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茶旅の原点 福建2016(14)江西省の武夷山へ

6.    河口
桐木関

車は高速道路に入った。そして少しくとトンネルがあったが、長さは3㎞と書かれている。更に行くと次のトンネルは6㎞。何と長いトンネルなんだろうと思いながら、これが武夷山山系の山越えなのだとふと気が付く。ということは先日の説明が正しければ、茶葉を担いで越えて行った人々がいたということになる。話では理解できても、実際にこの長いトンネルを潜っていると、気が遠くなる。ここを3日掛けて越えて行ったとは、何ともすごい話だ。

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高速道路を降りると山道に入る。狭い道を慣れた感じで運転してくれたが、途中で車が立ち往生していたりして、山道の運転の大変さが伝わってくる。相当の山奥に入ったところで、建物が見えてきた。そこが今日の目的地、河茶廠がある場所だった。そこだけがきれいに開発されていたが、周囲には樹木が生い茂る、完全な大自然。こんなところになぜ茶工場があるのだろうかと不思議になる。

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工場では総経理の王さんが迎えてくれた。彼女のご主人はやはり不動産開発業者で、以前にこの土地を手に入れており、数年前に茶工場を作ることにしたという。やはり万里茶路の歴史発掘がきっかけだったらしい。今は鉛山と言われる河口は、300年の昔、茶葉の集積地として栄えていた。最盛期は300人の茶師がここに集まり、茶葉のブレンドなどをしており、この茶葉が広東経由で海外に輸出されていた。この歴史はあまり知られていないが、最近はイギリスの学者が調査に来るなど注目されつつある。

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1757年に乾隆帝が対外貿易を広東一港体制としたことが河口を栄えさせた。武夷山の茶葉は、福州や厦門の港から輸出できなくなってしまった結果、茶葉を広東に運ぶ近道として、河口が選ばれた。ここから川で北へ行けば漢口を経由して万里茶路のルート、東へ行けば上海への道も開かれている。ロケーションが抜群によいのだ。1840年にアヘン戦争があり、その後福州などが開港され、更に第二次アヘン戦争で全面的に対外開放されるに及んで、河口の存在感は薄れて行った。栄えたのは約100年、その間一体どんなお茶が作られ、どんな繁栄があったのか、今は分からなくなっている。

 

王さんたちとお茶を飲む。ここで作られているのは紅茶だ。河紅、という名称で復活している。まだ再開したばかりで、これからのお茶だろう。宿泊施設もあり、今晩はここに泊めてもらうことになった。ここにはWi-Fiはなく、携帯の信号もほぼ立たないという環境だった。私にとっては絶好の休みだと思うのだが、企業オーナーである魏さんにとっては、仕事の連絡が出来なくなり、大変な状況となってしまった。

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夕飯を頂き、またお茶を飲んでいると眠くなってしまう。こんな何もない、静かで素晴らしい環境なら、寝るに限る。先に失礼して部屋に行き、シャワーでも浴びようと湯沸かし器を見てみると、何とその昔、仕事で取引した広東省の会社のものだった。懐かしい。そしてお湯を出そうとした時、落雷があり、電気が消えた。そのまま全く点かなくなる。これはもう寝るしかない、と布団に潜り込むと、ひんやりして気持ちよく、あっという間に眠りに落ちた。

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53日(火)

翌朝早く起きる。既に周囲は明るい。向こうに高い山が微かに雲に覆われている。林さんもすでに起きて散歩していたので、一緒に茶畑を探しに行く。山から流れてくる水が急だ。すごい音がする。昨日車で来た道を降りていく。歩いていると本当にここが大自然の中であることを実感する。この道路さえなければ、奥深い山の中だ。ふと見ると碑が建っている。昔この辺を歩いていて、行き倒れた人もいたかもしれない。茶葉を運ぶ道はまさにこの道だったのではと思う。

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茶畑が見えてきた。勿論もっと山奥の標高の高い場所にもあると聞いたが、この付近でも若干植えている。最近植えたのだろうか。茶樹がまばらだ。向こうのダムが見える場所まで歩いて引き返す。帰りの上りはかなり辛い。脚に堪える。竹を切り出している地元民に会う。戻ると朝ご飯が待っていた。何ともいい散歩であり、健康的な朝を迎えている。魏さんはまだ起きてこない。

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魏さんは昨晩眠れなかったらしい。何しろ時間が勝負の中国での商売において、携帯が全く繋がらない上に、充電する電気も一晩中来なかったのだから、時々起きあがってしまったらしい。中国のオーナーは忙しすぎる。朝も電気が来ると早速どこかに連絡していた。ここの王さんなどは、この山で使える強力な携帯を保持していた。やはり頻繁に連絡がやってくる。明日もどこかの役人が視察に来るとぼやいていた。彼女も家は河口の街にあり、ここまで車で1時間半はかかるという。年間100往復はするというから驚きだ。

 

茶工場を見学した。この山の中にしては近代的な工場だった。衛生面にも気を使っている。最近作ったからだろう。昨日日が暮れてから運び込まれた茶葉が室内に置かれている。機械設備も一式揃っており、後は製茶技術の向上が期待される。何しろ武夷山系に属するこの山、この涼しい環境で作られる紅茶、茶葉もいいものがありそうだし、今後が楽しみだ。

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茶旅の原点 福建2016(13)観光地でない星村の良さ

51日(日)
再び星村へ

ついに行くところが無くなった。天気も曇りがちだ。こんな日は休めばよいのだが、明日には武夷山を離れると思うと、何となく外へ出たい気分になる。昼前には宿から出て行く。まずは腹ごしらえ。いわゆる自助餐のようなところがあり、安く食事ができた。この宿の近辺はやはり庶民、そして学生のための安い食堂が多いので本当に助かる。スープの代わりに、薄い粥が付いてくるので、これもまた有り難い。

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結局バスで星村へ向かう。もうバスの乗り方にも慣れ、どれに乗ればよいかすぐに分かるほどになっていた。星村は数日前に李院長に連れて行ってもらったので、土地勘もある。バスの終点の1つ前で降りる。何となく歩きたい気分になっている。古い茶工場も見えてくる。前回は車でさっと見ただけだから、今回はゆっくり徘徊する。星村の街はそれなりの規模であった。昔は茶葉貿易で栄えたのだろうか。250年という古い木が残っていた。

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ある一角は映画のセットになりそうなほど、古き良き風景を残していた。そこだけが時間が止まったような静けさで、かなり古い木造の家が狭い路地に並んでいる。老人が竹で籠を編んでいる。全てが手作業だった。ここには観光客も入ってきていない。もし観光客が沢山いたら、この雰囲気は保てない。基本的に昔ながらの生活をする人がいる場所だから、保存できるのだと感じる。向こうに教会の十字架が見える。この辺も早くから宣教師が入っていたのだろうか。田舎で昔栄えていた場所には大抵教会がある。

