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静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(4)和歌山大に行ってみる

3月16日(金)
和歌山大学で

翌朝は驚くほど涼しかった。小雨も降ってきている。当初は和歌山の街を散歩するつもりだったが、完全に取り止めて、ホテルの部屋に籠っていた。僅か2-3日でこんなに天気が急変するなんて、さすが日本だ、と感心している場合でもない。外に出れば風邪を引きそうだが、もう出掛けなければならない時間だった。

 

まずはMさんが車で来てくれた。荷物を彼女の車に乗せると、走り去っていく。これから外せない用事があるというので、私はバスに乗って和歌山大学へ向かうことになっていた。ホテルをチェックアウトして、すぐ目の前のバス停からバスに乗るだけだったが、何となく間違いそうで、怖かった。1台逃すと30分は来ないので約束に遅れてしまうだろ。それにしても寒いのになぜかコートをMさんに預けてしまい後悔する。

 

JR和歌山駅前から30分程行くと、バスは上り坂を走り、そして丘の上で停まった。今日は大学が休みかと思うほど、乗客はいない。雨が激しく降っている。丘の上で風も非常に強い。さて、どこへ行けばよいのだろうか。訪ねる相手、タイ人のAさんに連絡してみたが、繋がらない。ちょっと不安だ。

 

仕方ないので強風の中、傘をさして飛び出す。構内案内図を見てもよく分からない。何しろもらった所在地のメールは英語で書かれているので、その日本語が分からないのだ。困っていると後ろから声が聞こえた。Aさんがやって来たのだ。よかった。結構長い階段を上り、彼のオフィスに行く。

 

和歌山大には珍しく観光学部があり、そこには外国人の先生もいる。タイ人のAさんの他、インド人とカナダ人がいるというから国際的だ。カナダ人とは会うことができたが、すぐにお客さんが来て英語で話し始めたので、あまり話は聞けなかった。Aさんは学生をタイの山の中に連れて行って、そこの少数民族との交流を図るなど、面白い取り組みをしている。その村ではミエンという食べるお茶が作られており、私にとっては興味津々の場所だった。

 

Aさんとは昨年7月タイで出会い、その後10月にも静岡で会っていた。タイから持ち帰ったというお茶を飲みながら雑談した。日本では最近急速にインバウンドという言葉が使われ始めたが、持続的な観光業とは何か、何が観光客にとって本当に魅力的なのか、など、観光学部の研究は益々重要になっていると思う。

 

そこへMさんから大学に着いたと連絡が入る。彼女も実はこの大学で中国語を教えており、よく知った場所だという。中国語は中国語系だけで固まっており、他の言語、他の学部との交流は限られているようなので、Aさんを紹介した。ちょうど私のベクトルが和歌山の方を指していたようだ。

 

お昼ご飯を食べようということで、Mさんの車に乗り、近くのイオンで行く。ここは市街地から離れているが、大きなイオンがあり、生活には困らなそうだ。しかもそこは駅と直結しており、極めて便利な環境となっている。私も食事の後はここから電車で関空へ行けばよいと言われ、安心してご飯が食べられる。

 

イオンの中にはレストランが沢山あるが、どれもチェーン店だ。Aさんは何を選ぶのかと思っていると、何と中華に挑戦するという。私も入ったことがないチェーン店だったので、それに続く。今回の旅はほぼほぼ中華系で占められたな。油淋鶏定食に棒餃子が付く。棒餃子が日本で認知されているとは面白いし、味も悪くない。食後はドリンクバーで飲み物を取り、3人で話す。何だかファミレス感覚だ。

 

時間になると和歌山大学前駅まで歩き、電車に乗る。するとすぐに大阪府になる。この地は和歌山と大阪の境にあったのだ。ある意味で大阪への通勤圏でさえあるが、雨の日の午後に乗客はほぼいない。途中泉佐野で乗り換え、関空へ向かう。和歌山大から1時間もかからず到着する。やはり近い。

 

関空から飛び立つのは何年ぶりだろうか。しかも国内線となると10年以上前かな。当然ターミナルはきれいになっており、ちょっと見違えた。今日の便はバニラだが、まだチェックイン開始までも時間があった。フラフラしていると、肉まん屋に行列が出来ており、私も並んで買ってみた。お土産に持って帰る人も多いようだ。中国人や韓国人が母国まで運ぶらしい。私は軽食のつもりで2つ食べてみたが、食べ甲斐があり、腹が相当に膨れた。

 

ちょうどこの肉まんを新幹線の車内で食べてよいかどうかで議論になっていた。私にはそこまで強烈には思えないが、気になる人には何でも気になるのだろう。まあたばこの煙がダメという段階で、ある程度のにおいは禁止されるべきかもしれない。それなら禁煙や禁肉まんだけでなく、禁酒もお願いしたいのが、酒を飲まない人間の考え方だがどうだろう。

 

フライトはちょっとスタートが遅れたが、アッと思っている間に成田空港に着いた。国内線だと機内で酒を飲む人もいないのでよい。国際線もそうならないだろうか。第3ターミナルから1000円バスで東京駅へ。このバスは非常に混んでいる。もっと本数を増やしてほしいがこちらにも既存の壁が立ちはだかるのだろう。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(3)初めての和歌山市で

3. 和歌山
夜の和歌山駅はかなりひっそりしていた。電車から降りる乗客もまばらで、ホームで写真を撮っていると、あっという間に誰もいなくなってしまった。駅の改札付近にはコンビニがあるが、まだ電車はある時間だというのに、駅前全体もひっそりしていた。その駅のすぐ横のホテルを予約していたので、そそくさとチェックインする。

 

大阪に泊まろうかと考えた時、検索するとどこも相当に高かった。『どうせ和歌山へ行くなら、そちらに泊まる方がずっと安い』とアドバイスを受けたのだが、それはやはり正解だったようだ。部屋はそこそこ広く、ゆったりしており、静岡-大阪-和歌山と転戦してきた疲れが一気に噴き出し、寝入る!

