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シベリア鉄道で茶旅する2016(1)シベリアの旅は蒲田から

《シベリア鉄道で茶旅する2016》  2016年3月7日-24日

 

S氏の壮大な企画。それは北半球の一番南の駅から一番北の駅まで行くという、とてつもない旅だった。そして第2回のミャンマー編では腰痛でダウンし、3回目の中国編では極寒の中国を震えながら縦断した。正直この過酷の旅を続けていく自信はなかった。だが乗り掛かった舟、しかも未知の国、ロシアへの旅、そしてシベリア鉄道にも乗れるとあって、やはり行くことにした。それに万里茶路も気になる。

 

1. 北京まで
ロシアビザ

中国とモンゴルは観光ならビザは要らない。だがロシアは違う。しかもそのビザ取得は相当に面倒だと聞いていた。ところが昨年ぐらいからロシアの旅行行政は劇的に改善されていた。従来はまず旅行会社で全旅程のホテル・交通手段のアレンジをしてもらい、そのバウチャーを持ってロシア大使館へ行き、ビザを取っていたという。当然旅行に自由はなく、現地では常にインツーリストのスタッフが付いてくるとか。およそS氏の旅のスタイルとは180度違っていたが、そうするしかなければ仕方がなかった。

 

今は、ネット上の旅行会社にバウチャーを申請すると、10米ドル程度の費用でバウチャーが発行され、それを持って飯倉のロシア大使館へ行くと、ビザが出る。ビザ代は2週間待てば無料だが、4日待ちで4000円だった。特急だと10000円とか。経済の悪いロシアは完全に外国人誘致に乗り出している。ロシア大使館へ行くのも初めてだ。周囲は物々しい警戒態勢が曳かれており、写真を撮るのも憚られる。

 

領事部は相当に混んでおり、1時間ぐらい待たされたが、係官は極めて事務的で、ビザ申請には何の問題もなかった。中には春休みにヨーロッパへ行く学生が安いアエロフロートのモスクワ経由で行くのに、トランジットビザを取りに来ていたので驚いた。モスクワにはいくつも空港があるようで、違う空港で乗り換えるなら確かにトランジットだろうが、なんと彼らは同じ空港内での国際線乗り継ぎなのに、ビザがいると言われていた。モスクワとは一体どんなところなのだろうか。ちょっと不安になる。

 

前泊

3月5日にお茶関係者のセミナーがあった。半年前に要請を受けていたのだが、そのタイトルは『万里茶路を訪ねて』。その時はこのセミナーの前までにはロシアまでの全行程は終わっているという前提だったのだが、メンバーの日程が合わず、何とセミナーは『サンクトペテルブルクまで行っていない旅』になってしまった。何とも申し訳ないが、仕方がない。そのセミナーもなんとか終わった次の日の夜、私は蒲田へ行った。

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明日の朝7:05発北京行の便に乗ることになっていたのだが、私の最寄り駅から羽田空港まで始発で行っても6:03にしか着かない。勿論うまくすれば間に合うのだが、もし何か問題があれば飛行機は行ってしまうのである。これでは折角付いていく決意を固めたのに、S氏とNさんに迷惑を掛けてしまい、申し訳ない。前日最終便で羽田まで行き、空港内のベンチに寝るという選択肢もあると聞いたが、これからの厳しい旅を考えると、体力は温存したい。結局空港近くに前泊することにしたのだが、空港内には宿泊施設は少なく、蒲田駅前に宿をとった。

 

日曜日の夕方、JR蒲田駅へ行く。ホテルはネットで予約したが、ビルの5-6階にあり、部屋は予想以上に広く、そしてきれいだった。コンビニで食料などを買い込み、シャワーを浴びて、テレビを見た。世界卓球が行われており、男女ともに中国にまた勝てなかったが、確実に近づいていることを感じる。既にバドミントンなど他競技での優位性が無くなる中、なぜ卓球だけは持続的にこんなに強いのだろうか、中国は。

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3月7日(月)

空港へ

朝は4時過ぎに起きた。外では雨の音が聞こえた。羽田空港までは、当初京急蒲田駅まで歩き、そこから空港線に乗ろうと思っていたが、何とJR駅前から直通バスが出ていることを知った、始発は5:10で30分以内には着くというので、これを利用しとした。ところが5時前にバス停に行くとすでに多くに人が雨の中傘を差して、バスを待っているではないか。これは乗れないかも、と不安になるが、並ぶしかないので、荷物が濡れる中、じっと耐えた。

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出発時間直前にバスが来た。280円。外国人の利用もあり、なかなか列が進まない。何とか乗ることができたが、本当に超満員で出発した。雨はますます強くなっている。子連れで立っている人は大変だった。ベビーカーで乗り込むなど不可能だ。このような交通機関、何とかしないとこれ以上外国人を受け入れるのは難しいだろう、と感じる。勿論運転手は外国語ができるとは思われず、質問にも四苦八苦。バスは一般道を通る。車など走っていないので、スイスイと行き、20分後には空港に着いた。国際線で降りる人は実はあまりいなかった。一体どこへくのだろうか、みんな。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(14)活気のない昆明茶葉市場

 茶葉市場で

その茶葉市場には10年前に一度来た記憶がある、老舗の市場だった。向かい側には立派な門構えの雄達茶城というのがあったが、何だか立派過ぎてテーマパークのようで入り難い。鉈先生も古い方の茶市場には行ったことのある茶荘があるはずだというので、そちらに入る。昆明でもとにかく茶葉市場が広がっている様子はよくわかる。

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だが午後のひと時、市場内は閑散としていた。店の人々もあまりやる気が感じられず、中には麻雀に興じている女性達までいる。今は茶のシーズンではないのだろうか。我々はラオス・雲南と厳しい旅を続けてきており、出来立ての茶葉をたくさん見てきた。魚でいえば、ここにある茶葉は鮮度が低いように見えてしまう。それはやはり、この市場のどんよりとしたムードと関係あるかもしれない。

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2013年以降、腐敗汚職撲滅運動が盛んになり、高級茶葉の売り上げは激減している。プーアール茶は高級茶葉の代表格だから、当然その打撃は大きい。本当に素晴らしい茶葉はそれでも売れるだろうが、バブルで舞い上がった茶葉は、どんどん落ちて行ったのではないか。それでもまだこれだけの茶荘があるのが不思議なぐらいだ。そして贈答品が減った言いながらも、包装屋さんはまだまだ多い。いずれにしても中国人はパッケージがよくなければ買わない時代がやってきているのを実感する。

