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タイ北部お茶散歩2015(12)タイに殺到する中国ナンバーの車

Eさんの家で

チェンセーンを過ぎて、チェンコーンに行く街道沿いにEさんの家はあった。奥さんの実家だというその敷地には家が3つ建っていた。1つは奥さんのご両親が住み、2つ目はEさんが6年前に建てたが住まず、3つ目は昨年苦労して建てた新居だった。『タイ人に自分の思い描く家を作ってもらうのは大変だった』と振り返る。決め手は『おだてる』ことらしい。そしてちゃんと仕事に来るように酒を振る舞うなど。心配りが大切だという。原材料も自分で調達してきて、不良があれば自分で交渉して直していく。これは大変な作業だ。

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別棟のシャワーを使わせてもらい、リビングで寛ぐ。色々なお茶が出てきて、飲ませてもらう。タイ北部の緑茶、飲みやすい。そうこうしている内に夕暮れが近づき、食事が運ばれてきた。豚肉の素揚げ、美味しい。Eさんがチェンマイで買い込んできたしめ鯖や塩辛なども登場。毎日夕暮れから晩酌しているという。田舎生活の楽しみとして、日本食材があれば十分に暮らしていける。

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確かにビールは安いし、バナナなど買う必要もない。野菜もどこからか手に入る。タイ米に慣れていれば、それほどお金は掛からない。悠悠自適、とはこのことだ。Eさんはネットも殆ど見ないので、メールも使わない。必要がある人は電話して、という手法。これだと煩わしい付き合いから解放されるという。そして週1回ゴルフをやるが、日本人とはあまり付き合わない。日本人のグループに入ると面倒なことが多い。これは理想的なやり方かもしれない。私も何とかネットから自分を解放しようと抵抗しており、ラインや微信をやらないようにしているのだが、Facebookやメールには完全に支配されていると言わざるを得ない。

 

その夜はリビングのソファーベッドを使わせてもらい、早々に眠りに着いた。さすがに旅に出て1週間、疲れがたまっていたのかもしれない。が同時に、居心地がよかったことは否めない。やはりこのような生活、私にとってもある種の理想形かと思われる。それほどお金を掛けず、地域に溶け込んで生きる、それは素晴らしいリタイア生活だろう。

 

2月20日(金)

中国ナンバーの車

翌朝は早く起き、朝食を頂き、そしてEさんの車で家を出た。今日は夕方の便でバンコックへ帰るのだが、それまでEさんがチェンコーンを案内してくれるというのでお言葉に甘える。まずはチェンコーンの港へ行く。ガイドブックを見ても、ここから小舟でラオス側のファーサイという街へ渡るとなっているが、殆ど人はいなかった。小さなイミグレがあったので、ここで間違いはないはずだが。

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小舟も見たが、人が乗る気配もない。周囲の店も閉まっている。あまりにも寂しい国境だった。実は最近この近くに橋が架かった。その橋を見に行くことになる。途中、小中学生が遠足?に行く場面に出くわす。ずっと歩いて橋の方に向かっている。キャンプだろうか。タイの学校ではよくキャンプがあるらしい。何故だろうか。

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橋が見えてきた。この橋、タイとラオスに架かる国境の橋の4つ目らしい。第1の橋はタイのノンカイとビエンチャンに架かる。確か基礎調査は日本が行ったにも拘らず、建設はオーストラリアに取られ?日本国内ではかなりの批判があった案件。私も1度たった15分の国際列車に乗り、通過したことがある。第2の橋はムクダハンとサワナケート。今度は日本のODAで、日本のゼネコンにより建設された。第3はナコンパノムとタケクを結ぶ。タイの大手建設会社、イタルタイが建設した。

 

そしてこの第4の橋は、タイと中国が費用を折半したという。友好橋と言われるが、雲南省からタイまで一気に来ることができる。ラオスの抵抗もあり?開通はかなり遅れたと聞く。開通して1年になるが、橋にはまだ車両が殆ど走っていない。いや、旧正月で物流が止まっているだけかもしれない。ラオスへ行くバスが見える。既に小舟の時代は終わっている。ただ川を眺めると、橋の近く、車を乗せた船が行く。恐らくは密輸船ではなかろうか。いまだ、白昼堂々と川を越えてくる船がある。大らかな土地柄か。さすがゴールデントライアングル。

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この橋はアジアンハイウエーの一部にもなっており、周辺の道も整備されていた。何十台もの中国ナンバーの車が疾走している。Eさんがガソリンスタンドへ入った。そこへ車が数台やってきた。見ると雲南ナンバーだ。思わず車を下り、運転手に中国語で『どこから来たの?』と聞くと、『今朝早く昆明を出た。ここまでノンストップ、900㎞を6時間で来たよ』というではないか。そして『すごく快適なドライブだった』とも付け加えた。

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更にもう1台を見ると、何と陝西省ナンバーだった。乗っていたオジサンに聞くと『え、今日が何日目だったかな、あー4日目だよ、西安を出てから』という。車で旅をする愛好者のグループのようだが、それにしても、中国から東南アジアへこんな旅をする人たちが出てきたこと自体が、非常な驚きであり、またそれを可能にした道路網がすごい。彼らはこれから道を下り、バンコックまで行くという。

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実はここからバンコックまでも、昆明からここまでと同じ900㎞。ただEさんによれば、最短でもバンコックまでは12‐13時間はかかるという。そう、中国からラオスを抜けてくるのは簡単でも、タイ国内の道路整備は遅れているのだ。鉄道同様、タイは先進国ではなく、発展途上国であることを改めて感じる。同時に中国の物凄い勢いを、この国境で見せつけられた思いだ。安倍政権がアジア重視を打ち出しても、既に経済的には中国パワーがこの付近にはみなぎっている。新幹線を売り込む程度ではとても打開できないだろう。いや、政府は新幹線や発電所さえ売り込めれば、それでよいのか知れない。

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タイ北部お茶散歩2015(11)ゴールデントライアングルに踏み込む

タイ側にはゲストハウスがあった。元々はここに1泊して、チェンライへ帰るつもりだったが、今日は見学だけにした。いや、見学しようとしたが、少し坂を上る、そしてネットが繋がり難いと聞き、荷物が重いことから、行かずに戻ってしまう。帰り道、小さなカフェがあったので、そこで休みながら、ネットを繋ぐ。店のおばさんが荷物を見て『宿は必要ならあるよ、500バーツ』という。この辺には安いゲストハウスがいくつもあり、1か月4000‐5000バーツで借りられるらしい。欧米人の中には、ここに宿を取り、時々ミャンマーに出国して暮らしている人もいるようだ。何とものんびりした国境沿い、悪くはない。

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アーケードに戻ってくると、別の道が見えた。ちょっと上ると、そこには『中国街』の文字が見える。洋服屋やベルト・小物系の店が並んでいる。昼下がりで人は多くなかったが、この道、細長くて、かなり歩いても出口に着かない。そこにEさんから、『もうすぐ着くよ』という電話があり、急いで出口を探し、国境前の通りを歩いた。

