「茶旅」カテゴリーアーカイブ

藤枝から愛知へ流れていく2016(4)カレーを食べて、迷子になって

 ようやく見つけたそのお店、週末の家族連れで混んでいたが、何とか席を見付けて座る。従業員を見ると全てインド人に見えたが、彼女は『全てネパール人』と小声で教えてくれる。それでもヒンディー語がなんとか通じるようで、色々と話していたのは良かったのかもしれない。出てきたカレー、インド中部出身の彼女にとっては、北部中心の料理は少し味が違っているようだったが、それでもお腹が空いているのか、どんどん食べていた。

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因みにインドでナンを食べている人を殆ど見ないが、日本ではチャパティを見ることは殆どない。インドではナンはチャパティの10倍するのに、日本ではなぜ同じ値段なのか。一口食べて『これはナンでなくて、パンですね』と彼女は看破した。帰る時に明日からの食糧としてチャパティをテイクアウトし、取り敢えず食べられそうなものを確保した。それにしても『日本では父親や母親までもが、子供の前でアルコールを飲む』というのに、ちょっと違和感があったようだ。インドのファミリーレストランではアルコールは一切出ない。

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大学のある駅まで戻り、寮に帰る前に、スーパーを探した。そこでも食べられそうなものを物色して、買い求める。食材に注意しながら、いくつか買っていたが、これは結構大変な作業だった。バンコックやハノイで出会ったインド人が、『大きなスーツケースを持っているのは、中にチャパティなど大量の食糧を入れているから』と言っていたのが、ようやくわかった気がした。ことは好き嫌いとか、我慢すれば食べられるとか、そういう次元ではないので真剣にならざるを得ない。ハラール食品などが注目されているが、インド人のことも考えて上げて欲しい。

 

家が見付からない

彼女と別れて、Iさんの家へ向かう。ここで急に心細くなる。名古屋までは車で連れてきてもらったが、新安城までどうやって行けばよいのだろうか。兎に角地下鉄で金山という駅へ行き、そこで乗り換える、と言い聞かせた。名鉄のホームへ行くと、電車が入ってきたが、新安城に行くのかどうかわからない。各停も来れば、急行も来る。どれに乗るのがよいのだろうか。

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取り敢えず急行に乗り込むとどうやら止まるらしいと安心した。30分後、下車。ここまでくれば大丈夫と思ったが、何と駅から家に行く道が分らない。駅のどちら側へ出るのだろうか。確か携帯に情報をもらっていたと思い、見ようとしたが、既に電池切れだった。あとは記憶を辿るのみ。駅から線路に近い道を行けば、と歩いたが反対側に出たようだ。更には目印の会社があったはずだが、見付からない。それが何とか出てきたが、最後に家に着けない。なぜだろうか。目印の車がないのだ。何とその車は昼間と反対向きに駐車されており、暗くて見えなかった。また近所の家も住所表示をしているところが殆どなく、何となく住所を思い出しても役に立たなかった。

 

駅を降りてから50分後、汗だくになって家に入った。そこにはSさんも待っていてくれた。『なんで電話しないの?』と言われたが、電池が切れると何もできないことを痛感した。二人は今晩豪華な食材を買い、美味しい夕飯を食べていた。私は疲れてしまい、しかもカレーで腹も一杯、何も食べられなかった。何とも損した様な気分になり、お風呂を借りて入り、布団を敷いて寝てしまった。

 

66日(月)
日がな休息

翌朝はゆっくり起きた。今日はもう用事がないので、東京へ行くだけだった。ところが朝、Iさんが『今晩、ポーランドのTさんが泊まりに来るよ』という。実は彼には7月にポーランド、チェコ、ジョージア、ウクライナに行きたいとお願いしていたが、その話ができていない。更には先日の幸之松さんのご夫妻もポーランドに和食を披露しに行くので、一緒に行かないかと言われ、話が混乱していた。ここで話をするのがよい、ということになり、Iさんには申し訳ないが、もう一晩お世話になることにした。

 

朝ご飯は何と茶粥を作ってくれた。茶粥と言えば、昨年Iさんのアレンジ、Sさんの運転で行った四国茶旅が思い出され、懐かしい。Iさんはいとも簡単に料理を作ってしまうが、なかなか手間がかかるものだ。朝から美味しいご飯を頂き、満足。そして部屋で旅行記などを書いて過ごす。お茶を飲みに降りてくると、やはりまた四国の話となる。四国の晩茶、碁石茶などの後発酵茶はなぜ存在するのか、四国にはどういう人々が海を渡ってきたのかなど、色々な本の紹介をしてもらった。

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お昼御飯も昨晩のご馳走の残りを十分堪能した。こんな生活でよいのだろうか、と思うほど、ゆったりして、美味しいものを食べて、知識を吸収した。午後もこのペースでダラダラし、夕飯もまた美味しく頂く。Tさんたちは一体いつ来るのだろうか。彼らが到着したのは午後9時、それからご飯を食べて、お茶を飲む。そしてポーランド行の話をし、結果的に私の旅は10月以降に延期となる。お客さんがたくさん来るのに、彼が一人では対応できないからだ。

藤枝から愛知へ流れていく2016(3)茶心居、そしてインドから来た娘

 このお店、外観から見ると街の喫茶店のようにも見えるが、中に入ると、プーアル茶などが並んでおり、かなりのこだわりが感じられ、普通の喫茶店ではないことが分かる。そしてその中にSさんやGさんのお茶が置かれている。店内はこじんまりしているが、居心地のよさそうな空間だった。常連のIさんが『お茶下さい』というと、何も言わずに香りのよいお茶が出てきた。『スイーツは』というと、美味しそうなスイーツが出てくる。

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店主のTさんは15年ほど前にこの店を開いたというが、ミュージシャンでもあると聞き、驚く。そして料理もうまいらしい。こだわりは強く、茶に関する知識も豊富だ。こんなお店が名古屋にあるのか、と感心する。この周辺のお茶好きが集まるサロンのようだった。ゆっくりお話を聞きたいと思ったが、今回は突然の訪問でもあり、また次の約束の時間が迫っていたため、先に失礼してしまった。とても残念な思いが残った。次回ここに来るのはいつなのだろうか、果たして再訪の機会はあるのか。

 

