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世界お茶祭り2016(1)お茶祭りでセミナーしてみた

世界お茶祭り2016》  20161028-30

 

静岡で3年に一度開かれる世界お茶祭り。その名前は数年前から聞いていたが、これまで訪れる機会はなかった。今年はその開催の年に当たっており、かなり早い段階からその話が聞こえてきていた。私が静岡のお茶雑誌に寄稿していることも一つの要因だったかもしれない。中には『お茶祭りでセミナーやったら』などと言ってくれる人もいた。果たしてこのお祭り、どんなものか全く分からなかったが、折角なので見てみることにした。そしてついでにセミナーで『万里茶路』を紹介してみようと思い立つ。

 

お祭り事務局を紹介してもらい、連絡すると『ぜひセミナーを沢山やって』と言われたのだが、その参加者募集からスタッフの調達まで、全てが自前であることが分かり茫然。なるほど、これこそ旅芸人だな、と気を取り直して、お手伝い頂ける人を探し、宣伝も自分でしてみた。更には入館申請からセミナールームの問い合わせまで、結構面倒だった。セミナー主催者の苦労はよく分かったが、一体どうなるのか、当日まで不透明な状態が続いた。

 

1028日(金)
グランシップへ行く

セミナー開催当日の朝、いつものように在来線に乗り、静岡まで向かった。小田急線で小田原まで行く。東京へ行くのとは逆向きであるのが、それでもサラリーマンや学生が乗っておりかなり混んでいる。小学生が制服で通学しているのが、何とも日本的だ。途中まで座れなかったが、相模大野あたりから空いてくる。

 

そして我が息子が数か月通っていた伊勢原を通り過ぎる。毎日ここまで通うのは大変だったな、と思う。まあ私も1年間毎日栃木から東京の予備校に通った実績があるので、慣れれば何とかなることは知っているのだが、たまに長距離電車に乗ると、特に座れない電車に乗るとその大変さを思い出す。

 

小田原から東海道線に乗り、とろとろと進む。静岡に近づいて頃、よく見ると、今日お手伝いをお願いしたKさんが座っているのを発見した。彼女は横浜からやはり各停で来ると言っていたが、ここで会うかと驚く。しかもスーツケースに大きな荷物を持っている。中には茶道具一式が入っている。何とも申し訳ないことだ。私が巻き込んでしまったのだ。

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静岡の一つ手前に東静岡駅がある。その駅前にお茶祭り会場、グランシップがある。私はその位置関係すらよくわからず、Kさんについて会場に向かう。確かに駅前には広場があり、その向こうに立派な建物が建っていた。お茶祭りは既に昨日から始まっていた。雨が降りそうな天候の中、建物の外にテントがある。

 

セミナー1

屋外で茶葉の販売などが行われている。ここはちょっと大変だな、と覗いていると、何と釜炒り茶を作っている人がいた。目が合ってビックリ、先月お訪ねした高千穂の宮崎茶房さんだった。釜炒りの実演をしていた。中国では珍しくはないが、日本では今や貴重になった釜炒り。その人気は徐々に高まっている。お馴染みの川根のMさんもにこやかに参加していた。

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セミナールームは10階。そこでもすでにいくつものセミナーが準備されており、実際に開催されているものもあった。ちょっと興味を惹かれるものもあったが、まずは自分の準備をした。私は持ち込んだプロジェクターを設置するぐらいだが、Kさんは茶道具を広げ、水を汲み、忙しい。今日の話は黒茶が多く出てくるので、その用意はちょっと大変だ。

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そこへ更にお手伝いのSさんとIさんが来てくれた。Sさんは藤枝で料理屋さんをやっており、何とお昼ごはんを作ってきてくれる。何とも有り難い。牧之原のSさんが1階でお茶の販売をしているが、彼の分の昼ご飯もあるというので、私が届けに行く。1階はお茶屋さんのブースが並んでおり、すぐには見付からないほど。お客さんがお茶を試飲して、買い求めている。日本だけではなく、中国や台湾、インドなどのブースもあり、世界お茶祭りらしくはある。

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お昼ご飯を頂き、セミナーの開始を待つ。本日は平日でもあり、参加希望者はそれほど多くはない。これまで何度も参加しているKさんによれば、『当日参加したいと来る人もいるはず』とのことだったが、結果はそれほど多くはなかった。私としては、少人数でお話する方が楽なので有り難い。興行主としては失格だが。

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セミナーではいつものように万里茶路を紹介した。参加者は皆熱心な、お茶好き、お茶の専門家ばかりで、セミナー終了後も、色々と質問があり、また参加者同士で意見交換が行われた。これはとても有意義だった。話しての話を聞いて帰るのではなく、そこから疑問をぶつけあい、各自の情報を共有化していくことはとても大切だ。今回はいい勉強になった。

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セミナーが終われば、自由時間になる。1階では顔馴染みの人々がお茶を売っていたので挨拶する。3階はお茶席があり、入間の極上茶仕掛け人が高級茶試飲会をしていたり、アニメ茶柱倶楽部の世界を再現したコーナーもあった。著者の青木さんとは何年も前にご連絡を頂き、会ったことがあり、懐かしく思い出す。アニメは海外編に進んだだろうか。

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福建・広東 大茶旅2016(17)ずぶ濡れの香港からエチオピア航空

7. 香港
上環へ

819分、雨の中を列車はホームを離れた。席はほぼ満員。1時間ちょっとで深圳を通過した。そのままホンハムまで一直線。ちょうど2時間で到着。イミグレもスムーズですぐに外に出たが、バス乗り場の位置を忘れて建物を一周回り、時間をロスする。香港も大雨だった。まずは上環へ向かう。今日の目的は茶縁坊だけだった。先日安渓で手に入れられなかった鉄観音の秋茶があれば、ここで買って帰ろうと考えたのだ。

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だが乗り込むバスも間違えて、遠回りのものに乗ってしまう。10年も住んだ香港がもう分らなくなってしまっているのが悲しい。バス代は安い。トンネルを通り、銅鑼湾からハッピーバレー、そして金鐘を走っていくが、雨のせいもあり、渋滞が厳しい。更には乗り降りする人も多く、なかなか進まない。

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ようやく1時間かけて上環に着いた。私は午後のフライトで東京へ行く予定だったので、時間は殆どなくなっていた。雨が激しく降る中、大きな荷物を持っていては、傘は役には立たなかった。ずぶ濡れになりながら、茶縁坊を目指した。だがなんということか、店は閉まっており、灯りはなかった。これまで一度もない光景だった。しかもここでSさんと待ち合わせをしていたのだが、彼女の姿もなかった(後で聞くと彼女も店に行ったが閉まっていたのでメッセージをくれていた)。私は香港のシムカードを持っておらず、電話を掛けることもネットを見ることもできない。途方に暮れるがどうしようもない。

