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バンコックの茶商を訪ねて2018(2)バンコックの2大茶商をついに発見

途中にきれいな寺があり、これかなと思って入ってみたが、違っていた。そこのお坊さんに中国語を使ってみても全く反応がなかった。ただここにお参りに来ている華人は結構いるようで、漢字の写真付きのプレートは嵌っていた。我々が思うチャイナタウンからは、だいぶ離れてきたように思われた。

 

更に進んでいくと、狭い路地のようになっていく。その奥にその廟、清水祖祠があった。奥の割には意外と大きい。そこにいた女性に声を掛けると一人は流ちょうな標準語を話した。この付近にはやはり福建系が多いらしい。そしてこの廟はあの福建省安渓にあった清水岩寺の分家だと分かりハッとする。

 

この廟の横はもうチャオプラヤ川なのだ。100年以上前、この辺りでは活発な貿易が行われていたに違いない。そして福建華僑の人々はここにお参りに来たはずだ。ちょっと暑いがいい風が吹いている。そこのおばさんが、『コーヒーを飲むいい場所がある』と案内してくれたのが、近くの見事なお屋敷。

 

昔コメ貿易で財を成した潮州系一族が暮らしていたようで、古い建屋が建っているのだが、今は末裔がダイビングをやるため、庭の真ん中はプールという極めて特徴的な場所だった。2階に一族関連の展示が少しあるが、ここも川にほぼ隣接しており、往時は米の輸出を激しく行っていたと想像できる。2階で冷たいお茶を啜ると心地よい。タイ華人や白人が来ており、穴場の観光地と化している。

 

取り敢えず腹が減ったので、ヤワラーに戻り、飲茶を食べる。ちょっと暑かったこともあり、そこで休息方々、2時間以上もしゃべり続けた。その後Oさんとは別れ、Mさんともう一つの調べに出掛けた。前回ここに来た時、台北の有記茶荘のお茶を売っている、と言っていたところがあったが、今一つ言葉が通じなかったので、Mさんを通訳に確認に行く。

 

そこはやはり、王有記の店だと分かった。有記は2代目がバンコックで開業しており、その末裔かと思ったが、それもちょっと違うらしい。この店のオーナー、4代目は不在だということで詳しいことは分からないが、店の男性は『実は王有記はもう一つあるよ』というではないか。

 

その場所を彼は簡単に説明してくれ、遠くはない、と言ったので、何となくその方向へ歩き出した。ところがタイ語で確認していたMさんは『そんなに近い訳はない』と言い出し、周辺で聞き込みを始める。でも誰も知らない。仕方なく、唯一得た場所のキーワードを頼りに、トゥクトゥクに乗り込み向かう。かなり走った後、政府機関の前で停まる。

 

もうこの辺はヤワラーではないが、漢字の看板は多い。飛び込みでMさんが聞き込みすると、何と近くにあることが分かり、ついには発見に至る。そこにはきちんと漢字で王有記と書かれているではないか。店の女性に聞いたがよく分からない。そこに4代目店主の女性が帰ってきて中国語で話が聞けた。この店の前身は約100年前に開業した、まさに2代目有記だった。もう感激だ。

 

色々と話を聞いたが、取材された英語記事なども見せてもらい、理解を深めた。今は姉弟で経営しているというが、跡取りはいないので、今後がどうなるかはちょっと心配だ。ヤワラーのような観光地ではないので、中国人や台湾人観光客も期待できない。地元民はどんどん茶を飲まなくなっている。さて、どうなるのか。

 

そこでタクシーを拾った。午前中に訪ねて引っ越した人と連絡が着いたのだ。ただそこはヤワラーからは遥かに離れた場所だった。車に揺られて30分以上かかった。一体どこへ行ってしまうのだろう。着いたところは立派な中華レストランだった。そして2階に上がると、そこにリバービューの席がある。夕暮れのチャオプラヤを見ながら、美味しい広東料理を食べた。

 

ここのオーナーはどこにいるのか、ずっと待っていたが来なかったので、もう一度聞いてみると何と隣で食事をしていた女性だった。この人が我々の探していた建峰茶荘の末裔。茶荘を閉めてレストランを興したのかと思っていたが、一応今も茶荘は続けていると言い、1階に看板も置かれていた。ついにここまで辿り着いたか、と感激はひとしお。今回はこれで目的達成と喜んだが、更にここで次の手掛かりを得る。茶のご縁はどんどん繋がっていく。

 

10月5日(金)
ヤンゴンへ

翌朝もコーヒーを飲んでチェックアウト。タクシーでドムアン空港に向かう。今日も又道は極めてスムーズで、30分以内で空港に到着した。朝ご飯を食べていなかったので、周囲を見渡すと、和食の看板があったので入ってみた。だが出てきたのは和食というより、もどき。それでもまあ食べられるのでよい。サボテンがあった時代が懐かしい。

 

今日は珍しくエアアジアに乗る。最近はこれに乗る必要がなく、何となく敬遠していたが、今回は時間の関係で乗る。私が買ったチケットにはなぜかご飯をついており、私だけが食べることになって恥ずかしい。皆ヤンゴンへ行く時荷物は手荷物だけなのだろうか。1時間のフライトでは食べ物は要らない。

バンコックの茶商を訪ねて2018(1)リベンジのヤワラー探索

《バンコックの茶商を訪ねて2018》  2018年10月3-5日、12-15日、21-23日

僅か1か月ちょっと前に行ったばかりのバンコック。今回はビザ免除になったミャンマーに行くついでに、ほんのトランジットのつもりで飛んで行った。だが1か月前のヤワラー攻略戦の不完全燃焼を抱えたままでは終われない。ちょうどバンコック在住のMさんが、タイ語の部分をサポートしてくれることになり、ある資料を手掛かりに、再度ヤワラーに分け入ることとなった。

 

10月3日(水)
バンコックまで

久しぶりに早起きした。午前4時、長男はバイトから帰ってきていた。午前5時過ぎの電車に乗って成田空港を目指す。7時半前に成田空港に到着したが、この空港はまだ完全に起き上がってはいなかった。店は7時半から開くらしい。今回選んだベトナム航空はすぐにチェックイン出来た。

 

3年前に同じベトナム航空でハノイ行きに乗った時は、確か1時間以上並ぶ羽目になった。その悪夢から逃れただけでもよかった。とにかくベトナム航空は安い。ベトナム経由のバンコック往復が3万円台、当然乗る人は多いと思っていたが、嘘のように人がいない。早過ぎただけなのか。

 

なぜかUAのラウンジが使えるというので行ってみたが、何と午前8時開門だった。どういう連携になっているのだろうか。実はベトナム航空はスカイチームの一員でありながら、最近ANAが資本参加しているというねじれ現象を起こし、複雑な状態になっていた。国内ではべトジェットに追い上げられているとも言われ、内部事情は厳しいのかもしれない。

 

やはり満席にはなっておらず、ゆったりと座席に着いた。フライトは順調、安いけれどLCCではないので、立派な機内食も出る。ほぼ寝込んでいると5時間ちょっとでハノイ空港に着いた。ここで2時間トランジットして、そのままバンコックに向かう。空港はきれいだが、特に何もないので退屈。トイレから外がきれいに見えるのはちょっと驚き。外からも見えるのだろうか?

