「茶旅」カテゴリーアーカイブ

ナムサン茶旅2016(8)工事で封鎖された道

そしてついにその時は来てしまった。車が一台停まっており、動く気配がない。残念ながら工事で道が封鎖されていた。待っている車に聞くと、30分待ちだというが、ここはミャンマー、誰も信じていない。前の車の運転手はどこかへ行ってしまう。我々は工事現場を見に行く。機械である程度はやっているが、基本は手作業。若い男女が作業員になっている。コールタール、なんとなく子供の頃、自分の家の前が舗装されたことを思い出し、懐かしい。

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若者が掃除を始める。埃が舞い上がる。次にコールタールを撒く。コールタールは近くのドラム缶で煮られている。駆り出されているのは、地方の農民たちだとTさんが言う。今では農作業を辞めてしまい、1年中、作業現場を渡り歩いていくらしい。掘っ立て小屋が近くに建っており、子供も含めて一家でそこに寝泊まりし、食事を作り、生活する。これは大変な労働だが、きっと賃金は悪くないのだろう。すでにある種の移動する専門職となっているのかもしれない。

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ボーッとみていたが、何度か同じ作業が繰り返えされており、いつ終わるとも知れない。作業のないメンバーは道路脇で、休んでいるが、毎日毎日この作業を繰り返しているのだろう。淡々とやることをこなし、あまり表情がない。もう終わらないのでは、今日は通れないのでは、どうするんだと思った頃に、急ににいちゃんが手を振り、車の通行が許された。

 

通行はいつ取り消されるとも知れないので、急いで車に乗り、走り出す。各車、カーレースのような勢いで車を動かして通り過ぎる。その先も山道、この辺は最後に整備されている場所なのだろうか。すでに時間は午後2時半を過ぎ、かなり腹が減ってしまっていた。だがランチにありつけたのは、ちょっとした村に着いた、それから30分以上も行った後だった。

 

午後3時にカオソイを食べる。それ以外には食べるものがなかった。確かに今は昼飯には遅すぎる。まあ腹が減っているから、何を食べてもうまい。漬物もうまい。食後、少し散歩した。精霊信仰の祠もあり、また仏教の寺院も見える。この辺でもシムカードが役に立ち、スマホのネットは確実に繋がっている。本当にミャンマーのネット事情は半年で大きく変わっている。1年前なら、こんな山の中、絶対繋がらなかっただろう。恐ろしいほどの進歩だ。

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相当に時間をロスしているので、道を急ぐ。どう見ても、このあたりの工事現場は中国が援助して作る道にしか見えない。なぜここに道が必要なのだろうか。もう少し行くと、畑が見えてきた。狙いはこれかも知れない。中国はシャン州で、大量の農地を買収して、農作物を作っている。これを中国産ではなく、ミャンマー産として、中国に輸出している。しかしその作り方は、農薬、化学肥料を大量に使う、いわゆる中国式農業であり、結局は中国でやっていることと変わらない。ラベルを張り替える、という中国的なやり方だが、土地はどんどん細っていく。

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だんだん道がよくなり、ついに午後4時過ぎに北シャンの街道に出た。果たして今日通った道が近道だったのかどうかは別にして、色々と考えさせられる道だったことは確かだ。この街道はラショーまで続いており、何度も通った道だったので、安心した。しかしここはどこだろうか。ゴッテティ橋より手前だから、今日の目的地、ティボーまではまだかなりある。

 

ガソリンスタンドで停車した。Tさんは慣れた様子でホースから水を出して、洗車を始めた。よくここで洗車するのだという。車は山道を走りかなり汚れていたので、水をあてられると、車も何となく気持ちよさそうに見える。私も一緒にシャワーを浴びたい気分になる。ガソリンは630kと昔に比べたら、ずいぶんと安い。原油安の影響はこんなところにも出ている。

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30分ぐらい走るとチャウメイに着く。一昨年の10月末、ここから3時間、ミョーテイ村にバイクで行った日が昨日のように思い出される。あの旅こそは、近年忘れることのできないアドベンチャーであり、真の茶旅とは厳しいものだと痛感した。Tさんはチャウメイの知り合いの家に寄るという。ナムサンに行く場合でも、同じパラウン族の圏内であり、行くことは告げておく必要があるらしい。

 

パラウン族で茶葉の売買を仕切っている家に行く。お茶が出てきたので飲みながら、これまで疑問に思っていた、ミャンマー茶の区分けを教えてもらう。番茶はアカーチャウ、酸茶はチンムイというらしい。これまでほとんどを緑茶とされていたミャンマー茶も、当然様々な茶があるわけだ。

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僅か30分の滞在で、チャウメイを離れ、今日の目的地、ティボーに向かう。ティボーは10年前に行ってトラブルがあり、前回半年前に行っても、列車のトラブルがあった、私にとっては因縁の街。果たして今回はどうなるのだろうか。車は1時間もかからずに、スーッとティボーの街に入っていった。

 

ナムサン茶旅2016(7)タウンジーから抜け道で

Sさんは学生時代にビルマ語を専攻し、ミャンマーに留学もしたという。そして当時外国人が入れなかったラカイン州へ行くために、Tさんと知り合った。TさんはNGOスタッフとして7年間、ラカイン州に住んでいたので、そこを訪ねたらしい。ラカイン州といえば、今でも紛争地域、すごい繋がりである。卒業後もどうしてもミャンマーに住みたくて、現在のNPO法人を探し当て、最終的にタウンジー駐在員となった。因みにこのNPO、どこかで見たことがあると思ったら、先日行った佐賀のお茶屋さんのすぐ近くにあった。とても不思議な道場の脇に世界地図があったのが印象的だった。現在農業関係の支援をしているらしい。

 

そしてこの地で現在のご主人と知り合い、結婚。ご主人はミャンマー人だが、パンデーと呼ばれる、中国でいうところの回族だった。回族はイスラム教徒であり、彼女も改宗することになる。パンデーは中国の清末あたりから、迫害を受けてミャンマーへ入ってきて、主に貿易に従事していた、とても興味深い人々。茶葉も扱っていたことだろう。今はほぼミャンマーの中に溶け込んでおり、我々にはそれとは分らない(本人も相手がパンデーだとは知らずに結婚したという)。

 

