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台中茶旅2023(1)茶の本の山に埋もれて

《台中茶旅2023》  2023年4月20日-22日

台北到着後、茶旅の相棒である台中のトミーに連絡したところ、この日なら空いている、と言われ、早々に台中まで行ってみる。彼も今や茶業界の大先生なので時間がある時に会っておこうと思う。

4月20日(木)3年半ぶりの台中で

雨の中、MRTで台北駅へ行く。駅の自販機で高鐵の切符を買った。だが高鐵の改札が通れない。おかしいと首を傾げると、隣の乗客が『ここはMRTの出口だ』と教えてくれる。何と自販機がMRT駅内にあったということをすっかり忘れていた。かなり恥ずかしい。高鐵は値上がりがなく、日本の新幹線の半額だ。客は意外と多い。1時間で高鐵台中駅まで行く。

雨が降っているということで、いつもと違う場所で待っていたトミーと再会。既にFacebookでは見ていたが、3年前と比べてトミーはすごく痩せていた。30㎏以上の減量をしたと言い、今はすごく軽い感じになっている。彼の車も変わっていた。まっすぐ彼の家へ行く。お父さんとお母さんが笑顔で迎えてくれた。

取り敢えずランチでも、ということで、以前も通った近所の小籠包屋へ行ったが、何故か閉まっており、初めて行くハンバーガー屋へ。ハンバーガーなんか食べて痩せられたのはすごいと思う。メニューを見ると金三角サンドイッチがあり、思わずそれを注文する。まだチェンマイ滞在を引きずっている自分がいる。

トミーとは3年半の溝を埋めるのにそれほど時間はかからない。ただ話したいことが多過ぎて収拾がつかない。お家に戻り、お茶を頂く。この後新しくできたお茶屋さんへ行く予定だったが、トミーが『実は最近姉が友人からお茶の本を大量にもらった』と言い出した。よく分からないが、まずはそれを見てからということで、2階に上げる。

驚いたことに段ボール3箱はあった。お茶関係者が亡くなり、その人が集めていた本が遺族を通じて回ってきたらしい。確かに必要のない人にとっては、場所を取るだけの厄介ものだろう。だがその箱を開けてみると、私には宝箱に見えた。そして何気なく一番上の本を開いて驚愕する。そこにはなんと『森薗市二』の名前があったからだ。これは著者が森薗に贈呈した本だった。まさかこんなところで会えるとは。この本により森薗が戦中台湾に滞在したことは完全に証明された。

それから約5時間、そこにあった本を片っ端から読み漁る。よくもこんなに集めたものだ。まずは何があるかを見ているだけで日は暮れてしまった。お茶屋さんに行く暇もなくなった。何とか切りの良い所で本を納めてホテルに向かった。トミーが車で送ってくれたが、夕飯を食べようとは言わなかった。それで彼のダイエット法が夕飯をぬくことであると知る。

ホテルは台中駅の横。以前の定宿だったが、名前が変わり、経営も変わった。料金はそれほど変わっていないが、4年分劣化している。朝食もない。4年前は窓のない部屋でぐっすり眠ったが、今回は窓ありだった。こんな部屋もあったのか。窓からきれいになった新しい台中駅と保存された昔の台中駅のライトアップが良く見える。

腹が減ったので、近所を散策すると、ここは完全に東南アジアだった。ベトナム系のレストラン、雑貨屋、美容室などが軒を連ねている。インドネシア、タイなども見られる。食堂は何となく8時頃閉まるようで、片付け中のところも多い。何とかベトナム系の店に入り、フォーを注文する。まあハノイと値段は変わらないか。中国語が通じるだけ有り難い。台湾には一体どれだけの東南アジア出稼ぎ者が来ているのだろうか。

静岡茶旅2023(3)藤枝から草薙へ

私が訪ねたのは伝統的な問屋さん。ここに戦前静岡で作られた磚茶が保存されていると紹介されたからだった。ただ問屋さんでは先代社長が退き、代が変わっていたため、お知り合いの問い合わせに対して、わざわざ探してくれていた。だが見せられたお茶は皆戦後の黒茶類であり、残念ながら国産磚茶を遭遇することは叶わなかった。まあ、歴史的に見ても静岡で磚茶が作られた時期はほんの一瞬であり、磚茶自体が知られていないのも、無理からぬことだった。

日が暮れた頃、宿に帰り着き、部屋で少し休む。今晩はお知り合いのIさんとSさんと会う。二人ともお茶の専門家であり、学ぶところは大きい。お店は宿の横にあり、地元食材を使った料理がどんどん出て来て、美味しい。それにしても静岡はお茶王国、その歴史も多過ぎてとても整理できない。

