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台湾茶縁の旅2014(7)台北 旧知の人々にも変化が

3月20日(木)

旧知の人々と会う

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本日から台北で知り合いに会う旅となる。とにかく3年ぶり、どんな変化があるだろうか。先ずは台湾人のジョエル。彼は日本語もペラペラでマスコミ関係の仕事をしているが、相当の趣味人でもあり、色々な人を紹介してくれていた。

 

彼とは統一阪急百貨店の脇のコーヒーショップで会う。彼は時々ここで仕事をしているらしい。私も常々喫茶店で集中して物を書きたい、と思っているのだが、大抵は家でネットを繋げてダラダラやっている。阪急百貨店は3年前もすでにあったと思うが、今回来るのは初めて。きれいな建物だが、売り上げの方はどうなんだろうか。

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毎回ジョエルの話は機知に富んでいる。今回は『アウトドアライフ』がテーマ。彼は最近キャンプに嵌っており、出来ればキャンプ関連の雑誌を出したいという。当方からインド、タイなどの茶畑の話、そして標高の高い茶畑はそのままキャンプ地になり、中産階級の勃興しているアジアでは、『健康志向』の高まりで、注目を集めている話をし、大いに盛り上がった。

 

この喫茶店、昼前なのに満員の盛況。若者が多く利用しているが、彼らは学生なのだろうか?日本でもそうだが、若者が昼間から喫茶店で遊んでいる光景、これを何と読むのか、難しい所だ。

 

続いて、10年前に世界1週の旅をしていたT君。彼とは劇的に香港で会い、その後各地で会っているが、この3年の間に彼の一家は台北に移住していたので、久しぶりに会う。彼は地元の旅行会社で働いており、昼休みにランチを。南京東路と松江路の近く、25年前に駐在していた頃、よく歩いていた場所。勿論風景は変わっているが、何となく雰囲気は残っている。指定されたレストランはその付近の裏道にあるカフェだったが、どうしたことか、南北を間違えて反対方向へ。やはり25年の変化か、こちらの老いか。

 

そのカフェはとても小さかったが、居心地がよく、そしてランチプレートもボリュームたっぷりで、しかも高くない。今はこんな店が台北市内にどんどん出来ているらしい。この辺が日本的でもあり、台湾的でもあるところ。

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T君は人柄が抜群で、中国語も出来ることから、台湾人にも知己が多い。先ほどのジョエルも元々は彼の紹介で会っている。本業以外でも色々な活動をしており、非常に幅の広いつながりを持っている。だがそんな彼が台湾を離れるかもしれないと言っている。一体台湾に何が起こっているのだろうか。

 

T君と別れて歩き出すと、やはり懐かしい道を見つけた。昔住んでいた家がこの近くだと思い出し、行って見る。すると25年前のそのマンションは今も厳然と建っていた。リノベーションしたのか、むしろきれいになっている。急にあの頃のことを思い出す。特にここに住んでいた台湾人とのやり取り、出来事など、これまで一度も思い出さなかった事柄がどんどん浮かんできて驚いた。歳のせいだろうか。今は家賃も高いんだろうな、この辺。

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ここまで来たら、もう20年の付き合いのあるお茶屋に顔を出さねばならない。瑞泰茶荘、3年前に行った時は店の位置が変わっており焦ったが、今回はちゃんとあった。そしておじさんもおばさんも、これまでと何も変わっていなかった、犬も。以前は引退して、田舎のある南投県に引っ込むと言っていたが、今回聞いてみると戻るのも難しいので、ここでずっと茶商をやっている、とやや寂しそうに言う。昨日行った南投、そこにも目に見えない変化が起きているようだ。

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そして夜は3年前に劇的に再会したBさんと。Bさんとは上海留学時代、同じ大学で同時期に滞在していたが、その後24年間音信はなし。3年前T君の紹介で会い、1時間話してようやく気が付いたほどご無沙汰だった。ちょうど彼も勤め先を辞め、私も辞めたので、何となく気が合いそうな。何と彼はミュージシャンに転身しており、3年前のコンサートにも飛び入りして聞いた。

 

ちょうど東京でお世話になっている事務所で一緒だったF嬢が台北に来ていたので、関係があるGHオーナーHさんも誘い、4人で夕食へ。人気スポット永康街にある豊盛食堂という何となくレトロなレストランへ行く。台北は初めてだが旅慣れたF嬢と音楽好きの熱い男Hさん、初対面のBさんとも意気投合して盛り上がる。このお店、ガイドブックにも載っているらしく、日本人観光客が結構多い。中国大陸、韓国への旅行客が減る中、台湾に来る日本人が目立つように思える。

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食事は食材を選び、オーダーする方式。野菜の炒め物、肉料理もまずまずだったが、何といっても焼き魚が美味しかった。台湾では基本的に何を食べても美味しいのだが、雰囲気の良い店でメンバーが良いと美味しく感じられるのだろうか。

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その後T君の紹介で作家のKさんも合流。場所を替えて近くのコーヒーショップへ。ここは本格的なコーヒーを出すお店で、雰囲気も良かった。HさんはBさんの音楽活動にとても興味を持ち、何と明後日の山の中のコンサートへ乱入することを決める。これはまた意外な展開。Kさんは日本人作家ながら、中国語で作品を書き、台湾で発表している異色の方。色々とお話しようかと思っていたが、何と話はF嬢のカジノ話へ。実はF嬢、カジノのプロで、これを商売にしようと考えているほどの女性。Kさんとカジノ談議で花が咲き、夜も更けてしまった。

 

Hさんの車で帰る時、台北駅近くで旗を持った人々を見かけた。こんな夜遅くに何をしているかと思っていると、何とそこは立法院の近くで、台湾の大学生が中に立てこもった。この時までこんな事態が発生していることすら、全然知らなかった。Hさんは私を送り届けると、この場所に取って返し、中国との貿易サービス協定反対を一緒に叫んだという。

 

台湾茶縁の旅2014(6)南投 名間の越南新娘

名間の越南新娘

そして下山し、アンディの店へ。ここはきれいで広い空間。お茶の種類も豊富で、パッケージもしっかりしている。『台湾のいいお茶を流通させたい』ということで、茶商として頑張っているようだ。茶文化館の建設もその一環なのだろう。アンディの両親は馴染客とお茶を飲みながら談笑している。

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更に車の旅。名間という名の土地、かなりの平地を進む。アンディによれば『この辺は茶飲料の原料の茶葉を沢山作っている』とのこと。確かに高地ではないので、とても良いお茶が出来る環境にはないのかもしれない。大きな茶工場なども見え、台湾の有名飲料メーカーの名前も見えてくる。

 

そんな中で、ふと茶畑に目を無えると、何と茶摘み娘が大勢で茶摘みをしているではないか。慌てて車を停め、写真を撮る。それにしても、茶飲料の原料なら当然機械で摘むはず。更に台湾の茶摘み娘は既に老人が多くなっていると聞いていたが、編み笠のせいでよくは見えないが、どう見ても若い娘もいる。アンディに聞くと『越南新娘』だという。文字通りで言えば『ベトナムから来た花嫁』。

