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広東・海南大茶旅2017(2)英徳紅茶の歴史を学ぶ

8月23日(水)
英徳へ

翌日午前8時にチェックアウトした。今日は英徳に連れて行ってもらえるので、広州茶文化協会の張さんを待った。車で来るというので、荷物をそこに乗せ、今晩広州に帰った時に、ホテルを移るのにちょうどよいと思っていた。車は広州市内の渋滞を抜け、高速道路に入った。思っていたよりも交通量が少なく順調で、拍子抜けだ。

 

英徳は市であり、その中にまた英徳村があった。英徳市までは約2時間、そこから更に30分ほど走り、目的地に着いた。そこは農村と言った感じだったが、立派な建物があった。広東省農業科学院茶葉研究所だ。広東省の研究機関がこんなところにある、それは英徳が広東省の茶業中心であることを雄弁に物語っていた。

 

中に招き入れられ、色々と説明をしてもらった。1960年前後に作られたこの研究所では、当初から現在流行りの紅茶、英紅9号という品種が開発されていたらしい。ただ当時の紅茶はほぼ輸出用であり、すぐにCTCが採用され、リーフはごく一部だったようだ。そしてこの英徳という地は客家が多く住み、昔から緑茶は作られていたことなども分る。昼ご飯も研究所の食堂で、新鮮な野菜、ここで飼育された豚や鳥を頂く。当然美味しい!乗ってきた車は返してしまい、また帰る時に呼ぶというのが今の中国らしいが、私の大きな荷物は結構邪魔で大変だった。

 

それから研究所のすぐ近くにある茶工場を見学した。1957年に建設されたという紅旗茶廠、何と文革中のスローガンがレンガの壁に残されており、古めかしさを感じさせる。建物内部は天井が高く、当時の製茶機械も多く残されていた。歴史を感じさせる場所で、70年代からこの工場で働いていたという人に話を聞いた。話していると声がこだまする。英徳市の茶業協会の人たちも来てくれ、色々と便宜を図ってくれた。

 

事務所でお茶を頂いていると、目の前に華僑茶場と書かれたペナントが掲げられていた。何と中越戦争で帰国したベトナム華僑がこの農場に配置され、茶作りをしていたというのだ。ただ90年代には中国紅茶の輸出は厳しくなり、生産は減っていく。そしてつい最近、英紅9号というブランドが知られるようになり、英徳紅茶は復活した。因みにこの農場は1950年代には右派、60年代には文革の知青、そして80年代には華僑と、実に様々な人々が働いており、まさに現代中国史の一つの縮図のような場所であった。

 

次に向かったのは小さな村の中にある茶工場だった。老一隊、という如何にも軍隊の名前がついている。生産第一大隊、ということだろうか。紅旗茶廠同様、五七幹部学校、文革中は知識青年の下放の場でもあったという。今は民営化しているようだが、やはりその歴史はすさまじいと言える。

 

ここは何と中国の航空宇宙方面と合作して、英紅9号を30株、宇宙に持っていくという実験を行ったことで知られていた。そしてうち4株が見事に生育しているその現場を見ることができたのは何とも幸運。葉っぱは通常の物より大きくなっており、これは宇宙と地球の環境の差から生まれるもの、なのかもしれない。それにして茶が宇宙に行く時代とは驚きだ。

 

最後に郊外の観光茶園に向かった。山の中にきれいな建物があり、小雨の中、テラスで優雅に茶を飲むことができた。近くには茶工場もあり、紅茶生産の現場を見ることもできる。近くの宿泊施設に泊まり、自然環境の中で過すというコンセプトのリゾートとしての開発が行われている。近場では温泉も出るらしい。

 

その後雨が止み、茶畑へ行くと、茶の葉が元気に伸びてきていた。ここには中国企業の看板が多く見られる。各社がお金を出して自社の宣伝を兼ねて、茶園を保有する形態をとっていた。エコとかCSRとかいう言葉が中国でも聞かれて久しい。自社のイメージアップ、そして実際に収穫・生産された茶葉をお客などに配る、如何にも中国老板が考えそうな手法をうまく取り入れている。

 

帰りはまた高速道路に乗る。広州市内まで来るとさすがにかなりの渋滞、しかも雨。それでも何とか今日の宿、沙面の勝利賓館に辿り着く。ここは前のホテルよりはかなり格が上で、料金も高い。有名なホテルだった。ただ昔の面影はなく、90年代に全面改装されているので、歴史的ホテルと言った雰囲気はあまりない。

 

夕飯はホテルの近くで張さんたちと食べる。沙面もどんどんオシャレになり、きれいなホテルやレストランが出来ている、ライトアップもきれいで、観光客も多い。部屋に戻ったが、何とここでもFBに繋がらずお手上げ。ついにトミーに泣きつくと、彼が別のアプローチを教えてくれ、その夜3日ぶりに下界と連絡がついた。何と面倒なことだろうか。何とも面倒でやり切れないが、フカフカのベッドで寝ることができたのは幸せ。

広東・海南大茶旅2017(1)広州の茶空間へ

《広東・海南大茶旅2017》 2017年8月21-29日

 

紅茶産地の旅を続けているが、そろそろネタも尽きてきた。ちょうど連載は1年で終了と言われたのでホッとしながら、最後の2か所をどこにしようかと迷った。広州に行きたいと思っていたので、広州から近い英徳、更には海南島へ渡ることを考えた。どちらも4月に貴州省へ行った時、出会った人々がいたので、行きやすい、ということもあったのは事実だ。

 

広州は毎年のように来ているが、海南島は2009年以来だろうか。しかも海口となれば、2000年以来かもしれない。いずれにしても随分と変っていることだろう。その変化も楽しみに旅を進めることにした。

 

8月21日(月)
広州の宿

広州東駅は相変わらず混みあっていた。そこから地下鉄に乗り、東山口駅で6号線に乗り継いで、文化公園で下車して、本日の宿に向かう。何となく蒸し暑い中、荷物を引いて道路を歩くのは大変だ。道も狭い。最後には陸橋まであり、難儀した。その陸橋の上を高架道路が走り、その横にへばりつくように、その宿は建っていた。

 

