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極寒の湖南湖北茶旅2016(2)安化は黒茶で生きていく

ホテルから歩ける範囲にある、非常に立派な茶芸館へ行く。ここは高級で、長沙では誰もが知っている有名店だそうだ。そこで福州老板、魏さんを囲んで、茶会が開かれ、長沙の茶関係者が集まってきていた。魏さんが茶産業の今後について力説すれば、参加者からも色々な意見や疑問が飛び出し、討論会のようになっていく。気が付けば、時間は10時近くになっていた。

 

さあ帰って寝ようと思っていると、参加者の一人が、宵夜へ行こうと誘う。今や中国人が観光に来ると必ず必要なアイテムとして、宵夜があり、どこの街でも夜遅くまで食べ物屋が店を開いている一角がある。長沙でも結構きれいな夜市が出来ており、人も沢山出ていた。

 

小雨の降る中、食堂の席に着き、ここで酒が出る。食べ物も沢山出てくる。どう見ても体に悪いだろう、ということを中国人はしているように思う。まあ、日本でもバブル期はあったかもしれないが。結局雨が降る中、たらふく食べてしまい、体調の悪い中、タクシーを何とか拾ってホテルに帰ったのは、午前1時だった。まさに連夜の午前様。

 

1218日(日)
長沙散歩

 

翌朝は当然ながらゆっくり起きる。午前9時集合と言っていたが、9時に来る者などいない。私は早めに粥を食い、チェックアウトして下で待っていたが、他のメンバーは『朝食付きでなかった』と言ってやってきたので、私の例を説明してあげると再度食べに行くという始末だった。

 

予約していたコースターに乗り込む。安化へ向かうとばかり思っていたが、時間調整があり、午前中は長沙市内の見学に当てられた。この辺が超中国的アレンジ。日本では考えられない。しかもどこへ行くかも決めておらず、運転手に聞いて出掛けて行くのだからすごい。

 

岳麗山へ行く。私は数年前に来たことがあったが、その時より車が多く、停車できないほどだった。ここは自然が残っており、静かで風景的にもよい。この木々を守るために個人が寄付をして、その名前が木に付けられている。これはよいアイデアだと魏さんが言い、福建も見習うべきだという。

 

この茶旅は、魏さんがスタッフとお客さん、友達を連れてきているのだが、まるで社員旅行のようなところがあり、社長の魏さん自らが、社員の写真を撮り、微信にアップしている。これは社員サービスなのか、それとも微信を使った宣伝なのか、とにかくまめにアップしていてすごい。

 

午前中はあまり時間がなく、見学はすぐに終了した。それから長沙の高鉄駅へ向かう。魏さんの友人の到着を待つためだった。だが1年前に来た時、長沙に高鉄が走っているとは聞いていなかった。走っていても長沙駅から赤壁へ向かっただろうが、今回この後武漢へ向かう私には朗報だった。

 

バスに全員が揃い、安化に向けて出発した。ちょうど昼時だったので、適当な麵屋に入り、米粉を啜る。これが意外とうまい。その後、車は一路安化に向かった。初めは高速道路がありスイスイ、そして一般道をだらだら走って、3時間半ほどかかって安化に着いた。4年前に行った時は、道路工事中ですごく時間が掛かったが、今回はまあ順調な方か。

 

3. 安化
安化の茶工場

 

広い川沿いの道を一路走っていき、夕方5時前に茶工場に駆け込む。先方はずっと待っていてくれたことだろう。安化第一茶廠、1902年に作られたということが、建物を見るだけで分かる歴史的な工場だった。副総経理が応対してくれ、見学した。ちょうど千両茶が干されていた。最近復活して人気の黒茶だった。

 

立ち入り禁止区域内は更に古い感じだった。大きな門は創業時からあるらしい。木造の倉庫が並び、工場は50年代にソ連の設計で作られたとか。1915年の万博で金賞を受賞したという紅茶はこの付近で作られたはずだが、何となく今は黒茶しか見られない。試飲室でお茶を頂いたが、黒茶ばかりが出てきて紅茶はなかった。聞けば最近、大手国有企業の傘下に入り、この工場は黒茶専門に指定されたらしい。

 

紅茶はないのかと聞くと、歴史的なサンプル品の中にはいくつかあったが、最近の物はなかった。缶に入った物が展示されている。最近でもわずかには作っており、飲ませてもらった。『安化は黒茶で勝負する。これから紅茶は自分たちが飲む分だけに作る』という言葉が印象的だった。湖南省では2010年の上海万博で黒茶ブームを仕掛け、ある程度成功していたので、一気に黒茶シフトが起こっていた。安化紅茶は消えていく運命にあるのだろうか。結構美味しいと思ったんだが。

 

もうすっかり暗くなっており、外を歩くと寒かった。夕飯は川沿いのレストランで食べた。あたりは真っ暗で明かりもなかった。部屋は冷えていたが、暖房をつけ、温かい湯気が上がる料理が並んだ。味もそれほど辛くはなく、食べやすかったので、思いっきり食べてしまった。体が温まる。

 

食後、宿へ向かった。有名なチェーンホテルだった。予約はされていたが、私がパスポートを出すと、フロントは困った顔をした。香港人が香港IDを出しても、同じだった。このホテルはチェーン店に入ったが、外国人宿泊のライセンスを持ってはいないようだった。幸い部屋数に合うだけの中国人が居たので、最終的には問題はなかったが、本当に困ったことだ。

極寒の湖南湖北茶旅2016(1)長沙で再会するも

極寒の湖南湖北茶旅2016》  20161216日‐27

 

201512月、私はユーラシア縦断鉄道の旅で湖南省にやって来た。だが茶畑のある安化へ行くことはなく、その足掛かりだけを掴んで長沙を去った。それから1年、中国には何回か来たが、湖北には行っても、湖南省に縁がなかった。安化と言えば黒茶が有名だが、あの2012年に偶然見つけた安化紅茶、あの味が忘れられずに、再訪の機会を待った。

 

そして今回、福州のお茶屋さんの紅茶旅に便乗して、安化へ行くことができた。それにしても湖南省の冬は相変わらず寒かった。ついでにまた湖北省にも足を踏み入れ、更に寒かった。1年に3回も武漢へ行く、考えられない何かが私を呼んでいた。それは何なのか、いまだに分らない。

 

 

1216日(金)
1. 長沙まで

 

今回もまた羽田から北京までエアチャイナで飛ぶ。何しろ安いのだ。そして羽田から出る方がやはり便利でもある。先日もバンコック往復に北京経由を使ったのだが、その時スーツケースが壊れてしまい、その補償金も羽田空港で受け取ることになっていた。補償も日本の航空会社より簡単に出る。今や常連さんの域に達している。

 