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台湾でも近年は嫁不足。特に農村部には嫁の来手がなく、海外から探してくるケースが多い。日本でも一時フィリピン花嫁、などと言われた時代があったが、それと同じ構図だ。だが、それでは農家に嫁に来た人がこんなに沢山茶摘みをしているのだろうか。どうやら『越南新娘』という名称は出稼ぎに来ている女性、全般を指しているらしい。外国人労働者の扱いはどこの国でも微妙な問題だが、彼女たちがいなければ台湾の茶業は成り立たない状況にあるようだ。

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そして一軒の家を訪問した。ここは『焙煎屋』。茶葉を焙煎することを専門にしている、いわば製茶の仕上げやさんだ。そしてこの焙煎の良し悪しでお茶の味は決定するのだから実に重要な業務を担っている。

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50代の男性がここの主。70代後半の父親が病気で仕事が出来なくなり、タクシー運転手を辞めて継いだのだという。それは苦労の連続らしい。確かに親がやっていた家業を継ぐと言っても単に店を継ぐのではない。その技術の継承が如何に難しいか、考えさせられる。

 

しかし元々焙煎技術はどこからやってきたのだろうか。聞けば、男性の父親は『安渓から来た茶師に教えてもらった』ということだ。それは60年代ごろのこと。既に中国大陸と台湾に往来はなく、どうやってその人たちはやってきたのだろう。どうやら40年代後半の国共内戦時に台湾に渡ってきた人の中に茶師がいて、彼らがその後焙煎を教えてのではないだろうか、とのことだったが、どうなんだろうか。

 

焙煎屋で話を聞いた後、茶文化館で設計士の若者をピックアップして、そのまま台中駅まで走る。まる一日アンディに世話になってしまった。駅から高速鉄道に乗り、あっという間に台北に戻る。電車は満席で驚く。尚高速鉄道の切符が自動で買えるが、何と御釣りは50元硬貨で出て来る。これは何と使い勝手が悪い。どうしてこんな設計にしたのだろうか。

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6.台北2

赤提灯の海鮮レストラン

台北駅前のGHに戻る。電話しておいたところ、オーナーのHさんが待っていてくれた。何となく昼飯の余韻で腹は減っていなかったが、誘われるまま、彼のバイクの後ろに乗り、近くの海鮮レストランへ。Hさんはガイドブック作製にも関わっているため、店の開拓には余念がない。

 

バイクは快適に暗くなった台北の道を走る。すぐに一軒の赤提灯のレストランが見えた。ここが気になっていたという。基本的に海鮮を見て、調理方法を指定してオーダーする方式だ。だが周囲を見ると皆大勢で食べており、皿もかなり大きい。小皿でくれと言っても『うちにはそんなものはない』と突っぱねられてしまう。

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蟹やイカなどを一通り注文して席を見つける。端っこに1つだけ空いていた。2階もあるようだが、やっぱり店の前にテーブルを出して、ビールでも飲まないと気分は出ない。味は悪くなかったが、さすがに量が多過ぎた。腹が苦しくて、這う這うの体でGHに戻り、シャワーを浴びてぐっすり寝る。

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台湾茶縁の旅2014(5)南投 凍頂山にはトマト畑が

3月19日(水)

5.南投

茶文化館

9時半にアンディが車を飛ばして迎えに来てくれた。アンディは京都の茶問屋Tさんが紹介してくれた。昨日のジョニーと共に先日にFoodexで日本にも行っており、その際Tさんから私の名前を伝えて貰っていた。彼は若干25歳、お茶屋の4代目。

 

アンディのベンツは快適に南投県を目指す。元々は私が路線バスで竹山まで行くことになっていたが、ジョニーからの連絡でここまで迎えに出た。この辺のお茶屋の繋がりはなかなか面白い。1時間もかからずに竹山に着いた。

 

アンディのお茶屋さん、遊山茶訪(http://www.yoshantea.com/)では現在竹山に『遊山茶訪茶文化館』を建てていた。建設中の現場へ入ると台湾茶の文化を発信しようというコンセプトで、工夫を凝らし、作っている。これまで使っていた製茶機械もそのまま置かれており、今後はここで製茶を見せるらしい。お茶は文化であり、単に売ることだけが目的ではない、ということだろう。完成は6月頃だとか。一度見に来よう。

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それからアンディは私を茶畑に連れて行った。ここは完全有機で茶樹を育てているらしい。『正直完全に有機(無農薬、無肥料)では商売にはならない』というが、『大事なことは勇気を持って有機にトライすること』といい、数年かけてどうなるか見ているらしい。

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確かに現時点では残念ながら、茶の木がすくすく育っているという雰囲気はなく、葉もあまり茂っていない。完全にこれから、という感じが滲み出る。恐らくアンディのお父さんの代まではこんな試みはしなかっただろう。若者はチャレンジしているのだ。エコだの有機だの言ってみても、結局は行動が大事。この一角が将来へ繋がる道、という感じがした。

 

あっという間に午前は過ぎ、ランチの時間になった。予想外にカフェ風のお洒落なレストランに入る。何とそこにはアンディの両親、お店の従業員が来ており、何やら打ち合わせをしながら既に食事をしていた。お父さんは3代目、お母さんは総経理、という肩書。

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めちゃくちゃボリュームのある定食が出てきて驚く。更にはここの名物だ、ということで竹包飯まで追加で頼んで頂き、もう食べるのが大変。最近は田舎にもお洒落な所が出来ていると聞いていたが、味はいいし、量は多いし、で大満足。

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凍頂山

午後は車で凍頂山に登る。ここは3年前に歩いて登った場所。凍頂烏龍茶の産地なのだが、山の下の方は檳榔樹ばかり。街で沢山売っている凍頂烏龍茶はどこから来たのか、と思うほど、茶畑は見られない。ほぼ頂上に近い所にある村へ。1軒のお茶屋さん風の所へ入っていくと、お爺さんが座っていた。アンディの母方の祖父、だという。既に85歳で引退しているが、元々はお茶を作っていた。早々お茶を飲ませて貰うと、実に味わいがある。完璧に伝統的な製法で作られていた。

 

是非ともこのお茶を分けてもらいたいと思ったが、『自分が飲む分だけを、自分で作っている』との話を聞き、断念。それはそうだ、お茶を作っていた人が晩年は人のお茶で我慢できるわけがないのだ。それにしてもこのように丁寧にお茶が作られれば、品質向上は間違いないと思うのだが、それではとても商売にはならない。

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お祖父さんと一緒に散歩に出る。85歳とは思えない足取りでさっさと歩く。散歩するのが毎日の日課だというが、これが健康の秘訣だろう。空気もいいし、暑くもなく快適だ。3年前もやってきた凍頂烏龍茶老茶樹、の記念碑の所まで歩いた。

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ところが風景は変わっていた。前は茶畑だったところが、半分は畑に変わっている。お祖父さんが『トマト』と一言。トマト畑と生姜畑になっていた。これにはビックリ。『最近は手間ばかりかかって儲けが少ないお茶より、植えて、育てて、取って出荷するだけの高原野菜などに転作する農家が多い』と言われ、納得。

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確かに茶作りは大変だし、リスクもある。周囲を見渡してみると、確かに転作準備をしているのか、土が掘り返されたりしている。お茶の将来がちょっと心配になる。だがアンディのような若者たちが新たな形の茶作りを模索しているので、日本のようにはならない、との話も聞いた。どうなんだろうか。

