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天津・大連・北京周遊茶旅2018(8)興工街、星海街へ

12月22日(土)
興工街、星海街へ

今朝はもう行くところもなくなったと思い、ゆっくり過ごす予定だった。だが寒さにも慣れてきたので、やはり外に出てしまう。大連駅前から待望の路面電車に乗るも、旧型の車両は来ない。仕方なく新型に乗る。思いの他混んでおり、まるでラッシュのようで驚く。地下鉄の認知度が低いのだろうか。取り敢えず終点の興工街まで乗っていく。1元。

 

興工街の北側に、かつての満鉄社員の社宅があると聞いていたので、探してみる。ちょうど次の駅との間辺りにその古い建物群は残っていた。一部は戸建ての立派なものだが、大半は団地のようなところだった。その古さのほどはよく分からなかったが、部屋の入口の戸が木造だったりすると、やはり日本時代かと思う。今でも人が住んでおり、寒い中、風など吹き込まないのかとちょっと心配になる。これらの建物は保存の対象になっている様子もなく、恐らくその内取り壊しになるのではないだろうか。正直これらの建物を全て保存するのは難しそうだ。

 

一つ北側の駅、中長街から地下鉄に乗る。今度は海の方へ行って見よう。会展中心という駅で降りて地上に上がっていくと、そこは高層ビルがいくつか建ち、歴史とは無縁のような、現代的な場所に見えた。だが道の反対側、星海街付近には上等な別荘風の家がいくつも立ち並んでいる。入って写真を撮りたいと思ったが、どうやら現在一部は軍関係の施設となっているようで断念する。ただこれを見ると、ここが日本時代の高級別荘地帯だと分かる。

 

その別荘の脇を抜けていくと、坂を下りる階段がある。昨日も甘井子で同じ印象を持ったが、この坂の様子はどこか韓国を想起させるものがある。どこがどうということはないのだが、既視感がある、というのだろうか。冬のソウルやプサンを歩いたのは3年前だっただろうか。人々の顔立ちや服装が似ているという点もあったかもしれない。

 

路面電車の駅から電車に乗ろうかと思い、ふと道の対面を見ると、『割烹清水』という文字と立派な構えの入り口が見えたので驚く。清水と言えば、私が上海留学中にどうしても行きたかった店。あの頃大連に来た理由は清水で刺身を食べるためだったと言ってもよい。今では考えられないことだが、1986年の上海にはまともな日本料理屋は一軒もなく、日本食を食べに、北京や広州、果てはシンガポールや香港にまで行く始末だった。

 

そんな時に誰かが、『大連の清水に行けば、新鮮な刺身がたらふく食えるぞ』と言ったから堪らない。すぐに飛行機の予約をしたのだが、何とこのフライトは3日間、上海から出発せずに断念(飛行機が墜落していたのでは、との情報あり)。それでも諦めきれずに、数か月後の東北一周旅の際、ついに大連に辿り着き、ここでランチを食べたのだ。その時の刺身定食の値段は確か20元。当時上海の一流ホテルの中華を4人で食べて10元ぐらいだったから、その高さが分かる。そして出てきた刺身は船盛。すべてをきれいに平らげた記憶が蘇る。

 

その清水が今目の前にあるのだ。それはここに入って食べろ、というメッセージ以外には思えない。偶然ではない。昨日の大名は予兆だったのか。店は昔とは違う場所になっている。今はビルの2階だ。入口は狭いが中は思いの他広い。土曜日のランチタイム、大勢の家族連れ、地元民で賑わっており、皆楽しそうに和食を食べている。恐らく日本人は私だけだろう。70元の弁当を注文する。もうこれで十分だ。何とも懐かしい、中国によくある日本食の定食だった。ここも既に日本人の経営ではないだろう。サービスは完全に中国化している。

 

帰りにまた路面電車に乗り、興工街へ向かう。出来れば本屋に行って、何か資料になりそうなものを探すためだった。検索すると新華書店があるという、そのショッピングモール、裏の方に書店街があったが、新華書店はわずかなスペースで出店しているだけだった。どの店も学生向けの受験用参考書ばかりが置かれており、一般書や専門書はほとんど見当たらない。これが今の中国の書店の現状だろう。きれいなショッピングモールを通り抜けて地下鉄でホテルへ帰る。

 

今晩は大連最後の夜だというのにどうも体に力が入らない。それほど寒くはない、などと思ってはいたが、やはり体にはこの寒さは堪えていたのかもしれない。明日は北京へ向かう上に、あちらでは色々と予定も入っていることから、ここはゆっくりと部屋で静養し、外へ出ることはしなかった。酒飲みでないのは本当に有難いことだ。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(7)ロシア街、南山、甘井子を回る

12月21日(金)
ロシア街、南山、甘井子を回る

今朝もまた歩き出した。大連駅の前を通ると、天津などへ出航する船のチケットを売っている。どうせなら天津から船で来ればよかった、などと飛んでもないことを思ってしまう。煙台という地名もあった。32年前、大連から船に乗って煙台に着いたことを思い出す。午前3時に着いてしまい、駅で野宿?した記憶がある。何とも懐かしい。

 

今日は駅の北側、ロシア街へ向かう。10分ほど歩くと、線路を跨ぐ橋がある。旧日本橋、現在の勝利橋だ。そこを越えると、ロシアが100年以上前に建てた船会社の建物がきれいに残っていた。今は美術館らしい。それをシンボルとして、ロシア風情街がスタートする。日露戦争以前、ロシアがここに来て東清鉄道を敷設する。大連の由来はダーリニー(遠い)というロシア語らしい。ロシア正教会のような建物も見える。

 

更に歩いて行くと趣が変わる。現在の上海路付近、こちらは日露戦争後の日本人街だった場所。当時のロシアと日本の国力はどうだったのだろうか。上海の日本租界でも思ったのだが、石造りの建物は100年を越えても立派だな。木造の家があったとしても、100年はもたないようだ。

 

そこから路面電車に乗りたくてフラフラ歩いてみたが、何と人民路まで歩いてしまった。出張の時に泊まったシャングリラなど高級ホテルがあり、さすがに今や立派な道になっている。その先には友誼賓館など懐かしい建物も見え、フェリーターミナルの方向へ。ただここで何を思ったのか、南山の方へ行きたくなり、バスに乗る。

 