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急に私の横を通り過ぎたバイクが倒れた。それほどスピードは出ていなかったが、運転していたお母さんはバイクに足が絡まり、痛そうだった。後ろに乗っていた女の子は、振り落とされたが意外と平気だった。田舎のバイクの二人乗り、気を付けないと。もし私が振り落とされたら、今や受け身も取れず、骨の一本は確実に折れているだろう。道も平らではない。横には小川が流れている。この辺も茶葉が運ばれたルートかな。

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更に進むと、もう少し時代が下った建物がある。人民公社という文字が入っていたり、中外合資の賓館などという看板もある。80年代はまだ茶葉産業に活気があったのだろうか。15年前に訪ねた武夷岩茶研究所の建物が木に覆われて建っていた。九曲の船着き場、川辺まで下りてみる。あの竹筏に乗り込む観光客が沢山見える。往時はここから茶葉が運び出されたのだろう。今は人が運ばれていく。

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橋の脇には古めかしい建物があった。今は別荘のようになっているが、古めかしく作られたものだろう。今一つ行ってみたという気が起こらない。橋の袂を見ると、窯跡という表示があるから、元は窯に関係していたのかもしれない。船着き場近くは51の連休で観光客が沢山いた。茶葉貿易での賑わいと観光客の賑わい、あの商売に熱気とはかなり違う何かがある。近づき難い。

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観光客を避けてバスターミナルからバスに乗り、そそくさと退散した。バスは休日だからか頻繁に出ており、すぐに乗れた。既に馴染んだ、川沿いの道を走り、武夷山莊の近所を通り、昨日の正山堂の店付近、景区の入り口も通り、宿へ戻った。恐らくこれだけ長い間一度に武夷山にいた、しかもすることがなかった日本人は少ないのではないだろうか。自分でもまさか1週間もいるとは思ってみなかったが、それはそれで貴重な体験を数多くした。

 

宿に戻るとさすがに疲れ果て、眠ってしまった。夜また定食屋で食事を取り、シャワーを浴びて寝る。このルーティン化した生活が心地よくなってきている。私は旅から旅と移動を続け過ぎているのだろうか。もう少し一か所に留まり、その街をよく見極め、楽しさを探す、そういったことも必要かと思うようになった。それもこの旅の成果の1つだろう。それは沢木耕太郎の世界か。

 

52日(月)
河口へ

翌朝は起き上がれず、遅くまで寝ていた。武夷山を去るのが寂しいようでもあり、また次の旅への期待もあるのだろうが、なぜか体が重い。少し風邪気味かもしれない。武夷山は天気の良い日もあったが、曇りや小雨もあり、意外や夜は涼しかったから、体に堪えたかも。取り敢えず、昼ご飯を食べ、1週間お世話になった宿をチェックアウトした。午後、魏さんたちとの待ち合わせ場所である、高速鉄道の駅へ向かう。宿の近くからバスが出ているが、なかなか来ない。タクシーが来たので聞いてみたが、40元だという。どう見ても観光地料金であり、断る。

 

何とかバスが来て狭い車内に荷物を持ちこみ、乗る。バスは市内を抜けて、かなりの距離を行く。何もないところに作られた武夷山北駅に着いたのは30分後だった。魏さんと林さんが高鉄に乗ってやってくるが、武夷山で私を拾い、車で別の場所へ行くという。『武夷山は福建省にもあるが、江西省にもある』という言葉が引っかかっていた。江西省の武夷山、それは一体どんなところなのだろうか。興味津々。魏さんたちが着く前に迎えの車の運転手と連絡を取り合い、落ち合った。ここからさらに1時間半以上乗っていくと言う。魏さんたちも予定通り到着し、出発。

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茶旅の原点 福建2016(12)観光地のお茶

430日(土)
観光地のお茶

翌日は休養に当てることにした。何しろ疲れがたまってきた。そして私の武夷山滞在はまだ続くのである。なぜ移動しないかというと、福州の魏さんが52日にここに来るので、それまで待っていることになっているからだ。魏さんも私と会った後、香港へ行ったりして忙しい。その中で私をどこかへ連れて行ってくるというので有り難く待つ。ただ流石に1週間は長い。

 

午前中は部屋でPCをいじり、粥を食っただけで過す。昼前にちょっと散歩しようと外へ出て、武夷学院の周辺を歩いて見る。茶畑があるというので、探してみたが、その内雨が降り出し退散した。近所の食堂に飛び込み、また定食を食べる。この定食、味はまあまあだが、何しろ値段が安い。ご飯やスープもお替りできる。観光地の武夷山は料金の高いレストランが並んでいるが、少し外れればこのような庶民の食事の場所があるのは、長逗留には有り難い。

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午後李院長から『急な出張が入り、武夷山を離れる』との連絡があった。既に彼は3日も付き合ってくれており、しかも私が行きたい場所は基本的に案内してくれたので、十分だった。有り難い。そして魏さんからも連絡が入る。やはり心配してくれていたのだ。『李院長がいなくなったので、別の店へ行け』と言ってくれた。その場所とは正山堂。紅茶発祥の地、武夷山桐木村で紅茶を作り始めた江さんの会社だった。昨今の紅茶ブームを招来した、金駿眉を開発し、販売した会社でもある。

 

担当者に連絡を入れ、言われた通りにバスに乗って行く。店は完全な観光地街にあった。この付近はさすが武夷山、土産物としてお茶を売る店が多かった。その中に埋もれるように正山堂、と書かれた店があった。だがなんとレイアウトの変更中。51の連休前にきれいにしているのだろうか。それにしても商品もあまりない。聞いてみると私が訪ねる人は隣の店にいるという。だが隣に正山堂はなかった。あったのは、ちょっとおしゃれなお茶屋さん。入っていくと、2階へあがれという。

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そこは何とも言えないきれいな、そしてモダンな空間。従来の茶芸の場とは完全に一線を画していた。この企画を担当していたのが、実は4年前に福州で会ったことがある女性だった。突然の再会に驚く。私がここに来た理由、それは武夷山の紅茶の歴史を知るためだったが、彼女はまずはビデオを見せてくれた。そこでは正山堂の歴史、すなわち中国の紅茶の歴史が語られていた。更に彼女は武夷山紅茶に関する本も持ってきて見せてくれ、おまけにその本をくれた。何とも助かる。

