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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(5)夜間決死行と昼間のハイキング

迫力の茶作りと決死行

完全に夜の闇に包まれたマーラー村。村長の帰りを待っていた我々だが、彼のバイク音は一向に響いて来ない。そんな中、家々の灯りが灯り、そしてそこに設置された大鍋で茶葉を炒る作業が始まっていた。上半身裸、筋骨隆々たる男が大量の茶葉を炒る姿は、ある種宗教儀式のような荘厳な感じがある。それにしても釜炒が夜行われるとは。

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夕方まで摘んでいた茶葉を少し干してから、ゆっくりと炒る。普通の緑茶製造では、すぐに殺青を行い、処理してしまうが、そこは完全に製法が違う。ミャンマーでもそうだったが、プーアール茶の原料を作るようなものであり、出来上がった茶葉をすぐに飲むとかなり強いため、半年ぐらい置くと飲み頃になる代物である。釜で炒った後は、女性がざるの上に茶葉を広げて揉んでいる。今晩の作業はここまでのようだが、釜炒りは延々と続いていた。

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夜の8時になっても村長は戻らなかった。鉈さんは、カメラの充電が切れ掛けていたが、この村には充電する場所もなく、彼は充電ケーブルを持っていなかった。村人はしきりに『ここに泊まっていけ』と勧めてくれたが、決断の時が来た。鉈先生たちは前回ここに泊まったようだが、私はやや強引に『今日は帰る』と主張して、何とか受け入れられた。やはり乗り捨てた車とその中に置いてきた荷物のことも気にかかる。疲れがあり、ごろ寝は堪えると思ったこともある。

 

しかし帰ると言っても5㎞の暗い夜道を歩いて引き返す勇気などとてもない。村の若者が3人、バイクで送ると言って準備してくれた。それからがまた恐怖の連続だった。真っ暗な中、かなりのスピードで山道を走り過ぎる。一昨年のミャンマー決死行を思い出さざるを得ない。するとまた恐怖が増す。あの時は山道がよく見える恐怖だったが、今回は何も見えない恐怖。どっちが本当は恐ろしいのだろうか。ほぼ20分間、生きた心地はしなかった。

 

何とか車が見えて一息ついたが、今度は相当に狭い山道を車で走る恐怖が待っていた。幅がぎりぎりの山道を走るのだから、一歩間違えば、当然下に転落する。しかし周囲に灯りはなく、車のヘッドライトのみが頼りとなる。王さんの運転技術が発揮される。烏太の灯りがうっすらと見えた時は、取り敢えず生還したことに、心から安堵した。

 

烏太の街と言っても規模は小さい。今度は泊まるところを探すが、ゲストハウスの看板があっても、やっていなかった。何とか部屋が確保できるホテルに辿り着いたときは、相当に遅くなっていた。ここの部屋はかなりきれいだったが、ツインの部屋はなく、今晩は珍しく一人部屋となる。しかしあると言っていたWi-Fiは結局繋がらず、疲れも手伝い眠りに就く。

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4月10日(日)

バイラオウー村から

翌朝はスケジュールがよくわからず、早めに起きたが待機となる。例の村長と連絡がなかなかとれなかったようだ。8時半頃宿をチェックアウト。因みにこの宿には中国商人が何人か泊まっており、朝から持ち込んだカップ麺を食べていた。こんな僻地に何の商売があるのだろうか。Wi-Fiは故障しており、全く繋がらなかった。我々は街外れの食堂で朝飯の麺をすすった。

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それから車で約1時間、昨日行ったマーラー村へ向かう山道を行く。今日も同じ村へ行くのか、何の用事があるのだろうかと思っていると、途中に一軒だけあるガソリンスタンド付近で待ち合わせをしており、村長以下3台のバイクが待っていた。またバイクで山道か、と思っていると、村長ともう一人が私の横に乗り込んできた。今日は車で別の場所へ行くらしい。

 

車で20分ほど行くと、小さな村があった。名前をバイラオウーと呼んでいた。一軒の家に入ると老婆が孫と遊びながら、茶葉の枝取り作業をしている。庭には茶葉が干されていた。彼女はやはりヤオ族だった。村長の村とこの村はともに1970年代の文革中に、雲南省の思芽付近から移住してきた同族らしい。なぜここに移住してきたのか、『思芽でもめ事があり移り住んだ』という説明の中に、文革が何か関連しているのだろうか。実に興味深いがそれ以上の説明はなされない。

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そしてそこからは徒歩になった。かなり古い茶の木がある場所まで行くらしい。村長たちはいるものの、地元の人の案内が必要ということで、10歳の少年が先導役になって進む。初めは意気軒昂に歩き始めた我々だったが、きつい山登りに次第に遅れがちなる。勿論民家など一軒もなく、すれ違う人もいない。本当の山の中に入り込んでいく。このいつ終わるとも知れないハイキングは、体力を相当に奪い、鉈先生なども段々よれよれになってくる。

 

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1時間後には奥深い山中に分け入り、その30分後にはバイクが停まっているのが見えた。とうとう着いたかと安堵したが、それはさらに山に分け入った人のもので、目的の古茶樹は全く見えなかった。小休止後、少年や村長が周囲を探し出す。目的地は近かったが、特に目印があるわけでもなく、本道から脇道に入って探している。我々にはもうそんな気力も体力もなく、言われるがままに進むのみ。そして出発から2時間後、とうとうその場所を発見した。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(4)国境まで15㎞の村で

3. 烏太
徒歩で5㎞

烏太の街を横目に車はまた山に突っ込んでいった。時刻は午後2時を回っている。もし今日も着かなかったらどうしよう、などとは思わなかったが、なんとも嫌な予感がしていた。ランクルは水のある場所、小川などを苦も無く走破していく。もし普通の乗用車で来ていたら、全く身動きが取れなかっただろう。それでも比較的大きな川のところで道を失う。その川では子供たちが楽しそうに水浴びしていた。丸まると太った豚君たちもその横で水に入っている。

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王さんが近所の人に道を聞いていた。そこへ向こうからバイクに乗った人がやってきて、普通話で『この先に道はないぞ』という。鉈先生によれば、一昨年来た時は、車で村まで行ったというのだが、地元の人の言うことを信じるべきだろう。しかし王さんも鉈先生も行った経験があるというので、それを無視して、川を車で渡り、さらなる山道に飛び込んだ。

 

しかしやはり、道はなかった。正確には道はあったが、車が通れる幅がなかったのだ。そこで初めて、村長に電話を入れるが、繋がらない。困っていると村人がバイクでやってきたので連絡を取ってもらうと、やがて村長はバイクで登場した。だが、我々が持ってきた土産、ビールや日本酒などをバイクに積み込むと、行ってしまうではないか。

