず、バックの底をひっくり返す始末。とても旅慣れている人間のすることではない。

タクシー乗り場が前回と異なり、到着階に移動している。これは便利。バーンタオによれば新空港ではタクシー運転手のストなどもあり、色々大変らしい。確かに空港が動けば利権も動くものだろう。

今回のバンコック行きの最大の目的はバーンタオの新居見学。スクンビットに一戸建てを借りると言う大胆不敵な彼の家に泊めてもらうことにした。スクンビットからソイに入った瞬間、所謂既視感がある。何だろうか??

今月の2日に国王のお姉さま、ガラヤニ王女が亡くなったが、そのお住まいもこのソイにあり、花が飾られている。非常に静かな通りである。

その奥の方にバーンタオハウスはあった。車が1台駐車できるスペース、3階建ての瀟洒な佇まい。中は引っ越して直ぐと言うことでダンボールなど見られるが、なかなかシンプルでよい。1階はリビング、ダイニング、厨房、事務室、2階と3階は各3室ずつ。その上に屋上があり、洗濯物が干せる。 私は2階のバストイレ付に入れてもらう。かなり広い部屋にベットがドーンとある。愛猫のシントーンが虎視眈々と侵入を画策。階段もちょっとお洒落。

寛ぐ暇も無く、夕食へ。お知り合いの駐在員Fさんを待たせているのである。仁八という蕎麦屋でそばを食う。北京ではこれだけ旨いそばは食べられない。やはりバンコックは日本食のレベルが高い。

バーンタオハウスに戻り、何とリビングでお茶を飲みだす。広州の茶芸楽園でもらった茶器を使い、仕入れた本山茶を飲んだ。バーンタオは初めて中国茶を入れている姿を見たのか??興味津々。一口飲むと『香りが良い』などと上機嫌。今後のハウスでのもてなしに加えるべきと提言。

悠々と茶を飲んでいるとバーンタオの携帯が鳴る。誰かと思いきや、最近東京でヨーガスタジオを開設したH女史ではないか??どうやらお母様とバンコック旅行に来ていたらしい。私が電話に出ると驚いた様子で『ご縁がありますね』となる。そうとしか言いようがない。彼女は今晩の夜行でバンコックを離れるとのことで再会はならなかったが、ニアミスとでも呼ぼう。

1月13日(日) (2)再会2

昨夜はバーンタオと話し込んで遅くなったが、良く眠れた。やはり心地よい疲れが必要だろう。7時半に起きると早速散歩に。何しろ外から鳥の鳴き声がうるさいほど聞こえる。まるでヤンゴンの朝を思い起こさせる。外に出ると既に太陽が昇り、そこそこ暑い。北京のあのうす曇りの暗い朝とは大違いだ。やはり南は良い。ソイ47は大邸宅が多い行き止まりの道。緑も豊かで気持ちが良い。30分ほど歩き回り、戻る。

今日はまた久々の再会がある。それもまた恐ろしいほどの偶然から始まった。年末あるホテルからカレンダーが届いた。そのホテルは北京には無く不思議に思っていると、このカレンダーをくれたのは、事務所の斜め向かいの会社にいたLさんだという。彼はこの会社を辞め、新しく北京に出来るそのホテルに転職していたのだ。しかしトイレで偶に会い、笑みを交わすだけだった彼がなぜ??セールス??そこに本人から電話が。『実は私7年前は○○ホテルに勤めておりまして・・・』、あー、思い出した!!そうだ、彼、Lさんは7年前私が北京で開いた大学の同窓会のクリスマスパーティーをホテル側で仕切った人だった。道理で見たことがある。

彼の方も『トイレで会った時は思い出せなかったが、ホテル業界に復帰したら思い出した』と言う。そんなものかもしれない。しかしご縁がある。このホテル、香港・バンコックの有名ホテルで私は香港で売っていたパウンドケーキの大ファン。北京でも取り入れて欲しい。ところで彼と出会った7年前、なぜそんな高級ホテルでパーティーを開いたのか??それは21年前に上海に留学した際、同時期に留学していた女性がセールスをしていたから。えー、あのOさんはどうしたんだ??彼女は当時パーティーのアレンジはしてくれたが、その後産休となり、後を託されたのがLさん。この7年Oさんとは連絡していない。

