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スリランカ紅茶の買付茶旅2016(11)バルコニーで紅茶を

街歩き

今日の宿が決まったので、早速駅へ向かい、明後日のコロンボ行の切符を買いに行く。ルピーの現金が少ないので、両替しようと思ったが、すでに銀行は閉店時間だった。仕方なくラオスの時と同様に、タイのカードを銀行脇のATMに突っ込んでみると、ここでもちゃんと、1万rpの現金が出てきた。勿論両替レートは悪いだろうが、何とも便利な世の中になったものだ。日本の銀行カードは海外で現金を引き出せるのだろうか?

ハプタレーの鉄道駅へは線路に沿って行ってみた。というか、地元の人は線路の上を歩いていく。それほど列車は来ないということだろう。すると先ほど来た列車を見たことは吉兆だったのか。駅舎はかなり小さいがいい感じで嬉しい。標高は1431mとの表示がある。駅構内には自由に出入りできる。というか、構内に入らないと、切符は買えない。駅長室のようなところへ行くと、全ての調度品がレトロでなんとも好ましい。

そこでコロンボ行の切符を買う。1日、5本あるようだが、都合のよい電車は朝7:45発だった。1-3等までのランクがあったが、取り敢えず1等を買ってみる。それでも1250rp。2等ならその半額だ。3等は更にその半額。分りやすい。席を指定しないと多少安くなるようだった。一体どんな列車なのか、乗るのが楽しみになってきた。

駅の前の道を戻る。すぐ近くに質素なカフェがあった。白人が数人、サンドイッチを食べたり、飲み物を飲んでいた。よく見ると、そこの下に通じる道があり、ゲストハウスになっていることが分かる。ここに泊まれば、明後日の朝が早くても気にならないと思い、部屋を見せてもらった。今日の夜泊まる部屋に比べるとかなり落ちる。そしてバストイレも共同できれいではない。だが、駅までの便利さと、さらに明日宿を探す手間を考えて、ここを予約した。窓からの景色は良い。でも2000rpは高過ぎると思うのだが、どうだろうか?

疲れたので、宿へ帰り、バルコニーでネットを繋ぐ。紅茶が飲みたいな、と思うと、何とこのバルコニー、レストランに繋がっていた。紅茶を注文すると、ボーイが反対の通路から運んできた。ということは、このバルコニーは単なる通路だった。となると、人がここを通るわけで、あんまり変な格好でいる訳にはいかないようだ。

それにしても、バルコニーでティーポット(300rp)から紅茶をカップに注ぎ、ゆっくりと雄大な景色を眺めながら飲むのは、何とも爽快な気分だった。一人になった寂しさよりも、むしろ開放感が漂う。夕方の風景が徐々に流れるように変化する様子を見ながら、時間を忘れて過ごしてみる。この4日間は実に忙しかった。そしてその前のミャンマー、ラオスの壮絶な旅のダメージからよくここまで立ち直ったものだ、と自ら感心する。

今日はもう動く気はない。夕飯もレストランに注文して、バルコニーで待っていたが、周囲が暗くなる。そして外の電球が切れており、外灯がなくては相当に暗い。これでは食べることができないので、仕方なくのっそりと食堂に入っていくと、韓国人のカップルが驚いていた。焼きそばとスープを食べて、早々に退散する。今晩はとにかく一人がいい。

バルコニーでは何もできなくなり、部屋に入ると本当にすることがない。いや、実際には明日の行動の準備とか、調べものとか、原稿を書くとか、やることは色々あるのだが、ようはやる気が起こらない、というのが正しい。熱いシャワーをゆっくりと浴びる。ロビーでは酒が出されるので、白人の酔っぱらいの声が相当にうるさかったが、ボーっとしているうちに、疲れがドーッと出て、寝こけてしまった。これは幸せな眠りだった。

2月12日(金) リプトンシートへ

翌朝は当然早く起きて、バルコニーでボーっと周囲が明るくなり、日が差していくのを見ていた。朝食も食べ過ぎから控え、紅茶を頼んで、持っていたクッキーで済ます。これで体が軽い。ハプタレーですることは何もないが、せっかくここまで茶旅をしてきたので、茶工場へ行ってみようと思う。ダンバッテンという工場があるらしい。

昼前には戻れないかもしれないので、名残惜しいが宿をチェックアウトして、荷物を引いて坂を上り、昨日予約した駅近くのGHに移る。こちらの部屋も空いており、鍵をくれたので、荷物を部屋に置くことができた。窓の外から眺める景色はこちらも素晴らしい。茶畑もよく見える。部屋は良くはないが、ロビーの雰囲気は昔の別荘のようで、素晴らしく見える。ここでボーっとしていたかったが、元気が余っていたので動き出す。

バスターミナルで聞くと、その裏からダンバッテン行のバスは出ているという。だが、ここに本当に来るのだろうかと迷っていると、トゥクトゥクの運ちゃんが声を掛けてくる。ダンバッテンまで500rpだというのだが、時間も有り余っており、断ってしまった。ところが10分経っても20分経ってもバスは来なかった。こんなことならトゥクに乗ればよかったのに、と後悔したが、スリランカの運ちゃんはインドとは明らかに違って、全くしつこくない。こちらが来てほしいと思っていても、誰も寄ってこない。お行儀が良すぎるだろう!

そこへ小型バスがスーッと前を通った。何となく見ていると、何と英語で『Lipton Sheet』と書いているではないか。ガイドブックには、リプトンシートへ行くバスはない、と書かれており、そこへ行くのは諦めていたのだが、車掌に聞くと、確かに行くというのだ。但し今戻ったばかりなので、出発は30分後と言われるが、それは気にならなかった。ダンバッテンより向こうに歩かずに行けるなら、待とうと思う。トイレに行き、飲み物を買い、時間をつぶす。その間にダンバッテン行バスもやってきたが、もう乗る気はなかった。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(10)一人でバスに乗りハプタレーへ

ついに一人旅へ

ルフナの茶園訪問はこの1軒で終了した。ルフナではこの茶園を見れば十分とのことだった。これ以上、忙しいルアンさんに迷惑を掛ける訳にはいかないので、一人で行動する旨を申し出た。行先は今回行っていないウバのハプタレーにした。特に理由はない。行ったことがないからだ。ハプタレーまで車で送ってもらっては、ルアンさんたちが帰るのが大変になる。検討の結果、ラトナプーラでバスに乗せてもらい、そこで別れることになった。

まだ時間的には早かったが、軽く昼ご飯を食べることにした。道沿いのおしゃれなカフェに入る。近くに茶工場が見えたが、このカフェも茶園経営者がやっていると聞いた。2階は結婚式の披露宴会場のようだった。スリランカでも結婚式は盛大に行われるということを4年前のコロンボで見てきていたのだが、地方都市でもそれは変わらないらしい。

美味しそうなパンが並んでいたが、チキンパンとツナパンを選んでみた。ちょっとスパイシーだが、予想よりはるかに味がよかった。パンそのものがしっかりしている。しかし何だか食べていると疲れがどっと出てきた。これから一人になることに対する、面倒くさい、という感覚からだろうか。これはいつも起こる現象ではあるが、ワクワク感より、緊張感が先走る。

車はラトナプーラの街中へ入っていく。バスターミナルを見つけ、ルアンさんが聞いてくれたところ、ここ始発でハプタレー行のバスはないということだった。しかもターミナルに入るバスではなく、通りを過ぎているバスの中から、ハプタレーを通過するバスを探して乗り込まなければならないということが分かる。一人だったら、ちょっと面倒だったな。

これはいつ来るかわからないな、と思っていると、突然ルアンさんがあれだ、と走り出す。私も追っていくと、このバスがハプタレーへ行くと確認でき、急に乗り込むことになった。私は大きな荷物を持っていたが、席が空いていたので、ルアンさんがバスに押し込んでくれた。荷物は車掌とルアンさんでどこかへしまい込んでしまった。何とお世話になったYさんに挨拶する間もなく、バスの座席に座る。これは大変申し訳なかったが、如何ともし難い。バスはほぼ満員の乗客を乗せて走り出す。ルアンさんが手を振って見送ってくれた。

ハプタレーまで

このバスはローカルバス。どこから来て、どこへ行くのか文字が読めず分らない。しかしよくよく見ると小さな字で英語表記があり、コロンボ-バッドゥラと書かれていたので、コロンボから来たのだろう。いずれにしても結構長距離を走るため、バス自体はしっかりしたガタイを持っていた。以前スリランカで乗ったことがあるのは、インターシティという長距離バス。こちらは座席も広く快適だったが、今回は座席が狭く、しかも堅かった。それでもラオスを経験していると、なんということもないと思えるのが、自分でもすごい!

