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台湾南部ぶらり茶旅2015(14)鹿野 気持ち良い自転車散歩

おばさんたちはここが気にいってしまい、次々に出されるお茶に釣られて、帰らずにいた。仕方がないので、『紅烏龍とはなにか』という質問を始めると、おばさんたちもそれに食いつき、色々と言い始める。廖さんはまた、私に本を差し出す。そこには紅烏龍について書かれていた。

 

それによると、1957年に廖さんの義父である李紅甲氏が苗栗から鹿野へ移住して、高台にアッサム種の茶樹を植え始める。だが紅茶の輸出は競争力低下で難しくなり、茶樹は放置されて行った。80年代に家業を受け継いだ廖さんが茶業改良場の支援の下、その茶葉を使って、新種の紅烏龍を開発したとある。紅烏龍はそんなに昔から作られていたのか。『阿公茶(自然農法管理)』と表に表示があったのは、廖さんの義父のお茶、ということなのだろうか?

 

かなり長い間、座って本を眺めていたので、腰が痛くなる。気分転換に外へ出て、茶畑を見に行く。この茶畑、平地に植えられているが、何とも言っても、その茶樹の種類が多い。畝ごとに違う種類、まるで試験場のような多さで、アッサムもあれば、在来種もあり、紅茶品種もあれば、烏龍茶用もあるという具合。かなり広々とした茶畑で整然とした植えられ方である。

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フラフラして戻ってくると、何と廖さんが弁当を用意していてくれた。昨晩も食べるところがなくて困った。今日の昼もどうしたものかと思っていたのだが、これは何とも有難い。しかもこの弁当、実にうまい。鶏肉、野菜は新鮮だし、魚の味付けもよい。こんな弁当が売っていれば食事の苦労はないのだが、恐らくは知り合いの家に頼んでいるのだろう。そういう家は看板など出してはいない。内輪商売だから、我々は入り込めない。しかし農家もだんだんと忙しくなり、自分でご飯を作らずに、弁当などを買うようになっているのだろうか。

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食べ終わると、廖さんと一緒に再度茶畑を歩いてみた。一々品種の説明などをしてくれたのだが、やはり種類が多過ぎて、写真を撮っても把握できなかった。『高山茶などと違って、ここでは色んなお茶を作り、工夫していなかないと生計を立てるのは難しい』ということらしい。茶業改良場とも連携して、開発していかなければ個人でン開発は難しいと思うのだが。

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自転車散歩

軽トラで送ってくれるという廖さんの親切を断って、自転車を漕ぎだした。道は複雑ではないので、迷子になる可能性はなく、今民宿に戻っても、特にやることはない。折角自転車があるのだから、その辺をぐるっと回ってみようと考えた。バナナ畑を通り、北へ向かう。そこにも茶畑があった。ここも相当に広い。そこを過ぎると、立派な建物が見えた。何と茶業改良場があるではないか。そうか、ここは改良場の茶畑だったのだ。明日又来よう。

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更に自転車を走らせると、茶摘みをやっていた。この暑い炎天下に茶摘みとは、どうなんだろうか。それもかなりの人数が出ている。こんな時間に茶摘みして、何を作るんだろうか?やはり紅茶だろうか。それにしてもこれだけ平らな場所なら、機械を入れて摘んだ方が効率的だと思うのだが。今や人件費が高騰している台湾で、手摘みで採算が取れるのなら、それはそれで素晴らしいが。

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暑いには暑いのだが、自転車で風に吹かれながら、村を回っていくのは気持ちが良かった。さすがに高台に行く勇気はなかったが、下はほぼ平らだから、サイクリングに適していると思う。日曜日のせいか、車は殆ど走っていない。少し汗をかいたが、まさにいい運動になる。自然も素晴らしい。一面の花畑の向こうに山が霞んでみえる。子供連れの観光客が車を停めて、それに見入っている。花には蝶々が停まり、周囲に甘い香りが風に吹かれて拡散していく。私もしばし、自転車を降りて、その香りを楽しみ、その風景を十分に味わった。

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村には古い建物がたくさん残っている。瓦屋根の家、木造住宅、日本時代からそのまま建っているような家もあった。人口はどう見ても多くはない。特に娯楽もないように見える。若者は都会に出てしまっているのだろう。観光客としては良いが、住人としては将来に懸念はあるだろう。

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夕飯2

明るいうちに今日の夕飯場所を探し始める。自転車でメインストリートを再度巡回したが、たった1つ、外れに看板が出ている食堂があり、満を持して夕方そこへ行ってみた。が、『今日は休み』と言われ、この辺に食べるところは他にないかと聞くと、あっさりとないと言われてしまう。昨晩は暗かったから見付からなかったのだ、と思い込んでいたが、実際にないのだ。

台湾南部ぶらり茶旅2015(13)鹿野 バイクを追っていく茶園

食べる場所がない夕飯

車で民宿へ送ってもらうと外はもう暗かった。この宿には朝食は付いているが、夕飯は付いていない。奥さんが、門を出て2分の所で食べられるよ、と教えてくれたので、そこへ行ってみたが、そこは食堂に見えず、最初は雑貨屋か何かだと思ってしまう。よく見ると奥にテーブルがあり、食事ができるようになっていた。だがお客は誰もいない。おばさんと娘が暇そうにテレビを見ていた。

 

『何か食べるのか?』と聞かれたので、『何ができるのか』と聞くと、そこに貼ってあるもの、と言われた。良く分からないので炒飯と野菜炒めを頼むと、ちゃんと出てきた。そしてそれが意外とウマイから面白い。台湾というところは何気ないものが美味いと時々思うのだが、まさにそれに当たる。

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腹も減っていたので、思い切りかき込んで、支払いをすると100元だった。安い!店を出て少し散歩してみたが、何とこのメインストリートにレストランはおろか、食堂と呼べるものすら1つも見付からなかった。おじさんたちは自宅前で酒を酌み交わしている。唯一神社の横に立派なホテルがあり、そこなら食事ぐらいはできるだろうが、とても一人で入っていく感じではない。既に宴会でも始まっているのか、カラオケの音が外まで鳴り響いていた。

 