少なくとも羽田北京線は機体も新しく、個人画面があるので、映画も見られるし、食事も他の路線より努力しているようで、比較的美味しいので、特に申し分はない。また一時は多かった爆買い中国人観光客も姿を消しており、機内も比較的静かだ。そういえば、空港内のショップには中国人以外の観光客も多く、会計には常に長蛇の列が出来ているのに、改善されないのは、ちょっと解せない。日本的おもてなし、本当にあるのかな。

 

フライトは順調で定刻に北京に到着した。今回は長沙までの乗り継ぎを考慮して、預け荷物なしで搭乗したのだが、エアチャイナと言っても日本、重量制限を一応言われた。でもその必要は全くなかった。むしろ長沙へ行く飛行機はやはり遅れており、長沙にランディングしたのは、午後11時半頃になっていた。取り敢えず、タクシーに乗り込み、今晩予約してもらっている宿を目指した。

 

2. 長沙

 

タクシーはどこを走っているのか分らなかったが、深夜のこと、車も少なく、比較的スムーズに到着した。地元の企業が予約してくれたので、名前の違いからちょっと手間取ったが、無事にチェックインを果たす。ホテルの部屋はかなりきれいで、おまけに茶道具までが置いてあり、夜中にも拘らず、湯を沸かして一杯飲んでから寝た。

 

1217日(土)
茶市場へ

 

翌朝、ホテルで朝食を取ろうとしたが、『お前の部屋は朝食付きではない』と言われてしまう。確かもらっていた連絡では、朝食付きだったので、その企業名を出して、何とか飯にあり付いた。折角きれいなホテルなんだから、そして企業契約の客なんだから、こういうあたりはしっかりした方がよいよ、と心の中で思うが、口には出さない。口に出すと不愉快になることを十分に知っているからだ。

 

そして銀行へ行きたくて、フロントでその銀行名を行ってみたが、『この近くには支店はない』と一言で片づけられた。ところがちょっと散歩に出ると5分も離れていない大通りの分かりやすい場所にあるではないか。この辺はもう教育、というか、何と言うか。残念だな。取り敢えず用事は済んだので良かった。

 

タクシーで昨年も行った茶市場へ向かう。実は今回、昨年12月に偶然出会った鄧さんに連絡を取っていた。できれば安化の茶工場へ連れて行ってほしいと申し込んでいたのだが、状況次第となっていた。何しろ彼の親戚の工場経営者にはその数年前に会ったことがあったし、モスクワの知り合いを紹介してもらい、実際に会いにも行っている。ご縁はかなり深い。

 

彼の店は昨年とは違うところにあった。何とか探し当てて訪ねると、何とあのモスクワの張さんもちょうど来ていたので、本当に驚いた。彼も茶商なのだから、用事があれば来るだろうが、まさかここで再会できるとは思ってもみなかった。ただ皆、色々と忙しく動き回り、スマホで連絡を取り合っており。我々だけが悠々と茶を飲んでいる。

 

色々と話したが、今回はどうもご縁がなく、安化行きの話は無くなった。私は福州組と一緒に行くことは行くので、それでも問題はなかったが、ちょっと残念だった。中国ではタイミングというのが実に重要だ。はるばる日本から来ても、行けない時は行けないのだ。だから私はどうしても行かなければならない時は保険を掛けるようにしている。

 

店で昼ご飯をご馳走になり、福州の魏さん一行の到着を待つ。それまでの間市場内を散策するも、冬の寒さで、お客は殆どいない。まあ天気は悪くないのですごく寒い訳ではない。3時過ぎにようやく本体が到着し、指定された店へ向かった。そこは茶荘でもあるが、茶芸教室などもやっているようで、雰囲気が茶荘とはかなり違って落ち着ている。そこでゆったりとお茶を出されると、何となく心が休まる。

 

そして夕飯はここのオーナーの招待で、近所の立派なレストランで豪華な食事を頂く。湖南料理は辛いのだが、福建人は辛い物が苦手ということで、私にも適度な辛さの美味い物が出てきた。食事が済んでもまだ7時だったが、実はこれからが本番だった。この茶旅、夜は長い。

台湾一周茶旅2016(9)彰化で歴史を、台北で茶博を

5. 彰化
彰化散歩

 

バスで嫌な思いをした上、凄く暑く感じられた。どこでもよいから早く宿を確保して落ち着きたかった。駅前を眺めたが、ホテルらしきものはなく、少し入った場所でビジネスホテルを発見した。その付近はベトナム語など、東南アジアの言葉が並んでいた。宿で部屋があるかと聞くと『あんた、何人?』と聞き返され、ドキッとするが、日本人と答えると笑顔になり、11000元というので、すぐに部屋へ上がった。古いが、昨日より格段に広く、寛げた。空いていれば午前中でもチェックインできるのは、なんとも嬉しい。

 

彰化駅へ向かい、明日の台北行きの切符を買う。日曜日の朝の自強号、簡単に買えてよかった。駅の案内所で彰化の地図をもらい、動き出す。開化寺、孔子廟と進むが、それほど古さは感じられない。彰化に大きな大仏があると聞いていたので、そちらへ向かって丘を登る。途中に抗日記念館があると聞き、それを探すが見付からず、ハイキングコースになっている裏道を登ってみる。結構自然があり、気持ちがよい。上りきると大仏へたどり着いた。

 

非常に天気も良く、ここからの彰化の眺めはよかった。八卦山大仏、アジア一ともいわれるそれは高さ22m、見上げるほどの高さでどっしりと座っていた。観光客も大勢訪れており、強い日差しも風で和らぎ、皆が立ち止まっていた。大仏の中に入り、上に上ることも出るようだったが、遠慮しておいた。

 

車の通る道を降りていくと、さっきは見付からなかった記念館、1895八卦山抗日保台史跡館が見付かった。無料で中に入れ、涼しいので一息つく。そして展示物を見始めたのだが、下関条約により日本軍が台湾に侵攻し、それに対してどのような抵抗が行われたのかが、時系列的にかなり克明に記されていた。

 

ここ八卦山でも激闘があり、北白川宮もここで負傷したとの話もあるようだった(北白川宮はその後台南で死亡?台湾で一番知られている宮家となった)。尚この人物は明治天皇のオジにあたり、明治維新に際しては、色々な話があるようだ。一体どんな人だったのだろうか、興味深い。決して台湾人も初めから日本を受け入れていた訳でもなく、恨んでいた人々も沢山いたことを物語る展示であった。こういう歴史も日本人はきちんと見た上で、台湾が如何になる歴史的変遷を経て、今日、我々に優しく接してくれるのかを考えるべき。簡単に親日であるなどというべきではない。

 