4月6日(木)藤枝から草薙へ

朝はゆっくり起きる。今日は天気がイマイチ。それでも傘をさして散歩に出る。昨日と同じようなルートで30分ほど歩いて行き、蓮華寺池公園を目指した。この付近が東海道の旧藤枝宿。昔は栄えていただろうと思える場所。歴史的な雰囲気が漂うと共に、何となく雨も止んでくる。

この公園には『とんがりぼう』と呼ばれた藤枝製茶貿株式会社の建物が移築されていた。確かにきれいになっており、中は土産物屋などが入っていて、歴史的雰囲気は薄れていた。公園内は非常に気持ちよく散歩できる。さくらも満開でよい。藤枝の茶業関連の碑もここに建てられている。郷土博物館もあったが、今回は入らずに駅まで戻る。

荷物を取りだしてJRで草薙駅へ行く。図書館へ行く前にかつ丼を食べようと、駅から歩いて行くと、思ったよりずっと遠い。そして注文したかつ丼はお母さんが一からゆっくり作ってくれる。味噌汁も熱々。というわけで、美味しく頂いた頃には、既に図書館行バスは行ってしまっていた。バスは1時間一本なので、静鉄で隣駅まで行き、そこからゆるゆると登りを歩いて行く。結構疲れる。

図書館ではいつものように歴史資料を漁る。いつ来ても何か発見があるから面白い。ちょっと見たことがある人がいたが、声を掛ける前に居なくなってしまった。きっと静大のK先生に違いない。雨が止んだのでちょっと外へ出る。ドリンクを買ったのだが、それは国産烏龍茶のペット飲料。ついに日本も烏龍茶を自前で作る時代に入ったのだろうか。

裏庭に何と鈴木梅太郎の胸像があると知る。鈴木はビタミンの世界的な研究者で、東大で研究していた他、理科研の創立メンバーにも名を連ねている。牧之原の出身であり、あの山本亮の師匠でもあった。ここでお会いできるとは、何と光栄な。でもなぜここにあるのかは誰も教えてはくれない。

夕方5時を過ぎ、バスに乗って草薙駅に戻る。今晩はタイ人のA先生と待ち合わせ。A先生はティーツーリズムの研究者で、以前タイで出会い、数年前和歌山大に居た時に、シンポジウムにも参加した。彼は今静岡に移っていたので、ちょっと顔を見ようと連絡した。何とも懐かしい。

彼が連れて行ってくれたのは、駅前のタイ料理屋だった。彼の行きつけの店であり、常連さんも多く、皆知り合いのようだった。タイ人がご飯を食べに来る場所なのだろう。奥さんがタイ人でご主人は日本人。奥さんが主に料理を担当している。美味しいチェンマイソーセージなどが出てきて、ご機嫌になる。

A先生はティーツーリズムの本を出版(チェンマイで知り合ったリー先生と一緒に)するなど、精力的に活動している。タイ北部、アカ族の村の事業推進を、ピアポーンと一緒にやっているらしい。次回機会があれば、私もその村へ行ってみたいがどうだろうか。とても有意義な時間を過ごすことが出来た。再会に感謝したい。

夜8時、A先生と別れ、草薙駅から静岡駅へ引き返して、新幹線に乗る。まあ夜帰る場合は新幹線が何といっても便利でよい。窓の景色も何も見えない。ただ目を瞑っていると、あっという間に東京に着いてしまう。これでもう少し料金が安いと有難いのだが、それは無い物ねだりだろうか。

静岡茶旅2023(2)沢水加へ

大浴場で汗を流し、ゆっくりと休んだ。最近は長く歩くことが辛くなってきている。夜暗くなった頃、そばでも食べようとまた出掛けたが、検索で出てきたそば屋が2軒とも閉まっていたのでちょっと驚く。コロナはまだ続いているのだろうか。フラフラしていると開いている蕎麦屋があったので入ってみた。

磯おろしという名の花柄のような盛り付けのそばが何とも旨い。これはこの店のオリジナル商品だと後から知る。ついでにかつ丼をセットで頼んでいるので、かなり満足できる味と量だった。確か夕飯は軽く済ませるはずだったのだが、食べ始めると止まらない。これも良くない兆候だろうか。宿に戻ると、何と1階のスペースでドリンクが飲め、アイスが食べられ、更にはカレーまでセルフで食べられた。知っていれば外には出なかっただろうから、磯ちらしを食べるために伏せられていたようだ。

4月5日(水)沢水加へ

朝ご飯も思ったより充実している。これはもう完全にドーミインを意識した設定だと気が付く。もしこれで料金が安ければ今後使いたい宿だ。まずJRで藤枝駅まで行き、そこで今晩泊まる宿に荷物を預けた。なぜ藤枝に泊まるのか、は正直何かの間違いのような気がする。ちょっと頭に藤枝があったので、宿を予約してしまったが、ここからまたJRで菊川へ向かった。

