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《タイお茶散歩 2006》メーサローン(2)

2006年7月18-19日

(3)ホテルのレストランで

ホテルの下には茶の製茶場があった。茶の香りがフワーとしてくる。ここ数日お茶を飲む機会がなかったので、懐かしい。数人が茶を袋に詰めたり、箱を積み出したりしている。この雨季でも茶を作っているのだ。

上に戻りレストランで昼飯を注文する。空心菜炒めにトンソクとマントウ。これがなかなかいける。中華料理とも違う。普通のタイ料理とも違う。トンソクなどは沖縄料理のようだ。どうしてこんなに美味いのか??お茶を茶海で出してくれる。これは烏龍茶である。どうして??食後に従業員の女性に頼んでお茶を飲ませてもらう。観光客用にレストランの奥にお茶を飲ませるコーナーがある。茶も数種類ある。女性は普通の中国茶の入れ方でテキパキ入れている。台湾などと何ら変わりない。

さっきの女主人がやってきた。何と最初は英語だったのが、いつの間にか北京語で会話していた。どうした変化だろうか??恐らくは茶畑に行ったミャンマー人が話しをしたのだろう。きっと少しは茶の分かるヤツと認めてくれたのだろうか。

驚いたことにこの女主人はミャンマーのラショー生まれだった。それで従業員にミャンマー人がいたわけだ。彼女によれば『ミャンマー人は給料が安くてよく働く』そうだ。英語はミャンマーの義務教育で覚えたそうだから、ミャンマーの教育も捨てたものではない。

レストランの壁には写真がズラリ。全て国民党関連である。蒋介石が写っている写真もある。このホテルの建物の上にはタイのプミポン国王夫妻の写真が掛けられているが、その真ん中に、女性でしかも軍服を着た人が掛けられている。一体誰なのだろうか??

女主人に思い切ってここメーサローンについて聞いてみる。すると彼女は自分の事を話し始めた。彼女の親は雲南省出身で国民党軍に属して雲南で日中戦争の終戦を迎える。国共内戦に敗れてビルマへ逃れ、そこで彼女が生まれた。学校を卒業後ビルマには仕事がなく、当時は普通のこととして台湾に渡る予定であった。

彼女の親と後の亭主の親が知り合いで、彼女はメーサローン経由で台湾に行くことに。そして亭主と知り合い結婚。台湾に行くことなく、20年が過ぎた。尚妹達は台湾に渡り、今も台湾に住んでいるという。台湾にミャンマー村が3つあると聞いているが、私はまだ行ったことがない。しかし期せずしてミャンマー村の存在を確認したことになる。

尚ラショーには両親の墓があり毎年帰ること、先祖の墓は雲南省大理にあり、昨年一家全員で墓参りに行ったとのこと。この村にはやはり凄い歴史があるはずだ。我々が知る世界史ではなく、生の歴史がここにある。こんな経験は久しぶりだ。しかし本当の歴史を今回知ることは難しいのであろう。一見の客にそんなに簡単に話せるほど生易しい話では無さそうである。

レストランの端のテーブルで静かに茶葉から枝を取り除ける地道な作業をしている女主人と従業員の姿はこの村の厳しい歴史を物語っているように見える。メインの茶園はここから5kmほど離れている。12-2月頃がベストシーズンで冬茶が一番良い。1月頃にこの辺りでは桜が咲くが、あまり観光客が来なくて残念に思っているとか。日本人のお客さんに来て欲しいようだが、バンコック辺りの日本人は知っているのだろうか??

茶園はご主人のお兄さんが担当している。ご主人はホテルと茶の販売が担当。奥さんも入れて3人で経営している。当地の若者は皆バンコックなどの都会に行ってしまうため、アカ、リスなどの少数民族か、ミャンマーからの出稼ぎ者を雇用することになる。

ここのお茶はやはり台湾の技術。焙煎が強めで、濃茶。バンコックの潮州人が好むそうだ。やはりここのお茶がバンコックのヤワラーロードに行っているのだ。日本人の80歳になるお爺さんが毎年ここにやって来て、10kgほどのお茶を買って帰るという。

尚彼女には17歳と13歳の子供がいるが、山の中での教育には限界があるので、メーサイ近くの祖母の家に住んで学校に通っているという。週末のみ家に戻る生活は台湾阿里山のお茶農家と同じだ。

(4)部屋

レストランから階段を登って、部屋へ。もう1階上にも宴会場がある。かなり大きなホテルである。その脇にはお茶が飲めるスペースを作ったようだが、今は使われていない。勿体無い。外には更に東屋も作られており、お茶を飲むには十分な設備がある。しかし何故使われていないのか??