後ろ髪惹かれる思いで店を出て、Sさんの車で大学まで送ってもらった。住宅街を曲がりくねり、最後は少し坂を上った。確かに近かったが、3㎞以上はあり、とても歩いていけるような距離ではなかった。その正門で待ち合わせていたのは、あのインドでお世話になったラトールさんの娘、ナイニーカだった。彼女は正門の前で心細そうに立っていた。2年ぶりに見る彼女はかなり大人びており、背もすらっと高くなっていた。

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インドから来た娘

ナイニーカと最初に会ったのは確か2009年の暮れ、私が初めてインドに行った時だった。ラトールさんのガイドのもと、エローラなどの遺跡などを見て回った後、自宅で出会ったはずだ。その時、彼女は12歳。ニコニコして聞き取りやすい英語を話し、その利発さを覗わせていた。その時の記録を紐解くと『お嬢さんに英語で話しかけると完璧な英語が返って来た。「学校は楽しいけど、数学嫌いなの。クラスは女性ばかり59人」。ミッション系の私立中学に通っている。めがねを掛けている。日本や中国と変わらない。違和感なし』

 

その後も3年前には一緒に北インドのデリー・リシュケシュの旅に行ったし、2年半前には彼らの親族の結婚式で、華麗な衣装も披露してくれた。15歳で一族の人々に花嫁候補としてデビューした時だった。2年前にはお母さんと一緒に初の日本旅行に来たが、我が家は奥さんと次男(リシュケシュでも一緒)が一日同行した。そして今回17歳になり高校を卒業して、大学に進学する前、初めて一人で6週間の短期プログラムに参加して、日本にやってきた。日本語を学ぶのだという。

 

私が一番心配したのは食事。何しろベジタリアン家庭だし、日本語は少し話せて読める程度だろうから、食べる物には神経を使うはずだった。門の前で『日本はどう?』と聞くと『いい』と言いながらも次の言葉が『おなかが空いた』だったのは、やはり悪い予想が当たっていた。学内の食堂を見に行く。土曜日の午後で閉まっていたが、当たり前ながら、インド人が食べそうなものはメニューにはない。コンビニがあったので入ってみたが、食材表示は全て日本語であり、しかも小さい文字。とても彼女が理解できるとも思えない。

 

仕方なく、どう見ても安全なリンゴジュースを買い、座って飲みながら、話を聞く。問題は食事だけではなかった。同じ寮に中国人の女性がおり、自炊しているのだが、豚肉を炒めているにおいが耐えられない、ともいう。これは単に好き嫌いの問題ではない。生活習慣上、有ってはならないことではないだろうか。当然部屋を変えて欲しいと要請したが、事務方は、週明けしか対応できない、と返事したという。海外から多数の留学生を受けている大学が、こんなことでよいのだろうか。そこにはノウハウの蓄積はないのだろうか。彼女が言うには、インド人は今回初めてこのプログラムで来たらしいが、イスラム教徒は来たことがないのだろうか。

 

そしてネット環境も万全ではなかった。部屋でネットが繋がりにくい、ロビーまで行く必要があるという。だから私の連絡に対しても対応が遅かったわけだ。インドでも数年前はWi-Fiなどないところが多かったが、今ではあっという間に普及して、彼女の家にだってWi-Fiがあり、私も使わせてもらったことがある。日本を科学技術先進国だと思ってきているアジアの若者はこの事態を目の当たりにして、どんな感想を抱いて帰っていくのだろうか。日本人として、ちょっと目の前が暗くなった。

 

大学の近くにはインド料理屋がなく、昨晩は同室の日本人が、名古屋駅近くまで連れて行ってくれて、そこで夕飯を済まし、そこでテイクアウトしたローティーを今朝食べただけだという。急いで検索して、日本人がやっていなさそうな料理屋を探す。そこへ行くのは地下鉄を乗り換える必要があったが、距離的には近そうだった。大学から最寄りの駅は既に彼女が覚えていたのでスムーズ。駅で切符を買おうとする彼女だが、どこまで乗るのか、一生懸命探さないと、料金すらわからないのが日本のシステム。

 

毎回これでは大変だと、窓口に行き、スイカのような現地のICカードを購入して渡した。こうすれば、切符を買わなくても済むし、バスにも乗れ、東京や大阪でも使える。外国人の目線で見ると、地下鉄の乗り換えでも容易ではない。何しろ表示が分り難いうえ、英語は限られている。更には到着駅から地上に上がると日本人の私でさえ、方向感覚を失う。スマホがあれば地図を検索できるが、シムカードがなければWi-Fiは飛んでいないので、検索できない。

藤枝から愛知へ流れていく2016(2)豊橋の絶品紅茶

 65日(日)
豊橋の紅茶

翌朝は雨上がり。牧之原の茶畑も何となく潤っている。朝6時には起きて、付近を散歩すると何とも心地よい。雨で空気も澄んでいる。茶畑、特に元気な茶畑を見ているとこちらも元気になるのはなぜだろうか。既に2番茶の摘み取りも終わり、夏に向けた準備が行われている畑もあり、また今日の摘み取りを待っているような畑も見えた。今日の茶摘みがないのは残念だ。お母さんが朝ご飯を用意してくれ、ずうずうしくも、たらふく頂く。日本はいいな、と思う瞬間がここにある。

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Sさんの車に乗り、豊橋に向かう。今日は前々から一度訪ねたいと思っていた、Gさんのところへ向かう。Gさんとは2年半ぐらい前に、名古屋のお茶会で知り合った。豊橋で紅茶作りをしていると聞いたので、興味を持ち、一度訪ねたいと申し入れたが、その後機会がなかった。昨年11月の下田サミットの会場ですれ違った時、『来ませんね』と言われたのが引っかかっていた。どうしても行きたいと思い、今回の藤枝セミナーを引き受ける条件としてS氏に『Gさんのところへ連れて行ってくれれば』と伝え、実現した。ただもし今日が晴れなら、自分で電車に乗って行くところを、なぜか雨が降る。この辺が農業の難しいところであり、また人生のあやか。

 

牧之原から1時間半ぐらいで豊橋に着く。特に標高があるわけでもない、普通の畑が続く。そんな中にGさんの茶畑はあった。挨拶もそこそこに茶工場に入り、茶を飲み始める。若いGさんは、様々な試みをしており、実に研究熱心。茶工場はまるで実験場のような雰囲気で、紅茶や烏龍茶など面白いお茶が出てきた。それをSさんが飲むと、かなり専門的な話が飛び出し、私などはついて行けないこともしばしば。更にはお父さんも加わり、完全な茶農家談義が繰り広げられる。

