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ベトナム縦断茶旅2017(8)茶園から花農園へ

韓さんが茶葉を持ってきた。実は彼は夜中には茶作りをしないことにしている。殺青まで終えたところで、保管庫に入れて朝を迎える。それからその後の作業を日中に行うのだという。取り敢えず昨晩作っておいた茶葉を試飲している。この時点までの茶を飲むことはあまりないので、ちょっと新鮮だ。

 

8時に工場が開き、従業員が出社して、作業が始まる。見慣れた機械が並んでいる。ほぼ台湾から運ばれてきたものだ。枝取りなどは手作業で行われている。ここで働くスタッフの多くは、地元民ではなく、中部辺りから来た出稼ぎ者だという。ここの若者は、年1回の珈琲が終われば後は遊んでいるらしい。ベトナムもすでに無尽蔵に労働力がある時代は過ぎているらしい。コストも上昇している。

 

韓さんが車で茶畑を案内してくれるというので出掛けた。何とか雨は止み、霧も晴れてはいた。工場のすぐ近くに、茶園があったが、ここは観光地化しており、きれいな茶畑の中で朝から結婚写真の撮影が行われていた。この辺はフランス時代に茶樹が植えられ、紅茶作りが行われていたと聞く。一部に大葉種の茶樹、そして茶工場も残っているらしいが、今回は確認できなかった。

 

韓さんの茶園はここから少し離れていた。20年前に台湾から品種、金萱を持ち込んだという。金萱はどんな環境でも育つ強い品種で、ベトナムでもその力を発揮したらしい。ここで作られているのは台湾方式の高山茶だが、その茶葉は台湾とは少し違っている。そして作られた茶葉の多くは台湾に輸出されていた。だが最近は台湾での売れ行きがよくない。

 

韓さんは私を花園に案内してくれた。何と彼は茶葉の先行きに不安を覚え、花の栽培への転身を図り始めていた。ちょうど張さんの花が成功していたこともあり、それほど難しくなかったようで、今ではかなりの花を栽培していた。『ベトナム国内の消費が上がり、花はよく売れる。台湾に茶を出すより、儲かる』ということのようだ。ちょうどバイクで張さんも花園を見回りに来た。これからの方向性が感じられた。

 

ダラット散策
部屋に戻るとまだ朝9時過ぎだったが、韓さんたちは忙しそうだったので、タクシーを呼んでもらい、ダラットへ行くことにした。実に短い滞在だったが、多くのことを学んだ。帰りは来た道を戻っただけなので、あっという間に着いてしまった。韓さんに聞いた、安宿前まで連れて行ってもらった。

 

その宿は極めてシンプルだった。台湾人が紹介してくれたんだから中国語が出来る、華人経営だと思い込んでいたが、何と言葉はあまり通じなかった。宿代も10ドルちょっとと確かに安い。ちゃんとエレベーターもある。部屋は狭いが机がない以外、問題はない。午前10時でも部屋が使えてよい。

 

早々に部屋を出て街歩きを開始する。とにかく湖の方角へ行けばよいと思い進む。この街、狭い石段の坂を下っていると、既視感がある。どこかヨーロッパの街かと思いきや、韓国のインチョン辺りを思い出すのはなぜだろう、不思議で仕方がない。何となく地図も見ないで、目に付いた教会を目指す。

 

ダラット教会、1931年に着工されたフランス時代の教会。ちょっと高台にあり、下に街が見えた。教会自体の外壁はかなりきれいになっていたが、後ろの家には趣があった。そこから歩くと、ダラットパレス、という立派そうなホテルがあった。門番がいたので中には入らなかったが、きっと植民地時代の産物なのだろう。これまでスリランカやミャンマーなどの英国植民地をよく見てきたが、フランスもやっていたことは同じだ。

 

何となくダラット駅が見たくなり、うろ覚えの方角を歩き出した。AH20、この道がアジアンハイウエーかと思って歩いていたが、いつになっても到着する気配がない。その内上り坂がきつくなり、仕方なくスマホで位置を確認したところ、完全に道を間違えていたことに気が付く。ちょうどそこに長距離バスターミナルがあったので、そこでタクシーを拾い、駅へ向かう。

 

車を使えば、すぐに着いてしまう。だが車が駅に入ろうとすると、ゲートで入場料を払えという。何で駅に行くのにそんなものがいるのか、と言ってみても仕方がない。5000ドンを取られ、駅舎内に入る。ちょうど15分後に列車が出るとあったので思い立って切符を買おうとしたが、何と『15分後の列車は乗客不足で運行しません。次は2時間半後です』というではないか。これは一体どういうことなのか。

 

駅舎を越えると、そこには蒸気機関車と車両が停まっていたが、大勢の観光客が写真を撮っていた。そう、ここは観光用列車が走る場所だったのだ。駅自体が観光地、そして赤字にならなければ実際に運行するという感じだろう。中国人が多くいて、『2時間半後の列車に是非乗りたいので、あなたも一緒に乗りましょう』と呼び掛けられる。確かに多くの客はそんなに待てないので帰っていく。すると次に列車も運休になる可能性が高いので、必死になるわけだ。

ベトナム縦断茶旅2017(7)ガウダットで酔いつぶれる

11月14日(火)
朝の茶摘み

朝早く目覚めた。鳥の声もするが依然として音楽が響き渡り、作業が続いていた。本当に一晩中だから、大変だ。今日も天気がよいので、ちょっと散歩がてら、工場外に出てみる。そこには茶畑が広がっており、若者が4人で、茶葉を刈る準備をしていた。見れば日本製の中古機械。2人で刈るところ、4人で刈っており、効率が良いとは言えないが、人件費に負担が無ければ、この方が沢山刈れるのかもしれない。

 

部屋に戻ると、朝ご飯に麺が用意されており、皆で食べる。呉さんは相当疲れているようだが、食べないと体力が持たない。食後、もう一人のここの客人、張さんとお茶を飲む。彼は雲林の茶商で、ここに茶葉を買い付けに来ていた。聞けば、これまでタイ北部やベトナム北部にも何度も行っており、茶作りの指導をしながら、茶葉を買い付けてきたらしい。こういう人が台湾茶の製法を広めているのか、と非常に興味を持つ。今度雲林に彼を訪ねてみたいと思う。

 

