「茶旅」カテゴリーアーカイブ

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(7)なぜ宜興で紅茶が飲まれるのか

4月7日(金)
お母さんの案内で

 

今回の宜興の旅は、福州の魏さんの会社が企画した茶旅ツアーに便乗することになっている。ただ本隊は今日の午後、福州からやってくるので、それまで時間があった。私の『中国紅茶の旅』は、今ある雑誌に連載されている。実はその関係者の中に宜興出身がいて、『宜興にも紅茶があるよ』と言われていた。そして彼女はわざわざお母さんを紹介してくれ、私は微信で連絡を取っていた。

 

朝8時過ぎにお母さんがホテルまで車で迎えに来てくれた。そして真っすぐに彼女の生まれ故郷の村へ向かった。そこは車で20分ほどの宜興郊外、宜興の街自体がそれほどの発展を見せていないこともあり、その郊外は昔のまま、のように見えた。かなり懐かしい、という感じが出ている。小雨が降る中、村の茶工場に入る。

 

そこでは雨にもかかわらず茶葉が摘まれ、茶作りが行われていた。村の小さな工場は、皆お母さんの知り合いだ。驚いたことに、萎凋槽が2つあり、緑茶と紅茶を同時に作っていた。今の時期は緑茶だろうと勝手に考えていたが、それは違っていた。宜興は江蘇省の他の街とは違い、紅茶の街なのである。

 

茶畑に向かう。工場のすぐ近くにあった。結構古い茶樹もある。『子供の頃、この辺は一面茶畑だったよ。家ではいつもお茶を飲んでいたが、それは紅茶だった』とお母さんは言う。最近は新しい龍井などの品種も植わっている。紅茶ばかりではなく、緑茶も作っているからだろうか。それにしてもなぜ紅茶なのか。江蘇、浙江と言えば、龍井や碧螺駿など、有名な緑茶の産地なのに。

 

お母さんは『その秘密を見に行こう』と言って、雨の村を後にした。宜興の街、ホテル周辺よりは多くの建物が並んでいる一角に車を停めて、店に入っていく。朝10時前に茶荘に行くのだろうか。中に入ると、そこには茶壺がたくさん並んでいた。宜興と言えば、お茶より急須、紫砂壺で有名な街。その工房と茶荘を兼ねた店だった。

 

お母さんの仲良しの女性、茶壺を作る職人さんが自ら作った茶壺を使って紅茶を淹れてくれた。その道数十年のベテランだ。大き目の茶壺にたっぷり紅茶を淹れて、ゆっくりと湯を注いていく。『紅茶はたっぷり入れるのがよい』という。ここにある茶壺も殆どがかなり大きいのはそんなわけだろうか。そこへ知り合いの女性が三人入ってきて、大きな茶壺は大活躍を始める。

 

『宜興人がなぜ昔から紅茶を飲んでいるかだって?そりゃ、茶壺を育てるのに地元の紅茶が合っているからさ』とさりげなく『養壺』に良いからと教えてくれる。ここの土壌は茶壺作りに適しており、また紅茶作りにも合っているようだ。この街があまり発展していないように見えるのも、地元意識が強いからだろうか。知り合いの女性三人も外地から観光できており、あっという間にタクシーを呼んでどこかへ行ってしまう。

 

お昼は職人さんにご馳走になった。地元の白エビや老鴨湯など、美味しく頂く。この付近は茶壺市場や茶壺の店が並んでおり、普段は賑やかなのだろうが、今日は雨のせいか人通りも殆どない。周囲を見てもやはりそれほどの発展は見られない。高鉄が開通した今、いよいよ発展するのだろうか。いや、むしろこのままでいる方がよいような気もするが。

 

魏さんたちと夜中まで
お母さんにお世話になったが、車でホテルまで送ってもらい別れた。午後は魏さんの到着を待つ。3時過ぎに一行が到着、すぐに活動が始まった。まずは閉まる前にということで、魏さんの知り合いの茶壺職人の案内で、宜興陶器博物館へ向かう。この博物館、実に立派な建物だ。中には歴史的な紫砂茶壺が並んでおり、素人で茶壺にはあまり興味のない私でさえ、思わず見とれてしまうようなものがいくつもあった。今回の参加者も同じようで、閉館の5時まで皆でずっと見ていた。

 

今回の参加者は福州から来た魏さんとその会社の人々、杭州付近で茶業をしている人々だった。お茶を売るのが難しい状況下、皆色々と勉強しなければならない。杭州から近い宜興は穴場なのかもしれない。この機会に色々とみて回りたいという。紅茶に関しては、中国国内でもまだまだ認知度が低いと感じる。

 

夕飯で地元料理を頂き、茶壺職人の工房へ向かう。その付近は工房がいくつも連なっており、同時に販売所にもなっていた。博物館で素晴らしい茶器を見てしまうと、茶壺が欲しくなるのが人情。一生懸命気に入る茶壺を探している。30年前は安かっただろうが、今や値段は決して安くはない。これだけの店が並んでいるというのは、それだけ売れるということを意味しているのか、ちょっと不思議な感じだった。

 

魏さんは夜更かしだ。相当遅い時間まで、茶壺を眺めた後、帰るのかと思っていると、また別の店に向かう。ある意味でこれは仕事なのだ。一軒でも多くの店を回り、状況を確かめ、仲良くなり、商売につなげていく。これは相当しんどい作業だと思う。同時に今や夜が苦手な私にとっても相当にしんどい。酒の席よりはましだが、夜の12時までお茶を飲み続け、話し続けるのは、正直堪える。小雨も降り続いている。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(6)雲南から30年ぶりの宜興へ

また4時間ほどかけて、来た時の山道を通り、祥雲で休息をとる。もう慣れたものなので、気楽に過ごす。バスの車内ではほとんど寝ていた。午後にもう一つ楚雄というサービスエリアにも停まったが、何も食べずに過ごす。そして午後5時半頃、昆明西ターミナルにバスは戻った。先日の路線バスに乗ろうと思ったが、降りたところに、ちょうど昆明駅行のバスが停まっており、お客引きが行われていた。すぐに出発して、路線バスよりはるかに早いというが、料金は10元と高い。まあ試しに乗ってみる。

 

お客をぎゅうぎゅうに詰め込んで何とか出発。確かにそのバスは近道を行き、かなり早かったが、最終的に昆明駅の裏側で降ろされてしまう。駅行には違いないのだが、ここから改修中の駅の表に回り、ホテルに歩いて行くのは結構な時間が掛かるのだ。何だかちょっと騙された気分だ。先日のホテルに戻り、また同じ値段でチェックインした。今回はスイートルームではなく、普通の部屋だった。