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またぜひ尋ねたいことがあった。それは4年前、福州で聞いた『1斤、9800元で飛ぶように売れていた』というあの金駿眉が今、どうなっているのかを。彼女は実に冷静に『ここ2年、販売は極めて安定している』という中国語を使っていた。だが私にはそれは『以前に比べてかなり売れていない』という意味だと解釈した。習近平政権誕生後の腐敗汚職撲滅運動で、一番被害を被ったお茶かもしれない。そして彼女が出してくれたお茶は紅茶ではなく、白茶だった。昨今のブームを背景にしている。

 

2階にある茶芸コーナーについては、従来の形ではなく、若者、特に女性にモダンなお茶を楽しんでもらうべく、工夫して作った空間だという。私にはよく理解できなかったが、その後中国の大学などで見ても、伝統茶芸ではなく、モダン茶芸が若者ウケし始める予感はある。その辺は若い女性ならではの視点で、すでに手を打っている感があった。まずはお茶に親しみ、それからお茶を買い、更には茶器なども買う、という消費循環を促す狙いがあるようだ。もう茶葉を売るだけでは持たない、茶文化を売っていく時代だということだ。

 

実はもう1つ、行こうかと思っていたところがあった。そこは正山堂から近いはずで、聞いてみると、やはりすぐそこだという。連絡すると、来てもよいと言われたので、正山堂を離れて、そちらに向かう。誰家院という名前だが、立派な建物であった。ここは茶荘なのか、それともホテルなのか。聞いてみると、泊まることもできるという。51の連休中は予約でいっぱいらしい。確かにきれいで居心地がよさそうだ。勿論料金はそれなりに高い。

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実はここのオーナーとは政和で会っていた。もし武夷山に来るなら寄ってと言われたので、寄ってみたのだが、以前は茶関係の雑誌を出していたという彼は、現在はお茶の先生をしている。そして自らも茶産地に行って、自らの好むお茶を作っているらしい。すごくたくさんのお茶が並んでおり、友人たちがあれこれ言いながら、お茶を飲んでいた。武夷山の岩茶が中心だが、種類が多い。特に百瑞香というお茶の濃厚な香りが気に入った。

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夕飯に行くという彼らに付いていき、レストランが路上に出したテーブルで食事をした。何ともフランクなお茶仲間たちで楽しく過ごす。食事を終えるとまた店に戻り、茶を飲む。こんな生活は理想的だ。泊まり客もどんどん入ってきて一層賑やかになる。私は途中で失礼して、バスに乗り、宿に戻った。今日は休みのはずだったが、やはり武夷山では休むことはできなかった。嬉しい悲鳴!

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茶旅の原点 福建2016(11)上梅を訪ねて

429日(金)
上梅

翌朝、李院長と会う。携帯番号のことを相談すると、『新しく買った方が速い』との一言で、近所のお茶屋にいた人が助けてくれて、すぐに新しい番号になった。勿論実名登録も済ませたので、問題は無くなった。ただ電話番号が変わってしまったのはやはり痛い!取り敢えず100元を入れて、様子を見ることにした。鄒さんに連絡してみたが、忙しいようで今回は会えなかった。これもまたご縁か。既に51の休みが近づいており、観光地で且つ茶の時期である武夷山には多くの客が押しかけてくる。

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下梅があれば、上梅もある。どういう因果か、下梅の鄒さんではなく、今日は上梅を訪問するという。若い女性の先生が、彼氏に車を運転させて、迎えに来てくれる。日本ではこんなことはあるのだろうか。上司の前に彼氏を連れてきて、その車で出かけるなんて。まあ、中国らしいとはいえるし、あまり違和感もない。むしろこの機会に李院長に紹介しようという目的かもしれない。車は高速道路に乗る。今日はかなりの遠出になる。

 

高速を降りて、山道を行く。途中の村で道路が塞がっており、通れなくなる。後ろからも車が詰めてきて、動きが取れない。かなりの時間を費やして脱出したが、一時は立ち往生かと心配になる。そして着いたところは、かなりの山の中にある茶工場だった。午前中にもかかわらず、製茶機がかなり動いていて、活気があった。ここでも武夷学院の学生が研修に勤しんでいる。

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2階でお茶を頂く。この茶工場は周囲3㎞に人家がなく、自然の中にある、と説明を受ける。更にここの土壌はよく、岩茶の香りがよく出るとも話が出た。ただ私の試飲能力の低さからか、どうも岩韻のようなものは感じられない。実は製茶で気になっていたことがあった。外に広い敷地があるのに、茶葉が全く干されておらず、室内に広げられていた。李院長もこの点を強く指摘していた。聞いてみると『実はこれは他の茶農家が持ち込んだ茶葉で、自分たちの物ではない』との説明を受けた。

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茶葉の摘み取りが始まり、自分のところで処理しきれない茶葉が持ち込まれてくることもあるのだろう。だがもしそうであっても、天気が良いのに、日光萎凋が全くない茶作りをしているところがあるとは、正直驚きだった。これを見てしまうと、他の作業工程も手を抜いているのではないかと疑ってしまう。岩茶と言っても大量に作られており、一抹の不安を感じた。学生の研修としても好ましいとは思えない。儲け主義の一端を垣間見る思いだ。

 

お昼はやはり工場で頂く。食後、学生たちが散歩に出たので、後をついて行ってみる。聞いてみると『労働はかなり疲れる。夜も眠れない』などの不満が出てくる。そして『フルーツが食べたい』と言った女子は、山道の道端で野イチゴを見付けて、摘み出した。かなりの量を摘んで皆のお土産にした。こんなことは日本の学生ではできない、中国でも田舎の子の特性だろう。因みにこの小さなイチゴはかなり甘く、美味しかった。工場の周囲は確かに環境がよかった。山沿いに茶畑が広がり、理想的な風景に見える。

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もう1つの茶工場へ行こうと、皆で車に乗る。学生だと思っていた若者の中に、卒業生が数人おり、先生に付いていくというのだ。彼らはここで製茶研修を行い、懐かしさで再訪したという。もう1つの工場は別の村にあったが、こちらは摘まれた茶葉が敷地一面に敷かれており、李院長も早速見分して、茶葉の摘み方と日光萎凋について、指導をしていた。こちらは正常な製茶工程が遂行されていた。茶業者によって質がかなり違うということだろう。

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その後、その村の近くを観光することになった。遇仙橋というかなり古い橋を見る。橋の真ん中に像が置かれている。何だかベトナムのホイアンに架かる日本橋を思い出した。小川が流れる中、数百年前にこの橋を渡った人がいるのだろうか。この付近はなぜか、昔の佇まいを完全に残しており、もう少し先には、昔の村がそのまま残っていた。茶畑はないものの、茶景村という名前に心惹かれる。村の大木は数百年前からこの景色を見ていただろう。