 

バンコック行のフライトは本当にガラガラだった。だが成田で既に発券されたチケットには窓側の座席が指定されていた。CAに『通路側でお願いしたんだけど』というと、ドアが閉まったら、どこへでもどうぞ、と言われる。最近は指定された座席にしか座ってはいけない、と言われることもあったので、有り難く移動した。また機内食が出る。食べる。これは完全な赤字路線だ。夕日がきれいだ。

 

午後6時にはバンコックに到着した。シムカードを購入すると、同じAISなのに、8月のドムアンより100バーツ高い。何故なのだろうか。訳が分からないが購入するしか選択肢はない。電車に乗って定宿に向かう。ベトナム経由で丸1日が暮れ、暗くなって宿に着く。

 

10月4日(木)
ヤワラーリベンジ

翌朝はいつものようにコーヒーを飲む。終わるとすぐにMRTに向かう。今日はヤワラー調査のリベンジを決行する。ファランポーン駅まで行き、そこからは歩いてワット・トライミットへ。バンコック在住のMさんとインド在住で以前バンコックにも住んでいたOさんとの待ち合わせ場所を、有名なお寺にしたつもりだったが、二人とも、『初めて来た』というので、かなりビックリした。在住者は観光地には行かないものか。確かに日本人観光客は多くはないかも。

 

取り敢えずの手掛かりは、手紙のレターヘッドに書かれた茶荘。中国語で住所が書かれていたが、タイ語で何と言うか分からない。そこを解決したMさん、スマホでその場所へ連れて行ってくれた。だがそこの門は固く閉まっている。隣の人にタイ語で聞いてもらうと、数年前に引っ越していた。そこで手掛かりは途切れた、かに見えたが、後で奇跡が起こることになる。やはりMさんとOさんの二人のタイ語力は相当に役立った。中国語にプラス現地語、これが華人調査の基本だと知る。

 

取り敢えず、前回福建会館で教えてもらった廟に行ってみることにした。歩き出してすぐに、正大と書かれたビルに出会った。正大といえば、タイの華人が設立した大企業、あのチャローンポカパーン集団の中国語名なのを思い出すが、なぜこの小さなビルにこの名前が付いているのか。念のため警備員に聞いてもらっていたところ、車から降りてきた男性が英語で話しかけてきた。

 

ここがなんとあの大企業の創業の地だったのだ。そしてその男性は、創業者の孫世代に当たる一族の人であり、非常に驚いた。タイでは有名企業だが、タイに住む日本人はこの漢字の企業名は知らない。私のような者が歩いて初めて発見できるということを知る。タイ語も必要だが、中国語も必要であり、しかも一定の知識があれば、歩きは俄然エキサイティングになる。3人ともノリノリになっていく。

熱暑の関西茶旅2018(5)ティーツーリズム

7月25日(水)
和歌山大学ワークショップ

翌朝は皆で朝ご飯を食べた。この宿舎には食堂があり、住人は三食をここで食べることができる。確かに周囲に食堂などはあまりなく、学生にとってもここでの食事は重要だろう。朝飯は300円でビュッフェスタイル。好きなものを好きなだけ取って食べる。昔の学生なら大喜びだろうが、今はどうだろうか。パンや卵を取って食べる。因みに昼と夜はメニューが出ており、各500円だというから有り難い。

 

その後N氏とピアポーン先生はどこかへ出掛けていき、私は疲労が溜まっていたので、ワークショップの準備をしながら、部屋で休息していた。12時前にアムナーさんが迎えに来て、会場へ案内され、そこで資料のチェックなどを行った。それからランチ、さすがに学生で混んでいたが、何とか席を確保して、大型のオムライスを食べる。これはどう見ても男子学生向きで量が多い。

 

午後はアムナーさんの授業を見学した。思いの他多くの学生が授業を取っており、観光学に対する興味のほどが窺われた。今日の授業はちょうど、各グループが外国人向けに京都和束の旅をアレンジする旅行商品を発表することになっていた。アムナーさんは基本的に英語で授業しており、時々日本語を交ぜている。発表も勿論英語、プレゼン資料も英語だった。

 

学生にとっては外国人を迎え入れる旅行会社のようなことをするのは、経験がなければ極めて難しいと思う。そんな中、和束を訪ね、色々と工夫して旅をアレンジしている様子は、前向きでなかなか良かった。今政府が推進している訪日客数の増加ありきの政策ではなく、満足が得られる、リピーターが増えるアレンジをしてもらいたいと感じた。

 

授業が終わるとそのまま、ワークショップになだれ込んだ。参加者は学生と学内の先生だけと思っていたが、学外からも大勢来ていたので、驚いた。ピアポーン先生がタイのティツーリズム(ロイヤルプロジェクトなど)を説明、N氏は日本とアジアの茶業の現状を細かく説明していた。私はアジア各地で実際に行われているティーツーリズムを自らの経験に基づき紹介した。果たしてどこまで役に立っただろうか。

 

 

その後、ピアポーン先生がタイ茶を淹れ、私が持ち込んで台湾茶をTさんに淹れてもらって、参加者で飲んでみた。やはりティーツーリズムにはお茶がないと始まらないだろう。参加者同士の交流も行われ、お茶を通じた地域交流、世代を超えた交流会になっており、良かったなと感じる。

 

