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タイ巡礼、そして茶旅2017(1)新しい宿

《タイ巡礼、そして茶旅2017》  2017年7月10日-8月2日

今年前半、それほど激しい旅ではないが、相変わらずお茶を求めて走り回っていた。そして茶の歴史の文献まで読み始めた。生活がほぼお茶になってしまっていたので、気分を変えるべく、お茶と関係ない旅を実施することにした。昨年はマレーシアに行ったが、今回はタイを歩いて見ることにする。果たして茶なしで何をするのか。ところがやはり茶は付いて来てしまった。お茶のご縁、恐るべし。さてどうするのか。

 

7月10日(月)
1. バンコック
新しい宿

いつものように成田空港からタイ航空に乗った。夏休み前でそれほど混んでいない時期を狙った。料金も高くない。グリコのアイスが出てくると着陸1時間前の合図だ。少し早く到着した。しかも駐機した場所はイミグレの真ん前。あっという間にイミグレを通過し、荷物もスムーズに出てくる。バンコックもやるな。

 

これまたルーティーンのように1か月のシムカードを買い、ATMでお金をおろし、電車に乗り込む。驚いたのは、切符売り場の自販機の大半が故障していたこと。空いていたので窓口に並び、切符を買った。どうなっているんだバンコック!電車では座り、マッカサンまで30分。いつもはここから地下鉄に乗り換えるのだが、今回は新しい宿にチャレンジした。

 

そこはマッカサン駅から歩いてすぐとなっている。ただ河があり、荷物を持って橋を越えるのがちょっと面倒だが、歩いて5分ほど。マンションの一角にあるが、予約でもしていないと、ここに宿があるとは分らないだろう。1階はカフェになっている。取り敢えず2泊をネットで予約しており、料金は現金で払うつもりだったが、いつの間にかカードで引き落とされていた。

 

ケーススタディと言う名前だけあり、まさに実験しているような宿だった。部屋はきちんとしており、トイレとシャワーもある。窓もあるし、クーラーもちゃんと効く、ネットの問題もない。ベッドがちょっと上がっており、何だか座禅する場所のようなイメージになっている。冷蔵庫はないが、電気ポットはある。

 

問題なさそうだったのであと2泊の追加をお願いしたが、オーナーがいないと分からないと言われてしまう。後で聞くともう1泊しか部屋はないと言われてしまう。因みに1階のカフェは8時すぎには閉店し、スタッフは帰ってしまう。夜中のチェックインなどはどうするのだろうか。謎だ。泊まり客は数人しかいないようだった。

 

しかし困ったことに、宿の付近は食べ物屋が少ない。それほど暑くないので、夜フラフラ歩いて見たが、なかなか見つからない。スクンビッドの方まで出て、何とか麺にあり付く。屋台のような店が沢山ある場所が恋しい。今晩は疲れたので、すぐに宿に戻り、シャワーを浴びて寝入る。

 

7月11日(火)
チケットを買いに

翌朝は早めに起きて、北バスターミナルへ行く。次の目的地、メーソットにはアイちゃんがいるので、ちゃんと到着時間を知らせる必要があり、バスチケットを購入して時間を確定させる。ネットでは既にみていたのだが、ちゃんと予約できる自信がなく?アナログにもブースを目指す。

 

宿の前から馴染みのバスに乗るつもりで出る。このバスの始発は私の定宿の脇にあるのでよくわかっている。ただ乗っていれば、いつかはターミナルに着く。だが、朝はラッシュ時間帯であり、車は全然動かない。地下鉄の駅は近いので、そちらへ行き、チャドチャックパークまで行く。そこで地上に上がり、無料の新聞を配っているおじさんにターミナル行バスの番号を教えてもらい、無事に到着した。

 

999バスのブースへ行き、メーソットまでのVIPシートを買う。VIPシート初めてだ。夜行バスだが、これで580バーツは安いと思う。ただ朝何時に着くかは、その時次第らしい。それから少しバスターミナルを見学した。市内へ行くミニバスを探すが、文字は読めず、言葉は通じず。結局また普通のバスに乗り、チャドチャックからMRTとなる。ちょっと詰まらないが、仕方がない。宿に帰ってゆっくり休む。

 

なぜかギリシャ料理を
今日のお昼は、昨年のバンコックヨーガ合宿で知り合ったTさん、以前からの知り合いのKさんなどとランチすることになっていた。Tさんはバンコック在住でヨーガクラスを開いている。実は明後日恒例のお茶会をするのだが、その時間帯はクラスがあるということで、今日のランチとなった次第だ。

 

指定されたレストランは何とギリシャ料理のお店。バンコックにギリシャ料理があるのか、ギリシャ料理って、どんな料理かと興味津々で向かう。ホテルの1階にあるとてもおしゃれなところだったが、広いスペースにお客さんはほぼいなかった。これもまた驚きだ。何と貸し切りか!

 

メニューをもらっても文字が読めず、よくわからず、適当に注文したところ、サラダも肉も凄いボリュームで登場し、これまたびっくり。結構美味しいので、久しぶりにむしゃむしゃ食べたが、とても食べ切れなかった。でも何となくカザフスタンで食べた串焼きに似ていたな。関係あるのだろうか。12時から3時まで、ずっと話続けてしまう。まるで女子会の様相。

富山から静岡まで茶旅2017(4)遠州森に藤江勝太郎の足跡を訪ねる

7月7日(金)
森町まで

翌朝起きて、お茶を飲みながら朝ご飯を頂き、Iさん宅を失礼する。今日は掛川まで行き、そこからローカル線に乗ることになっており、まずは名鉄で豊橋に向かう。全く問題ないルートだと思っていたが、何と人身事故で電車のダイヤは、完全にマヒしていた。豊橋に何時に着けるのかもわからない状況となる。

 

何とか電車が動き出し、各駅停車となった列車に乗り、豊橋を目指す。だが予定していた東海道線には乗ることが出来ず、豊橋で待ちぼうけ。調べてみると掛川から乗る予定の天竜浜名湖鉄道は、掛川からだけでなく、豊橋に近い、新所原という駅からも出ていることが分かり、しかもこちらの方が待ち時間が少ないので、新所原で降りる。

 

天竜浜名湖鉄道の可愛らしい駅はJRの横にあったが、完全に隔離されていた。スイカも使えず、その料金も遠州森まで1280円と極めて高い、ローカル線だった。しかも車両は1両のみ。でも天気が凄く良くて、なんだか楽しい気分になる。乗客数人を乗せて出発。初めは民家のある場所を通っていたが、その内ちょっとした林の中に入ったりする。

 