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夕方になり、朱熹の故居にも行ったが、博物館になっているその家は既に閉まっていた。紫陽楼遺跡という石碑が建っていたが、何だろうか。その付近で地元料理の夕飯を頂き、真っ暗になった高速道路に乗って帰る。高速で30分も走ってようやく武夷山に戻ったところで、初めて相当遠くに来ていたことを知る。部屋に戻るとかなりの疲れが出て、すぐに寝てしまう。

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茶旅の原点 福建2016(10)武夷山を歩く

428日(木)
崇安と武夷山景区

翌朝はゆっくりと起きた。今日は予定が特にない。李院長も流石に毎日付き合ってくれるほど、暇ではない。天気は悪くない。出掛けるべきだろうと判断して、昨日会った鄒さんの事務所へ伺えないか、電話してみた。だが電話が通じない。何度かけても繋がらない。彼の電話が使用停止になっているようだ。料金が未払いなのだろうか、とその時は思ったのだが。

 

仕方がないので、武夷山市内へ行ってみることにした。まずは近所にあったベトナム料理屋でフォーを食べる。福建には美味しい麺が沢山あるのに、それでも学生たちはフォーを食べている。いつも同じ麺では飽きてしまうのだろうか。大学の近くのレストランは基本的に安いのがよい。国が発展したと言ってもまだまだ貧しい学生は沢山いるのだ。それからバスに乗ってみる。

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15分ほどでバスは街中に入る。適当に降りて、古い街並みなどないかと探す。今や中国はどこの街に行っても、作りがほぼ同じ、チェーン店など店もほぼ同じで、面白くない。昨日李院長は『万里茶路の起点は赤石と崇安だ』と言っていた。崇安とは今の武夷山市内、少し歩くと、古そうな狭い道が現れた。南門街と書かれたその道には雰囲気があった。今でも両側に商店などが並び、洗濯物が干され、生活感もある。細い路地に入るとやはり川があった。ここが赤石と繋がっていることが分かる。ただ茶葉に繋がるものを見ることはなかった。

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川を渡って向こう岸へ行くと、そこは実にのどかな田舎の風景。ただそこにはひなびた村、花橋があった。大きな木があり、その歴史が垣間見える。この川には真新しい、大きな橋も架かっていた。歴史的な橋の復活だろうか。元の道に戻ると、城南小学校という立派な外壁が見える。この辺は下梅で見た祠を想起させる。他にも赤石で見たような建物もあり、ここが100年以上前には栄えていただろうと勝手に想像する。

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大きな道に出ると、ちょうどバスが来た。見ると武夷山莊へ行くらしい。何も考えずに乗り込む。これで崇安とはお別れだ。バスは元来た道を戻り、更には武夷山景区に動いていく。何だか懐かしい風景が広がってくる。そして川を渡り、山の中へ。ついにバスは武夷山莊の前で停まった。付近には観光客が歩いている。あれ、こんなところだっけ、と一瞬戸惑う。

 

武夷山莊は200012月、私が泊まった宿だった。当時木はそれほど茂っていなかったように思う。背景に岩山が見えていたと記憶がある。今はいい雰囲気に隠れている。広い敷地、歩いて上っていく。ホテルの建物は恐らくリノベーションされていた。庭も相当にきれいになっている。当時も高級な宿だったと思うが、今や料金も高いだろう。取り敢えず1周してみたが、思い出せるものはなかった。やはり15年の月日は長い。

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山荘を出て隣の敷地へ。武夷宮は改修中で見学できず。その先は観光地化している。この辺はさっさと通り抜ける。九曲渓に出た。如何にも武夷山の風景だ。橋を渡ると、そこからは家もなく、道が続くのみ。そして横道へ入る。そこは茶作りの村だった。道は細い一本道。道なりに行くと、天日で茶葉を干している家がある。茶畑も見えてきた。こんな風景を期待して歩いていたので、喜んだ。

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そこからずっと歩いて見た。天気は良いが、道の両側に木があるので、何となく涼しさも感じられる。横に川が流れているのも大きい。ただ観光バスなどがバンバン走って来るのはちょっと。この道は星村まで続いているはずなのでそこまで歩いて行きたかったが、疲れてきた。その辺はちょうど筏下りの流れがよく見えた。川沿いに行き、それを何となく眺めて過ごす。

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ちょうどバス停があったので、そこからバスに乗ろうとしたが、手を上げても通り過ぎてしまう。どうやらここは特定の観光バスだけが停まると分かり、更に歩く。ついに到着した場所でも、星村行バスは停まらない、と言われ、ショックで疲れが一気に出た。とぼとぼと元来た道を歩いて戻る。来る時は軽やかだった足取りは重い。坂があれば気持ちが萎える。何だか天気も暑くなる。何とか茶畑のある村まで戻り、そこからバスに乗る。

 

宿に戻ればよかったのだが、バスは途中で景区を通った。何となく降りる。15年前、世界遺産になったばかりの武夷山で、大紅袍の原木を見た記憶がある。岩の上に生えていた。折角来たのだから、見ていこうと思い、門のところへ行くと、チケットが必要だという。今や中国でも有数な観光地であるから、当たり前と言えば当たり前なのだが、茶樹を見るためだけに多額の支払いをするのはどうなのだろうと思い、止めた。周囲の広場でも茶葉が広げられ、干されていた。付近は皆茶業者だった。茶作りの最盛期、茶葉が香る。

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宿に戻ってくると李院長からメッセージが入った。『あなたの携帯電話が止められている』と。一体何が起こったのか。よくわからないので、近所の携帯ショップで聞くと、とにかく使用停止になっているので、中国移動の店へ行け、と言われる。その店は武夷学院の中にあったので、何とか探し出して、聞いてみる。すると『実名制ですね』というではないか。私のこのシムカードは数年前、香港にいる時に便利なように深圳で購入したものだ。その時は実名登録など不要だったが、現在は全てのシムカードを実名で登録しなければならない。それをしていなかったので、切ったというのだ。何という突然、昨日まで使えていたものが予告なしに。

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店員に掛け合っても無駄だった。彼も気の毒に思い、色々としてくれたが、最終的に実名登録は購入地区、私の場合は深圳、いや広東省へ行かないと復活は出来ないと分かる。このシムには300元以上お金が入っており、かつ中国の知り合いは全てこの電話番号を知っている。これを変えるのは困ったことになる。何とかならないのだろうか。何とも暗い気持ちで学院内を歩いていると、夕日が妙にきれいだった。そして急に腹が減る。近所の定食屋で思いっ切り食べてみてもどうにもならない。因みにネットで実名登録ができるとの話もあったが、それも外国人は無理だった。