鹿野では夜は全くやることがない。シャワーを浴びてしまうと、ネットは繋がるので、メールを返信したり、旅行記を書いたりして過ごす。ここのオーナー一家も奥の部屋に引っ込み、階下の家族もとても静かなので、早めに寝ることにした。涼しいし、快適なベットに潜り込み、眠りは深かった。

 

11月15日(日)

翌朝は当然早く起きた。散歩に行こうかと考えたが、民宿の庭をくるくる回るだけで十分満足した。それほど広い訳ではないが、手入れが行き届いており、ベンチに腰掛けてみたり、深呼吸してみたり。そんな朝があってもよい、と思わせるような雰囲気があった。その内に朝食の用意が整い、台南の家族と一緒のテーブルに着く。子供が三人。車で来たという。

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自家製のパンと、庭で採れたフルーツ(グアバかな)を頂く。これは大そうなご馳走だった。この一家は『半分農業をやりながら、田舎で暮らす』ということを実践するため、6年前に台北から移住してきたのだとか。近くに土地を借りて、野菜なども作っているらしい。そんな生き方もあるな。

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バイクの後ろから

食事が終わって少しすると、奥さんが『行こうか』という。今日もまた知り合いの茶農家を紹介してくれるらしい。奥さんはバイクに乗る。奥さんの後ろに乗るのかと思っていると、私には自転車を貸してくれた。奥さんが公道に出る。私は慌てて後を追う。平地とはいえ、これは結構きつい。

 

勿論奥さんはゆっくり走ってくれているのだが、そこはバイクのスピード。こちらは全速力で漕がざるを得ない。バナナ畑などのどかな道を走って行くが、風景などは見に入らない。写真を撮る余裕もない。何とか帰り道を覚えて、ひた走る。僅か15分ぐらいだったと思うが、この涼しい鹿野で全身に汗をかく。いい運動ではあったが、後日の足の痛みが怖い。

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紅烏龍の茶農家

何とか追い付くとそこには茶園があった。新峰茶園。茶工場があり、その前には茶園が広がっているが、取り敢えずは奥さんについて、店舗に入っていく。そこでご主人、廖さんに紹介され、奥さんは『帰りは廖さんの軽トラに自転車を載せて、送ってもらうように頼んだからね』と言って帰っていった。どこまでも親切な人だ。お言葉に甘えて、そこに残った。

 

店には先客が三人いた。台中から遊びに来たおばさんたちで、久しぶりの再会らしく、かなりうるさい。廖さんはお茶を淹れながら、質問に1つずつ丁寧に答えている。別に彼女らはお茶をやっている訳でないので、相当に基礎的な質問やこの地域に関することなど、私から見ればどうでもよいことを話しながら、ケラケラ笑っている。ようは仲良しが、女三人旅を楽しんでいるだけなのだ。お店も商売だから、ずっとそれに付き合っている。台湾的だ。

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また廖さんが『聞きたいことがあれば聞いて』と言ってくれるのだが、この状況下、なかなか難しい。商売の邪魔もできない。彼は本を取り出してきて、『これが鹿野の村史だよ』という。眺めてみると、日本人が入植してからの歴史および写真が多く載せられており、大変参考になる本だった。特に1915年に入植後、入植人数はそれほど増えなかったこと、日本人の周囲には客家の人々が既に相当数住んでいたことなどが分かって興味深い。この時期、日本人と台湾人、そして原住民や客家などは、どのように共存して暮らしていたのだろうか。支配者である日本人とは言っても、移民である彼らの立場はどんなものだったのだろうか。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(12)鹿野 心地よい民宿

1時間弱乗っただろうか。鹿野のメイン、龍田村に入った。初めて来たらどこだかわからなかったかもしれないが、何しろ来たばかりなのですぐに分かる。実は昨日李さんが『鹿野に泊まるならここ』と言って、1軒の民宿を紹介してくれ、わざわざそこのオーナーに頼んでくれていたのだ。だがメインストリートのどこで下りたらいいのか分からなくなる。何だか歳だな。

 

心地よい民宿

運転手がここだ、というので、荷物を降ろした。そこはあの神社のある場所。やはりここが中心だ。隣には大きなホテルが1つだけあるが、あとは小さな民家が並んでいる。23-分歩いて戻ると、その民宿はあった。台湾の民宿というのは、日本的な安宿というイメージよりもむしろペンションなどに近い。ちょっとお洒落な宿ということである。この宿もヨーロッパ調の別荘風で、どう見ても民家である。庭もよく手入れされており、歩いていても気持ちが良い。看板すら出ていない。このような宿はフラッと来て、いきなり探せるものではない。

 

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1階にリビングがあり、畳の部屋まであった。台南から来た家族がそこに泊るという。私は2階の1室に案内される。そこも山小屋風で広々とした居心地が良さそうな部屋だった。どう考えても人の別荘に泊りに来た感覚。部屋に鍵もかからない。トイレとシャワーは部屋の外にあるのだが、2階の残り2部屋には誰も泊まっていないので、一人占めである。何だかツイている。

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そもそもここ鹿野は、高雄や台南よりかなり涼しい。高原の避暑地、と言ったイメージがぴったりの場所。疲れている体がこの地を欲していた。すぐに『2泊しよう』と心に決めて、奥さんに話した。ここにはドイツ人外交官が何度も泊りに来たらしい。良く分かるよ、その理由。

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少しゆっくりしていると、奥さんが『実は主人が台北に行ってしまったので、車がない。茶畑に連れて行けないので、知り合いを呼ぶから彼の車で行って』という。そんなことまでしてくれるか。それはやはり紹介者、李さんの影響力だろうが、いずれにしても親切この上ない。常に顧客の求めに応じようという姿勢が感じられる。因みに宿泊料金は1泊1部屋日本円で1万円を越えているが、友人の紹介ということ、一人ということで、半額以下にしてくれていた。

 

高台

ランドクルーザーが程なくやって来て、助手席に乗り込む。丘の上で茶園をやっているというのだ。道は山道を軽く上るとすぐに到着した。茶園が見えたが、その茶樹はまだかなり若かった。2年前に植えたばかりだという。ここ逸品茶園は、かなり前から茶園をやっているが、最近生産量を伸ばしているらしい。『自分が子供の頃はこの辺一面茶畑だったんだが』とオーナーは懐かしそうに語る。