夜はTさんの車に乗せてもらい、市内へ出て、刺身や焼き物など美味しい物を沢山食べた。日本に何度も来ているピアポーン先生だが、焼き鳥が入ったサラダをお替りしていた。やはり刺身に慣れているとは言っても、ガイヤーンの方が更に慣れているのだろう。Tさんには大学まで送ってもらい、お手数を掛けてしまったが、これも3月のご縁ということで楽しい夜だった。

 

7月26日(木)
大阪セミナー

翌朝は早く起き、宿泊先を出た。午前7時、駅まで行くバスはまだないので、荷物を転がしながら歩いて向かう。大学前駅に着くと、そこそこ乗客がいた。もうすぐ特急サザンが来るというので、大きな荷物も邪魔かと思い、急いで特急券を買って座っていくことにした。こんな贅沢、良いのだろうか。

 

指定席はそれほど混んではいなかったので、ゆったりと過ごす。途中からだいぶ人が乗ってきたが、それでも満員ではなかった。やはり510円払って1時間座るというのは贅沢なのか。田園風景がずっと続いていたが、その内、街がどんどん飛んでいく。一昨日乗り換えて慣れている新今宮で降りて、JR大阪駅へ向かった。

 

この旅で何度も来ている大阪駅ではあるが、今日のセミナー会場は駅前に沢山あるビルの一つであり、正直よそ者には分かりにくい。地下をぐるぐると回り、何度かへこたれながら、それでも3月に来ていたので、何とか辿り着いた。Mさんとお手伝いの皆さんが暖かく迎えてくれ、大勢のご参加を頂き、午前午後のセミナーも無事に終了した。3月に開催したばかりなのに、本当にありがたい。

 

セミナー終了後、東京に帰る前に、『たこ焼き食べましょう』と誘われ、2月にインドで食べたい病に掛かって以来、念願のたこ焼きにありつく。関西ではたこ焼きは家で作って食べるもの、ということもあり、大人数でたこ焼きを食べられる場所をわざわざ探してもらったようだ。そこには普通のたこ焼きもあるが、ネギマヨ、ゆず塩ポン酢、濃厚チーズなど、予想外のたこ焼きが沢山並んでいて驚いた。確かに普通のものを食べるなら家で、となれば、店側も工夫するのだろう。

 

皆さんと楽しくお話しして、腹も膨れた頃、新大阪に向かい、新幹線に乗り込んだ。今夏の旅はとても暑かったが、それなりの収穫もあり、また普段は見ないようなものも見られてとても有意義だった。次回はもう少し涼しい時期に再訪しよう。

熱暑の関西茶旅2018(4)孫文記念館から和歌山大学へ

7月24日(火)
孫文記念館

今日も快晴だった。天気が良いのは悪いことではないが、こう暑いと動きが鈍い。結局わざわざ三宮まで来て2泊もして、何もしていないような気分になってしまい、やはりここは孫文記念館を訪ねることにした。そこがそんなに遠いとは思っておらず、相変わらずの無計画が露呈しているが、それが私の旅だろう。

 

JRで明石の方向へ舞子という駅まで揺られていく。この駅で突然気付いたことは、ホームにあるベンチが全て、電車の進行方向(またはその逆)に並んでおり、ちょっと異様に見えた。少なくとも関東では見たことがない並びだ。後で聞くと、これは転落防止のために作られているという。ホームが傾斜しているので、酔っ払いの他、ベビーカーなども落ちる危険があるようだ。関東にも一部あると教えられたが、それなら全部そうすればよいのではないだろうか。

 

遠くへ来たもんだな、と駅を出ると、何だかちょっと現代的で驚く。そして向こうに海が見える。更にはチラッと橋も見える。ここが明石海峡大橋のある場所だとようやく気が付いた。そしてお目当ての孫文記念館はその雄大な橋のたもとに立派に建っている。実にいい景色だ。

 

八角形の中国式楼閣『移情閣』は1915年に建造された現存する日本最古のコンクリートブロック建造物だという。華僑の貿易商、呉錦堂の別荘の一部をここに移築した。中に入ると、煌びやかで美しい。孫文ゆかりの品も展示されており、神戸華僑の歴史も少し学ぶことができた。何よりこの風景、いいな。

 

周囲も散策したかったが、時間があまりなかった。予想外にいいところだったので次回はゆっくり来よう。JRで三宮まで戻り、荷物をホテルに取りに帰って、またJR駅にやって来た。これから梅田経由で和歌山へ向かうのだが、昨日の予行演習もあり、今日はちゃんとJR大阪駅へたどり着く。

 

梅田経由和歌山へ
大阪駅ではIさんと待ち合わせた。Iさんは阪急沿線の人だが、私が間違えないようにJRまで迎えに来てくれた。何しろ以前彼女のところでセミナーをやった時、JRを乗り間違えて遅刻した苦い経験がある。それから大阪の電車はよく分からない、と思うようになっていたのだ。駅近くのビルの上のレストランへ行く。

 

ここはタイレストランで、ビュッフェスタイル。思えばIさんと会ったのもタイであり、一緒にカンボジアへも行った。何となくフワッとした人で、そこが何とも良い。タイ料理も意外と本格的で、美味しい。実はタイ料理は今やタイより日本の方が旨いのではないかと、思えるほど、日本で普及しており、日本人の口に合わせている。

 

ヨーガの話からアジアの話へ。どんどん話が進んでいき、取り留めはないが尽きることもない。途中でお腹は満腹信号を出していたが、構わず話し続けた。何だかとても懐かしい人に会い、昔話を延々としているような感覚になる。Iさんには申し訳なかったが、非常にすっきりして、次に進むことができた。

 

3月にも梅田から和歌山に向かったことがあった。その時はセミナーに参加していた方が途中まで同行してくれて、何も考えずに、和歌山まで行くことができたが、今回は一人。そして前回はJR和歌山駅だったが、今回は南海で和歌山大学駅前へ。仕方なく検索して、一番簡単なルートである、JR大阪-新今宮-和歌山大学前で行ってみた。

 

新今宮付近は近年外国人バックパッカーが沢山宿泊する安宿があると聞いており、一度は泊まりたいと思っているが、今回もまた大阪は素通りとなってしまった。新今宮駅でJRから南海に乗り換えるのはちょっと面倒だったが、関西空港に向かう外国人は私よりサクサクと乗り換えホームを目指している。

 