新亜飯店の入り口は何となく薄暗い。フロントまでも薄っぺらい感じ。ここは1926年に労働学院があった場所と書かれているが、当時の共産党は何をしていたのだろうか。予約はしてあったものの、最近ではパスポートを出すと断られるケースもあったので警戒したが、すんなりチェックイン出来た。横では中東系と思われる男が相当訛りのある英語でバスの乗り場を聞いていたが、フロントの女性も非常に上手い英語対応をしており、相当慣れている感じだった。

 

4階まで上がると廊下も広く、80年代のにおいがした。部屋はかなり広く、ベッドが二つ、昔風なので驚いた。クーラーの効きもよく、特に問題はないと思っていたが、ネットは繋がるもののなぜかFBなどへのアクセスが出来なかった。まあ時間が経てば治るかと思い、夕飯を食べに外へ出た。

 

今や中国有数の大都市となっている広州だが、この付近はまだかなり庶民的な店が残っていた。おまけにうちの宿も含め、この付近には中東やアフリカ系のバイヤーが多く宿泊するらしく、インド料理やムスリム料理の店まで並んでいた。ここが雑貨市場に近い、とはそういうことだったのだ。だが結局チェーン店の定食を食べてしまう私。暑かったので、クーラーを求めてしまう!

 

8月22日(火)
茶空間へ

翌朝はゆっくり起きる。天気は良いようだ。地下鉄に乗り、東湖駅で下車。そこから歩いて行くと越秀公園がある。とても爽やかな朝だったので散歩がてら、公園内を歩いて見る。木々が生い茂る中で、太極拳などをしている人々がいた。何とも優雅な雰囲気がある。その先が目的地だったが、場所はよく分からない。

 

ようやく探し当てたそこは喫茶去という茶荘。中には貴州で出会った鄧さんが待っていてくれた。連絡を取ってくれたのは前回もお世話になったKさん。この辺は皆何らかの繋がりを持っている。ここはお店というよりは、茶空間。ゆっくり入れて頂いた茶を味わい、その空間を楽しむ場だった。茶機も豊富に置かれている。鄧さんは広東の出身ではないけれど、お茶のことはよくわかっており、私がお世話になっている広州茶文化協会の副会長も務めている。

 

まずはゆったりとプーアル茶などを頂いていると、そこに人が入って来た。彼も4月に貴州であったコロンビア人で、既に広州に10年以上住み、お茶の勉強をしているという。ただ普段はコロンビア系の貿易会社で働いているというので、平日は来られないかと思っていたが、時間をやりくりしてきてくれた。やはり茶の歴史に非常に関心を持っている。

 

何となく話しているとすぐにお昼になってしまい、鄧さんが近くのレストランに案内してくれた。非常に独特なスープが美味しかった。とにかく広東に来たらスープを飲まないと始まらない。最近中流以上の中国人に多いようだが、彼女もやはり食べる物には色々と気を使っている。

 

午後はKさんがもう一軒連れて行ってくれるというので、出掛けた。完全に団地の中の家、そこが立然茶舎だった。非常にラフなスタイルで先程とは雰囲気が一変する。この多様性がまた素晴らしい。中では山茶、在来種から作った茶を頂く。かなりワイルドだが、味は悪くない。更には貴州省の知り合いが作っているという緑茶も飲ませてもらった。これからは大規模茶業なのか、それとも小規模在来なのか?

 

Kさんと別れて、何とか一人で宿まで地下鉄で帰る。広州もご多分に漏れず、ラッシュの込み具合がどんどんひどくなる。部屋では相変わらずFBやGoogleに接続が出来ずに困ってしまった。明日は宿を変えざるを得ず、宿探しに入る。結構気に入っていたのに残念だ。夕飯も又、定食屋で済ませる。これが一番安上がりだし、何より飯がうまいのがよい。

ある日の埔里日記2017その5(8)清境農場へ

10月30日(月)
清境農場へ

天気が悪かった埔里だが、今日は快晴だった。ご近所のIさんから声が掛かり、清境農場の方面へ出掛ける。清境農場の横は何度も通ったし、今年の初めにはそこでバスまで降りたのだが、結局下の茶畑を見ただけで帰ってきてしまったので、今回はちょっと楽しみにしていた。

 

車は霧社を越えて更に登っていく。清境農場を過ぎてもまだ止まらない。今日の目的地は農場ではなく、その付近にある民宿だった。Iさんの親戚が年末台湾にやってくるので、どこに泊まるか、その下見に来ていたのだ。その民宿はやはり埔里在住の日本人Yさんの紹介だという。Yさんの日本語の生徒さんが経営しているらしい。

 

その民宿は実に眺めの良い場所にあった。正面に山々が見える。中に招かれたが、取り敢えずその景色を眺めていた。日差しは強いが、風は爽やか。標高は1800mぐらいだろうか。高原のリゾートという感じだ。建物は4階建てで1階はリビング、2-4階は宿泊できる様だ。部屋はきれいで申し分はない。

 

だが、どう考えても今でも涼しいのだから、12月末は相当寒いだろう。この辺では年越しのカウントダウンも行われるようだが、それを見に来る人々ですごい渋滞にもなるという。折角静かな山間で年越し、とはならない。しかも既に12月31日の部屋はすべて埋まっていた。

 

こちらは姉弟が経営しており、両親も一緒に住んでいるのだという。お姉さんは週に2回は埔里の街まで車を飛ばし、日本語とヨーガを習っている。往復3時間の道のり、大変だと思うのだが、やはり山の中では飽きてしまうのだろうか。まあ、確かに、景色や空気がよいとは言っても何もない所ではあるが。

 

皆で昼ご飯を食べに行こうと言われ、着いて行く。そこは農場の入り口近くの坂を少し下ったところで、団体さんも利用するようなレストランだった。勿論地元であり、親戚が経営しているらしく、美味しそうなものがどんどん出てきた。特に豚肉、鶏肉は絶品、一人で来ても味わえないものばかりで感謝感激。

 

因みに原住民料理かと思ったが、そうではなかった。ご馳走になってしまい、申し訳ない。これも先生であるYさんのお陰だ。先生に対する対応は日本とはかなり違う。このレストランも、外の席があり、行ってみると絶景だった。既にここでは団体さんの食事が終わり、皆が席を立った後だった。

 

植物も色々と植えられており、目に楽しい。よく見るとこのレストランの看板に、高山中草薬園と書かれているではないか。ここでは山の中の薬草を集め、漢方薬作りの実験をしているらしい。大学とも連携しており、かなり本格的なので驚いた。そういえばさっき体に良い酒を飲め、と言われたが、あれも漢方薬だったか。

