「茶旅」カテゴリーアーカイブ

ラオスポンサリー茶旅2016(3)一人バスツアーでファーサイからウドムサイへ

DSCN2412m

 

一人車でファーサイのバスターミナルへ着いた。運転手は手早く窓口へ行き、ルアンナムター行のバスチケットを入手して私に手渡した。そして『ここで待っていろ』というジェスチャーをして、そのまま去っていってしまった。これでツアー終了?完全に取り残された。現在の時刻は10時10分。だがバスの出発は12:30と書かれている(料金は6万k)。えー、このあと2時間半もここにいるのか。ここはターミナルとはいっても、本当に何もないところ。椅子はあるが、食事すらできる場所はない。どうすればよいのだろうか?確かに昨晩旅行会社の女性が言った『待つのよ』という言葉が頭に蘇る。

 

仕方なく周囲をウロウロする。バスの時刻表を眺めてみると、何と9:30にウドムサイ行きがあった。私はあの国境で30分以上白人たちを待ったが、もしあれがなければ、このバスに乗って、午後にはウドムサイについていたはずだ。ウドムサイまで行ければ、翌日確実にポンサリー行のバスに乗れたはずだ。何とも残念でならないが、今さら何を言っても遅い。やはりこのツアーに乗る人間など基本的にいないということがよくわかる。というか、ツアーの体すらもなしてはいなかった。

 

ところが10:30にはバスが所定の位置にやってきた。すると何人もの人が急いでバスに乗り込んだ。座席に荷物を置いている。場所取りのようだったので、私は運転手の横の助手席に荷物を置いた。しかし言葉が通じないので一体何時に出発するのか、全く分からない。ただ着々とバスの出発準備が続いている。大きな荷物は車の上にあげられた。車内にも荷物が運ばれてくる。もうすぐなのかな、と思っていたが、それからは長かった。そして何となく11:30には発車した。発車直前に若者が私の横に押し込まれ、助手席は相当に窮屈になったが、まあ思ったより1時間早く出てくれたのでホッとした。

DSCN2420m

 

バスはファーサイの街に入らずに、そのまま郊外の道路を行く。この道は悪くはないが高速道路ではない。若干のアップダウンもあるが、大きく揺れることもない。中国ナンバーの車がタイ方面に向かって多く走っていくのが、助手席からはよく見える。この風景は昨年タイ側で見た光景だった。標識にも中国語が書かれており、如何に中国人ドライバーが多いかもよくわかる。

DSCN2424m

 

途中からも乗客がバスに乗り込んでくるが、すでに満員で、後から来た者は床に座っていたが、それももう限界に来ていた。ラオスの交通事情は相当に悪い。基本はバス移動だが、そのバスが相当年代物であり、かつ乗客が多すぎた。旅行会社の話ではルアンナムターまで4時間かかるとのことだったが、結構辛い旅になりそうだ。勿論定期的なトイレ休憩などもなかった。途中一度だけ道路脇に停まった。運転手が用を足すためだったが、我々も降りて、民家?のトイレを借りた。これがなければ、休憩なしだった。

DSCN2430m

 

4時間と言われたが15:00にルアンナムター着。3時間半の乗車だった。今日はここまでだなと思い、ルアンナムター泊を決意。明日の予定を立てるために何となく時刻表を見ると、なんと朝のポンサリー行きバスがここから出ているのを発見した。なんだ、ウドムサイへ行かなくても、ここから直接ポンサリーに行けるんだ、と喜んだ。そして一気に気が抜けた。取り敢えず明日のチケットを買おうと、窓口へ行ったが誰もいない。ようやくお姐さんを探し出して聞くと、なんと『そのバスにはあなたは乗れない』とはっきりした英語でいう。

 

ぬか喜びから一転、また奈落の底へ突き落された。このルートはラオ人と中国人のみが乗車できるという。というのは、第三国人が通過できない国境を通るためで、だからこそ近道なのだ。これに乗りたかった、とい気持ちが『じゃあどうすればいいんだ!』とお姐さんに聞いてしまった。すると、『そこに停まっているバスにすぐに乗って』という意外なリアクションがあった。だが時刻表には今日のウドムサイ行はもうなかった。あったのは15;30発のシェンクワーン行きのみ。だがお姐さんはこのバスの切符を4万kで私に売った。

DSCN2439m

 

半信半疑でバスに近づくと運ちゃんが私の荷物を上に上げてしまった。そうか、やはり行くのか。これはラッキーだった。もし今日ウドムサイへ行けなければ、明日の朝のポンサリー行には乗れないため、一日ロスしてしまうところだったのだ。人生はなんとなく上手くできている。転んでもまた起き上がれる。このバスは満員でもなかったので、ちょっとゆったりできた。少しく行くと、左へ曲がれば中国国境のボーテン、右へ行けばウドムサイ、という表示が見えた。すでに中国国境は近かったが、私の目的地ははるかに遠い。むしろここから中国へ抜け、雲南省から帰りたい心境だったがミッション第一!

DSCN2444m

 

先ほどよりは、少し山道が多くなる。ラオスの内陸部へ入った感じだった。窓の外を見ても、山か畑ばかり。のどかといえばのどかだが、退屈といえば退屈な旅である。歳のせいか、トイレが近いのがとても気になり始める。休憩はあるのかないのか、全く分からない。ウドムサイまでも4時間と聞いていたいのだが、急いで乗ったため、トイレに行っていない。

DSCN2448m

 

どうしよか。などと考えていると、何と18:00頃に『ウドムサイに着いた、降りろ』と声がかかる。なんとそこで降りたのは私だけで、乗ってくる人は誰もいない。そうか、このバスはウドムサイを本来通過するのだが、ターミナルへ入らずに私を道端に落としてくれたのだ。これは何とも有り難い処置だった。おまけに僅か、2時間半しかかからなかったのは、幸運というしかない。ああ、今日のバス旅は何とか終わった!明日はどうなるのか?