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台湾茶縁の旅2014(4)豊原 初めて会った茶商の好意に感動

豊原まで

北埔から台中の北、豊原まで行くことになっていた。これまたどうやって行けばよいか分からず聞くと、『タクシー』との答えで、お茶屋でタクシーを呼んでもらい、乗車する。車は田舎道を走り、そして高速を飛ばし、1時間で豊原付近まで来た。速い。今日行くのは華剛というお茶屋さん。豊原駅の近くに店舗があると聞いていたのだが、電話をかけて聞いてみるとどうやら違うらしい。運転手も戸惑っており、何度も道を確認している。最後は電話を掛けたまま指示に従い走行し、ようやく着いた。

 

しかしこのお店、店舗としてはかなりデカい。中に入るとかなりきれいで広い。ここは事務所兼イベント会場?そこには爽やかなジョニーが待っていてくれた。先日S女史が幕張のFoodexで出会った茶商。僅か5-10分、ジョニーのお茶を飲み、ちょっと言葉を交わし、来週台湾に行くことを告げただけで『ウエルカム』ということで訪問するに至った。

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日本では考えられないことかもしれないが、ここ台湾では、これは茶縁として十分にあり得る話だ。むしろそんなご縁でわざわざ日本から来てくれたら嬉しいだろう、と私は考える。ジョニーもそうだったのではないか。

 

華剛

この華剛茶業の歴史(http://www.hgtea.com.tw/index.php?module=intro&mn=5)は古く、1918年に豊原で開業し、現在のジョニーは5代目になるという。茶商でありながら、3代目が梨山へ入り、初めて高山茶を作り始めた時、関わっていたというから、茶商と茶農家の中間的存在か。豊原駅前には小さな店舗があるが、近年この地に新たにオフィスを作り、お茶の研究などもしているようだ。

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オフィスでは早々にお茶が振る舞われたが、非常に香りの高い高山茶が出た。皆があれこれと質問を始めるとジョニーが『ではこちらへ来てください』といい、横にあった長テーブルへ移動した。そこには品評会の時に使われる茶碗が並べられ、そこに茶葉が入っていた。

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6種類の茶葉が入った茶碗を並べ、飲み比べするという。レンゲを使い、香りをかぎ、飲んでいく。ちょっと寄ったつもりだったが、いきなり本格的な雰囲気になってきた。皆真剣にお茶をすすっている。ほんのちょっとの出会いがこんなことになるなんて、とS女史の顔に驚きの表情があった。台湾はそんなもの、茶縁はそんなもの、と言わざるを得ないが、これは喜ばしい。1つ1つについてジョニーが熱心に解説してくれる。我々は総じて『美味しい、美味しくない』などとやっているが、どの部分が美味しくて、どの部分が残念な状態なのか、などかなり細かい話があり、お茶を作っている人々は単なる茶商とは話の内容が違うな、と感心した。

 

そしてまた元のテーブルに戻り、最近作り始めたという紅茶を頂く。高山茶を作る葉っぱで紅茶、現在研究を重ねているというが、既にかなりのいい香りがあり、ほのかな甘みがしていた。台湾では高い山での茶栽培が徐々に禁止されてきている。今後の方向性として、紅茶作りも重要な要素になってくるらしい。

 

そうこうしている内にあっという間に2時間ほどが過ぎた。私以外の3人は今晩台北で会食があり戻らなければならない。その話をするとジョニーは驚き、『わざわざここまで来てそんなにすぐに帰るのか』と残念がる。確かに私の感覚からしてもそうなのだが、普通の日本人の感覚からすれば、『ほぼ初めて訪ねる人の所にそんなに長居するのは失礼』という感覚もある。

 

ジョニーのスタッフは急遽豊原名物の小籠包を買いに行き、食べさせてくれた。さっき麺を食べ、ここではお茶菓子なども食べていたので、空腹ではなかったが、ジョニーの好意に報いるために食べた。その小籠包はかなり大きく、中身がジューシーで美味しかった。

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結局慌ただしくオフィスを出てジョニーの車で高速鉄道の台中駅へ行き、3人を下ろした。皆名残惜しそうに駅の改札を抜けて行った。本当に日本人は忙しいな、と思い、同時に自分が幸せだ、と感じる。

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台中のいいホテル

私は1人残った。私の茶旅はまだ終わっていなかったのだ。明日は南投へ行くことになっていた。ジョニーにそのことを話すと、そのお茶屋さんに電話をかけ、台中のホテルに迎えに来るようにとまで言ってくれた。

 

そしてホテルを予約してくれ、送ってくれた。途中で車が急にユーターンした。『晩御飯を食べよう』というと、一軒のローカル食堂に入る。如何にも美味そうな雰囲気が漂う海鮮屋。そこで魚の粥などをご馳走になったが、これはやはり美味かった。店にはお客が引っ切り無しに来ていたが、7時前だというのに早々に店じまいの構えだった。写真撮影は禁止ということで、食べ物の写真も撮れなかったが、お店のおばさんが如何に昔の台湾の人、という感じで面白い所だった。

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それからホテルへ。このホテル、ちょっと高いよ、ということだったが、フロントの台湾人女性はほぼ完ぺきな日本語を話した。それでも日本に住んだこともないという。実に愛想がよい。このホテルの教育水準が分かる。部屋もとてもきれいで広く、これで日本円1万円なら、大満足だろう。因みに冷蔵庫の飲み物は飲み放題、今日はお茶の飲み過ぎで何も飲めずに残念。あとで台北で聞くと、このホテルは台北にもあり、今評判だ、ということだった。

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その夜は久しぶりに、ゆったりと湯船につかり、フカフカのベッドで寝た。偶にはこんなホテルに泊まるのも体にはよいということを知る。翌朝は実に豊富な朝食をたらふく食べた。何だかとても満足で、コーヒーをお替りしてしまうほど。

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台湾茶縁の旅2014(3)北埔 東方美人の里で蜜香を

3月18日(火)

3.北埔

北埔まで

翌朝はその北埔へ行く。Sさん、Iさん、S女史の3人は同じホテルに泊まっており、タクシーで台北駅へ向かっていた。実は北埔にどうやっていくのか、は分かっていなかった。私の旅としてはごく普通のことだが、日本人チームとしては異例かもしれない。取り敢えず電車で新竹まで行くという。だがSさんから電話が入り、『このタクシーで北埔まで行くことになった』という。運転手と話すと、『電車を使い、新竹からバスで北埔まで行くことを考えたら、4人でタクシーに乗った方が効率的』との結論に達したらしい。私は指示に従うだけ。何しろ北埔がどこにあるのかさえ分かっていないのだから。

 

駅前で落ち合う。朝ごはんを買うというので駅に入り、Sさん達はスタバのコーヒーとミスドのドーナッツを買っている。何だかこれでは日本だな、と思ったが、私は不要なので黙っていた。素晴らしいのが運転手にもちゃんと渡していること。この辺の気遣いはさすが、凄い。

 

車は一路高速を走る。昨日通ってきた空港へ向かう道を入らず、その先までどんどん行く。高速は空いていて、スムーズに進む。どこで高速を降りたのか、ウトウトしていると何と北埔に着いてしまったらしい。僅か1時間、確かにこれなら車が速い。料金は1台1600元、もし電車とバスに乗ったら、一人300元ぐらいかかるのだろうか。まあ楽ちんで着いたので、良かった。