Sさん曰く、『日本に比べて、タウンジーの方が断然住みやすい。このままずっとミャンマーに住み続けるだろう』と。日本を離れた方、日本人がいない方が楽、ということは沢山ある。現地にちゃんと入っていければ、そして習慣などを受け入れれば、こちらの方が子育ても含めて、あまり細かいことを考える必要もなく、楽だろうな、と私でも思う。2時間ぐらい話していると、ご主人が可愛らしい息子を連れて、やってきた。そろそろ彼の子守の時間は終了らしい。

 

ホテルに帰ってテレビをつけてみたが、衛星放送はなかった。まあこのレベルのホテルでは仕方がない。今晩は、ドーハでU-23日本代表とイラクのサッカーの試合、準決勝があった。これに勝つとオリンピック出場が決まる一戦、ぜひ見たかったが、見ることはできなかった。それでもネットが繋がるので、経過は順次入ってきた。ドーハといえば、あの1993年の悲劇が気になる世代、同じ相手イラクに対して、今日はドーハの歓喜となったのは喜ばしい。

 

1月27日(水)

翌朝は7時頃起きて、朝食へ。麺やトーストなど、食事は簡単ビュッフェだが、これで十分だ。ただこの場所は半地下になっており、冷たい空気が入り込んできてかなり寒い。さすがに標高が高いタウンジーだが、それならなぜこんなところに食堂があるのだろうか。ちょっと首を傾げながら、目玉焼きをつつく。そしてインスタントコーヒーを淹れる。お茶はポットに入っており、それも注いで見る。ここで飲む場合は、暖かければそれでよしとする。

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4.ティボーへ 

抜け道を行く

食事が終わるとチェックアウトして、すぐに車に乗り込む。タウンジーの街を歩くことは結局ほとんどなく、わずかに車の窓から見るだけだったが、勿論10年でかなり発展はしていた。だが、それでもヤンゴンのようなそれはなく、ちょっときれいになった程度。なんとなくこのほうが落ち着く。懐かしいタウンジーホテルの横を通り過ぎると、昔が蘇ってくる。

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郊外に出て、坂をくねくねと下っていく。長い長い下りを終えると、平らな道へ。1時間ほど走っていくと、時計台が見えた。時計台があるということは、ここは昔の交差点、イギリス人が作ったものだろう。Tさんはこの十字路でどちらへ行くか、念のためにその辺の人に確認している。

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実は今日は北シャンへ行くのだが、そのルートは迂回しながら、舗装された道路を行くのが普通らしい。だが、我々は別の道を選んでみた。確か10年前にシャン州に来た時に聞いたルート。果たしてその道は本当にあるのだろうか。また通ることはできるのだろうか。チャレンジしてみることに。お婆さんがはっきりと『こっちだ』と指さしたので、そちらへ向かう。

 

だがその道を行くと、なんと軍の施設が立ちはだかった。ただ他の車が通っているのが見えたので、そのまま突き進むと、ノーチェックで施設内を通過できてしまう。軍事政権時代では考えられないのだろうが、今や庶民の便宜も少しは図られている。そこを抜けるともう車は走っておらず、Tさんはひたすら道と格闘している。山あり谷あり、というほどでもないが、飽きない。

 

30分ぐらい行くと、お店があったので、休息をとる。まだ食事には早いと、ティミックスだけを頼む。これが後で結構利いてくる。まあこの時点では余裕があり、ショートカットして相当早く着くだろうと予測していたので、仕方がない。ただここはミャンマーだ。簡単なはずはなかった。

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この道はショートカットだがかなりの山道。車はほぼ走っていない。途中で何度か道路工事現場に遭遇した。すべてが舗装されているわけではなく、ちょうど乾季の今、あちこちで工事が盛んに行われている。中国製の工事機械が目につく。こんな山の中、果たしてニーズはあるのだろうか。立派な橋が架かっている。やはりこの道も軍用として整備されたのだろうか。

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ナムサン茶旅2016(6)パラウンの茶畑

食事が終わるとネピドーに用はなかった。すぐに車で郊外に出る。ネピドーにも列車の駅もあるが、今の街からは少し離れている。ここは10年前に当時の軍事政権により、一夜城のように極秘裏に突貫工事で作られた街だ。ヤンゴンとマンダレーのちょうど真ん中の都市、軍事上も重要な位置にあるとのことだったが、ヤンゴン一極集中の中、なんとも不便な首都である。それでも高速道路ができて、日帰りも可能となり、緩和されたというが、どうだろうか。新政権は首都機能をどこに置くのだろう。そんなことまで考える余裕などとてもないかもしれない。

 

パラウンの茶畑

車は高速道路から離れ、初めて通る道を行く。この道でシャン州タウンジーを目指す。なだらかに山道を登っていく。この辺もほとんど車は走っていない。途中、温泉リゾートと書かれた看板が見えた。果たしてどんな温泉なのか?興味はあったが、先を急ぐ。タウンジーまではまだかなり遠い。

 

単調な山道を行く。運転好きだというTさんは、『こんな道を走るのが好きだ』というのだが。あるところでTさんは車を停めた。『ここからの景色がとてもいいんです』という。下を見てみると、確かに周囲が一望でき、湖が見えた。ここに水力発電所を建設するため作られた人工の湖だという。そして集落も見える。労働力として移住してきた人々が暮らしている。元々人は住んでいたのだろうか。その人たちはどこかへ行ってしまったのだろうか。

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川があり、立派な橋を渡る。おそらく最近作られた橋だろうが、どう見ても、この辺には相応しくない。何か理由があって作られているのだろう。軍事目的、それとも対外援助?そこを過ぎると、バオー族が多く住む地域に入ってきた。ミャンマーには多くの少数民族がおり、私などはとても区別ができないが、ミャンマー経験が豊富なTさんは、いくつかの特徴から、見分けているらしい。

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そして両側に茶樹が植わっている場所が見えた。このあたりはピンラウンという地域だそうだ。それほど多くはないが、道路脇の少し上がったところに茶樹が並んでいた。バオー族が多いこの地域に、なぜ茶畑があるのだろうか。季節的な要因か、茶樹に元気はなく、冬枯れた?感じになっていた。

