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福建・広東 大茶旅2016(8)秋茶はなしだ

1011日(火)
茶摘み

今朝は小雨が降っている。張さんは『50年以上茶作りしているが、こんな秋は初めてだ』とこの異常気象を嘆く。そして『こんな状態で茶を作ってもいい物はできない。今年は秋茶はなしだ』と言い放つ。えー、とこちらも返すと『その代わりにもし雨が止んだら少しだけ茶葉を摘み、製茶しよう。商品にはならないけどな』と笑う。

 

朝ご飯が地瓜粥になった。そして野菜も付いた。これは私が昨日余計なことを言ったからだろう。居候、ですらない、私に気を使ってくれるとは何とも有り難い。そういえば、安飛からも張さんからも『この春、お前の友達が来たから泊めてやったよ』と言われて、戸惑う。私は友達など紹介した覚えはない。高さんに聞くと、『昔の勤め先のHさんだよ』と言われて驚く。Hさんとは会社を辞めて以来、一度も交流などない。それが何で?

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『香港の店に何度か来たから、あなたの友達ということで、皆一生懸命やったんだよ』というので、申し訳ないとしか言いようがない。確かに彼は高さんの店のお客さんだったし、私の知り合いではあるが、なぜ張さんや高さんがそんなに良くしてくれるのか、を知らないのだろう。安飛など態々厦門のホテルまで彼を迎えに行ったというから、何と言えばよいのか。皆怪訝な顔をしている。

 

雨が上がった。我々は家を飛び出した。近くの茶畑は既に茶の芽がかなり伸び、葉が輝いていた。だが雨露に濡れた茶葉では良い茶はできないと何度も聞いている。それでも我々4人は黙々と茶葉を摘んだ。そしてその茶葉を製茶場に持ち込み、Tさんに製茶工程を一通り見せてくれた。最後にいつものように、茶を淹れて飲む。ここで飲むお茶が最高に美味い。それだけは実感できた。

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昼になると、ご飯の時間だ、と気の抜けたように言って家に戻る。張さんはこの秋、本当に茶作りをする気はもうないようだ。まあ、それがよいかもしれない。最近できた孫が可愛くて仕方がない様子。これからは自分が飲むためのお茶だけを作ればそれでよい。この異常気象により、一時代が終わったような気分になる。

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午後は街を散策した。宿のすぐ裏には樹齢何百年という大木があったが、雷にでも打たれたのか、その樹皮は焼け焦げていた。何だか村の呪い、のようなものが感じられ、早々退散した。夜もまた張家で食べる。今晩が最後になる。食後高さんと張さんの奥さんと夜の街を散策する。この街には取り立てて何もない。見るものもないので、我々の宿を見学するという。私が張家から宿に戻る道以外は分らないというと、『私はよくわかっている』と張さんの奥さんが言う。

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暗い夜道の中、確かに彼女は寸分の狂いもなく宿に辿り着いた。『私の実家のすぐ近くなのよ』というではないか。そして宿の門を入ると、例の西坪の王さんの親戚であるオーナーに向かい『あんたがやってんの?』というではないか。お互い、顔見知り、というか、この辺の人々は皆どこかで繋がっているのだ。香港の高さんなどは『このお兄さんには小さい頃遊んでもらった記憶がある』というのだ。確かに同じ高という苗字なのである。そして『この人は若い頃は京劇をやってたのよ』ともいう。確かにオーナー高さんの顔立ちはどこか品があり、京劇役者の面影がある。

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その夜、この宿では若者たちが集まり、酒盛りをやっていた。我々にも参加しないか、と誘ってくれたが、疲れていたので断った。この静かな宿に、しばし音楽が響き渡った。私は眠れない、というより、すでに沢山寝てしまって、疲れだけが残っていた。すっきりしない滞在となってしまった。洗濯物もスッキリ乾かなかったが、何と管理人が、簡易乾燥機を持ち込んで乾かしてくれたので、こちらはすっきりした。何というアイデア商品だ。

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1012日(水)
厦門へ

翌朝、最後の朝ご飯を食べに、張家へ行く。Tさんは少し天気が持ち直したので、朝早くから歩き回っていた。宿に戻ると見知らぬ人がいた。話してみると、何と台湾人だった。しかも彼がこの宿の仕掛人だった。この宿は、大坪の若者たちの、街のために何かやりたいという希望と、この台湾人の田舎の良さを残したい、という思いから作られたらしい。資金は台湾人、若者、大学生ら数十人が出し合ったという。台湾人が来たから、昨晩皆が集まっていたという訳だ。現時点では何とも未完成の宿だが、これから良くなっていくかもしれない。

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香港の高さんも今日帰るというので、その車に便乗して山を下りることにしていた。だが約束の9時半になっても車が来ない。我々は良いが、高さんは既に高速鉄道の予約をしているので、時間が心配になった頃、ようやく現れる。この街で商売している人が厦門へ行くので、その車、BMWに乗せて行ってもらう。大量の荷物と後ろ3人はギューギュー状態だった。実は昨年開通した路線バスは、最近の台風の影響で走っていなかったのだ。確かに途中に道路工事の場所があったが、普通の車は何とか通れ、下へ降りて行った。

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福建・広東 大茶旅2016(7)大坪の自然生活

109日(日)
張さんと再会する

翌朝も天気は良くなかった。朝ご飯は宿に付いているとのことで、8時頃に管理人の若者が持ってきてくれた。だがちょっと塩辛い麵とおかず。今日も写真を撮る環境にはない。まずは何をおいても張さんの家に行こうと考える。大坪まで来て、挨拶しないというのは何とも義理を欠く。

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街は小さいのだが、完全に道を忘れてしまっていた。前回来たのは1年半前であり、且つ基本的に張さんの家と製茶場を行き来するだけだったので、街全体を掴めていなかった。目印のホテルを見つけ、そこを頼りに行くが迷路のようになってしまった。昔はもっと覚えがよかったし、方向感覚もよかったなどと言っても始まらない。一人なら何でもよいが、Tさんも一緒だから申し訳ない。今回の旅はTさんの旅に付いていくはずだったのに、いつの間にか私が案内する羽目に陥っている。

 

3人に聞いてようやく張家に着いた。何しろこの辺の苗字は皆張なのだから始末に悪い。家に行くとすでに安飛から連絡がいっていたようで、皆が、そら来た、という顔をした。この家を訪ねるのも4回目である。中でも香港の高さんがちょうど昨日こちらに来たばかりで、嬉しい再会となる。早速お茶を飲む。張さんは『天気が悪いので、鉄観音の秋茶はない』ときっぱり。確かにこの天気では本来茶は作れない。春茶の残りを頂くが、何となく渋みを感じる。

 

それからやはり製茶場へ行こうということになり、張さんと3人で向かう。Tさんにとっては初めての場所だが、その良さは分ってもらえたのではないだろうか。しかしやはり茶を作っている方が更に良いには違いない。今は静かな山村の秋、しかも小雨が降る中で、風情はあるが、茶の香りが欲しい。