街中に戻る途中、幼稚園があった。しかしその建屋はかなり古い。表示を見ると、元々清の時代に建てられた書院を日本時代に第二幼稚園としたとある。こんな立派な幼稚園があるということが、その当時の彰化の位置づけを語りかけているように見えた。それにしても歴史的建造物の幼稚園に通う園児はどんな気分だろうか。

 

街中には古い畳屋さんがあった。今や日本より、このような歴史的畳屋を見る機会は多い。台湾の家には今でもたまに畳の部屋があるが、畳屋は商売が成り立つのだろうか。昼ご飯は名物にも飽きたので、鶏排弁当を食べる。ボリュームがすごい。宿の周囲も古い街並みだが、その中でも1つの大旅社が観光スポットになっており、台湾人が写真を撮っていた。30年前、こんな旅社に泊まったことを懐かしく思い出す。

 

午後は疲れが出たので、ゆっくりと休養した。そして暗くなった頃、再び街へ繰り出した。土曜の夜であり、人々でごった返していた。宿のすぐ横は有名な肉圓の店らしく、行列ができている。私はそことは反対側で昔からやっている店でゆっくりと肉圓を味わう。地元の常連さんしか来ない店はちょっと入り難い。

 

更に駅前付近をうろつくと、こちらは観光客用ではなく、完全地元仕様の店が並んでいた。こんな場所がうまそうに思える。私の好物の魷魚肉があったので、飯を入れて食する。最近はイカの味に問題のある店もあるのだが、こちらはちゃんとした食材を使っていて、しかも安い。有り難い。

 

6. 台北2
茶博覧会へ

 

1120日(日)

翌朝は9時過ぎの自強号で台北に向かった。やはり切符を買っておいてよかった。途中駅から乗り込んでくる乗客がどんどん増え、本当に超満員、立っているのも大変な様相となる。3時間で台北駅に着き、定宿に荷物を運び、昼ご飯を食べに行く。それから南港の展示館へ急ぐ。

 

今日まで台湾国際茶酒珈琲展が開かれている。先日行った瑞穂の粘さんも参加すると聞き、顔を出したみたわけだ。予想以上にブースがあり、日曜日で人が多かった。ここでは、魚池で以前訪ねた茶農家が出店していたり、三峡で緑茶を作っている元気な家族に出あったり、埔里の茶農家とも知り合い、有意義だった。

 

日本から来た人々が手もみ茶の実演をしていて驚いた。抹茶と黒糖をコラボさせた飲み物を売り込んでいる日本人もいた。それでもやはりメインは、酒コーナーだった。コーヒーに集まる男性も多かった。それに比べればお茶は今一つかもしれない。日本酒コーナーも人気だった。これだけの規模の展示場を回るにはもう体力がなかったので退散した。夜は奮発して魚を食べ、すぐに寝る。

 

1121日(月)

 

翌朝は午前9時前のフライトに乗るため、午前5時半には宿を出た。雨が降っており、濡れた。空港行バスの乗り場の位置が変わっており、乗り方もちょっと変化している。空港に着くと雨が上がり、飛行機は順調に飛び立った。午後1時前には成田空港に到着、今回のミッションは終了した。

台湾一周茶旅2016(8)運転手に台湾語で怒鳴られる

4. 鹿港
鹿港街歩き

 

終点でバスを降りたが、この辺が中心なのだろうか。食堂などは沢山あるが周囲にホテルも見えず、方角も分らず歩き出す。ちょっと行くと昔の旅社のようなところがあったが、やっているのかどうかもわからない。更に歩いて行くと似たような宿があり、フロントのおばさんが親切だったので、そこに宿を取る。1泊、800元。かなり狭い奥の部屋だったが、この建物自体は歴史的建造物だろう。ちょっと洋風の作りだが、中華風の雰囲気もある、面白い建物だった。

 

昼を過ぎていたので、おばさんにこの辺の名物を聞くと『あの斜め向かいの店の肉包で有名になったが、実は地元の人はあそこでは買わない』という。確かに見てみると、長蛇の列ができている。ガイドブックにも載っていた。私はおばさんに言われた、その近くの別の店で肉包を買って食べたが、これは肉汁がこぼれて旨かった。有名店のは食べていないので比較はできないが、行列は全くなかった。

 

鹿港は小さな街だった。少し歩いて行くと、九曲巷という、この街の名所である路地に入った。くねくねと小道が曲がっており、そこに古めかしいレンガ作りの家などが建っている。そして人々が今も住んでいる。暑かったせいか、それほど懐かしい気分には正直ならなかった。さっと抜けてしまう。

 

その先には市場があった。その周辺には色々な食べ物屋が出ており、先ほどの肉包だけでは足りなかった私は、更に食事を探した。何となく笑顔のおばさんがいたので、フラッとそこへ入る。午前中しかやっていないという店、麺線糊という独特の食べ物が出てきた。普通の麺線と変わりはないようだったが、これはうまいと一気にかき込む。おばさんがもう一杯食えというので、また明日と答えて去る。だがその斜め向かいの肉丸も捨てがたく、そこにも座って食べてしまう。

 

古市街という観光のための道があった。きれいに修繕されてしまった、こういう道はあまり好きではないが、ふらふら歩いて見ると、所々に古びたものがある。土産物屋を覗き込むと麺茶というのが目に入り、思わず立ち止まる。店のおじさんが待ってました、とばかりに紙コップに入れて飲ませてくれたが、これは勿論茶ではなく、麺の粉と砂糖やゴマを交ぜた食べ物?だった。何で茶なんてつけたんだろうか。

 

適当に歩いている。元の方に戻っていくと龍山寺という古刹もあり、古い木が植わっている。海は見えないかと思って歩いたが、文武廟などが出てくるものの、それらしきものはない。昔は鉄道駅もあったようだ。今も線路の一部が残り、駅舎もきれいに建てられていた。日本時代に台糖が輸送に使っていたらしい。

 

 

メインの中山路を歩けば、結構古めかしい建物が続いている。ここ鹿港はある意味で発展が止まってしまった街なので、このような建物が残っているともいえる。ただそれほど見る所も多くはないので、大抵は台中あたりからの日帰り観光の対象になっており、宿も少ないということだ。

 

疲れたので宿に帰り、テレビを点けると、なんと日本の大相撲中継が目に入る。この古ぼけた宿でもNHKが映るのか、さすが台湾だと感心した。夕飯はまた市場へ行き、沢山食べた。台湾の古い街というのは、基本的にB級グルメがうまい。私のような貧乏旅行者には有り難いが、混んでいて席の確保が難しい。

 

1119日(土)
彰化へ

 