南山路辺りを歩いてみると、かなり整備されているが、昔の建物が残っている。ここは32年前に泊まったところだが、あの南山賓館は見付からない。日本時代大連で名を成した台湾人医師、孟天成の旧居などを見る。この時代、特に日本に留学した台湾人は、台湾に帰っても日本人と同等の待遇が得られなかったので、満州に渡る者が多かったらしい。彼らについては実に興味深いがその真相はあまり明らかではない。

 

一度ホテルに戻ろうとバスに乗ったが、地図を見ているとある日本料理屋の名前が見えたので急いで下りた。大名、という名は、10年前によく行った場所だった。歩いて行くと、立派な店構えがあった。午後1時頃だったが、店内は満員のお客さん。ランチの立派な定食が55元で食べられるので、思わず席に着く。以前は日本人が経営していたが、今はどうだろうか。何とも懐かしいランチとなる。

 

大名の道を歩いて行くと、昨日の魯迅路に出てくる。この付近には満鉄関連の社宅があり、すぐ近くに本社、その横には満鉄陳列館があった。その向かい側に昨日の図書館もある。陳列館に入ろうかと思ったが、閉まっているようだったので、外から見て退散する。満鉄ファン、鉄道ファンがやって来るのだろうか。

 

かなり疲れたので、そこからバスを探してホテルに戻った。部屋で休息しようと思っていたが、なぜかホテルの前まで来て、横のバス停が目に入り、ちょうど来たバスに乗ってしまった。何故だろうか。甘井子、バスで30分以上かかる遠い所だったが、ここにも日本人街があったと聞いており、行って見たくなったのだ。

 

取り敢えずバスの終点で降りてその辺を歩いてみたが、ただの中国の田舎町だった。きっと坂の上に古い家があったのだろうと歩いて行くと、やはり一部戸建ての家が残っていた。今は数世帯が同居しているように見え、庭には野菜などを植えている。更に街から緩い上り坂を20分以上歩いて行くと、そこには日本時代の建物がきれいに残っている。一体なぜこんな甘井子の街からも離れたこんなところに家があるのだろうか。日本人は一体ここで何をしていたのだろう。

 

そのヒントは付近にあった中国石油の大工場。恐らくはこのエリアに石油や石炭などエネルギー関連の施設があり、多くの日本人が働きに来ていたのではないか、と想像する。このエリアは現在でも工場があるだけで開発から取り残されている。帰りはさすがにバスに乗り、甘井子の街まで出て、さらにバスを乗り継いでホテルへ帰った。なんだか不思議なタイムスリップだった。

 

バスは行きとは違うルートを通っていた。そして少し渋滞に嵌りながら、市内を目指す。大連駅前は通らずに隣駅付近に来たのでそこで降りた。バスに乗っていたのはいつの間にか私と母子だけになっていた。母親と小学生低学年の息子も一緒に降りたのだが、母親が息子に丁寧に話しかけ、寒い中、肩を寄せ合いながら歩いている姿に、突然軽い感動を覚えた。何故だろうか。

 

夕飯は何にしようか。まだランチの豪華定食の余韻(刺身が踊り、てんぷらが舞う)が腹の中にあり、どうにも食べる気が起こらない。ちょうどの目の前にパン屋(フランス風だが韓国資本)があり、そこに入って、パンを買い、持ち帰って部屋で食べた。ある程度調整しないと、中国では本当に体調不良になるまで食べてしまう傾向があり、怖い。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(6)中山広場から小崗子

12月20日(木)
大連散策

大連は天津よりは暖かかった。それでも朝は氷点下。外に出て大連駅を横切ると天津街に出る。天津から来て天津街か、と思ったが、ここは日本時代の繁華街。今はきれいな店が並んでいるが、日本の雰囲気は全く見られない。連鎖街とはかなりの違いだ。近くには古いホテルなどが並木に隠れて風情がある。

 

そのまま歩いて行くと中山広場に出る。この広場は全て日本時代に建てられた歴史的建造物に囲まれている。現在中国銀行が使っている建物が一番格好良いと思う。元は横浜正金銀行大連支店だ。色が明るく、頭はロシアっぽい。旧大連市役所も重厚な作りでよい。旧中国銀行は今何に使われているのだろう。

 

そしてお目当ては旧大和ホテルの大連賓館。こちらは10年以上前に泊まったことがあったが、老朽化で昨年営業を停止。警備員に聞くと『改修中だが、ホテルを再開するとは聞いていない』とのことで、もうここに泊まることは出来ないようだ。こういうホテルにはファンが多いので、観光業的には痛手だと思うが、どうだろうか。

 

魯迅路という道の名前が良いので歩き始める。ちょっと雰囲気のある建物があったので見てみると、旧満鉄図書館とある。思わず何も考えずに入っていくと、警備員のおじさんが『何の用か』と聞いてきたので、しどろもどろで中国語を使うと余計に怪しまれ、カウンターに連れていかれる。そこで係員から『何の本を探しているのか』という当たり前の質問を受けたので、適当に答えると、その資料の問い合わせをしてくれ、本館へ行くようと言われる。

 

本館はバスで30分もかかる郊外の丘の上にあった。ここには10年前に来たことがある。旧知のTさんが明治時代に大連で発行された新聞に興味があり、代わりに私が探しに来たことがあったのだ。新聞の本紙は残っているが現物はボロボロで見られない。今電子化を進めている、とだけ聞いて帰った記憶がある。

 

4階の地方文献室に行くと、係員が既に資料を整えて待っていた。何だか分からない日本人のために、こんなことをしてくれるとは感激だ。大連の行政サービス、すごい。更には調べ物にも協力してくれ、一気に懸案が片付いた。こんなこと、中国では想像すらしなかったので、本当に驚く。これは特別なケースだったのかもしれないが、いずれにしてもこんな親切を大連で受けたことには間違いがない。

 

図書館で教えてもらった古い建物が残る地区は、坂を一気に下ったあたりにあった。高児基道、ここはかなり長くて広い道だった。その更に下、鳳鳴街は、ほぼ日本時代の戸建て、新中国以降直ぐに作られた団地の建物が残されている。既に青いフェンスが置かれ、保存地区であることを示しているように見える。また新華街にも戸建て住宅が残り、今も人々が住んでいる。

 