 

3月14日(木)
初めての和歌山市

翌朝は駅の周りを散歩してみた。これまで和歌山県と言えば、高野山や竜神温泉には泊まったことがあるが、和歌山市に来るのは初めてだった。だがどこの都市も最近の傾向では、駅周辺にはあまり見るべきものはない。ちょっとコンビニによって朝飯を買っただけに終わる。

 

9時過ぎにMさんが迎えに来てくれた。Mさんは私の中国紅茶の連載を読んでいてくれて、友人を通じて連絡をしてくれていた。『和歌山に来ることがあれば寄って』と言われて2か月ぐらいで、もうやってきてしまったのだから、私も動きが軽い。いや、やはりこれもご縁のなせる業なのだ。

 

車で和歌山ビック愛、という建物に向かった。周囲には高い建物がなく、かなり目立つビルだ。そこの8階に和歌山県国際交流センターがある。今日はMさんの働き掛けがあり、こちらでお話しさせて頂くことになっていた。ここは和歌山に住む外国人との交流を進める目的で設立されており、担当のNさんは元中国人。ちょうど私が上海に行った頃、上海から日本に渡って来た人だった。こういう人々が、言葉だけではない、本当の交流に一役買っているのだろう。

 

『中国紅茶の歴史』なんて、ご興味ある人がいるのだろうか、と心配していたが、それも杞憂に終わる。Mさんの中国語教室の生徒さんなど、大勢が聞きに来てくれ、大変有意義にお話しすることができた。Mさんに黄茶を淹れて頂き、質問もいくつも出て、何とも有り難い。まあ、内容は少しマニアックすぎたかもしれないと反省。

 

会が終了すると、ランチに案内された。Mさんたちがいつも行くという中華料理屋だった。昼時はかなり混んでいる。何とも不思議に感じてしまうのは、昨晩も今日も中華を食べているということだ。今や日本の国民食は中華料理なのだろうか。私自身の感覚では、日本の中華料理は日本料理であり、それはそれで十分美味しいのだが、彼らが地元で支持される理由は何だろうか、とふと考えてしまう。

 

午後は国際交流センターに戻り、Mさんに紹介されたインド人に会う。何故インド人に会うことになったのか。それもインドにいる時、マハラシュトラ州と和歌山県が友好都市であり、和歌山にもインド人留学生がいるという話を聞いたので、どんな暮らしをしているのか、聞いて見たかったからだった。

 

ただ知り合いのラトールさんからの紹介はなく、代わりにMさんが紹介してくれたわけだ。ところがやって来た人は、デリーの出身で、ここでヨーガを教えてながら、インド文化・料理などを紹介している人だった。当初の目論見とは異なるが、これはこれで面白い話が聞けて良かった。インド人が日本で暮らす上での苦労話、1時間以上があっという間に過ぎてしまった。

 

その後はMさんにホテルに送ってもらい休息。そろそろ疲れが出てきており、十分に休む。夕方散歩方々、お城の方にゆっくりと歩いていく。駅から歩くと思ったより距離があり、お城に近づいたころには陽が落ちていた。ショッピングアーケードが見えたので、そちらを歩いてみるも、あまり人影はなく、ちょっと寂しい。

 

ちょうどラーメン屋が見えたので、入ってみる。和歌山ラーメンも有名だと聞いていた。中華そばと書かれているのがなんとなく懐かしい雰囲気だ。和歌山のラーメン、食べてみると、しょうゆ味なのに結構こってりしている。豚骨ベースの豚骨醤油味というらしい。独特だ。

 

更には店の隅では牛筋肉に味噌ダレを付けて焼いたどて焼き『すじどて』が作られており、お腹は一杯ながらこちらにも挑戦した。私はこういうB級食物が大好きだ。お酒を飲む人なら、まずはすじどてをあてに一杯飲み、その後中華そばを食べるのだろう。酒を飲めないと楽しみが少し薄れるが、すじどてが食べられたので満足して戻る。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(2)あっという間に通過した大阪で

3月13日(水)
大阪へ

翌朝は6時に目覚め、7時半前に掛川駅へ行き、こだま号にまた乗った。私が新幹線に2日も続けて乗ることは極めて稀だ。しかも品川から新大阪まで全てこだまというのも実に久しぶりのことかもしれない。掛川から乗ると、どこかでのぞみなどに乗り換えなければならず、それが面倒だから早めに出てこだまにしたわけだが、他の車両に追い越され、2時間以上かかる新幹線は何となく苦痛だった。それなのに料金は同じとはどういうことだろうか。

 

2. 大阪
新大阪に着くと、かなり暑く感じられた。ホームから降りようとしたその時、何とコートを車内に忘れたことに気づいた。幸いここが終点だったので、車両は未だホームに停まったままだった。一番前の車両だったので乗り込もうとすると中に車掌がおり、『今係員が前から忘れ物を持ってくるからここで待て』と言われる。確かにしばらくすると私のコートを持った人が来て無事に受け取れ、ホッとした。

 

新大阪からJRで大阪駅へ向かう。この電車、意外と混んでいる。大阪駅では初めての阪神電車の駅を探す。阪神甲子園球場と言えば、子供の頃から高校野球でいつも見ていたのだが、実は甲子園には行ったこともなく、ましてや阪神電車には乗ったこともなかったので、何となく楽しみだった。

 

何とか阪神梅田駅に辿り着き、ホームに出たが、どの電車に乗ればよいかわからない。野田という駅で降りるように言われていたので、梅田のすぐ近くだと知り、普通電車に乗ってみた。西宮の方へ向かうこの電車、どんな感じかなと周囲を見る暇もなく、すぐに野田駅に着いてしまった。

 

今日はFBで連絡をもらっていたLさんと待ち合わせた。Lさんがどんな人なのかは全然分からなかったが、中国人翻訳家かな、という認識程度だったが、なぜか一目で分かった。駅の脇の喫茶店に入る。サンドイッチを食べ、コーヒーを飲みながら雑談した。既に大阪に住んで20年以上というLさんだったが、なぜか2人の会話はオール中国語た。まあ、特に違和感はない。

 

共通の知人もおり、彼女の活動には理解できるところもあったが、何分時間が短すぎて、肝心な話はしなかったように思う。それでも次回の再会を約した。次はどんなことが起こるだろうか、楽しみだ。そして私が向かう梅田のビルの近くまで案内してもらった。一人でも行けると思っていたが、梅田の地下街は想像以上に複雑で、助けがあって本当に助かった。

 

しかしビルがいくつもある。そして指定された階にエレベーターで昇っても、今度はいくつもの部屋がある。ここはレンタルルームが沢山ある所なのだ。表示が分かりにくく、人に聞いても首を振る。何とか探し当てた時には、既にセミナー開始30分を切っていた。結構慌てて準備に加わる。

 

インドから連絡した時、Mさんとは『3-4人でお茶でも飲みましょう』という話であったが、何とこの会場は優に30人は入る。この辺がMさんの凄いところで、茶芸教室の生徒さんなどを動員してくれ、盛況となる。『今日は学校の卒業式などで来られない人もいた』というから、大阪のお茶熱は素晴らしい。

 

