「茶旅」カテゴリーアーカイブ

台湾一周茶旅2016(1)雨の基隆で体調が

【台湾一周茶旅2016】 20161110-20

 

豊原・台中・鹿谷茶旅の後、所用で4日間ほど深圳、そして香港へ行ってきた。中抜けである。そこから桃園空港に戻った私は、次の旅のために台北へやってきた。今回も相変わらずのご縁の旅となり、色々とご紹介を頂き、気が付けば、結局は台湾を一周する羽目になってしまった。嬉しい悲鳴!

 

1110日(木)
1. 台北(基隆)
台北のホテル

 

深圳からのフライトは夜の9時過ぎにランディングした。1週間前も入国しており、ルーティンは同じだったが、心配なのは、シムカードが買えるかどうか。走ってショップに行くと、9:4810時閉店に何とか間に合った。今回は10日間のシムを買う。これで通信問題は無くなったと思ったのだが、店員も急いでいたのだろうか。

 

バスで台北駅へ向かう。いつもの宿へ行くのには、台北駅まで行かなくても国賓大飯店で降りた方が速いのに気が付き、途中下車。私しか下りなかったので運転手は面倒くさそうだった。宿に辿り着くと予約がされていたので、チェックインはできたが、満室らしく、いつもの部屋よりいい部屋しか空いていなかった。

 

部屋にはベッドは3つもあり、デラックスだった。しかも明日は完全満室で宿泊延長はできないと通告されてしまう。確か9月に来た時、フロントの女性が『お客さんが減っていて』と愚痴をこぼされたので、いつでも空いているものと錯覚してしまった。どうしよう。まあ取り敢えず寝るしかないな。

 

1111日(金)
基隆へ

 

翌朝はかなりゆっくりと起き上がった。やはり中国大陸へ行くというのはいつでも疲れるものなのだ。昨日買った携帯シム、何となく作動していないようだ。困った。近くのショップへ行くと、何と開店は11時半となっている。少し離れた直営店へ行くと、さすがに開いていた。11時半開店なんて、どんな運営しているんだか。スマホを差し出すと係員がちょこちょこ触って繋がるようにしてくれた。

 

腹が減ったので、魯肉飯と肉羹を食べる。大陸での濃い目の飯に飽きたら、こういう物が有り難い。今日はちょっと天気が心配だったが、特に予定がなかったので、午後から基隆へ行ってみることにした。台北駅の自販機で切符を買い、電車を待つ。向かい側にはプユマ号が停車していた。これが台鉄で最も速い電車らしい。私もこれに乗って花蓮方面を行くことになっていたが、今日は反対側に来た普通電車に乗り込む。

 

電車はのどかに走っていく。乗客はさほど多くはなく、ゆったりと座れる。だが車内の冷房が寒い。体調が悪いのだろうか。基隆に行くのは何十年ぶりだろうか。全く覚えていないが、20年以上前だろう。前回この路線に乗ったのは2002年の九份行き以来ではなかろうか。何となく覚えのある駅もあるが、初めての感覚だ。

 

1時間で基隆駅に着いた。今回はガイドブックも何も持っていない。どこへ行けばよいかもわからないが、逆に気が向いたところへ行けばよいという気楽さがある。駅は工事中でちょっと不便だった。駅前には昔風の建物が建っているが、すごく古いという訳でもない。駅前を少し行くとすぐに港が見える。決して大きくはない、小さな入り江という感じだったが、きれいになっていた。老人が港を見ながら、休んでいるのが落ち着く。

 

その先の道に入りこむと、昔風の細い街が繋がっている。日本時代に呉服屋があったとか、食堂があったとか、そんな場所だ。更に行くと中正公園と書かれており、かなり急な階段を登る。息が切れる。何だかとても疲れてしまった。公園は高台にあり、基隆の港が一望できた。記念館など見る物が色々とあったようだが、更に登って行ってまた戻るのはとても面倒だったので引き返してしまった。

 

下に降りて街を歩くが何とも歩が進まない。かなりゆっくり港の周りを一周して、それから古い街の一角を歩き、なんとなく建物が懐かしいな、昔の港町の名残があるな、とは思いながらも、足が駅の方へ向いてしまった。パン屋でパンを買って、電車に乗り込む。何のために基隆に来たのか、全く意味が分からなくなってしまったが、小雨も降っている、ということで、退散する。電車が台北に近づくと、急に晴れ間が見える。そうだ、『雨の基隆』、年間200日以上は雨、と昔教わったな。

 

台北に戻ると急に元気が出てきた。やはり太陽があると体が回復するらしい。体は日の光を欲している。いつもなら馴染みのお茶屋さんに顔を出すのだが、最近どうも足が向かない。自分は茶葉を買わないで茶の歴史など聞きだすのだから、お茶屋さんにとって決して良い客ではない、邪魔してはいけない、と気持ちが出てきた。堯陽茶行、先日福建省安渓でも目撃し、香港の店にも顔を出したが、きれいな土産物店のようで、気楽に足を踏み入れられない。

 

1112日(土)
突然のお茶屋巡り

 

今朝は洗濯物が溜まっていたので、洗濯しようと思ったが、コインランドリーには洗剤がない。仕方なく洗剤を買いに行くのだが、コンビニでも大きな洗剤しか売っていない。こんな大きなものを持ち歩くのは嫌だ、とダイソウに探しに行ったが何と店は閉まっている。その横の似たような店で探すも小さなものは見付からず、それでも一番小さなものを買うとベトナム製だった。そんな時代か。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(6)劇的な出会い

南投県のブースにはさすがに茶に関するものも多少あり、茶業改良場が展示を行っていた。茶業の歴史がかなり詳しく紹介されるという珍しい内容だったので、食い入るように見入る。Uさんはお知り合いの黄さんを見つけて、話し始める。黄さんは以前魚池の改良場にいたが、今は本場に転勤になっていた。

 

茶の歴史に詳しいので色々と聞いているうちに『実は5年前に魚池の改良場を訪ねたことがある。徐先生のご紹介であり、おまけに新井さんと一緒に働いていた楊さんまで紹介してもらった』と話すと、その後すぐに徐先生が亡くなって残念だった、と彼は言うのだ。どうしてそんなことがすぐにピンと来るのかと思っていると『実はあなたが来る前日徐先生から電話を受けたのは私だから』というではないか。当日は出張でいなかったが、彼が私のアレンジをしてくれていたのだと、初めて分かり、そのご縁に驚いた。Uさんも『なんだ、知り合いだったのか』とつぶやく。初めて会った知り合い、こういうことがたまに起きるから茶旅はやめられない。

 