更に進んでいくと人民広場に出る。寒いが快晴の空が明るい。そこからバスで宿の方に戻ろうとしたが、途中に森ビルが見えた。この付近は日本企業のオフィスがあり、10年前の出張時にも来たので、懐かしい。ついつい降りて付近を散策した。ちょうど昼時を過ぎ、腹も減ったのできれいな日本料理屋に入って見る。

 

その店には一人の客もいなかった。半年前に開店したばかりだという。息子が板さん、お母さんが給仕なのだろうか。お母さんは話好きで、店のお客には日本食好きの台湾人がいるとか、大連の景気は良くないとか、色々と説明してくれる。料理はちょっと辛くて、優しい日本食ではなかった。朝鮮系なのかな。

 

地図を見てみると、何とそこからすぐのところに、王さんが通った小学校があることが分かり、向かってみる。日本飲食文化街などと言う通りもあったが、半数以上はスナックだったから、笑ってしまった。少し上り坂を登ると、そこに小学校が見えた。校庭はかなりの広さがある。

 

ここが日本時代の伏見台国民小学校、現在の大連市実験小学校だった。校舎は建て替えられており趣はなかったが、周囲には日本時代の古い建物がいくつか残っていた。実験小学校だから、現在は大連の優勝な小学生が通う、優良校なのだろう。日本時代はほぼ日本人が通っていたと言い、台湾人は数人、地元の子はいなかったと王さんは言っていた。

 

ここからまた一気に坂を下っていく。これも王さんの説明通りだった。下りきったあたりには、古い建物が集中的に残っていたが、全て囲われており、中に入ることはできなかった。ここは小崗子と呼ばれた場所で、王さんが住んでいたという恵比寿町の中心だったらしい。恵比寿町は相当広い範囲の町名で、王さんが住んでいた場所を確認する術はなかった。

 

こんな広い場所を保存できるのか、一等地なのだから再開発されて消えてしまうのではないかと危惧してしまう。僅かに入れた場所は西崗市場と書かれたところ。この雰囲気だけが昔を忍ばせる。この地区は中国人が住んでおり、日本人はいなかった。王さんたちはお茶を買う客が中国人だったから、ここに住んでいたのだろう。帰りは路面電車を横目に見ながら、歩いてホテルへ。

 

午後はホテルにコインランドリーがあったので、溜まった洗濯物を処理した。乾燥機もついていたが、2時間やっても乾かなくて難儀する。夜は近所のレストランに入り、木須肉飯を食べたが、如何にも駅前の美味しくない代物だった。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(5)9年ぶりの大連へ

12月19日(水)
大連へ

今朝も相変わらず寒い。今日は大連に移動だ。天津にも慣れてきて、好きになって来ただけに残念だ。最後にまた豆腐脳を食べて天津を終わろうと思ったが、何と売り切れで食べられず。どうしても次回また来なくてはならなくなる。代わりに近所の食堂に入り、煎餅と卵スープを頼む。十分満足。

 

ホテルをチェックアウトして、地下鉄駅まで荷物を引きずる。これが遠いのは玉に瑕。まあ仕方がない。それでも地下鉄を乗り継ぐと1時間弱で天津空港まで行けるのは有り難い。恐らく初めて乗る天津空港。天津航空の大連までのチケット代は僅か200元と格安。LCCかと思い、荷物代を払っても+50元だから嬉しい。しかもチェックインのところで見るとどうやら預け荷物も15㎏だと無料らしい。払い過ぎたか?更には預けずに機内に持ち込めるというので驚く。

 

国内線だから余裕があり、搭乗ゲート近くでPCなどをいじっていると、いつになっても搭乗開始にならない。何故だろうかとカウンターに近づいて見て驚いた。何とゲートが変更になっているではないか。そんなアナウンス、あったのだろうか。慌てて走って変更ゲートに向かう。既に搭乗は始まっており、何とか間に合う。いつか乗り損なう日が来るような気がする。

 

初めて乗る機体は新しく、機内はきれい、CAも笑顔がありよい。僅か1時間のフライトで、そのサービスのほどは分からなかったが、メジャーエアラインに比べて、きめ細かいサービスと笑顔は期待できそうだ。あの安い料金でかなり乗っているのは何故だろうか。経営の方が心配にはなる。

 

大連の街
大連空港に降り立つのは約9年ぶりだろうか。荷物を持ち込んでいるのでスムーズに外に出る。意外と寒い。地下鉄が通っているのだが、一度空港ビルから外へ出て地下へ潜る。何故だろうか。天津も大連も10年近く来ていなかったので、地下鉄が走っていて便利だと感じられる。しかも大連駅まで乗り換えなしに行けるからよい。

 

地下鉄はとてもきれいだった。そして乗客は殆どいなかった。市内に近づくにつれて乗ってくる人はいたが、天津同様混雑はなかった。駅で降りたが、大連駅までは少し距離があった。天津で気に入ったチェーンホテルを大連でも予約したが、その場所は大連駅の横だったのだ。

 

そこまで行くのに狭い道を通る。何となく古い街がそこにあった。何故駅前にこんな建物があるのだろうか。実はそこが日本時代に賑わった連鎖街という日本人の街だったのだ。歴史的建造物として残されるのだろうか。駅前の道には路面電車も走っており、何となくレトロな雰囲気が漂う。

 

ホテルはデザインなどは天津とほぼ同じだったが、料金は3分の2で済んだ。やはり大連の宿は安い。検索してみると昔出張で泊ったシャングリラホテルでも700元程度で泊れる。いくら古くなっているとしても、今の中国では考えられない料金だ。天津でこの宿を利用したこともあり、さらに割引になったりもする。部屋からは大連駅がよく見える。

 

窓の外を眺めていると急速に闇が迫って来た。大連は天津よりだいぶ東にあるのだろう。同時に腹も減ってくる。今日はちゃんと食事をしていなかったので急いで外へ出る。連鎖街の食堂を探したが、ローソンが光っているだけ。寒いので地下道に入り探すも、衣料品店が多く、ピンと来る店がない。折角大連に来たのだから、餃子が食べたい。

 

地下鉄の隣の駅まで歩いてしまい、外へ出て探す。こうなると意地だ?10年前に大連に来たら、餃子の店は沢山あったはずだが、今は食にバリエーションが出ており、韓国料理屋やフランスパンの店など、実に多彩になっている。イルミネーションもキラキラしているのだが。

