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台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(2)埔心 徐先生と茶葉改良場

5月25日(水)
5.徐先生とお会いし、茶葉試験場へ

翌朝今回の最大の目的である徐先生を訪問すべく、台北駅に居た。徐先生からは「各停に乗るように」と注意があり、従う。現在高速鉄道あり、特急ありの中、各停に乗るのは久しぶり。自動販売機で目指す埔心駅までの切符を買い、ホームへ。

電車は韓国大宇製。確か数年前、歌鶯に行った時に乗った。歌鶯は陶器製作が盛んな場所として行ってみたことがある。朝7時台のこの電車は通勤用。板橋や中歴などで降りる乗客が多い。

約1時間乗って、埔心駅へ。正直周囲には特に何もない。駅に着いたら電話するようにと言われていたが、何故か何度電話しても留守電になる。これは困った、と思っていると黄さんから渡された手書きの地図を思い出し、住所を見ながら訪ねて見た。結局駅から10分ほど歩いた所で徐先生宅に到着。先生もずっと待っていたらしく、驚きの表情。

先生のご自宅は駅前の通りに面していたが、そこから奥にかなり長い構造となっていた。実に雰囲気のあるいいお宅。居間を通り、物置を通り、ようやく家の中心であるご先祖が祭られている間へ。ご先祖は1700年代に広東省より渡ってきた客家。先生が子供の頃、この辺りは全て茶畑で人家はあまりなかったよし。

先生は既に私の来意をご存じで、早速新井さんの資料を下さる。先ずは写真。集合写真に各人の名前が入っており、誰が誰かすぐ分かる。そして最近書かれたいくつかの雑誌のコピーなど。貴重な内容であった。

先生は光復後の1952年にここ埔心にある茶葉試験場に入場。以来45年間を茶葉の研究、発展に尽くされてきた。その成果は退職直前に書かれた試験場の「場誌」及び最近出版された「台湾の茶」に詳しい。ただ先生が入場した1952年には既に 日本人研究者はおらず、その後の日台茶業関係者の交流の中で幾人かの人々をしている様子。実に流暢な日本語がそのことを物語っている。尚ご本も初めに日本語で書いてそれを翻訳していると言うから凄い。

先生は数年前に足を悪くされたが、私の案内をするためにわざわざ車の運転をして下さり、試験場へ連れて行ってくれる。感謝の言葉もない。80歳を越しておられるが、その行動力は実に精力的。今も日本人の書いた論文を翻訳していると言う。

試験場は駅から歩いて10分も掛からない所にあった。皆が「本場」と呼ぶ試験場、魚池や台東などにある試験場は「分場」であり、ここが本家。ただ正直何故ここに本場があるのか、不思議であった。先生によれば1903年に日本が試験場を作った頃はこの辺も一面茶畑(今は全く見られない)。鉄道が通り、政府のえらいさんがやって来るにも便利であった。昭和天皇が皇太子時代にこの付近を訪問、記念に植えた木もあったとか。当時は急行列車も停まる駅であったようだ。

本場はそこそこの広さがあったが、しんと静まり返っていた。製茶課に行くとようやく2人の職員がおり、徐先生に丁寧に挨拶する。退職したとはいえ、徐先生は権威ある顧問であり、一目置かれている。ここではあらゆるお茶の研究をしているとのことであったが、当日は場長以下、各地に品評会出席のため不在であった。

先生は慣れた手つきで事務所の電話を取り上げる。魚池の分場に電話し、誰か私の相手をするように依頼してくれている。これは力強い。分場も本場同様品評会などで人が出払っているが、課長の一人が対応可能とのことで、再び魚池へ向かうことが確定した。「結局本場には日本人の資料はない。あるとすれば魚池しかない」との結論だ。

その後本場内をご案内頂き、日本時代の建物などもかすかに残っていることを確認。そしてすぐ近くの壊れかけた日本家屋を眺め、「あれが試験場に派遣された昔日本人が住んでいた場所だよ」との説明を受けた。今やその面影を殆ど留めない埔心のかすかな記憶である。

6. 美味しい永康街
徐先生のご厚意に感謝しつつ、お別れし、台北に戻る。夜は前回色々と世話をしてくれた台湾人Jさんと会うことになった。彼は明日から日本出張と言う、忙しい時期にもかかわらず時間を取ってくれた。感謝。

Jさんの豊富なレストラン情報がきっと役に立つと思い、ゲストハウスオーナーHさんも誘う。待ち合わせ場所は古亭駅。正直私はここに来たことがなかった。しかし聞いてみるとかなり大きな駅で、若者が集まる場所だと言う。ゲストハウスに集う若者たちもこの辺りのディスコに繰り出すらしい。

Hさんのバイクで待ち合わせ場所へ。もう慣れた光景である。遅れてJさんが車で登場。また場所を移動する。Hさんはバイクで追走。永康街、今や台北でもおしゃれなスポットとなり、レストランや茶芸館が並ぶ一角。私はその昔回留という茶芸館に来た程度で、興味津々。

Jさんが入ったお店は普通の台湾料理屋。しかし出て来た物は創作料理でこれが美味かった。突出しで出て来た豆腐干はいい味出していたし、特に牡蠣と油条の炒め物は絶品。思わず唸ってしまった。Hさんは以前も来たことがあったようで、ちょうど仕事帰りの奥さんも合流して賑やかに食べた。

オーナーはアメリカでレストランをやっていた台湾人。味へのこだわりはかなりのもので、突出しのピーナッツを作る場面を実際に見ていたが、唐辛子をちょっと振ったりして、相当の時間を掛けていた。美味い物は簡単には出来ないらしい。

周囲にも気になるお店がいくつかあり、今後台北に来たら、毎回一度は永康街に行こうと考えるほどだ。

5月26日(木)
7. 再び埔里へ

翌朝先月訪ねて非常に気に入った埔里を再訪。バスで直接行く、自強号で台中へ行きバスで行く方法もあったが、何故か起き上がれず、高速鉄道で台中に行く。この方法だと前述の2つに比べてかなりの割高だが、速さは非常に早い。8時半に台北を出て埔里に10時半に着いてしまう。



本日も宿は民宿。既に連絡も入れており、バス停に妹さんが迎えに来る。昼ごはんはどうするかと聞かれ、埔里の名物を聞くと、肉圓と言うので、買いに行く。お店はシンプルで入り口で作り、持ち帰るか、中で食うか。持ち帰りを選択し、待つ。日本人だと分かると皆出て来て、色々と言う。何だか昔懐かしい光景である。

民宿に到着。早速肉圓を食べたが、ドロッとしたスープに丸まった肉が入っており、実に美味しい。あっと言う間に平らげたが、他にクリアーなスープまで付いており、満腹。しかも先月と違い相当暑いため、汗だくとなる。

そこへお父さんが登場し、これからの打ち合わせを兼ねて、お父さん秘蔵の紅茶を頂く。何にも入れていないのに甘い。民宿の泊り客にも勧める。何だかいい感じだ。

午後民宿夫妻と共に台湾農林の所有する茶工場へ向かう。今回のために、Jさんが三井農林時代を知る台湾人を探してくれていた。何と現役で働いていると言う。「日月老茶廠」と言うその工場は今や観光スポットであり、前回お父さんに案内してもらっていた。

お話を聞いた方は77歳。子供の頃この付近は全て茶畑であったと言う。しかも持ち主は三井農林(日本時代に日東紅茶などを台湾で生産していた三井財閥系企業)ではなく、渡辺さんと言う個人だと言う。個人がこんな広大な茶畑を、しかも紅茶を植えていたのか。しかし残念ながらこの方も子供であったので渡辺さんの印象などは全くない。

戦後台湾農林に接収されたこの工場でお茶作りをしていたが、その後故郷を離れ、別の仕事をしていたという。恐らく紅茶生産が下火になり、職を変わったと思われる。最近になり紅茶ブームが起こる。お茶作りが分かる人と言うことで呼び戻され、製茶指導に当たっている。確かにこれが戦後の紅茶史であろう。




台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(1)台北 お茶とグルメ取材に付き合う

【台湾茶の歴史を訪ねる旅2】

4月に行った台湾茶を訪ねる旅、自分の中でその反響は大きかった。全く台湾茶の歴史を知らなかったことに愕然とした。と同時に台湾の人々、お茶に関わる人々でもそれほど詳しく知っている人はいないことを発見。私の中にちょっと燃えるものが芽生える。

前回帰国前日に徐先生と交わした約束を果たすため、私は香港行きを延期して、台湾に再度向かった。2011年3回目の台湾である。しかし直前まで北京に行っていたこともあり、徐先生には直前のFaxで行くことを伝えたのみ。また黄さんにも連絡もせずに出掛けることになる。大丈夫だろうか、いやきっと大丈夫、それが台湾だから。

5月23日(月)
1. 雑誌に台湾茶の記事を寄稿

実は前回台北から戻って直ぐに1つの記事を依頼された。「台湾茶について」という非常に漠然としたテーマであり、歴史・産地・種類・淹れ方などを網羅して欲しいと言う内容。しかも期限は20日間。その間に北京に2週間行くこともあり、とても出来そうになかったが、まあ、好きな物が向こうからやってきたのだから、という安易な理由で引き受ける。

ところがお茶の淹れ方などは正式に習ったこともなく、困っていると、何と北京在住者の中に台北陸羽で本格的にお茶を習った日本人女性がいたのを思い出し、早々連絡を入れ、北京の自宅にお邪魔し、淹れ方を教えてもらった。特に陸羽はそうなのかもしれないが、日本的な文化が随所にちりばめられ、勉強になった。特に後片付けの作法やうまくいかなかった時の動作など、実にきめ細かく、感心した。

台湾の茶芸の歴史は僅か30年。また日本時代の名残で日本文化が入っている台湾ならではの茶道である。また台湾茶の歴史もちょうど旅をした後であり、より理解が深まった。こぼれ話として、魚池の新井さんの話と和果森林の石さんの話も載せてみた。今後はこぼれ話を連載化できないか検討したい。

今回記事を依頼してくれた編集長Oさんと会う。Oさんは最近締め切りに追われており、忙しい中、時間を割いてくれた。元々今年1月知り合いの紹介でお目に掛かり、同郷であることが判明。特にOさんが新聞社時代、私の実家のある街に駐在していたと言う奇遇。相変わらずご縁に支えられて、生きている。