翌朝は早めに目覚めたので、昨日行かなかったところを歩く。古市街を突き当りまで行くとさすが港町、海の神様、天后宮が見えてきた。1591年創建というから古い。大陸から媽祖様を直接迎えた台湾唯一の宮らしい。流石に立派なところだった。この辺を見ると、鹿港が往時、有力な港で対岸の福建との交易で栄えたことが見受けられるが、現在は港そのものが見られないので、何となく空虚な街という印象だ。

 

鹿港にもう用はないので、彰化に向かうことにして宿を出た。少し行くとバス停があり、いくつかのバスが来ることになっていた。だが何時に来るのか、今一つよくわからない。そうこうしているうちに、バスがやって来た。何人かが乗り込んだので私も乗り込み、運転手に『このバスは彰化に行きますか?』と中国語で確認した。

 

ところが、運転手は黙ったまま、手のしぐさで早く行けという態度を取った。これでは彰化へ行くのかどうか分からなかったので、再度聞いたところ、今度はものすごい勢いの台湾語で怒鳴り出したので、こちらが驚いた。勿論意味は分からない。更には私が手にしていた悠遊カードをひったくり、勝手に機械にかざしてしまった。こんな礼儀知らずの運転手は台湾でも、いやアジアでも初めてだったが、後ろの人も待っているので黙って座席に着いた。

 

彼は30代前半ぐらいだろうが、何か不満が溜まっていたのだろうか。それでも他の客にはそうではなかったので、私を大陸中国人と思ってそんな態度を取ったのだろうか。それにしてもひどい。余程彰化に着いたら、バス会社に突き出そうかと思ったが、面倒なので止めたが、台湾はいい人ばかり、と言った宣伝文句には明らかに反する例だった。台湾の負の部分を見る思いだった。

台湾一周茶旅2016(7)埔里から鹿港へ

宿に戻ると、ドイツ人がやって来た。台中でレンタカーを借りて、明日から梨山付近をうろつくというのだが、何と全く中国語はできない。漢字も読めない。それで運転できるのだろうか、心配になったが埔里まで来られたのだろうか大丈夫だろう。腹が減ったというので、さっきの温州雲吞屋に連れて行き、麺を注文してあげた。本当に大丈夫なのだろうか。麵屋のおばさんが、『あんたも食べていけ』というがさすがに無理だ。

 

すぐに夜はやってくる。今晩はWさんに勧められたどんぶり屋に行ってみた。バスターミナルのすぐ近くだ。店はきれいで中はお客、殆どが若者で満席だった。僅かに1つ席が空いており、何となく居心地悪く座る。焼魚定食がうまいというので頼んでみたが、なるほどという味。いつの間にか値上げしており、近辺の食堂からすると150元では高いと言える。もうちょっと落ち着いた雰囲気ならまた来るけど。

 

1117日(木)
バイクで茶園へ

 

昨晩Wさんと話している中で、魚池の茶農家へ行くなら、バイクで送ってあげると言われ、今日はお言葉に甘えて、出動してもらった。まずはサンドイッチで朝食を済ませる。それからおもむろに、バイクの後ろにまたがり、ヘルメットをかぶる。魚池に向かう道には広い国道があるが、今回は裏道から行くという。軽い登りが続く。車は殆ど走っていないのがよい。爽やかに風を感じる。

 

既にグーグルマップで正確な位置を見ていたので、田舎の住所表示のない道でもすぐにたどり着くことができるのは凄い。そこはきれいな庭がある農家だった。Mさんに紹介された王さんが迎えてくれる。王さんは2年前まで軍に所属しており、馬祖にも長く勤務したらしい。小柄で細身だが、体は強そうだ。最近故郷に戻って農業を継ぐことになった経緯はよくわからない。

 

裏を案内してもらうと、そこには茶畑がある。『ここはお客さんが来た時に見せるために茶樹を植えている』というが、なかなか良い風景だ。そしてガチョウが歩き回り、首を長くして啼く。お店に戻り、紅茶を頂く。ここは参入が少し遅かったため、紅玉よりも台茶8号を使った紅茶製造に特徴を出しているという。さっきのガチョウが生んだ卵も出てくる。何とも自然な雰囲気。

 

WさんはGHの仕事があり、先に帰ってしまったが、私は何と王さん一家のお昼に混ぜてもらった。ほぼ自家製の野菜、そしてさっきのガチョウなど、新鮮な料理が卓に沢山並び、皆で囲んで食べる。これは何とも嬉しい、幸せな、贅沢な時間だった。ご両親も日本に対する興味が強く、盛んに質問してきた。

 

午後は王さんの茶畑に連れて行ってもらう。魚池から埔里の方に行ったあたりの山の中にある。一時は檳榔の木ばかりだった傾斜地に茶樹が植わっている。既に今年の茶作りは終わり、西日を浴びて落ち着いた雰囲気である。元軍人らしく、実に誠実に茶作りに取り組んでいる王さんだった。

 

帰りは魚池のバス停まで送ってもらう。バスはすぐ来るだろうと思っていたが、午後の早い時間、バスはそれほど多くはなく、かつ埔里を通らずに台中に行くものもあり、ちょっと待つことになる。日差しは強いのだが、日陰に入ると風が意外と爽やかでよい。茶作りには風も重要な要素だろうか。

 

埔里に帰ると、こんな時間なのに洗濯を始める。GHにある洗濯機を使い、終わったら、近くのコインランドリーに持って行って、乾燥機にかけた。これならあっと言う間に洗濯が完了する。よく見ると街の至る所にコインランドリーがある。私のように夕方洗濯したい人々が次々に訪れている。ランドリーを使っている間に、横の店で夕飯を食べる。ここの排骨スープが何とも濃厚で私好みの味だった。

 

1118日(
鹿港へ

 

翌朝は早く起きて、PCなどを触って過ごす。旅をあまり続けると疲れがたまると分かっていても、埔里にもう用はないので、今日も出掛ける算段をしている。これまで行ったことのない場所がよいと思い、思い切って鹿港を目指すことにした。鹿港はその昔貿易で栄えたと聞いていたが、実際に行ったことはなかったので、楽しみ。

 

午前中にバスで台中駅まで出た。そこの旅行案内所で、鹿港行きバス乗り場を聞いたところ、この駅の裏手にあるというので行ってみた。ところがバス停が無い。その辺で聞いてみると、その内、バスは来るよ、と言われてしまう。でもバスはなかなか来ないので不安が募る。20分以上は待っただろうか、ようやくコースターのようなバスがやって来た。現金で95元を支払う。

 

しかしこのバスはそれから台中駅の反対側へ回り、そこをぐるっと一周して、客を拾っている。これなら、あそこで待たなくてもよかったのでは、とつい思ってしまう。しかもこのバスはその後高速道路で彰化の方へ行き、相当大回りしているようにみえる。田舎道を1時間以上かかって鹿港へ入った。きっともっと早いバスがあるに違いないと思ったが、まあゆっくり行くか。