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水井茶堂

北埔の街、と言っても何もない所に見えた。そして4人の誰もが、この街のどこへ行ってよいか分からない。ではなぜここへ来たのか。それはこの街が東方美人と呼ばれる茶の集積地だからだった。でも何の手がかりもなしにやってきた。如何にも私の旅なのだが。まず目についた慈天宮にお参りする。平日の午前中、観光客は誰も歩いていない。地元の人も殆どいない。実に静かな宮の中。皆神妙に拝む。これからいいお茶に会えますように、という祈りだろうか。

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この街には客家の人々が住んでいると聞く。そして古い街並みが最近台湾人の人気で週末は観光客が結構来るとガイドブックにも書いてある。るるぶにも載っている場所だ。だがちょっと歩いて見ても、何も見いだせない。お店に『東方美人』と書いてあるところはあるが、お店をやっている気配もない。そういえばエコ茶会でお世話になっているあるきちさんに先日東京で会った時、『北埔に行くなら水井茶堂に行くだけでいいですよ』と言われたのを思い出す。るるぶにもその店は載っていたようで、何とか探し出す。

 

非常に凝った作りの入り口、中に入ると所々日本家屋を思わせる、実に独特の造りの家が建っていた。部屋へ入ると、何となく昔の学校の教室を思い出す。とても落ち着く空間があった。そこに居た女性がゆっくり見てね、と声を掛けてくれた。東方美人もいくつか置いてあり、また北埔付近のお茶の歴史が書かれた本などもあった。もっと知りたくなり、そこに偶々やってきたオジサンに声を掛けた。驚いたことにオジサンは相当詳しく、説明してくれた。彼がこの店のオーナーだったが、普段は奥さんと妹さんが店を見ているらしい。

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Sさん、S女史の2人の美女がいたせいか、オジサン、お話に段々熱が入ってきた。何と通訳は私。彼のノリについていけないほど。そしてどんどんいいお茶が出て来る。お茶屋さんに行く時は美人と行くのが良い、と心底思った。本当に香りのいい東方美人が出てきた。甘い香り。蜜香とは何なのか、これは言葉の説明ではなく、実際に体験するのが良い。品評会で賞を取ったお茶が出てきた。これが本当の自信作だというのも出てきた。確かに既に我々は完全に虜になっていたのかもしれない。出されるがままに飲み、そして香りに浸る。

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平日なのでお客は殆ど来なかったが、1組だけ日本人女性がやってきた。隣の部屋の椅子に座り、擂茶を頼んで作り始めた。それを見たSさん達は、そちらへ移動し、何と彼女らが擂茶を混ぜているところを写真に撮っていた。擂茶は客家の飲み物、豆類やゴマ、緑茶葉等を擂り20種類もの漢方類を混ぜ、茶を注いで作るものらしい。自分で作るのが面白いとか。

 

永光紅茶、日本統治時代、この付近で作られ、ヨーロッパなどへ輸出された紅茶の古い缶を見せて貰った。この辺に歴史が感じられる。日本人も台湾人も飲まないお茶を作る、外貨獲得政策、植民地の現実が見えてくる。この辺の歴史はオーナーが本にも書いており、とても詳しい。

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実はこのお店、母屋以外にも茶室があり、茶道具なども展示されている。とてもとても広い空間がある。更には向かいの家にもお店?があった。オーナーは元ファッションデザイナーだというが、確かにおしゃれな空間である。

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何と3時間半もここに居た。あるきちさんの言ったとおり、『ここだけ行けばよかった』らしい。腹が減ったが移動しなければと思っていると、オーナーが『名物の麺を食べていけ』と言い、奥さんが我々を食堂へ案内してくれた。この北埔食堂、とてもレトロで気になっていたところ。何と100年以上経つ古民家を改造したとか。

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店の中もレトロ。骨董品のような家具が並ぶ。既に午後2時でお客はいなかったが、電話していたのか、我々が到着するとすぐに客家板條と呼ばれる平べったい米麺が出てきた。これがまたウマイ。スープもあっさりしており、あっという間に平らげた。代金を払おうとすると『茶屋のオーナーのおごりだ』と言って受け取られなかった。何ということだろうか。

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台湾茶縁の旅2014(2)台北 鼎泰豊に思う

2.台北

空港で

桃園空港に到着すると、イミグレの長い列が待っている。これは3年前と何ら変わっていない。出来るだけ端の方に並ぶ。たまに台湾人ルートを通ることが出来るからだ。とにかく中国人観光客が目に付く。そしてその無秩序な並び方に腹を立てて、がなり立てる台湾人職員たち。明らかに大陸中国人を下に見ている。まあこの混乱ぶりからすると、致し方ないか、毎日これを見ている訳だから。

 

イミグレを抜けると、携帯のシムカード購入へ。中国電信のブースへ行くと『シムカードはここでしか買えない』と言われ、300元で購入。買うのは至極簡単で便利。日本にもこんなサービスがあったらな、と思う。ただ係員は愛想もなく、あまり感心しない。日本人だと分かれば多少は良いのだろうか(私は日本人には見えないらしい)。

 

そして台北駅前までバス国光号に乗る。125元のチケットを購入して、乗り場に進むと台湾人のオジサンが『こっちだ』というので、そこへ並ぶ。ところがそこは別の場所へ行くバス乗り場。何でオジサンに騙されるんだ?訳が分からない。

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バスが動き出すと懐かしい風景が広がる。25年前、私はここに駐在し、毎月この道を通っていた。勿論風景はかなり変わり、高層ビルなども建っているが、それでも昔の面影はある。香港などと違い、台湾は全てを壊してしまうことはないように思う。そして小1時間で台北に着いた。

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GH

今日の宿は駅前のゲストハウス。知り合いのHさんが経営しており、3年前にも泊まっていた。何しろロケーションがいい。新光三越の隣のビル、台北駅が一望できる。入っていくと特に3年前と変化はなかった。

 

早々にHさんと最近の状況について意見交換する。この3年で台湾はどう変わったのか、大変興味深い。そしてこのGH、これからいろいろと展開していくらしい。それもまた興味深い。中国大陸へ行かなくなった日本人は台湾へ来ていた。そしてバックパッカーもLCCの参入で、台湾が非常に近くなっている。今やバンコックから台湾へ来るより、日本から来た方がはるかに安い状況が出てきていた。

 

GHと言っても部屋は個室。狭いがベッドもあり、問題はない。リビングではWIFIも繋がり、快適。洗濯機もあるが、トイレが少し近くなったオジサンとしてはトイレ共同がちょっと大変?そんなこともないか。

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鼎泰豊

今回声を掛けてくれた香港のSさんに連絡すると永康街の鼎泰豊集合、と言われる。鼎泰豊は私が台北に駐在した80年代終わり頃は、正直学生が行く、シャビーな小籠包屋だった。細いビルの1階はオープンキッチンなどという洒落た物ではなく、単なるオープンスペース。屋台に毛が生えたようなイメージだった。そして細い階段を上がり、少し欠けた茶碗で茶をすすり、卵炒飯と鶏スープを食べた物だった。確かに安くて、美味かった。