ラオスポンサリー茶旅2016(2)タイ-ラオスの国境を超える

旅行会社の店主は既に店を離れており、彼のパートナーのタイ人女性が対応してくれた。彼女はなぜこのチケットを買うのだろうかという顔をし、『ラオスの国境を越えたら、ファーサイでバスを待つのよ』と念を押した。私には状況がよくわからないが、行くしかミッションを果たせないので、言われるままに頷いてチケットを受け取る。旅行会社を出て、歩いていくと、さっきの店主がほかの西洋人とカフェでビールを飲んで、話し込んでいた。なんだか楽しそうな人生を送っており、ちょっと羨ましい。まあ、私の生活も他人から見ればかなり羨ましいのかもしれないが。隣の芝生、という奴だろうか。

 

既に時刻は夜の8時過ぎ。さすがに腹が減る。考えてみれば今日はラショーで麺を2杯食べただけだ。チェンライに来るといつも行く、華人の店があるのだが、かなり広いその店はなんと満員盛況だった。これまではほぼシーズンオフに来ていたのだが、今日は全く様相が違っていた。ホテル代もかなり高いが、レストランまで混んでいるとは。チェンライ自体は何もないところだと思うのだが、なぜこんなに観光客がいるのだろうか。

 

仕方なく、別の店を探すと、簡単な鶏肉ご飯を出す店があった。腹が減っていたので、あっという間にかき込んだ。それでも収まらず、また麺を注文してしまった。今回の旅はちょっとサバイバル的な様子があり、食べられる時に食べてしまおうという感覚になる。ホテルに戻り、シャワーを浴びると疲れがどっと出る。そのままベッドに倒れ込むと、寝入ってしまった。

DSCN2383m

 

1月31日(日)

ファーサイへ

翌朝は5時に起き、支度をして、6時前にホテルをチェックアウトした。ツアーの迎えのミニバンは6時から6時半の間に来るというので、ホテル前のカフェで待つ。このホテルの朝食はカフェで6時半から。タイ人だからゆっくり来るだろうと期待していると、結局迎えが6時20分に来てしまい、朝食は食べられずに終わる。このミニバンの運転手は明るい性格で、流ちょうな英語を話し、テキパキと行動している。そしてツアーの客はなんと全員が白人だった。ドイツ人、スイス人、スエーデン人など。確かにフランス人が経営する旅行会社を通したのだからそういうことだろう。すでに全員が乗車しており、私が最後の客だった。

DSCN2390m

 

にぎやかな英語の会話が少し続いたが、朝日がきれいに上がっていく中、その後は完全に寝落ちる。冷房が効きすぎていたが、お構いなし。それほど疲れていたのだろう。ふと気が付くと、すでにチェンコーン。1年前に来たことがある、その見覚えがある道を行くと、すぐに国境のゲートに着いてしまった。僅か1時間半でここまで来た。路線バスだと3時間かかるとの話だったので驚く。

3.ラオス国境越え

国境に着くと、まずはトイレへ駆け込む。それが済むと国境ゲートへ進んで行ったが、白人たちは何やらお金を支払っている。ビザの関係だろうか?私は不要らしく、通り過ぎた。当たり前だがタイ出国はスムーズだった。出国してどうするのかと思っていると、ちゃんとガイドがいて、シャトルバスに案内する。通常25bかかるらしいが、費用はツアー代に含まれている。ここを通過する全員が乗り込むまで待つ。その間に、ラオキープの両替も受けてつけている。ビエンチャンなどでは米ドルが使えるかもしれないが、田舎は分らないので、レートは悪いだろうが、日曜日ということもあり、少額両替した。

DSCN2391m

DSCN2393m

 

バスで橋を渡り、ラオス側へ。ここも立派なイミグレの建物が建っていた。後で見ると中国政府の援助により建てられたとある。バスで来た人以外は殆どいないため、ここもスムーズだった。白人たちは、まずはビザを申請する必要があり、急ぐ旅でもないので、ゆっくり申請書とにらめっこを始めた。私は入国書類だけを書いて、一番でイミグレを通過したが、反対側のブースにも行け、と言われる。

DSCN2400m

 

何事かと寄ってみると、なんと今日は日曜日なので、残業代だとして40bを請求された。ここには英語の表記があり、バーツ払いなので、外国人のみに適用されているのだろうか。それにしても週末と夜間は残業として、通過者から金をとるというのは、アジアで初めて見た光景で驚いた。ラオスの社会主義的な一面と、そしてなにより財政難を少し見たように思う。

 

残念ながら、いつまで経ってもツアー客は出てこなかった。私は一人、ゲートから外を眺める。トゥクトゥクがラオス人乗客を運び始めた。中にはこれに乗ってどこかへ行く外人も見られた。私も早くここから脱出したいと思うのだが、ツアーだから仕方がない。このツアーの問題点が徐々に浮かび上がってきた。しかしチェンライから普通のバスでここに来たのでは、こうスムーズではなかっただろう。

 

待つこと30分以上。ついに一団が現れ、そしてどこからともなくラオ人ガイドもやってきて、ソンテウで運ばれる。どこへ行くのだろうか。ソンテウは町の近くに行ったが、ある家の前で停まる。そこがツアーの拠点になっており、英語での説明が始まる。そこに集まった観光客は、なんと私以外全員がスローボートでルアンプラバーンへ行くツアー客だった。最後に『そういえばナムターへ行く人がいますね』と言われて、初めて私はたった一人のツアーだったと気付いた。皆がフランスパンを買っていたので、私も朝食を取ろうとしたところを、連れ出され。車に乗せられた。運転手は英語も出来ない。

DSCN2405m

 

ラオスポンサリー茶旅2016(1)ラオスへの遠い道のり

《ラオスポンサリー茶旅2016》  2016年1月30日-2月5日

 1.タチレイから国境越え

1月30日(土)

タチレイ空港から

ゴールデンミャンマーは無事にタチレイ空港に到着した。預け荷物は前回同様リヤカーで引いてくる。それを人をかき分けて受け取り、乗り合いタクシーを見つけて国境を目指す。4000kが高いのかどうかわからないが、まあ仕方がない。タチレイ市内はラショーより大きい街に見え、タイ国境なのにより中国色が強く出ているようで不思議だった。正月飾りが多く売られている。漢字の看板も多く、ホテルはみな中国人観光客ように思えた。

DSCN2354m

 

だが乗り合いなので大通りから逸れてわき道に入ると、そこはミャンマーだった。パゴダがあり、ゆったりとした家々が並んでいる。商売は華僑系が仕切っているこの街だが、やはりミャンマーやタイのにおいもする。次回はゆっくりここに泊まり、街歩きをして眺めてみたい。

DSCN2357m

 

タクシーは全員を下ろし、最後に私を国境で降ろして任務が完了した。ここも慣れたものなので、ミャンマー側で手続きをした。タイ人はパスポートなしなので、私だけが窓口で出国した。だがなぜか向かい側にも行けという。また何かお金でも取られるのかと思ったが、なんだか登録をしているだけ。すでに出国した人間をまた登録するのか?意味不明だ。橋の真ん中、中立地帯では相変わらず、運び屋が行き交っている。観光客も多い。

DSCN2362m

 

タイ側もスムーズに抜ける。半年前、ここに4日も滞在した懐かしい場所に出た。メーサイ、さて、ここからラオスへどうやって行けばよいのか。まずはメーサイのバスターミナルへ行くのに、ソンテウに乗る。横にいたタクシーの運ちゃんにチェンコーン(ラオス国境)まで行くかと聞くと、1800bなら行くとの答え。僅か1時間もない道、バスならいくらもしないだろうにと思い断ったのだが、これは今考えると乗った方がよかったのかもしれない。