20分ぐらいすると浜名湖がきれいに見えてきた。ウナギが食べたくなる。それから気賀という駅に着く。ここは今年の大河ドラマ、直虎の舞台になっているところ。こんなところから出たのか井伊家は。おじさん3人組が乗っていたが、彼らは直虎一日ツアー券を持っていた。ついには大河ドラマ館なる建物まで見えてきて、皆が降りていく。週末なら結構人がいて盛り上がっているのだろうか。

 

その内乗客はほぼいなくなり、運転手と私の2人だけがずっと乗っていることとなった。勿論途中で乗る人もいるが多くはない。ついにはトイレに行きたくなるが、途中駅で数分停まるというので駅のトイレの場所を聞き、降りて用を足したりした。何ともローカル、温かい雰囲気が漂う。まるでテレビのBSの旅番組のようだ。

 

大学が目の前にある駅を通り、乗客が増えてくる。フルーツパークという珍しい名前の駅もある。柿の木が植えられている。名物らしい。1時間40分ほど乗り、とうとう森町病院前という駅で降りた。何とも疲れたが貴重な体験だった。ただこの駅も無人で、周囲には町役場の建物などが見えるだけ。思えば遠くへ来たもんだ、という気分。

 

4. 森町
藤江勝太郎を訪ねて

森町教育委員会に詳しい方がいると聞き、既に1週間前に連絡を取っており、そこを訪ねた。目的は藤江勝太郎。彼は日本統治時代、総督府によって設立された茶業試験場の初代場長。台湾茶業の基礎を築いた人物だと思われるが、どのような人なのかはよくわかっていない。そこで出身地で、且つ帰国後は町長も務めた森町なら何かわかるだろうと訪ねた次第だ。

 

教育委員会には藤江家文書のコピーが残されており、見せて頂いた。それにより藤江の略歴なども明らかになって来た。興味深い資料もあるようだったが、文書を保存している藤江家の了解が必要とのことで、コピーなどは貰えなかった。取り敢えず撮れるものはカメラに収める。お話しを聞けば聞くほど、茶業における藤江の功績は大きいように思った。

 

しかし森町にはもう一人、台湾に深く関係した偉人がいた。鈴木藤三郎、台湾製糖の初代社長を務めた人物で、町としてはこちらの知名度を上げていこうと努力しているという。実際台湾に使節団を派遣し、台湾製糖と交流する、冊子を作りその業績を顕彰するなどを行っていた。藤江はその陰に隠れているようだった。それにしても台湾の3大商品の内、2つがここ森町出身者により興されたというはとんでもないことのように思うのだが。

 

ご担当の案内で、藤江勝太郎の生家にも行ってみた。特に表示などもなく、一人で来ても全く分からなかっただろう。現在は誰も住んでおらず、ご子孫は別の町に移っているとのことだった。森町は明治時代には茶業が盛んだったようだが、今やそれを示すようなものも見当たらない。昔の町役場を利用した歴史民俗資料館も訪ね、藤江の写真を見つけたのは収穫だった。

 

 

遠州森と言えば、どうしても森の石松を思い出してしまう。広沢虎蔵の浪曲、清水次郎長伝の中の石松が好きだ。実在の人物かどうかよくわからないが、この町には石松の墓があるといい、そこにも連れて行ってもらった。大洞院というお寺の前にその墓はあった。墓石を削って持っていると勝負運が付くと言われ、かなり削られていた。この墓は3代目で、削られても壊れない硬い石が採用されているという。

 

遠州一宮、小国神社にも行ってみる。このあたりを見てみると、昔からこのあたりは重要な場所だったことが分かる。まあ博徒が出入りするのも、町が栄えていた証拠だから、東海道線の開通までは少なくとも栄え、そして徐々に今のように落ち着いた街になっていったということだろう。

 

遠州森駅まで送ってもらい、また1両電車に乗る。夕方のこの時間は高校生などが多く、車内は昼間と違って込み合っていた。掛川まで25分、新幹線が走っているにもかかわらず、それからまた延々在来線に乗り、東京へ戻っていった。

富山から静岡まで茶旅2017(3)古民家宿泊、そして高山

古民家に宿泊

実は1回目と2回目のお茶会にはちょっと間があり、そこを利用して本日の宿泊先にチェックインした。そこは何と田舎の古民家だった。朝日町で保存している家で、宿泊可能ということで、Yさんとお知り合い、Tさんと私の4人が、この広い古民家に泊めてもらうことになったのだ。

 

笹川ふるさと移住交流体験施設『さゝ郷(ごう)ほたる交流館』は一昨年開業。1943年に作られた家を県と町が改修して、宿泊施設として利用している。目的は過疎地となっているこの街への移住者の誘致。田舎暮らし体験などで訪れる人を迎え入れるという。とにかくこの地域、田んぼが美しい。川も流れ、実に静かな田舎のイメージだ。冬は寒いかもしれないが、今の時期は最高の環境。

 

夜も9時を過ぎてセミナーの片づけが終わり、皆さんで遅い夕飯を食べた後、こちらの施設に戻ってきた。施設名にもある通り、この辺にはほたるが多いというので早々真っ暗な戸外に出ると、確かに各所にほのかな光が見える。台湾の田舎では見たことがあるが、日本でこんなにほたるが見られるところがあるとはちょっと驚き。

 

室内に戻り、居間でお茶を飲みながらおしゃべりする。さすがお茶好きのTさんが台湾茶を淹れてくれる。それから広々とした畳の部屋に布団を敷いてどっかりと休む。何だか修学旅行のような気分になる。静かな環境に疲れも手伝い、心地よい眠りに就く。ちょっと田舎暮らしがしてみたくなる。

 

7月6日(木)
高山へ
翌朝は7時前に起きたが、Tさんは既に近くの神社にお参りに出てしまっていた。台所では朝飯の準備をしてくれるKさんの姿がある。古民家のゆったりとした廊下の椅子にもたれると、何だか、ザ・日本の朝、という雰囲気が漂う。そして朝ご飯、美味しそうな地元の食材が並んでおり、幸せな気分になる。特にわかめの味噌汁!地元の海岸で採られ、干された自然な食材は絶品だった。これは忘れられない。Kさん、有難う。食後にはこれまた地元産のはと麦茶を飲む。Kさんは実にさりげなくPRがうまい。

 

名残惜しい朝日町と別れ、Yさんの車で富山駅まで送ってもらう。やはり途中は天気が良くなかったが、駅前で降りるといい天気だった。これから飛騨高山に向かう。特急に乗ろうと切符を買いに行くと、何とたった今発車したばかりだという。そうだ、私は貧乏旅行なので鈍行で行くつもりだったことを忘れていた。