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高台、ここはそういう地名になっている。『それは日本語ですよね?』と聞くと、逆に『高台は日本語なのか?』と聞き返される。これまで中国語で高台なる言葉を聞いたことは一度もない。そしてここは日本人が入植した村である。ほぼ間違いなく、これは日本語、日本人が村より高い場所を指して使った言葉だと確信した。今この村に住んでいる人々には、高台が日本語だという認識はないのだろう。

 

3つの建物が目の前に建っていた。1つは茶作りの作業場であり、倉庫である。ここでちょうど焙煎が行われており、彼は時々そちらを気にしていた。かなり大きなスペースであり、茶葉製造量も個人のベースとしては多いに違いない。真ん中には立派な自宅があり、奥さんと子供と住んでいる。

 

もう1つは店舗になっており、倉庫同様に天井が高い。観光で来た台湾人が時々寄っては茶を買って行くという。そこには奥さんが店番をしていたが、彼女は中国大陸から嫁に来たらしい。台湾では今、老茶ブームということで、ここにも陳年茶が置かれている。丁寧にお茶を淹れてもらった。

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忙しそうだったので、自分で高台の頂上へ行ってみる。観光バスも停まる。そこには大勢の観光客が来ており、眼下の景色を眺め、写真に納まっていた。向こうにも山が見える。ここ鹿野は山間の街。100年前にここにやってきた日本人はどんな思いだっただろうか。そして終戦で出て行く時はどうだったんだろうか。最近は台湾生まれで日本に帰国した『湾生』と呼ばれる人々が映画に取り上げられるなど、関心を集めているが、既にその多くが亡くなっている。鹿野にも偶に湾生が里帰り?していたようだが、今はそれも少ないだろう。

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もう少し行くと、少し高いところから草の広場へ、ハンググライダーをやっている広々とした場所があった。何とも気持ちよさそうに大空を飛んでくるのだが、高所恐怖症の私には縁のない遊びだ。何だか楽しんでいる人が多い。夕暮れ時に、空から皆が落下してくれる。下では子供たちが走り回る。近くにはキャンプ場もあったとても良い自然環境がそこにある。台湾に人々も都会生活に疲れ、このちょっと田舎で心と体を癒しているのだろう。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(11)台東 茶屋での出会い

ダンス鑑賞と大雨

芸文中心で行われたそのショーは、初めは原住民グループによる歌と楽器演奏で、数百人入る満員の聴衆、会場を大いに盛り上げていた。コンサートが始まった、という感覚だった。しかしその後のダンスは、ちょっと異様な感じだった。ダンス自体は非常に柔軟な、若者らしいきびきびした動きに圧倒され、中にちょっとコミカルな笑いを誘うものもあり、面白いものだったが、出演者の若者10人ほどが、学校の卒業式のように、一人ずつ練習での辛かった思い出を語り、中には感極まって、涙を流す子も出てきた。それを母親の様な気持ちで声援する大勢の女性たち。日本ならさながら若手ジャニーズのようなものであろうか。

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台北からわざわざ毎週ここまで通ってきて、辛い練習に励んだ者もいた。何度やっていてうまくいかず、挫けそうになった者もいた。それぞれが様々な事情を抱えた若者、それを乗り越えて、ここに立っていた。そしてこのメンバーでの最後の舞台、満員の観衆の前で見事に演技した。日本ならこのような舞台裏は見せないだろうが、台湾では全てを見せて、共感を呼び、観衆と一体化するということだろうか。良く分からない部分もあるが、これはこれでよいと思われた。

 

舞台は拍手の嵐でなかなか静まらなかった。ようやくお開きとなり、外へ出ると、何と先ほどまでは全く降っていなかった雨が激しく降っていた。傘の準備などしていない。お客さんは次々と車の方へ向かって小走りに行く。仕方がないので、ジャンパーを被り、走って帰った。途中でファミマがあったので寄ったが、小降りになったので菓子パンを買って帰る。ホテルに着くまでには濡れ鼠になってしまった。これにはどういう意味があるのだろう。

 

11月14日(土)

茶屋での出会い

翌朝はホテルでビュッフェの朝食をとったが、お粥などを少し食べただけで、あまり食欲がなかった。昨晩夕飯も食べていないのに、ちょっとおかしな状態だった。ネットはロビーでしか繋がらなかったので、食事をしながら、メールチェックなどを行い、返事を打つ。いいのか悪いのか、分からない台東滞在だった。駅前から鹿野行きのバスが出るのは分かっていたが、あまり早く行っても仕方がない。取り敢えず散歩に出る。昨晩の雨は嘘のようだ。

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適当に歩いていく。すると何となく名前を見たような気がするお茶屋があった。確か誰かに紹介されたはずだが、その紹介先を検索すると、住所が嘉義になっており、今回は縁がないと思っていたところだった。何故嘉義のお茶屋がここにあるの、などと考えても仕方がない。まずは入って聞いてみるしかない。まあ同じような名前のお茶屋もいくらでもあるだろうから。

 

ということで店に入ると常連らしいおじさんとおばさんが数人、土曜日のお茶会のようにお茶を飲んでいた。そこへ一見さんが飛び込んだのだ。何だろうという目で見られる。取り敢えず自己紹介して、嘉義の話をしたが、『何の話だ』という感じで要領を得ない。だが台湾のお茶の歴史が知りたい、という一言で、店のおばさんが『それならいい人がいるから呼んであげるよ』と電話を始めた。

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しばらくしてやって来たその人は、何と鹿野にある茶業改良場の場長さんだった。これには驚いた。彼は毎日台東から車で鹿野に通勤しており、今日は土曜日だから台東の家にいたのだという。何という偶然、いや必然。それからは鹿野のお茶の歴史、台湾東部の茶業について、紅烏龍のことなど聞きたいことをあらかた聞いた。その上で、月曜日に改良場を訪問してもよい、という返事をもらったのだ。これで鹿野に月曜日までいる必要性が出てきた。