 

私はフィーリングで茶荘に入る。どこを見ているのかは自分でも分らないが、ここだな、と思えるところへ突然入る。今回も大きな茶荘が沢山ある中、なぜか細い道にあった、何の変哲もない茶荘に入った。そこには赤ちゃんをあやしている若い女性がいた。彼女はお茶を淹れてくれたが、お茶には詳しくないと言い、ご主人を呼んできた。彼もまた若い。しかも聞いてみると地元雲南の出身ではなく、安徽省の出であるらしい。開業してまだ1年ぐらいとか。

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彼は昨日まで茶産地を回っていたという。そこで得た茶を淹れてくれたのだが、その中で野生紅茶と言って出された茶が実にうまかった。これは一体なんだ、と思ったが、彼によれば古茶樹の葉を使って紅茶を作ったのだという。雲南紅茶は有名であり、過去にもおいしいものを飲んだ記憶はあるが、これほどの物にはなかなか出会えない。来年はぜひその産地へ連れて行ってほしいと依頼したが、果たしてご縁はあるだろうか。

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帰りは地下鉄に乗ってみる。金星駅まで少し歩き、そこから昆明駅まで乗ったのだが、何と昆明駅へ行く人は、一つ前の駅で降りるようにとの、メッセージが張られていた。一体これは何だろうか?全く意味が分からない。折角なので敢えて昆明駅まで乗ってみた。確かにここで降りる人は少なかった。地上へ出ると、何と昆明駅の裏だった。しかも工事中で、昆明駅へ入ることはできない。これでは駅という名前では付けられない。そこには我々のような困った人のために、ちゃんと三輪車が待っていた。これに乗らなければ相当の道のりを歩かなければならないのは明白。5元だというので乗り込むと、大きく迂回して、線路を越え、また大きく戻って駅の近くで降ろされた。ちょうどこの辺は、12月にS氏とNさんと三人で寒さの中を歩いた場所であり、懐かしさがこみ上げる。

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部屋に戻ると疲れがどっと出た。夕飯はホテル内のレストランで早めに食べた。スープが名物と言われたが、それほど美味しいとは思わなかった。やはりホテルの食事は値段も高い。コスパは良くないと言わざるを得ない。食後は未だ明るさが残る中を散歩したが、特に目立つものはなかった。疲れがたまっており、また翌朝も早いので早々に寝てしまった。

 

4月15日(金)
鉈は

翌朝は早かった。7時台のフライトで北京へ向かうため、国内線とはいえ、1時間以上前には空港へ行く必要があった。このホテルの良いところは、空港行のバスが出ていることだった。タクシーを探す必要もない。前日フロントに始発時間を聞くと『5時だが、早めに来れば・・』と歯切れが悪かった。仕方ないので、4時40分には下に降りてチェックアウトした。外を見るとちょうどバスが入ってきた。

 

25元のチケットを買って、荷物を横のトランクに押し込み、バスに乗り込む。まだ発車まで間があるというので、トイレに行く。ところがロビーのトイレには鍵がかかっていた。フロントで鍵をもらってトイレに入り、またバスに向かった。ところがバスに乗ろうとしたところ『満員だからもう乗れない』と車掌が言う。私は荷物を預けており、友人も乗っていると言ったが、何と鉈先生の横にはすでに若い女性が座っているではないか。仕方なく、荷物を下ろして、次を待つ。

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次のバスも5時過ぎに出発したので、特に問題はなく、5時40分には空港に到着した。だがすでに空港にはかなりの人がいた。何とかチェックインを済ませたが、荷物チェックにも随分と時間が掛かった。そこを抜けるとたまたまラウンジが使えたのでそこへ入ってみた。すると係りの女性が『あなたの荷物の中に不審なものが入っているとの連絡がありました』というではないか。

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なんだろうと聞いてみると『包丁のようなものらしい』というので、それは鉈先生が少数民族から買った鉈だとわかる。慌てて、『それは小型のナイフで、危険ではない』と説明して何とか理解してもらった。普通なら没収だっただろう。何しろここ昆明では鉄道駅で殺傷事件があったので、殊の外敏感になっている。この先北京でも同じように問題になる可能性があったが、何とか事なきを得た。羽田でも問題はなかった。

 

北京まで行き、そこで羽田行に乗り換え、夜無事に到着した。しかし今日も長い一日だった。というか、今回の旅は本当に一日が長かった。この旅を乗り切ったことは非常に有意義だったが、なんとこの5日後にはまた中国が待っていた。もう疲れたよ、体は言っているのだが、これも流れだ、仕方がない。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(13)昆明で食べた西紅柿鶏蛋炒飯

 10. 昆明
5星ホテルに泊まるも

空港からは地下鉄も通っているようだったが、鉈先生が予約したホテルは昆明駅のすぐ近く。そこには地下鉄が繋がっていなかった?聞くところによれば、運休しているらしい。なんで?まあ荷物もあるし、空港からタクシーに乗る。道は空いており、高速道路をすいすい走る。前回の昆明は12月の寒い日、しかも午前1時過ぎだった。やはり駅に向かったのだが、その寒さは今思い出してもぞっとする。勿論今日は穏やかな気温だった。

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30分ほど揺られて、タクシーはホテルに着いた。錦江飯店、何とも懐かしい名前だ。30年前の上海留学中、当時上海で一番のホテルだった。我々の憧れであり、留学先の大学からバスを乗り継ぎ、1時間半は掛けて行ったものだ。そこには日本の食品も売っていたし、コーヒーも飲めた。夢の空間だった。

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そのホテルの昆明店が目の前にあった。やはり80年代に作られたらしい。上海のホテルグループがなぜここに進出したのかはよくわからない。いずれにしても、最近こんな立派なホテルにはご縁がない。何となくうれしくなる。ここは鉈先生がフライトを予約した時に安かったのでついでに予約したという。グッドジョブ、と言いたい。

 

フロントに行くと、若い男性が英語を使っている。こちらが中国語を使っても英語で話そうとするのはちょっと鼻につく。そしてその対応は何ともお粗末だった。なかなかチェックイン作業は進まず、その末に、『部屋が掃除中だから、ロビーバーで待っていて』と言われてしまう。まあ仕方がないか、と応諾して、腹が減っていたので、外へ出た。まずはランチを食おう。

 

雲南風の食事に飽きていた我々、小籠包という文字に引き寄せられて、ふらっと入り込む。そこで小籠包と一緒に頼んだのが、西紅柿鶏蛋炒飯。これはある意味でチキンライス、いやオムライスの変形だったが、これが何ともうまい。浙江省出身の親父がやっている店だったが、小籠包そっちのけで、この炒飯に食いついた。鉈先生もうまいという。これは新発見、これからはこれを食べよう。しかも10元とお値打ち。

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食堂の横には携帯屋があった。私はこの旅の前に壊れたカメラを買い替えていた。その画面にテープを張る作業は中国で頼むと実に安い。1回10元程度で丁寧にやってくれるので、それを頼む。若い女性が本当に丁寧に仕上げてくれた。それを見た鉈先生も自分のIpadを出してやってもらっていた。こちらは画面が大きいので、25元かかった。こういうサービスは実に良い。ホテルのサービスは?