乗客は相当乗っており、立っている若者もいた。快適のバスの旅、という感じはなかった。窓から心地よい風が入ってこなければ、ちょっと息苦しかったかもしれない。ラトナプーラを出て、国道をひた走っていく。勿論途中で降りる人、乗る人がおり、ちょくちょく停まる。その度に車掌がテキパキと動く。彼は簡単な英語を話す。実は自分の荷物に不安があったのだが、彼なら安心だと思えた。因みにバス代は200rp、安いのだろうか。

バスは単調に進んでいく。田舎道を走り、小さな街を通過する。景色もあまり変わらない。老夫婦がもたれ合うように寝入っている。如何にもローカルバスの風情だった。1時間半ぐらい経って、トイレ休憩があった。午後1時半過ぎだったが、ランチタイムだったのだろう。スリランカでも『ホテル』は『レストラン』の意味であることが多く、ここでもそのように表示されていた。私はトイレに行っただけで暇を持て余した。同じ行き先の別会社のバスも停まっていた。こちらの方がきれいに見えたが、2社が競っているようだ。

そこから30分、ウトウトしていたら突然車掌が『着いたぞ』と声を掛けてきた。外を見ると、線路が見え、そしてちょうど列車がやってきた。その道路脇で降ろされる。降りたのは数人だけだった。懸命に車掌を捕まえて、荷物は、と聞くと、慌てるな、と言って、バスの後ろのトランクから出してくれた。そして笑顔で別れた。

7.ハプタレー 眺めの良いホテルへ

さて、ここからどうするか。全く何も決めていない。ハプタレーはかなり小さな街のようだった。少しにぎやかな方に進むが、ホテルらしきものは見えない。バックパッカーの白人が数人、歩いていくので、付いていこうかと思ったが、何となく疲れており、止めた。

旅行作家Sさんの旅なら、まずは何を置いても、駅に行き、次の目的地の切符を買うだろうが、私はまずは宿を決め、荷物を下ろしてから、ゆっくりと駅へ行きたい。そういう旅だ。仕方なく、バンコックで念のため購入しておいた地球の歩き方を取り出して眺めると、現在位置からすぐのところに眺めが最高のホテルがあると書かれていた。料金も手ごろだったので、行ってみることにした。

かなり分り難い小道を下っていく。もしこれで部屋がないと言われると、この坂を上がらなければならないな、と思いながら、ホテルに入っていく。マネージャーが出てきたので、部屋はあるか、と聞くと、ちょっと考えてから、1泊だけならちょっと広い部屋がある、という。

その部屋は入り口の横だった。しかもベッドが3つある3人部屋だが、清潔感があり、しかもロビーに近いため、部屋でもWi-Fiが繋がる。熱いお湯も出るという。そして何といってもバルコニーがあり、そこからの景色が異常に素晴らしい。これで1泊2500rpなら、誰も文句はない。本当はもう1泊したかったのだが、まあ、今日はラッキーだった。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(9)ルフナの改革者

2月11日(木) ルフナへ

翌朝は5時起き、5時半には宿をチェックアウト。ルアンさんが車で迎えに来て出発。Yさんもご一緒することになった。真っ暗ななか、車は近くの高速道路に乗り、コロンボ市内を避けて進んだが、周囲はトンデモナク濃い霧に包まれていた。6時過ぎにはすでに明るくなり始めたが、それでも前が見えないほどの霧だった。いよいよ天気が崩れる兆候なのだろうか。

それにしても高速道路は本当に早い。車もそれほど走っておらず、僅か1時間半で、ルフナの茶園近くまで来てしまったのには驚いた。キャンディへ行くのは3時間ぐらいかかるので、ルフナが如何にコロンボから近くなったが、話に聞いてはいたが、実感できた。全ては高速道路のお陰、そしてそれを短期間に作った中国のお陰ということになるのだろうか。

7.ルフナ  ジャングルレストラン

茶園に行くにも早過ぎるということで、まずは朝ご飯を食べる。クマさんが『ジャングルレストラン』と言っていた店にやってきた。道路沿いの店で、ジャングルとは言い難いが、周囲には林がある。ここでローティを頂く。ローティはインドでいつも食べているが、ここではローティを四角く刻んで、そこに色々な付け合わせを掛けて食べるのだが、それはホッパーを食べるときに似ていた。いずれにしても抜群にうまいことは間違いがない。クマさんがルフナに来る時、必ずここで朝ご飯を食べるという意味はよく分かった。

しかもここで出てきたキリテーはなぜかとても美味しい。その理由を聞いてもらうと、すごく良い茶葉を使っていることが分かった。安くておいしいお茶を、楽しく、気楽に飲めることは、実に重要なことだと思う。このレストランに人が引きよせられる由縁であろう。

それから10分ぐらい走ってまた車が停まる。普通の民家の横だったので、何があるのかと訝ったが、ルアンさんが『あの家を見てください。家の横に茶樹が植わっていますね。ルフナでは一般の民家でも茶葉を栽培して、茶工場に売却しているのです。これがルフナの大きな特徴です』と説明してくれた。確かに椰子の木の下に茶樹がまとまって植わっている。こんな場所はこれまで他では見たことがない。但しその民家茶園は1つずつがものすごく小さくて、これで茶がどれほど出来るのだろうかと、と心配になるほどだった。

ルフナの茶園で

それからまた車でゆっくり30分ぐらい行ったところに、今日の訪問地、ニュービタナカンデ茶園があった。ここがルフナで一番大きな茶園らしい。事務所へ入るところで工場長が恭しく出迎えてくれた。ここは民間経営と聞いていたので、やはりお客対応からして違うな、と思っていたら、Yさんとの関係がことのほか深い茶園だということが分かった。

実はYさん、ルフナ紅茶を日本に広めた人らしく、ここでは大恩人だと言われている。もし事前にここのオーナーに訪問を伝えれば、コロンボに居ても飛んで帰ってきてしまうので、気を使って今日の訪問は伏せていたようだ。工場長が工場内をすべて案内してくれる様子を見ても、VIPであることがよくわかる。Yさんは私のために付いてきてくれていた。有り難い。

私はスリランカの紅茶について詳しいわけではないが、一般的な印象として、ルフナと言えば、低地で作られるグレードの低いお茶、ということで、日本でも扱う人はいなかったようだ。それをYさんが『ルフナにも美味しいお茶があるよ』と言って宣伝に努め、自らも販売して見せたという。このような努力のもとに、一般人は少しずつルフナ茶を受けて入れていっただろう。今回はディンブラとルフナの印象がかなり変わった旅となった。