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取り残された我々3人は車を沿道?に乗り捨て、炎天下の道を歩くことになった。村長に村までの距離を聞くと『遠くはない』との答えだったが、結果的にはそこから約5㎞を歩くことになる。後でわかったことだが、このあたりに住む人々には、残念ながら距離感というものが全くなく、『遠くない』は、意味としては『自分で歩いて行ける範囲』ということらしい。ということは、鉈先生もこの付近の住民と同じ感覚だ、ということに初めて気が付く。

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マーラー村で

それにしても疲れ果てた。少し日が傾き始めた頃、我々はついにその村に到着した。そこはマーラー村という名前だと聞いた。実にのどかな、家々が少しあるだけのシンプルな村だった。だがお婆さんの服装を見れば、そこが中国で言うところのヤオ族の村であることはすぐにわかった。これは昨年訪れたベトナムの村に似ていなくもない。家の壁に『古茶樹』とか『大茶樹』とか、漢字で書かれているのも面白い。ベトナムのヤオ族の家には対聯などの漢字文化を受け継いでいたが、ここにはそれはなかった。

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早々に村長の家の前でお茶を飲み始める。村人が集まってきた。お茶は大葉種でできた緑茶。いい感じに乾いた茶葉がそそり立つようにテーブルに置かれている。これはまさにプーアール茶を作る時の原料のようであり、ミャンマーの山岳地帯でも目にしてきたものであった。作りたての茶葉で茶を淹れると、味は悪くないが、かなり強烈であり、できれば半年ぐらい置いてから飲みたい感じもする。茶殻は見事なばかりの緑色をしていた。何種類か試す。

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村長が席を外す。どこへ行くのかと見ていると、ちょうど摘まれたばかりの茶葉が運び込まれており、彼はその計量をしていた。これは重要な村長の仕事なのだろうか。計量は分銅を点けた昔ながらの秤で行われる。この軽量で全ての成果が問われるので、当然皆真剣だ。村長はノートに1つ1つ記録する。そして村長はいつの間に我々の前から姿を消していた。彼は一体どこへ行ったのだろうか。

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村の中を散策する。豚が飼われており、皆お昼寝をしている。お婆さんはヤオ族の伝統衣装を着ているが、他には誰も民族衣装など着ていない。鉈先生は持ってきたお菓子を子供や若い女性にばら撒いて、ご機嫌を取る。若者からは鉈さんに声がかかる。『うちで作った茶葉を見てくれ』というリクエストが多い。ここでは彼は『茶葉を買ってくれる買い手』として認識されており、村長以外の家からも買ってほしい、という要望が寄せられている。茶葉は皆古茶樹の葉だというが、そうなのだろうか。素人の私にはよくわからない。勿論村の周囲には茶畑など見られない。

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ご飯だと言われ、裏の調理場のような場所へ連れていかれる。そこには新鮮な豚肉を煮込んだもの、野菜を煮込んだもの、そしてもち米で炊かれたご飯が出てきた。何とも素朴な料理だったが、何しろ素材がよいので、実にうまく感じられる。王さんによるとこの村では今日、もち米祭りが行われているらしいが、その気配は全く感じられない。単にもち米を食べる日なのだろうか。薪でやかんの湯を沸かしているのが好ましい。

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夕日が落ちていくのをゆっくり眺めながら、枝取りをする村人たち。こんな風景は茶旅の理想形の1つに思えてくる。村外れまで歩いてみても特に何もない。何もないことが素晴らしいと思えるような村だった。そして日は急速に落ち、夜の闇に包まれていく。我々は村長の帰りを待ったが、一向に戻る気配がない。この時になって初めて、『中国から茶葉の注文があり、村長はバイクで届けに行った』と聞かされた。中国国境までは僅かに15㎞、注文は中国携帯を使って、中国語で行われていることが分かる。

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我々ははるか400㎞を走破してここに辿り着いたのだが、ここの住民は僅か15㎞で中国の国境を越えられた、というのは衝撃の事実である。勿論イミグレなどない場所、厳密には越境なのだろうが、この辺の人々には従来から国境の概念などは薄い。いや、国境は国家間で勝手に決めたものであり、そこに住まう住民には国境などないのだろう。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(3)目的地まで行けなかった初日

2.烏太まで
ついに着かなかった初日

車は国境からラオスに入った。中国の道よりよくはないが、まあ普通の滑らかさで揺れはあまりない。30分ぐらい走ったところで見覚えのある分かれ道を過ぎた。確かここは2月にファーサイからルアンナムターを経由して通ったはずだ。これはどういうことだろうか?確か鉈先生は『タイから入るよりずっと近い』と言っていたが、これでは同じではないか。そんな疑念は抱いたが、もっと近道があるはずだ、バスとは違うのだと思うようにした。

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1時間半ほど走ると、車が急に止まる。道端に少数民族の物売りが沢山小屋掛けしていた。山で採れる薬草や野菜を売っていた。何か買うものがあるのだろうか、と見ていると、鉈先生は誰かを探し始め、そしてついに見つけた。それは前回ここに来た時に、一緒に写真を撮った女性で、今回はその写真を渡すために車を停めたのだ。更に今回鉈先生は文明の利器を用意していた。チェキ、これで撮れば、その場で写真を渡すことができる。幼い子の中には、何が起こるのかわからずに泣き出した子もいたが、概ね好評だった。地元民との交流は、鉈先生のお得意とするところだ。

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国境から2時間後にウドムサイに着いて、完全に道が同じであることを思い知った。大きな街なので当然休息すると思ったのだが、王さんは運転の手を休めずに、そのまま中心都市ウドムサイを通過して、山道に突っ込んでいった。すでに日は西に傾いている。ここから私はバスで9時間かけてポンサリーへ行ったのだ。車だと何時間で行けるのだろうか?そんなに早いのだろうか?鉈先生はまだ『そんなに遠くない』と言っているが、本当に前回もここへ来たのだろうか?王さんが急いでいる様子を見ても、そんなに近いとはとても、とても思えないのだが。

 

山道をぶんぶん飛ばしていくが、残念ながら高速道路のようなわけには行かない。トラックなど大型車量を追い抜くのも一苦労だった。途中でトラックが停まっていた。見ると周囲からバナナが取られて運ばれてきており、ここで積み込まれている。この辺でバナナが作られているのはちょっと意外だった。それほど中国から近いわけではないが、バナナ栽培に適している要素がこの辺にあるのだろうか。日は更に傾き、いよいよ暗くなり始めてきた。