 

富山駅の高山本線のホームは変わっていた。2番ホームは1,3番ホームの向こうにあるのだ。危うく乗り間違える所だった。乗客は少ない。平坦な畑の中を50分ほど行くと猪谷(いのたに)駅で終点となり、また斜め向かいに停まっている電車に移動する。猪谷は谷を普通に『たに』と読むらしい。

 

ここから先はかなりの山沿いをとことこ走る。いつの間にか富山県から岐阜県になっている。1時間ばかり走って、ついに高山駅に辿り着く。まずは荷物をコインロッカーに入れて、それから観光案内所で地図をもらい、大体の観光スポットを聞く。平日なので人は多くないが、それでも外国人を少し見掛けた。

 

3. 高山
高山散歩

駅前を見渡して適当な食堂に入り、飛騨牛のどんぶりを食べる。まあこんなものだろうという代物。ちゃんとしたステーキでも食べればよかったと後悔するも、既に富山で食べ過ぎなので、良しとする。それから伝統的建造物が立ち並ぶ保存区へ足を進める。この辺まで来ると中国人を含めた外国人がかなり目に付く。

 

確かにその街並は見事に残っている、という感じだった。町役場や陣屋などが残り、お茶屋やしょうゆ屋などの商家にも歴史が感じられる。ちょっと暑いのだが、ふらふら歩いて回る。アイスクリームが飛ぶように売れている。如何にも観光地、と言った雰囲気である。ただこれといった目玉はない。ただただ街を歩き、博物館などを眺め、この街の発展の歴史、地理的重要性を確認するだけだった。

 

ほぼ端から端まで、少し上った丘の上まで歩いてしまうと、最後はかなりへばってしまう。駅近くの三重塔のある国分寺でしばし休む。それから駅前でお土産物を買い、3時過ぎの特急に乗り込む。高山は有名な場所だったので、もう少し、おーと思うものがあるかと思っていたが、今回は発見できず残念。

 

この列車、名古屋まで直通なので、もう鈍行は止めてこれに乗った。勿論自由席、ガラガラだ。途中、白川茶と書かれた看板を見て、岐阜の白川に行きたかったな、と後悔。自然頂いた白川茶が美味しかったのを今頃思い出しても仕方がない。下呂温泉もよさそうだな、後の祭り。列車は特急なのでどんどん進んでいってしまう。

 

名古屋には3時間かからずに着いた。上出来だ。駅で駅弁を2個買い込み、名鉄に乗ろうと歩いていると、何とボヤ騒ぎに遭遇。それから新安城までどの電車に乗ればよいかわからず、右往左往したが、何とか辿り着く。今晩は、以前も泊めて頂いたIさんの家へ行くことになっていた。前回は場所が分からず、大いに迷ったが今回は問題なく到着。

 

Iさんは昨年体調を崩し、外出が難しくなっていたので、この機会にお訪ねしようと連絡したのだ。まあ、こちらに集まって来たお茶を淹れてもらい、買ってきた駅弁を広げ、お茶談義などをして時間はすぐに過ぎてしまい、疲れ果てて寝入る。

富山から静岡まで茶旅2017(2)朝日町 旅するお茶会

7月5日(水)
2. 朝日町
バタバタ茶再び

翌朝はホテルに朝食が付いているので、そこで食べる。和食・洋食の両方があり、それなりに充実している。昨日のサービスと考え合わせると、このホテルのコスパはかなり高い。全国チェーンのようなので、またどこかで泊まってみようと思う。そう思わせるホテルはそうは多くない。

 

今朝は雨も上がり、天気はよさそうに見える。Yさんの車で、富山から朝日町に移動した。電車で50分ぐらいかかるところ、高速に乗っても1時間ぐらいかかっていた。途中で雲行きが怪しくなるなど、やはり山の天気は変化が大きい。まあ雨が降らないだけよいか。車はなないろKANに入る。

 

その駐車場の向こうには朝日町歴史公園があり、その脇には茶畑があった。ここがバタバタ茶の原料を供給している場所。4年間でさぞや育ったことだろうと思っていたが、意外やそれほどでもなかった。やはり寒い場所は育ちが遅いのだろうか。後で聞くとやぶきた品種の半分が枯れてしまい、2年前に別品種を植えたのだという。

 

因みにその品種、富山らしい名前の『富春』を選定し、指導したのは、武田善行先生だという。その時はただ有名な先生が来られたのだなと思っただけだったが、まさかこの20日後にタイのチェンライの茶旅でご一緒することになるとは、まさに茶縁というのは恐ろしい。

 

次に車で連れてきてもらったのは、バタバタ茶伝承館。ここには4年前も来ている。以前より黒茶生産を中心的に行っている元町役場のHさんとも4年ぶりに再会したが、私のことは覚えていなかった。そしてその茶作りの苦労、プレッシャーは相変わらず続いているようだった。あと1か月もしないうちに今年の茶作りが始まるが、気が重くなっているのだろうか。

 

一方朝日町のPRを託されたKさんは、非常に熱心な人。バタバタ茶を精力的に売り込んでいる。ここに集うおばあさんたちとも仲良くしている。ご老人たちは賑やかに煮出した黒茶を五郎八茶碗に入れて茶筅でバタバタ泡立たせている。先日テレビ番組の収録で松岡修造もやって来たとか。おばあさんたちはいつも明るく、楽しそうにその時のことを語る。相変わらずお当番が持ってくる漬物がうまい。お茶を飲みながら、バクバク食べる。

 

お昼前に伝承館を失礼して、ランチに向かう。この辺の名物ということで、たら汁を食べるために、海岸近くの道路沿いのお店へ。4年前もそうだったが、ここ朝日町には山もあるが海もあるのに、今回も海を見ることはなかった。ヒスイ海岸も一度は見てみないといけない。

 

たら汁はスケソウダラをぶつ切りにして、味噌で煮込んだ料理。元はこの辺の漁師が船上で食べていたものだが、今はこの付近の海水浴客などに提供して、評判だとか。この道路はたら汁街道とも呼ばれ、何軒もの店がたら汁を出しているそうだ。ただ今やたらの水揚げは激減し、北海道産などで作られているらしい。美味しく頂き、まんぷく。これで午後お話などできるのだろうか。

 