建物の外に出ると斜面に庭がきれいに作られている。その庭には木々が植えられ、花々が咲いている。ちょっと驚くぐらい念入りに手入れされている。誰がこんな庭を考えたのだろうか??そしてこの庭の上にコテージ風の部屋がある。私の部屋はかなり上の方にあり、見晴らしが良い。部屋の前には籐の椅子が置かれている。標高1200m、また天気が悪いこともあり、かなり涼しい。気持ちよく椅子に座り、下を眺める。茶畑が見える。

部屋にはツインベットがある。テレビもあるが、タイ語チャンネルの他、北京語チャンネルも見ることができる。流石ここは国民党の村である。部屋の奥にはシャワーがある。しかしこの涼しさでシャワーのみでは辛い。そしてこの部屋の最大の特徴は何と言っても正面の扉がガラスになっており、また横の窓もかなりオープンになっていること。ということはカーテンを引かなければ外から丸見えになる。また正面扉の鍵が錠前であることもちょっと驚く。日本の女性には馴染めない可能性もある。

今日は朝早く起きて疲れていた。カーテンも引かずにベッドに横になる。どうやら他に客はいないようだ。30分ぐらい気持ちよく寝る。

《タイお茶散歩 2006》メーサローン(1)

2006年7月18-19日

7月18日(火) 1.メーサローンへ (1)ソンテウ

ミャンマーの旅を終了して、国境を越えてメーサイに出て来た。やはり出て来たという表現が正しい。特に大きな問題はなかったものの、ミャンマーでは予想外のことが起こる。しかしこれから向かうメーサローンだって、タイとは言え、普通の場所ではない。 先ずはどうやって行くのか??チェンライの空港で聞いた時にはタクシーしかないということだったが??さっき国境でミャンマー側の旅行社に聞いた時にはメーサイ側に旅行社があるということだった。

しかしメーサイ側の何処を見回しても旅行社などは見付からない。ツーリストインフォメーションといった気の利いた場所もない。バス停もない。どうすればよいのか???すると前におじさんが立っていて、乗れという。見ればソンテウが一台待機していた。横の西洋人がひょいと乗り込む。

このおじさんが驚いたことに私に向かって『日本人か?』と日本語で聞く。そしてこのソンテウは郊外のバスターミナル行きだという。『メーサローンは?』と日本語で聞くと、道の方を指して、『日本語タクシーが来た』と訳の分からないことを言う。やはり日本語は片言だったのだ、と思った瞬間、ソンテウの運転手が降りてきて、『何処へ行きますか?』と流暢な日本語で聞いてくる。

このおじさん、聞けば『北千住に6年居ました。道路工事の作業員やってました。また日本に行きたいですね。』と実に礼儀正しい、そして丁寧な日本語を使う。私はこのおじさんが気に入ってしまった。ソンテウでメーサローンに向かう、というのも乙なものではないか? おじさんに交渉するとなかなかうんと言わない。結局800バーツでOKしてくれたので、喜んで出発、と思ったら50m行った所で停まる。いきなり女性に話し掛ける。奥さんだと言う。そして申し訳なさそうに『この車ではメーサローンに行けない。息子が送って行く』と言うではないか??

息子はトヨタの新車のバンを運転していた。おじさんとしてはこちらの方がよいと思ったのか、メーサローンは山道なので自分が行くのが嫌だったのか??仕方なく息子の車に乗り換える。おじさんと別れの挨拶をする。『ビザが取れたらまた日本に行くよ』と言いながらおじさんはドアを閉めた。残念だ、もっと色々と話を聞きたかったのに。何故日本に行きたいのか??