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ホテルに戻るがまだ準備中ということで、無料のドリンク券をもらって立派なロビーバーへ。ところが注文できるのは、まずいお茶かレモン水のみ。これではせっかくのサービスが逆効果ではないだろうか。これでも5星ホテルなの?と訝ってしまう。まあホテル代が安いんだから仕方がない、と諦める。ようやく部屋が空き、入ってみると、なんとも狭い。シングルに無理やりベッドを入れたのだろうか。そしてあまりにも古い。だから料金が安いんだと合点した。

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銀行は遠かった

取り敢えず銀行を探すことにした。例の曲がってしまったカード、何とか人民元を下ろして鉈先生への支払いをしたい。ネットで検索すると、昆明にその銀行の支店は10もあった。一番近いのはホテルの前の道をまっすぐに歩いていくだけだったので、散歩も兼ねて歩き出す。午後の日差しが意外と強い。これがタイなら、4-5月は1年で最も暑い時期だから、当たり前か。水掛け祭りもそのために行われるのだ。

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ところが住所は分っていたが、その距離感が掴めておらず、かなり歩いても到達しなかった。この通りの下には地下鉄も走っているのだが、なんとその駅3つ分を歩くことになってしまった。しかもようやくたどり着いたその住所に銀行はなく、斜向かいに引っ越してもいた。支店前に辿り着いた時には本当にホッとした。そして待合スペースにはコーラなどが無料で置かれていたので、一気に飲み干す。

 

そしてカウンターで聞いてみると、やはり同じ銀行でも北京で発行されたカードは北京でしか交換できなかった。仕方なくその場で現金を下ろそうとすると、カウンターの女性が『この支店に是非新しい口座を作って預金を移してください。そうすればカードも発行できますよ』とセールスしてきた。これまで中国の銀行で、このようなセールスを受けた記憶がない。少しずつサービス概念、いや銀行の柔軟な儲け主義がはびこり始めたか。

 

鉈先生が『確かこの辺に茶葉市場があったはずだ』というので、銀行で聞いてみると『歩いていくのは大変だが、タクシーなら近い』と言われたので、タクシーを捕まえて行くことにした。また鉈先生の『近い』が出た。特にやることもなかったのでちょうどよい。運転手は我々が日本人だとわかると、なぜか喜んで次々に質問を始めた。日本への関心はどんどん高まっているのを感じる。10分ほどでその茶市場に到着。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(12)水掛け祭りの西双版納

 8. 西双版納
版納郊外に泊まる

それから3時間ほど、山道を行く。1か所、朝のように事故かと思われるところがあったが、何とか通過することができた。山道は本当に怖い。もし道が塞がれてしまえば、いつ復旧するかわからない。他に道がなければお手上げとなる。10年前は易武と版納は車で5時間近く走った記憶があるので、だいぶん近く、いや速くなったようだが、ルートは変わっていないように思える。

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版納市内は渋滞があった。平日の夕方だからというより、水かけ祭りの式典などがあったらしい。15日の本番には花火なども上がるのですごい人になるという。ただ規制により、水を掛けられるのは15日の1日のみということで、助かった。勿論版納の宿はどこも満員となっている。では我々はどこに泊まるのか。王さんは知り合いを当たり、宿を確保してくれたが、それがどこにあるのかわからない。

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我々は版納市内の渋滞を抜け、建設中のマンションを横目に見る。未だにマンション建設が盛んに行われているところに危うさは感じられるが、すでにバブルは崩壊しているのだろうか。気が付くと市内を通り抜けてしまった。一体どこへ向かうのだろうか。市内から10㎞近く離れた、飛行場の向こう側まで行く。ここに何があるのだろうかと心配になった頃、レストランが見えてきた。ここが今日の夕飯の場所だった。道路沿いだが、池があり、魚が飼われている。新鮮な魚を食べさせる店のようだ。スタッフが池に入り、魚を網で捕まえている。

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魚のスープは美味かった。他の料理も予想以上の美味。こんなところになんでうまい店があり、彼らはそれを知っているのだろうか。やはりここのオーナーは知り合いであり、オーナー自らが料理をしているので、味が保証されている。しかし毎日毎日、どう見ても食べ過ぎだ。昆明ではセーブしなければ。

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一緒に食事をしたのは、西双版納に住む茶荘の夫婦。昨日の晩からずっと一緒に行動していた。ご主人は以前会社を経営しており、日本企業との付き合いもあったと聞く。東京や大阪へも行ったことがあり、日本の商慣習なども理解していた。最近日本へ行く中国人が激増している事実にも『中国に飽き足らない中国人が増えており、これだけ安くて品質の良いものがある国へ簡単に行ける時代だ。行くのは当然だ』と言っていた。

 

食事が終わり、宿へ案内される。ここは版納市の隣町である。そこで誰かを待っていた。ようやく一人の女性を乗せ、我々が向かったところは、どう見ても農村地帯。暗くてよく見えないが、畑が広がっていた。その先に集落があり、何とそこに宿があった。商務酒店と書かれてはいたが、これは地元の人の親戚などが来た時に使う宿なのだろう。ビジネスマンが来るとはとても思われない。フロントでチェックインを済ませ、部屋へ行くと意外と広い。これでこの時期、1泊180元なのは、やはりロケーションがよくないからだろう。ネットも1階でしか繋がらなかった。

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まあ取り敢えず、水かけ祭りの影響もなく、泊まれるだけでも有り難いと思う。王さんは別の知り合いも泊めているらしく、しばらく階下で話し込んでいた。この時期は実は皆さん、忙しかったはずであり、6日間も付き合ってくれて感謝の言葉もない。これも鉈先生との長年の関係のなせる業だろう。シャワーを浴びてゆっくりと寝入る。

 