午後1時から3時まで、台湾紅茶と包種茶の歴史をお話しした。この2つのテーマ、東京では1つを2時間かけて話していたので、ちょっと盛り込み過ぎた。正直歴史の話はなかなかウケないので心配したが、何とか話し切る。そしてあと1時間は、お茶を飲みながら雑談会となる。急に雑談して、と言われても困るので、また私が余計なことを話す。雑談は得意な方だ。

 

Mさんは昨日中国から戻ったばかりだというのに、とてもエネルギッシュで、ビルの地下で食事会まで開いてくれた。中華の食べ放題、店員も中国人だった。この頃になると、インドで『たこ焼きが食べたい』などと叫んだことなど、完全に忘れてしまっており、出てくる中華をバクバク食べていた。そして10人の方と楽しくお話して過した。大阪に来た甲斐はあった。ただ次回はタコ焼きやお好み焼きに手を出そうと思う。

 

夜も7時を過ぎると、荷物を引き摺って大阪駅に向かう。ここがまた迷路なのでメンバーの方にご案内頂き、ついでに和歌山行きの電車に乗せてもらい、途中まで送ってもらった。ちょうど大阪駅で和歌山行きの電車がやってきてラッキーだった。一人ではとてもこれには乗れなかっただろう。

 

電車は堺などを通っていく。その後は乗客も少なくなり、かなり涼しくなる。途中で電車が2つに分離され、一部は関空の方に、一部は和歌山へ向かった。更に最後の方でなぜか後続の電車に抜かれたので、先の電車に乗り換えたりもした。よくわからないながら、何とか10時前に、和歌山駅に降り立った。

静岡、大阪、和歌山 茶旅話の旅2018(1)静岡の研修会

《静岡、大阪、和歌山2018》  2018年3月12日-16日

 

急に大阪に行きたくなった。先月のインド滞在中、あまりに味気ない食事に耐え切れず?日本食が少し恋しくなるという珍しい現象が起きた。偶々同室の人が大阪出身、たこ焼き食べたい、と思い始めると、居ても立ってもいられなくなってしまった。3月に静岡に御呼ばれしていたので、その足で大阪へ行こうと思う。

 

そして大阪のMさんに連絡すると『ちょうど中国から帰ってくるので、お茶会しましょう』と言ってくれた。そういえば和歌山のTさんからもお声がかかっていたので、連絡すると『ちょうど中国から帰ってくるので、セミナーしましょう』というではないか。まるで計ったように日程が決まってしまった。

 

3月12日(火)
1. 静岡

Foodexの間は東京にいた。そのタイミングで、静岡の製茶機メーカーさんに呼んで頂き、茶旅のお話をすることになっていた。いつもは在来線で行く静岡だが、今日はちゃんと?新幹線に乗ろうと思い、品川へ向かう。今日の目的地は掛川なので、こだまを探して乗っていく。

 

今日は何ともいい天気だ。品川駅の新幹線ホームにはなぜか幼稚園児とその親が大集合していた。自由席なので、皆がそこを避ける中、ちょっと興味を持って同じ車両に乗り込んだ。親たちは付き添いではなく、見送り(送り)だった。親に甘えていた子供たちも大人しく乗り込んでいく。先生たちは大変だ。3人掛けの席に4人ずつ乗せて、面倒を見ている。

 

子供が煩い、と飛行機でよく問題になるが、新幹線の自由席、しかも平日の午前中だから空いており、問題は起きない。彼らは次の新横浜で降りていく。そうか、遠足?に行くのに新幹線とはすごい!子供たちがいなくなった車内は軽い緊張が解け、完全な静寂に包まれた。静岡に近づくと富士山がくっきり見えてくる。思わず写真に収め、すぐにFBに投稿したが、『なぜ新幹線に乗っているの?』といった反応に苦笑する。

 

掛川駅まで1時間ちょっとの旅だった。やはり電車の旅としては早過ぎる。でも仕方がない。駅には昨年タイの茶旅でご一緒したYさんが待っていてくれた。今回のお声がけは昨年の旅のご縁の延長だった。何とも有り難い。Sさんが運転してくれる車でランチに向かった。途中税務署近くで、デモ隊と出会って驚く。これも佐川事件の影響なのだろうか。

 

さわやか、というレストランへ行く。『ここが静岡ローカルハンバーグで有名なお店です』と言われて入っていく、11時半ですでにお客さんが待っていた。げんこつ炭焼きハンバーグが有名で、静岡県内に30店舗を有するという。芸能人などが紹介して、県外からも食べに来る人がいるらしい。

 

確かにこのハンバーグはボリュームがあり、ジューシーで美味しい。ウエートレスが色々と説明してくれる。特にプレートにハンバーグを押し付け、ジュ―っとやるのがよい。そのウエートレスの名前がかわっていて、聞いてみると沖縄出身だった。ここまで働きに来ているのだろうか。

 

午後は製茶機械メーカーの研修会に参加した。400人もの参加希望があると聞いて驚いた。静岡以外からの参加者もいるようだったが、基本的に400もの茶農家がいるのか。それほどに私は日本の茶業を知らない。社長のTさんに会うと、『いやー、今日は快晴なんで、少し参加者が減りました』というではないか。農家は天気が良ければ畑に出てしまうからだ、と言われて、なるほどと思う。

 

それでも大勢の方が、茶業の現状や機械の紹介、安全管理などの話を熱心に聞いている。会場には様々な機械の展示が行われており、休み時間には各場所で説明と質問が繰り返されている。最後に私も少しお話をしたが、数百人を前に大会場でマイクの前に立つのは何年ぶりだろうか。緊張というより、ちょっとビックリしながら話している自分を別の自分が見つめている感じだった。

 

この会には昨年7月にタイでご一緒したNさんやIさんも来られており、夜はT社長のお招きで会食した。酒を飲まない私ではあるが、静岡で食べる海鮮などは美味しく、懐かしい話も飛び出して、楽しい夜を過ごした。お茶を介した多様な繋がり、これは本当に貴重だ。

 

今晩は掛川駅近くに泊めてもらった。ドーミインのエクスプレス、ドーミインは昔何度か泊まったが、今や簡易版まであるのだ。エクスプレスと言いながら、屋上の露天風呂もあるし、夜半の夜泣きラーメンも健在だ。日本のビジネスホテルは今、料金も上昇傾向にあり、変革期なのかもしれない。