2. 中央図書館で資料集め

今回も泊りはEz Stay。混んでいて個室にならず。何と東京のオフィスで隣に座るMさんがたまたま台湾出張にきていて、2人部屋となる。前回の15階から18階の部屋に移ったが、ネットが繋がらずちょくちょく15階に出入りする羽目となる。4月と違い、5月後半ともなると台北はかなり暑い。Mさんと二人、眠れぬ夜を過ごすこととなった。

翌朝、Mさんと朝食を食べに外へ出た。ホテルの裏には何軒もの朝食を出す店が並ぶ。サンドイッチも麺もある。我々は今回、おにぎり、に挑戦。おにぎりと言っても日本のおにぎりではなく、かなり巨大な物体。中に好きな具を詰めるのだが、肉あり、卵ありでギューギュー詰めている。これはこれでなかなかイケル。

その後Mさんと別れて、徒歩で中央図書館へ。二二八公園を超えて、少し歩くと中正記念堂がある。その真ん前。しかし二二八事件の時、この辺りをデモ隊が占拠。そこがその後中正記念堂になるとは何たる歴史の皮肉。

図書館はかなり大きい。大きなバックは全てロッカーに預ける。外国人でも入ることは出来るが、何と私はパスポートを忘れてしまう。ダメもとで聞いてみると、入ることは可能とのこと。取り敢えず入り、PCでお茶関係の書籍を検索。

そして係の女性に本が見たいと言うと「あれ、カード持ってないの」と聞かれる。万事休すかと思うと、快く本を探してくれる。この辺が規則にうるさい日本と柔軟性が高い台湾の違いか。更に検索を掛けたいと言うと「本当はダメなんだけどね」と言いながら、数冊の本を探し出し、見せてくれた。これはもう外国人に対する個人的な親切だろう。

結局思うような資料は見付からなかったが周辺資料をいくつかコピーして帰る。それにしても、戦前の日本時代の資料は殆どなかった。国民党が入ってきた時に焼いてしまったと言う話は本当だろうか。歴史は全て中国史となった台湾に、日本時代の資料は不要なのだろう。

3.台湾をよく知る日本人と会う

ゲストハウスオーナーのHさんに誘われて、お昼に向かう。Mさんも一緒だ。Hさんから地下鉄バスカードを借り、早々乗ってみる。北京でもバスを使い放題に使った私だが、台北のバスは地下鉄と料金はあまり変わらず、面白味は少ない。それでも降りる乗客に向かい「謝謝」などと頭を下げる運転手もいて、如何にも台湾的。

しかし20年前台北でバスに乗るのは命がけ、などと揶揄されるほど、安全面に問題があった。何しろ運転手は早く運転するのが良いとされ、上極の安全を顧みない急な追い越し、バス停飛ばし、急ブレーキ、などが横行。実際に知り合いの駐在員は赴任早々急発進で手を着き、骨折。また別の人は急ブレーキでむち打ちになっている。今が如何に改善されたか。

そごうで待ち合わせ。このそごうも懐かしい。20年前の駐在時、何かと言えばそごう、であった。日本食もあったし、日本の本も売っていた。当時は地下鉄もなく、不便な印象があったが、現在では街の中心。そこへLさんはやってきた。台湾在住30数年?ジャーナリストとして、数々の人脈を持ち、蒋経国時代の台湾を知る人物だ。

皆で近くの広東料理屋へ。台湾の広東料理は昔懐かしい味で大好き。昼から大量の注文で大満足。その中でLさんに台湾の政情について意見を聞く。「来年の総統選挙、接戦には成るが、最後は国民党だろう」との結論。但し選挙は水物、何が起こるか分からない。それにしても馬英九が再選されれば、中国と更に接近し、その内一緒になるのではないだろうか。以前であればそんな話はなかったが、最近の経済的な影響力は中台を相当近づけている。しかしそれは日本にとって良いこととは思えない。

その後広東料理屋の向かいにある和昌茶荘に移動する。和昌茶荘は渡辺満里奈の本で紹介され、日本人に有名なったお店。現在は女性を中心に常に日本人客がいる。私が初めてこのお店に行ったのは20年以上前。当時は先代の張さんが頑張ってお店をやっておられた。勉強熱心な人だった。最近はあまり来ていない。

Lさんがつかつかとお店に入ると、現在の店主の張さんが親しげに迎える。先代時代からの古い付き合いだと言う。店に居た台湾人客とも旧知の仲で、日本語で挨拶が飛び交う。何だか不思議な感じ。台湾茶の歴史について聞くと、2-3人が色々と考えてくれる。有難い。

しかも我々はお客ではないと断りながら、1つのテーブルを占拠。ここでミーティングを始めたが、誰も気にしない。店の人は時々お茶を淹れてくれ、いつまでもいていいよ、という顔をしている。何だか申し訳ないような、営業妨害のような、なんというか。これぞ台湾かもしれない。

4. 取材に付き合う

ゲストハウスのオーナーHさんにはもう一つの顔がある。それは「歩く台北」と言うガイドブック(http://www.yyisland.com/yy/tpe/)の製作者。そもそも私がゲストハウスに泊まったきっかけも、こちらのルート。

Lさんのお話を聞いた後、肩が凝ったなと言うと「いいマッサージ屋がある」とHさんに紹介され、ゲストハウスの道の対面にあるビルへ。「知足健康中心」は脚マッサージに店かと思ったが、全身もやっている。症状を告げると即座に全身マッサージへ。

女性ではあったが、揉み方は強く、的確。そして首の周りの凝りを解していく。先日北京で行き付けの「邱和堂」(http://qiuhetang.at.webry.info/)で何回も解してもらいながら、また凝ってしまっていた。ようは体に力が入り過ぎ。生活を考えなければならない。特にPCの時間を減らさねば。60分間、じっくり揉んでもらい、かなり回復。「歩く台北」ガイドブックを持参すると割引も得られ、ちょっとお得な感じ。

そして夜はHさんの取材に参戦。ちょうどガイドブックの改変期であり、自らが食べて美味ければ掲載すると言うHさんに付いて、再びそごう付近へ。行ったお店は四川料理、客家料理、海鮮料理と書かれており、かなり庶民的な、しかしこぎれいな所。中に入ると会社帰りのサラリーマンがビールなんか飲みながら楽しそうに話している台湾の居酒屋?

料理はなかなか美味い。特にいんげんと揚げた大腸の炒め物が絶品。酒のつまみに丁度良い。このお店は一皿100元を売り物にしているようだが、130元、180元などもあり、メニューは非常に多彩。そして何と日本語メニューも備えており、日本人にも是非来て欲しいと老板は言う。彼は元コックで自らの店を持ったようで、味にはうるさい。独創性もありそうだ。こんな店が台北にはひしめいている。食の質が上がるのは当然と言えよう。

更にすぐ近くにティーラウンジ、御茶園を見学。現在台湾では烏龍茶や緑茶とフルーツなどを混ぜて飲む飲料が流行。このお店はかなりきれいで店内で飲むこともでき、場所が良いことから流行っているのだろう。夜も9時過ぎでも、行列が出来ていた。はて、このお店はHさんに採用されるのだろうか。我々は何も飲まずに撤退した。




台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(7)台北 台湾茶のルーツを

18. 二二八事件発祥の地

翌朝一番で恵美寿の黄さんを訪ねた。勿論魚池を行ったことを報告するためだ。黄さんは私の報告を満足そうに聞いてくれ、色々と話をしてくれた。そして一言、「新井さんや日本時代の日本人の功績は大きい。しかしそれを誰も書いていない。我々は既に日本語世代ではない。もし我々がいなくなれば、もう後は日本時代の話が分かる人間はいなくなる。日本人として是非とも新井さん達のことを書き残して欲しい。」と。

これには大きく頷いたものの、難題があった。「黄さん、何か資料ないですかね?」思わず尋ねた。すると黄さんははっきりと「ない」と言う。あれば誰かが書いていたということだろう。それにしても一体どうやって書けと言うのか。黄さんも勿論考えていた。

「徐先生しか分からない。紹介するから徐先生の所へ行け。」また指令が下る。しかし徐先生とは何者で、どこにいるのだろうか?それを聞こうとしているとお客さんが入ってきた。それはお客ではなく、雑誌の取材に来た女性記者2人組。黄さんは私の方から意識が離れてしまい、記者に向かって昨今の茶業について語り出す。

茶の特集記事を書くと言う記者は事前に質問をメールしており、話題はそちらへ。黄さんは質問に対して熱弁を持って回答。20分ぐらいで話を切り上げ出掛ける。私も当然のようにお供する。どこへ行くのか?ちょうど店の向かい側で媽祖の周年行事が行われていた。台湾人にとって如何に媽祖が大切な存在であるか、それは海を渡ってきた大陸系にとり、命を預けた相手であり、無事に台湾へ運んでくれた恩人なのである。粗略には出来ないと言う。

「材木街」と呼ばれ、木材加工業が今も軒を連ねる寧夏路を南へ下る。直ぐに警察署が見える。市政府警察局大同分局。昔の台北北警察署。台湾に議会を請願した林献堂、蒋渭水両氏が逮捕・拘留された場所だそうだ。建物は日本時代によく見られる赤レンガ。

更に下ると静修女中と言うカトリック系の女子高がある。1917年スペイン人神父により創立されたと言うが日本時代は日本人も学んでいたのだろうか。それとも台湾人のためにあったのだろうか。

南京西路で右折。ここは昔円公園(円環)と呼ばれた繁華街。私が初めて台湾に行った1984年には道の両脇びっしりと屋台が並び、非常に賑わっていたが、現在では円形の建物を作ってしまい、結果的に機能しなくなっている。夜市としては、北側の寧夏夜市が有名で、ここの食べ物は美味しいと評判。残念ながら最近は朝寧夏路に来ることが多く、夜の味わいを知らない。

黄さんが立ち止まる。向かい側に巨大な法主公廟と書かれた建物が聳える。何だ、あれは。2階から4階まで廟である。元々はこの辺りで茶葉取引で財を成した商人たちに信仰されていたという。何故このような形になったのだろうか。

しかし黄さんが立ち止まったのは、別の理由からだった。男装社と書かれてビルの前に碑があった。「二二八事件発祥の地」。1947年に闇タバコ取り締まりのいざこざから端を発したこの事件は国民党による台湾人数万人の殺戮に発展、台湾全土を恐怖に包み込んだ。その様子は1989年に公開された「悲情城市」と言う映画に詳しい。当時私は台北に駐在していたが、戒厳令解除が間もなくのこともあり、二二八を公に語ることはタブーであった。東京でこの映画を見て「こんな映画を作って大丈夫か」と言うのが率直な印象であった。