 

それが90年代、宣伝広告に成功し、一気に一流?レストランに駆け上がる。そのスピードは驚くほどのもので、2000年代には北京や上海でもよく食べた。決して味が不味くなった訳ではないが(日本の高島屋の店は美味しくないと聞いたが)、このギャップが昔を知る者を少し店から遠ざける。台北では基本的に行かない店だった。

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店の前に行くと大勢の人が待っている。25分待ち、などという電光掲示板が出ている。店員は待っている人の間を回り、先に注文を取っている。何という賑わいだろうか。日本人も何組もいる。日本語も飛び交う。

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そこにSさんと京都のお茶屋のIさん、そしてS女史が既に到着していた。S女史は元政府専用機のCAだったそうで、今はお茶もやりつつ、マナー講座の講師などをしているらしい。一見して如何にも、という感じの華やかさがある。彼女は一昨日もここで食事をしたようで、店員の女性も覚えているらしい。目立つ女性は何かと得だ。

 

店に入ると2階に案内され、非常にテキパキと食べ物が運ばれてくる。何と店員は日本語を話した。あちこちで日本語が聞こえる。日本人観光客は必ず一度は来るらしい。店の経営手腕か、完璧に日本仕様で対応している。味はいつもと同じだが、雰囲気はまるで違う。全く違うところで食べているような錯覚を覚えた。4人でお茶話に熱が入り、ほぼ閉店までいたが、明日はどうなるのだろうか。

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台湾茶縁の旅2014(1)香港 定年退職の日に

《台湾茶縁の旅2014》  2014年3月17日-24日

 

会社を辞めた3年前、最初に目指したのは台湾だった。やはり何といってもお茶があるから、茶旅には最適。そこで色々な旅をしてコラムの執筆も行った。だがその後はアジアの他の国へ出向くことが多く、完全にご無沙汰してしまった。1つの理由はバンコック‐台北の航空券が意外と高かったこと。台北経由で日本に帰ればよいと安易に考えていたが、それは適わなかった。経由地は北京など中国に集中した。

 

そして3年ぶりにチャンスが訪れた。きっかけは香港のお茶友達、Sさんからのメール。『今度北埔へ初めて行きますが、どこへ行ったらよいですか』という質問を受けたが、何と私は北埔という地名を知らなかった。Sさんからは『台湾茶について書いているような人が北埔を知らないなんて(とんでもない)、是非一緒に行きましょう』と言われ、ちょっと興味を持ち、その気になる。

 

ただスケジュールが立て込んでいた。ちょうど言われた日程はプノンペンに行っている時期。それでも目玉のプロジェクトは3月15日だったので、16日にプノンペンから台北に直接向かえば何とかなると高を括って『行きます』と返事をした。ところがプノンペン‐台北に航空券は意外なほど高く、一度バンコックに戻り、翌朝台北へ行くことになってしまった。しかもフライトはキャセイの香港経由。果たしてどうなるんだろうか。

 

3月17日(月)

1.香港

空港で

実はキャセイの航空券が最近安い。その話は意外だったが、LCCの台頭や中国経済の減速など、様々な要素からそうなってきたのだろう。とにかくキャセイは機内が寒い、ということで敬遠していたが、安いとなると無視も出来ない。

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バンコックの空港でメールをチェックしたところ、何と前の勤務先の香港駐在時代、大変世話になった女性職員から『今日で定年退職する』とのメッセージが届いていた。そうか、彼女と知り合ってから27年、一緒に働き始めたのは23年前。そんなに経ったんだ。こんな日に香港経由で台湾に行くのは偶然ではないだろう。

 

フライトは順調だった。乗客の多くは中国人。香港経由で大陸へ戻るらしい。CAも普通話を使って対応している。昔は一目見れば香港人か大陸中国人か見分けがついたが、今や服装などでは分からない。キャセイと言えば取り敢えず英語、だったが、客の変化に対応している。当然私に対しても普通話対応。

 

香港ではトランジットのため、荷物チェックを受けるのだが、そこはかなり混んでいた。さっきのフライトの乗客も沢山並んでいる。もう少し職員を増やしてほしい。キャセイの乗継は2時間程度しか余裕がないが、チェックだけで小1時間かかるのは困る。ようやく出発ゲート近くに来た時は搭乗50分前。

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急いで彼女の携帯に電話を入れてみたが、繋がることはなかった。ちょうど昼時、みんなで最後のランチにでも行っているのだろう。まあ、最後の日を同じ空間に居られることが幸せ、と思って飛行機に乗った。後日彼女からメールが来た。『今度香港に来るときに飲茶しましょう』、そのお誘いはいつ果たせるのだろうか。

台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(5)台北 中央図書館と茶葉伝習生

5月29日(日)
15.瑞泰茶荘

私には台北で17-8年の付き合いになる茶荘がある。それが瑞泰茶荘。変な話だが、そもそもはお茶を買うのが目的でなく、台湾の情報を仕入れるために立ち寄っていた。こんなことを言うと変な感じだが、台湾の経済や企業情報は公式の発表からは計り知れない部分が多い。生活実感と統計数字は離れているし、企業の真の状況がお茶屋情報で把握できることもある。

お茶屋と言うのは、江戸時代の髪結い床屋と同じように、多くの人が出入りし、様々な情報が飛び交う場所であった。しかし最近では、情勢がかなり変わってきている。瑞泰茶荘のおばさんによれば、お客さんの多くが大陸での商売になり、話が届きにくくなった。

瑞泰茶荘も5年前の移転後は、積極的に日本人観光客にも宣伝を始め、今では台北ナビに広告を打つ。そして日本で代理販売をする会社と契約、かなりの変貌を遂げている。

本日は朝10時前に出掛けたが、閉まっていたので、日曜日は休みになったのかと思った。近所で朝飯にサンドイッチを食う。ミックスサンドとミルクティ、ある種の定番である。店内は宵っ張りの台北人がようやく起き出してきた感じで、かなり混んでいた。台北という所は、朝飯も昼飯の弁当も夕飯の屋台も値段がそれほど変わらない。全て簡単に済ませる場合は、本当に安くて美味く、更にバリエーションが豊富である。

結局この日も瑞泰で昼近くまで、時間をつぶし、台湾茶の歴史についてはおばさんから、「歴史博物館」に行って見たら、との助言を得る。それはある日本人が台湾の廟を調べる際、この博物館から資料を得ていたとの情報からだった。ただ実際に行って見るとここは美術博物館のようで、お茶関係の資料は望めなかった。

 

16. 中央図書館別館で日本時代の資料と出会う
Hさんから以前「中和の中央図書館別館は昔の総督府図書館であり、日本時代の資料があるはず」と聞いたことがあった。場所はよく分からないが、中和まで行けば何とかなるだろうと高を括り、地下鉄に乗る。ところが駅を降りて、方向を間違えた。完全に反対の方へ行ってしまい、どこまで行っても見付からない。そういえば腹も減ってきた。仕方なく、店に入り、鳥腿飯を注文しながら、場所を聞く。随分遠くまで来てしまったものだ。ところでこの鳥腿飯、かなりイケル。台湾はどこで食べても外れが少ないのがうれしい。ただ量が異常に多い。