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Eさんの車は国境から少し離れたところに停まっており、何とか合流した。当然国境での駐車は厳しく制限されている。それにしても3日前にチェンマイで会って以来だが、何だか随分と時が経ったような気がしたのは何故だろうか。車は国境の前をUターンして、川沿いを走り始めた。

 

6.ゴールデントライアングル

ラオスを見る

車はメーサイの郊外に出る。一面田舎の風景になる。それにしてもいい道だと思っていると最近開通したばかりだという。『昔はデコボコの道だったが、アジアンハイウエーのお陰』だそうだ。所々に家がみえるが、殆どの場所に何もないのはそのためか。時々メコン川が見え隠れしている。

 

30分ぐらい行くと、川の中州が見え、『中州はミャンマー、向こう岸はラオス』と言われる。これぞまさにゴールデントライアングルだ。ラオス側に見えるモスクのような建物は『カジノ』だとか。カジノが禁止されているタイに替わり建設された国境カジノ、タイ人が大挙して行くらしいが、それには小舟で川を渡るのだろうか。何とも風流な賭場通いだな。

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もう少し行くと、川に送電線が掛かっているのが見えた。『ラオスからタイへ電気が送られている』という。日本はODAでラオスの水力発電を支援しているが、その結果生み出された電力は、この送電線を通じて、タイに売電され、ラオス経済に貢献していた。一昨年ラオス経済の異変に気付いた際、調べてみると、このタイへの売電量も減っていた。タイ経済の確実な落ち込みを感じていたのだが、当時バンコックの日本人ビジネスマンの誰に聞いても『タイ経済は好調』と言っており、このようなシグナルは無視されていたように思う。確かに中国離れ、とかで、大量の出張者がタイに来ていた時期。ある意味で日本人、企業は日本人バブルに沸いており、タイの実体経済を見誤った(見ないようにしていた)とも言える。それは今でも続いている。何とも感慨深い送電線だ。

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古都チェンセーン

そしてチェンセーンという街に入る。こじんまりしたメコン川沿いの街並み。14世紀にはチェンセーン王国という国があり、かなり栄えたようだ。街中に古い仏塔をもつお寺がある。道路脇に相当に古い仏像が無造作に両手を合わせている。城壁跡とみられる土塁もそのまま保存されている。

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この街、その全体が遺跡であり、時間は完全に止まっているように見える。次回はゆっくりと歩いてみたい。そして出来れば1か月単位で滞在し、歴史と向き合い、世俗から離れてみたい、とふと思う。実際欧米人の中にはここで暮らしている人もいるようだし、日本人が住み始めたらしい、との話もあるようだ。何となくその理由が分かる街。

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川の方を見てみると、中国語が書かれた船がいくつもある。この川を遡ると中国の雲南省へ行ける。昔はこれが交通の主要ルートだったのだろう。今でも西双版納と書かれた船が雲南まで航行しているようだ。この付近は19世紀頃、中国との中継貿易港として栄えたようだが、今はかなり静かになっている。

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19世紀といえば、1840年にアヘン戦争があり、清朝が衰退に向かう時期。残念ながらアヘンは一大輸出物資であり、この川から大量のアヘンが流れていったことは想像に難くない。ケシの産地もこの付近の山の中、それならケシ栽培を止めた時、代替作物として茶を植えたところはないのだろうか?このあたりの歴史、恐らくは書かれていないことばかりだろうが、実に興味深い。

 

ただ今でも中国との貿易は続いているようで、郊外には港があった。ちょうど旧正月で殆どの物流は止まっており、活発な交易の様子は見られなかった。ただ、車を走らせていると、対向車線に何台、いや何十台もの中国ナンバーの車を見掛け、驚く。『雲』という字が見えるので、雲南省から来ていると思われるが、どのようなルートで来るのか、その時は良く分からなかった。

タイ北部お茶散歩2015(10)ソンテウでメーサイへ

2月19日(木)

ソンテウで山を下りる

朝、散発的な爆竹の音で目覚める。今朝は皆さすがに早起きしている。オーナーのお母さんが来ているせいだろうか。この方、以前聞いたところでは黄埔士官学校を出た中尉さんだったとか。かなりのお歳だろうが、背筋が伸びている。国民党の歴史を知る生き証人だが、今はもう何も話したくはないのだろう。普段は山を下り、平地メーサイで暮らしている。

 

スタッフの女の子たちもチャイナドレス風の上着で着飾り、正月気分で嬉しそうだ。そう正月はやはりウキウキしないといけない。近年日本では正月だから嬉しい、と言った経験がなくなったことを残念に思う。楊さんが湯圓を出してくれた。台湾では正月15日の元宵節に食べるものだったが、ここでは元旦に食べるのか。団子が甘い。オーナー夫妻と記念写真を撮る。

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9時30分発のソンテウで山を下りる予定にしていた。Gさんは昨日借りたバイクに乗っていき、私は歩いてソンテウ乗り場へ向かうつもりだったが、李さんが車で送ってくれる、というので、お言葉に甘える。そして夫妻と別れた。お土産にお茶もらってしまう。申し訳ない。Gさんのバイクも別途返してくれることになる。何とも有難い話だ。

 

ソンテウはビラの前を通るものだとばかり思っていたが、実は違う道を行くため、村の中心へ行かなければならない。新生という名のゲストハウスがあるあたりで待っていれば来る、ということだったのでかなり余裕を持って出たが、何と車がそこへ着くと同時にソンテウもやってきたので驚いた。慌てて荷物を持ち込み、屋根の上へ上げてもらい、乗り込む。60バーツ。出発予定時間より15分も早い。しかもビラの方向へ向かって走っていく。これはどうしたことか、これならビラの前に居ればよかったのに。

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結局ビラの少し先でソンテウは停まり、一人の地元民と荷物を下ろして、また元のところへ戻った。単に時間前に地元の知り合いでも送ったのだろう。田舎はこれがあるから困惑する。慌てるんじゃなかった。9時半に村の中心で数人を乗せ、昨日行った茶畑の方向へ走り出す。ドイツ人の夫婦、フランス人、そして少数民族の母子。中国人に見えた女性(首からキャノンの一眼レフを下げていたので)がいたが、実は韓国人だった。一人でここまで来るとはすごい。

 

行きのチャーターとは違い、定期便なので、途中で交差するソンテウを待ったり、時々人を乗せたり、下ろしたり。野菜を担いだおばあちゃんが乗り込むと皆で手伝ったり。小さい子はどこでも人気者だが、彼は相当の照れ屋。如何にも少数民族、山の子だ。何だか和気藹々で進む。急ぐ旅でもないので、こんなのも悪くない。