旅するお茶会
朝日町の古民家カフェにやって来た。実に良い感じの雰囲気が漂う。ここで午後と夜の2回、お茶会が開かれ、その中で茶旅のお話をする予定となっている。ただ正直一体どんな人たちが聞きに来てくれるのか見当もつかない。しかも最後はバタバタ茶のお話をすることになっているが、このお茶の歴史、国立国会図書館にも出向き、何冊もの本を読んでみたが、どうしても謎が解けないまま、今日を迎えてしまう。恐ろしい。

 

この古民家の一族であり、京都でお茶屋さんと風水師をしているTさんが美味しい台湾茶を淹れてくれることになっている。これは心強い。しかもバタバタ茶に使われる黒茶と酷似していると言われている広西の六堡茶をわざわざ持ってきてくれ、飲み比べまでしてくれた。これは参加者にもわかりやすい。

 

参加頂いた方々、地元朝日町は勿論、富山市など富山全土から集まって来られ、2部とも満員盛況で驚きだった。東京では毎週のように多くのお茶会、セミナーが開かれているが、地方ではその機会が少ないということだろうか。それなら、私のような旅人は旅のついでにお話しする、旅芸人に徹してもよいのでは、と思わせてくれるほど、熱気があった。

 

北京で一緒だったコーヒー屋のRさんとも再会した。昨日飲んだ富山紅茶の会の代表Sさんも来てくれた。学芸員の方、茶道などお茶に関連する方、文化関連のイベントを開催する方、など、思いもよらない人々が集まり、一緒にお茶を飲んだだけでも嬉しかった。また機会があればぜひやりたいな、と思う。

 

因みにセミナーの内容はバタバタ茶にまつわる幾つものネタを披露し、まるでパズルのピースを出すように提供。後は地元で考えてくださいというものだったので、お役に立ったかどうかはわからない。ただ言えることは単にお茶の話をするより、地元にまつわる内容の方が当然ながら興味が沸くだろうということ。バタバタ茶の謎についてはお茶からのアプローチだけでなく、歴史学、言語学、地政学、文化人類学など、様々な観点から切り取ってみると更に面白いと思う。4年に一度ぐらいその成果を発表できれば嬉しい。

富山から静岡まで茶旅2017(1)富山でお話し

《富山から静岡まで茶旅2017》  2017年7月4日-7日

4年前に行った富山。魚がうまかったな、環境がよかったな、という印象が強い。また行きたいな、と思っていると、北京時代のお知り合い、前回も世話を焼いてくれたYさんから『ぜひ来てね』と声がかかる。そしてあのバタバタ茶の朝日町で、セミナーをさせてもらうことになる。地元のお茶について、地元の方に何を話せばよいのだろうかという迷いはあったが、それより、『また富山に行きたい』という思いが勝ってしまった。

 

更にはついでに静岡を再訪しようと思い立つ。だが日本は広い。日本海側から太平洋側へ、どうやってもそれなりの時間が掛かる。台湾に行くより遠いなと思いながら、なぜか無理して、しかも飛騨高山、愛知を経由して行ってしまった。無謀だが、まあこんな旅もあってよいか。

 

7月4日(火)
1. 富山
北陸新幹線で

朝から小雨が降っている。富山への行き方は飛行機、バスなどいくつかあったが、一番安直でつまらない新幹線に乗ってしまう。いよいよ私の旅も歳老いてきたのだろうか。勿論4年前はなかった、一昨年開業した北陸新幹線を一度は体感しようという狙いはあるのだが、新幹線はどれも同じだろう。新鮮味は特にない。

 

大宮まで在来線で行き、はくたかに乗車した。かがやきというのはもっと速いらしいが、そこまで急ぐ必要もない。列車は軽井沢などを通り長野まで行く。天気の悪い平日、基本的には出張のサラリーマン中心で自由席もかなり空いている。数人、山登りの格好の人がいるのはちょっと気の毒だ。

 

黒部川あたりではかなり雨が降っており、川が相当に増水している。台風が近づいているとの話があったが、それは逸れているのではなかったのか。車内ニュースでは福井あたりで大雨のため列車が止まっているとの情報も流れている。私は何という時に来てしまったのだろうか。まあそれも私の旅なのだが。

 

富山駅には定刻1時過ぎに着いた。僅か2時間ちょっと。確かに速いが費用もそれなりに掛かる。あまり食欲はなかったが、一応腹に何か入れようと駅のそばを食べた。駅前を眺めてみると、4年前は新幹線の工事をやっていたが、今はすっきりしている。時の流れの速さを感じる。

 

Yさんが予約してくれたホテルは駅前にあり、雨でも便利。まだチェックインの時間には早かったが、荷物を預けに行ってみると『本日は雨なのでお部屋へどうぞ』と嬉しいご案内。更には雨に濡れていたのでタオルまで差し出されてちょっと感激。これぞおもてなし、ではないだろうか。

 

富山でお話
ホテルの部屋はコンパクトだが居心地は悪くない。さすがに旅慣れた女性が選ぶ宿はどこか良い。午後4時近くまでゆっくりと休み、今日、明日の準備を少しした。ロビーには無料のドリンクサービスもあり、そちらに移動してコーヒーを飲みながら最後の仕上げを行う。そこへ雨の中、Yさんが登場した。

 

そして車に乗り、富山県民会館に移動した。ここの一階のカフェで打ち合わせ。今晩は、富山のビジネスマンの集まりでお話をさせて頂くことになっている。これもYさんの人脈のお陰だ。伝票の代わりに小さな人形が置かれているのも面白い。もしこれが中国なら、この人形にQRコードでもつけてスマホ決済にすれば受けるだろうな、と考えてしまう。日本ではいずれにしても無理だな。

 

このカフェには、富山産の和紅茶が置いてあったので、オーダーしてみた。販売もしているようだ。今や日本のどこでも紅茶が作られている。富山紅茶の会が生産しているとあるが、どんな団体だろうか。くれは紅茶とあさひ紅茶という2種類がある。あさひとはやはり朝日町のことだろうか。あそこで紅茶?