沖縄で突然茶旅2018(7)台湾に向かう前に

帰りはAさんの車に乗せてもらい、首里方面へ向かう。首里駅の一つ手前の駅で車を降り、帰る。本当は首里城でも見学すべきだと思ったのだが、何となく疲れが溜まっており、休むことにしたのだ。部屋に戻ってみると、ちょうどテレビで都道府県対抗女子駅伝が終わったところだった。昔はよく見たのだが、今は見る機会もない。

 

今日は暖かくて気が抜けてしまったのか、そのままベッドに倒れ込んで寝てしまった。気が付くと辺りは暗くなっていたが、夕飯を食べたいとも思わず、面倒なので、大河ドラマなどを見て過ごす。明日はこの部屋ともお別れして、台湾へ向かうので、荷物の整理も必要だった。

 

1月15日(月)
フラフラ

よく寝たので、朝早くに起きた。珍しくコーヒーを淹れて飲む。この部屋には、電気ポットもレンジもあるので、簡単なものは何でもできる。腰の調子もだいぶ良くなってきた。今日は夕方のフライトで台北へ行く。この部屋は午後2時まで使わせてもらえるので、重い荷物を置いて外へ出た。

 

まずは先日開いていなかったスーパーに行ってみる。地下の食品売り場は朝から結構人がいた。お茶のコーナーを訪ねてみると、さんぴん茶が売られていた。あのピンクの細長いものもあり、最近のパッケージのものもあったが、やはり沖縄では一定のステータスがあることを感じる。思わず2-3、購入してしまう。

 

それから国際通りを歩いてみる。昨日お世話になったAさんのお店もあったが、どこにも入らず、そのまま公設市場付近を彷徨う。実はこの辺に一軒だけ台湾のお茶屋さんが今も営業していると聞いていたので、是非とも訪ねてみたいと思ったのだ。ただ住所なども分らず、探すしかなかった。

 

ようやく探し当てたそのお店、茶という文字が大きく見えた。外に出ているお茶を見ていると店員さんが声を掛けてきたので、『このさんぴん茶はどこから仕入れているの?』と聞くと『台湾産だ』という。『台湾のどこだ?』と聞くと『仕入れ先は教えられないよ』との答えだったので、『台湾北部?』と聞くと『中部』とだけ答えて、いやな顔をした。

 

『お茶を買いたいので』と言って中へ入ろうとすると『これから台湾へ行くなら台湾で買った方が安いよ』と言って、前を遮る。では、写真だけでもと言ってみると、お断りだ、と追い払われた。余程警戒されてしまったようだが、何か隠しごとでもあるのだろうかと勘繰りたくなる対応ではあった。台湾産、というところにどうしても引っかかってしまう。

 

ここのオーナーは台湾人なのだろうか。そんなことさえ聞けなかったので、収穫なしとしよう。私は単にお茶の歴史を勉強しているだけだが、相手にとっては、過去から現在までの利害に繋がる話になるため、危険人物と思われてしまうのかもしれない。台湾でもあまりに突っ込んで調べるとか、相手の間違いを公に指摘する行為は慎むべきだろう。

 

空港に向かう前に昼ご飯を食べようと思ったが、沖縄最後の日であり、当分日本に戻らない最後の日でもあるため、何を食べるか迷ってしまう。宿の近所にとんかつ屋があり、沖縄でとんかつもないと思いながら行ってみると、何と超満員。確かに沖縄に住んでいる人が、毎日沖縄料理を食べている訳もないのだ。

 

そうなると、やはりステーキか。何と990円でステーキが食べられるお店が、改修中のバスターミナルの横にあった。きれいな店で、サラダとスープはお替り自由らしい。うまいなと思いながら食べていると、そういえば、台湾にもステーキがあるな、と思いつき、ちょっとあれ。こんな戦後の食文化も似ている台湾と沖縄であった。

 

宿に帰り、荷物を持ってゆいレールに乗り、空港に向かった。旭橋駅の近くには先ほど見たバスターミナルの新ビルが建設中で、これができるとこの駅付近はもっと便利になるだろう。ロケーション抜群の場所、次回はここに泊まれるだろうか。民泊法に掛かっているような気がする。

 

空港に到着したが、今日乗るピーチはここからさらにバスに乗って別のターミナルへ行かなければならない。既に過去にも乗ったことがあり、その辺は分かっていた。ちょうどバスが来たのだが、何と乗客が一杯で乗ることが出来なかった。台湾人が多いようだ。私と同じ便で台北へ帰るのだろうか。

 

LCCターミナルは相変わらずガランとしている。チェックインも昔よりスムーズだ。出国審査までもまだ時間があった。ふと周りを見ると土産物を売っていた。Aさんのちんすこうは、正面に宣伝されている。見ると小さな300円の土産物もあり、これは便利だといくつか買って、台湾人への土産とした。台湾にもこんなお菓子あるのだろうか。昨日からそんなことに興味が沸く。

 

飛行機はやはり満席。僅か1時間ちょっとで桃園空港に着陸した。これはやはり便利だ。これからの台湾行は沖縄経由にしようかな。今回の沖縄訪問では予期せぬ収穫が多数あり、お茶の歴史の深さを思い知る。いや、私が知らないことが多過ぎる、変な思い込みが強すぎる、ということだろう。

沖縄で突然茶旅2018(6)ブクブクー茶を点てる

すっかり暗くなった夜、今日の夕飯はどうしようかと思ったが、思い切って丸亀製麺にチャレンジした。このチェーン店ならわざわざ沖縄で食べなくてもよいだろうと言われそうだが、沖縄での麺の硬さをどうしても試してみたかった。それは過去、武漢、台中、ホーチミンで食べた物と比較したかったからだ。勿論沖縄は日本領だが、食文化までそうなのか、一つの試金石になると思った。

 

土曜日の夜、街道沿いにあるきれいなお店にはお客がかなりいた。沖縄でも一定の人気があることが分かる。釜揚げうどん+鴨汁+おいなりという組み合わせにしてみる。うどんは完全にコシがあり、海外の麺とは違っている。『沖縄の人も内地と同様コシのある麺が好きなんだ、沖縄そばにしても、フニャフニャしていないし』とつぶやいたが、Hさんは『そうとは限らない。このうどんは内地のものだと思って食べているかもしれない』という。なるほど複雑だ。因みに丸亀製麺は沖縄本島に7軒あるようだ。

 

1月14日(日)
突然ブクブクー茶

翌朝はゆっくり起きる。今日は日曜日で特に予定もないので、図書館にでも行こうと考えていた。そこへ老舗ちんすこう屋の女将さん、Aさんよりメッセージが入る。『本日11時に那覇市識名の沖縄そば屋にて』と書かれていた。実は昨日会ったTさんが繋いでくれたご縁だった。しかも『安次富順子さんと一緒に行きます』と書かれているではないか。

