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香港でちょっと茶旅2018(1)波乱の初日

《香港でちょっと茶旅2018》  2018年12月10-13日

今年2回目の香港。30年以上前から泊まっていた銅鑼湾のエクセルシオールホテルがもうすぐ無くなると聞いた。閉鎖前に一度行って泊まりたいな、と思っていたら、ちょうどいいお話が飛び込んできたので、少しタイトなスケジュールの中、香港に飛び出してみた。

 

12月10日(月)
香港まで

香港行きのフライトは近年、中国行きや台湾行に比べて割安状態が続いていた。だが今回出発1か月前に日系航空会社を予約しようとすると、非常に高い。しかも某社はネットでは羽田往復の予約を受け付けず、片方が成田でなければチケットが買えないという前代未聞?の事態に遭遇する。ビジネスクラスを買え、とでもいうのだろうか。

 

仕方なくそれなりの料金を支払い、成田へ向かう。午前10時発の成田便に乗るには、始発に近い時間に家を出なければならない。そしてちょうどよい電車がないので、珍しく馬喰町からJRに乗ってみる。同じ成田に行くのに、スカイアクセスより時間が掛かる上、料金も高いのだから、乗る人は多くない。外国人が大きな荷物を持って、まごまごしながら、階段を下りてくる。エレベーターすらないのだろうか。

 

以前は日系航空会社に乗るのはある種のステイタスだったかもしれないが、最近はサービスの質の低下を感じることが多い。台湾に行くならエバ航空の方が余程気が利いているし、食事も美味しいと思う。日系がいいのは映画が充実していることぐらい、と知り合いが言っていた。今日は『日々是好日』という樹木希林の遺作であり、茶道が題材の映画をゆっくりと見る。

 

そうしているとなんとデザートにハーゲンダッツアイスが配られ始めた。この寒い季節にアイス?正直信じられない思いだった。私は意地汚いのでもらって食べたが、ちょっとお腹に堪えた。何人もの人、特に香港人、中国人は拒否していた。南国に行くわけでもないのになぜ、こんなものを出すのだろうか?ハーゲンダッツの時代は本当に終わったのだろうか。

 

香港初日は波乱含み
空港では今回、手荷物しかないので、あっという間に外へ出た。これは早くて助かる。香港用のシムカードを買いに中国移動のブースへ向かう。実はこの後すぐに、中国へ行くので、ついでに中国用を買うためだった。ところが私のスマホには中国移動の香港用シムスら適応しなかった。

 

何故だと聞くと、『時々そういうお客さんがいる。こちらでは対応しないので香港の会社へ行ってくれ』と追い出されてしまった。仕方なく香港キャリアに行き、香港シムを買い、合わせて中国シムもこちらで買ったが、何と8日間で238香港ドル、私は2週間の予定なので、2つ買わなければならなかった。すると店員が2つ目は半額だからお得だよ、という。何とも割り切れない思い。

 

空港エクスプレスに乗ればよいのに、いつもの癖で銅鑼湾まで空港バスに乗った。午後4時前ならそれほど混んでいないだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。香港島に入ると渋滞が続く。途中で降りてMTRに乗ればよかったのだが、まさかこんなに渋滞とは予想せず、最後まで乗っていたら、何と2時間近くかかってしまった。後で聞くと近くで大きな事故があり、一時道が封鎖されていたらしい。

 

夜の予定があったので余裕を持った日程を組んだのに、時間がギリギリになってしまう。エクセルシオールの宿泊は明日からなので、今日は近くの新しいホテルに投宿した。ただちょうどチェックインが混みあっており、時間がもったいないので荷物だけ預けて、すぐに外へ飛び出した。

 

中環で約束があったのだが、その前にどうしてもしなければいけない手続きが銀行であり、結局待ち合わせに遅れてしまう。だが、HSBCなどの銀行は午後5時には窓口を閉める中、外資系は対応してくれているので、文句は言えない。しかもかなり親切で有り難い。後日、全く同じ手続きをしにHSBCの支店に行ったら、『こんなものは自分でやれ』と若い行員にいわれ、『でも外資は対応してくれたよ』というと、『我々はHSBCだ』と言い放ち、文句あるかという態度だったので、よほど解約しようかと思った。

 

夜はKさんに誘われてFCCで食事した。30年前の香港の話から、最近のトピックスまで、色々と教えて頂き、為になる。FCCと言えばやはりカレーなので、毎度のことながらこれを注文し、美味しく頂く。本当に昔と比べれば混んでいる。特派員の人はもういないのだろうか。

 

帰りは銅鑼湾駅より近いと思い、隣の天后駅で降りる。ここは4年間住んだ場所であり、とても懐かしい気分で、周囲を少し散策した。ほとんど店が変わっているように見える。唯一セブンイレブンだけが昔のままのようだ。不動産屋の看板を見ると、昔でも結構高かったが、今では日本人が住める家賃ではなさそうだ、この街は。

厦門で歴史茶旅2018(5)昔のアモイを思い出しながら

華僑博物館へ

午後はホテルで過すつもりだったが、やはり外に出てしまう。バスに乗って博物館へ行こうと思ったが、厦門には大きな博物館はないらしい。こういうところは福建省の省都は福州だ、ということだろう。検索すると近くに華僑博物館があったので、そこを目指す。

 

バスを待っていたが、博物館行きバスは一本しかなく、なかなか来ない。そしてようやく来たバスには多くの老人が乗り込んだ。なぜだろうか。バスは昨日行った張乃英さんの家の横を通り過ぎ、海辺を離れた。それからすぐに博物館に到着する。ここも午前中に行った集美大学を創設した陳さんが作った博物館らしい。陳嘉庚氏は東南アジアで一体どれだけの財を為したのだろうか。

 

立派な建物が建てられている。思ったより観光客が多い。中には日本人の団体もいて、ガイドが説明をしていたが、興味を持ってみている人は少ない。中国人でも田舎から来たちょっと金のあるおじさんが、大声で話して係員に窘められていた。展示物は陳さんを初め、東南アジア各国の華人に関するものが多く、特に福建から大勢の華僑が海を渡り、その内の一部が成功した様子を窺わせる内容だった。

 

中国、特に清朝時代には幾度も動乱があり、その度に民衆が移動を余儀なくされ、アメリカの炭坑や鉄道建設に行き、アジア各地で体を張って労働している。私個人は、成功した有名華僑より、海を渡った名もない人々がどうしたのかが気に掛かる。でもそのような人々の歴史は残されることもなく、消えていくのみだ。故郷に帰りたかった人もいるだろうが、当時故郷に錦が飾れたのは成功したものだけだった。