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もう少し行くと街道沿いに店があった。トイレ休憩方々、店を覗くと、そこでは茶が売られていた。店の人に茶について聞くと『これは緑茶だ』といい、作っているのはパラウン族だという。だいぶ前にパラウン族がここに移住してきて、茶作りを始めたというのだが、何か特別な理由でもあるのだろうか。ミャンマーは軍事政権時代に、少数民族を強制的に移住させたこともあったと聞くがどうだろうか。ここの茶は、ミャンマーのどこででも飲まれている緑茶であった。

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また道を進むと、両側に茶畑がある。この辺は管理もあまりされておらず、自由に茶樹が育っているようにも見える。急に霧が出てきた。この環境も茶作りにはよいのかもしれないが、周囲には誰一人、人がいないから聞くこともできない。民家も見えない。一体どこに住んで、この茶畑に来るのだろうか。なんとも不思議な地域だが、解明の手掛かりすらない。

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ネピドーを出て4時間、ずーっと人気のない道を行く。すでに日は西に傾いているが、タウンジーは遠い。タウンジーに行ったのは、2004年の1回だけだが、その時も、なかなかつかない場所だった、という印象しかない。標高1400mの山の上にある街、坂を上り始めてもすぐに着く訳ではない。

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3.タウンジー

タウンジーの夜

なぜこんなところに街ができたんだろう、というのがタウンジーに対する率直な感想であり、謎である。シャン州の交通の要所、とは、何度も聞いているが、ここが便利だとはどうしても思えない。まあ考えられるとすれば、他がもっと険しい山であるか、むしろ不便なところが便利ということなのかもいれない。

 

タウンジーの街に到着した時は、すでにあたりは暗くなっていた。ホテルはTさんが予約してくれていた。まあこんなものだろうが、1泊30ドルは少し高いと感じられる。シャン州の州都と聞いたが、ホテルはあまりないのだろうか。10年ぶりのタウンジーの街、変わっているかと聞かれても、もともとよく覚えていないので分らない。暗いせいかもしれない。

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今晩は、タウンジー在住日本人Sさんと会うことになっていた。実は半年前にTさんからSさんを紹介されており、タウンジーに来るはずだったのだが、その直前シャン州ラショーで寝込んでしまい、同行していたS氏とNさんだけがタウンジーに来て彼女に会っていたのだ。今回はTさんも一緒であり、せっかくの機会なので夕食を共にした。因みに彼女はかなり年の離れた大学の後輩にも当たる。

 

シャン料理のお店に行く。涼しい夜だったので、鍋が暖かく、とても美味しく感じられた。タウンジーには最近はおしゃれな店が増えたという。途中歩いていると『TOKYO CAFE』などという店も見えたのを思い出す。だがタウンジーに住む日本人はSさんと息子さん他、計4人しかいないという。

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ナムサン茶旅2016(5)停電のヤンゴンからネピドーへ

食事が終わっても、なぜかショッピングセンターに戻ってきた。何か買い忘れかと思っていると、先ほどのチーズタルトの店で働いている運転手の娘を一緒に乗せて帰るためだという。本当に面白い。TTMは運転手にとってあくまで客であるはずだが、すでにもう家族のような付き合いになっている。このあたりが、TTMの独特に感性というか、人情というか、このような行動が、人の縁を生み出し、色々なものに繋がっていくのだろう。見習いたい。

 

店は開店したばかりで、バイトといえども、忙しいらしく、彼女はなかなか仕事が終わらなかった。それでもみんな、アイちゃんをあやしながら、ちゃんと待っている。特に遠慮というものもなく、ようやくやってきた彼女も至極普通に車に乗り込んだ。日本なら、恐縮してしまい、大変だろうが、この軽やかさが嫌いではない。その夜、家に到着すると、遅くにもかかわらず、買ってきたチーズタルトを頬張ってから寝た。とても濃厚な味だった。

 

1月26日(火)

停電

その夜中、なんだか外がうるさいなと思っていると、激しい雨音だった。まあそのうち止むだろうと寝ていたが、むしろ音は大きくなり、屋根をたたきつけており、雷まで鳴り出した。今は雨期でもなく、雨もあまり降らない時期であるはずだが、どうなっているのだろうか。狂ったような夜来の雨に追い込まれ、ついにぐっすり寝ることなく、朝を迎えてしまう。

 

今日はシャン州へ出発する日。午前6時にTさんが車で迎えに来てくれる手はずになっていた。だが外は真っ暗、この付近一帯は完全に停電していた。起き上がって下の階に降りようとしたが、暗くてよく見えない。すると横の部屋からTTMがスーッと出てきて、蝋燭をかざしてくれた。ヤンゴンがいくら発展したといっても、いまだに時々停電はある。停電慣れしている国民はこういう時になんとも強いし、何よりも落ち着いている。トイレに行くにも蝋燭がいる。

 

蝋燭の火を見ながら、朝のお茶を飲んだ。非常事態なのだが、なぜかまったりしてしまう。それにしても、この分りにくい迷路のような住宅街で、Tさんはこの家を探し当てることはできるのだろうか。実は昨年一度昼間の明るい時に、私を送ってここまで来てくれたことはあるのだが、なんとも心配だ。というより、市内が大洪水にでもなっていれば、ここまで来ることすら難しい。

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昨日買ったシムカードで電話を掛けると、幸いすぐ近くまで来ているという。市内はそこまでの被害はなかったようだ。家の外を照らしてみると、水はある程度溜まってはいるが、洪水というほどではない。私が前回ここに泊まった時には、本当に洪水のような状態になったこともあり、それに比べれば、外に出られるレベルであった。そしてTさんもなんとか、家にたどり着き、荷物を積み込み、出発できた。しかしどうみても波乱の幕開け、これは未だ予兆に過ぎなかった。

 

朝早い時間、ほとんど車の走っていない道路を行き、マンダレーまで行く高速道路に入る。ここまで水が溜まっているところもあったが、概ね問題はなかった。雨も止んでいる。高速道路も相変わらず、車がほとんど見られず、快調そのもの。先ほどまでの洪水騒ぎがうそのようだった。

 

最初のサービスエリアに入って、朝食を食べる。麺を頼んだが、腹が減っていたのか、美味しく感じられた。道路には車が少ないのに、サービスエリアにはそこそこ人がいる。いつも不思議に思う光景だった。必需品であるトイレットペーパーを忘れたので、買いたいと思ったが、ショップには歯ブラシなど日用品は売っていたが、トイレットペーパーはなかった。なぜだろうか?