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フライトは午後2時半。濡れた服も気持ちが悪い。ここはもう空港へ向かうしかなかった。また雨に濡れながら、空港バスのバス停が遠い。ちょうどバスが来たので乗り込んだが、こんな時でもクーラーガンガンだから、風邪ひきそうになる。このバスも安いが時間のかかるタイプであり、1時間後、空港に着いたときは服がきれいに乾いていたが、かなりくしゃみが出た。

 

エチオピア航空で成田へ

今回はどのルートで東京に行こうか迷っていたが、広州でネットを見ていると、広州→東京の便が意外と高いことに気が付いた。そこで香港からの便を探してみると、なんとあのエチオピア航空が、香港→成田に就航しているではないか。しかも片道の運賃はLCCより少し高い程度。これは乗ってみるしかない、と予約する。この航空会社にはかつてバンコック→香港線に乗ったことがあり、そのバスのような運行が面白かったのだ。

 

今回の広州でも見たように、減ったとはいえ、アフリカから香港経由で広州に買付に来るバイヤーは沢山いた。彼らのニーズを満たすために、この香港線があるのは何となく理解できるが、以前はなかった成田行きが出来た理由は何であろうか。因みにこのフライトはアジスアベバ→香港→成田で、バンコックには寄らない。一体どんな人が乗っているのか、興味津々だった。

 

チェックインカウンターへ行くと、前回のバンコックと同様、乗客の姿は殆どなく、また『フライトは少し早めに到着します』と言われた。僅かに見たお客は、香港人の若者。日本へ行くのに安いフライトを選んだ、という感じだろうか。今や毎月日本へ行く香港人も多いと聞く。そんなニーズに合わせて路線を延長したのだろう。これに広東省あたりの中国人観光客が加われば、それなりに採算が取れるのかもしれない。

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滑走路の方を見ると、雨は既に上がっていた。さっきの雨は何だったのだろうか。あまりにも歓迎されていない。搭乗口に行ったが、案の定、乗客の姿はなかった。前回のバンコックでは8人しか搭乗しなかったが、今回は恐らく10数人だっただろう。乗って来たのはほぼ香港人かな。機内も当たり前だが空いている。乗って来た人間は前の方に集められているが、後ろの方はガラガラに見える。だが行ってみると、エチオピアから乗って来た人々が3列の席で横になって寝ている。確かに十数時間も乗っているのだから当然だろう。

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機内食はアフリカの料理が出る訳ではなく、香港から積み込んだ食べ物で普通に美味しい。機体も比較的新しく、映画なども見ることができる。私は音楽を聞こうと楽曲を探すと、サイモンとガーファンクルがあったので、聞いてみる。何とも懐かしい。こういう音楽には国境がないな、と思う。

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飛行機は定刻前に成田に着いた。何事もなかったように電車に乗って帰路に就く。今回の旅、よく考えてみれば、台北、福州、安渓、厦門、マカオ、広州と訪ね歩く大旅行だったな。今年はミャンマー・ラオス・スリランカとか、ロシア行などがあり、大旅行が多い。いっぺんに色々と行けるのは良いが、体力的にも限界が近づいている。このような旅は徐々に減らさないといけないな、痛感する旅となる。

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福建・広東 大茶旅2016(16)工夫茶の世界

工夫茶

老茶客、という名のその店は、きれいだった。中に入るとかなり奥行きもあり、思ったよりはるかに広かった。3つの場所でお茶が飲めるようになっており、茶館ではないのだが、友人たちが集って勝手に茶を飲んでいるようにも見えた。茶葉や茶器も豊富に並べられている。Tさんがスタッフに声を掛けたが、老板はまた戻っていないと言い、彼女がお茶を淹れてくれた。

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私は茶荘でお茶を買うことも殆どないので、何となく居てよいのかどうかと思う。まあTさんの知り合いの店だからいいか。見ると、白茶が出てきた。このお茶の味、どこかで飲んだようなと思い、入れ物を見てみると、何と4月に行った政和の楊さんのお茶だった。色々と繋がりはあるものだ。

 

老板の柯さんが帰ってきた。思っていたよりもずいぶん若い。彼は早々に店全部の客に挨拶して回る。とても礼儀正しい人だ。それから主人席に座り、小さな急須を取り出して、茶を淹れ始めた。その淹れ方が実に堂に入っている。聞けば、この世界に入って10年は経っていないらしい。台湾人の先生に見せられて、茶を淹れ始めた。そして今や、有名な茶淹れ人だとTさんは言う。

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そのTさんは子供の迎えがあるというので30分ほどで帰って行った。入れ替わりに昨日会ったKさんがやってくる。Kさんは今日の午後、自宅でお茶会があったのだが、実はこの店の常連だということが分かり、急きょやってきた。Tさんを紹介しようと思ったが、本日は叶わなかった。どうせ狭い茶の世界、遠からずどこかで会うだろう。

 

この店で何と言っても見せられたが、工夫茶。清代に作られたという茶杯と茶海。何ともシンプルで美しい。茶器に興味のない私でさえ、その素晴らしさを実感し、欲しいとさえ、思ってしまう。柯さんが自ら集めているコレクションのようだ。茶葉は香港で仕入れてきた老鉄観音茶。その焙煎の具合がまたよい。そして淹れ手も素晴らしい。このような空間を私は待っていたのだ。今回の安渓の旅では今一つ得られなかった満足感が、この旅の最終日に突然訪れたのだ。何とも言えない、不思議な感覚にとらわれた。ここに私を連れてきたのは一体だれなのだろうか。

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雨は降り続いている。今晩は予定があったのだが、その場所はここからそれほど遠くはないという。しかもKさんの家とも近い。結局柯さんが微信で車を呼んでくれ、我々2人はその車に乗った。この店に次回来るのはいつだろうか。そしてスワトウ出身の柯さん、しかも私が先日高速鉄道の窓から見た、あの古めかしい集落に実家があるという彼、次回は是非彼の実家に行って、彼が淹れた茶が飲みたかった。これで今回の旅は全て繋がった。

 

更にはKさんとも繋がりが深まった。今晩会うのは、私が30年前に上海に留学した時の同学、商社のTさんと生保のYさん。Tさんの勤務先は同じグループの企業だったのだが、何とKさんのご主人も同じグループの社員だと分かり、当然TさんとKさんは親しい間柄であった。こんなものはもう偶然でも何でもない。雨はものすごく強く降り注ぐが、車のお陰で濡れずにレストランに着いた。

 