 

帰りはバスに乗らずに歩いてみる。途中まで行くと立派なお寺があり、入ってみたかったが、かなりきつい崖の上にあったので、下から眺めるだけに留めた。既に足が痛い。コロンス島の夕日を見ようと海辺に出た。この風景は18年前とそれほど変わっていないように思えるが、海沿いの道路脇は、観光客向けのきれいな店が並び、歩いている人もきれいな格好をしており、やはり大幅に違うのだな、と感じる。

 

夕飯は厦門らしいものを食べようと近所を歩き回り、蟹肉入りの小籠包、蟹黄湯包と牡蠣オムレツ、海蛎煎を注文した。どちらも一人分としては多い量だったが、完全完食してしまう。中国に来るとどう見ても食べ過ぎだろう。料金も観光地価格のように思えるが、今の中国は正直なんでも高い。

 

11月24日(土)
台北に戻る前に

今朝はホテルの朝ご飯を楽しみにしていた。これまで泊まっていたホテルでも朝ご飯は提供されていたが、ありきたりの物で、あまり満足できていなかった。このホテルは先ず1階のレストランの内装が良い。そして料理もかなりいいものが出てきて満足できる水準だった。

 

あとは時間までホテルでゆっくりしようと考えていたが、今日も何となく外へ出た。行くところもないので、30年前に行ったきりの古刹、南普陀寺へ行って見ることにした。バスは何と昨日の博物館行きと同じ、終点だったから、要領は分かっていた。今日は土曜日で更に観光客が多かった。

 

バスの終点に寺はあったが、その前には厦門大学の校門が見えた。ここも30年前にちょっと歩いた記憶がある。中に入ってみようかと思ったら、一般人は簡単には中に入れないことが分かり、諦めた。今は観光客が大学に押しかける時代だから、致し方ないだろう。向かい側の寺に向かって歩き出す。

 

ところが寺にも入れなかった。今日は何かイベントがあるようで、門の前では人が入れないように、係員がロープを持って立っている。観光客はそれを取り巻いている。信心深い人は外から祈っているが、多くは写真を撮るだけだ。それにしてもこのお寺もきれいになった気がする。経済力とは真に恐ろしい。

 

帰ろうとしてバスを待ったが、乗るべきバスは運転手が中にいるのにドアを開けようとせず(本人はスマホゲームに夢中)、更に彼は鍵を掛けてどこかへ去ってしまった。乗客が乗ろうと詰め掛けているのにこの態度はどうだろうか。一言いつ発車するというだけで待つ方も楽なのだが、そういう気づかいを中国のバスに期待するのは難しい。別のバスで途中まで行き、降りてまた散策する。

 

ホテル近くの路地に入るとそこは別世界。道に迷ったかのように、30年前の中国の面影が次々現れ、何とも幸せな時間を過ごした。ほとんど開発されている中にも、一筋の道が残っていたとはすばらしい。空港に向かうまでの僅か時間、この路地で遊んでいた。最後は本当に迷子になってしまい、スマホを取り出すと現実に戻る。

 

ホテルをチェックアウトしてすぐ近くの乗り場から空港バスに乗り、1時間弱で空港に着く。チェックインはすぐに出来た。あまりにも時間があったので、出国審査後にバーガーキングで軽く食べた。他のレストランの食べ物はビックリするほど高かった。中国各空港の高額な食事料金は改めるべきだ。厦門航空便は順調に飛行して、松山空港に戻った。

厦門で歴史茶旅2018(4)漳平水仙、そして集美へ

今日重要な二人に会うことができ、今回の目的はほぼ達成され、気持ちはぐっと楽になる。というか、疲れているのにその興奮が収まらない。夜は以前魏さんから紹介されただけで、会うことがなかった、もう一人の張さんに会いに行った。彼の店は軌道で10駅ほど離れており、意外と遠かった。

 

スマホを使って何とか辿り着いた店に張さんはいなかった。夕飯を食べに出てしまったらしい。私も腹が減ったので一人で付近の店を探す。だが食堂はあまりなく、仕方なく、初めて沙県小吃に入って見た。ここはチェーン食堂で、中国ならどこでも見かける店だが、なぜか一度も試していない。だが何と東京にまで店が広がったと聞き、どんなところか見てみたのだ。

 

そこは店を改装してきれいになっていたが、メニューは完全な定食屋。何でもある感じで、纏まりはない。定番の西紅柿炒鶏蛋を頼んでみたが、量がやたらに多く、味はちょっと薄く、油は多い。ご飯が山盛りに盛られ、冷めたスープが付く。これで15元、何だか肉体労働者の食事で、食べ切れずに店を出た。

 

店に戻ると張さんがお客の若者と茶を飲んでいた。この店は漳平水仙を扱うことで有名らしい。張さんは漳平の出身で、その歴史も探求しており、話を聞く。最近日本でも話題になっているお茶だが、思ったよりも幅が広い。その歴史は100年を越え、地元には紙で包む時に押される印判が残り、型を取る道具も残されていた。

 

味は以前飲んだ物よりは美味しく感じられる。これは張さんの淹れ方か、茶葉が良好なのか。話題になっているということは少なくとも品質は向上しているのだろう。週末は漳平で水仙祭りがあり、張さんも明日から故郷へ帰るらしい。というか、今後は活動拠点を漳平に移し、用事がある時だけ厦門に来るというから、今日が最後の日だったのかもしれない。やはりご縁はあるものだ。

 

11月23日(金)
集美へ

もう厦門に用事はなかったが非常事態が起きていた。今日台北に帰るつもりだったが、昨日の段階で、金門経由の便はすべて満席、このルートは週末台湾旅行に向かう中国人に占拠されていた。いや、実は明日台湾で重要な統一地方選挙が開催されるので、台湾人が帰国するのかもしれない。いずれにしても満席、そして直行フライトは何と日本円で4-5万円もしている。とても帰れない。

 

日曜日に帰るフライトを予約し、さてホテルも延泊しようかと考えたが、何と部屋はあるが、料金は当初の2倍だという。元々今回の期間中、厦門では大規模ない医療関連イベントが開催され、ホテルが取れない状況だった。知り合いが何とか抑えてくれていたが、優遇レートは最初の1泊だけ、次の日は200元上乗せになっており、私はこのことすら知らなかった。そのことをきちんと説明してくれなかったと抗議したが、私は何も見ずに書類にサインしていたので、ホテルはそれを盾に、私が悪いという。

