「茶旅」カテゴリーアーカイブ

香港で茶旅を語る2019(4)烏溪沙に初めて行く

4月5日(木)
馬鞍山から

香港最終日がやって来た。今朝は宿の周囲を少し散策する。近くには昔ながらの街市、市場があり、老人を中心に常連客が買い物している。それに今日は清明節の祝日にあたり、その老人を連れた子供や孫の姿も見られた。この市場ももし再開発計画でもあればなくなってしまうのかもしれない。今の香港の不動産価格の高さにはそんな危うさが感じられた。

 

荷物を持って駅へ向かう。3日前に来た時の逆を辿って歩く。今日は大圍駅から馬鞍山線に乗り、終点の烏溪沙駅まで行くことになっていた。この路線に乗るのは初めてで、ちょっとワクワクする。石硤尾から乗り、九龍塘ですぐに東鉄線に乗り換え、大圍でまたすぐ乗り換え。乗り継ぎは細かいが、距離的には凄く近くて驚く。また休日なので車両は空いている。結局約束の時間より20分も早く着いてしまう。烏溪沙駅は今のところ、この線の終点だが、今後西貢まで延長される可能性もあるのだとか。

 

そもそも私が住んでいた10数年前は、この駅すらなかったはずだから、香港は常に進化している。そしてこの駅付近が開発され、立派なマンションが駅に張り付いて建っている。私は30年以上香港に関わってきたが、こんなところがあるとは全く知らなかった。『香港は狭いので大体は分かる』などとはとても言えない。むしろ私は香港の何を知っているのだろうかと自問したくなってしまった。

 

ここには大学の後輩Kさんが住んでいた。烏溪沙は始発駅で、混雑もそれほどでもないので通勤には便利らしい。今日は清明節で街中は人が多いだろうと、ここで会う約束をしたが、新しい香港に出会えてとても良かった。駅に隣接したショッピングモールで飲茶した。早めの時間だったが、大勢の近隣住民が順番待ちしている。やはり祝日の午前中と言う感じだ。かなり食べたような気もしたが、料金は街中よりは安く感じられる。

 

思ったより早く席に着く。Kさんとは最近香港に来ると毎回必ず会って話しをする。何しろ私の茶旅の深い部分の知識を、言語学的、民俗学的、文化人類学的に埋めてくれる数少ない貴重な人だからだ。今回も昨日の福佬人や嶺南文化などについて、その定義、見解を聞き、また刺激を受けた。香港を含めた華南の歴史をもう少しきちんと知らないといけない、と痛感する。

 

烏溪沙駅から空港行バスが出ているというので、それに乗ろうとしたら、目の前でバスが行ってしまった。それでも20-30分に一本はあるので何とも便利だ。駅の周りを巡って時間を潰す。ちょうど不動産屋の前に広告が出ていたのでチラッと覗いていると、店員のおばさんが出てきて中国語で話し掛けてくる。日本人だと言うと、一生懸命英語を使ってくれる。

 

彼女の話だと、この辺の不動産も値上がりが続いており、それを見込んだ中国人がたくさん買い込んでいるらしい。価格は50-80㎡程度で、700万ー1200万香港ドル辺りが多い。東京はやはり安く感じられるだろうな、と思う。同時に海が見えるとか環境が良いとか言っても、一般日本人には手が出ない価格帯、中国からの資金流入の激しさを感じざるを得ない。

 

バスは乗った時は空いていたが、馬鞍山市内を回り、更には沙田市内にも寄り、乗客はどんどん増えていく。そして思ったよりもかなり時間が掛かっていた。相当に時間に余裕があったので問題はなかったが、香港の場合、料金と時間がほぼ並行しているので、27ドルという安さを見てみれば納得できる。約1時間半かかって、ようやく空港に到着した。

 

空港でもまだ集合時間に余裕があったので、ずっとPCをいじっていた。意外と集中できた。気が付くと、もう皆が集まっているではないか。今日はこれから昨日のお茶会メンバーの一部と一緒に武夷山に連れて行ってもらうことになっていた。昨日の主催者が茶工場を持っているというので、その見学ツアーだった。

 

厦門航空は週に数便、香港-武夷山直行便を飛ばしている。これに乗ればあっという間に武夷山まで行ける。かなりワクワク、楽しみだ。香港空港にはバスで一度移動する別ターミナル?があることに今回初めて気が付く。やはり色々と進化しているのだ。時間帯が悪いせいか、機内は空いており、ゆったりと過ごせる。武夷山に行くのは3年ぶりだが、果たして今回はどうなるのだろうか?