 

ついに小さな食堂を見つけた。麺屋と書かれていたが、水餃子があったので頼んでみた。私の好物のセロリと豚肉入りの餡だ。以前大連で餃子を頼む時は、一斤か半斤単位で食べ切れなかったが、この店は適当な量が皿に載って来た。代金は13元、昔に比べれば高くなったものだ。

 

餃子はまずくなかったが、その店の雰囲気はほぼ最悪だった。おじちゃんたちがぼそぼそ話しながら麺を啜っている。そして何と言っても皆がタバコを吸っている。ええ、中国の食堂って、禁煙ではなかったのか。しかも後から入って来た若い女性2人も席に着くなり、タバコに手が伸びる。ここはタバコ部屋なのだ。煙草をあまり気にしない私も、これには参ってしまい、早々に退散した。

 

大連駅を含めて周囲のライトアップはきれいだった。部屋に戻ると、発展した大連を上から眺めた。床に就くと、かすかに列車の音がする。鉄道好きの人にはちょうど良いロケーションなのかもしれない。元々はどんなホテルだったのだろうか。鉄道ホテルか?

天津・大連・北京周遊茶旅2018(4)広東会館から河沿いを行く

12月18日(火)
今日も天津を歩く

翌日は、午前中人民大会堂で行われた改革開放40周年式典をテレビで見ていた。科学者、文学者、政治家、技術者から、金メダリストなどスポーツ選手、アリババのジャックマーのような企業経営者まで、まあ、実に様々な功労者が紹介され、表彰されていた。確かに鄧小平が行った改革開放により、これまで人類史上稀にみる発展を遂げた中国、それを誇る気持ちはよくわかる。こういうパフォーマスンは意外と大事なのかもしれない。これまでの高速発展から安定的な発展へ、果たしてうまく舵を切ってくれるのだろうか。中国の動向は我々にも大きく影響してくる。

 

昼前に外へ出た。一昨日ちょっと目に入った広東会館に行って見たくて検索すると近くのバス停からバスが出ていると分かる。だがそこへ行くとなぜかその番号のバスはなく、仕方なくタクシーに乗る。そして鼓楼が見えたので、そこで降りて歩く。平日の昼間、人は殆どいない。

 

真っすぐ行くとそこに鼓楼があった。ただ昼の12時からは係員のランチ休憩で登ることは出来なかった。その横に目指す広東会館があった。ここも休みかと思ったら、寒さのためチケット売り場の窓口を固く締めているだけだった。窓を叩くと中のおばさんに突然『65歳以上なら、早く身分証出してよ、割引だから』と言われたので、本当に驚いた。自慢ではないが、最近実年齢より若く見られることが多いので、まさか65歳以上と思われるとは予想外だった。帽子を取って顔を見せると、おばさんも笑っている。

 

広東会館というのだから、その昔は港町の広東商人などが集う場所だったはずだ。ところが建物に入って見てびっくり。そこは立派な劇場で、ちょうど相声という漫才が行われており、大勢の観客が笑い転げて、熱気で溢れていた。周囲には京劇の人形などもあり、時間によっては京劇が上演されていることも分かる。僅か入場料10元で、このタイムスリップ感とコスパの良さ、すごい。

 

1907年に建てられたこの会館。広東人で中華民国初代総理の唐紹儀が中心となり建設された由緒ある建物で、その一部がほぼ完全な姿を残している。かつては300室もの部屋を備え、多くの広東人が集まって来たという。また梅蘭芳など有名な役者がこの舞台に立ったとある。今はこの舞台のある建物を中心一部が残されているということだろう。

 

広東会館を後にする。台湾の王さんが言っていた、河沿いを歩いて行くと勧業場に着く、という言葉に従い、海河沿いを歩いてみる。天気は良いのだが、風はかなりあり、ちょっと寒い。河の向こう側にはいくつもの洋館が立ち並び、往時の繁栄を忍ばせる。王さんもこの景色を見ながら歩いたのだろうか。橋を途中まで渡ったが、前回も歩いたので、今回は断念する。

 

更に歩いて行くと、おしゃれなストリートの中に勧業場の尖った建物が見えてくる。ここまで約30分、王さんの言っていた通りだった。多倫道付近を歩いてみると多くの小さな日本料理屋がある。本当に天津は日本料理ブームなんだな。それも若者向けで可愛らしい。この付近、昨日も一昨日も歩いたが、何となく落ち着く。やはり日本租界だからだろうか。

 

今日は最後に、紹介されたお茶屋さん?お茶教室?にお邪魔した。天津大好きというYさんが通う店だった。お店はマンションの一室なので、連絡を入れて店員に迎えに来てもらい、何とか中に入る。店内はお茶と茶器に囲まれた素敵な空間。店主の張さんとは初め中国語で話していたが、突然『日本語とどっちがいいですか?』と流ちょうな日本語で聞かれ、日本語になる。

 

張さんは大学で日本語を専攻して、卒業後貿易関連の仕事をしているうちに、お茶に嵌ったらしい。これだけの日本語を話せれば、日本人の生徒も多いだろうと思ったが、天津には上海や北京ほどには、日本人はいないようだ。お茶の品ぞろえも実に豊富でよい。お茶を飲みながら1時間半ほど天津のお茶の歴史などを聞く。

 

帰りはちょっと歩いて地下鉄東南角駅へ行く。この付近には地下鉄駅がなく若干不便だ。バスも退勤ラッシュに掛かり、乗り難い。何とかホテルに帰り着くと薛さんから夕飯を食べようと誘われる。最後の晩餐だ。奥さんは風邪をひいてしまったようで、二人で近所のきれいな北京料理屋へ行く。

 

好きな物を頼め、と言われたので、炒腰花と木須肉をチョイス。この店の味付け、北京よりうまいのではないだろうか。具材も新鮮だ。ご飯ではなく、煎餅を頬張ると、余計に北京らしくなる。今晩は私が支払いをしようとスマホを取り出し頑張ったが、やはりスピードが遅く、薛さんに払われてしまう。本当に今回、薛さんにはお世話になった。有り難い。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(3)五大道を行く

12月17日(月)
五大道を行く

今朝はかなりゆっくりと起きた。そして食べ過ぎの為、朝食を抜いた。9時頃には薛夫妻が来てくれた。今日は五大道に連れて行ってくれるという。ここの管理委員会の主任が薛夫人の同級生で会ってくれるらしい。天津の歴史の一端を知る上で重要な場所であり、訪ねてみた。