Lさんに聞いてみると『タイのチェンマイにいると思います』との答えが??え、何で彼女がチェンマイ。Lさんからアドレスを聞き、早々メールすると『バンコックに来るなら会いましょう。尚私は1月13日に北京に引っ越しますが。』とある。はあー、何じゃこれは。

驚いたことにOさんはバンコックでチェンマイの不動産を販売する会社にいたが、バンコックの生活に不安を感じ(確かにタイにはクーデターがあったり、政治経済が混乱していた)、オリンピックで景気の良い北京への復帰を図っていた。そして元のホテル関連業務で職を得て、何と私がバンコックにいる13日に北京へ引越しするところだったのだ。何という偶然、しかもそんな忙しい時にも『午前中会いましょう、飛行機は午後ですから』と言ってくれる。うーん、これはすごい。

BTSの駅で7年ぶりの再会を果たしたが、お互いあまり変わっていない。特に彼女にとって私は『昔の留学時代と何にも変わりませんね。不思議なぐらいです。』と言うことになる。まあ、未だにバックを背負ってフラフラしているわけだから、21年前中国を旅行していた時と特に変化は無い訳だ。貫禄が付かないと言うか??

(3)ヤワラー1

BTSに乗り、サイアムからはタクシーでヤワラーへ。ヤワラーとは所謂チャイナタウンのメインストリート。Oさんはバンコック在住1年。タイ語を何とか駆使して目的地へ。私にとっても過去何度も来ているこの道。懐かしい。中国城というところで降りる。少し歩くと汗が出る。さすがバンコックは暑い。やがて右の脇道にお茶屋さんが見えた。あれ、こんな所にあったかな??前回まで何度か探したお茶屋が急に見付かるとは??しかし今日は日曜日、戸は閉まっていた。

そしていよいよOさんが調べて置いてくれたバンコック、チャイナタウンの不思議なお茶の世界へ。そこは何とデパートの2階。デパートと言っても1階は小さなブティックが大きな建物の中に並んでいる感じ。エスカレーターで2階に上がるとそこには中国雑貨が売られている。

そしてその向こうには何やらカウンターがあり、上に茶葉が壺に入って並べられている。おじいさんが一人のんびりお茶を飲んでいる。その向こうにもカウンターが。そこでは横にテーブルが置かれ、4人のおじいさんが茶を飲んでいる。まさに私が望んでいたお茶を飲む風景ではあるが、何だか違和感が??

確かに涼しいこともあり、朝からお茶を飲んでいるように見える。但し中にはココナッツミルクやジュースを飲んでいる人もいる。一人で人待ちげにぼんやりしている人も。カウンターの一つに腰掛け、そこの女性に声を掛ける。彼女はチェンマイから来たということだが北京語が出来た。

横のじいさんが何やら話し掛けてきたが、分からない。潮州語らしい。広東語は出来ないかと聞かれたことは分かったが、こちらの広東語も錆付いていて使い物にならない。仕方なくカウンターの彼女に通訳を頼む。どうやらお茶を飲みに来たのではないらしい??

チェンマイの彼女が我々に囁く。午後になれば大陸の女の子がやって来るから??何だそれは??既に下見をしていたOさんが『援助交際ですよ』と事も無げに言う。中国大陸から不法入国した女性は働くところがなく、チャイナタウンで言葉の通じる相手を探すらしい。暇なじいさんたちは喜んで相手になるのであろう。相互扶助??ではあるが、お茶を探訪している私には全く違う次元を見ているようで、不思議な気分になる。

いずれにしても元からタイに居る潮州系中国人の他に新参者の大陸中国人が多数存在することは興味深い。今後このテーマは要チェックであろう。バンコックには日本人も沢山居るが中国人も多い。しかし残念ながら両者のコンタクトは殆どないという。因みにカウンターで一番よいと言う鉄観音を飲んだ。200バーツしたが、味は薄かった。やはりここはお茶を飲むところではないらしい。

その後デパートを出て街へ。以前も迷い込んだ横道の市場に入り、お茶を眺める。どう見ても日本から来たとは思えない日本緑茶、メーサローン産と思われる青茶、などが並ぶ。Oさんは店のお姐さんに『この辺で美味しい中華レストランないの??』と聞き込んでいる。