さらに話していると、一昨日の中興大学での茶業検討会で、黄さんは陳場長のお供で私のすぐ後ろに座っていたことも分った。『参加者から日本人が来ているとはきいていたが、まさかあなただったとは』と向こうも驚いている。お茶のご縁とはそんなものかもしれないが、台湾茶業についても今度ゆっくり話を聞いてみたい。

 

黄さんは本当にいい人だった。試飲のブースの茶業者がランチに行ってしまうと、政府の偉い人なのに、自ら茶を振る舞っている。何とも気さくだ。更にUさんと私を誘い、奥さんも同伴して、ランチに連れて行ってくれた。後ろのブースに屋台が出ており、美味しそうな物を選んで買ってくれた。ぶらぶら歩いていると、野菜や果物も売られており、南投が農業県なのがよくわかる。茶を売っている人々もおり、黄さんには色々と声がかかる。皆が非常に仲良しなのが面白い。

 

黄さんと別れて帰路に就く。夕暮れ前、街を走っていると、『立派なケンタッキーがある』とUさんが声をあげる。寄りたければ寄ろうよ、と言ったものの、腹は満腹状態で食べ物は入らない。鹿谷にはこういう物がないという。確かに数日居るにはよいが、長居すると食事に飽きてしまうのだろう。

 

その夕食をどうしようかと、鹿谷に帰っても頭を悩ませる。洗濯物を取り込むと日が暮れたので、取り敢えず外に出る。ちょっと行くと、なんと日本のおでんの屋台のようなものがある。鹿谷関東煮というのれんまでかかっている。最近始めたという地元の台湾人が作っていた。恐る恐る覗き込むと、何とも美味しそうな大根が煮えていた。ちくわやつみれも取って、頬張る。味は台湾風であったが、それなりに美味しい。最後にサービスです、と言って出されたリンゴも、煮込まれていたが、これが意外や美味しいのでビックリ。疲れていたので、帰ってしばらくしてぐっすり寝込む。

 

117日(月)
桃園へ

 

翌朝はゆっくり起きる。そしてダラダラとお茶を飲んで過ごし、11時のバスで鹿谷を後にした。今回も最後までUさんには世話になった。バスはちょうど1時間で高鐵台中駅に着く。ここから、バスで桃園へ向かうのはちょっと不便なので、思い切って高鐵に乗る。高鐵料金はバスの2倍近くするので急いでいなければ安い方にするのだが、仕方がない。

 

高鐵は昼間でも結構混んでいる。自販機で切符を買えるのだが、1000元札を入れるとお釣りが全て50元硬貨で返ってくるという困ったことになるので、敢えて窓口へ並ぶ。高鐵は頻繁に出ているので、すぐに乗車できてしまう。高鐵桃園駅までは40分ぐらいだろうか。確かにバスより快適だ。

 

ここでバスに乗り換えるのだが、来る時もそうだったように、空港行バスは常に混んでいた。というより、バスの座席数が少なすぎる。大きな荷物を抱えて乗り込むためか、立って乗車することはできない規則のようだ。バスが来ても少し列が短くなるだけで、すぐに行ってしまう。係員も人数を数えて切符を売っている。30元。かなり非効率だ。

 

バスが来たがまた切符を売ってもらえないかと諦めていると、何とか1席あり、乗り込むことができた。乗ってしまえば、15分位で空港に着く。しかし急いでいる、特に出発が迫っていれば、焦るだろうな。空港に入ると、ちょっとしたトラブルに見舞われる。不満が残ったが、仕方がない。ネットでチケットを買うと、確認できないこともあり、怖い。台湾でもこんなことがあるんだな、気を付けなければと自らを反省する。

 

時間がかなりあったので、上の階にあるモスバーガーで時間を潰した。ここは電源もあり、Wi-Fiも通じるし、そんなに混んでいないので、暇つぶしにはちょうど良い。PCを立ち上げ、原稿などを真剣に書いていると、あっという間に時間が経ち、危うく乗りそこなう時間になりそうだった。急いで出国審査に向かう。これから急きょ、深圳へ飛ぶのだが、そこでは何が待っているのだろうか。出国審査よりも、荷物検査に時間が掛かっている。この辺は日本と並んで丁寧な台湾であった。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(5)鹿谷から南投へ

4. 鹿谷
鹿谷茶散歩

 

バスを降りると、そこには包装屋さんがあった。Uさんはそこで茶を飲みながら待っていてくれた。そこへ元鹿谷農会長の林さんが散歩で通りかかり合流した。いきなりここでこの秋のお茶談義が始まるのが流石鹿谷。包装屋のご主人は、わざわざ自分で焙煎したという茶を飲ませてくれたが、これが実に濃厚?で、味わい深く、私の好みだった。余程分けて欲しいと言いたかったが、そのチャンスに恵まれずに、ここを去る。鹿谷は誰がどんなお茶を持っているか分らないから、侮れない。

 

次に連れて行ってもらったのは、張さんのところ。ちょうど焙煎中で、忙しそうだったが、相手をしてくれた。私はよく知らなかったが、彼は元改良場にも勤務し、茶作りのプロとしても有名な人だった。日本では10年ぐらい前に今生無悔、という名のブランドのお茶を出していたらしい。確かにここのお茶も味わいが深くて好みだ。昔風の味がする。彼に質問をすると色々と紙に書いてくれたのだが、実はよくわからなかった。茶業はやはり奥が深い。

 

昼ご飯を食べようとバイクを進めたが、これはというところがなかった。折角だから新しいところにトライしようと、新しくできたラーメン屋さんに入ったが、味はよく覚えていない。鹿谷も少しずつきれいなお店が増えてきたことは事実だ。もう少しバリエーションがあると嬉しいところだろう。

 

午後はバイクで山の方へ向かう。何でも台湾大学の管理している茶畑があるというので行ってみた。そこは今宿泊可能な施設となっており、週末は観光客で賑わうのだという。今日は土曜日なので、ぼちぼちマイカーで上がってきたお客が来始めていた。製茶室があるようだったが立ち入り禁止だと止められた。

 

山の斜面に沢山の茶樹が植わっていた。ここは台湾大学の実験場なのだろうが、ある意味でもう役割は終わっているのかもしれない。この茶樹園の脇の道の奥に、日本統治時代に植えられたアッサム種の茶樹があると聞いたので、見に行ってみた。確かにかなり高くなっている喬木である。ただ全体的に入場料を払ってまで見る価値はなさそうだった。

 

帰りにもう一軒お茶屋さんに寄ってみたが、ここは珍しいお茶が集まる場所だという。茶葉は単純に製茶するだけでなく、焙煎を掛ける等、色々と加工が必要な場合がある。その辺がよくわかっていれば非常に勉強になるのだろうが、どうも関心が薄いのでうろ覚えである。折角行くのだから、勉強する姿勢を見せるべきだな。いや姿勢ではなく、実際に勉強しなければ。