 

農場には入らずに、遊歩道を歩くことになる。この最近作られたスカイウオーク、遊歩道は絶景だと評判をとっているらしい。ただ私は高所恐怖症であり、あまり好ましい場所ではない。車で上の入り口まで送ってもらい、入場料を払う。私以外の2人は埔里在住者で割引があり、何となく私も割引料金になった。

 

確かにこの道路の脇に作られた遊歩道、かなり雄大だ。今日は天気も本当に良いから、絶好の散歩日和なのだろう。私のような高所恐怖症の者でも、何とか歩くことができ、楽しい。下の方には羊の群れが見える。台湾のアルプスを標榜する清境農場だけのことはある。台湾各地、中国や香港からも大勢の観光客が散歩を楽しんでいる。

 

約30分、ゆっくりと下まで降りた。そこには観光センターがあったはずだが、全面改装中で見る影もない。連絡して車で迎えに来てもらい、民宿に戻る。自分たちの車で行くと駐車場もなく、またかなり歩かないと車にたどり着けないので、このような措置となる。大変お世話になってしまった。

 

帰りは下り、途中霧社事件後の日本人墓地の場所を確認して埔里に戻る。同行したSさんの家が郊外にあり、Sさんを送りがてら、ちょっと寄る。彼はコーヒーを栽培しており、ちょうど天日で干しているところだった。コーヒーの皮むき、初めて見た。やはり茶とコーヒーではその製造法はかなり違うようだ。

 

埔里に帰ると、北京時代に一緒だったKさんがやってきていた。彼は今、岡山にいるはずだが、フットワークは相変わらず相当に軽い。古月軒で夕飯を一緒に食べる。美味しいと言って麺を食べていたのだが、よく聞いてみると、昼ご飯も、この店の本店で同じものを食べていたらしく、失礼してしまった。雰囲気がまるで違うので気が付かなかったらしい。昔の知り合いが訪ねてきてくれることも稀なので、何となくうれしい。

ベトナム縦断茶旅2017(15)ホーチミンを離れる前に

11月21日(火)
早朝散歩

翌朝も又早く起きる。今日はベトナム最後の日。ホーチミンの川を見ようと出掛けた。ところが何となく道を間違えしてしまい、すごく長くてくねっている道を歩くことになる。最近とみに方向感覚が悪い。結局サイゴン川に出ることはなかった。よく見ると北の方へ進む必要があった。

 

ホーチミンの川と言っても、遠くに見えるだけだ。昔からよく行くマジェスティックホテルの横まで来て、何となく落ち着く。既にここまで1時間半近く歩いており、疲れてしまう。帰りは見慣れた旧市街を歩き20分ほどで到着したから、私が如何に道に迷っていたかが分かる。まあ、散歩だからそれでよい。

 

今日は夜中の飛行機で東京へ行くので、朝食を食べた後午前中は部屋にいることにした。すでに若くはない。あまり動き回ると体力が持たない。12時に宿をチェックアウトして、荷物を預けて、外へ出る。特にやることもないのだが、ランチを探して歩き始めた。昨日見た丸亀製麺に興味を持ったが、これから日本へ行くのにわざわざ食べることもあるまい、という気持ちになり、まずはベンダイン市場の方へ行く。横にフードコートのようなところがあり、様々な食べ物が選べたが、クーラーもなく暑いのでパスした。

 

最終的にやはり丸亀に入ることにした。午後1時過ぎで昼のピークは過ぎていた。昨日店員が『美味しいですよ』と声を掛けてくれたのが印象的だった。中に入ると、うどんだけでなく、どんぶり物からデザートまであった。面白い。我々が思ううどん屋のイメージとはちょっと違う。

 

暑いので2時前に宿に戻る。ホーチミンに来ると必ず会う人と待ち合わせていた。Kさん、ベトナム人の奥さんを持ち、ホーチミン在住で長い間、ベトナム人社会で生きてきている人だ。真のベトナムを知るにはこういう人の話を聞くのが一番だと思う。特に家族間の話、地方自治体の対応、ベトナムに進出して失敗する日本企業、日本人の話は大変参考になる。

 

話は宿のロビーで行った。Kさんのバイク、カギが壊れているようで、近くで見ていなと心配だという。飲み物を買おうと宿のフロントに行くと、スタッフが誕生会をしていたのが何とも面白い。それから延々、4時間ほどKさんの話を聞いていた。彼も普段、日本語をこんなに話すことはないようで、止まらなくなっている。おまけにスコールまで来たので、帰れなくなり更に話が長くなる。

 

夕方6時過ぎにKさんが帰って行き、私はそのままそこに座っていた。夜はNさんとここで待ち合わせている。この宿はNさんの紹介だから、ボーっと待っていたが、なかなか来ない。よく見るとフロントの方にいるではないか。声を掛けると『フロントではあなたは出掛けたと言っていたが』というので驚く。私は既にチェックアウトしており、荷物は午後9時に取りに来る、と言ってあったのだが、どうしてだろうか。

 

Nさんのバイクの後ろに乗せてもらい、食事に出掛ける。ローカルに人気の場所へ行くとのことだったが、ホーチミンも路地が幾重にもなっており、道に迷う。ようやく見つけたところは確かに賑わっている、屋根はあるが屋外の雰囲気がある海鮮料理屋だった。多くの低いテーブルと椅子が並んでおり、満員の客がいた。

 

ここの料理は新鮮で旨かった。隣にはシンガポールから来た華人がおり、店の女性と中国語で会話していた。この店も華人系ということだ。さすがに大きな商売をしている。酒を飲まない我々はどんどん食べる。Nさんの近況の他、共通の知り合いの話題などで盛り上がる。3年ぶりとは思えない。Nさんはお子さんの塾のお迎えがあるというので、少ししたら私を宿まで送り、帰っていった。彼もまたベトナム人女性と結婚して、長くこの地に住んでいる人だ。

 

ホーチミンを離れる
夜9時前になり、宿で荷物を受け取り、ついでに空港までのタクシーを頼む。フロントがアプリで呼んでくれ、大通りまで一緒に行ってくれる。まあ普通にタクシーを拾っても問題はないが、10ドルならこれの方が確実か。30分もかからずに空港に到着。運転手はかなりのスピードで飛ばしていた。客からボレなければ、そうなるわな。