官吏によるタバコ強奪、それがこの場所で起き、そして今では碑が建っているが、残念ながら気に留める人は多くない。時代は過ぎて行ったのだ。今や中国大陸との経済交流の活発化が、台湾人、特に若い台湾人の抵抗感をかなり薄めている。

19.茶葉公会を訪問

台湾には茶に関する組合が3つ存在する。その理由が行政による縦割りと聞けば、日本を想起する。先ずは台湾区製茶工業同業公会へ。南京西路よりちょっと入ったビルにあり、普通では分かり難い。

ここでは総幹事の藩さんが対応してくれた。中国大陸各地の茶処との交流を物語る茶餅や額など記念品が展示されている。日本語で作られた茶に関するDVDも流してくれたが、話は専ら法輪功へ。何故なら2人の記者は「新紀元」という法輪功系の雑誌社の人間であったからだ。中国大陸では法輪功はご法度だが、ここ台湾ではごく普通に活動しており、健康のために修練する人が結構いると言う。

ここで1冊の本を貰った。「台湾の茶」と言う題名。著者は先程黄さんが紹介すると言っていた徐先生だ。徐先生は元茶葉改良場研究員とある。この本を徐先生は先ず日本語で書き、日本で出版、その後製茶公会が国語に翻訳して出版したそうだ。これだけの立派な本を日本語で書けると言うだけでも尊敬できる。お会いするのが楽しみになる。手掛かりは得た、と思えた。しかし公会にも日本時代の日本人に関する資料・情報は残念ながら残されていなかった。

昼の時間となり、黄さんより「台北で一番美味しい魯肉飯を食いに行こう」と声が掛かり、出掛ける。お店は小さく、満員。何とか席を確保し、魯肉飯(沢庵が一切れのっている)と肉のスープを食べる。私は元々魯肉飯が大好きであるが、確かにここのは昔懐かしく、旨い。大満足。

午後は台湾区茶輸出業同業公会と台北市茶商業同業公会へ行く。この2つは同じ場所にあり、スタッフも兼業のようだ。公会には台湾茶の歴史が飾られ、早期の買弁、李春生が台湾茶業の父と書かれていた(ちょっと驚き)。昔茶葉を包んだ包み紙の展示もあり、なかなかいい雰囲気。

ここには媽祖が祭られており、皆で拝する。以前は別の場所にあったものを、ここへ移したと言う。早期には中国大陸から海を越えて台湾にやってきた人々、そして茶師を招き、茶を作り、その茶を輸出した。全てにおいて海が関係し、今より遥かに危険な航海の中、無事でいられるのは媽祖のご加護という訳だ。その精神は現在でも続いている。

20. 大稲埕
黄さんに率いられて大稲埕へ。河沿いに城門のようなものがあり、「大稲埕」と書かれている。大稲埕は清末から日本統治時代にかけて,経済、社会、文化の中心地として台湾の発展の中心地であり、かつ人文等の学術の中心地でもあった。

埠頭から淡水河を眺める。往時を偲ぶものはあまりなく、僅かに清代に台湾で使われていた唐山帆船の模型が展示されるのみ。対岸には高層マンションが並び、橋がきれいに架かっている。なかなかいい風景である。

この埠頭付近には1860年代以降、茶商が並び、淡水側上流から運ばれた茶葉を収集し、中国大陸へ送り出していた。特に1880年代、地方有力者であった林維源と李春生は、大稲埕に建昌街(現在の貴徳街)を整備し、ここに洋風店舗を設立、それの貸し出しを開始し、洋風建築を用いた商業活動が行なわれるようになった。日本時代に入った1896年には人口3万人の一大都市となり、茶商は252を数えたという。

その貴徳街に行って見た。非常に細い道であり、当時は広い道がなかったのかと訝る。今は殆ど昔の面影はないが、道の真ん中まで来ると古いバロック風のがっしりした建物が目に入る。これが1923年に建造され、唯一取り壊しを免れた錦記茶行である。

3階建てでバルコニーもあり、窓も独特でかなりおしゃれな様子。台湾初の水洗トイレがあったとか。ちょうどこの年台湾を訪問した昭和天皇(当時は皇太子)も見学に来たとの話がある。1階部分は数段高くなっているが、これは淡水河の氾濫に備えたもの。

現在は使用されておらず、何となく薄暗い印象を与える建物ではあるが、当時は相当豪華な風情であったことだろう。ここにも茶商の力がどの程度の物であったかが見て取れる。

更に行くと「李春生記念教会」がある。李は外国人宣教師と出会い、洗礼を受け、クリスチャンとなった。同時に英語も習得し、1865年に樟脳の視察で訪れたイギリス商人ジョン・ドッドの買弁として、大いに活躍した人物である。当然巨万の富を築き、この教会もその資産の一部で作られたのだろう。

またその反対側にあるレンガ造りの建物は「港町文化講座」。1921年林献堂、蒋渭水両氏により設立された非武装の民主団体。後に両氏は台湾の議会を請願して逮捕される。因みに蒋渭水氏の記念公演は黄さんのお店のすぐ近くにある。

最後に老舗の茶荘を訪問。王錦珍茶荘という名前のその茶荘は大稲埕埠頭の脇、貴徳街に入る道の所にあった。中に入ると先客がおり、話が弾む。聞けばこの主人、広東の方で商売をしており、現在茶葉収穫の季節に合わせて、帰郷しているらしい。店は昔の造りで、奥には茶の缶が並び、如何にも茶商と言う雰囲気が出ている。

我々の横をスーッと通り抜け、外へ出た老人がいた。主人の父親だと言う。にこやかに、そして無言で去る。この人が先代、王明徳さんかなと思ったが、誰も尋ねないので聞きそびれた。




台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(6)埔里 ご縁で魚池茶業改良所へ

4月24日(日)
16. ついに魚池へ

翌朝起きると、民宿のご主人、兄妹のお父さんである梁さんが待っていてくれた。先ずは朝食を頂く。眺めが絶景の母屋でテーブルに着く。腐乳、卵焼き、ゴーヤの煮物、アスパラガスのお浸し、そして地瓜のお粥、実に丁寧に作られており、コンパクトで美味しい。日本の旅館の朝ごはんを思い出させる。

そして荷物を纏めて、梁さんの車に乗り込む。はて、どこへ行くのだろうか。何と家族連れのお客さんと一緒にブドウ園に行くと言う。何だか久しぶりだったので着いて行く。そのブドウ園は不思議であった。何とブドウが木になっていた。それも幹に直接ブドウが付いていたので、ビックリ。ちょっとグロテスク。ブラジル産とのこと。子供たちは大喜びで盛んに採り、そして頬張る。

お客さんと別れ、梁さんと二人旅へ。日月潭に道を取る。20分ほど行くと最近出来たという向山遊客中心へ行く。ここからの眺めが良いと梁さんが気を使ってくれたのだ。日本人が設計したと言う建物は低く湖を捉えており、なかなか優雅な造り。中には日月潭の文化や歴史が展示されており、日月潭紅茶の宣伝にも余念がない。

そして愈々魚池の茶葉試験場へ向かった。ここは日月潭の水里から少し行った小高い山の上にある。本来であれば歩いて散歩がてら上るらしいが、今日は時間もないので、車で上へ。アッサム種の茶樹を両側に見ながら上ると、試験場へ到着。ここからの眺めはよく、日月潭が一望できた。今日は土曜日であり、多くの人がここからの眺めを楽しむ。

梁さんは門番に「知り合いがいるので中へ入れて欲しい」と交渉を始めたが、頑として聞き入れたれない。土日は開放しなようだ。それはそれで仕方がないが、試験場の建物の後ろに見える木造の建物が気に掛かる。梁さんによれば、あれが日本時代に建てられた茶工場で現役だと言う。やはりここで紅茶の研究をし、紅茶を作っていた日本人がいたのだ。

写真を撮りながら少し下る。するとそこに記念碑が見える。「故技師新井耕吉郎記念碑」と書かれており、その横の解説を見ると何と「台湾紅茶の守護者」とあるではないか。この人は一体誰なんだろうか。どうしてここに碑があるのだろう。よく読むと新井さんは日本時代の最後の所長だったようだ。それでも碑が建つのだから余程の貢献があったのだろう。実に興味深い。しかし梁さんに聞いても分からないと言う。この碑は古いが新井さんのことが語られたのはごく最近のことらしい。兎に角よく分からないが面白い物が出て来た。

山を下り、水里へ戻り、大来閣というホテルに入る。何故ここに来たのかは分からない。何と天福銘茶でお茶を飲むらしい。正直天福はお土産物屋さん、というイメージしかなく、ちょっと身構える。梁さんは駐車スペースが無いとボヤキながら、いきなりホテルの横に停めてしまう。いいのだろうか。すると店から女性が出て来て、駐車スペースを空けた。

この女性、童さんは梁さんと同窓生。30年に渡り、茶の販売に携わってきたベテラン。淹れてくれたお茶もどうやらお店の物とは違うらしい。「お茶が美味しいよ」、とか「買ってね」、などは全く言わず、返って、「ここからの日月潭の眺めは最高よ」と言い、外へ出るドアを指さす。確かにここは絶好のロケーション。写真を撮る。

童さんの話によると「試験場の新井さんに関してはこのホテルの総支配人が詳しい。3年ほど前、新井さんの親族がここを訪れた際も、彼が案内していた」と言う。これは貴重な情報だ。新井さんの子孫は台湾に関わりがあるようだ。しかし残念ながら総支配人は休日で出勤していなかった。次回を期そう。

埔里へ戻る途中、製茶工場を見学する。ここも魚池にある。行くと古そうな工場であった。日本時代の建物ではないとのことであったが、年代を感じる。中は最近の流行を取りいれ、ショップがある。その奥には現役の製茶場が見える。「台湾農林魚池茶葉製茶工場」と書かれている。周辺には茶樹が植えられており、この付近が茶園であることも分かる。

ここはもしやすると終戦後日本から接収した場所ではないだろうか。そう思いながらも確認できるものは見付からない。辛うじてこの工場が1959年に建造されたものであることがプレートから見えたのみ。日本時代の紅茶との関わりは謎のまま、取り敢えず黄さんの指示にあった魚池訪問は一応無事に終わった。