(2)検問

息子のバンは快走する。チェンライから来た道を戻って行く。道の脇に日本語学校がある。日本語が書かれている。さっきのおじさんもここで習ったのだろうか??いや、彼は日本に出稼ぎに行って、実地で覚えたのに違いない。 おじさんは日本で楽しいことがあったのだろうか??どうみても、辛い事が多かったのではないだろうか??道路工事や運送作業員などに時々外国人を見掛けるが、決して幸せそうではない。日本は楽しい所ではないはずだ。

リゾートホテルもある。一体誰がここに泊まるのだろうか??タチレイ側にはカジノホテルがあったが、こちらのホテルには何か特徴があるのだろうか??避暑地として使われるのだろうか?? そんなことを考えていると、快走していた車が停まる。何であろうか??検問である。ミャンマー側ではウンザリするほど通ったが、タイ側では初めてである。運転手が身分証明書、いや運転免許書を出している。私にもパスポートを出せと言う。 これまで色々な場面で検問を通ったが、大概は日本のパスポートを出せば、ことが済んでいたので、今回もそうだろうと思っていると、何と係官が車に乗り込むようにして、バックを開けろと言う。運転手は地元の人間であるが、私は余所者、といった対応である。更にバックを見ながらにこりともしない上役と思われる男が、私に近づき、いきなりボディチェックを始めたのには驚いた。何で??尻のポケットまでも探ってくる。これは本格的である。

5分ぐらいで解放されたが、アレは何だったのだろうか??運転手の息子とは言葉が通じないため、真相は分からない。勝手に想像すると、ミャンマー帰りの人間は何かを持っている可能性があるのではないか??もしやすると??私はこのとき初めて、ゴールデントライアングルにいることを実感した。 後で知ったことだが、この道は1953年に国民党軍がゴールデントライアングルから撤退する際、タチレイに集合してチェンライ空港から台湾に向かった道である。ゴールデントライアングルに踏み入り、発展させた李国輝はこの道を歩んで台湾に渡り、台北郊外で農民になったと言う。

メーサイから30分ぐらい走ったところで車は左に曲がり、山道に入る。舗装になっており、走行に問題はない。道端に3台のソンテウが停まっていた。見ると西洋人の団体が何かを見ている。何かは分からないが、西洋人はこういうことが好きだなあ、と感心する。ソンテウを借り切り、メーサローンに泊ったのでは??後で聞くとその通りであった。日本人はそんなことはしないなあ??

2.メーサローンの茶畑   (1)ホテル

道はどんどん険しくなる。道路が舗装される前は一体どんなだったのか??何時間も掛かったのではないか??30分ほど山道を行くと、突然茶畑が見えた。今回の旅のテーマ『タイに茶畑はあるのか??』の答がここにあった。

元々今回の旅行は偶然であった。タイに何度も行ったが、ミャンマー国境に行ったことが無かった私は、国境に詳しい旅行作家、下川裕治氏にアドバイスを頼んだ。高田馬場のシャン料理屋で周りを全てミャンマー人に囲まれながら話していると、突然下川氏が『タイ北部に茶畑があったな』と言う。 あまりに意外な言葉であったので、詳しく聞いている内に行こうと思い立ったのである。

タイ北部はミャンマーや雲南に近い。お茶の木があっても当然だ、ぐらいに考えていた。しかし車窓から見える茶畑は雲南の原木などではない。きれいに管理された現代の茶畑なのである。違った意味で深い興味を持った。

ところで私達は何処に向かっているのか?おじさんに『メーサローンの何処へ行くのか?』と聞かれていたので、『いいホテル』と答えておいたのだが。フラワーリゾートという立派なホテルを通り過ぎた。コテージ風のホテルが道より下に広がっていたのだが?? そしてついに10時半過ぎ、車は止まった。場所はメーサローンビラ。道より上がった場所、山の斜面に立てられた立派なホテルであった。