かなり遅刻してしまった。TさんとYさんは既に食事を始めていた。2人とも会うのは十数年ぶりだった。この3人は企業から派遣生された留学生の中で最年少だったので、比較的気やすい関係だ。更にTさんが入った会社の同じ部署には私の大学の同級生がいた。しかも彼もTという姓だった。彼は数年前にすでにがんで亡くなっている。30年も経てば当然色々なことが起こる。Tさんは留学終了から現在まで中国やアメリカで駐在20年。Yさんも前回会ったのは上海だった。我々の世代で中国語をやった者の多くが、その後海外勤務になっている。

 

私は最近、余り昔話が好きではなかったが、このような夜は非常に楽しい。自慢話でもなく、何となく歴史を追っていく話、そして現在。更には仕事の話が殆どでないことも喜ばしい。何だか30年前にタイムスリップしたような、それでいて実に心地よい時間を過ごした。帰りも雨が降っていたが、Tさんの車で地下鉄駅まで送ってもらった。有り難い。部屋に帰るとすでにTさんは出発していた。ずっと一緒だったTさんがいなくなってちょっと寂しい夜だった。

 

1019日(水)
香港へ

翌朝も雨だったが、チェックアウト時はほとんど降っていなかったので、荷物を引いて、急いで地下鉄駅へ向かった。昨日と全く同じ路線を1時間、東駅に到着する。もう慣れているので、迷わず駅に入り、腹が減ったのでチェーン店で粥を食べた。この店の機械が壊れて注文が大混乱となった。

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それからゆっくりと待合室へ向かった。乗客の中には外国人が多く見られた。白人も見られたが、中東系、アフリカ系もいる。日本人ビジネスマンもいた。やはり直通列車は外国人向きだろう。面倒が少ないがちょっと料金は高い。イミグレを通り中国を出国。荷物検査は長蛇の列だが、乗り遅れる心配はない。列車は何となく昔を想起させ、懐かしい。この鉄道は中国側の運行なのだ。

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福建・広東 大茶旅2016(15)農業大学を訪問して

1018日(火)
農業大学訪問

翌朝は雨が強く降っていた。本日広州郊外で撮影を予定していたTさんもこの雨を見て、行くのを止めたようだ。旅は雨でもできるが、写真は雨には弱い。折角高速鉄道まで予約したのに、可愛そう。今日はIさんに紹介されたTさんと会う予定になっていたのだが、その待ち合わせ場所は華南農業大学のキャンパス内だった。

 

この学校へどうやって行くのかと聞くと『広州東駅から割と近い』というので、地下鉄に乗って東駅へ向かう。ここまで約1時間かかる。東駅と言えば、その昔、香港から広州に出張した際、何度か利用したことがある。ここから香港直通列車も出ているし、深圳行きは頻発していた。駅に早く着いたので、明日の朝、ここから直通列車で香港へ行ってみようと思い立ち、切符を購入した。

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雨は降ったままだ。駅のタクシー乗り場へ行くと結構並んでいたが、タクシーも沢山来たので楽勝だ、と待っていた。ところが私の番が来て、目的地を告げると『そこは行かない』と乗車拒否される。仕方なく後ろの車に乗り込んで大学名を伝えると『正門までしか行かない』という。Tさんから『大学は広いので、門から歩くと20分かかる』と聞いていたので、『指定のビルまで』というとやはり拒否された。すると後ろの車は私を面倒な客と見て、最初から手を振ってくる。

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この乗り場には係員がいるので、この乗車拒否を訴えたところ、彼も運転手に理由を聞いていたが、『行かないものは仕方がない』というではないか。それでは係員の仕事にならないのだが、この辺はやはり中国。怒っていても始まらない。私は勝手に工夫を凝らす。ずっと後ろに控えていたタクシーに、大学名だけ告げて何も言わずに乗り込んだ。車は出発、運転手は気さくなおじちゃんだった。

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この大学は決して近くはなかった。20分ぐらい走ってようやく正門に着く。ここで指定されたビルの名を出し、スマホの地図を見せた。だがこの地図、正直分かりづらい。というか、大学内の11つのビル名は明記されていない。仕方なくTさんに電話、彼女が色々と説明してくれたが、何と言ってもキャンパスは広く、表示は雨で見難い。ここから迷いに迷って20分ほどで何とかたどり着いた。運転手も笑っていた。これだから、タクシー運転手が大学の中に入りたがらないのも頷ける。

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Tさんは何年か前に横浜で私が行ったセミナーに来てくれていた。元々中国の人だが、日本人と結婚しており、日本にも20年住んだらしい。ある意味で日本人以上に日本らしい。その彼女が最近ご主人の転勤で広州に赴任してきて、大学で茶を学んでいるのだという。確かに中国語の問題はないし、広州はお茶を学ぶにはよい環境であろう。

 

案内されたのは許先生の研究室。彼女は雲南省茶葉研究所で長く研究していた人で、10年前に広州に来てこちらの大学で教えている。話を聞こうと思ったが、すぐに教室に案内された。そこでは驚きの光景が待っていた。女子学生6人が、茶器をきれいにセットしている。そして男子1名が司会、詩の朗読のように演技のコンセプトを読み上げる。モダンな音楽に合わせて、6人が連動した動きを見せ、茶芸のポーズをとる。これは行ってみれば、シンクロナイズドスイミングを見ているような、キレのある、素早い動き。かつ一糸乱れぬ茶淹れだった。一体これは何だろうか。

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許先生によれば、彼らは来週福州で行われる全国茶芸大会に参加するため練習しているのだという。そんな大会があるのかと驚くと、かつてこの学校では全国2位まで取ったことがある。残すは優勝のみ。かなり気合が入っており、先生からの指示も相当に細かい。単に芸を見せるだけではなく、茶もちゃんと入れなければならない茶葉は先生が雲南から取り寄せたという。これは大変なことだ。

 

『ここで上位に入ると彼女らの就職が有利になるんです』という先生の一言が突き刺さった。そうか、ここは大学なのだ。勉強や研究するのは勿論だが、最大のポイントは卒業生が如何に就職できるかなのだ。茶荘や茶芸館、お茶会社などで雇ってくれるらしい。なぜ日本にこのような総合的な茶学部が無いのかと言えば、それは明らかに『卒業しても就職先がない』からであろう。儲からないものは研究しない、仕事がないものは大学には不要なのだ。中国が羨ましい。

 

続いて許先生が、陳先生を紹介してくれた。陳先生も雲南で研究していたが、許先生と同時期にこの大学へやってきた。そしてここ3年はアメリカで客員研究員をしており、8月に戻ったばかりだという。陳先生も雲南の茶については詳しく、特に紅茶の研究には熱心で、自ら雲南の品種を植えて、紅茶を作っていた。その紅茶を実際に飲ませてもらったが、実に美味しい。このような紅茶が商品化されればたちまちヒット商品になるのではと思うのだが、どうだろうか。