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昼時になり、家に戻ると、高さんと妹がいつものように枝取りをしていた。これまでに作った黄金桂や本山茶の枝を取って香港に持って帰る。それを売るのが高さんの仕事だが、その商品はあまりにも少なく、ちょっとと心配だ。主力商品が天候次第というのは、何とも心もとない。

 

ご飯を頂く。何しろ私はここのご飯が大好きなので、嬉しい限りだ。何と寒いから、というので、自家製の酒をご飯にかけて食べている。Tさんも美味いと言っているが、私はダメだ。『私はやはり地瓜がいい』とわがままを言う。夕飯は地瓜が用意されることになる。いつもこの時期は茶作りの真っ最中でおちおちご飯など食べていられないのだが、この雨でゆっくり食べる。張さんもすでに70歳、そろそろ引退すべきかもしれない。顔を見れば、茶作りの重圧から解放されており、雨なのに何とも晴れやかだ。

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することもないので、小雨ながら洗濯することにした。安飛の家には洗濯機があるというのでそちらへ出掛ける。彼はセメント関係の仕事で結構儲けており、副業で茶も売っているから、かなり裕福で、家も立派だ。張さんの長女が奥さんであり、雰囲気が似ている。洗濯中色々な茶を飲ませてもらいながら過ごす。

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夕方になるとまた張家へ出掛けて行き、ご飯を頂く。この辺には食堂などもあまりなく、有っても塩気が強いようなので、ずうずうしくも張家のご飯に頼ることになった。蒸かした地瓜は甘くてうまかった。Tさんは京都出身だが、蒸かしイモは食べたことがない、という。私の家では普通だったのだが、それでもここの地瓜が美味い。小雨の中、トボトボと宿に戻り、粛々と寝る。

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1010日(月)
今日も雨

翌朝も残念ながら雨だった。これでは洗濯物も乾かない。もう大坪にいても仕方がないので、早く厦門へ戻り、更には広東に転身すべきではないかと思ったが、カメラマンはそうは考えない。じっくり腰を落ち着けている。『こんなことを想定して予備日を設けています』というのだ。昨年から今年の初めに下川さんと行った旅とは大違いだ。彼なら今頃広州で歩き回っているだろう。

 

宿の朝ご飯を断り、張家に粥を食べに行く。この朝粥も楽しみに一つだ。まあ日本でいう芋粥だが、なぜかとても美味しい。甘みがあるからだろうか。だが今朝は白粥だった。そして以前はあった野菜の炒め物などもない。何故無いのかと聞くと『雨だから』と一言。農家では雨の日はおかずはなし、というが普通だというのだ。晴れたら畑で野菜を採って食べる。雨が降ったらある物だけで食べる。それは実に自然な生活だろう。

 

 

何となく街をぶらつくが特に何もない。部屋へ帰ってネットでもやるしか仕方がない。そしてまた昼飯を食いに張家へ。今度は炊き込みご飯と鶏のスープ。寒い時はこれで体を温めるという。本当に天候により、食事が変わる。これは香港で体験したことだったが、昔は中国中どこでもそうだったのだろう。そしてまたお茶を飲む。梅記からもらったお茶も飲んでみる。でもやはり茶農家は自分のお茶しか飲まないものだ。

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雨が小降りになってきた。ついに我慢しきれなくなったTさんは外へ飛び出す。小高い丘の上を目指して歩く。大坪全体を写真に収められる場所を探している。西坪と違い、茶畑が密集している大坪では、その場所は見付かったのだが、光線が足りないといい、もう一日粘ってみるという。ある意味ですごい執念だ。もっと光を、という気持ちが出ている。果たして明日は晴れるのだろうか。

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午後は少し歩きまわって腹が減った。やはり夜も地瓜だった。私はこれがあればもう十分だ。そして体が軽くなっていく感覚は、以前ここに泊まった時と何ら変わらない。この胃腸にやさしい、塩分・脂分も控えめの食べ物のみを食べていれば、病気にはならないように思う。そして夜も早く休み、朝は早く起きる。それだけで十分に健康になれる。

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福建・広東 大茶旅2016(6)南岩村の王家

107日(土)
南岩村

翌朝は何となく早く起きた。外では鳥が鳴いている。晴れてはいないが、何とも涼やかな朝だ。散歩したくなり、歩き出したが、茶工場を見ると、既に人が動いていた。昨晩萎凋した茶葉を確かめている。天気が悪いので乾燥が足りないようだ。まずは朝ご飯を食べる。やはりお粥だ。これは何とも体に良い。

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食後、近くの家へ行く。ここは王家の祖先が建てた楼で、泰山楼と名付けられ、福建省の重要文化財にも指定されている。普通は中に入れないのだが、何しろ王家の持ち物だから、鍵を開ける。鍵を預けているのは王家のおばあさんらしい。この辺は殆どが王姓で同族かと思われる。

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泰山楼に入ると非常に保存状態がよい。これならここに泊まれるのではないかと思うほどだ。とても100年を超えた建物とは思えない。製茶道具もそのまま置かれており、すぐにでも茶葉が運ばれてきそうな感じだ。そのうち、政府の許可を取り、一般開放することも考えているというから、その時は切符切りとして雇ってほしいと訴える。

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本家の横にも建物があった。こちらは親せきの誰かが使っているらしい。中には圧茶機(茶葉圧揉成型機)と呼ばれる製茶機械が置かれていた。実はこの機械、安渓政府が一時は推奨したらしいが、品質を著しく損なうとのことで、103日に使用禁止命令が出たといういわく付。この機械を使えば、面倒な作業を一気に終えることができるということで、かなりの農家が実際に使っているらしい。

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なぜ鉄観音茶があれほど緑緑しているのか、その秘密はここにあるのかもしれないが、梅記では使っていないので、その実態は分らない。台湾にいたUさんからも、安渓にいるのならぜひ調べて欲しいと連絡が来たが、調べようもない。恐らくは地元の人も口を閉ざすだけだろう。この機械自体が台湾にも流れていることがある意味で衝撃的だった。台湾ではその形状から豆腐機と言われているらしい。

 

鉄観音茶の始まりは、1736年、王家の祖先、王士譲が作り始めたとある。ベトナムやインドネシアに渡った王家の一族は次々に各地で茶荘を開いたともある。そして1876年に厦門に梅記が店を出したようだが、その経緯については触れられていない。1884年にこの地で布を使った球型の製法が開発され、のちに台湾に渡ることになる。

 

この村の外れまで歩いて行くと、大きな木がある。確かに数百年の昔、この地にすでに人がおり、茶作りをしていたことを思わせる。周囲にも立派な家屋がぽつぽつと建てられているが、その多くは後になって再建されたものだという。その間、色々な困難があったことを窺わせる。昼ご飯をまた美味しく頂く。何となく冷えてきたので、大根の入ったスープが暖かい。

