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東京高知関西茶旅2023(5)五代友厚散歩、そして奈良へ

6月16日(金)大阪散歩

朝はゆっくりと目覚める。昨日までの団体旅行はやはり私には向いていない。気が向いた時に向いた方へ歩きたい。今朝の気分は五代友厚だったので、そのゆかりの場所を歩いてみる。まずは道頓堀を北に向かう。天気が良い中、途中に古い民家が建ち、花火や産などもあって楽しい。

大阪商工会議所まで来るとその横に五代友厚像が他2人の会議所会頭と並んであった。明治維新後、大阪経済の中心、商工会議所を立ち上げたのが五代であった。現在の会議所前には『大阪府立貿易館跡』などの記念碑も立っている。商業の街大阪を支えた男が薩摩出身の五代だったということか。

続いて五代友厚邸跡を探しに行く。途中勝海舟寓居などの表記が見える。海舟はこの地で私塾を開設し、坂本龍馬らが通ったらしい。その近くに大阪科学技術館という立派な建物があり、その先は緑地になっている。この一帯が友厚邸だったらしいが、今や表記も見いだせないのは残念だ。

土佐堀川に出る。旧住友銀行の実に立派な本店がある。北浜まで歩くと大阪証券取引所があり、その前にも五代の像が立派に建っている。証券取引所開設にも関わった五代。その向かいには、江戸時代の俵物会所跡の表記があり、天下の台所大阪の中心地が良く分かる。ここから地下鉄に乗る。

南森駅まで乗る。地上へ上がると、駅のすぐ近くに墓地がある。その中ほどに、ひときわ大きな墓石が見える。五代友厚の墓だ。五代家の人々もここに収められている。大阪で、日本の実業界で大活躍した五代だが、やはり薩摩に帰ることは難しかったのだろうか、などと思ってしまう。

宿の近くまで地下鉄で戻ると、そこに黒門市場があったので、ちょっと寄ってみる。ここは外国人観光客の人気スポットと聞いていたのだが、午前中で入り口付近を除いては、それほど人は多くない。英語や中国語、韓国語が飛び交っている。海鮮などが売られていたが、その値段は決して安くはない。何か食べてみようという気にはならず立ち去る。

奈良へ

宿へ帰って荷物を取りだし、近鉄難波駅へ向かう。しかし歩いて辿り着いた地下の駅には近鉄日本橋駅とある。まあどちらでも近鉄奈良へ行けるので良いのだが、私のボケも相当に進んでいる。昼間なので近鉄特急は空いており、ゆっくりと座って周囲を眺めながら移動できた。

近鉄奈良駅にはOさんが待っていてくれた。何とウルムチ以来10年ぶりの再会だ。Oさんはその後ウルムチからパキスタンに移り、最近帰国して奈良に住んでいるというので、会うことになった。駅から荷物を引いて、観光客の多い地域を歩くと、結構人がいる。それでも古い町並みの奥の方まで行くと誰もいない静けさ。

その一軒に吸い込まれる。ここは古民家を改造した宿屋で、ランチも食べられるという。間口から想像できないほど奥行きがあるのだろうか。庭がきれいに見える。卵焼きメインの定食を美味しく頂きながら、パキスタンやウイグルの話を聞くとは、何とも愉快だ。更には若狭のお茶の話まで出て来る。

それから徒歩数分の所にある心樹庵さんを訪ねる。以前はエコ茶会でしか会わなかったのだが、最近はお店を訪ねたり、一緒に山添村へ行ってもらったりと親交を深めている。Oさんの家も近所ということで、既にお店に何度か行っていた。ここでまた最近分かったお茶の歴史の話などを勝手気ままにしゃべってしまい、申し訳なかった。いいお茶を出して頂くのに、その感想すら述べないのは改めなければならない。

夕方お店を後にして近鉄奈良駅へ戻る。私は全く理解していなかったのだが、近鉄奈良から神戸の三宮までは、何と近鉄特急に乗れば乗り換えなしで行けるのだ。今晩の宿はまさに三宮なので、何とも有難い。始発だから座れるし、約1時間で到着してしまったのは、体力的に有り難かった。

東京高知関西茶旅2023(4)佐川町から伊丹へ

その向かいにある建物、庄屋さんの家だったであろう立派なお屋敷でランチを取る。なんといつの間にかアメリカ人と日本人の夫婦が料理教室を開いており、本日は特別にベジタリアンフードが提供された。畳の立派な座敷できれいに飾られた和食を頂く。何と贅沢なランチ。ここに居れば、それだけで落ち着ける。

何だか時間はどんどん過ぎていってしまう。旧工場を離れ、Sさんの工場に寄り道する。石さんがどうしても紅茶製造機械を見たいというのだ。私とYさんが3年前にエンゼルカップで紅茶を飲ませて頂いたその場所を一同で見学する。そこからまたすぐに車に乗り、何だか山の上の方へ行く。途中見覚えがあると思ったら、それは3年前迷い込んだ道だったのだ。

小高い丘の上に建物があり、ここで試飲会が行われた。午前中の小雨が嘘のように晴れており、抜群の風景、そしていい風が吹き抜ける。石家とSさんの紅茶が並ぶ。淹れ方は石家の娘が披露する。MさんとYさんはその光景を泣きそうになりながら見つめている。石家の紅茶は持木時代に植えられ、残された木の葉を使っているものもある。まさにここで持木と魚池、そして高知が一つに繋がった。皆真剣に試飲している。