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2.ネピドー

中華系食堂でランチ

11時にはネピドー着。ここまで約5時間、順調だった。前回ネピドーに寄り道したときは、ちょうど1週間後にサミットを控えており、街に入る際の検問も厳しかったが、今回はノーチェック。そして相変わらず、人が道を歩いている姿など全く見られない。いつみても不思議な人工都市だった。

 

ここでランチを食べないと、食べるところがないというので、早めのランチに行く。だが前回も困ったのが食事。食べるところがなく、ショッピングセンターの中のチェーン店で食べたがイマイチだった思い出がある。Tさんはその後も、仕事で何度もここを訪れており、いいところを見つけたという。

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そこは街から少し外れた高台にあった。メニューを見るとなんと中国語が書かれている。内容も中華料理が多い。そしてネピドーのレストランの値段がヤンゴンなどに比べても相対的に高い中、かなりリーズナブルだ。Tさんが頼んだ揚げ魚はウマかった。ご飯が進む味だ。店内もきれいで気に入ってしまった。お客も中国系の人だけではなく、ミャンマー人も来ており、繁盛している。オーナーは中国系なのだろうか?

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ナムサン茶旅2016(4)ヤンゴンでチーズタルト

1月25日(月)

ショッピングプラザで

翌朝はアイちゃんもぐっすり寝ているようだったので、私もスヤスヤと寝ていた。TTMの妹の一人がやってきて、朝ご飯を作ってくれたので、それを美味しく頂く。アイちゃんは入浴中らしい。SSが悪戦苦闘している。TTMも手伝いに行っており、私は一人で朝ご飯となる。

 

実は昨晩『シャワー浴びますか?』と聞かれていたのだが、『ミャンマー人って、夜は浴びないでしょう』というと、その通り、との答え。過去見てきた限りではミャンマー人は朝起きてからシャワーを浴びるのが習慣だ。わざわざ私のためにお湯を使うのも悪いと思い、遠慮した。この家で、お湯が出る場所は一か所しかない。それもたくさん出ないので、お湯をためておいて使うのだから、用意も大変であり、家族が順番に湯を使うのが効率的なのだ。

 

今日はSSが『一緒に出掛ける』というので、リビングで待っていたが、一向に行く気配がない。それでもまあいいや、とNHKワールドプレミアをじっと見て過ごした。朝ドラ再放送が見られてよかった。そのうち、昼ご飯が出てきたが、まだ出かけるという話は全くない。ここは町から遠いので、一人で出ていくわけにもいかず、周囲の散歩も止めにしておいた。

 

午後2時過ぎにようやく、動きが出る。SSがタクシーを呼んだ。昨日のタクシーがやってきた。皆で新しくできたミャンマープラザへ行く、というのだ。ミャンマープラザはTTMたちが以前住んでいたオフィスのすぐ近く、セドナホテルの隣に、大規模に、しかもあっという間に立ち上がったショッピングセンターだ。正直毎日ショッピングセンターに行っても仕方がないと思うのだが、ここは言われるままに付いていく。40分ぐらいで、到着した。

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地下駐車場に入ったが、なんとも立派なところで、どこに車を停めたか分らなくなりそうな広さだ。まだ開業直前という感じで、半分しかスペースを使っていない。本当にそんなにショッピングセンターのニーズはあるのだろうか?上の階に上がっていくと、どこのセンターにも入っているお馴染みにテナントだらけ。ジョルダーノを見ると、10年前のSSを思い出して微笑ましい。好きなブランドだったな。今やプチセレブ、好みも大きく変わっている。

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今回のお目当てはチーズタルトだった。ミャンマーでチーズタルト?と訝りながら行くと、なんと日本の福岡のパティシエが作ったというのだから驚いた。TTMの知り合いが、福岡でこれを食べておいしいと感じて、ミャンマーに誘致したらしい。このお店は2号店で、まだソフトオープンの状態だった。やけに親切に心配りする店員の女子がいるなと思っていたら、TTMの知り合いだった。というか、TTMの口利き(ここの出資者であるミャンマー人と知り合い)でここに職を得たというのだ。しかも彼女はなんとタクシー運転手の娘だったのだ。さすが、おせっかい者、TTM。どんなところにも顔を出し、人を繋いでいく。

 

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このお店にはもう一人、なんと日本人がいた。このタルトを作ったパティシエの息子だという。まだ大学生だが、休学して、商売の勉強をしているらしい。すごい、この歳で商売の実践を、しかもアジアで体験できるなんて恵まれていると思う。彼の今後にも注目したい。因みにチーズタルトの値段は1個、1600k。福岡で売っているものとほぼ変わらないという。ミャンマーでは高価なお菓子だが、1号店では結構売れているらしい。ここには喫茶コーナーがなく(1号店は店内で食べられる)、販売のみのため、購入して持ち帰ることになった。

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ヤンゴンのショッピングセンターでいつも目につくのがベビー用品の店。どこでも必ずある。そしてそれなりに高価な物を売っているのだが、お客はなぜかいる。都市部のミャンマー人も子供にはお金をかける。アイちゃんはこの店にはちゃんと反応する。SSが何か小物を買おうとしていると、ひょこひょこ歩き出して、商品を物色している。さすが女の子、この歳から買い物好きか。最終的にぬいぐるみを見つけて手から離さなくなる。こうなると、おじいちゃんの出番ということで、プレゼントした。その満面の笑みはSSにどこか似ている。

 

SSはレストランコーナーを探して歩いている。何かと思うと、ホットポット屋がまだ開店していないと嘆く。彼女の火鍋好きも半端ではない。私がヤンゴンに初めて来たその時から、来ると必ず一度は彼女と火鍋を食べることになっている。今日はほかのレストランにするかと思いきや、ショッピングセンターを出て、車に乗り、いつもの火鍋屋に向かった。そして個室に入る。アイちゃんが自由に遊べるようにするためだ。相変わらずSSの大好きな、エビやカニなど海鮮中心に大量の具材を選んできて、鍋に放り込み、豪快に大いに食べる。