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茶旅の原点 福建2016(9)茶農家と不動産屋が手を組む時代

星村へ

そのまま宿に戻るのかと思いきや、李院長は車をまた別の方向に向けた。先ほど話題に出た星村へ行くという。桐木には入れないが、星村は観光地なので、いつでも見られる。途中、山の中に入る。突然かなり大きな登り窯が見えてきた。建窯と書かれている。宋代に天目茶碗などを製作して皇帝に献上し場所だが、確か15年前に行った場所の名は水吉だったはずだが。

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よくよく見ると、ここは一遇林亭窯、という別の名前だったが、建窯の遺跡として、復活している。かなりの規模に圧倒される。15年前の水吉の窯は日本の愛好家などがお金を出して作ったほんの小さいものだったが、今では大きく作り変えられているかもしれない。このあたりにも中国の変化がよく見える。以前は価値のないものと放置されていた物が、ある日突然脚光を浴び、変化していく。今の中国は、観光資源を探しており、何でも掘り返されていくという印象が強い。

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星村へ行ってみたが、万里茶路と繋がる遺跡は何も残っていなかった。古い建物も港もすべて新しくなっており、微かに歴史を留めるのは天上宮という名の廟だけだった。かなり立派な廟ではあったが、茶葉貿易のことなどすっかり忘れ去った清々しさが漂っており、長居する場所でもなかった。ここも文革では破壊されたのだろうか。

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川の方へ行ってみる。昔の港は既になく、今は観光客を乗せる筏船の発着場所になっている。武夷山の観光名物の一つである筏下り。私も15年前に一度経験したが、昔はこの九曲の流れの中を茶葉が運ばれていったのだろう。ここだけは多くの人で賑わっており、次々に筏が出発していく。何となく川の流れを眺めていると人が茶葉に見えてきた。

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茶農家が別荘を

さて、帰るのかと思っていると、車はまた山道を入っていく。そこには比較的大きな茶工場があり、ちょうど茶葉が運び込まれ、製茶が行われていた。ここにも若者が沢山いるなと思っていたら、やはり武夷学院の学生だった。李院長はいくつもの派遣先を確保して、学生を研修に送り出し、理由をつけては、その状況をチェックしに来ているようだ。元々製茶経験が豊富な彼は、自ら茶葉をみて指導に当たる。それがまた茶農家にとっても為になるようで、皆真剣だった。

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工場の脇の建物、中は相当きれいな内装になっていた。今や武夷山では茶農家、などというイメージはなく、会社のようになっているところが増えている。ここで目についたのが大きな茶壷。それも1つや2つではない。100個近い壺が置かれている。そして何と私にも一個くれるというのだ。その条件は『10年後に取りに来ること』。ここのオーナーは記念として、友人や市の幹部などに、このようにして茶葉を送り、長い付き合いをお願いしているらしい。

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私などは10年後、どうなっているか分らない。もしこの茶葉、岩茶を味わってみたい人がいれば、10年後取りに行ってほしい。だがどうなっているか分らないのは私だけではなく、中国人や中国そのものの将来も全く見えてこない。そんな中だからこそ、敢えてこんな企画をしたのかもしれないが、果たして、どれだけの人がこの茶を飲むことができるのだろうか。因みにこの茶工場も街の区画整理の対象になっているようで、移転を余儀なくされるという。

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オーナーが食事に行こうと誘ってくれた。また工場で食事するものと思っていたら、車で移動を始める。山を下り、幹線道路を走り、また山の中へ。一体どこへ行くのだろうかと思った頃、着いた場所はどう見ても別荘地帯。武夷山の不動産業者が数年前に山の中の土地を取得し、最近開発したらしい。武夷山の景区内での開発は一般的には難しいはずだから、相当早い時期に認可を得ていたに違いない。

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我々はなぜここへ来たのだろうか。実は先ほどの茶業者と、この不動産会社が手を組み、環境抜群のこの場所でエコツーリズムを手掛けるというのだ。武夷山という場所柄、茶畑という風景も欲しいということか、お茶の販売だけでは以前のように儲からない茶業者の事情もあり、実現したコラボだった。この大自然の中で茶畑を眺め、お茶を飲む。そして別荘に泊まり、そこのレストランで食事をとる。そんなコンセプトらしい。これからは茶葉を売るのではなく、それを飲む環境を売るのだとか。

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まだ正式に開業しておらず、我々は試食に訪れた格好だ。他にも友人たちが参集してきて、賑やかに食べ、賑やかに批評していた。不動産で儲かる時代が過ぎてしまった今、各地方では、観光とエコを取り入れた、このような取り込みが行われている。その担い手は既に不動産で儲けた人々であり、彼らが文化を語り出している。

 

夜も9時過ぎにお開きとなり、市内へ戻る。武夷山は観光の街として栄え、道路脇には沢山の土産物屋が並び、灯りが煌々とついている。エコや大自然を見てきた今、この電気の光は何を意味しているのだろうか。これが現代中国のエコ産業であり、茶産業の現実であるともいるかもしれない。それでも前に進んでいかなければならない、日本のような停滞は意味がない、と言われているような気がした。

茶旅の原点 福建2016(8)観光地化する下梅

427日(水)
下梅へ

翌朝は宿の前にあった美味しそうな牛肉麺を食べた。内臓系が入っており、私の好みの味だ。毎日通いたくなる衝動に駆られる。朝から幸せな気分で李院長の迎えを待つ。今日は万里茶路の本命、下梅に連れて行ってくれるという。しかもその下梅の歴史を掘り越し、世に知らしめた鄒全栄氏も同行してくれるというから、まさにお茶のご縁に感謝だ。

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下梅は武夷山市内から車で30分ほど行く。道路は快適で、何となく下っていく感じ。やがて下梅の街に入り、万里茶路の起点という石碑が見えたが、通り過ぎてしまった。そこで見えた景隆号というお店、それが鄒氏の昔からも屋号だった。李院長は、反対側の川を指し、『ここ、梅渓から茶葉が積み出された。最盛期は1日に300の筏が出て行った』と説明してくれた。ちょうど電話が鳴り、鄒さんが待っている場所へ移動した。

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いい感じの小川が流れており、ちょっと観光地化されたような場所だったが、そこには媽祖を祭る廟と鄒氏の家祠が残されていた。武夷山はかなりの山奥であり、昔なら猶更だが、なぜここに海の神様である媽祖廟があるのだろうか。勿論これも茶葉の道と無関係ではない。そして家祠、往時としては非常に立派な作りであり、しかも横を見るとイスラム風の入り口まである。これはイスラム商人もここまでやってきてことを示しているようだ。