 

その後雨の中、Tさんの案内で、学校内でランチを取る。本当はこのキャンパス内にある茶畑を見学する予定だったが、雨で取りやめとなる。残念。そのまま正門まで歩き、タクシーに乗る。案内したい店があるというのでついていく。雨はようやく小降りになっている。車は市内中心部へ戻っていき、一軒の茶荘を目指していた。

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福建・広東 大茶旅2016(14)芳村を歩く

ここでTさんとは分れた。彼は連日遅くまで歩き回り、写真を撮り続けている。それはいくら若いとはいえ、凄い。私はふらふらしながら、地下鉄の駅に向かい歩き出す。すると昨日やってきた文化公園の近くに出た。何となく表示を見ると『十三行路』とあるではないか。そこを歩いて見たところ、ここはアパレルの集積地になっており、大勢のバイヤーが行き来し、荷物が往来を行き交っている。この賑やかさは、往年の貿易時代、広東十三行の活動を彷彿とさせるものがあった。広州はやはり雑貨とアパレルの街。中東系、アフリカ系バイヤーもそれを目指してやってくる。

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疲れたので、地下鉄に乗り、宿へ戻った。そして夕方はゆっくり休み、夕飯だけを外で食べ、後は大人しくしていた。やはり先日の体調不良が尾を引いている。Tさんは夜10時過ぎてやって帰ってきた。すごい体力と執念を感じる。なぜか部屋のお湯がちゃんと出なくて困る。実は今は広州名物、交易会の時期に重なっていた。昔ほど盛んではないらしいが、それでも世界中からバイヤーがやってくるので、宿は混んでおり、その結果、ここが予約されたということがようやく分かってきた。

 

1017日(月)
広州茶文化促進会

翌日は車が迎えに来て、茶文化促進会を訪問した。昨年台北で1度だけ会ったKさんが、広州在住になっており、連絡したところ同行することになる。地下鉄の駅で待ち合わせ、Kさんを拾い、茶葉市場の方へ向かう。促進会は、まさに茶葉市場のビルの一つの中にあった。まあ、お茶の関係だから当たり前からも知れない。

 

黄会長が待っていてくれた。彼は長い間、中国に茶文化を根付かせようと努力していた。初めは政府の支援もあったが、今は民間として活動しているようだ。先日案内してくれた張さんは、この会の会報制作を担当している。年に何回も会報を作り、会員とお茶の旅にも出て、理解を深めているという。今の中国で茶文化、と言えば、下に産業という言葉が付きまとい、茶旅と言えば、お茶の旅をさせて儲ける、ティーツーリズム的な発想が主流の中、このよう地道な活動は貴重だ。

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更には我々が茶葉貿易の歴史に興味があるのを知って、元茶葉輸出入公司に勤務していた女性を呼んできてくれた。我々が調べている近代、というより、むしろ現代の茶葉事情に及び、大変参考になる貴重な話が沢山出てきた。紅茶というのはその基本はブレンドであり、中国紅茶もその例外ではないことを再認識した。英徳の紅茶も新中国後の生産だし、紅茶そのものが輸出品であり、その原料を確保するため、雲南から広東に茶樹が持ち込まれ、植えられたりもしている。

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そして近くでお昼をご馳走になり、午後は茶葉市場を歩くことにして黄会長と別れた。Kさん、Tさんと3人でフラフラと店を探す。それにしても店の数が多過ぎる。5700店あると言われたが、誰が数えたのだろうか。取り敢えずいつも行く黒茶の店へ行ってみる。何しろここは骨董屋のように様々な古い茶が所せまして置かれていて楽しい。私はなぜかここで紅茶を買うことにしている。

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次にKさんが政和白茶の店を紹介してくれた。政和の茶を売っている店はこの広い茶葉市場にも殆どないらしい。何しろ香港人は政和の茶を好むが、産量が非常に少なく、いいお茶は香港の茶商に直接買われていくので、市場ではあまり見かけない。4月に政和に行った時、それはよくわかっていた。私は政和の寿眉が大好きなのだが、Kさんは銀針がよいという。茶葉がきれいだ。

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続いてKさんにお買い物に同行する。彼女は台湾でお茶を習い、広州に来てからも知り合いにお茶を教えているという。だから講座で使う茶葉を調達する必要がある。雲南紅茶もその一つ。プーアル茶の店でも、最近は紅茶を扱っている。特にプーアルも古茶樹ブームであるが、紅茶は野生茶ブーム。私も4月に昆明で飲んだ野生紅茶を美味しいと感じたが、本当の野生茶は驚くほど高価だ。

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雨模様の平日ということもあってか、市場は閑散としていた。Tさんは写真を撮りに行くと言ってここで別れた。我々は更に探検を続けようと思ったが、かなり疲れてきた。ビルの中をぐるぐると歩いていると、昔黒茶を買った店を発見。東京のI夫妻の名前を出すと笑顔で迎えてくれたので、休む。ここで以前買ったお茶を試しに4か月続けて飲んでみたところ、体がかなりスッキリした。また必要になるかもしれないと思い、新たに購入する。値段は少しずつ上がっているが、まだまだ安い。

 

そのままフラフラと地下鉄の駅の方へ歩いて行く。駅まではかなりあるのだが、Kさんと歩いているとお茶の話で盛り上がり、楽しく過ぎていく。台湾で出来たご縁が広州で生かされる、何とも有り難いことだ。明日もまた新たなご縁があると思われるが、それを彼女にも伝えたい。さて、どう繋がるのだろうか。因みに彼女のご主人は私の元同業者。ここにもご縁があるのかもしれない。小雨の中、私はそのまま歩いて宿へ戻る。

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福建・広東 大茶旅2016(13)広州を歩く

1016日(日)
広州散策

翌朝は早めに起きて出掛けた。Tさんはどうしても広州の伝統的な飲茶風景を撮影したいという。昨日張さんに聞くと、行くなら北園か南園だろうというので、北園酒家に向かう。地下鉄に乗って最寄り駅で降りたつもりだったが、全然違うところに来てしまった。なぜか目の前に中国大飯店、そして東方賓館が見える。

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ここは29年前、留学中に突然やってきた広州で泊まったホテルだった。当時の広州は中国で最も発展していた町、と記憶している。何しろタクシーが手をあげれば停まった。空港からメータータクシーで東方賓館まで運ばれた。賓館でもすぐにチェックイン出来た。その頃の中国ではありえないサービスの連続だった。ここだけに資本主義があった。その横の中国大飯店といえば、何と言っても2003年のSARSの時、このホテルで開かれた会議に出張していたが、広州の日本人の握手を拒否された場所。戻っていくと香港が大変なことになっていたのは今や歴史だ。