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ナムサン茶旅2016(3)ヤンゴンで台湾人と

H君が連れてきた台湾人も実は大学生、21歳であり、初めての海外旅行がミャンマーだという。それも一人旅。これまたすごい。彼も到着後すぐにシムを買い、ネットを駆使して、ヤンゴンの旅を毎日楽しんでいる。これがあればなんとかなる、という言葉は印象的だった。今回はヤンゴンだけ、2週間いるというのも日本の大学生とは行動が違っている。父親の友人がこちらでパン屋を開業しており、そこに居候しているらしい。ヤンゴンでは今、パン屋も急激に増えている。美味しいパンを食べたいというお金持ちのニーズに応えて、店は繁盛しているらしい。オーナーの台湾人は、以前にはパン作りの経験もなく、完全に異業種からの参入。高給を払って台湾からパン職人を連れてきて、開業したらしい。儲かりそうな仕事があれば、あまり考えずに、まずやってみる、いかにも台湾人らしいやり方だ。

 

ヤンゴンで台湾人と

夜もH君に誘われて、付いていく。タクシーでダウンタウンへ行く。タクシーに行き先を告げていたにもかかわらず、細かい道はわからないと、途中で降ろされる。かなり暗い道に入る。この辺りは100年前に建てられたビルが並んでおり、ちょっと古い映画の一場面のようで怖い。

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なんでこんなところへ来たのだろうか?なんとその一角に、おしゃれな日本料理屋があったのだ。ヤンゴンではここ数年、日本食レストランが急増しているとは聞いていたが、こんな場所にもあるなんて。しかもオーナーは日本人だという。相変わらず、アメージング、ミャンマー!

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店内は1階にカウンターなどがあり、2階にもテーブル席がある。我々が2階に上がると、そこには台湾人が2人待っていた。今晩はヤンゴン台湾人の会だという。現在ヤンゴン在住台湾人は2000-3000人で日本人と変わらない数らしい。なんでここにH君が参加するの?彼のキャラクターが様々な人脈を生み出していることがよくわかる。さすが元ヤンゴン駐在員、そして現駐在員。日本人の一般駐在員もこのような会合に積極的に参加するのが良いと思うのだが。

 

待っていた二人は母子であった。若い娘はカメラマンであり、ヤンゴンの英字フリーペーパーに写真を提供するなど、当地で活動していた。ミャンマーのかなり奥地にも入り、その風景をカメラに収めていた。母親はそんな娘を見に、わざわざやってきたらしい。そういえば2003年、初めてミャンマーに来た時、日本人の姿は多くはなかったが、台湾人はたくさん見た記憶がある。仏教徒である台湾人が、朝早く僧侶の托鉢のために、ご飯などを用意していた姿が思い出される。

 

そこへ香港生まれ、台湾育ちという男性がやってきた。彼は普通話、台湾語、広東語、英語、そしてなんと日本語まで話した。更にはミャンマー在住2年程度で、普通にミャンマー語も使っている。確かにたまにこんな華人を見ることがあるが、やはりなんとも驚いてしまう。語学の才能というか、多言語環境が生み出す人材というか、正直どうやっても到底及ばないとわかる。

 

彼は現在ミャンマー国内で、通信の基地設置を担っている外資系会社に所属している。まさに昼間感じていた、ミャンマーの携帯の急速な普及にかかわる仕事だった。ミャンマー市場の現状を聞くと『ミャンマーの通信事情にはかなり問題はあるが、テレノールの契約件数は1300万で、すでにMPTの1200万を抜いているね。オレドーはかなり遅れており、やばいかも』ということだった。そして基地局の設置は急激に進んでおり、さらに便利に、繋がりやすくなるだろう、という。

 

昨年11月の選挙で、スーチーさんが勝利したが、それについて彼らの意見を聞いてみるとやはり『当面の混乱』という言葉が出てくる。『現政権はなんだかんだ言っても、経済成長、様々な改革を推進した』と一定の評価がされており、一方今度の政権には国政を担う能力があるのか、そんな人材がいるのかという疑問がある上、当然反対勢力からは、様々な妨害があるだろうから、何か事を前に進めるのも大変だろうとなる。それはビジネスをしている人々にとって、決してプラスの話ではない。政治はきれいごとではないだろう、という。特に外資系に対する新政権の出方は、かなり不透明で、新規事業は様子見となっているらしい。

 

この店では本格的な日本料理が出てくる。刺身、てんぷらから、コロッケ、ポテトサラダまで、海外で食べるには十分な水準にあるが、それなりの値段がする。台湾人も日本食が好きであり、このような会合がある時は、日本食を選ぶ傾向があるようだ。『美味しい台湾料理もあるにはあるが』というので、次回はぜひヤンゴンの台湾料理屋へ行ってみたいと思う。

 

帰りは、途中までは車で送ってもらうが、TTM家はとても遠いので、そこからタクシーを拾った。SSが書いてくれたミャンマー語を頼りに、料金交渉をして、なんとか車に乗り込む。しかし外は真っ暗だった。果たしてたどり着けるのかとても不安だったが、携帯シムのおかげで最悪の場合、連絡が取るのが心強い。これも基地局普及のたまものだ。素晴らしい!

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家の敷地内に入ったが、夜が遅いため、いつもの門は締まっており、正門から入るともうどこを走っているのか、わからなくなる。住所や番地はあっても、外が暗すぎて、読むこともできない。警備員などに聞いて、何とか進むうちに見慣れた光景が出てきて、ようやくたどり着く。まだまだヤンゴンといえども、明るいとばかりは言い切れない。それでも数年前なら一人で外出するのも大変だったのだから、かなりの進歩といえよう。

ナムサン茶旅2016(2)ロンジーと携帯シム

TTM家には衛星放送が設置されている。いつもはSSが韓流ドラマを見ているのだが、私の為にNHKを流してくれている。何気なく見ていると、ちょうど相撲の千秋楽、琴奨菊が勝って、10年ぶりに日本出身力士が優勝した。その瞬間をミャンマーで見るというのも、何とも言えない味わいがある。日本に変化の兆しがあるのだろうか。相撲は日本の国技だ、というのは、正しい表現なのだろうか。

 

レーダンセンター付近

実は今日はH君と会う約束をしていた。H君は大学卒業と同時にヤンゴン駐在になったという変わり種。ヤンゴンに着いたら電話する、と言ってあったのだが、なんと半年前にダウエーで買ったシムカードはすでに使えなくなっていた。仕方なく、SSに携帯を借りて電話すると『レーダンセンターで待ち合わせましょう』と言われる。それはどこ?と思っているとTTMがそこは有名だ、というので、タクシーを呼んでもらい出掛けてみる。私は基本的にヤンゴンでは一人で行動することがこれまで滅多になく、楽しみなようで、怖いようで。