17. 埔里の日本人ロングステイヤー
ランチの時間になる。夕方には台北に戻りたい私。梁さんが最後に連れて行ってくれた場所は何と日本食堂。埔里の街中にはあるが、ちょっと分かり難い場所。梁さんによれば、「日本人で定年退職した方と台湾人の夫婦がやっている。週に二日は休みだから、今日はやっているか心配。」と言う。

到着すると驚くことに民宿の家族全員が集合している。しかも私が部屋に忘れたタオルも持ってきてくれていた。これには感激。既に大分待たせたらしく、美味しそうにカレーを食べていた。私もすかさずチキンカレーを注文し、席に着く。純日本風のカレーに味噌汁が付く。うーん、なかなか良い。

ここ楽活小屋は日本人で長く台湾で勤務し、定年後ここへ移り住んだOさんと台湾人の奥さんが絶妙のコンビで経営していた。このお店にはカレーなど日本食メニューが並び、カウンターの上には煮物や卵などが置かれていた。かなり庶民的な感じであるが、店内の天井が非常に高く、山小屋風でもあり、何だかのびやかな気分となる。またOさんに台湾茶の歴史に関する資料を訪ねるとあれこれ考えてくれたが手掛かりは得られなかった。

Oさんに何故埔里に引っ越してきたのか聞いてみると「気候が良い、特に台中や高雄と比べて湿気が少ない。高速鉄道の開通もあり、交通が便利。物価も台北などより安い。」とのこと。埔里と言えば、台湾でのロングステイ受け入れの窓口的な存在。但し日本人第一号であるN夫妻が何かと話題をまき散らし、日台双方にちょっとした行き違いを発生させた場所でもある。

それでも近年埔里に住む日本人は少しずつ増加、大学の先生なども含めて10名程度が住んでいるという。確かに今回泊まった民宿を見ても、なかなか住み易そうな場所であり、空気もよい。避暑地としてはよいかもしれない。ロングステイ先としてリストには入れておこう。

そして親切にしてくれた梁さん一家と別れ、バスに乗り、台中へ。今回は行きとは違い、慣れたもの。直ぐに高速鉄道にも乗り継ぐことが出来、あっと言う間に台北駅に着いた。確かに台北は暑く感じられ、すぐに埔里が懐かしくなった。

因みに台湾の高速鉄道の乗り心地は快適。シートも広いし、台中‐台北間だと1時間掛からない。自強号だと今でも2時間以上掛かるから、かなりの短縮。しかし料金が700元は高い。バスなら140元だそうだ。次回はバスを検討しよう。



台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(5)埔里 日本時代の茶樹と民宿

14. 和果森林

車で15分ほど行くと陳さんの店である和果森林が見てきた。何だかコテージ風で面白い。2階に上がると人で溢れていた。確かにここで昼ごはんは食えない。まるで観光地の土産物売り場の様相。何だここは。

見ると紅茶作り体験コーナーあり、紅茶試飲があり、観光バスで乗り付けてくる。特に今日は土曜日で親子連れが多い。私はベランダの一番端に座り、忙しい中陳さんの説明を受けた。「ここの紅茶は100前の老樹から作られている」驚きである。しかも「その老樹は日本人が植えたのである」え、なに?日本統治時代であることは分かるが、日本には紅茶鎖倍は殆どなくそのノウハウはないのでは。

陳さんは「私の義父を紹介しよう」と言って、老人がやって来る。石さん、83歳。日本語は全く話さないが国語はペラペラ。この世代の方としては珍しい。石さんの話は衝撃的。「自分は林口の茶葉伝習所で日本人より茶作りを習った」一体何年前の話だ。よく聞くと1949年頃である。伝習所と言うと何だか江戸時代の雰囲気がある。しかも日本人技師は日本統治終了後も残されており、台湾人に教えていたというのだ。

「日本の先生たちの技術、知識レベルは高かった。例えば紅茶にはミルクを淹れない方が良いと言うのは最近言われていることが、私は伝習所で既に習っている。日本人はきちんと研究していた。」「あの頃台湾人は金がなかったけど、伝習所は無料だった。有難かったな。」と石さん。そして1年で卒業すると地元に戻り茶工場に就職した。

その茶園は終戦前持木さんと言う方が所有しており、終戦で台湾政府に接収された。「持木さんは一銭ももらわずに帰って行った」と言う。石さんはそこの主任としてお茶作りに務めたが、台湾紅茶の名声は低く、戦後長い間、苦難の道を歩く。「多くの農家が茶樹をつぶしてビンロウ樹を植えたよ。そっちの方が管理は楽だし、儲かったからね。」「でもうちは違った。必ずここの紅茶は復活すると信じて、老樹を守ってきたんだ。」

そして転機は1999年の921大地震。埔里一帯は壊滅的な被害を受ける。「市長が町おこしの一環でここの紅茶の注目した」ことにより、宣伝が始まり、震災という悲劇と相俟って、日月潭紅茶として見事に復活。和果森林はその象徴として、評判を取り、現在のようなブームが起こった。

石さんは3時間余りも疲れた様子もなく語り続けた。こちらが気を使って「そろそろ夕方ですが、この辺に宿はないでしょうか」と聞くと奥から名刺を取り出し、「民宿に泊まるか」と聞く。

15. 埔里の民宿に泊まる
その後石さんは話し続けた。いつ切り上げたらよいのか、そしてその民宿へはどうやって行くのか、気に掛かる。すると石さんの向こうに一人の男性が座った。そして何をするでもなく、手持無沙汰にしている。おかしい?ようやく石さんは「民宿行くか」と聞く。ハイ、と答えるとその男性が私のリュックを掴んで立ち上がった。あれ、何と民宿から迎えが来ていたのだ。バンに乗り名残惜しいが石さんとお別れする。

若者は民宿を手伝っているという。本業を聞くと「昨年地元の国立大学の大学院を卒業した。専攻は中国史。」ということで俄然話が弾む。しかしなぜ院卒で実家の手伝い?「実は台湾の田舎では就職先がない。昨年警察官の試験に落ちたし。」え、大学院を出て警察官?「そう、警察官は残業もあり手当がいいんだ」え、でも「勿論普通の公務員はもっといいが、今や1000人受けて受かるのは10人程度。警察官なら100人で7人だ。」そうなのか、そんなに厳しいのか。

と言う会話の間にも、車は埔里市内から山へ向けて上っていく。民宿が山の上のあるのか、それと途轍もなく不便な場所にあるのか。考え始めたころ、車が如何にも別荘に入り口と言う雰囲気の中へ入る。目に入ってきたのはまさに別荘。こんな立派な所に泊まるのか。料金すら聞いていない。

3つある建物のうち、母屋と思われるところへ案内される。おしゃれな喫茶コーナーがあり、向こうは崖。山から下が一望できる。部屋はここから階段を降りる。中に入るとおしゃれな部屋、そう女性が好みそうなペンション風。窓からは同じく風景が一望できる。何と贅沢な。

するとさっきの若者が「蛍見に行くか」と聞く。蛍は鹿谷で十分見たのだが、面白そうなので着いていく。他に台湾人とシンガポール人の団体が一緒。大勢でまだ陽も落ち切らないうちに出発。蛍見学の場所には既に警官まで出ており、先日とは打って変わった様子。蛍がチラチラ見えたが、それで十分。

「食事はどうする」と聞かれたので何でもよいと答える。何と彼と妹が一緒に食事をしてくれた。しかも場所はイタリアンレストラン。ちょっと隠れ家風に、さり気無くあるそのレストランはおしゃれ。味もまあまあで、面白い。

実はあの民宿は8年前に彼らの両親が購入、台南から引っ越してきたのだという。地元の人間ではなかったのだ。そしてなぜかお父さんは引退し?妹が責任者であるという。それで飾りが女性らしいのか?

台湾中部埔里に来ています。前回宿泊した民宿「松濤園」にお世話になっています。
この場所が気に入り、1か月前に来たばかりでまた来てしまいました。

埔里は夏は涼しく、冬は暖かい、過ごし易い気候、高原の爽やかな雰囲気は軽井沢のよう。



日本の民宿とはイメージが異なり、別荘を利用した高原のペンションです。家族経営で親しみやすく、清潔感もあり、何よりも爽やかな空気が心を和ませます。



ここのご主人梁さんはお茶好きでもあり、私の名ガイド役として、色々な場所に連れて行ってもらっています。



特に朝ごはんは美味しいですよ。 




豊かな景色ときれいな空気、一度泊まってみると面白いと思います。


「松濤園」
電話:886-49-2911291 携帯電話:886-921-126871、886-921952557
E-mail:pine.puli@msa.hinet.net
http://songtao.nantou.com.tw/



 

台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(4)凍頂山と特等茶

4月22日(金)
11. 凍頂山を登る

翌朝は早く目覚めた。昨晩の蛍の興奮であろうか、または教会に戻ってから聞いたU君の台湾茶への道の話のせいであろうか。本日は当初U君が茶作りの入る可能性があって、同行するつもりだったが、延期となりすることはない。

先ずは朝飯。小雨の中、バイクに跨り、U君行きつけの食堂へ。ここでチキンバーガーと豆乳を取る。このチキンバーガーがまたなかなかイケていた。店の夫婦はU君に「帰ってきたのか」と喜ばしそうに声を掛けていた。U君は地元に受け入れられている。

そして雨も上がったので、凍頂山を登ってみることにした。バイクで行けばすぐだと言われたが、折角なので歩いて登る。標高は800mないとのことで、高を括っていたが、以外ときつい上りもある。陽も高くなり、暑さがじわじわやって来た。周囲はビンロウ樹が高く聳えており、茶畑は見えない。歩くこと40分、ようやく頂上付近に出る。村があり、茶畑が見える。それにしても広くはない。凍頂烏龍茶は大いに出回っているのに、一体茶葉はどこから来るのだろうか。Uさんがバイクで迎えに来た。

老樹はあるのだろうかとの私に質問にUさんはいとも簡単に「その辺で聞いてみましょう」という。すぐにバイクを走らせ、ある農家のビニールハウスを覗く。おじさんが作業中、そこへ声を掛け、何と案内を乞う。おじさんもすぐに対応してくれ、歩いて茶畑の中へ。「ここだ」と言われたその場所には、読めなくなった看板があり、切り株のある老樹が根を張っていた。しかし言われなければこれが100年前の木とは思わない。