店のお客に図書館の場所を聞くと、怪訝そうに「なんでこんなところに居るのか」と聞かれる。私も知りたいぐらい。歩いて15分ほど戻ると駅の反対側に目指す場所をようやく見付ける。それは立派な建物だった。823記念公園という敷地内にある。823とは台湾が1958年金門島で大陸と戦って勝利した(島を死守した)戦役の開始日だとか。

1階で日本関係の資料を聞くと6階にあるとの答え。6階のカウンターで聞くと、奥から日本語が流暢な女性が出て来て応対してくれる。何と日本時代の資料はかなり電子化されていて、PCで検索するらしい。実際やってみると、驚くことに新井さんの研究論文など数点が目の前に現れた。続けて魚池や他の関係者のキーワードを入れると、かなりの資料が出て来た。そしてボタン一つでそれらがプリントされて出て来たのだ。

しかし新井さんの論文は日本語で書かれてはいるものの、専門的な研究である。一体誰がこれを見て、優れているか、役立つものか、などの判断が下せるのだろうか。取り敢えず資料としては持ち帰るが、評価の仕方が分からない。今回はそれでも資料が手にはいっただけでも、良しとしよう。結局閉館までの2時間、6階に居座り、PCと格闘した。

5月30日(月)
17.茶葉伝習生と会う

翌朝恵美寿の黄さんに報告に行った。何しろ今回の旅は徐先生を紹介してもらったことから始まった。徐先生から魚池の試験場を紹介され、とうとう新井さんと働いた台湾人とも面会した。図書館から新井さんの論文も出て来た。これらのことを掻い摘んで黄さんに報告し、感謝した。

黄さんはお店の他に、公務で忙しかった。今週はドイツからの団体を受け入れるとか。また日本からは毎年2団体を受け入れているが、今年はどうだろうか、といった話も出る。どんな日本人が来ているのかと見ると、壁に寄せ書きがあり、感謝の言葉が綴られていた。その中には、あの入間の極上茶仕掛け人、H氏の名前もあった。確か彼は、台湾茶の勉強をして、萎凋に嵌り、台湾茶の製茶機を日本に買い込んで研究している。それもこの黄さんが受け入れていることが分かる。なるほど、皆繋がって来る。

私の報告に黄さんは満足しただろうか。やはり何とか本に纏めないと許されないのだろうか。但し今回の旅で、一人の人にスポットを当てて、物を書くのは非常に難しいことが分かった。出来れば台湾の日本時代に台湾紅茶で貢献した日本人たちの物語にしたいところだが、どうであろうか。

恵美寿に李さんがやって来た。彼も組合の一員。アメリカ駐在が長く、お茶貿易には精通し、流暢な英語を話す、如何にも台湾の第二世代。実は一昨日、広方園の湯さんの所に寄った際、李さんが来てくれた。話していると「林口の茶葉伝習所で勉強した台湾人を知っている」というので、無理を言って紹介してもらうことにした。李さんは私を自分の店に連れて行ってくれた。恵美寿からは歩いて5分、道一本隔てているだけ。昔は本当にお茶屋が連なっていたことがよく分かる。ただ彼の店は輸出中心で小売りはしていないので、店の形式ではなく事務所。

そこには既に茶葉伝習所戦後2期卒業生が待っていてくれた。私が卒業生名簿を見せるとゆっくりと自分の名前を確認。その後、同級生などの名前をなぞり、懐かしそうにしている。徐に流暢な日本語で、「彼はこの前死んでしまった。この先生はいい先生だった。」などと一人ずつについて、コメントが出て来た。こちらは必至でメモするが間に合わない。

そして分かってきたことは、第2期の時代で、既に日本人の先生(研究員)などは帰国しており、先生は日本人から習っていた台湾人になっていたこと。彼の場合はお兄さんが昔の卒業生であり、お茶にも詳しく、入学は簡単だったが、一般の応募者は非常に多く、入学は難しかったことなど。当時は日本が去り、混沌とした時代。無償で勉強でき、その後の仕事にもつながる伝習所は魅力的だったかもしれない。

しかし伝習所を卒業後、皆が簡単にお茶関係の仕事に着けた訳ではなさそうだ。その中で彼はお茶の貿易を仕事とし、83歳の今も、李さんの会社の顧問と言う形で関わっている。それはそれで凄いことだ。しかし伝習所の概略は分かったが、日本人との繋がりは掴めなかった。

18.牛肉麺

ゲストハウスに戻る。流石に色々と疲れた。Hさんが昼ごはんに誘ってくれたので、お供する。今回はゲストハウス裏の牛肉麺屋。台北に来ても意外と食べないメニューである。先ず訪ねたのは、峰圃茶荘。ここのオーナーも古くから茶荘を経営しており、かなりの知識があるということで、訪ねたが、残念ながらアメリカに行っており、不在。

そして裏道に入り、1軒の牛肉麺屋へ。そこには2010年台北国際牛肉麺節、30大店選出、などと書かれた看板が出ている。台湾はそんなに牛肉麺に力を入れているのだろうか。日本のラーメンに倣っているのか。その店は満員であり、もう1軒へ。良品と言う名のその店のオーナーはサービス精神旺盛で、しきりに写真を撮ってやる、と言ってくる。不思議だが、日本人の習性を彼は見ているのだろう。

このお店は2007年台北国際牛肉麺節第2位と書かれている。これだとどこの店が本当に美味しいのか分からない。2階に上がり、紅焼牛肉麺を注文。ついでに餃子も頼む。この牛肉麺、意外とあっさりしており、スープを思わず啜る。麺はきしめん風、美味しい。ふーん、たまに食べるとこれは美味しいかもしれない。台湾人はやはりこだわりが強い。この辺は香港人の食文化とも違う。

ゲストハウスに戻り、地下鉄で空港へ向かう。荷物があると少し大変だが、駅にはエレベーターもあり、やはり30分で到着した。料金も日本円で100円ぐらいだ。どう考えても、この安い選択肢が日本に欲しい。

今回の旅では、台湾茶の歴史に更に迫れた感はあるものの、その奥は深く、また幅もある。そう簡単に歴史は我々に門戸を開いてはくれない。





台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(4)埔里 日本時代の茶樹は切られたが

12. 再び和果森林へ

製茶課長と別れて、昼食へ。今回はフライドチキン丼?とも言うべき鳥腿肉飯を食べる。これは鶏肉好きの私にとっては美味しい食べ物。しかもスープも鳥スープと言うことで何となくハッピーになる。

そして午後前回訪問した紅茶の店、和果森林を再訪した。理由は前回後、実は100年前の日本の紅茶樹が切られてしまったとのニュースを聞いたから。そんな馬鹿な、と思ったが、新聞記事には私がインタビューした石さんが昏倒している写真まで掲載されており、これは他人ごとではないと出掛けた訳である。

お父さんもこことは懇意。もとはと言えば石さんがお父さんの民宿を推薦したのが付き合いの始まりである。ただこの事件は地元では有名であるが、あまり触れたくない話題でもあるようだ。元々日本時代の農地は全て台湾農林が接収しているから、石さん達の紅茶樹も台湾農林の土地にある。借地である。最近の台湾農林は完全な不動産開発会社と化し、儲かる土地は開発してきた。この付近の土地も一部は開発対象になり、茶樹を守りたい場合は台湾農林から土地を購入する必要があった。ところが元々農林のやり方に反意を唱えていた石さんには元から土地を売る気はなく、開発対象にしてしまい、仕方なく石さんは裁判に訴えたが敗訴が確定し、速やかに農林は茶樹を切り倒したと言うことらしい。