 

会場はこの会館の上だった。行ってみるとすでに主催者が来られていたが、私のPCとプロジェクターの相性が悪く、接続できずに慌てる。これからはPCだけではなく、コードも持参すべきと痛感。参加者は10数人だが、志のある官庁や有力企業の方々が中心の会でちょっと驚く。事前に参加者も聞かずに勝手な話をするのは悪い癖だ。

 

今回は『お茶を通して見るアジア事情』ということで、富山には何にも関係ないし、特にビジネスに繋がるようは話でもなかったが、皆さんきちんと聞いておられ、ホッと一息。お茶というのは意外と様々な側面があるということを理解して頂ければ十分だろうか。それにしてもこのような勉強会が定期的に開かれているというのは素晴らしい。

 

夜は皆さんに連れられて、新鮮な魚介類など富山の料理を堪能した。またかなり幅広い富山情報を聞くことができ、楽しく過ごした。私もセミナーとは違って、こぼれ話をいくつか話し、いつものように『セミナーより2次会の方が面白い』という不名誉なお言葉を頂戴する羽目になる。まあ仕方がないか。ホテルに帰る頃には雨はほぼ上がっていた。

 

静岡フラフラ茶旅2017(2)台湾で活躍した茶業関係者を調べる

3. 藤枝
幸之松の夜

実は幸之松さんにはちょうど1年前に呼んで頂き、セミナーを開催してもらっていた。満員盛況のお客さんだったが、ごく一部のお茶農家、お茶好きの方を除いて、お目当ては私の話ではなく、こちらの料理だったと思う。まあ話の内容も、お茶に相当関心がないと興味を引かない黒茶だったからだろうか。そして驚くほどおいしい料理が続々運ばれてきて、皆さん大満足だったのを覚えている。

 

その時は牧之原のSさんの紹介だった。結局その夜は彼の家に泊めてもらったのだが、『次回静岡に来ることがあれば泊まっていいよ』と言われていたので、お言葉に甘えることにしたのだ。このお店、何しろ風情があってよい。外国人などは必ず喜ぶ日本的な作りだと思う。

 

お店に入るとすぐに料理が運ばれてきた。お刺身、てんぷら、鍋物、どれも美味しく頂いたが、中でも静岡名物黒はんぺんの揚げ物。何と5枚も食べてしまう。これまで食べた物とは別次元の美味しさだった。『今日は家庭料理だ』とのことだったが、大将の料理は実に食べ甲斐がある。

 

Sさんがお茶関係者として呼んでくれていた人がいた。ここ藤枝には、あの日東紅茶の工場がある。そこに勤務するHさん。仕事で世界中の茶産地に行くそうで、今時のお茶事情を聞く。当たり前だが、世界は我々の目の前で起こっていること以上に、動いているようだ。そして日東紅茶の歴史についても、得るものがあった。

 

そんな話をしていると、東京にいるはずのI夫妻が入って来た。一昨日は京都の茶会に出て、昨日の夜、帰り際にここに寄って食事をしたらしい。そこで今日私が来ることを知り、何と実家のある山梨から戻って来たらしい。神出鬼没とは私がよく言われることだが、I夫妻は私の上を行っている。驚くべし。しかも食事が終わると東京へ帰っていたからすごい。何時に着いたのだろうか。

 

私はHさんとのお茶談義に没頭し、気が付けば12時を回ってしまう。酒も飲まずに、実に6時間近くも話をしていたことになる。これは楽しかった。それからお風呂にも入らず、そのまま寝てしまう。Sさん夫妻はさぞや呆れたことだろう。私の旅スタイルはどこでも自由奔放だ。

 

6月7日(水)
翌朝は鳥のさえずりで目覚める。散歩でもしようかと思ったが、もうご飯が出来ていると御呼ばれした。まるで旅館の朝ご飯を頂くようで、何とお替りまでしてしまう。昨晩から食べ過ぎだ。申し訳なかったのはSさんご夫妻の方は、私のはるか前に起きて、犬の散歩も済ませ、朝食もすでに済んでいたこと。居候がのこのこ起きてきて、大飯ぐらいだとは、落語のような展開となる。

 

4. 金谷
野茶研へ

今日は朝から金谷の試験場へ行くことになっており、藤枝駅まで車で送ってもらう。なんとも迷惑な客だっただろうが、また機会があれば泊まりに行きたい。でも断られるかもな。藤枝から電車で金谷まで行く。駅で降りてバスの時間を聞くと30分後しかなかった。しかももしそれを逃せば、午前中はもうないらしい。ちゃんと調べもせずに来たのは無謀だった。取り敢えず駅付近を散策。高台に上がり、旧東海道の石畳の道の入り口まで歩いたところでバスの時間となる。

 

バスの乗客は殆どなく、10分ほどで目的地に着いた。通称野茶研と呼ばれる場所、今日はお知り合いのIさんのお陰で、ここの図書館で調べ物をさせてもらえることになっていた。ここの歴史を見てみると、何と明治時代は東京の西ヶ原にあったらしい。私の母校も西ヶ原にあったのだが、ここの跡地、ということはないのだろうか。試験場だから広々としており、周囲には茶畑もある。

 

Iさんと一緒に図書館に行くと、既に話が通っており、何と私が調べたかった人物に関連する本を選んでくれていた。何とも申し訳ないことだが、時間の短縮となる。藤江勝太郎、中村円一郎など、台湾茶業で活躍した静岡出身者は多いが、茶処静岡のこと歴史に埋もれてはいないだろうか、と思うのだ。静岡でも彼らの名前を知る人が多くないのは残念だ。資料もそれほどない。出身地の町役場などに問い合わせた方がよい、とのアドバイスは貴重だった。

 

お昼はIさんの研究室で一緒に食べ、またお茶の話をした。Iさんとは昨年のお茶祭りセミナーで初めて会ったのだが、偉い研究員の先生とは知らなかった。私は品種や育種のことは何もわからないのだが、お茶の話題が全く尽きないのが不思議だ。やはり世界の茶産地を旅している人とは、話のテーマが合うのかもしれない。

 

午後は、何と偶然にもここで、黒茶の試飲が行われるというので、飛び入り参加した。集まったメンバーもすごい。近世茶歴史を研究するYさん、江戸文化を研究するK先生、尖ったお茶屋のIさんなどが、黒茶を持ち寄り、勉強している。私もプーアル茶などいくつかの黒茶を持っていき、飲んでみる。色々と専門的な意見や疑問が出てきて面白い。更には研究室でトルコのチャイなども飲んでみる。皆さん、お茶に向き合う姿勢が半端ない。私は場違いだな。

 

それから図書館に戻り、お借りした資料を整理してから、バスで金谷に戻った。バスの本数が少ないのでちょっとドキドキしたが、何とかたどり着く。そして名残惜しかったが、そのまま在来線で東京へ戻った。本当は1泊ぐらいして、お茶屋さんや農家を回りたかったが、時間が許さなかった。まあまたすぐに来るだろう。

静岡フラフラ茶旅2017(1)松下コレクションを見学する

《静岡フラフラ茶旅2017》  2017年6月6日-7日

パスポートの有効期限が6か月を切っていた。そうなると入国拒否される国があると警告され、本当かなと思いながらも、パスポートの更新に踏み切った。台湾で更新しようと思ったが、2週間もかかると言われ、さすがに異国で2週間パスポートなしは不安だったので、東京へ行った。その間は日本に居なければならず、旅も日本国内に限られる。そこで静岡へお茶の歴史調査に赴くことにした。果たしてどんな成果があるだろうか。