 

掃除していたおばさんに聞いたが、この近くには北園はないようだった。仕方なくタクシーを拾う。運転手にTさんが『たまには北園で飲茶しますか?』と聞くと、そんなバカな、という感じの声で、『俺たちは数元の包子を食えばいいんだ』と答えたのが気になった。北園の前に到着すると、数人が並んでいた。以前広州で飲茶した時、朝は6時ぐらいから開店しており、おじいさんがゆっくりとお茶を飲んでいたものだ。だが今は午前8時。それなのに店は開いていなかった。どういうことだろうか。

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実は飲茶というのは中国では早茶と言い、朝食べるものなのだ。しかし現在は日本人が思うように昼ご飯に代わっている。この店も数年前にオーナーが変わったのか、その名声を武器に高級店化を図り、開店は11時からになっている。これではもう古き良き早茶文化は見られない。因みに今日は日曜日、特別に9時に開店し、顧客サービスをしているらしい。それで人が並んでいたわけだ。

 

1時間待ってもいいことはなさそうだったので、向かいにある越秀公園に入る。この公園も90年近い歴史を誇り、かなりの広さがある。中国の公園でよく見られるおばさんたちの体操。その脇を登ると、アヘン戦争時にあった砲台跡の表示が見える。上には何も残っていなかったが、当時イギリスに占拠されたこの高台を義勇軍が奪還したとある。

 

そして降りてくると広州博物館がある。開館は9時からなので少し待つ。鎮海楼、という名所を博物館にしている。ここは入場料を取るので民間が運営していることが分かる(行政単位が運営していれば全国どこでも博物館は無料)。このような歴史的な建物を利用して商売する人々も出てきたのだろう。

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ここには広東十三行を復元した模型がある。1850年に火災で燃え、再建されたがまたアヘン戦争で燃えた商館の様子が見える。実際に使われた木箱もある。この公園が昔は越秀城であったことも分る。だから先ほどの砲台が設置されていたのだ。ここもアヘン戦争の遺跡の1つだと言える。更に行くと広州の象徴、五羊の像がある。ここには30年前にも来た記憶がある。

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Tさんがイスラム寺院に行きたいという。広州は古くからの貿易港。イスラム商人の出入りもかなりあったということか。茶葉貿易はなかったと思うのだが。懐聖寺、という唐代創建の古い寺が旧市街地にあった。だが門はしっかりと閉まっていて、中には入れない。ここにある塔が有名だ。この寺の向かいには清真料理屋がある。ウイグル系の顔をした男性が、羊肉を焼く準備をしていた。『寺には入れないね』と声を掛けると『誰でも入れるよ』というではないか。

 

ただまだ時間が早いので、先ほどの五羊の謎を調べに行く。広州に羊などいるのだろうか。それを知るためにはある廟へ行けと言われた。五羊仙清という門がある。その中へ入っていくと、2000年以上前に、五人の仙人が羊に乗って広州へ降りて来た、という伝説が語られている。その煌びやかな絵を見ると、返って疑わしく思われるが、伝説にはやはり伝説になる何か理由はあるのだろう。羊の謎は深まるばかりだった。

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イスラム寺院に戻り、結局このレストランで食事をすることにした。この家族はカシュガルからやってきたという。普通話の訛りがきつい。幼い女の子が可愛い。ナンが美味しそうだ。この付近は中東系などイスラム教徒が歩いており、彼らの食べられるものが売られている。だがこの店には漢族のおじさんたちが入ってきて、沢山料理を並べてがつがつ食べている。うーん。これはウイグル族にはかなりのプレッシャーのように見える。

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懐聖寺の門は開いていた。ウイグル人が開けてくれていたようだ。だが中へ入ろうとすると漢族の門番が急に出てきて『今日は入れない』と立ちはだかる。その口調には80年代に経験した、実に横柄な、融通のかけらもない、ぶっきらぼうな漢族が想起させられた。ウイグル族と漢族の間の問題、この辺が尾を引いているようだ。

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次はキリスト教の教会、聖心大教会へタクシーで向かう。何とも忙しい。気温がかなり上昇し、暑くて仕方がない。そろそろ体力が尽きてきた。教会内に駆け込む。ここは広州の観光スポットであり、若者が多く来ていた。中には短パン、ミニスカートを咎められ、ズボンを貸し与えられている者もいる。教会内は撮影禁止とあるが、皆構わずスマホで撮っている。前の方では説話が行われているが、どれだけの人が聞いているのか。

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福建・広東 大茶旅2016(12)広州の史跡

1015日(土)
広州の史跡

翌朝は広州の茶文化促進会の案内で、茶葉貿易の歴史的な場所を訪ねることになっていた。宿まで迎えに来てくれるというので、その前に朝ご飯を探しに行く。宿の近所には実はそれほどたくさんの食堂はなかった。仕方なく、包子を買って、持って帰って食べた。11.5元だから経済的ではある。

 

張さんが車で迎えに来てくれた。紹介された会長の黄さんは出張中とのことで、今日は彼女が相手をしてくれた。彼女は茶貿易の歴史に詳しかった。どこへ行くのかと思っていると、旧市内中心部、文化公園という場所だった。ここは何か関係あるのかと聞くと『この付近は昔広東十三行が店を開いていた場所だ』というのだ。そして今月1日にオープンしたばかりの広州十三行博物館に連れて行ってくれた。

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広東十三行、または広州十三行。それは歴史の授業で出てきた名前だ。清代、広州で貿易を管理するシステムであり、貨物の集散、関税の徴収などを行う指定業者、仲買商である。十三と言っても十三の業者や団体を指すわけではない。1757年に対外貿易が広東だけに制限され、外国企業に対する仲介機能を独占することで巨万の富を得た。だが、アヘンの扱いが多くなり、アヘン戦争前後に正規の取り扱が出来なくなると衰退していった。そんなことが展示物から読み取れる。

 

ここにはマカオの南湾が往時どんな様子だったか、そして地図には香港は書かれていないが、長州島は既に重要拠点として描かれているなど、興味深い内容が含まれていた。1856年には第2次アヘン戦争により、この付近は全て焼けてしまったことも分った。広東十三行は約100年間、隆盛を誇ったが、アヘン戦争で滅亡したことがわかる。だからこの付近には当時の建物は全く残っていないという。

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昼ごはんは飲茶。だがTさんが期待したような伝統的な庭園ではなく、普通のレストラン。広い店舗内はお客さんで一杯。お茶は紅茶を頼むと何も言わずに英徳の英紅9号が出てきた。広東省の紅茶だからだろうか。各テーブルには茶器が置かれており、勝手に淹れる。やはり広州で食べる点心は美味しいのだが、料金もどんどん上がっている。