DSCN2368m

 

15bのソンテウでターミナルへ行くと、ちょうどチェンライ行が出たところだった。聞くと、ラオス国境へ行くためには、とにかくチェンライへ行かなければならいという。30分後、40bでチェンライ行バスに乗る。西洋人が数人、バックパックで乗り込んできたが、そのバックもあっという間に地元民の荷物で埋まる。バスは日差しを受けてかなり暑くなってきた。

DSCN2376m

 

途中2度も検問がある。私はいつもチェンライからメーサローンへ行くので、その感覚でメチャンあたりに行くように思っていたが、国境の警備は予想以上に厳しく、警察が乗り込んできて、若者が2-3人バスから降ろされてチェックを受けていた。またこの辺はミャンマー人がかなり入っているので、このあたりのチェックもしていた。私は怪しまれることなく、パスポートの提示もなかった。

 2.チェンライ

チェンライターミナル工事中

何と2時間もかかってチェンライに到着。ところが慣れ親しんだバスターミナルには着かなかった。ここはどこだろうか、途方に暮れて聞いてみると、ターミナルは少し離れたところにあった。だがあった、というのが正しく、建て替え工事中であり、建物は跡形もなくなっていた。すぐ横にチケット売り場があった野江そこに並んで事情を聞いてみたが、英語はできるのだが、チェンマイ行のチケットを売るだけで要領を得ない。トゥクトゥクのおじちゃんたちも、『明日の朝早く来い』としか言わないので、分らない。

DSCN2378m

 

まさに途方に暮れた。すでに周囲は真っ暗だった。ふらふら歩いていると、旅行会社の看板が見え、ルアンプラバーンへのボート旅を宣伝していた。ここならバスも手配できるかと思い、入ってみると、なんとフランス人が経営していた。彼らが言うには『これはツアーだが、そこに入ることはできる』という。ルアンプラバーンではなく、ルアンナムターへ行くツアーがあるというので、よくわからないまま、そのチケットを買おうとしたが、まずはホテルを決めてから来い、というので、以前も泊まった宿へ向かう。

DSCN2381m

 

このホテルのサービスは良くないが比較的きれいだった。ただ料金がシーズンオフの600bから900bに跳ね上がっており、やめようかと思ったが、チケットのためにやむなく泊まった。私が泊まった部屋が最後の1部屋で満室になったという。フロントの女性は相変わらず愛想がなく、強気の態度が憎らしい。旅行社に戻り、1100b出して、チケットを買った。こんなことならチェンコーンまで1800bで行っていくべきだったか。どちらが良いのか判断は難しい。

ナムサン茶旅2016(15)一人でタチレイへ

一人になって

午後Tさんがヤンゴンに向かって出発した。夜行バスで10数時間、明日の朝にはヤンゴンに着くらしい。今回彼には大変お世話になった。そして彼の車は故障し、彼自身も九死に一生を得た。むしろ私以上にショックが強かったのは彼ではないだろうか。別れるときの彼の疲労した様子は、とても気にかかるところだった。バスではゆっくり眠れないかもしれないが、休んでほしいと思う。

 

一人になってしまうと、何もやる気が起きなかった。部屋でボーっとしながら、お茶を飲んで過ごした。これは半年前に疲弊してベッドに横たわっていたのと大差ない。私の旅には休息が必要なのだ。特に今回のようなショックな出来事があった場合、ゆっくり旅をするのがよい。そう決めていたのだが、何とそこへSさんからメールにて、指令が来た。『ミャンマー北部にいるのなら、地理的に近いのだから、ラオス北部に行ってお茶を買ってきてほしい』というのだ。

DSCN2301m

 

ちょっと調べてみると、そのラオスのポンサリーという街は、飛行場もあるが、普通はバスで行くらしい。行き方はよくわからないが、一旦タチレイからタイのメーサイに入り、そこからゴールデントライアングルを抜けて、進んで行くらしい。何となく行けそうだったし、タイもラオスもビザ不要なので、気分を変えるにもいいかと思い、気楽に引き受けてしまった。取り敢えず明日飛行機でラショーからタチレイに行き、さて、その先何処まで行けるのだろうか?

 

夕方外へ出てみると、宿の周囲は露店の準備で大忙し。夜はここに衣服などの露店が大量に出ることが分かった。ちょうど腹も減ったので、食事をとることにした。麺はもう食べ飽きたので、ご飯を食べることにしたが、どうしてよいかよくわからない。屋台ではなく、ちゃんとした食堂で、おかずがずらーと並んでいるところがあり、若者たちが入っていたので、わたしもそこで指さしで注文した。焼いたチキンがうまい。野菜炒めも味が濃い目でよい。お婆さんがスープを持ってきてくれ、ご飯をお替りするように、というジェスチャーをする。何とも優しい対応で、心が和んだ。

DSCN2304m

DSCN2312m

 

1月30日(土)

夜は早めに寝入る。疲れていたのだろう。翌朝は早めに起きるが、部屋でもぞもぞして過ごす。今日のフライトは13:20発だったが、『国内線のフライトだが、たまに早く飛ぶこともあるので、12時前には飛行場へ行くように』という旅行会社からの注意があった。普通フライトが遅れることがあっても早まることはないと日本人の感覚では思いがちだが、この国では十分にあり得る。11時には宿を出ようと思い、10時過ぎに食事に出た。

 

宿の前にうまそうな麺屋があった。ガイドブックにも載っていた店かも知れない。言葉は通じないので身振りで麺を指す。出てきた麺はスープの味もよく、確かにうまかったが、代金は1000kだった。これまでミャンマーの様々な場所で麺を食ってきたが、こんなに高いものは初めてだった。お釣りをくれるのかと思い待っていたが、くれないので、聞いてみると、1000kだときっぱりいう。明らかに外国人価格、それも相当にボッテいる。仕方なく諦めたが、麺がうまいだけに残念だった。

DSCN2315m

 

タチレイへ

ホテルのフロントでトゥクトゥクを呼んでもらった。半年前もここから飛行場へ向かったのだが、その時はタクシーに乗った。私は無料だと思い込んでいたのだが、近い距離を6000kも請求されたので、かなり揉めたのを思い出す。今回は3000kという料金を確認して呼んでもらった。快適に走り出したが、途中で飛行場と違う方へ曲がった。ちょっと行くと、民家に入っていく。そこでやはり飛行場へ向かうお客を拾った。まあこれは仕方がないし、時間的にも余裕があったので黙認した。

DSCN2322m

 