特にここで作られていたOPは美味しいと思った。人のよさそうな工場長も笑顔で『これは自信作です』と言っていた。この茶園は1940年に創業、1972年に国有化されたが、その後また民営化されたらしい。先ほど見たような民家茶園を含め、5000もの茶葉供給者がいるというのも驚きだった。『決められた日に係員が摘み取られた茶葉を回収に行きます』とまるでゴミ収集車のように言うのがユニークだ。そして『最も重要なのは品質ですから、茶葉栽培の専門家が定期的に各地を回って指導しています。勿論茶葉回収時にも、指導します』という。これは効率が良いとは言えないが、地域密着型の面白い方式だろう。

茶園のマネージャーがやってきて、マネージャーの住むバンガローでお茶を飲みましょう、と誘ってくれた。これもYさんのお陰だ。イギリス式のスリランカではマネージャーの地位は高い。バンガローも立派な家だった。彼はまだ50歳ぐらいで、その改革者精神と科学的知識を買われて、オーナーにスカウトされたらしい。家族は子供の教育の関係でコロンボにおり、単身赴任している。スリランカでも教育問題があるんだな!なるほど。彼自身が流ちょうに英語を話し、一流大学を出て、経営学も学んで実践しているようだ。

この工場では彼を迎えて、改革をしようとしていた。『これまでのオークション一辺倒ではダメだ』とはっきり言う。とにかくオークションを通さずに、直接輸出を図りたい。既に中東を始め、ヨーロッパや中国に輸出を始めているようだ。今後それを伸ばすためには個性のあるお茶を作り、価格を高めていく必要もある。価格競争では既にケニアには全く太刀打ちできない。しかもスリランカの技術者がケニアで指導しているため、品質でも追い付かれつつある。日本市場についても質問もあったが、私は的確には答えられない。

工場長も手伝ってお茶を淹れてくれ、お菓子も出てきた。『このレモンパフはうまいぞ』、というので食べてみると確かに私好みの味だった。紅茶を飲むのに何を食べるかも重要な要素だった。短い時間だったが、とても楽しいひと時だった。彼らはまたすぐに工場の指揮に戻っていった。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(8)突然ネゴンボの港で魚を買う

6. ガンバハ
こんなところに韓国料理屋

午後1時過ぎに、今日の目的地、ガンバハに到着した。ここはルアンさんの家がある場所だった。空港にも近いので、クマさんはルアンさんの家で休息後、時間に合わせて空港に向かう段取りとなっていた。まずは昼ご飯を食べようというので、レストランへ向かう。そこは線路の近く、ガンバハにも鉄道が通っていることを初めて知る。というか、ガンバハがどの辺にあるのか、私には皆目見当がつかない。車に乗ると地理的感覚がなくなる。

ルアンさんがよくいくというそのレストランはなんと、韓国料理屋というではないか。こんな田舎、と言っては失礼だが、コロンボから50㎞以上は離れた場所に韓国人が来て、店を開いたというのか。最近アジアでは中華料理屋と並び、いやむしろ中華をしのぐ勢いで、韓国料理屋が増えているのは事実だが、なぜこんなところに。店はいい雰囲気の庭がある、一戸建てだった。

我々が席に着くと、まもなくオーナーがやってきて、ハングルで声を掛けてきた。こちらが分らない、というジェスチャーをすると、『ああ、日本人ですか』と英語でそれだけ言って、すぐに引っ込んでしまった。恐らく韓国人が来た場合のみ、母国語で対応することになっているのだろう。まあ、日本人の海外の店でもよくあることなので、気にはならないが、いくつもある疑問をぜひ聞いてみたかったのだが、その機会を失ってしまった。

基本的にルアンさんが、スリランカ人スタッフと話してメニューを決めたため、韓国料理は全く出てこずに、普通のスリランカ料理が出てきた。この辺がはっきりしている。この店はさっきの韓国人とこの土地を持っているスリランカ人の共同経営であるという。どうやって知り合い、どのような経緯で店を開いたのだろうか。とにかくお客には地元のスリランカ人が多いのだ、ということはよくわかった。デザートが甘くて美味しかった。

空港からネゴンボへ

そしてルアンさんの家へ行く。庭のあるいい家だった。Yさんはここに1か月、居候しているらしい。クマさんは今晩の夜行に備えて、早々にシャワーを浴びに行く。私は庭が見えるテラス?で、椅子に座りゆったりする。そこへお茶が運ばれてくる。ミルクティだ。お菓子もついている。もうこれが定番化しており、スリランカではどこでも紅茶だ、と体も理解する。

そこで突然停電となる。すぐに繋がるかと思ったが、思いのほか長かった。未だ昼間で明るいため、何の問題もなかったが、時々あるようで、冷蔵庫の中身などを心配していた。その内にクマさんのフライト時間が迫り、車で空港へ向かった。私も見送りについていく。

空港までは20分程度と近かった。この空港、やはり搭乗券のない人間は中に入れないようで、外で待機しようかと思っていたが、ルアンさんが入場券を買ってくれて、入ることができた。荷物チェックなどもあるが実にいい加減だった。ちょうどチェックインカウンターが開いたところで、クマさんは、知り合いの日本人を見つけて、すぐに入っていってしまった。とても呆気ないお別れだった。今回は本当にお世話になり、有り難い。

さて、ここからどうするのか、私はどうなるのか?荷物はルアン家に置いたままだったが、車はあらぬ方向へ進む。ネゴンボ、と言えば、空港近くの街で、私が2年前に深夜便を降りて、2泊した海辺の場所だった。何とここへきてしまったか。今回は茶畑巡りで、山の中を歩くことは想定していたが、ここで海が出てくるとは、なんともダイナミックな展開の旅となる。

夕方の心地よい海風が吹くネゴンボで訪ねたのは、港。そこには漁船が寄港しており、その横には水揚げされた魚の市場が開かれていた。大きなマグロのような魚のぶつ切りから、これまた迫力のあるイカやタコ、貝類まで、豊富に置かれていた。実に素朴な市場だったが、売り手は威勢がよく、活気はあった。ルアンさんは、真剣に魚を選び、値段交渉を始める。今晩のおかずだそうだ。楽しみだ。

ルアン家に戻ってみたが、近所の路地は暗かった。まだ停電が続いているのは意外だった。その停電の中、ルアンさんの奥さんたちは、山の市場で買ってきた野菜と、ネゴンボの魚を組み合わせた夕飯を懸命に作ってくれた。ご飯は電気で炊いているようで、今晩は無し、ということで、ジャガイモが付いていた。かなり暗い中で食事をしたため、写真はうまく撮れないほどだった。大変な迷惑をかけてしまったが、まだ停電がある国なのだ、と実感した。

ルアンさんが今晩の宿を手配してくれた。家の近所だが、基本的にスリランカ人しか泊まらないお屋敷のようなホテル。敷地はかなり広いし、建物も立派だった。ここは停電していなかったので、熱いシャワーを浴び、何とかネットも繋がり、エアコンも使えた。ただこの部屋代が7000rpもしたのには、ちょっとびっくり。外国人料金だろうか?この辺には競争というものがないのかもしれない。明日の朝は早いので、早々に眠りに就く。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(7)道端のキリテー

運転手さんの家へ

ついに買付の旅が終了した。クマさんもさすがにホッとしたようだ。今回の買付はそれなりにうまくいった方らしい。ただヌワラエリアの茶がうまく調達できなかった。その場合は、後日コロンボのオークションで競り落として、調達する方法もある。実は今回訪ねた茶園でも、何度か『これはオークション出品リストにすでに載っています』という話があった。

出品リストに載ってしまうと、その後はそのお茶を個別売買することはできない規定のようだ。以前はサンプル程度と言って、少量の場合は売買が黙認されていらしいが、最近はかなり厳しい。クマさんのように個人でお店をやっている場合、仕入れる量もそれほど多いわけではなく、限られてくるので、単独でオークションに出ていくのは簡単ではない。その場合はルアンさんのお客さんも含めて、何人かで購入して分けることもあるようだ。