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午後は黄埔古港を訪ねる。ここは旧市街からかなり離れている。先ほどの博物館で見ると、外国船の入港を手前で制限していたことによると思われる。まあペリーが浦賀に来ても、東京湾までは入れない、という感じだろうか。渋滞もあり、川沿いを約1時間近くかかって、目的地に到着。

 

高層ビル群を抜けて来た、その先には、古き良き広州が少し残っていた。道の両側に懐かしいような店が連なり、野菜やら鶏やらを売っている。ここはちょっとした観光地ではあるが、観光客向けなのか、地元民用なのか、判断に迷うような品ぞろえであった。恐らくはこういう雰囲気を残した観光地なのだろう。

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古港遺跡、博物館がある。スゥエーデンのことが多く展示されているのは、ここに寄港した船が沈没するという事故があったかららしい。往時福建から広州に運ばれたものの中に『紅茶』という表現があり、江蘇、浙江、江西などの茶葉は『緑茶』と表記されているのが面白い。やはり福建は紅茶の産地だったということか。1830年代、茶葉は全輸出の3分の2を占めていた。そしてアヘンの輸入も50%を超えていた。

 

古港遺蹟、という石碑がある場所まで行く。往時はここまで外国船が入ってきて、茶葉を積み込んだのだろう。だが、それにしてはあまりにも狭い空間だ。こんなところに大型船が来たのだろうか。それとも当時は小さな船で世界を渡って行ったのだろうか。今は観光船が渡し船のように運行されているだけ。なぜか犬がペットボトルを咥えて泳いでいる。小学生が団体で何かしている。

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それからこの付近を散策したが、ここでも昔の道や建物を改修して、観光地化しようとしていた。残念だが、中国ではどこの街でも同じような改修が行われていて個性がない。廟があったが、まるで公園のように、皆が憩っていた。どこかの従業員が商売繁盛を祈願しに来ているのが、滑稽だった。

 

そして最後に向かったのは南海神廟という場所だった。南海というから、隣の南海市にあるのかと思ったら、南の海という意味で広州の海が開かれるとき、ここに廟を建て、安全を祈願したらしい。だがその眼の前には、何と発電所が建っていた。神をも恐れぬ仕業、さすが今の中国は違う。

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宋、元、明、清の4代に渡り、王朝が変わるごとに、皇帝がここに特使を派遣して、石碑が建てられたというからすごい。こんな南の果ての廟をなぜこれほど大切にしたのだろうか。そして今は、なぜお参りする人もなく、冷遇されているのだろうか。案内してくれた張さんも『この廟の大切さを知ってほしい』と連れてきてくれた。茶葉貿易の時代、ここに商人はお参りに来たのだろうか。関帝廟もあるからきっと沢山の商人で栄えたことだろう。

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広州市内に戻る間に、あたりは暗くなった。Tさんは橋の夜景を撮ると言って降りていく。私も沙面の租界を見ておこうと車を降りた。だが8年前に行ったことがある沙面への行き方が全く分からずに、道に迷う。ようやくたどり着いたが、意外と暗くて、古い建物の写真もうまく撮れずに、そのまま宿へ帰った。

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福建・広東 大茶旅2016(11)マカオから広州へ

1014日(金)
マカオ散策

翌朝も体調は回復しなかったが、Tさんに同行して、マカオ散策に出た。今回ここに来た理由、それは茶葉貿易の跡を巡るものだったので、マカオにあった東インド会社の建物を目指す。それはカモンエス公園のところにあるのを知っていたので歩いて向かう。途中に英記茶荘がある。この付近はとても雰囲気がよい。茶室があり、飲茶を食べている人々がいる。体調がよければ食べたかった。

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東方基金会、そこは東インド会社のオフィスだった場所。中に入れないのかと思ったが、今日はキャノンの展示会があると書いてある。だがまだマネージャーが来ていないというので、建物のドアには鍵が掛かっていた。きれいに整備された庭のみを見学する。建物も改修されているのか、きれいに見える。

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その横にはプロテスタント墓地がある。モリソンチャペルが見える。ロバートモリソン、プロテスタント初の宣教師としてこちらに赴き、聖書を中国語訳した人物。この墓地も彼が奥さんのために作ったと書かれている。中国への道、当時は開かれたばかりの香港ではなく、マカオが拠点だったことが窺われる。

 

その墓地を眺めていると、モリソン一家や画家のチネリーなどの墓が見られる。そしてやはりアヘン戦争で亡くなった人々が葬られていた。この辺が歴史に大きくかかわってくる。更には不思議な墓標に出くわした。東インド会社日本、と書かれている。これは一体なんだろうか。あとで教えてもらったところでは、何とここに葬られていたのはペリー艦隊の乗組員だったのだ。確かに1853年という表記がある。これはアメリカ東インド艦隊を意味しているのだろうか。この人は浦賀まで行ったのだろうか。

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マカオの重要性を確認した。もう一度東方基金会が開くのを待つというTさんとここで別れた。聖ポール天主堂跡の横を通り、セナド広場を抜けて、マカオタワーの方へ向かう。このあたり、南湾が昔の輸出港だったと聞いていたが、今やそれを示すものは何も見られない。疲れてしまったので途中でバスに乗ると、宿の近くまで連れて行ってくれたので、そのまま部屋で休む。

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12時になると、しっかりドアがノックされ、チェックアウトを促される。さすが香港・マカオの合理性だ。特に行くところもないので、ふらふら歩いて、大好きなホートン図書館の裏で休む。ここはいつもいい風が吹いており、人は少ない。ネットも出来て、水も飲める。憩いの場、とはここのことだ。

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それから宿の方に戻る途中、粥屋があったので、恐る恐る食べてみる。何ともないので、体調はかなり回復したと言えそうだ。Tさんと合流して、宿で荷物を取り、中国との境界へ向かう。実はこの宿を選んだ理由は、中国側へ渡るのに便利なフェリーが対岸まで通っているからだったのだが、昨日調べてみると、何と運休していた。これは痛い。仕方なく、バスに乗り、境界まで進む。

 

数年前まで、何度か通ったこの境。毎回延々大行列に見舞われ、優に2時間はかかっていた。それが今回はどうだろうか。人が少ない。マカオ側の出境は簡単に済み、中国側も外国人が通れるゲートが2つしかなく、列があったが、中東系の慣れたバイヤーなどがおり、スイスイ抜けていく。中国人ゲートは閑散としていた。これが今のマカオの現状だろう。景気が良い訳がない。