 

食後すぐに、茶工場へ走る。既に殺青から揉捻の作業が始まっていた。殺青機の管理をしているのはまだ子供だった。子供の時からこのような体験をすることは実に貴重だ。将来が楽しみ。揉捻機も年代物の木製。おじさんが一生懸命力を込めて動かしている、かと思ったが、電線を繋げば自動になっていた。そして熱々の茶葉を布で来るものだが、このあたりも機械化されている。ただ5代目がやはりデモンストレーションということで、手作業を披露してくれた。実に力のいる作業で、往時の製茶の大変さがよくわかる。

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茶畑へ

車で茶畑へ向かった。明日は雨との予報であり、皆急いで摘んでいるらしい。車で村を通り抜けたが、10月初めの秋茶シーズンにも拘らず、茶葉の香りがしてこない。茶葉を干しているところも殆どない。僅かに家の屋上で茶葉を干している風景が見られたが、私がよくいく安渓大坪とはずいぶんと雰囲気が異なる。

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900mぐらいの高さまで登ると、その斜面には茶畑があった。よくよく見ると数人が手で茶葉を摘んでいる。ここも大坪とは違い、茶樹が一面に生えている訳でもなく、茶摘みもひっそりと行われていた。地元のおばさんたちに混ざって若い子も茶葉を摘んでいたが、茶袋が一杯になっても、上に持っていくことができない。相当に急な坂であり、手伝いに入った私まで転げそうになる。

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茶葉はバイクで取りに来て、どんどん運ばれていく。我々は湯を沸かし、茶畑を眺めながら、茶を飲んだ。こういう場所で飲む茶が最高に美味い。水も美味い。しばし余韻に浸っていたが、茶葉を摘む方はそんな余裕もなく、次々に茶葉を運び込んでいく。ただこの場所で茶摘みをしているのは数人だけであり、やはり西坪の茶畑減少は本当のようだった。

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帰りにこの村にある鉄観音茶発祥の地を見に行く。石碑があり、廟がある。その母樹も大きく囲われていたが、既に枯れそうな感じだった。さらに下がっていくと、建物が一塊になっているところが見えた。日塞、と聞こえ、堯陽という地名も出てきた。堯陽と言えば、香港に堯陽茶行という名の茶荘があるね、と何気なく言うと、王さんが『あそこが堯陽茶行の故郷さ』というから驚いた。

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まるで城のように囲われている。往時茶業は儲かっていたが、盗賊も出没するので、一族で固まって住んでいたようだ。もう一つ月塞という場所は、実際に入ることができたので、ちょっと見学してみたが、石垣もあり、まさに一つの村が固まっている城の感じだった。タイで茶荘を開いた一族の写真などもあり、この辺の村から華僑が沢山出た、そして茶を持って行ったことも窺われる。近所の人がお茶飲んでけ、と誘ってくれたのが、嬉しかった。

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更に本山という品種もここが発祥の地であり、その記念碑も見た。何とも色々とある村であり、それだけの深い背景がある。帰り着くと暗くなり、また美味しい夕ご飯をたらふく頂き、そして飽きるまでお茶を飲んだ。こんな幸せな生活があるなんて、と思わず涙する!

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福建・広東 大茶旅2016(5)安渓西坪は鉄観音茶発祥の地

西坪へ

それから市場の外を少し散策した。どこの茶荘も枝取り作業に大忙しで、小学生や中学生も国慶節休みにこの作業に駆り出されている。小学生に聞くと『枝取りは大嫌い』と言いながらも、手を動かしている。皆が休みでどこかへ旅行にでも言っている時期に、家の手伝いとはさぞ辛いだろう。でもそれがカメラマンにとっては、とても良い風景になるのだ。

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市場の向こうには川が流れている。結構大きい。ちょうどモーター船が音を立てて近づいてくる。往時、鉄観音茶はこの川を下り、厦門へ運ばれていたのだな、とその余韻に浸った。だが後で聞いてみると、この川は水深が浅く、茶葉の運搬には使われなかったらしい。基本は陸路だそうだ。

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王さんが茶都へ迎えに来てくれた。宿に荷物を取りに行き、ついに茶産地へ向かう。安渓西坪、と言えば、鉄観音茶の故郷。初めて足を踏み入れる喜びが沸いてくる。安渓の街から30分ほどで西坪に到着する。まずは観光用に建てられた記念碑の写真を撮る。『鉄観音茶発源地』だ。

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それから西坪の街に入る。文革時代からあまり変化していないのではないかと思われ、古き良き雰囲気が随所に残っていて好ましい。80年代まではここに茶葉市場があり、活発な茶葉取引が行われていたが、茶都が出来るなど、徐々に安渓に移ってしまったという。茶葉市場は今や野菜市場に代わっている。道には『茶葉市場』という表記があるのが、何となく名残だ。

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昔は茶葉の輸出を執り行う中茶の支店もここにあった。往時、茶葉の買付は西坪が中心だった。茶葉の多くは香港をはじめ、東南アジアや日本へも輸出されていた。近くの茶荘でちょうど子供が枝取りをしていたその台に使っていたのは、当時茶葉を輸出為に使った茶箱だったのがそれをさりげなく証明していた。

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昼ごはんはここで食べた。沙茶麺、この沙茶を現地語でサーデー、と読む。マレーシアあたりにあるサテーから来ているという。味もピーナッツ風味で、そのような味がする。マレーシアやインドネシアへ移住した華僑はここ安渓からも沢山出た。彼らが後に持ち帰った味というがどうだろうか。具は揚げ豆腐、豚もつ、肉、油条に魚のつみれなどを個別に頼むのだが、王さんが店に全部載せを注文してくれたので、碗に一杯になる。

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因みに私は一番関心を持ったのは、その美味しさではなく、茶を閩南語でデーと発音すること。勿論は発音は知っていたが、それを目で感じることができるのは幸いだ。ティーの語源はこの閩南語であり、広東語のチャと共に、世界を二分したとすれば誠に面白い。Tさんからも『ティーの語源をビジュアルに撮れるものを』と注文を受けていたので、これがピッタリな気がした。

 

西坪には、先ほどの記念碑は別として、鉄観音茶の母樹とその記念碑があるという。山の中で王さんが車を停めた。そして山の上を指して、ここを登れ、というので、Tさんと王さんのアシスタントの女性と3人で登った。だが上には廟があり、更にその上の険しい藪の中には鉄観音と彫られた岩を見つけたが、茶樹はなかった。王さんに電話すると『茶樹は下だ』というので驚く。

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まずは廟に挨拶してから入るのが礼儀のようだが、かなり疲れた。更に今度は下に向かって山道をかなり降りた。本当にこんなところに何かあるのかというところまで来て、やっと記念碑と茶樹を発見。まあ、ここまで来るのはよほどのお茶好きだけだろうな。最近はトレッキングもブームのようだから、意外とニーズはあるのかもしれない。ちょうど雨が降り出し、急いで車に戻る。