香港で茶旅を語る2019(3)普通話で茶旅を語る

4月4日(木)
普通話で茶旅を語る

今朝は冬粉とトーストを食べる。これにインスタントコーヒーと言えば、茶餐庁のメニューだろうか。我が4人部屋に何と日本人の若者がいた。彼は地元から香港直行便の第一便に乗ってやってきた。鉄道オタクでもあるようで、これから西九龍から深圳まで繋がった高速鉄道に乗りに行くというのだ。

 

だが中国は全く初めてで言葉も通じない。お金だけは何とかしたいと、スマホを取り出し、微信支付を設定したが、肝心の資金を入れることが出来ないと困っていた。そこで私が通訳して、隣の中国人の若者に入金をお願いしてみた。ところが何度やってもやはり入らない。表示には『この口座は身分証が未登録』と出ている。今中国で外国人が旅するのは本当に難しい。仕方なく彼はその辺に両替に出掛けていった。果たして彼は深圳で目的を達成しただろうか。

 

早めのお昼に出た。旧知の林さんとランチ。指定された地下鉄駅で待ち合わせて、上に出てすぐ近くの林さんお勧めの店に入る。そこは何と咖哩牛腩の店だったのでかなり驚いた。よほど食べたい念力が効いてしまったのだろうか。でもせっかくだし、嫌いでもないので、何も言わずに食べてみる。これはカレーがインド風か、サラサラ。咖哩牛腩にも実は色々な種類があることを知る。

 

林さんとは中国昔話などで、いくらでも話のネタがある。1970年頃に中国の空気を知っている人はそう沢山はいないのでとても参考になる。しかもキューバまで行き、スマホを無くした話まで出てくるから、実に面白い。物事は多角的に見ないといけない、とつくづく思う。

 

林さんと別れて、近所で本屋を探す。奥様からのリクエストである、2019年版の香港街道地図を買いに行く。昔はその辺の新聞スタンドでも売っていたと思うのだが、今はこんな本を買う人などいない、という雰囲気が漂っている。確かに私ですら、もう香港の地図は買わない。全てスマホ地図で済ませている。奥様は毎年これを買い、コレクションしているようだが、いつまで出版されるのだろうか。

 

MTRに乗り、クントンに向かう。前回12月にも行った昔の繊維工場ビルを目指す。しかしなぜか道を反対に歩いてしまい迷う。この辺が老化現象の際たるものだ。一度通った持ちを忘れるはずがない、という思い込み。マズい!途中、今日開店の『紅茶』という名のレストラン?があったが、英語名は『Red Tea』と書かれており、妙に印象に残る。

 

ビルに到着して3階に上がる。今日の茶会の準備が進んでいる。更に上の階で画家の個展が開かれているというので見に行ってみる。カナダに渡った香港人が描いたもので、元は実業家らしい。日本にも何度も行っており、日本の風景もちょくちょく描いているという。

 

午後3時から5時まで2時間、私の茶旅のトピックスと、日本茶の簡単な歴史を紹介した。参加者は20名程度。こちらの会社の社内研修のようなものだから、と言われて参加したのだが、お茶好きの香港人、そして日本人を前にパワーポイントを使い、何と普通話で話し続けた。これまで多くのセミナーでお話ししてきたが、これだけ長い時間普通話だけを使い続けたのは初めてだろう。かなり緊張した。

 

そして何より驚いたのは、香港財界の大物である、83歳のこちらのオーナーも最初から最後まで参加され、途中からは色々お話ししてくれたことだった。お茶が好きだという熱意には驚く。福建出身で先祖は茶貿易に携わっていたというが、彼自身は繊維、不動産開発の成功者だ。彼の娘と息子も同席し、新茶、緑茶を特別に飲ませてもらい、なかなかない体験をさせてもらった。

 

何とか茶会は終了したが、お茶好きさんからの質問を沢山受けた。香港茶の歴史もいつか調べてみたいと思うようになる。会が終わると、今日の茶会をアレンジしてくれたTさん、そしてそのお知り合いのUさんと共に、今回私のTさんを紹介してくれた、20年来の知り合いであるNさんを訪ねて、お礼を言いに行った。

 