法的には誰のものかははっきりしているが、日本人としては日本時代の歴史的な木がいとも簡単に切り倒されたと聞けば、何となく複雑な気持ちになる。台湾にももう少し歴史的意義を大切にしてもらいたい所である。

ところで何の予約もなく訪問したが、石さんと娘さん夫妻はお店に居た。前回は週末、お客さんでごった返していたが、今日は実に静か。やはり裁判のことが響いているのか。中に入ると石さんと娘さんが真剣に茶のチェックをしていた。

聞けば石さんは昨晩中国貴州省より帰国したばかり。チェックしている茶葉は石さんが貴州で指導して作らせたお茶だそうだ。既に83歳でこれだけ元気だとは。ましてやあんなショッキングな出来事があったのに、これだけ前向きな人を最近見たことがない。

紅茶の生産は、周辺から茶葉を集めて続けるとのことで、3人共に特に悲壮感はない。娘さんより、「今晩日本人の家に遊びに行くけど、一緒に行かない」という意外な誘いを受けた。当地でロングスティしているとのことで、興味があり同行することにした。

13.埔里で起業した日本人

その後、埔里の図書館で資料を聞いてみたが、全くないとのことであった。そういえば、ちょうど図書館でトイレに入っていると地震があった。震度2ぐらいかと思うが、皆非常に敏感、火災報知器も鳴り出し、ひと騒動であった。12年前の記憶はまだ拭い去れていない。

夜は前回も訪れた埔里の楽活屋へ。ここは日本人Yさんと台湾人の奥さんが開いた店。Yさんも覚えてくれていて、話を聞いた。前回はランチに行ったが、今回はディナー。ビーフシチューを頼んだが、とても美味しかった。

お店は満員のお客さんで繁盛していた。我々の横のテーブルには地元では有名な芸術家や大学教授が来ていたようだ。ちょっとしたサロンとなっている感じで、ロングスティの一つの成功例かと思う。

石夫妻と待ち合わせて、日本人ロングステイヤーHさん宅を訪問。広い庭に新しい大きな家、ここは何だろうか。Hさんはにこやかに迎えてくれた。埔里に来て4年、30年台湾に住んでいる弟さんの関係で台湾に来て、埔里に来て定住。これまでオーストラリアなどで様々な仕事を体験しており、その成果がなかなか日本では活かせない為、ここ台湾でやってみたところ大成功しつつあるようだ。

微生物の細菌などを使い、農業用の肥料を作るほか、水質の改善など、地元に役立つ提案を行い、受け入れられてきていると言う。また食べると非常にパワーが出る食品を開発、今はまだ試験段階だが、かなりの効果があるとのこと。実際に石さんのご主人陳さんが食べて、試したりしていた。聞けば僧侶などがこっそりと求めに来るらしい。

Hさんは既に会社を興し、ビジネスビザを取得しているが、埔里ではロングステイに対して様々な援助があると言う。Hさんは中国語も台湾語もできないというが、当初は政府援助で通訳が付いたと言う。それが今のビジネスパートナーでもあるWさんだ。言葉が出来なくても、色々とチャンスがある場所、という意味で台湾は面白い。

5月28日(土)
14. 埔里酒廠
翌朝は特にすることもなく、ゆっくり起き、ゆっくり朝ごはんを食べた。今日もまた美味しい朝である。筍の和え物、わかめと豆腐、ナスの煮つけ、カボチャのお粥、と実に日本的。新鮮な上に手間を掛けているので、その味が染みる。

その後資料のありそうな所へ電話を掛けてもらったが、「ない」との答えを得るだけ。取り敢えずは当地での作業は終了したと判断。あとは帰るのみ。お父さんが埔里の名物を食べて行けと言う。さっき朝ご飯を食べたばかりだが、ちょっとだけならいいだろうとそれに乗る。

行ったところは米粉屋。ビーフンである。台湾のビーフンと言えば、新竹が有名であるが、こちらは麺が比較的太いという。お店は11時だと言うのに既にお客さんが来ており、家族連れなどで賑わっていた。焼きビーフンとビーフンスープが売り物ということで、今回はビーフンスープに挑戦。

所謂台湾のスープ麺と同じように、ゆで卵が入り、もやしが入る。魚丸(魚のすり身)もある。そこへビーフンが放り込まれる。これはなかなかイケル。椀は大きくないので二杯は行きたいところだが、朝ごはんが効いては要らない。おまけに名物の腸詰なども登場し、お腹は膨れるばかり。

何時に帰ってもよいのだが、昼過ぎには出ようとすると、ビーフン屋の前がちょうど埔里酒廠という紹興酒で有名な工場。見学可能とのことで寄り道する。20年前も不思議に思ったが、なぜ埔里で作られる酒が紹興酒なのか。それは台湾に渡ってきた蒋介石が故郷の酒を懐かしみ、適切な場所を探して作らせたからだと言う。という訳で地元に人は紹興酒を飲むわけではないとのこと。

1階はお土産物の売り場。酒廠が直接売っている物は、記念のボトルに入った紹興酒など。対して地元民が売り場を借りて商売する店は、酒のつまみや飴、クッキーなどお土産物を売っている。どう見ても地元民の方に元気があり、よく売れている。やはりお役所仕事は限界がある。

2階に紹興酒の歴史や大震災のおりの復興の様子などが展示されている。埔里というところはやはり水が良かったようだ。紅茶栽培でも水が良い方が良いに決まっている。酒とお茶も決して無関係ではない。

バス停まで送ってもらう。今回は埔里から台北まで直行するバスを選択。これだと高速鉄道を使う費用の半分で済む。1時発で途中、板橋で停まったが、それを入れても3時間で到着。これは便利である。因みにバスにはトイレが付いている。これは安心。

 

台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(3)魚池 ついに茶業改良場へ

8. 紅茶の伝統を守る森林紅茶の葉さん

台湾農林を訪ねたが、情報を得ることは出来なかった。前回の旅でもう一つのヒントがあった。それは大来閣と言うホテルの陳さんと言う方が、新井さんの親族を最近案内していたと言う情報だった。この話をしてくれた天福茶荘の童さんを再び訪ねる。

童さんはお父さんの同窓生、相変わらずにこやかに迎えてくれた。高山茶から紅茶まで色々なお茶を飲ませてくれた。そして「お茶を買ってくれる必要はないんです。この場所から見る日月潭の眺めは最高なんです。日本人にも是非来て欲しい。無料で台湾の良い所を見て行ってほしい。」と言う。見ると外はスコール。激しい雨が降る中、我々はかなり長居した。

しかし肝心の陳さんは今日から3日間休暇とのことで、結局今回も会えずじまいに終わる。陳さんは日本語も堪能で熱心な方のようで、是非会ってみたかったのだが。どうやら台湾財界の重鎮、許文龍氏に新井さんのことを伝えたのも、陳さんらしい。