特急サザンという列車は一部が指定席になっているが、平日の昼間だから自由席でも十分に座れた。約50分で3月にも来た和歌山大学駅前に到着してしまう(JR和歌山駅へ行くよりずいぶんと近く感じられた)。これは確かに大阪への通勤圏だ。駅前で今回招いてくれたアムナーさんに連絡を取ると、何と出掛けており、こちらに向かっているらしい。私は大学行きのバスに乗ってしまったので、大学で彼を待つことになった。

 

今回は和歌山大学観光学部のワークショップに参加する。そのため、大学のゲストハウスに宿泊させてもらった。アムナーさんもここに住んでおり便利だ。ワンルームマンション、1か月5万円らしい。私が学生の頃は、こんな立派な、明るい部屋には住めなかったなあと感慨深い。ただゲストは与えられたWi-Fiの機械を自分で操作してネットに繋がねばならない。結局よく分からず、職員の方の手を煩わせることに。

 

夜は同じくワークショップで登壇するN氏及びタイのピアポーン先生と一緒に、歩いて和歌山大学駅前に戻り、イオンモールにあるレストランで食事をした。アムナーさんを入れたこのメンバーは、昨年7月タイ北部のお茶調査で出会っており、そんな茶縁がここに繋がるのだな、と面白く感じる。

熱暑の関西茶旅2018(3)南京町の歴史

7月23日(月)
南京町で

翌朝も快晴で朝から暑い。ホテルから南京町までは歩いて僅か10分程度で近い。南京町の歴史は神戸港が開港した160年前当時、外国人居留地の横に華僑が住み始めたのが始まりのようだ。だが残念ながらそんな資料が展示されているだろう華僑博物館は今日休館で見られない。この地域は戦後、米軍相手の飲み屋街などになっており、1980年代に中華門を作り、中華街として再開発して売り出したのは比較的新しい。かなり意外な歴史だといえよう。

 

南京町自体は決して大きくない。暑い中、歩いていくと、天仁銘茶など台湾系の茶荘が見えるが、これも1980年頃、南京町が観光地化した際に進出したものらしい。ここには残念ながら老舗の茶荘はない、と聞いている。だが南京町には今でも多くの華人が住んでいる。彼らはお茶を飲まないのか、飲むとすればどこで買うのかを聞いてみた。

 

東栄商行でしょう、と言われる。中華食材店、そういう目で見てみると、商店の店頭には安い烏龍茶やジャスミン茶が並べられている店がいくつもある。中華レストランで使われるお茶もここらあたりから、供給されているのだろう。ここのお茶は中国から仕入れているに違いない。南京町の一般の茶の歴史を辿るのはそう簡単ではない。

 

今日は月曜日で、観光客も多くはない。老祥記などの有名店も定休日で食べられない。仕方なく、海の方へ歩いていく。海岸通りには中華商会の立派なビルがあり、また100年程度前の建物がいくつも並んでいる。ここが当時神戸の国際貿易の中心地だったことが分かるが、その中に茶葉は含まれていなかったのだろうか。

 

道路を渡り、メリケンパークへ行く。ホテルオークラの向こう側、ここは遮るものもなく、直射日光にやられ、午前10時でも歩くのは困難だった。ただ海は鮮やかに見え、気持ちはよい。そこからヨロヨロと南京町付近に戻り、古い建物が並ぶ街並みを歩いてみたが、暑くて断念。中華料理を食べようという意思も消え、なぜか鱧フライを食べてホテルに帰る。

 

梅田へ
ホテルでシャワーを浴びる。もうこれがないと生きていけないほどの暑さだった。クーラーを全開にして昼寝をする。しかしその時間も長くは続かず、またJR駅に向かう。何とこれから梅田へ出るのだ。梅田と言っても私がよく分からないので、待ち合わせはJR大阪駅にしてもらった。ただ来た電車に乗ってまっ直ぐに進めば大阪駅へ行けると思っていたが、やはりそうではなく、危うく違うところへ行きそうになる。

 

大阪駅で会ったのは王さん。実は昨年のエコ茶会で紹介され、少し話しただけだったが、四川省出身で現代茶文化を研究している研究者。私は最近喫茶の発祥が中国四川省かどうかに、興味を持ち始めたので、今後機会が有れば四川に行きたいと考えていた。3月に和歌山で会ったTさんとも仲良しということで、急きょ今回会うことが決まったのだ。本当は彼女の勤める大学まで行きたかったが、ちょっと遠かったので、梅田になった。

 

彼女はとても研究熱心で、駅構内にあるファーストフード系のカフェに入っても、抹茶ドリンクを頼み、その傾向を分析している。観光学とお茶、というテーマは、明後日和歌山大学で行われるワークショップにピッタリな気がする。それにしても日本語でこれらを研究していくのは大変だろう。また日本の大学には色々と雑用もあるようで、研究時間には制限がある。

 

四川のお茶については、実に興味深いが、私はきちんとした茶旅は一度もしていない。それは特にご縁がなかったということだが、同時にそこまで四川のお茶、特にその歴史を重視してこなかった結果ともいえる。だがここに来て、ベクトルが四川を指している。茶の起源は雲南でも茶の利用は四川から、という可能性もある。何とかして、茶旅をしてその一端を解明したいと、王さんにお願いした。果たして願いは叶うだろうか。

 

時間はあっという間に過ぎてしまい、今度は大阪から元町までJRで戻ることになる。夜は北京でのお知り合い、Iさんと中国料理を食べた。彼女の息子も同席したが、北京の時はうちのお茶会にも参加していた小学生だった彼が、何とこれからオランダの大学で勉強するのだという。思わず、『日本に帰らないつもりで頑張れ』と言ってしまった。母親の気持ちはどうなんだろうか。

 

因みに元町の南側には南京町があり、昼間も歩いた通り、昔ながらの中華街のレストランが並んでいる。駅の北側には、新華僑とも言うべき新興勢力が台頭しているようで、店は結構流行っている。従業員はほぼ中国系だったが、白人の団体がやってきたりしても、片言英語で何とかやっている。南京町にも厳しい競争が起こっているようだ。

 

熱暑の関西茶旅2018(2)岐阜の在来茶園と神戸の茶貿易

7月22日(日)
在来茶園

翌朝は部屋に差し込む朝日で目覚めた。Nさんが和の朝ご飯を用意してくれ、気分上々、美味しく頂く。こんな古民家で暮らせたらいいな、と思ったが、当然ながら雨漏りなど色々と不具合も多く、修理などなかなか大変らしい。このような家はこの集落には他にもあるようだが、借り手もなく、住む人もいないのが現状らしい。過疎化は深刻のようだ。その中で若者がNさんの手伝いをして、茶作りをしているのは頼もしい。