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Gさんは4代目。数年前に勤めを辞めて、実家に戻り、家業を継ぐことに。こちらのG製茶は1927年の創業、元々は煎茶を作っていたが、50年ぐらい前に紅茶を数年作ったらしい。残念ながらその紅茶は輸出用で国際競争力がなく、数年でとん挫。以降こちらで紅茶を作られることもなく、作り方も伝わらなかったが、10年前に復活。無農薬、無化学肥料で紅茶を作り、好評を博し、昨年は尾張旭の紅茶フェスでグランプリを獲得するまでになる。Gさんは茶葉の組み合わせと揉み方を研究して、最高のものを追及している。その熱意は相当のもので、ストイックに行っている。

 

茶畑を見学する。茶樹に蜘蛛の巣が掛かっている。虫も所々に見える。虫よけの棒が刺さっている。無農薬とはこういうことだろう。無農薬茶園を作るには長い時間が掛かっている。『有機JASで認める農薬も一切使わない』という話には刺さるものがある。『正しい整枝法を実行すれば、茶樹は健康になり、少ない肥料でより「うまい茶」を作ることができる』という話も出る。この辺になる正直私にはよくわからないのだが、S氏とG親子の間では盛んに議論がなされている。枝の切り方、落とし方で茶の味が変わるのだろうか。科学的なことは分らないが、ここのお茶が美味しいとすれば、それは正しい方法ではないかと思う。その他土壌造りなどにもこだわっており、この農業をやっていく、特にこれをきちんと管理していくことは大変なのだと感じる。

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現時点では収量がそれほど多くなく、G製茶の紅茶はなかなか手に入らない貴重品となっている。何しろ現地まで買いに来たというのに『在庫はありません』と言われてしまうのだから、驚きである。ウンカにかまれた茶葉を見て『烏龍茶生産にも』と意欲を示す。とにかくGさんは『うまい茶を作る』という一点に集中している。勿論ご両親がいるからできることだが、Sさん同様、両親が元気な間に新しい日本の茶を作ってほしいと思ってしまう。

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あっという間に時間が過ぎていき、昼頃になってしまった。Sさんは安城に用事があるというので、また車に乗せてもらい、名残惜しい豊橋を離れた。豊橋から安城まではすぐだった。この辺の土地勘はまるでない。いつもお世話になっているIさん宅を訪問。なぜか今晩はここに泊めて頂くことになる。何という展開。この家は一種のサロンになっており、SさんやGさんのお茶もここに来れば手に入るようになっていた。私は2階の部屋に荷物を置く。

 

茶心居へ

私の次の目的地は名古屋にある大学だった。その大学がどこにあるのかわからない、というと、Iさんが『そこは茶心居さんの近くだから一緒に行こう』と言い出し、Sさんが車を出して、何と名古屋へ向かって走り始めた。まあ茶旅とはこういう展開だとは思うものの、日本でこの展開はなかなかない。茶心居、お茶好きの人に聞いたことがある名前だが、初めて行くところである。車は小1時間で、名古屋のどこか分らない所に着いた。

藤枝から愛知へ流れていく2016(1)藤枝の報告会

《藤枝から愛知へ流れていく2016》  201664-7

 

有り難いお誘いを受けて、4月に札幌で茶旅報告会を開催した。皆さんのお役に立ったかどうかははなはだ疑問ではあるが、自分としては日本を旅しながら、お話もさせて頂けるのはとても有り難い。これで調子に乗って、全国ツアーを企画?したいと大胆な考えを起こす。ただどうすればよいのかは分らない。そんな時、お知り合いのSさんからメッセージが入ってきた。『藤枝でセミナーやりませんか?』と。これは渡りに船、日程を詰めて、予定した。ただ演題として選ばれたのは『雲南ラオスの旅』。これでいいのだろうか?まあなるようになるか。

 

1.藤枝
64日(土)
セミナーへ

最近は静岡へ行く時は新幹線など使わずに在来線に乗って行く。5時間ぐらいかかるが本も読めるし、考え事もできてそれほど悪くはない。ただ新宿や渋谷からバスもあり、料金もあまり変わらないと聞いたので、それも調べてみたが、ちょうどよい時間がなかった。今回は夕方藤枝に着き、そこから幸之松という料理屋さんで報告会を行う予定となっている。東海道本線の各停で藤枝駅に着くとおかみさんが待っていてくれ、車で連れて行ってくれた。

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車はすぐに市内を抜け、田舎道を走っていく。途中で突然工場が見てきた。『ここが日東紅茶の工場です』と言われる。日東紅茶と言えば、戦前台湾でも紅茶を作っていた会社だ。地元、藤枝付近の茶葉を使い、国産紅茶の販売に力を入れていくらしい。国産紅茶は最近、和紅茶とか地紅茶とか呼ばれ、にわかに注目が集まってきている。大手企業もそこに目を付け、本格的な生産を始めたのだろうか。何となく楽しみだ。

 

幸之松さんは、いい雰囲気の場所にあった。報告会としては思わぬ、立派な会場で驚く。相変わらず、どんなところやるのか、主催者はどんな人かもわからずに、呼ばれれば出て行くパターンだった。今回はSさんの紹介があり、それに乗っかった形となっている。Sさんからは『蕎麦屋さん』と聞いたような気がするのだが、どうみても割烹料理屋さんだろう。聞けば昼はお蕎麦屋さん、夜は懐石など、注文で作るという。こんなことを言っては失礼だが、日本の田舎へ行くと、こんなところにこんなおしゃれなお店がある、と思うことが多い。Sさんが作るお茶もここで販売されていた。

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セミナーには沢山の人にお出で頂き、話を聞いてもらった。Sさんがお茶を淹れてくれた。2月と4月に訪ねたラオスと雲南省の過酷な旅を通じて得たものを紹介する。茶の木の源流である雲南省と、その国境を接しているラオスは当然同じ文化であり、昔は国境などなく、自由に出入りしていた。実際には今でも自由に出入りしている人々がいること、プーアル茶の原料となる茶がこのルートでラオスから大量に運ばれている様子を報告した。雲南の易武山中には、清代に入植した漢族が茶を作っていた。まだまだ奥が深い茶の歴史。そのほんの一部をお伝えしたに過ぎない。

 

報告会の後は、食事会となった。料理が次々に運ばれてきて、それがまた何とも豪華で驚く。お刺身、鯛の蒸し物、幸之松で作ったトマトなどの野菜、などなど。この料理を見て、本日なぜこんなにたくさんの皆さんがここに集まったのか、その理由はハッキリわかった。少なくとも私の報告のためでないことは。そして途中でギターの生演奏などもあり、何とも盛り上がった。私も寄稿している月刊茶のOさんは皆さんに雑誌を配ってアピールしてくれたし、まあトータルには成功と言ってよいかもしれない。