 

腹が減ったので外へ出る。午後7時近くても明るい昆明。土鶏米線という麺があったので食べてみた。そこにいた女性は東北から出てきた出稼ぎで、私が日本人だと聞くと『お互い、遠くから来たんだね』としみじみ言うので、ちょっとホロっと来てしまった。結構苦労しているのだろう。そういう意味では出稼ぎ者は皆苦労しているはずだ。苦労なしの私は何となく恥ずかしくなってしまう。

 

4月6日(木)
宜興へ

翌朝は宿を出て空港バス乗り場へ。9時半のバスがあると聞いていたので、9時15分に行くと『そのバスは満席でもう出てしまった』というではないか。結局9時40分に次のバスが出た。それならはじめから、満員になったら出るよ、と言ってもらわないと困る。急いでいる時にもし出なかったら、フライトに乗り遅れる危険もあるのだが、そこは中国的柔軟せいだろう。ただこのバスは空港から乗ったものとは会社が異なり、料金は半額だった。おまけに空港までは僅か30分ちょっとで着いてしまった。

 

空港内のカートは、手元に広告用の液晶が付けられていた。こんなのは初めてだ。フライトは少し遅れたが、それほど待った気もしないうちにコールが掛かる。今日はエアチャイナに乗る。北京に行くわけでもない、昆明-杭州線にエアチャイナが飛んでいるのが不思議だが、料金も手ごろだったので使ってみた。いつもの国際線より、機内食がましだったような気がする。

 

約3時間のフライトで杭州空港に着く。このまま杭州東駅に行こうと思いバスを探す。バスは見付かったが、チケットは自販機で買うようになっている。そして何とアリペイなどの電子決済になっており、おまけに身分証まで入れることになっている。私は何とか銀聯カードで決済ができたが、普通の外国人旅行者はかなり遠くにある切符売り場まで行って並ばなければならない。中国人優先で、なんとも不便。

 

バスに乗り込むと満員となり、定刻前に出発した。どうやら乗り遅れた人がいたようだがお構いなし。かなりの雨が降って来た。それから40分ぐらいで、東駅に着く。今度は高鉄の切符を買うために窓口に並ぶ。ここには珍しく外国人優先窓口があったので、それほど待たずに買えた。これは有り難い。というか、並んでいる人の数も少ない。ほとんどの人が自販機購入だ。

 

20分後の高鉄に乗ることができ、50分で今日の目的地、宜興駅に着く。宜興は30年ぶりだが、まさか高鉄が通っているとは思わなかった。世の中便利になったものだ。だが見る限り宜興の街は30年前とそれほど大きく変わっているようには見えなかった。駅からタクシーで予約されているホテルに向かった。道は広くてきれいにはなっていたが、高層ビルがあるわけでもなく、何となく田舎道を走っているようにしか見えなかった。道が間違っているのかと思ったほどだ。江蘇省の無錫からほど近い場所だから、当然発展していると思い込んでいたのだ。

 

5.宜興
古いホテルで

予約されていたホテル、かなり古い。その昔、街の郊外に建てられた立派なホテルだったのだろうが、特に改修などもされている様子がなく、寂れていた。部屋は広いが、何となくなくうすら寒い。その分部屋代はかなり安い。雨のせいだろうか。結構強く降っているので、外に出ることも出来ず、例え外に出られたとしても車でもなければ飯にあり付くことは出来ない。周囲はそんな状況だった。

 

仕方なく、ホテルのレストランに行ったが、やはり客はいない。スタッフに『簡単に食べられるものはないか』と聞くと『50元で定食を作ってやる。部屋で待っていろ』と言われたので、50元は高いなと思いながらもノーチョイス、部屋で待つ。やって来た料理を見て唖然。肉料理、卵料理とスープがいずれも大皿に盛られてきた。これは2-3人前の量である。まあ大食漢の中国人なら食べ切れるかもしれないが、半分も食べるのがやっと。味は悪くないが、残してしまう。その皿を部屋の外に出しておいたが、1日経っても誰も取りに来なかったのは、いかにもこのホテルの現状だ。何だか80年代の中国旅を思い出す。あの頃はずっと安かったが。雨音を聞きながら寝入る。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(5)滇紅展覧館で

展覧館に使われている建物もかなり古い。その前には冯绍裘の像が建っている。冯绍裘が湖南省安化茶廠の工場長であったことは昨年12月の湖南茶旅で知っていた。そして1938年に安化からはるばるこの山奥までやってきて、紅茶の製造法を伝授し、滇紅の父と讃えられている人物であることもそこに書かれていた。だがその道のりは険しく、大理までは道があったものの、そこからは山道を歩いて、または馬で半月も掛けてここに辿り着いたらしい。当時の鳳慶は完全に外からは閉ざされた秘境だったのだ。

 

展覧館に入ると想像以上に沢山の展示物があった。鳳慶には昔から茶樹はあったが、本格的には清末の順寧知事、満州族の琦璘が、孟庫から100万本の茶樹を持ち込み、植えたのが始まりと記されている。その後中茶公司より派遣された冯绍裘はその優れた土壌、抜群の環境で育った大葉種の茶葉を見付けて、紅茶作りに適していると判断し、1939年に順寧実験茶廠を作り、香港経由で輸出されたとある。

 

雲南の紅茶作りは国策で始まった。元々清代よりプーアル茶では有名であった雲南で、なぜこの時期に、政府は紅茶を作ろうとしたのか。それは1937年に日中戦争が勃発し、日本軍が武漢など内陸部へも侵攻し、貴重な外貨獲得物資である茶が危機的状況にあったためだと推察される。これまで行ったいくつかの紅茶産地とはその成り立ちが少し異なっている。

 

新中国建国後の1954年に国営工場、鳳慶茶廠となり、そこで作られた紅茶は滇紅と呼ばれるようになる。当時の友好国ソ連からも注目され、専門家が相次で視察に訪れ、1957年にはロンドン市場で高い評価を受け、国際的な銘柄と認知される。文化大革命中も生産を止めることなく、輸出されていたと聞いた。紅茶は中国人が飲むものではなく、あくまで外貨を稼ぐ手段。80年代に入り、CTC方式が採用され、その産量を増していく。

 