朝摘まれた茶葉が運ばれてきた。日差しが強いのか、上の部分に覆いをかけている。かなり大規模だ。その光景が風景の中で何とも映えてきれいだった。昨日私を空港に迎えに来た人がトラックに乗ってやってきた。いよいよここともお別れだ。呉さんは部屋で寝込んでおり、記念写真も撮らなかった。バオロックへ行くという張さんも一緒に車に乗り込んだ。

 

ガウダットで酔いつぶれる
今日はもう一軒、紹介されている台湾人を訪ねることにしていた。こことは全く違う方向ということで、ダラットの街まで送ってもらい、そこからタクシーを拾うことにした。約1時間でやってきたダラットの街は、やはり高原の避暑地の感じがした。タクシーはすぐに捕まり、運転手に行き先を告げてもらい、彼らと別れた。果たしてちゃんとつくのかちょっと不安。

 

高原を上って行くが、今度の道は良かった。タクシーは結構スピードを出している。30分ぐらい走ると、車は横道に入り、すぐに工場の敷地内に入って停まった。門番に取り敢えず中国語を使ってみると、すんなり通してくれた。中から韓さんが出てきて迎えてくれた。こちらも台湾から来て20年、ここで茶業をしている。

 

まずは昼飯を食おう、と言われる。こちらの奥さんもベトナム人だが、出てきた料理を見てびっくり!からすみあり、たこ焼きあり。ここはどこだと思ってしまう。隣人の台湾人、張さんが合流すると、『酒を飲もう』となり、ウイスキーをロックでぐいぐい飲み始める。私にも少しだけ、と言って注がれてしまい、ちびちび飲んでいたら、これが効く効く!標高1600mの高地で、久しぶりの酒、それもかなりの濃度だからたまらない。

 

取り敢えず昼寝しよう、と言われ、部屋に案内され、バタンキュー!完全に熟睡してしまう。ふと気が付くと、周囲は暗くなっており、既に夕方だ。4時間ほど寝入ってしまっていた。茶旅を長くやっているが、茶工場まで来て、何も見ずに午後を過ごしたのは恐らく初めてだろう。何という失態。だがすでに外は真っ暗で茶畑にも行けない。工場作業も終了したようで、後悔しても後の祭り。今日はここに泊めて頂くことになる。

 

少し経つと韓さんが『行くぞ』と言って、車を出す。先ほどの張さんの家で夕飯を食べるというのだ。これでは何のためにここまで来たのか分らない。ただ食べているだけだ。車で5分ほど行くと、韓さんの自宅があった。基本的には工場に寝泊まりしているので、こちらに帰ることは少ないらしい。立派な家だ。その横に張さんに家があり、こちらも立派だ。

 

中に招かれると、ここがベトナムの山の中か、という豪華な内装。バーカウンターまである。張さんは花の栽培で成功しているという。部屋には胡蝶蘭なども飾られている。日本向けには百合を出荷しているとか。張さんは先日病を患い、今は歩くのが少し不自由だが、元気そのもの。『台湾に帰っても煩わしいだけだ。一生ここで暮らすよ』と屈託がない。確かにこの絶好の環境とビジネスがあれば、楽しく暮らせそうだ。台湾に戻る必要などないだろう。

 

牛筋の煮込みなど、うまい料理が出てきた。韓さんと張さんはまた酒を飲み始めたが、さすがに私は遠慮した。高級ワインなども出てきて、賑やかな夜だった。華人かくあるべし、という雰囲気が出ていた。二人ともベトナム語を話し、現地に溶け込み、奥さんやその家族とうまくやって、ビジネスを成功させている。

 

11月15日(水)
花農園

午睡をあれだけしたのに、午後9時にはまた熟睡した。高原の環境と酒の影響だろうか。翌朝はさすがに5時台に起きたが、周囲は完全に霧に覆われていて、視界はない。雨も降っているようだ。6時には皆で麺の朝ご飯を頂く。昨日もそうだったが、やはり朝は麺、なのだろうか。具がかなり豪華だった。

ベトナム縦断茶旅2017(6)ダラットの茶工場に泊まる

11月13日(月)
ダラットへ

翌朝は荷物をまとめて、下におり、そのまま朝食を食べた。例のおじさんは明るく挨拶してくれたが、昨日の件を謝るでもなく、私のためにオムレツを焼いてくれた。親切な人なのだろうか?それからお願いしていたタクシーに乗り込む。僅か12ドルで空港まで行ける。やはり初日の空港からのタクシーは高過ぎた。

 

今日はついにハノイを離れ、初のダラット行きだ。今回間違って10年前のガイドブックを持ってきてしまったが、そこにはハノイからダラットへの直行便は書かれていない。だがネットで検索すると今では日に何便も出ているではないか。しかもLCCすら就航しており、料金も数千円と安い。10年前ならバスで数十時間かかると書いてあるから隔世の感がある。簡単にネット予約できるのが嬉しい。

 

フライトはジェットスターにした。今一番勢いがあるのはべトジェットだと聞いたが、外資LCCの参入しているのが競争を促している。ジェットスターのカウンターには人も少なく、並ばずにチェックイン。数年前、べトジェットに乗った時は長蛇の列だったことが懐かしい。今では大幅に作業が改善されていると見える。乗客も慣れてきたのだろう。

 

昼食は出ないので、一応腹ごしらえをすることにした。5万ドンでフォーが食べられるというので入ってみる。Wi-Fiも繋がる。空港の料理はまずくて高い、が定番だったが、これも少し改善されている。こんなところにベトナムの進化が見える。荷物検査もスムーズで搭乗する。機体の広告がサントリーのTea+というのが面白い。

 

機内は満員、そして相変わらず、初めて飛行機に乗る人などが戸惑っている。この料金ならバスよりは高いが、普通の人でも乗ることができるので、飛行機利用者はどんどん増えているようだ。フライトは順調で何事もなく、2時間弱でダラットに着いた。降りる時の混雑ぶりは相変わらずベトナムだった。今や中国ではこんなに混乱しない。持ち込み荷物が多い(LCCはしっかり制限しているはずなのだが)。

 

3. ダラット
デコボコ道の先にあった茶工場

空港は小さかった。元々は単にダラットを観光する目的で予定を考えていたが、蔡君が『折角行くのだから、ダラットの茶農家を紹介します』と言って連絡を入れておいてくれた。空港には迎えの人が来てくれた。『タクシーの運転手でも道が分からないだろう』というのだ。一体どんなところへ行くのだろうか。

 