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メチャンに着くのに2時間ほどかかった。ソンテウを下りると、すぐにメーサイ行きのロットーが来たが、2人しか乗れないというので、ドイツ人夫婦に譲った。他のメンバーはチェンライ方面のバスに乗り込む。我々もメーサイ行きバスが来て乗ることができた。一昨日と同じバスだ。25バーツでメーサイ郊外まで30分で到着。

 

そこで携帯が突然鳴る。先日チェンマイで会ったEさんから『よかったら家へ来ないか』という意外なお誘い。現在メーサイにいるというと迎えに来てくれるというではないか。これもご縁、今日はGさんに同行して国境を渡り、ミャンマーのタチレクへの日帰りを考えていたが、それは取りやめ、Eさんの話に乗る。それが私の旅だ。

 

5.メーサイ

国境の街で

郊外のバスターミナルから国境行きソンテウが15バーツで出ている。この料金は正直高いが他に行き様がない。すぐに大きなテスコロータスが見える。ここで買い物をしてミャンマーへ行く人も多いのだろうか。国境までは10分もかからない。この国境、2006年にここを通ってチャイントーンまで行ったことが思い出される。帰りのバスが故障して大変だったな。8年ぶりだが建物は変わっていない。ただミャンマー情勢は大いに変化したはずだが。

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まずは昼時なので、食事をすることにしたが、付近は土産物屋ばかりでレストランがない。仕方なく裏へ入ると、お茶を激安で売っている。袋に入っているのでどんなお茶か分からないが、6袋100バーツは信じられない。売り子に中国語で話し掛けるとちゃんと返事がある。買っていくのはミャンマー人らしい。何も買わないのにレストランの場所を教えてもらう。

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ローカルな店であんかけ焼そばを食べる。これが意外に美味い。そしてGさんは国境を通り、ミャンマーへ行ってしまった。思えば彼女は昆明を出て、中国側からミャンマーに入ろうとして拒否されて(ビザを持っていながら)およそ2週間、ついにミャンマーの土を踏んだ。だがその後彼女を悲劇が襲ったようだ。やはり彼女にとってミャンマーは鬼門なのだ。

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お迎えまで

国境の横に道がある。国境は小さな川なのだが、その小川に沿って道があり、アーケードがある。ここにも土産物屋が並ぶ。土産物と言っても民芸品ではない。全て日常生活品。服から食べ物から、皆これを買ってミャンマー側へ運ぶらしい。ビスケットやチョコも1個ずつ売るのではなく、大きな袋に入ったまとめ買い用。タイ人の観光客が珍しそうに眺めている。

 

そのアーケードを抜けると、小さな商店が並び、更に進むと『タイの北限』という表示に出会う。目の前の小川を越えればミャンマーだ。こんな川、すぐにでも越えられる。向こう側で洗濯している人の顔もよく見える。実際地元民は夜陰に紛れて、国境越えをしているかもしれない。この付近がゴールデントライアングルであることからも、昔は良からぬ貿易もあったことだろう。

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タイ北部お茶散歩2015(9)メーサローン 故郷を思う正月の爆竹

茶工場と街散歩

茶工場はビラを通り過ぎて、少し行った道沿いにある。8年ほど前に建てられたこの工場、この地域としてはかなり大きい規模を持っている。残念ながら旧正月前で作業は全て停止しており、工場自体も閉まっていたが、なぜか扉が少し開いており、そこから中に入り、見学させてもらった。勿論誰もおらず、ガランとした室内。私は既に3回目で見慣れているが、Gさんはこのような工場を見るのは初めてとかで、興味津々の様子。

工場内に沢山の機械が設置されているが、その殆どが台湾から来たもの。ここメーサローンの歴史的位置づけを象徴するような内容だった。茶師の張さんがいれば、作り立てのお茶などを振る舞ってくれるのだが、今日は彼もいないし、お茶も作っていない。音ががない、稼働していない茶工場の寂しさ、を少し味わいながら、早々に立ち去った。

それから村の中心まで車で送ってもらい、運転手と別れた。広場では旧正月の市場の準備が始まっていた。見てみると、山から下りてきた人向けの服や日用雑貨が中心で、我々の興味を引く物は殆どない。たまにはお茶も売っているが、無造作にビニール袋に入れられており、何だか良く分からない。

むしろ向かい側の商店が立ち並ぶ一帯は土産物屋さんで、殆どがお茶を扱っており、そちらへ向かう。有機緑茶、と書かれた店へ入る。まだ午前中でお客さんはいない。店の人はちょうどご飯を食べていたが、快く試飲させてくれた。主人はこの付近で茶畑をやっており、近年はいいお茶が出来ていると言っていたが、特にピンとくる味ではなかった。紅茶も烏龍茶も何でも作っているようで、畑が狭いので、少量多品種にしているというが、どうだろうか。それでも丁寧に作っている様子は覗える。

それから1₋2軒の店に入るもどれも似たようなもので、疲れてきた。その隣にコーヒー屋があったので、何とそこでコーヒーを飲むことにした。これは逆張りで面白い。皆がお茶を売っているのなら、地元の人向けと合わせてコーヒー屋をやるとは、いい発想法だ。ただお茶とコーヒーを混ぜた商品も売っていたが、それはどうなんだろうか?地元の人がバイクでアイスコーヒーを買いに来る、今後のタイの茶業界の挑戦が始まっているように思えた。

Gさんが疲れたというので、トボトボ歩いて帰る。既に時刻は11時過ぎ。それなりに日差しが強くなっており、アップダウンのある道を歩くのは意外と疲れた。いよいよ正月、というムードが徐々に高まっており、所々で飾り付けが行われ、爆竹が鳴り始める。我々は何という日にここに来てしまったのだろうか。今晩は煩くて寝られないかもしれない。

大晦日の爆竹

30分ほどゆっくり歩いて、何とか宿に戻った。昼ごはんに炒飯を食べて、すぐに部屋に戻り、寝入る。やはり疲れているのだ。だが少し寝ていて思い出したことがある。私は明後日にはバンコックに戻らねばならないが、フライトの予約ができるだろうか。ネットを繋ぐとちゃんとノックエアーのチェンライ‐バンコック線が予約で来た。

ノックエアーの良いところは支払いをATMかセブンイレブンでもできること。手数料が安くて便利。地域LCCのサービスとは本来このようなものではないだろうか。勿論ノックはタイ中心のLCCだから、タイ国内向けのサービスには違いないのだが。それでまた宿を出て、セブンまで歩いていく。この村にもたった一軒、コンビニがある。先ほど歩いていて、トイレを借りたが、快く貸してくれたので、好感が持てた。でももし支払いができないと振り出しに戻る。ちょっと緊張していったが、簡単に払えた。これは有難い。手数料は僅か30バーツ、カードだとタイバーツへの為替手数料も取られるのだが、現金なのでそれもない。素晴らしい!