 

まあそんなホテルに泊まることは愉快ではないので、早々他を探したが、どこも軒並み高い。どうせ高いのならばと、18年前に泊まった思い出のある鷺江賓館を予約した。チェックインは12時以降なので、それまで天気も良いので時間潰しの旅に出た。軌道の駅へ行き、どこへ行こうかと見ていると、集美というのがあったので、そこを目指す。

 

軌道で40分ぐらい乗っただろうか。そこは随分と遠かった。しかも乗る線を間違えてしまい、大橋を渡ってから、思っていた方向と違う方へどんどん進んだので、慌てて降りた。だがそこは住宅以外全く何もないところ。タクシーすら走っていない。近くのバス乗り場から集美大学に行けるというので探したが、バス停すら見付からない。

 

かなり歩いてようやくタクシーを拾い、大学の門まで行った。ここがいつも車からきれいな校舎が見える大学だ、写真でも撮ろうと入って行ったが、とても広いキャンパスでまた歩いく羽目になる。ここはシンガポール華僑の陳さんが建てた学校でちょうど100周年を迎えるらしい。南国風のキャンパスと中国風の校舎、その取り合わせが面白い。バスケットとバレーのコートが20面ぐらいあって、その広さは尋常ではない。

 

結局あの川沿いのきれいな景色の場所へ出られず、写真も撮れず。正門から出てバスに乗り、宿へ帰る。何とバスは1時間近くかけて走る。これで2元。すごい。腹が減ったので、先日連れて行ってもらった店を再訪し、鴨肉などのセットランチを食べる。これで20元は価値がある。

 

それからホテルをチェックアウトして、またバスに乗り、鷺江賓館へ。外から見るとちょっときれいにお掃除した程度に見えたが、中は全面改修後で、18年前の面影はない。とてもきれいなロビーで驚く。今日の料金は18年前の3倍だが、まあ高くはないのかもしれない。私自身は会社を辞めてから中国で泊った最も高いホテルだろう。

 

窓のない部屋だがおしゃれに加工されている。古いホテルの部屋という印象だったから、かなりの変化に戸惑う。フロントの愛想が凄く良い。冷蔵庫のドリンクは無料だが、4本のうち2本はビール。ビール、替えて欲しいな。あの18年前、21世紀の最初の日を過ごした場所、1月1日に小三通の船が初めて台湾からやってくるというので大勢の人が港に溢れていた光景、もう完全に歴史だな。

厦門で歴史茶旅2018(3)厦門茶業のレジェンドと会う

11月22日(木)
厦門茶業のレジェンドと会う

厦門3日目。今日は昨日会った張理事長が、『安渓大坪の大先輩、レジェンドのところに連れて行ってあげる』というので、有り難くついて行くことにして、待ち合わせ場所の地下鉄駅まで歩いて行った。ところが到着直前になって、『急な用事が出来たので、一人で行って。場所は息子に電話して聞いて』というではないか。

 

仕方なく電話を掛け、ご自宅の住所を聞き、タクシーを拾って向かった。そこは海が見えるマンションで、環境がとても良かった。言われた部屋に行くと、1928年生まれ、90歳の張乃英さんが、暖かく迎えてくれた。大坪に生まれた張さんは、解放後厦門のお隣、樟州茶廠(厦門、安渓と並ぶ三大茶廠)に長年勤め、その製茶及び評茶技術は周囲に一目置かれる存在だった。

 

お名前からも分かる通り、安渓大坪で、あの台湾に鉄観音を持ち込んだと言われている張乃妙とは同郷、同族。乃妙の一族は今も大坪におり、かなり標高の高いところに家があるのだという。乃英氏の家とは2㎞ほどしか離れていないそうだ。戦争中、集美中学(厦門)が安渓に疎開してきたので、中学に行くことができた、これは日本のお陰だね、笑って話してくれる。その笑顔が実に穏やかだ。

 

1950年代初め、厦門に出てきて茶行で働いた経験もあるという。現在の鎮邦路付近に店があり、今もその建物は残っているかもしれないという。この辺りには往時、大茶商が沢山ビルを構えて店を出し、賑わっていたらしい。それも国営化の波で今やすべて消えてしまっている。

 

1989年に樟州茶廠を定年退職するまで、特に80年代に改革開放が始まると、多くの外国人がやって来た。その中には日本の松下先生もいたよ、という。またコンテストなども始まり、張天福先生と一緒に評茶した写真なども残っている。鉄観音茶が盛り上がったのもこの頃だった。ただ100年前鉄観音は既に大坪にもあり、その形状は半球形だったという。現在の安渓鉄観音茶の惨状を見過ごすことは出来ずに、2016年には個人で安渓政府に意見書を提出し、その結果、豆腐機の使用禁止など、改善策が示されたという。

 

乃英氏の息子は茶業に就かなかったが、父親のそばで色々と見聞きし、現在はその資料を整理しているようで、こちらも歴史にかなり詳しかった。2時間も話し込んだら昼時になり、ご自宅でご飯をご馳走になってしまう。食後も安渓産の水仙など珍しいお茶を淹れて頂き、大いにお話しを聞いた。乃英さんは終始元気だったが、実は半年前に同い年の奥様を亡くされたばかりだった。次回また再訪したい家だ。その機会はあるだろうか。

 

乃英家を失礼し、バスに乗ってバスターミナルへ向かう。そこから開元路に切り込むとレトロ感が溢れてくる。教えてもらった鎮邦路にも一部古い建物が残っていたが、そこが元の茶行かどうかは分らない。Y字路などがあり、道は面白いが、唯一洋行の名前が記された壁があったがそれだけしか発見できなかった。

 

更に歩くと水仙路に出た。この道には聞き覚えがある。先日バンコックで林奇苑という戦前の大茶商の名前を聞いたが、その厦門本店の場所が水仙路だったはずだ。だが現在の水仙路は非常に短い道で、しかも完全に開発されており、現代的な大きなビルが建つなど、往時の面影は全くない。残念ながら厦門で古い茶商を探すことは、国営化と再開発という二つの壁に大きく阻まれ、もはや不可能だと思われた。

 

そこから18年前に宿泊した鷺江賓館の前を通り、人が大勢いるフェリー乗り場からコロンス島を眺め、そのまま歩いて行くと人通りがなくなり、寂しくなる。ここに最初の港があったようだ。軌道の始発駅、第一码头駅まで辿り着き、それに乗って宿に帰る。さすがに歩き疲れて休養する。

 