この国営工場も時代の波で、民営化し、近年の紅茶ブームで、中国人が好む紅茶も作られはじめ、今や中国紅茶の代表銘柄にまでなっている。茶樹発祥の地、雲南らしい、古茶樹の茶葉を使った紅茶、雲南に多い、紅茶作りに適している大葉種の茶葉、そして我々に馴染みのある小葉種をミックスした中国紅などという紅茶が好まれていると聞く。ただ輸出用の茶葉については、コスト高などで、伸び悩んでいるという話もある。

 

展覧館以外の建物も、昔の工場の跡など、歴史的な価値のある建物がいくつか残っていた。そこを一回りしてから外へ出て、また昨日の山へ向かった。実は鳳寧茶業にはお世話になったが、肝心の老板、張さんは昆明に行っており、今日の午後戻るというので挨拶に向かったのだ。ちょうど着くと昼ごはんの時間であり、また皆で料理を食べた。

 

張さんが戻るまで、空いている部屋で昼寝をさせてもらう。何とも気持ちの良い午睡となる。それも終わると、今度は付近の散策。昨日よりさらに足を延ばしてみると、山沿いにはお墓もあるし、民家もあった。茶工場は、元は小学校だったらしい。以前はこの辺の子供が通っていたが、生徒数の減少で廃校となり、張さんがそこを借り受け、茶工場に使っている。張さんの子供も教育のため、昆明で暮らしているという。自らの母校が無くなり、子供を遠くへ送らなければならない、だがそこの方がよい教育が得られる可能性がある。複雑である。

 

暇な皆さんが集まって茶を飲みながら、情報交換をしている。やはり焦点は、如何に茶を売るかにある。地域的な特性もあるが、今や茶葉はだぶついている。そんな簡単に右から左に売れることはないようだ。そんな環境の中で、ここのお茶がよいと思い、それを扱う。張さんが全国の茶業博覧会に出展し、そこで知り合い、ファンになった人々のネットワークである。

 

夕方4時ごろ、ようやく張さんが戻って来た。朝昆明を出て、6-7時間かけて車を運転してきたという。35歳、非常に若い。お客たちが一斉に彼の周りに集まってきて、様々な話が始まる。私が聞きたいことを聞く機会はなかなか訪れなかった。それほどの人気、やはりファンを作ることがビジネスの近道なのだろう。

 

そのまま夕飯を食べに行き、腹一杯になっても、張さんはお客の相手をしながら、仕事の指示を出している。かなり忙しそうだった。夕暮れも迫り、ちょうど街に行くという車があったので、それに乗って失礼することにした。次回はもっとゆっくりこの地に滞在し、張さんの活動も見てみたい。

 

車はピックアップで決して新しくない。運転しているおじさんは暗い下り道をかなりのスピードで飛ばしていく。相当に慣れた運転だ。『昔はこれでどこまで行ったよ』と笑う。ここにちゃんとした道ができるまでは、本当に大変だったともいう。あっという間に街まで降りた。バスターミナルで降ろしてもらい、後は歩いて帰った。宿までどれくらいかかるのか、確認したのだが、荷物を持って歩く距離ではなかった。夜はかなり涼しいので、ちょうどよい散歩となる。

 

4.昆明2
4月5日(水)
昆明へ戻る

今朝は早めに起きたが、特にやることもない。9時のバスチケットを買っていたので、8時半前にチェックアウトして、タクシーを呼んでもらい乗り込む。5分で着いてしまう。10元。まあ、そんなものだろう。そんなに大きくないのでバスもすぐに分かり、乗り込む。いつの間にか他の乗客も乗り込んできて、出発。何となく名残惜しい。

 

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(4)樹齢3200年の茶樹

皆今年の新茶の出来を気にして、また買付の算段のために、この山深き茶産地まで足を運んでいる。一番長い人で既に半月いるという深圳の女性がいた。『勿論自分の商品を確認するために来ているのだけれど、ここの環境があまりにも良いので長居している』と言い、もう2-3年前から毎年春はここにいるのだとか。そして『今年は例年より寒かったから、なかなか茶葉の芽が出ず、お茶が出来なくてさらに長居になっている』ともいう。確かにここは自然に囲まれた場所で、都会よりはるかに空気もよいし、静かだ。

 

この工場には来客用の宿泊所が作られており、何と3階建てで部屋数は10を超えている。現在も多くの部屋が埋まっており、私が街のホテルになったのも、実は満室だったからかもしれない。そしてお昼の時間になると皆が食堂へ行き、地元料理を頂く。これがまた美味いから、皆も飽きずに泊まっているのだろう。なんと素晴らしい環境だろうか。暇があればお茶を飲み、雨でなければ付近の茶畑を散策する。極楽生活だ。

 

昼ごはんの後は、宿舎の屋上から外を眺める。雄大な景色が広がっている。反対側を見ると斜面に茶畑が見える。案内されてその茶畑にもちょっと足を踏み入れる。結構古い茶樹が植わっている。説明によれば、1950年代に植えられた大葉種だとか。この葉を使って紅茶を作るのがよいという。土壌もしっかりしており、確かの紅茶作りに適した場所のようだ。

 

茶畑の方で激しい爆竹の音がした。今日は清明節、先祖供養のために人々が墓に集まるのだが、この茶畑の中に墓があるのだろうか。それとも茶農家だった故人を偲んで茶畑の中で供養しているのだろうか。いずれにしても、お茶と友の人生を過ごし、そしてこの地で逝った人々がいた、という事実が語られる、そんな清明節だった。

 

3200年前の老茶樹
何人かが車で出かけるというので付いていくことにした。どうやら相当古い茶樹を見に行くらしい。昨年は雲南省易武で1000年茶樹を見た。今回はどんなものが見られるのだろうか。車2台で出発。それにしても思ったよりその場所はずっと遠かった。山道を1時間ぐらい走ると、ダムが見え、そこで休憩した。この道路も十年ほど前、水力発電のためにこのダムができる時に作られたらしい。その前は道路がなく、あの茶工場も含めて、街に出るだけでも大変だったはずだ。だからこそ、いまだにあの自然環境が残っていたのだろう。

 

更に30分以上車に乗り、ようやくその場所に着く。茶畑が広がり、その間を歩いて行く。一応観光地のように整備はされている。小湾鎮茶王村と書かれている。ちょっと上って行くと、かなり背の高い木があった。表示があり、樹高8.3m、1000年以上の古茶樹となっている。但し大理茶とも書かれている。これはカメリアシネンシスではなく、タリエンシスということか。

 