楽しい時間とはすぐに去ってしまうモノ。予定時間をオーバーして会は終了。我々は佐川の牧野富太郎記念館も酒蔵も素通りして、一路高知駅へ向かった。台湾組一行は高知駅から岡山へ電車で移動する。実は台湾に帰る直行便の良いのが四国になく、明日岡山から帰るというのだ。駅で駅弁を買い、そこで分かれた。スティーブは何と我々の分のパンを買って渡してくれた。何とも親切な人だった。

私とMさんはYさんの車で高知空港に送ってもらった。Mさんは東京へ戻り、私は伊丹へ向かう。Mさんはある程度のお歳なので、今回の旅は大変だったかと思うが、それにもまして楽しそうだった。持木家と台湾が繋がっていくのが本当に嬉しいようだ。本来であれば高知にもう少して滞在して親族と旧交を温めるかと思われたが、未だ現役で働いておられ、その暇はないようだった。

伊丹から

高知発伊丹行きの飛行機は小さかった。普通は機内に持ち込めるサイズのケースも預け荷物にされてしまった。乗客は満員御礼。フライトは僅か40分、上昇したと思ったらすぐに降下を始めた。ほぼ定刻に伊丹空港に到着。ほとんど人がいない空港、荷物もすぐに出てきて快適。恐らく初めて降りた空港だった。

今晩は難波方面に泊まる、という頭しかなく、どうやって行くのかキョロキョロしていたら、リムジンバスの難波駅前行きがあったので、すかさず並んで乗り込む。そこで初めて予約した宿を検索したら、何とバス停の目の前だと気づき、幸福感に浸る。バスは難波周辺の駅を回り、50分後にようやく南海の難波駅前に着いた。

そこから見えるビルに向かい、宿へ行くと、外国人従業員が『自動チェックインです』と案内してくれる。だがいくら名前を打ち込んでも出てこない。彼女は私のスマホを覗き込んで『ああ、予約したのは姉妹店ですよ』と言い、約1.5㎞歩かないといけないと告げる。オーマイゴッド!

ホウライ屋の前を通り、グリコの看板まで来ると、外国人観光客で溢れている。既にコロナは終わっていた。更に歩いて行くと酔っ払いのおじちゃんなどが歩いており、平和な日本が蘇っていた。何とか宿に着いたが、そこは近鉄日本橋駅の近くだった。なぜ関東系のホテルチェーンが大阪に4つもあるのだろうか。ここもまた自動チェックイン。先ほどと違い外国人宿泊客で溢れている。さっきの方が静かそうでよかったのに。部屋へ行っても、きれいではあるが、料金の割に狭い。

東京高知関西茶旅2023(3)高知城見学、そして佐川の茶工場へ

そういえば家の横に駐車場があったのだが、石さんが『月決駐車場』って何?と突然聞いてくる。確かにそう書いているのだが、彼女は続けて『東京は月極だった』というのだ。やはり漢字圏の人たちは見ているところが違うとはいつも感じることだ。『月決』はマイナーらしいが、この地域では使われている。

車は高知城まで戻ってきた。我々はここから市内を少し散策してホテルにチェックインする。面白いのはYさん、自宅に戻るという。ホテルの駐車場に停めて一緒に散歩しようと言ってみたが、『夜は酒飲むので』と。実は我々東京から来たメンバーは誰も酒を飲まないのだが、『高知人は酒を飲みます』ときっぱり言われて笑ってしまった。

高知城に入ると山内一豊と妻の像がある。ここで何と陳さんがぐっと前に出て、極めて詳細な説明を台湾華語で始めたのには、本当に驚いた。陳さんは歴史好きで、相当本を読みこんでいる。恐らく普通の高知人よりははるかに詳しいと思われ、その後は彼をガイドとしてついて行くことになった。

小雨が降ってきたので、近くのセブイレブンでビニール傘を買う。ついでにスティーブが森永のジャンボモナカアイスを食べようと言い、全員分購入してくれる。私は数年ぶりに食べてみたが、意外にも美味しい。森永との繋がりが大きくなってきているせいだろうか。Oさんからその製法の綿密さを説明されたからだろうか。

最後にひろめ市場をさっと見る。時間的に早いこともあり、お客は多くはなかった。そして彼ら一家は皆酒も飲まず、生魚を食べないので、それほど興味も沸かなかったらしい。ホテルまで歩いて行き、チェックインする。荷物を部屋に入れて少し休むとまた出掛ける。夕飯はYさんが予約してくれていた。

高知に来たらカツオのタタキなのだが、残念ながら彼らは食べない。鍋や野菜など、それぞれが食べられるものを注文して、腹一杯になるまで食べた。Yさんの酒量も相当なものだった。そしてここでも話しはかなり盛り上がり、喜ばしい夜となる。帰りにアーケードを通っていると、何とそこにマジシャンが待っていた。Yさんの教え子だと言い、わざわざ待機してくれていた。そのマジックは本格的で皆を喜ばせた。駅方面へ帰る道にはアンパンマンのキャラクターの像があり、小さな子供を持つ陳さんなどが喜んで写真に収めていた。