 

管理委員会の場所、そこは大きな競技場のように見えた。コロッセオとでもいうのだろうか。ここは1920年に建設が始まった総合運動場だった(2014年に全面改修が終了)。この運動場の建設には天津生まれのイギリス人、1924年のパリ五輪、400m走で世界新記録、金メダルのエリック・ヘンリー・リデルも関与していた。リデルはその後も天津に住み、日本軍により強制収容所に入れられ、そこで死亡したという。両親が宣教師で、義和団事件直後の天津で生まれたリデルの物語は実に興味深い。

 

この運動場を囲む建物の中には博物館があり、まずはそこを見学した。100年以上前の天津の生活、薬局やレストラン、カフェ、写真館や日本人が開いた床屋までが再現されており、展示されていた。往時如何に天津には海外から人々が集まり(後の米国大統領など著名人も多く含まれる)、暮らしていたのか、その様子がよくわかる。

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見学が終わると、主任が登場。博物館に併設されたカフェ、キースリンでお茶を頂きながら、五大道の説明を聞く。主任にとってはこの地区を世界に知らしめ、観光客を呼び込むことも重要な任務の一つであり、その魅力を語ってくれた。天津には1000もの歴史的建造物が保存対象となっているが、その内半数近くがこの地区にあるという。因みにこの建物の中には北欧などのブースがあり、今やインバウンドではなく、海外旅行誘致が盛んだ。

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旧イギリス租界の一角にあった五大道は、成都、重慶、常徳、大理、睦南及び馬場の5つの街道からその名が付けられた。車で案内しようと言われ、専門家の金先生まで登場して、詳しい説明が始まる。全部の道を歩いたら20㎞近くあるようで、今回は車で30分程度、簡単にぐるっと回っただけだったが、戸建ての立派な家が多かった。

 

清朝瓦解後、天津に逃れてきた貴族や金持ちが住んでいたと言い、洋風の建物が多い割には、実は中国人の街だった(日本人も僅かに住んでいた)。今でも著名人の末裔たちがひっそりと暮らしているともいう。金先生の説明が早口である以上に、あまりにも歴史が多過ぎて、完全な消化不良のまま、車を降りた。

 

昼は運動場にあったイタリアンレストランに入る。主任は『五大道は今や日本食ブームだよ』と言っており、多くの日本料理屋の看板が見えていたが、薛さんは敢えて『五大道では洋食だ』と言って入っていく。レストランの内装などには雰囲気があるが、正直パスタもピザも味はイマイチ。

 

午後は薛夫妻と別れて、五大道を一人で歩いてみることにした。道は平行に走っており、歩きやすい。路地などはほぼ無くなっている。慶王府のような中国風の建物も見られるが、洋館が多い。保存はかなり行われており、状況の良い建物が多い。有名人の各家の前にはプレートが掛かっており、説明も付いている。私にはよく分からないが、中国人ならすぐわかる人が多いのだろう。買弁、商人、軍人、医者など、様々な職業の人々の家がそこにあった。10年前に来た時に入った茶楼もそのまま残っていて驚く。

 

3時間近く休みもなく歩き続けてしまった。暖かな日差しがあるとはいえ、気温は零度をちょっと上回った程度。さすがに体がこわばり、休みを欲していたので、この街を離れることにした。地下鉄駅まで何とか歩いて行く。先ほど博物館にあったキースリンの本店、立派な建物が見えた。帰ろうと思ったが、すぐ近くに静園があることに気づき、地下鉄を降りて向かう。

 

ラストエンペラーが住んだ静園には10年前に来たことがあった。今回はもう一つの張園が見てみたくて探す。静園のすぐ北側にその建物は見えたが、改修中で入れなかった。張という山西人が1916年に建てた私邸だというから、相当の金持ちだ。茶葉貿易にも絡んでいたのかと思ったが、調べてみると清末の軍人、湖北提督だった。この園、ずっと未開放で数年前に開放されたと聞いたのだが、また閉鎖されたのは残念。この付近は五大道とは違い、日本租界の雰囲気が漂っており、古い建物も多く残っていた。

 

仕方なく静園に入る。溥儀の一生が詳細に展示されており、ちょっと興味深い歴史をいくつか発見した。ここで一緒に暮らし側室、文繍に訴えられ、慰謝料を払って離婚、中国史上初の離婚歴のある皇帝となった。文繍の暮らした部屋も公開されている。紫禁城と比べれば、決して広くない家に正室婉容と側室が同居、問題が起こらない方がおかしい。その他の女性関係も細かく展示されているのが面白かった。

 

地下鉄でホテルに戻る。夕方5時を過ぎていたが、何と部屋の掃除がされていない。そのことでひと騒動あったが、今の中国ホテル業界の厳しい競争を肌で感じ、それはそれでよい経験だった。掃除班長からの差し入れ、水4本を大切にして、トワイニングの紅茶で今日一日の疲れを取る。夜はホテル近くの食堂で簡単にご飯を食べて休む。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(2)オールド天津を散策

12月16日(日)
オールド天津を散策

翌朝起きてみると天気は良いがガスが掛かっていた。氷点下6度、寒い。だが外へ出てみると、それほど寒いとは感じられない。朝ご飯を探して、集合住宅を歩いてみると、煎餅の屋台があった。大きな餅に卵を入れている。美味しそうで思わず購入。食べる所がないので後ろを見ると、何だかスープのようなものを売っていたので、それも買って、その店の席で座って食べた。それはスープではなく、豆腐脳だった。柔らかい豆腐と何とも言えないタレが絶妙に絡み合い、絶品。これは毎日食べたい。合計僅か7元の幸せ。

 

 

10時前に薛さんと奥さんが車で迎えに来てくれた。奥さんとは数年前長崎で会って以来、久しぶりだった。まずは薛さんが現在勤める南開大学のキャンパスを見学する。中国ではどこでもそうだが、ここも非常に広く、歩くのは大変だ。周恩来など幾多の人材を輩出した名門は、来年100周年を迎える。それ時代の建物や100年近い食堂など、歴史的な建物も多くあり、興味深い。普通は毛沢東像がある場所に周恩来がいるのが珍しい。

 