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中もかなり広い。一般にも開放しており、観光客や地元の人が訪れている。鄒氏はかなりの有名人であり、色々と声がかかる。万里茶路研究所も立ち上げており、資料は街の事務所にあるらしい。更に行くと、非常に細かい細工が施された扉があったり、裏庭は往時のあこがれ、蘇州の拙政園を模していたりと、贅が尽くされている。

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鄒氏は既に29代目だという。清代康熙帝の頃、貧困のため江西からこちらへ移ってきたらしい。そして茶葉を扱い、山西商人の常氏と組み、茶葉貿易に従事、巨万の富を築いていく。今でもその倉庫跡が残されている。川に向かって垂直に倉庫があり、片方が鄒氏、もう片方が常氏と別れて茶葉を管理していたようだ。これで利益分配も明確だったかもしれない。

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鄒全栄氏は長年教師をしており、最近定年となった。その傍ら、自身の祖先について、研究を進めてきた。その努力は相当なものがあったことだろう。成果が実り、折からの万里茶路ブームと相まって、その名声は高まり、政府も遺跡の保存に手を貸すようになる。ここが昨日行った赤石とは違うところだ。歴史は掘り出すもの、そして経済的な効果がそれを支えるもの、現代中国ではそのようになっている。それがよいかは別として、価値があると認められれば保存される、というのは、歴史的には重要なことだろう。

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ランチに

郊外の広い敷地に『万里茶道の起点』というモニュメントがあった。あまりに真新しく、何の意味もないように思えたが、ある意味で政府がこれを建てたことにより、下梅は認知されたといるかもしれない。政治と経済、文化は中国では一体なのだと実感する。

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昼時になる。李院長の部下に当たる先生からランチのお誘いがあった。鄒氏も同行して、市内へ戻る。鄒氏も現在の家は市内にあるという。その食事の場所は、広々としたところで、庭に水車などもある実に立派なレストランだった。そこにはお茶工場も経営しているという青年が待っていてくれた。彼は何と大阪に留学したことがあり、日本語も流ちょう。日本企業とも色々と商売をしているらしい。食事も豪華、そして彼の製品である割りばしが出てきてそれを使って食べる。日本にも輸出しているという。

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星村の上の桐木に工場があるという。そこは私も是非行きたい場所。なぜならそこで紅茶が作り出され、万里茶路のルートに乗ってロシアまで運ばれたからだ。食事をしながら彼にさりげなく、『茶工場を拝見したい』と言ってみたが、なぜか色よい返事はなかった。この近くに別の加工場があるよ、などというばかりだ。あとで聞くと『桐木は現在政府による規制があり、一般人の立ち入りは禁止されている。中国人の場合、受け入れ人がいれば問題なく入れるが、外国人の場合は、正式の申請が必要であり、それはとても面倒だ』ということだった。

 

この件で迷惑を掛ける訳にも行かず、また私個人は『入れない』ところに無理に入るつもりはないので、流れに任せた。ただなぜこの会食がセットされたのか、その意味は十分に分かった。しかしなぜ桐木に外国人が入れないのか、それは謎だった。生態系を保護するためだ、と説明されても、中国人は容易に入れるのだから、外国人もツアーなどに制限したうえで入れた方が観光資源的には望ましいように思う。それとも何か秘密でもあるのだろうか。

茶旅の原点 福建2016(7)武夷学院にある茶学院

426日(火)
武夷山へ

翌朝も気持ちよく目覚めたが、外は曇り。私にとってはとてもいい雰囲気なのだが、茶作りでは晴れ間も欲しいはず。朝ご飯を頂き、この地にも別れを告げる時が来た。楊さんが出てきて、一緒に写真に収まる。彼は一見気難しいが、心配りがある。結局バスで行くという私を制して、茶工場の車で武夷山まで送ってくれた。何とも忙しい時に煩わせてしまい申し訳ない。お土産に白茶と紅茶までもらってしまった。

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車は政和の街を出て高速に乗る。この道、全く車が走っていない。確かに中国の高速道路網の発達は素晴らしいが、ここまで使われていない道も珍しいのではないか。途中トイレに寄ったが、そこにも殆ど人はいなかった。僅か1時間で武夷山に入った。私が武夷山を訪れたのは15年も前の話。茶旅の始まりは武夷山だったが、その後一度も来ていない。皆に不思議がられるが、来ていないものは仕方がない。どの程度変化しているのか、車から見ても想像がつかない。

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5.    武夷山
武夷学院

今回武夷山でお世話になるのは武夷学院。車は門までやってきたが、指定車両以外中には入れないというので、そこで降りた。この大学には茶学院という、日本で言えば茶学部が存在する。紹介されたのはそこの院長。大学を入っていくと、何とも広い敷地で戸惑う。学生に聞いても、茶学院を知らない子もおり、難儀する。敷地内は校舎というより宿舎が続いている。

 

何とか探し当てた茶学院。李院長は待っていてくれた。実は彼が指示しところとは違う門から入ってしまい、ものすごい距離を荷物を引いて歩いたことが分かった。武夷学院は全校生徒15,000人、茶学院の生徒は1,500人とその1割。それにしても日本から考えればすごい数だ。その学生が、茶樹の育種から製茶、はたまた茶文化まで、茶に関することを総合的に学ぶというのだから、さすが中国。日本にはこのような学部はなく、学科すらないと聞いているので、なんとも羨ましい限りだ。

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院長に促されて先生たちとランチに行く。先生も皆比較的若く、ここの卒業生が中心だ。茶文化などの専攻だという。その後、院長が予約してくれた宿に行く。当初、魏さんが院長に『折角だから学院内の学生宿舎に泊めてやってくれ』とお願いしていたが、さすがにそれは出来なかったらしい。学院の外にある宿は意外と広くて快適。有り難い。

 

それから卒業生の一人が迎えに来て、学院内を案内してくれた。やはりかなり広い。その中には図書館があり、その近くに万里茶道文化研究院なるものもあったが、閉まっていて見学できず。武夷山と関連がある朱熹の研究会もあるようだ。裏手には茶畑もあるとのことだったが、雨が降ってきたので見学は中止した。そこへ李院長が車でやってきた。

 

万里茶路の起点

李さんは『あなたが行きたいのは万里茶路のスタート地点だね』と念を押し、車を走らせた。私はてっきり有名な下梅に行くものだと思っていたが、意外にも車は比較的近くで大きな道から逸れ、デコボコ道を走る。そこはよく見ると、武夷山の飛行場の横だった。何でこんなところへ来たのか、不思議だった。雨でぬかるんだ道を突き当りまで行くと『着いたぞ』という。そこに今にも崩れそうな建物が建っていた。