迎えの人は中国語が出来た。地元の華人だという。元は広東省から来た客家らしい。こんなところで客家に会えるとは軽い驚きだ。ダラットと言えば、林芙美子の『浮雲』の舞台。数十年前に読んだきりで内容も覚えていないが、フランスの避暑地というイメージが強く、そこに華人は登場しないだろう。

 

彼はこれから行く茶園を手伝っていたが、今は休みだという。基本的にこれまでは農業で生きてきている。それでも既に台湾他海外旅行には何度も行っているらしい。日本への旅行に非常に興味を持っており、次は行きたい、と意欲を見せる。ベトナムももうそういう時代なのだ。

 

ナンバンという地名が見える。途中までは普通の道路だったが、そこから先は舗装されていないデコボコ道!道の両側にはコーヒーが植えられているが、茶の姿は見えない。ちょっと腰が痛いな、と思った頃、ようやく茶工場に着いた。ここで呉さんが迎えてくれた。台湾人で20年前からここで茶作りをしているという。

 

茶工場で
呉さんはここでベトナム人の奥さん(迎えに来てくれた人の妹)と一緒にずっと住んでいる。『抜群の環境でここから離れられない』という。居間に招かれ、茶を飲み始めるが、すぐに工場のチェックに行くと言ったので、私も着いて行く。呉さんは非常に熱心に茶作りを考えていた。機械は全て台湾から持ち込み、茶の苗も台湾から来ている。いわゆる台式高山茶を作っているのだ。標高は約1100m。

 

そこへ午後に摘まれた茶葉がどっと入って来た。夕日の中で日光萎凋が始まる。何とも鮮やかな光景だった。ただこの茶葉は機械で摘まれ、茶飲料用に出荷されると聞く。『台湾で高山茶の売れ行きは落ちている。飲料用は伸びているので、そちらへの転換を迫られている』と説明される。確かに台湾の景気が悪ければ、即大きな影響を受けるだろう。飲料茶市場は台湾だけでなく、むしろアセアンに広がっており、そちらの市場があると考えても不思議ではない。

 

結局今晩はここに泊めてもらうことになった。お茶を飲み、夕飯を食べて、シャワーを浴びる。テレビは衛星放送で台湾の番組が映っている。台湾とあまり変わりがない生活が送れている。ただここまで来るには相当の苦労があったことだろう。私はその成果を享受している。

 

夜10時頃眠りに就いたがすぐに起きた。呉さんは工場で忙しく働いていた。起きた理由は大きな音楽の音。深夜の作業をするベトナム人のため、音楽を流しているらしい。結局この音は朝まで続き、何度か起きあがるとその度に、呉さんが働いている様子が見える。彼はほとんど寝ていないのだろう。

ベトナム縦断茶旅2017(5)変わっていくハノイ

タクシーを拾い、蔡君がハノイでお世話になっている家に向かった。広い道を通っていると、突然通行止めに遭い迂回した。そうか、今日はトランプ大統領が来るんだな。帰りに影響がないとよいのだが。その家がどこにあるかは分からなかったが、今はスマホで検索すればよく、タクシーの運転手に見せれば、訳なく到着する。路地を入っていき、小雨が降っていたがすぐに蔡君と合流できてよかった。新興住宅街を分け入っていく。

 

その家は団地の中にあった。自宅の向かいに友人が自由に出入りできる部屋があった。蔡君もそこに寝泊まりしているらしい。その脇に、ベランダを改造した実に心地よさそうな空間があり、そこへ招き入れられる。雨の音が何となくミュージックになる。そこに飼っているオームが音を合わせる。盆栽が置かれ、様々な壺が配置される。骨董屋さんにいるような気分になる。

 

ここで家主がお茶を淹れてくれ、同時にベトナム茶の歴史の話をしてくれた。彼はベトナム語しかできないと言い、こちらはベトナム語は出来ないので、蔡君が中国語に通訳してくれた。彼は非常に落ち着いた感じの文化人であり、日本にも興味を持っていた。自然農法の福岡正信について語り出したり、私が知らない青森のリンゴ農家の木村さんの話をしたりしている。現在のベトナムの金儲け第一主義に明らかに異を唱えている。ベトナム発展の陰で、こういう人々が出てきていることが、新鮮だった。ここに集まる人々はそういう意識を持っているのだろう。

 

お昼近くまでダラダラと話し込んでしまい、失礼した。ランチはここの近くのシンガポール料理屋に入る。蔡君の希望だ。新しい感じの店で、1-2階はカフェ、3階にレストランがあった。出てきた料理はシンガポール風チキンライスだったが、キムチがついていたり、海苔のスープが出てきたりと、どう見ても韓国風だった。恐らくはオーナーが韓国人で、ちょっと新鮮味を出すために、シンガポール風を名乗ったのではないか。

 

雨も上がったので、蔡君の知っている茶館へ向かう。散歩がてら30分ほど歩く。彼は昨日ベトナムの友人に連れて行ってもらったばかりらしいが、何と道に迷っている。ようやく見つけ出したその茶館は、何となくいい雰囲気の外観を持っていた。中に入ると低いテーブルが置かれ、皆床に腰掛けている。何だかとてもいい感じなのだが、お茶のメニューを見ると、ジャスミン系など、香り重視だった。

 

私はこういう場所でゆっくりとお茶を飲むことが出来なタイプだ。普通の緑茶を所望したが、何となく香りがついている。どう見てもここは若者がくつろぐ場所で、蔡君にはよいが私には不釣り合いだ。故意に古びた感じを出したりするのも今一つ馴染めない。早々に蔡君を残して失礼してしまった。

 

宿まではかなり遠いとは分っていたが、折角ハノイに来て、長距離の街歩きをしないのもなんだと思い、歩き始める。今では地図が無くてもスマホがあれば方向性は分かるので、それに沿って歩く。狭い路地を行くと、そこには寺があったので、入っていく。なかなか整った寺で趣があるが、ほぼ感じはないので寺の名前すらわからない。

 

大きな道路沿いを歩くと、車が多く、また暑いのでかなり疲れた。途中にロッテリアがあったので、入って休む。今では日本で見かけることが少ないロッテリアだが、ハノイではよく見掛ける。韓国系として幅を利かせているようだ。ここでもレモンジュースを頼む。ちょうど隙間の時間なのか、掃除が始まったのですぐに退散した。

 

結局1時間ほどかかって何とか宿に帰り着く。途中で見慣れた道を通る。ここは数年前に5泊ぐらいしたGHがある場所で、すぐ脇に線路があった。その先を行くと、初日夜中に蔡君に連れられてきたカフェがあり、ようやくその位置関係が分かって来た。やはり歩かないと何も分からない。