 

空港までTTMが迎えに来る時乗ってきたタクシーの運ちゃんもよく知っており安心だったが、言葉は通じない。代金は初めから6000kと決めていたので問題はなかったが、ショッピングセンターの場所は皆目わからないので、少し不安になる。おまけに途中から渋滞にはまり、何時着くのかと心配していたが、なんと目的地付近の道が渋滞していただけだった。

 

レーダンセンターは最近できた新しいショッピングセンターで付近の人通りも多かった。H君とはすぐに落ち合え、一安心。だがショッピングセンターには入らなかったため、中がどうなっているのかはわからなかった。H君は台湾人の若者を連れてきており、ヤンゴンで3人の会話は中国語になる。H君は学生時代に台湾留学経験がある。なんとも意外な展開で面白い。

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レーダンセンターのすぐ近くの横道に入ると、そこには若者がたくさん歩いていた。『ヤンゴンの竹下通りです』とH君は言うが、さすがに竹下通りには見えない。でもその賑わいにはちょっと驚く。特に目を惹いたのが、若い女性の多くがロンジーを履いていたこと。ロンジーはミャンマー伝統の服装だが、数年前には若い女性は履くのを嫌がり、ジーンズなどに人気が集まっていた。SSも20歳の頃はロンジーに抵抗しており、TTMとよくケンカになっていたのを思い出す。それが今では、おしゃれ、ファッションとして復活している。むしろ若い男性でロンジーを履いているものを見つけるほうがよほど難しい。面倒くさいのだろう。

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それからおしゃれなカフェに入る。オーナーはミャンマー北部出身で中国語も出来るとのことだったが、店が繁盛しており、我々と話す暇などなさそうだった。今日は日曜日、かき入れ時だろう。若者が引っ切り無しに入ってくる。ここのコーヒーは決して安いとは言えないが、ロケーションが大学にも近く、裕福な大学生がカップルでやってくる、デートスポットか。

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H君は1年間、ヤンゴンで飲食業に従事していたが、昨年転勤で一度東京に戻っていた。だが今度は別のビジネスで再度ヤンゴン赴任。今回はまだ来たばかりだが、以前の人脈は生きている。この店にも以前一緒に働いていたミャンマー人女性が務めているということで、彼女と挨拶していた。この店のウエートレスの給料は月2万kだそうだ。ちょっと前に比べれば、良い待遇とか。

 

ヤンゴン携帯事情

私は携帯のシムカードが買いたかった。半年前と違うのは、今はスマホを持っていること。H君は『3G を買いましょう』と率先して案内してくれる。カフェを出てすぐのところに販売店がある。私は前回KDDIが提携しているMPTを使ってよかったため、それを買おうと思ったが、H君が『今はオレドー(カタール)ですかね』というので、そちらにしてみた。シムは1500k、そしてチャージに3000kのカードを買った。H君はこの手の作業に慣れており、私のスマホへの設定を買って出てくれたのだが、いくらやっても、繋がらなかった。

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驚いて店に戻り事情を説明してもらう。だが店員が自分のスマホに繋いで確認するとちゃんと繋がる。『このスマホでは電話しかできない』と言われ、がっかり。それではと、タイのテレノールを購入し直し、店で設定してもらうと、こちらはOKだった。これはどういう違いだろうか。私のスマホに問題があるのか、しかしテレノールが繋がるのだから、オレドーに問題があるのか、原因などはさっぱりわからない。

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それにしても、ミャンマーの通信の普及はあまりにも急速だ。シムカードが日本円で僅か150円というのがすごい。1年前に1500円していた国営MPTのシムも競争の波にのまれて、今や同額の150円。シムの販売は道端でも行われており、若者を中心にスマホもどんどん広がっている。ちょっと前は携帯電話を持つことなど、夢のような出来事だったが、今やそれが簡単に実現できる夢になってしまっている。そしてWi-Fiフリーの場所も増えている。

ナムサン茶旅2016(1)ヤンゴンとアイちゃん

《ナムサン茶旅2016》  2016年1月24日‐30日

 

半年前、列車でミャンマーの一番南のダウエーから北のティボーまで旅をした。その時は最終的にラショー経由で中国国境の街、ムセまで車で行き、力尽きた。本当に力が尽きてしまったのは初めての経験だったが、、ホテルのベッドで布団を抱え込み、起き上がることが出来なかった。これまで5年近くも旅をしてきて、こんなことは初めてだったし、なによりも同行者が私を置いて、夜行バスで移動していった、その屈辱感が頭から離れなかった。自分も一端の旅人だと思い込んでいたが、その考えは見事なほどに打ち砕かれてしまった。

 

もう当分ミャンマーには行くまい、そう思っていたが、ヤンゴンのTさんから『ナムサンに入れますよ』というメッセージが来た。その瞬間、私の頭は瞬時に切り替わっていた。いつミャンマーへ行こうかと。ナムサンという響きはかなり魅力的だった。外国人立ち入り禁止の茶産地。十分行く理由のあるオファーだった。

 

そしてついでにバンコックから陸路で国境を越えてヤンゴンまで行ってみようと考えた。ミャンマー側のミャワディにはスス(以下SS)の旦那が国境貿易をやっている。このタイ‐ミャンマーの物流は一度是非見てみたい、と思い、連絡を取ると『いいですよ』との返事が来たが、いざバンコックまでのフライトを取って、再度確認すると、急な出張が入ってしまい、その時期、彼はミャワディにいないことが分かった。さてさて、どうしたものだろうか?