お父さんがもう一つ連れて行ってくれたのが、少し林の中に入り込んだところにある、森林紅茶。ここのオーナー葉さんも前回訪問した和果森林の石さん同様、日本時代の紅茶樹を守り、紅茶作りに専念している人だ。

ちょうど雨も上がり、製茶工場を訪ねると先客があり、2階に人がいた。何とエレベーターで2階に上がる。そこに製茶機が並んでおり、作業場になっていた。先客の2人はちょっと変わった服装をしている。聞けば大陸で修行した道教の導師という。お父さんとお母さんは痛く興味を持ち、帰りに民宿に連れ帰って話を聞いていた。

葉さんははじめ少し取っ付きにくい人かと思ったが、色々と話をしてくれた。ここ10年、紅茶の復興に尽力、自らも世界紅茶大会で入賞するまでになっている。基本的に夫婦二人で行っており、今後どうするのか、ちょっと心配ではあった。

日本時代のことについては、あまり記憶はないようだ。その昔日本人がやってきて、蓮華池という所に最初に紅茶を植えたことは聞いていたが詳しいことは分からないとのこと。雨も完全に上がったので退散する。それにしても森林の中で紅茶を飲む、涼やかな気分になった。

5月27日(金)
9. 車を丁寧に使う

埔里の朝はいつも快適である。太陽が昇ると日差しは強い。民宿内の木の下に居ると何とも言えない気持ち良い風が吹き抜ける。

朝ごはんは相変わらず素晴らしい。⇒http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4354

そしていよいよ魚池へ向けて出発。何だか胸が高まる。ところがお父さんが行ったところは麓の自動車修理工場。実は昨晩夕飯に牛肉麺を食べに行った帰り、お父さんは微かな車の異変に気が付いたと言う。そして私を民宿に送り届け、そのまま車をここの工場へ持ってきたと言う。

夜の10時頃で工場の人も寝ていたが、起き出して来て、深夜に修理作業があったようだ。エンジン部品に異常があり、交換しただけさ、と平然と言うが、そんな簡単なものではないだろう。道理で出発する時に息子の車で息子も一緒に乗ってきた訳だ。修理が無理なら彼らの車を使うつもりだったと言う。多大な迷惑を掛ける。

お父さんは息子に言う。いつも言っている通り、車は丁寧に使わなければならない。毎日ほんの少しずつケアーしてあげることで、長持ちする。私はこの車に10年以上乗っているが、毎朝必ず点検し、異常個所を探す。

私の父は80歳で亡くなるまで自転車に乗り続けた。この自転車は20年以上使っていたが、いつも乗り心地が良かったのを覚えている。父が死んで、タイヤの空気を入れようと近くの自転車屋へ行くと、「あー、あんた息子だね。お父さんは自転車の手入れは欠かさなかったよ。どこ行くのも自転車だから元気だったよ。」と言われて、お金も取らずに隅々まで丁寧に点検してもらった。思わず涙が出そうになったことを急に思い出した。

10. ついに魚池茶葉改良場へ

そして修理なった車に乗り、ついに魚池茶葉改良場へ。前回は門前までであったが、今回は事前連絡があり、すんなり中へ通される。製茶課長が対応してくれた。彼は台東の試験場に20年勤務し、ここ4年こちらで働いている。単身赴任で週末は台東へ帰るらしい。

彼は1冊の分厚い本を差し出した。ここに全ての資料があると。それは「場誌」と書かれた本で、1996年に出された茶葉試験場の90年間の歴史が刻まれた極めて有益な本であった。中身は好きなだけコピーしてよいと言うので早速確認に入る。

新井さんの記述などを見るとこれまでの資料や徐先生の話のままであったが、試験場の歴代所長に関する記述や茶葉伝習場の卒業生名簿、など興味深いものがいくつかあった。しかし一体誰がこんな詳細記述をしたのだろうかと裏を見るとそれは何と退官直前の徐先生本人であった。確かに一番詳しいのは先生と言うことになる。

裏側に1938年建造の茶葉工場があったが、外観からの見学となる。檜造り、ということで、当時としては極めてモダンな建物であったろう。今でも現役で使われていると言うから凄い。中の設備もごく一部は当時のままとか。日本が台湾に入れた力の一旦を見ると思い。

更にその裏に、茶業文化展示館と言う建物があり、特別に中を見学させてもらった。そこにはあの許文龍氏が製造した4つのブロンズ像の一つが置かれていた。そしてこの試験場の歴史が語られていた。

更には資料として、新井さんから讃井元さん(京都帝大卒で新井氏の部下、戦後は農林技官)への直筆の引き継ぎ書が展示されていた。ここで初めて、文書ながら、生の新井さんと出会った。しかしその文字からは彼の人となりを読み取ることは出来ない。

何とか他に手掛かりはないかと、徐先生からもらった写真を製茶課長に見せると同じコピーを持っていた。そしてこの写真に写っている人で今も生きている人が二人いる、と言い出す。一人は日本人のTさん、この写真を持っていて提供したご本人である。この方の名刺は直ぐに課長の手元から示された。東京に戻ったら連絡を取ることとした。

そしてもう一人は台湾人。実は先月朱さんという方が無くなり、先週納棺したと言う。誠に残念であるが、歴史はどんどん遠ざかる思い。では、もういないのか、いや「楊さんは生きていますよ」との天の声。

製茶課長は電話機を取り上げ、何か大声で話している。そして「今から行きましょう。楊さんが待っています。」と言うではないか。突然の展開に戸惑う。

11.新井さんと働いた台湾人
製茶課長の車に先導され、埔里へ戻る道を行く。この辺りは昔紅茶畑であったと聞いていると運転席のお父さん。彼も興奮気味である。道から少し入った所に、いくつか家があった。坂を少し上ると向こうで手を振っている人がいた。それが楊さんであった。とても90歳には見ない。課長とは懇意らしく、握手を交わす。私に向かっていきなり「よくいらっしゃいました」と日本語で声が掛かる。

突然の訪問で驚いただろうが実に快く迎えてくれた。お手伝いの女性が果物を置いていく。家はこの辺りの伝統的な家屋か、平屋で風通しが良い。楊さんは既に日本語を殆ど忘れており、耳も少し遠くなっているため、課長が大声で通訳する。さっきの電話も本人と話していたことが分かる。

新井さんについては「熱心で厳しい人でした。いつも事務所に居るタイプではなく、茶畑などを歩き回っていました。」と印象を語る。よく覚えているのは亡くなった時のこと。自分は立ち会っていないがと断ったうえで「亡くなった晩、泊まり込んでいた同僚が茶畑のほうに歩いて行く新井さんの姿を見たんです。思い入れがあったんでしょうね。」と。

1947年2月、当時すでに日本時代は終わり、試験場も接収されていたので、新井さんの葬儀などは行われずに、ただ数人で遺体を茶園に持っていき、そこで荼毘に付したと言う。それがその時出来た新井さんへの最高の敬意だったようだ。

ただ新井さんの考え方、日常生活、などについては、「私とは身分が違う方だったので」と特にコメントは得られなかった。しかし新井さんと実際に一緒の働いた方から直接お話を聞き、感慨ひとしおであった。

お父さんも途中で「新井さんに霊を感じる」と、何やら神秘めいたことを言い出し、いよいよこの旅もある種のクライマックスを迎えた。