そして向こうを眺めると、ちょうど茶摘みが行われていた。興味深くそちらに向かう。おじさんがお婆さんに声を掛ける。何と80歳で茶を摘んでいる。しかもその手のスピードの速いこと。少し習ったぐらいではとても出来ない。と思っているとおじさんもやり始めた。これまた手馴れている。「この辺の人間は子供の頃、好きでも嫌いでも茶摘みをやったもんだ」と懐かしそうにしている。

実はこのおじさん、農家が嫌で都市の銀行に勤めていたらしい。ところが数年前、都市生活に疲れて、地元に戻り農家に復帰した。そう思うと、先程の茶摘みはとても感慨深いものがある。人間は収入を求めて都会へ出るが、いつか自然に帰りたくなるもの。是非写真に納めたいとカメラを向けるとなぜか電池切れとなり、貴重な写真を撮りそこなった。

12. 特等茶の店
凍頂山からの帰りは、Uさんのバイクで楽々帰還。そのまま観光案内所に向かう。鹿谷での活動はあまりないので、次を考え始める。どこへ行くべきか、どうやって行くのか。観光案内所で時刻表付き地図を貰えば考えも涌くと思ったが、既に案内本はなくなっていた。

そこへ向こうからUさんに声が掛かる。茶を飲んで行けと言う。聞けば、観光関係の会社の人らしい。Uさんはどこにでも顔が効く。春茶はまだ出来ていないようで、冬茶が登場。最近の観光業は中国大陸頼み。ここ鹿谷にもやって来るが、金持ちのお茶好きが『来年の凍頂烏龍茶を全部予約する』といった話が横行し、大陸恐怖症になっている者もいると言う。札束で横っ面を張り倒すようなやり方は好まれるものではない。

午後は茶業文化館へ。ここには鹿谷のお茶の歴史などが展示されていて面白い。入るとまず目に飛び込むのが昨日お目に掛かった林光演さんの写真と説明書き。そうか、こんなに偉い人だったのかと再認識。

そして雨が降り、することもなく、Uさん行きつけの茶荘へ。玉春茶坊と言うそのお店、凍頂茶王と書かれた入り口には、特等賞の看板がずらりと並ぶ。品評会で高い評価を得ているようだ。中に入るとお茶の香りがぷーんとする。

林さん親子が経営している。息子は品評会用の茶作りの真っ最中。茶葉3gを正確に測り、浸す時間もきちんと計る。茶碗に入れて、レンゲですくって飲む。色、香り、味と試していく。とても忙しい時に来てしまったようだ。それでも一緒になって、品茶を行い、味を確かめたりした。それも真剣そのもの。商売上では品評会で評価が得られるかどうかが、鍵だと言う。顧客も入賞したお茶を求めるのだから、仕方がないのだろう。

お父さんは学校の先生もしていた人格者。息子が後を継ぐと言うので手伝っている。雨が止まない中、2時間もここでお茶を頂く。冬茶を濃く焙煎したお茶はなかなか美味しい。ここでは阿里山、杉林渓など、各地からお茶を集めて、加工する。店にいる間にも春茶の原料が運び込まれる。何だかお茶作りの関わっているようで、気分が出る。

そしてお母さんから夕食を食べていくように言われる。Uさんも家族の一員のように食べていく。非常に溶け込んだ様子が嬉しい。一番忙しい時でもこのようにして貰えるのは日頃の彼の成果であろう。

4月23日(土)
13. 埔里へ行く

翌朝Uさんは7時前に茶作り小屋の整備の仕事で出掛けてしまった。取り敢えず今日は日月潭方面に向かう。それは台北の黄さんが「魚池へ行け」と言っていたからだが、正直その魚池がどの辺なのか分からない。何となく日月潭あたりという情報のみ。

日月潭に行くには一端台中まで戻り、そこから出直すのが良いとのこと。ところがその台中行きのバスが、何と10時半までないのである。仕方なく、ブラブラしながらバス停を確認。ちょうどのその前でビニールを張った小さなお店が出ていたので覗く。割包という食べ物が目に入る。食べてみる。マントウを割いて中に豚の角煮他を入れている。なかなかイケル。

若い女性が一人でやっていたので聞いてみると半年前まで台中で銀行に勤めていたが、結婚により旦那の実家がある鹿谷に越してきたという。ところが旦那は依然台中で仕事をしており、3日に一度しか戻らない。日本なら勿論彼女も台中で銀行勤めを続けただろう。ところが「台湾の田舎はそうはいかない。結婚というものは妻が旦那の実家に入るもの。」と言い、その寂しさからお店を始めたらしい。何とも昔風な話であるが、それが鹿谷にはよく似合う。

バスには数人しか乗っておらず、危うく私の待つ停留所を通り過ぎようとした。それ程人が乗らないと言うこと。バスはあっと言う間に山を下り、1時間で台中の高速鉄道駅に到着。ここで知り合いから紹介された日月潭の紅茶屋さんに電話を入れる。すると「日月潭ではなく、埔里行でよい。しかも終点ではなく、交流場で降りろ。」と言う。分からないので切符販売所で聞くと「確かにある」との答え。運転手も頷いたのでバスに乗る。

40分ほどして、バスは高速道路を下りた。恐らくここが交流場であろうと運転手に行きと「そうだ」と言うので降り、電話で迎えを頼む。ところが待てど暮らせどやってこない。電話があり「どこにいるんだ」と聞かれたが返事のしようがない。懸命に周りの風景を伝えたがピンとこない。最後は近くに家の住居表示を伝え、何とか迎えが来た。

陳さんは非常に元気な人で、若く見える。食事を取っていないと言うと「餃子がウマいから食え」と買ってくれる。そしてなぜか車の助手席で食え、とも言う。箱に10個の蒸し餃子。陳さんが覗き込むようにウマいかと聞く。何と陳さんは「僕は肉を食べないからこれがウマいかどうかは知らない。でもみんながウマいと言うから勧めた。」と実に正直に話す。確かにこの餃子は肉汁も含めて実にウマかった。



台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(3)鹿谷 凍頂烏龍茶の歴史

8. 鹿谷へ 一日一往復のバスに乗る

黄さんと別れ、少し早目の昼食へ。台湾に来たら弁当を食べる、これは鉄則である。ゲストハウスの裏にはいくつものの弁当屋があったが、まだ時間が早い。それでも入って来る客を拒みはしない。自助餐という形式でおかずが並んでおり、好きな物を指すとおばさんが取ってくれ、ご飯を盛ってくれる。スープは自由に取る。あー、これは幸せだ。僅か60元、ちょっと油っぽいが何だかうまい。

今日はこれから未知の場所、鹿谷へ。一体どうやっていくのか。Kさんの秘密兵器、鹿谷で就業する日本人、Uさんからは『鹿谷直行のバスを予約しておきます』と言われていた。一日一往復しかないこのバス、昨日連絡を入れたが、『当日また電話して。待ち合わせ場所と時間を決めるから。』との返事。これは面白い。

食事後恐る恐る電話すると『運転手から電話させる』と。あれ、誰が運転しているんだ?そして運転手から『新光三越の前で待ってて』と言われ、待ったがなかなか来ない。すると一台のタクシーがスーッと前に止まり、私の荷物を運ぼうとする。タクシーなの?訳は分からないが、助手席に乗り込む。運転手に鹿谷の話など向けてみるがイマイチ反応が鈍い。まあいいや、これで寝ていれば鹿谷到着だと高を括って、本当に寝入る。いつの間にかタクシーは板橋(台北郊外の地名)の路地裏で女性を乗せ、また道路わきで老夫婦を乗せていた。乗合タクシーだと思っていると、急に起こされ、『乗り換え』を告げられる。

そしてそこには若者が一人、9人乗りのワゴンと共に待っていた。そう、タクシーで人を集め、集合してから出発する形態だったのだ。車にはなぜか10人乗っていたが、気にしない。比較的老人が多い。中には老人一人での帰郷という感じで、若夫婦が運転手に何度も世話を頼んでいるケースもあった。車内は全て台湾語である。

高速で2時間ほど南下、ドライブインでトイレ休憩。その後ちょっとして最初の乗客が降りた。それから30分ほどして、道が登り始め、山の中へ入っていく感じが出て来た。かなり上った段階で人が降り始めた。一人ずつ目的地まで運んでいく。自宅から車の迎えが来ている人もある。近所の人と再会のあいさつを交わす人もいる。何だか懐かしい光景が目に入る。

さて、私は降りる場所は『教会』となっている。どこにあるのかと見ていると運転手の若者が携帯で私の到着を告げている。教会の前で降りるとそこにはUさんが立っていた。何とも便利なシステムである。これは地元の人々の利便のため、若者が始めた事業らしい。こんな起業は皆に喜ばれて小さな成功を収めるはずである。

9. 凍頂烏龍茶の父 登場

Uさんに先導されて教会へ赴く。曇り空ではあるが、空気はよい。教会はこの町の大通りに沿ってひっそりと建てられている。1階は教会で2階から4階は居住スペース。牧師さんの家族が住み、Uさんも住んでいる2階の一室を与えられる。『教会に入る泥棒はいません』ということで、部屋のカギは渡されない。

部屋は入り口から一段上がっており、そこに布団が敷かれている。広さは広い。トイレとシャワーもあり、十分。4階まで行けば、無線でネットも使える。これで1泊300元。有難い値段である。勿論キリスト教徒でもない私は、Uさんの友人ということで特別に泊めてもらっているのである。Uさんが『取り敢えず行きましょう』と言う。どこだか分からないが行こうと言われれば行く。彼は階下でバイクの後ろを指し、乗れと言う。バイクの二人乗り、久しぶりだ。と言っても狭い町のこと、すぐに目的地に着く。そこは通り沿いの一軒の家。

中に入ると、2人がお茶を飲んでいた。客席に座っていたのは、阿里山から来ていた茶師の青年。これから埔里に茶作りに行くと言う。今年は例年より冷え込みが強く、どこも茶の芽の出が遅い。作業は大幅に遅れている。そして品質も?という感じであろうか。茶師というのは、お茶作りの重要なポイントである発酵や焙煎を行う人。台湾では各地で茶畑が造成されたが、この茶師は需要に追い付いていない。もう一人は何と日本に3年滞在していたというL君。日本語で挨拶する。私以外の3人はいわばプロ。皆飲み方からして違う。阿里山の高山茶新茶を飲むと、うーんと首を傾げていた。この家の跡取り息子だという。Uさんとは大の仲良し。