そんな話をしていると、どこかの街に着いた。今日も例のロッジに泊まると聞いていたのだが、ここはどこだろうか。どう見ても自動車修理工場にしか見えないのだが。実はここは、今回の運転手さんの家であり、彼が経営している工場だという。昔は中国でもそうだったが、経済発展の初期は、車を運転できることは高級技術者であり、またその車を修理できるのは限られた人々だった。彼はそれができる人だったのである。普段は工場をやり、ルアンさんに頼まれた場合に運転手を引き受けるらしい。今回のメンバーはいわばスペシャルチームだった訳だ。これはYさんのお陰だったかもしれない。

Yさんは私を連れ出し、大通りに出る。車は多くはないが、学校帰りの学生とその親が沢山歩いており、次々にバスに乗りこんでいった。店では揚げ物のお菓子が売られており、美味しそうに見えた。家に戻ると、クマさんたちがいない。探して隣の建物に行くと、そこは織物工場になっていた。これも運転手さんが、親戚などに仕事を与えるために作ったらし。

そして家でお茶を頂く。運転手さんの長男がお茶を運んでくれる。英語もちゃんと話した。赤ちゃんや小さな女の子もいて、なかなか楽しい家庭のように見えた。お茶は先ほどディンブラでもらったもの。初めはストレートで飲んでみたが、やはりミルクがよいということで、ミルクティも出てくる。普通の家庭はミルクティのようだ。ドーナッツのようなお菓子が出てきたが、甘くはなかった。やはり甘いミルクティに合わせているようだった。

日が暮れる前には、ロッジに戻った。心地よい疲れがあり、シャワーを浴びて、軽く寝息を立てる。この瞬間は本当に気持ち良い。解放感に浸る。街は茶園と比べると結構暑かったが、このロッジはやはり涼しく、快適だった。夕飯はカレーになった。鶏肉、魚、野菜と3種類のカレーを食べる。そこそこ辛いが、美味しく感じられる。美味しく感じられることが嬉しい。そしてまたぐっすり寝る。極楽、極楽。

2月10日(水)
5.ガンバハまで

翌朝は散歩しようと思っていたが、なぜか起き上がれなかった。恐らくは緊張が解け、体調も戻ったため、気が抜けたのだろう。8時前にダイニングへ行くと、すでに皆がそろっていた。今日はクマさんの好物だというストリング・ホッパーを頂く。それはそばのような麺(米から作る)にたまごなどを煮込んだ汁を掛けて、付け合わせて食べるのだが、確かにこれはうまい。かなりの量を食べてしまった。

名残惜しいが、8時半にはロッジをチェックアウトする。今日はクマさんが帰国する日。だが私はもう1日、ルフナへの案内をお願いしていた。どうするのだろうかと見ていると、何と一度クマさんを送ってコロンボ空港へ戻り、明日またルフナまで来るのだという。そんな大変な、と思ったが、実はキャンディへ行く方がもっと大変だったことが後からわかる。

今日も相変わらずいい天気だった。道路沿いの茶園を通ると茶摘みが行われているが、今日はもう茶園へは行かない。2日間で飽きたはずなのに、それはまた何となく寂しい。雨が降る前にできるだけ摘み取ろう、ということだろうか。それにしても気持ちの良い天気だ。

1時間半ぐらい走ったところで、道端の茶店に入り、休憩した。ここでキリテーを注文。どうやって作るのか、興味津々で見に行くと、おばさんが作っているところをよく見せてくれた。茶こしで漉して、ミルクと混ぜて高らかに上から落とす。出来上がってから砂糖を混ぜていた。素晴らしい、と思っていたが、後で聞けば、Yさんがおばさんにちゃんとチップを握らせていたのだ。それでサービス精神旺盛な対応が実現していた。どこの世界でも似たようなものだが、このYさんの慣れた対応には恐れ入る。

それにしても、インドのチャイも同じだが、なぜかキリテーも道端で飲むものが一番おいしい。キリテーはチャイより上品な感じだが、それでもそれなりに甘い。ホテルで出るチャイなどは甘さが抑えられすぎていて、物足りないのだが、スリランカのホテルでも同じだろうか。因みにこの店では結構よい茶葉を使っていたので、驚いた。1杯、40rp。

11時半ごろに比較的大きな街に着いた。そこにはかなり大きな市場があり、折角なので寄ってみることにした。お客さんもかなりいて、売り手にも活気があった。魚がたくさん売られているのが意外だったが、干した魚も多かった。ここは未だ内陸部なのだ。野菜は新鮮で、ルアンさんが家に持ち帰るために買いこんでいた。田舎の方が物価は安いのだろう。

また1時間ぐらい走って停まる。この街のスーパーに入り、パウダーミルクを探す。パウダーミルクはミルクティを作るために必要だということで買い求めたのだが、従来外国産ばかりだったものの中に、スリランカ産が見えるようになったとYさんは言い、それを探す。外国産より若干安いのだが、安いからか美味しいからか、よく売れているようだった。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(6)茶業の問題点

茶業の問題点

もう1軒、午前の間に回る。オールトン。もうここでは完全に自由人となり、テースティングルームにも入らずに、外を歩きだす。水供給プロジェクトで日本政府が協力しているとの看板が出ている。こんなところにも来ているのか。その向こうの斜面に茶畑が広がっていた。工場の囲いの外を歩いていくと、近くの茶園で茶摘みを見学することができた。ヌワラエリアのように観光客に慣れた茶摘み女性ではなく、実に素朴な感じでハニカムのがよい。茶業はこのような重労働をするタミル人によって支えられていることをこれまで何度も垣間見てきた。この労働力は無限なのだろうか、それがスリランカ茶業の1つの課題ではないのだろうか。

そんなことをYさんに話していると、すぐ近くにあった茶園労働をするタミル人が住む村に入ってしまった。ここにもヒンズー寺院があり、南インドから100年以上前にやってきた人々が伝統を守っていた。Yさんはスルスルとこの村に溶け込み、おじいさんを捕まえて、話を聞き始めた。『自分の爺さんの代からここに居るんだ。ここの茶園で働いた労働者は終生ここに住んでいられるよ。決してきれいではないが、生きていくのは十分だ』とにこやかに話す。

だが『息子はここを継いで、茶園で働いているが、孫たちは皆コロンボへ行ってしまったよ』と悲しそうな顔になる。これが茶園の現状ではないか。尚息子が茶園で働かなくても、お爺さんが生きている限り、家族はここに住むことができるようだ。これは茶園側にとっては、色々と負担が多いのではないかと推察した。

幼い孫を連れた女性もやってきて、恥ずかしそうに写真に収まってくれた。『この子が茶園で働くのかどうかは全く分からないね』という。茶園経営から見ると、労働者は不足する、勿論給与も上がっていく、そして終身雇用のような老後の負担も出てくるので、これまでのような安価な茶業は既に難しくなってきていると思われる。とは言っても現在の賃金だけでは食べていけない家もあり、余暇に野菜などを植えて、副収入としているらしい。若者はこれほどの重労働に耐えていくより、都会に出て簡単に稼ぐ、という発想になるのも分るほど、茶摘みや茶園労働は厳しい上に、低賃金だということだ。今後は機械化が進んでいく、ということになるだろう。そこで茶の品質が落ちてしまえば死活問題だ。

茶園訪問と言えば、茶工場へ行き、テースティングをして、周囲の環境を満喫して終わり、というのが普通かとは思うが、実際にどんな人がどんな環境で働いており、その問題点はどこにあるのかを考えることも重要ではなかろうか。私は常にそんな視点で物を見ており、茶畑を訪問している。今回直接労働者の関係者と話ができたことはとても有意義であった。労働者の視点、経営者の視点、そして消費者の視点、今回はとても考えるところが多かった。今日も茶畑には茶の花が咲いていた。