 

相当疲れたので、夜まで休む。夕飯は軽く済ませたいと思い、フォーの店を探したが、なかなか良い店に当たらない。数年前に『ハノイではフォーいえば牛肉だよ!チキンフォーなんて偽物さ』と言われた記憶が蘇り、牛肉を探したせいかもしれない。結局チキンになるが、地元民で満席の店であり、何とか席を確保した。そういう場所はやはり美味しい。

 

実は今朝、洗濯物をホテルに出しておいた。夕方6時にできると聞いていたが、6時に行くと『8時だ』という。まあ仕方ないかと夕飯の後再度取りに行くと、今度は言われていたより料金が高い。最初にここの宿に決めた時のおじさんは、実はかなりアバウトな人で、夜勤のにいちゃんも困っていた。大したことではないのだが、やはりちょっと気分を害する。

ベトナム縦断茶旅2017(4)ハノイ散策

フラフラ散歩しながら、帰る。午前中も通った教会、中に入ってみる。ハノイ大教会は高さが30m以上あるゴシック建築。フランスの統治が始まった1882年に着工されたというから古いはずだが、中は何となく新しい。改修でもしたか。おやつ代わりにバンミーを買って帰って食べてみる。久々に食べると何とも美味しい。だが値段は2年前と比べてかなり上がっているように感じる。

 

夜は10年以上のお知り合い、ズンさんが来てくれた。ハノイの有名店で食事をした。料理はどれも美味しい。ズンさんは日本企業の通訳などをしているが、最近は通訳依頼も多くなり、忙しいという。日本企業のベトナム詣でが続いていることを窺わせる。このレストランには中国人や韓国人だけでなく、世界中の人が来ている。ベトナムは今注目の国なのだ。

 

ズンさんと別れて、夜のホアンキエム湖を散歩する。ここは歩行者天国になっており、夜も3年前よりかなり明るくなっており、賑やかだ。お茶を飲む人々がいる。大道芸人が人気を集めている。静かな湖とは対照的だ。何だかちょっと前では想像できない新しいベトナムだった。

 

11月11日(土)
ハノイ散策

翌朝はゆっくり起き上がる。宿の朝食はトーストとバナナ、そしてお茶だけだった。何とも寂しい。食べる場所も特になく、適当な場所で食べる。今日は自由行動、食事を終えるとその辺を歩き回る。朝方は暑くないので、快適な散歩となる。今日は土曜日で、出勤する人の姿はまばらだ。

 

昼前に荷物を降ろして、宿を出た。昨日行った宿へ行くと、何と部屋は5階、エレベーターはなし。これは結構きつい。バスタブもあり、部屋も広いのだが、昨晩の宿と同様、机がない。これはかなりのダメージだ。Wi-Fiが繋がってもここで文字を打てないのは辛い。一々1階に降りていくのも大変だ。困ったものだ。

 

昼ごはんをどうしようかと外へ出る。食べ物は色々とあるのだが、これは、というものがない。結局昨日食べたにもかかわらず、またブンチャーを食べることにした。今日はブンチャー専門店だから、期待が持てる。お客も多く、満員の中、何とか席を見付けて座り込む。

 

予想通り立派なブンチャーが出てきた。肉も格段に多く、全体量が違う。野菜がふんだん、そして何と言ってもつゆがうまい。外国人もいるが、ベトナム人が多いのが特徴だろう。今やハノイの食と言えば、ブンチャーになってきているのかもしれない。オバマ効果、凄い。

 

午後は歩いて行ける史跡として、ホアロー収容所を訪ねる。外観はフランス時代のマンション。だが、ここはベトナム独立運動の志士たちの収容所だった。1930年代以降、多くに人々が捉えられ、拷問され、処刑された場所だという。足を繋がれ、狭い独房に入れられた人々の思いはどうだったのだろうか。展示品の数々を見ると心が痛む。

 

ベトナム独立後、今度はアメリカとの戦争が始まる。我々はこれをベトナム戦争と呼ぶがベトナムでは対米戦争だろう。その時に捕虜になった米兵がここに入れられていた。ホテルヒルトンと呼ばれていたとある。待遇は独立運動闘士とは全然違っていたのだろうか、それとも皮肉か。アメリカはベトナムで一体何をやって来たのだろうか。

 

 

ちょっと暑くなっていたが、何となく気分良く歩く。所々にある古い建物などを見ながら、またホアンキエム湖に出た。若い女性がアオザイを着て踊っていた。皆楽しそうだ。今やベトナムでもアオザイは普段着ではない。イメージとしてはチャイナドレスを着ておしゃれする中国人のようなものか。皆インスタ映を狙っている。そういえば今日は中国の独身の日。今日1日でどれだけの売り上げがあるかばかりが注目されている。

 

一度宿に引き上げると、外に出るのが辛い。暑いのもあるが、5階から降りてきてまた上がることを考えると躊躇してしまう。結局シャワーを浴びると夜腹が減るまで動き出せない。またフラフラ歩いていると、鶏と目が合った。今日はこれだな、と指さすとおばさんがすかさず作り出したが、鶏肉麺にしようとしたので、それを制して、鶏肉ご飯にしてもらう。いつも麺なので、たまのご飯は美味しい。

 

夜のハノイの繁華街、かなり賑わっており、どこの食堂も満員だ。食後少し散歩するとまたのどが渇く。私のお気に入りはレモンジュースなので、ジュース屋さん?に入って、注文するもなかなか通じない。値段が安いからか、メニューにも載っていなかったらしいが、無事にゲットして一休み。

 

11月12日(日)
茶の道

翌朝は雨が降っていた。8時頃下に降りていくと、白人ばかり数人が朝ご飯を食べている。トーストとフルーツがあり、キッチンには卵とフライパンがある。既に卵は溶かれており、自分で調理するのかと思い、卵を焼いて食べた。翌日気付いたのだが、ここのおじさんが注文に応じて調理するべきものを、接客でいない間に私が勝手に食べてしまったらしい。まあここの朝ご飯は合格だろう。

ベトナム縦断茶旅2017(3)宿替えと国家図書館

帰りは方向が違う蔡君と別れ、一人でタクシーに乗り宿に戻った。特にアプリなどなくても支障はない。夜は大学同窓のNさんが来てくれ、近所の懐かしいベトナムレストランで美味しく食事をした。話を聞くとベトナムも色々と変化があるなと感じる。その中で日本の立ち位置はちょっと微妙だ。