 

今回はUさんが泊まっているところに転がり込んだ。その辺に茶葉が無造作に置かれており、茶の味見をすることもできる。夕飯に出掛けるのも一緒なので楽だ。有り難い。魯肉飯とおかずを食べて、満足する。夜は昨今のお茶談義で過ぎていく。これもまた贅沢な時間というべきだろう。

 

116日(日)
南投へ

 

朝起きると爽快だった。天気も良い。朝ご飯はハンバーガーと豆乳を買いに出る。こういう朝飯が好ましい。近所のお客で賑わっている。今日は特にやることもないので、南投市へ行ってみることになった。時間はたっぷりあるので、何とここで洗濯させてもらう。旅の間に1度でも洗濯できると随分と違うものだ。ちゃんと干すところもあるので、雨でも降らない限り、これで大丈夫だ。ちょっとお茶を飲んで出掛けることに。

 

そこへ昨日の張さんがやって来た。何か届け物があったようだが、何と私にもお茶を頂いた。これはサプライズだった。是非日本に帰って皆さんで飲みますと伝えた。その後エコ茶会でこの茶を飲んでみてびっくり。すごい果実の香りがあり、飲んだ人から大好評となる。是非売って欲しいとも言われたが、私はお茶屋ではないのでそれができないのは残念だった。

 

Uさんのバイクの後ろに乗り、一路坂を駆け下った。結構怖いと思うところもあったが、バイクはどんどん進んでいく。南投の街に行くのはこれが初めてではないかと思う。前回日月潭から埔里へはいったが、それも車だった。街を抜けて橋を渡ると、南投の農業博覧会の会場が見えてきた。嘉義や新竹など台湾各地区がブースを出している大掛かりなイベントだった。

 

我々は取り敢えず、南投のブースに入る。農業博覧会というだけあって、農産品の展示が多い。後で他のブースを回っても、台湾にはこんなに農産物が豊富だったかと驚くほどに、様々な物があった。牧畜業などもあり、フレッシュなミルクも牛肉も作られている、フルーツもどんどん甘くなり、以前は日本に来て買っていたリンゴなども本格的にこちらで栽培されている。

 

この博覧会は、特に今日のような週末は家族連れが遊びに来るのに絶好のイベントとなっている。ちょっとした遊ぶスペースがあり、美味しいものがあり、子供向けの飾りも多いのがそれを物語っている。日本でも各地区で行われているとは思うが、このように大規模に、そしてたくさんの地域が連携して参加するイベントこそが必要ではないだろうか。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(4)茶業検討会に参加して

114日(金)

翌朝は腹が一杯だと言いながら、朝飯を食べている自分がいた。食事が付いていると食べてしまうのは何ともだが、これも仕方がない。もったいない精神が発揮されてしまう。さすがに腹ごなしに散歩が必要と判断して、フラフラと歩きだす。地図をもらい、取り敢えず駅まで歩いて行ってみた。

 

ホテルから15分ほどかかったが、道はそれほど複雑ではなく、人通りのほとんどない繁華街を通り抜けた。豊原駅の正面は既に使われておらず、台中駅同様、改修工事がされていた。街全体としても、それほど歴史的な建物を見ることはできない。しかしだからと言って、凄く発展しているとも言い難い。この辺が面白いところかもしれない。

 

11時過ぎにジョニーが迎えに来てくれた。今日はこれからジョニーが教鞭をとっている中興大学で茶業の検討会があると聞き、私も特別に参加させてもらうことにしたのだ。その前に腹ごしらえと、また食事に。ホテルのすぐ近くにあるスワトウ牛肉店。ここの牛肉、麺に入れても、炒め物にしても、何ともうまいので、また食べてしまう。実はこのお店、彼の店の従業員の実家なのだが、彼は身分を明かさず、さらっと食べて金を払った。この辺の心配りがジョニーの素晴らしいところだ。

 

 

3. 中興大学
検討会に参加する

 

車は高速道路に乗り、台中市内を少し過ぎて降りた。20分位で、中興大学に到着。何だか広々とした南国のキャンパスに、古めかしい校舎。実はこの検討会、学内の小さな集まりだと勝手に思い込んでいたのだが、会場に入ると違っていることに気が付いた。中興大学の教授陣は勿論だが、農業委員会の幹部や茶業改良場の陳場長をはじめ、そうそうたるメンバーが登壇するというので、驚いた。これは台湾全体の茶業の将来を検討するための会だったのだ。そんなところに外国人が入ってもよいのだろうか。

 

ジョニーの店の人々もやってきて、お茶を並べて宣伝している。昨日の吉時好茶の店長もこの大学の卒業生であり、茶に興味を持っているので、ここにいた。大学内で、茶に興味がある若者が作り出したお茶なども展示されており、興味深い。この大学は本当にお茶に対して熱心なのだった。教授陣も生育から土壌、製茶など様々な専門家がいた。

 

会場のホールには聴衆が沢山詰めかけていた。その中で会は進行し、プレゼンターがPPTなどを使い、発表していく。その命題はずばり、台湾茶の将来、生きる道であった。フランスのワインを持ち出し、きちんとルールを決め、等級や産地などをはっきりさせるべきとの主張もあった。アメリカで何十年も台湾茶を商っている華人からも、もっと売り込みに力を入れる必要性が強調された。

 

我がジョニーも自らの取り組みを紹介しながら、方向性を説くが、時間が10分では語り切れない。もう一人のお知り合い、林和春さんは、『茶業の機械化』を如何に進めるかを説く。高級茶を作るだけでは問題は解決しない。ベトナムなど海外から輸入される茶葉の量を考えれば、低コストで大量に茶を作ることも重要なのだ。きれいごとだけでは政策は打ち出せないし、本当の問題解決にはならない。

 

台湾がこれだけ輸入茶葉を入れているのなら、いっそドイツに倣って、アジアの茶葉集積地を目指すべきとの意見もあった。こんな発想、日本ではできないだろうな。慎重に検討するものよいが、各自が思うところを述べて行くのが面白い。まあ、まとまりがなく、ただ言い合うだけ、との意見もあったが、実に参考になった。会場からも積極的な意見が飛び出し、作り手である茶農家と政策選定を迫られる行政の差も感じられる。最後に私の横に座って聞いていた、ジョニーのお父さんが突然皆に紹介され、大きな拍手を受けていたのは、やはり彼が偉大な存在だからだろう。

 

会が終了すると、別室にご飯が用意されており、自由に食べてよいというので、食べさせてもらった。集まった知り合い同士が、ここでも活発に意見を交換している。日本に比べれば順調にも見える台湾茶業だが、やはり多くの問題を抱えており、簡単に解決できる道はなさそうだった。茶葉が売れないのか、売れる茶葉が無いのか、どの国も同じような問題に直面している。