 

6月6日(火)
1. 袋井まで

いつものように朝早く起きて、在来線で静岡を目指す。小田原まで小田急線、そしてここで普通乗車券を袋井まで別途購入して乗車する。スイカは熱海を跨げない。ちょうど中村羊一郎氏の『お茶王国しずおかの誕生』という本を読んでいると、鎌倉初期、径山寺の修行を終えて帰国した聖一国師が興津の清見寺に立ち寄り、その際中国から持ち帰った茶の種を足久保に蒔いたとの話があると書かれていた。その真偽はよくわからないが、ちょうど興津の近くに来ていたので、思い切って降りてみることにした。

 

駅で切符の有効性を確認のうえ、清見寺への行き方を聞く。線路沿いに歩いて行くだけなので、難なく到着した。そこは門と寺が線路で仕切られている珍しいロケーション。鉄道ファンにはいい撮影スポットではないだろうか。線路を跨ぎ、本堂を見学。きれいな庭が見られた。ただ聖一国師に関する記述や茶の木などはほぼ見られない。仕方なく庭を掃除している人に聞いてみたが、『お茶の歴史については全く知らない』と言われて拍子抜けした。

 

本によれば室町時代には清見寺は都にも知られた銘茶を産出していたとある。聖一国師が足久保に茶の種を蒔いたという文献はどこにもないが、もしそれが本当ならば、当然清見寺にも蒔いたであろうと推測している。それにも拘らず、現代の寺には茶の痕跡すらないのはなぜだろうか。実に不思議だ。やはりこの話は眉唾物だろうか。

 

来た道をとぼとぼ帰る。途中にスーパーがあったので昼ごはんとしてパンを購入した。そこにはレジもあったがかなりの人が並んでおり、私のように買い物数が少ない客は自動決済に誘導される。初めて緊張したが、自分でバーコードを読み込ませ、現金を入れるだけ。意外と簡単で便利だと分かる。東京の近所のスーパーにはないのだが、静岡は進んでいるのだろうか。

 

2. 袋井
松下コレクション

それからまた東海道線に乗り、静岡を過ぎ、藤枝、金谷、掛川と馴染みの駅を全て通り過ぎ、70分かかって袋井に到着した。そこから浅羽支所へ向かうバスを待つ。意外にもバスは1時間に3本程度あり、比較的早く乗れた。10分ちょっとで目的地には着いたが、目指す浅羽支所が分からず迷う。

 

思ったより立派な建物の3階に目指す松下コレクションの部屋があった。ここで茶旅の先達、松下智先生の60年に渡るコレクションが最近公開されたと聞き、どうしても行ってみたいと思ったのだ。火曜日と水曜日の公開と聞き、ちょうどよかった。先日その確認は小泊先生にお電話していたが、会場には松下先生ご本人がおられて驚いた。

 

コレクションは意外にも、黒茶などが多く展示されている。トワイニングの周年記念のブロック茶まである。その辺がいかにも松下先生らしい。お茶の歴史を福建や広東、台湾などを中心に語ることはない。少数民族と茶、更にはビンロウの関係まで展示されている。このような展示は今までになかった物ではないだろうか。少数民族のお茶研究、実に興味深い。

 

また一方には書棚があり、大量の参考資料、本が並べられている。それを見ると中国や台湾が中心ではあるが、よくぞここまで行かれたものだ、という奥地の物もあり、また日本各地の地方誌なども沢山ある。思わず手に取り、見入ってしまうほど、貴重な物がいくつもあった。

 

先生によれば、『ここにある資料は一部だ。現在本の執筆をしており、多くに資料は使用中だ』という。ご自宅には一体どれだけのお茶や資料が眠っているのだろうか。いずれにしても整理するのは大変だったことだろう。そしてこのようなコレクションの展示館が日本にはこれまでなかったことが残念でならない。

 

松下先生には『ぜひ茶寿までお元気でご活躍ください』とお伝えした。茶寿とは108歳のことで、中国茶業界の泰斗、張天福氏をイメージした。先生からは『今のところ体はどこも悪くない。90歳でインドのダージリンに行こうと思っている』という力強いお言葉があった。コレクションの見学者は平日にもかかわらず、かなりいた。勿論先生のこれまでの活動と研究成果の結果であり、また茶の歴史への関心の高まりを感じた。これからはお茶の歴史に興味を持つ人が増えてくれればよいと思う。

 

帰りもバスで袋井駅に戻る。それほど待たずに乗れるのがよい。袋井から藤枝までJRで行く。今晩は、藤枝の幸之松さんにお世話になることになっていた。藤枝駅に着くと、Sさんが車で迎えに来てくれた。何とも有り難い。

ある日の埔里日記その3(8)関西から羅東へ

5月18日(木)
関西から羅東へ

以前訪れた新竹の関西。連載の締め切りが迫る中、いくつかの疑問を確認するために、もう一度訪問させてもらった。関西には鉄道は通っていないのでバスで行こうかと思ったが、羅さんが高鐵新竹駅まで迎えに来てくれるというのでお言葉に甘えた。埔里からバスで台中高鉄駅へ行き、そこから高鐵に乗った。新竹までは僅か30分ちょっと。思ったより早く着いた。

 

高鐵新竹駅の周囲には何もないように見えたが、後ろ側には高い建物がいくつもあった。トイレから出てくるとちょうど羅さんが駅に着いたとの知らせがある。羅さんは実は台北に住んでおり、今日のためにわざわざ高速を飛ばしてやってきてくれたのだ。申し訳ない。駅前でさらっと拾ってもらい、関西へ向かう。羅さんは日本で15年暮らしていたと言い、日本語に問題はないので、色々と話を伺う。

 

先日も訪ねた台湾紅茶公司。今日も現在の社長、3代目の羅慶士さん(羅さんのおじさん)から、様々な茶の歴史を教えてもらう。特に紅茶から緑茶への流れ、客家人の精神とお茶について、また新たな発見があった。このような80年の歴史の流れは、とても1回のコラムで書ききれるものではない。何回かに分けて、もう少し資料を集めて書いていこうと思う。

 

羅さんが台北に戻るというので、その車に乗せてもらい、台北に向かった。高速だとあっという間に市内に入る。常々感じることだが、台湾も以前比べて渋滞が少ない。新たな道路が出来たりしているからだろうが、非常にスムーズに移動できるのは何とも有り難いことだ。

 