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夜道を2時間ほど走った。暗いのでどこをどう走っているのか分らなかった。9時ごろになり、ついに車が停まった。どこかへ着いたのかと思ったが、ご飯を食べるのだという。もう西双版納を出て12時間以上が経っているが、本当に今日、着くのだろうか。魚入りの濃厚なスープがやけに美味かった。疲れはかなりの状態になっており、野菜炒めは食べたが、ご飯は少なめとなる。そして王さんがここのオーナーと何か話を始めた。そして車でどこかへ向かう。鉈先生は『あと2時間ぐらいで着くだろう』などとのんきなことを言っていたが、そんな状態ではない。

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着いたところは、村はずれの場所。そこにゲストハウスがあった。王さんが『今晩はここに泊まろう。もう限界だ』という。やはりそうだろう、私の2か月前の経験から言っても、とてもポンサリーなどへは行けない。部屋は道路沿いの小さな宿としては、きれいであり、泊まるのに支障はなかった。私はシャワーを浴びるべきだったが、疲れたので、ここがどこかも分らないまま、そのまま寝てしまった。Wi-Fiが繋がらなかったのも一因だった。

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4月9日(土)

行先変更

翌朝は早めに起きて、ロビーでネットに挑戦。今やラオスの田舎でもWi-Fiは普通の存在だった。ただ容量が少なく、繋がらないことが多いだけ。ここに泊まっている若者は中国語ができた。中国人もいた。外へ出ると、向かいの家は農家だった。トラクターに座り、女の子が幼児をあやしている。ラオスでは兄弟の面倒を見る子供は大勢いるが、なぜか気になる子であった。

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車で出発した。すぐに曼約という街に着く。ここも2月に通過した記憶がある。正直未だここまでしか着ていないのか、という思いである。そこで朝ご飯を食べる。薪で鍋に湯を沸かし、麺を入れて茹でている。素朴な麺が出来上がる。お湯をもらい、茶葉を入れて、茶を飲む。鉈先生はここでも民間交流を展開するが、相手は興味を示さない。

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1時間半ほどでボーヌアまで来た。ここからポンサリーまでは50㎞ちょっと、ようやく目的地が見えてきたが、鉈先生は『ポンサリーに行かないで直接茶産地へ行こう』という。茶産地はポンサリーではないのか、それはどれぐらい離れているのか。そんなに近くないという言葉は既に幻となっている。ここでバナナを仕入れ、そして昼ご飯として、焼き魚と焼き鳥を買う。これを買うということはこの先に食べるところがない、と王さんの表情に出ていた。

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確かにここからの道は良くなかった。道路工事現場もあった。途中で葬式の準備をしているところがあったが、その先にはやはり家はあまりなかった。土砂崩れが起こっているところもあった。何とか麺を食べる店を見つけて、ランチを取る。そこでさっき買った焼き魚を食べると結構イケル。ついに烏太の街が見えたのは朝出発してから5時間近くが経っていた。これでもまだ『近い』とは、もう誰も言えないだろう。しかし車はここで停まらなかった。目指す村はここからまだまだ先だったのだ。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(2)こんな所にもシルクロードが

西双版納

空港に着いくと、荷物がなかなか出てこない。私の荷物は何と一番最後に出てきた。なぜだろうか。それにしても深夜に大勢の人が空港に居るものだ。空港には鉈先生のパートナーである中国人王さんが迎えに来ていた。彼ら2人の中国語での会話は微妙に食い違っていたが、なぜかそれでも通じ合い、意思疎通ができていたのはなんとも不思議だった。語学は通じることが一番だ。この日はホテルへ送ってもらい、明日の出発時間だけを決めて、鉈先生をしり目に、すぐに寝込んだ。

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4月8日(金)

翌朝は7時に起き、ホテルで朝食。雲南らしく、麺線があり、麺を茹でてもらったら、後は自分で好きな具を入れ、味付けして食べる。朝から食べ過ぎになってしまった。このホテルは雲南の農墾集団が経営していた。農墾といえば、中国各地に存在するかつての屯田兵。戦後余った兵士の行き場として、辺境の防御と開墾に従事した一団で、今では豊富な土地と資金で、大規模な開発などを手掛けている。

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8時にはチェックアウトして、銀行を探した。実は私は前回のシベリア鉄道の旅で中国の銀行カードを曲げてしまっていた。160時間も列車に乗っていれば、そんなことも起こるだろう。ATMに入れてもし引っかかって出てこないと文無しになってしまうので、銀行窓口で現金を下ろしたかった。だが私の銀行口座は北京が本店の銀行で、何と西双版納には支店は1つもなかった。鉈先生には、人民元は私が払います、などと大きなことを言ってしまったのだが、それは出来なくなってしまった。仕方なく鉈先生が現金を下ろし、出発した。ラオスでも取引は人民元なのである。

 

それから3時間、高速道路だと言われながらも、人が歩いていたり、車が脇から突っ込んでくる道を制限時速100㎞で走っていく。いくつもの長い橋が架かっているのは、元々このあたりに山や谷が多いからだろう。きっと難工事だったに違いない。しかしこの道の脇には、更に本当の高速道路を建設している。これが出来るとラオス国境までは2時間で行くようになるというのだが、現在の道をちゃんと整備すれば済む話のようにも思える。とにかく未だに、中国はインフラ建設ラッシュなのである。特に国境は予算が付きやすいのだろう。

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国境の街 モーハン

モーハンはタイやラオスの田舎によく見られるダラッとした街並みだった。東盟大道(アセアン大通り)というのがメインストリート。取り敢えず昼飯を食べるために入ったレストランは清真飯店だった。ヒジャブを被った女性が調理場に立っていた。回族なのだろうか?周囲を散策すると、西安とか蘭州とか、かつてのシルクロードの地名がいくつも張られていた。なぜかトラックのナンバーも西安のある陝西省から来るものが多いように見えたのは、ただの気のせいなのだろうか。

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シルクロードと一口に言っても、我々が普通に思い描く道は、いわゆる新疆ウイグルを通るオアシスロードであるが、その他にも北上したステップロードや海の道でもシルクは運ばれた。そして全く注目されてはいないが、恐らくは西安から南下して、雲南経由でビルマへ抜けたルートも存在していたはずだ。そしてそれは今でも健在だという証がここに見られる。この辺境の地に来て、ロマンを掻き立てられるのはなんともうれしい。

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車は国境で停まった。ここからは歩いて国境を潜る。何とも緊張感のない出国だった。入口のところでは、両替屋さんが何人か立っていた。人民元をラオキープに替えるところがないため、このような商売が成り立つらしい。ラオスに入ると人民元を受け取らない店もあるだろうから、これは必要悪だと言える。