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食後も皆さん、交流に余念がない。以前この藤枝のマーケットで初めて会ったIさん夫妻などは、今は東京在住だが、今晩はここに泊まるという。私も当初、ここに泊めて頂く予定だったが、明日の天気が雨ということで、Sさんの農作業が無くなり、豊橋に連れて行ってもらうため、急きょS家に泊めることに変更となる。この辺が、茶業は農業なんだな、と改めて認識する機会である。I夫妻他と、長々お話で盛り上がった後、幸之松さんを御暇し、小雨で暗い中を、牧之原に向かった。

 

S家にお邪魔するのは3回目。昨年3月には四国茶旅に出はずが、いつの間にか和歌山に渡り、そして静岡に立ち寄り、一晩ご厄介になった。何だかいつも突然やってきて、ご迷惑な話だが、夜中12時に訪れた旅人をSお母さんは快く受け入れてくれ、何とも有り難い。今晩も布団が敷かれている部屋に招き入れられ、早々に寝入る。夜中にトイレに起きると、まだ雨がしとしと降っていた。農業にとって雨は重要だが、旅人にとっては時に厄介なものである。

埔里から茶旅する2016(26)大稲埕

大稲埕

結局2時間半もクラブにいた。そして別れを告げ、Iさんとも別れた。今日はこれから人に会う予定であるが、その人はちょうど桃園空港に着いた頃だろうか。まだ時間がある、そう思うと足は自然と大稲埕の川べりへ向かっていた。台湾茶業の歴史を語る上で外すことができない場所である。1865年にイギリス人のジョン・ドッドが安渓から茶ノ木を持ち込んだと言われている港である。台湾茶業の創成期、厦門からやってきた買弁、李春生のサクセスストーリーと共に興味深い。そして茶葉貿易が活発に行われ、19世紀後半にはここに茶葉を扱う洋行が立ち並び、台湾茶が欧米に盛んに運ばれていった。日本時代も引き続き繁栄したが、近年台北の中心が東の方に移動したことで、その機能は失っている。

 

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大稲埕は重慶北路から西、淡水側に達するエリアをいう。最近は観光地となった乾物屋街、迪化街などが有名。現在も古き良き台湾の街並みを僅かに残している場所である。淡水河に達する。大稲埕埠頭はよく整備されており、昼間は観光船が発着、夕暮れ時は市民の憩いの場として機能していた。夕日が落ちていく風景をカメラに、いや今はスマホに収めている人が多い。それはなかなかきれいな景色であり、今日はここでボーっとしていれば満足、という雰囲気を十分に感じされるものだった。だがちょうどその時、メッセージが入ってくる。予定より早く面会者がホテルに到着したらしい。

 

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そのホテルはここから歩いて10分ほどのところにあった。フロントで名前を言うとすぐに電話してくれた。ここでは有名人らしい。日本人のMさん。北海道のお茶関係者から紹介された。何となく名前と存在はしていたが、会うのは初めてだった。彼は明日以降、茶葉の仕入れと、製茶体験ツアーのコーディネートのためにやってきたところを捕まえた。私も明日帰るので、絶妙のタイミングだった。

 

Mさんも元サラリーマンでその後独立。お茶で食べていくのはなかなか大変だ、とのことだったが、もう10年以上やっているようだった。私とは台湾や中国ビジネスの体験で共通点が多く、話が弾んだ。各地のお茶屋さん、茶農家も紹介してもらった。それにしてもお茶を本業として、それなりの収入を得ていくことの難しさを痛感する。結局ホテルの食堂でコーヒー一杯を飲み、2時間以上離し続けた。こういう出会いもあるのかと、茶縁の幅の広さに驚く。

 

帰りも何となく歩いていく。途中で寧夏夜市を通りかかり、一度食べようと思っていた肉飯に挑戦。これはまあ言うなれば豚の角煮ご飯。どんぶりご飯の上に、角煮がドーンと載っている感じ。やっぱり私はこういう飯が好きだ。予想以上にボリュームがあって60元、なんとも幸せな気分になる。夜市の他の食べ物も食べたかったが、腹が一杯になってしまい、散歩がてら宿まで歩いて帰る。これで今回の台湾もうまく収まった。

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61日(水)
東京へ

今日はついに東京へ移動する日となった。短いようで長かった今回の滞在。良久へ行き、魚池の紅茶を見、坪林で製茶体験、収穫はあったということだろうか。いつものように台北駅前からバスに乗り、桃園空港へ。それにしても一体いつになったら、空港鉄道は開通するのだろうか。毎回行く度にもうすぐだ、という話になるが、一向に開通しない。これがあればかなり便利なはずなんだがな。まあ、これも台湾、仕方がない。

 

空港に着くと、チェックインカウンターは長い列だったが、これまたいつものようにテキパキと処理されていく。さすがに行きに乗ったシンガポール系LCCは対応がひどすぎたので避け、日系LCCに乗る。搭乗前の腹ごしらえは、なぜかパン屋でサンドイッチとコーヒーを買うという、これまでにないパターンに。やはり飽きてきているのだろうか。しかしパンは日本の方が美味しいと言わざるを得ない。

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フライト時間3時間ちょっとで成田に着いた。今日は61日、昔は衣替えだったかな。今はクールビズの始まりか。成田第三ターミナルからは東京駅行きのバスが僅か1000円で乗れる。バスは夕日を浴びながら、高速道路を走っていき、ちょうど退勤時間の八重洲に到着した。

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そういえば、今回修理できるということで持って行ったPC。ついに修理は出来なかった、既にパーツが生産停止になっていたとの連絡を後から受けた。これを受け取りにまた台北へ行くのだろうか。茶畑行きも何となく中途半端に終わっている。次はいつ行くのだろうか。取り敢えず中国へ行かなければならい。9月以降、早めに再訪しよう。台湾は小さな島だが、お茶に関していくべきところはまだまだたくさん残っている。

埔里から茶旅する2016(25)会員制プーアル茶クラブ

 IさんもKさんも台北で働いてきて、色々と悩みを抱えている。悩むことは良いことだ、などというつもりはないが、前向きに悩み、次に展開を考えることは悪いことではない。私などもサラリーマン時代は、『前向きに悩む』ことができなかった人間であり、ネガティブ志向、先を読み過ぎ、という傾向から、かなり束縛されていたと思う。既に自分で海外に出てきて戦っている二人は、私などより、よほど強いだろう。