6月15日(木)佐川町へ

ホテルの朝ごはんは豪華だった。定食様式だが、朝から刺身、焼き魚からカツオのタタキまで食べられる。流石に昨晩堪能したので焼き魚定食にしたが、皆何だか喜んで食べている中、スティーブはトーストを注文して何とか凌ぐ。これが彼の信念ということだ。信仰と信念を考える朝となる。

Yさんが迎えに来てくれ、本日の活動がスタートする。目指すは佐川町。佐川と言えば、現在の朝ドラ『らんまん』の主人公、牧野富太郎の生誕地であり、今話題の場所である。途中こちらで紅茶作りをしている懐かしいSさん夫妻と合流し、車は山間部を走っていく。高知市内から車で約1時間、ついに茶畑が見えてくる。

ここはM園芸の茶畑。迎えてくれたMさんは高知に嫁に来てここで茶作りをしているという。緩やかなスロープにべにふうきなどが植わっており、この茶葉がSさんに渡り、美味しい紅茶が作られているらしい。台湾組も熱心に写真を撮り、質問を重ねていく。やはり茶畑に来れば茶のプロなのだ。

そこからまた車で小1時間走る。そして懐かしの旧茶工場へ着いた。ここは3年前、Yさんと二人、苦難の末に辿り着いた森永紅茶製造最後の茶工場だった。その時既に中に入れないほど痛んでいたが、その後の豪雨などでついに解体が決まったが、地元企業がここを買い取りリフォームして原型を保っていた。周囲の茶樹も健在で何となく涙する光景だった。

東京高知関西茶旅2023(2)持木家との交流が続く

そこから赤坂に地下鉄で移動。夜はMさん一家と天ぷら屋さんで会食となった。ここでもベジタリアンのスティーブが気なったのだが、お店側も野菜中心に天ぷらを作ってくれ、それを食べたスティーブが『この野菜は甘い!どこで作っているのか』などと質問攻勢に転じて、大将も大いに喜び、どんどん会話が弾んでいってこちらが驚いてしまった。彼は食べ物、飲み物に対する非常に高い意識があり、それを高い会話力で、ぐいぐい引き込んでいく。

Mさんの息子夫婦、孫たちも駆けつけ、非常に賑やかな、和気藹々の宴となった。Mさんの情熱は知っていたが、この紅茶を媒介とした一族の歴史については、皆が強い関心を持ち、台湾からやってきた客を、まるで親戚のように扱っている。ご縁というのはこうして繋がっていくのだなと思わせる夜だった。

6月14日(水)高知へ

翌日は高知へ移動した。羽田空港を11時台に出るフライトなのだが、何しろ石家の荷物が多く、無事辿り着けるのか、心配だった。一応2時間前集合としていたが、何と彼らは2時間半前には空港に到着したという。宿泊先の前から空港行バスが出ており、ラッシュにも合わず座って悠々とやってきた。Mさんも息子さんの付き添いで早々と空港に来ていた。皆気合が入っている。

ランチは機内で食べることにして、それぞれ好きな空弁を買う。皆日本に慣れているから、どれが食べられるか、美味しそうかの見分けはすぐに付く。フライトは順調で弁当を食べ終わると高知空港に着いた。今回はやはり持木家の子孫であるYさんが色々と気を使ってくれていたが、何と石家は『空港に迎えは不要です。荷物が多いのでリムジンバスに乗る』と言ってきて驚いたが、1台の車に一行6人を乗せ、更に大きな荷物は入らない、とよく分かった上での申し出だった。

取り敢えずバスが出発しないように係の人に話し、何とか荷物を引っ張ってきた彼らを乗せて行く。高知空港まで約40分、だが空港のバス停は二つあり、Yさんとは会えなかった。それでも我々は高知駅前を楽しく通過。坂本龍馬像などで記念写真を撮っていると、何と駅にはアンパンマン列車が停まっている。因みにこの日アンパンマン号は利用者100万人達成セレモニーが行われていた。

駅のすぐ横のホテルに荷物を預ける。そこにYさんが合流。Facebookでは交流はあったが、石家と会うのは初めて。ついでにYさんにとってMさんは従妹の子供になるが、すごく久しぶりの再会となる。ここでもご縁が繋がっていく。Yさんの車でYさんのご両親が住む、いの町に向かう。

Yさんのお母様はMさん同様、創業者持木壮造の孫にあたる。お母様の父は壮造の長男であり、Mさんの父は次男。この二人は若い頃は東京で会っているが、何と近年はご無沙汰で、数十年ぶりの再会となっている。もしこんなことがなかったら、一生会えなかったかもしれないとMさんはつぶやく。

ちょっとご挨拶と思って家に入ったが、そこからとても和やかな交流が始まって、また驚く。皆で昔の写真を見ながら、話が弾む。ついにはお母様が立ちあがり、何と流ちょうな英語で挨拶を始めた。因みにお母様もMさんも台湾生まれの所謂湾生であるが、幼少期に引き揚げているので、台湾の記憶はあまりないという。