 

1.ヤンゴン

1月24日(日)

ビザ

結局バンコックに到着した次の日、ミャンマー大使館に出向き、いつものようにビザ申請をした。しかしいつもはすごく並んでいるセンター内が何となくひっそりしており、申請は僅か10分で受理されてしまった。ミャンマーに何かあったのか、と思うほどだったのだが、どうやら窓口を細分化して、外国人専用ができていたらしい。尚ビザ受け取りは通常通り長蛇の列だった。

 

ところでヤンゴン空港に到着した際、イミグレのところに、Eビザ申請の案内が置かれているのを発見した。Eビザがあるとしても、ネットで処理するのだから怖いなと思ってトートーマ(以下TTM)に聞いてみると、『最近はEビザの人が増えました』というではないか。何で教えてくれないの?と言っても後の祭り。何故バンコックでの申請がスムーズになったか、これも一つの理由だろう。今度はEビザを試してみよう。因みに費用だけならネットの方が高いようだが、今回私は翌日受領せざるを得ず、その費用は1035バーツから1350バーツに値上がりしていた。即日だと1500バーツぐらいになっている。こうなるとネット利便性もよく見えてくる。

 

空港から

フライトも何か目新しいところが良いと思ったが、結局直前なので、エアアジアになってしまった。荷物代を取られるのがどうにも気に入らないのだが、仕方がない。何故か夜中の12時にノックエアーを予約しようとしたところ、一度出た画面が全て閉じられ、私が希望する日のフライト4便が全てソウルドアウト、と表示されたのにはビックリした。きっと日付の変わり目で何かの操作があったのだろうが、どうも歓迎されていないと感じて辞めてしまった。

 

ドムアン空港もなぜかさほど混んではいなかった。以前は中国人観光客などでごった返しており、場合によってはターミナルに入り切れない事態すらあったが、今回は実にスムーズであった。後で聞いてみると、さすがにタイ当局もドムアンの混雑を憂慮して、もう一つのターミナルを開け、国内線を分けたらしい。それができるなら、なぜもっと早くやらないの、というのはタイでは愚問である。とは言ってもエアアジアのカウンターの列は短いとは言えないし、空いているカウンターも少なかった。

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フライトは相変わらず混んでいる。皆一体何しに行くんだろう、ミャンマーへ。それは私も同じなのだが、なぜかそう思ってしまう。日本では一時のブームは去ったかに見えたが、今回の選挙でスーチーさんが勝利したことにより、また変な期待が高まっているようにも見える。

 

空港にはTTMが迎えに来てくれていた。これから2日間はTTM家にお世話になり、SSの娘、アイちゃんと過ごそう?と考えている。空港から直接TTM家に行くのは初めてであり、知らない道を車が走っていき、20分ぐらいで到着してしまった。やはり空港からはかなり近い。

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アイちゃんは笑顔で迎えてくれた。既に1歳を過ぎており、自分で歩いていた。半年前は赤ちゃんだったが、今では少しずつ子供に変化している。子供というのは、実に成長が早いものだ。今のヤンゴンも半年見ていないと、かなりの変化を見せている。ミャンマーの将来とアイちゃん、どちらもどうなっていくのだろうか。ちょっと心配だが、その成長も楽しみである。

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さしま茶旅2016(3)日本一入りにくいお茶屋さん

郷土館

木村さんの家でお茶を飲みながら話していると、日がきれいに落ちて行った。本当に一日が短い。吉田さんからはさしま茶に関するイベント資料をお借りしており、今日の目的は一応果たされていたのだが、まだ何かあるかもしれないということで、さしま郷土館に連れて行ってもらった。

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日本で様々な地方都市を訪れる機会があるが、どこへ行っても図書館や役所は立派である。これは箱モノ行政の産物かもしれないが、もし実際に活用できるのであれば、とても素晴らしい環境がそこにはある。東京のように込み合っていることもなく、借りたい物は比較的容易に借りられる。こんな環境は実に羨ましい。さしま郷土館もきれいで広々としており、蔵書もかなりある。こんな多くの中から、必要な本を探すのは大変だな、と思うほどである。

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私が調べている『江戸時代のさしま茶』についても、郷土館の方と吉田さん、木村さんも熱心に探してくれて、いくつかの関連資料が見つかった。やはり江戸末期まで、この地では主に番茶が作られていたとある。この商品を利根川の水運を利用して運んだようだ。関宿藩が奨励していた、という事実もある。年貢もかなり収めていたようだから、それなりの利益もあったと思われる。

 

やはり江戸は巨大市場だったのだろうか。そして幕末になってどうして、海外輸出に力を入れ始めたのか。幕藩体制の崩壊が関宿藩にもたらした影響とはどんなものだったのだろうか。これは単に茶の歴史ということではなく、むしろ郷土史として、知っておいてもよいのではないかと思われる。事実を羅列するだけではなく、その背景を教えてくれる書物に出会いたい。

 

日本一入りにくい長野園

それからまた車に乗り、農地の脇の道を行く。すると川が見えてきた。いや実際には暗くて見えなかったのだが、横に川があるのは分かった。そしてその川の向こうに城が見えてきた。それは私が奥さんの両親の墓参りに行く時見ていた、関宿城だったのだ。そこでは数年前にさしま茶に関する展示会も開催され、その時に作られた資料が手元に渡されていた。一度はこの城、いや博物館にも行ってみたいと思うが、今日は勿論閉館しており、次回を待つほかはない。

 

どこへ行くのかな、と思っていると、暗闇の中、すごく立派な門構え、石垣が見えてきた。そして何と車はその門を潜った。ここはきっと江戸時代の庄屋の家だったに違いない。しかしなぜここに来たのだろうか。吉田さんが『ここにお茶屋があります』と言っても俄かには信じられない。

 

しかし玄関の横には確かに店舗があった。長野園という。HPによれば『日本一入りにくいお茶屋』だそうだ。確かに知らない人は入ってこれない筈だ。茶園管理責任者と言う肩書を持つ花水さんは、以前は商社の食品部門に勤めていたそうで、結婚により奥さんの実家である創業70年になる茶業に入った人だという。このお屋敷に小さな販売店舗を作ってはいるが、住まいは別らしい。

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花水さんと話していると、共感できることがすごく多かった。これは初めからお茶の生産者だったり、流通をしていた問屋さんではなく、別業種からこちらに入ってきた人が持つ素朴な疑問などが共有できるからかもしれない。だが彼はその素朴な疑問をちゃんと商品化して、従来は出てこなかった発想で、お茶作りを志向している。その行動力が素晴らしい。

 

例えば、在来種を使った和紅茶、そしてこれを洋菓子とコラボして原料にも使うなどは、私がいつも思っていたことだった。『日本茶と洋菓子は合うはずだ。日本の洋菓子は世界レベル』という概念。そして何より驚いたのは、『独自のほうじ茶を作った』ことだ。日本茶に香りがない、という私の素直な疑問、彼はほうじ茶を燻製してしまっていた。ちょうど朝の連ドラ『マッサン』でウイスキーの命はスモーキーフレーバーだ、と連呼していたのだが、まさにお茶をスモーキーにしてしまった。