夕方までダラダラしていると、Gさんが『バイク借りてきた』と言って、一人でバイクに乗り、行ってしまった。こんな山の中で、慣れない土地で、夕暮れ時にバイクに乗るなんて、なんて度胸があるんだろうか、と感心すると同時に、ちょっと無謀かな、と感じる。私の旅は人から見えれば大胆なところもあるが、自分としてはかなり保守的で、危ない橋はほぼ渡らない、だから4年間、殆ど無事故、病気もない。

大晦日の夕飯は餃子かと思ったが、そのような習慣はないという。いつもと同じ、キャベツ炒めと豚肉、で簡単に済ませた。周囲は午後から散発的に爆竹が鳴り響き、結構盛り上がりを見せているのだが、この宿には特に盛り上がりはない。オーナー夫妻も戻ってきていない。お茶を飲み、ネットをやり、日常生活のまま、夜10時前には寝てしまった。

あとで聞くと夜中11時頃、一斉に爆竹が鳴ったそうだ。タイと中国の時差は1時間、中国時間で新年を祝う、このあたりにこの付近の人々の複雑な思いがあるのかもしれない。何も知らず、私はぐっすり寝ていたのだが、きっと皆が中国の方に向けて爆竹を鳴らしていたのだろうと思うと、ちょっと感傷的になった。また昼間見た少数民族の正月、それはまた別なのだろうか。この辺ならソンクランの水かけ祭りが中心ではないのか。一見簡単に見える山の村、その歴史的、民族的背景を考えると夜も眠れない。

タイ北部お茶散歩2015(8)メーサローン 茶畑と餅つき

4.メーサローン 夕飯が出てくる

ホテルの入り口を登っていくと、受付、食堂がある。受付には10年前から同じ女性が座っている。老板娘の楊さんが出てきて、懐かしそうに挨拶した。ここでは部屋代がいくらかなど、聞くことはない。鍵が直ぐに出てきて、一番下の景色の良い、いつもの部屋があてがわれる。斜面に作られているこのビラ、上の方が更に景色が良いのだが、一々上がっていくのが面倒なのだ。

確かに宿泊客は見られず、特に混んでいる様子はない。『お腹空いてないの?』と聞かれ、初めて今日は朝飯しか食べていないことに気付く。気付くと猛然と腹が減りだすからおかしい。楊さんが指示を出すとすぐに夕飯が出てきた。スープ、野菜炒め、豚肉、相変わらずどれも美味しい。腹が減っていたからだけではないだろう。ご馳走様。

食事が終われば、夕方の散歩へ。既にあたりが暗くなりはじめたので、近所だけちょこちょこ歩く。このビラの裏手にも茶畑があるので案内しようとしたが、畑がよく見えずに断念。正面のお茶屋もすでに閉店。ここで普通の大葉種緑茶を買おうかと思ったのだが、明日にしよう。

ビラに戻って、お茶を飲む。古株のお姐さんが相手をしてくれ、お茶を何種類か飲んだ。彼女も楊さん同様、ミャンマー出身の華人。普通話で会話できる。Gさんは普段飲みの茶葉が気にいったという。ここの烏龍茶、頑張っているのだが、その時々で出来に差が少しある。それは茶師である張さんも認めていたこと。茶作りを何年やっていても簡単ではない、ということだ。それでも以前に比べれば品質はかなり向上していると思う。因みに張さんは旧正月休みということで福建省安渓に里帰りしており、残念ながら今回は会えなかった。

明日は大晦日。お客は少ないが、家族の行事は多いらしい。オーナー夫妻はご主人のお母さんの住むメーサイへ行き、ここまで連れてくるらしい。そういえば前回一緒に行動したここの娘がいないと思ったら、何と結婚してメーサイに住んでいるという。オーナー夫妻は孫の顔を楽しみにしている。彼女にホテルを継がせる話はどうなったんだ?色々と変化があるものだ。我々は放置される予定となる。それもまたいいか。休息しよう。

部屋でもネットが時々つながるようになっている。これもまたちょっとした進歩。標高1200mのメーサローン、平地に比べるとかなり涼しい。夜は熱いシャワーをさっと浴びて、ぐっすりと眠りに着く。夜は本当に静かだ。

2月18日(水) 茶畑と餅つき

翌朝いつものようにカオトームの朝食を頂く。ニンニクが効いていて元気が出る。天気は曇り。外で食べるのには少し涼しいので、中で。さて今日はどうしようかと思っているとオーナーの李さんがやって来たので、茶の状況を聞く。忙しい中、時間を作ってくれた心遣いが嬉しい。何といつの間にか台湾向け輸出はほぼゼロになっている。そしてヨーロッパ向けが伸び、中国大陸向けも少しずつ増えている。これは李さんたちが懸命に大陸の茶博覧会に行き、市場に売り込んだ成果だ。とても評価できる内容。

更にはタイ国内向けが約半数を占めるようになったというのも驚き。一昨日のセミナーでもタイ人のお茶に関する認知度が上がり、お茶への関心が急激に高まっていることを感じていたが、ここまで来ているとは。李さんの会社はタイでも大手の茶業者だから、その傾向が顕著に出ているのだろうか。息子をバンコックに常駐させ、お茶の販売に尽力している効果も出てきている。ペットボトル全盛の茶業界で、茶葉を売り捌くことは容易ではないと思うが、是非頑張ってほしい。

Gさんがお茶に興味を持っていると話すと、『それなら茶畑に是非。ちょうど作業員が車で行くので、乗せて行ってもらえ』と言ってくれたので、便乗して茶畑へ。前回は楊さんと娘と3人で行ったが、そこは風光明媚な写真スポット。今回は実際に草刈りをする場所だというから面白い。ピックアップの前座席に私とGさん、後ろに作業員が乗り込む。

途中まで広い道路を行き、そこから細い道を下る。そしてまた登ると一面に茶畑が現れた。そして作業小屋にある場所で車が停まり、数人が作業に出ていった。しばし茶畑の写真を撮りながら和む。本当にくつろげるのは、このような場所に来て、何のプレッシャーもなく茶畑を眺めている時だと感じる。まだ新芽が出るには早く、来月から茶作りが再開されるという。今は草刈りなど茶畑管理に精を出す。

運転手は中国語が少しできたので、茶工場へ行ってくれるように頼む。途中で小さな村を通った。アカ族の村らしい。何となく見ていると、餅つきをしているではないか。思わず車から降りて、駆け寄る。女性たちが搗き立ての餅を丸めている。本当の正月の餅づくりがそこにあった。おばあちゃんが持ちを差出し、『うまいぞ、食え!』と言っているように思えた。搗き立ての餅はほんのり甘く、柔らかくて美味かった。

周囲で子供たちが楽しそうに遊んでいた。正月気分、この山の中の村にも正月がやって来るのだ。雰囲気的には凧揚げやコマ遊びでもしそうなほど、日本に似ていた。皆で餅を作り、ご馳走を作って祝うのだろうか。これは日本の原風景ではないのか?過去ミャンマーのシャン州でも日本の原風景、食習慣の類似点を多く見てきたが、やはりこの辺りもシャン州と同様の習慣、少数民族は似たような習慣を持っているのだ。私はミャンマーでよく『ビルマ人の生まれ変わり』と言われたが、ここの茶畑を見て和むのは、単にきれいな茶畑だからではなく、私の原風景だからかもしれない。真の理由は分からないが、少し涙が出た。