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中国側を出たところには免税店もある。かなりきれいな店内には、酒やたばこなど、ラオスにもっていく土産がたくさん売られていた。そもそもこの国境、分不相応に立派である。中国の国境にはよくあることがだが、相手国に対するこけおどし、ということだろうか。人間は早く出てきたが、車はそうはいかない。チェックが厳しいようで、そこで結構な時間を待つ。その間にも、トラックがどんどん通っていく。ラオスに向かうトラックの荷台は空が多い。ラオスから帰るトラックには、バナナが積まれているものが多くみられた。ラオスでバナナが作られているのだろうか。

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ラオス側も相応に立派な建物だった。ラオス人や中国人はイミグレでお金を渡していた。一瞬賄賂なのかと思ったら、パスポートでなく通行証(両国人のみ有効)の場合、1万kの支払いが義務付けられていた。私たち外国人はすんなり通過した。そこは早かったのだが、その先に税関があり、車が集中していた。作業効率も相当悪いようで、いつまで経っても車は出発できない。もうすぐ水かけ祭りなので、その影響もあるのだろうか。ただボーとするしかない。

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結局昼前にはモーハンの国境についていたのだが、食事をして国境を越えるのに3時間かかり、出発したのは午後3時になってしまった。走り始めてすぐに車が停まる。何と車両保険を買いに行っている。ラオスでは保険加入が義務付けられており、入らないで走っていると相当罰金を取られるらしい。その保険は外資系であり、ラオスではどういう仕組みが働いているのか、よくわからない。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(1)フライトディレーも這って西双版納へ

《鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016》  2016年4月7日-4月15日

2月初めのラオス行きは苦難の果てにミッションを果たせず終了した。何とも悔しい思いを抱えてさらに苦しい茶旅を続けていたが、そんな中、2月のラオス行き指令を出したSさん(以降鉈先生)から、『4月にラオスに行こうと思う』との連絡が入り、『リベンジ』を胸に参加することにした。ただ決め手は『タイからバスで入るよりずっと近いですよ、雲南から車で入るのですぐです』という鉈先生の言葉だったが、これを信じた私はバカだった?

4月7日(木)
1. 西双版納まで
フライトディレーで

今日の日程はかなり過酷なものだった。エアチャイナで上海-昆明、更には東方航空で西双版納まで一気に進む。まずは朝4時に起きて始発電車で成田空港へ向かう。当初は成田に泊まらないと間に合わないかと思っていたが、京王線の始発電車がいつの間に早まっており、頑張れば間に合うことが分かる。それもいつもと違うルートが速い。渋谷から半蔵門線で押上へ出て、そこからアクセス特急に乗れば、7時には成田空港へ到着するのだ。何だか普段より早い気がする。料金も変わらないので、この始発は使えるな。

 

成田空港で鉈先生の到着を待つ。フライトは8:55。1時間半前にはチェックインが完了し、順調に滑り出した。このフライト、北京拠点のエアチャイナがなぜか上海へ行く。朝が早い成田、ということもあり、料金が非常に安い。恐らく普通の北京往復の値段で昆明までの往復ができる。前回は3月に羽田発7:05というフライトに乗ったがガラガラだった。今回もそうかと思っていると、ほぼ満席。ちょうど桜シーズンだからだろうか。機内食で斬新な唐揚げ麺が登場したのは面白かった。色々と工夫はしているが、エアチャイナの機内はCAが客を管理する感じが捨てきれない。客はなぜ文句を言わないのだろうか。

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上海には昼過ぎに到着して、荷物を一度取り、国内線カウンターでチェックインし直す。普通は乗り継ぎカウンターなるものがあるのだが、それもない。浦東空港、どうなっているのだろうか。そしてカウンターでチェックインしようとすると『お客様のフライトは2時間のディレーです』と告げられる。もし2時間ディレーしてしまうと、昆明から西双版納への乗り継ぎが不可能となり、日程が大幅に狂ってしまう。

 

何とかならないかと何度も交渉したが、ここは上海、エアチャイナの昆明行きはこの一便しかなく、代替できなかった。しかしこの国のやり方は『諦めないこと』だ。その内責任者が出てきて相談が始まり、ついには『15時の南方航空が昆明に行く。現在満席だが、もし空席があれば乗せてもいい』ということになった。ギャンブル的なウエーティング?面白い、それに賭けてみよう!ということになる。

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まだだいぶ時間があったので、暇つぶしに永和豆乳大王に入り、豆乳を飲む。1杯7元で1時間以上粘ってしまう。今や中国人の方がお金持ち、みんな50元もするランチを食べている。さぞや貧しい日本人に見たことだろう。でも腹も減っていなかったので仕方がない。そして出発40分前にカウンターへ行き、おじさんに南方航空へ連れていかれ、カウンターで聞いてくれると、何とあった、2席のみ!

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しかしすでに出発30分前だ。荷物検査は当然長蛇の列、ここに並んでいては折角確保したフライトに乗り遅れてしまう。ここはVIPゲートへ直進してチケットを見せるとすんなり通過できた。こういう急ぎ客は必ずいるものだ。急いで搭乗口まで行くとまだ搭乗は始まっていなかった。機内に入ると、我々の席は本当に一番後ろ。まさにぎりぎりの搭乗だったのだ。これは運が良いと言わざるを得ない。

 

エアチャイナに比べて南方航空のサービスは洗練されているように見えた。少なくともCAに笑顔があり、その顧客の要求に対する対応が柔らかい。機内食は美味しいとは言えないが、トレーを廃して、ボックスで配るのは簡単でよい。席が一番後ろということは皆がトイレにやってくるので、私の席の横は人だらけになり、ひどい目に合う。これもディレーの代償だった。

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昆明空港に着くと、元々予約していたエアチャイナ便より早く着いてしまったので、西双版納行の便を早められないか、乗り継ぎカウンターで聞いてみたが、なんと『ここでは分らないので一度外へ出てチェックインカウンターへ行け。但しかなり混んでいるので席は保証できない』と言われ、愕然となる。時刻表を見ると西双版納行は何便もあるのだが、そんなに乗客がいるのだろうか。仕方なく当初予約の21:50発のフライトを待つことにした。

 

昆明空港は何とも広い。そのフライトはその一番端から出発するということで、長い道を歩いた。既に相当に疲れがたまっており、眠さも加わっていた。やはりこれはかなりの強行軍だった。しかし私が決めたわけではない。ただ付いていくだけ、それが私のポリシーだ。ついに搭乗時間となり、確かに満席のフライトは僅か50分ほどで西双版納に着いた。勿論機内食などなく、水が一本配られただけだった。

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スリランカ紅茶の買付茶旅2016(16)さようならスリランカ