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梅記

今日の目的地、梅記の茶工場がある、南岩村へ着いた。何とも言えない田舎だが、こんなところが今や望ましい場所だ。その中にかなり大きな工場があるので目を惹く。更に家はかなり立派な4階建て。我々はここの4階に新しく作られたゲストルームに泊めてもらった。何ともきれいな部屋で驚く。

 

早々にお茶を頂く。相当に古い老鉄観音茶が沢山その辺に転がっていて、目移りする。非常に濃厚な香りと味わいがあり、私の好みである。棚にあった紙に包まれた茶、南厳鉄観音という文字を見て、思わず懐かしくなる。昔香港の茶荘には、この名称のお茶があり、その味わいが、今日飲んだ味にかなり近かった。ここにあるお茶も昔は香港に輸出するためのものだったのだろう。文字も繁体字だ。

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この家には一体何人住んでいるのだろうか。夕方、皆が集まり出し、食事の準備が始まる。何とも言えない昔風の料理。地元の野菜やキノコが使われ、自家製豆腐が登場する。外は雨が降り、ちょっと冷えるというので、体を温める料理になっているようだ。有り難く頂く。大勢で食べる食事はまた格別だ。子供はその辺を走り回り、おじさんは立ってご飯をかき込む。農家の食事。実は小学生は街の学校に行っており、週末に帰省していたのだ。僅かの間、親に甘え、自宅を満喫している様子は微笑ましくもあり、また何となく物悲しくもある。

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夜は製茶作業の見学。今日摘んだ茶葉が萎凋されていた。王さんのおじさんに当たる5代目、そしてその息子の6代目が製茶を担っている。王さんの役目は厦門での販売だった。茶葉を揺青の機械に入れて、揺らしている。5代目が『昔はこうやったんだ』と言いながら、天井から吊るされた綱に笊を結わえて、茶葉を入れて揺すって見せてくれた。今ではもうできる人もいないという、大変な作業だった。夜が更けるまでまたお茶を飲み、ぐっすり休んだ。

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福建・広東 大茶旅2016(4)安渓茶葉市場 茶都で

入口まで来たところで急に雨が止み、空が明るくなったのは日頃の行いのせいだろうか。しかし今さら引き返せない。ここから街まではバスが出ているというので、その到着を待つ。バスはミニバスで乗客は数人。その中に若い女子が4人いたが、何と彼らから日本語が飛び出してきて驚いた。福州師範大学の日本語学科の学生だという。ちょうど国慶節休みで、故郷に戻ってきたらしい。一緒についてきた友達を観光案内中とか。それにしてもまさかここで日本語とは、恐れ入る。

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彼女らは途中で降りて行き、我々は安渓のバスターミナルまで連れていかれた。見るとその近くには茶葉市場があるではないか。だがここは明日の朝、見に来ることになっているので、ちょっと覗いてすぐに歩き出す。すると向こうから葬式の行列がやってくるではないか。車が何台も連なり、広場で停車した。楽隊が列をなして音楽を奏でている。

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親族が亡骸の入った棺に向かって跪く。何とその横では数人の泣き女がマイクを通して泣いている。これは台湾では見たことがある光景だが、中国大陸では初めてだった。やがて棺は火葬場へ運ばれて行き、一連の儀式は終了。泣き女たちも三々五々帰って行った。中国でも昔の伝統的な葬儀が復活しているらしい。

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腹が減ってきたが、ちょうどよい食堂もなく、Tさんがもう一つの観光地へ行くというので、それに従う。バスで行けるということだったが、その番号のバスが来ても停まってくれない。適当だと思っていたが、ちゃんとバス停があるのかもしれない。よくわからないところへバイクのおじさんが声を掛けてきたので、何と2人で一台のバイクに乗り込む。かなり危険な感じ。

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10分ぐらい乗って行くと、そこから山道に入るらしい。ただバイクはそこまでしか行かないというので降りる。そして食堂に入りTさんの大好きな内臓系の炒め物を食べる。私も大好きなので、この点は大いに助かる。それから歩いて坂を上る。その途中で、板に文字を書いている人に出会った。彼は我々を招いてお茶を飲んでいけ、という。聞けば、ここの環境がよいので移り住んだ人だった。

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坂を登りきるとそこ廟がある。かなり立派だ。シンガポール華僑が資金を出して再建したらしい。その横を見ると、土砂崩れの跡があった。先日50年ぶりという大型台風が厦門を直撃したのだが、安渓でも被害がかなりあったということだ。更にその上に登っていくと、お目当ての大観園がある。ここには鉄観音など種類の茶樹が植わっていたが、特に見るべきものもなかった。

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この山の上から安渓の街を一望したいと思い、バイタクのおじさんと交渉して、バイクの後ろに乗る。だがやはり台風の影響か、道は途中で閉鎖されており、バイクでも通れなかった。まさにどうしようもなく、さりとてただ戻るのも何なので、街中まで乗せて行ってもらい、決めた料金の半額を払った。

 

バイクを降りたところは文廟だった。文廟自体も比較的新しいが、その背景になっているビル群を見ると、何とも現代中国を思わせる。その周囲は公園になっている。テーブルではトランプに興じている人々がおり、かなり熱が入っていた。これまた現代中国だ。バスを探してホテルへ帰る。

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Tさんと別れて行動する。私は古い携帯の電池を買いに行く。だがなかなか見つからない。今やスマホ全盛の時代に10年前のノキア携帯の電池など、この田舎町でも使う人はいないだろう。2-3店に入ったが、電池はあっても型が合わない。最終的に比較的大きな携帯ショップへ行くと、若い店員が『これならありますよ』といってどこかへ消えた。何と別の店から買ってきて、売ってくれたのだ。これぞ中国だ。ついでにシムカードにお金を追加した。これで任務完了だ。

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夕飯は麺がよいというので、サクッと麵を食べたのだが、やはりTさんには物足りなかったようで、昨晩行った王さんの親戚の食堂へ行き、チャーハンを頼んだ。これは私には多過ぎたのだが、胃袋は確実に大きくなっており、食べるのを止めることができなかった。腹が張った状態で眠る。

 

106日(金)
茶都で

翌朝は早く起きて、朝ご飯を食べ、王さんの到着を待つ。だが王さんはなかなかやって来ない。連絡してもらったところ、Tさんとの間に行き違いがあり、今朝は我々だけで行くことになる。さてどうしたものか。またバイタクのお世話になり、昨日も行った茶都市場へ向かう。

 

昨日は昼間だったが、朝は格段に動きが違った。茶葉がどんどん運び込まれてくる。そして市場内は凄い熱気であり、茶葉を入れた袋がそこかしこに置かれ、そこで激しい価格交渉が行われていた。茶農家の女性と仲買の茶商がつかみ合わんばかりに、格闘している。その横では袋に手を突っ込んだおじさんが、茶葉を掴んで走り出す。向かう先は評茶場。ここは1元払えば、湯がもらえ、そこに転がっている茶碗と茶杯で試しのみをする場だが、その光景は何とも壮観だった。