茶師が出発すると言うので外へ出る。そこへ向こうからおじさんが一人歩いてきた。Uさんが『光演さんだ』と言いながら、呼び止め、家の中に導く。誰なのか、この人は。この方は、この町の町長もやり、その前は農協の組合長だったという林光演氏。この方が実は凍頂烏龍茶をスーパーブランドにした仕掛け人であると聞き、驚く。

林さんは突然の質問にも丁寧に応えてくれた。凍頂烏龍茶の歴史は長く、「1855年に林鳳池が科挙の試験に合格し、その記念に福建省より持ち帰った36本の烏龍茶の苗木の内、12本を凍頂山に植えたのは我が家の祖先です」。林さんは林鳳池の親戚の末裔に当たり、凍頂烏龍茶を世に知らしめた農会の組合長であった1976年に茶の品評会を実施、一大ブームを演出した。

そこら辺に居る普通のおじさんに見える飾らない林さん。いきなりの展開に驚くものの、台湾茶の歴史を訪ねる旅に相応しい出だしとなる。

10. 夜市と蛍

夕食はL君の車で隣町竹山へ。鹿谷より大きい町とのことで、今日は週2回の夜市が立つ。行って見ると何とも懐かしい感じの夜市。80年代、台北市内でも見られた屋台が並ぶ伝統的な雰囲気。ステーキの屋台が郷愁をそそる。

先ずはオアジェ(台湾牡蠣オムレツ)を食する。これが普通のものと違って、ソースが掛かっており、中がかなり柔らかい。思わずうまいと唸る。35元、安い。次に鳥の手羽先。フライドチキンとは一味違う美味しさ。鶏肉がウマいからだろうか。そしてスイカジュースを飲みながら、焼きトウモロコシへ。これが何とのり付。恐る恐る食べるとなかなかイケル。もう何年も前からここで海苔味のトウモロコシを売っているとのこと。ふーん。

それから車を回して、渓頭へ向かった。実はL君の一族は地元の名士。昔はこの山一帯の持ち主だったというから凄い。おじいさんの記念碑があるというホテルに向かう。ここは大型施設で、別荘風の建物もあり、避暑地の装い。一度泊まってみたいようなホテルだ。ただ当日は中学生の団体が走り回っており、雰囲気に浸る状況ではなかったが。

松林町と書かれた提灯、おじいさんの日本名は松林さんだった。面白いのはこのホテルの中にパン屋があったり、コンビニは併設されていたりする。近くに商店街がこと、山登りに必要であること、そして小中学生に人気があることから、ここの売り上げは半端ではい額だそうだ。

ホテルを後にして、戻る道すがら、突然脇道に入る。何をするのだろうか。すると車のライト以外灯りがない、真っ暗な林から小さな光がぽつぽつと見えてきた。「ここは蛍の名所だ」と言われ、目を凝らすと無数の蛍が強い光を放ち始めた。少し場所を移動するとどうやらそこは沼地らしく、本当にイルミネーションにように光が蠢く。こんな光景はこれまで見たことがなかった。見ているのは我々僅か3人。何と贅沢な空間だろうか。時刻は夜10時を過ぎていた。

 

台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(2)台北 劇的な再会

4.25年ぶり、劇的な再会


Kさん夫妻と別れてタクシーに飛び乗る。今度はある友人より紹介されたBさんと会うためだ。「Bさんは昨年まで交流協会の文化担当をしており、非常に顔の広い方だから、一度会っておいた方がよい」とのメッセージを貰っていた。しかしその次のメッセージには首を傾げた。「Bさんは当日夜台北でライブをやります」、これは一体なんだ?文化担当とミュージシャンが同一人物とは??

指定された場所に着くと、車からBさんが降りてきた。如何にもミュージシャンが練習を終わってきた感じだ。喫茶店に入り、「初めまして」と挨拶した。Bさんは昨年20年勤めた先を退職、現在は日本で映像関係の仕事をしながら、歌を作り、そして台北時代に結成したバンドメンバーとライブも行っていた。ちょうど今夜がそのライブの日であったという訳だ。途中でBさんの携帯電話が鳴り、国語(中国語)で流暢に話をしていた。何か少し引っ掛かるものがあった。震災ボランティア、台湾での交流など、その後様々な話をした。共通点もいくつかあった。そして私は最後の質問をした。「その中国語はどこで勉強したのか」と。

驚いたことに彼が口にした留学先と留学時期はなぜか私のものと一致していた。「え?」突然頭の中に25年前が蘇る。「Bさん」、あー、思い出した。確かに同じ時期に上海に居た彼だ。念のため、数人の同学の名前を挙げると彼の顔も輝いてきた。因みにこの再会を当時の留学仲間に連絡すると皆一様に驚いていた。

25年ぶりに再会した。しかもこのような形で。これも最近いうところの茶縁の一つである。懐かしさがこみ上げたその時、日本人の婦人が近づいてきて、我々の再会時間が終了したことを告げた。こうなれば、夜のライブには行かねばなるまい。そして彼に会った最大の目的である台湾茶に詳しい日本人を紹介してもらわねばならない。

5. 幽玄なお茶屋さん

あまりの驚きに体勢を立て直すために一度ゲストハウスに引き上げる。MRTに乗ると、なぜかお腹がグルグルなる。余程驚いたのだろうか。トイレを探すと駅の外側だった。日本にはないパターン。駅員さんは非常に親切にドアを開けてくれた。何だか子供の頃に、こんなことがあったな、と思い出す。台湾はいつも懐かしい雰囲気を持っている。

夕方連絡があり、約束の場所に台湾人Jさんを訪ねた。これもBさん同様人のご紹介であり、初対面であった。コーヒーショップの前で待ち合わせたが、そこには入らず、少し歩く。どこへ行くのだろうか。何と到着したところは駐車場。台北も街中に駐車はかなり難しい。初めて会う人間と車で会うのは避けなければならない。

これからお茶屋さんに連れて行ってくれるという。車の中でJさんの話を聞く。日本在住10年で日本人のように日本語を話す。かなりの人脈を持っていそうで楽しみ。そして話が盛り上がった頃、ある民家の前で車が止まった。階段を5階まで上がる。こんな所にお茶屋さんがあるのか。中に入ると普通の家。日本語で「こんばんは」と笑顔で女性に言われる。奥に畳が敷かれており、そこに年齢不詳のYさんがさらりと座っていた。早速お茶を頂く。昔の包種茶は現在の物とはかなり違うのか、と質問するとYさんはおもむろに「じゃあ、昔の包種茶、飲んでみる」と言いながら、お茶を淹れてくれる。

飲めば分かる。確かに現在緑茶に近い包種茶とは異なり、発酵度が高く、香りは立たないが、味わいはある。何だか不思議な気分になる。数十年前の包種茶をマンションの一部屋で飲んでいる。思わず畳に寝転がりたくなる。この家には他に貴重なお茶が沢山所蔵されているようだ。

夕食として餃子とスープをご馳走になった。このシンプルな食事が実にこの場に合っていた。食後に部屋から屋上に出た。そこにはYさんの思いが込められていた。様々な植物が置かれていたのだ。「自分の家が一番リラックスできる空間。緑がない場所ではリラックスは出来ない。当たり前だよね。」若く見えたYさんが一瞬仙人のように見えた。

6. ライブ

時間も8時となった。Yさんのもとを離れ、次なる目的地へ。先程劇的な再会をしたBさんよりライブの前のメンバー夕食会へのお誘いだ。本来は遠慮すべきところであるが、そこに青木さんもやって来ると聞き、仲間に入れてもらったのだ。 

青木由香さん(http://www.aokiyuka.com/)、台湾在住9年、お茶にも関係した仕事をしているとのことで、紹介を受けていた。台湾に関する著書もあり、ユニークなキャラだと聞いていた。青木さんはメンバーのためにライブハウス近くの個性的なお店を予約して待っていた。さすが。

ところがメンバー以外にも数人、参加者がおり、また初対面でお茶の話を聞くなど出来る状況ではなかった。BバンドのメンバーはBさん以外の3名は若い台湾人であり、おとなしい感じであったが、皆今日の日を楽しみにしていたようで、とてもアットホームな雰囲気に包まれていた。これもBさんの人柄か。特に24歳の裕君は全盲のピアニスト、東京でのリサイタルも控えているとのことで、少し驚く。

そして食事が終わり、いよいよライブへ。ライブハウス前にはファンや知り合いは待っており、久々の再会を祝していた。Bさんの台湾生活が充実していたことを物語っている。青木さんの携帯が鳴る。何か話していたが、当然こちらを振り向き、「Yさんのお茶屋に居たの?」と聞く。その電話はYさんの所で日本語を話していた女性Lさんからであった。そして何と何と、その彼女こそが青木さんが最近立ち上げた会社の会長だと言うではないか?もうこの程度では驚かないが、やはり驚いた。青木さんとも何らかのご縁が繋がった。

いよいよライブハウスへ。こじんまりした会場で、Bバンドの演奏は始まった。Bさんとリーダーのトークが間に入り、会場は沸いていた。Bさんから中国語で「今回の震災に対する台湾人の支援に感謝する」との言葉を聞き、久しぶりに感謝を表す意味を感じた。支援も感謝も突然生まれる物ではなく、このような親密な空間でお互いが分かりあう中で生じる物ではないか。

Bさんの歌声がハウスに響く。力強い歌、色々な思いが詰まっていた。子供たちを思って作った曲も含まれており、思わず涙しそうになってしまった。感激の再会の余韻は残っていた。彼は全てを敢えて日本語で歌っている。歌詞が分からなくても、台湾の人々に十分に伝わっている様子が分かる。実に不思議な情景だった。

演奏が終了し、Bさんが一人一人の観客と固い握手を交わす。しみじみと「今日会えてよかった」と言葉を交わした。これも一つの茶縁なのだろうか。Bさんの今後の活動に注目して行こう。

4月21日(木)
7.魚池へ行け

翌朝8時、ライブの疲れがあったが?昨日会えなかった黄さんに電話する。すると「10時半には出掛ける」との答え。取るものも取り敢えず、朝食も取らずすっ飛んで行く。タクシーに乗り10分で到着。

黄さんは1980年代終わりから、台北市茶葉公会の会長を務め、現在は顧問。日本語も英語もできる黄さんは公会にとって貴重な存在であり、対外的な広報、外国人のアテンドなどは公会を代表してやっているようだ。日本をはじめ、諸外国にお茶人脈を持ち、講演をこなしてきたという。