午後散歩

そのまま午前中は宿で過ごす。やはり余程疲れていたのだろう。特にやることがなかったので、旅行記などを書いて過ごす。部屋でネットが繋がらないので集中してできてよかった。昼過ぎになり、やはり腹が減る。取り敢えず散歩しながら食べ物を探すことにして宿をチェックアウトした。今日の夜中のフライトでバンコックに戻ることになっており、それまで如何に時間をつぶすか、に苦心する。

 

海辺の方へ歩いていく。暑いが風があり、何とか歩けそうだった。ビーチには相変わらず大勢の人々がいた。その周辺ではいくつものホテルが建設中であった。確か初めて来た4年前に、すでにシャングリラホテルの建設は始まっていたような気がするのだが、なぜかいまだに建設中だった。2015年には開業するとその時聞いていたので、相当に工事は遅れている。その間に、他の有名ホテルも次々に名乗りを上げており、かなりの競争になりそうだった。

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ただ地元の人によれば『ホテルが沢山出来ても、ホテル代が下がることはないだろう。むしろ上がる方向だ』という。何とも不思議な話だ。コロンボの一流ホテルは、他の国のものと比べて、相対体に設備やサービスの割には高い、というのが定説だった。ちょっとしたホテルは皆100ドル以上で、中級ホテルがない、というのも問題で、宿探しには苦労する。これからどうなるだろうか。

 

そのまま歩いていくと懐かしのゴールロードへ。4年前にあったボロボロのホテルも今や取り壊されて新しいホテル、ハイアットが建設中だった。ここで突然思い出したのが、以前訪れた日本食レストラン。あの時の感激が忘れられず、探してみると、今も健在でそこにあった。思わず入ってみる。中もほとんど変わっていない。ただ変わったのは料金だけ。昼の定食が1200rpから1700rpに大幅値上げとなっていた。これを見ても、スリランカの物価が如何に上がったかを推測することができる。しかも4年前は円高だから、日本円で1000円ぐらいに思えたものが、今では2000円近くする感覚になる。

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食事そのものは美味しいと感じられた。サービスは相変わらず、男子店員が英語で行っているが、これも悪くはない。昼を過ぎていたのでお客は多くなかったが、日本人の観光客、駐在員と思しき人もいた。確かアジアのベストレストラン50にも選ばれており、スリランカ人と日本人のハーフの人がオーナーだと聞いたが、今はどうだろうか。ここに座っているとスリランカにいることを忘れてしまう。

 

それからガイドブックを見て、紅茶屋さんを探す。コロンボで飲める美味しい紅茶屋さんが紹介されていたが、昨日一軒断られた?ので、他も見てみることにした。湖沿いにその店はあったが、中に入ってもお客はいなかった。いや、実は2階では誕生日会が開かれていたのだが、下の階は静かだった。ここはマークウッドが経営するティハウスだった。

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歩き疲れていたので、邪道のような気もしたが、思わずアイスティを注文する。これがまたほんのり甘くて実に美味しい。ごくごく飲んでしまった。ネットも繋がるのでしばし休憩して、パソコンに向かう。するともう動く気力がなくなり、長い間、そこに根が生えてしまった。アイスティだけでなくライムジュースもお替りしたことは言うまでもない。

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その後もう一軒のティハウスを探して歩きまくったが、どうしても見つからなかった。既に閉店したのか、私が道を間違えたのかは分らない。仕方なく疲れたので来たバスに乗ってみる。これが有り難いことにペダー行であり、一本で宿まで戻ることができた。ロビーでしばし休息した。

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そして最後の夕飯を食べに出た。大衆食堂に入り、コッティローティを再度食べてみたが、あまりに量が多く、また疲労感がすごく出てしまい、殆どを残してしまった。結局スリランカに来た時と似たような状況に逆戻りしてしまった。我ながら激しい旅だったな、とつくづく思う。宿に戻りロビーでネットをする。隣の席でフランス人の若者が大声で故郷の家族に彼の興奮を携帯で伝えている。あまりにうるさいのだが、誰も止めない。彼の喜びがどこにあるのかわからないが、そんな心境が分らなくもない。

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8時頃、スマが迎えに来てくれた。今回彼とは時間が合わず、会えないで帰ることになると思っていたが、空港まで送ってくれるというので、甘える。彼はキャンディの自分のお寺に戻ることすらままならないほど、多忙を極めていた。優秀な人材は、どんどん使われていく、いや使わないとスリランカの未来はない、ということだろうか。

 

私のフライトは午前1時40分だが、午後9時には空港に着いてしまい、スマとはすぐに別れた。少しするとチェックインカウンターが開き、出国審査を終え、待合室へ。免税店では中国人が紅茶など土産物を盛んに物色していた。中国行のフライトは一番端に設定されていたのがおかしかった。完全に隔離されている。その横には香港行きもあり、香港人がぶ然とした表情でフライトを待っていた。バンコック行は定刻に出発し、翌朝無事にスワナンプーン空港に到着した。今回の旅はこうして終わった。かなり疲労があったが、それは心地よい疲れに変わっている。

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スリランカ紅茶の買付茶旅2016(15)コロンボフォートとペターを歩く

10.コロンボ

歴史的な宿へ

コロンボの中央駅であるコロンボフォートは他の駅に比べれば大きな駅ではあったが、それでも中央駅と言ってイメージするほどの大きさではなかった。ただ駅前は東南アジアの駅、という感じでごちゃごちゃしており、方向性も分らなかった。取り敢えず乗客について歩き出したが、皆すぐにどこかへ行ってしまい、取り残される。

 

私は宿を決めていなかった。先日来の旅で、大きな駅前には手ごろな宿が必ずある、という法則を見出していたからだった。だが、この駅前にはどうもそんな感じのホテルは見られない。しかも山と違って、異常に暑く、耐えられない。仕方なく地球の歩き方を開くと、YMCAが近いとのことだったので、行ってみることにした。

 

フォート地区の比較的きれいな道を行く。すると、忽然と歴史的建造物が現れた。それがYMCAだった。あまりに古さにビビってしまったが、暑いので他を当たる気力もない。1882という数字が見えるから、100年以上前からここにあるのだろう。広いが薄暗いロビーの天井には扇風機が回っていた。ものすごくのどが渇いており、思わず冷蔵庫に入っていたコーラを飲ませてもらうほどだった。

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エアコンなしのドミトリー、ベッド1つが1500rpと言われたが、とても耐えられそうにない。エアコン個室、バストイレ付きを希望すると、突然7000rpになってしまったが、もうどうにでもなれと、そこに決める。エレベーターもない建物で、4階まで上がるのはちょっと大変だった。その奥行きもかなり広く、どれだけの人が泊まれるキャパがあるのか、想像すらできない。ただとにかく古いし、すごく清潔、という感じはない。

 