 

安次富順子さんと言えば、琉球沖縄食文化研究家で、且つ何よりも戦後ブクブクー茶を復活させたご本人だった。先日図書館でそのご著書を拝見していたが、まさか今回お会いできるとは思っても見なかった。ご縁というのは何とも凄いなと思う。

 

まずは県立図書館へ歩いていく。今日は少し暖かい感じなので、腰の調子もよく快適に進む。15分位で近くまで来たところ、公園があった。何気なく見てみると、そこは『沖縄県立農事試験場跡』と書かれており、1930年前後にここに設置されたらしい。1961年には移転したとあるから、30年ばかりの間、この街中に試験場があったことになる。今は木々が生い茂る公園だ。

 

その先に沖縄県立図書館があった。そこの2階には沖縄関連書籍が並んでいると、先日Nさんから聞いていたので、一度は訪れようと思っていたのだ。今年の4月からは新館移転作業のため、休館になるとも聞いていた。図書館はかなり規模が大きく、なにより広々としていてよい。

 

2階に上がると、本がずらりと並んでおり、検索をかければ沖縄関連本が沢山見つかった。だが先日訪れた名護の茶業誌を探したが、見付からない。図書館書士の女性に聞いてみると色々と検索してくれたが、結局ここには所蔵されていないと分かった。ところが少しすると彼女は『名護の図書館にはあるようです』と言って、わざわざ他の図書館まで検索してくれ、その結果を知らせてくれた。何とも細やかなサービスで驚いた。ここにはコピーを取りたい内容が豊富にそろっており、コピー機の前にいる時間が増えた。

 

その作業を終わると、11時を過ぎていた。約束時間が11時半に変更になっていたが、初めての場所なので急いで向かう。歩いて15分程度のようだったのでまた歩き出す。大きな道を行き、それから坂を上り、何とか時間前に着いたが、その店にはすでに行列が出来ていた。てんtoてん、というそのお店は人気店のようだった。Aさんを見つけて一緒に中に入る。

 

安次富さんも来られており、店の中をドンドン歩いていき、階段を下りて、一番奥の席に座った。色々とお話を伺おうと思ったが、まずは資料を頂き、更には『実際にブクブクーを淹れてみましょう』と言われたので、さすが料理学校の先生だな、と感心する。このお店はゆかりのあるところだと言い、普通は中で作ってもらうのだが、特別に道具一式を持ってきてくれた。

 

そして突然、『茶筅でかき回して』と言われ、目の前の大きな茶筅を持ち、大きな大きな茶碗に向かう。軽くかき混ぜたが変化はなく、『もっと強く』というので、かなりの力を入れてみると、意外とバランスがとりにくい。これはかなりの技術がいると分かる。何度もやっていると少し泡が立ってくる。これがブクブクー最大のポイント、泡立ちだ。この泡を掬い取り、小さな茶碗(既に小豆が入っている)に移す。飲もうとするがうまく吸えず、こちらにも技術がいる。

 

この泡を立てるためには、技術より重要なものがある。水だ。そのため、ブクブクーを復活させる際はどの水を使えばよいか、那覇近郊の井戸水などを1つずつ調査したという。何しろ戦後50年余り、もう知る人もなくなった茶を復活させる苦労は並大抵ではない。安次富さんとお母様などで、努力を重ねた結晶だ。因みに戦前はブクブクーと呼んでいたが、今では茶を付けないと沖縄の人も分らないという。

 

1つ言えることは、富山のバタバタ茶とは同じ振り茶の系列だが、その成り立ちは明らかに違い、また茶道ともい一線を画すことだ。その独特な手法と成り立ちは他に例を見ない。そしてその起源は謎のままだという。中国などでも見たことはない。ブクブクーは一体どこから来たのだろうか。

 

お見せで頂いた沖縄そばは思った以上に美味しかった。木炭すぱ、麺はこしのある沖縄そばで、かつお出汁のスープは抜群に美味い。古代米おにぎり、というもの、モチモチしていて旨い。何故この店が行列していたのか、それはブクブクーではなく、この麺が目当てだったのだ。納得!Aさんには本当に感謝だ。

沖縄で突然茶旅2018(5)軽便鉄道から茶房へ

金川をなぜ『かにがわ』と読むのだろうなどと考えながら、車に乗り込んだ。急に陽の光が差し込んできた。Hさんが『このまま帰るのもなんだから、今帰仁でも行きますか』と誘ってくれた。今帰仁(なきじん)もどうしてこんなふうに読む(または書く)のだろうか。沖縄の底は深い。

 

今帰仁城(なきじんぐすく)は世界遺産にも登録されている。前回Hさんに連れて行ってもらった座喜味城と同様だが、こちらの方が更に整備されている印象がある。天気が良くなったので、砂漠に建っているような城に向かい、勇んで門を潜り、石段を上って行く。思ったより規模が大きい。ここは琉球王国成立前からある城で、北山王が治めていたという。規模は首里城と同じぐらいらしい。

 

上に登ると、海まではっきり見えている。ここも交易の1つの中心だったのだろう。ただ建物はほとんど残っていない。本丸以外にも西の丸と言った感じのスペースが残っていた。女官部屋があったとも伝えられ、御嶽もあったという。城の中に御嶽というのが、いかにも琉球だ。そんなことを思いながら、城壁を眺めていると、一転俄かに掻き曇り、雨が降り出した。最初は笑っていたのだが、その降り方は尋常ではなく、石段を転ばないように退散するも既にびしょぬれ。

 

まさかあんなにいい天気だったので、傘を車に置きてきたのが失敗だった。小降りになるまで売店の前で雨宿り。そこは如何にも雨宿り、という場所だった。15分ぐらいすると、また明るくなり出し、何と虹がかかり始める。これは何のお告げだろうか。このまま帰るのもどうかと思い、歴史文化センターという建物に入って、歴史を学び直した。

 

夕暮れ時、海岸線を車は走っていく。以前屋我地島に泊まりに行った時に、通った道だ。暗くなった頃、食堂に入る。ここでは海鮮が食べられるというので、海鮮丼をお願いしてみた。お客の半分以上は中国人など外国人、いかにも沖縄で海鮮を食べようという人々だ。彼らを当て込んでいるのか、料金は高め。

 

更に帰ろうとすると、何と道路の反対側の駐車スペースは既に門が閉められてしまっていた。一瞬これでは帰れないかと観念しかけたが、暗い道をよく調べたら、車が何とか通れる道が存在しており助かった。何だか今日は天気同様、晴れたり曇ったりだったが、やはり腰の具合はよくない。