昼頃菊川駅に着くと、ちょうどテレビ番組のロケをやっている。それを避けて何とかコミュニティーバスの乗り場を探す。駅前には牧之原開拓にも尽力し、初代静岡県知事になった関口隆吉の像がある。バスは以前丸尾原から乗ったことがあるが、料金は僅か100円で有難い。

やってきたバスにはやはり乗客はなく、運転手さんと話すが、私がこれから向かう沢水加の歴史については、特に知らないようだった。まあ地名があまりにも難しくて読めない、ということは誰でもわかる。そんな話をしていると上り坂になり、僅か10分で沢水加公会堂に到着した。この付近前回丸尾原まで歩いた時に通った道だと思い出す。

バスを降りると茶畑が目に入ったが、それほど多くはない。近所に大井航空隊洞窟というのがあったので、脇道を行ってみる。洞窟へは自然災害で通行できなくなっていたが、その付近には古い茶樹がかなりあり、その昔茶業が盛んだったかも、と思わせるものがある。ここは牧之原台地の入り口、道を登れば現在も広大な茶畑が広がっている。

そしてここは明治時代、茶業の先端だった時代がある。この地で活躍した山田治郎蔵という人のことが知りたくて来たが、今はその痕跡は何もない。治郎蔵は茶業を広め、機械の使用にも取り組み、佐倉産の炭を使って茶業の質を上げた人物。彼が作った茶業研究施設が、後の静岡県茶業試験場になったことを見ても、その先見性が分かるというもの。

村を歩いてみても古い家が見えるだけだった。途中に有名な洋食店があったが、残念ながら閉まっていた。その先に西宮神社がある。ここの脇に『入会地奪還記念碑』があって驚く。この地は明治初期、牧之原開拓に来た武士と地元住民が土地を巡り争った場所らしい。その中で死んだ、大谷内龍五郎という人の墓もここにある。明治という時代は、我々が思っているよりずっと複雑ではないだろうか。神社の周りをグルっと回ったが、それ以上の発見はない。

コミュニティーバスは1日数本しかなく、路線バスのバス停まで歩くとかなりある。ここはいっそ下りを利用して歩いて菊川駅まで戻ることにした。花粉症ではあるものの、気候的にはとても歩きやすい。途中所々に茶畑が見えて、何ともテンションが上がる。日本の春はさくらもあって、とても良い。

JRに乗って藤枝まで戻る。駅前の観光案内所で聞くと、藤枝にも茶町と呼ばれる場所があるというので歩いて行ってみる。徒歩約30分、途中川べりに見事なさくらが咲いている。その先は住宅街だったが、ポツンポツンと茶問屋の姿が見える。観光案内所では『Tea Seven』と呼ばれる、7つのお茶屋さんが藤枝茶を売り出していると言っていた。確かに小売り向けにお茶やお菓子が楽しめる店もあった。

静岡茶旅2023(1)相良へ

《静岡茶旅2023》  2023年4月4₋6日

ソウルから戻り、台湾へ行くまでの間にやるべきことがあった。静岡へ行かなければならない。何だかちょっと疲れ気味だが、そこは何とか張り切って行ってみる。茶歴史の宝庫、静岡!今回は何が出て来るのだろうか。楽しみだ。

4月4日(火)静岡へ

疲れていたせいだろうか。何だかすごく早く起きた。起きたらすぐに出掛けた。朝5時前に出て、小田急+JRルートで行くと午前9時台には静岡駅に着くことは分かっていた。これなら新宿発のバスよりも先着する。今回は駅から線路沿いに新しくできた宿を予約してあるので、そこまで行き、荷物を預けて駅前まで戻る。

そしてバスに乗る。今日は初めて相良へ行ってみる。バスの乗車時間は約1時間。20分に一本程度出ている静鉄バスのメインラインだ。それでも一本早く乗りたくて早足になるのは何ともおかしい。バスを降りると、小堤山公園を目指す。ここに今日のお目当て、山本平三郎の胸像があるという。

山本平三郎は相良物産の社長であり、地域にも大いに貢献した人物。茶業についても熱心で、『深蒸しの父』と称されることもある。地域の人々と茶業発展のために尽くしており、その結果この胸像がある。尚彼の弟が私の常に意識している山本亮台北帝国大学教授だということは付け加える必要がある。紅茶の香りを研究した山本教授とその実家はどのような関係にあったのだろうか。そういえば平三郎は東京農大を出ているが、戦後弟が農大教授になったのも関連があるのだろうか。

公園内はサクラが満開で美しい。胸像の向こうには10を超える記念碑が建っている。その中には森町の村松吉平のものもある。吉平は明治初期の茶業者だが、その後相良油田にも関わったことで、こちらに碑が出来たものと思われる。その他郷土の偉人や天皇関連などが一区画にまとまっているのは珍しい。