それでも部屋は窓もあり、予想以上ではあった。すぐにクーラーをつけて涼むと極楽気分だった。昨日まで山の天然の涼しさを体一杯感じて過ごしていたのに、都会に出るとすぐにダメになってしまうは辛い。ネットがロビーでしか、繋がらないのが、田舎を思わせる。ロビーまで行ってネットする気力がなく、しばし呆然とする。

 

少し腹が減ったので、外へ出てみた。駅と反対の方へ歩いていくと、おしゃれな店が数軒ある。更には観光客用のレストラン街も用意されており、ちょうど旧正月中の中国人観光客が押し寄せていた。私はどこかでネットを繋ぎたいと思い、ちょうどあったきれいなカフェへ入る。

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ここはデリマが経営する紅茶屋さん。折角なので、紅茶飲んで、ケーキでも食べようと思ったが、何と警備員のおじさんに『ネットは繋がりにくいから、向こうの店へ行った方がよい』と言われてしまいかなりメゲル。ガイドブックにも載っているお店なのに、何という対応だ。裏から追い出されたような気分。

 

仕方なく、カフェレストランへ入ると、なかなか雰囲気がよい。スパイシーチキンサンドが滅茶苦茶うまく感じる。紅茶も本格的で、お替りしたくなるほどだった。スリランカはこうでなければ、いけない。ソファーに座り、かなり長い間パソコンを使っていたが、店員は何も言わなかった。

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宿まで帰ると、やはりロビーはかなり暗いので、部屋に引き下がる。部屋にはちゃんと電気ポットがあり、紅茶のティバッグ、更には大きなパウダーミルクまでが用意されている。ここで淹れた紅茶は何ともうまかった。熱いシャワーを浴びて、エアコンをガンガンにかけて就寝した。いい気分だった。

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2月14日(日)

散歩

翌朝はやはり早く目覚めた。日曜日だが、何となくざわついている。小さな窓の隙間からヒルトンホテルが見える。この宿の立地はやはり素晴らしい。そう思い、外へ出てみる。朝はそれほど暑くもなく、散歩に適している。周囲は植民地時代の建物が立ち並び、その中に一部新しいビルも作られている。

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コロンボフォートの歴史は古く、16世紀初めにはポルトガル人がやってきて、その後オランダが占領して、要塞を建設した。現在残る建物は基本的にイギリス統治時代のもの。フォートは植民地時代の政治経済の中心地だったが、1980年代に行政の拡大に伴い、政府機能はコロンボから新首都である、スリジャヤワルダナプラコッテに移転され、今はその面影を残すのみとなっている。フォート北部には港もあり、今でも稼働している。

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時計台のあたりから、街が少し変化する。スリランカ一の商業地区にペターに入った。ここは完全な多民族の街。ヒンズー教、仏教、イスラム教が併存しており、各宗教の寺院があり、様々な人々が行き交っている。昔のコロンボがどのような場所だったのかを、何となく垣間見た気がした。

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朝が早すぎて、どの店もシャッターが閉まっている。少し駅の方へ近づくと、野菜などを売る市場があるが、朝ご飯を食べたくなるようなものは見当たらなかった。パンが食べたかったが、甘いものか、カレー系の揚げパンだった。かなり疲れてしまい、結局朝飯も食べずに宿へ帰り、寝入ってしまった。

 

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(14)コロンボまで列車旅

2月13日(土)
9.コロンボまで
長距離列車の旅

朝は6時台に、鶏の鳴き声で起きた。朝日がまぶしい。少し霧のかかった茶園が窓から見え、なんとも好ましい。何しろ駅のすぐ横に泊まっているアドバンテージは大きい。慌てる必要もなく、ゆっくり過ごしていた。だがいざ出発の時間になって、急にトイレに行きたくなるなど、ちょっと緊張感がなかった。疲れていたのかもしれない。外に出ると天気は良かった。鍵を返して駅へ向かう。

 

駅の入り口はかなり込み合っていた。切符を買うための長い行列ができている。こんなに人が乗るのだろうか。何とか人垣をすり抜けて、ホームに達すると、そこには白人バックパッカーや観光客の姿もあった。また中国人の鉄道オタクと見られる2人連れが、しきりに写真を撮りまくり、1つ1つの場所について、何やら確認していた。私もシャッターを押す。残念ながら、日本人の姿はなかった。

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定刻を少し過ぎたころ、列車が入ってきた。意外と正確な運行がされている。1等車は後ろの方で待つ。大勢の人は前の方の3等車へ。自由席なのか、我先に乗り込む。私は悠々と乗り込み、指定された席に着く。乗客はそれほど多くはない。主に白人の観光客が乗っており、ほんの少しだけ、スリランカのお金持ちの夫妻がいた。1等車両は1両しかないようで、隣は2等車だと言われたが、座席が少し良い以外は、それほどの違いは感じられない。これなら料金が半分である2等の指定席で十分だったと気が付いたが、後の祭り。まあ、折角なので1等列車の旅を楽しもうと思う。

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車掌がきちんとした制服を着こんで、切符のチェックに回ってくる。この辺はイギリス仕込みだ。さすが1等車、エアコンはかなり効いており、ずっと乗っていると寒くなる。テレビ画面もあり、インド映画が映し出されている。これがなかなか面白くて、見入る。列車はミャンマーほどではないが、やはりゆっくりと走っており、基本的に各駅停車、特急やら急行やらはないように見える。朝早かったので、皆思い思いに寝込んでいる。

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今回この列車に乗ったのには理由があった。それは車窓から茶畑がきれいに見えると聞いたからだった。30分も走っていくと、ところどころに茶畑が出現してきた。緩やかに曲がるカーブから車両が見えて、何ともよい感じだ。ただ車窓から写真を撮ろうと思うのだが、うまくは撮れない。よい風景があれば、乗り降り口まで行き、停車中にそこから乗り出して撮るしかない。これが3等車なら、元々ドアがないから、自由自在だったろう。1等は不自由だ。そこには常にカメラオタクの白人が陣取っていて、なかなかうまくいかない。しかも車掌が鍵を開けない限り、このドアは閉まったままだった。

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列車から茶畑を眺める旅、それは残念ながら退屈なものだった。窓が開かないため、香りが飛んで来る感じはない。一面の茶畑がずっと続く訳でもない。30分も見ていれば、もういいや、という感じになる。恐らく茶畑を見るだけなら、ヌワラエリアからキャンディまでの3時間も乗れば十分だろう。

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その内に腹が減ってくる。朝から何も食べていなかったことに気付く。だが、この列車には食堂車などは付いていない。そしていわゆる車内販売などもない。白人観光客は、宿泊先ホテルからランチボックスを調達しており、ぼちぼち食べ始めていた。たまに停まる駅でも食べ物を売っている雰囲気がなかった。どうするんだ、コロンボまで9時間もあるんだぞ。すると、停車駅から若者が乗り込んできて、ペットボトルの水や飲料の販売を始めた。取り敢えず1本購入した。50rpは高いか。