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もっと話をしていたかったが、ホテルのチェックアウト時間が迫っており、残念ながらここから引き上げることに。ホテルの名前を聞いた客の一人が、ちゃんと車で送ってくれた。この辺が本当に親切だな、台湾人は。いつもながらに感心した。それにしても凄い引きだったな、このお茶屋さん。ここのお茶をゆっくり味わってはない。次回はオーナーがいる時に再訪したいものだ。

 6.鹿野

バスで

駅前でバスに乗る前に、昼ご飯を食べることにした。例のサバビーのお粥。ここにもあった。この魚、ちょっと蕩けるようでもあり、柔らかくて美味しい。スープがまた出汁が効いている。確かに流行るのも頷ける。台北では見たことがないので、南部の食べ物なのだろう。満足。台湾では刻々とうまい物が開発されて行き、そのレパートリーに付いていくのは大変だ。

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台東駅、とは言っても鉄道の駅は昨日下りたように、既に郊外に移転している。ここはかつての駅舎と線路をそのまま残している展示館に過ぎない。なぜここだけ郊外に移転したのだろうか。今はバスが発着しているだけである。関山行きのミニバスに乗り込む。少し街中を走って行くと、すぐに乗客で満員となる。昨日は車でスーッと来た道を今日はバスで止まりながらゆっくりと進む。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(10)鹿野の紅茶作りは

メインストリートには、日本時代を復元した区役所があったり、今も使われている学校の横に、校長先生の官舎が残されていたりと、僅かだが、日本を感じされるものがあった。だが何よりも、この道路が真っ直ぐなこと、区割りがしっかりしていることが、往時の日本の事業であることを物語っている。

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茶業については日本時代には全く行われていなかったようだ。ではいつからここでは茶が作られ始めたのか。それを知るため、我々は新元昌という紅茶屋さんがやっている、紅茶産業文化館に行ってみた。ここには観光バスが来ており、大勢の台湾人が紅茶を味わうだけではなく、紅茶作りの一部を体験していた。また摺こぎ棒で擂茶を作っている人達もいた。

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ここの3代目、温さんに少し話を聞いてみると『1966年頃、祖父が関西から移住して紅茶作りを始めた』というのだ。関西とは新竹方面にある地名で、主に客家が住み、今でもお茶作りが参加な場所。日本時代には確か紅茶を作って輸出もしていたと記憶している。なるほど、日本人が引き上げた後、空いた土地に客家が移り住み、その技術を使って紅茶を作ったということか。温さん一家はやはり客家であった。東方美人を作ったのも客家、何か因縁めいている。

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李登輝元総統もここを訪れ、茶業に力を入れ始める。1984年に茶業改良場の分室がここに設けられる。ただ紅茶は主力商品になり難かったので、様々な工夫がなされたらしい。その内紅茶ブームが訪れ、蜜香紅茶の製造が始まる。そして最近では紅烏龍という新しい商品も作られている。紅烏龍は紅茶なのか、それとも烏龍茶なのか?何とも不思議なネーミングである。

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紅茶から少し離れて、街道沿いへ。ここに鹿嘉農荘と書かれた店があった。李さんとここのオーナーとは以前から知り合いのようで、直ぐに招き入れられ、珈琲が振る舞われる。鹿嘉珈琲という名称で、この辺で栽培されているコーヒーを販売している。香りがとてもいい。そして味が濃厚。如何にもコーヒーという感じがする。それはこの自然な環境のせいだろうか。

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ご主人と奥さんの二人でやっている。コーヒー好きが転じて商売になってしまったらしい。コーヒーだけではなく、天然のハチミツも作っている。甘さが控えめで程よい。更にはお酢も製造しているというから驚きだ。このお酢、何年も熟成させており、かなり体にいいらしい。ようは本人が体に良くて、美味しい物を求めた結果、それが高じて、人に販売するまでになったということだろう。

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如何にも台湾の人らしい発想だ。また週末には、DIYとして、屋外でパンケーキを自分で焼いて、ハチミツを付け、珈琲と一緒に食べる企画なども行っている。これは子供たちが喜びそうだ。田舎に人を呼ぶための方策を色々と考えている。自然の中で出来ること、沢山あるんだな。

 

鹿野は気球が名物です、と言われて驚く。広々とした空間が道の脇にあった。気球乗り場である。何とさっきの紅茶文化館のメンバーも子供を連れてきていた。皆が気球を見ているが、今は実際に上に上げることはしていないようだ。それでもかなり大きな、ユーモラスなイラストが書かれた気球が膨らむだけで子供たちの目が輝く。高所恐怖症の私には無縁の乗りものではあるが、確かにこんな場所に合うかもしれない。

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民族博物館

車で台東に戻る。まず李さんが紹介してくれたホテルへ向かう。とてもきれいでこれまでとは全然違うタイプ。料金も1600元と、昨日よりかなり高いが、これもご縁。しかし何とWi-Fiが部屋で繋がらない。『これまでどんな安い宿でも繋がったWi-Fiがなぜ一番高い宿で繋がらないのか』などと言ってみても始まらない。宿のフロントもお手上げと言った感じで、真剣さはない。

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李さんの博物館では明日から新しい作品展が始まるというので、実は彼は相当に忙しかったはずだが、それを押して私に付き合ってくれていた。感謝。原住民で、ロンドン在住の画家が、絵の展示をあれこれ直していた。この博物館では、いわゆる原住民と呼ばれる人々の活動を支援している。

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Bさんと音楽で繋がりのあるホーさんとも偶然ここで出会った。彼女は台東郊外でゲストハウスをやり、音楽活動を支援しているらしい。李さんが突然『今晩ダンスショーがあるけど、見に行くか』と聞いてきた。良く分からないが、今晩は台東に泊まるので、行きたいと答えると、ホーさんがチケットをアレンジしてくれたらしい。既にこのチケットは完売しているという。

 

忙しそうな李さんと別れて、一度ホテルへ帰る。夕飯も一人で食べるように言われていたが、何となく腹も減らなかったので、そのまま時を過ごす。疲れていたので、少し横になる。そしてダンスの会場へと歩み出す。まずはチケットをゲットするため、博物館の保安室へ。ここにチケットが預けられている。警備員が丁寧に渡してくれた。何だか申し訳ない。途中に屋台街があったので、そこでご飯を食べればよかったのだが、何となく過ぎてしまう。