台湾一周茶旅2016(6)港口茶から埔里まで

鄧さんの準備が整い、彼女の車に同乗して何とか出発したのは10時頃だった。バスではすごく時間が掛かると言われた(何と懇丁ビーチを回って向かうので)が、距離にすれば僅か10キロちょっとらしい。東門を出てまっすぐ進む。20分ぐらいで、茶山路という名前が見えてきた。港口茶の幟も立っていた。だが聞いていた住所を訪ねても返事がない。誰もいなかった、もぬけの殻。突然のことに私は途方に暮れた。

 

鄧さんも懸命に探してくれたが、いない者は仕方がない。道の並びに港口茶の幟を出しているところで聞いてみたが、『仕事にでも行ったんだろう』と言われてしまう。仕方なく、背後の丘に登ってみる。そこには正宗港口茶と書かれた、古びた小さな製茶場があり、更にその向こうへ行くと茶畑が見えた。茶畑は海に向かって伸びているが、今は茶作りの時期ではないようだ。いい風景が広がっている。この風景、何となく長崎県の彼杵の畑を思い出す。

 

 

そこの人に聞いていても、尋ね人の行方は知れなかった。完全に諦めて、先ほど訪ねたお茶屋さんに戻り、そこのおばさんに事情を話したところ、『港口茶の元祖はうちですよ』というではないか。そして奥から5代目の朱さんが出てきて、一気に話が弾んだ。相変わらずの茶旅だ。その経緯は既にコラムに書いたので、参照して欲しい。

 

静岡県茶業会議所月刊「茶」(20173月号)『台湾最南端の緑茶』

http://www.chatabi.net/colum/11293.html

 

 

港口茶については何となく分かったので、朱さんのもとを失礼する。鄧さんの車で、懇丁ビーチを回って戻ることになった。何とも天気が良いく、日差しがまぶしい。懇丁へ行く道沿いには何もなく、ただ自然が広がり、そして海が見えるだけの絶好のロケーション。車で来なければ、この雰囲気は味わえない。感謝、感謝。自転車で通り過ぎていく人も多い。

 

私が懇丁に来たのは1989年だから、今から27年も前。あの時はクリスマスで風が冷たく、寒かった記憶しかない。当然ながら、懇丁は大発展を遂げ、今では一大リゾート地となっていた。私が当時泊った最高級ホテルもまだ残っていたが、日本の資本ではなくなっているらしい。

 

若者向けのブティックホテルから、民宿、高級ホテルまでビーチ沿いは宿で一杯。そしておしゃれなレストランや土産物屋も並んでいるが平日なので人影はまばら。鄧さんはちょっと寄り道しようと言って、恒春に戻る道路沿いに車を停めた。そこには建築中の建物がある。『ここは知り合いが高級ホテルを作る予定で建てている』という。僅か6部屋だが、確かに高級感が漂う。新婚旅行にでも使うのだろうか。

 

ランチを食べようと思ったが、いいところがないというので、恒春に戻って、広東系の料理をまたたらふく食べた。それからバスターミナルへ送ってもらう。『高雄まで相乗りタクシーが安くて速い』と言われたが、あいにくお客もなく、タクシーもいなかったので、台湾好行バスに乗り込み、恒春を離れた。鄧さんには本当に世話になった。

 

バスは混んではいなかったのでゆったりと快適に過ごす。途中自然を売り物にした国定公園で停車したが、乗り降りする人はいなかった。高雄の左営駅まで僅か2時間ちょっとで到着した。これなら高雄空港に降り立って、そのまま懇丁へ行く外国人にも便利だろう。私は台中に向かって、高鐵に乗り込む。

 

台中までも1時間はかからない。本当に今の台湾は早くなったなと実感する。車窓から落ちる夕日が見える。高鐵台中駅から台鉄に乗り、台中駅前の先日の宿にチェックインした。今日は日本代表のサッカーの試合があるので見ようと思ったが、このホテルではそれを見ることができなかった。既にどこのホテルでは何が見られるのかがごちゃごちゃで分からなくなっている。それならあそこまで急ぐ必要もなかったと急に後悔するものの既に時遅し。腹が減ったので、麺を食べて寝る。

 

1116日(水)
4.埔里

 

翌朝はホテルの朝食を食べて、ゆっくりと出発した。今日は埔里へ向かう。南投客運ではなく、全航客運の方が近いので初めて乗る。基本的にはどれに乗っても料金も時間も同じだが、駅前、それもホテルの向かいから乗れるのが嬉しい。埔里まで1時間のバス旅。ちょっとワクワク。

 

埔里に着くと、前回も泊まったWさんのGHへ向かう。午前中から押しかけて申し訳ない。取り敢えず部屋に荷物を置いて、外へ出るともう昼ご飯を食べている。温州雲吞麺、これなぜか好きなんだよね。そして前回Yさんが落としてしまったメロンパン(私は小豆入り)も買って食べる。なんでこんなに食べるんだと自分でも思う。

 

 

今回埔里に来た目的は前回幻の茶園に案内してくれた葉さんを訪ね、もう一つの茶園(これも幻になる可能性ありということで)を案内してもらうつもりだった。だが、事前の意思の疎通がうまく行っておらず、既に冬茶の茶摘みは終了していた。これからそこへ行くことはできないという。ちょっと残念だったが、前回の幻の茶園、最後の冬茶を味わって満足した。更には『埔里はいいところだからちょっと長くいたいな』というと、何と上の部屋が1つ空いているから使ってもよいというではないか。早々に部屋を見学して、来年の拠点が決まってしまった。転んでもただでは起きない!

台湾一周茶旅2016(5)古い城門が残る恒春

列車は東海岸の海岸線とその1つ入った山沿いを走っていく。池上は今や池上弁当で有名、鹿野は先日訪ねた茶畑がある場所だった。3時に台東まで来ると、確かに団体が乗り込んできて、我々の席は無くなった。だが彼女はすぐに他の席を探して座る。『台湾って、こんなものよ』といとも簡単に言う。日本なら、そういう席の売り方はしないだろうが、その辺は前向きに『台湾の臨機応変』と呼ぶことにしたいと思う。

 

その後知本温泉の知本を出発すると次は私が降りる枋寮だった。ここまで1時間、列車は何処にも停まらないので、席を移動することもなかった。今回私が訪ねるのは恒春という場所、屏東にあると聞いていたので、屏東駅まで行くのかと思ったが、枋寮からバスに乗るのだと言われ、ちょっと慌てた。私は地図も見ずに、行先だけを指示され、よくわからずに進んでいるのだ。

 