すると、張理事長からまた微信が入ってくる。ミャンマー、ヤンゴンに本店があった張源美の厦門支店を管理していた末裔と連絡が付いたぞ、というビックリする内容だった。疲れも忘れて飛び出し、指定されたバス停に向かう。何とそこはバス停2つしか離れていなかった。こんな近いところにいたのか。

 

そこに張一帆さんが迎えに来てくれ、今はほぼ休業状態の茶荘をわざわざ開けて見せてくれた。何とそこには古い張源美茶行の看板が掛かっているではないか。私がヤンゴンにいる末裔に会ったというと張さんは驚いて『今は連絡も途絶えている』という。張源美が国営化された時代、張さんのお父さんが店を経営していたが、それ以前の話を聞いたことは一度もなかったという。

 

その理由は文革だった。資本家は打倒されるので、子供に類が及ばないように伏せていたらしい。そのお父さんは、そのまま厦門茶廠に務め、茶業界では有名な方だった。実は昨日厦門茶廠で『中国烏龍茶』という本をもらったが、それはこのお父さんが書いたものだったのだ。僅か3年前に亡くなったという。もしお父さんが生きていれば、今であれば詳しい話が聞けたかもしれない。張さん自身は90年代に茶業が儲かると聞いて、茶の輸出などはしていたが、今は引退の身だという。2000年代の鉄観音茶が緑化していく話などは参考になった。

厦門で歴史茶旅2018(2)茶業商会と厦門茶廠を訪ねて

11月21日(水)
茶業商会理事長を訪ねる

今回中国で使うシムカードは松山空港で購入してみた。中国国内のシムカードでは残念ながらFBやツイッターを見ることは出来ないが、長い期間連絡を絶つこともできないので、海外のシムカードを買うことになる。今回買ったシム、7日間で630台湾元だが、十分に使えた。電話は使えないが、これがあれば、中国内でもなんとかなるので有り難い。

 

そんなスマホを使って向かった先は、厦門茶業商会の張理事長。彼の茶荘は、地下鉄嘉禾路駅の近くにある。取り敢えず一番近い駅、斗西路口駅から軌道に乗り、地下鉄1号線の文灶駅に乗り換えようとした。ところが同じ名前の駅なのに、実はこの2つの線は全然繋がっていないことが判明。スマホで位置を確認して歩いて10分も掛けてようやく乗り継いだ。1年前に出来た地下鉄はとてもきれいだったが、空いていた。こんな不便があるからだろうか。

 

何とか嘉禾路駅に辿り着き、歩いて指定された茶荘まで来たが、まだ朝早く、店は閉まっていた。そこへちょうど今回の紹介者である郷土茶業史家の沈先生もやってきたので、電話してもらい、中へ入った。張理事長は茶商として、日本企業との付き合い(茶葉輸出)も多かったと言い、簡単な日本語を話したので驚いた。

 

長年厦門市茶商協会の理事などを務めていたが、お役所である協会に限界を感じ、2013年に茶業商会を設立したという。当然多くの茶商を知っているが、その資料は協会にも商会にも殆どないという。ただ張理事長もやはり安渓大坪出身であり、鉄観音茶の歴史、いや歴史的人物の紹介を受ける。これはとても有り難いことだった。また鉄観音茶は100年前からその形状はそれほど変わっていないこと、そしてそれほどには有名ではなかったことも教えてくれた。

 

張氏は茶商としてよりむしろ評茶師として有名だという意外な話もあった。そのため様々な茶が中国中から持ち込まれ、美味しい茶も手に入り易いらしい。ただ近年の中国茶全般についての評価はかなり厳しく、彼は厳選した茶だけを売るようになったらしい。お土産に雲南の高山紅茶をくれたが、何となく台湾的だった。

 

一度宿に戻る。乗り換えるのが面倒で、中山公園まで地下鉄で行き、そこから歩いた。また厦門にも古い街並みがそこここに残っている。腹が減ったので、沙茶麺を食べる。今では厦門中どこにでもある沙茶麺、私が入ったのはチェーン店で、器は紙で味気ない。値段はどんどん上がっている感じで、いくつかトッピングを加えると20元にもなってしまう。

 

午後は銀行に出掛けた。窓口でちょっと手続きをしたのだが、何と支付宝への入金の仕方を忘れてしまい、係員が親切に教えてくれた。実はその時、パスポートから書類を落としてしまっており、後で電話がかかってきて知らせてくれた。今や銀行窓口は比較的すいており、対応も親切になっている。

 

沈先生が午後のアポも取ってくれた。鉄観音茶輸出の歴史なら、輸出入公司に行くべきだと言い、私はバスで指定された場所へ向かった。そこは旧市街からは少し離れていたが、茶工場がまだ残っており、周囲に微かに茶の香りがした。元の国営厦門茶廠(移転後)がここだった。

 

今は中茶で統一され、その傘下となっている厦門茶廠。1954年に中国茶業公司の厦門事務所としてスタートし、その後周辺の茶廠、茶商を収容して国営化していく。実は先日ヤンゴンで訪ね当てた張源美という茶商もこの時、ここに併合されている。その後文革を経て、1979年に改組され、改革開放を歩んでいく。その頃に出てきたのが鉄観音茶だったともいえる。

 

オフィスではなく、その販売店舗で先生と待ち合わせた。そこへ日本向け輸出担当スタッフなどがやってきて、烏龍茶輸出の歴史を語り出す。特に1970年代の終わり、日本向け輸出が始まった頃の話、その後急速に輸出量が伸びていく辺りは、面白い。ただ烏龍茶ではあるが、鉄観音茶とは誰も言っていない。

 

1970年に製造された鉄観音茶が残っていた。水仙もある。さすが中茶だ。だが『こういうものは飲まない方がよい』と言われ、写真を撮るだけになった。80年代の茶缶も登場したが、鉄観音茶はその頃ようやく名前が売れ出したのだろう。安渓県政府が鉄観音茶のブランド化に尽力した話なども出てきていた。

 

最近は利益優先の企業集団として、様々な茶の開発に取り込んでいるという。今回飲ませてもらったのは、烏龍茶を後発酵させたブロック茶だった。この茶葉は口当たりも悪くなく、体にも良い、として、売り出す予定らしい。茶葉が大量に余り、売り先に困る昨今、企業は様々な工夫をしている。

 

バスで宿に戻り、そのすぐ横にある梅記に立ち寄る。ここには以前お世話になり、安渓西坪の工場にも2度お邪魔し、泊めて頂いていた。1875年に厦門に店を出した老舗であり、歴史調査でも重要なところの1つである。店長の王さんは若いが歴史に興味があり、今日も西坪出身の茶商の話をしてくれ、参考になった。