 

ジョニーの車で台中駅まで送ってもらい、ホテルに入った。彼には本当に忙しい中、最後まで面倒をかけてしまった。駅前のそのホテル、安い部屋でいいというと、窓のない部屋になったが、何となくそこのベッドはカプセルホテルのようで、面白い空間になっていて、楽しめた。なぜかスナックが無料で置かれており、それをぼりぼり食べながらテレビで日本のドラマを見ているうちに寝入る。

 

115日(土)

翌朝はホテルの朝食を食べ、出発した。鹿谷へ向かう。そのバスはどこから乗るのかと聞くと、ここから歩いてちょっと行ったところと言われ、荷物を引きずって向かう。干城駅というから、ちゃんとしたバスターミナルかと思ったら、その辺にいくつかのバス会社が点在しているだけだった。その中で台湾好行のバス停を見付けて、待っているとバスが来て何とか乗り込んだ。以前高鐵駅から乗ったことがあるので、ここまでくれば大丈夫だ。1時間半ほどしてバスはいつものバス停に着いた。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(3)新しい茶の形

そして草悟広場という、ビルの間の広場へ行く。地下に入るとMUJIが店を出していた。そこへ入っていくと、何ともきれいなお茶スタンド?があった。ここはジョニーが最近作った『吉時好茶』というお店だった。完全なオープンスペースに、若者が二人、お客の好みを聞き、試飲させている。気に入った客は、それをオーダーして、テイクアウトしていく。

 

茶のラインナップも、梨山をはじめ各地の烏龍茶、紅茶が10種類以上ある。お客はホットかアイスを選ぶこともできる。店で飲みたければカウンターに座ることもできる。料金は130元程度と、普通のテイクアウトスタンドよりはかなり高い。だが私がずっと見ていると、殆どお客にいない平日の午後、MUJIに入ってきた僅かの客、20-40代の女性の多くが、ここに目を止め、足を止め、試飲していた。試飲した客の多くが実際に味を確かめて購入し、テイクアウトして、広場でお茶を楽しんでいた。この気楽さと、お茶の味が分かるところが、台湾の希望だと感じた。この世代、美味しければお金は出てくるのだ。

 

ここで働く若者は、ジョニーの大学の教え子だ。彼は忙しい中、大学で茶、特に評茶の講義を行っており、その内容に憧れて茶業を目指す若者を積極的に登用していた。この店を出した意味、それは台湾の茶業の将来を考える上で重要だったと思われる。お茶の知識を備えた人がちゃんと淹れてくれる茶を気楽に飲める場が必要なのだろう。若者も世界の茶については興味津々、お茶の輪が広がっていく。

 

何故ペットボトルの茶飲料が流行るのか。それは便利だからだろう。価格もそれほど高くはないが、もし家で普通のお茶を淹れたら、その方が安い。リプトンのティバッグを見れば歴然だろう。この手軽なお茶を求める層に合うお茶が提供されていないと、と感じることが日本でもある。スターバックスのコーヒーをテイクアウトする層に合わせたお茶があってもよいと思うのだが、どうだろうか。

 

林さんが買ってきたプリンを頂く。このプリンに合うお茶はどれだろうか、などと考えながら食べるのだからすごい。ある意味で遊びながら真剣に考える、現代スタイルでよいと思った。店長は今頃昼飯の弁当を食べている。みんなすごく真面目なんだな、と感心する。チーズケーキまで食べ終わって外へ出る。因みにこの店で外からの持ち込みが可能かどうかは知らない。

 

台中の歴史的建造物、ということで、旧台中刑務所演武場へ行く。この建物は1937年に創建され、柔道や剣道が行われていたという。裏手には完全和式の建物があり、縁側でお茶が飲めるスペースになっていた。庭を見ることも出来、なんか日本に居るような気分にさせられる。戦後は官舎として使われた様だが、90年代に監獄は移転し、一部を除いて撤去された。更には1999年の大地震で損傷を受け、その修理をしようとした矢先に火事にもあったという。それでも我々の前にその姿を見せてくれていることは、何か歴史の因果だろうか。

 

そろそろ豊原へ帰るのかな、と思っていたが、もう1つ行きましょう、と言われ、ついていく。そこは巨大な建造物。『実はこの設計は日本人がしたんですよ』というではないか。伊東豊雄と名前を言われても恥ずかしながら、全く知らなかった。台中国家歌劇院、伊東氏が6年もの歳月をかけて作り出したものだという。その外観がやはりインパクトがある。杯の形だろうか。

 

中に入ると、広い空間、高い天井、全てが曲線に包まれている感じだ。しかもその曲線がすべて違ったものに見えている。実に柔らかく、包み込まれる。5階に上がると、特別の空間があり、15分間、その中でクッションに座り、ただぽっかりしていた。何もしていないのに、癒される感覚を得ている。伊東氏は既に75歳だというが、どこからこんな感性が出てくるのだろうか。既に頭の固くなった私には想像もつかない。屋上も庭園になっており、心地よい。日が暮れるとライトアップが美しい。林さんも『日本の設計は素晴らしい』と喜んでいた。

 

暗くなって豊原の店に戻った。夏休みに一日外で遊んでいた子が家に帰ってきたような心境だった。店では、1970年代の梨山の写真などを見せてもらい、ジョニーのお父さんたちが梨山の高山茶の基礎を作ったことを勉強する。既にあの高山で4日も過した経験があったから、それが如何にすごいことかをひしひしとかみしめた。茶業というのはある意味で本当に恐ろしい産業だ。

 

出張からジョニーが帰って来た。車ではなく高速鉄道で行ってきたようだ。豊原には高鐵は通っていないが、やはりこれが一番早いらしい。疲れているだろうに、ジョニーはまたも夜市に連れて行ってくれた。悪いとは思いながらも、夜市には行きたい。えびのたっぷり入った肉圓を頬張り、懲りずにさらに肉丸へ突撃する。肉丸を食べ終わると、そこにスープを入れて飲むのが美味しい。

 

一気に腹が一杯になり、すぐに降参となってしまった。だがジョニーはそれならデザートを、と更に勧めてくれる。パイナップル氷+杏仁露、これまた何とも言えない味だった。いくらでも出てきそうなので退散したが、他にも大勢が並んでいて食べられないものがいくつもあったから、次回またリベンジするべし。車で宿まで送ってもらい、腹が苦しくてしばし眠れず。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(2)無理やり豊原の古跡へ

113日(木)
豊原の古跡

 