もう一つ驚いたのは、お母様のご主人、Yさんのお父様は本日90歳のお誕生日だったことだ。しかも高知で植物学を収め、現在も研究を続けているという。ちょうど朝ドラの主人公が高知の牧野富太郎であり、お父様はそのひと世代下らしい。お歳を感じさせないクリアーな発言が多く、たくさん質問させて頂いた。あっという間に1時間半が過ぎ、お暇したが、とても名残惜しい感じだった。

東京高知関西茶旅2023(1)森永紅茶と魚池

《東京高知関西茶旅2023》  2023年6月13日-17日

ここ数年、森永紅茶の歴史を調べている。元々は台湾紅茶、日月潭紅茶の歴史を追っていたのだが、そこで行き着いたのが森永紅茶だった。日本統治時代の台湾で、日本人が作っていた紅茶。今回はその後継者台湾人が日本へやってきて、日本人子孫と交流することになり、その手伝いをした。

6月13日(火)持木家と森永

台湾中部魚池から石家(戦後父親が旧持木工場の工場長)の娘夫婦とその娘の3人、そして台中から陳さんが日本へやってきた。昨晩無事に成田に着いたと連絡があったが、入国にはどれくらい時間が掛かったことだろう。今朝はまず持木家の子孫であるMさんに会うため、朝の通勤時間帯にホテルから最寄り駅まで電車で来てもらった。ラッシュとは縁遠い魚池から来たのだから、さぞや戸惑うだろうと思ったが、何と彼らは何度も日本に来ており、満員電車にも慣れていた。

Mさんと石家は4年前から付き合いがあり、遠くの親戚が来たかのような打ち解け具合だった。早々に沢山のお土産(なぜかお茶と一緒にお酒も)が渡され、英語を主とした会話はどんどん盛り上がり、あっという間に時間が過ぎていく。こんな海外との民間交流、なかなかないのでは。

次にJRで鶴見に行く。昼前に駅に着いたので、駅ビルでランチを取る。実は石家のスティーブはベジタリアン。食事を心配していたが、さすがに日本慣れしており、すぐに蕎麦屋を見付けて入る。メニューをさっと見て自分が食べられるものを探して、店員に注文している(この店はアプリで注文する仕組みだが、多くの老人は口頭でやっている)。私は蕎麦を啜りながら、それを眺めるだけ。

鶴見駅からバスに乗る。娘のジョアンはお土産を入れた大型スーツケースをずっと持っていて混んでいるバスの車内では大変だ。10分ぐらいで森永鶴見工場に着いた。ここの研究所に勤務するOさんが、森永紅茶の歴史に大いに興味を抱き、社内で資料を探し、外部にもコンタクトして、何と今年『森永紅茶復活プロジェクト』を立ち上げたので、その話を聞きに行く。

とても働きやすそうな、雰囲気の良い研究所内で、色々と説明を聞く。森永の歴史、それは我々の歴史でもあった。子供の頃から親しんだ、森永チョコボールやムーンライトなどは何とも懐かしい。台湾組はチョコモナカジャンボの画期的な製造方法に大いに興味を示している。台湾ではこの商品は売られていないらしい。

森永紅茶については、既に50年前に無くなってしまった商品であり、決して大きな比重を占めていたわけでもないので、殆どの社員がその存在自体を知らない。そんな中でOさんはただ一人で資料を集め、各地に出向いて歴史を調べて、ついには紅茶復活のため、三重・奈良・高知の紅茶生産者と組んで、森永紅茶復活を目指している。

この紅茶の当初の原料は日本統治時代の台湾にあるので、今回の石家訪問がきっかけとなり、今後プロジェクトに進捗があれば、台湾産紅茶も加えて復活して欲しいという願いが私にはある。因みに森永が最初に手掛けたドリンクは宇治ほうじ茶というのも興味深いものだった。

研究所を後にして、またバスで鶴見駅まで戻る。そこから京急で銀座へ向かう予定だったが、何と事故があり、電車は止まってしまった。このままでは次の予定に間に合わない。そこでJR川崎駅へ向かい、京浜東北線で有楽町まで出て、何とか歩いて到着する。そこは石家のデニスが行きたいといった、小さな、おしゃれな茶荘だった。ここで買いたい茶器があったようだが、残念ながら在庫は無かった。それでも様々な日本茶が置かれていて、試飲も一部可能。英語でも説明してくれるので、外国人にとっては有難い茶荘だろう。

中壢台中茶旅2023(2)持木家のパートナー、廖家を訪ねる

もう何度も乗ったルートを巡っていく。表面的には特に変化は感じられない。途中から登りになり、約1時間で目的地に着いた。乗客のほとんどは終点まで乗るので、降りたのは私だけ。何とも開放的な気分となり、古い家並みが残る街を歩き出す。今回の目的はただ一つ。いつもFBにメッセージをくれる林老師に会うことだった。

歩いて数分で懐かしい玉春茶房に着いた。隣は息子の店で、まずはそちらに行ったが、ちょうどお客が来ており、早々に退散する。林老師は最近大病されたと聞いて、伺ったわけだが、予想外にお元気そうだった。ただやはり以前のように動くことは出来ないと言いながら、お茶を淹れてくれた。