この公園の脇にトンネルがある。小堤山トンネルと呼ばれ、1970年に廃線となった静岡鉄道駿遠線がここを通っていたという。1923年頃に造られたかなり古いトンネルであり、既に無くなってしまった鉄道を知る生き証人と書かれているのが面白い。100年前のトンネルを潜ってみる。

相良物産は様々な事業を行っており、今も茶業部がある。会社の前に行ってみると、木造建築のいい感じのお店でちゃんとお茶を売っている。それから腹が減ったので定食屋で食事をして、そのまま海岸へ行ってしばしボーっとしていた。明治期は相良港から茶葉が運び出されたというが、今は実に静かだった。

帰りもまたバスに乗る。本数が多いバスに乗るのは何とも気が楽でよい。何とこのバス路線、直接渋谷に行くバスもあるという。鉄道は通っていないが、人口はそれなりに居るということか。1時間で静岡駅まで戻ったが、そのまま新静岡まで乗って行き、最近できた静岡市歴史博物館へ行ってみる。お城のところにきれいな建物が建っていたが、何故かエネルギー切れを起こし、何も見ずに宿へ戻る。

宿は出来たばかりのオープンセールで安く泊まれたが、大浴場もあり、部屋のベッドも良かった。これから静岡ではこのチェーンを使ってみようか。実はバンコクにもあると聞いていたので、1度泊まろうと思い、今回実現したのだ。サービスもいくつかの宿のいい所を取っているので良い。

ハノイ茶旅2023 その2(3)Grabで空港へ

因みにお店の方は、ベトナム人の若者を中心に、かなり繁盛しており、ベトナムの新しい茶文化が根付きつつあることを感じた。ベトナムと言えば路上のお茶であり、それがおしゃれで冷房が効いたカフェに転じていき、更には茶文化を語る場にまでなってきている。勿論まだごく一部だが、スオンさんの店が引き継がれたのを見ても、良い方向に来ていると思う。

ご縁により、一緒に夕飯を食べに行くことになる。近くの食堂だが、オーナー夫妻と子供の3人でバイク1台、私は蔡君の後ろに乗せてもらい向かう。そこは宿から直ぐ近く。見るからにおいしそうな鶏肉が置かれていたが、名物鶏飯はもう一椀しか残っていなかったので、何と年長者の私が頂くことになった。誠に恐縮だったが実に旨い飯だった。おまけにチキンフォーまで注文してもらい、至福の時を過ごす。ご馳走様。

3月6日(月)ハノイを去る

ハノイ最後の朝。もう駅の大音響で起きることもなくなった。毎日食べた宿の朝食、お粥が忘れられない。空港に向かうまでに時間があったので、最後の散歩に出る。ハノイ駅の前の道は、やはり地下鉄工事中だった。この付近もかなり古い建物が残っているが、電車が通れば様変わりするだろう。

クアンスーと言う名の大きな寺にも入った。他に比べて漢字が多く見られたが、寺の成り立ちなどは全く分からない。ただ華人がお参りしているように見えたので、ハノイにも僅かながら華人が残っているでは、と思ってしまう。だが真相は全く分からないまま、ハノイを去ることになった。寺の境内にバイクを停めている。そういえば、昔に比べるとハノイのバイクはかなり減ったのではないか。

午前10時前、宿をチェックアウトしてGrabを呼ぶ。すぐに捕まったので安心していたが、車はいつになっても来ない。というか、スマホ上では目の前にいるはずなのに、そのナンバーと車種はここにない状況。すると若者が近づいてきて、いきなりスマホを見せて、『あなたですね』と聞いてくる。確かに私がオーダーしたのだが、ナンバーなどが違うので実に怪しい。

それでもそんなに悪い人には見えなかったので車に乗り込む。すると運転しながらまたスマホを見せる。そこには中国語翻訳で『Grabのオーダーをキャンセルして欲しい』と書かれていてちょっと迷う。ここでGrabと切れてしまうと、もし何かあった場合面倒だ。だがその時Grabから『車は来たか』と質問が来た。確かにこのまま放置するとオーダーした私としても具合が悪い。

結局決断してGrabをキャンセル。まあ何事もなく30分後には空港に到着。何と支払いはGrabの手数料が差し引かれ、割安になっていて、運転手共々にっこり。Grabは車と契約しているのではなく、運転手と契約しているのだと分かるが、急に車自体が変わるのはやはり困るな、とは思う。

空港に入ると、それほど人はいない。預け荷物もないので簡単にチェックインも済み、出国もあっと言う間に終了した。暇なので土産物を見ると、コーヒーと並んでお茶もかなり売られている。結局今回は殆どお茶を買わなかったが、空港でも買うのもなんだと思い、次回に回した。