そしてあの何とも小さなラショーの飛行場へやってきた。まさかここに半年の間に2度も来るなどとは予想していなかった。誰かがやってきて、何となくチェックインの手続きが進む。荷物も預ける。さて、飛行機は早く飛んで来るのだろうか。聞いても誰もわからないという。まあこんなものだと思い、座るところがなかったので、隣の掘っ立て食堂に入り、座っていた。特に注文しなくても何も言われなかったが、隣の人が麺をすすっていたので、私も食べてしまった。この先いつ食べられるか、分らなかったからだ。さっきも食べた麺、こちらは普通だったが、代金は500k。これでも空港の脇だから少し高いのかもしれない。とすれば、さっきの1000kは何だったのだろうか。

DSCN2327m

 

フラフラしていると時間が過ぎ、気が付いてみると、乗客がいなくなっていた。係員がこっちだ、と合図してくるので、急いでゲートを潜り、ターミナルへ歩いていく。やはり早く飛んできたのかと喜んだが、そんなことはなかった。そこから小さな待合室で1時間待った。結局は定刻に飛ぶことになる。待合室にはテレビがあり、仕方なくそれを眺めていると、何となく見たような顔が出てきた。それは女優の有村架純だった。映画『ビリギャル』の宣伝ビデオが流れていたのだ。ミャンマーでビリギャル、何となく面白い。有村架純はミャンマー人にも人気があるのだろうか。ミャンマーは未だに韓国ドラマが主流だと思っていたが、日本のドラマも少しは盛り返しただろうか。ビリギャルの次はハリウッド映画だったが。

DSCN2334m

 

滑走路を眺めているスイス人が言った。『こんな小さな空港、今まで見たことがない』と。その小さな滑走路にゴールデンミャンマーはちゃんとやってきて、我々を乗せて、ちゃんと飛び立った。後ろから乗り込む機材で、自由席。私は一番後ろに乗った。CAはきちんとした英語を話し、サービスも悪くなかった。簡単なパンとコーヒーも出た。快適な空の旅だった。そして1時間もしないうちに、タチレイの空港に降り立った。ここから試練のラオス旅が始まることを私はまだ知らない。

DSCN2339m

DSCN2342m

DSCN2343m

 

ナムサン茶旅2016(14)ラショーの変化

7.ラショー

ホテルとチケット

ラショーの郊外にバスは着いた。沢山の客引きが寄ってきたが、Tさんはそれを避け、一度よく観察してから、良さそうなトゥクトゥクを選んだ。この辺は経験だ。例のヨーロッパ人などは茶店に入り、茶を飲んでいる。相当慣れている感じだ。街まではそう遠くはない。我々はまず、バスターミナルを目指した。Tさんが今日の夜行バスでヤンゴンへ帰るためだった。

 

だが旅行代理店が見えたので、そこで降りて、私のエアチケットを買うことにした。店にはミャンマー語と中国語が書かれている。ラショーは国境の街、中国人も多く来るのだろう。試しに従業員に中国語で話しかけると、一人は対応してきた。簡単な言葉はできるようで、それで十分だった。

DSCN2258m

 

チケットはやはりティボーよりこちらの方が安かったし、ティボーでは出てこなかったチケットが運良く買えたので、最終的にゴールデンミャンマーに乗ることになった。このエアラインは確かバンコック線も飛ばしていたが、今はどうなのだろうか。因みに半年前に乗ったエアウイングは運休しているという。それはどういう意味なのか、知りたいがよく分らない。

 

旅行代理店のすぐ近くに新しいショッピングセンターがあり、その横にきれいなホテルがあった。飛行場にも近いので今日はここに泊まろうと思い、聞いてみるとなんとまだ午前なのに満室だと断られた。中国人観光客の団体が泊まるのだろうか。ホテルは向かいにもあるというので行ってみたが、なんと外国人は泊められない宿だった。タクシーの運ちゃんに聞くと、『この辺で外国人が泊まれるホテルは殆どない』と言われてしまい、旧市街に向かうことになる。

DSCN2265m

 

その前にTさんが新しくできたショッピングセンターを見学しようというので、行ってみたが、店はほとんど入っておらず、従って2階へ行くエスカレーターも止まっていた。なんだろうここは?すでに計画が失敗したのか、それともこれからなのか?1階入り口付近になぜかお茶屋があった。茶畑の写真などが飾られていたので興味を持った。入っていくと若い女性が一人で店番をしている。聞いてみたが、お茶のことは全く分からないらしい。なぜここにお茶屋があるのか聞くと、このセンターのオーナーの店だという。恐らくは格好付ける目的ではないかと思う。

DSCN2270m

 

それでも彼女がお茶を淹れてくれ、飲んでみると台湾茶に近いような気がした。袋は台湾製で烏龍茶とか高山茶と書かれている。茶畑はどこにあるのかと聞くと、コーカン地区らしい。そこは外国人立ち入り禁止、というか、中国との間で紛争中の場所だった。ラショーから車で1日掛かるという。ぜひ行ってみたいが、その日はいつか来るだろうか。紛争地区は昨日で懲りているし。

DSCN2271m

 

旧市街へいくためにトゥクトゥクを探すが、ちょうど乗り合いトゥクトゥクが来たので、私の荷物を何とか引き上げ、地元のおばさんと一緒に乗り込んだ。おばさんたちが何か話しながら、楽しそうに笑い合っている。こういう光景はなんだか心が晴れる。ミャンマー語ができるTさんがいないと難しいが、こんな流れで乗るのが好ましい。勿論料金も格安。

DSCN2275m

 

旧市街は半年前にも来たので、なんとなく土地勘あり。取り敢えず近くのホテルに入ってみたが、料金の割に従業員にサービス心がない。Wi-Fiも不安定ということで、断念。仕方なく、半年前に泊まったホテルに投宿した。料金は乾季・雨期で違うと思っていたが、1泊30ドルは変わらなかった。ここは特になにか良いわけではないが、Wi-Fiが何とか部屋でもできることと、お湯が沸くのでお茶が飲めるという利点があった。ベッドの硬さが半年前を思い出させる。

DSCN2283m

 

ラショー散歩

Tさんのバスの時間まで、ラショーの街を歩いた。近くに病院があった。その横では拡張工事が行われていたが、ここはJICAの援助で作られているらしい。この街で日本が支援を行うことの意味、政府はどの程度理解しているのだろうか。いや、むしろミャンマー政府が政治的な意図をもって、支援を求めたのかもしれない。外交はしたたかでなければならないはずだ。

DSCN2286m

 

街にはお茶屋さんもあったが、そこの売り子も、お茶のことはほとんどわかっていなかった。第一、強い日差しの中、直射日光を茶葉にあてている。茶葉の値段もすごく安い。半年前にマンダレーの市場で見たのと同じ光景だ。これはレストランなどにて、無料で提供されるお茶だろうか。産地を聞いても分らなかった。これがミャンマーの真のお茶事情といえるだろう。

DSCN2287m

 