 

11月10日(金)
宿替え

実は今の宿はとても気に入っていたのだが、ネット予約を2日しかしていなかった。一応泊まってみてから延泊を決める作戦だ。だが今回はそれが裏目に出た。いい宿は人気があり、埋まってしまう。この宿もそうだった。何度か聞いてみたが、どうしても満員で延泊は不可だという。

 

理由はハイシーズンだから。確かにハノイはそれほど暑くない、良い季節を迎えてはいた。因みにちょうど時を同じくして、トランプ大統領、習近平主席、安倍首相がAPECの会議でベトナムを訪れていた。その影響でもあるのかと思ったが、会議の場所はダナンだった。ただその後トランプはハノイ来るのだがやはり関係ないだろう。因みに私が先日成田に降りた時、トランプの娘が同時刻に到着した。その後私はソウルを経由したがちょうどその日にトランプはソウルから北京へ行った。何だか追いかけっこのようだ。

 

今日宿をうつらなければならいので、探しに出掛ける。この狭い路地にも数軒の宿があるので聞いてみたが、何と全て満室だという。驚くべきことだが週末が掛かっているからだろうか。ちょっと広い道へ出て最初に目に付いた宿に入ると、愛想のいいおじさんが英語で話してくれた。

 

『今日は空いてないが、明日から2泊は大丈夫だ!よければ今日だけ別の宿を紹介するから、合計3泊でどうだ』というオファーだった。ちょうど後3泊ハノイにいる。宿を探すのも面倒なのでその話に乗っかってみる。今日の宿は少し離れていると言い、おじさんがバイクで運んでくれた。その場所は昔も恐らく来たことがあるバックパッカーが一番多い通りだった。

 

宿のおばさんが『あと1時間したら部屋が使える』というので、まずは両替しようと銀行の場所を聞くと『ここで両替できる』と言っておしえてくれない。仕方なく自分で探しに行き、両替する。何とも不親切な宿だ。銀行も両替に慣れておらず、凄く時間が掛かる。レートもよいのかどうかは分からない。

 

それから周囲を散策した。道端では相変わらず低い椅子で茶を飲んでいる。ハノイの茶文化だ。この風景も段々少なくなってきている。若者は台湾系の貢茶などのチェーン店に行くらしい。暑いのにクーラーがないのはだめだというのだ。立派な教会もあった。結婚写真を撮るカップル、ベトナムで大流行りだ。

 

1時間後に宿にもどってみると『掃除が済んでいないからあと1時間後に来て』と言われる。さすがにそれはないだろう、というと、しぶしぶカギをくれる。4階まで上がるのにエレベーターはない。こちらは1泊25ドルもするので、前の宿の良さが分かる。まあ今日部屋が空いているということがこの宿の評価なのだ。掃除している部屋を確認して、すぐ下におり、元の宿へ帰った。

 

荷物を持って新しい宿に転居した。そこへ蔡君がやって来た。ランチを食べようと外へ出る。途中の店を覗くと、ブンチャーの文字が見えたので入ってみる。私の一番の好物だ。後で気付いたのだが、ハノイの街にはブンチャーの表示が格段に増えていた。何故かと思ったら、昨年オバマ前大統領がハノイを訪問した際、庶民的な店でブンチャーを食べたのが評判となり、店が急増したらしい。

 

飯を食って歩き出す。目指すのは国家図書館。ここからは遠くなので歩いて行く。だが蔡君は『食後の珈琲を飲むのがベトナムの習慣だ』と言い、カフェを探して入る。確かにどこにでもカフェがあり、多くの人が珈琲やお茶を飲んでいる。ちょっときれいな店に入ると、何とタイ式茶まで用意されていて驚く。ある意味、ベトナムはアセアンの急成長株、消費拡大を狙って各国企業がやってきている。

 

図書館は非常に環境の良い、フランス時代の建物であった。しかも今年がちょうど100周年の記念の年。フランス植民地時代のベトナムに関する知識は少ないので、この辺の設立経緯は分からないが、こういうところに歴史的な資料が沢山保管されていて欲しいものである。

 

蔡君もハノイに来て1週間、初めてここに来た。我々はよく分からずに、建物に入っていき、本のある場所を探した。4階まで上がると、閲覧室があり、本も置かれていたが、そこで閲覧している人の数が少ないのに驚いた。東京でも台北でも、週末の図書館と言えば、相当混んでおり、座る席など見つけにくいのが普通であるが、一般のベトナム人は本など見ないのだろうか。

 

本を閲覧しようとすると係に止められた。入口のところで登録した人のみ、閲覧が許されるというので、振出しに戻る。蔡君が登録しようとすると、登録料12万ドンを要求される。なるほど、だから人が少ないのだ。もし無料なら大勢の人が来てしまうのを防いでいる。蔡君は登録したが、一介の旅行者である私は遠慮して図書館を後にした。

ベトナム縦断茶旅2017(2)喃漢研究院、そしてカフェに閉じ込められ

2. ハノイ
深夜のミーティング

その宿は小さかった。ただ6階の部屋までエレベーターがあったので大いに助かった。夜12時過ぎなのに、宿の人は寝ずに待っていてくれた。そしてそこには蔡君の姿もあった。実は空港に着いた時、彼から連絡があり、宿で会おうと言われていた。確かに明日以降の予定を話す必要もあったので、夜遅いが顔を合わせることにした。

 

宿から10分ちょっと歩いたところにおしゃれなカフェがあった。そこには深夜にも関わらず、ハノイの若者たちが大勢屯していた。おじさんにはちょっと場違いな感じだが、蔡君もいるのでまあいいか。お茶のメニューを見ると、ベトナム茶か、リプトンティと書かれている。ベトナム茶とは緑茶を指し、リプトンは紅茶を指す。なかなか面白い。

 

蔡君と別れて、人通りの絶えた夜中の道を一人で宿へ戻る。ちょっと怖いし、道を間違えたら大変だと緊張する。でも今やスマホがあるから、何とでもなる。宿では私がカギを預けているので、先ほどの男性はまたもや私の帰りを待っていた。この宿1泊僅か17ドルなのによくやってくれるな。

 