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カメラマンのTさんも躍動する。こういう迫力がある写真が撮りたかったという。といいながら、売り手の女性なども撮っている。しかし横で交渉価格を聞いてびっくり。何と1斤、500g20-25元だった。いくら卸市場とはいえ、農家直販とはいえ、これでは車代も出ないのではないかと心配してしまうが、若い子たちは売り終ると楽しそうにおしゃべりしたり、ご飯を食べたりで、全く意に介していなかった。

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1階と2階には茶商が店を構えている。そこに入ってみると、新疆や東北など中国全土から茶商が買い付けに来ている。ここに運ばれ茶葉は、真ん中の場に出ている茶葉よりは、かなり質が良い。更に質が良いものは、茶農家に直接買い付けに行くらしい。茶葉にも色々と階層がある。それにしても鉄観音茶の緑緑した様子には、正直残念な気持ちしかない。

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福建・広東 大茶旅2016(3)厦門から安渓へ

2. 厦門
空港で

厦門空港は小さな空港だった。これも分ってはいたが、今日は東京から飛んで来るTさんとここで待ち合わせ。まだ到着まで1時間以上あったので、ランチを食べようと思ったが、中国の空港はどこも非常に高い。昨日食べた蘭州ラーメンがセットとはいえ、50元もするのには驚くしかない。私は大人しくマックでネットをしながら食べた。それでも30元、日本並みだな。マックを食べる機会は、こんな時しかない。

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Tさんが出てくるのを待っていると、ちょうどKFCの横に座る所があり、助かった。Tさんは空港で所要があり、私は彼の荷物を見ている必要があったので、そこに座り、今回Tさんが紹介された梅記という老舗のお茶屋さんの王さんと待ち合わせしていた。梅記は安渓、西坪で古くから鉄観音茶を作っており、厦門に店を出したのは1875年というから確かに古い。

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その王さんは6代目でまだ30歳と若い。彼の迎えで車に乗り込み、まずは市内にある梅記の店へ行ってみる。市内中心部にあるその店はかなり立派な作りだった。早々に出された鉄観音は10年物だと言い、その間一度も火を入れていない。飲んでみると昔の風味を感じさせる作りだった。今や安渓でも鉄観音といえば軽い、青いものが主流であり、このような濃厚な風味にはなかなか出会えない。茶芸を披露するスタッフの動作もよい。

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Tさんは早速撮影を開始した。当たり前ではあるが、本格的な撮影というには自然さというものがない。ただ一番良い写真を撮るために努力するものであり、店側もよい写真が公開されることにより、良い影響を期待する。まあ、なにより、お茶の良さを消費者に伝えるためには、どうしてもきれいな写真が必要だ、人の目を惹く必要がある、ということだが、私個人としては、もっと自然な光景があってもよいかと思った。

 

Tさんは更に、『厦門の街角でお茶を飲んでいる市井の人々を写真に収めたい』という。確かに15年以上前に厦門に来た時は、街中至る所で小さなテーブルを出して、小型ガスボンベを置き、お茶を啜っていた。だがそんな光景も今やなかなか見られない。そうこういっていると、何と店の前で、短パン、サンダル姿のおじさん数人がお茶を飲んでいるではないか。まるで仕組んだように店の前だけに彼らはいた。『他の場所は断られるが、ここはテーブルを出しても文句を言わないから』という理由だった。

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当然Tさんは大喜びで飛び出していく。我々もちょっと懐かしいものを見た思いでこの光景を眺めたが、写真を撮っているとやはり違和感がある。勿論これは事実であり、何らの問題もないのだが、この写真を見た人は『厦門には今でも日常的にこんな光景がある』と思ってしまうのではないだろうか。そんな心配をする必要など何処にもないのだが、ちょっと気になっている。

 

3. 安渓

王さんの車で安渓へ向かった。私はこれまで何度か安渓を訪れてはいるが、殆どが大坪という一地域だけであり、安渓全体を全く知らない。今回はまず安渓の街に泊まり、更に西坪という場所で製茶を見る予定だから、ワクワクする。既に周囲は暗くなっていた。大体車で1時間半ほどすると、安渓の街が見えてきた。

 

車は何となく立派な敷地のホテルに入った。きっと90年頃には街一番の宿だったに違ない。外国人、主に華僑だろうが、彼らが泊まるために作られたように思える。そのホテルが今晩の宿だった。何と1部屋、178元。かなり古いが部屋は広く快適。ただし、上の方の階は殆どがカラオケルームとして使われており、我々が泊まった2階も一部はオフィスだった。既にこのようなホテルは流行らなくなっている。

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夕飯はホテルの前の食堂へ。王さんの親戚が経営しており、何でも言うとおりにやってくれる。辛い煮鴨は美味かったが、あまり食べると腹にこたえる。豆腐もいい味を出していた。こんなことを言ってはなんだが、素朴な田舎料理が一番だ。Tさんは若いので、相当量を食べている。昔は私もそうだっただろうか。食事が終わると王さんは厦門へ帰って行った。明日は我々自身で行動しなければならない。

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105日(木)
安渓観光

翌朝はホテルで朝ご飯を食べると観光に出掛けた。私は観光には興味がないのだが、Tさんの仕事についていく。白タクを拾い、山の上にある清水岩という場所に向かう。ここには清水祖師という大きな座像がある。この山の開祖らしい。そこから徐々に登っていくと、緑も濃くなり、古道の雰囲気も出てくる。

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遠くに廟が見える。意外にも多くの人が参拝に訪れていた。地元の人もいるが、シンガポールなどの華僑が里帰りしているようだった。安渓は華僑の一大出生地であり、シンガポールやマレーシアに渡った人が多いという。皆熱心に祈りを捧げている。日本ではあまり見ないほど熱が入っている。中国における仏教信仰の一端を見る。

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ちょうど間の悪いことに雨が降り出してきた。こうなると動きが取れない。廟の全景を撮りたいTさんは雨の中を反対側の上まで移動した。確かにここからは良く見えたが、彼が欲しい光がなかった。ひたすら雨が止むのを待ったが、その気配はなく、諦めて山を下りることにした。

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福建・広東 大茶旅2016(2)元泰の茶畑

103日(火)
永泰基地へ

翌朝はゆっくり起きる。10時に福州を出発して、魏さんが最近作ったという自前の茶畑を見学しに行く。だが魏さんは朝から忙しい。私は紅茶屋で紅茶を飲みながらゆっくりと待つ。中国の紅茶、こんなに種類があるとはびっくりだ。この店だけでも20種類近くを扱っている。中国は紅茶発祥の地、だが中国人はあまり紅茶に関心を払ってこなかった。