 

帰りはタクシーを呼んでもらい、Kさんと一緒に乗る。運転手に『中山駅』と言ったはずだったが、何となく違う方向に進んでいるよう思える。そして着いたところは先日行った、中山国小という駅。『え、違うよ』というと、運転手もえっという顔をして、急いで中山方面へ移動した。結構距離をロスしたな、と思ったが、夜遅くだから、車はそれほど走っておらず、すぐに着いた。降りる時運転手は『先ほどは間違って申し訳ない』と言い、50元を返してよこした。これで2度目だ。台北の運転手は何とも良心的だ。

 

531日(火)
秦味館 地震

本日も朝はゆっくり。そろそろ台湾も飽きてきた、ということなのだろうか。先日の会でお会いしたHさんとランチを食べることになり、また昼前に出掛けていく。場所は国父記念館近く。前回来た時もたまたま寄った国父記念館。今回も何となく横を歩いて見る。食事の場所は『泰味館』とメッセージをもらったので、タイ料理か、と思っていた。近くへ行くと実際にタイ料理屋があり、これは期待できそうだ、と感じる。

 

ところが指示された店に着くと、ここは『秦味館』だと言われて驚く。最近特に目が悪くなり、スマホの小さな字が正直読めない。完全な勘違いだった。それにしても秦の料理とは何だろうか。どうやら羊の肉などを使った中国西北料理ということらしい。お店はこじんまりしていて、何となくよい。予約はされていたが時間に行ってみるとほぼ満員で、『取り敢えずそこに座っていて』という台湾的対応だった。羊スープを飲むと、臭みもなく、旨い。久しぶりに新疆や内モンゴルのことを思い出す。羊の串焼きなどもあり、ある意味で新疆料理屋という感じでもある。台湾でもこんな店があるんだな。まだまだ知らない台湾、奥が深い。

 

 

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Hさんは台湾人と結婚して、子供もいるライターさん。精力的に仕事をこなしている。ちょっとしたことにもこだわりを持ち、調べていく姿勢がある。私などとは大違いだ。これからも知られざる台湾を日本人に紹介してくれることだろう。などという話をしていると、突然店が揺れた。かなりの揺れで、客の全員が立ち上がり、一瞬どうなるのかと思ったが、すぐに収まった。そう、台湾にも地震がある。というより、日本と同じ程度にひどい地震がある。最近も台南で大規模の地震があったばかりであり、皆身構えてしまった訳だ。

 

殆どの客が帰ってしまったが、我々は主食の麺を食べる。この麵、きしめんのかなり太いバージョンかな。そしてデザートとして揚げたパン?に甘いものを掛けて食べる。これは相当に美味しい。ちょっと洋風。こんなお菓子があるのだろうか。何となく満足しながら店を出た。Hさんは忙しそうに次のアポに向かって行った。私は3時に昨日電話を入れてもらったプーアル茶屋さんへゆっくり向かう。

 

プーアル茶屋

地下鉄大頭橋駅へ向かう。初めて降りる駅だ。地図で見ると、それほど遠くなさそうなので、駅から歩いて向かう。ところが・・??歩いて行っても住所が見付からない。というか、10分以上歩いて逆方向に向かっていることに気が付く始末。最近のボケ加減は半端ではない。また10分歩いて振出しに戻るころには汗だく状態。そして何とそこから10分歩いても目的地には着かなかった。何かが間違っている。更に5分歩いてようやくそこへたどり着く。店の前では声を掛けておいたIさんが待っていてくれた。申し訳ない。

 

店は隠れ家のようになっていて、そこがお店であるかどうかは知っていないとわからない。中に入ると陳さんが待っていてくれた。そこはお店というよりはちょっとしたサロン、2人のお客がゆっくりとお茶を飲んでいた。我々もそこに参加する。よさそうなプーアル茶がたくさん並んでいる。だが話を聞いてみると、ここはお店ではなく、会員制クラブといった形態で、茶葉の販売などもしていない。1年に一度、会員の希望者と共に雲南省にお茶の見学と買付に行き、そのお茶を分けるだけだという。ただ持ち帰った茶葉の多くは、店の倉庫に保管しておくとか。

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この会は新竹あたりで始まったらしく、既に台湾内に30のクラブが各地域に存在しているという。ここは台北支部という位置づけだが、運営しているのは、趣旨に共鳴する各個人。陳さんも創始者の活動に感銘を受け、お茶会に参加、ついにはクラブを作るまでになったという。ビデオを見せてもらうと、そこには台北市内で大茶会を開催する創始者と支援者が映っており、創始者の発言から、このクラブの賛同者の多くが、客家の人々ではないかと思えてきた。ある意味では、台湾の高山茶や紅茶ではなく、プーアル茶を選んでいること自体が、何となく不思議なのだ。勿論健康に良いとか、保存がきくとか、理由は色々とあると思うが、この仕組み、組織についてはよくわからない点も多い。

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ここは会員が自由に集い、お茶を飲み、親交を深める場所である。和室なども用意されており、様々な活動ができるようになっている。台湾の茶業の一形態として、このような会員制もありかもしれないとは思う。高級なお茶を皆で共有して、保有していく。そして本来のお茶の目的である、親睦や交流を謳うというのも頷ける。既に大陸にもこの仕組みを入れていく予定で、会員は大陸に行っても、その地域のクラブに参加できるということらしい。

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埔里から茶旅する2016(24)北村家の店長

530日(月)
不動産探し

翌朝はゆっくり起きる。朝飯を食べる気力もなく、11時前に出掛ける。中山の三越の前に来ると、ちょうど開店時間となり、コンパニオン?が丁寧にお辞儀をして、お客を迎え入れている。これも25年前、新光三越の社長から直に聞いたが、三越の良いところを全て取り込んでおり、何よりすごいのは25年経っても変わらない、ということだ。その間に店舗は一体どれだけ増えたのだろうか。北京で開業した時にはそのパーティーに呼ばれて行きもした。

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実は昨日行った行き付けの茶荘で話をしていると、『もし台北で家を借りるなら、重慶北路あたりかな』という助言があった。便利な割には比較的安い、ということらしい。それなら暇な時間にどんな所か探検してみようと、という感じで出向いてみた。と言っても、以前から古いお茶屋もあり、何度も通っている道ではある。今回はどのようにすれば借家が見つけられるのか、という点に絞って調査すればよいわけだ。