翌朝はゆっくりと起きる。ホテルに朝食が付いているので、ビュッフェから粥とスープを選んで、もぐもぐと食べる。今日ジョニーは台北に日帰り出張。彼は本当にとても忙しい人なのだが、そんな顔を見せずに相手をしてくれるので、嬉しい反面、申し訳ない思いだ。今日は彼の部下の女性が豊原を案内してくれるというので、お言葉に甘える。

 

林さんは大学を卒業して、斗六で働いていたが、地元の豊原に戻って来たらしい。英語も出来るので、私の案内を命じられたらしい。それでも私の要請する、豊原にある歴史的な建物、というテーマには完全に首を傾げるばかり。運転手も一緒になってどこへ行くんだ、としきりに相談している。豊原は日本時代も木材の貿易などで栄えた街、と聞いていたので、古くてよい建物が残っているはずだと思い込んでしまっていた。

 

まず連れて行ってもらったのは、街中のお寺。慈済宮という名前のその寺は確かに歴史を感じさせた。ただ案内を見ても『創建年代は非常に古く、史料は存在しない。清の雍正年間にはすでにあった』と書かれている。これには好感が持てる。中国大陸の歴史的建造物などは、本当にそんなに古いかな、と疑いたくなるような説明を時々見かけることがあるが、分からないものは分からないと言った方がすっきりする。但しこれは台湾には文献などがあまり残っていないこともはっきりと示しており、台湾茶の歴史を追っていく困難をも感じさせる。

 

お寺の中は平日の午前中でも誰かがお参りをしており、線香のにおいが立ち込め、煙で周囲が霞む。航海の安全、などという言葉も出てくるので、往時は豊原から大陸に渡る、いや往来する人や物資の安全を祈願したのかもしれない。横に立つのが廟東夜市。ここが昔からの豊原の中心地であることはよくわかる。

 

一度店に顔を出し、再度どこへ行くか相談する。店の周囲は午前中露店市が立ち、車の通行などは出来ない。店の前も露天商に占拠され、看板も見えない。泉芳茶荘の歴史もそれはそれは長いのだろう。創業から約100年経つというが、店の場所は変わったのだろうか。勿論今の店は改装されてきれいになっているが、何とも街に溶け込んで、ひっそりと営業しているように見える。

 

車は郊外に進んだ。家々が連なる中に、萬選居と言われる古い建物があった。相当広い四合院作り。空が突き抜けており、北京などとは違って解放感が凄くある。ここは岸里社の家の邸宅。元々は潮州客家の張達京が台中の開拓で成功を収め、地元民にも慕われてこの地に定住、その子孫が1873年に作ったのがここらしい。921地震で一部が壊れ、2004年に修復されたとある。過去にも広東客家の家をいくつか見たことがあるが、これだけの規模の、これだけしっかりした作りのところはなかった。往時張家が如何に繁栄していたかを物語っている。因みに張家は今も台中で、バスや金融などの事業を行い、先代は台中市長も務めたと聞く。

 

帰りがけに、立派な門のあるお屋敷にも立ち寄った。確かにここは普通の家ではないな、と感じさせるものがあったが、立ち入り禁止とのことで、中に入ることはできなかった。隙間からちょっと覗くと、相当広い日本的な?庭があるようだった。そしてこの家の歴史などについても、何の表示もなく、分からなかった。今後保存の対象にするため、現在非公開なのかもしれない。

 

昼ご飯は街中に戻り、赤肉羹麺と魯肉飯を食べた。豊原でもここが有名で美味しい、ということ態々連れてきてもらった。この両方をいっぺんに食べたのだから満腹となる。豊原というところは昨晩の夜市と言い、なぜこんなに食べ物が美味いのだろうか。普通はお金の集まる所に、美食も集まると言われるが、台湾の場合、特にB級グルメ、屋台料理が美味いのには、他に理由があるはずだ。これは十分に研究の対象となる。

 

台中へ

豊原にはそれほど見る物もないということで台中へ向かった。元々彼らが立ててくれた予定は台中行だったようで申し訳ない。豊原と台中は車で15分程度だから、豊原も台中の一部と言えば、そういえるかもしれない。だから日本人で豊原に泊まる人などいないのだ。まずは台中の高級住宅街へ車が入っていく。

 

なぜここに来たのか、と思ったら、林さんは面白い洋菓子屋さんに入った。正面の出入り口から中を覗くことはできずに、まさかそこに入り口があるとは分らなかった。中には美味しそうなケーキやプリンが並んでいる。『ここのプリンが美味しいんです』と買い込む林さん。けげんな表情の私に『ここが私の元の会社なんです』と説明する。実は彼女は斗六の菓子会社で広告の仕事をしており、ここは台中店なのだという。正直斗六という街にはいったこともないが、こんなおしゃれない店を作る若者がいるのであれば、興味が沸いてくる。機会があれば行ってみよう。

豊原・台中・鹿谷散歩2016(1)豊原 廟東の夜市

【豊原・台中・鹿谷散歩2016】 2016112-7

 

9月末に台北に行ったが、完全に消化不良となっていた。私には何となく台湾が必要だと感じられることが増えている。もう一度、しかも少し長期間、台湾へ行き、出来れば一周するぐらいの勢いで、茶産地を回ってみたい衝動にかられた。そして出来うるならば、来年度の足掛かりを見付けたい、そんな思いで、再び台湾へ赴いた。

 

112日(水)
1. 豊原まで

今回は台北ではなく、台中の少し北にある豊原にまず足を向けることになった。一か月前に予約したエバ航空は格安だった。前回LCCを使って、台風の影響もありその遅れに疲れ果てたので、今回のエバは全てにおいて快適に思えた。LCC、チケットは安いが、荷物を預けると急に高くなる。成田桃園は台北へ行くには不便だが、南へ行くには都合がよい。機内サービスもよく、日本の映画を見ていると、なぜか茶畑まで登場した。

 

フライトは定刻の5時には桃園空港にランディングした。入国審査は昔ほど並んではいない。これも大陸団体客減少のお陰だ。税関もスムーズで、両替をして、シムカードを購入する。既に完全にルーティン化された行程を進む。そしてバスのチケット売り場で『豊原へ行く方法』を聞くと、『桃園駅までバスで行き、そこから台鉄かな』と言われたので、ちょっと首は傾げつつも、その路線にしてみた。チケット売り場の女性は親切にも『桃園行きは路線バスだからお釣りが出ない』と言って、わざわざ小銭を両替してくれた。この辺が台湾らしい。

 

何故売り場の女性が桃園駅を勧めたのかは、乗り場に行って分かった。高鐵駅行は長蛇の列ですぐに乗れなかったのだ。桃園駅行きは空いていて、すぐに乗り込めた。しめた、これで余裕だと思ったが、それはそうではなかった。何しろ桃園駅までいくつものバス停に止まり、渋滞にはまり、何と50分以上かかってしまったのだ。