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赤石、というその地名を初めて聞く。そして『ここが本当のスタート地点だが、誰も歴史を掘り起こさず、忘れ去られた場所』だという。そこから川沿いに路地を入っていくと、建物が並んでいたが、どれも皆古い。中には以前は倉庫と店だったと思われるものもあったが、今は普通の家として使われているか、放置され、ひどい状態になっている。地元の人に聞くと『昔はかなり栄えたと聞くがね』と既に今生きている人々の時代には朽ち果てる一方だったとの声もあった。

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川はそれほど大きくないが、よく見ると、石造りの坂があり、いまだに筏が置かれているところがあった。往時は先ほどの倉庫への茶葉の搬入が頻繁に行われていたに違いない。茶葉はいったんここへ集められ、広東体制下では、人間が担いで武夷山を越えたとも言われている。アヘン戦争後は、川で福州や厦門方面に流れて行ったはずだ。今見ても古い木と、商人が商売繁盛を祈願した廟だけがそれを知っているようだった。廟の管理人も『昔は立派な廟だったが、文革で破壊されたよ』と悲しそうに話していた。

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茶園へ

その後は茶園へ向かう。武夷学院を通り過ぎたあたりで山へ入り込んだ。結構急な坂を上る。李院長が『昔から茶作りをしているから、山道の運転は得意だ』というだけのことはある。細い山道を軽快に走っていく。上の方へ行くと見事な茶畑が広がっていた。きれいに管理された茶畑だ。しばし皆で茶畑と戯れる。こんな時間が心地よい。

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茶農家を訪問した。李院長はよく知っているようで、ずかずか入っていく。そこでは昨今流行りの肉桂を作っていた。肉桂は昔からあるが、なぜ今流行っているのだろうか。『馬肉、飲む?』と聞かれ、キョトンとした。牛肉という言葉も飛び交っている。なぜ肉を飲むのか、見当もつかなかった、なんとそれはお茶、肉桂の種類だったのだ。

 

この農家は以前別の仕事をしていたが、空気がよく、水もよい、この土地の環境に見せられ、10年前に就農したという。茶園の管理や製茶法などを学び、今ではかなりいい物が出来てきている。確かに街に近い割にここの環境は抜群だ。夜も静かに暮らせるというが寂しいぐらいだろう。小規模の工場では製茶作業が続いていた。

 

よく見ると作業しているのは若者たち。李院長が『あれは皆、うちの学生だ』というではないか。何と20日間茶農家に泊まり込み、製茶研修をしている。人手が足りない農家と、製茶の勉強をさせたい学院のニーズが一致した結果だとか。確かに23日程度の製茶体験では本当のことは分らない。雨の日も晴れの日も、茶作りに関する理解を深める必要がある。李院長自身が昔は製茶をしていたそうで、この発想は良い。作業後の彼らと一緒に夕飯を頂く。

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茶旅の原点 福建2016(6)政和白茶を勉強する

この建物には事務所やセミナールームもある。もう一つの建物へ行くと、ちょうどお客さんがいて、白茶の分類を説明していた。私がなぜ政和に来たかったかというと、それは香港での体験に基づいていた。ある時、香港の茶問屋さんから何気なくもらった白茶、寿眉。白茶では一番グレードが低いのだが、駄菓子屋の紙袋に入っていたその寿眉、1か月後ににおいを嗅ぐと、すごくいい香りがしたので驚いた。一体どこの白茶かと聞くと『政和』との答え。白茶は政和が最高さ、という言葉が耳から離れなかった。

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白茶と言えば福鼎と言われているが、実は政和の方が歴史もあり、いい物もあるはずだ、ということだった。ついでに白茶のグレードも銀針、白牡丹、寿眉の順番だが、銀針などは立派過ぎて、美味しいと思えない時もあり、白茶は寿眉で十分だ、と思うようになっていた。これはコスパの問題かもしれない。因みに一般の香港人が飲茶の時に飲むお茶も、寿眉が多かった。一番安いお茶だが、これが健康の秘訣かもしれないと思うこともある。

 

この敷地内には崇徳堂という建物もあった。かなり古い建物だったが、中に入るとモダンな茶室が2つもあり、更には相当の書籍も置かれていた。ここはお茶を作るだけではなく、お茶文化を発信することを目的にしている。そして別棟はティショップになっており、観光に来たお客さんはここでお茶を買って帰るらしい。何ともよく作られている。

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夕暮れが迫ると、夕飯の時間になる。食堂へ行くと、地元で採れた野菜、地元の鳥肉などがテーブルに並んでいた。これもまた良い。茶工場で地場の食事をとる。ここでオーナーの楊豊氏が一緒の席に着いた。白茶の伝統製法伝承人、ちょっと気難しい人なのかなと感じた。何かを考えながら、そしてスマホに目を落としながら食事をしている。忙しそうなので、敢えて声はかけなかった。

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だが食後、彼は気を使って私を案内してくれた。場所は茶葉を室内で干している渡り廊下のようなところ。笊に入れられた茶葉がずーと先まで置かれていて、なんとも壮観!ここで彼は一言『白茶作りで一番大事なのは風だ!』と言い、小窓を開けて見せた。政和にしかない風、それがこの白茶を作るというのだ。勿論言葉で説明されただけではわからないことではあるが、実に説得力はあった。

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更には夜、私のために2時間も時間を空けてくれ、質問に答えてくれた。主には政和の茶の歴史についてだが、それ以外にも現状なども詳しく話をしてくれた。政和という地名が茶の世界で忘れ去られることがないよう、勤めているのかもしれない。しかも政和は白茶だけが有名なのではない。昔から政和工夫という紅茶もあり、その製法を用いて作られたのが祈門紅茶である。なぜ今、祈門だけが有名なのかは、とても疑問なのだ。

 

今晩は白茶をたらふく飲んだので、眠れそうにない。でも私を送ってきてくれた林さん、武夷山に行くのは明日にするとのことで、私の横のベッドに転がり込んできて、眠っている。私と同じような人が中国にもいるんだな、と心強くなる。一人でも二人でも料金は一緒であり、かつオーナーの配慮で特別料金になっているので、林さんがいると更にお得感がある。

 

425日(月)
ツアー客がやってきて

翌朝は早めに起きる。外を眺めると曇りだが、眺めはとても良い。農村の朝は早い。朝ご飯の声が掛かり行ってみると、お粥に卵、まんとうなど、健康的な朝が待っていてうれしい。こういう食事をとっていると体が軽くなることを、安渓の張さんの家で何度も経験している。食べ終わるとそのまま散歩に出る。立派な門があり、茶工場の周囲には茶樹が少し植わっていた。