その上の方に城壁のように囲われた場所がある。遠くに大きな木が見えた。『あれが3200年前の古茶樹だ』と言われたが、ちょうど管理人さんが清明節で出かけており、中に入ることは出来なかった。ただどう見ても、あの木もタリエンシスだろう。石に彫られた内容を見ると、中国をはじめ、アメリカや日本の専門家が『3200年前の世界最大の古茶樹』に認定したとある。そんなこと、簡単に認定できるのだろうか。軽い疑問は残ったが、古い木であることには違いない。一人だけ茶摘みしているおばさんがいた。

 

帰りは1時間半ぐらいで工場に戻った。実はこの会社、紅茶作りの他、プーアル茶も作っている。ここからかなり離れた茶葉の産地にもネットワークがあり、仕入れているらしい。ここに集まった茶商の中にも、紅茶よりもプーアル茶を求めてきた人たちもおり、彼らは明後日から茶葉の産地巡りに出掛けるという。私も是非ついていきたかったが、次の予定があるため、今回は断念した。

 

夕暮れ時、茶葉を担いだ近所の農民たちがやって来た。ここに茶工場があることは地元の農民にとって本当に貴重なことであり、また地元の若者に働く場を提供している。夕飯をここで食べ、車で送ってもらい、またホテルに戻った。今晩は外へ出て歩いて見た。10分ぐらい行くと、便利店があり、水などの飲み物も買えた。

 

4月4日(火)
博物館で

今朝も迎えが来てくれ、活動開始。今日は滇紅の歴史を知るべく、元国営企業である滇紅集団の博物館を訪問することになっている。滇紅集団は清明節中休み、と聞いていたが、張さんがアレンジしてくれ、街の顔役を通じて、博物館を開けてもらうことになっていた。何とも申し訳ない話だ。ただ役場に行くと、その人はまだ来ておらず、先に朝食。昨日とはまた別の麺を食べる。この麺線が何と旨い。

 

滇紅集団は元々、この街そのものと言ってもいい大企業だった。企業城下町という言葉がピッタリで、旧市街地の中心部に旧工場とオフィスがデーンと構えていた。新工場は2012年に郊外に作られており、基本的な機能は全てそちらに移っている。ここに残っているものは、今後歴史的な遺産として残されるものなのだろうか、それとも壊されていくものなのだろうか。この辺が大変微妙であり、滇紅の経済的な現状とも大いに関わってくるはずだ。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(3)滇紅の里 鳳慶へ

4月2日(日)
鳳慶へ

 

今朝は7時には起き、朝食を食べて8時にはチェックアウトした。雨が降り始めていた。急いで昨日のバス停に向かい、ちょうどやって来たバスに乗り込んだ。少し濡れただけで済んだのは幸いだったが、今日もバスは寒かった。10時発なのに9時前には西ターミナルに着いてしまう。

 

それからトイレに行き、バスの出発場所を確認する。とにかく今日は人が多い。清明節の連休が始まっていた。皆故郷に墓参りのため帰るのだ。子供連れも多い。私が乗るバスは30分前には着いており、席に座った。当然のように満員になり定刻前に出発した。すぐに高速道路に入る。このターミナルは高速に近いから便利なのだろう。

 

それから約4時間半、バスはひたすら雨の中を走り続けた。大半の乗客は眠っている。途中の休憩もない。外は山間部の風景が続く。ちらっとモスクが見えたりすると、回族がいるのかな、などと思ってしまう。祥雲という場所で高速を降りて、すぐにサービスエリアに入り、ついに休憩があった。私はトイレに駆け込む。トイレは建物の2階にあり、かなり遠くがよく見える。ここで昼食を取る人もいるが、私はバスに乗っている間は食べないことにしている。ただポテトがいい匂いがしていたので、つい買ってしまったが、辛くて食べられなかった。

 

そこからバスは一般道路を走る。今や雲南省でもほとんど高速道路が通っていると思い込んでいたが、それは間違いだった。いくつもの山を越えていく。一体どこを走っているのかも分からなくなる。所々に街があり、集落もあるが、私の目的地にはいつになっても着かない。バスには車掌がいるので聞いてみると到着少し前には声を掛けると言ってくれた。それを合図に隣の若者と会話が始まる。無錫に働きに行っている地元の若者だった。出来れば故郷に帰りたいが仕事がない、と嘆く。

 

3.鳳慶
鳳慶の街に泊まる

結局午後6時半頃、突然現れたきれいに整備された道路、マンション群に遭遇し、ついに鳳慶の街に入った。ずっと山道を走ってきたので、ちょっと驚く。そしてその街を抜けてターミナルに入った。先ほど見たのが新区だろうか。こちらは昔の街の印象だ。9時間近くバスに乗っていたのでさすがに疲れた。

 

張さんの会社の人が迎えに来てくれるとのことだったが、見当たらない。電話をかけてみると、正面にいるという。私は裏口から出てしまったらしい。正面まで歩いて行くと、若い男女がいた。もう一組、お客を待っているという。同じバスで来たらしい。そのお客も載せて車は近くのレストランへ向かう。

 

そのレストランで地元料理をご馳走になった。山菜や地鶏、腹が減っていることもあったが、実にうまい。ここまで来た甲斐があったというものだ。それから私は少し離れたホテルに連れていかれた。もう一組のお客は、若者と一緒に車で去っていった。後で分かったことだが、彼らは山の中の工場に泊まるためにここから30分かけて山へ行ったらしい。私は外国人だから、念のため、街に泊めたようだ。

 

ホテルの部屋はきれいだった。恐らく最近できた新しいホテルなのだが、周囲には何もない。飲み物を買いたくても、もう暗いので出ることができなかった。まあ、そういう場合はただただゆっくり休めばよい。幸いWi-Fiは繋がるので、問題ないと思ったが、PCに設定してあったVPNはなぜか機能しない。これは困った!