枋寮駅前で聞くと、すぐそこから恒春へ行くバスが出ているという。恒春行というより、墾丁ビーチへ行く、というのが正しいだろう。墾丁は台湾最南端の観光地であり、そこへ行く人は多いが、鉄道は走っていないので、マイカーかバスになるのだ。バスは思ったより頻繁にあり。少し待つとやって来た。ただここから1時間もかかるらしい。ずいぶん遠いところまで行くんだな。

 

3. 恒春
バスがない

 

途中で海が見えた。夕日が落ちていく。完全に南国の風景だ。そして暗くなった頃に何とか恒春のバスターミナルへ着いた。恒春の街中では何か所にも停まり、降りる場所は分り難かった。バスを降りて、まずは小さなそのバスターミナルへ行き、明日のバスを確認した。訪ねる人から言われた通り、『満州郷の港口村へ行きたいんですが』と聞いたところ、『午前6:20ね』と言われてしまった。あまりに早いのでその次はと聞くと『午後4:20ね』というではないか。確かにバスはあるが、これは学校に行く生徒用のようだ。これではいけないのと同じだ。

 

どうしてよいか分からなかった。取り敢えず宿を探し、訪ね人に連絡して迎えに来てもらうなり、何か方策を考えなければならない。バスが走ってきた道を少し戻ると、こぎれいな宿があったので、そこへ入る。11300元と決して安くはないが、ある意味、観光地料金なのだろうか。結構若者が泊まっていたのでそう判断した。

 

そこで『港口村へ行きたいのだが、何か方法はないか』と聞いてみたが、『あそこは行き難いのよね、タクシーでも結構お金かかるし』との返事。ところが横にいた女性が『それなら私が連れて行ってあげようか』というではないか。それは有り難いと言ってみたが、フロントのおばさんはあまりいい顔をしなかった。

 

取り敢えず部屋に入るとこじんまりしたところだった。ビジネスホテルというより民宿という感じ。そこで明日訪ねる相手に電話をかけて、事情を話してみた。すると相手は『今から来ないか?今晩は暇だよ』というではないか。明日の昼間でも行けないかもしれないのに、これからどうやって訪ねていくというのだ。やはり彼女に頼って明日の10時に行くことにして電話を切った。

 

下へ降りて、夕飯を食べに行く。さっきの彼女にここの名物を聞くと、冬粉というので、それを食べた。春雨のようなものだが、あっさりしていて美味しい。ちょっと食べ過ぎが続いたのでちょうどよかった。食後は、街をぶらつく。何とこの街には昔の城壁が残っており、城門もあった。今晩は満月らしく、月を眺めている人が多かった。この街の印象は俄然よくなってきた。

 

1115日(火)
港口村へ

 

翌朝は快晴だった。朝食が付いているというので下に降りると、サンドイッチと豆乳が置いてあり、自由に取るというスタイルだった。まあ、これで十分だけど。彼女を探したが見つからない。フロントの女性は『まあ10時前には暇になるだろう』と言って、彼女が私を連れて行くことを許してくれた。彼女は今、掃除などの仕事をしているらしい。

 

取り敢えずまた外へ出て、街を歩く。街の地図を見ると、何とこの街には東西南北全ての城門が現存していた。この4つを回れば、街歩きは完成だった。台湾でも珍しい現存する城壁都市だった。それにしても良くもきれいに残っているな、と思われる城壁もあり、上を一部歩くこともできた。古い石碑が残っている公園もあった。

 

映画『海角七号』(私は見ていないのでよくわからない)のロケ現場が何か所か表示されていた。この映画は台湾で大ヒットしたらしい。しかも主演女優は日本人だったというので、日本でも結構有名だ。それを当て込んで、街おこしをしたのかもしれない。若者の観光客が多いのはそのためだろうか。

 

だが私にとっての恒春と言えば、その昔何かで見た映画の舞台がここだったという記憶がある。題目は忘れてしまった。貧しさから家族のために台北へ出でて身を売って金を稼ぎ故郷に仕送りしていた女性が、故郷に戻ってみると白い目で見られるという、実に悲しい話だった。ヒロインが丘から海を眺める、それは懇丁だったのだろうか。

台湾一周茶旅2016(4)環境抜群の舞鶴

店に戻って、また沢山の茶が杯に入れられ、飲ませてもらう。紅茶だけでもなんでこんな種類があるのだろうかと思っていると、それは品種をブレンドしているものもあるからだった。原料の茶がよいのは勿論だが、それを如何に組み合わせるかで、更に美味しい物が出来るなら、それもありだな、と思えるようなお茶だった。

 

蜜香は紅茶だけでなく、緑茶や烏龍茶も作れるという。今一番値段が高いのが紅茶だから、いいお茶は紅茶で作るのだろうが、顧客のニーズに合わせて作るともいう。持ち込まれた生葉を見ると、ウンカが葉を少し噛んでいた。蜜香烏龍茶の味、ちょっと気にいったので購入してみる。

 

U夫妻はこれから花蓮へ行くというので、駅まで高さんの車で一緒に送って行く。その帰りに夕暮れ迫る茶畑を見に行った。高さんの茶畑はもっと高いところにあるそうなので、他者の畑だったが、もう暗くなろうとしているのに、茶摘みをしている人々が見える。明日は雨なのだろうか。それにしても、向こうに山が見え、いい景色の茶畑だった。

 

私はここに1泊することにした。夕飯はこの辺にはないと言われ、粘さんに連れられて、駅前にもう一度行った。何とここには日本飯屋があったのだ。興味本位で食べてみることになる。地元の人で店内は満員の盛況、ちょっと驚き。刺身や寿司、うどんなどかなりの種類のメニューが並んでいる。味はいわゆる日式ではあるが、それなりだ。車がないと移動できないので、粘さんには手数をかけてしまい申し訳ないが、いい経験となる。

 

夜は粘さんの妹が開いている民宿に泊まった。ここも表はお茶屋さんで、裏に宿泊施設があった。広い部屋だった。今朝は朝5時前に起きて疲れていたので、シャワーを浴びてすぐに寝入る。それにしても当たり前だが、静かなところだ。遠くで虫が鳴いている音しか聞こえない。

 

1114日(月)

 

翌朝は7時台に起きるとすでに日が出ていたので、散歩に行く。爽やかな朝だった。適当に歩いて行くと檳榔の木の間に茶畑が見えてきた。そしてすでに茶摘みをする人々の姿がそこにあった。この時期に、そんなに茶摘みをして茶を作るのだろうか。ここの茶はそんなに売れているのだろうか。

 

更に歩いて行くと道路脇にお茶屋さんが見えた。ちょっと洋風な作りが目を惹く。何となくその名前に見覚えがあった。そこは台北で陳先生が言っていた店だったので、朝早くにもかかわらず、入ってみた。掃除していた女性が『こんな早くにどうしたの』という感じで応対する。オーナーも出てきてちょっと挨拶をして、お茶を一杯頂き、去る。今回は時間切れだ。まあ、来られただけでもよかったか。