タイ北部お茶散歩2015(7)ソンテウでメーサローンへ

郊外のレストラン

Pさんのお父さんとセミナー参加者のタイ人男性に車で夕食に連れて行ってもらった。Pさんはお母さんと一緒にIさんをホテルまで送り届けてから来るという。Iさんは別件で当地のロングステーヤーさんとカラオケ大会とか?この地には10年ほど前に退職後の日本人が大挙して押し寄せたが、その後経済難民などとも呼ばれ、地元でも歓迎されない一団がいた。今はどうなのだろうか。

お父さんもタイ人男性も英語ができるので、会話に問題がなく、コーラを飲みながら楽しく過ごした。お茶についての疑問がまだ出てきて、更に話を続けた。日本に関心がある外国人は『抹茶』を思い出すのだが、日本に行っても日本人が抹茶を飲んでいる光景を茶道の場以外では見たことがない、とはたまに言われることだ。

そして普段日本人が飲んでいるお茶を飲んでみたいと言われると、どこへ連れて行っていいか戸惑ってしまうのだ。東京には日本茶カフェが数軒あるが、一々そこまで行かないと飲めないのでは、普段飲みとは言えない。これは私がベトナムやラオス、ミャンマーなどで体験したことと重なる。『普通の地元の人が飲むお茶が飲みたい』と希望すると大抵困った顔をされる。そして連れて行かれるのは、外国人が行くようなカフェ。紅茶を注文しろ、となる。出てくるのはリプトンのティバッグ。これではないというと最後はコーヒー屋に行き、コンデンスミルク入りのコーヒーを注文し、『お茶はそこの魔法瓶に入っているよ。無料だ』と言われてしまう。日本茶も無料、というイメージが強いが、東南アジアでも同様だった。日本の無料のお茶は寿司屋かそば屋で味わえる、と説明したが、それでいいのだろうか?

郊外にある大きな、そして煌びやかなレストランはほぼ満員で驚いた。池が配された店内はかなり広いエリアがあり、家族連れなどが楽しそうに食事をしていた。『今日は旧正月前だから混んでいるが、普段は空いている』との説明を受けて納得。お値段も結構高いこのレストランが満員であれば、チェンマイ経済も安泰だろうと、思ってしまう。

帰りはタイ人男性が送ってくれた。彼が一番熱心にセミナーを聞いていたように思う。英語も流暢であり、お金持ちの息子かと思ったが、聞いてみると、貧しい家の出だという。子供の頃寺に入り、そこで一生懸命勉強して、ついには海外留学もした。そしていくつかのビジネスを経て、今はゲストハウスを経営しているとか。但しチェンマイのゲストハウスは過剰であり、儲けが出ないので、商売替えを考えているようだ。これのような勤勉な青年が成功するように祈るほかない。

2月17日(火) バスチケットがない

翌朝も早く起きて、朝食を食べる。7時45分にGさんがソンテウをゲットして、迎えに来てくれることになっており、チェックアウトして道沿いで待つ。何とか合流でき、さてバスターミナルへ向かう。今日はチェンライ経由で懐かしのメーサローンへ向かうことになっていた。Gさんを案内するという名目で、自分が行きたいという願望を実現する。

ところが8時過ぎに着いたターミナル、チケット売り場へ行くと何人もが並んでおり、整理券を取らされる。いやな予感がしたが、順番が来て行ってみると、何と10時半のバスしか空いていないという。折角早起きしたのに、これか、まあ仕方ないとベンチに座って待つことにした。こんな時は一人より二人が断然いい。話もできるし、トイレに行くのに荷物の番も頼める。2時間半は何となく過ぎて、バスに乗った。

このバスも満員で席は一番後ろだった。冷房が効いており寒い。水とパンが配られる。この路線は過去2回乗っているので慣れており、出発するとすぐに寝落ちる。途中1回休憩があるが、何も食べずに過ごす。3時間半ほどでチェンライのバスターミナルに着く。そこですぐに『メーサローン』と叫ぶと、ソンテウのおじさんが近づいてきて1200バーツでどうだという。確かに現在午後2時、メチャンまで行ってもメーサローン行きのソンテウがあるとは限らない。しかしそれにしても高い。やはりここは正攻法で行こう。

メチャン行のバス、最初は空いていたが、出発する頃には大入り満員の大盛況。我々の大きな荷物は邪魔になる。人の乗り降りの度に申し訳ない気持ちになる。このバスは国境のメーサイ行き。30分ほどでメチャンの街を通過したが、残念ながらメーサローン行きのソンテウの姿はなく、車掌が『ここでは降りるな』というので指示に従う。そのまままたメーサイへ向かう街道へ出た。少し行くと急に『降りろ!』と言われ、道端に放置される。

山へ向かう道がそこにあった。そしてソンテウが1台停まっている。フランス人の男性が1人いた。初めは状況が掴めなかったが、どうやらこのソンテウに乗る以外ないらしい。横に座っていた軍服姿の若者が当然走り出す。何とソンテウが1台走り去った。彼はそれに飛び乗り行ってしまう。追い付いても既に席は埋まっていた。これで完全に腹が決まり、料金を聞くと500バーツだという。3人で割ればたいしたことはない。フランス人も望んでいたので、出発した。

ソンテウで登るのは2回目。ただ今回はチャーターなので速い。フランス人はアジアを旅しており、恋人と別行動でここへ来たらしい。タイの秘境、ということで目を付けたとか。写真を撮りまくっていた。途中で待ち合わせをすることもなく、客を拾うこともないので、何と小1時間でメーサローンへ着いてしまった。正直、まさかと思い、懐かしのメーサローンビラを見落としてしまったが、運ちゃんはちゃんと入口までつけてくれた。

タイ北部お茶散歩2015(6)チェンマイ タイ人とお茶を語る

2月16日(月) 帽子屋Sさんと

翌朝は早く目覚めた。バルコニーから見える朝日を拝んだ。チェンマイ市内はリスロッジに比べれば空気は良くないし、ビューもよくないが、それでもこの景色は悪くない。旅は始まったばかりだが、ここは休息しよう。一番良い部屋は朝食も付いていたので、1階に行き、ネットを繋ぎながら、食べる。前回同様結構ボリュームがある。コーヒーで迎える朝、珍しいが新鮮。