懐かしい歴史話などを聞いていると、奥さんが『お昼ご飯、食べていくでしょう。買ってくるんじゃなくて、作るから美味しいよ』と声を掛けてくれた。こちらのご飯が美味しいのは12年前、初めて伺った時に味わって知っていた。だが今日は残念ながら時間がない。いや、時間が無いというよりバスの時間と合わなかった。全く後ろ髪を引かれる思いで、立ち去る。

逆に少し時間が余ったので、一停留所分歩いて下ることにした。ここもかつて何度も通った道で懐かしい。ずるずると農会のところまで歩いて来ると結構暑かったので、農会内の売店で涼む。そしてバスの時刻にバス停に戻ると、ちゃんとバスはやってきた。私ともう一人高校生ぐらいの女の子がバスに乗り込む。

やはり予想通り、バスがかなり混んでいたが、何とか席を確保した。鹿谷付近には地元枠として3席確保されている。ただおじさんの何人かは大量の荷物を席において、他人が座れないようにしていた。この辺のモラルの低さは残念としか言いようがない。この点については、誰も口出ししない。いや、さすがに乗れない人が出てきたら、荷物をどけるだろうと信じたい。

台中で劇的に出会う

1時間後に高鐵台中駅に戻り、午後会う予定の陳さんに連絡すると、お迎えまでほんの少しの時間があった。昼ご飯は食べていなかったので、丸亀製麺でうどんでも、と思ったが、残念ながら既にその姿はなく、後には一風堂ラーメンが見える。その横には大戸屋があったが、私は以前も使っていた、まいどおおきに食堂へ向かう。

中に入ると風景はそれほど変わっていなかったが、値段はかなり上がっていた。まあこれが普通なのかもしれない。もし時間的に余裕があれば、鹿谷のお母さんのご飯が食べたかった、無理しても食べるべきだったと激しく後悔する。それでもそれが私の定めと諦めて、ハンバーグに食らいつく。

陳さんと合流して、市内へ向かう。何度も来ている台中だが、実は市内の地理は全く分からない。いつの間にかモノレールが通っている。そんな辺りの駐車場に車を停めて、目指す家に向かった。廖さんの家は立派だった。招き入れられ、挨拶を交わすが、何となくぎこちない。陳さんがうまく説明してくれなければ、会話が進まなかったかもしれない。

この廖さんのお爺さんが、戦前日月潭で紅茶を作っていた持木家の台湾人パートナーだったのだ。廖さん自身は日本人に決して良い印象を持っていないことは何となくわかる。ただ『持木の名前は、爺さんからも父さんからも何度も聞いている』と言って、廖家の話をしてくれた。

そのうち廖さんも元銀行員だと分かり、少し打ち解けてくる。やはり戦前の有力者だったお爺さんの一族には関係者が多く、そのすべてを聞くのはとても無理だった。最後の方になり廖さんが『なんでもっと早く来なかったんだ』と言い出した。実は2階には病気療養中のお父様がいたのだが、具合が悪いので会うのは難しいと言われていた。

しかし廖さんは突然『2階に行こう』と言い出し、我々を連れて階段を上った。そこにはテレビを見ている老人がいた。『日本語で話しかけてくれ』と言われて、『持木さんを覚えていますか?』と大きな声で聴いてみると、目は動くのだが、残念ながら言葉は発せられなかった。それから記念写真を撮り、お暇した。

廖さんは『日本語なら反応すると思ったのだが』といい、『持木の子孫ならいつでも歓迎する。一緒に爺さんの墓参りに行こう』と言ってくれた。この時廖さんはこれが最後のチャンスだと分かっていたようだ。そのわずか1週間後、廖さんのお父様、廖阿霖の息子は97歳で生涯を閉じたと聞く。もしコロナが無くて2‐3年前に来ていたら、日本語で様々な話が聞けただろうと思うと、何とも残念、いや言葉が無かった。

陳さんに高鐵台中駅まで送ってもらい、台北に戻った。車中、頭では常に廖家の存在を考えていた。そして歴史を追うとはどういうことなのか、をじっと考えている。考えれば考えるほど、腹だけが減る。手近なすき家で夕飯を取る。まあ、この低価格路線、悪くはないのだが、今日の気分ではなかったようだ。

中壢台中茶旅2023(1)中壢のミャンマー人村へ

《中壢台中茶旅2023》  2023年6月1日-2日

今年の台湾滞在の最後に中壢に行く。そしてなんと翌日は日帰りで台中へ向かう。何となく慌ただしくなったが、とても重要な情報を得て、非常に貴重な面談を果たした。やはり大切なことは動くことだ。

6月1日(木)ミャンマー人村へ

今朝は雨が降っていた。待ち合わせ場所である台北駅へ何とか向かった。中壢行きのバス停はすぐそこだが、雨が強すぎて行くのを躊躇する。同行してくれるTさんは駅舎内のマックで朝ご飯を買っている。時間が来たので雨の中を走り抜け、バス停に着くとちょうどバスが来る。時刻表より少し早いが乗り込むとすぐに出て行く。この辺のいい加減さがバスにはある。

バスで約1時間走ると、中壢のバスターミナルに着いた。ここからバスを乗り換えて、目的地、龍岡へ向かう。私一人ならバスの乗り換えも迷っただろうが、Tさんが一緒なので、実にスムーズに進行する。4年前に来た中壢、最初は見たことがある風景であったが、その内全く知らない所へ向かっていく。