ラショーは中国系の街。漢字も多くみられるし、ナムサンにもあったが、正月飾りやカレンダーをあちこちで売っている。対照的にランチはおしゃれなカフェ、いやベーカリーに入る。何となく気分を変えたかった、ということと、やはり食欲がそれほどなかったことからサンドイッチを注文した。更にはアイスティなどを飲んでみる。冷たくて美味しく感じられる。

DSCN2298m

 

このベーカリー、ケーキ作りをガラス越しに見ることができる。パッケージもおしゃれで、お客も若い女性が多い。後で調べてみると、この街の老舗パン屋だった。きっと代替わりしたか、何かに迫られたかで、方向転換しているのだろう。本店は別のところにあり、普通にパン屋をやっていた。ミャンマー地方都市にも少しずつ変化の兆しが見える。

 

ナムサン茶旅2016(13)九死に一生を得る

1時間ぐらい走ったところで、朝も通った例の橋を越えた。そこには兵士に詰め所があったので、運転手はそこで停まる。兵士が出てきて、運ちゃんは何かを彼らに見せている。免許証か何かだろうか。暗いので懐中電灯をかざして、お互いのぞき込んでいる。すると突然運ちゃんが車から降りた。何をするのだろうかと思ったその時、車が僅かに動いたような気がした。あれ、と思っていると、今度はかなりの勢いがついたように車がバックを始めてしまう。

DSCN2225m

 

何が起こったのか全く分からなかった。ミニバスは下り坂を転がり始めていた。どうするんだ、と頭が動いても何も行動はできなかった。えー、体が強張った。そこでドスンという音が響き、車の動きが止まった。まるで何事もなかったかのように。その間わずか数秒だっただろう。その音に慌てて兵士が銃をもって飛び出してきた。我々二人も助手席から飛び降りた。車の後ろへ回ると、何かにぶつかっていた。兵士がライトを照らすと、そこは橋の欄干の一番端だった。兵士は更にその横を照らしてニヤッとした。草むらがボーっと見えた。

DSCN2227m

 

僅かあと50㎝バックする位置がズレていたら、このミニバスは橋の下へ落ちていただろう、とそのライトは語っていた。午前中にこの橋を通った時の事を思い出すと、橋から川までは数メートル、車が転げ落ちたら、とそこまで考えて、初めて血みどろになった自分が想像できた。同時にアクション映画では、危機一髪脱出する場面が想像できるが、現実はそうはならないことも痛感する。

 

ところが運ちゃんたちは、バスの後ろの凹みを気にしていた。橋の欄干にぶつかったのだから、それなりに凹むだろう。それでも命拾いしたという思いはないのだろうか。いや、恐らく彼もこの事態にどうしてよいか分らなかったのではないだろうか。結局Tさんが彼に一言、ミャンマー語で何か言ったが、その後は誰も一言も口を利かなかった。各人が色々なことを頭に巡らしていたに違いない。私はなぜかボーっとなってしまい、何も考えられなくなっていた。

 

この運ちゃんは実は車から降りたときにサイドブレーキを引いていなかった。停まっていた位置がほんのわずかに下っていることに気が付かなかったようだ。それがこのミスを生んでいた。彼がなぜ車を降りたのかは謎のままだった。兵士の指示でなかったことだけは確かだから、自分の意志で降りたのである。

 

黙って暗い夜道を揺られていて、徐々に実感が沸いてくる。それは『助かった』という感覚よりも、『天からもう少し生きていてもいいよ』と言われた気分だった。人間、一寸先は闇、などというが、その時が来ても、殆ど実感はなく、事故は瞬時にやってくる、頭で危険だとわかっていても、何もすることができない、ということを思い知ることになった。結局我々は何ものかによって生かされている、ということで、自ら生きているというのは間違いだと気付く。その感覚だと、この夜道の運ちゃんによる危険な運転にも怖さがなくなっている。

 

1時間半ほど車は走り、ティボーまで戻ってきた。夜9時を過ぎており、ホテルに戻る前に食事をしようということで、ミニバスを降りた。運ちゃんとは何も言わずに別れた。その時は文句を言うことは思いつかなかった。ただただ生きている、という感覚だけで、誰が悪いとか、そのような感じはなかった。だがTさんは私以上にショックを受けており、食事ものどを通らない感じだった。この旅に誘ったのは自分だ、という自責の念があったかもしれない。自分の車が故障しなければ、という思いもあったのだろうか。私の方は彼を責める気など毛ほどもなく、むしろ2人とも生きていてよかった、という微かな喜びだけがあったのだが。

DSCN2228m

 

ホテルの部屋に戻り、熱いシャワーを浴びると一気に体が脱力した。どこかがものすごく緊張したままだったのだろう。それまではやはり冷静ではなかったのかもしれない。何となく自分の感覚が飛んでいたようだ。それでも疲れていたのだろうか、目をつぶるとすぐに眠れた。5年間のアジア放浪生活の1つの成果かもしれない。これからは余生だ!という気分。

 

1月29日(金)

車を失った我々は翌朝、ラショーに向かうことにした。ホテルのフロントに聞くと、比較的近くにバスが来るというが、一応乗り物で移動した。7:15発のバスがあるということだったが、ここが始発ではなく、チャウメイから来るらしい。だがチケットは売り切れ、そして席があるかどうかは、来てみないとわからない、と言われてしまう。ヨーロッパン人の男性が我々の後ろからやってきたが、彼はちゃんと予約していたようで、彼の席はあった。

 

ちょっと待っていると、日本製のバスがやってきた。皆が下りたので、席は問題ないと思ったが、降りたのは休憩、いや朝食のためで、空いている席はなかった。何とか乗り込むと補助席があり、そこに座り込む。かなりガタが来た椅子で座りにくかったが仕方がない。この道は半年前にも、列車が土砂崩れでラショーに行けず、戻ってきて車で通った道だったが、正直前回が暗かったこともあり、全く覚えていなかった。ティボーはやはり鬼門だった。

 

ナムサン茶旅2016(12)山中で事故に遭ったが

Tさんは『取り敢えず、街まで戻りましょう』と言って、車を運転し始めたが、少しスピードを出すと、また煙が上がる。これを続けていると、必ずや動かなくなる、という合図に見えたが、こんな山の中、走ってくる車もない。どうするか?悩みながらもゆっくりと車を動かし、もう少し頑張ってみると、ティボーへ降りる道と、街へ向かう道の交差路に出た。ここは少し広くなっていたので、まずはここに車を停めて、誰か来るのを待つことにした。

DSCN2195m

 

果たして車は来るのだろうか。その時、思いついたのが電話で助けを呼ぶことだった(こんな山の中にいるとそんな普通の発想すらなくなってしまっていた)。Tさんが携帯を取り出してみてみると、なんとここには信号があった。後で聞いた話ではこの付近で携帯電話が使えるのはまさにこのスポットだけだった。何かに導かれていたのではないか、と今では思う。