4月14日(木)
空港へ

翌朝はゆっくり起き上がる。もう車に乗る必要もないと思うと、気持ちが軽かった。部屋の窓には鉄格子が嵌っていたが、そこから日が登るのが見えた。こんな朝も珍しい。この宿の周囲を見渡してみると、なんとも言えない味がある民家が並んでいた。ここは昔ながらのタイ族の村なのだろうか。もう少しゆっくりとこの辺を散策したかったが、もう王さんのお迎えが来てしまった。

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今日はついに版納を離れ、昆明へ向かう。昨日昆明行きのフライトを王さんに頼み、旅行会社が苦労して発券してくれた(外国人向けチケットを発見したことがなく、ローマ字で打ち込むなど、勝手が違っていたようだ)。ハイシーズンということでなかなか安いチケットがなかったが、朝の便、そして首都空港という聞きなれない航空会社で何とか750元で収めた。決して安くはないが、仕方がない。

 

宿から空港までは10分ぐらいだった。あっという間に盟友王さんともお別れだった。空港に入ると、チェックインカウンターは長蛇の列。何とかチェックインして、厳しい荷物検査もクリアーして、搭乗口へ。その途中にはプーアール茶を売る店もあり、同慶号などの老舗ブランドも見られた。

 

飛行機は満員の乗客を乗せて、飛び立った。首都航空、聞いたことはあったが、確か乗ったのは北京-包頭線かな。航空会社の統合再編で、こんな所にも飛んでいるのか。勿論何の問題もなく、昆明空港に到着。時間はまだ朝の11時だった。ただタラップを降りると、ターミナルへ向かうバスが1台しか着ておらず、乗客全員をそこへ押し込もうとして、かなりの時間を使ってしまう。そして最終的に乗り切れずに発車。積み残された乗客はどうなったのだろうか。昆明空港は中国第4のハブ空港にすると言われているが、ハード面はともかく、ソフト面の対応はかなり杜撰だと言わざるを得ない。これは航空会社の節約術によるものかもしれないが、効率の悪さが目立っていた。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(11)丁家塞 漢族が作る茶畑

 4月13日(水)
8. 張家湾

今朝もよい目覚めだった。意外だったのは鉈先生が二日酔いもなく?起きてきたことだった。お酒に強いとは思われないし、昨晩の感じではとても起き上がれないと思っていたのだが、さすが鉈先生!今日は早々にこの宿をチェックアウトして、朝ご飯を食べに行く。朝早くから建物の建設工事が行われている。水かけ祭り前の追い込みだろうか。鉈先生はお粥が食べたかっただろうが、残念ながら、朝ご飯はきしめんのような麺だった。ラオスとは麺もスープも少し違っている。

 

車で10分ぐらい行ったところに、『易武 中国貢茶第一鎮』と観光用に書かれたゲートがある。ここが易武の入り口なのだろうか。記念写真を撮るために停まったと思っていたのだが、実は昨晩一緒だった西双版納在住者を待っていた。今日も一緒に行動するらしい。どこへ行くのだろうか?

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合流してから、2台の車で山道を進んでいたが、30分ぐらい行ったところで、突然前の車が停まった。何事かと思って前を見ると、車と車の間から、横に倒れ掛かっているトラックが目に入る。こりゃ大変だ。他の車の運転手たちも駆け寄っていったが、完全に道は塞がれてしまっていた。相談の結果、この道を戻って、他のところへ行くことになる。元々どこへ行くつもりで、これをどこへ変更したのか、全く分からないが、ただただ車に揺られていくだけだ。旅にハプニングはつきものだ。

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そして30分ぐらいで着いたところは、張家湾と書かれた山間の村だった。ここは一体どこなんだろうか?何とそこは清代に入植した漢族が住む村だった。古い家が並ぶ村の中では茶作りが行われている。雲南山中の茶作りは基本的に少数民族がやっているとばかり思っていたが、ここは歴史からして違う。ただよくよく聞いてみると、ここに住み始めたのは最近で、元はもっと山奥の茶産地のところで暮らしていたらしい。ある意味で『こんなところに漢族がなぜ?』という番組のような疑問が沸々とわいてくる。

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王さんの知り合いの家に入る。家族が総出で出迎えてくれる。というか、日本人が来たというので珍しかったのだろう。庭先でたちまち出来立ての茶が振る舞われる。昨晩落水洞に居たおじさんも一人着いてきていた。きっと彼の導きでここに来たのだろう。何ともすごいネットワークだった。

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そしてそこからまた車に乗った。山道を30分ほど行くと、茶畑が見えてきた。昔彼らが住んでいた丁家塞という場所だという。当たり前だが周囲には本当に何もない。僅かに茶工場があり、民家が少し残っているだけだった。250年以上前、本当にここに漢族が入植したのだろうか。とんでもないところへ来てしまった、と思ったはずだ。いや、漢族と言っても茶作りの技術を持っていたのであれば、恐らくは雲南の他の山間部から移住したので、驚きはなかったかもしれない。

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案内してくれた男性は言う。『我々の祖先は清の乾隆帝の命を受けて、ここに入植し、皇帝に茶を献上したのだ』と。そんな歴史がここにはあるのだろうか。易武が栄えたのは清代、それも乾隆帝以降だと思われるが、そこにはどんなドラマがあったのだろうか。そしてその後廃れていったこの地域が復活してきた様子も知りたいところだが、知るすべがない。ここに居ても何も見えては来ない。

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茶畑を見ると、なんとも不思議だ。植え方もまだらで整ってはいない。株ごとにぼこぼこと生えている。品種もばらばら、とても多くの種類が混在しており、同じものを摘んで集めるのは無理があるように思うほどだ。茶摘み自身も大変そうだ。ミャンマーの山の中で見た光景に似ていた。農薬とか化学肥料とかいう言葉とは無縁の世界が広がっている。エコ、という言葉も空虚に聞こえる。

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なぜこんなことが起こっているのだろうか。説明によれば、特に茶畑を管理していなかったから、というが、勿論昔から生えているわけではないだろうから、何か理由はあるはずだ。そんなことがとても気になる。歴史を紐解くヒントにでもなるだろうか、とつい思ってしまう自分がいる。いずれにしても、あの事故がなかったら、ここへ来ることはなかったのだから、これもやはりご縁、茶縁なのだろう。