台湾南部ぶらり茶旅2015(9)鹿野の神社

宿に帰って、大きな風呂に湯を溜めた。久しぶりに風呂に浸かると、疲れが取れる。ただすでに南国仕様の体になってしまった私、毎日湯船に浸かるのは結構疲れてしまうので、困る。そしてケーブルテレビで日本語のドラマなど見ている内に、眠たくなって寝入る。今晩は都会生活だ。

 

11月13日(金)

散歩

翌朝はゆっくり起き上がる。屏東では特にすることがないのだが、電車のチケットは11時。8時過ぎに朝食を食べに食堂へ。ビュッフェかと思っていたが、何とそこまでも客がおらずに、奥で目玉焼きを焼いたのを渡され、パンは自分で焼いて食べる。これもまた珍しい形式だ。

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奥で調理していたおばさんが出てきて『どっから来たんだ』と聞くので、日本だと答えると、何だか喜んでおり、日本にいる親戚の話など、色々と話しかけて来る。この辺では日本人は珍しいんだな、と分かる。でもこちらも何となく嬉しい。こんな他愛もないことが台湾の印象をよくするから不思議だ。

 

散歩に出た。どこへ行くでもないのだが、歩いてみた。廟は朝から賑わっていた。台湾銀行の支店は相変わらず立派だ。朝市のようなところへ行くと、結構人がいて驚く。バイクで買いに来るから危ない。横には公園があり、朝から体操する人、おしゃべりする人、ゆったりとしていてよい。屏東書院という建物もあった。最初は1815年頃に漢人の流入により建造されたが、その後1937年に日本によって建て直されたとある。このあたり、昔は日本人が多かったのだろうか。

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宿へ戻り、チェックアウトして駅へ向かう。電車は数分遅れて到着。私が乗るべき車両のところは、なぜかホームが狭くなっており、待っているのが難しい。おかしいなと思っていると、停車したその車両には乗車できないようになっており、隣の車両から乗るべく、皆が準備していたのに、気が付かなかった。慌ててそちらへ移動して、何とか乗り込む。どうしても誰も教えてくれないの?

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電車はそれから2時間、海が見え、山が見え、実に快適に走行を続けた。こんなに気持ちが良いのも珍しい。太麻里という名の駅があり、一瞬大麻の里か、と思ってしまう。この辺にはそんなものがあっても似合いってしまうから、面白い。東海岸は穏やかであれば、実に眺めがよい。

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 7.台東

いきなり鹿野へ

午後1時過ぎ、数分遅れで台東駅に到着した。ここではBさんに紹介してもらった李さんが、待っていてくれるはずである。何と彼は自分の写真までメッセージで送ってくれたので、待ち合わせは問題ないと思ったのだが、それは甘かった。駅の改札を出たが、その人物を見付けられなかった。向こうが声をかけてくれて、何とか会うことが出来た。実は彼、知り合いと二人で話していたので、違う人だとこちらが思ってしまった訳だ。

 

李さんは国立民族博物館の館長さんという要職にある。取り敢えず彼の博物館でも見学するのかな、と勝手に思っていたが、彼から出た言葉は『これから鹿野へ行きましょう』だったので驚いた。鹿野は茶産地であり、私は台東の後に行こうと考えていた場所であった。『お茶の関係者と聞いたので、それが一番いいと思った』という。折角なので連れて行ってもらうことにする。因みに台東駅は、街から結構離れているので、市内から行くより、駅から行ったほうが早いらしい。

 

私が昼飯を食っていないのを知ると、『じゃあ、名物の肉まんでも』と言って、店に寄り、3個も買ってくれた。車の中で食べたのだが、これはなかなか美味しかったが、大きいので、2個が限界だった。車は最初平らな道を、それから軽い登りとなり、30㎞弱を走り、鹿野へ着いた。

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メインストリートに入って車は停まる。『日本人が来たら、まずはここを案内する』と言われた場所には、何と神社が建っていた。それもどう見ても新しい。この鹿野という街は1915年に日本人が入植して切り開いた場所だと分かった。そこに神社が建っていたが、終戦後日本人は引き上げて、神社も取り壊された。今年はちょうど入植100年に当たるということで、昨年日本から大工を呼んで、この神社を写真に残っている通りに復元したのだ、と説明されていた。

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近くには資料館も建っていて、開拓当時の様子や、実際に使われた道具などが展示されていた。移民は新潟県の農民で、最盛期には654人が住んでいたという。個人移住者事業は台東製糖が請け負ったとある。満蒙開拓団同様、国策であった。ここに移住した日本人は幸せだったのだろうか。その横には大きな木が歴史を眺めていたよ、という風に立っていた。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(8)お茶のない屏東の夜

4.屏東

屏東へ

嘉義行のバスは12時過ぎに来るという。『まあ、昼飯も食っていけ』と言われ、有難くご馳走になる。1泊3食付き、茶園ツアー付き、何某かの宿代を支払ったが、勿論それ以上のサービスであった。こういう経験は茶旅ならではで、面白い。向こうの方からバスが来るのが見える。お別れの時が来た。

 

バスは結構人が乗っており、私は荷物を担いで何とか後ろの席を確保した。10年前とは違い、今は台湾全土に『台湾好行』という観光?バスが走っているので、きれいで快適である。料金も130元程度で安い。週末は阿里山観光客で更に混んでいるのだろう。1時間ちょっとで嘉義まで降りる。

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駅では30分後に出発する切符が買えた。今回は自強号ではなく、その次の莒光号だった。嘉義-屏東間は約2時間半で結ばれている。昨日来た道を台南、高雄と戻り、そこから30分で呆気なく、屏東に着いてしまった。この駅は既に改築されており、高架式のきれいな駅になっている。明日の台東行き電車のチケットを買い、ここに1泊することにしたのだが。

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ホテル

駅を出て、ホテルでも探そうと思ったが、何だかそんな雰囲気はまるでない。潰れた宿の看板だけが目に付く。あまりにも何もないので戸惑ってしまった。モーテルのようなところが1つあるだけで、泊れる場所がない。街と言えるようなものもない。事前に何も調べない旅は、このような時に大いに困惑する。高雄から30分の街にはホテルもないのだろうか?