20分ほど乗って、忠貞というバス停で降りる。そこは台湾ならどこにでもありそうな田舎町。すぐに路地に入ると市場に繋がっている。野菜などが売られており、その先にTさんお目当てのナーン屋さん?があったのだが、残念ながら今日は閉まっていて食べられなかった。この店に清真の文字が見えた。

その先には中華民国の国旗が無数にひるがえっている。国旗屋と書かれたその店は、本当は何屋なんだろうか。この辺から、この街が普通ではないと思い始める。そこから径に入ると、イスラム教会、龍岡清真寺が見えてくる。その規模はかなり大きく、回族が多く住んでいることを窺わせる。

当初は1960年代に建てられたというこの寺、当日は中に入ることは叶わなかったが、かなり立派な造りとなっている。現在の形になったのは1980年代だろうか。そして説明書きにも、1954年にタイ・ミャンマー北部から移動していた国民党系の人々について書かれており、ここも所謂ミャンマー人村の一つだと分かる。近所にはタイ・ミャンマー雑貨を売る店がいくつかある。

それから異域故事館を訪ねる。ここは見るべきということでTさんが予約していてくれた。タイから戻った人が立ち上げた展示館で、多くの資料があるらしい。時間になると予約した人々が集まり、ガイドが華語で説明しながら、展示を見て回る。オーナーが収集した数々の武具や写真が目を引く。

約30分見学する。ガイドも我々が日本人なので興味を持って、ここへ来た理由を訪ねてくる。残念ながら茶に関する展示はなかったが、タイ北部と国民党の繋がりを台湾側から見る機会を得たことは収穫だった。この国民党兵士の帰還に関しては、往時もかなりの温度差があったのだろうと感じる。

お昼は名物米干を食べに行く。かなり混んでいるが、何とか席を確保。米干とは『インディカ米を磨いて、ペースト状にして鉄板に載せて蒸す。出来上がったら、太い麺のようにカット』と書かれているが正直よく分からない。豚肉、豚レバー、卵が入っているのが定番。スープはあっさりしている。なぜこれが雲南にあるのか、今度タイ北部へ行って探してみよう。

最後に雲南文化公園へ行く。『魅惑の金三角』という文字が躍っているが、そこは老人がボーッと座っている、実に静かな公園だった。米干節などイベントの際は賑わうらしい。公園内には国民党軍の苦難の歴史なども展示されているが、普段は見る人もいないようだ。既に70年前の歴史となっている。

バスで中壢駅に戻った。何となく話し足りないので、カフェを探して入る。台湾のカフェはどこも実に独創的で、若者が丁寧にコーヒーを淹れている。そして接客も笑顔で好感が持てる。ここでTさんとまた歴史話を繰り広げてしまい、気が付くと辺りは夕方になっている。慌てて台北行きのバスに乗り込むも、台北駅には行かないようで、Tさんに教えてもらい、何とか最寄りバス停で降りた。

6月2日(金)鹿谷へ

翌日もまた出掛ける。今朝は高鐵で台中に向かう。7時台の高鐵に乗るのは今回が3回目。もう慣れたものだ。高鐵台中で下車して、すぐにバスに向かう。ここから鹿谷まで行くバスは渓頭行きで人気があり、コロナ前は乗車できないこともあった路線。今回はどうかと聞いてみると、今停まっているバスに乗れ、と指示があり、急いで駆け込むと、最後の一席が一番後ろに残されていた。やはりもうコロナは過ぎ、路線は完全に回復しているようだ。

台南・高雄茶旅2023(4)文藻外国語大学へ

一度宿に戻り休息。暗くなった頃、近所を散策して夕飯を探す。1軒、客が外まではみ出している店があった。牛肉拉麺と書かれており、ちょっと興味を持って入っていく。お客が多い中、何を頼むべきか分からず、注文するところへ押し出されたので、牛肉拉麺というしかなかった。他の客は小菜も頼んでいるので、キュウリを頼んでみた。

少し時間は掛ったが、あの大混乱の中でも店員は注文を間違わずに運んできた。さすが高雄の人気店。スープの味が濃厚で、麺はしこしこ。これなら客が集まるわけだ。それにしても台湾人はいつから牛肉を食べているのだろうか。やはり戦後かな。帰りにおーいお茶を買ってみる。日本産茶葉100%使用だ。

5月25日(木)高雄の大学で

朝ご飯は地下にあった。宿代の割には充実した朝食だった。今の台湾、特に若者的には、きれいで機能的な部屋、健康的な朝食が求められているようだ。宿に荷物を預けてチェックアウトしようと思ったが、荷物がロビーに並べられているのを見て止めた。これなら盗まれても分からない。セキュリティーは重要度が低いのだろうか。日本の新しいチェーン店でもスペースが無くて、こんなことになっているのを思い出す。

今日は高雄の大学を訪ねる予定になっていた。台湾で唯一の外国語大学である文藻外国語大学へ向かう。バスを検索すると数分歩いたところから出ているとあったので行ってみたが、バスはいつ来るか分からない。おまけに午前9時でもかなり暑くて、待っているのもしんどい。