市政府前で降ろしてもらい、羅東行のバスを探した。台北発のバスというとつい慣れた台北駅前出発のバスを思い浮かべてしまうが、実はいたる所からバスが出ている。羅東は初めて行く場所なので、言われた通りに切符を買い、バスに乗ってみた。結構きれいなバスで、頻繁に出ているらしい。

 

1時間ちょっとで羅東のバスターミナルに着く。横には台鉄の駅もある。今日はここに葉さんを訪ね、台湾茶の歴史の教えを乞う予定だ。電話するとすぐに葉さんが車で迎えに来てくれ、自宅へ向かった。だが突然すべての通行が遮断されてしまった。何と台湾には今でも防空訓練があったのだ。最近台湾に来ても出会うことがなかったので、もうなくなったと思っていたのだが、私のスマホにすら訓練の知らせが出てきた。未だに中華民国は戦闘状態なのだ。ただ緊張感はまるでない。

 

この間は車の運転はできない。葉さんは途中のお店に入り、椅子に座り、私の時間を惜しむかのように台湾茶の講義を始めた。店の人も訓練中は仕方ないと思っているのか、なにも文句は言わない。お茶の壮大な?歴史の一端が幕を開けた。20分後に訓練は解除されたが、まだ講義はほとんど進んでいなかった。

 

それから自宅で延々話を聞き、資料をもらった。実はすでに彼からは郵送で膨大な資料が送られてきており、手が痛くなるまで全てコンビニでコピーしていた。今回はこれを返すのが目的だったのだが、更に多くの知識と資料を頂戴した。何よりも想像ではなく、文献などの一次資料に基づいて説明してくれるのが有り難い。勿論すべてを一度に消化するのは難しいが、まずは基礎を頭に叩き込む。

 

夕方まで話し込み、車で出かけた。宜蘭で奥さんが働いているのでそちらでピックアップし、夕飯に向かった。その食堂は宜蘭の地元料理を出すとのことで、わざわざ葉さんが連れて行って、ご馳走してくれたようだ。料理は普段あまりお目に掛からないような食材で作られ、とても美味しかった。宜蘭というのは、よほど裕福な土地だったのだろうか。

 

食後、宜蘭のバスターミナルまで送ってもらい、バスに乗り込んだ。行きと帰り、乗る場所は違うのだが、同じバス会社が運行している。実は台北と宜蘭は極めて密接に結びついている。特に新しい国道が出来た後、その便利さは格段に上がり、週末には台北から多くの観光客が温泉に浸かり、食事を楽しんでいるという。台北市政府前まで1時間で到着した。

 

それからMRTに乗り、予約した宿へ向かう。そこは林森北路と長安東路の角にあった。かなりきれいなに改装された宿で、個室は5階にあり、広いリビングがあった。今晩はお客が少なく、ほぼ独占できたのは嬉しい。ただシャワーとトイレが4階にしかないのはかなり残念。またタオルを借りると40元取られた。まあ静かだったので良しとして、シャワーを浴びてから寝込んだ。

広大な茶畑を眺める貴州茶旅2017(6)福州散歩

5月1日(火)
福州散歩

朝はゆっくり起きた。今日は特に予定もない。この旅はほぼ終わりだが、私にとっては旅の中休み。何となく粥が食べたくなり近所で探す。白粥のおかずとしてなぜか角煮を選んでしまう。まだ肉へのこだわりがあるのか。折角なので少し福州の街を歩いて見ようと思う。行く当てがないと寂しいので、博物館を目指す。ただそこは省や市の博物館ではなく、個人の物らしい。ネットで検索したら出てきたので行ってみる。

 

バス路線も一本で行けることが分かったので気楽に乗ってみる。バスは閔江を越え、倉山区に入る。この一帯は150年前頃、外国商人が入り、領事館なども作られた地区だった。ただ目的地の博物館は単なる一族の祠であり、しかも閉まっていた。いきなり出鼻をくじかれる。

そこから川沿いに戻り少し歩いて行くと、数年前魏さんの会社の人に案内してもらった、煙台山の旧外人居住区が見えてきた。ただこの辺の川沿いの開発はすさまじく、かなり変わってはいた。前回はアメリカ領事館跡などを探したが、教会のところへ登っていくと、そこは数年前と変わらぬ、昔の家並みが見られてちょっとホッとした。ただ一部は豪華な別荘などに生まれ変わり、お金持ちが高級車で見学に訪れていた。

 

たまに歴史が書かれたプレートが嵌っているところもあったが、歴史保存がそれほど進んでいるようには見えない。残るべきものは一応残っているので、早めに保存した方がよいと思うのだが、どうだろうか。下まで降りてくると大手ディベロッパーがここを保存しながら再開発すると書かれているが、うまくやって欲しい。

 

川沿いにはロシア風の大きな建物が目立っている。橋を渡ってそこへ行ってみたが、歴史的建造物ではなく、単なる商業施設のようで、雑貨の卸の店などが数多く連なっている。ただ連休中のせいかお客は少なく閑散とした中、皆昼寝をしたり、昼飯を食っている。その昔はこのあたりで外国商人と地元民が激しいやり取りをして、輸出がされていたのだろうか。

 

福州にも地下鉄が走っているというので、その駅を探したが、歩いて行くと遠いので、結局バスを待って宿に帰った。帰るとすぐに魏さんから呼び出しがあり、また紅茶屋へ行く。ここには紅茶に関する本がたくさん並んでおり、パラパラめくりながら勉強する。すると魏さんが『今晩は呉さんのところへ行こう』と言い出す。呉雅真さんは、中国では知られた茶芸の先生、紅茶の本も出されているので、ちょうどよいとその話に乗る。

 

宿で休んで日が暮れる頃、魏さんと出掛ける。呉さんのお店は5年前に一度伺った切りで場所も忘れてしまっていた。ここはレストランであり、夕飯を頂く。ここの料理には福州の食べ物があり、美味しく頂く。貴州に一緒に行った林さんと魏さんの親戚のネイさんも加わる。

 

呉さんはちょうど私が上海の復旦大学に留学していた頃、そこの学生だったというので、一応同窓生ということになっている。今や中国全土で名が知られている彼女、本にサインを頂き、有り難く持って帰る。この本、中国紅茶の各茶産地がかなり詳しく載っているので、とても参考になる。

 

 

お店は繁盛しており、呉さんは忙しいようだったので、食事の後は林さんが勤めるプライベートサロンに場所を移してお茶を頂く。さすが茶芸師の林さんが丁寧に淹れてくれる岩茶が何ともふくよかでおいしい。サロンは実に落ち着いた空間であり、久々に本格的にお茶を味わった気分だ。近くにこんなところがあれば、時々お茶を飲みに来るんだがな。因みに林さんは花道も嗜む。