 

そして次の駅ではホームに物売りの姿があった。見てみると、揚げ物を売っている。まずは食糧確保を優先し、最小限の食べ物を乗り出して買ってみる。正直昨日から疲れが出ており、食欲はさほどない。揚げ物を食べる気にはなれなかったが、他に方法がない。だが食べてみると意外にうまい。そうこうしているうちにハットンに着いた。ここは先日クマさんたちとの茶園巡りの中で通り過ぎた街だった。私はスリランカのこの付近の地理がほとんど頭に入っていなかったが、随分と遠かったんだな、としみじみ思う。いや、列車の速度が遅く、車の方が速いということだろうか。

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キャンディまではハプタレーから5時間半ぐらいかかった。ここではペラデニアジャンクションというのがあり、一度キャンディの街に入ってから、また出てきて方向を変える。この辺は鉄道マニアのツボ、らしく、何台ものカメラが設置され、この駅で一度降りて、折り返してきた同じ列車に乗り込むものもいた。キャンディの街は以前の記憶からすると、ビルが増え、随分と発展しているように見えた。他の駅が大きくなかったので、巨大な街、巨大な駅が出現したような印象を受けた。

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勿論ここで多くの観光客が降りて行った。私も列車の旅に飽きていたので、降りてみたかったが、列車料金がコロンボまで行っても、ここで降りても変わらなかったことから、もったいないと思い?そのまま乗ってしまった。更には降りても宿を探すのが面倒だった、というのが本音かもしれない。

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ここから先はかなり単調な風景となり、携帯の電池も切れ、もう眠るしかなかった。因みに充電器は車両に幾つもなく、充電の機会を逸してしまった。少しずつ都会に近づいているように見え、また田舎の農村風景に戻り、そんなことが繰り返されていた。そして時々停まる駅の乗客がやはり少しずつ洗練されてきて、若いカップルが仲良くベンチに座っている風景なども見えてきた。ルアさんの家のあるガンバハも通り過ぎた。そして午後4時過ぎ、ついに列車はコロンボフォートに入った。

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スリランカ紅茶の買付茶旅2016(13)リプトンが作った茶工場

ダンバッテン工場

そしてついに7㎞の道のりを歩き通し、ちょっとした集落に入り、ダンバッテンの茶工場が見えてきた。リプトンシートから2時間はかからずに降りてきたことになる。確かに白人の若者たちが何人か歩いていたが、実はそれほど大変な道のりではなかったのかもしれない。私の場合、突然バスから降ろされて、歩けと言われたので、そのショックが大きく、覚悟がなかっただけかもしれない。

いずれにしても工場に入れば、お茶は飲めるし、休息も取れるだろうと思ったが、それはある意味で間違いだった。工場の門は開いていたので、中に入る。まずはトイレに行こうと思い、探すがなかなか見つからない。おばさんがこっちだと手招きしたので、ようやく用を足した。工場の一番端にあったのだが、出てくると、おばさんがチップをくれという。こんなのは初めてだった。ここは観光地化されているのだろうか。

工場に行き、紅茶が飲みたいというと、『テースティングはない』と素気無く言われ、『ティショップもないので、ここではなにも飲めない』と冷たく言われてしまう。せっかくここまで来て、お茶も味わえないのは正直ショックだったが、仕方がない。何とかお茶は買えないかと、聞き返すと、マネージャーが呼ばれてきて、箱に入ったBOPを無造作に差し出す。これを購入してあとは諦める。

この工場はトーマスリプトンが1890年ごろに、スリランカで初めて建てた茶工場として有名らしい。そういうことで世界中から観光客が来る。その対応は有料の工場見学のみで、テースティングは付かない。何とも味気ないものだった。私はクマさんの買付についていった後だったこともあり、それでは到底満足できずに早々に引き上げることにした。因みに見た感じではリプトンを思わせる物は、ここには殆どなかったが、いまだにここで作られた茶はリプトンが大量に購入しているとの話も別途聞いた。

ここからはバスがあるはずだと、探していると、急に汽笛のような音がした。そこまで急いでいくと、今まさにバスが出ようとしていたので、慌てて乗り込む。バスに下校途中の小学生などが乗っていたが、観光客はほんの少しだけだった。来た道と同じところを折り返していくのだが、午後の日差しは強く、かなりの暑さだった。汗だくなるが勿論冷房などない。途中からは人が沢山乗り込んできて、車内は一時満員となり、その暑さが半端ない。

30分後にバスは見慣れたハプタレーの街に入ったが、ここが終点ではなく、人が次々に乗り込んできて、降りるのに苦労した。街中は山とは違い、暑さがひどかったので、すぐに宿に戻る。そして腹が減っていたので、そこでコーラを飲み干し、サンドイッチを頬張る。まあ、とにかく相当の運動の後の爽快感があった。そこから眺めていると、ちょうど列車がやってきて、人々が降りてきた。列車の人々もドアを閉めない3等車では、白人が足をブラブラさせて、乗っていた。エアコンなどないのだろう。一見のどかな光景であることには違いはないが、何となく怖い。

街歩き

もう疲れたから、今日は休みと思ったが、まだ少し体力が残っており、夕方散歩に出た。もう一度駅舎へ行くと、線路が夕日に照らされてきれいだった。再度コロンボまでのチケット代を確認してみると、何とここからキャンディまで行っても、コロンボまで行っても、料金は変わらなかった。しかも2等車になると、どこへ行ってもすべて同じ料金、こんな体系は初めて見る物で、ちょっと驚いた。

私は帰りのエアチケットのコピーを持っていないことに気が付き、プリントできるところを探した。インドほどではないにしろ、空港に入る時、チケットを提示しないと面倒だと考えたのだ。だが、この街でプリントやコピーのできる店はあまりないようだった。街中をクルクル歩いてみたが、見付からない。1軒だけ看板が出ていたが、そこは閉まっており、なぜか数人の男がそのシャッターをこじ開けようとしていた。なんだろうか。ようやく見つけた写真屋で無事プリントができたが、それもかなり時間が掛かった。

それからこれまで歩かなかった、丘になっているところを登ってみる。この辺には安宿があるようで、白人がバックを背負って登っていく。ヒンズー寺院が下に見え、教会が横にある。降りてくると、線路脇で野菜を売る人がいる。その向こうの商店では酒を売っている。スリランカでも酒の販売はかなり厳しく取り締まられていると聞いていたが、確かにどこでも酒が買えるわけではないらしい。