何とか来たバスに乗り込む。何と長距離バスだった。20分ほど乗っていると到着する。門を入るとここがキリスト教系の大学だと分かる。まだ少し時間があったので周辺を散歩する。立派な図書館などがあるが、学校自体は大きくない。私も日本の外国語大学卒だから、その小さい理由はよくわかる。

時間に正門へ行くと、連絡していた鄧先生がやってきた。何と広報の人も一緒で、まずは自己紹介をして、写真を撮る。それから先生の研究室へ向かい、横の会議室で色々と話を聞く。先生は1930年代の台湾の茶貿易について調べており、特にシンガポール華人との繋がりについて、現地調査(実在の茶荘)していた。ただ勿論本業は茶貿易ではないので、その調査は関連する一部だけのようではあった。それでも十分に貴重な情報を得ることが出来て満足だった。

昼前に先生の教え子がやってきて、車に乗せてくれ、ランチに行った。しゃぶしゃぶの店だったが、前菜やデザート、ご飯や野菜などは取り放題で、メインのしゃぶしゃぶも豪華だった。私は普段食べないが、台湾では平日の昼間から、多くの人がこんなものを食べているのかとちょっと驚きだった。ご馳走になり感謝する。

それにしても外は35度、日差しも強く南国の強烈な暑さだった。これからどうするかと尋ねられ、取り敢えず高雄駅まで戻りたいというと、また車に乗せてくれ、送ってくれた。途中の道路を見ていると、本当に歩いている人はなく、車も少なかった。そして車が着いた先は高雄駅ではなく、高鐵の始発駅、左営駅だった。台北に帰るものと、気を利かせてくれたのだ。私は元々潮州あたりを歩いてみようかと考えていたのだが、この暑さですっかりその気はなくなり、駅に来たのをよいことに高鐵に乗ることにしてしまった。

自由席だが、始発なので座れる。そのまま疲れた体をシートに沈めるとあっという間に寝込んでしまい、後はただ流れに任せていたら、いつの間にか台北まで運ばれていた。僅か2時間半で着いてしまう。東京‐京都間の距離なのだ。台北に着いてから、急に潮州へ行きたくなったが、それは来年のお楽しみにしよう。

台南・高雄茶旅2023(3)台湾糖業と逍遥園

そこからDさんの案内で食事に向かう。最初に市場を通ると、そこにおいしそうな麺があったが、もっと美味しいものがあるというので通り過ぎる。そして辿り着いたのは、昨日歩いていた赤崁楼の横だった。午前11時頃だったが、その店はお客で溢れている。何とか席を確保して、並んでいるおかずから好きなものを選び、肉燥飯と一緒に食べる。内臓系が旨い。美味い店は地元の人が一番よく知っている。ここでDさんの近況や将来などについて聞く。

台湾糖業で

Dさんと別れ、駅まで歩き、荷物を取りだして台南駅から電車に乗る。今日は高雄に泊まる予定だが、折角なので途中で寄り道。橋頭駅で降りる。駅から遠くを眺めると煙突が見える。その方向に10分ほど歩くと、台湾糖業が見えてきた。特にチェックもなく、自由に中に入り、参観できる。

入るとすぐに古ぼけた建物が見える。これは日本時代の物だろう。その前には巨大な木とそこに作られた防空壕があり、歩いていると時空を越えそうな雰囲気が漂う。ちょっと行くと当時の廠長宿舎がきれいに整備されていて我に返る。この先は糖業博物館と書かれていたが、門番のおじさんに聞くと『ここからすべて博物館だよ』と教えてくれた。そして私が日本人だと分かると、実に親切に対応してくれて嬉しい。

少し歩くと立派な、オランダ風の建屋が見える。ここは事務所だったらしい。その前に胸像がある。台湾製糖初期から携わり、社長も務めた山本悌二郎のもので、台糖と三井の関連を思う。建屋内にも色々と展示があった。その外に観音像が見えたので近寄る。これがあの初代社長鈴木藤三郎が作ったものなのか。つい先日彼の出身地、静岡県森町で見たものと同じようだ。この辺に深いつながりが感じられる。

そこから工場の方へ向かう。今も現役なのだろうか、大きな設備が見られるが、人は誰もいない。その向こうの倉庫跡が整備されて、イベントなどに使われているようだ。敷地がかなり広いので、既に暑さにやられ、疲れが出て来る。さっきの煙突があり、その向こうには鉄道が敷かれている。往時はこれで砂糖が運ばれたのだろうか。

何とか一周回ってさっきのおじさんに挨拶する。『高雄へ行くなら、その先に駅があるよ』とこれまた親切に教えてくれた。敷地を出るとすぐに廟があり、その向こうにMRT橋頭糖廠駅があった。台鐵駅に戻るよりはだいぶ体力がセーブできた。高雄方面も詳しくないので、こんな交通手段があることに驚く。

高雄で

30分ほどきれいな電車に乗っていると、高雄駅に着いた。今日はこの付近に宿を取ったので、楽ちんだと思った。ところが高雄駅は改修中で、結構分かり難い。更に私の宿は駅の裏だったようで、更に分かり難い。何とか辿り着いたそこは、全く賑わいのない裏道。そして新しくできたらしいそのホテルのロビーは殺風景だったが、部屋はまあまあ。