香港や台湾を知るバンコック在住日本人は口を揃えて『バンコックの中華は不味い』と言う。大陸が長いOさんも例外ではない。今回Oさんはバンコック最後の日と言うことで気合を入れて??探している。知り合いにも電話を入れるが日曜日とあってなかなか捗らない。

結局お姐さんに教えられたヤワラーロードに面したホテル横の飲茶屋を訪ねる。かなり不安な気持ちで入り口を入るとそこは満席。何故か2人用の席が一つだけポツンと空いていた。これぞ天からの恵み。

これだけお客がおり、更にひっきりなしでお客が入っている様子から期待が持てた。頼んでみると味はどれもなかなかいける。値段はビール1本とチャーハンを入れて330バーツとちょっと高いのかも。それでもOさんいわく『バンコックでこれだけの味に出会ったことはない』。彼女とは途中で別れたが、又北京で直ぐに再会する事に。人の巡り合わせは分からない。

(4)インド哲学をバンコックで聞く

バーンタオハウスに戻る。時間はもう3時に近い。すっかり遊んでしまった。そして今度は修行の場が。我が同窓生でインド在住20年のA師夫妻がハウスに来てくれることになっている。思えばA師を紹介してくれたのもバーンタオ氏であった。感謝。

少し待っていると飄々としたA師がいつものように登場。奥さんとは初めて会ったが、初対面とは思えない親しさが感じられた。人徳だろうか。A師も夫人あってのA師であることを発見??

A師はもう直ぐインドに戻るそうだが、それまでも精力的にバンコックで活動していた。バーンタオ氏も含めて先日はバンコックの瞑想寺を訪ねたらしい。そこは派手派手のタイの寺とは全く違う静けさと落ち着きがあるらしい。タイも昔と違って緊張社会。これから逃れるために週末瞑想やヨーガがブームだとか。

将来息子が躓いた時、インドに送りたいと言うとA師は『インドはやはり厳しすぎる。タイ辺りでやさしく慣れていく必要がある。』という。やはりインドは何年住んでも緊張する厳しい世界だそうだ。タイではこの瞑想寺に入れることにしよう???実は3月にバンコックを再訪、この瞑想寺の一つを訪問したが、息子を入れることが出来ないことが判明?この話は後に譲る。

最近読んだ本の中に『3年間毎日一定のポーズで一時間立っているだけで強くなると言う拳法がある』とあったが、その真偽を質問するとA師は『十分にありえる。要するに自律神経を如何に鍛え、コントロールするかである。』という。熱湯が手に掛かりそうになったら誰でも無意識に手を引っ込める。この時にスピードはかなりの速さ。このような力をコントロールできれば確かに相当の力を発揮しそう。出来ればこの拳法の先生を探したいものだ。

『人間は一体どこを鍛えるべきなのか』との質問には『横隔膜である』との明快な答え。ようは呼吸の質を如何に高めるか、である。この考え方はヨーガでも太極拳でも座禅でも全て同じであろう。但しそれを意識している人は極めて少ない。因みにA師はその場で突然シャツを脱ぎ、見事な肉体を披露してくれた。横隔膜を自在に操る姿を見て、大いに納得。

それともう一つ『人間最後は生殖力と消化力』だそうだ。この力があれば長生きするらしい。うーんと唸らざるを得ない。やはり物事を極めた人は言うことが鮮明である。

《タイお茶散歩 2006》メーサローン(4)

7月19日(水)4.メーサローン2日目(1)朝

朝は7時まで寝てしまった。それ程に涼しく寝心地が良い。前日のあのタチレイリバーサイドホテルの暑さが嘘のようであった。外へ出ると空が明るくなりだした。また籐の椅子に座ってただ山を眺める。静かな朝の訪れである。

レストランに下りていくと西洋人が2組朝ごはんを食べていた。ヨーロッパ人のようだ。家族連れもいる。いつも思うことだが、彼らは子供を大人と同じように何処へでも連れて行く。そして体験させる。日本人でこんな山の中に子供を連れてくる人は稀だろう。日本人にはこの自然を楽しむ方法を知らない。子供達もゲーム機で一日中過ごすことになってしまう。

女主人がかゆを持ってくる。鶏肉が入っている。胡椒が利いているのが美味い。マントウも食べる。タイ人は味のないマントウにタイ風の味付けをするが、私はそのまま食べる。流石に味気ない。

部屋に戻ってまた山を眺める。こんなに山だけを眺めている時間はこれまでにあっただろうか??特に変わった所のない風景ではあるが、気持ちの落ち着きが違う。霧が晴れてくる。山の頂にパゴダが見える。下の部屋では西洋人が出発の準備をしている。彼らは何処へ行くのであろうか??そして何を見るのであろうか??