 

名残惜しいが午前8時には出発し、茶園見学に向かう。車で山を登っていくと、道の両側にきれいな茶畑が見えてきた。そこから下を見ると、実に見事な景色が広がっている。この景色が評判を呼び、週末は観光客が大量に車で訪れるようになったという。だがその結果、車の排気ガスやごみが排出され、畑仕事に影響が出るまでになる。中にはそんな状況に嫌気がさし、茶業を辞めてしまった人もいるらしい。ここの茶園の茶樹は6割以上が在来種だと言い、昔からある貴重な茶樹だと思うのだが、何とも仕方のない現実がそこにある。Nさん達の茶業、これからどうなっていくのだろうか。

 

それから岐阜駅まで送ってもらい、JRの在来線に乗る。岐阜の古民家滞在はあっという間に終了し、現実に引き戻される。今日はここから神戸三宮まで行くのだが、新幹線に乗るほど急ぐ旅でもないので、米原から新快速に乗って座っていく。日曜日の京都、大阪周辺はかなり混んでいたが、合計2時間半ほどで三宮に着く。

 

神戸へ
神戸には最近来た覚えがない。10年ぶりだろうか、実に久しぶりだ。岐阜と同じくらい暑いので、まずは予約しているホテルに行き、荷物を置かせてもらう。大阪はホテル代が高いと言われていたが、三宮のビジネスホテルはかなりリーズナブルな料金だ。これはどうも、神戸が外国人観光客のインバウンド地域から外れているということらしい。観光のイメージのある神戸、何となく不思議だ。

 

チェックインできる時間ではないので、駅前に戻り、ランチを食べる。神戸と言えば、何だろうか。結局南京町から駅前に出店している小さな店で、焼き餃子を食べていた。調理していたのは中国から来た人だろうか。それから図書館へ向かう。とにかく暑いので外を歩くのには限界があった。実は今回神戸に来たのは『南京町と茶』というテーマで何か調べられないか、と思ったからだった。そのために、地元在住のお知り合いIさんにK先生を紹介してもらっていた。

 

K先生は大学教授でもあり、南京町にある華僑博物館の館長も務めた方で、この話には打ってつけであったが、既に大学も博物館もリタイアしておられ、何と今は東京に住んでおられた。そこで事前に東京でお会いして、色々とお話しを聞き、資料も頂いたのだが、基本的に南京町の歴史などはよくわかったものの、お茶の歴史に関するヒントは殆ど得られなかった。既にこの時点で、今回の企画は破たんしていたともいえる。

 

K先生から何か資料があるかもしれないと言われたのは神戸市立中央図書館。三宮から地下鉄に乗り、大倉山という駅で降りる。大倉山公園があり、そこには孫文の碑や華僑関連の碑などがあるので、ちょっと驚く。ここは政商大倉喜八郎の別荘だったところだというから、中国とも何か関連があるのだろう。

 

図書館は外壁工事ですっぽり覆われていたが、通常通り開館されていた。真っすぐ2階に行き、神戸ふるさと文庫を見る。神戸居留地と華僑に関する資料などは見付かったが、茶の輸出などは、明治期に終わってしまったとあるだけだった。台湾と神戸についても、色々と資料はあり、バナナや帽子に台湾商人が絡んだ歴史は見てとれたが、茶貿易に関しては、ほぼない。神戸と言えば異人館などがあり、紅茶のイメージもあるが、こちらも一部しかなかった。収穫の殆どない事態となる。

 

今回の私の発想は、NHKのファミリーヒストリーという番組に女優の余貴美子さんの回があり、彼女の祖父が台湾から神戸に来て、茶を商った、というナレーションを聞いたことによる。商人の中には茶を扱った者はいたはずだが、それが歴史に残るほどの大きな商いではなかったということだろうか。これは横浜についても同じで、華人茶商については、調べるのが難しい。

 

暑いのでホテルに帰って休むことにした。ホテルの近くに生田神社があり、そこにお参りする。その先、異人館近くまで歩いて登ると、モスクが見えた。この付近、飲食店などを見ても、イスラム系、インド系、中華系、朝鮮系などが混在しており、多彩な神戸の一端が見られた。

 

 

夜まで休息し、暗くなってから外へ出た。今日は日曜日であり、街は人で溢れていた。神戸牛を売り物にする店がズラッと並んでいるが、そんなに牛はいるのだろうか。本物はどれだろうかと思いながら、牛はパスして、ラーメンを食べた。まあ、私の旅はグルメではなく、その日の気分で食べるものが決まるだけだ。

熱暑の関西茶旅2018(1)灼熱の岐阜で

《関西茶旅2018》  2018年7月21-26日

もう1か月以上旅に出ていなかった。2年に一度ぐらいある、長期休養。段々退屈になり、また旅に出たくなる。それのエネルギー補給は私の茶旅にとって極めて重要だと身に沁みている。さて海外へ、と思ったが、その前に大阪で声を掛けて頂き、関西へ向かうことにした。ところが直前になって、その話はキャンセル。さて、今回はどうなるのか。それにしても関西は暑かった!!

 

7月21日(土)
灼熱の岐阜へ

今日は新幹線に乗って名古屋に向かった。岐阜へ行く予定なのだが、昼間到着する安いバスなどないのである。名古屋まで行き、在来線に乗り換える方法しかないと分かり、久しぶりの知り合いに連絡して、名古屋駅まで出てきてもらった。土曜日の名古屋駅、暑いのに人が多い。待ち合わせ場所に行くと、なぜかフィギャ―スケートの羽生君のポスターがでかでかと出ている。オリンピックからすでに半年、フィーバーはまだ続いている。

 

20年以上前、香港で知り合ったIさんはその後、転職して今は名古屋近郊にいた。私のメルマガにも良く返事をくれており、偶には会いたいな、と思う人だった。駅近くのモールの中にある中華料理屋でランチを食べながら話す。それにしてもこの中華、点心と料理をうまく組み合わせて、そこそこいい値段を取っているが、満員御礼だ。

 

医療関係の仕事をしているIさんからは、現在の日本医療について、色々と教えてもらった。次回は是非彼の勤める病院を訪ねて、その実態を知りたいと思った。こちらからはアジアの現状をお話しし、その動きを伝えた。外国人看護師の問題など、閉鎖的な日本の医療、これからどうなるのだろうか。