そこから車で30分。何だか欧米人のバックパッカーが歩いている街に来た。聞けば、スリランカ随一の聖地、スリー・パーダ、別名アダムスピークに上るための拠点となるナラタニアという場所だった。アダムスピークは仏教徒にとっては仏陀の足跡のある場所、ヒンズー教徒はこの足跡をシバ神のものだと主張し、キリスト教徒やイスラム教はここをアダムが降り立った場所としてそれぞれ聖地としているそうだ。聖地の共有化、初めて聞く。こんな場所が世界にあるなんて。スリランカは仏教国だという頭が日本人にはあるが、ここに来れば、多民族国家であることが一目でわかると言われた。スリランカ中から巡礼者が訪れ、賑わっているらしい。この辺に、ゲストハウスが多い理由が分かった。

実際に2回上ったというルアンさんに聞くと、『階段は何万段もあり、とても疲れる。基本的に夜中に数時間かけて上り、ご来光を拝んだら早朝下山する。でも途中でリタイアする人も多い』ということだった。夜中に階段を上るのはちょっと怖い感じだが。子供たちの遠足?の場所にもなっているようだ。実際は遠足ではなく、巡礼、各宗教の理解を深める、祈りを捧げるためらしい。ちょうど車を降りると、アダムスピークがくっきり見えた。思わず記念写真を撮る。

午後1時過ぎだったので、適当にレストランに入り、ランチを取る。フレッシュジュースが飲みたくなり注文。ここまで体調が回復したことに改めて驚く。チャーハンと焼きそば、そして野菜炒め。腹が減っているのでバクバク食べる。食べ終わると、また外へ出て山を眺める。『山がくっきり見える日は限られている』とのことで、我々はここでも幸運であった。

また車に乗り、茶園へ向かう。今回最後の訪問地、ラクサパーナへは、30分ぐらいで到着した。天気の良い日の午後、腹一杯昼ご飯を食べてしまい、眠気すら覚えた。2日間で10軒の茶園巡りは初めての私にはやはり堪えていたのだろう。正直もうお茶の味は覚えていない。1260mにあるこの茶園、歴史は比較的新しく、1954年に創業、他の茶園同様、1972年に国有化された、という記述が見える。従来イギリス資本で経営されてきた茶園が国有化されたことはスリランカ茶業の大きな転換点だっただろう。イギリスはスリランカからケニアに拠点を移し、現在ケニアでは大量に安価な茶が生産されていると聞く。その品質も向上してきており、今やセイロンティを脅かす存在になってきている。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(5)スリランカ紅茶の新たな発見

2月9日(火) スリランカ紅茶の新たな発見

翌朝は早くに目覚める。鳥のさえずりが少しうるさい。取り敢えず起き上がると、お約束のお散歩へ。かなり涼しいのでジャンパーを羽織っていく。昨晩は暗くてよく見えなかったが、このロッジ、建物の壁は最近塗り替えられているようだが、シックでかなり良い雰囲気。広い庭には花が咲き、木も植わっている。そこから出ていくと、茶畑が広がっている。若葉がせめぎ合うように葉を上へ、横へと突き出していく。この若々しい雰囲気がお茶のシーズンであることを実感させる。周囲はいくつか、建設中や改修中の家があり、乾季であることを思わせる。更には下には大きな病院があるが、そこはまだ開業していないという。だが人はそこそこいて、散歩途中なのか、休息していた。

午前7時には朝食が始まる。まずはフルーツが出る。なんだかラマダンの時の新疆の食事を思い出す。急に胃袋に食物を入れると体に悪いという配慮からだと聞いたが、ここにもそんな習わしがあるのだろうか。そしてオムレツとソーセージ、パンをふんだんに食べる。これまで食べられなかった分、今朝はいつにも増して軽快に食べていく。体が楽になったことで活力が大きく増してきていた。自分でも驚く。紅茶もディンブラのお茶だと思われたので、試飲ではできないミルクティを作って飲んでみる。少し濃い目の渋みにミルクが調和していた。

8時過ぎにロッジを出て、わずか10分後に今日最初の訪問地、ストックホルムに到着した。アップコートバレーという地名にあったが、なぜストックホルムというのだろうか。スエーデンと何かゆかりでもあるのかも?今日は昨日よりは日程がゆっくりしているので、テースティングの準備がまだ整っておらず、私にはちょうどよい茶工場見学の機会が与えられた。何しろ昨日は殆ど試飲の連続で、ゆっくり工場を見る機会もなかった。ただ現在スリランカでは原則として茶工場内の写真撮影は禁止されているとの話もあったので、何となく外から眺めたのだが、Yさんが『茶葉を繰るあの工程は手作業だね』などと解説を入れてくれる。基本的に自動化が進んでいる紅茶製造だが、一部作業が人間によるものになっている。

その間に着々と準備は進んでいったが、実際の試飲はあっという間に終わってしまう。本当に呆気ない。プロというものは一瞬で善し悪しの区別がついてしまうものなのだ。これには日頃の経験がものをいう。中国茶・台湾茶の世界ほど、茶の種類にバリエーションがないことも、関係しているかもしれない。しかもクマさんのようにスリランカ紅茶だけを扱っている、というのはある意味でとても強い。専門性は重要な要素になっている。ここではBOPが美味しく感じられた。そしてもう1つ、ダスト1に一票を投じてみた。ダストというと『カス』というイメージがあり、美味しくない茶葉、低級な茶葉だと思い込んでいたが、このダストにも分類があり、今回飲んだダスト1は、これまでにない、渋みと微かな甘み?を感じた。中国などでも例えば白茶では白牡丹は寿眉より高級だと言われているが、美味しい寿眉もたくさんあることを経験から知っていた。それに近い感覚があった。消費者も名前だけに騙されず、思い込みだけで買わずに、キチンと試飲して選ぶようにすれば、経験値が上がっていくように思う。

ストックホルムを出ると茶畑が広がっていた。今日も天気が良く絶好の茶摘み日和だった。基本的に茶作りは天気が勝負だった。明日以降は雨が降る可能性があると言われており、『今回の日程はベストのタイミングだった』とクマさんが胸をなで下ろしながら、言っていた。日本の紅茶関係者でもこの後買付に来る人々がいるようだったが、『一度雨が降ったら、良い茶ができるまで2-3週間待つべき』だそうで、実際に2月中旬の予定を3月はじめてに変更した茶商もいたようだ。本当にお茶のビジネスは難しい、とつくづく思う。工業製品なら機械の良さや自社の品質管理などで補える部分も多いが、お茶のように農業と工業の組み合わせでできる物は、自然の摂理と人間の柔軟性に、その品質が委ねられており、一筋縄ではいかないものだ。

次の訪問先、グランビラもすぐ近くにあった。今日はディンブラだけの訪問であり、何となく楽な感じで来た。買付は引き続き、緊張の中で行われていたが、私とYさんは少し開放感に包まれ始め、自由に外を歩きだす。そして必要な時はマネージャーなどに質問する形式になっていった。ここでは実際に工場長が親切にも工場内を案内してくれた。基本的に紅茶工場に特に変わったところはなく、どこでも皆、同じ機械で同じ工程なのだが、一つだけYさんが気になるところを発見した。