出発3時間前でもチェックインは出来た。前回のハノイでもそうだったので、これは空港の戦略なのか、それとも航空会社のサービスなのか。いずれにしても、暇ではある。ただ搭乗者はかなり多く、イミグレと税関ではかなり並んだ。ベトナムを訪れる外国人もどんどん増えているのだろう。

搭乗するとすぐに寝入ってしまった。機内食が配られた様だが、それにも気が付かなかった。こんな夜中に食事をするものなのだろうか。しかも時差が2時間あり、乗り込んだ時点で午前2時だったというのに。こういう時はLCCの方が落ち着く。フライトは多少遅れたが、インチョンに着き、成田行きのフライトにスムーズに乗り換えられ、昼前には無事に成田に到着。今回の旅はベトナムを縦断したが、意外と疲れたのは、夜行便のせいばかりではあるまい。

ベトナム縦断茶旅2017(14)ホーチミンの茶荘へ

そして夕飯を食べるために外へ出た。この辺はバックパッカーが集う繁華街。だが外国人向けの商売しているところが多く、メニューに英語はあるが、サービスも悪く、料金も高い。一度入った店からも出てきてしまった。何とか食堂を探して美味しい麺を食べるまでにはかなり時間が掛かった。ムイネーの暗さから一転、余りの明るさに目がくらむ。今朝は4時起きで疲れていたので、とにかく宿の6階まで這い上がり、折角確保した電気ポットも使わずに、すぐに寝込む。

 

11月20日(月)
朝の散歩

翌朝は早く起きたので、散歩に出る。雨はなく天気もよさそうだ。実は宿の位置がよくわかっていなかった。これまでは地図やガイドブックを持って歩く、アナログ型だったが、地図なしで行動する、必要あればスマホで確認するというやり方は、私には全体像がつかめなくて困る。まあ適当に歩いていると、何となく見慣れた光景が出てくる。

 

ここは有名なベンタイン市場だろう。中は準備中だが、外の花屋は朝からやっている。その横の道は閉鎖されており、地下鉄工事が3年前と同じような状態になっていた。何故だろう?ふと振り返ると日本食屋がある。この辺は日本人街なのか。その中に丸亀製麺があったのは驚きだ。ベトナム人向けなのか、麺は柔らかいのだろうか。

 

宿に帰り、朝ご飯を食べる。満員だったが何とか席を確保して、トーストと目玉焼きを頂く。食後は部屋でゆっくり休む。さすがに疲れてきた。ホーチミンは日が出ればかなり暑いはずだ。私の旅は無理せず疲れたら休むのだ。今日は午前11時半に紹介された台湾人と会う予定になっているので、それまで旅行記を書いて過ごした。

 

その台湾人、張さんは宿までやってきてくれた。思ったよりずっと若い人だった。何とホーチミン台湾人学校で先生をしているという。因みに台湾人学校の生徒数は1000人を越えており、日本人学校より多いという。台湾人は全体で何人いるのだろう。さらに韓国人学校はもっと多いそうだ。この辺に勢力図が見えてくる。

 

そして何よりお茶好きで、先日私が訪問したダラットの呉さんのところで、茶作りまでしているというのだ。これは結構驚きだった。取り敢えずタクシーで昼ご飯を食べに行く。連れて行ってくれたお店には、外国人もたくさん来ていた。バインセオ、何だか懐かしい食べ物を食べる。飲み物はレモンにソーダを入れているのが面白い。バインセオ、いつ食べてもうまい。作っているところが見られるのも豪快でよい。張さんの学校は昨日が運動会で今日は代休だったようだ、有難い。

 

張さんと茶荘へ
それからまたタクシーに乗り、ちょっと郊外の茶荘へ向かう。こんなところに茶荘があるのかという高層アパートが並ぶ、住宅街だった。そこに新しそうなお店があった。中に入ると、店長という女性が中国語を話している。ここは大陸中国人が開いた店で、お客も中国語を話す人が多いらしい。

 

張さんは慣れた様子で2階に上がる。個室やら仕切りのある席がいくつかある。お茶は店員の女性が淹れてくれる。平日の午後だからお客はいない。ここで働く女性は全員中国語が出来る訳でもない。我々のところにやってきた彼女も殆どできなかった。そして僅かな日本語を話した。日本の方が好きだが、収入は中国語、という感じだろうか。

 

張さんはここに沢山の茶葉を預けており、時々ここでお茶を飲んでいるらしい。取り敢えず店のメニューから花茶など1-2品選び、その後は彼のお茶を飲んだ。彼は自分で茶作りをしているのだから、チェックポイントが細かい。私にも意見を求めてくるが、よく分からない。

 

驚いたことに、彼は学生の時、台湾茶の歴史について研究していたというのだ。ちょうど私が探していた大学教授が指導してくれていたと聞き、驚くほかなかった。ホーチミンでこんな出会いがあるのだろうか。他にも共通知り合いが何人かいて、そんな話で時間はすぐに過ぎてしまった。

 

夕方宿に帰る時も、店の人がスマホでタクシーを呼んでくれた。料金は6万ドンだから、と教えてくれ、助かった。夕方だからラッシュかなと思ったが、すぐに宿に着いてしまった。そんなに遠くない場所なのに、かなり雰囲気が違う街だった。ホーチミンも広い。何区、何区と言われてもよく分からないが。

 

夜になるとまた宿の周囲を歩き回る。賑やかな街なのはよいが、一人でさらっと入れる店はとても少ない。白人が酒を飲んでいるか、皆で騒いでいるか。私はだんだん暗い方に追いやられていく。そしてついに暗い道の、暗い屋台で麺を頼む。暗いので麺すらよくわからない。だが食べてみると、何となくカレー味で新鮮だった。でも料金は少し高めだ。ぼられたのか、それすらわからないほど暗い。フラフラ部屋に帰る。

ベトナム縦断茶旅2017(13)ホーチミンへ

砂の中を駆け回るが、どうしても見付からない。方向は合っていると思うのだが、どうしたのだろう。何とか英語が通じる人間を見付けて聞いてみると、更に向こうを指した。そちらに歩くと同乗のカップルが前を歩いていたので、ホッとした。何とかジープまで辿り着いたが、若い女の子がいない。『あの子、英語も出来ないし、どうしよう』と言っていると、運転手は車を出してしまう。何と道路に出たところに彼女は立っていた。実は彼女はベトナム人だったのだ。なんでやねん。

 