 

1月13日(土)
軽便鉄道から茶房へ

翌日も天気は良かった。天気が良いと腰の調子も上向く。今日はやはりTさんの紹介で、南城市に住む、お茶を研究していた方を訪ねることになっていた。土曜日なのに申し訳ないな、と思っていると、思いがけず、『軽便与那原駅舎』に来て、と言われる。軽便鉄道と言えば台湾ではおなじみだが、沖縄にもあるのだろうか。

 

今日もHさんの迎えで車に乗る。まずは腹ごしらえということで、沖縄では根強い人気のあるファーストフード、A&Wに向かう。ハンバーガーのセットにルートビアをチョイス。ルートビアは美味しい。お替り無料と聞いたが、さすがにこの気候で2杯は飲めなかった。因みに今日は土曜日。基地で働くアメリカンの家族や米兵たちが来ていた。

 

それから与那原駅舎へ向かうが、道が意外と狭くてちょっと探す。ようやくたどり着くと、そこはきれいな駅舎。戦前走っていた軽便鉄道は、時代と共に完全に姿を消し、最近復活したらしい。そこではTさんが一人で業務をしていた。彼を訪ねた理由は大学で沖縄茶について、卒論を書いたと聞いたからだった。ただやはり資料はそれほどないとのことで、沖縄の茶の歴史を調べるのは簡単ではないと思い知る。

 

だがこの駅舎に来たことにより、1つのことに気が付いた。それは戦前、沖縄と台湾は日本政府から同様の政策を持ち込まれ、同じような作りになっていたということだ。しかも残念ながら、沖縄よりも台湾の方が早くに成果が出たようで、多くの資本が台湾に注ぎ込まれ、沖縄は遅れて行ったという歴史だ。同時に地理的にも近いこの2つの場所。台湾が栄えれば沖縄人が出稼ぎに行き、沖縄に戦火が迫れば、台湾に疎開した、という歴史もあるようだ。これは意外と思いつかなかったので、今後はもう少し沖縄と台湾についても調べを進めたい。

 

それからTさんよりアドバイスを受けて、南城市にある茶房一葉を訪ねる。与那原から南城がこれほど近いとは思ってもみなかった。そして茶房が、本当にサトウキビ畑の近くにあるので、驚いた。ここは知らなければ絶対に来ることができない場所だった。お店に入ったが人はいない。

 

てっきりTさんが連絡してくれていると思って、店主のUさんに話しかけたところ、先方が驚いている様子にこちらも戸惑う。何と私の連載記事を読んでくれていたのだ。初めて会うのに、10年ぐらいの知り合いのようになる。茶旅では偶にあることだが、一番驚いたのは一緒に来たHさんだったかもしれない。

 

それから沖縄の茶について色々と話を聞いた。清明茶なども出してくれた。Uさんは独自に何度も台湾に行っており、様々な茶産地を巡っていた。更に驚いたことには、昨年タイでご一緒したT先生が明後日ここに来てセミナーをやるというのだ。どうやら名護の試験場で年1回の紅茶品茶会があるらしい。その会には佐賀のOさんも来るという。何も知らずに来てしまったが、どんどん繋がってくる。

 

お客さんが何組か来たのだが、結局最後までお店にいてしまった。それほど居心地がよかったということだ。突然の訪問にも拘らず、Uさんには歓待してもらい、嬉しかった。一人でここに来ることは難しそうだが、次回も何とかやって来ようと思う。

沖縄で突然茶旅2018(4)清明茶と金川紅茶

Iさんに送ってもらい、一度宿へ戻る。今度の部屋は椅子なので、先ほどまでの苦労はないが、2階から4階へ上がったため、階段を歩いて上がるのがしんどい。本当に老人のように腰を曲げて、よちよち歩いていく。少し休んでから、早目に夕飯を食べようかとまた外へ出た。夜になれば寒さが増すので、腹は減っていないがやむを得ない措置だ。

 

国際通りの方に歩いていくと、昨日閉まっていたお茶屋のことを思い出して、もう一度寄ってみた。何とお店は開いていた。そしてその扉には『清明茶あります』という嬉しいお知らせまであった。中に入ると、店主が店仕舞いしようとしていた。まさに奇跡的に出会えた感じだ。

 

さんぴん茶はピンクの紙に細長く包まれているものが、昔からの包装だという。ただ中身は中国製だと。もっと上等なさんぴん茶もあったが、こちらも中国製らしい。そして清明茶を見せてもらうと、何となく中国で昔見た珠茶のような雰囲気があった。球茶はジャスミン茶の一種であったが、この清明茶はどうだろうか。

 

店主によれば、これは台湾産だというが、今や沖縄でも清明茶を扱う小売店は2-3軒しかないらしく、どこも量が少ないため、問屋経由で購入しているらしい。『清明茶を買うお客さんはもうほとんどいない。清明茶というお茶を知っている人すら稀な状態だ』というのだから、仕方がない。昨日図書館で見た清明茶の説明は『中国茶の総称』のように書かれていたが、本当にそうなのだろうか。清明節前後のお茶と言う意味にも取り難い。

 

モヤモヤしながら外を歩く。昨日図書館で紹介された本を探しにジュンク堂へ向かう。腰は痛いが、座っているよりマシな気がして歩いていく。『しまくとぅばの課外授業』という本にさんぴん茶の由来なども書かれており、また沖縄の地名についても詳しいので、読んでみようと購入。尚ジュンク堂の2階は沖縄関連図書の宝庫だった。もし購入が必要であればまずはここを探そう。

 

ジュンク堂から宿までは意外と遠いが、ゆいレールに乗るのも何なので、ゆっくり歩いて帰る。途中街の食堂を発見したので入ってみた。何とステーキが880円だというので注文する。サラダにスープ、ご飯までついて、そこに立派な肉が登場した。店員さんはブラジル辺りの人だろうか。今日も食べ過ぎてしまったが、それは沖縄が悪い!帰り道は風が冷たいのに、なぜか心は温かかった。

 

1月12日(金)
名護へ

翌朝は更に寒かった。小雨も降り出しそうだ。腰は小康状態ながら、あまり無理できる状況にはない。外へ出ることを諦める。午前10時前、Hさんが迎えに来てくれた。今日は名護へ連れて行ってもらう。名護郊外の茶農家を訪ねるのだが、その前にランチをしようということで、名護アグリパークへ行く。

 