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2008年頃に始まる金駿眉ブームがそれを一変させた。今では中国各地の古い産地がこぞって紅茶の復活を計っている。昔は輸出用だったが、これからは中国人向けの紅茶、当然味も違ってくるのだろう。魏さんも紅茶を扱う中で、自らの紅茶を作りたいという希望が芽生えてきたようだ。

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魏さんと車に乗り、出発。1時間ぐらい走っただろうか。山の中で突然車が停まる。何と通行止めになっていた。先日の台風の影響か、土砂崩れの危険があるというので、先月末に通行止めになったと看板が出ている。せっかくここまで来たのに、今回はご縁がなかったのだろうか。何とも残念だが、これ以上前へは進めず、引き返す。

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仕方なく、新安という街へ行く。ここには古い街並みが残っており、観光用に改修した模様だ。国慶節休みでもあり、近隣から観光客が訪れていた。何とここに魏さんの店の支店があった。だがまさかオーナーが突然来ると思っていなかった店員は、このかき入れ時の連休にも拘らず、まだ店を開けていなかった。中国人を使うというのは中国人でも難しいものだとつくづく感じる。

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ここで昼ご飯として麺を食べたのだが、麺もスープも実に美味しかった。東北地方からやってきた夫妻もここで合流した。政府の役人とも数人すれ違った。地元民によると、別ルートを通れば、茶畑へ行けることが分かり、ホッとした。店で少しお茶を飲み、再度気を取り直して出掛けた。今度の道は順調に進んでいたが、最後に村の小さな道に入った所で、何やらやっていた。トラックが停まっていて、通行できない。今日はなんて不運な日なのだろうか。

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20分後に何とか通り抜け、いよいよ永泰の茶畑に着いた。まずは茶工場に入る。立派な工場だった。3年前に張老師がここを訪れた際の写真が大きく飾られていた。表には『張天福有機茶示範基地』とも表示されていた。ここは魏さんが作りたかったというより、実は張老師が作りたかった茶畑を実現したところのようだ。空気がよく、土壌がよく、そして以前は茶畑ではなかった場所で、一から茶樹を植えて紅茶を作る。なるほど。

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茶畑は小高い丘の上にあり、周囲の眺めはよかった。ここには沢山の品種が植えられており、まるで実験場のようになっていた。金牡丹や金観音など、あまり見たことがない品種が並んでいた。鉄観音と他種の交配により作られた新しい品種らしい。これらの茶葉を使い、新しい試みをしているようだ。それにしても眺めがよい。午後の風も心地よい。周囲を見渡す限り、民家はない。下っていくと池があり、水も豊富だった。ただヤギが大声で鳴いているのが、何とも滑稽だが。

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すでに日が傾いてきており、長居はできなかった。帰りに大きな看板が目に入る。張老師が大きく写っていた。この茶畑が、そしてここで作られたお茶が張老師の夢を叶えたものであると言ってよいかどうかはわからないが、ともかく魏さんとの師弟愛が感じられて美しい。最晩年までお茶とのかかわりを続ける、それは幸せな茶葉人生ということだろう。

 

さっき通行止めになっていた村の道、実は仏像が運び込まれていたようだ。魏さんはクリスチャンだが、このようなことには敏感であり、通行止めでもないのに車を降りて、手を合わせている。この辺がとても好感が持てる所だ。確かに得難い体験だったと言えよう。山に夕日が落ちていく。それからは順調に福州に戻った。ご利益があったのだろうか。

 

夜は魏さんと2人で蘭州ラーメンを食べる。実はこんな夕食が嬉しい。企業オーナーである魏さんだが、実に素朴で気さく。ラーメンをすする姿が微笑ましい。体調が悪いのに私に付き合ってくれて、何とも有り難い。紅茶屋に戻り、今晩もまたお茶好きが集まる中で楽しくお茶を飲んだ。

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104日(水)
厦門へ

今日は厦門へ移動する。タクシーで福州駅へ向かうが、連休中のせいか空いている。高速鉄道の切符は前日街で購入済みだった。連休といっても、昔のようなな凄い混み方はしないようだ。駅の混雑も普段より少し多い程度。列車内はさすがに満員だが、無座はないので、混んでいる感じはしない。

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2時間で厦門北駅に到着する。ここは半年前も通ったので、寝て過ごす。厦門北駅はさすがに混んでいた。市内に向かうバス乗り場はチケットを買う人で大混雑。私はそれを横目に空港バスを探す。駅と空港を結ぶシャトルバス、これも経験済みなので慌てることはない。市内に近い空港へ向かう途中、集美の街がよく見えた。

福建・広東 大茶旅2016(1)福州でレジェンドに会いに行く

【福建・広東 大茶旅2016】 2016102-19

 

台湾経由で福州に入る。だが今回の目的地は厦門、いや安渓。そしてさらに南下して広州。このような日程のなったのは、カメラマンTさんの希望。彼が安渓に取材に行くというので付いていくことにした。なぜ今、安渓なのか、何か新しい発見があるのだろうか。また茶葉の道を万里茶路以外でも追い掛けていく企画、福建と広東が輸出拠点だから、という意味で広州へも行ってみる。

 

102日(月)
1. 福州
突然レジェンドのもとへ

福州空港に着くと、空港バスに乗り込む。以前乗った気がしたので、知っているつもりで何も調べなかったが、何本もバスが出ていて慌てる。取り敢えず一番早く出る便に乗り込む。どうせ市内へ行けばタクシーを拾わざるを得ない。バス代25元。市内まで約1時間かかり、到着。

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バスを降りてタクシーを拾い、取り敢えず魏さんの紅茶屋へ向かう。店に入っていくと、魏さんが数人でお茶を飲んでいたが、私を見てかなり驚いた顔をした。『明日じゃなかったの?』という。完全に私の到着を1日間違えていたらしい。よかった、彼がここにいて。すぐに今晩の宿を探すべく、魏さんの親戚のネイさんが動いてくれた。向かいの如家は前回高かったが、ネイさんの交渉のお陰で安く泊まれた。感謝。

 

さらに驚いたのは、『ちょうど今から張老師のところへ行くんだ』と言われたこと。張老師とは中国茶業界の泰斗、張天福氏に他ならない。それは何をおいてもお供する。張天福氏には4年前に一度、お会いしたことがある。やはり魏さんに連れて行ってもらった。103歳と言われたが、非常にお元気で、電話で茶作りの指示を出していたのが印象的だった。その時は福州の茶葉輸出の歴史を調べており、『1860年代の福州の様子』について聞いてみたが、『生まれてないから分からない』と言われてしまった。そして『茶葉人生』という分厚い自叙伝を頂戴し、詳しいことはその中を読んで、笑顔で言われたのをよく覚えている。

 

現在は既に満107歳。自宅を訪ねると、張夫人が迎えてくれた。『以前一度来たわね』と言ってくれる。張老師は車いすに乗っていた。先ほど食事をして、魏さんを待っていたようだ。少し眠そうだったが、彼が近づくと、目を見開く。このお歳になると、興味にあるものにだけ、目が反応するということかもしれない。