 

5月2日(水)
空港へ

翌朝は5時に起床、市内バスで空港バス乗り場へ向かおうとしたが、早過ぎて始発まで間があり、仕方なくタクシーで行く。ちょうどバスは出たばかりで20分ほど待ったが、それでも次のバスに乗り、予定より早く空港に着いてしまった。まあチェックインは出来たので、後は空港で時間を潰す。魏さんの元泰空港店もあったが、さすがに早過ぎて人はいない。

 

五一の連休とは言っても国慶節や旧正月ほど長くないので、特に混んでいるという印象はない。また中国人の台湾訪問はかなり減っているということで、乗客は台湾人の方が多かったようだ。少し遅れるとのアナウンスはあったが、ほぼ問題なく飛び、今回は桃園に着いた。

 

今回の旅は突然だったが、貴州の茶産業、とても興味深く見た。中国の地方へ政策がどのようなものであり、また茶業を観光業とマッチさせ、発展を促そうとしているところなど、日本も見習うべき点があるように思う。

広大な茶畑を眺める貴州茶旅2017(5)遵義会議記念館

最後に街の近くまで戻って来た。ここに茶業博物館があった。見るからに歴史を感じさせる建物が見える。ここが1939年、張天福氏が選定した茶畑から採れた茶葉を加工した場所だったのだ。驚くほど当時の様子を留め、いい感じに保存されている。参加者も皆興奮気味に工場内に入っていく。中には当時の製茶機械が多く残されており、まさに博物館だった。外は緑に囲まれており、環境は抜群。ずっとここにいたいような衝動にかられたが、団体行動では仕方がない。

 

宿泊しているホテルの近く、別のホテルで降ろされてツアーは解散した。茶博参会者の人数も減ってきたので、1つのホテルでまとめて夕飯を提供するようだ。まあ、ホテルが変わっても食事の内容はさほど変わらず、さすがに毎食ビュッフェが続くと飽きてくるが、提供してもらえるだけ有り難いと思って食べる。

 

夕飯後、ホテルへ帰らず、林さんと街歩きに出た。街に中心に川が流れているので、その付近を散策する。川では釣りをする人などもおり、のどかな感じだ。林さんは、例の街のシンボルである、大きな急須をよい角度から写真を撮ろうと必死になっており、ついには川辺まで降りていく。そこに電話が鳴り、車の迎えが来た。

 

ちょうど暗くなった頃、車はホテル?に着いた。ここは芸香茶業というお茶屋さんだったが、ホテルがメインかと思ってしまう作りだった。向かいのショップに入る。ここでお茶を飲むのだが、お茶以外にも当地の特産品が沢山売られている。聞けば、『当地の商品を売ることを条件に政府から補助が出ている』という。茶葉を売るだけでなく、このような形で産業を推進していく、やはり貴州は観光業だ。

 

釜炒りの実演なども行われており、お茶の香りがよい。先ほどツアー中に会った人はここのオーナーの親戚で製茶指導をしているという。元は国営工場に勤めていたらしい。お茶の話になると非常に熱が入る人だ。紅茶はやはりこれから、という感じだろうか。宿泊客が次々とショップでお茶を飲み、お土産を買っていく。

 

夜も10時になったのでそろそろホテルへ戻るかと思っていると、何と『どうしても宵夜に連れて行きたい。この街の夜は賑やかだ』と言われ、もう拉致同然?に連れていかれる。この辺が中国的情熱の表現だとは分ってはいるが、個々人の体調などは考慮しないのだろうか。まあ、若者は夜中も食べたいのだろう。

 

確かに川沿いに煌々と電気が点いている場所がある。立派な建物があり、お客も結構いるのでビックリ。昨日訪問した会社の人も他の客を連れてきている。ここで簡単に、と言いながら、また一食分の食べ物が出てきて、酒を飲み、酔っぱらうのだから恐ろしい。まあ日本のおじさんも似たようなものかもしれないが、体力的にはもたないだろう。解放されたのは12時を過ぎてからだった。酒も飲まない身としては本当につらい。

 

4月30日(日)
遵義へ

翌朝は何となく頭が痛い。二日酔いはないから疲れだろう。林さんは別行動で重慶へ向かった。我々は昼のフライトまで時間があるので、遵義へ向かうことになる。7時過ぎにはチェックアウトして、車に乗る。1時間以上かかって遵義の街に入る。ここでも魏さんの知り合いが待っていてくれ、案内が始まった。遵義会議の場所へ行くと、まだ開門していないが、既に大勢の人が並んでいた。今日は日曜日、しかも五一の連休だから、混んでいるのだろう。

 

取り敢えず近所の麺屋に入り、朝ご飯の麺を食う。案内人はどこかへ電話をかけている。まもなく開門となったが、地元民の口利きで並ぶことなく入ることができた。遵義会議記念館、すぐ横には古めかしい立派な建物が建っていた。ここが会議の行われた場所らしい。中に入ることができたので覗いてみると、宿泊施設などもある。ここは元々国民党の師団長の私邸だったらしいが、なぜここに来ることになったのだろうか。因みに毛沢東はこの時主要メンバーではなかったので、別の場所に宿泊し、歩いて会議に来ていたらしい。

 

正面には記念館があり、中は当然ながら偉大なる共産党の歴史が語られ、当時共産党への勧誘をする看板などが飾られていた。参観者が多くてごった返している。ガイドさんが色々と説明してくれるのだが、人が多くてよく聞き取れない。仕方なく勝手に見始める。こんな田舎でも戦闘はあったようで負傷者の写真が飾られていたが、その中に若き日の胡耀邦もいたのは驚きだ。

 

あまりの人に押し出されて早々に参観を切り上げ外に出た。周辺を少しぶらつき、その後車で空港へ向かった。1時間ほどで空港に着くと、小さな空港なのでチェックインもスムーズで、フライトもオンタイムだった。行きは長沙経由だったが、帰りは桂林経由。桂林にも30年行っていないので降りたかったが、降りたのは空港までだった。

 

3. 福州2
福州に帰り着くと車で各人の住居まで送ってもらったが、張夫人は病院に直行していた。この貴州の旅がどのような意味を持つのかをちょっと垣間見る思いだった。私は先日の宿にまたチェックインし、疲れたので、魏さんの誘いも断り、一人で過す。夜は肉まんと肉団子汁で済ませる。部屋に戻ると、やはり一人は楽だ。早々にぐっすりと寝入る。