それは選別機で茶葉を選別している中、さらに脇から何かが出てきて、籠に入っていく。これは一体なんだろうか?と聞くと一瞬戸惑った工場長だったが『これはオフグレードです』という。そんなお茶あるのか?よく見ると、何というか、確かに屑のようなものが横から出てくる。オフグレードとは文字通り、グレードが付かない、という意味だろう。ではなぜここで籠に入れているのか。単なるゴミ集めなのか?その辺をYさんがどんどん突っ込んでいくと、ついに耐え切れなくなった工場長が『これはこれで売れるんです!』と。『どこに??』、え『ヨーロッパの有名な紅茶屋さんとか??』。実はこのお茶、ティバッグなどに混ぜる物らしい。単に量をかさ上げするのではなく、これを入れると風味が増す、というからお茶は本当にわからない。いわば隠し味をこんなところ見付けてしまった訳だ。紅茶関係者の方々はご存じなのだろうが、私にはちょっと刺激的だった。

一度気になるとどうも気になるのがダストというお茶。ここでもダスト1に注意力を特に払って飲んでみる。なんかふくよかな香りを感じてしまい、テースティングした茶葉の中で、これが一番うまい、と思わず叫んでしまった。ダストとかオフグレードとか、何だか分らない蔑称?が付いたものをもう一度見直そうと思う。それがそこで生き抜いてきた理由、事情はとても面白い話なのかもしれない。人間は最高のものを求める傾向があるが、それだけでつまらない。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(4)初めていくディンブラの茶園

4.ディンブラ  ディンブラの茶園

午後の日程はまだまだ続く。これは結構きつい。私の旅はそこそこハードだと言われるが、今日は特にきつく感じられた。体調のせいだろうか。ヌワラエリアをあとにして、次の茶産地であるディンブラへ向かう。ディンブラとヌワラエリアは隣同士で距離は近い。30分でデスフォードという茶園に到着した。その茶園、名前が書かれたボードの脇から道が登っていたが、『道が悪いのでここから先は徒歩で行く』というルアンさんの言葉に全員が車を降りて、歩き出す。確かに道はかなりデコボコ、穴が開いているとこもあり、補修というものが全くなされていない。なぜこうなっているのか。

茶園はそんなに儲かっていないのか?実は他の茶園でもこのような状況のところがいくつもあった。『自分で直せるなら、とっくに直しているよ。とにかく茶葉の運送も大変なんだから』という声を聞き、なんだそりゃと、益々訳が分からなくなる。『スリランカの茶園の土地は国が所有しているところが多い』というのがその答えだった。それなら中国は当然そうだし、台湾でも茶園の撤収騒ぎが最近話題になっている。ただスリランカの場合、紅茶栽培は国の重要産業であり、国家のコントロールで行われていると言ってもよい。国が所有する土地の道路を勝手に補修することも出来ず、さりとて国の予算はかなり限られている。大きな道路の整備改修が優先されており、こんな小さな道まで手が回らないのが実情だろう。ようは金がないのだ。茶園が自らお金を出して補修したいと言ってみても、その認可はすぐにはおりないという不思議な現象もあるという。この辺は実に社会主義っぽい対応になっている。

まあそのお陰で、車から降りて、散歩がてら、気持ちの良い風に吹かれて、茶畑の中を歩いて行ける。その距離およそ1㎞。ちょうどよい運動であり、なんとも幸せな気分になった。茶畑では新芽が出ている物もあり、花が咲いている物もあった。かなり歩いていくと、遠くに茶工場が見えてくる。茶摘みが行われているのが見える。終わった女性が、籠を頭において、ゆっくりとこちらに歩いてくる。何とものどかな光景がそこにあった。ただクマさんの戦いは続いており、タラタラ歩いている我々をしり目に、どんどんの工場に突き進んでいった。

この工場は標高1385mと表示されていた。1936年創業、タラワケレというブランドで紅茶を販売している。先ほどランチで飲んだティバッグは何とここの製品だったのだ。その後もこのブランドは何度も見かけており、スリランカでなお馴染みのもののようだった。こちらでも我々の到着を待っていてくれ、すぐにテースティングが始まった。ヌワラエリアのお茶はいかにも高山茶という感じの香りがあり、茶色が薄かったが、こちらはどれもそれに比べると濃い目であり、香りというよりは味がしっかりしていた。『ミルクティ向きなんだよ』と言われて、なるほどと思ってしまう。試飲用の茶葉が少量、紙に包まれて置かれている光景が何とも微笑ましい。

ここデスフォードのお茶は、ここ2-3年で急速によくなっているという評価のようだった。やはりここもマネージャーが交代して、品質が高まったらしい。マネージャーとは一体何をしている人なんだろうか。工場長は別にいるのだから、茶の製造には直接かかわらず、経営をしている人、という印象を勝手に持っていたのだが、どうやら少し違うらしい。イギリスにおいてマネージャーという役職はある意味で全ての責任を負っている。長らく英国植民地下で紅茶作りが行われてきたスリランカは、この点で英国式の伝統を受け継いでいる。

だからマネージャーの権限は大きく、この茶園のすべてを負っていると言ってもよいかもしれない。スリランカの茶園はある意味で国策工場が多いから、マネージャーにもサラリーマンのように定期異動があり、ウバからディンブラへと言ったように地域を跨いで転勤になることもあるという。茶葉を摘むタイミングから、寝かせる時間、製茶の技法まで、マネージャーのやり方、考え方がその茶に現れてくるというのだ。そして香りや味に変化が確実に出る。実に面白い。確かにこの工場で作られたBOPはしっかりしている、という印象を私に与えた。

帰りもまたデコボコ道を歩いていく。来た時は、デコボコに思えた道が、なぜか平たく感じられた。そしてディンブラという、初めてきた土地に親近感を持った。ヌワラエリアは高地の優等生で、その価格も高い。一方ディンブラは一般的には一段低くみられており、ミルクティの原料という印象だったが、実は指導者や生産者によって、そこは十分に挽回できるものだ、ということがよく分かった。ホンのわずか離れているだけのこの2つの地域、やはり来てみないとわからない。今回の訪問ではディンブラが明らかに優勢だった。と言っても、それは私の勝手な感覚で、元々違うものを比較してみて仕方がない。昨年と比べてどうかという方が大切なようだ。

そこから30分ぐらい山道を行くと、そこにも茶園があった。駐車場に車を停めたが、その工場には入らない。既に時刻は夕方5時を過ぎ、徐々に日が傾いている。しかしなぜか皆タバコなどを吸っている。テースティングの準備でも待っているのかと思っていたら、なんとパジェロが迎えに来た。これから訪ねる茶園はここではなく、ここの山の上にあり、普通の運転では行けないので、迎えを頼んだことが分かる。そしてマネージャーが自らやってきたというわけだ。茶畑も急斜面にあり、短時間ながら相当標高が上がった。

グレートウエスタンというその茶園は、確かにすごいところにあった。茶工場の階段をのぼり更に2階へ。そしてテースティング。ここで面白かったのは、室内に茶葉が置かれていたのだが、それは白茶を作っているところだった。インドでもホワイトティと言って、白茶を見たことがあるが、ここではシルバーチップという目の部分が使われていた。更には烏龍茶も作ってみたというのだ。飲んでみると正直、味も香りもまだまだだと思われる。クマさんがポイントをアドバイスしており、マネージャーは真剣に耳を傾けていた。

そして紅茶の粉末を固めてコインの形にした物まであった。そのデザインは100年前に実際に作られたこの茶園のものだという。この茶園も創業は1880年となっている。従来のやり方ではじり貧になるという危機感があるこの茶園の試みは、基本的にコロンボのオークションに出荷してそれで終い、という従来の茶園経営からはみ出しているかもしれないが、今後の参考になることは間違いない。

ついに今日のすべての日程が終了した。1日で茶園を6軒回る。それがどんなに大変なことか、身を持って体験した。クマさんは1年に1回、これを続けて20年近くになるようだ。好きでなければできないが、好きなだけでもできないと思われる。これはあくまでもビジネス、出張なのであり、私がやっている茶旅とは根本的に違うのである。だがそこに同行させてもらえたことは、いくつもの新たな発見を私にもたらしてくれた。