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昼ご飯は街道沿いのレストランへ。横に川が流れているのは、茶産地のお約束。地元料理が並んでいる。茶も淹れられる。少し雨が降り出したが、また皆が集まってきて、楽しく食べる。さすがに昼間のこと、酒は断った。野菜が新鮮でおいしかった。食後は鉈先生が持ち込んだ、日本の高級手もみ茶を振る舞う。が、殆どの人は一口飲んで去って行ってしまった。やはり口には合わないのだろうか。皆元の席に戻り、自分たちの茶をすすっている。そしてここで皆さんとお別れして、ついに西双版納に戻ることになった。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(10)落水洞の古茶樹と茶農家

まずは言われた通りに坂を上っていったが、そこには高さもばらばらの茶樹が植わっている茶畑が広がっているだけであとは何もない。道を間違えた、と思った頃にはかなり上まで登ってしまっていた。ただそこからは易武の街がよく見えた。この辺の茶畑は誰が管理しているのだろうか。

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坂を下りて、別の道を行くとすぐにかなり大きな木が見えた。相当の樹齢の大木の下に、その碑はあった。『馬帮貢茶萬里行』と書かれたその碑、茶馬古道という文字はなかった。それには何か意味があるのだろうか。この周囲はかなり雰囲気がある場所だった。風水的にはいいのだろうか。ここから細い道が下っているが、この場所が元々どんなことに使われていたのかもわからない。ただその細い道を降りていくと、すぐに先ほどの博物館がある、広場に出てきた。道が分かっていたら、簡単にたどり着けたのだ。ちょっとした表示でもあればよいのだが、そこは中国だ。

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そこに戻ると鉈先生と王さんが私を探していた。碑の存在を伝えると、2人は確認しに行った。そこで私はもう一度古い道を通り、その下の村を散策した。ここにはかなり古い家々が立ち並んでいる。特に目立つ建物を見ていると、易武武装暴動遺跡という文字が見える。この建物が何だったのかは書かれていないが、どうやらここを共産党が解放した過程の遺跡ではないかと思われる。愛国教育重点基地なのだろう。ただ現実にこの山奥で国共内戦中何があったのか、それは茶葉の製造、出荷にも大きく影響したことだろう。この辺の歴史が分かってくるとプーアール茶の世界が少し見えてくるような気がする。

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広場の付近の街沿いの家は一見古そうだが、実はそれほど古くはない、と王さんは言う。数十年前に大火があり、殆どが焼けて落ちて再建されたらしい。同慶号などの老舗ブランドの名前があるが、ここは店舗なのだろうか。閉まっているので、何もわからない。観光用かなと思われる。鉈先生たちが碑を初めて見たと言って、戻ってきた。碑に特に意味はないが、知っていてもよいだろう。

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落水洞へ

車は街中を抜け、山間部へ向かう。王さんが『落水洞へ行くよ』というので、そこはどこかなと付いていく。私にはその程度の認識しかないのだが、プーアール茶がご専門の方々にはなじみの地名だろう。20分も走ると『生態古茶 第一村』と書かれた碑が道路わきに見えた。ここが落水洞か、随分と近いのだなと感じる。

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そしてここには樹齢千年の古茶樹があるというので、そこへ歩いていく。周囲には灌木の茶樹が植えられており、手摘みする人の姿も見られた。古茶樹については入り口のところに注意書きがあり、色々と制限があった。道路脇からすぐのところに囲いに囲われて、その木がひょろっと立っていたのはちょっと意外であった。これで生態系が守れるのかな、とかなり不安になる。

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標高は1460m、昔はかなりの山の中だったのだろうが、今や道路脇。木の葉っぱもほとんど見られない。見学者は何人もやってきている。勿論この付近、もう少し入ったところには古い茶樹が生えているのだろうが、本当に千年も経っているのか、と少し疑念を持つ。ただ恐らく茶の起源は易武あたりであったろうと言われているので、その可能性は否定できないが、その歴史は不明である。

 

それから落水洞の茶農家を訪ねた。こちらでもまさに茶作りが行われていた。その忙しい中、王さんの知り合いが、公民館を開けて、我々のために茶葉の飲み比べをさせてくれた。出来立てのお茶と昨年のお茶、場所が違う茶葉を淹れてくれ、飲んでみた。出来立ての緑茶は当たり前だが、かなり強いので沢山は飲めない。ところでここは麻黒村に属するようだ。麻黒村もプーアール茶の世界では有名な産地であり、この付近が一大産地であることはなんとなく分かってきた。

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農家に戻ると早めの夕飯が始まった。農家の食事はいつ食べても美味しい。煮つけのようなものがあったり、鶏を煮込んだものも新鮮だった。発酵食品もあり、ご飯と一緒にかき込んだ。お決まりのように、地酒が登場し、勧められる。私は断ったが、鉈先生はここでも民間外交を開始、どんどん飲んでいく。誰が誰だかよくわからない近所の人、親戚の人、そこへ来たお客が参加している。ほぼ言葉が通じていないのに、どうしてこれほど仲良く酒が飲めるのか、と思うほど、お互いにぎやかに酔いしれている。

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私はお茶を頂きながら、2階のベランダへ出た。そこではやはり茶葉を干し、そして炒めていた。茶作りは始まったばかりだったのだ。茶農家で出来立てのお茶を、地元の美味しい水で淹れると、なんとも言えない、茶旅を感じる。私はこのためにこれまでの険しい道を歩んできたのだろう、と勝手に認識する。

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名残惜しかったが、酔っぱらった鉈先生を引きずるように車に押し込み、宿へ戻っていく。部屋のある2階まで上がるのも大変なほどだったので、当然ながら、そのままベッドへバタン。私も合わせてバタンと寝る。鉈先生、なかなかやるな。今日も一日が長かった。そしてその内容も濃かった。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(9)10年ぶりに易武へ

《鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016》  2016年4月7日-4月15日

 4月12日(火)
6.易武まで
銀行は休みだった

モーハンの国境を越えて中国に帰ってきた。ここからすぐに西双版納に向かうこともできるのだが、それでは面白くないので、私のリクエストにより、易武方面へ向かう。ラオス側のお茶事情が少しわかったので、今度は雲南側の状況を知りたいと思った。易武はちょうど10年前、何のツテもなく突撃を試みて、バスの切符売りのお姐さんに止められるといういわくつきの場所だった。

 

10年前の易武はそれほどまでに田舎だった。ちょうどプーアール茶ブームが起こり始めていた時期であり、茶工場が作られていた。だがその後、原料となる茶葉が確保できないことなどから、大規模工場は他へ移動したと聞いている。今回の目的は現在の易武がどうなっているのかを知ることであった。

 