そこへ日本人オーナーがやってきた。実は昨日パスポートを渡した切り、返してもらっていないことが今朝発覚した。こちらがきちんと確認しないのが悪いのだが、先方は平謝りだった。彼女の本業は服装関係らしい。副業でゲストハウスを開いており、いつもはここにはいないようだ。昨日は日曜日でたまたま居た、ということか。チェンマイからラオス国境への行き方を相談したが、なかなかいいのがない。取り敢えずチェンライまで、と思ったが、それならバスターミナルに行ってチケットを買うのが良いというので、明日の朝、ターミナルへ直行することにした。既にラオスへの旅は日程の関係で無理となり、Gさんと一緒にメーサローンへ行く方向に傾いていた。

それでも国境のチェンコーンまでは行きたいと思っていた。ちょうどIさんとそのお知り合いYさんから、『昨年チェンコーンに移り住んだ日本人男性』を紹介されていたので、教えてもらった電話番号に電話してみた。すると『今チェンマイに向かって移動中だからチェンマイで会おう』と言われる。私の目的はチェンコーンだったが、これもまたご縁。午後チェンマイで会うことにした。

そして昼に前回も会った帽子屋のSさんと再会した。場所はワローロット市場近くの多国籍料理屋。何ともいい感じの店内、1階は土産物屋、2階はレストラン。チャイを頼み、そしてカレー炒めを頼む。Sさんと彼女、そしてGさんも加わり、話に花が咲く。皆それぞれに面白い人生を歩んできたようだ。

その後Sさんの帽子を置いている店に移動した。お洒落な帽子が並んでおり、普段帽子には無縁の私もビックリ。帽子って、こんなに格好いいんだ、と思わせる作りで感激した。ちょうど台湾人が買い物に来ていたが、深圳、大連に滞在経験のあるSさんは中国語で対応している。ここチェンマイは中国人、台湾人、香港人など中国語圏の人々が沢山来るので、彼の中国語は一つの大きな武器になりそうだ。Gさんに似合う帽子を一瞬で被せて記念撮影。さすがSさん、今後に期待が持てる。

突然Eさんとドライブ

先ほど電話したEさんより『既に待ち合わせ場所にいる』と電話があり、Sさんと別れ、ターペー門へ急ぐ。Eさんは車で来ており、車内には買い物した商品が沢山積まれていた。納豆や刺身などの日本食材などを、時々チェンマイのショッピングセンターに買い出しに来るそうだ。その辺でお茶でもと思ったが、駐車スペースがない。仕方なく、Pさんに電話して、今日のセミナー会場を確認して、付近に移動した。EさんはPさんやIさんと知り合いなのでちょうど良い。

ところが、チェンマイに慣れていないEさん、道に迷ってしまう。チェンマイのかなり郊外まで予期せぬドライブとなった。私個人としては、このドライブは楽しいものであったが、運転していたEさんはかなり焦ったことであろう。そして1時間余りに渡るドライブの中でEさんが昨年までバンコックに長年住んでいたこと、不動産関係の仕事をしていたこと、共通の知り合いもいること、昨年リタイアしてタイ人の奥さんの実家に引っ越したことなどを知る。そして今は悠悠自適、素晴らしい人生だな。

Pさんは指定したホテルで待っていた。お茶を飲む時間は無くなり、すぐにセミナー会場に移動することになった。折角なのでEさん夫妻もお誘いし、セミナーに参加して頂くことになった。ご縁とは不思議なものだが、それが真実であり、そのご縁がまた別のご縁を生んでいくことになる。

カルチャーネットワークセンター(CNC)で

CNCはすでに事業から引退したPさんのご両親が始めたボランティア組織。以前からタイ各地で様々な支援をしているが、ここチェンマイに半分拠点を移したご両親が、自宅の1階を開放して作ったコミュニティスペース、それがカルチャーネットワークセンター(CNC)。今回バンコックお茶会のIさんが参加しているこのプロジェクトの最初のイベントとして、『お茶について』と題してお話をすることになったのも茶縁としか言いようがない。

話は『お茶ってなあに』という基本的な事柄と『日本とタイのお茶の違い』、そして直前に行ったメーテンの茶畑を含む『タイの茶畑』の茶旅についてだった。参加者は話に出たお茶を飲みながら、興味深く聞いてくれた。正直『タイ人とお茶』、ピンと来ない。タイ人がお茶を飲み始めたのは最近のこと、お茶についての知識のある人は少ない。実は昔からお茶を飲んでいる日本でもお茶については知っているつもりで知らないことばかりだが。

そしてタイに茶畑があること、それが中国の雲南省やミャンマーの東北部の少数民族と関係すること、メーサローンは中国系の人々が歴史的な理由から茶を作っていることなどを話すと、タイ人も知らないことばかりのようで興味津々。そしてタイ人が普段飲む、あの甘いタイ茶、何故赤み掛かっているのだろうか。タイの人々が自国の茶に目覚めた。次回皆でタイ茶の工場見学に行き、その真相を突き止めようという話まで出てきた。大変新鮮な質問、議論が出来て、とても有意義だった。

このCNC、チェンマイでの日タイの交流の場と位置付けてスタートしたが、従来の『友好』という枠ではなく、両国の文化を両国人が理解し合うこと、それが重要だと思う。日本からタイを支援するのではなく、日本とタイの類似点、相違点をきちんと確認し、経済中心ではない、真の交流を目指して欲しい、と願っている。

タイ北部お茶散歩2015(5)リスロッジのゆるいランチとチェンマイソーセージ

ゆるいランチ

宿に戻ると、ランチが用意されていた。テーブルの上にカオソイが載る。美味しそう、運動の後はこれぐらいの軽食が良い、と喜んで食べていると、スタッフがゆるゆるとやって来る。何とカオソイは前菜?で、肉料理やパッタイなど、豪華なメニューが並ぶ。どうやらこのロッジ、メインはランチではないかと思うほどの分量が出てきた。

皆で夢中で食べてしまい、殆どを平らげる。食べ終わると、ドーッと寝転がる。何とも緩い雰囲気の中、腹一杯になり、睡魔が襲う。我々は何時にチェックアウトしなければならないのだろうか。スタッフはだれ一人、我々を急かさない。究極の午睡が始まった。こんなに心地よい感覚は実に久しぶり。ここに1泊しかしないのはどう考えても間違いであり、その理由はこの午睡にあることは間違いがない。

2時頃、初めて『車が来ていますよ』と言われ、我に帰る。昨晩のビールやワイン代などの伝票が来たので支払う。そしてチェックアウト。昨日支払っていなかった宿代を払おうとすると、スタッフが慌て始める。本来は事前に支払いをしなければならない所、こちらの都合で現地での現金払いをお願いしていたが、その連絡が上手く行っていなかったらしい。さてどうするのかな、と見ていると、横からIMさんが『そんなタラタラしていたらいつになっても進まない、私がやるから』と言って、スタッフを叱咤激励して、支払いにこぎ着ける。さすがビジネスウーマンはタイ人の動かし方を心得ている。