 

仕方なく駅まで戻り、観光案内でもあるかと探したが、それも全くない。だがよく見ると、工事中の場所の向こうに人が歩いていく。付いていくと、そこが元々の駅舎で、そこを出ると昔ながらの台湾の駅前風景が見えてきた。単に新しい駅の新しい出口を出てしまっただけだったのだ。

 

結構疲れたので、すぐ近くにあったビジネスホテルに飛び込む。フロントのおばさんが1泊1200元、などというので、もっと安い部屋はないか、と聞くと、サービスルームは900元というので、そこにしてみた。部屋は5階、窓はないが、大きなバスタブがある。如何にも昔の台湾のホテルだった。

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フロントのおばさん、はじめは無愛想だったが、私が日本人だと分かると、『最近日本人来ないねえ』などと話しかけて来る。確かに屏東に行った日本人というのはあまり聞いたことがなかったし、私自身が全く初めて降りた駅だった。取り敢えず街を歩こうと、おばさんから簡易地図をもらい、歩き出す。

 

青島街 茶屋見付からず

目指すは青島街。ここにお洒落なお茶屋があるというのだ。駅前のロータリーを北に向かうとすぐに、大きな廟がある。既に暗くなっていたが、見事にライトアップされていた。ここが街の中心だと分かる。夜でも大勢の人が参拝に訪れている。私も入ってみようかと思ったが、先を急ぐことにした。

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青島街は駅前から歩いて15分ぐらいのところにあった。この付近は昔日本人が住んでいたのか、日本家屋が残っていた。ちょっと雰囲気が違っており、道の角のレストランからジャスが流れてきた。そこを曲がると青島街。数軒のおしゃれなレストランがライトアップされ、いい雰囲気で建っていた。ここは若者向けのようで、ハンバーガーなどの軽食や洋食が多い。

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残念ながらゆっくりと台湾茶を飲めるようなところではなかった。お茶屋ではなく、カフェが沢山ある、というべきだ。仕方なくもう一つ別の道にはいると、そこには日本食レストランがあった。これも1つのトレンドなのだろう。この小さな街はその形を少しずつ変えようとしている。

 

更に歩いていくと、魚の看板があった。中を覗き込むとおばさんが『ヒラメ―』と言ったように聞こえたが、あれは何だったのだろうか。看板には「虱目魚」と書かれている。まさかヒラメではあるまい。この魚は後で食べてみることになるが、ヒラメは単なる聞き違いらしい。

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実は屏東のお茶屋さんの住所を聞いてあった。そこを探したのだが、どんなに探してみても見付からない。普段は使わないスマホで地図を探ったが、その場所にはマンションがあるだけ。もしやするとマンション内でひっそり営業しているのかもしれないが、これ以上やりようがないので諦める。屏東では全くお茶にあり付けない、という状況になってしまった。

 

帰り掛けに腹が減ったので、大滷麺を食べてみる。注文してから席に着く方式。良く分からなかったが、忙しい中、店のおばさんが親切に教えてくれた。小皿料理も取って、合わせて食べる。麺はうどんのようで、まあまあだが、小皿の豆腐とピーナッツの突き出しのようなものは絶品だった。これは酒のつまみだろうが、皆麺を啜りながら食べているのが面白い。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(7)阿里山の在来と老茶樹

宿に戻ると何とお爺さんが、昨日作ったお茶を自ら袋詰めしていた。これはやはり彼の仕事であり、息子には任せられないらしい。『息子の作る茶は軽過ぎる』と昨日も言っていたので、伝統的な茶と商売になる茶の衝突がこの家でも起きていると分かる。これは決してどちらが良いとか、どちらが正しいとかいう問題ではない。ただ顧客に支持される物を作っていれば、滅びることはないだろう。

 

既に宿の夫婦は朝食を済ませたらしい。私の分は、製茶機械の横に置かれていた。目玉焼きにキャベツ炒め、そして漬物とお粥。私の大好物だ。台湾に来ても最近はなかなかこのような朝食にあり付けないので、とても嬉しい。散歩の甲斐もあり、食欲はかなりあるので、粥を三杯も食べる。

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在来の茶畑と老茶樹

宿の主人が軽トラで茶畑へ連れて行ってくるというので、有難く着いていく。奥さんから暑いよ、と言って編み笠を渡される。茶畑はここ隙頂ではなく、隣の龍頭にあるという。車ですぐの距離だった。この茶畑、斜面に茶樹が株ごとに植えられていた。誠に原始的?なところで、驚いてしまった。一部枯れているものもある。『35年前、阿里山に茶樹が植えられた初期はこんな感じだった』と、主人が話す。まばらな茶樹を見て、何となくダージリンを思い出す。

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隣の畑は畝になっていた。阿里山には在来と言われている茶樹が沢山あるとのことだったが、こちらは在来種を新たに畑に植えたらしい。在来種を差し木して、農薬も化学肥料も使わず、丁寧に管理しているという。茶葉が肉厚で、エキスが内包しそうでよい。どんなお茶が出来るのだろうか、これからが楽しみだ。

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更には老茶樹があるというので、そちらも見に行った。阿里山公路を入ってすぐの場所に、その樹木はあった。かなりの背の高さがある。そして何本かある。これは、まさか、先日行ったベトナムで見たカメリアタリエンシスだろうか。それともアッサム種が育ったのだろうか。もしアッサム種なら、台湾に持ち込まれて100年程度だろうが、この村の言い伝えでは、この茶樹は150年以上経過しているらしい。

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もしタリエンシスであれば、元々台湾にタリエンシスが自生していたのだろうか。それとも誰かが持ち込んだのだろうか。松下先生の説を借りれば、ヤオ族かそれに類似した民族が海を渡って、この木を焼き畑と共に持ってきたのだろうか。台湾にそれがあるなら、日本にもあるだろうに。何とも妄想が膨らんで止まらない。真実は一体どこにあるのだろうか?誰か教えてほしい。

 