 

夕飯は近所の鴨肉屋でご馳走になったが、そこの燻製鴨肉は実に味が良かった。更にはかなりあっさりした鴨肉麺を食べながら、叉焼などを頬張ると幸せになれる。こういう食事が簡単に出来るのは実にありがたい。

厦門で歴史茶旅2018(1)心地よいお茶工作室

《厦門で歴史茶旅2018》  2018年11月20-24日

台湾滞在中に海外へ行く。以前バンコック滞在中はしょっちゅう出掛けていたが、台湾では東京との往復がもっぱら。ただ以前一度福建に入っており、今回も金門経由で厦門へ行くことにした。厦門行きの目的は、先日バンコック及びヤンゴンで見つけた茶商の末裔関連を調べること。そして懸案となっている鉄観音茶の歴史を大陸側でも掘り越すことだ。ちょっと大掛かりになってしまったが、さてどうなるのだろうか。

 

11月20日(火)
厦門まで

前回台北から厦門へ行った時、帰りに厦門のフェリーターミナルで『一条龍服務にしたら』と言われたことを思い出し、今回はそれを予約することにした。一条龍とは、ワンセットサービスのこと。台北-金門の往復航空券、金門内の移動及び荷物のトランスファー、そして金門-厦門の往復フェリーチケットが全て込みの料金でチケットが買える。いわゆる2001年に始まった小三通での特殊サービスだ。航空会社は立栄と遠東の2社。遠東の方が安いし、全く乗ったことがないので、遠東を選択する。

 

台北松山空港までは宿泊先から僅か5駅ですぐに着く。預け荷物は搭乗1時間前からしか受け付けないのでじっと待つ。10㎏までなので、かなりギリギリだが、何とかクリアーした。荷物検査を通ると後は搭乗するだけ。のはずだったが、なぜか搭乗口を間違えており、あわや乗り損なうところだった。最近のボケ具合は半端ない。

 

小型飛行機で1時間、金門に着く。遠東航空の乗り心地もサービスも分らないうちに到着だ。金門空港で指定カウンターへ行き、パスポートを預けて他の乗客を待つ。そして外に待つ専用バスに乗り込む。まずまずスムーズだ。しかしバスは真っすぐフェリーターミナルに向かわず、何と途中で停まる。

 

そこは金門名物の麺などを売る土産物店。遠東が提携しているのだろう。小さなお椀一杯の麺が無料で試食できたが、特に購入する人はいなかった。バスは物産セールスを行い時間調整したのだ。ターミナルにはフェリーが出る40分ぐらい前に着き、預けたパスポートで買われたフェリーチケットと弁当を受け取り、イミグレを抜けて、フェリーを待つ。その間にもらった弁当をかき込む。まさかここで弁当を食えるなんて、すごい流れ作業だ。

 

フェリーに乗れば30分で厦門に着く。着けばイミグレは簡単ですぐに入国できる。素晴らしいスピード。11時に台北を離陸して午後2時には厦門のターミナルを出る。これならダイレクトフライトを使わない訳だ。ただここから厦門の街に出る公共交通手段がないのは困ったものだ。

 

仕方なくタクシーに乗る。運ちゃんと話すと、今日はもう200㎞以上走ったのでこれで帰宅するという。決して景気が良い訳ではないが、ここには確実なタクシー需要がある。途中で渋滞に嵌るも、40分ぐらいで予約してもらったホテルに着いた。実は前回泊まったホテルがとても良かったのでまたお願いしたが、何と満員で別のホテルとなっていた。

 

工作室へ
早速厦門での行動を開始する。まずは先日ホーチミンで張さんに紹介してもらった王さんを訪ねることにした。住所を聞いたが、どうやら地下鉄などもなく、バスも難しそうなので、またタクシーに乗る。運ちゃんに住所を見せるも、住所ではよく分からないと言われ、取り敢えず近くまで行って見ることにした。

 

その通りまでは行けるのだが、番地は複雑で分かり難い。だが何とか探し当て、ビルに入り、その階に行って見たが誰もおらず鍵がかかっている。連絡してみるともうすぐ仲間が行くから、と言われ、ちょっと待っていると若者がやってきて中に入る。中はお茶の倉庫兼研究室のようで、本棚にはお茶関連の本がかなり置かれている。私が見たい内容の本が沢山あり、嬉しくなって思わず手に取る。

 

そこへ王さんと2-3人の仲間が入ってきて、賑やかになる。王さんは元新聞記者で数年前にそれを辞めて、今は茶文化の研究をしながら、執筆などを行っているという。その取材力があり、筆も確かで、お茶の歴史についても既に多くの関係者と会っており、その内容は微信で公開されていた。これを読めば私の今回の目的もある程度達成できそうな感じだ。

 

ただかなり忙しく、夜は予定があると言って別れた。この工作室、お茶好きが集まり、持ち寄った茶葉を試したり、お互いの知識を共有したりと、他日1日ここで勉強したいほど充実していた。若者たちが夕飯に連れて行ってくれ、一緒に食べた。それから仲間がやっているというオフィスへ向かう。

 

かなり新しい感じのビルで、その中に茶葉の包装などを作る会社があった。勿論お茶以外にも様々な包装が飾られていて面白い。これまで若者はIT企業に向かっていたが、ITビジネスも一段落。これからはこんなビジネスが流行るのだろうか。因みにここを起業した若者の参考書は日本で出版されたデザイン本だった。彼らはどんどん日本を吸収していく。

バンコックの茶商を訪ねて2018(9)なぜかホーチミンで半日

10月23日(火)
ホーチミンへ

翌日は朝早く起きて、チェックアウトの準備をした。一応Yさんとのコーヒータイムは確保したが、すぐにスワナンプーム空港に向けてタクシーに乗り込んだ。ベトナム航空のバンコック往復、行きはハノイ経由だったが、帰りはホーチミン経由にしてみた。そしてホーチミンを出るのは深夜便として、半日滞在を画策した。

 

空港には早く着き、出国審査も順調で時間があったので、パンなどを食べながらネットして過ごした。飛行機は相変わらず混んでおらず、簡単な機内食も出てきて、快適な空の旅となった。

 

ホーチミンの空港にはほぼ定刻にランディングした。入国審査は係員によって『ノービザなら帰りのチケットを提示せよ』と指示されることがあるが、私はチケットではなく?すでにバンコックで発券された成田行きのボーディンパスを見せたので、先方がちょっと呆然となった。こういう乗客はいないのだろうか。