まずは歩いて逍遥園に向かう。ここは日本時代末期、大谷光瑞が建てたもので、熱帯植物研究の基地だった。戦後は完全に埋もれ、近年解体の危機にあったが、何とか保存が決定し、ここに修復されたと聞いたので、見学に出向いた。旧市街地の一角にきれいに整備された場所が現れた。係員はいたが、見学は自由。参観者は多くはない。

和洋折衷の2階建て建物は1940年に作られた。その修復にどれだけのエネルギーが必要であったか、それをここでは展示している。勿論本願寺や光瑞についても語られている。実は私が知りたかったのは、光瑞が投資した茶について。唯一見付かったのは、光瑞の弟子の広瀬の写真かな。

フラフラ付近を歩いていると、何となく古い高雄にタイムスリップした気になる。私が初めてここへ来た約40年前、勿論随分変わっているが、関東煮や山本頭など、懐かしい文字も並んでいる。ただ賑わいという点では、残念ながら今は寂しい限り。全てが台北に回ってしまったのだろうか。

台南・高雄茶旅2023(2)朝は画廊で

取り敢えず外へ出た。台南は4年ぶりで、駅前宿泊も何度もしているが、未だに道を覚えない。ホテル前の広い道をまっすぐ歩いてみる。腹が減ったので食堂を探すと意麺の文字が見える。乾意麺を注文するといい感じだ。台南に来たら、まずはこれを食べないと始まらない。

すぐ近くに赤崁楼があった。ここは1653年にオランダ人が創設、もとはプロビンティア城と言われ、鄭成功も拠点とした場所。今や台南観光の中心地だ。台南に初めて来た1984年には見学したと思うが、今はかなりきれいになっている。近所に天后宮などもあり、古き良き台南だった。

天后宮の横の細い路地を入っていくと、古い茶荘が見えた。その先に武廟がある。先日茶商公会で聞いたのがここの歴史。何とここには1818年に茶商の集まり(茶商組合の前身)が寄進した記録が壁に残っているというのだ。台湾最古の茶商はどこだ、という話を前に追いかけたことがあるが、1836年というのが一番古かった。この茶荘は今でも台南にあるが、それより以前に台湾には茶商がいた、しかも1つではないとなると歴史はどうなるのだろうか。

とぼとぼと駅まで戻る。駅の中は相変わらずレトロだが、改修中の足場などが何となく痛々しい。ここにステーションホテルが出来るのだろうか。我がホテルへ行き、チェックインして部屋に入る。それほど良い部屋でもなく、料金はそれなりだからコスパは良くない。唯一良いのはレトロな雰囲気だろうか。

少し休むと夕飯の時間となる。小雨が降り出したので近くで食べようと探すと、ちょうどよい雰囲気の食堂があった。外にメニューが出ていたので、それをゆっくりと眺めていると、おじさんが『早く注文しろよ』と華語で言い放つ。私は困ってしまい、華語がたどたどしくなる。すると奥さんが旦那に向かい『あんた、外国人が一生懸命中文で話そうとしているのになんてこと言うんだ』と怒ってくれた。何とも有難いのだが、何とも言えない気持ちになる。

台南名物?虱目魚魚肚湯と肉燥飯(南部では魯肉飯はない)を注文して席に着くと奥さんがやってきて『野菜も食べた方がいいよ』と言ってくれたので、追加注文する。ちょうど向こうのテーブルには日本人観光客がいて、楽しそうに日本語で話していたので、思い切って日本語で注文すればよかったな、と思ってしまう。

出てきた料理はとても美味しかったが、何となく後味が悪かった。だが会計をするとおじさんが『あっちの食べ物もうまいぞ。今度また食べに来てくれ』と笑顔でいうではないか。余程奥さんの忠告が効いたのだろうか。本人もかなりバツが悪かったのだろう。何となく晴れやかな気分にはなった。

5月24日(水)朝は画廊で

翌朝はゆっくり起き上がる。食欲に乏しく、部屋でゴロゴロする。朝8時半にチェックアウトして荷物を預けて、出掛ける。今日は台南在住のDさんと会う予定になっていたが、指定された場所は何と画廊だった。しかも画廊が開く前の時間、オーナーに日本語を教えているので、一緒にどうかという。

街の中心にあるその画廊は、かなり奥ゆかしい建物だった。日本的な窓枠、階段、中庭などもある。2階の一室で日本語の授業が始まる。Oさんとは8年ぶりだが、その時は蕎麦屋を開店しようとしていた。その後コロナ禍で蕎麦屋を辞めて、台湾の歴史本を翻訳して出版するなど活躍している。音楽なども行い、実に多趣味な人材だ。

Oさんの授業はかなり実践に即しており、今日はオーナーの娘も参加して、日本の話題を話している。彼女は京都が好きで住みたいらしい。かなり京都関連について勉強している。なんだか楽しく1時間話している内に授業は終了した。こういう授業であれば飽きないだろうな。

その後画廊内を見学する。台湾人の画家の絵が掛かっていたが、何と彼の先祖は西夏だというので驚く。私は潮州人を追いかけてみたが、台湾にはもっと様々な民族がいるということが分かり、益々興味が沸く。この画廊には日本人の作品が展示されることもあり、その作品は人気で、よく売れるという。こんなところにも繋がりがある。