 

歩いていくと、不動産屋は沢山あった。だが殆どは売買中心で、賃貸はほんのお遊び程度。確かに一部屋何千万元もする家がゴロゴロしているのに、チマチマした賃貸などやっていられないだろう。中に一つだけ、賃貸中心のところがあり、外から眺めてみると、数万元の物件ばかり。確かに1万元ぐらいでも物件は出ていたが、相当に条件は悪いのだろう。もし本当に借りのであれば、次回はちゃんと訪ねて、内覧してみよう。ただ外国人に貸すかどうか、短期賃借はどうか、家具はどうするのかなど、問題は沢山ある。そもそもそれほど台北にいる訳でないので、また何かご縁があるといいなと思う次第だ。

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何をしていても腹は減る。ちょうど昼時で、魚翅肉羹という名前に釣られ、一軒の店に入る。老舗なのか、お客が多く、接客は『食いたければ自分でやって』という感じ。適当に座ってどうしたものかと考えていると、おばさんが気が付いて、注文を取ってくれた。日本人だとわかったらしい。魚翅とは言ってもふかひれなどは入っていなくて?もやし?と肉の羹というイメージ。野菜も頼んでみたが、どうなんだろうか、これは。

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宿に戻って一休み。午後2時にホテルにBさんが来てくれた。彼は昔の留学仲間、そして5年前に劇的に再会したのが、ここ台北だった。お互いサラリーマンを辞め、自由業で生きている。何となく理解できる相手だ。連絡すると『ちょうど紹介したいお茶屋がある』ということだったので、宿の向かいのオープンカフェでコーヒーを飲みながら、話を聞いた。台北でプーアル茶屋をやっており、外国人も含めて、広くプーアル茶を広めたい、という話だったらしい。私としては『台北でプーアル茶』には違和感はあるものの、紹介されて時間が合えば行ってみる所存。電話してもらうと、『明日の午後はOK』ということだったので、訪ねることになった。

 

それにしても、このごみごみした街の真ん中でオープンカフェとは。すごく暑いわけではないものの、クーラーの効いた店に行けばよいのにと思ってしまうが、どうやら最近の流行らしい。お客はおじさんから若者まで、結構引っ切り無しに入れ替わる。この場所代はそこそこ高いだろうと思うのだが、180元のコーヒーを売れば、十分に元が取れるだろう。日本ではすぐにおしゃれ、高級感などが話題になるが、何気ない空間とか、気軽さ、と言ったものが、求められているような気がした。そしてこの台湾でもその中心はコーヒーであり、お茶の地位は相当に揺らいでいる、と感じざるを得ない。日本の煎茶やほうじ茶なども、もっと気楽に飲める空間があればよいのに、と思ってしまう。

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北村家

Bさんと一旦分かれて、また宿で休息。宿の小さな、小さな窓から夕暮れを感じていると、ユーミンの『陰りゆく部屋』を思い出してしまう。『振り向けばドアの隙間から 宵闇がしのび込む』、どうもこれは中学生の受験勉強時、逃げ出したくなる自分、今日も何もなせなかった自分への当てつけの歌のように聞いていたと思う。この曲が頭を流れてくるときは、あまり良い状況にはない。何とかせねば。

 

夜はBさんが店長の北村家へ行く。オーナーのお父さんが作るデミグラスソースのハンバーグと、お母さんが作る総菜が美味しかったので、再訪することに。先週来、鹿谷、坪林と一緒だったIさんも誘う。そして昨年はBさんと一緒にイベントにも行ったKさんにも声を掛けた。前回は地下だったが、今日はカウンターに陣取る。遅れてきたKさんを待っていたかのように、デミグラスソースのかかったオムライスが出てくる。日本人は和食が好きなのは当然かもしれないが、いわゆる洋食も大好き。特にオムライスやハンバーグなど、お子様メニューが好きだ。歓声を上げながら3人で食べる。

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このお店、本当に流行っている。中心地でもないし、駅からも少し離れている。オーナーが日本人、しかも映画監督とい特殊なバリューもあるのだろうが、その後両親が作る料理は素朴な中に味があり、そういうところが、台湾人にウケるのかもしれない。そして何より店長はじめ、スタッフがフレンドリーであり、居心地がよい、という点があるかと思う。店長は『これも役者業の一環だ』と店長役を演じているというが、これがまたなかなか良い。

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埔里から茶旅する2016(23)昔の仕事を思い出す

9. 台北2

台北の宿にチェックイン。ここの良いところは荷物を長く預けて置けること。今回もいつ帰ってくるかわからないが、といいながら、預かってもらっていた。今や一般のホテルでは預からない、というところまであり、拠点化が出来ずに困る。先日もバンコックのホテルで荷物を預かってもらえずに、右往左往した。やはりどこかに部屋でも借りた方がよいのだろうか、と真剣に悩むが、何となく風が吹いて来ない。

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部屋でまたフラフラしていると、あっという間に暗くなる。腹も減ったので、飯を探しに行く。この付近、日本飯屋が増えている。たまにはそれもよいかと思ったが、何となく居酒屋系が多く、酒を飲まない私には入り難い。勢い、昔ながらの飯屋がある場所に足が向く。25年前、私はここのすぐ近くに住んでいた。飲み屋街が近いというのは、当時の駐在員にとって何かと便利だった。その頃からあったであろう、魯肉飯屋など、飲み屋街の端にはまだあった。

 

だが一軒の店で足を止め、何気なく注文をするとそこの奥さんは、こちらをきつい目でにらみ、無言になった。何か悪いことでも言ったかと思ったが、はっと気が付く。私のことを大陸中国人だと勘違いしたらしい。確かに私の言葉は台湾的でないところがあり、何より、たまに大陸的な物言いが起こる。言葉とは面白いもので、その態度にまで出ることがある。彼女が黙って注文の品を作り、旦那と思われる人が運んできた。彼女の心境はどういうものなのか、それはある意味で今の台湾人の心を映しているようで、文句を言う気にも、自分が日本人だという気にもならなかった。飯は美味かったが、かなり味気ない夕飯となる。

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529日(日)
Wさんと昔の仕事話

もやもやいた気分で寝つきも悪かった。翌朝どうしても気になり、再度昨晩と同じ場所へ行ってみる。その店は開いていなかったが、その付近には安い朝食を出す店が数軒開いている。サンドイッチとコーヒーで40元、やはり安い!この店の老板は愛想がいい。地元の人ばかり来る店だが、私を一瞬にして日本人と見分けたようだ。だが後から入ってきた中国人の若いカップルにも同じように接している。人にはそれぞれ事情があるのかもしれない。一概に台湾人は中国人を嫌っている、とは言い切れない。