空港内を歩いていると、昔夜行便に乗る時、この辺で食事をしたとか、ここで飲み物を買ったなどが急に思い出されてくる。やはりそれほど変わっていないということか。まあハノイの旧市街もそれほど変わってはいなかったのだが、ノイバイ空港は拡張工事をしているのか、横に大きな工事スペースが見えた。次回来る時は大きく変わっているかもしれない。そんなことを考えていると搭乗時間となる。フライトは順調で、牛肉フォーを食べているとバンコクはすぐだった。

ハノイ茶旅2023 その2(2)思い掛けない再会

夜までゆっくり休んでいたが、あまり腹も減らない。まあ何かちょっと食べておこうと外へ出ると、ちょうどバインミーが見えた。しかしそこで皆が食べていたのはバインミーとスープのセット。あまりに美味しそうだったので思わず注文して座り込む。出てきたスープは牛筋が入っているようで、まるで洋食のオックステールスープのように濃厚で美味かった。

バインミーを一つしか頼まなかったので、寧ろ胃が刺激され、別にサンドイッチまで注文して、テイクアウトしてしまった。でもやはりベトナムに来たらこれを食べないと、と言うことで宿にて美味しく頂く。因みに料金は6年前と比べると1.5倍にはなっていた。

3月5日(日)思い掛けない場所で再会

やはり疲れたのか、昨晩はよく眠れた。揺れないベッドは有難い。何とか這い出し、宿の朝食の粥は食べた。そして昼前まで、いつものオンラインセミナーを部屋から行った。さすがにWifiの弱さが心配だったが、サポーターのKさんに色々と工夫してもらい、無事に乗り切れた。これでどこからでもできるという妙な自信が付く。

昼にちょっと外へ出た。ふらふら歩いて路地に入ると、そこにいたおばさんから『ブンチャー』と声が掛かり、思わず立ち止まる。しかし路地に座っているおばさん、どうやってブンチャーを出すのだろうかと興味が沸き、注文してみる。するとどこからか麺が出てきて、どこからか焼肉が出てきて、保温していたスープまで登場、あっという間にお手軽ブンチャーが出来上がる。これで3万ドンは安いのかな。

ハノイ駅の裏側に出た。ここは昔のハノイ駅だったのだろうか。正面入り口は立派で中には切符売場が見えたが、鍵がかかっていて入れない。ここから宿へ駅を突き抜けようとしたが、それも出来なかった。ふと駅の前を見ると茶葉を売っているところがあったので、声を掛けた。だが言葉は通じない。何とかタイグエンの緑茶が欲しいと理解してもらった頃、英語ができる人がやってきて一件落着。まあ何となく面白かった。

午後3時、お知り合いのIさんと茶荘で待ち合わせ。その時間に行って見るとそこにいたのはIさんではなく、旧知の台湾人蔡君だった。彼とは6年前ハノイで会ったのが最後であったが、彼はその後又ハノイに留学し、博士課程でIさんと一緒になったというご縁だった。彼はベトナムの茶文化や歴史も研究しており、ベトナム語も堪能なので有難い存在だ。

Iさんもやってきて、蔡君の持ってきたお茶を飲みながら歴史談義が始まる。Iさんは現在華人を研究していると言い、ベトナム華人、ハノイの華人街などについていくつも質問させてもらった。これから華人関連をやるなら、やはりちゃんと研究している人の意見を取り入れ、茶旅を進めたいと思った。

そしてこのお店、オーナーがやってきて分かったのだが、何と私が10年ほど前に2‐3度お邪魔してベトナム茶の歴史を尋ねたスオンさんの店だった。数年前に現在のオーナー(スオンさんの姪)が店を引き継ぎ、改装したため、かなり新しくなり、雰囲気も変わっていたが、何となくその面影があった。しかもオーナー夫妻は現在中国語を習っており、その先生は何と蔡君だというから驚く。

ハノイ茶旅2023 その2(1)ハノイに華人の痕跡を探すも

《ハノイ茶旅2023 その2》  2023年3月4₋6日

3月4日(土)ハノイ街歩き

ラオカイから無事に戻った朝。また駅の横のホテルに入り、そこでNさんと別れた。今回Nさんには本当にお世話になり、実に実りある旅が出来た。持つべきものはやはり友(特にアレンジ力があり、語学に堪能)である。早朝ながらホテルは何の問題もなくチェックインできたのだが、朝ご飯を食べていいかと聞くと、『ちょっと待て、確認する』と言ったきり、何の返事もない。