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これは紅茶、ラプサンスーチョンが好きなイギリス人にウケるだろうか。それはまだわからないが、既に大手の百貨店から引き合いが来ているという。『これからのターゲットは大人の男だ』という点で十分に面白いとおじさんが感じる商品設定だった。商社で培った流通ルートなども大変参考になっていることだろう。従来の茶問屋による流通ではなく、新たな商品を新たなルートで流していく、これは将来の日本茶を面白くする試みであると言える。これからの活動が大いに注目される。

 

話し込んでいると遅くなってしまい、いずみ紅茶の吉田さん、烏龍茶の木村さん、スモーキーフレーバーの花水さんと夕飯を共にして、ご馳走にまでなってしまった。皆さん、個性的で独創的、更には勉強熱心で、今月末には静岡から和紅茶生産の第一人者村松二六さんを招いて研修会があると聞いた。

 

話していて全く飽きない、何とも楽しい夜だった。正直さしまへの認識は薄かったのだが、今回の訪問で、認識を完全に新たにした。またぜひ来よう!帰りの湘南新宿ラインで、あれこれ考えているとあっという間に新宿まで戻ってきた。やはり近いのだ、そして楽しいのだ、さしまは。

さしま茶旅2016(2)さしま茶の歴史と現在

茶園のすぐ横の畑に行ってみると、ここにはまるで茶業試験場かと思わせるほど、様々な品種が植えられていた。畝ごとに品種が違う、と言ってもよいかと思うほどだった。見ると今も新しい品種を植える作業を行われているようだ。先日購入したいずみ、という品種も植えられていた。この品種はその昔、元々紅茶用として開発されたが、その後紅茶が作られなくなると無くなっていったが、近年復活され、煎茶を作り賞も得たという。その若干の渋みが私は好きだったが、勿論これを生かした紅茶を作れば、これまた新しい感覚が開けることだろう。

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茶園の入り口付近には不思議な置物が見えた。中に入ると、古い蔵が見える。既に建造から100年以上は経過しているらしい。レンガに特徴があるな、と思っていると、『このレンガは東京駅に使われたものを同じだと聞いている。栃木の茂木あたりで良いレンガが作られていたらしい』というではないか。何とも歴史を感じさせる。蔵の中を拝見すると、今はここが茶葉の貯蔵庫になっていた。適度にヒンヤリしたこの室内が、茶葉の保存に適しているようだ。

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更にその蔵の横を見ると、何だか昔の温泉宿のような建物が建っていた。こちらも見せて頂くと、そこが製茶作業場になっている。天井が高い、というか、高いところに天窓があるという感じだった。天候により、窓を開け閉めするらしい。高所恐怖症の私にはとてもできない業だ。昔の製糸工場などを思わせる作りだった。昔は手作業で行われた製茶、その一部をいち早く機械化したことも分かる動力もある。

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さしま茶は江戸時代、日乾法という天日干しで作られていたという。この金額の安い茶が、今回のテーマである江戸庶民にもたらされた茶のような気がする。これは番茶、と言ってよいであろう。その後、江戸末期には宇治の煎茶製法を学び、品質改良が行われた。吉田茶園もその頃、創業されたらしい。幕末には、さしま茶の売り込みのため、伊豆下田の玉泉寺に開かれた米国総領事館に、ハリスとヒュースケンスを訪ねた記録もあるようだ。地紅茶サミットの開かれた下田はさしまと無関係ではなかったのだ。これもまた実に面白い偶然だ。

 

敷地内にはきれいな店舗があった。そこでお茶を頂きながら、話を聞く。いずみ、ほくめい、美沙希など、見慣れない品種の茶が並んでいる。普通にどこにでもあるお茶ではなく、常に色々な品種を改良して、新たな茶作りを目指している様子が良く分かる。試飲すると、いずみは勿論、他の物も、他にはない、独特な味わいがある。この地を実際に見てから飲むからそう感じるのかも知れないが、ちょっと誰かに紹介したいような気分になる。風は相当に冷たいが、天気がとても良い庭では、子供たちが楽しそうに遊んでいた。この雰囲気も重要だ。

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木村製茶

吉田さんの車で、出掛けて行く。冬の日は短い。既に日が傾き始めている。何となく子供の頃、栃木の冬の夕暮れを思い出す。ちょっと寂しい雰囲気。吉田さんの言葉のイントネーションが昔を思い出させるのかも。栃木と古河、やはりかなり近い場所にある。これから行くのは境町、木村製茶を訪ねる。こちらも横に茶畑が広がっており、様々な品種が植わっていた。

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木村さんは10年以上前から、国産烏龍茶の生産をしている日本では珍しい茶農家だ。日本の茶葉を使い、如何によい烏龍茶を作るか、日々研究しているという。様々な茶樹が植えられている理由はそこにある。『日本の茶業はすでにピークを過ぎており、特色あるお茶作りをしないと将来はない』との考えから、この寒いさしまの地で育っている、肉厚の茶葉を使って発酵茶を作る、香りの良いお茶を作ることを考えたという。香りは今の日本茶に欠けている重要な要素だ。

 

台湾から早々に製茶機械を輸入して、また実際に毎年台湾を訪問して、様々な茶農家のもとへ行き、実際に烏龍茶作りを学んできた。比較的日本茶に近い包種茶などを勉強したようだが、当初は悪戦苦闘した。『言葉が通じずに苦労したが、学ぶことはとても多かった』というが、その努力は並大抵ではなかったろう。茶業にかける情熱が感じられた。そして『作り手の都合ではない、茶葉の都合で作ること、消費者に身近な茶作り』という言葉が印象的だった。

 

吉田さんから『いずみ』をもらい、共同生産したお茶は芳醇な香りがあり、世界緑茶コンテストで最高金賞を受賞した。木村さんの烏龍茶を飲ませてもらうと、かなり淡い香りがあり、上品な感じがした。『自らが生産できるお茶の数量には限界がある。少量多品種、小回りの利く茶作りを目指していく』との言葉があったが、知れば知るほど奥の深いこの世界、その道のりはまだまだ険しいのかもしれないが、ぜひ頑張ってチャレンジして欲しいと思う。

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