反対側では従業員が掃除をしながらおしゃべりしている。実に楽しそうだ。濃い霧が懸かる中、決して明るくない状況で彼らは底抜けに明るい。国民党残党の村と呼ばれたこの村の歴史は一体どうなっているのか??

(2)国民党の村

レストランに下りていくと主人がやって来た。変な日本人が来たと思ったのか私を確認するように話し掛ける。しかしこちらが国民党関連の話をすると口をつぐんでしまう。烏龍茶が出る。

今月はチェンライ県の県庁を団長とした視察団に参加して上海へ。杭州も日帰りして、お茶の売込みを図った。8月には中東ドバイへ行く。昨年も一昨年も展示会に参加している。中東人は太っている人が多いので、減肥茶として売り込むと売れ行きがよいという。

今後も展示会があれば何処へでも行く。ここのお茶を広めるためには努力が必要である。実に謙虚な姿勢である。その内東京へも行きたいが今の所そのチャンスはない。奥さんもやって来る。メーサローンのよさを知って欲しい。日本語の現地フリーペーパーにも書かれたこともあるが、日本人はあまり来てくれない。1月中旬には桜も咲くのだが・・??

国民党の人々は20年前に武装解除した。タイ政府はタイ国籍を与えるといっているが、20年経った今でもまだ貰えていない難民扱いの人もいる。徐々に進めているが20年は長い。既に戦争を行なう雰囲気は何処にもない。しかし内面では未だに戦いが行なわれていることを知り複雑な気持ちとなる。

見るとレストランの柱の影で何かを焼いている。網の上には餅があった。香ばしい匂い。タイ北部とミャンマーのシャン州、食べ物もほぼ同じ、文化も近い物がある。いや、雲南省も含めて元々は同じ文化なのである。それがあの戦争で全てが変わってしまった。残念なことである。

しかし考えてみればミャンマーも悲劇である。ようやく戦後イギリスから独立したのに、10年以上に渡って国民党軍に居座られた。その対応に使った時間、経費がミャンマーの近代化を遅らせ、また少数民族の独立運動を助長させてしまった。国の統一が十分に出来なかった事がその後の運命を決めた。麻薬が蔓延った原因もここにあった。ついでに言えば、ミャンマー経済を疲弊させたのは、華僑、印僑を排除した結果でもある。彼らは東南アジアでもその国の経済を牛耳っており、決して歓迎されている訳ではない。しかし必要悪なのである。

国土統一の遅れが、軍事政権の長期化を招き、経済が衰退した。悪循環である。その悪循環を作り出したのが、今目の前にある元国民党なのである。国民党軍もミャンマーも共に被害者なのか??それともどちらかが加害者なのか??歴史は残酷である。

(3)泰北義民文史館

10時半になったが、雨が止まない。今日の4時の飛行機でバンコックに戻ることになっている。さて、何をしようかと思っていると女主人が『泰北義民文史館へ行ったら』と車を出してくれた。しかしその車はベンツなのである。この家はやはり裕福なのであろう。

車で10分、昨日歩いた道を走り、町を抜けるとそこに広大な敷地があった。街外れに新しく建てられたことが分かる。雨の中で訪れる人はいない。館の入口の前に大きな手のモニュメントがある。許願池と言う名前が見える。池から地から湧き上がる国民党軍を表しているのだろうか??