 

実は18:46桃園発の自強号に乗れば、20時過ぎに豊原に着くことが分かっていた。17:50過ぎに乗り込んだバスは、何と18:43に駅に着いたのだ。運転手にも事情は話していたので、彼も荷物を取り出すのを手伝ってくれ、『走れ』と激励してくれた。まるで青春ドラマのように駅の階段を駆け上がった。改札を見ると自強号はなんと3分到着が遅れており、無事に切符を買い、ホームに着くと電車が来るというドンピシャなタイミングになっていた。

 

正直足がつりそうになりながら車内に入り、席に着く。しばらくは息が上がったままの状態で、携帯に見入る。それにしても自強号に乗るのは何年ぶりだろうか。豊原には高鐵が通っていないので、幸運にもこれに乗れたのだ。後で見てみると、もしこの自強号を乗り損なっていたら、次の列車は1時間以上後だったから、あの走りは絶対に必須だったのだ。神は見捨ててはいない。

 

2. 豊原
廟東の夜市

豊原駅は何だかきれいに改装されていた。出口も恐らくは元の裏口にあたるだろう。ここに来た理由はジョニーがいたからであり、電話して迎えに来てもらった。彼とは昨年偶然にも豊原で知り合い、その次は梨山の頂上で再会した仲だった。しかし私は豊原をよく知らないので、一度ちゃんと来てみたかったのだ。

 

前回の滞在時間はわずか2時間程度だったのだが、その前は確か1990年。26年前にゴルフで来たことがあったきりだった。その頃は台北に駐在しており、当時有名だったプロゴルファー、涂阿玉がキャディをしていたゴルフ場として、豊原CCに行ってみたということだったと思う。因みに涂阿玉は日本で58勝、賞金女王4回、永久シード選手になっているが、今はどうしているのだろうか。意外と豊原にいたりして。

 

車で彼のお店、いやお母さんのお店である泉芳茶荘へ。いつもM先生から、『お母さんは私の師匠ですから』と聞いていたので、こわごわ入店。お父さんもおられ、にこやかに挨拶を交わす。ジョニーの奥さん、お子さん、近所の常連さんもいて、賑やかだった。ジョニーが夜市へ行こう、と誘ってくれたので、歩いて夜市へ行く。そこは廟東という場所だったが、細い路地を入る、一見小さな場所だった。

 

しかしその熱気、人込みは凄かった。豊原がこんなところだとは夢にも思わなかった、と言ってよい。もっと寂れた街だと勝手に思い込んでいたんだが、それは間違いだった。しかもジョニーが勧めてくれたその食べ物は異常に美味かった。肉粽、雲吞湯などをかき込むとすぐにお腹が膨れてしまったのは、何とも残念。ここで明日も豊原に泊まるという決意を固める。こんなことは稀なのだが。

 

店に戻るとジョニー母が、お茶を並べて、『さあ、どれが好き?』と聞いてくる。この指導方法はM先生から聞いていたもので、生半可な回答は許されない。私にはテースティング能力などないので、自分が感じたままを答えた。それがよかったのかどうかは全く分からないが、今日の授業はそれで終了した。

 

夜も遅いのでジョニーが予約してくれたホテルに連れて行ってもらった。ここは日本人の出張者なども泊まるホテルらしく、随所に日本語があり、日本語のテレビも見ることができた。何だかもったいないぐらいの環境を得て、大満足。長い一日は終わり、早々に寝入る。

中国鉄道縦断の旅2015(14)中国は順調、問題は日本か

1227日(日)
北京散歩

 

朝はゆっくり起きた。正直3人旅が一人になり、これほど自由に感じられるとは思わなかった。決して3人旅が嫌だったわけではない。ただこれまでの私の旅は基本的に一人であり、自由気ままにやってきたので、そのペースが掴めないと疲れてしまうというのは仕方がないことかもしれない。

 

10時過ぎにホテルを出発。まずは携帯への入金をしようと携帯ショップに寄ったが、そこの爺さんが実に愛想がない。これが北京の老百姓だとは重々分かってはいても、やはり気分の良いものではない。100元を入れるのに手数料1元。地下鉄に乗ると、車内で不動産広告のチラシをばら撒いている。これも不愉快だったが、何となくバブル期の日本を思い出す。

 

海淀黄庄駅で降りる。今日はWさんとランチの予定だが、指定されたレストラン名が違っており、場所がわからず困惑した。何とかたどり着く。Wさんは中国経済楽観派だった。一帯一路政策もそこそこ機能(鉄鋼などの輸出、国外基地)しているし、介護などサービス業が盛んになっていくので、バブル崩壊はないと言い切る。

 

日本企業は中国の高度成長の果実を取り損ねたから低迷したんだ、カツを入れるべきだが、中国通と呼ばれた社員はもういないので、うまくできない。アメリカ流を中国に持ち込んでも通用しない。この店は四川料理。麻婆豆腐とご飯をかき込む。ウマし。でも何となく血糖値が高くなっているような気がする。

 

ランチ後、4号線と2号線で懐かしの建国門へ行く。銀行で用事を足してから、付近を散歩した。すでに移転してしまった元日本大使館は中国の政府機関に変わっていた。今日は寒いが汚染は少なかった。国貿まで何となく歩いて行くが、特に活気は感じられない。まあ、日曜日だから、この辺は人通りがない。10号線でホテルへ戻る。

 

5時過ぎに亮馬橋へ行き、バスを探す。東直門へ行くには地下鉄は不便で仕方ない。一直線で行けるバスが早い。今晩は北京在住時代のお知り合いに集まって頂き、旺順閣で魚頭泡餅を食べることになっていた。この料理は魚の頭を豪快に煮込んで、泡餅をつけて食べるのだが、量も多いし、値段も125元(6斤)もするので、大勢で食べるのがよい。そこでは様々な話題が出た。

 

大気汚染は深刻であり、帰国者は続出しているという。日本人、特に子供と奥さんが帰国しており、総数もかなり減少している。一方中国経済は北京においては好調に見える。日本酒ブームもきており、中国人が徳利で熱燗を飲むのが流行っている。ウナギもブームになっていて、Yさんの店では、日本酒が主にも拘らず、ひつまぶしだけ食べにくる中国人が多くて困るとも言っていた。

 

日本旅行は当然大ブーム。旅行会社を経営している人によれば、『白馬を単に雪だけでなく、鄙びた村とか、温泉に浸かる雪サルなどとうまく組み合わせて伝えたところ、大勢の中国人が行くようになった』という。同時に爆買いに代わり、越境ECの時代が来るとの話が出ていた。爆買いに変化の兆しありか。

 