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今日は本当に完全休養日となる。一日中宿の部屋から出ない。何をするでもない。いや、もう月末だから、決められたものを書かないといけない。でも書けない。何もする気が起きない。最近食べ過ぎだから、昼ご飯を食べる気も起らない。そうして日本のテレビや台湾の有線テレビをボーっと見ていると、もう夕方になってしまう。サラリーマン時代、日曜日の夕方ほど儚いものはなかった。何もしなかった一日を悔いたあの頃。

 

今晩は、25年以上前に台北でお世話になったWさんと会うことにしていた。彼も昨年ついに銀行を退職し、悠々自適だというので連絡してみたが、まだまだエネルギーが有り余っている。週に何回かチベット仏教の勉強に行っている。台湾でもチベット仏教は大流行しており、その授業には大勢の人が詰めかけているらしい。Wさんとはいつもの場所で待ち合わせたが、地下鉄に乗っていると突然知らない番号からメッセージが入ってきて、場所の変更を告げた。このメッセージ、信じてよいのだろうか。まあ取り敢えず行ってみよう。後で聞いたところ、彼は携帯を2台持っており、別の1台からメッセージしたため、このようなことになったらしい。『これも銀行時代の名残だよ』、経営者の秘書役だった彼は、常に忙しく、そして常に電話が掛かってきていたのだ。

 

待ち合わせ場所のSOGOに行ってみると、6時前だというのに多くのレストランにお客がたくさん入っていた。台湾は景気が悪いのだろうかと目を疑う。ベンチでWさんを待っていると、何と横に座っていた女性もWさんを待っていた。彼もすぐにもう一人の女性と一緒にやってきた。彼らは元同じ職場で働いていた同僚で、現在は一緒に仏教の勉強に行っているらしい。それにしても目指す日本料理店、既に順番待ちになっており、いつ席に就けるか分らない。

 

北海道鍋の店、というところで、肉か海鮮を選び、たらふく鍋を食べた。確かにこの場所で、この料金なら、お客が多いのも頷ける。味は日本的というよりは、台湾的になっており、そこがまた台湾人にウケるのだろう。Wさんが私を紹介する時、『昔一緒に飛行機会社の案件をやった』と言ったので、それまで完全に忘れていた過去のファイナンスの話などが蘇る。そういえば、今日見ていた有線テレビだって、元はと言えば、私がWさんの依頼で東京のケーブルテレビ局を案内して、台湾の業界形成に一役買ったことも急に思い出す。それなら台湾の有名な企業とは殆ど取引関係を作り、台湾のビリオネアーと言われる人々とも交際した。最近、そんな昔の仕事の話など、全くと言っていいほど、思い出さなくなっていたが、確かに私は台湾で色々な仕事をしてきたのだなと、急に懐かしむ気持ちになる。

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埔里から茶旅する2016(22)住んでみたくなる埔里

鍋を囲む

夕方、温泉に行っていたMさんもWさんも帰ってきた。1階にはご年配の一人旅男性もいた。Wさんから『今晩は一緒に鍋に行きませんか?』という声掛けがあり、皆で出かけることにした。暗くなった頃、Wさんの運転で火鍋屋を目指す。しかしなぜ埔里で火鍋なのだろうか。まあ細かいことは言い、皆で食べればよいのだから。5分ほど走って、店の近くに車を停めて、いざ店へ。予想以上にきれいでビックリ。お客も結構入っている。一人鍋も出来る。一人鍋は確か台湾が発祥だったような。店内は冷房がガンガン効いていて寒い。火鍋を食べていると温まってくるのだろうか。

 

まずはスープの選択。辛いのと辛くないの、半々にしてもらう。中国では陰陽鍋という奴か。そしてタレは各自が選び、具はWさんに任せる。牛肉、豚肉、野菜、豆腐と選んでいく。特に中国と変わったところはなく、スープがあっさりかな、と思うぐらいだった。まあここで食べると、北京や上海で食べるよりはかなり安い!恐らく台北より安くて肉の質が良い、ということではないだろうか。日本人をここに連れてくると喜ばれるというのでWさんは何度も来ているらしい。

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GHのいいところは、知らない人同士が、縁あって知り合うことだ。今回もご年配の方と話していると、何と私も知っているお茶関係者と昔同じ職場だったというから驚きだ。早速FBでメッセージを入れたところ、何とご本人はポルトガルにいて、『よろしくお伝えください』という。同じ日本に住んでいるのに、ポルトガルと台湾でメッセージ交換とは、さすがのネット社会。その方は食後、夜市に行くといって、別れた。歩いていくというから、遠いですよと言ったが、全く問題なく歩いて戻ってきた。昼間も暑い中、自転車で散策していたらしい。年齢は私より一回りは上だ。私はそれほど疲れてはいなかったが、一人ドミ部屋でぐっすり。

 

528日(土)
朝食とお寺

朝起きて、リビングへ行くとWさんが『朝飯を食べに行きましょう』という。行き付けのイタリアン?があるらしい。朝からイタリアン、と思ったが、その意外性に打たれ、同行する。Mさんたちも車に乗りこむ。何だが疑似家族だな、これは。お店の前に車を停めて入っていくと、何と満席。土曜日の朝、学校も休みで、家族連れもいる。そうか、こういう朝の過ごし方、昔は屋台で朝食が、今はオシャレなカフェになっている。

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このカフェはイタリアンではなく、アメリカン?完全な私の聞き間違い。トースト、サラダ、ソーセージにコーヒーが付く、豪華モーニングを食す。朝のさわやかな風に吹かれながら、ゆっくりと時間を過ごすのは悪くはない。それがある意味、田舎暮らしの特権でもあると思う。ここでロングステイしていた日本人がいたようだが、私も今度は1か月ぐらい、ここでのんびりしてみようか。いや、既に毎日のんびり過ごしているから、必要ないか。

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Wさんが『折角だからお寺に参詣しましょう』という。また車に乗り、少し田舎道を行く。牛がゆったりと草を食んでいる。山並みが向こうの方に見える。なんだかすごくいい風景がそこにあった。自転車で一人ここまで来て、ボーっとしているのもいいかと思うほどだ。そんな中にあるお寺、かなり規模が大きい。そして参詣者がかなりいる。Wさんは毎週のようにお参りに来るという。近隣の台湾のおじさん、おばさんと同じだ。仏教徒だとか、信仰心があるとかいう前に、まずはきちんとお祈りすべきなのだ。このお寺、上の方に登ると、また景色がよい。