もう一か所、砂丘へ行った。こちらが白い砂なのだろうか。もうあまり興味は無くなってしまった。車を降りると子供たちが近づいてくる。私のところには誰も来ないのだが、韓国人の若者にボードを渡している。ここでは砂の坂でボードを尻に敷いて滑るらしい。誰がそれをやりそうかはよくわかっているようだ。さすが商売。まあ20分ほどで退散する。

 

それからムイネーの街に入る。そこは漁師町、魚市場を見に行くというが、どうみても市場という程の大きさはない。雨が降ってきたのでただ海を眺めていたが、中国人の観光客は朝から大量の海産物を買い込んでいる。あんな、エビや魚、どうするんだろうか。ホテルで調理も出来まいに、と思う。

 

最後にフェアリーストリームへ行く。運転手にその名を言われても、どんなところか想像がつかない。そこは小川、何と靴を脱いで川の中を歩いて行くのだ。その川沿いに奇岩が見られるということだが、その前に川に意外と深いところがあり、足を痛めてしまった。それでも皆が行くので恐る恐る進む。なんでこんなことをしているだろうかと思ったが、何となく気持ちよくもある。

 

20分近く歩いて行ったが、特にすごいものは見られなかった。川に入る時に置いてきた靴が気になってきたので、急いで戻る。韓国人は興味がないのか、既に我々を待っていた。そして車に乗り込み、各人のホテルに送られて、ツアーは終了した。まだ朝8時過ぎ、疲れたので部屋で寝る。

 

それからバインミーを買いに出る。ベトナム滞在も2週間近くになると、バインミーかフォーが程よくなる。ご飯ものは重たい。バスに乗る前には重たいものは避けたいところだ。12時になると部屋を追い出された。バスは午後1時なのだから、それまでいてもよいと思うのだが、そんなところのサービスが欲しい。仕方なく1時間、散歩した。もう食事はしたくない。

 

ホーチミンへ
午後1時に荷物を持ってバスを待つ。何と雨が降り出した。それも強い雨。スコールともいえる雨だった。バスがやってきたが、これはホーチミンから来た逆向きだった。いつになったら来るのか心配なった頃、私が乗るバスがやって来た。雨が強いのでスタッフが編み笠をくれた。このサービスは良い。

 

シートは昨日と同じ場所だったので、他のシートがどんな感じか分らなかった。既に多くのお客が乗り込んでいて、その間に割り込む形だ。出発してすぐにまた停まる。ムイネーには2か所の停留所があったのだ。郊外にロッテのショッピングモールがあった。すごい、韓国パワー。

 

それからは雨の中をひた走った。そして1時間おきに2度停まった。2度目はかなり大きなサービスエリアで、品ぞろえも豊富だった。ここでちょっと腹が減ったので、ホットケーキのような物を買って食べる。特に味はないが、お腹には優しいのでよい。ここを出た後は、国道1号線も混み始め、特に停まることはなく、ホーチミン市内に入っていった。雨の中、何時着くのだろうと心配したが、予定通り約5時間で、到着したので驚いた。意外と正確なツアーバスだった。

 

6. ホーチミン
きれいな宿で

バスがどこに着いたのかはよく分からなかった。雨も降っていて、歩道はかなり混乱していた。こういう時にスマホは役に立つ。今回ホーチミンは知り合いのNさんが探してくれた宿を予約していた。スマホで探してみると、何と歩いて3分のところに宿があるではないか。Nさん、ナイス!傘もささずに宿を目指す。

 

路地を入るとそこにきれいな宿があった。予約している旨を告げたが、手間取る。どうやら新しい宿らしい。若者が丁寧に案内してくれた部屋は6階、そしてエレベーターは無し。おまけに後から付けたしたような階段の上にあったのでガタガタだ。ただ部屋はきれいで窓からの風景もよい。机はないが、テーブルがあるから問題はない。ベッドもフカフカ。

 

更には電気ポットがあるはずだったが、それがなぜかない。なければインスタントコーヒーはどうやって飲むんだ、と下まで行ってフロントの若者に聞いたが、彼も困ってしまい、また6階へ上がり確認するも、ないものはない。そしてまた下へ降りていき、探すがない。私は上り下りに疲れ果ててしまう。するとフロントの横にいたインド系のおじさんが『俺は要らないから、使え』と言い、若者に部屋の鍵を渡した。何とも不思議な光景だったが、私としては有り難く頂く。

ベトナム縦断茶旅2017(12)ムイネーの宿

5. ムイネー
ムイネーの宿

ムイネー郊外にあるハンカフェのオフィス前にバスは停まった。ここまで5時間半かかった。まずは明日のバスの時刻を確認するためにスタッフのところへ行く。その際、ホテルはどこ?と聞かれたので、まだ決めていない、というと、ここの上に部屋があるから泊まれば、と言われ、そのまま荷物を持って、部屋を見に行く。まあ、机もあり、便利でもあるので、ここにした。1泊15ドル。あまりに安易か。

 

実は沢木耕太郎は15年前にムイネーに来て、宿に困り、バイタクに乗って、最終的にかなり立派なリゾートホテルに泊まったとある。私もそこに泊まろうかと思ったが、今でもあるそのホテルは1泊100ドルもした。まあついてから決めるかと思っていたが、この周辺には宿はいくらでもあるのに、なぜ簡単にここにしてしまったのか。取り敢えず腹が減ったので外へ出る。

 

何となく雨が降りそうだったので、斜め向かいの食堂に入り、チャーハンを頼んだ。そこの入り口は小さく、細長い通路を行くと、ビーチに出る。ここのビーチはほぼホテルなどに占拠されており、ニャチャンと違って簡単には拝めない仕組みになっている。特にビーチで泳いでいる人もいない。寂しい。チャーハンも何となく寂しい。ここはリゾート地なんだと認識。

 

取り敢えず、道沿いに歩いて見た。ここにはいくつもの立派なホテルがあった。そして団体バスが停まっていた。白人バックパッカーがザックを背負って歩いている。こちらのための宿も沢山あるようだ。喉が渇いたのでジューススタンドでレモンジュースを買って飲む。

 

宿まで戻ってきたが、反対方向にも歩いて見る。こちらにも立派なリゾートホテルがいくつか見られたが、ひときわ立派な、サイゴン・ムイネー・リゾートというが見えてきた。ここが沢木の泊ったホテルだった。広い敷地、きれいなプール、瀟洒なコテージ、思っていたよりさらに立派で驚いた。これで100ドルなら、泊ってみるべきだったかとも思うが、コテージに一人、朝食も一人というのはかなり寂しいので、止めてよかった。