こちらはひと眠りしたいので、また降りて行って『いいよね』と念押しして食事を始める。まあ確かに普通朝6時にチェックインとか、あり得ない世界かもしれないが、私はミャンマーで経験済みだったので違和感はない。いや、ここは鉄道ホテルだから、本来それに対応すべきだろう。そういえば部屋は道路側から反対側に替わったので、音は随分と和らいだ。そこで少し仮眠をとる。

昼前に起き上がり、旧市街地に散歩に出掛けた。ハノイには昔はかなりの華人がいたが、1970年代末の中越戦争前に殆どの華人が退去したとのことで、現在ハノイにはチャイナタウンはない(ホーチミンにはショロンがある)。それでちょっと歩いてみて、少しでも華人の痕跡を探してみたくなる。

ホアンキエム湖まで20分ほど歩いて、そこを起点に北にハンガン通りを歩いて行く。植民地時代の建物だろうか、ほんのチラチラ漢字表記が見えるが、今や観光客が行き交う通りになっている。そこからハンボー通りに進む。元々広東系が多かったといい、その歴史もかなり古い。布屋や雑貨屋などが多く並んでいる。骨董屋で工夫茶のセットを見たが、それほど古いものはない。

ランオン通りにやってくると、昔の店舗の名残がそこかしこに見えた。基本的にベトナムは漢字禁止とも聞いていたので、これはそのまま放置して黙認されているのだろうか。漢方薬屋などが今も営業している。そんな中に埋もれるように福建会館があった。現在は小学校で中には入れない。ここが今回唯一見付けた同郷会館跡だったが、普通のベトナム人にとっては何の意味もない場所なのだろう。周囲はバイクで埋め尽くされていた。

少し腹が減った。見ていると腸粉を蒸している店があり、そこに粥と書かれているような文字があった。そして鍋を探して指をさすと何とか粥が食べられた。肉まんも一つ加えた。お茶が欲しいと思っていると、向こうで茶碗に何か入れていたので、私にも頂戴と言うと手を振って断られる。なんとそれは腸粉に掛けるタレだった。言葉が通じないのは何とも愉快だ。

それからどこの道だか分からないが、適当に歩いてみる。立派な門を入ると奥にお屋敷があったが、そこは恐らく数家族が住んでいるだろう。中国でも見られたが、金持ちから取り上げた家を人民で分けたようだ。その金持ちはほぼ間違いなく華人だっただろう。近所には立派な寺もあった。

更にずっと歩いて行くと、レーニン像がある公園まで出た。ここまで来たらホーチミン廟にも寄ってみる。その周辺はフランス時代の建物、教会などが色濃く残り、また仏教寺院などもある風景区。外国人はまだ少ないとはいえ、カフェでコーヒーなどを飲みながら、寛いでいる。私は湖を突っ切り、仏塔がある寺へ行ったが、ちょうど時間が悪く閉まっていた。仕方なくまたフラフラと歩いて宿まで戻る。

滇越鉄道で茶旅2023(5)モン族の村の茶園

娘は薪で火を興している。窓際には干し肉が下がっている。如何にも旨そうだ。何人かでランチの準備が進む。お父さんは水たばこで一服する。運転手君はエプロンまで付けて張り切って調理に参加する。あっという間に数品の料理がテーブルに並ぶ。特にあの干し肉を炒めたものは絶品だった。何だか中国の湖北や湖南を思い出す。そういえばヤオ族は湖南あたりが発祥とも聞く。

いつの間にか隣家のおじさんが乱入する。しかも自分で作ったという酒を持ってきて、飲めと勧める。俺の酒が飲めないのか、状態だ。そしてこのおじさん、何と中国語を話し始める。そこで語られたことは驚愕の一言。『俺は10年位前、サウジアラビアへ出稼ぎに行き、そこからリビアに送られて、傭兵として戦った』というのだが、俄かには信じられない。ただおじさんとは書いたが、年齢は40歳代だろうから、10年前は十分兵士として機能しただろう。

この村から4人の男がリビアへ行き、みな生きて帰ってきたと胸を張られると、そうかもしれないと思ってしまう。確かに2010年以降、アラブの春の混乱があった時期とも重なる。モン族と言えば、ベトナム戦争後も紛争などに巻き込まれたと伝えられる民族だから、おじさんも若い頃から実は軍事訓練を受けていたのかもしれない。そんなことを思うと、このおじさんが果てしなく、すごい人に見えてしまう。

おじさんに連れられて隣家に入る。そこでは確かに醸造が行われており、樽から酒がほとばしり出ていた。聞けば何とおじさん、醸造の前は茶業をしていたという。そこでおじさんの元茶園に案内してもらって、また驚いた。斜面に数十本の大きな茶の木が植わっているではないか。