ようやく精算が終了し、バンに乗り込む。そして昨日来た道を戻っていく。何だかとても寂しい。もっと長く居たかったリスロッジ。夢のような時間は瞬く間に過ぎていった。1時間ちょっとでチェンマイ市内に舞い戻る。これからメンバーはワローロット市場を見学してから空港へ行く。Gさんは別の宿を取っているので一端別れる。私は前回泊まった宿を予約しており、皆でそこへ行き、荷物を部屋に置いて出掛ける。チェンマイは一方通行も多く、宿に着くのにちょっと苦労した。

この宿、基本はゲストハウスだが個室。そして今回はなぜかほぼ満室で空いていたのは一番良い部屋のみ。仕方なく普通の部屋の2倍以上払ってここにチェックインしたが、何と部屋は広く、更に広いバルコニー?があり、ベッドもフカフカ。普通の部屋は明るくないが、ここは大きな窓から空が広がる。たまにはそのGHの一番良い部屋に泊まってみるのも悪くない、と今回の体験で思っている。

3.チェンマイ2 リス族市場

宿から歩いて10分ほどでワローロット市場がある。今回メンバーの目的はリス族の市場。私は前回もワローロット市場には行ったが、リス族の市場には気が付かなかった。確か少数民族の服を売る店は見掛けた気がするのだが。地図に沿って歩いたものの、リス族市場は見付からない。前回は見付からなかった関帝廟が出てきて、ここだったのかと思ったが、他のメンバーはフライトまで時間がないので、今回は参拝を見送る。

そして元来た道を戻り、服を売る店を探して、そこの路地を入っていく。奥に静かな、小さな市場があった。午後の日差しを浴びているが、お客は殆どいない。これでは見過ごしてしまう訳だ。土産物になるバッグや布が沢山売られていたが、もう一工夫しないと、売れないような気がする。いや、ここは卸しで、バンコック辺りから買い付けの人が来るとも聞くので、小売りには力を入れていないのかもしれない。むしろ市場の脇あたりで小売りしている個人の方が買い安い物を置いているようだ。

その後チェンマイ名産のセラドン焼の店を軽く見て、時間となる。宿に戻り、荷物を持ち出し、ソンテウを捕まえて3人は空港に去って行った。1泊2日、短い旅だったが、何とも言えない楽しさがあった。メンバーにも恵まれたし、そして茶園にも恵まれた。私にとって初めての宿泊を伴う茶園ツアーだったが、個人的に満足していた。参加者はどうだっただろうか。後日の反省会を見ても、結果は悪くなかったと思われる。

チェンマイソーセージ

そして夕方まで休む。部屋は快適で、申し分ない。今晩はお茶会メンバーの一人、Iさんがバンコックから来ており、一緒に夕食を取ることになっている。Gさんも合流した。GさんとIさんは数日前のバンコック茶会で顔を合わせている。お茶の縁は繋がっていく。明日はIさんのお声掛けで、タイ人Pさん一家が創設したカルチャーネットワークセンターというところでセミナーを予定していた。その打ち合わせも兼ねていた。

Pさんが車で迎えに来てくれた。そして夜のチェンマイの街を走る。この街は本当に観光地、市街地には高い建物はないし、ショッピングモールも見られない。というか、普通に考えれば相当の田舎都市だ。日本人はバンコックを東京、チェンマイを大阪などとつい考えてしまうが、アジア諸国は一極集中、第二の都市はないところが多い。タイも例外ではない。ただそれがチェンマイの良いところ。この緩さが人々を引きつけている。

着いたレストランは宿とは城内を挟んで反対側だった。この付近にはお洒落な建物が増えてきている。タイレストラン、家族連れで満員だった。チェンマイソーセージが美味いというので食べてみたが、なるほどジューシーでピリ辛。これはビールのつまみに最高だろう。パッタイなども食べて、大満足。Pさんに感謝。

車で宿近くまで送ってもらう。宿のソイに入る所に以前からインド人のおばさんがやっているローティー屋台がある。前回も気になっていたが結局食べなかったところ、知り合いから『うまいから食べろ』とのメッセージがあり、腹一杯にも拘らず、つい買ってしまった。バナナローティー、かなり甘い。買い物に行ったGさんに買い食いを見付かる。悪いことはできない。パンパンの腹を抱えて寝る。

タイ北部お茶散歩2015(4)メーテン アラクサ茶園へ

茶畑へ

それからゆっくりと休息した。私は試しに一か所だけあるWiFiが繋がる場所でネットを繋いでみた。問題なく繋がるが、こんないい環境でネットしていても仕方がないので、すぐに閉じて部屋に戻る。そしてついにメインイベントである茶畑ツアーに出掛けることになる。何と全員が自転車に乗る。久しぶりの自転車、それもマウンテンバイク、ちょっとワクワクした。宿泊していた欧米人も多数参加。大勢の自転車が村を疾走していく。舗装された、のどかな山道だが、欧米人は慣れているのか、走るスピードが速い。我々は遅れ気味で付いていくのがやっと。途中の景色を見る余裕もなく、ただペダルを漕いでいく。いくつか自然の中のロッジがあった。こんなところに泊まるのもよさそうだ。

ようやく皆に追い付くと、今度は自転車を下り、ピックアップに乗せられ、運ばれて行く。そしてついにアラクサと書かれた茶園の敷地に入った。山を背景にした景色の良い茶園だった。責任者の男性が英語で説明を始めた。ここは元々アカ族の茶園であり、最近リスロッジが茶園を買収し、本格的な茶生産が始まったらしい。ここでは茶の種を植えて茶樹を育てる。我々も1つずつ種を植えてみた。果たして育つのだろうか。

早々に籠を渡され、茶園に出て、茶摘み体験に入る。茶葉は大きめのアッサム種。以前からミャンマー東北部、タイ北部、ラオスには大葉種で作られた茶があったので、その流れであろうか。樹齢20₋30年の茶樹には新芽が噴出しており、如何にも『摘んでください』と言っているようだ。昨年福建の安渓で茶摘みを経験したが、あの時はお客様扱いで、摘んだ茶葉は別によけられており、戦力外を痛感した。今回も腰が引けており、あまり良い摘み方は出来ていない。他のメンバーは実に楽しそうに茶摘みをしていた。こんな体験、出来るようで出来ないな。

茶摘みが終わると、摘んだ茶葉を籠から出して、大きなざるに入れ、重さを計る。そして適量を大きな鍋に放り込み、炒めだした。まるで野菜炒めを作るように、両手にしゃもじを持って地元の女性が作り始めた。かなり豪快な作業だ。天日に干すような工程は見られない。炒め終わると、ざるに戻し、手で揉み始める。かなりの強さだ。そしてまた炒め、そして揉む。何度もこの作業が繰り返されるようだ。

出来上がった茶葉は相当小さくカリカリになっており、ほうじ茶のような強い香りがする。日本茶は蒸してから焙じるが、こちらでは釜で炒って、そして焙じる。まあ緑茶というより、焙じ茶と言ったほうがよさそうだ。実に香ばしい香りがあたりに漂っている。その香りから遠ざけられ、我々は建物の中に誘導された。テーブルがあり、お茶が飲めるようになっている。