 

一度宿に戻り、休む。この宿も何もないがそれほど悪くない。トイレは広いし、シャワーも熱い。クーラーも効いており、しかも蚊や虫もこないようで、休むには申し分ない。Wi-Fiもちゃんと機能している。ただバスはそれからも両方向からやってきたが、泊っている人はいない。この辺で15ドルは高いのかもしれない。

 

夕方になってまた外に出た。ちょっと遠出して見ようと思った。チャム塔という場所が地図にあったので、そこを目指して道沿いに歩いていく。だが、日暮れは予想以上に早かった。30分も歩かないうちに暗くなってきて、これ以上進んでも塔は見えないだろうと思ったので引き返した。帰りにバインミーを買った。これは安くてうまかった。地元民向けだ。明日の朝は非常に早いので、すぐに寝入る。

 

11月19日(日)
砂丘へ

朝4時にきちんと起きた。実は昨日宿を決めた時、担当の女性が『ムイネーに来て赤い砂丘に行かない人はいない』と訴えてきて、何となくそのツアーを申し込んでしまった。ベトナムの英語ツアーは安くてよい。僅か10ドルなのは良かったのだが、朝日を見るため、何と集合は4時半だというのだ。まあ、これも流れだと、行くことにしたのだが、何と何と夜半に雨が降っていた。どう考えても行きたくない状況だったが、起きてしまった。

 

宿の前で待っていろと言われたが、果たして迎えは来るのだろうか。真っ暗だし、誰もいないので、不安は募る。おまけに小雨も降っている。だがその不安をよそに、ほぼ4時半に軍用ジープ?が宿にやって来た。そこにはすでに若い女性が一人で乗っていた。何人だろうか。それから別のホテルで白人カップルを拾い、出発かと思いきや、更にかなり遠くまで走っていき、韓国人の若者二人をピックアップ。ただ座る席はなく、後ろの荷物台に押し込められる。

 

メンバーが揃うと、車はムイネーの街を抜け、さらに遠くへ行く。30分ぐらい走ってようやく到着。そこは確かに砂丘だった。向こうの方に小高いところが見え、あそこから朝日を拝むらしい。ただ雨こそ止んでいたが、太陽が出そうには思えない。運転手が『あそこまでは遠いので、乗り物に乗って行け』というのだが、一人20ドルもかかると言われ、拒絶して、歩き始める。

 

小高い場所までは確かに遠い。思ったより多くの観光客が来ていたが、途中で疲れた。360度砂なのだが、それ以上でも以下でもない。写真に収めて、皆が戻る方に戻っていく。ところが、なぜか近いなと感じる。どうやら、違う場所に戻ってしまったらしい。一緒のジープで来た人々の姿も見えない。急に焦る。どこから行けば、元の場所に戻れるのだろうか。言葉も通じないし、運転手の電話番号すら知らない。これは困った。

ベトナム縦断茶旅2017(11)長距離バスの旅

11月17日(金)
ボー・ナガル塔

結局よく眠れないまま、朝を迎えた。午前5時半、既に周囲は明るい。すぐに外へ出た。ジョギングする人々がいる。ビーチに行くと、何と地元のおじいちゃん、おばあちゃんが水着を着て泳いでいた。これは凄い。私は暑くないうちに散歩を済ませるつもりなのだが、彼らは混まないうちに海を占拠するつもりなのだろう。

 

ビーチ沿いに北へ向かう。立派な橋が架かっており、そこを越えると魚市場があるはずだった。だがそこは既に寂れており、老人が朝のお茶を飲んでいるだけだった。その向こう側に目指すボー・ナガル塔が見えてくる。まだ6時過ぎだが、既に開いているのがよい。入場料を払い、中に入る。

 

この塔はチャンパの王様が8-13世紀にかけて建てたと言われているが、ジャワの侵攻などもあり、財宝は持ち去られてしまったらしい。坂を上って行くと上にお堂がある。チャンパのお寺だと思っていたが、行ってみると仏教的色彩が強い。線香が立ち込め、仏像が置かれたりしている。この遺跡が残った理由は、地元の仏教信仰と結びついたからだという。何とも不思議な光景だが、これが現実というものだろう。お祈りに来ている人も仏教徒のようだった。

 

ニャチャン川沿いを歩くと、船が並んで停まっていた。実に優雅な風景だった。ただもう漁に出る船の数は少ないのだろう。朝日を浴びながら、ゆっくり橋を渡る。それからダム市場というのがあるというので行ってみる。ここは観光用なのか、朝はそれほど店が開いていない。

 

ゆっくりとホテルに戻っても8時半だった。シャワーを浴びてから朝食を食べる。かなり疲れたこともあり、ここを出て別のホテルを探すのも面倒なので、ここにもう1泊することにして、ダラダラ過ごした。昼ご飯も食べる気がなく、飲み物だけを飲み、ビーチを眺めていた。

 

流石に午後3時になって外へ出た。昨日閉まってしまった教会へ向かう。ここは午後4時までなので、そこを目指したわけだ。入口で『どこから来たのか?』と聞かれたのはなぜだろうか。日本人というとあっさり通してくれたが、中国人だったらダメなのだろうか。教会は小高い丘の上にあり、周囲がよく見えた。中国人観光客も沢山いた。

 

 

その近くにはローカル市場があった。さとうきびのジュースをバイクで買いに来ているのが面白い。それからビーチ近くに戻り、両替をすることにした。中国語で両替と書かれている場所では、中国語は通じたがレートは悪かった。最終的には宝石店に入る。そこにも白人店員がおり、白人相手の商売が多いことを窺わせる。両替レートもよく、今後は銀行ではなく、宝石店を探すことにしようと思う。

 

かなり腹が減ったので、その辺の路地のラーメン屋に入る。中国系のおじさんが作る叉焼麺は安くて旨いが、足を蚊に食われて、痒くて長居できないほどだった。早々に退散する。そして恐怖の夜を迎えたが、ベッドに虫は現れず、余りに朝早起きした関係で完全に熟睡して、ディスコの音もきにならなかった。

 