 

そして先ほどの茶工場のマネージャーの名刺もある。電話を掛けると、マネージャーが出て、それは大変だと、すぐに街の車修理の人に連絡を取ってくれるという。これで助かった、何とか切り抜けられる。その後バイクが何台か通ったが、皆どうしたんだという顔をするだけで通り過ぎって行ったが、こちらにも余裕が生まれていたので、気にならなかった。

 

待つ時間というのは退屈である。ナムサンについて思い出してみると、そもそもこの名前を初めて聞いたのは、TTMからだったと思う。彼女が子供の頃、軍人であった父親が配給でもらってきた中に、ナムサンの紅茶があったというのだ。そして当時貴重なコンデンスミルクももらい、これを混ぜると美味かったともいう。更にカップはなく、コンデンスミルクの空き缶を使っていたという話は、妙に心に引っ掛かっていた。ミャンマーは長い間、経済が低迷しており、TTMだけでなく一般ミャンマー人は色々と苦労して生きたことだろう。

 

そんなことを考えていると、ついに修理屋さんが車でやってきた。壊れた車の下にちょっと入り、点検していたが、すぐに首を横に振った。仕方なく。彼の乗ってきた車でTさんの車を曳いて街まで行くことになる。だが山道をコントロールの利かない車を曳いていくには相当のパワーがいる。修理屋の車には残念ながら、そのパワーはなく、車はヨロヨロと蛇行しながら、アップダウンを喘いでいく。Tさんは自分の車に乗り、ハンドルを懸命に動かしていたが、相当の大変なことになっていた。一難去ってまた一難。人生のように難しい。

DSCN2203m

 

そこにトラックがやってきた。追い抜いていくものと思っていると、後ろで停まり、修理屋に声を掛けていた。2人で話したのち、なんとそのトラックが壊れた車を引っ張ることになった。さすが小さな街、知り合いなのだろう。トラックが曳き始めると、かなり安定して、スピードも出てきた。何ともありがたい光景だった。それでもかなりの時間が掛かったが、何とか街外れの修理工場まで運び込んだ。ホント、トラック運ちゃんにはお礼の言葉もない。

DSCN2216m

 

車はここに置かれ、修理屋が破損状況を把握後、修理可能かどうか、を連絡することになった。見た感じではすぐに直るとは思えない。Tさんは覚悟を決め、後日ここに車を取りに来ることに決めた。すでに日はかなり傾いている。正直これからどうするのだろうか。今晩は、ここに泊まることになるのだろうか。先ほどの心地よさそうなゲストハウスの部屋が頭に浮かび、このような緊急事態なら、特別許可で1晩ぐらい泊めてくれるだろうと高をくくり始めた。修理屋も『取り敢えず、ゲストハウスに行け』と車で送ってくれたのでその期待はさらに高まった。

 

ところがゲストハウスでは、マネージャーがマンダレーにいたオーナーと連絡を取ったものの、我々が泊まることは難しい、との見解を示してきた。この辺が微妙な時期、というのを反映していたのかもしれない。ではどうするか?再び修理屋の車に乗り、別の場所に連れていかれる。そこではすでに酒盛りが始まっていたが、その中から若者が探し出され、修理屋が話し始めた。彼はこの街とティボーを繋ぐ、ミニバスの運転手だった。バスは朝ナムサンを出て一往復、すでに仕事は終わっていた。もう日が暮れようというこの時間に、わざわざ山を下りたい者などいる訳がない。だが、結局かわいそうに彼が我々を送ることになる。

 

彼に8000kの運賃を支払った。我々には全く選択の余地がない。高いと思ったが、言われるままにするしか方法がなかった。運ちゃんはもう一人助手を探してきて、日が暮れようというまさにその時、勢いよく出発した。我々二人は助手席に詰め込まれ、助手は後ろの座席に乗った。後で考えると、夜は風が冷たいので、助手席の方がよいという配慮だったらしい。

DSCN2224m

 

九死に一生を得る

車は暗い下り坂をかなりのスピードで降り始めた。さすがに普段から慣れた道を運転しているということだろうが、それにしても恐ろしい。もし景色が見えたら、もっと恐怖が増したかもしれない。特に前方を走るトラックを追い抜いていく時には、崖から落ちはしないか、かなりハラハラした。運ちゃんも早く帰りたい一心だったのかもしれない。明日の朝も早いのだから。

ナムサン茶旅2016(11)ナムサンの茶

ナムサンの茶

そしてもう1つ、最近ナムサンで日本人が茶作りを始めたと聞いたので、その工場へも行ってみた。ここにも誰もおらず、話も聞くことはできなかったが、日本人とミャンマー人が共同で茶を作り、日本などへの輸出を考えているらしい。面白い試みだと思うが、どんな人がやっているのだろうか。外国人が入れるようになった今、中国人も含めて、これからナムサンの茶畑には、色々な動きが出てくることだろう。

DSCN2133m

 

その工場のすぐ近くではちょうど酸茶作りが行われていたので見学した。おじさんは数か月袋に詰めておいたラペソーを足で揉んでいる。茶葉を選り分けている人もいる。そして日の当たる場所に茶葉を干す。ちょっと酸っぱい香りが漂う。なんともゆったりとした、いい光景だった。こちらがカメラを向けるとおばさんたちが珍しそうに見ている。外国人などが入ってきていないからだろうか。

DSCN2119m

DSCN2127m

 

このナムサンに半世紀も前に入り、調査した日本人がいた。松下智先生、昨年ベトナムにご一緒した折、この話が出た。1962年、ネウィンの社会主義革命が興る前後の混乱期に、偶然にも入ることができたというのだ。その時もラペソーを作り、酸茶も作られていたこと、ここの茶畑は栽培のための植えたものが野生化したもので、茶の原産地ではない、ということなどを確認されていた。非常に貴重な検証だったと思う。その後、公式に調査した人は恐らくいないのではないだろうか。

 

昼が過ぎていた。ランチはこの街の真ん中あたりの食堂に入ってみた。女性が数人で食事をしていた。ここは観光地ではないので、どんな人たちかと思っていると、どうやら周辺の病院の看護師さんたちらしい。研修か何かで集まったのだろう。辺境の地に送られた看護師や先生などは、色々と苦労があるだろう。きっとお互いの苦労話をしているに違いない。

 

この食堂は入り口を見れば中華系とわかる。食べ物も中華料理で、野菜炒めの野菜が新鮮で、特に美味しい。ミャンマーでは外食なら中華、という感覚があるとヤンゴンでも聞いていたが、田舎でもそうなのだろう。ご馳走という感じも中華にはあり、ヤンゴンの結婚式では中華が振る舞われるらしい。この食堂の窓からはナムサンの山がよく見える。景色もよいから言うことはない。