11月9日(木)
喃漢研究院へ

部屋の窓がないので雨が降っていることに気が付かなかった。ちょっと腹が減ったのでどうしようかと思っていたが、何と17ドルの宿にも朝食がついていた。いや宿によれば、『料金を値下げしたので本当は朝食なしのはずだが、Booking.comではまだ朝食が表示されているらしいので、食べていいよ』という。トーストと卵とバナナ、そしてお茶なのだが、それでもこの料金にしてはちゃんとしていて驚く。宿泊客も西洋人、中国人、華人など様々で面白い。

 

元々7時半頃と言っていたが、結局蔡君は9時過ぎにやって来た。雨はかなり強くなっている。路地から大通りへ出て車を拾うかと思いきや、スマホを取り出し『ハノイもアプリで呼ぶ』とタクシーを待った。だが皆が傘を差す中、なかなか車が見付からず、電話で位置を確認している。これでは外国人は言葉の問題から使えない。何とかやってきた車は小型車で、全くの自家用車。料金は中国と違って現金で払える。

 

雨のせいか道路は結構混んでいた。旧市街から少し離れた立派なビルの前で車を降りる。ここがベトナム社会科学院だった。中国と組織体系が同じなのはやはり社会主義国だ。だが中に入ろうとすると門番に止められ、なんと目的地はここではないと分かる。もう一度車を呼び、また乗り込む。数キロ離れた場所にあったそこには喃漢研究院という文字が書かれていた。ここがベトナムにおける中国系の研究所なのだ。

 

古びた建物の中に入ると、漢字で書かれた軸が沢山飾られていた。漢字が追放されている?ベトナムでは何とも奇妙な雰囲気ではある。2階に上がり、ある研究者の部屋に招かれる。彼は台湾に5年留学して博士をとった人であり、中国語は問題ない。これがベトナムの伝統的な緑茶だと言って、中国の急須で非常に濃いお茶を淹れてくれた。濃いのだが、ちょっと甘みがあり、悪くはない。

 

今回の私の目的はベトナム茶の歴史に関する資料集めだが、やはり彼も開口一番『資料は殆どない』と言い、僅かにあるベトナム語の資料を蔡君に見せている。『台湾とベトナムのお茶貿易の歴史ということなら、研究者はいるのではないか』とも聞いてみたが、歴史研究者は極めて少なく、貿易史をやる人などいない、一蹴されてしまった。

 

『1930年代に台湾から大量の茶がベトナムに輸出されたという資料が台湾側にはあるが?』と問うと、それはフランス植民地時代の話だから、恐らくその関係の資料があるとしてもパリではないか。フランス語が読めるなら探してみては、と言われて断念した。ベトナム人は現在とにかく目先の利益を考えており、歴史を顧みる余裕などないと言われれば、もうそれまでだ。

 

お昼は近所の麺屋に連れていってもらった。緑色した麺、ちょっとドロッとしたスープ、よくわからない魚、でもなぜかとても美味しい。店内が常に満員なのも頷ける。この麺の名前を失念してしまったのは残念だ。次回も是非食べてみたいのだが、どこにあるのだろうか。もう一度研究院に戻ったが、用事は済んでいたのですぐに失礼した。

 

カフェに閉じ込められる
午後は蔡君の知り合いのカフェへ行く。住宅街の一角にあるおしゃれなところだった。ちょうど数人が打ち合わせをしていた(後で聞くと彼らは茶業関係者だったので一緒に話せばよかったのにと言われ残念に思う)ので、2階に上がる。オーナーはまだ来ていないらしい。何となく疲れたのでリプトンティを飲みながら、まどろんでいた。それほど心地よい空間だった。

 

気が付くと1時間ほど経っており、階下の様子を見に行って驚いた。誰もいない上に店のドアは閉まっていた。そして何と外から鍵が掛けられており、出ることは出来ない。完全に閉じこめられてしまった。店員は我々の存在を忘れて帰ってしまったのだろうか。蔡君がオーナーに連絡を取るも、繋がらない。絶体絶命のピンチ!2階の窓からの脱出も難しい。

 

まあこうなってはジタバタしても仕方ない。軟禁されている訳でもないので、自由にまどろんで過ごす。結局オーナーはそれから2時間後にやってきて我々は解放された。いや本来の目的である彼の茶を味わった。ベトナム茶と言ってもタイグエン県の濃い緑茶だけでなく、北部では黒茶も作られており、また紅茶もあり、南部の高山茶まで幅広い。実に様々な種類を味わい、またオーナーの語るお茶の歴史を聞いて参考にした。

ベトナム縦断茶旅2017(1)ステーキを食べてながらハノイに着くも

《ベトナム縦断茶旅2017》  2017年11月8日-11月22日

 

2年ぶりにベトナムへ行こうと思った。その理由は2つ。1つは台湾拠点の私の周囲には驚くほど多くのベトナム人がいたことだ。数十万人とも言われる台湾在住ベトナム人、その国はどう変わっているのかを見たくなった。そういえば東京の奥さんが日本語を教えているのだが、そこに来る留学生もベトナム人が急増しているらしい。

 

もう一つは台湾で知り合った蔡君の存在だ。彼は台湾人とベトナム華僑との間に生まれたハーフであり、今大学院でベトナム文化、特に茶文化を研究している。その彼が6か月間ベトナムに滞在して研究するというので、ベトナム語が出来る彼を頼ってみようと思った次第だ。さて、結果はどうだったろうか。

 

11月8日(水)
1. ハノイまで
アシアナ航空で

今日は成田発の午後便に乗る。朝の通勤ラッシュを避けるためにはどうすればよいか、色々と考えたが、まずは各駅停車に乗ることにした。8時台でもやはりそれほど混んでいない。先月の台北行きより時間も遅いので、ゆっくり進む。空港に着くとちょうど11時、搭乗口近くで突然『ムンバイ行き』というアナウンスを聞き、なぜかどうしても行きたくなり、その場でPCを開いて、来年2月のムンバイ行チケットを予約してしまった。衝動買い、何とも珍しいことだ。

 

今日はアシアナ航空でインチョン経由ハノイへ向かう。実はベトナムへ行くならベトナム航空が一番安いと思っていたのだが、ネットで検索すると思うような安い価格が出て来ず、その次に安かったのがアシアナ航空だったのだ。韓国とベトナムは、経済的にも強い結びつきを持っており、相当に往来が多いと見え、便数も多い。

 

LCCと違い、アシアナの機内はきれいでちょっと広かった。機内食も美味しく満足した。だが機内プログラムの音楽と映画はどうだろう。日本の物も中国の物も殆どなかった。基本的に韓流、完全な国策だ。コンテンツは強いのだろうが、ここまでやるか。まあ私は寝て過ごそう。フライトは2時間ちょっとでインチョンへ。