11月18日(土)
ムイネーへ

翌朝も当然のように早く起き、6時半には朝食を食べに行く。朝のビーチも実にきれいな風景だったので、写真に収めて、すぐにご飯をかき込む。そして荷物を持ってチェックアウト。100ドル札を出して払っていこうとすると、ちょっと待てという。1泊50ドルは特別料金なので、契約書にサインして欲しいというのだ。恐らくはあのおじさんが特別に法人料金でも適用してくれたのだろうが、私は個人だし、もう二度と来ることはないと思うので拒否すると、女性は困ってしまった。ただ私も時間が無いので、強引に出てきてしまった。

 

8時発のバスに乗るため7時半に来い、と言われていたが、7時40分についても余裕があった。早めの集合は鉄則なのだろう。ただバスはちゃんと8時前にやって来て、皆が乗り込んでいく。このバスは長距離、寝台バス、3列、2段だ。私は真ん中ぐらいの下のシートに入った。窓の横だし、悪くない。バスは本当に定刻に出発したので驚いた。

 

ベトナムも時間厳守になったものだ。乗客は白人が多いが、ベトナム人も結構いた。ただ走り出して1時間でガソリンを入れているのはご愛敬か。いや、この間もトイレに行く人がいる。このバスは勿論ニャチャン発ではない。トイレがついていないので1-2時間に一度は停まるようだ。その次はまた1時間後にサービスエリアで停まり、その1時間半後にはランチのために停まった。まあ、急ぐ旅でなければ安心できてよい。

 

ちょっと狭いがただ寝転んでいればよいので座っているより楽だ。ずっと国道1号線を走っていたが、今日の私の目的地、ムイネーに近づくと、海沿いの道を走っているようだ。その内にムイネーの街に着いたが、ここで降りたのはベトナム人だけ。外国人はその先のビーチリゾートで下車することになっている。街は小さく、あまり発展していないが、リゾートは、立派なホテルがいくつも見えてくる。

ベトナム縦断茶旅2017(10)ニャチャンを歩く

4. ニャチャン
ホテルを値切る

この辺に安宿は一杯あるようだったが、折角ビーチに出てきたのだから、海の見える部屋でゆったり過ごしたいと思い、ビーチの方に歩いて見た。すると道路脇にちょっと立派そうに見えるが、結構古そうなホテルがあった。こういうところが狙い目ではないかと思い、料金を聞きに入る。

 

聞いてみると朝食付きで1泊60ドルぐらいだった。昨晩が10ドルちょっとだから、かなりの飛躍になる。もうちょっと安くならないか、と聞いてみると、何となく5ドルぐらい下がったが、やはり高いと思い、近所のホテルを探しに行く。その裏のホテルはきれいそうだったが、はるかに高かったので面倒になり、最初のホテルに戻った。大汗をかいて戻ってきた私を見て、フロントのおじさんが『1泊50ドルにしてあげる』と優しくしてくれた。

 

部屋からはビーチも見え、広くて明るくてよい。気に入ってしまった。クーラーを掛け、冷たい水を飲めば、気分は爽快だ。ビーチはかなりきれいで長い。思わず暑いにも拘らず、ビーチを見に外へ出た。だがまずは腹ごしらえ。焼肉ご飯を食べる。これはいつ食べてもうまい。

 

それからわき道に入った。そこには漢字も沢山表記されていたが、それ以上にロシア語が使われていて驚いた。旅行社を覗き込むと、何とロシア系と思われる男性がいた。英語、ロシア語対応要因だ。歩いている観光客もよく見えればロシア人らしい人が多い。いや、思い出してみると、3年前にカザフスタンに行った時、バンコックからまずホーチミンに飛び、そこで乗客を拾ってアルマティに向かったが、その乗客はニャチャンビーチに行ったと言っていた。

 

そう、ここはロシア及び中央アジアの人々に人気の観光地だということを確認した。ホテルの部屋のベランダにも、『洗濯物を干すな』という表示が中国語とロシア語で書かれていた。それほどまでに観光客が多いのだ。きっとビーチに寝ころんでいる人々も北の方から来たのだろう。

 

ついでにホーチミンへ行くためのバスチケットを買おうと思い、シンカフェの事務所を探す。これは沢木耕太郎が15年ぐらい前に『一号線を北上せよ』という本を出し、その中でホーチミンからハノイまで、キムカフェのツアーバスを使って旅するのだ。私はこれに乗りたかったが、キムカフェはトラブルが多そうだったので、一番メジャーなシンカフェで行きたかった。

 

だがシンカフェのオフィスは見付からない。暑さはどんどん増していく。一度宿に戻って出直そうと帰りかけると、そこにハンカフェという文字が見えた。確かこれも沢木の本に出て来たなと思い、中に入ってみる。するとちょうどよい時間バスがあったのでその場で購入してしまった。ここはホテルから近いので、移動の不便もなく、ちょうどよい。僅か22万ドンでムイネー経由ホーチミンまで行けるのだからすごい。

 

それから気を取り直してビーチにも行ってみる。砂が凄く熱い。ビーチはきれいでパラソルがリゾートだった。白人が非常に多く、一部は肌の露出が激しく、ヌーディストビーチのように見えた。こんなところにカメラを持って入り込めば、トラブルになりそうだったし、何より暑かったので部屋に帰った。

 

ニャチャン散策
夕方を待っていたが、夕日は一向に落ちない。仕方なく、散策に出掛けた。まだ何となく暑かったが、構わず歩く。ビーチは人で賑わっていたので、反対方向へ向かう。丘の上に教会があるようだった。だが下で止められてしまう。開門時間が限られていたのだ。残念。また明日来よう。

 

その先にはニャチャン駅があった。先日のダラット駅とは違い、駅舎は比較的新しく、こちらはちゃんと使われているようだったが、いずれにしてもベトナムの鉄道は時間が掛かり、バスの方が早いと思う。その横には日本製品を扱う専門店があった。日本もベトナムでは人気のようだ。

 

更に歩くと隆山寺があった。ここは先ほどバスから見えたので、来てみたいと思ったところだ。1889年創建というから、フランス時代の初期だ。本堂に行くと、ちょうど掃除中だった。団体がやってきて、横の階段を登り始めたので、何となく付いていく。因みにこの団体、英語ツアーの参加者のようで、国籍も宗教もバラバラのようで、なかなか面白い。中腹に寝そべる仏像を発見。息が上がりながら登り切ると大仏が鎮座していた。ここからニャチャンの街が一望できた。夕暮れが美しい。

 