雷おこしのようなお菓子も美味い。お茶はホットとアイス、両方を飲んだが、実に香ばしく飲みやすい。これなら日本人でもイケるかな、と思うほど。実際に日本人で買い付けに来た人もいるようだが、現在は産量が少なく、タイ国内の高級ショッピングモールでの販売を念頭に生産しているらしい。近々バンコックのモールでアラクサ茶にお目にかかるかもしれない。

いつの間にか一緒に来た欧米人は皆いなくなっていた。彼らは1日で2₋3のツアーに参加するようで、次の活動に行ってしまったようだ。我々は茶園ツアーが主目的。ゆったりとお茶を飲み続けた。よくあるケースは日本人や中国人の団体がせかせか次の場所に移動して、欧米人が気にいった場所から動かないのだが、今回は反対であり、ちょっといい気分になってしまう。気にいった場所、ずっと居たい場所にいられる幸せ、大切だと思う。そもそもの旅のあり方を考えさせられる。

今回のメンバーも3人はバンコックで働いている人々。日頃忙しくしている面々にはリスロッジの滞在及び茶園ツアーでかなり癒されたのではないだろうか。見ていると皆、ボーっと遠くを眺め、動かない。頭を休める、なかなか出来ないことだ。私などは日頃から休んでいる感じなので、それほどの効力があるとは思われないが、忙しい、時間に追われているのであれば、このようなツアーには絶大な効果があるといえそうだ。現に皆のリラックス度合いが半端ないのを見れば分かる。

帰りは欧米人もいなので自分のペースで自転車を漕ぎ、ロッジに戻った。学生時代自転車部だったというIYさんの生き生きとした姿が印象的だった。対照的に私のタラタラした動き、筋肉痛も予想され、あまり早く漕ぐと痙攣の恐れもあるなど、かなり情けない状況であった。たまには運動しないと、このような時に恥をかく。

タイ北部お茶散歩2015(3)メーテン 凍える夜と日本の歌

寒い夜は

2時間弱、散歩するように村を歩いた。程よい疲れがあり、暑いシャワーを浴びて寛ぐ。皆は夕陽を見ながらビールを飲み始めた。同時にGさんにより、ラオスのお茶が淹れられる。この辺がお茶ツアーらしいところだ。何とも緩いこの世界、爽やかな風が吹く中、ずっと寝転がっていたい愛すべきこの空間を堪能した。

この村のサンセットは方向の関係で見えなかった。明日の朝の日の出を待とう。徐々に辺りが暗くなり、ランプが点る。雰囲気が幽玄になってくる。同時に夕食が運ばれる。このロッジは1泊3食付。まさに山間部のリゾート型。内容は春巻き、スープ、野菜炒めなどシンプルだが、地元の新鮮な野菜を使うなど、味は良かった。ボリュームは満点。ビールやワインとご飯がかなり進み、満腹になる。

そこへ民族衣装を着た一団がやってきた。小さな子供や少女たちだ。きっと村の人々なのだろう。音楽が鳴り、踊りが始まった。何とも素朴な踊りだった。皆が輪になって踊る。それだけだ。決してプロの上手い踊りではない。決してきちんと揃っているわけでもない。それでもなぜか微笑ましさを感じる。茶園ツアーメンバーも踊りの輪に加わり、一緒に写真に納まる。これは村の雇用対策なのだろうか。恐らくは村を維持していくためのプログラムではないかと思うが、特に説明はなかった。

それからゆっくりとワインでも飲みながら、夜な夜な話でもしようかと思っていたが、どんどんと気温が下がってきた。たぶん10度ちょっとしかなかったのではないか。夜9時前には全員が持っている服を全て来て、更には支給された毛布を被っていたが、それも限界ということでお開きとなり、各自ベッドに入る。

さすがに部屋の中はそれほど寒くはなかったが、タイでこれほど寒い思いをしたのは初めてかもしれない。ベッドには蚊帳がつられていたが、この寒さでは蚊も活動できないだろう。朝早く起きて飛行機に乗った疲れもあり、久しぶりにぐっすりと深い眠りに落ちた。因みに部屋は2人一部屋でツインもあったが、ダブルが多かった。私は男一人なので、広いダブルベッドに寝た。

2月15日(日) 朝日

前夜早く寝たので、当然のように早く起きる。まだ薄暗い。うっすらと山の稜線が見える。メンバーも早起き(寒さで眠れなかった人も?)しており、皆毛布を被って日の出を待っている。その情景が実に、実に自然な、そして穏やかな日を思わせる。犬たちが転げまわって遊び始める。日の出は近い。

建物の向こうには日の出を見るための物見櫓?が建っている。昔は狼煙で合図し合った、名残だろうか。そこから空け行く朝の景色を眺める。日が出る頃には皆疲れて思い思いのポーズで休む。寝っ転がれるソファが心地よい。日が出る時は、グワーッと起き上がる感覚がある。

早くから起きたので腹が減る。とそこへちゃんと朝食準備のスタッフが来て、朝食が出てきた。目玉焼きにベーコンなど、洋風朝食をオーダーしていた。美味しく頂く。早起きてし、心をリラックスさせて、朝ご飯を食べる、なんて健康的な生活なのだろう。ここまで一度もPCを開かず、ネットにも触れていない。こんな生活が理想的なのだろう、とつくづく思う。

リビングでダラダラしているとガイドのチャーリーがやってきた。昨晩食事の時に歌を歌うと約束した彼、結局姿を見せなかったが、その約束を果たしに来たという。日本の歌を歌うというので、皆の予想では『タイ人に人気のある昴ではないか』ということだったが。ところが日本語のできないチャーリーは突然『ちょっと待ってください』と言いながら、歌い始めた。何と歌詞は日本語?何かの替え歌だろうか、聞いたことはないが、何とも味のある歌だった。

あとで調べてみるとこの歌はれっきとした日本の歌で、あの全員ハーフのグループ、ゴールデンハーフが1970年代前半にヒットさせたものであった。『チョットマッテクダサイ』というカタカナ表記が正しいらしい。まさかこのタイの山奥で、このような歌が飛び出すとは意外だった。チャーリーが如何にして、この歌をマスターしたのかは謎のままだったが、彼が相当に歌い慣れていることが、彼のこれまでの人生を大いに想像させる材料となった。

茶畑へ

それからゆっくりと休息し、ついにメインイベントである茶畑ツアーに出掛けることになる。何と全員が自転車に乗る。久しぶりの自転車、それもマウンテンバイク、ちょっとワクワクした。宿泊していた欧米人も多数参加。大勢の自転車が村を走っていく。舗装された、のどかな山道だが、欧米人は慣れているのか、走るスピードが速い。我々は遅れ気味で付いていくのがやっと。途中の景色を見る余裕もなく、ただペダルを漕いでいく。