 

4月3日(月)
鳳寧茶業の茶工場へ

翌朝は早めに起きたが、このホテルには食堂もなく、朝ご飯は食べられない。フロントで聞くと15分ぐらい歩けば食べる所があるという。まあ、食べなくてもよいか。9時に若者、李さんが車で迎えに来てくれた。そしてもう一人また新たな客が登場した。彼は昨日午後のバスで昆明を出たが、バスが遅れて午前2時に着いたので、このホテルに転がり込んだらしい。

 

車は道路沿いの清真レストランに入る。牛肉麺が朝ご飯となる。これがまたいい味を出している。それから山道を走り始める。約30分道を登る。小雨が降り視界が悪い。急に道路沿いの道から上がると、そこに鳳寧茶業の茶工場があった。車を降りるとすぐに工場の見学が始まる。朝摘んだ茶葉が運び込まれ、室内で萎凋されている。揉捻機も回っていた。お茶の香りがほのかに漂ってくる。

 

入り口付近にお茶を飲むところがあり、早々に試飲が始まる。既に数人がそこにいたのだが、従業員ではなく、皆客だという。一体この工場には何人の客が来ているのだろうか。それも聞けば東北地方から武漢などの中部、北京や上海近郊まで、様々な地域の人が集っている。後で分かったことには、彼らは殆どがその地区でここのお茶を扱っている代理店のオーナーだったのだ。

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(2)昆明の茶葉市場再訪

4月1日(土)
茶葉市場へ

 

昨晩は寝るのが相当遅かったにもかかわらず、6時台に起床し、出掛ける。今回の目的地、雲南紅茶、滇紅の里、鳳慶には昆明からバスで行く。そのバスは西バスターミナルから出るというので、出発時間を確定させるために、切符を買いに行く。西ターミナルと言えば、2013年に下関の茶廠に行く際、マレーシアの大金持ちの陳さんに連れられてバスに乗った記憶はある。ただその時はホテルからタクシーに乗ったので、どこにあるのか全く覚えていない。

 

取り敢えず近所の旅行社でバスチケットが買えないか聞いてみたが、やはりターミナルに行く必要があるという。そして路線バスの乗り場を教えてくれたので、それに乗る。何となく雨が降ってくる。そして今日の昆明は4月だというのに寒い。にも拘らずバスにはエアコンがついており、凍えそうになる。スマホで見たら、気温8度と出ているではないか。そんなバスに1時間近くも揺られていく。座ってはいるが結構辛い。

 

ターミナルで鳳慶行きバスを確認すると1日に数本あるのみだった。やはり確認してよかった。明日10時のチケットを買う。そして明日訪問予定の張さんに電話を入れた。実は今回の雲南行は直前に問題が発生し、大変だった。元々訪問予定の会社が何と急きょ清明節休みのため、工場を休止すると言い、訪問できなくなってしまっていた。一時は雲南以外の他の場所に変更しようかと考えたが、福州の魏さんの方で、もう一つの会社を探してくれ、直前にも拘らず、快く受け入れてもらえることになったのだ。これは何とも有り難いが、茶産地の状況は心配だった。

 

帰りも強い雨の中、何とかバスに乗り込み、元来た道を行く。バスも来た時よりかなり混んでいる。このバスは昆明の街の中心を通っているようだ。ホテルに帰ると、まだ朝ご飯が食べられるようだったので、急いで行く。少し冷めているが、結構色々な種類があり、美味しく頂く。古いホテルはホテル代も安いが、こんなところもよい。

 

部屋で少し休み、昼前にまた外へ出た。さっき食べたばかりだが、これからお茶を飲むので、昼ごはんは軽く麺とした。これが意外とうまい。その横の携帯修理屋でシムカードに入金。スマホを持っているのに、ネット入金できない変な客にも怪訝な顔をせず、手数料1元でやってくれるのは1年前と同じ。それから地下鉄に乗って茶葉市場へ向かう。

 

金星駅で降り、歩いて数分。雄達という新しい茶葉市場がある。その向かいの古い茶葉市場に入る。昨年も同じように鉈先生とここに入り、何となくふらつき、最終的に王さんの店に辿り着いた。ちょうど彼が仕入れてきた野生紅茶が非常に美味しかったので、今年はその産地に同行したいなと思って連絡はしていたのだが、結局天候不順でまだ茶が出来ておらず、次回になってしまった。

 

店に行ってみると、王さんはちょうど昼ご飯を食べていたので、一度店を出て、雄達市場を覗きに行く。きれいな店は沢山並んでいたが、ほぼお客はなく、閑散としていた。一軒の店から声が掛かったので、一応偵察する。今ある新茶は低地の茶葉で作られたものだけで、正直美味しいとも思われない。昨年の物も飲んでみたが、野生茶と言っても随分と味が違うものだ。すごすご退散する。

 

王さんの店では色々と話をして長居する。雲南農業大学の学生も遊びに来て、雲南紅茶の話題などで盛り上がる。但し歴史に興味があるのは私だけ。普通は如何にして美味しいお茶を作るかなどに焦点が当たっているのだ。農業大学だから当たり前か。とにかく今年は涼しくて、茶葉は育っていないという。新茶が入荷するまで、あと数日は市場も閑散としているだろうと残念な話が続く。

 

王さんの息子は1年前奥さんに抱っこされていたが、かなり動き回る上、自分で椀を使ってお茶まで淹れて、飲んでしまうようになっていた。子供の成長は本当に早い。そしていかにもお茶屋の息子らしい。王さんに『涼しいから夕飯は一緒に鍋を食べに行こう』と誘われたが、店にいてお茶を飲んでいるのに、何となく寒気を感じたので、申し訳ないが先に帰ることにした。

 

地下鉄に乗って戻ると、何となく気分がよくなってきた。するとなぜか腹が減るから面白い。昨年食べておいしかった、西紅柿炒蛋炒飯を食べに行く。昨年は雲南とラオスでずっと味の濃い物ばかり食べてきた後だったので、格別に美味しく感じたが、今回はまあ普通かな。それより海苔スープがやけに美味く感じる。やはり寒さのせいだろうか。

 

ホテルに戻って、フロントで『昨晩はスイートルームに泊めてもらったけど、今日は普通の部屋に移るんでしょう?』と聞くと、昨日とは別の子が『いや、面倒だからもう1日そこに泊まったら』というではないか。まあ、広い部屋を与えられては文句も言えないが、やはりこのホテル、何かがおかしい。管理というものが杜撰なようだ。

 

雲南から江蘇、湖北の茶旅2017(1)台湾から昆明へ行ってみる

【雲南から江蘇、湖北の茶旅2017】

 

今年の中国茶旅が始まった。『中国紅茶の旅』という月1連載の関係で、2か月に1度、紅茶の産地を2つ回る必要が出てきた。今回は雲南省の鳳慶と急須の街、江蘇省の宜興に行くことになる。その距離はかなり遠い。更には湖北省恩施の玉露を訪ねる旅まで加わってしまい、中国中を駆け回る、という雰囲気になった。かなり疲れる旅、もうしないはずだったのに。懲りない性格だ。

 

3月31日(金)
1.深圳経由で昆明まで

 

台湾桃園空港を飛び立った飛行機は深圳に向かっていた。今回の旅、台北-昆明の片道フライトで一番安かったのが、南方航空の深圳経由だったので、迷わずそれにした。台北から昆明までのフライトもあったが、高い。台湾と中国、近いようで意外と遠い。むしろ東京でチケットを買った方が余程安い。これは需給の関係か、政策の関係か。