同時に恵美寿というお茶屋さんを経営している。恵美寿はアメリカにも工場を持ち、中華レストランにお茶を供給している。恵美寿の店の名前の由来は先代が恵比須顔だったからだという。何ともユニークである。

黄さんはお茶の歴史の専門家ではない、と言っていたが、一通り台湾茶の歴史を教えてくれた。そして日本統治時代「総督府は茶葉伝習所や試験場を作って、台湾のお茶人材を育成し、また品種改良を行った。これは大変な貢献である。」と熱く語る。私が思っていた台湾茶の歴史にはなぜか日本統治時代がスポット抜けていることに気が付いた。それはなぜだろうか。そう、当時台湾の輸出品と言えば、米、砂糖、茶であったが、その内日本が必要としたのは米と砂糖。お茶は輸入する必要がなかったため、日本統治時代を研究する人からも敬遠されてきたのだ。

そして黄さんは決定的な言葉を言い放った。「あんた、必ず魚池に行きなさい」。魚池?今まで聞いたことがない地名が飛び出してきた。しかし私の旅は行けと言われれば行くのである。どうやっていくのか、今回行くのかは全くこの時点では分かっていなかった。それでも結局は行ってしまうところに私の旅の面白さがある。



台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(1)懐かしい台北を歩く

【台湾茶の歴史を訪ねる旅】

1月に4年半ぶりに台北に行った。これまで何度も訪ねた台湾だが、やはり心地が良い。理由をつけてまた行きたい。そこで今回は『台湾茶の歴史を訪ねる旅』とのテーマで台湾を歩いてみることにした。元々台湾茶は20年前からのお気に入り、そして茶旅のキーワードとしてもうってつけと一人合点して早々旅支度をする。

4月19日(火)
1. ゲストハウス

台北松山空港は一度使ったら止められない。桃園空港とは圧倒的に便利さが違う。空港では震災後の原発による放射線チェックがあったが、難なく越えた。タクシーに乗れば、瞬く間に台北駅前の本日の宿に到着。

今回は故あってゲストハウスに宿泊。正直ゲストハウスに泊まるのは数十年ぶり。何故泊まるのか。それは・・。会社を辞めて、先週からお世話になり始めたオフィス、そこはガイドブック制作会社。台北側でそれを製作しているKenzoさんが最近ゲストハウスを始めたという。よく聞けばそのKenzoさん、5年ほど前に台北で会っている。ご縁があればそこへ行くのが私の旅。

「EZ Stay」(http://www.ezstaytaiwan.com/jpn.htm)と言う名のゲストハウスは台北駅の真ん前、新光三越の隣のビルにあった。15階のベランダからは台北市内が良く見える。リビング部分は共有スペースでPCも置かれており、自由にネットが出来る。無線で拾える。個室(2人部屋)が2つ、そして女子の4人部屋がある。同じフロアーの別の場所にはドミトリーもある。

ご配慮で個室を与えられたが、早々に共有スペースに出て、PCをセットしてメールチェック。その間に宿泊者、ガイドブック制作者、以前ここに宿泊していた者など、色々と出入りがあり、各人が自然に挨拶して、自然に自分のことを始めていた。ゲストハウスは若者のためにあると思っていたが、おじさんにも楽しいかもしれない。また私が台湾茶の歴史を知りたいというと、早速いくつかの情報が寄せられた。これもホテルの部屋でPCに向かっていても出てこないこと。

その日の夜、11時半頃戻ると、明日オーストラリアに向けて出発する若者の送別会が開かれていた。クラスメートと言うグアテマラ人も駆けつけており、英語・日本語・中国語が飛び交う不思議な空間と化していた。自然に交流し、情報交換できる空間、これはオジサン旅行にもいけるかもしれない。結局寝入ったのは午前2時頃。久々の夜更かしとなった。

2. 廣方圓 (http://www.kfytea.com/jp/about.php

ゲストハウスを出て、大学の後輩と食事をした。長春路にある広東料理屋だったが、味が懐かい。伝統的な広東料理がそこにあった。料理と言うものは進化・改良が加えられていくもの。ところが香港から数十年前に台湾に持ち込まれた広東料理は進化の波から外れてしまい、結果として伝統の味を守ることがある。鹹魚炒飯などは香港でよく食べた定番。

夜10時近く、後輩と別れてゲストハウスに戻ろうと思ったが、ちょうど近くに廣方圓」があるのを思い出す。明日の活動に備えて、情報を仕入れに行く。すでに閉店の可能性もあったが、数人が茶を飲んでいた。ラッキー。

ここのオーナー湯さんは、台湾にプーアール茶を広めた女性として有名。5年ほど前にお店に行き、数回親しく話をしたが、その後全く連絡をしていなかった。今年の1月台北再訪の際、既に引っ越していた店を探し当て再会。今回も夜分の突然の訪問となってしまったが、快く話を聞いてくれた。

実は台湾茶の歴史を訪ねる、と言っても特に手掛かりがあるわけではない。事前に台湾茶に詳しく著書もあるHさんに相談すると「台北茶業公會に行くとよい。私の名前を出せば対応してくれるはず。」とのアドバイスを受けていた。明日突撃取材する予定だが、何と公会の所在地すら確認していなかったのだ。

公会の会員である湯さんは、即座に公会の常務理事に電話を入れて、私の突然の要請に応えてくれた。そして結論として、公会にいくよりも、「まずは黄さんを訪ねるべし」という結論に達したのである。果たして黄さんとはどんな人物なのか?普通の日本人なら根掘り葉掘り聞くのだろうが、私の場合、取り敢えず明日の朝黄さんの店を直接訪ねるという無謀なプランを立て、その日を終えた。

4月20日(水)
3. 老街を行く

翌朝早めに起きて、裏の食堂街へ。この付近は台北駅の近くとはいえ、どちらかと言えば学生街の雰囲気を残す。補習班と呼ばれる予備校(塾)が多くあり、食べる物も安い。一軒の食堂に入る。店頭でサンドイッチを作って販売している。卵とソーセージ、この焼ける匂いが好ましい。ミルクティが付いて、40元。僅か100円で楽しい朝ごはんとなった。この手軽さ、台湾の良い所である。

そして黄さんの店に向かう。寧夏路という台北の老街にある。この一帯は昔ながらの街で、台湾茶の歴史を語る上では重要な場所。清末から日本統治時代にかけて、に生産された茶葉をここに集め、加工し、輸出した一大拠点であった。大稲埕と呼ばれている。現在台北の中心は東側に移っており、往時の活気はないが、警察局などが古き良き建物をそのまま使用しているなど、老台北の香りをかげる場所であろう。

歩くこと30分、黄さんのお店、恵美寿(http://www.taipeinavi.com/shop/282/)に到着。店のおばさんに尋ねると、何と黄さんは出張中で、今日戻る予定だが、時間は分からないという。色々と質問を試みるが、要領を得ず、名刺を残して退散した。

仕方なくまた手掛かりを求めて、林森北路にある15年ほど通っているお店に顔を出す(http://www.taipeinavi.com/shop/306/)。ここの杜おばさんは世情に明るく、昨今の台湾の状況を聞くのに適した人物。今回は台湾茶の歴史について、聞いてみたかったが、いざ聞く段になると、台湾人と日本人の夫婦がやってきた。台湾人に嫁いだ日本人女性の話はなかなか面白ろく、話がそちらに向かってしまった。台湾の家庭では5分前まで、誰も夕飯の支度を考えず、思い付きで突然外食となる。化粧もせずに皆サンダルで出ていく姿を唖然として見つめる日本人女性、目に浮かぶようだ。

更に何とか質問にこぎ着けた時、田舎から知り合いが出て来た、と言って注意が完全にそちらに向かう。私はなすすべもなく、退散。今回はなかなか上手くいかないようだ。

お昼は吉林路へ。台湾を書かせれば第一人者の日本人Kさん夫妻と取る。執筆で忙しいKさんを無理やり誘い出した形だ。何しろ台湾茶の歴史の手掛かりを得なければならない。Kさんが連れて行ってくれたレストランは地元の人しか行かないだろうというディープなお店。メニューもなく、注文はKさんがあっという間に伝える。さすが台湾在住10数年。

台湾茶の歴史について、Kさんは徐に語りだす。「ようは台湾茶が何処から来たのか分からないんです」。なるほど、台湾茶は元々この島にあったのか、それとも福建省から持ち込まれたのか、はたまた・・。なかなか興味深い出だしである。日本統治時代、米と砂糖は日本への重要輸出商品であったが、お茶は日本に緑茶があり、重視されなかった。それもあり、その時代の研究も進んでいないようだ。

そして彼が今回用意してくれた秘密兵器について、語り出す。Uさん、日本人で台湾茶作りの修行をしている人。しかも学生時代は台湾茶業史を研究していたというまさにうってつけの人材を紹介してくれていた。その人はこれから初めて行く南投県鹿谷で私を待っていてくれる。これは楽しみだ。

喫茶店に場所を移す。Kさんはまたメニューにない飲み物を頼んでくれた。擂茶ラテ。擂茶とは生茶、生米と生姜を主要材料として擂り潰してから飲むもの。主に福建省、広東省、湖南省や台湾の客家で伝えられ、今も客家の間で飲まれている。この擂茶ミルクを混ぜたものが、擂茶ラテ。数年前は一時流行したらしいが、この店でもメニューから消えているように、定着はしなかったようだ。だからこそ珍しい。

 

《台湾お茶散歩2》2006(3)

(3)薛さん宅

走って50m。何とか『天隆茶荘』に駆け込む。薛さんが来たか、といった顔で出迎えてくれた。いきなり『メシ食ってないだろう。家に行こう。』と言う。彼のワンボックスに乗り、3分で自宅へ。そこで奥さんとも再会。この夫妻は2004年8月に香港に遊びに来たので、それ以来2年ぶりとなる。

私のために既に昼食が用意されていた。彼らは先に食べたと言うことで一人食べる。豚肉と新鮮な野菜炒め、自宅で飼っていた地鶏、蕪のスープ。全てあっさりした味付けで美味しい。農家の食事は素朴であって兎に角新鮮。贅沢な食事なのである。

奥で皿を洗っている音がする。どうやらメイドさんを雇っているようだ。インドネシアから来ているとか。2年間雇用で月2万元。内彼女の手取りは9000元ほどだと言う。エージェントや税金などが結構掛っている。

車で道路沿いの店の方に戻る。店には台湾の少数民族である鄒族の若い女性がいた。半年前からお茶小姐として採用されている。最近中国大陸から視察団と称して観光客が大量に訪れている。彼らは大体阿里山にやって来る。有名な『阿里山的姑娘』と言う歌から連想される女性を彼女が演じるらしい。実際観光客のリクエストで民族衣装を着て記念撮影にも応じるらしい。かなり観光地化している。

雨は止む気配が無い、というより強くなっている。向かいのお茶屋さんでは建物に大きく大陸で使われている簡体字が書かれている。台湾経済は中国頼みなのだろうか??店内には来店した中国人が置いていった名刺が100枚以上張られていた。見ると北は黒龍江省から南は雲南省まで、ほぼ全中国から来ている。農業関係者ばかりではなく、省政府、市政府の関係者なども多い。やはり未だに中国は役人天国である。

店にはお客が3人いた。何で雨にも拘らずお茶を飲んでいるのだろうか?? 観光客にも見えない。皆台湾語を話すので何を言っているのか分からない。あとで聞いた所では彼らは薛さんの茶園を手伝っている人々で雨のために仕事が出来ないでいたらしい。もう直ぐ夏茶のシーズンであるが、何も出来ないとこぼしていた。

 

 

阿里山にはいいヒノキがあるようだ。店内にはヒノキで作った置物が置かれている。壷の様な置物には上に栓があり、その栓を抜いて匂いをかぐと相当いい香りがする。名産品と言うことで中国人が買っていくらしい??