 

わずか半日滞在にシムカードを買うかどうかも悩んだが、やはり地図機能などが必要なので、一番安いものを購入して装着した。今や街中でスマホなしの移動は考えられない。完全にからめとられた感あり。昔は地図やガイドブックを持って歩いたものだが、今や格好悪い。

 

空港を出ると端の方にバスが停車していた。ホーチミン市内行きのバスに乗り込むと、何と料金は5000ドン。タクシーなら15万ドンぐらいだからこれは安い。車掌の男性が『どこへ行きたいか』と聞いてきたので、早々スマホでホテル名を出すと親切に教えてくれた。荷物はリュックサック1つだけで、大きな荷物は成田までピックアップ不要というのは非常に気楽でよい。

 

市内までは小1時間かかったが、それほどの渋滞もなかった。乗客の乗り降りは結構あり。ベンダイン市場あたりで降りようかと思っていたが、ちょうど改修工事中だった。車掌もこの一つ先で降りろ、と指示してくれ、無事に到着した。実は待ち合わせていたホテルも改修中であった。ホーチミンは今、改修ブームなのだろうか。

 

ホーチミンに来るといつも会うKさんと待ち合わせて、スタバに行った。このスタバはベトナム一号店だったと思う。今や若者で賑わい、席の確保が難しい。ドリンクは決して安くはなく、丸亀製麺のうどんより遥かに高い。それでもこれだけの人がいるというのはやはり、ベトナム経済、特に中間層の所得の伸びが感じられる。

 

Kさんからはベトナムの現状について、様々な情報をもらう。これは一般報道などで語られる物とはかなり違っており、実に参考になる。ベトナムの一般庶民はどう考え、どんな行動をしているのか、ということは、ベトナム人と一緒に生活している人にしかわからない。Kさんの話は大いに参考にさせてもらっている。

 

あっという間に2時間ほど話し込んでしまう。スタバを出ようとすると、何と突如大雨が降り出して、身動きが取れなくなる。足止めを食らえば、また話を聞く。ホーチミンの日系企業の動きや地下鉄工事の現状など、話はどんどん具体的になっていき、面白くなってきた。ちょうどその時、夕飯の約束をしていた台湾人から連絡が入り、そちらへ向かうことになる。

 

張さんとは、1年前にこの地に来た時に知り合った。その後有難いことにFBなどでコメントを何度も寄せてくれ、私の活動に大いに関心を示してくれており、折角なので、夕飯を一緒に食べることになっていた。スタバからすぐ近くの焼肉屋を予約してくれ、そこへ向かおうとしたが、先ほどのスコールで道は水浸しで歩き難い。こういうインフラはこれから修繕していくことになるのだろうか。

 

焼肉屋では既に張さんが肉を注文して、沢山運ばれてきていた。彼はホーチミン台湾人学校に勤めているが、学校が終わると駆け付けてくれたに違いない。なんとも嬉しい再会となる。彼も茶の歴史を勉強していたことがあり、話題は自然とそちらに向かう。私の活動状況はFBでほぼ見ているようで、質問は『あそこへ行っただろう?どうだった、何が見付かったか』と言う感じだった。こういう会話は非常に楽しい。

 

ベトナム茶の歴史は相変わらず、なかなか手掛かりが得られない。何とかこじ開けるルートを見つけたい、というと、ホーチミンには老舗茶荘はない、という。特に華人系はベトナム戦争時に移民してしまい、歴史は分からないようだ。ベンダイン市場付近に古そうな茶荘が1つあったから見に行こうと言われ、彼のバイクの後ろに乗って向かったが、既に廃業?しており、店はなかった。

 

張さんと別れて、空港行バス乗り場へ向かう。タクシーでもよかったが、昼間のバスの安さに惹かれてしまっていた。大きなバス停でバスを待っていたが、乗り場が違うと言われる。バスがなかなか来ないのでちょっと心配になったが、ようやくやってきたので乗り込む。若い女性車掌に5000ドンを渡すと『2万ドンだよ』と言われ驚く。何とバスは2種類あるようだ。ルートが違うらしいが、所要時間はほぼ同じで料金4倍は解せない。が、仕方がない。

 

空港に着いてもチェックインの必要もなく、出国審査と税関検査には時間が掛かったが、その後はスムーズに搭乗した。夜中の空港は少し涼しく、快適だった。機内ではあまり寝られないうちに成田に着いてしまう。フライト時間5時間ちょっとというのはやはり中途半端だったが仕方がない。家で昼から寝てしまう。

バンコックの茶商を訪ねて2018(8)ホアヒンからバンコックへ

10月21日(日)
バンコックへ

翌朝は小雨で始まったが、すぐに止んでくれた。こういう場所で雨に降られると途方に暮れる。今日はこの旅を終了して、バンコックに戻ることにしていた。その前に最後に海を見に行こうと出掛ける。まずは今日のバスチケットを購入する。これによりここでの滞在時間が確定する。

 

朝の飲み屋街は実に閑散としている。もうこういう場所に夜足を踏み入れることもないが、何とも懐かしい雰囲気だけが僅かに残っている。朝のビーチ、それも雨上がりはかなり爽やかで鮮やかだった。それから朝ご飯を探して歩き回るも、コスパの良いものに出会わず、また宿近くで食べることになる。折角リゾート地だから、それらしいものを食べたいと思うのだが、やはり私には観光地料金には相当の抵抗があるということだろう。

 

10時のバスは時間通りに来るのか心配したが、大型バスがちゃんと定刻前にやってきた。乗客は数人しかいない。本当にオフシーズンなんだな。電車に比べたコスパは分からないが、僅か150バーツでバンコックまで運んでくれるというのだから有り難い。バス自体はかなり老朽化していたが、改善される気配はないようだ。

 

バスは快調に飛ばし、バンコックに入る時に少し渋滞があったものの、今日は日曜日ということもあってか、スムーズに進行した。ただ初めての南バスターミナルはかなり西の方に在り、驚く。おまけにターミナルの前で右折できないため、極めて大回りしてようやく到着する。知っている人々はターミナル前の路の反対側でいち早く降りてしまっていた。それでもホアヒンから3時間の道のりだった。

 