 

機内食で出た角煮が意外とうまかった。南方航空に乗るのは久しぶりだが、国航と比べれば、サービスも機内食もこちらの方がよいと感じる。ほぼ定刻に深圳に着いた。実はここでは2つのポイントがあった。1つ目は、桃園で預けた荷物はどうなるのか、ということ。中国では普通国内線に乗り換える時はバッゲージスルーとはならず、一旦荷物をピックアップして、再度国内線カウンターで預ける必要があるのだが、桃園の南方航空カウンターの女性は『昆明まで荷物は直接行くので、ピックアップの必要はない』と説明していた。もしこれが本当なら画期的だが。

 

もう一つは国際線から国内線への乗り継ぎ専用通路があるかどうか。これまた桃園では、『専用通路を通って入国審査を行い、そのまま国内線ターミナルへ』と言われたが、よく利用する北京空港でも、国際線間の乗り継ぎはそうなるが、国内線への移動は、荷物を取った後、申し訳程度の通路があるだけだ。果たしてどうか。

 

空港に着いて、国内線専用通路を探したが、そんなものはなかった。すぐに入国審査場についてしまい、まずは入国することになる。そこで驚いたのが、指紋を取る機械が設置されており、窓口へ行く前に指紋を取れという。中国で初めて見た、こんなの。係員がいて、指紋のとり方を教えてくれたので、ついでに聞いてみると『この空港で試験的に行われているだけで全土には広がっていない』というので一安心。だが数人しかいない外国人はかなり混乱していた。今後こんなことが行われると益々不便になりそうな予感。

 

入国審査を通ると、やはりバッゲージクレームで荷物を取る。何となく通路があったので、そちらへ歩いて見たが、そこにあったのは特定国際路線から国内線への専用通路で、今は開いてもいなかった。結局ごく普通に出口を出て、国内線のチェックインカウンターを探し、荷物を預けることになる。既に昆明行きのチケットだけは発券されているので、何とも面倒な話だ。

 

カウンターで『フライトは遅れています』と言われる。ボードを見ると、軒並みフライトが遅延している。深圳でも雨が降っているが、このせいだろうか。フライトはいつ出発できるかすごく心配になる。それにしても深圳空港は明るい。華為などの企業ブースもデザインが斬新でよい。

 

2.昆明
昆明の悪評ホテル

 

結局フライトは1時間半遅れて出発し、夜の10時半過ぎに昆明空港に到着した。この空港、規模が大きすぎて、毎回出口まで歩くのに難儀する。10分以上歩いて何とか荷物を取り、ようやく出口を出ると、まだ空港バスがあったのでそれに乗り込む。バスの車内に変なおじさんが乗り込んできて、無料で道案内をすると言っている。このホテルへ行くのはどこで降りるのがよいかなど、丁寧に答えている。ようは旅行会社の人で、ホテルの決まっていない人などお客を探しているだけなのだが、このスマホの時代にこんなサービスが必要なのが中国のギャップだろうか。

 

バスは昆明駅近くまで行く。今晩はその近くのホテルを予約していたので、真っすぐそこへ向かった。ちょっと入り口が分かり難かったが、駅に近く便利で料金も高くない。私がこのホテルに決めたのは、何より予約サイトに日本人のコメントが数件あり、パスポートでも確実に泊まれると思ったからだ。夜中にホテルを捜し歩くのは正直勘弁してほしい。

 

もう一つはその日本人のコメントのほとんどが『フロントの対応が悪い、サービスの概念がない』など、ひどい内容だったことだ。なんでこんなにひどいことを書かれているのか、怖いもの見たさで行ってみたのだ。フロントへ行くと、確かに若い女性に全く愛想はなく、また予約も見つからないという。何しろ要領が悪い。そこで気が付いたのは、こちらが中国語で教えてあげれば対応できるということ。ようは日本語しかできない日本人がここに来ても『怒ってしまうだけ』なのである。

 

最終的に予約はあったが、私の予約した部屋はもう一杯だと言い、このホテルのスイートルームに通してくれた。そんな広い部屋は必要ないのだが、こんな対応があるのも旅としては面白い。勿論このレベルのホテルのサービスがよいとは言えない。だが意思疎通ができないと混乱が生じるのは、当然のことだろう。フロントの子も田舎から出てきてサービスなど知らないだけなのだ。

偶には香港を旅する2017(4)中国通がいない香港の日本人

3月13日(月)
懐かしい人々に会う

 

今朝もゆっくり起き、そのままそごうへ。ここでLさんと待ち合わせしていた。Lさんとは1月に台北で会ったばかりだったが、やはり何となく香港に来たら会いたいなと思い、何とか時間を合わせてもらった。まだそごうもカフェも開いていない時間、我々は近くの屋台のような朝ご飯を食べる所に入り、港式ミルクティを啜りながら話をした。これが香港らしくて良い。

 

Lさんの中国昔話は、時として非常に参考になる。そして現在のビジネスの話や、各地のネットワークから出てくる人々の活動など、話題は全く尽きない。お互いが自分のネタを出し合っていると、1時間半など、まさにあっという間に過ぎてしまう。名残惜しいがMTRで移動した。

 

向かったのはフォートレスヒル!これもまた懐かしいところだ。25年も前に香港で一緒にビジネスしたIさんのオフィスを訪ねる。香港の家賃高騰で数年前に金鐘から移ってきたというが、それでも立派だ。香港だけでなく、中国、台湾、そして日本も視野に入れたビジネス展開をしている。

 

ランチをご馳走になる。近くのビル内のレストランは、サラリーマンたちで超満員。香港は景気が悪いという話もあるが、こういう光景を見ていると決して景気が悪いとは思われない。ただ夜も同じようにお客が入っているとも思えず、賃料の高騰もあり、経営は楽ではないのかもしれない。

 

Iさんは『今日は実に楽しかった。中国のディープな話をしたのは久しぶりだ。昔は中国通と言われた、中国の内情に詳しい人が香港にゴロゴロいたが、今では中国のことなど全く分からない人々が香港に来て仕事をしている。これでは日本企業の前途は暗いと言わざるを得ない』とコメントしていた。香港にいて中国が分からない、中国を避けてきた人々は昔から多くいたが、それでもここまで酷いとなると、大変なことだ。そして何かと言えば『中国はとんでもない』を繰り返されては道を誤るだろう。

 