国境を越えて中国側に入ると、鉈先生が『人民元を調達しよう』と言い出し、近くの銀行へ向かった。だがどこの銀行も閉まっている。実は本日から4日間は、水かけ祭りで祝日になっていた。これは完全なローカルルールだ。中国は広いのでこのような地域性のある休みが時々見られる。特に少数民族への対応として、各民族の祭りには気を使っている。というか、それで漢族も休んでいる。

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銀行のATMで現金を下ろそうとしたが、すでに機械の中に現金はなかった。あまり多額の現金を入れておくのは危険だということだろうか。勿論なくなれば補充などはない。おじさんが『あっちのATMには現金があるぞ。但し手数料が高いけどな』と教えてくれる。なるほど、手数料もばかにならないため、皆よく考えた上で、機械に向かっているらしい。我々にはその余裕はなく、即座に手数料の高い機械から現金を取り出した。確かに他行ATMで1回あたり20元も30元も取られるのは辛い。

 

道路はラオスに比べればかなりよくなっている。そして山の中に入っていっても、道は良い。望天樹という、景観区が近くにある。その付近のレストランに入り、ランチを取ることにした。何とそこに『野象の出没に注意』との看板があったのには、驚いた。本当にいるのだろうか、野象が。結局象を発見する機会はなかったが、この付近は野生動物の宝庫であることには間違いはない。

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レストランの形式はラオスでも雲南でも変わらなかったが、プレハブの小型体育館にテーブルがまばらに置かれているは、ちょっと不思議だった。そしてその地で採れた新鮮な野菜や肉を出すのが売りだった。では地鶏をぜひ食べたい、というと、今から絞めるのでちょっと時間が掛かるし、1羽単位だよ、と言われて、仕方なく断念する。それは美味しそうで、豪快だったのだが。

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7.易武
宿探し

そこから2時間以上走り、ついに易武に到達した。10年前の易武はここが街かというほど、閑散とした、実にのんびりした印象だったが、今では建物もそれなりに建っており、人もそこそこ歩いている。それでも大きな街という印象ではない。メインロードを中心にこじんまりした山間の村、といった感じだろうか。

 

まずは今日泊まる宿を探す。実は水掛け祭りが始まるということは、故郷に帰る人、観光に来る人で、多少込み合うことが予想されていたので、急いで探し始めた。だが、元々大きなホテルなどもなく、小さな宿がいくつかしか見えない。そしてそこは皆、今日は予約でいっぱいだよ、と断られてしまった。これはちょっと意外だったが、今の中国の観光シーズンとはこんなものなのだろう。

 

ちょっと坂道を上ったあたりの小さな宿にふらっと入り、聞いてみると、『今ちょうどキャンセルが出たから泊まれるよ』との答えだったので、部屋も見ずにそこに泊まることに決めた。その宿の名は茶友賓館だった。まあ、これも1つの茶縁だろうか。荷物を置いて、すぐに出発となる。

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茶馬古道の起点

どこへ行くのか分らなかった。前にも来たことがあるという鉈先生だったが、『なんかさっき茶馬古道の起点、と書かれた表示があったが、あれは何だろう』という。ここ易武が雲南から北京やチベットへ馬で茶葉を運んだいわゆる茶馬古道の起点であることを知らないのだろうか。いや、彼らはそれを歴史として知っていても、茶葉の買付に来るだけなので、そのような観光的要素は頭から排除され、見学などすることもないようだ。商売人とは元来そのようなものだろう。

 

道路標示通りに行くと、ちょっと古い家などが見えてきて、その奥が広場になっていた。博物館があるはずだったが、大規模改修中で見ることはできなかった。広場には摘んだばかりの茶が天日干しされていた。如何にも茶産地といった風景が見えて喜ばしい。その先の小道はかなり古そうな雰囲気を醸し出していた。石畳の古道、そこに同興号など、古い茶荘の名前がかかっている。

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その古道を歩き始めると、すぐ下に、復元されたとみられる福元昌号なる茶荘があった。きっと歴史上有名な茶荘なのだろう。ここもまだ改修中。この付近によく写真で見る『茶馬古道の起点』という碑が立っているはずなのだが、どこにもそれは見えない。探しているうちに鉈先生とははぐれてしまった。取り敢えず意地になり、その碑を探す。地元の人に聞いてみたが、かなり訛りの強い普通話が返ってきた。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(8)ラオスで感じ、考える

5. ウドムサイ
中国人の街

結局4時間ほどかけて、まだ日のあるうちにウドムサイに入った。何だかそれだけでうれしい。今日はここに泊まることとなる。鉈先生は前回もこの街に泊まったようで、かなり立派なホテルにチェックインした。1泊44ドルの部屋が豪華に見えるのは、我々のこれまでの苦闘の旅がなせる業である。久しぶりに街に来た、という感じがよい。

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街自体はそれほど大きくはない。前回シムカードを買った店の横にホテルはあった。この辺は特に中国系が多い場所で、恐らくはこのホテルの資本も中国からのものだろう。中国とラオスの交差する街ウドムサイは、今や完全に中国人の街と化している。夕飯も当然のように中華レストランへ行く。結構広い店内は中国人で溢れていた。料理も中国なら、言葉も中国語であり、ここにはラオスの要素が全くない。ある意味で中国を感じさせないのは鉈先生ぐらいのものだった。

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食後、街を散歩してみるが、2か月前と特に変化はない。前より暖かくなっていることぐらいだろうか。もうすぐ水かけ祭りだが、あれはタイ族の祭りであり、この付近ではあまり見られない。ただバンコックなど大都市でもイベント化しているので、ここでも大型の水鉄砲が売られており、当日は多少の水掛けがあるのかもしれない。その水鉄砲ももちろん中国製であった。

 

鉈先生は道端の屋台でマンゴを買った。鉈で切って食べると意気込んでいたが、ついには車の中に置き去りとなってしまい、どんな味だったかはわからない。ホテルに戻るとそのイルミネーションが中国の街のように輝いていた。暑いシャワーを心行くまで浴び、夜はフカフカのベッドでゆったりと眠る。幸せな気分になれる一瞬。

 

4月12日(火)
国境までに考える

翌朝は当然のように早く起きたが、散歩する気力もなく、ただ何となく過ごす。疲労がかなり溜まっており、もし私一人ならここにもう一泊したのではないだろうか。ボーっとネットをやっているとすぐに時間は過ぎ、階下で朝食を食べる。王さんは既に食べ終わっており、散歩に出た。ホテルの内装などは立派だが、朝食は比較的簡単だったので、粥をすすって終わりにした。

 