グレートウエスタンから車で1時間ちょっと、既に暗くなった山道を走っていくと、そこに瀟洒なロッジがあった。ここが今日の宿だった。部屋は広く、如何にも別荘という感じだった。食事も中のダイニングで頂く。我々は到着が遅れたので、ルワンさんがすでに食事の手配をしてくれていた。この時点ですでに私は、体調を気にしなくなっていた。驚くべきことに完全に復調してしまっていた。そして肉も野菜もバクバク食べて、全く問題がなかった。今日1日、尋常でない疲れがあったはずなのに。しかも朝は絶不調だったのに、私の体に何が起こったのだろうか。ある人曰く『茶園が心も体も健康にしてくれる、そういう効果が茶にはあるんだ!』と。

このロッジはある銀行が保有しているらしい。昔はイギリス人の別荘だったのだろう。山の中なのにネットもサクサク繋がる。でもそんなにPCに前にはいなかった。クマさんとルアンさんは、リビングに当たる場所でゆっくりとお酒を飲んでいた。そんなことが絵になる場所だった。そして何よりも涼しい。気持ちが徐々に静まり、周囲の静けさも相まって、大きなベッドで心地よい眠りに就いた。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(3)残念なヌワラエリア

ようやく朝日がまぶしくなった頃、RAXAWAを辞して車に乗る。周囲の茶畑も輝いて見える。それからキャンディ市内の湖の脇を通過して、約2時間後にロスチャイルドに到着した。ここは日本でも名前を聞く有名茶園。1839年に研究所が置かれたと書かれているが、これはちょっと早すぎないだろうか?スリランカ紅茶の初期からある。ちょうど摘み取られた茶葉が運び込まれてきて、活気が出ていた。茶葉は少し大きめで、色が鮮やかだった。生葉、という雰囲気がよく出ている。茶園の朝、という感じだった。

ここでもすでにテースティングの準備は終わっていた。全て凄腕ルワンさんのアレンジによる。今日は何と1日で6軒の茶園を回るというのだから、これぐらいしないととても回り切れない、ということだろう。このテースティングに使う茶葉の量を計る秤が実にレトロでいい。マニア垂涎の的、ではないだろうか。勿論欲しいと言っても譲ってくれるとは思えない。台湾や中国では今や機械で測るのだが、こちらの伝統的な雰囲気を良しとしたい。因みに試飲した後に吐き捨てるツボ?も何となく格好がよい。

ここは伝統的な工場だったが、1992年にCTC専門に転換したという。これはキャンディの茶葉が衰退していった時期と重なるのだろうか。ここではBPがいいな、と思った。またダストはパウダーミルクを入れてキリテーを作るとどうか、という基準で選定が進んでいた。私には全くわからない分野だ。茶葉を販売するだけでなく、喫茶としてお茶を提供するクマさんにとって、店で出すお茶も重要になってくる。またワッフルとの相性などにも頭が巡っているかもしれない。このような感覚が、紅茶の普及に貢献していると思うのだが、中国茶・台湾茶には店で出す茶、という発想はあるだろうか?はたまた日本茶にはそんな考え方すらないのではないか。

まだ午前中だが、ヌワラエリアへ移動する。途中道端でYさんがルアンさんに何か言って車を停めた。良質のハグル(孔雀ヤシ)を買うのならここだ、という。そこでは既に出来上がって、木のお椀に固まり付いたハグルが売られていたが、Yさんはそれには満足せずに、ズカズカと家の中に入っていく。するとまさに現在制作中のものがツボで煮られていた。まだ固まっていない柔らかな物を買う。1つ、400rp。食べてみると、見た目と違い甘さは控えめ。これを舐めながら紅茶を飲むと美味しいというのだが、どうだろうか。

3.ヌワラエリア  ティブッシュでランチ

キャンディから標高の高いヌワラエリアへは車で2時間ぐらいかかる。途中でランチを食べると言って車が停まった場所は実におしゃれなレストラン。ティブッシュという名前で、宿泊施設もあるようだった。建物に入ると、向こう側の大きな窓の向こうに、茶畑が見えていた。景色がとてもよい場所だ。レストランは2階にあり、登っていくと、客は殆どが中国人の団体ばかり。まあ、それほど煩くはなく、行儀の悪人もいなかった。食事はビュッフェスタイルで、中国人が食べやすそうな、中華系料理も並んでいた。団体さん用というのがちょっと残念。

なんだか昨晩に比べるとかなり元気になっていた私、腹が減っていたが、ここで大食いは禁物と自分を戒める。実は今朝は6時半にホテルを出たため、朝食はランチボックスでサンドイッチとバナナだったが、ほぼ手を付けていない。水も飲まないようにして、体調を整えていたが、美味しそうな野菜スープがあったので、よそって飲むと、これが想像以上に美味しく、すぐにお替りした。そしてパンを食べ、野菜炒めや焼きそばなどにも手が伸びた。ついにはデザートとして禁断のフルーツにまで。自分でも大丈夫かと危惧したが、なんとその後も問題がなく、体調はどんどん回復していった。これは『茶畑を見ると元気になる』というお茶効果だ、と言う説あり。

食後は少し周囲を散歩した。と言っても建物の周りをまわり、広大な風景を眺めただけだったが、心もかなり回復してきていた。やはり素晴らしい景色を眺め、美味しいと思うものを食べ、そしてお茶を飲めば、病も癒えるということか。因みに紅茶はディンブラのティバッグだったが、先ほどキャンディであれだけお茶を飲んだのに(実際には口に入れて吐き出してはいるが)、これも美味しいと感じてしまう。

ヌワラエリアの茶園

食事を終えて出発。1時20分頃、コートロッジに到着した。ここは一時日本人に騒がれ、有名になった茶園だそうだ。標高も2300m近く、かなり涼しく感じられた。クマさんは過去の相性が悪かったそうで、数年ぶりの訪問だったようだ。買付に来るタイミングとよい茶ができているタイミングが合っていないといくら良い茶園でも、買付できないという。何も知らない私はもちろん初めて。ここでも予めテースティングが用意されており、すでに試飲が始まった。だがあれ、と思うぐらいに、すぐに終わってしまい、私がモタモタと試飲している間にも、クマさんたちは外へ出てしまい、マネージャーと何か話している。タバコでも吸いに行ったのだろうか。

どうやら特に特徴のあるお茶には出会わなかったようだ。キャンディでは『今年のお茶は出来が良いな』と感じていたようで、それならばと、ヌワラエリアのお茶には更に期待が高まったが、その期待が外れてしまった、という感じらしい。当然ヌワラエリアのお茶の価格は高地のため安くはないので、購入しても捌けない可能性が考慮されていた。そうなるともう用はなく、さっさと立ち去る以外に道はなかった。何とも厳しい世界だ。

続いてペドロに向かった。標高1900m、1885年創業の老舗で私は4年前もここを訪れていた。その時の印象はかなり良く、茶畑が広がる景色も素晴らしく、お茶も美味しかった。その時は車で裏から入ったため、労働者であるタミル人が住む住宅やヒンズー寺院も見て、スリランカ茶を支えている物を見た思いだった。工場や喫茶ルームは相変わらずにあったが、そこで売られている物にはちょっと違和感があった。よく見ると、ペドロというブランドは完全に消えていた。聞いてみると、現在はマーブロックグループの傘下に入り、茶工場として機能しかなくなっていた。製品としてはマーブロックという名前で売られている。これはなんとなく残念だった。

テースティングルームには沢山のお茶が並んでいた。ペドロのお茶を飲んでみたが、4年前ほどの美味しさは感じられなかった。マネージャーが交代した、という話もあったし、企業の傘下に入れば経営方針も変わるだろう。天気が良かったので期待していたが残念ながらここも外れのようだった。むしろ遠方のために行くことができなかったウッタダルラのサンプルがここに持ってこられ、一緒に試飲したのだが、こちらの方が良い印象を受けた。ヌワラエリアの茶園は2つしか回らなかったので、茶葉入手は別の方法を考えるらしい。