食後、一度宿に戻り休息した。そして午後4時頃にセントラルへ向かう。北京の時に一緒だったYさんとスタバで会う。スタバではあるが、ティバナというお茶カフェも併設されている。ほぼコーヒー並の料金で紅茶が楽しめる。一部日本のほうじ茶なども入っているが、日本から来ているかどうかはわからない。ちょっとおしゃれな店内だ。

 

Yさんは北京の後、香港にやってきて6年になるという。勿論会社も変わり、今は日系企業の現地採用で働いている。『年齢もある程度になり、技術も伴っていれば、駐在員より給与もよく、つまらない仕事はしなくてよいので、現地採用の方が余程マシだ』という。確かに日本の会社は仕事の分担がはっきりとしていない。契約により必要な仕事だけをしていればよい、という身分は理想的かもしれない。ただ職位が安泰とは言えないが。

 

次の約束に少し時間があったので、昔よく行ったセントラルの教会に行く。ここは駐在時代に心を休める場として、クリスチャンでもないのに、時々利用していた。こんな大都会の、オフィス街のすぐ上に、こんなに静かな場所があること、それ自体が素晴らしい。ただ教会の椅子に座っているだけで、心が落ち着き、怒りやざわめきが収まる。こういう場所を日本ではなかなか見つけることはできない。宗教には無縁ではあるが、それはやはり必要なのかな、と思ってしまう。

 

その後ちょうどトラムがやってきたので、上環の先まで乗ってみた。この乗り物、決して早くもないし、便利とも言い難いが、なぜか時々乗りたくなってしまう。便利ではないが、道を歩いていると目の前にやってくるから乗りやすい。2.3ドル、昔と変わらない。乗客も多くはないので座ってゆっくり市内見物。周囲はあまり変わっていないようだ。

 

セントラルの古い懐かしいビルに向かった。前回の香港駐在で一緒だったTさんと待ち合わせた。彼は2回目の赴任で、偉くなっており、車で山沿いの四川料理屋に招待された。香港現法の仕事は今やどこの会社も香港限定か、せいぜい広東省までのエリア。中国ビジネスの主流は上海や北京になってしまった。往時の香港の賑わいはかなり薄れたという。

 

四川料理は大変美味しかった。昔香港人は辛い物が食べられず、日本同様四川料理も辛くはなかったが、今や本場の味に近い物を食べている。いや、実際に食べているのは大陸から来た人々かもしれない。ウエートレスは英語も普通話も片言以上話す。年配のウエートレスが片言の日本語も話すのは、昔の名残か。

 

3月14日(火)
台中へ

今日はいよいよ香港を離れる日。早めに起きて、朝食を探す。トーストとミルクティとなる。店はそれほど混んでいない。皆テイクアウトしてオフィスで食べるのだろうか。宿のチェックアウトは少し面倒。荷物を持って部屋を出て、一度ビルも出て、先日のフロントまでまた荷物を持って上がり、鍵を返す。

 

銅鑼湾より空港バスに乗り、1時間で到着した。今回初めて香港エクスプレスというLCCに乗り、台中へ向かうことになっている。チェックインは順調だったが、気が付くと搭乗ゲートが突然変更になっており、ちょっと焦る。何だかいつもと違うゲート、バスに乗り飛行機へ。今回の香港の旅も慌ただしく終了。これが香港らしくて良い。

偶には香港を旅する2017(3)香港も安くなってきた?!

格安な宿

フェリーを降りるとすぐにホテルに戻り、荷物を取り出して、今日から泊まるホテルに急ぐ。そこは全く初めてだったのでちょっと不安。ホテルからほど近いその場所を、住所通りに訪ねてみると、ブランドショップが入るビルの3階に受付があった。何となくゲストハウス風だ。フロントの女性は英語も普通話をでき、お客は欧米人も中国人もいた。部屋はこのビルにはなく、すぐ横のビルに行き直す。6階の一角を使用している。因みにここの経営でこの付近、数百室の部屋を抑えているらしい。意外と資本を掛けている。

 

完全な民泊形式だが、何しろ銅鑼湾の駅からもすぐで極めて便利。しかも料金は1泊400ドル以下だったから、それは人気もあるわ、と思う。部屋は勿論狭いが、窓もあり、狭いがバストイレ付きだ。Wi-Fiなども支障なく、不自由はない。香港のホテル代は高過ぎると決めてつけていたが、これなら何とか泊まれるので、次回からはもう少し泊まる機会を増やそうと思う。

 

今晩は昨日会えなかった、昔の知り合いHさんが、広東省から帰ってきたので会うことになった。場所は日本人クラブ。昨日も行ったのだが、移転してからレストランへ行くのは初めてだった。きれいなカウンターに座り、Hさんの知り合いの大将と話しながら、美味しい物を沢山頂いた。日本人クラブって、こんなだったっけ?と思うほど。ただカウンターに座るのは香港人ばかりで、自分を含めて日本の経済力の無さを嘆かざるを得ない。

 

3月12日(日)
先輩に会いに

今朝はゆっくり起きて、朝食も食べずに、バスに乗った。銅鑼湾からホンハムへ行くバスには乗りなれている。トンネルを潜れば一つ目のバス停なのだから簡単だ。だが最近はバス路線が増えたり、バス停の位置がいくつかに分かれたりして、分り難くなっていた。何とかホンハム駅に着くと、まだ待ち合わせ時間には早かったので、散歩に出た。

 

香港島側や尖沙咀のプロムナードからハーバーを眺めることは偶にあるが、ホンハムから眺めるのは初めてかもしれない。駅の方から階段を降りて行くと、立派なホテルなどがあり、更に行くと高級マンションが見える。この辺、今一体いくらするんだろうか。非常に環境の良い、静かな高級感が漂う。3月らしく、香港サイドには靄が立ち込め、よく見えない。

 

駅付近に戻り、待ち合わせのホテルでAさんと会った。もう20年も前にここ香港で同じ支店にいた、お世話になった方だ。今は別の会社に移り、出張で来ていた。私が香港へ来る直前に連絡があり、劇的な再会となる。ホテルで食事をご馳走になりながら、様々な話をした。もう会社勤めはできない私だが、相手をしてくれる先輩がいることはとても嬉しい。

 

Aさんは午後のフライトで台北へ行くというので、そのままチェックアウトして去っていった。何とも格好がよい。因みにこのホテル、立地も抜群でそれなりの会社が運営しているのに、それほど高い訳ではない。やはり香港のホテル代は依然と比べ、確実に下がってきていると言えるだろう。

 