 

空港は相変わらず広かった。随分歩いてようやくトランジットのチェック場所へ着く。そこでもちょっと並んで潜り抜ける。やはりインチョンをハブにするのは、未だに続いているようだが、最近は北京や上海などの追い上げで、どの程度伸びているのだろうか。まあ東京などは全く勝てない感じだ。

 

夜のハノイ行きは少し遅れた。まあ仕方がないと待っているとよいことが起こる。何とビジネスクラスにアップグレードされたのだ。何年ぶりのことだろうか。旅行社によれば、アップグレードの基準はいくつかあるが、同条件ならチケットの値段が高い方が優先されるという。私は常に相当安いチケットしか買ってこなかったから、もうアップグレードなどないと思っていたので、何とも幸運だ。いや、もしや高いチケットを買ってしまったのだろうか。

 

ビジネスクラスのシートは広い。夜で辺りも薄暗いのですぐにでも寝落ちしそうになった。だが折角だから夕飯は食べようと思う。実は昨日、どうしてかはわからないが、急に『ステーキが食べたい』と口走っていた。まあ、偶にはそんなものを食べることがあるだろうかと思っていたのだが、何と今目の前にそのステーキが置かれている。夢はかなうものだな。

 

ビジネスクラスの客は殆ど韓国人、それも見た感じ、中小企業の社長などに見える。やはりベトナムへの商売のため、出張で乗っているのだろうか。日本のエアライン同様、そういう客へのCAの対応は実に細かい。私のような外国人に対しても親切ではあるが、英語がうまい訳でもなく、何となく国内線を感じさせる。

 

後は寝ていた。さすがに快適だ。出来れば帰りのフライトにしてくれれば、夜行便だから更に助かったのだが、などと贅沢は言っていられない。フライトは遅れた分だけ遅れ、何とかハノイ空港に到着した。イミグレでは何のチェックもされず(帰りの航空券を準備したのに)、すんなり出られた。スマホシムも夜11時でも簡単に買えた。この辺は極めて便利だ。

 

後は予約したホテルに行くだけだ。ハノイのタクシーではこれまでかなり気を使ってきている。今回も事前にネットで調べ、良いタクシー会社をピックアップしてあった。タクシー乗り場へ行くと客はおらず、タクシーは沢山いたが、その中からタクシーグループをコールすると、ちゃんと前に出てきてくれた。これで一安心と思ったが、以前とは何だかルートが違うような。

 

かなり不安となった。深夜の道だ。どうしてよいかわからない。このタクシーは大型で料金もどんどん上がってしまう。最終的には何とか目的地に着いたが、細い路地にある小さなホテルだった。運転手はお釣りを返そうとしないので、きちんと要求して取り戻す。何となくいや感じでハノイ滞在は始まった。

香港つかの間茶旅2017(3)学生時代に戻った気分で

そのままセントラルへ行き、スターフェリーに乗った。まだ夕方で夕日がまぶしい。何だかんだ言っても、一度は必ず乗るのだ。観光客が大半を占める中、わずか10分にも満たない船旅は波に揺られて、心を揺らす。両岸の風景も時々変わっており、香港の現在を映し出す鏡のようで、その変化が楽しい。

 

今晩はフェリー乗り場のすぐ先のホテルで林さんと会うことになっていた。場所は問題なくわかっていると思い込んでいた私だが、ショッピングモールの中に入り込んでしまい、迷子になってしまう。一度迷うとこれは困る。そのホテルの名が表示されたり消えたり。最後は仕方なく人に聞いてみて、一度道へ出ないとホテルに入れないことがようやく分かった。

 

大汗をかいて遅刻した私を林さんは温かく迎えてくれる。今日は初めて奥さんにも会った。3人で立派な和食の店に座る。そして奥さんに好きなものを頼んでもらい、それを食した。いきなり寿司が出てきたり、うどんが出てきたりする。こういう経験は日本人ではできないので、何とも興味深く、そして美味しく頂いた。お酒を飲まないので食事は早くに終わり、別れた。ご馳走様でした。

 

帰りも又スターフェリーに乗る。今夜も夜景がきれいだ。なんとも贅沢な時間を過ごす。初めてこの光景を見たのは今から30年も前のこと。やはり香港にはこんな夜景が似合う。香港は如何に変化してもやはり香港だ、と思うと同時に、目に見えない大きな変革に晒された香港の将来にちょっと思いを馳せる。

 

8月21日(月)
広州へ

翌朝も早めに起きて、宿をチェックアウトして香港大学へ向かう。昨日のリベンジだ。平日の朝8時の地下鉄はさぞや混んでいるだろうと、荷物を宿に預けて、乗り込んだが、思いのほか混んではいなかった。今や香港島は通勤の主流ではないのかもしれない。やはりあっという間に到着する。

 

8時半には図書館に着いたが、ビジターは9時に受付で登録しないと、入ることは出来ないという。この30分はもどかしい。9時になり、登録にも手間取ったが、無事に館内に入り、時間が無いので、最初からデスクに検索相談に行く。丁寧に検索をしてくれたが、やはり資料はそう多くない。それでもいくつか見つけ出し、備え付けのPCでそれを見て、必要部分はコピーした。決済はオクトパスカード。日本の大学だと、こんなに便利だろうか。

 

用事を済ませると、すぐに宿に取って返し、荷物を引き取り、バス停へ。ホンハムへ行くにはトンネルを越えるバスが一番早い。向こう側へ着くと、今度はMTRに乗り換え、待ち合わせ場所の駅へ急ぐ。初めて降りたその駅でKさんが待っていてくれた。彼と会うのは何年ぶりだろうか。

 

駅近くのショッピングモールに入り、レストランを探す。結構人がいるのでビックリ。何とか席を確保して、料理を頼み、話し始める。実は彼とは31年前、上海留学が一緒で、大学も1年後輩という関係。最近彼が実家からその当時の写真を掘り出してきて、FBに上げたのだが、その中の1枚に私も写っていた。和平飯店の前で4人して写っているのだが、後の二人は誰だろう。一人は大学の先輩で、今は某大学の教授だという。ただもう一人の女性に心当たりがなかったのだが、これもFBの力。やはり後輩だと分かる。そんな昔話をするつもりだった。

 