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茶畑はかなり遠くにあるが、工場の裏手の山にも茶畑はあるとのことだったので、スタッフに案内を頼み、坂を上っていく。かなり急な坂であり、かつ最近雨が降った影響で滑りやすくもなっており、意外と危険だったが、何とか登りきる。茶樹がきれいに植わっており、その向こうには小さな政和の街が微かに見える。何ともいい風景だった。

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戻ると林さんがお茶を淹れてくれる。何とも幸せな時間だ。外を見ると団体がやってきた。武夷山からの日帰りツアーだという。リーダー兼ガイドは楊さんの友人のようで、岩茶に詳しいらしい。お茶に詳しい人、全く知らない人が混ざり合ったツアー。製茶の工程などを実際の茶葉を見ながら、進めていく。更には楊さん自ら最上階のセミナールームで講義を行っている。こういうツアーがあったら、参加したい日本人は沢山いるだろう。

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ツアーの人々は思い思いの時間を過ごし、ランチを食べてゆっくりと帰って行った。林さんもそのバスに便乗して武夷山に向かった。お客が帰って暇になるかと思い行きや、ちょうど雑誌が届いた。政和が特集されており、楊さんも取材されていた。なかなか格好良く写っていると思ったが、彼は満足していないようだ。『せっかくあれだけ説明したのに、真の意味を分かってくれない』と嘆く。その日もお茶を飲み、美味しい地場料理を食べて、聞きたいことを聞き、そしてぐっすり寝る。環境がよいと本当にストレスがない。

茶旅の原点 福建2016(5)白茶の里 政和を目指す

どこへ行くのか

紅茶屋で、魏さんが『今回はどこへ行くのか』と聞いてきたので、『武夷山に行きたい』というと、『それなら紹介できる人がいる』と言い、すぐに電話を入れてくれ、相手も了解してくれた。更に『出来れば武夷山の前に政和へも行きたいがどうか』というと、それもまた電話を入れてくれ、受け入れOKを取り付けてくれた。これには魏さんの友人の林さんの助言もあった。中国は、実際に来てから、色々と決まるので、何とも面白い。

 

次にどこへ泊るのか。昨日泊まったチェーンホテルは、昨年よりかなり高かった、と言ったら、『どこか安いところを探そう』と言い、魏さんのスタッフと林さんが何と探しに行ってくれた。そして30分ぐらいして、『ここでよいか見に行こう』というので、道路の向かい側にあるそのホテルへ行ってみた。確かに古く、何より階段しかない5階建ての5階。

 

何だか付け加えのようにできた狭い部屋だったが、安かったし、Wi-Fiとクーラーがあった。折角探してくれたので、ここに泊まろうと思い、5階から1階へ戻りチェックイン。だがパスポートを出すとやはりダメ、中国の身分証が必要と言い出した。そこで林さんたちが色々と交渉を始める。最後は何となくOKになってしまったが、安宿に中国人以外が泊まるのは難しくなってきている実情が露骨に出てきていた。

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また紅茶屋に戻り、お茶を飲む。夕飯は隣から鴨麺を取ってもらい、食す。福建の麺ではないだろうが、これが意外とうまい。食後もまた紅茶を飲んでいると魏さんの微信に連絡が入り、友人のお茶屋さんへ行くというので同行した。散歩がてら歩いていく。狭いが居心地の良いお茶屋さんに入り、またお茶を飲む。とりとめもない話をしていると、また魏さんの微信が鳴り、別の店からも誘いがある。

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タクシーに乗り、そちらに向かう。分り難い場所にあったその店も、こだわりがありそうだった。福州の夜は遅い。ここでもお茶を2-3種類飲んで、退散する。本当にお茶で繋がっている人々が沢山いる。疲れて宿に戻り、階段を上がるのはちょっと辛い。まあ熱いシャワーも浴びられたし、問題はない。Wi-Fiなどはむしろ設備が稚拙なので、VPNをかませれば、FBGoogleも丸見えだ。

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424日(日)
政和まで

翌朝は疲れたのでゆっくり起きる。そして朝ご飯を探していたが、まずは今日乗る政和までのバスのチケットをゲットした。午後1時出発と決まる。朝ご飯は雲吞スープと春巻き。これがなかなか良い。やはりスープは福建や広東が美味い。午前中は部屋で旅行記などを書いて過ごす。福州の観光などしたこともないが、特にしたいと思わない。昼ごはんは簡単なセットメニューで済ませる。これが一番安上がりなのだ。ボリュームがあり過ぎるのが難点か。我々日本人は食べる量が少なすぎるというのが中国人一般の見方だが、どうだろう。

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魏さんのところの車が迎えに来てくれ、バスターミナルまで送ってくれた。10分ぐらいで到着。ここは福州駅の隣だった。バスがやってきて乗り込もうとすると、昨日の林さんから微信が来た。『バスターミナルまで行くよ』と書かれていたので、わざわざ見送ってくるのかと思っていたが、バスがやってきても彼は来ない。もう出発だと思っていると、何と彼が乗り込んできて、バスは出てしまった。林さんいわく、『ちょうど武夷山に用事があるので、政和まで一緒に行ってあげようと思って』と。この親切には驚いた。

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満員の乗客を乗せたバスは高速道路を走っていく。雨が降っている。途中サービスエリアで休憩が入る。意外と遠いのだと分かる。高速鉄道で福州から武夷山まで1時間ちょっとなのに、それより近い政和まで3時間以上かかった。最後は高速を降りて田舎道を進んだせいもあるだろうが、やはり高速鉄道は速いということだ。

 

4.    政和
茶工場にチェックイン

政和の街に入ったのは午後4時半頃だった。かなり小さな街で、お茶屋さんなど、あまり見つからない。林さんが迎えの車を探してくれ、その車で10分ぐらい走る。完全な田舎の風景が何とも良い。その郊外の一角に、茶廠があった。立派な門を潜る。中には広い庭があり、ちょうどそこに茶葉が干されていた。何とも壮観な光景だった。

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驚いたことには、迎えてくれた女性が、『チェックインしましょう』というではないか。何とこの工場の中には、宿泊施設があったのだ。4階まで上がってみてびっくり。ホテル並みのきれいな部屋に案内された。Wi-Fiもあり、ホットシャワーも出るという。これはどういうことだろう。聞いてみると、増加するお客さんに対応するため、昨年24もの部屋を新しく作ったというのだ。この茶工場にはそれほどのお客さんが来るということか。周囲に高い建物などなく、見晴らしもよい。

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