 

名古屋駅からJRに乗って、岐阜駅へ向かった。関西は暑いと分かっていた。東京だって相当に暑いこの夏、ましてや何故、連日天気予報で最高気温38-39度が表示される岐阜に行こうと思ったのか。それは3月に行くつもりで約束していたのに、こちらの事情で延期してしまった負い目があったからだ。

 

だが1か月前に行くことを告げた後、1週間前に確認の連絡を入れても返事はなかった。なんとか電話番号を探して電話してみると、『あれ、他の予定を入れてしまった』というので、また今度と言おうとしたが、それより一瞬早く『午後3時に来てくれれば』と言われたので、行くことになった。

 

午後3時前に岐阜駅に着いた。名古屋から岐阜までは本当に近い。駅に着いて電話してみると、『信長の像のところの近くに迎えがいる』と言われて行ってみたが、見当たらない。もう一度聞くと、迎えの車が渋滞で遅れている、との返事があった。取り敢えずそこで待っていて、と言われたのだが、屋外は猛暑だった。

 

タクシーを待つ場所には辛うじて屋根はあったが、屋外であり相当に暑い。何だかインドのバラナシの灼熱地獄を思い出していた。それから30分、屋内に引っ込むことも出来ずにこの灼熱の中にいた。それでも『インドよりマシだ』と思えるところが、海外を渡り歩いた強みだろう。

 

そこに迎えの人が来てくれた。ああ、助かったと正直思った。ところが車に乗った瞬間、『こんな暑い時に何ですが、車のエアコンが壊れていまして』というではないか。もうこれは笑うしかない状況だった。そして思わず『インドよりマシです』と答えると、その男性の方が驚いてしまったようだ。まさかインドと比較されるとは思ってもいなかっただろう。

 

まずは車で30分ぐらいのところへ行った。そこは和風のカフェ。入っていくと待ち合わせをしていたNさんはいない。とにかく水分が必要だったので、アイスコーヒーを頼んだ。少し落ち着いて周囲を見渡すと、とても雰囲気の良いカフェで、陶芸家さんの個展も開かれていた。

 

そこへNさんがやってきて、彼女の街の方へ向かう。私はどこを走っているのか全く分からない。陽が暮れかけた頃、到着したのは山沿いの温泉。週末で地元の人がたくさん来ていた。ここで露店の温泉に浸かり、夕飯までご馳走になった。疲れは一気に吹き飛び、何となく地獄から天国、いや、良いご褒美が与えられたようだ。やはりここはインドではなく、日本だった。

 

真っ暗な中、揖斐川町春日というところに着いた。そこには150年を越える古民家があり、その広いスペースがNさんたちの作業場として使われていた。ここでお茶を頂いたのだが、そのほうじ茶が何だか懐かしい味がして美味しかった。昼間の暑さもすっかり忘れてしまうほど、ここの夜は穏やかだった。茶作りの苦労話などを伺い、ずっと話し込んでいて、夜中になってしまい、この古民家に泊めて頂く。一日でこんなに展開するのも珍しい。

九州茶の歴史を訪ねて2018(5)人吉で

鳥栖まで行き、そこから鹿児島本線で終点の八代まで乗る。これが2時間半もかかる。途中までは3日前の逆走だ。日は暮れてしまい、暗い中を八代に着くと、向かい側に1両列車が待っており、すぐに出発する。完全なローカル線で、高校生が乗客の主体になっている。料金は前の料金箱に入れて降りて行く。

 

途中は完全に民家もない所を通り、スマホも圏外になっていた。こんな暗い夜汽車に乗ったのは何年ぶりだろうか。どんどん乗客は降りて行き、寂しくなっていく。辛うじてコンビニで買っておいたサンドイッチで飢えをしのぐ。1時間20分以上かかってようやく終点の人吉に着いた。佐賀から合計4時間以上乗っていたことになる。

 

駅前は完全にひっそりとしていた。人吉には温泉宿があると聞いていたが、夜の10時に宿を探して歩くのは大変なので、駅前のビジネスホテルに泊まることにしていた。入っていくと『鉄道ファンですか?』と第一声で聞かれて驚く。ここに出張ではない人間が来るのは、鉄道関係者ばかりだという。私がお茶関係だというと、むしろ宿の人が興味を持ってしまい、少し話した。それからワールドカップ直前の日本代表のサッカーを見て床に就く。

 

6月13日(水)
人吉茶調査

翌朝はやはり疲れからかゆっくり目覚める。午前8時半に芦北のKさんが迎えに来てくれた。ここ人吉で歴史関連の調査をしようと考えてが、一人ではとても無理だと思い、応援を頼んだのだ。だがKさんは茶農家、お茶作りには詳しいが、その歴史は・・となってしまう。

 

そこで詳しい人に当たってもらったところ、その方は最近転勤になってしまい、案内は難しいとのことだったので、一度は諦めて、佐賀から帰ることにしていたのだが、その後案内可能、との嬉しい返事があり、佐賀から長旅でやってきたというわけだ。その方Sさんとの待ち合わせもうまくいく。ところが茶作りの仕事があるKさんは、そこで帰ってしまった。私もびっくりしたが、頼まれたSさんはもっとびっくりしただろう。初対面の二人、Sさんの車で出掛けた。

 

まずは郷土史家の方を訪ね、人吉の街の成り立ちと、その歴史を伺った。実は人吉の茶に関しては、先般岩波新書から本が出ており、球磨茶について、知りたいと思っていたので、この方面の話を聞くことができた。琉球時代、沖縄で飲まれていたのは球磨茶だった、といってもどんなお茶なのか、それはどうにもよく分からないが、番茶のようなものだっただろうか。

 

それから明治に入って、人吉に作られた紅茶伝習所について勉強した。伝習所とは学校だから、学校が建てられたと思い込んでいたが、ある場所を借りて臨時で講習が行われたらしい。日本の紅茶、その伝習所は熊本山鹿、人吉、大分木浦などにはじめ作られたがその実態はよく分かっていない。

 

熊本人吉は先ほどの球磨茶もあり、山茶がかなりあったようなので、紅茶に向いている地だと考えられたかもしれない。またここは宮崎や鹿児島に抜ける交通の要所でもあり、西南戦争の時は、敗走してきた西郷軍に握り飯を渡した、などの言い伝えがある、と球磨焼酎屋の奥さんが話してくれた。熊本ではあるが、鹿児島に近い、ということだ。