ところが話が『私は今台湾の埔里に拠点がある』というと、彼が食いついてきた。埔里とはどういう意味か、タイのチョンブリのブリ、マレーシアのジョホールバルのバルと同じ意味では?などと畳みかけられ、更にはタイから中国広西、そして沖縄まで話が飛んでいく。彼は香港で言語学を教えており、まさにそんな研究をしているらしい。私はお茶の歴史を勉強しているのだが、よもやこんなところでお互いの学習がクロスするとは信じられない。

 

二人して夢中で話した。料理のことも覚えてはいない。隣のおばさんがやけに大きな声で話しており、煩いと言ってしまうほど、自分たちの話にワクワクしていた。こんな感覚は最近滅多にない。いや、まるで学生時代のノリなのである。お互いいい歳になったが、こんなふうに盛り上がれるとは、興味のある分野があるというのはよいことだと再確認した。

 

あっという間に3時間近くが経過していた。香港のレストランはランチがそのまま下午茶になるので追い出されないので、気が付かなかった。とても名残惜しかったが、Kさんと再会を約して別れた。そしてまたMTRに乗り、国境へ向かう。何十回も通過した羅湖。以前ほどの人の数ではない。国境を越えると、駅に向かい、切符を買う。ここから広州までは僅かな時間だ。急ぐ旅ではないが、早く着きたい!

香港つかの間茶旅2017(2)郭春秧を追って

銅鑼湾まで戻ってくると、実に様々な国籍、肌の色の人々が行き交っていて面白い。その中で何やら路上で展示が行われていた。よく見てみると、『釣魚台は中国領土』という幟が見える。展示は香港人の活動家が、尖閣諸島に上陸した時に写真のようだ。香港は日本びいき、などと思っていると、実は色んな人がいるので注意が必要だ。

 

夜まで部屋で休み、また出掛けて行く。今度は地下鉄で旺角だ。少し早く着いたので女人街でも見学しようかと歩いて行くと、道の両側に楽器やカラオケを並べて、歌ったり、演奏したりしている人たちがいた。以前はなかったように思うのだが、いつから、何のために始まったのだろうか。憂さ晴らしなのか。

 

今晩は香港研究家のK夫妻と食事することになっていた。そこにYさんとOさんも参加したので、まるで10数年前の香港滞在時を思い出すメンバーとなり、話は当然昔話が多くなる。今の香港、問題が多過ぎて、聞けばいくらでも出てくるだろう。本来なら現在の香港情勢について解説してもらう良い機会なのに、何となく昔の風情を残すレストランで、リーズナブルな値段で美味しいものを一杯食べて、楽しく過ごしてしまう。それでよいのだろうか、きっとよいのだ。

 

8月20日(日)
香港大学へ

今朝は香港大学へ行くことにしていた。今や地下鉄で行けるので、銅鑼湾から30分はかからない。何と便利になったのだろう。香港大学は数年前に大きく拡張されたが、駅はそのちょうど真ん中にあるようで、エレベーターを登っていくと、中間に出た。今日の午前中は、茶の歴史関係の調べ物で図書館に籠るつもりである。そのためにN先生に許可まで取ってもらっていた。時間がもったいないので午前9時の開館の時間に到着する。

 

ところが、何と日曜日は休館だったのである。その昔この大学にお世話になったことがあるが、確かに日曜日にここに来ることはなく、全く想定外の出来事だった。しばしボー然と立ち尽くした後、仕方なく、懐かしいキャンパスを歩いて見る。昔からある建物はやはり昔のままの風情を残しておりよい。

 

そこへ茶縁坊の高さんから『いつ来るんだ?』とメッセ―ジが入って来た。彼女もついにスマホを使いだしたのだ。当初は午後行くと伝えていたのだが、この状況が分かっているかのように『早く来い』と言ってくるのが、何ともおかしく、そして有り難い。すぐさま地下鉄で上環へ戻る。

 

高さんと再会し、お茶を飲み始める。息子もやってきて、いつものようにお茶の話から香港の話まで、しゃべり続ける。するとそこへいつもはいないご主人までがやって来た。彼は平日他の茶荘で、茶師としての仕事をしている。その彼が何と、私が安渓の張さんの家で大好きだった、炊き込みご飯をわざわざ作って持ってきてくれたのだ。彼はあの張さんの弟、昔からあのご飯を食べていたことがよくわかる。それにしても、何よりのご馳走だ。本当にありがたい。

 

春秧街
午後はまた地下鉄に乗り、北角へ向かう。今回の台湾茶調査の目的、それは南洋の4大砂糖王の一人、郭春秧について調べることであり、彼の名前がついている道、春秧街にも行ってみることとした。その昔、1-2度は行った場所である。何しろそこはトラムの終点の一つだから、馴染みがある。

 

その道を相変わらずトラムは走っていた。あまり広くないその道の両側には乾物屋などの商店が並び、更には服などを売る露店がせり出しているから、トラムはそこを抜けていくことになる。歩いている人の中にヒジャブを被っているインドネシア系と思われる女性が多くいた。

 

郭春秧がここで開発を行ったのは1920年代からであり、最終的に住宅を作ったらしい。そして第二次大戦後は福建からの大量の移民がここになだれ込み、一時は『小福建』とも呼ばれるほどだった。更には最近ではインドネシア系出稼ぎ者が住む街としても知られており、郭春秧が福建出身のインドネシア華僑だったことを考えると、とても偶然とは思われない繋がりがある。だが現在それを示すものは道路標示以外何も見当たらない。勿論茶荘などもなく、香港で包種茶が商われていた形跡も発見できない。

 

謎は深まっており、このモヤモヤを何とか解決したい。その思いでバスに乗り、中央図書館を目指した。ここはビクトリアパークの横にあり、私が10数年前に住んでいたところにほど近い。日曜日の今日、やはりインドネシア人が楽しそうに公園を占拠していた。昔よりもその数は増しているだろうか。

 

図書館には以前何度か来たことがあるが、オープンで立派なところである。勿論日曜日の午後、人は多い。そこをかき分けて人名で検索を掛け、参考になりそうなものを探した。だが驚いたことに、春秧街という道の名は香港人なら誰でも知っているのに、肝心の郭春秧に関しては殆ど知られていないことが分かった。

 

何故だろうか。如何にも研究対象になりそうな人物だと思うのだが。資料として出て来たものは、大体どれも同じ内容のコピペであり、また道についての動画だったりするだけ。郭春秧という人物について研究されたものは全くなかった。何だかとても残念な気分になり、図書館を後にした。