車掌のおばさんが『どこへ行くんだ』と外国人を気にして声を掛けてくれる。私はすかさず『507番のバスに乗りたい』というと、ああ、ターミナルから出ているよ、と言ってくれ、そのバスを指さしてくれたので安心した。しかしこの路線バスも、進行方向に向かうまでにターミナルの周囲をぐるっと回らなければならない。一体どういう設計をするとこうなるのだろうか。507番は定宿のすぐ近くまで乗り換えなしで行けるので利用してみたのだが。

 

最初は殆ど乗っていなかった乗客も川を渡った頃から増え始める。そしてチャイナタウン付近から渋滞となり、バスは動かなくなる。タクシーではどのくらいかかるのか分からないが、定宿近くまで1時間半以上バスに乗っていた。料金は僅か12バーツで嬉しいのだが、冷房が効きすぎて、最後は凍えるような寒さを覚えた。バスを降りると足が固まっており、一気に伸びをして、暖かさを体に入れた。

 

バンコックで
定宿に戻るとすぐに洗濯物を出した。最近は洗濯物が気になるのに、自分では洗わない、という習慣が定着し、余計に気になっている。定宿のおばさんとは顔馴染みだが、そろそろその子供たちの時代が近づいており、息子や娘も顔を覚えるようになってきており、何も言わなくても私のしたいことが分かっている。こういう何気ない付き合いは嬉しい。

 

昼ご飯は食べておらず、猛烈に腹が減った。何が食べたいのか分からず、取り敢えずショッピングモールへ向かう。そうだ、やはりここは日本食だ。それも出来ればとんかつ、と頭が回り、昔行ったことがあるとんかつ屋を目指す。この店、以前はかなり大きかったが、少し前に移転し、分かりにくい場所で細々営業している。

 

まだあったことがまずは嬉しい。そしてなぜか店内にインスタントラーメンのうまかっちゃんが展示されてあるのを不思議に眺めた。夕方5時前なのに若いタイ人カップルなどが上手そうにとんかつを食べている姿は微笑ましい。キャベツもたっぷり、肉も悪くない。久しぶりに満足感に満ちていた。

 

10月22日(月)
バンコックにて

今朝も天気はちょっと曇り。いつものようにYさんとコーヒーを飲み、外に出て、コムヤーンを食べる。それから午前中は部屋で過す。そして昼も又Yさんと近所の食堂で食べる。 ここは旅先というより自分の家にいる感覚だ。それからバイタクに乗り、エンポリアムに向かう。

 

ちょっとMUJIで買い物をしようと思ったのだが、ここにはユニクロしかなかった。検索するとサイアムドランゴン方面にあると分かり、わざわざ出かけていく。時間が余っていたのでちょうどよい。バックが壊れたので、新調する。軽いのが良いのでここに来たのだ。輸入品なら日本より高いと思っていたが、20%引きになっており、変わらぬ値段で買えたのは嬉しい。

 

それからMさんとの待ち合わせで、アソークに戻る。彼女には先日ヤワラー探索でお世話になったが、その後集友茶行には一緒に行けなかったので、その報告をした。更には8月のお茶会で出会ったHさんも合流した。彼女は熊本山鹿の出身であり、山鹿と聞くだけで興味深い。勿論地元では明治初期の紅茶伝習所の話など誰も伝えてはいない。彼女は来月からご主人の関係でスリランカに転勤になるという。またお茶に関係ある場所、ご縁は続きそうだ。

バンコックの茶商を訪ねて2018(7)ホアヒンで

もう夕方なので散歩がてら、ビーチの方へ歩いていく。途中に立派なホテルがあった。セントラという名前だったが、ここは1922年にホアヒンが開かれ、鉄道駅が出来た際、ラーマ7世に会うために来る人々のために作られたレイルウエイホテルだと聞いた。なるほど広大な敷地に威厳が感じられる。敷地内の見学が警備員に優しく止められてしまう。

 

ビーチに行くと岩が多く見られた。ホアヒンとは『石頭』という意味らしい。結婚式の写真撮影なども行われ、静かな夕暮れが見られた。少し歩くとヒルトンホテルがあったが、そこから上がることもやはり優しく止められ、その横から登ってみると、何と清水祖祠が観音廟と並んであるではないか。ここもやはり福建、それも安渓系華人が多いことを窺わせた。向こうを見ると、小さな漁港のようになっており、ここから上陸したらしい。

 

一度宿に帰る。テレビを点けると、世界バレーを生中継している。それもロシア対日本。タイチームは既に敗退していたが、日本戦を毎日中継していることにはちょっと驚く。一方日本で開催されている世界バレーなのに、日本のテレビ局は日本戦しか放送しないらしい。これは一体どういうことだろうか。今後の世界選手権は中国や中東など、資金力のある国での開催が有力だとも聞く。

 

結局日本の試合をずっと見てしまい、気が付くと夜も8時を過ぎていた。腹が減ったので外へ出てみたが、近所にあるのは酒を飲むようなところばかり。一軒だけ屋台が出ていたので、そこで手早く炒飯を食べて満足する。そこにはちょうどランドリーがあったので、明日は朝からここに洗濯物を出そうと思う。

 

10月20日(土)
翌朝はぱらっと雨があった。それが止むとすぐに外へ出た。洗濯物を出すためだったが、何と明日は日曜日なので、お渡しは月曜日だと言われ、凹む。それなら明日バンコックに戻って洗濯することにしよう。観光地なのに日曜日が休みとは。きっとピークシーズンならこうではないだろう。この週末は、ちょうど休暇の間らしい。

 

宿の近くを歩くと、そこには野菜や魚を売る市場があった。その前を楽器を鳴らしながら歩く一団がいた。派手な衣装を着たおばさんが踊りながら歩いて行く。何をしているのかはよく分からないが、商売している人のところに寄っていくから、なにがしかをもらっているのだろう。

 

とにかく歩いてみることにした。北の方へ向かい、街道沿いを歩くが、延々と車が走るだけであまり面白くない。途中でビーチの方へ曲がり、海を眺める。何もないが、これはこれでよい。雨が降りそうな気がしたので、一旦宿に戻ることにした。宿の近くまで来ると、ブレックファーストという文字が見えたので、そこに入る。

 

いわゆるオールデイ・ブレックファーストのメニューで料金も安め。白人などでかなり賑わっていた。だが私がオーダーしてから20分経っても何も出てこないので、さすがにクレームした。白人たちも待たされていたが、クレームはしていないようだった。これが文化の違いだろうか。スタッフは人が足りず対応が遅れたと謝っていたが、マネージメントの問題だろう。食事自体は悪くないので残念だった。

 