それから旧市街地に向かう。日曜日だから交通量はそれほどでもなかったが、駐車場がなかなか見付からない。こういう時、車は不便だ。何回も同じような場所を巡って探すことになる。最後は駐車場の係員の好意で、特別に停めさせてもらって、何とか先に進むことができた。この辺の薛さんの交渉力は凄い。

 

今回は先日台湾で出会った王さん(1947年頃天津に1年住んでいた)の記憶をもとに、その話に沿って歩いてみる。先ず訪ねたのは針市街。ここは70年前、大きな市場があった場所だというが、今回行って見ると、ほぼ閉鎖されていた。聞けば、新中国後に一度再開発され、今回もう一度開発すべく、店舗なども全て追い出したらしい。だが資金難なのか、工事は進んでいない。この区画の中に80年前の建物が一部残っているとの話もあったが、確認する術はなかった。

 

その向かい側に唯一残っていたのが、鍋店街。こちらは古い商店街のようになっており、衣料品店などが多かった。中には国営と書かれた葬儀服専門店もあり、ちょっとビックリ。そしてある建物には山東の茶行の文字が見え、昔は茶も売られていたことが分かる。角の一軒は史跡指定を受けており、ここは残るかもしれない。

 

続いて勧業場に向かう。車を動かしたくないので、観光用のオート三輪をチャーターして向かう。運ちゃんがガイドも兼ね、20分ばかり走り、色々と案内してくれる。正直半分程度しか聞き取れないが、何となく面白い。80年前日本人が沢山住んでいた場所なども通り過ぎ、歴史的な建物も残っていることが分かる。本当は降りて歩いて見たかったが、まずは目的地優先、後日時間があれば来てみよう。

 

勧業場は、1930年代、斬新な百貨店だったらしく、王さんもよく覚えていた。その建物は90年を経てそのまま残っていた。中身も百貨店のままだった。勧業場の後ろ側は、おしゃれなストリートになっているが、反対側、向かいには天津ダックの老舗があり、横には天津名物、麻花という菓子の老舗もあり、昔の風情を少し残している。薛さんがその横で天津甘栗を買ってくれたが、これは日本からの逆輸入だろうか。

 

そこから少し歩くと、あの天津名物、狗不理包子がある。私は2000年頃ここに来て食べた記憶があるが、従業員の態度は最悪で、肉まんも特にうまいとも感じず、散々だった思い出がある。今日行って見ると、店内はとてもきれいになっており、従業員の対応も悪くはなかった。肉まんも美味しく頂き、その変化には驚く。勿論料金は数倍になっている。

 

そして今日のクライマックス、王さんが72年前に住んでいたという場所を探す。住所は分かっていたが、まさか今もその道があるとは。しかも王さんの記憶の通り、勧業場のすぐ近くにその道は存在した。だがその番地の場所は既に建て替えられ、集合住宅に変貌していた。昔の痕跡は何もない。少し歩くと、如何にも昔の風情を備えた路地があり、往時はこんな感じだったに違いないと思いながら、帰途に就く。

 

この付近から先ほどの車を停めた場所まで行く交通手段が意外と難しい。地下鉄でも乗り換えないといけないし、駅までも時間が掛かる。場所的には近いのに困った。タクシーを待つがなかなか捕まらない。最後は配車アプリで何とか乗車して戻る。やはり天津も忙しい社会になっている。

 

夕方、南開大学で薛さんの教え子との懇談会に出席した。私の方から簡単にお茶の旅と歴史について話しをした。学生は中国全土から来ており、中国各地のお茶についても言及した。ここに集った学生は基本的に院生であり、極めて優秀な人々であることがすぐに分かった。中には世界数学コンテストで入賞した人までおり、やはり中国の人材の厚みを感じざるを得ない。お茶は薛夫人が淹れてくれた。2時間以上の時間があっという間に過ぎてしまい、皆忙しいので記念写真すら撮らずに別れた。残念。

 

 

夜は大学内のレストランで食事をした。レストランの入り口に英語表記があり、ここは昔外国人専家と呼ばれた人々が食事をした場所であろうと想像した。1980年代は様々な分野の専門家が招聘され、日本人も多かっただろう。現在では専門家はおろか日本人留学生すら、数えるほどしかいないという現実がある。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(1)北京空港から天津へ

《天津・大連・北京 三都茶旅2018》  2018年12月15-26日

実はハバロフスクに行こうと思っていた。どんなに寒くても行く価値があると思っていた。ただ偶々先方の都合が悪くなり、それは来年に延期された。その過程で、どのようにハバロフスクに行くかを検討していたら、北京経由のフライトが出てきた。ただ冬とはいえ、東京-北京の飛行機代は高い。そこで思い付いたのが、天津経由で北京に入る方法だった。天津には格安のLCCが就航しており、天津₋北京間も近い。

 

更に日本統治時代の台湾人で天津、大連に支店を出し、台湾茶を売っていた人々を追うこという活動もしていた。具体的な70数年前の思い出を聞くうち、結局天津、大連、北京を周遊することに決めたのだが、天津から入って北京から出るチケットはなぜか高い。最後には東京-北京の往復航空券を買ってスタートした。

 

12月15日(土)
北京経由天津まで

土曜日の昼前、羽田空港に向かった。電車は空いており、楽ちんだった。今日は久しぶりのエアチャイナで北京に向かう。機内は満席でもなく、機体は新しく快適だ。映画を見ながら過ごす。少なくとも東京便に関しては、和食も出るし、サービスはかなり改善されていると見てよい。

 

午後5時過ぎに北京空港に到着した。手荷物だけなのですぐに外へ出たのだが、この空港から出る天津行バスの乗り場を探すのに少し手間取る。何とか見つけたが、17:40分のバスがタッチの差で行ってしまい、40分待つことになる。チケットは82元だから、北京市内の南駅まで行って高鉄に乗るよりは、安いと思う。問題は天津までどれぐらいかかるかだ。2時間半と言われたが、渋滞があれば5時間かかるとの話もあったが、果たしてどうだろうか。

 

時間があったので、飲み物を買うため空港内をウロウロしたが、コンビニのような店はない。ちょうど自販機があったので、水を買おうとしたが、いくら紙幣を入れても、跳ね返されてしまう。よく見ると横にもう一台機械があり、こちらがスマホ決済用であることを発見。これであっという間に水が買えた。スマホ決済がないと何かと不便な中国の、ささやかな一例だ。