泰北義民文史館に入る。左手に戦史陳列館がある。中に入ると後ろから管理人が電気を点けてくれるが、それでも暗い。彼は私の所に寄って来て『資料があるよ』と北京語で伝える。150バーツ。それを渡すと自分の仕事は終わったとばかりにさっさと行ってしまう。

寂しく一人で見る。写真が沢山貼られている。李国輝、段希文、雷雨田など歴史に名を留める将軍が写っている。しかし彼らがどんな活動して、そしてここがどんな役割を果たしたのか、全く予備知識がない状態で淡々と眺めるだけである。

帰国後国境内戦後この辺りで一体何が起こったのか??何故この辺りがゴールデントライアングルと呼ばれ、アヘンとの関係はどうなのか??是非知りたいと思った。本を探したがなかなか見付からなかった。そして『ゴールデントライアングル秘史』(鄧賢著 NHK出版)と言う本と出会った。

その本には想像を絶することが書かれていた。内戦に敗れた国民党軍は台湾に撤収した主力部隊の他にミャンマーに逃れた雲南軍がいたのである。陸路であったが、易々と踏み越えたわけではない。ミャンマー軍との抗争、共産党軍との戦い。その中で家族も共に道に迷い、食べ物もなく、行き先も分からない。

そして台湾蒋介石政権との微妙な関係、翻弄される基盤。更には内部の権力抗争。その中を生き残っていった人々。その過程では食べるためにアヘンを運ぶ護衛を勤めて、そして最後にはタイ軍の義勇軍として、老体に鞭打ち、年少の兵隊を出して、戦わなければならなかった。悲惨な歴史と言わざるを得ない。麻薬王クンサーの存在はそんな中でなんだったのであろうか??必要悪??

中央の建物は愛心陳列館。ここは広い空間に各戦役で没した人々の慰霊札がズラッと並んでいる。263、それは一体何を意味するのか??あまりにも寂しいこの空間、雨音が強くなる外を眺めると槍のような雨が地面突き刺していた。困難な歴史を無言で物語っていた。

車は1時間後に迎えに来ていることになっていた。その時間にはまだ大分あったが、私は館を離れた。正直ずっとそこに居る事には耐えられなかったのである。雨で誰もいない売店、そこでは茶を売っていた。お姐さんが寒いからお茶を飲んで行きなさい、と言って入れてくれた。そのお茶は実に温かかった。

尚ここメーサローンにもお茶の他にコーヒーが作られていた。これは高地の特徴で、お茶とコーヒーはセットのような物なのかもしれない。

(4)昼

ホテルの戻ると12時を過ぎている。1時半にはホテルを出発してチェンライ空港へ行かなければならない。レストランを通ると中国系の人がいた。聞けば何と台湾の茶商だという。態々こんな所までお茶の買い付けか??

丁度商談が終わったらしく、食事が始まるところだった。私は例の焼きそばを頼み、荷物を片付けに部屋に戻る。下に降りると一緒に食事をしようという。残念ながら時間がなかった。それでも話を聞くだけでもよいと思い、焼きそばを抱えて参加した。

どうやら彼らはこの地に共同でお茶を栽培しようとしているらしい。台湾の黄さんによれば、ここのお茶は質も良く、価格が安いため、台湾でも十分に販売可能とのこと。実際喜んで買って行く台湾人がいると言う。台湾にはこの村のお茶が結構入っている。そうかもしれない。黄さんも年に1-2度買い付けにやって来る。レストランにでも卸しているのだろうか??

しかしテーブルを良く見ると驚いたことに同じ顔が2つある。このホテルのオーナーとそのお兄さんは双子なのであった。よく似ているが、一方はホテル経営、茶の販売、一方は茶の栽培とその仕事内容は全く異なる。それを女主人も合わせて3人で力を出し合って運営している。

時間が気になる、がテーブルの上の食べ物はもっと気になる。たけのこ炒め、野菜スープ、納豆を固めたような食べ物も出てきた。どれも新鮮で美味しい。残念ながら途中でタイムアップ。

(5)空港

1時半、ベンツに乗車してメーサローンを離れた。女主人も乗り込んで、一緒に空港まで行くと言う。空港の出店に用事があるらしい。彼女は出発早々に寝込む。私は自分が客なのか彼女の友人なのか分からなくなる。しかしそんなユニークな関係が好ましい気もする。

メーサローンは昨日の茶畑見学でも分かったが、土壌が良いので雨でも流され難い。大陸との違いだろう。霧も良く出るし、茶を栽培する条件は整っている。そんな茶畑を眺めながら、坂を下る。

平地に降りると何故か豪雨に見舞われる。雷も鳴る。しかし車はベンツだ、安心して寝る。1時間で空港へ到着。僅か3日前に降り立った所だったが、遠い昔のような気がした。別れ難い何かがあった。

チェックインは至極簡単、国内線だからか??この空港は僅か一日30便しかない。国際線もない。典型的な地方空港だ。1時間ほど時間が余る。出店に行ってみる。到着した時に立ち寄った店は大きかったが、彼女の店は他の土産物屋に囲まれてこじんまりしていた。お客が何人かいた。皆時間待ちだろうか??