それから公路を通っていくと、摘んだばかりの茶葉を干しているところがあった。今は冬茶シーズンが始まっていた。何となく車を降りて、見学する。主人が私を日本人だというと、皆が笑顔になるは有難い。ここは村の共同製茶施設なのだろうか。大勢の人が来て、茶作りに励んでいた。

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品評会連続受賞者

実は昨晩宿でネットが繋がったので、『現在隙頂という場所にいる』とFBでつぶやいたところ、ある人から、『せっかくそこにいるのなら、蘇さんのところへ寄ったら』とのメッセージが入っていた。宿の主人に聞くと『知っているから、彼のところへ連れて行ってあげる』と言われて、電話で在宅を確認の上、急きょ訪ねることにした。さて、どんなところだろうか。

 

その家は公路から少し入ったところにあり、もし言われなければ立ち寄るような場所ではなかった。品評会に入賞した板、そして紙が所狭しと貼られているのが、嫌でも目に入る。彼、蘇さんはこの辺のコンテスト入賞常連者、いや、コンテストに入賞する茶を作っている人ということらしい。だから、このあたりで知らない者はないないという有名人だった。

 

中に入って、早々にお茶を頂く。軽いな感じながら、しっかりした味わいがあった。外では焙煎が続けられている。蘇さんもどうしてもそちらに気を取られている。焙煎は一瞬の判断で良し悪しが決まるだろうから、私の相手などしなくてよいのにと思いながらも、お茶を何杯も啜ってしまう。

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蘇さんは、数人の仲間と一緒に、中国へ茶葉の売り込みを行っているという。台湾茶王、と書かれた箱に入れて、茶葉を持って行っている。少しずつ売れてきているらしい。中国で台湾茶はかなりの人気があり、実力があれば、かなりの高値で取引されることもあるようだが、どうなんだろうか。

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蘇さんが焙煎に取り掛かり始めた。かなり丁寧に仕上げている。大量生産ではない、手作りの感じが出るお茶、これからは、このようなお茶が大切だと思うが、一方でなかなか収入が増えないというジレンマを抱えているのではないか、と思ってしまう。それが彼を大陸に向かわせた要因であるならば、台湾も何かを考えなければならないことを示している。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(6)阿里山の生き証人

84歳のおじいさん

宿まで戻ったが、まだ明るい。ふと見ると上にも茶畑があり、宿の横には道がある。フラフラと少し登ると、何とも感じの良い古民家が建っていた。そしてその家の前でお爺さんが一人、ゆっくりお茶を飲んでいるのが見える。思わず近づいていくと、手招きされ、更に近づくと『いらっしゃい』と流ちょうな日本語で声を掛けられ、こんな山の中でと、驚いた。

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このお爺さん、宿のオーナーのお父さん。84歳になった今でも、奥さんと二人で、生まれ育ったこの上の家で暮らしている。『この家は建てられてから104年になる』と聞いて、これまた驚く。阿里山のこの付近で最初に建てられた家だとも言う。これは歴史的に保存すべき遺産ではないか。

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お爺さんがお茶を淹れてくれた。私の大好きな濃い目の焙煎、10数年前、初めて阿里山に登った時に飲んだ伝統的な味がした。その後、このようなお茶を見掛けることは少なくなり、高山茶といえば軽香ということで、どんどん軽くなってきているが、やはり何といっても、このようなお茶が飲みたい!思わず注がれるままに、何杯も飲んでしまう。水もきっと良いに違いない。

 

阿里山のこの付近にはいつから茶畑があるのかと聞くと『民国70年(1981年)頃かな』と。政府の農業関係者がやって来て、『これを植えると儲かるよ』と言われて始めたそうだ。実際育てるのには時間がかかるが、一生懸命植えたところ、1980年、90年台の高山茶ブームで、相当に利益を上げることが出来たという。『まあ阿里山高山茶、などと言っても、高々35年ぐらいのもんだよ』とお爺さんはあっさり。

 

更には『その前に阿里山に公道が通ったのは大きかったな。付近の住民も駆り出されて、道路工事をやったよ。給料はバナナや野菜だったけどな』と。それは当たり前だが、相当の難工事だったようで、恐らくは辛い労働だっただろう。この家を守り、目の前の公道作りに自ら参加して、阿里山の茶園経営にも最初からかかわっている、こんなお爺さん、完全に歴史の生き証人である。いきなりすごい人に会ってしまったな、さすが茶旅と自画自賛。

 

しかし一つ気になることがあった。こんな静かな夕暮れ時、ゆっくりとお茶を飲んでいるお爺さんが、しきりに時計に目をやっていた。何故だろうか、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか、と思っていると、『ちょっと待っていて』と言って、家の1つに入っていった。何となくついて行くと、何とそこではまさに焙煎が行われていたのだ。実はお爺さん、優雅にお茶を飲んでいたのではなく、自分で飲むためのお茶を自分で作っていた。これまたビックリ。

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茶農家は引退しても自分で作ったお茶しか飲まない、ということはこれまで何度も見てきた。凍頂山の上に住んでいた85歳の老人の淹れてくれた茶も絶品だったが、分けてもらうことは出来なかった。このお爺さんのお茶、何とか少しでも分けてもらえないかな、どうやったら売ってもらえるかな、と考えあぐねていると、『土産にあげるよ』と言って、あっさり一袋くれるではないか。何という幸せ!お爺さん、ご近所や親戚など、お爺さんの茶の常連さんの為にも、作っているようだ。確かに昔からこの茶を飲んでいる人には今のお茶は合わないだろう。

 

薄暗くなったので、お爺さんに礼を言い、宿へ戻る。既に夕飯の準備が出来ており、奥へ招かれる。この家には息子や娘がいたが、今は嫁に行ったり、勉強のため台北へ行っており、夫婦二人の夕飯だという。そこへこちらが割り込んだ。今日は結構涼しいので、鍋のような、煮込みのような料理が出たが、新鮮な野菜に味が沁み込んでいて、実に体が温まる。卵焼き、豚角煮、勧められるままに食べていると、相当に腹が膨れ、苦しいほどになる。