お茶の種類も増えている。ここでは珠露茶と金宣茶の2種類と思っていたが、いつの間にか烏龍茶なども作っている。パッケージも昔はこの村で共通のものを使っていたが、今は独自に作っている。丁度デザインをする女性がやって来る。沢山のサンプルを見せている。段々商業的になってくる。商売相手が地元の人から観光客に、台湾人から中国人に変化していくとこうせざるを得ないのだろう。

何種類か飲んだが、私は慣れ親しんだ珠露茶を選ぶ。パンフレット、名刺等全て2年前と違っている。奥さんの趣味であろうか??革新的な動きに付いていけない?? 薛さんの家には3人の子供がいるが、長女は台北の大学で英語を専攻している。長男は来年大学受験。次男共々今は嘉義の親戚の家から高校、中学に通っている。お金が掛る時期である。

奥さんはどうやら日本旅行を画策しているらしい。ディズニーランドにやって来る日も近いかもしれない。活発なお茶農家である。

帰りはバスに乗るという私を制して、薛さんが車で嘉義まで送ってくれた。車は4年前のボルボからベンツに代わっていた。うーん、お茶農家はそんなに儲かるのだろうか??何だか面白いような、寂しいような。しかしビジネスになってくると厳しい場面もあるだろう。今後どうなっていくのかウオッチしていきたい。

(4)台北へ
駅で薛さんに御礼を言って別れた。台北行きの自強号まで30分ほど時間があったので、駅の売店で駅弁を買う。排骨弁当、懐かしい響きである。1984年に私が始めの海外旅行で台湾を訪れた時、食べ物に困ると食べていた物、それが排骨飯であった。日本で言えばカツ丼であろうか。

 

排骨とは骨付き豚肉、スペアーリブというには大きな肉が付いている。弁当はご飯の上一杯に排骨は広がり、その下に高菜の炒め物が敷かれている。列車の中で食べるつもりでいたが、きれいな夕陽が照らしているベンチで食べることにした。何となく懐かしい、そしてちょっと美味しいという感じである。

 

横を見ると到着した電車から降りた三人組が改札に向かわずに線路を横切り出て行こうとしている。特急が停まる駅でこの状態、台湾だなあ。夕陽を浴びながら彼らは悪びれた様子も無く、立ち去った。

列車は定刻に来た。満員であった。土曜日の夜に台北に戻る人たちであろうか??服部真澄の『エル・ドラド』という小説を読む。かなりの迫力で世界の農業ビジネスの未来を予言している。遺伝子組み換え作物の出現、話の中ではワインビジネスであるが、お茶の木にも発展するかもしれない。そう考えながら、一気に読んでいると3時間があっと言う間に過ぎて、台北に着いてしまった。

ホテルに戻り、風呂に入り、テレビを見ながら寝てしまう。さすがに疲れが出てきた。

6月4日(日)
4.台北
(1)奇古堂
翌朝も7時半に起きて、ホテルで朝食を食べ、早々に外出。何しろ今日の午前中しかない。ゆっくりもしていられない。しかしこんな早くからやっている所は無い、と思っていると奇古堂を思い出す。ここはホテルに入っているので朝8時からやっている。行って見る。

店は開いていたが、前回話し込んだオバサンはまだ来ていなかった。最近入ったというお姐さんがいたが、その内オバサンが来ると言うので、外へ出る。歩いて10分ほどの所に和昌があるはずだった。ここには台北駐在中の16年ほど前に行ったことはあったが、最近訪れたことは無い。

先日のお茶会で台湾在住15年のTさんがお土産として持って来てくれた和昌の金宣茶が凄い人気であった。台北に行くなら是非買ってきて欲しいと言われていたので、行くことにした。地球の歩き方によれば9時開店。丁度良い。Sogo近くのその店は分かり難かった。そしてようやく見つけたが、シャッターは閉まったまま。仕方なく電話してみると10時からと言われてしまう。確かに確認せず行動しているのだから仕方が無い。

再度奇古堂に戻る。オバサンはもう来ているだろうか??残念ながらまだ来ていなかった。本来日曜日は休みなのではないか?もう一人少し分かる店員が出て来てお茶が出る。梨山烏龍を飲む。香りが良い。

慌ててオバサンがやって来た。私のことは忘れているらしい。それでも電話で呼び出されてやって来てくれるのだから有り難い。このオバサンには独特の世界がある。それが好きなのである。今回も一人分の小さな急須に梨山烏龍を少しだけ入れてゆっくりゆっくりお茶を飲む。

この世界は通常の私には無いものである。良い茶葉は沢山入れてはいけない、または入れる必要が無い。100度のお湯ではなく、少し冷ましたお湯を使う。全てがゆっくり運ばれる。そして今回教えられた最も大切なことは香りをかぐことである。奇古堂オリジナルの背の低い少し上が広がった聞香杯を使ってかぐ。白磁で作られた聞香杯で香りを吸い込むといい匂いがする。大事なことはいい匂いがすることではなく、呼吸にあるようだ。お茶呼吸法??

オバサンと二人、暫しお茶の香りを吸い込む。なんとも不思議な世界が出現する。この店に並んでいる仏像やきれいな茶器の影響もあるだろうか??精神的に落ち着くのみならず、頭が冴えてくる。ヨーガや太極拳に通じるものがある。この世界を極めてみたい気がする。

既に10時半、もっとこの世界に居たかったが、東京に帰る時間が迫る。こんな状況ではホンモノの時間を得ることは難しい。次回はゆっくり台北のみで時間を使いたい。オバサンからも阿里山日帰り等は意味がないといわれてしまう。ちょっと宗教的。

(2)和昌
急いで和昌ヘ。店の前に立つと既に沢山の客がお茶を飲んでいる。どうやら日本人観光客らしい。この店は渡辺満里奈の『満里奈の旅ぶくれーたわわ台湾』で紹介されて以来、日本人観光客、特に女性が頻繁に訪れていると聞いていたが、本当にそうであった。

中に入ると16年前と変わっていない。お茶問屋という雰囲気の奥の様子、手前のテーブルを前にじゃばじゃばとお茶を注ぐ様子。奥では注文のあったお茶を袋にどんどん詰めている。その様子が昔の台湾そのものであった。しかしお茶を注ぎでいる人が若い。オーナーの張さんは4年前に亡くなっていた。現在は2代目で息子の張さんがその役目を担っている。

テーブルには日本人女性が数人、熱心にお茶を選んでいる。1つずつメモを取りながら質問している人もいる。実践お茶教室のようだ。その中で二代目はもの凄い勢いで話し、そして注ぐ。一種の話芸である。お茶も各種ある。東方美人を飲んでいたかと思うと高山茶を飲む。大き目の茶杯で飲む。

張さんに挨拶した。16年前にお父さんのお茶を飲んだと言った所、表情が緩む。そして恐縮してしまうほど気を使ってくれる。金宣茶も飲ませてくれた。友人が好きだと言うと喜んでくれる。あの強烈なミルク味は天然か??不躾な質問すると嫌な顔もせずに『これはインドのアッサム紅茶と台湾の金宣茶の混合種。天然である。』との答え。値段を見ると驚くほど安い(ちょっと疑問)。

ゆっくり話をする暇も無く、張さんもお客の相手に忙しく、残念ながら店を離れる。忙しいのに店頭まで張さんが見送ってくれた。しかし何となく不思議な店である。

 

 

 

(3)雨
雨が降り出した。タクシーで広方園に向かったが、残念ながら湯さんは午後出勤とのことで会えなかった。やはり時間が足りない。いつも必ずいく瑞泰茶荘にも全く行く時間が無い。もうタイムアップである。

ホテルをチェックアウトした。12時である。フロントに聞くとリージェントホテルの前にバス停があるという。これから台北駅に行くと時間が掛るし、雨なので近くのバス停に向かう。

ところが大雨になる。バス停にいることも出来ない。そこへタクシーの運転手が『900元で空港まで行く』と一生懸命誘うのでつい乗り込んでしまう。結構な出費であるが、日本円で3000円ちょっと。東京なら成田からのリムジンバス代である。

乗って直ぐに16年前に住んでいたマンションの前を通りかかる。どうやら健在のようだ。色々な思い出があるが、何だか思い出せない。雨に霞んでいるが、大分古びただろうか??

あっと言う間に空港に着く。時間が早過ぎる。昼ごはんを食べようと2階に向かうと階段の端で荷物を全部出して荷造りをしている女性たちがいた。向こうから『どうも』と声を掛けられる。よく見るとさっき和昌でお茶の勉強をしていた女の子達だ。きっと買ったものを分けているのだろう。昔ならこれも縁なので色々と話したかもしれない。しかし今の私にはその気力が無い。明日から又日本での閉塞感のある生活が待っている。気分が沈んでいくのが分かる。

牛肉麺を食べながら、今回の旅を振り返る。唯一の反省が時間の無さ。阿里山日帰りは愚挙だったであろうか??そしてあの奇古堂の不思議な世界。お茶の飲み方を根本から変えなければいけないかも知れない。まだまだお茶の旅は続く。奥は底なしに深い。