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珠海にあっという間、に感じられるほどの時間で出てきた。前回はここからバスに乗って広州に向かったが、今は高速鉄道が走っているという。その駅を探すとなんと境界の横にあり、便利。Tさんが切符を買いに行ってくれたが、3時間後まで席がないという。昔は境界を越える時間が読めなかったが、今は列車の予約が可能ということだろう。我々外国人は予約しても自販機では切符が取れない、窓口に並ぶ必要があるという難点があるのだが、ここにはパスポートで取れる機械が1台ある。次回ここを通る時は予約して来よう。

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1時間後、無座の切符を持って列車に乗り込んだ。車両が短いのか、席が少ない。立っていく人が沢山いた。我々は自分の荷物の上に座り、何となく時間が過ぎていく。僅か1時間で広州南駅に到着した。バスなら3時間ぐらいかかっていたから、これもまた楽になっている。

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6. 広州
宿を探す

今回広州でも知り合いに頼んでお茶関係者を紹介してもらっていた。その人が宿を予約してくれていたので、それに従って地下鉄で向かう。宿はいつもの旧市街地ではなく、何と芳村だった。ここには巨大な茶葉市場はあるので、そのためにここが予約されたのかと思った。芳村の駅を出ると真っ暗だった。地下鉄というのは地上へ出てから、どちらの方向へ行けばよいか分らない。

 

何人かに聞いて、結局タクシーに乗った。だがタクシーは1㎞ちょっと行くとUターンした。そこにITパークのようなところがある。その中へ入って欲しいといったが運転手は無視して先へ進んでしまう。結局そこに入らなければいけないと分かったがもう戻れず、荷物を引いて、戻っていく。そしてその敷地内でホテルを探す。暗い中、何とか見つけてチェックインした。

 

夕飯を食べていなかったので、横のレストランで食事をした。だが食の広州、と言われるこの地で、珍しいぐらいまずいチャーハンを食べてしまった。広州も変化しているのだろうか。体調がまた悪くなるのかと心配になる。そのレストランを抜けて外へ出ると、川沿いに出る。それほど明るくはないが夜景が見えた。後ろを振り返ると、古びた洋館のようなものがある。その向こうには倉庫のようなものも見える。この辺が茶葉製造拠点、輸出拠点だったのだろうか。にわかに興味を持つ。

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福建・広東 大茶旅2016(10)体調不良でふらふらマカオ

1013日(木)
深圳経由でマカオへ

翌朝になっても体調は良くならなかった。だが今日は深圳経由でマカオまで行くという大移動日。朝ご飯も食べずに、早々にホテルを出る。北駅に行くのは昨日のBRTが便利だが、ここからどうやってその駅まで行くのか。フロントに聞いたところ、バスで一駅乗るという。私なら歩いて行くが、Tさんはバスに乗る。

 

何とか駅を探し当て、改札を通ると荷物検査のおばさんが手作業で荷物をチェックしている。だが横には立派な検査機械があるではないか。『実は明日から使うのよ』という。ということはこのおばさんは今日で失業?いや、明日からも機械の横に立ち続けるのだろう。中国に機械化、という言葉は似合わない。

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BRTはいつも混んでいる。疲れた体に1時間はたいそう長く感じられた。列車の切符は既に昨日手配済みだったが、その1時間前に着いてしまい、手持無沙汰。Tさんは朝飯を食べると言い、マックへ入る。私は席でボーっとしていた。中国の新しい駅はほぼ例外なくチェーン店しかないので面白くない。

 

列車に乗り込むと、実に空いていた。こんなに空いている高速鉄道に乗るのは初めてかもしれない。寒さを感じるので、席を日の当たる所に移動して、じっと耐えた。太陽の光を浴びると少し元気が出る。窓の外は退屈な田舎の景色が続いている。2時間近く経ち、潮仙という駅を通った。この辺はスワトウだろうか。更に1時間ほど行くと、潮尾。この辺にはかなり古い住居が残っていて、降りてあそこで茶が飲みたい、と思ってしまう光景があった。更に昔ゴルフに行った恵州まで来ると、高層マンションが立ち並び、急速な都市化がここまで来ていると分かる。

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4時間で深圳北駅に着いた。夜行バスで10時間かかると聞いていたので、大分短縮されている。ここから地下鉄に乗り換えて、蛇口まで行く。約1時間半地下鉄に乗り、グレーター深圳の大きさを実感する。車内が寒くて難儀する。Tさんが深圳に来たのは25年も前らしい。今の深圳がどれほど発展しているのかを見せたかったが、ずっと地下に潜っており、その機会はついになかった。この25年、中国で一番発展した街、見たら驚くだろうな。

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蛇口からマカオ行のフェリーは20分後に出航予定となっていた。私は食欲がなかったが、Tさんはカップ麺を食べている。いつものように出国はいとも簡単、そして乗船すると乗客があまりにも少なく拍子抜けした。2年前に乗った時には、団体さんで満員だった船が、今や数えるほどの人数になっている。それは70分後に着いたマカオのターミナルでも同じだった。イミグレは空いていて、すぐに通過した。

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5. マカオ
フラフラで

マカオも宿は高いので、予め安めのところを予約しておいた。そこは私もあまり行かない半島の裏側。まあマカオには何度も来ており、土地勘はあるので大丈夫だとバスに乗り込む。バスはまるで観光案内のように、カジノを通り、セナド広場を抜けて、裏港へ。目指すバス停で無事に降りた。

 

だが、そこから宿が見付からない。宿のある道の名前が出て来ないのである。10分も歩いてしまい、近所の人に聞いたが、教えてもらえない。Tさんがしびれを切らして『そんなきき方じゃ、見付からないでしょう』と言って、おじさんに聞いてくれた。おじさんも親切でスマホを取り出し、位置関係を教えてくれた。我々はバス停からの歩き出しが反対だったのだ。バス停の向こうに噴水があり、その奥に宿はあった。

 

かなり疲れており、頭が働かなかったのだろうか。宿はビルの3階にあり、そこまで登るのもきつい。その宿はきれいであり、部屋もそれなりに清潔。窓から外を見ると、何と向こうの方に中国の珠海が見えた。疲れてはいたが、水を買いたいと思い、写真を撮るTさんと共に部屋を出た。

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この付近は昔のマカオのにおいが濃厚に残っており、好ましい。港へ行くと、そこは倉庫街になっており、昔のたばこ会社の名前なども見える。夕日を浴びる船を見ていると、何とも気持ちが和む。だがその背景に珠海の高層ビル群があるのは、何とも興ざめだ。このあたりから茶葉が輸出されたとは思えないが、マカオは第二次大戦前、香港以上に茶葉の輸出が行われていた場所だと聞いている。