8時半前にはホテルをチェックアウトして、今日こそは中国へ戻る。ラオスに入ってからはや5日目、これまで中国へ戻るのを心待ちにすることなどなかったが、今回は取り敢えず中国へ戻りたい、そしてこの旅を早く終わらせたいという気分になっている。それがどうしてか、自分でもわからなくなっている。

 

車は5日前に来た道を戻っていく。ポンサリーからの山道に比べれば、平たんであり、道も悪くない。何となく文明に近づいている感覚になる。今の中国が文明的かどうかはかなり疑問だが、物質的な豊かさは、人間の心理に大きく影響していることは当然だろう。ただそれに蝕まれてはいけない、そう思うのだが、つい便利さを求め、楽な方を選び、それを心地よいと感じてしまう。何となく修行者のような気分になり、そんなことを考えながら車に揺られていった。

 

1時間半ほどで行くと、来る時にも寄った少数民族の物売り屋台が見えてきた。鉈先生はまた車を停め、先日の女性を探したが今日はなぜかいなかった。赤ちゃんにチェキを向けると、大泣きされて困る。するとお兄ちゃんが寄ってきて、彼をなだめ、一緒に写真に収まっている。なんだかとても家族だな、と思ってしまう。

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ここに居る人々はもしやすると物質的には恵まれていないようだが、精神的には我々より十分に恵まれているのかもしれない。退屈な日常生活から微かな喜びを見出すこと、それが本当の幸せではないか、とふと考えてしまった。そんな気にさせるのも、ラオスという独特の場所にいるためだろうか。

 

鉈先生は彼らの持ち物を物色して、使っていた鉈を売ってほしいと頼んでいる。前回のベトナムでもそうだったが、彼らが使っている何気ない日用品の中に、何となく価値を見出すことができることを、鉈先生により知った。商売の合間に縫っている民族衣装などもその価値はかなり高いものがあるが、現金にすれば知れた額になってしまう。この世の中はどうなっているんだろう。

 

それから約1時間走って、国境までたどり着いた。相変わらずトラックは長蛇の列だが、乗用車はレーンが違っている。だがそこまでトラックが入り込んできて、我々の通行は邪魔されてしまう。ここでイライラしても仕方がない。まずはゆっくり行こう、そんな気持ちでいると突然前が開けたりする。水かけ祭り前の駆け込みか、本当に通行量が増えていた。私は西双版納で水掛けられることだけは嫌だ、と強く思いながら、国境を歩いて越えた。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(7)樹齢400年茶樹のある村

 そしてこの近くの街道沿いで宿を探すことになったが、周囲を見渡してもなかった。王さんが暗い中、道端で人に聞いている。ようやく見つけたその宿は何と満員だと断られる。そこにいたおじさんが『いい宿がある』と連れて行ってくれたのは、街道から少し離れた場所。新しくできた宿のようで、部屋はかなりきれいだったが、ツインの部屋がないことと、Wi-Fiがなかったことから、残念ながら泊まらなかった。丸2日以上、全くネットを繋げないのもちょっと不安だったのでこの決断になったのだが。

 

そして辿り着いた宿は、正直狭くて臭かった。今回の旅で最悪の部屋だった。しかも外から大額の音が響き、煩い。唯一Wi-Fiがロビーで繋がる以外、全くいいことはなかった。そんな部屋なのに、価格はあのきれいな部屋よりも高い。どうなっているんだ?やはり街道沿いの便利な場所、というのが強気にさせているのだろう。王さんも『ここは良くなかった』と反省しきり。でも疲れていたので、仕方がない。布団をかぶって寝るしかなかった。

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4月11日(月)
4. ポンサリー郊外
再びコーマン村へ

本日は当然早起きして、ネットをやる。部屋で寝ている気にもなれない環境だった。王さんもロビーにいた。早々にチェックアウト。もうお決まりのようなっている麺の朝食。美味しいのだが、少し飽きてきた。この付近は中国が支援して道が作られている。中国側にとってもこの道は大事だということだ。そして我々は中国側に向かって戻らず、反対にポンサリー方面に車を走らせた。ここに泊まったからには、ポンサリー郊外の茶畑に寄って行こうということになる。

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1時間ぐらい走ると、『樹齢400年の茶樹はこちら』という表記が見えた。そこで山の方へ向かって入っていくと、何と2月に私が白人ツアーを敢行したコーマン村に着いた。ここにはそんな古い木があったのか。前回はガイドもなく、何もわからなかったが、今回は色々と見られそうだ。

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ここの塀にコーヒー栽培を奨励する広告が張られていた。中国語が使われていたので、中国企業がラオス農民にコーヒーを作らせようとしている様子が分かる。具体的に3年後の収入を表示するあたり、如何にも今の中国らしい。しかしラオス産コーヒーを中国人が飲むのだろうか。インスタントコーヒーなどの原料になるのかもしれないが、そんなに儲かるだろうか。

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前回と全く同じ道を登っていく。そのきつい階段のところで何と、前回突撃訪問した家のおばさんとすれ違う。彼女も私を認識したようだが、驚いた様子もなく、会釈して別れた。何となく日常だった。その家の近くには、かなり大きな茶の木が植わっていたが、あれは茶だったのだろうか。

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もう少し行くと、前回も覗いた茶工場がある。2月には誰もおらず、鍵もかかっていたが、中には製茶機械も置かれており、今回は人が茶を作っていた。なんとそれは中国人であり、ここで原料の茶葉を調達して、加工、そして広東に売りに行くのだという。そうすると5倍から10倍の値で売れるというのだから、多少不便なラオスの田舎でも我慢しているのだろう。実際そこは工場でもあるが生活の場でもあり、鍋釜があり、テントまで張られていた。

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そのすぐ下に、樹齢400年の木があった。前回は完全に気付かずに通り過ぎていた。かなり太い木であり、タリエンシスかな、と思われる。樹齢400年の木とは、誰が鑑定したのだろうか。鉈先生はしきりに写真を撮っているが、果たしてこの木をどのように評価するのだろうか。

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車のところに戻ってくると、ちょうど人だかりがあった。その中心には中国人がおり、地元の女性が片言の普通話で話していた。その中国人は何と王さんの知り合い(中学の教師を定年退職)で西双版納からピックアップトラックでやってきたという。昨晩到着し、これから買い付けた茶葉を積み込んで、西双版納へ戻るらしい。彼の車は最寄りの国境を通れるため、5時間あれば西双版納に着くというから、なんとも羨ましい。我々はこれからここを出発しても今日中に西双版納に辿り着くことはまずありえない。でも一番かわいそうなのは王さんだろうな。