ここはかなり敷地が広く、地元の物産を売り、レストランもある。県のプロジェクトのようだ。沖縄には補助金が沢山出ているな、などと感じてしまう。おしゃれなレストランでランチを注文するが、やはりどことなく涼しい。ただこんな日でも宣伝のための撮影が行われており、店の人が申し訳ないと言って、こちらで採れた芋などをくれた。食事は地元やんばるで採れる旬の野菜をふんだんに使っており、優しい感じがした。

 

食後、売店に寄ってみると、沖縄産の紅茶を販売していた。よく見ると、これから訪問する予定の金川紅茶と書かれていたので、特に購入もせずにスルーしてしまった。緑茶も売っているようで、名護にはお茶の雰囲気があると感じたが、勿論土産物全体から見ればほんの少量だった。

 

車で15分も行くと、目的地の金川紅茶に着くはずだったが、なかなか見付からなかった。何とか茶工場らしき場所を発見したが、看板すらない。仕方なく電話するとその横にご自宅があり、比嘉さん親子が温かく迎え入れてくれた。ここは埼玉のTさんの紹介で訪問したが、どのようなお茶を作っているのかは正直分かっていなかった。

 

ただご挨拶をして、金川紅茶の話を聞いて、昨年の国産紅茶グランプリで第1位を取ったお茶だと思い出した。これは若い息子さんが、非常に熱心に製造法などを研究した結果生まれたものであった。彼発に冷静に物事をみているようで、1番を取ったという気負いもなく、むしろ常に上を目指すという姿勢が素晴らしかった。

 

勿論その基礎となるのは、お父さんが数十年かけて培った茶栽培であり、それはおじいさんの代まで遡る。1960年代には、台湾からの茶の輸入に対して、沖縄独自のお茶作りが奨励された様だ。沖縄復帰後は内地の緑茶需要に応えて、蒸し製緑茶を製造して、皆内地に送っていたが、その需要も細っていた。

 

午前中、数年ぶりに霰が降ったという寒さの中、暖かいお部屋で温かい紅茶を飲ませてもらい、非常に有意義な時間を過ごしたが、肝心の紅茶を購入したいと申し出ると『申し訳ないが、全て売切れ』という返事だった。それほどの産量がなく、また受賞で注目されており、品不足だった。ただ先ほどアグリパークに売っているのを思い出し、すぐに取って返して、3パックを確保した。そんなに需要があるなら、もっと作ればいいのに、と考えるのは素人だろう。品質を保つことはそれほど簡単ではない、と教えられる。

沖縄で突然茶旅2018(3)元台湾人茶商と会う

1月11日(木)
お茶巡り

翌朝も寒かった。何と朝起きてフッとかがむと、ぎっくり腰が再発してしまった。腰痛はもう30年前に最初にやってしまったもので、最近は出ていないから安心していたのだが、まさか沖縄で再発するとは思いもよらないことだった。幸い何とか歩けるので、今日の活動に直接的な支障はないが、この畳の部屋で寝起きする、そしてPCを座って打つのは苦行となってしまった。

 

しかし今回の沖縄、4日程度で失礼するつもりが、どんどん色々な方の支援で予定が入ってきて、とても4日では消化しきれず、昨日7日に伸ばしてもいた。ちょうど泊まっている民泊の部屋は延長した3日は塞がっていたので、洋室に変更してもらうことになる。この辺はかなり運がよかった。もしそのまま畳の部屋だったら、動けなくなっていたのかもしれない。

 

更にはエアコンで部屋を暖かくしたので、多少マシにはなる。常に持ち歩いているタイガーバームの湿布薬を貼り、何とか凌ぐ。もう2年半ぐらい前になるか、ミャンマー激走の列車旅で腰を痛め、タイのメーサイで療養した際に重宝したものだった。こういう時は日本製より強烈なアジア製が役に立つことも知っている。

 

取り敢えずコンビニに行き、ホッカイロも手に入れ、万全の態勢を取る。ついでに昨日気になっていた、うちなーおにぎりセットも購入。これはポーク卵とタコライスが入っている。これでさんぴん茶を飲めば、いかにも沖縄らしい。ただ沖縄の人が朝から皆こんなものを食べているとも思えないが。

 

今日はお知り合いのIさんに案内してもらうことになっていた。彼女も忙しい予定をやりくりして1日付き合ってくれるのだから有り難い。まずは車で比嘉製茶へ向かった。そこの社長とIさんは仕事上の付き合いがあるというので訪ねた。沖縄の茶業では最大級の会社らしく、さんぴん茶もかなりの量を取り扱っている。

 

社長の比嘉さんは30代半ばとまだ若かった。聞けば高校時代は野球で甲子園に行ったとか。会社自体は戦後すぐにお婆さんが始めたらしい。昨日見付けた比嘉茶舗がその店舗だったが、2年前にお婆さんは引退して、引き継いだおじさんは時々しか店を開けないらしい。さんぴん茶については、現在は中国から輸入しているといい、台湾産はほぼない。そのさんぴん茶、今は緑茶ベースだとも言う。なるほど、2種類存在するのかもしれない。沖縄でもお茶自体の需要が落ちているとの話もあり、飲料の多様化が窺われた。

 

お昼は沖縄そばを食べた。チキンそばというのが目を惹いたが、何とそばにチキンカツが入っているというのが凄い。誘惑に耐えかねて頼んでみると、何ともカツがデカい。かなり脂っこいことを覚悟して口にしたが、意外やあっさりで、野菜も入っており、自家製ちじれ麺も美味しい。Iさんはダイエット中とかで、小食だった。3年ぶりに見た彼女は、以前に比べてスリムになって、シャープな雰囲気に変身している。

 

昼過ぎに、5年前にも行った琉求茶館を訪ねた。ここは沖縄でも珍しい台湾茶芸館だ。前回はランチを頂いたが、今回はこの期間中はランチなしだというので、メニューにない阿里山高山茶を頂く。雰囲気の良い店内で、自ら茶を淹れ、ゆっくりその香りと味を楽しみながら、Iさんを話すことができた。気が付くとかなりの時間が経っており、周囲はお客さんで埋まっている。こういうお店のニーズはあるんだな、と感じる。

 

突撃派のIさんは、何と台北駐日経済文化代表処の那霸分処とアポを取ったというのだ。そこは実質的には那覇領事館に当たる場所。そこの処長に面識もないのに電話を入れたというからその行動力は凄い。行ってみると日本駐在が非常に長い蘇処長が快く向かい入れてくれた。そして交流協会の雑誌を取り出すと、毎号送られてきているから知っているという。更には台湾と沖縄を繋ぐ音楽関係者の共通の知り合いの名前も出てきて、一気に親密感が増す。さすが台湾だ。緊張がほぐれる。