夜は近くの店でブリヤニーを食べたいと思ったが、何と売り切れだった。仕方なく別の店を探していると、何となくうまそうな匂いがしてきたので、そこへ入る。コトゥロティという食べ物を注文してみる。これはロティを刻んで、肉や野菜を一緒に炒める物で、ちょっと中華的な雰囲気がある。ピリ辛で美味しいのだが、一人が食べる量としては、多過ぎ、腹が異常に膨れた。チャイも飲んで暗い夜道を退散した。

宿に戻ると、ロビーに白人など数人が座り、ビールなどを飲んで楽しそうに話していた。挨拶だけはしたが、その輪に加わる気力がなく、早々に部屋に入り、寝てしまった。翌朝起きだしてみると、ちょうど女性が部屋から出てきたのだが、なんと彼女は日本人の一人旅で、昨晩から私が日本人だと気付いていたらしく、『おはようございます』と言われたのが、とても新鮮だった。そろそろ疲れがピークに来ていた。彼女はリプトンとシートに向けて出発した。既に私より多くの情報が頭に入っていた。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(12)リプトンシートに這って上がる

10:30にバスは満員で出発した。この小型バス、かなりの年代物で、シートも壊れかけていたが、とにかく席があったので、特に問題はなかった。バスはすぐに上りに入り、茶畑は見えた。景色は良いし、天気も良い。何だか遠足気分だった。山道を30分ぐらい行くと、ダンバッテンの茶工場を過ぎた。そこにはトゥクが沢山停まっていた。やはりここからリプトンシートへ行く人はこれに乗るしかないのだ。私はラッキーだったと思ったのだが。

そこから10分ぐらい行く。どこにシートはあるのだろうか、シートとはどんなものだろうか、トーマスリプトンがここに来た、というのだから、立派な山小屋でもあるのだろうなどと思っていると、車掌が突然降りろ、という。シートはどこだ、と聞くと、遥か山の絵上を差して、ここから歩いて行け、というではないか。どう考えても騙された思いだった。降りたのは私だけだった。バス代は50rpだが、その代償は大きかった。事前調査の旅というのはこのような危険がある。あとで見てみると、リプトンシートの2.5㎞前あたりで降ろされたらしい。

本当に周囲に家もない、人気もないところにポツンと降ろされ、去っていくバスを見送った。仕方がないので指さされた方、茶畑の階段を下りて、山へ登る道を歩いていく。すると、周囲が一面すべて茶畑になる。天気も良く、空気もよく、茶の香りがする。まるで春の野でお花畑を歩いているかのような気持ちよさがあった。歩いているとさっきのバスのことなどすっかり忘れてしまうほどだった。茶摘みも行われているが、私の他には誰もいない。何という贅沢な時間だろうか。

途中でゲートがあった。トゥクが止められ、入場料を払っている。私はその横を通り抜けようとしたが、何と歩いて上るものからも50rpを徴収した。一体この上には何があるというのだろうか。その内、上りがきつくなる。横を数台のトゥクが通り過ぎたが、山の小道は切り返さずに曲がることはできないほど狭かった。トゥクには中国人のカップルや、白人女性などが乗っており、風を巻き起こして進んでいった。太陽は燦々と照り付け、熱さを感じるようになってきた。

私は道を外れ、茶畑の中の階段を上ってみた。もっときつかったが、他の方法がなく、無理やり登り切った。それでもまだ頂上には着かない。もう止まってしまいそうな勢いになったころ、ついにトゥクが駐車しているところが見えた。車も停まっている。あまりに疲れたので、まずは小屋があるところに上がる。水を持っていかなかったので、水分補給が必要になる。小屋では注文すれば紅茶が出てきた。何とも有り難い。勿論お茶の品質などは問わない。50rp。おやつも出てきたが、それには手を付けなかった。それほどまでに疲れていた。

リプトンシートと言われるものは、崖の先端にリプトンが座っている像があるだけで、完全に期待外れだった。トーマスリプトンは1890年ごろ、スリランカにやってきて、この辺を調査した、その時に休んだ場所、そして友人たちを案内した場所だ、と説明されていたが、本当にここに来たのは1度ぐらいではないのだろうか。それほどに何もないし、今やってきても大変なところだ。単にここで景色を眺めて、休んだというのならよくわかるがどうだろう。小屋の上には展望台のようなものが作られ、皆はそこに上がって、周囲を見ていたが、私はそんな気にもなれない。元々高所恐怖症だし、風も結構強かった。それよりはとにかく休息が大切だ。

何しろ、他の皆さんは見学が終わると早々にトゥクに乗って降りていく。だが私には乗せてくれるトゥクはないのだ。歩いて降りる以外に本当に方法はなかった。しかもその道のりは下りとはいえ、先ほどバスを降りた場所より、はるか先、7㎞の道のりでようやく茶工場に着くのだ。これはいくら天気が良いと言ってもかなりの距離だ。

ダンバッテンまで歩いて降りる

それでもここにずーっといてもやることはない。とぼとぼと山を下り始めた。上りに比べれば下りは楽だ。軽快に降りていく。茶畑の水路の補修をしているおじさんがいた。茶畑でこんな人を見ると、日常を感じる。30分ぐらいでバスを降りたあたりまでやってきた。やはり早い。だが暑い!そこでは茶摘みを終わった女性たちが、茶葉を持ち込み、マネージャーが計量をしていた。これで一日の稼ぎが決まるのだ。皆真剣だった。マネージャーは若い男性、彼は英語も出来たので、少し話を聞いた。最近は天気が不安定で、収穫にばらつきがあるようだ。人件費などコストはどんどん上がっていくが、茶価は一向に上がらない、そんな不満も漏らしている。

小さな教会もあった。茶摘みをしているタミル人はヒンズー教徒だとおもっていたが、改宗などが進んでいるのだろうか?マネージャーたちはキリスト教徒なのだろうか。その先ではまだ茶摘みを行っていたが、なんと摘んでいる人の中に何人か男性がいた。これもまた珍しい光景だ。聞いてみると、最近は男性の摘み手が増えているという。仕事の機械化が進み、男性の仕事が減少したからだろうか。女性が減少しているのだろうか?

道路脇で弁当を食べている子供がいた。小学生だろうか、こんな大自然の中、茶畑を見ながら弁当を食べる!いいなと思い、私も持っていたビスケットを出して食べてみる。結局1時間ぐらい歩いて、初めてまとまった集落を見る。特に問題なく歩いてきたのだが、何となくホッとする。その先の道には沢山の学生が道を下っていく。こんな通学経路、羨ましいとしか言えない。茶葉を運ぶトラックが通り過ぎる。周囲がすべてお茶に見える。