疲れたので、喫茶ルーム、ラバーズリープでお茶を飲む。以前は沢山いた観光客も減っているようだ。ペドロの歴史が示されていた展示物も撤去されており、寂しくなっていた。スリランカ紅茶の父、と言われるジェームス・テーラーゆかりの茶樹を起源としているこの茶園は今後どうなっていくのだろうか。スリランカにおいてはマネージャーの交代が大きな節目になるようで、次に期待、ということだろうか。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(2)朝7時から始まる買付

4時頃には飽きてしまい、またレストランへ上がっていく。まだお掃除は完全に終わっておらず、おばさんが『また来たのか?』と嫌な顔をしたが、お構いなしに席に着いてしまった。そしてまたティバッグ紅茶を頼む。ボーっと1時間ぐらい座っていると、今度は腰が痛くなり、座っているのが辛くなる。そしてまた1階へ降りていく。そして到着ボードを何となく眺めると、なんと東京から来るランカエアーが1時間ほど遅延となっている。えー、まだ待たなければいけないのか。驚きで、ちょっと声も出ない。

その間にも中国や中東から続々とフライトが到着し始めた。今日正月休みで中国人がドーッと来るかと思っていたが、それほど多くは見受けられない。私の横に立っていたスリランカ人ガイドに聞いてみてみても『中国人の数はいつもと変わらないよ』という。その横にいた日本人が声を掛けてきた。旅行会社の人で誰かを探していたらしい。それは人違いだと日本語でいうと、さらにその向こうにいた女性が、急に私の名前を呼んだ。ここに知り合いなどいないのでビックリした。彼女は今回クマさんと一緒に茶園巡りをするのだと言い始めた。今回他に同行者がいることも全く知らなかった。これもまた私の茶旅らしくてよいかと思う。

思わず、『紅茶好きの方ですか?』と聞くと、曖昧に笑う。後でわかったことだが、このYさん、スリランカとは30年以上のかかわりがあり、日本スリランカ友好協会を仕切っている重鎮であるらしい。更にはスリランカ紅茶のお店も日本に持っており、紅茶好きどころか、スリランカをもっともよく知る、有名な日本人だったのだ。そんなことも何も知らずにとんでもなく、失礼してしまった。とにかく退屈だった時間が、Yさんの出現で、かなり楽しくなった。何しろ彼女のところへはガイドさんなどスリランカ人が何人も挨拶に来る。その情報から、『誰がいるスリランカに来るか』も分ってしまう。そして茶商兼今回のガイド、ルワンさんも何でも知っており、頼もしい限りだ。というより、私が知らないだけで、後の3人はスリランカと紅茶に非常に詳しいということだったのだ。

成田からのフライトは結局20分程度の遅れで飛んできた。有り難い。そして人が降りてきたが、クマさんはなかなか登場しない。その前に日本人の団体がやってきたが、女性たちがYさんの方に皆で挨拶に来る。日本紅茶協会の研修旅行らいしい。Yさんの顔の広さが出てきた。更にはランカエアーのCAまでがやってきた。日本語のできる彼女はよく東京線に搭乗していて仲良くなったという。この人は一体なにものなのだろうか、なんとも不思議だ。そんなことを考え始めた頃、ようやく重そうな荷物を押してクマさんが、苦笑いしながら出てきた。ここまで約7時間、やはり長かったが、まずは合流できて本当によかった。

2.キャンディ  車でキャンディへ

クマさんはルアンさんの先導で、そのまま荷物を押して車に乗り込んだ。さてどこへ行くんだろうか?私はある程度の予定はメールでもらっていたが、実はほとんど見ていなかった。全てをクマさんに任せるつもりでいた。それが楽だし、クマさんの仕事の邪魔にならないことを第一に考えていた。まあ、どこへ行こうと私にとって新鮮であることは間違いがない。今晩は空港からキャンディまで走り、そこで泊まるという。キャンディまでは3時間ぐらいだろうか。体調はたぶん問題ないとは思うが、一応心配ではあった。

午後8時半頃、レストランで夕飯を取ることになった。だがそこはかなり薄暗いバー。スリランカにもこんな店が増えているという。食事がなかなか出てこない。私は全く食べずに、ミルクティだけを注文したが、それもなかなか出てこない。それはそうだろう、バーでミルクティを頼む方がどうかしている、という感じだった。しかし仕方がない。出てきたティを啜ったが、味は今一つだった。

夜の暗い、うねった山道を車は走っていく。10時半過ぎには車が止まり、今晩のホテルに到着した。思ったよりはずいぶん早かった。どうやらキャンディ郊外の街道沿いのホテルのようだ。きれいな部屋に案内される。熱いシャワーを浴びる。さすがスリランカ、部屋にはちゃんとお茶を淹れるためにポットやカップが備えられていた。紅茶を淹れて飲むと落ち着いた。疲れはあったが、少し興奮状態で、寝にくい。PCとカメラの充電を行うために、アダプターを差そうとしたが、うまく入らない。仕方なく、スタッフに声を掛けて、差し込んでもらった。ネットは簡単に繋がっており、スマホでも繋がっていた。寝たのは午前1時ごろになっていた。

2月8日(月) キャンディの茶園

6時半にホテルをチェックアウトして、出発した。今回訪問する最初の茶園に朝7時15分には到着した。こんなに早い時間に行くとは思わなかったので、まずは驚く。買付とはこんなに朝が早いのか。そして更には行った場所にも驚いた。それは2年前、前回ご縁で行った茶園の帰りに何気なく寄ったパンレイのRAXAWAだったのだ。前回来た時は突然茶園に踏み込み、茶工場を見たいとお願いしたこともあり、その時の従業員の対応は今一つで、お茶も飲めず、正直あまり良い印象は持っていなかった。

だが今回は事前にアレンジされており、オーナーがちゃんと朝から待っていた。ここはプライベート企業であり、父親が始めた茶園を若い息子が継いでいる。そしてテースティングの準備として、数種類の茶葉が置かれ、茶が淹れられていく。そこにクマさんが次々にテースティングしていく。そのスピードは恐ろしく速い。口に含んでは吐いていく。それを数回繰り返し、『OK。分った』と言って、テースティングは呆気なく終了した。それからルワンさん、Yさん、そしてオーナーもテースティングし、どれがよいかを話している。

その間に私も飲ませてもらった。正直私がよいと思うものとクマさんがよいと言ったものは結構違っていた。やはり私には紅茶は分らないんだな、と思ってしまったが、後で聞くと、『紅茶が美味しいかどうかというより、売れるかどうかが決め手だ』という。当たり前と言えば当たり前のことだが、ようは商売でやる場合は、お客さんに好まれるかどうか、価格が妥当かどうか、どうやって飲ませるか、で決まるようだ。紅茶好きは商売ができない、とも言われているようだ。美味しい物だけを買ってきても在庫が増えるだけらしい。自己満足が一番よくないという。とても勉強になる話だ。ここでペコダストというのを初めて飲んだが、面白い味だった。この旅では、『ダスト』の美味さに気が付くことが多かった。これも自分の幅を広げる実によい機会だった。

この茶園は標高1500m近くにあると思われ、ミディアムグローンのキャンディというイメージからは少し遠い。CTCとリーフの両方を生産しており、プライベートらしく、独自色を出そうと試みている。オーナーの父も出てきて、様子を眺めている。実質的には彼がまだオーナーなのだろう。一代でこれだけの工場を開いたのだから、それはやり手なのだろうが、実に温和な笑顔が印象的だった。