 

9時に高さんが迎えに来てくれ、店へ移動。後で気が付くと、宿にTシャツを1枚忘れてしまった。部屋が広すぎて窓際に干したのをすっかり忘れる。このTシャツ、スヌーピーなんだよな、ちょっと恥ずかしい。これは珍しく家族でユニクロに行った時に息子に合わせて買った物だった。

 

店では自家製のヨーグルトなどを振る舞ってくれ、美味しく頂いた。ただ今日は茶畑が見られるかと期待していたが、黄さんたちの茶畑は遠く、もし誰かの車で行ったとしても夕方までは戻らないと聞き、今回は残念ながら断念した。まあこちらが突然お願いしているので、都合が悪ければ仕方がない。これも茶旅。

 

店の隅の方になぜかコーヒーが置いてある。ここ瑞穂ではコーヒーも作られているようだ。説明書きには何と1930年に日本人、園田さんがこの地を開拓してコーヒーを植え、住田珈琲という会社を作ったとある。舞鶴コーヒーの由来だ。その後、粘さんのお姉さん(どうも双子らしい)が、残された珈琲の木からコーヒー生産を復活させたらしい。だからお茶屋さんにコーヒーが置かれている訳だ。このお姉さんも茶業の世界では有名な方だという。しかも9人姉妹の長女とか。粘家、面白そうだ。

 

ダラダラお茶を飲んでいると、近所の人が買いにきたり、少し離れたところから車でやってくる人などがあり、静かなこの界隈からするとちょっと意外な賑わいがある。電話で注文してくる人もいる。舞鶴の蜜香紅茶は今や有名ブランドなのだ、とはっきり認識した。今日の紅茶も昨日の物とは味が違う。粘さんは常に試飲を重ねている。

 

今日は南部へ移動する。時刻表を調べてもらうと本数がないので、午後一番で出なければならない。高さんが駅まで送りながら、昼ご飯に案内してくれた。忙しいのに何とも申し訳ない。その店も、ちょっと変わっており、この付近にはない、洋風な内装の素敵なところだった。名物だというステーキを頼むと量が凄い。スープとサラダも付いており、食べ切れないほどだった。

 

恒春へ

駅で切符を買う。13:20発の自強号、切符は買えたのだが、台東以降は席がないという。こんな切符もあるのか。大変お世話になった高さんとお別れして、ホームへ行く。すると、さっき店に来ていた女性たちがいるではないか。一人は地元の人で、何と私が14年前に泊まった紅葉温泉の人だった。もう一人は嘉義から遊びに来たという。席も近かったので、話をする。彼女は嘉義のオーガニック系レストランで働いているらしい。瑞穂から嘉義まで、ぐるっと台湾を半周して帰る。

台湾一周茶旅2016(3)プユマ号で蜜香紅茶の世界へ

1800元で狭いが個室。最上階に広い浴場があるのは、ドーミインなど日本のビジネスホテルを真似たのだろうか。エレベーターに乗る段階で男女が分かれており、フロアーも別。若い女性に配慮した作りのようで、基本的に若者が泊まっていた。ということで部屋は冷房で寒いが調節できない!部屋にはベッドしかなく、PCを使うなら共有スペースで、トイレバスも共有ということだ。まあこの値段だから良しとしよう。1階にも広いスペースがあり、自販機が置かれ、飲み物やアイスも買えるようになっている。コンビニにすら行かなくてもよい体制だ。

 

明日は朝早く駅に行く必要があるので、取り敢えず予行演習で夜道を歩いて見た。大きな道をまっすぐ10分ぐらい歩くと着いた。取り敢えずこれで憂いは無くなる。板橋もそこそこに発展した街で、ショッピングモールもあり、台北までも遠くないので、ここに住むのもありかなと思う。駅は地下鉄駅から入り、台鐵の駅を探す。かなり広い。待ち合わせ場所を確認して戻る。

 

戻ってから上の階の浴場で風呂に浸かる。さすがに入っている者はいない。コインロッカーも完備され、完全に日本仕様だ。明日は早いので早々に寝ようとしたが、電気は完全に暗くならず、隣の部屋との仕切りも完全ではないので落ち着かない。明日起きられるかも心配になり、更に眠りは浅くなる。

 

1113日(日)
瑞穂へ

 

5時前に起きた。頭が朦朧としている。それでも荷物を整えて、部屋を出た。フロントに鍵を返して、荷物を引っ張って夜明け前の道を歩き出す。さすがに車は走っていない。思ったより早く駅に着く。今日はUさん夫妻と一緒に出掛けることになっていた。待ち合わせ場所のモスバーガーには既に2人に姿があった。早い!

 

6:49板橋発のプユマ号は定刻に出発した。台鉄で自強号の上を行く、最も速い列車と聞いた。車内も若干よいのだろうか。さすがに板橋では満員にはなっていないが、台北駅でどっと乗り込み、満員になる。この列車の切符、特に週末を取るのは難しいとのことで、今回はUさんにお願いして全てやってもらっていた。それから3時間、うとうとしている間に東海岸へ出て、いつの間にか花蓮を通り過ぎて、瑞穂に着いたのは10時前だった。

 

 

 

2. 瑞穂
蜜香紅茶へ

 

駅に着いたが、連絡していた迎えは来ていなかった。今回はUさんのお知り合いに紹介してもらい、蜜香紅茶の高さんのもとを訪ねることになっていた。連絡してみると、もう着いたのか、と言って慌てて奥さんが来てくれた。この奥さん、ただの奥さんではない。有名な評茶師の粘さんだ。

 

駅前には少しの建物があるばかりで、車はゆっくりと坂を上っていく。途中に急須のモニュメントが見えたので停まってもらった。ここが北回帰線の場所だという。急須には瑞穂蜜香紅茶と書かれていた。実は瑞穂に来たのは初めてではない。14年前、台湾一周温泉旅行をした際、紅葉温泉というところへ行くため、ここで降りて1泊したのだ。その時の様子はあまり覚えていないが、蜜香紅茶の名前を聞いた記憶がない。あの時は四季春の烏龍茶だったような気がする。そして茶業はもう難しい、儲からないから大陸へ出稼ぎに行くと言っていたようだったが、如何にして持ち直したのか。

 

粘さんの店に着く。きれいなお店だ。粘さんの一家は1960年代に彰化の方から移住してきたらしい。粘という姓は極めて珍しいが、聞けば満州族の末裔だとか。蒋介石と一緒に大陸から渡って来た外省人なのだ。彰化ではパイナップルを作っていたとか。1970年代に茶樹を植えはじめ、今では彼女の一族が、この地で茶業の先頭に立っている。興味深い。