DSCN2137m

 

茶葉を買いたいと思ったが、店を見ても売っているところがない。食堂で聞いてみると、1軒の店を教えられたが、そこは先ほどティミックスを飲んだ場所だった。そこで紅茶を買ってみる。どんな味かは分らない。紅茶が手に入ると、緑茶も手に入れたいと思う。するとTさんが、『街外れに茶工場とゲストハウスを兼ねた場所がある』というので行ってみた。

 

そこは工場になっており、茶葉は外に大量に干されていた。ここでも酸茶を作っている。職員のおばさんが倉庫のような場所を開けてくれた。そこには在庫の紅茶や緑茶があり、買うことができた。更に工場も見て、その奥のゲストハウスまで見学した。部屋もきれいで、景色は抜群。ぜひ次回は泊まってみたいと思ったが、許可がないと泊まれないのは残念だ。マネージャーは若く、英語も出来て、とても好感が持てた。Tさんは彼から名刺をもらっていた。

DSCN2140m

DSCN2143m

DSCN2145m

DSCN2150m

 

そして郊外に茶畑を見に行こうということになり、車に乗る。20分ぐらい走ると小さなパゴダがあり、それを修復している人がいた。200年ぐらい前のパゴダだというが。その脇から茶畑が山の斜面に広がっていた。かなり古い茶樹のようで葉っぱが厚かった。茶葉を虫が食っており、農薬などないことが分かる。このあたりが古い茶産地であることを示しているように見えた。

DSCN2154m

更に行くと、素晴らしく枝を横に張り出した大きな木があった。道しるべ、という感じの大木。そのあたりから、もっと大きく茶畑が広がっていた。小さい木、ヒョロヒョロとした木も多かったが、最近植えたのかもしれない。しかししっかり管理されている茶樹も多く見受けられた。このあたりがナムサンのメインの茶畑かもしれない。茶樹の栽培化ということか。

DSCN2165m

DSCN2167m

 

事故

まだ日は高かった。ナムサンからティボーに戻るには少し早いということで、『かなり古い茶樹があります』というTさんの言葉に反応して、さらに山の中に車を進めた。道は平らで凸凹もなく、ドライブは快適だと思われた。ところが少しくと、突然車が大きく傾き、体が跳ね上がった。何が起こったのか全く分からなかった。なんと、道を横切るように大きな溝があったのだが、何のサインもなく、気が付くこともなく、そこに突っ込んでしまったのだ。

DSCN2188m

 

初めはたいしたことはないと思っていたが、Tさんがエンジンを掛けてみるとバンパーから煙が上がった。慌てて調べてみると、車の前が大きく凹み、その凹みが中のパイプを押し込み、破損させていた。これがどういうことなのか、車音痴の私には全く分らなかったが、かなり重大な事故であることはすぐに分った。

 

ナムサン茶旅2016(10)多彩な街 ナムサン

ティボーから1時間半ぐらい行くと、立派な橋が見えてきた。この川を渡るとナムサン地区だという。橋を越えたところに兵士が銃を持って立っている。とても緊張感がある。Tさんによれば、前回来た時には誰もいなかったので、何かあったのかもしれないと。取り敢えずカメラ撮影を控え、様子を伺ってみたが、誰も車を停めるようとする動きはなく、車は山道を登り始めた。

DSCN2065m

その後も湾曲する道をクネクネ行くと、所々に兵士の姿が見えたが、大体一人か二人で歩いており、我々に気を止める気配はない。何があったのだろうか。何しろここナムサンは何十年もの間、原則外国人の出入りが禁止されていた場所であり、少数民族と政府の戦闘があり、また少数民族同士の諍いも度々起こっていると聞く。Tさんによれば、昨年から日中の外国人立ち入りが許可なしで認められたということで、今回訪ねることになったのだが、前途多難な様相。尚ナムサンに宿泊するには今も特別の許可が必要。これが後で効いてくる。

因みに後に街で聞いたところによれば、当日の朝、少数民族同士の小競り合いが発生していたようで、その警戒のため、ミャンマー政府軍の兵士が見回りをしていたらしい。ちょうど政権が交代するこの時期は、反政府活動や利権争いなどが起こりやすい状況であり、スーチー政権も少数民族問題、シャン州問題では、前途は多難であることを身をもって感じた。

ナムサンの街

突然街が見えてきた。いや、予兆はあったのかもしれないが、突然に見えたように見えた。細い道の両側に建つ古い町並み。思わず降りて写真を撮りたかったが、Tさんは迷わず、進んでいく。声を掛ける間もなく、車は大きな建物のあたりで停まった。『道が狭いので車はここに駐車して、あとは歩いて行きましょう』と言われて、こっくり頷く。望むところだった。

DSCN2074m

ただ歩く方向は今来た道ではなく更に先へ。そちらに更に本格的な街があった。細い道の両側にきれいな建物が並ぶ。100年ぐらいは経っていると思われるものもある。大きな棚を何人もが洗っている。よく見ると豆腐屋さんで、すでに今日の仕事は終わったのかもしれない。豆腐はこの辺の必需品。乾物屋に入って見ると、そこにはお茶が袋に入って置かれていた。店の人は片言の中国語を話した。『これは酸茶だ』という。ちょうど出来立てで、これから出荷するらしい。

DSCN2087m

ナムサンといえば、昔は紅茶が有名だったと聞いていたが、ここでも前回訪れたミョーテイ村同様、ラペソーを食べずに乾かした酸茶が作られていたのだ。この辺の事情を聴こうと別の乾物屋に入ると、そこのおじさんが笑顔で椅子を勧めてくれ、お茶まで出してくれた。そのお茶はいわゆる緑茶だった。おじさんが言うには『この辺では季節によって作るお茶が違う。今の時期は作っておいたラペソーを干して作る酸茶、4月頃は緑茶、それが終わると紅茶の季節だ』と説明する。さすが茶処と言われるナムサンだけあり、茶の種類が豊富だ。

おじさんはナムサンの生まれ。父親が雲南省からここにやってきた華人だった。『ナムサンは全部で500戸ぐらいの街だが、その5戸の1戸は華人だろう』という。中国語は子供の頃から習っており、華人はみなある程度はできるようだ。他にはパラウン族など山の民族がおり、そしてインド系の顔をしたムスリムもいる。この山の中がなぜそんなに多彩なのか、とても不思議だ。

DSCN2082m

売っているものを見ても中国から沢山の物資が入ってきている。ビールもあれば、お菓子もある。旧正月が近いので正月飾りもある。これがあのムセの国境を通り、ここに来るのだろうか。それとも別に彼らの秘密ルートがあるのだろうか。興味津々だが、これはすぐには分らないだろう。