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宿に戻り、荷物をまとめ、チェックアウトした。今回の旅でこの宿を何度、チェックアウトしたことだろうか。今日は実は魚池の茶業改良場で無料開放日のイベントがあると聞いていた。台北からIさんがやってくることも分っていた。だが、そちらへ行かず、なぜか台北を目指すことに心は決まっていた。意味はない。宿で一緒だったJさんもバスで台北へ行くというので、二人でバスターミナルへ向かう。これは先週のYさんと全く同じシチュエーション。そして更に全く同じように、12時のバスは満席でウエーティングと言われたが、もう動じない。どうせ席はあるのだから。

 

道中Jさんとおしゃべりした(前回のことがあるので声は小さめにした)。台湾で日本語教師の経験があり、バングラディシュやメキシコにいたことがある。Jさんは世界中で働いていた、何とも稀な日本女性。今回も台南の日本人宿で短期間働くためにやってきたらしい。『でもできれば台湾ではなく、メキシコで働きたいんですよね』、そんなこと言う日本人に初めて会った。これをグローバルというのだろうか。バスはまたきっちり3時間で台北駅に着いた。今回私は天津街の宿を取ってあったので、まっすぐ歩いてそこへ向かう。Jさんはどこへ行くのだろうか。

 

埔里から茶旅する2016(21)台湾の地理中心

 527日(金)
取り残されて

翌朝、起きてから劉さんの連絡を待った。今日もどういうことになるのか、皆目わからない。9時前になっても特に連絡がない。Mさんとお客の女性がおにぎりを買いに行くというので一緒に行く。台湾でおにぎりのことを飯といい、白米ではなくもち米を使うことが多い。こちらのお店では巨大おにぎりを白米でももち米でもOKとだいう。125元するが、2個は食べられない大きさ。中身はたくあんなど、具がたくさん入っている。このお店、午前540分から営業していると書いてあるからすごい。如何にも台湾的な日本飯の処し方である。

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食べ終わると、Mさんたちは、『温泉に行ってきます!』と行って出掛けた。慌ててWさんが『バス停はそこだ』と指示したが、心配なのか、付いていった。廬山温泉、何とも懐かしい響きだ。1990年頃、業界のゴルフコンペに誘われて、たまたま1泊した場所だったが、その印象は強烈だった。1930年に起こった霧社事件の首謀者の一人の奥さんが、そこに現れ、流ちょうな日本語で朴訥にその経緯を語ってくれたのだから。正直そこで初めて我々も霧社事件について知ることになる。今なら日本統治時代の汚点、原住民の反乱、色々なワードが飛び交う。

 

当時は今とは違う、戒厳令解除直後。あの228事件を扱った映画『非情城市』が台湾内上映禁止、という時代に、台湾で霧社事件がどのように扱われていたのかは全く覚えていない。その時泊まった温泉宿は、その奥さんの長男が継いでいたが、彼こそは、奥さんが事件の混乱の中を、お腹に抱えて生き延びた証だった。彼は今どうしているのだろうか、あの温泉は今もあるのだろうか、大水の被害があったと聞くが。そんなことを考えていると私も行きたくなる。因みに廬山とは中国江西省の山で、蒋介石が愛した景勝の地。廬山会議など重要な歴史的な事件も起きている。蒋介石がこの地が廬山に似ていることから付けられた名前らしい。

 

だが劉さんからの連絡はない。仕方なくこちらから連絡してみると『今日は朝から茶葉が来て製茶で忙しいから付き合えない』という。それなら廬山温泉へ行こうか、と横を見るとWさんが、廬山温泉へ向かおうとしていた。何という好都合、かと思ったが『バイクで行くんで』とつれない返事。私だけがこの宿に取り残されてしまった。えー、そんな。すぐ後でFBを見ると、楽しそうに温泉に入っている3人がアップされていた。だがここは水着で入る温泉だった。私が行きたいところとは違うようだ。

 

私が今、やるべきことを考えてみたら、洗濯があった。このGHには洗濯機が備えられており、しかも3階で干すスペースも確保されていた。この作業を1時間やっていると、腹が減ってきたので、昼ご飯を探す。前から気になっていた温州大雲吞と魯肉飯。この雲吞がプリプリしていて旨い。スープもコショウが効いていて、あっさりしたいい味出している。かなりのボリュームがあり、これで75元はお得感満載だ。台湾というのは、本当に何気ない食べ物がうまく、そして安い。これは素晴らしいことだ。

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散歩

そのまま腹ごなしに散歩をする。今日は曇り気味で、日中でも歩ける感じだった。確か松ちゃんの家の方角に歩けば、何かの碑があったはずだ。取り敢えずそこを目指そう。10分以上歩くと、街の雰囲気が無くなる。そこに1つの碑が建っていた。『台湾地理中心』、この地が台湾の真ん中だ、という意味の碑だった。日本時代の1906年に測量され、制定されたとある。なるほど、あまり考えたこともなかったが、地理的な中心というものがあるのだな。では日本の地理中心はどこにあるのだろう。ふと、そんなことを考えてしまうが、ネットで検索しても明確な答えは出ていなかった。

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この碑には観光バスが停まり、観光客が記念写真を撮っている。実際にはここから小高い丘を登った上に、碑があるようだった。ただ非常にきつそうな階段を登らなければならず、この暑さの中、上に向かっていく人はいなかった。階段の前にもう一つの碑があった。『山清水秀』という文字が見えた。もう一度説明版をよく見ると、何とここは台湾の中心ではないことが判明したので、蒋経国総統が、この文字を送ったらしい。何だかよくわからない。

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ふらふら歩いていると、かなり暑さを感じてきた。そして先ほど昼ご飯を食べたばかりだというのに、なぜか甘いものが食べたくなり、前回Yさんと行ったメロンパン屋さんで、また餡子入りメロンパンを買う。それを大事に宿に持って帰り、お茶と一緒に、一人楽しむ。宿にはまだ誰も帰っていなかった。そのまま、誰もいないドミ部屋で寝入る。なんだか不思議な感じだが、悪い気にはならない。こんな日があってもいい。夕方、洗濯物を取り込むと短時間干しただけなのに、見事に乾いていた。

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