午後はお休みしようかと思っていたが、天気が回復してきたので、また外へ出た。今度は歩くのを止めて、ソンテウに乗ってみることにした。市場の辺りから幹線道路を走っていくと聞き行って見ると、ちょうどソンテウが出てしまった。どこに行きたいかと聞かれたが、よく分からないので、適当に広告を指してみると、そこへ行くのは反対側と言われ、停まっていたソンテウに乗り込む。

 

カオ・タキアップ、という場所に向かった。僅か10バーツの料金が嬉しい。幹線道路を行くと、ショッピングモールやスーパーがあり、次々に人が降りて行く。中国人観光客も乗っており、降りる所が分からず困っていた。20分ぐらい乗っていると、殆ど乗客はいなくなり、幹線からも外れていく。そしてここで降りて後は歩け、と言われてしまう。

 

少し歩くとビーチに着く。そこには岩山があり、よく見るとかなり立派な観音像が建っていた。取り敢えずそこを参拝する。皆が階段を上って行くのでついていくと、廟がある。その付近には猿が沢山いて、ちょっと怖い。更にそこを上って行くと、海がよく見えた。しかも下には廟があったので、そこまで歩いていき、敷地に入った。だが廟は頂上にあり、階段が凄かったので、行く気力はなく、坂を下った。

 

下は小さな漁港になっており、今では観光客用の魚市場、そして魚料理の食堂になっている。ここには中国人もいて、盛んに魚を買って調理法を指示していた。ソンテウの場所まで戻り、また10バーツで乗る。宿近くで降りて、その付近の廟とパレスを散策する。そのあたりには観光客用のバーが沢山あり、夜は賑やかなのだろう。帰りに麺を食べて宿へ。その辺からかなり強い雨が降り、外へ出るのは止めて、部屋でバレーボールを見て過ごした。

バンコックの茶商を訪ねて2018(6)チュムポーンからホアヒンへ

10月18日(木)
チュムポーンで宿を変わる

今朝もいい天気だった。ホテルの簡単な朝食を食べ、部屋の窓から風景を眺めていた。今日はホテルを変わらなければならないので、泊る宿探しが目的の外出をした。道に出ると、何だかお祭りの行列、白装束の人々が船の模型などを引いて通り過ぎて行く。やはり華人の一団だ。この時期は各地でお祭りが開催されているのだろうか。

 

ちょっと細い路地に入ると、その先にきれいなホテルが見えた。庭も広く、ロビーも吹き抜けで気持ちがよい。料金も高くないので気に入ってチェックインした。部屋も今よりは快適で、ホテルを変えて正解だったと思えた。ただフロントの女性が英語は出来るのだが、タイ的なソフトは対応がなく、ちょっと残念だった。荷物を前のホテルに置いたままだったので、急いで取りに行く。

 

昼は新しいホテルのすぐ近くにあった飲茶屋に入る。先日スラッターニーで食べたのとシステムは同じだったが、何とここには肉骨茶があった。これは食べてみねばと注文すると、想像以上に濃厚で美味しかった。しかしオーナーは華人ではなく、ハジャイ辺りで修行して、ここに店を出したというのだ。タイ南部は何とも福建のにおいがするが、タイ人もそこに少し入り込んでいるのだろうか。

 

午後は恒例となった昼寝に勤しむ。そして夕日が沈むのを部屋の窓から眺めて、外へ出た。昨日見付けた夜市に向かっていくと、まだ明るいのにご飯を食べている人々がいたので、釣られてカオマンガイを食べてしまった。何のプレッシャーもなく、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る生活、これは一つの理想だろうか。

 

10月19日(金)
ホアヒンへ

今日の朝は少し雲がかかっていた。ホテルの朝食はそれなりで、期待を下回った。昼に電車に乗るので、取り敢えず午前中は街の散策に当てる。教会なども見え、ここも昔は交易がかなりあったのだろうと想像するが、今は本当に静かな田舎町だ。いや沢木耕太郎が来た時もそうだったはずだ。

 

昼にホテルを出て駅へ。12:46に来るはずの電車はほぼ定刻に来た。ここからバンコックまでは約7時間らしい。乗り込むと指定席はほぼ満員で、何とか自分の席に辿り着く。外国人の姿も見え、意外と人気の路線なのかもしれない。席も心なしかゆったりとしている。でもスペシャルだったのはこの後。

 

何と車掌の女性が飛行機のCAの様にワゴンを推して登場し、何とランチを配ってくれた。周囲の人はもう食べ終わっているのか、私にだけくれた。でも食べたものか迷ってしまう。すると隣のおばさんが『美味しいから食べてみなさい』というようなタイ語で語りかけてきた。開けてみると、何と魚の煮つけと白いご飯。この魚、いわゆるサバの味噌煮の缶詰のような感じなのだが、それでも久しぶりで美味しく完食してしまう。確かにスペシャルだった。

 

列車はほぼ民家も何もない風景の中を走っていく。本当に開発も何もされていない場所が沢山ある。途中で海が見える所もあった。この路線は海岸沿いを一路バンコックに向かっているのだ。また車掌がドリンクとスナックを持って現れた。途中から乗った人は時間によってサービスが異なるようだ。ずっと乗っていればそのサービスを受け続けることができる。

 

3時間ちょっと乗っていると、フワッと言う感じでホアヒンに到着した。ちょっと慌てて荷物を下ろして下車する。ホームの端には立派な貴賓室が見える。皇族はここを使うのだろうか。さすが皇室の避暑地として開かれた街、だけのことはある。駅自体もかなりおしゃれな雰囲気が漂い悪くない。大勢の観光客が写真撮影に励んでいる。

 

ホアヒンで

天気は曇りで雨が降るかもしれないと感じ、早めに宿を決めようと思った。週末の観光地ということで、事前に一応ホテルが固まっている場所を確認していたが、最後はフィーリングで決めるつもりだった。駅前からフラフラ歩いていくと、いくつかホテルがあったが、どうもしっくりこない。そんな中、ふと見上げると、貸し部屋のような看板があった。ホアヒンだから欧米人の長期滞在もあるのだろう。

 

階段に近くづくと、1階に作られた小さなカフェの女性が声を掛けてくる。彼女がオーナーのようで、かなり広い部屋だが1000バーツでどうかと聞いてくる。取り敢えず見に行くと、その部屋は2ベッドルーム、どう見てもファミリータイプで100㎡以上ありそうなコンドミニアムだ。1人で泊ってもよいというので、面白いのでそこに決めた。エレベーターがないので、階段で3階はちょっと大変だが、まあ良い運動だ。