 

蘇処長が『お茶の歴史はよくわからないので、Tさんに来てもらった』というと、そのTさんが入って来た。90歳近い年齢だというが如何にも元気で、何とここまでバイクでやって来た。元台湾人で、二二八事件の際に、難を逃れて宮古島に渡ったという。当時は戦後の混乱期、台湾から沖縄の島へ船で渡る人も多かったらしい。宮古で農業をしたのち、那覇でコックになり、そして1950年代半ば、茶商となったという。

 

さんぴん茶を大量に台湾北部から輸入していたという。それは包種茶だともはっきり言う。大稲埕の茶商を訪ね、その加工現場も見たらしい。沖縄と台湾は食生活が似ており、脂っこいものを好むから、発酵茶ベースのお茶の方が好まれたともいう。さすがコック経験のある方に言われると説得力がある。

 

だが1960年代、既にTさんは茶商に見切りをつけていた。伊藤園の前身の会社が新しいお茶のパックを開発した時、『もう茶問屋の時代は終わり、誰でも茶葉が詰められ、スーパーで自由にお茶が売られる』と確信したらしい。国際情勢も変わり、日本と台湾も断交し、お茶の流れも大陸に変わっていく。Tさんは今、隠居の身だと言いながら、野菜栽培などの研究をしているというからすごい。

沖縄で突然茶旅2018(2)深まるさんぴん茶の謎

1月10日(水)
朝の散歩で

翌朝、気温を見ると14度だった。しかし気温以上に部屋は冷えていた。むしろ外へ出た方が良いかと思い、散歩に行く。宿から県庁へはすぐだった。折角なので、沖縄のお茶市場を見てみようと思ったのだ。取り敢えず県庁前のスーパーへ行ったが、まだ開いていなかった。そこで更に国際通りを歩いていく。

 

結局公設市場の辺りまで歩いてしまい、中へ入っていく。そこにはお土産用としてさんぴん茶が売られていたが、何とその価格は50g、98円だった。ティバッグとはいえ、こんなに安いお茶があるのか。裏を見ると中国産だと書かれているが、衝撃的だったのは、『茶(半発酵茶)花(ジャスミン)』とあるではないか。香片茶と言えば、緑茶ベースのはずだが、なぜ半発酵茶と書かれているのか。大いに疑問が残る。

 

ずっと奥の方まで歩いていくと、桜坂という辺りに古びた建物が見えた。比嘉茶舗、と書かれたお茶屋さん。ここなら伝統的なお茶が買えそうだったが、どうやら既に店を辞めているように見える。比較的近くに新しい比嘉製茶というお店があったので、そちらに移ったらしい。

 

実はネット検索やFBの友人情報では、沖縄のお茶が買える店として『茶仙』という名前が挙がっていた。折角なので、スマホマップで探してみたら、国際通りからちょっと入ったところにあった。ただここも店は閉まっており、営業しているのかどうかも分からない状態だった。まだ朝早い時間だったので、もう一度午後トライしてみようと思い、宿へ引き返す。

 

宿の横にはファミリーマートがあり便利だ。そこで取り敢えずポッカの元祖さんぴん茶という茶飲料を買ってみる。この寒い中、暖かい飲み物がよかったが、何となくさんぴん茶が頭から離れず、つい手を出してしまった。確かにこれはジャスミン茶であり、すっきり感もある。ただここに発酵茶が混ざっているのか、緑茶が混ざっているのかは判然としない。

 

琉球大学へ
11時前に大学の先輩、Nさんが迎えに来てくれた。Nさんとは5年前のヨーガ合宿で出会い、同窓という枠を超えて、同じ興味を持つ者として、教えを乞うている。今回も沖縄茶の歴史を調べたいというと、快く琉球大学に連れて行ってくれた。琉球大学は宿のある市内中心部から車で30分以上かかる場所にあり、車に乗せてもらえて大いに助かる。

 

琉球大学の敷地は広々としていたが、天気が悪く、寒々ともしていた。ちょうど昼時なので、まずは学食でご飯を食べる。学食、という響きが久しぶりでよい。私とTさんは西ヶ原の狭いキャンパスで同時期に学生生活を過ごしたが、面識はなかったはずだ。40年近い時を経て、一緒に学食でランチを食べるのは何とも愉快だ。Tさんは人気のある先生のようで、多くの学生から声がかかり、皆笑顔なのがよい。きっと型にはまらない授業をしているだろう。

 

そして調べ物をするため、図書館へ行き、Tさんの紹介で中へ入れてもらった。更には資料検索の仕方、本のある場所なども教えてもらい、大いに助かる。琉球・沖縄関連本は一か所にまとまっておかれているので、そこを見るだけでも実に様々な本があった。ただお茶に関して直接書かれている本は殆どなく、この分野への関心は高くないと分かる。事典類などからさんぴん茶を引いてみるも、載っていないものさえあり、ちょっと驚いた。

 

ようやく清明茶というお茶の存在、そして包種茶と台湾という文字がちらほら出てくるのには、相当の時間がかかった。むしろ琉球と清朝の朝貢貿易などの側面からお茶を見る方が主流なのだと分かる。また沖縄独特のブクブクー茶についての本も眺め、いよいよ興味が深くなる。

 

あっという間に4時間近くが経過した。図書館から出ると、霧雨が降り、風も冷たい。沖縄はこんなに寒かったかと、しみじみ思う。駐車場には元職場の後輩Hさんが待っていてくれた。わざわざここまで迎えに来てくれたのだ。何とも有り難い。数年前に会社を辞め沖縄に移住した彼とも3年ぶりの再会だった。

 

車でイオンライカムへ向かう。このモールはちょうど3年前、私が沖縄に来ていた時に米軍施設の跡地に出来て、周囲は大渋滞だったと聞いていたところだ。ただ今日は平日にこの寒空。さすがにお客は少ない。何となく開店当時のホーチミンやプノンペンのイオンを思い出す。ここで夕飯。何と沖縄に来たのにパスタを選択してしまう私。何故だろうか。時々食べたくなるのだ。

 

Hさんとは近況などを話す。私の方は相変わらずだが、彼の方は様々な活動をして、家も引っ越し、沖縄へ溶け込んでいるようだ。10数年前、沖縄移住ブームというのがあったが、結局は沖縄に馴染めず、半数以上の人が沖縄を去ったという話を聞いたことがある。やはり安易な移住は止めるべきだし、移住するなら現地に溶け込まなければダメだろうと強く感じる。