既に暗くなっていた。どこかで夕飯を食べようと思い、歩いて行くと、街角で人が沢山いる露店があった。見ると鶏肉を大鍋で茹でていた。何とも美味しそうで、おばさんに呼び込まれて、つい席に着く。学校帰りの学生や女性が多く食べていたので、何となく安心できた。こういう店は安くてうまいのだ。その経験則は完全だった。チキンライスから鶏のスープまで非常に美味い。実は向かいにも同じもの出す店があったが、こちらに客はいなかった。やはり美味いのだ、この店は。面白い。

 

フラフラと夜のニャチャンを歩き、宿に帰った。今日はフカフカのベッドで寝られると喜んで、早めに休むことにしたのだが、夜10時を過ぎると、何と階下のディスコの騒音が3階のこの部屋まで聞こえてくる。そういえばカジノもあるのだ、このホテル。おまけになぜか、虫に噛まれて痒い。折角高い?部屋代を出したのに。明日は出て行こうか。

ベトナム縦断茶旅2017(9)ダラットからニャチャンへ

駅を離れて、湖に出ると宿の方に歩き出す。さすがに反対に歩くと戻るのに相当の時間が掛かると見たからだ。宿の近くには市場があった。そこまで来て腹が減り、フラッと低い椅子に座り飯を食う。2万ドン、やはり市場の飯は安い。観光地ダラットにはきれいなレストランも多いが、自分にはこちらの方が合っていると感じる。市場では花が沢山売られていた。張さんが作ったものもあるのだろうか。

 

午後はそのまま湖と反対方向に歩き出す。こちらは地元民の道のようだ。ずっと歩いて行くと立派な門を持つ寺があった。霊山寺、1938年創建で、当時のフランスと中国の様式が折衷された独特の雰囲気の建物。ベトナムらしい寺だったが、人影は殆どなく、ベトナムの仏教はどうなっているのだろうかと思う。

 

疲れてきたので宿に帰って休む。だが何と眼鏡をベッドの上に置いてしまい、そこに手をついたので、眼鏡が完全に曲がって、使い物にならなくなってしまった。これは困った。仕方なくフロントで眼鏡屋の場所を聞くとすぐ近くにあるというので飛び出した。眼鏡をかけないと本当に看板が見えない。不安が過る。

 

何とか歩いて3分ほどで見つかったので中に入る。若者が片言の英語を話したので安心して預けた。ところが治し方が全然なっておらず、曲がったまま返されたので驚いてしまった。すると奥にいた父親が出てきて、その仕事を見て黙って眼鏡を取り上げ、自分で治し始めた。3分もするとほぼ完全に元に戻る。やはり伝統的な職人は違う。息子は未だ修行中なのだろう。修理費は5万ドン、まあ仕方がない。

 

眼鏡の件で驚いて疲れが吹き飛び、そのまままた散歩を続ける。すごく目立つお寺があったので近くに行ってみると、まだ建設中だった。誰がこんな大きな、立地もよい、豪華な寺を建てているのだろう。資金の出所が気になる。社会主義国ベトナムでも、宗教政策が進んでいるのだろうか。

 

湖の周囲を歩いて見た。夕方の散歩をする人、老夫婦や犬を連れた人が多い。馬車が置かれ、馬がのんびりしていた。湖はかなりきれいで、特に夕方の風景がよいようだ。湖と宿の間にはおしゃれなカフェが揃っており、ここは観光客向けかと思っていたが、意外と地元の若者も来ているようだ。

 

夜はちょっと寒いくらいだった。昨晩の標高1600mから少し下がったとはいえ、やはり高原なのだ。風が冷たい。とにかく温かい食べ物が食べたいと思い、フォーの店を探した。地元の人が行きそうな近くの店、そこでは若い三姉妹が切り盛りしていた。お客はどんどん入ってきて忙しいそうだ。野菜がたっぷり盛られた皿が出てきて、湯気の立つフォーも美味しかった。名物店なのかもしれない。部屋に帰ってすぐに寝込む。何とか寒さは凌げた。

 

11月16日(木)
ニャチャンへ

翌朝は6時台に起きる。この宿でニャチャン行のバスを予約しており、バスが迎えに来てくれるというのだ。120000ドン(5.5ドル)と安い。まあ、ベトナムなので、元々8時だったが、7時半に変わったと言われても、どうせ来るのは8時だろうとたかを括り、ゆっくりロビーでチェックアウトを終え、ソファーに座った。だがバスは本当にすぐに来た。荷物も車内に運び込んだ。

 

乗客は殆どいなかったが、すぐ近くの旅行社の前で停まったので、ここでたくさん乗ってきて、時間が掛かると思われた。ところがここでも殆ど乗って来ずに、すぐに出発した。何とも驚きだ。バスは昨日来たガウダットに向かう坂を上り始め、30分後には、ガウダットを過ぎ去った。何とも順調だ。

 

実はダラットから海岸線のニャチャンまでは車で3時間と言われて、そんなに近いのかと驚いた。ところが先日珍しく台風がやってきて、このダラットからの道が不通になってしまったと聞いていた。ただ道は2本あるので、もう一本は大丈夫だというので、乗り込んだわけだ。途中道路工事をしている場所がいくつかあった。恐らく不通にはならなかったものの、被害があったということだろう。

 

それにしても順調だった。途中で地元民が何人か乗り降りして行っただけで、このままいけば3時間もかからずにニャチャンに着けそうだったが、2時間弱走ったところで、休憩所に入った。もうあと30㎞ぐらいなんだから、休憩などしなくてもよいのに、と思ったが、仕方がない。トイレに行く。

 

乗客は、中国人のカップルと白人バックパッカー2人と私しかいない。まあまだ午前中ということもあり、誰も急いでいる様子はない。後から来たバスもここで停まった。ところがそのバスはトイレ休憩を済ませるとすぐに出発したのに、我々のバスは動かない。運転手はバスをきれいに洗った後で、ゆっくりご飯を食べているではないか。結局ここで40分余りも休憩してしまう。時間がもったいない。

 

後は平たんな水田の横を走り、それから市内に入る。ここでまたガソリンなど入れているから、白人はここで降りてしまったが、私はじっと終点まで乗っていた。その方が、次の展開がしやすいと判断していたからだ。最終的には11時半に、海辺に近い道路沿いにある旅行会社のオフィス前に到着した。とにかく山から下りてくると暑い!