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写真を撮りに行くというTさんと別れ、セブンイレブンに飲み物を買いに行った。香港ドルの500ドル札を出したところ、『お釣りはパタカですが、良いですか』と聞いてくる。そんなにたくさんパタカをもらっても使いようがないので断ると『なら、受け取れません』と言われ、困惑する。何故と聞くと『なぜも何もオーナーが決めたことだから仕方がないよ』というばかり。この意味は何なのだろうか。

 

部屋に帰るつもりだったが、今日全く食事をしていないので万が一食べたくなった時のために、有名なお菓子屋へボーロを買いに行く。ここにはいつも観光客が大量に押し寄せ、マカオに数十店舗もある店だったが、客は誰もいなかった。この大通り、何とあちこちで改修工事が行われており、シャッターが閉まっているところも多かった。一体どうなっているのだろうか。マカオはやはり不景気なのだろう。

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部屋に帰るとすでにフラフラであり、そのままベッドに倒れ込む。そして何と翌朝まで起き上がることはできなかった。折角マカオまで来て、夜景もカジノもなしになってしまう。何のために来たのか、と言っても何もならない。休む時はしっかり休むしかない。

福建・広東 大茶旅2016(9)厦門散策

4. 厦門2
厦門散策

1時間後には厦門北駅に着いた。高さんとはここで別れた。だが車は別の方向へ行くというので、我々もここで降りた。取り敢えず梅記の王さんに挨拶に行こうというので、BRTというモノレールに乗り、市内へ向かう。3.5元と安いが、何と1時間もかかる。北駅がどれだけ遠いかを実感した。半年前に北駅からITパークにタクシーで行った時もずいぶん時間が掛かったのを思い出す。しかも車内はめちゃ混みで疲れた。

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梅記の店に行くと、王さんが待ちかねたように出てきて、『まずは昼を食おう』という。とにかく中国というところは食事をしないと何も始まらない。今回は出前を取ってくれた。鴨麺、鴨肉がしっかりと入っている汁なし麺であった。肉をしゃぶるために、ビニールの手袋までついてくる。最近中国の衛生概念も着実に向上しているが、返って食べ難い。

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次は宿だ、ということで、王さんのところが契約しているホテルに車で連れて行ってくれた。そこは店からちょっと離れていたので、なぜだろうと思っていると、横に茶葉市場があったのだ。『実はここにも店がある』という。王さんは用事があると言って帰っていき、我々はその茶葉市場、海峡茶都へ行ってみることにした。

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雨は降っていなかったが、厦門も天気は良くない。市場もその影響か、人が殆どいない。大き目の茶道具屋に入り、話を聞く。武夷山近くの茶器を扱っており、出てきたお茶も岩茶だった。ずっと鉄観音ばかりだったので、岩茶はホッとする。それから紅茶屋などの店を回り、最近の傾向など情報収集を計ったが、お客がいなくて困っている店もあり、『茶葉を買え』と言われて逃げ出す場面もあった。

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もういいかと思い、Tさんを残して、市場を離れた。目の前にバス停があったので来たバスに乗ってみた。輪渡と呼ばれる埠頭の方へ行こうと考えていたが、途中でかなり古い建物を見つけて降りてしまった。大同路、という名前のその道は、確かに古い街だった。路地の市場には独特の雰囲気があり、地元の人が買い物をしていた。ここは決して観光用ではない。100年ぐらい前の建物もいくつかある。住居は50年ぐらい経っているのだろうか。

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そういえばTさんが『地元の人が路上で茶を飲んでいるところはないか』と聞いたのに対して王さんの答えが『いるとすれば大同路だろう』と言っていたのが、急に思い出された。期せずして、ここへ来てしまった訳だ。しかし実際には数人が茶を飲んでいるのが見られただけだった。既に路上文化は厦門にはなくなっていると言ってよい。残念だ。

 

 

2013年、13年ぶりに厦門に来た時、この付近に泊まった。その理由は1987年、初めて厦門に来た時に泊まった華僑大廈を探したからだ。今や立派なホテルに生まれ変わっているが、往時はこの辺が街の中心部だったことを窺わせる。周囲には清末の建物などが残っていた。

 

また観光客用の道に出た。脇道がちょっと古びていたので入ってみると、何と土産物屋が並んでいる。しかも置かれている商品を見てびっくり。どこも鉄観音茶が売られていた。しかもその値段が、おしなべて160元。例の緑緑した色鮮やかな奴が並んでいる。確かに観光客の目を惹くにはよいのだが。

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これが先日安渓の茶都で見た、卸価格120元の売り先の1つであることは間違いがない。車で1時間運ぶだけで3倍の値段が付く。それでもどう考えても安いと思えてしまう。新茶でなければ、更に値は半分になっている。岩茶だろうが紅茶だろうが、ある意味激安価格で売っている。こういうお茶にも一定のニーズがある、と言ってよいのだろうか。

 

帰りはふらふら歩いて行く。中山公園などの名所もあるが、あまり興味はなく、裏道へ入っていくと、懐かしい雰囲気の市場。そして庶民が食事をするような場で、また日があるうちからビールを飲み、騒がしい一団がいたりする。トイレがやけに立派なのが経済成長を感じさせる。

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40分ぐらい歩いてちょうどバスに乗った海峡茶都に戻る。このあたり、地下鉄工事が進んでおり、道路の真ん中が掘り返されていた。厦門にも地下鉄が通る。不動産も上がっているようだ。王さんから電話があった。茶都にいるから来たら、と。実は彼の店がここにあると聞いてさっき探したのだが、見付からなかったのだ。

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何と店名が違っていた。いやそれだけでなく、扱っている茶が違っていた。プーアル茶専門店だったのだ。鉄観音茶だけでは老舗の再生は難しかったらしい。2000年代前半、プーアル茶ブームに目を付け、これで儲けたという。その茶葉は香港あたりのネットワークから出てきたというから、如何にも福建らしい。店にはかなり古い茶餅が並んでいた。プーアルの老茶を飲んでいると、ちょっといい気分になる。

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Tさんは携帯電話を持っていなかったので連絡が付かなかった。夕飯の時間になり、一度ホテルに戻った。王さんがホテルのレストランで食べようというので、Tさんを探して、向かう。海鮮料理屋だった。オーナーは釣りが好きで、自分で魚を釣って来るらしい。店は広かったから、勿論オーナーに釣り好きは単なる宣伝だろうが。

 

ここで辛い海鮮鍋を食べてしまった。実に美味しく感じられ、どんどん口に入れてしまう。刺激、というのは誘惑だ。だがこれまで数日、体に優しいものだけを食べてきた胃腸にとって、これは致命的だった。部屋に帰ると体調が非常に悪くなる。辛い。

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