 

今回は女性も3人、同行していた。皆さんお茶関係者だが、レジェンドの張老師と写真を撮りたいと殺到する。これはまた中国らしい。日本ならもう少し配慮するだろうが、こちらでは遠慮はない。老師は疲れてしまっただろうか。そこへ男性が入ってくる。先ほど台北の茶業博覧会から戻ったと報告している。台湾の皆さんも老師の動向には関心が高いようだ。

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今日魏さんはなぜここを訪れたのか。私は聞いていなかったが、何と張老師も関係した金元泰という紅茶が金賞を受賞したという。一体どこで金賞を取ったのかと聞くと、『静岡の緑茶コンテスト』というではないか。それは今月末に静岡で3年に一度開催される世界お茶祭りで表彰式があるイベントだった。私もこのお茶祭りに行き、セミナーをすることになっている。ここで日本との繋がりが出てくるとは思いもよらないことだった。老師も日本人がそのために来たのかと思ったかもしれない。

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魏さんが受賞したお茶の缶を見せると、それまではあまり動きのなかった張老師が自ら缶を手に取り、じっと見ている。これは偶然ではあるまい。お茶、といえば反応する、まさに茶葉人生なのだ。張老師に頂いたご本、余りの分厚さにそれほど読めていなかったのだが、これを機に、読んでみよう。

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お茶屋さん

帰りに茶葉市場に寄る。海峡茶都は昨年、来たことがある。その時はこの市場のオーナー会社、満堂香の総経理にジャスミン茶について聞いた。今回は岩茶のお店に行く。上海から来たお茶屋の女性のために、魏さんが案内したのだ。彼女はこれから厦門へ行くのだが、最後の最後まで時間を有効に使い、色々と勉強に余念がない。

 

紅茶だけでは消費者を満足させることができない。福建省では岩茶も重要なアイテムであり、今回は白茶がお気に入りのようだ。茶葉を売るのが難しくなっている時代、経営者は様々な工夫を凝らす必要がある。困難な時代を数多く過ごしてきた張老師は、今の時代をどう見ているのだろうか。

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車はあるビルの前に停まる。魏さんが私を連れて上のレストランへ行く。そこには魏さんのお母さん、弟さん2人とその家族が待っていた。弟さんは香港在住で、たまたま里帰りしており、家族で食事をするところだった。こんなところにお邪魔して申し訳ない。まあ、主役は次男の幼い娘、個室で動き回る。何とも可愛らしい。

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驚いたのは、魏さんが兄弟とは広東語を話し、お母さんとは福清語、弟さんの奥さんとは普通話を話していたことだった。確かに魏さんは華僑であり、改革開放でお父さんがこちらに戻ってきたと聞く。香港育ちの兄弟は幼いころから広東語を使っていたらしい。お母さんはどこの人なのだろうか。これだけの言語を自由に操る、とはさすが華僑。因みに魏さんは香港在住の奥さんとは普通話を話すという。何とも複雑だ。

 

食事が終わると、紅茶屋に戻る。店には何組もお客さんがいた。魏さんは少し風邪気味だというので、早目に引き上げたが、実は政府の役人が来るというので、それを躱していた。経営者は本当に大変だ。私も宿へ戻ろうかと思ったが、半年前に政和、河口に一緒に行った林さんなどがやってきて、面倒を見てくれる。

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苦難の台北散歩2016(5)大渓の老茶廠

5. 大渓

鶯歌から一駅乗って、桃園に着く。ここは桃園空港からはかなり離れている。初めて降りた。ここから台湾好行バスに乗り、大渓の老茶廠へ行ってみることにした。先日は三峡の老茶廠行きを失敗したので、こちらでリベンジを。桃園駅前からバスターミナルまで2-3分歩く。駅前にあるレストランが、ベトナム語、インドネシア語、タイ語などで溢れている。そんなに出稼ぎできている人が多いのだろうか。興味深い。バスは午後1時半発が最終だった。それに乗り遅れれば茶廠へ行くことはできないらしい。

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台湾好行には一日150元乗り放題というチケットがある。私が係員に老茶廠往復というと彼は無言でこのチケットを切った。ということは片道75元以上するのだろう。1時間以上はかかるらしい。バスは少し遅れてやってきた。乗り込む人は多くはない。観光客なら午前中から来るだろう。何しろいい天気なのだ。

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バスは川を渡り大渓の街を通り過ぎ、更に進む。ちょうど1時間でバスを降りた。だが、ここに茶廠があるのだろうか。数人が降りたので、その人々についていくと、バス停からすぐだった。かなり大きな茶工場だが、何ともきれい。如何にも改修して観光用にしましたという作りには、ちょっとがっかりする。前庭では小さな子供がはしゃいでいる。

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とにかくのどが渇いた。中に入るとそこはショップ。紅茶などの茶葉が売られている。一番端に冷蔵庫があり、お客さんがボトルを取り出して買っている。緑茶100元、決して安くはないが、飲んでみる。とにかくのどが渇いている時は有り難い。冷たいお茶をごくごく飲み干す。

 

更に進んでいくと、製茶体験などができる場所があり、喫茶スペースもあった。反対側へ行くと、製茶場があり、機械なども置かれている。そこの前にこの茶廠の歴史が展示されていた。1899年に三井合名がこの地に茶園を開拓。1926年に角板山茶廠を開設した。戦後改名されたが、1955年に大火災があり、茶産業も衰退。つい最近台湾農林が改修して観光地化したらしい。

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ちょうど見学ツアーが出発しており、そこに重なる。台湾人はこの茶廠を見て、何を思うのだろうか。台湾茶の歴史は輸出の歴史であり、輸出はイコール、日本の外貨獲得政策の一環。大企業である三井が乗り出し、日東紅茶を作り出した。この工場はその主力の1つ。2階は天井が高い。インドやスリランカに見られる大規模紅茶工場だが、1960年代にはすでに国際競争力を失い、衰退している。

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1時間もいれば、もう十分。既に帰りのバスが気になり始める。4時前にバスが来るので、早々に茶廠を離れる。バス停は見付かったが、台湾好行の表示は見えない。周囲を散策するが、他にバス停はなかった。この付近、意外と民家があり、廟があり、ちょっとした店もある。最近できたとも思えないので、昔からこの茶廠と共にあったのかもしれない。

 

バス停には台湾人の若い子たちが待っていたので、その横で待つ。バスはなかなか来なかった。そして乗客も少ない。ところがいざバスが来ると、何と我々の前を通り過ぎてしまった。運転手が何か手で合図していた。これには慌てた。もしこのバスを逃すとどうなるのだろうか。皆で走っていくとだいぶ先にバスが停まり、そこには十人以上の乗客が待っていた。