かなり整備されており、恐らくは中国資本が買い取ったのではないだろうか。こういったいわゆる古茶樹はプーアル茶の原料として、非常に高値で取引されている。おじさんが梯子をかけて茶摘みしようとしたが、少し酔っているので落ちそうになり、皆の笑いを誘う。代わりに女性が見事な茶摘みを披露してくれ、摘んだ茶葉はお土産に持たせてくれた。こんな茶園がこの辺にいくつかあるらしい。

村を回るときれいな幼稚園などもあり、子供たちはいるが、やはり若者の姿はない。これが今のベトナムの田舎の現状だろう。ラオカイに戻る途中、もう一つきれいな烏龍茶の茶園を見ることも出来た。ここも台湾資本の可能性はあるが、詳細は全く何も分からない。

ついに車はラオカイまで帰ってきた。この2日間予想を遥かに上回る、いや恐ろしいほどの成果を挙げた?のは、まさに運転手君のお陰だった。テレビ番組コーディネーターも務めるNさんをして、『この旅は仕込み、無いんですよね』と言わしめた(ドライバーをアレンジしたのはNさんでしょうに)恐るべき茶旅。運転手君との別れはちょっと辛かった。将来は旅行会社をやりたいという彼の前途に大いに期待しよう。

列車は夜9時半発なので、それまで夕飯を食べてゆっくり休むことに。だが駅前なのに、あまり食堂もなく、ちょっと歩いてみても、暗いエリアばかりが目立つ。仕方なく駅前のカフェに入る。この駅は外国人、特にヨーロッパ人などの利用が多いので、カフェがいくつかある。そこで紅茶を飲み、パスタを食べると眠くなる。

9時頃、駅のホームへ行き、また個室に入る。もう慣れたもので、すぐに定位置も決まり、寝る体制を取る。9時半定刻に車両は動き出す。室内の飾りはちょっと前とは違っているが、大筋同じ。すぐに飲み物販売などがあり、その後はもう寝るだけ。夜なかに一度トイレに起きたが、朝5時までぐっすり。さすがに疲れは出ていた。5時20分頃、列車は無事ハノイ駅に到着し、今回の濃密な旅は、あのけたたましいアザーンのような音声と共に終わりを告げた。

滇越鉄道で茶旅2023(4)冷たいサパを歩く

名残惜しい家を出て、皆と別れ、車でサパに行く。かなり霧が濃くかかっており、前が見えないほど。しかも気温が相当に低い。標高は1500m前後だろうか。もしハノイでヒートテックを買っていなかったら、本当に凍え死にそうな雨の夜だった。宿はきれいだったが、外は全く見えなかった。

夕飯を食べるべく外へ出た。濡れた坂道に足を取られる。この季節に観光客は多くなく、どの店も手持無沙汰の様子が何となく可哀そうだった。ただNさんが連れて行ってくれた鍋の店だけが千客万来、不思議なほど人がいた。寒さの中で食べる温かい鍋は格別の味がした。食後周囲を見渡すと、実に立派な建物がいくつもあった。もし夏に来たなら、ホテルも満員なのだろう。

3月3日(金)サパの街で

朝も小雨が降り相当寒いサパ。朝ご飯を食べる気力もなく、下に降りるとNさんがコーヒーを飲んでいたので、一緒に紅茶を飲みながら簡単に抓む。まあこんな天気だし、今日はどうしようかと相談しても仕方がない。取り敢えず車で街中へ行き、有名なサパ教会の前で写真を撮る。裏に回ってみると、初期の宣教師たちの記念プレートなどがあり、ここが1920年代に建てられたカトリック教会だと分かる。

この教会が観光の中心のようで、付近には山岳民族の女性が沢山おり、お土産を売ったり、トレッキングツアーに誘ったりしているが、この雨だから一向に成果は上がらない。我々も彼女らから離れ、道を歩くと古い建物が目に入る。フランス時代の別荘だろうか。その奥にはがっしりした建物があり、今は気象台らしい。その後ろの建物などを見ていると、中国で言う専科楼に酷似していた。第2次大戦後、ソ連の専門家・技術者らがここに入り、宿泊したのだろうか。

その裏にはホテルがあり、軍人用の保養施設なども見られた。そこから階段を上っていくことが出来る。夏は観光客が上っていくのだろうが、この雨では足も滑るので上るのを諦めた。保養施設はホテルになっており、かなり古い建物がいくつか残されていた。フランス時代に開発され、その後社会主義時代にソ連が流用したのだろうか。

バクハ モン族の村へ

運転手と話すと『もし行くところが無ければ、今日はモン族の村へ行かないか』と言い出す。これまた願ってもないことなので、それに乗っかることにした。それにてもヤオ族の彼にモン族の親戚がいるとは。山の中のことは良く分からない。サパからラオカイの方に戻る道に大きな橋が建設中だった。なぜか歩いて渡るのはOKということで、早々に景色を楽しむ。こういうのは日本ではありえないが、昔中国でもあったことを思い出す。