ちょっと太った愛想の良いにーちゃんが店番。将来出店するチェンマイ空港店を任されるらしい。タイ人はお茶に不慣れなので入れる時には敢えて急須を使う。(碗を使っても理解できない??)やっぱり山の方が茶の味が良い。

1冊の本が目に留まる。『被遺忘的泰北美斯樂中国人』というマレーシアの大学教授が書いた北京語の本だ。中を開けてビックリ。何と彼女ら一家の歴史が書かれているではないか??あのプミポン国王より高い位置に掲げられた写真はご主人のお母さんで元国民党軍中尉だったのだ。

そしてあのメーサローンリゾートを作った雷将軍の下、ご主人はホテルの修行を積み、自分のホテルの開いたことも分かった。恐らく彼らは歴史の生き証人なのである。但し一見のお客である私にその重い歴史を簡単に語るわけはなかったのである。慌てて本を買い、別れを告げて飛行機に乗り込む。そして貪る様に本を読んだ。バンコックまでの1時間半、機内食も取らずに読み耽る。

少数民族のおばあさんが孫の赤ん坊をおんぶして乗っている。全く泣き止まない。乗客はいやな顔をするどころか、皆で何とか泣き止まそうとする。菓子を差し出す者、笑わそうと顔を歪める者、微笑ましい光景である。何となく連帯感がある。その理由は??降りる時隣のオバサンから北京語で『あんた、何処の村??』と聞かれるほど、私の顔は中国人になっていたことだろう。

次回機会があれば必ずやこの歴史を学ぼう。

《タイお茶散歩 2006》メーサローン(3)

(5)メーサローンの街

午後3時頃になると、雨も小雨となる。この山間に街があると思えないが、ホテルの前の道路を歩いて見る。実は靴下がなくなっていた。いつもは自分で洗濯するのだが、先日風呂に入りながらパンツを洗っていると、指がふやけて皮が剥けてしまった。洗うことはできるが、絞ることは出来ない状態だ。

ホテルの直ぐ脇に雑貨屋があった。村の万屋といった雰囲気だ。中に入って『靴下』と北京語を使うと何の違和感もなく、靴下が出てきた。但しその質はお世辞にも良いとはいえない。中国製だろうか(タイ語が読めないので)??歯磨き粉も買う。

更に歩いて行くと平屋の家が両側に並ぶ。数軒お茶屋さんが店を開いている。急須の形の窓がある。芙蓉宮、どこかで見た名前だと思ったら、チェンライの空港で最初にお茶を飲ませてくれた店である。茶杯を並べてモニュメントを作ったり、それなりに工夫している。しかし雨のせいもあり、人も歩いておらず寂しい風景には違いない。

セブンイレブンがある。こんな所にもある。入ってみたが、買いたいものはない。やはりこの村にはあまり似合わない。更に行くとアカ族の民宿がある。何故アカ族とわかるかというと、何と塀に日本語で書かれているからである。誰が書いたのだろうか??

国民党残党の村、といった面影は感じられないが、台湾が寄付して作られた道路がある。恵安路、蒋家塞十一村へ向かっている。蒋家塞とは、確かビルマから撤退した国民党軍が13に地域に分かれて作った村ではないか??その第十一村がこの近くにあるということか??

そちらの方へ歩いて行くと傘を差した小学生低学年と思われる女の子が二人歩いてきた。学校の帰りだろう。するといきなり『何処行くの??』と北京語で話し掛けて来るではないか。やはりこの村はタイではないのだ。

私は『メーサローンリゾートホテル』と言いたかったが、北京語が分からず、ただ『ホテル(酒店、飯店)』と言ってみたが、通じない。どうやらここで使われている北京語はかなり昔のそれであるようだ。取り残された村なのだろうか??