車で道から上に上がり、建物の正面に。中に入り、階段で2階に。2階にレストランがあり、そこがフロントになっている。 料金は1泊800バーツだと言う。念の為部屋を見せてもらう。運転手も着いて来る。きっと親父から言われているのだろう。親身になってくれる。ホテルの従業員は英語で話して来る。部屋は2つの部屋が1つの建物になっている、ビラタイプ。部屋の前に籐の椅子があり、メーサローンの山が一望できる。斜面の庭が非常にきれいに手入れされている。気に入ったので、泊ることにする。

(2)茶畑

レストランに戻り、女性に北京語で話し掛けてみる。何故か英語が返って来る。女主人と思われる女性に『茶畑に行きたい』というとちょっと怪訝な顔で、『今は雨季で茶畑には行けない』と言われてしまう。ここまで来てそれはないだろうと粘ってみると、それなら直ぐ近くに小さな畑があるので見せてあげると言われる。取り敢えず何でも見てやろう精神である。

付き添いとして従業員の女性が二人同行してくれた。彼女から北京語が通じない。顔にはタナカを塗っている。聞けば、英語が上手い女性は何とミャンマーのマンダレーから来ている。もう1人は昨日まで居たチャイントーンの出身であった。何故ここにミャンマー人が?

小雨が降る中を出発。今来た道を戻る。直ぐに高校がある。立派な校舎が見える。思いの他裕福な町なのであろうか??道路から下に下る。雨で道が濡れていて危ない。その上泥だらけである。更に細い道に入る。既に道は川のようになっている。 靴がどろどろになってきた。前の二人はミャンマーサンダルで、軽快に歩いて行く。10分ぐらいでようやく茶畑に到着。大きな木の下で数人が休んでいた。タイ人ではなく、少数民族のようだ。アカ族だろうか??北京語で『北京語できる人』と呼びかけると若者が1人手を上げて説明役を買って出る。

畑は小さかったが、雨に濡れた茶葉はきれいに輝いていた。段々畑。この谷底へ向かっている斜面は茶の生育には条件が整っている。年に数回摘むそうだが、意外と管理がしっかりしている。近くに小屋があり、摘んだ茶葉を処理する場所もある。 もう一つ茶畑を見せましょう、と若者は歩き出す。数分で別の畑を見るが、そんなに違ってはいない。話を聞いているとどうも台湾から茶木が入り、茶葉の管理技術が伝授されているらしい。

ちょうど昼時で彼らは飯を食べるところだったようだ。『昼飯食うか?』と誘ってくれた。こんな誘いが最も嬉しい。本当は是非とも彼らの食べている物を見てみたかったのだが、万が一私の為に皆の食事が減ってしまっては申し訳ないので、諦めて首を振る。

皆と別れて自分も昼飯にありつこうと考えていると、ミャンマー人二人は私の意に反して更に下に下って行く。こちらの方が近道とはとても思えない。何処へ行くんだ??道は舗装されており、泥が付くことはないが、スポーツシューズは既に水浸しである。 数分下ると驚くべきものが待っていた。

大きな金と銀の獅子の像が2つ、向かい合わせで入口を作っている。獅子の脇には子獅子が抱きついており、可愛らしい表情をしている。そしてその向こうには巨大な急須のモニュメントが。

作ったときにはこの急須の中に茶室があり、窓から風景を眺めながら、茶を飲むという趣向だったのだろうが、現在は鍵が掛っていて、入れない。仕方がないので外から下の風景を眺めてみる。小雨に煙る茶畑はなかなか美しい。

しかしその向こうにある、空中に浮く4つの急須から茶が注がれているモニュメントは一体なんだろう??流石におかしい。日本人の感覚では、こんな自然に恵まれた中で、この姿は考えられない。恐らくはここメーサローンがお茶を産業にしようとした際、補助金でも下りて、造られたものであろう。日本でも地方自治体によくある交付金の予算消化ではないのか??

腹が減ったので、ホテルに戻る。さっき車で来た道路まで上がる。結構な上りで相当体力を消耗する。道路脇に記念碑が見える。タイ語と併記で英語が書かれている。『タイ最北端の町メーサローンへようこそ』そうか、ここは最北端なのか??