 

バスは定刻にやってきた。乗客は半分にも満たないので、悠々と座る。北京空港内、ターミナル1,2でも乗客を拾っていく。その後はかなり順調で、ほぼ渋滞もなく、PMによる視界不良もなく、バスは高速道路を進んでいった。2時間後には天津に入り、ほぼ2時間半で、バスターミナルに到着した。思いのほか順調で少しびっくり。ただ気温は氷点下、やはり東京よりはかなり寒い。

 

天津では旧知の薛さんにお世話になることになっていた。ホテルも彼が予約してくれ、地下鉄も指示されていた。ただバスを降りたところがあまりにも何もなくてびっくり。地下鉄はおろか、タクシーを拾える感じもない場所だった。どうしようかと迷っていると、バスを降りた数人が歩き始めたのでそれに着いて行くと、エレベーターがあり、そこを降りると、何ときれいな地下鉄の駅に繋がっていた。びっくり。

 

その地下鉄6号線に乗り、指定された駅で降りると、薛さんが車で迎えに来てくれた。地図で見ると駅からホテルまでは近いのだが、大きな道路を渡れるところがなく、すごく遠回りをしなければならず、車は助かった。ホテル自体はチェーン店だが、ロビーフロアーに図書コーナーがあるなど、若者向きの明るくきれいなところだった。

 

私がいつも泊まるホテルより価格は高いが、外国人の宿泊問題はない。部屋のデザインもよく、広さも十分で快適に過ごせそうなので、気に入ってしまった。その日はもう遅いので薛さんと部屋で簡単に打ち合わせをしただけ。無料の飲み物がトワイニングのアールグレーとイングリッシュブレックファーストの2種類だけ、というのも、中国のホテルとしては相当に珍しく、目を引く。普通は中国茶が置かれるはずなのだが、なぜだろうか。おしゃれ?一杯紅茶を飲み、暖まった後、ゆっくりと寝入る。

香港でちょっと茶旅2018(3)懐かしい人々と会う

12月12日(水)
懐かしい再会

今朝はホテルの朝食でスタート。やはりここのご飯はそれなりに充実している。常に混んでおり、席の確保が大変だ。ビジネスマンがさっさと食べている傍らで、妙齢の女性がゆっくり食べている。中国人男性はここでも山盛り、そしてスマホで電話しまくる。洋食からインド系、和食まで、何でもあるので私は食べまくる。部屋代は朝食込みながら、一応サインをさせられるとドキッとするのも変わらない。

 

昨日支店で断られたHSBC、今日はわざわざ本店に行って見る。すると対応がまるで違う。ただATMで現金が引き出せなかった原因は『カードの破損』と認定され、再発行になってしまった。ところが別の部署でこの話をするともう一度確認すると言ってカードをATMに入れると見事にお金が出てきた。『カードは壊れていないが、すでに再発行が行われたので、すぐにこのカードは使えなくなる』とは困った。

 

因みにHSBCは外資銀行だ、とのコメントを頂いたが、香港に10年住んだものとしては、最大の発券銀行であり、名前に香港が付き、何より地元民が『香港バンク』と言っているHSBCこそ、地場銀行の代表だと勝手に考えている。この銀行の長い歴史を考えると、往時は茶葉金融もかなりやっており、興味は尽きない。

 

昼頃、今回のメインイベントに出掛ける。場所は懐かしの?日本人クラブ(移転後2回目の訪問)。久しぶりに事務局のSさんにも会って昔話に花が咲く。今日はアジア情勢というより、お茶から見るアジア、アジア茶の現状をお話ししたが、果たしてどれほどお役に立っただろうか。

 

それから中環へ向かった。ちょっと慌ててMTRに乗り込んだのだが、中環駅で降りると、オクトパスカードがない。最近のボケはここまで来たか。遅れてはいけないのでかなり焦ったが、窓口で失くしたことを話すと、即座に臨時カードで出してくれ、改札を出られた。新しいカードを買うと『今回は災難でしたね、次回気を付けて』と言って今回の乗車運賃は取られなかった。日本なら説明だけで大変だっただろうな、さすが香港。

 

香港に来る前、Wさんという方からメールをもらった。香港に来るなら会いたい、という。誰かと思っていたら、北京でご一緒した方で、アメリカに行っていると思っていたら、何と2週間前に香港に赴任していた。そのWさんは今や香港日本人社会のトップだった。ちょっと緊張してエクスチェンジスクエアーに伺ったが、偉くなられても相変わらず気さくで柔和。そして滋賀のお茶をアメリカに売り込んだと言い、お茶の勉強までされており、お茶談義をしてしまった。確かに北京でうちのお茶会にも時々来て頂いていたが、実に多趣味だ。

 

中環から上環まで歩いて行く。もう夕方だが、旧知の堯陽茶行に行き、いつもの王さんに挨拶しながら、鉄観音茶の香港での歴史を聞く。彼らは安渓の出身だが、元々鉄観音の取り扱いは多くはなかったようだ。1970年代までは炭焙煎だったが、量が増えて電炉に変わったという。先日訪ねたバンコックの集友茶行や王有記ともやはり繋がりはあった。

 

更にはお向かいの林奇苑に飛び込み、ちょうどいた先代老板(以前に何度も会ってはいる)にいきなり、『林奇苑という名はどこから採ったのか』と不躾な質問を始めた。実はこの名前、戦前厦門の大茶商であったことは、先日のバンコックで確認していたが、今の老板は潮州人。やはり何の関係もないことが分かり、すぐに退散。

 

部屋に戻って最後の夕日を眺め、夜7時に銅鑼湾のタイムズスクエア―に行く。今晩は北京繋がりで、最近香港に越してきたIさんと会う。市場の横の食堂で海鮮を食べるというので、旧知のOさん、Yさんにも声掛けし、更に知り合いの知り合いというO夫妻も加わり、賑やかに食事をした。Iさん以外は香港歴20年以上のベテランで、香港話の内容もそれなりに濃い。涼しいので鍋が体に沁みる。

 

12月13日(木)
茶縁坊に寄って

今朝はエクセルシオールにお別れした。実にあっけない。まあこういうものが歴史になっていく。荷物を引いてバスに乗り、また上環に向かった。高さんには連絡してあり、香港を離れる前にちょっとの時間を茶縁坊で過した。こことのお付き合いももうすぐ20年になる。やはり老舗お茶屋の話や鉄観音の話を聞く。