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何だ、こんなところにバス停があったのか。2つに分ける理由がわからないが、今はとにかくバスを捕まえることだ。幸い乗客が多く、乗り込むことができた。席もあったので落ち着く。大渓の街で降りる人もいたが、私は疲れたので、そのまま桃園駅まで戻る。夕日が川に落ちていく。

 

6. 台北3

台北に戻る。宿まで歩いて行くと、何と顔馴染みの茶荘の夫婦と出くわす。これには驚いた。今回は寄らないつもりだった茶荘だが、後で行くよ、ということになる。腹が減ったので、ワンタンメンを食べる。これから中国へ行くので、ここで洗濯しようと思い、コインランドリーへ向かい、洗濯する。乾燥機までかければ、すぐに完了するのが嬉しい。ついでに昔使っていた携帯電話の故障について、その辺の店で見てもらう。電池が古過ぎるということだが、既に生産は停止しており、台湾では買えないようだ。

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それから新純香を再訪して、私も寄稿している雑誌、月刊茶を寄贈する。台湾や中国なら何とか漢字を頼りに読むこともできるだろう。ましてやこの夫婦は日本語堪能なのでちょうどよい。そして先ほど出会った茶荘、広方圓に歩いて向かう。だがオーナーは急ぎの用事で出かけていた。パイナップルケーキを買い、退散。

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102日(日)
福州へ

翌朝は台湾を離れて、福州へ向かう。桃園空港までバスで行き、厦門航空に乗る。今や台湾から中国へ行くのは簡単だ。ボードを見ると私が乗るフライトの上の便は厦門航空と華信航空のコードシェア便だった。華信航空はその設立時に、少し関わった会社だから、何とも懐かしい。今は中華航空の傘下と聞いている。中台のコードシェア便、昔では考えられない。

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空港のモスバーガーで食事をして、飛行機に乗り込む。CAもきびきびしており、サービスも悪くはない。何より、1時間ちょっとで福州空港に着いてしまった。この距離感、いい感じだ。

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苦難の台北散歩2016(4)快晴の台北散歩

101日(土)
カンボジアから来た人と

翌朝は6時に起きた。今日はカンボジアから知り合いの女性がやってくることになっていた。Yさんとは、沖縄の知り合いを通じて、2年ぐらい前にシェムリアップで会った。会ったと言っても彼女は忙しくて、何と路上で10分話をしただけだった。そんな薄い繋がりの彼女だったが、高雄へ行く用事があり、桃園空港から台北に寄ると言ってきた。

 

午前6時にフライトが到着しても、入国審査、両替、シムカードの購入をして、バスで台北駅へ来るには2時間以上はかかるはずだった。8時前には宿を出て、台北駅へ向かう。実は空港から駅へ来るバスは以前西棟という建物に到着したのだが、数日前に変更されたと聞いたので、それを確認する必要があった。ついでに明日自分が空港へ行く時のバス乗り場も確認する。大型のバスターミナルは駅の北側にあり、そこで聞くと、バスの到着場所は以前と同じ、駅の東だった。

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彼女は大きな荷物を持ってくるだろうかと、地下のコインロッカーの場所を下見して、地上に戻ると電話が鳴る。既に彼女はバスを降りたらしい。劇的な再会となる。彼女は既に高雄(左営駅)行きの高速鉄道を予約していた。知り合いの結婚式に出席するという。まずはそのチケットを窓口で受け取る。パスポートを出すと実にスムーズ。そしてコインロッカーに荷物を預ける。

 

まずは腹ごしらえ。駅前のたまに行く店に入る。土曜日の朝でもお客は結構いて、繁盛している。Yさんがいたので、すぐに日本人として対応してもらえ(笑い)、笑顔で蛋餅と豆乳を勧められた。Yさんも美味しいと喜んでくれた。台湾の朝ご飯はやはり蛋餅だな、と思う。でもサンドイッチもおにぎりも、いい物は色々とある。それは是非高雄で食べて欲しい。

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お腹が一杯になると散歩に出た。それにしても今日はいい天気だ。カンボジアから来ればそれほど暑くはないかもしれないが、東京から来た私には日差しが強い。駅前から歩いて二二八和平公園へ出た。Yさんにとっては初めて聞く事件だろう。昔はこんな公園はなかったのだが、いつの間にか公園になっていたのだ。

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総統府の前へ出た。この付近の建物の多くは、歴史的建造物であり、壮観である。今年亡くなったエバーグリーンの張栄発会長の財団の建物が見えた。彼は5年前の東日本大震災の日、10億円の寄付をしたとして、最近日本で急激に知名度が上がった人物だ。台湾人が日本で叙勲されることはこれまでなかったが、初めて受賞した2人の内の一人にもなった。私が張氏に仕事で会ったのは20年以上前のこと。

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中正記念堂にも久しぶりに行った。広々とした空間、青空が素晴らしく、感動するほどだった。これまで数十回は来ているが、ここまで美しい空を見たのは初めてかもしれない。記念堂には観光客が集まっていた。気が付くと1時間に一度の衛兵交代式の時間だった。背の高いきりっとした衛兵がびしっと歩き、交代する。護衛時間中はピクリともしない。その辺が人気になっている。

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それから少し歩くともう暑くて仕方がない。飲み物を飲もうと思ったが、適当な喫茶店もなく、スタンドでジュースを買って歩きながら飲む。こういう時は糖分が欲しい。そうこうしているうちに電車の時間が来てしまい、Yさんは荷物をロッカーから出して、急いで駅の改札を入って行った。こんな再会は何とも愉快だった。

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4. 鶯歌

私もどこかへ出かけよう。天気も最高だし。台湾鉄道で切符を買い、各停に乗って行く。鶯歌、陶器の街として名高い。私も10年前に一度来たことがあるが、陶器にあまり興味がなく、その後来る機会はなかった。最近はどうなっているのか、ちょっと寄ってみる。台北から約40分。

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駅前から陶器街までどう歩いて行くのかも忘れてしまった。適当に歩いて行くと、結構古い、洋風の建物があった。昔からあったのだろうが、最近の日本ブームでプレートも嵌められたのだろう。1916年に建てられたらしい。そのまま歩いて行き、陶器博物館を訪ねた。新しい建物で80元もの入場料を取られたが、これといって見るものはなかった。

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その博物館の手前に陶作坊の本店があった。ここには10年前に来た。ちょうど訳アリ品の大セールをやっており、急須など一式買った覚えがある。その時日本まで送ってもらったが、その送料に余りがあれば後で取りに来ると言ったのを思い出す。だがさすがに10年は時効だろう。寄らずに、線路の反対側の陶器街へ。そこにも大きな陶作坊の店が出ていた。

 

鶯歌は有名になり、店舗数は10年前より多くなり、きれいにもなっているが、お客さんはそれほど増えているようには見えない。私にとってはやはりあまり面白い場所ではなかった。時間まで駅前の迷路のような古い街を歩いてみた。昔はこの辺にも工房があったのだろう。

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