DSCN2076m

DSCN2086m

おじさんに礼を言って別れ、街を散策した。ここは特に何があるわけでもないが、外国人がほとんど入っていないことが幸いし、何か落ち着きがあり、昔の風情がある。今日は風もさわやかで気持ちがよい。それほど広いわけではないが、道はかなり長細く、端まで歩くとかなりある。少し疲れたのでティミックスを飲みに店に入った。トイレを借りるのが目的だった。

それから一旦車まで戻り、少し離れた場所にある大きな工場へ向かった。ここはプレハブが主の茶工場だったが、かなりの規模を誇っている。1月は茶作りの季節ではなく、門は閉ざされていたが、門番が一応中には入れてくれた。と言っても工場内を見学することはできず、外から眺めるだけだった。何しろこんなに広い敷地内に、誰一人いないのだから、仕方がない。

DSCN2098m

工場の名前はロイカーンとなっていたが、貼ってあった広告を見て納得。ここはミャンマーの二大茶業者の1つ、ナガピョンというブランドを持つ企業の工場だったのだ。道理で大きいわけだ。もう一つのメーカーは南シャン州が拠点と聞いているので、ここが北シャン州最大の茶工場かもしれない。

DSCN2106m

ナムサン茶旅2016(9)ティボーの格安ホテル

5.ティボー

安くてきれいなホテル

ティボーには半年前に来たのだが、その時は駅と街道沿いの一部しか見ておらず、街に入るのは10年ぶりだった。勿論発展はしているが、それほど大きく変わってはいない、どこかホッとする街並みだった。この街には今もソーボアハウスがあり、その子孫たちが伝統を守って暮らしているのだろうか。などと、ふと10年前に訪れたそのお屋敷とお嬢さんを思い出す。

 

そしてティボーといえば、前回泊まったゲストハウスM。ここでの大ゲンカは忘れられない。Tさんにその話をすると、せっかくだから行ってみようということになる。10年前は外国人が泊まれる宿がティボーにはほとんどなく、皆がMに向かったものだった。行ってみて驚いた。なんとゲストハウスが立派なホテルに昇格していたのだ。さすが商売上手。よく見るとその横に、昔の面影を少し残すゲストハウスも併設されており、敷地内は白人観光客で賑わっていた。因みにこの宿の娘婿は日本人だ、という話も聞いたが、どうなのだろうか。

DSCN2034m

 

実はこの旅も半分が過ぎ、明日のナムサン訪問後、どこへ行くにせよ、飛行機のチケットを手配する必要があった。Mには旅行社も併設されており、そこで聞いてみたが、ラショー‐タチレイ間の航空券が半年前に買った時より1.5倍もした。これにはかなりの手数料が含まれているような気がする。英語で対応してくれる、というだけで、いまだにいい商売ができている。

 

ただ街中のほかの旅行社を訪ねても、ラショーやマンダレーからのフライトはラショーで買うより安くはならないことが何となく分った。今やネットでチケットを買う時代、どこで買っても同じだと思うのだが、ミャンマーはまだその時代に突入していない。ミャンマー人でクレジットカードを保有している人も多くはなく、ネット決済ができない、という理由もあるかもしれない。

 

先日もこの街にやってきたというTさんは、安くてきれいなホテルを見つけていた。レッドドラゴンという名前で、おそらくはアパートをホテルにしたと思われる作りだったが、何といっても1泊12ドルで、これだけきれいなら言うことはない。しかも朝食までついている。そしてネットも問題なく繋がる。この価格はプロモーションだというが、トレッキング目的のヨーロッパ人などが口コミで泊まりに来ており、英語も通じるので有り難い存在だ。

DSCN2037m

 

夕飯は焼き物系のレストランに入る。やはりミャンマーの田舎、という感じで、全てがゆっくり。10年前も暗い街を歩き、満天の星を眺めたことを思い出す。自分で選んだイカや豚を焼いてもらい、食べる。なぜかチキンカツ?が日本的にウマイ。東南アジアで日本食のとんかつにブームの兆しがあるが、鳥は豚よりも安いし、身近だから、本当はチキンカツの方がよいのではないだろうか。スープとご飯を頼んでかき込む。大いに満足した夕飯だった。

DSCN2042m

 

1月28日(木)

ルーフトップで朝食

夜はゆったりと寝られた。昨晩のタウンジーよりかなり暖かいという影響もあったかもしれないが、何といっても街の雰囲気とこのホテルの快適さが、眠りを深くしたに違いない。このホテルの朝食は、何と建物の一番上、ルーフトップで頂く。高い建物もなく、周囲には昔ながらの家々が見えて、眺めがとてもよい。

DSCN2044m

 

1泊12ドルのホテルだから簡単な朝食ではあるが、オムレツはオーダーすると、ちゃんと焼いてきてくれる。これにパンとフルーツ、ティミックスが出れば、文句はない。食事をしているのは、ほとんどが白人。ティボーに来る外国人は欧米人が多い。目的はトレッキングなど、自然に触れることらしい。我々も自然に触れるべく、いよいよ最終目的地、ナムサンへ向かって出発する。

DSCN2048m

 

取り敢えず、気に入ったこのホテルはチェックアウトせず、もう1泊する予定とした。そして軽装で車に乗り込む。街はすぐになくなり、郊外へ出た。小さな川が流れており、小さな橋が架かっている。そこは車が一台ずつしか通れない。ちょっとした交通渋滞が起こる。これがミャンマーの渋滞だ。ヤンゴンのあの渋滞は、もう昔のミャンマーには戻れないことを示しているが、ここではいつでも、いつまでもミャンマーなのである。その風景がなんとも言えない。

DSCN2050m

 

6.ナムサン

道路工事で迂回

田舎の道を土ぼこりを舞い上げながら、車は進んでいく。ふと見ると、漢字の表示が見えた。よく見てみると、何と中国まで続くパイプラインがこの下を通っている。これがラカイン州の沖合から産出した天然ガスを雲南省まで運ぶために中国が作ったパイプラインか。地下を通っているため、普通目には見えないのだが、なぜか私にはピンと来るものがあった。中国とミャンマーの深い闇、軍事政権が民政に移行することになる原因の一つかもしれない、歴史を見る思いがした。

DSCN2053m

 

少し行くと、十字路があり、ナムトゥへ行く道とナムサンへ行く道はここで分かれていた。我々はナムサンを目指し、左に折れた。すぐ近くに村があった。その細い道は道路工事で完全に塞がれている。仕方なく、民家が立ち並ぶ脇道に踏み込んだのだが、ここは車が走るような場所ではなかった。そこを無理に通ろうとすると、車が溝にハマりそうになる。ナムサンまでの道のりはまだかなり遠い。そして行く手のハードルは決して低くはないと感じられた。

DSCN2063m