 

人吉の街はかなり古くて雰囲気がある。実はこの地名を最初に聞いたのは大学生の時、一年先輩がここの出身だったのだが、帰省するのが遠い、とぼやいていたのを今になって思い出す。確かに今でも遠い。特に金のない学生時代、簡単には帰れなかっただろうな。あの先輩はどうしているだろうか。

 

午後は樹齢100年を越すという古い茶樹がある、というので見に行ってみた。車で小1時間もかかる場所だった。Sさんも数年ぶりに見に行くという。だがその場所にその木は既になかった。どうやら伐採されてしまったらしい。歴史的な価値を考えれば、何とも残念だが仕方がない。これが今のこの地方の状況だということか。

 

帰りに一面茶畑が広がっているところがあったので、車を降りて写真を撮る。平成に入ってから、相良茶という名前で売り出しているという。熊本のお茶、もっと脚光を浴びるとよいのだが。Kさんのお茶だって、どんどん評価が高まり、認知されているが、それでも一握りのことなのだろうか。

 

Sさんには大変お手数をおかけしたが、鹿児島空港行バスの停留所まで送ってもらい別れた。何と人吉からは熊本空港より鹿児島空港の方が近い、というアドバイスを受け、鹿児島から帰ることにしていた。こんなこと、地元の人でないと思い付かない。バスはまだ1時間先だったので、近所にあったTSUTAYAに行き、暇をつぶした。TSUTAYAは駅前ではなく、幹線道路沿いにあるものなのだ。

 

バスは本当に50分もかからずに空港に着いてしまった。何とこれが私の初鹿児島だった。今回は空港だけだが、日本第二の茶産地に行かない手はないので、次回は万全を期すつもりだ。空港で時間が余ったので、食事をすることにした。鶏飯バイキング、580円に惹かれた。自分でご飯を盛り、具材を入れ、汁をかけて食べる。お替り自由、意外とうまい。

 

夜7時でも明るい鹿児島空港にジェットスターが飛んできた。今や東京とはLCCで繋がっており、安くて簡単に来ることができる。成田まで2時間弱の旅、その日の内に自宅まで辿り着けた。次回は是非茶畑を訪ねてみよう。

九州茶の歴史を訪ねて2018(4)幕末維新博覧会

幕末維新博覧会

ちょうど図書館を出ようと思ったところで声を掛けられた。こんなところに知り合いがいるはずもない、と思って振り返ると、何とOさんの奥さんではないか。奥さんにはセミナーの件で、色々とご迷惑をかけており、恐縮。図書館の横のカフェの食事がいい、と言われたので一緒に食べたかったが、今日は幕末維新博覧会を見物しようと思っており、図書館の横がメイン会場なので、そこへ移動した。

 

こんな雨の日の月曜日、簡単に入れるだろうと思っていたが、それは甘かった。案内が付くので団体行動となり、これから2回は小学生の社会科見学?で既に埋まっていた。それならばと図書館に戻り、カフェに行ってOさんの奥さんと食事をした。ここの食事は体に優しい。O夫人と、取り留めのない話をしていたのだが、その中で『台湾へ来ませんか?』と思わず誘ってしまった。実は和紅茶のイベントでOさんを招聘しようと考えており、折角だからOさんと奥さん、お子さんで来てもらうのも悪くない、と思ったのだ。

 

時間が来たので会場へ戻り、見学を始めた。このメイン会場では、CGによる紹介有り、劇団員が自ら演じる寸劇あり、明治維新150年を記念しており、実に面白い企画が揃っていた。特に鍋島閑叟(直正)を中心として、維新で活躍した佐賀人、大隈重信や江藤新平、大木喬任、副島種臣などが、生き生きと描かれている。40-50分、次々と場面が展開し、明治初期の歴史を復習するのにちょうどよかった。

 

会場から出てくるとちょうどOさんから電話があり、彼も子供を連れて奥さんを迎えにやって来た。私の子供が小さい頃、奥さんのことを思いやって、子供の面倒を代わりに見てやり、奥さんが一人で好きなご飯が食べられる、そんな環境を用意してあげることなど、全くなかったな。今さら反省しても仕方がないが、時代が変わったということで片づけてはいけないように思う。

 

Oさんの車でお店のところまで送ってもらった。実はメイン会場以外に共通券で入れる会場が2つ、ここにあったのだ。旧古賀邸では昔の藩校、弘道館が再現され、大隈重信や江藤新平などの、その学びを体感する。もう一つは武士の心得、佐賀発祥の『葉隠』を具体的に紹介するものだった。こちらはどちらかというと、子供向けと言う感じ。見終わると、雨も上がっており、いい気持で散歩しながら帰る。途中の大木が歴史を感じさせる。

 

夕方Oさんから連絡があり、夕飯を食べに連れて行ってもらった。ちょっと気難しい、老夫婦がやっている、入りにくい餃子屋さんだった。確かに間口は狭く、カウンターが少しと座敷にテーブルが2つ。とても狭くて、すでにお客さんがいたので、確かに入りにくい。更には餃子を作っているご主人への注文にも気を遣う。焼き餃子と水餃子が出てきたが、手作りで丁寧に出来ているから、ウマい。しかし地元の、しかもこの店を知っている人と一緒でなければ、とてもこの餃子を食べるのは困難だ。

 

6月12日(火)
セミナー2日目、そして人吉へ

翌日はゆっくりホテルで過ごす。10時前にOさんが来てくれ、まずは佐賀駅にあるお茶スタンドに向かった。ここは嬉野茶を宣伝するために作られたブースで、ちゃんとお茶を淹れて、出してくれるという。各茶農家さんが作った煎茶や紅茶、烏龍茶まで取り揃えている。結構おしゃれなブースなのだが、座って飲むところがないのはちょっと残念。駅のベンチで飲む。

 

一昨日同様福岡から来たYさんを出迎えて、またランチに出る。昨晩とは別の餃子屋さんに行ったが、残念ながら閉まっており、お店近くのそば屋さんに入る。ここでもちょっと不思議なメニューがあったが、話に夢中になっていて、よく覚えていない。今日は2回目の上、いつもの紅茶のお話しなので準備には手間取らない。リラックス。

 