日本の品物を大量に買い込み、中国で販売したいとの動きがかなりあり、そのために日本で商品を抑えられるバイヤーを探しているところが何軒もある。100億円買いたい、などと平気で言う中国人がいるらしい。個人的には日本へ行って、少額でも現地の物を買ってほしい、単にモノだけの繋がりではなく、その国の良さを体感して欲しいと思っている。

 

一方日本人観光客は全く来ない。これもまた大いに問題だ。来る人と言えば、特定目的の人ばかり。例えば、鉄道オタクなど。今回の旅で、乗り鉄、撮り鉄、データ鉄など、鉄道オタクにも色々とあることを知る。また鉄道写真は、全景が入らないものは写真として認めないなど、独特のルールもあるらしい。私にはとてもついて行けない。こんなに豊富な話題が聞ける多彩なメンバーとの食事は楽しい。

 

1228日(月)
帰国

 

日本では年の暮れが近づいているが、旧正月の北京では、年の瀬などは感じられない。飛行機は夕方なので、午前中はゆっくりと起きる。本当に今回も又疲れてしまったが、前回のミャンマーのように倒れるまでには至らなかった。恐らくさすがに中国は慣れていたことと、ミャンマーほど列車の揺れがなかったことが理由ではなかろうか。しかし来年3月に予定されている北京からロシアの果てまでの旅は今考えても思いやられる。体が持つかどうか心配だ。

 

外へ出ると空はきれいだった。風が吹けば、きれいに飛ぶということか。昼ご飯を近所で早めに済ませる。歩いていると食堂の求人広告があったが、皿洗いに月3000元出すという。以前では考えられないほど、労働力は不足しているのだろうか。ホテルをチェックアウトして、疲れたので電車ではなく、タクシーを探して空港に向かう。最近はタクシーが拾いにくいので心配していたが、すぐに見つかった。運転手も、大きな荷物を持っていたから空港に行くと分かったので、急いであんたを捕まえたよ、と笑う。

 

フライトは順調で夜には羽田空港に戻って来た。既に御用納めも終わっており、電車も閑散としていた。実に久しぶりに日本で正月を過ごすことになりそうだ。ああ、2015年も暮れていく。それにしても、歳を取るにつれて激しい旅をするとは、何とも不思議な状況だ。来年は平穏な旅を、とは思うものの既にその前途は厳しい。

中国鉄道縦断の旅2015(13)通州から馬連道へ

1226日(土)
通州へ

 

翌朝は8時に出発した。10号線から1号線へ乗り継いで、四恵駅へやって来た。322のバスを探してバスターミナルへ向かう。指示された通りこのバスに乗ると、何とこれは快速バスで、一路通州を目指して高速道路を進んでいく。東関大橋というバス停で下車、30分で着いてしまった。4元。正直北京に5年も住んでいながら、通州まで足を延ばしたことはなかった。特に用事がなかったからだろう。昔は通州事件というのがあったようだし、最近も首都機能を移転する話があるようだ。

 

バスに乗っているとニュースが流れていたが、今日は大気汚染が深刻になり、黄色警報が発令されていた。確かに周囲が見えにくくなっており、これが恐ろしいPM2.5かと実感した。いつも冬場は煙っている感じの北京だったが、今は濃霧の中を走っている雰囲気となっている。身体に影響があるとのことだったが、こんな日が続けば心身とも病んでしまうかもしれない。

 

通州は意外なほど大きく、そして発展していた。日本で言えば東京都に対する千葉県か埼玉県の1つの街に相当しそうだ。このバスに乗れば一応通勤圏内にも入る。大きなショッピングモールもあり、生活にも支障はなさそうに見える。思いの他早く着いたので、ここで朝ご飯を食べた。雲吞、5元。

 

今回なぜ通州まで来たのか。それは呼和浩特で会えなかった鄧九剛先生と会うためだった。鄧先生は基本的に呼和浩特在住だが、現在は冬の間はここ通州で暮らしているという。寒さを凌ぐためだというが、私にとっては北京も十分に寒い。ただ先生のお嬢さん一家がここに住んでおり、孫の顔を見ながら過ごしているというのが正しいのかもしれない。

 

マントウ屋に入り、話をしようとしたが、ちょうど休憩時間のようで追い出されてしまった。仕方なく先生の家にお邪魔する。奥さんが迎えてくれた。岩茶を飲みながら主にS氏が質問し、私は簡単に通訳した。羊楼洞やせん茶の歴史について、また輸送部隊がモンゴル漢族混合隊だったことなど。回族も独自隊を有しており、実は西モンゴルも重要だと言われたが、今回の本線からは外れている。

 

これから行く二連には博物館があり、ウランバートルでは寺にその面影名が残るだけだと教えられた。キャフタには売買城は無くなっているが税関は残っており、博物館もある。 イルクーツクなどシベリアには殆ど万里茶路を思わせるものは残っていない。基本的に輸送隊もテント生活をしており、当時は街自体が小規模。モスクワに中国式建築の李鴻章の茶館がある程度だという。そんな話をしていると孫が帰って来た。今日は一家で何かするらしかったので、ここでお暇した。

 

久しぶりの馬連道

12:00に通州を出て、馬連道へ向かう。北京の東から西へ横断だ。さっきのバスで四恵まで戻り、1号線から9号線へ乗り継いで、六橋東に13:15に着いた。意外と速かった。腹が減ったので包子と紫米粥を食べる。相変わらず空はどんよりしており、冬の北京の印象、そのままだった。

 

古い茶城には人は殆どいなかった。ここでNさんが中国六大茶の茶葉の撮影をしたいという。私は15年ぐらい前に何度もここへ来ていたが、店はかなり変わっている。お茶を買わないで撮影させてくれるところはないかとキョロキョロしてみたが、適当な所が見付からない。すると龍井茶を売る店が目に入った。おばさんと顔が合った瞬間、あー、と思った。

 

そこは15年前何度か来ていた茶荘だった。向こうから『あんたのことはよく覚えているよ』と言って、何と当時の名刺を出してきたので驚いた。お茶の写真撮影を依頼すると、快諾してくれた。店にない物は他から借りてきてくれた。こういうご縁は何とも有り難く、また茶旅っぽい。ここの龍井茶も懐かしく、自分飲み用に少し購入した。

 

ただ黄茶だけは全く扱いがなく。ここでは撮影できなかった。任務達成のため2階に上がり、湖南の黄茶を発見した。写真を撮ってよいかと聞くと、いいよとのことだったので、撮影を始めたが、載せるお皿を同じしたいとさっきの店に借りに行ったところ、我々を客ではないと判断したようで不機嫌になってしまったが、何とか撮影を終了した。ここで今回の任務はすべて終了し、S氏とNさんとはお別れした。

 