 

話していると、日本人も時々来るという。MさんやKさんの名前が出てくる。昔からここの紅茶に注目していたようだ。蜜香紅茶は1998年に彼らによって開発されたという。ただこの名前は普遍性があり、商標登録はできなかったため、その後多くのところで使われているが、それを阻止することはできないのだともいう。だから品質を高め、他に負けないように努力するしかないと。最近日本でも東方美人と並んでよく聞く名前になっている。

 

ご主人の高さんも戻って来た。製茶などの技術的な話が始まる。店の隣に展示館があり、そこに茶業の歴史や茶の種類の展示が行われている。その向こうに製茶室がある。高さんは1980年代に茶業をスタートさせたという。この地区は勿論、全台湾でこの夫婦は既に有名人である。店の向かいを見ると、実に古びた舞鶴国民小学校があった。そう、ここは昔から舞鶴と呼ばれていた地域であった。因みに鶴岡村もあり、瑞穂も含めて日本の地名だな。

 

高さんにお昼に行こうと誘われる。天気の良い日は気持ちがよい。牧場と書かれた広い敷地へ着く。フレッシュミルクの火鍋、珍しい。店内は日曜日ということもあり家族連れで超満員、何とか席を確保する。牛乳と汁が鍋に入っており、そこに牛肉やキノコ、野菜などを入れて食べる。何となく楽しい。

台湾一周茶旅2016(2)急展開のお茶屋巡り

昨晩は永康街に出向く。料理人SさんとKさんの3人で食事をした。食事開始が遅くなり、Kさんが遅れてくると、8時台には閉店の時間になってしまった。話したりないので、どこかでお茶でも、色々と探したがなかなか手頃な場所がなかった。回留など茶館、茶荘がきれいに並んでいたが、どれも入る気になれなかった。結局チェーン店のカフェの地下でダラダラと話し続けた。台湾でも気楽に入れるお茶屋というのはないもんだな。

 

昨日FBをやっていたら、台北に転勤になっているSさんと連絡を取り、会うことになった。指定されたカフェは宿から歩いて行けそうだったので、歩く。結構日差しが強く、暑い。小さな公園の脇にそのカフェはあった。いいカフェは一杯あるのだ。Sさんの外の席に腰かけて、PCを打っていた。休日も仕事をしているのだ。

 

それにしても気持ちの良いカフェだ。ちょうど昼時で店内は満員だった。私は昼を食べていなかったので、おしゃれなセットを注文した。こんな食べ物、久しぶりだな。色々と話しているうちに、お茶の話もしてしまった。先日三峡にある旧三井の工場へ行こうとしたが、バスが分からなくて断念したというと、『それなら今から私のバイクで行こう』と言われてびっくり。少し型破りな駐在員、Sさんはバイク好き。それに乗っけてもらうことになった。

 

Sさんの家まで行き、ヘルメットを探してバイクに乗る。ところが、走って5分もしないうちに雨が降り出してきた。『田舎の山道で雨だとちょっと危険かな』ということになり、取り敢えず様子を見るため、高架下の花市に避難する。ここは台北でも有名な市場で多くの人が花や植木を買いに来ていた。

 

結局雨は小降りにはなったが、今回は行くのを断念した。じゃあ、何をして過ごすか。ふと周囲を見ると、何となく見覚えのある道だ。そうか、この近くに陳先生の店があった。ちょっと行ってみようかなというと、Sさんも行ってみたいというので、歩いて探し出す。10分ほど歩くことになったが、バイクはそこへ置いていく。

 

陳先生の店にはお茶好きの台湾人がたくさん集まってお茶を飲んでいた。そこへいきなり割り込んだ。『あんたは確か、前回鉄観音持ってきた日本人だな』と覚えていてくれた。今日はどう見ても商売のモードではない。あたりを見回すと、港口茶という文字が目に入る。これは何だ、と聞くと、何人かの台湾人が『これは台湾最南端の緑茶だが、しょっぱくてね』と、飲みたくないという意思表示をした。それにすごく興味を持つ。なんで台湾に緑茶があるの。しかも台湾人が好まない緑茶が。

 

結局陳先生に、港口茶と瑞穂のお茶農家を紹介してもらった。これからどこへ行こうかと悩んでいた私に光が差した。今回の茶旅は東部から南部へ行こう。そして東部の茶業の変化を見て、港口茶の謎も見ていこう。外へ出ると、Sさんが『なんか面白い世界があるんだね』というのでビックリした。お茶には興味がないと思っていたが、急に興味が沸いたらしい。

 

それならと、もう一つ、比較的近くの店を訪ねた。ここには10年以上前に一度来て、昨年も来たが店主が講義中で話せなかった場所だった。行ってみるとちょうどお客は居なかった。店主も『よく来た』と言ってくれたので、中へ入る。実はFB上でお互いの動きは時々見ているので、凄く久しぶりといった感覚はない。

 

このお店の林さんは元エンジニア。こだわりが強く、自ら焙煎技術を開発した。高密度焙煎、ちょうど焙煎中でいい香りがそこはかとなくする。また茶葉を固めてバスケットボールぐらいに丸めている。長期保存のため、このような形にして、欲しい人は1つずつ買って何年も保存するらしい。何だかお茶にもいろんな形が出てきた。焙煎好きな私はここのお茶が飲みやすい。Sさんも美味しいと言って、1つ買っていた。これから本格的にお茶にハマるかもしれない。

 

あっという間に日が暮れていた。バイクで宿に送ってくれるというので乗り込んだら、途中で夕飯を食べようということになり、熱炒でご馳走になってしまった。宿に戻ると既にチェックアウトした荷物を持って、地下鉄へ向かう。この宿、昨日は満室というのを何とか泊めてもらったが、今日は本当に満室だから、と追い出されていた。

 

明日は朝早くい板橋駅からプユマ号に乗るので、思い切って板橋に宿を予約してみた。地下鉄でもそう遠くないし、ちょうど良い機会だった。板橋の一つ前の駅で降りて、指定された住所へ向かった、それらしきホテルは見当たらない。どうみても民家だったが、その住所の呼び鈴を押すと『ここじゃない、住所はXXだ』と早口で言われ、怒られる。何と予約サイトの住所が間違っており、きっとこれまでも何人もの外国人がここのベルを押していたのだろう。

 

仕方なく電話してみるも、こちらも繋がらない。この予約サイト、世界的なものだと思っていたが、これはかなりひどい。さっきの早口の住所を思い出してみると、番号は近いがちょっとズレているのに気が付き、そこへ行ってみると、何と立派な宿があるではないか。フロントでそれを話したが、そうですか、という素っ気ないマニュアル対応だったが、感じは悪くない。