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夜は特にすることもなく、お茶を飲みながら、台湾で開催されていた野球のワールドベースボールクラシックを見て過ごした。台湾チームは奮闘していたが、厳しい試合が続いているようで、ため息が多かった。Wi-Fiはあるが、2階は電波が通りが悪いようだったので、これ幸いと、早寝する。昨晩よく眠れなかったこと、今日はかなり活動したこと、そしてここが涼しく快適であることから、予想以上の睡眠時間を確保でき、体がだいぶ楽になっていた。

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11月12日(木)

翌朝も当然ながら早く起きる。そして宿のシャッターを開けて、散歩に出る。ちょうど茶畑に朝日が昇るところだった。いい光景だ。おじいさんの家にも行ってみたが、誰も外には出ていなかった。お爺さんの家に上がる道には、となりのトトロなど、可愛いアニメが描かれている。幼稚園によくあるような絵なのだが、なぜここに。これがまた何とも愛嬌があってよい。

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公道を少し歩いてみた。お茶屋が何軒かある。上の茶畑に行くには、茶霧之道、というところを歩いていく。上からこの付近が一望で来た。陽の光を浴びて茶畑が光っている。何とも美しい。この傾斜地に茶畑を開くこと、それには相当の苦労があったことだろう。あのお爺さんたちは、その困難を乗り越えて生きてきたのだ。爽やかな風がスーッと吹き抜けた。

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台湾南部ぶらり茶旅2015(5)天目茶碗展と突然の阿里山

天目茶碗展

ジャックが連れて行きたいところがあるという。何処かと思ったら、嘉義の博物館だった。何で、と思いながら見てみると、え、天目茶碗展が開かれている。駐車スペースがなくて、かなり探し回り、ようやく中へ入った。その一角に10月17日-12月13日の長い期間に渡り、8名の陶芸家の作品が展示されていた。その構成は、日本人が3名、台湾人2名、中国人2名、フランス人1名からなっていた。天目茶碗がこんなに国際的とは初めて知って驚く。

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こんなに多くの人が現在でも天目茶碗を作っていると。それもフランス人までが。会場の広々とした空間に、天目の展示がある。天目は中国が発祥、私は15年前に福建省武夷山郊外で、その天目の官窯跡を偶然見たことがあったが、当時はまだ昔の名残か、茶碗の破片、失敗作などが散乱しており、茶碗作りが実に生々しく感じられたのを覚えている。その時も、電炉で現代の天目を作っている工房に行ったことはあったが、それは土産物程度のしろものだった。

 

ところが今、目の前に展示されているそれは、大きさも様々、色彩にも凝っており、その鮮やかさは何とも素晴らしい。日本からも林恭助(美濃焼)、桶谷寧(宇治)、木村盛康(清水焼)、という3名の工芸家の名前がみえる。中でも木村の作品に目を惹かれた。渋い感じではあるが、茶碗の大きさもちょうど良い。

 

正直茶には興味があっても飲む道具には、ほとんど興味のない私が、なぜか目を奪われてしまった。しかも聞くと、彼は既に80歳、それでいて、大胆な構図、斬新なデザイン、色使い。全く新しいと感じさせるのはすごい!ジャックが付き合いのある嘉義出身の羅森豪の作品は、大きな茶碗の中に森羅万象が表現されるなど、独特の宇宙観を持っていた。また茶葉をモチーフにした、自然を感じさせる作品にも不思議な感覚があった。今度はもう少し天目茶話に注目しよう。

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途中から博物館の学芸員が入ってきて、ジャックと話をはじめた、聞いていると、学芸員の方がジャックに一方的に沢山の質問をしており、彼はそれに1つずつ丁寧に答えていた。それで分かったのは、この展示会が、ジャック主導で開催されたものであること、一般の学芸員には、天目に対する見識はなく、お客さんに説明するため、急ごしらえで知識を蓄えているようだった。

 3.隙頂

突然阿里山へ

博物館を出ると、ジャックが『行こう』という。どこへ行くのと聞くと『あんたの話を聞いていると、いる場所はここではなく、阿里山だろう』というのだ。これから車で連れて行ってくれるのだと。阿里山には既に5年は上っていない。しかも過去に行った場所はいつも同じところであり、ちょっとは新しい展開に期待して、折角なので、お願いすることにした。

 

まずは少し郊外にある彼の自宅に立ち寄った。実に静かでゆったりとした一角に、立派な家があり、更には別棟に、お茶を飲むための彼の部屋まで作られていた。私と違って彼がリタイア―したのは、これだけの資産を持ち、安泰の上での道楽への道であることも分かってきた。次回はここを訪ねて、もっとゆっくり、彼の考え方、生き方について聞いてみたいと思う。

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道端で急に車が停まり、ジャックが日本で言う、天津甘栗を買った。こちらでもなぜか『天津糖炒栗子』と天津が付いている。天津に甘栗はない、と昔から言われており、これは日本からの受け売りらしい。因みに売っていた女性はジャックによれば、『大陸から嫁に来たのだろう』とのこと。言葉の発音ですぐに分かるらしい。私には福建あたりの人の発音は区別できないこともあるが。

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それから懐かしい阿里山への道を上って行った。以前はいつも駅前からバスに乗り、1時間半かけて石棹というところまで行っていたが、今回はどこへ行くのだろう。ジャックの車はスーッと上って行き、1時間ぐらいで到着して、さっさとお茶屋へ入っていく。お馴染のようで、おばさんが迎えてくれ、土産の天津甘栗を出す。ここは一体どこは、なんだろうか?

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30分ぐらい話していたジャックが『じゃあ、俺は帰るよ。明日はバスで帰るといい』と言い残して、何ともあっさり去ってしまった。何と私はここに置いていかれ、1泊することになった。有難いのだが、この急展開、どうなんだろうか、などと考えても仕方がない。このお茶屋さん、もちろんお茶農家で、製茶機械などもある。2階は、簡易な宿泊施設になっており、民宿である。ただ最近は知り合いなどにしか、開放していないので、看板などは出していないらしい。

 

まあ茶旅的には、こんな旅もあってよい。道端を見ると、下に茶畑が広がっていたので、早々に散歩に出た。表示を見て、ここが隙頂という地名であること、海抜が1200-1300m程度であることなどが分かる。とても気持ち良い茶畑に沿って下って行ったが、それ以上、特に何もないので引き返してきた。

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