平日にもかかわらず、本日もお客さんが聞きに来てくれ、有り難かった。今日は中国紅茶の歴史の中に台湾紅茶も少し入れ、更に九州ゆかりの紅茶関係者、そう可徳乾三の話もちょっとした。やはりご当地ネタがあった方が、一般的に興味が沸くだろうと思ったからだが、どうだったろうか。

 

話は別にしても、紅茶の方が味や香りは分かりやすいし、このお店のお客さんにはちょうどよかったかもしれない。3日間で2回のセミナー、最近では1日2回を普通にこなしているので、何ともゆったりできて有り難かった。また是非呼んでもらえれば、もう少し話を深堀して、また訪問したい。

 

さて、セミナーが終了し、駅まで送ってもらった。Yさんとは別の電車に乗って、私はまた熊本を目指した。3日前に熊本から来た道を、また熊本に向かうのだ。今回は人吉に行くので新幹線が使えると思ったら大間違い。新幹線に乗ろうが乗るまいが、人吉に行く電車は2時間一本ぐらいしかないので、またノロノロと揺られていくことになってしまった。

九州茶の歴史を訪ねて2018(3)セミナーで苦労する

6月10日(日)
セミナー1日目

夜中にかなり雨が降ったような音がした。日本には梅雨がある。雨が止んでいるのを確認して散歩に出たのは、午前9時半頃だった。特に当てもなく歩いていると、公園に出た。神野公園という名前だそうで、雰囲気がよさそうだったので入ってみた。少し行くと江藤新平の像が立っている。明治政府の司法卿だった江藤は、新政府に反旗を翻し、佐賀の乱で命を落とす。佐賀は、決して有名ではなく、また大きくもないが、薩長土肥の1つ、極めて重要な場所だったことを思い出す。

 

池のほとりには鍋島閑叟の茶室が再現されていた。鍋島閑叟は佐賀潘藩主として幕末を生き、多くの人材を育てた。そして島津と並ぶ、先進的な技術を持ち込み、維新を支えた。もし閑叟がもう少し生きていたら、世の中は変わっていたかもしれない。佐賀はもう少し脚光を浴びたのではないだろうか。

 

11時前にはホテルをチェックアウトして、駅へ向かう。セミナーでお茶いれをしてくれるYさんが福岡からやってくるのをOさんと出迎えた。取り敢えずランチを食べることになり、ご当地グルメを案内してもらう。あんかけ皿うどん、麺は細麺、太麺、蒸し麺の3つから選べる。前回はちゃんぽんを食べたが、この皿うどんもなかなかイケる。

 

それからセミナー会場であるOさんのお店へ行った。この付近はいつ来ても、昔の風情があってよい。今日は日曜日だから、観光客も歩いており、こんな日に私などがお話をするためにお店が休み、というのは何となく申し訳ないことだ。観光客の中にも、今日はなぜ休みなのかと、と覗き込んでいる人がいる。

 

会場の準備もOさんが一人でやっている。今や和紅茶界では有名人なのに、何でも自分でやるのだな、と感心した。PCのセッティングが終わり、私のUSBを差し込んだが、PPTは機能しなかった。これがないと、皆さんの写真を見てもらえないので困った、と思ったが、Oさんはすぐ検索をかけて解決策を見出し、映るようにしてしまった。

 

今回のセミナー、実に安易に引き受けてしまっていた。まあ紅茶屋さんのセミナーだから、紅茶の歴史の話をすればよい、紅茶については台湾と中国と2つ既にコンテンツがあり、問題ないと思っていたのだが、何とOさんから出されたお題、1つは『紅茶の話』だったが、もう一つは『世界でも珍しいお茶や茶文化について』というものだった。

 

本日は日曜日なので、一般向けにということで、考え抜いた末に、『アジアの珍しいお茶とその歴史』と題して、お話しすることにした。具体的には、茶の発祥地、中国雲南で作られる竹筒茶、茶のシルクロード万里茶路を辿る話ではカチンカチンの千両茶、台湾からは客家の酸柑茶、最後に日本の珍しいお茶として、土佐碁石茶などを紹介しながら、Yさんにお茶を淹れてもらった。

 

Yさんだってプロとはいえ、こんなに珍しい茶をいっぺんに淹れることなどこれまでなかったことだろう。会場のお客さんも珍しそうに飲んでくれ、また様々な質問が飛んできたのは良かった。お客さん、佐賀の方ばかりではなく、九州全土から、そして広島辺りからも来て頂いたようで、何とも恐縮。もう少し勉強して出直したいと思った。

 

ようやくセミナーが終わり、Oさんに駅まで送ってもらった。Yさんは福岡に帰り、私は駅前のホテルに移動した。やはり禁煙ルームの方が有り難い。こちらのホテルはこれまでも富山などで泊った事があるチェーン店で、好印象を持っていたのでよかった。夜は疲れてしまい、ちょっと出てラーメンを啜り、すぐに戻って寝た。

 

6月11日(月)
図書館と維新

翌日は残念ながら雨だった。今回のセミナーの最大の特徴は、2回開催だが、日曜日と火曜日に日が離れていることだった。普通なら効率悪いという話になるのだろうが、私の場合、旅がメインだから、これはこれで有り難い。これまで何度も佐賀に来ていたのに、一度も行ったことがない吉野ケ里遺跡、今日こそは、と思ったが、雨だと諦めるしかない。朝ご飯はホテルが無料で提供しているのでそれを食べる。

雨ならやはり図書館へ行こう。ちょうど台湾茶の歴史の中で、佐賀士族出身、日本統治初期に苗栗庁長兼農会会長だった家永泰吉郎の足跡が知りたかった。家永泰吉郎(1868-1915)は大分県尋常中学教諭から、1895 年に陸軍省雇員を命じられ、日本統治が始まってすぐの基隆に到着、1896 年台北支庁書記官、1901年に苗栗庁長にとなり、その後1909年より新竹庁長と要職を歴任し、1914 年に退官している。

 

佐賀市の図書館は月曜日が休館だったが、県立図書館は開いているというので小雨の中を出掛けた。ところが途中ですごい雨となり、ずぶ濡れとなってしまう。何とかたどり着いた図書館で尋ねてみたが、図書館書士の女性が親切に探してくれるも、家永に関する資料は殆どなかった。彼は佐賀と言っても唐津出身だったからだろうか。佐賀のお茶に関する資料も当たってみたが、なかなか適当な物がなく、ちょっと困る。