(6)メーサローンリゾート

軽い登りの道を進むとメーサローンリゾートの入口に到着した。リゾートと言うだけにここも花園の手入れが行き届いている。しかしここからゲートまで数分歩かなくてはならない。広大な敷地である。右手に高床式のコテージがいくつも見えて来た。なかなか洒落た建物に見えるが、かなり古びている。

中に入ると広い庭園がある。その周りには更に大きいコテージがある。しかし人の気配はまるでない。一体ここは何なのだ??資料館がある。殆ど何もないが、ここが国民党軍の軍事訓練所であったことが分かる。そして70年代この訓練所をホテルの替えたのが、当時の雷将軍だったと言う。将軍がホテル経営??既に戦闘はなくなっていたのだろう。しかしそこまで追い込まれていたのだろうか??8年前に雷将軍を取材した読売新聞の記事が貼られていた。このホテルが作られた経緯の筋が書かれていたが、雷将軍は『過去の事は語りたくない』としている。この数十年、彼らは一体何をしていたのだろうか??

1969年の防御作戦現場跡があった。コテージを越えて、斜面へ。メーサローンの街が一望できる。斜面の草むらを下るとそこには溝があった。これが防御線??うーん、確かに急な斜面を下から登っている敵にとってこの溝は効果があるかも知れない。上から攻撃すれば相手は逃げるかもしれない。しかし作戦と言うには程遠いこの溝を見て、更に国民党残党の困難を感じる。

ホテルのフロントに行って見たが、電気は消えていた。暗い中からオバサンが出てきたが、どう見てもやる気がない。料金を聞くと『300バーツ』とぶっきらぼうに答える。ホテルのパンフレットを貰って退散する。ここに泊るのは相当変わり者の観光客だろうか??

ホテルの直ぐ近くまで戻ると製茶工場があった。ちょっと見学させてもらったが、誰も相手にしてくれない。北京語などをなまじ使うと、お客さん扱いされないようだ。数人の男性が実に真剣に話し合っていた。そして茶葉を乾燥させていた。一体何を話しているのか??言葉は北京語ではない。しかし中国系、どうなっているのか??

(7)夕食

小雨の中をホテルに戻る。午後5時で少し暗くなる。するとどやどやと観光客の一団が30人ほど入ってきて席に着いた。台湾人だ。台湾語を話している。子供もいる。夏休みの旅行らしい。6つぐらいのテーブルを占拠、あっと言う間に料理が並び、あっと言う間に食べ、そしてあっと思う間に出て行ってしまった。女主人に聞くと、彼らはこれからチェンマイまでバスに揺られて行くらしい。きついスケジュールの団体旅行では、ここメーサローンに泊る余裕はない。逆に食事代を浮かせるためにここで安い夕食を食べて行く。

あまりの慌しさに『旅行楽しい』と聞いてみたくなる。いや、結構楽しいのだろう。彼らは実に元気だ。食べて話して。久しぶりに台湾人パワーに圧倒された。台湾駐在時代に友人が台湾人のツアーに入ってタイ旅行をした話を聞いたことがあるのを思い出す。スケジュールがきつくて死にそうだったが、一緒に旅行した人々とは台湾に戻ってからも付き合いが続いたと言う。楽しかったから。

しかし折角お茶があるのに殆ど人は見向きもしない。中にお茶好きがいて眺めていたが、彼らは台湾のお茶が一番だと思っているので試飲する人もいない。いや、ゆっくりお茶を飲む時間もないのである。30分後には元の静寂が戻った。嵐のような時間が過ぎた。

さて、私の夕食はどうしようか??女主人は『ここの麺は美味しいよ』を勧めてくれた。最近食べ過ぎの私は夕食にタイ風焼きそばのみを食べることにした。ここの麺も確かに美味しい。具の野菜が非常に新鮮だ。お茶を飲みながらゆっくり食べた。消化に非常に良い食べ方だ。

部屋の前まで戻るとちょうど夜の帳が下りるところ。籐の椅子に座って暫し眺める。実にゆったりとした時間を過ごす。もし夕陽があればどんなに良いだろうか??庭には大きなラッパ水仙??の花が下向きに咲いている。これが暗さの中で際立って映える。電灯のライトアップもきれいだ。真っ暗になるまで席に座って過ごす。

シャワーはお湯がぬるかった。そして暗くなったホテルの部屋の中は涼しかった。結局シャワーを浴びなかった。後で聞いたら湯船のある部屋もいくつかあるらしい。ここではシャワーより湯船だ。何となく山小屋で寝るようなイメージであっと言う間に寝入る。