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地元民は皆茶葉を摘んで、ここへ持ち込んでいた。茶葉を買ってもらえればすぐに現金化できるのだろうか?とにかく勢い込んで売り込んでいた。買付者はその茶葉を一々吟味して、良いものだけを選んでいる。中には、茶葉を先ほどの茶工場へ回して加工してもらってから、西双版納に持ち込むこともあるらしい。それでも明日の夕方には受け取れるというから、やはりこの距離感は侮れない。

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昼前にはコーマン村を離れる。いよいよ帰路に就く。途中でランチを食べる。今日は中華系、豆腐がイケル。昨晩王さんと『西紅柿炒鶏蛋』について話していたら、ちゃんと注文してくれていた。日本の中華料理にはないトマト卵炒めは、中国人が最も好む家庭料理であり、王さんも言っていたが、何とも懐かしい料理なのだ。これが美味しくないレストランは流行らないともいえる。

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それから3時間山道を走り、ウドムサイに近い、パクナムノイという街に着く。そこにはちょうど少数民族が集まってきており、筍などを売り歩いている。彼女らはどの辺からここへ来たのだろうか。ずいぶん遠くから来たのかもしれない。買ってあげたいが、食べる術もないので諦める。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(6)喬木古茶樹を発見

 古茶樹発見

細い坂の道を下っていくと、そこには確かに茶畑が存在した。だが勿論、人工的に植えられたものであり、樹齢もそれほど古いとは思えない。作業小屋もあり、ここに人が来て、茶畑を管理していることが分かる。こんな山の中に一体誰が、どこから来るというのだろうか。

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その向こうにヒョロヒョロと背の高い木が見えた。村長が『あれが樹齢数百年の古茶樹だ』という。確かにかなりの高さがある。茶葉は上の方にしかなく、肉眼で見ることができない。カメラのレンズを通してみると、意外にも葉が小さい。喬木の小葉種とは珍しい。葉っぱが見てみたいというと、村長がガイド役の少年に指示、彼はスルスルと木を登り、難なく葉っぱを採って降りてきた。これはすごい。きっと木登りは遊びであり、慣れているのだろう。

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彼はちゃんと一芯三葉で、きれいに葉を摘んできた。これは茶摘みにも慣れている証拠だった。鉈先生は『喬木の小葉種』などを見たことがある日本人などいないのではないか、と言い出す。しかしその樹齢もよくわからないし、ここにある理由も不明だ。この付近も40年前に移住した際、植えられたものが多いというが、この喬木はその前から生えていたのだろう。

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小屋では昼飯の準備が始まる。村から持ってきた生の豚肉の塊をその辺に木に刺して焼く。村長はあっという間に火を熾し、肉の塊を掲げた。昔あった丸大ハムのCMを思い出す。持参した岩塩をふるのもワイルドだ。焼きあがった肉はジュージューと音を立てて、かなり熱い。その塊を大きなハサミで切る。これは本当にすごい作業だ。兎に角あるもので何とかする。食べられるサイズに切ると、バナナの葉の上に乗せ、後は各自が口に入れるだけだ。なぜかその辺から人が出てきて、もち米ご飯を置いていくのが不思議。水も天然の湧水を飲む。

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その肉は何ともうまかった。もち米と肉、そのシンプルさがよい。少年は何も食べずに、向こうで何かしている。村での生活は一日二食だと言って、食べないのだそうだ。あれだけの山道を歩いてきて、途中の沢で水をすくって飲むだけとは、なんとも驚き入る。単に遠慮しているだけなのだろうか。まあ、慣れない外国人と一緒で彼は彼なりに緊張しているかもしれない。

 

帰りはだいぶ余裕が出てきた。周囲の花が目に入り、写真に収めることができた。その種類は1つや2つではない。恐らく植物学の世界でお宝と思われる草花が生えていることだろう。自分の専門性のなさを嘆いても仕方がない。1時間半ほど、ふらふらと歩いていく。途中、少年と若者が、急に山中に分け入る。見ていると、野生の鶏?がおり、なんとそれを捕まえようとしていた。今夜のおかずを想定しているのだろうか。真剣そのもの表情だった。ただ敵もそう簡単に捕まるものではない。かなりの素早さで逃げていく。

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平地に出ると、向こうに煙が上がっている。焼き畑農業が行われている。焼き畑農業はヤオ族の得意分野であり、焼き畑とお茶についてもたびたび指摘されている。遅れ気味に歩いていた鉈先生がついにダウン寸前になる。フラフラ、ヨロヨロ、まるで夢遊病者のように歩いてくる。その前に立ちはだかる小川。靴をずっぽり入れないと渡ることはできず、びしょびしょになる。それでも無事に生還したことが嬉しい。

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村に戻るとお婆さんが何事もなかったように孫と遊んでいた。そして午前中に干されていた茶葉は日陰に移されている。作りたての茶葉を使って淹れた茶を飲む。乾いた喉には何とも心地よい。村長は電波が戻ってきたので、盛んにスマホをいじっている。また茶葉の注文が中国から来たのかもしれない。持っていたバナナを皆で食べると生きた心地がした。ちゃんとした食料も持たずに山中に分け入ったことを深く反省した。それにしても体が重い。犬が実に気持ちよさそうに地面に寝ころんでいた。

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分岐点に泊まる

それから車に乗り、来た道を帰っていく。ガソリンスタンド脇で村長たちは置いていた自分たちのバイクに乗り別れた。烏太までやってきて、そこから我々は一路、中国国境を目指して、来た道の逆走を本格的に始めた。後部座席でウトウトするが、眠れない。なんでもいいから冷たい飲み物が欲しい。車を道路脇の店に停めて、中を見てみると冷蔵庫があった。コーラを取り出しごくごく飲む。乾きは相当に来ていた。

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烏太から車で約2時間、ようやくポンサリー-ウドムサイを結ぶ国道本線に戻ってきた。ただもうあたりは暗くなり、さほど前には進めない感じだった。疲労もピークに達していた。取り敢えず腹ごしらえをと入ったレストランは珍しくラオス系であり、意思疎通が難しかった。

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出てきた料理は何とも言えない代物だった。例えば卵と白菜の炒め物、ただボヤーッとした感じで、とにかく味の素の味がした。それはこれまでレストランで食べてきた料理がほぼ中華系であったことにより、ラオスの食べ物の味が分かっていなかったことを意味する。よい経験だったと言えよう。

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