ラオカイ近くで女性を一人乗せた。彼女がモン族だというが、同時に妹だともいうので混乱する。恐らく中国的言い方と同じく、従兄弟なども妹と表現するのだろう。そして彼の親族の女性がモン族の男性に嫁いで生まれた娘なのだろう。まずは病院に寄る。親戚が入院しているとかで、見舞いを運ぶ。それからまた市場で買い出し、更に鶏屋で鶏肉を受け取り、一路バクハ方面へ車は疾走する。

途中トイレ休憩があり、洗車が行われた。雨は止んでいるが、オーナーの車なので、運転手君も気を遣うらしい。それからまた1時間ほど行くと、バクハを越えて、山道を行きそのモン族の村へ入った。昨日の村よりは家はあったが人影はない。山沿いにその家はあった。この家は誰も住んでいないのか、と思うと突然お父さんが現れ、料理が始まる。

滇越鉄道で茶旅2023(3)もう一つのヤオ族村で

もう一つのヤオ族村へ

名残惜しかったが、村を離れた。それから舗装道路を1時間ほど走る。途中山も越えた。本日は観光地のサパに宿泊予定だが、サパの少し前の村に寄り道する。そこは4年前Nさんがテレビ番組のコーディネーターとして訪れたと言い、郊外には修道院の跡が残されているというので興味を持った。

今日はずっと曇りだったが、小雨も降り出し、肌寒くなる。その修道院はかなり大きかったが、今や中は空洞で、随分前に使われなくなり、放置されたようだ。聞くところによると、第2次大戦中、日本の北海道にいた外国人シスターたちが、日本に居られなくなり、ここへやってきたという。日本とベトナムの間にはこんな歴史的秘話もあるのかと、ちょっと驚く。周囲には観光客に土産物を売る山の人たちが何人かいたが、我々にちょっと声を掛け、買わないと見るとすぐに諦めた様子で、子守をしたり、縫物に精を出している。これが彼女らの日常なのだろう。

そしてその先へ進むときれいな棚田が広がっていた。ここは雲南などでも見られる風景区だったが、今は冬で作物はない上に、モヤっていて写真もうまく撮れない。Nさんが知る村へ入り、車から降りると、何人もの女性が我々に近づいてくる。土産物を売るヤオ族の女性だった。Nさんはその中の一人を見付けて、親しげに話している。4年間の取材の時、彼女と出会った(番組にも登場した)のだという。

彼女らと一緒に村の道を歩く。皆籠を担ぎ、中には商品である土産物が入っているようだ。村の中には立派な家も見られ、ここが観光村としてホームステイなどでヨーロッパ人などを受け入れてきたことが分かる。村はずれの洞窟まで行き、折り返すが、特に見るべきものはない。そこで『家に茶の木がある人?』と聞いてみたら、一人がさっと手を挙げた。

その家へ行って見るとかなり立派なさっき見た家だった。コロナ前はここのお母さんが外国人のホームステイを受け入れ、かなり賑わっていたらしいが、そのお母さんが亡くなってしまい、言葉の問題とコロナで現在は閉鎖状態だという。彼女はお嫁さんだが、ご主人の祖父は村の代表だったこともある家柄だった。

お茶を缶から取り出すのかと待っていると、彼女は外へ出て行く。庭に一本、茶樹が見えた。あれはタリエンシスだろうか。すると彼女は物干し竿のような物に釜が付いた棒を茶樹に向け、上の方にある茶葉を枝ごと見事に切り落とした。すばらしい技だった。そこから茶葉をむしり取り、両手で大きく揉みこみ、何とそのまま大きなやかんの中に放り込んだ。やかんには既に薪で火が起こされており、その茶葉が煮込まれていく感じだった。

生葉を火であぶってから揉んで、という話は聞いたことがあるが、生葉をそのまま揉んで、煎じるとは、何と言うことだろうか。ある意味でこれは極めて初期の原始的な茶の飲み方ではないのだろうか。こういうものが目の前で見られるのが茶旅だろう。かなりワクワクする。入れられたお茶は、時間の関係もあり、かなり淡白な、そしてすっきりした味わいだった。彼らはこれを飲料としてではなく、薬として病気の時などの飲んでいるとのことであり、まさに茶の歴史の教科書に出てきそうな光景を目撃した。

私がヤオ族の歴史に興味を持っていると知ると、彼女は家にあったご主人のノートなどを持ち出してきた。そこにはまさに漢字が書かれている。私は2015年に松下先生に同行してベトナム山中に入り、そこでヤオ族の家系図を見せられたことが忘れられない。ヤオは漢字を使う数少ない少数民族なのだ。ここのご主人も当主となるべく、漢字の勉強に励んだのだろう。