 

香港の喧騒の中で、ここにいる時は何とも落ち着くのがよい。安渓大坪からも沢山の華僑が排出されており、先日のヤンゴン、張源美のように有名になった茶商もいる。だが大多数は無名で終わる。ただその人々にも人生があり、日々の営みがあったのだ。歴史はそれを全て掘り起こすことは出来ない。自分が今体験している付き合いでしか、分からない。

 

空港に行く時もやはり空港バスに乗ってしまう。先日に失敗があったものの、上環からなら、渋滞も避けられるので問題はなかった。今回の3泊4日の旅はあっという間に過ぎてしまった。やはり香港にはなにがしかの愛着があり、もう少し長居したい場所だ、としみじみ思いながら、帰路に就く。

香港でちょっと茶旅2018(2)観塘の出会い

12月11日(火)
大学駅へ行くはずが

今回1泊したホテルは近くのホテルの系列店として出来たばかりでとてもきれいだったが、如何にも香港らしくかなりコンパクトな作り。ボーイのおじさんは日本語を話しているので、本店から回って来たのだろう。部屋の冷蔵庫の飲み物は無料だったが、やはり4本中2本はビール。お客の嗜好に合わせて替えて欲しいな。わがままか。

 

朝部屋をチェックアウトして、荷物を預けて、バス乗り場に向かう。この時期の香港としては気温がかなり低く、厚着が必要だった。今日は新界まで行くので、バスでハーバーを渡り、そこから列車で大学駅まで行くつもりだった。100番台のバスは全てハーバーを越えると思い込み、来たバスに乗ったのだが、どうも様子がおかしい。香港島の中へ切り込み、ついにはアバディーントンネルに入ってしまった。

 

完全に方向を間違えたと思ったが、トンネルは長い。どこで降りれば反対方向へ行けるか考えているとトンネルを抜けた。そこにはなんとMTRの駅があるではないか。海洋公園、そんな駅、いつから出来たんだ。祈る思いでそこへ行き、このMTRの行先を確認すると金鐘だった。しかも乗車僅か10分で金鐘に着いてしまった。さすが香港のスピード感。

 

金鐘で満員のMTRに乗り換えて、旺角でも乗り換えて、何と約束時間の少し前に大学駅に着いてしまった。これには正直驚いた。バスの時間が読めないので少し早く出たとはいえ、こんなことってあるのだろうか。それにしても、バスを乗り間違えるとは本当にボケが進んでいる。

 

今日は旧知のKさんと会った。駅前の中文大学の施設、最近は試験シーズンとかで、かなりひっそりしていた。そこでブランチを頂きながら、話をした。ここ2回ほど香港に来ると必ず、彼に会っていた。何しろ話していると、歴史に関する新たな視点が見えてきて、とても面白いのだ。言語学、民俗学、アジアの歴史、凝縮された内容で、歴史は一方向からのみ見ていてはダメだ、と思わされる。

 

2時間はあっという間に過ぎてしまう。昼を過ぎて少し時間があったので、MTRでホンハムまで戻り、香港歴史博物館を訪ねてみた。前から行きたいと思いながら、なかなか時間が取れなかったので、いい機会だと思って勇んでいったが、火曜は休館日だった。何と間の悪いことだろうか。次回を期して、黙々と去る。

 

お茶ビルとの出会い
午後は観塘に向かう。25年来の知り合いであるNさんから先日『香港で茶のイベントをやっている人たちがいる。紹介しようか』という話が舞い込んだ。正直茶の歴史は、イベント活動とは、合わないのではないか、と思っていた。だが折角ご連絡を頂いたので、どんなところか一度訪ねてみることにした。

 

観塘は昔繊維などの工場が立ち並ぶ場所というイメージがあったが、訪れることは稀だった。駅前にはショッピングモールがあったが、ちょっと歩くと、昔の香港が少し垣間見られる。指定されたビルに着くと、やはり昔の工場ビルの雰囲気が残っていた。そこで日本人のHさん、Nさんと合流した。

 

お二人の香港歴は私より長く、既に30年に達していた。元はやはり繊維関連の仕事をしていたというのだが、それがどうお茶と結びつくのか。ビルに入ると、きれいなティーショップになっていて驚く。更に上の階に上がると茶館のようなスペースがあり、様々なお茶が飲めるようになっていた。

 

このビルのオーナーは不動産などで財を成した方で、香港だけではなく、北京の有名地区の開発も手掛けていた。そのお嬢さんがお茶事業を行っているという。元は福建出身で岩茶などがメイン、武夷山に茶工場も持っているという。そしてこのビル一棟のスペースを使い、茶館、イベントスペース、博物館などを作り、ビジネスを広げようとしていた。

 

特に私の目を引いたのが、お茶関連の骨董コレクション。昔の茶缶や茶などがふんだんに置かれており、ちょっと圧倒される。現在喫茶スペースを整理して、今後は定期的にイベントを行い、茶の普及に努めるという。何だかとても面白い、不思議な空間に紛れ込んだようで、興味をそそられた。Hさんはここで音楽と茶をコラボしたライブなどの開催で、検討が進んでいるようだ。会話は英語と普通話が半々。

 

観塘からMTRに乗り北角経由で天后に戻る。こういう便利なルートが出てきており、今まで遠いと感じていた観塘が非常に身近に感じられた。ホテルに荷物を取りに行き、そのままエクセルシオールに向かう。ここに初めて泊まったのは1980年代後半だろうか。場所が便利なのでここには何度も泊まった。2階のカフェにもよく行った。

 

チェックインは混んでおり、クリスマス前のこのシーズンは繁忙期だと分かる。部屋に入ると、ビクトリアハーバーが見えたので思わず写真に収める。いつの間にか日本人客用のグッズ(浴衣と煎茶)も届き、懐かしい雰囲気となる。夕暮れを見ながら、ゆっくりと部屋で過した。

 

夜は翌日の打ち合わせを兼ねて食事。銅鑼湾の海鮮料理屋で、蝦やホタテをご馳走になる。この会社の責任者がちょうど交代する時期で、ご挨拶を兼ねていたが、新任は女性だった。今はあいさつ回りの最中で、忙しい中、付き合って頂き、感謝。