私はフラフラとまたバスに乗り、銅鑼湾へ戻った。日曜日の銅鑼湾は人の波で溢れんばかり。ホンハムの静けさが懐かしくなるほどだ。馴染んだ場所でワンタンメンと温野菜を食べる。今やそれが似合っていると自分でも思える。ついでに港式ミルクティも飲んでみる。少しの苦みが悪くない。

 

新しいカフェ
宿に戻り、休息した。特に暑い訳ではないが、今や休息がないと一日中の活動は難しい。夕方の約束までベッドで寝ていた。4時前に外へ出たが、相変わらず人が多い。ちょうど選挙があるようで、選挙活動をしていて人が集まっている。だが歩いている人の多くは外国人であり、インドネシア系の女性が目立っている。

 

今日は大学の同級生S氏と同窓生の香港人Jさんと3人で会った。何となくこの組み合わせがよいということになり、過去何度が3人で会っている。S氏は大学で研究するための調査もあるが、家族が香港にいるので定期的に戻ってきている。通訳業のJさんは日本企業の動きなどについても詳しい。この二人から教わることも多い。

 

場所は銅鑼湾の山側、少し奥。最近はこの辺がおしゃれなスポットだと言われる。確かに気の利いた店が数軒ある。カフェに入る。本格的なコーヒーを出す店だ。その昔香港には喫茶店などなく、コーヒーが飲める場所は相当に限られていたが、スタバの登場以来、コーヒーチェーンで溢れかえり、ついにはそれに飽き足らない世代が、新しい形を示してきているようだった。話が長くなったのでクッキーも食べてみるが、これがまた意外と美味しい。カフェだけでなく、ティーの世界も変化しているだろうか。

 

夕飯は一人で食べた。食べ過ぎは良くないと思いながら、鴨肉飯を頬張る。香港に遊びに来た大陸客が一人か二人で簡単に食べるような店だったが、意外と美味しい。香港と言えば、昔はその辺の何気ない店がうまい、と言われてきたが、今やチェーン店ばかりで面白くないので、小さい店には頑張って欲しい。

偶には香港を旅する2017(2)長洲島でお爺さんに再会

地下鉄に乗り、金鐘へ向かう。昔の知り合いヘレンに連絡を取ると、ちょうど彼女が所属する財団でパーティーがあるから来ないかと誘われた。折角なので出向いてみると、大都会の喧騒とは別世界の場所がそこにあった。非常に驚く。久しぶりに香港社会の一面に触れた。

 

しかしヘレンは見当たらず、待っても来ないので、勝手に見学を始める。今日のパーティーは展示会のオープン記念。創作的な芸術の世界を歩いていると、向こうにヘレンが見える。周囲には数人の日本人がいた。香港人やイギリス人もいる。無国籍状態で会話が弾む。これはヘレンのなせる業だ。お茶の関係者を紹介してもらったのは有り難い。

 

夜は尖沙咀へ移動して、その昔香港で一緒に過ごした人たちと会食する。もう20年以上前の知り合いだが、彼らは未だに香港にいる。脱サラして起業に成功した、また現地採用として、長らく職を得ている、など、私は見れば、好きな香港に居られて、良い環境で生きているように見えるのだが、最近の激しい変化には、かなり厳しい面もあるようだった。

 

3月11日(土)
長洲島へ

今朝はゆっくりと起き、ゆっくりと朝食を食べた。土曜日ということか、朝食を食べている人々にもゆとりがある。香港は衰えたとはいえ、スピードが命の場所。1日半で結構疲れている自分を発見した。このホテルとは今日でおさらばということで、荷物をフロントに預けてチェックアウト。

 

MTRに乗ってセントラルへ向かう。そこからスターフェリー乗り場方面へ。観覧車が寂しそうに回っている。何となく活気のない香港。それはどこから来ているのだろうか、気のせいだろうか。今日は久しぶりに長洲島へ行くことになっている。あの5年前の衝撃的な訪問以降、ずっと温めてきた題材に一つのケリをつけに行くということだろうか。

 

Yさんが同行してくれるのは有り難かった。何しろお爺さんは広東語しか話さないので、通訳は必須だった。フェリーの料金は何となく少し値上がりしているようだ。まあ、5年前との比較をしても意味がないほど、香港の物価は上がっているのだ。土曜日ということもあり、乗客は多い。

 

長洲島に着くと、やはり多少はオシャレになっている。取り敢えずお爺さんは元気かどうか確かめに、ベビー服屋へ。この辺にも2週間ほど滞在したことがあるので妙に懐かしい。服屋に変化はなく、おばさんもそこにいて、顔を見るとすぐに思い出してくれた。そして『お爺さんは元気だが、少しボケて来たよ』と言いながら、午後ここで再会する段取りをしてくれた。何とも有り難い。

 

そこでまずは腹ごしらえと、港の方に戻る。海鮮が名物だが2人だと多いかなと歩いていると、その昔ここで体調が悪かった時に食べたお粥屋が見えた。どうしても食べたくなり、そこへ入る。1938年創業などと書いているがどうなんだろうか。粥は相変わらずに美味しい。我々が注文すると、もう店仕舞いだ。昼までしかやらない。安くてうまい、これが一番。

 

再び服屋に行ってみると、お爺さんは既に来ており、満面の笑顔で迎えてくれた。既に90歳になっているが、足が少し悪いだけで元気そうだ。彼がプーアルの熟茶製法を初期段階で考案したと5年前に聞いていた。その後中国でもその話が広まり、今では有名人になっている。早々に、プーアル茶に歴史について、色々と確認させてもらった。広東プーアルの元祖との関係などもよく分かった。やはり一部、記憶がはっきりしないところがあり、娘であるおばさんが聞き返したり、補足してくれたりしたが、いずれにしても貴重な、生の話には価値がある。

 

ただこういうインタビューというのは実に難しいものだ。お爺さんは生き証人だから、彼が言った言葉は事実になっていく。しかし時には記憶違いもあるだろうし、また元々の思い違いさえもあるかもしれない。これをどう生かして、真実に近づけるのか、また一体何が真実なのかを理解するのは至難の業だ。私はノンフィクション作家には絶対になれないな、と以前から思っている。

 

1時間半ほどお話を聞いて、記念写真を撮って、退散した。お爺さんは初めて会った時と全く同じな笑顔であった。今度はいつ会えるだろうか。それから島の中を少し散歩した。桜の花が咲いているか見に行ったり、Yさんの知り合いに教えてもらった開放日の学校に闖入したりもした。ふらふら歩いているとすぐに時間が経ってしまう。本当は他にも行くところがあったのだが、次の予定が決まり、急きょ島を離れたのは、ちょっと残念だった。