2人と別れ、更に茶城を徘徊した。羊楼洞でみた米せん茶、あの時は欲しいと思わなかったが、出来れば持って帰りたくなりを探すがどうしても見付からない。一軒だけ湖南茶の店にあったが、それは半分以上欠けており、きれいなマークになっていないうえ、値段も非常に高く断念した。 

 

三元橋まで戻り、夜は昔一緒に働いた中国人と会う。馬連道から三元橋まで意外と時間が掛かり、遅刻する。彼によれば、北京の不動産価格は急上昇しており、彼が5万元/㎡で買おうとしてマンションに対して、友人は値上がり余地の大きい13万元の方を勧めているという。100㎡の家を買うと日本円で約5億円。そんな金を持つようになったのだろうか。15年前の彼の給料はせいぜい月10万円だったことを思うと隔世の感がある。

 

前回会った時は子供と奥さんを海外移住させることを真剣に検討していたが、今回その話は無くなっていた。国有企業幹部は会社にパスポート取り上げられ、海外旅行すら難しい状況となっていた。ただ大気汚染は今日も深刻だし、子供の教育はやはり海外がよいとは思っているようだ。富を得た代わりに失ったものも大きいのかもしれない。

中国鉄道縦断の旅2015(12)ついに終着駅北京へ

タクシーで大盛魅へ向かう。私は昨年も来ているのだが、念のため万里茶路関連ということで再訪した。相変わらずほとんどの建物が閉まっており、人はいない。昨年は入れた裏の四合院も、住人が変わり、開発されてしまうのか、門前払いを食った。山西商人の頭目、大盛魅については、一つとして知ることができないのは何とも残念だった。

 

仕方なく歩いて、古い寺に行く。更にはアラタン像を見学するに留まった。回族が多く住むあたりも歩いて見たが、特に何も見つからない。Nさんは昨日のリベンジで稍麦の取材を始めたが、付近が電気工事でいつになっても稍麦は出来なかった。我々はタクシーで内モンゴル大学へ向かい、Nさんは写真を撮り次第合流ということになった。

 

 

タクシーの運転手は我々が日本語を話しているのを聞いて、興味を持ってきた。友達に日本語ができるのがいると言って、わざわざ電話した。だが相手は殆ど日本語を話さない。何かはったりでも話でもしたのだろうか。内モンゴルの、特にモンゴル族の日本への留学は格段に多いと聞くがどうなんだろうか。

 

内モンゴル大学でN教授と食事をした。S氏の希望で内モンゴル料理を食べる。干し肉会菜や干し春雨など、その多くは保存食だった。モンゴルの草原ではこれが生活上、当たり前のことだったのだろう。蒸し・焼ボーズ、焼きうどんなども出てくる。内モンゴルにおける モンゴル族の割合はわずか17%。民族色は徐々に失われていく。

 

 

今回の旅で湖北省の羊楼洞へ行ったとN教授に話したところ、いつもは至って冷静な彼が、『趙李橋には是非一度は行ってみたい』と興奮気味に話しだしたので驚いた。趙李橋ではモンゴル族が日常的に飲んでいる青せん茶を作っている。子供の頃から常に見ていた地名に思いを馳せる、内モンゴルならではだが、一部にはお茶中毒も心配されている。

 

内モンゴルでは現在、服や食料など、モンゴル商品が人気となっているらしい。これも漢族化への無言の抵抗なのだろうか。ただお茶については、作られるところが限られるので、どうしても湖北省の茶を飲むことになる。これは一種の呪縛だろうか。若者は段々お茶を飲まなくなってきているだろうか。

 

ホテルに戻る。午後2時にチェックアウトすればよいと言われたので、ギリギリに戻ったのだが、部屋のドアは開かなかった。サービスで2時まで延長OKでも、システムは12時で締め切るので、それ以降は一度フロントへ行き、手続きを経て再度部屋を開ける仕組みだ。何とも面倒だが、日本のように融通が効かないのとは一長一短か。

 

北京へ

呼和浩特駅はホテルのすぐ横だったが、全ては早めに動くというS氏のポリシーに従う。『早く着く分には問題はないが、乗り遅れた時の代償は大きい』というのには、私も大いに賛成だから素直に従う。そうでなくても、何かが起こる中国、早くいった方がよい。すると いつもは15分ぐらい前にならないと改札しないのが今日は早めに開いた。だが日差しがあっても相当寒いホームに放り出された感はある。しかも停車位置がわからずウロウロした。

 

15:24呼和浩特発のこの列車は恐らく北京に着く一番早い列車。僅か6時間で着くので、寝る必要もないは、何とも気楽だ。食事の心配をする必要もない。今回の列車の旅、正直かなり疲れていたので、有り難い。満員の乗客を乗せて発車。雪の高原に落ちる夕日をじっと眺めて過ごす。

 

この列車の乗客はこんなこと言うとなんだが、これまでの人々より何となく上品だった。隣のおじさんは、ウルムチの農業銀行に勤めているようで、呼和浩特での仕事が終わり飛行機に乗ろうとしたが満席でこの列車に乗ったという。日本の農業に非常に関心を持っており、専門的な質問をされたが答えられない。しかも既に作家デビューしているらしい。私より3つ上の58年生まれ。新疆在住は既に30年に及び、退職後は本格的に作家の道を歩むらしい。趣味は寒中水泳というから驚く。

 

暗くなった頃、土産物売りがやって来たが、ちゃんと制服を着た職員であるらしい。ただ彼女のさわやかな弁舌、巧みな商品の出し方などは、何となく寅さんを彷彿とさせるものがある。乗客も皆暇なので、色々と合いの手を入れて楽しい。今や高速鉄道では見られない、こんな光景ももうすぐ消えていくのだろう。

 

9. 北京
北京の夜

21:39、列車は北京駅に滑り込む。既にホテルは予約されていたが、真っすぐそこには行かない。今回の列車の旅はここで一旦終了となるが、既に次回の構想が頭を過る。北京からモンゴル経由でロシアまで。取り敢えず北京からモンゴル国境の二連行き列車について質問するも要領を得ない。不安が過る。

 

3人でこの時間帯ならタクシーだろうとはならないのもこの旅。地下鉄へ向かう。以前はどこまで行っても2元だった料金が改定されており、しかも自販機もないので切符を買うのも大変だ。三元橋までは4元だった。2号線から1駅で1号線に乗り換え、また2駅で10号線に。とても面倒だった。

 

亮馬橋駅で降りて徒歩10分。以前も泊まったチェーン店、如家に落ち着く。北京では歩き回っても安いホテルは取れないというS氏の経験により私が予約した。ここなら三元橋から一本で北京空港へ行けるので便利だった。1部屋209元、2部屋を取り、私はまた一人部屋となる。