Nさんとは近年何度も会っているが、仕事の話も殆どしたことはなく、勿論仕事場に出向いたのも初めだった。彼はサラリーマンから独立して、今や香港日本人の成功者だ。そのアパレル会社の名前に『Tea』とあったので驚いたが、よく見たら『Team』だったので笑ってしまった。今の私には見るものすべてTeaに見えてしまい、反応してしまうのだ。もうバカの領域ではないかと自嘲するしかない。

 

夕飯はイタリアンに行った。イタリアにもよく行くTさんは店員のイタリア人にイタリア語を使っている。そう、香港とはこうだったんだ。東洋と西洋との接点、と言った雰囲気があったものだが、今や東洋、いや中国の影ばかりが見えてしまい、ちょっと残念だ。そういう私も視野は随分と狭くなっているのを肌で感じている。

香港で茶旅を語る2019(2)久しぶりの歴史散歩

歴史散歩

流石に横にマッチョ君がいたので眠れないかと思ったが、夜中にクーラーを切ったらよく眠れた。それほど暑い訳でもないので、ちょうどよかった。安いゲストハウスなのに、朝食まで付いている。1階に降りると、5種類から朝食を選ぶのだが、食事を渡すのはスタッフの手作業。この事件費の高い香港でなぜ?クロワッサンとインスタントコーヒーを外へ持ち出し、中庭で食べると何とも心地よい。

 

食べながら見ていると、ここには裏山があり、老人が登って行ったので良い散歩道があると確信した。食後そのまま私も登ってみたが、意に相違してその上り坂はかなり急で、高所恐怖症の私には辛いものだった。ところが老人たちはそこをスタスタと上って行くので驚いてしまう。天気も良くなり、暑さも感じる中、登りきるとホッとする。帰りの緩やかな道を探したが他に道はなく、とても良い景色を少し眺めた後、また元来た急な階段をおっかなびっくり降りて行く。これは相当に消耗した。

 

今日は九龍城に行く予定になっていた。いつもなら旺角からミニバスに乗っていくのだが、地図的に見えればどう見ても、ここからバスで行くのが近い。探してみると直接イケるバスもあるではないか。スマホに従ってバス停を見つけて待つ。ところがバスは予定時刻になっても来ない。こういう時は少々焦るし、他の方法に切り替えるかどうかの判断が難しい。

 

まだ時間的に余裕があったのでそのまま待っていると、20分後にようやくバスが来た。バスは途中からいつものコースを辿り、僅か20分で九龍城に到着した。Yさんとの待ち合わせ時間より早かった。取り敢えず待ち合わせ場所の茗香茶荘に向かう。ここでいつものようにお父さんから香港茶業の歴史について、具体的な話を聞く。今日は珍しくマイケルも上機嫌で色々と資料を出してくれ、非常に収穫のある訪問となった。最後にいつもの鉄観音茶を購入して終了。

 

Yさんも合流したので、まずは腹ごしらえ。突然どうしても食べたくなってしまった咖哩牛腩を清真牛肉館に食べに行く。まだ時間が早いので空いており、ゆったり。咖哩牛腩と肉汁たっぷりの牛肉餅がセットをオーダー。腹に最後まで詰め込み、久々の充実感を味わう。

 

食後は九龍城を散策。古い薬局を改造したおしゃれなカフェがある。歴史的建造物の保存の仕方は色々あると思うが、活用できるものはした方がよい。九龍城公園の中を少し歩く。魔窟と呼ばれた九龍城には1990年頃、取り壊しの話があった時でも、一度も中に入ろうとは思わなかった街だ。

 

公園の横には侯王古廟がある。最初に建てられたのは1730年頃というから、香港もその時代、既にこの辺りまで漢人が南下してきて住み着いていた、ということだろうか。以前来た時よりすっかりきれいになっており驚く。裏側には昔からある大きな岩がそのまま置かれているが、その後ろは高層マンションが建っており、今の香港らしい風景ともいえる。その向こうには墓地も見えている。

 

侯王古廟の斜向かいには、古めかしいレンガ造りの建物が見えた。ここもきれいに改装して、100年前の人々の暮らしを再現、展示する施設になっていた。潮仙飲食文化というコーナーもあり、お茶のことも語られている。ただ当時香港にどの程度、この潮仙文化があったのかには、若干疑問もなくはない。

 

九龍城はこれぐらいにして、バスに乗り、前回閉館していた香港歴史博物館に向かう。これもバス一本で行けたが、時間はかかった。本日は無料開放日でラッキー。展示物は多過ぎてとても1回では見切れない。今回特に目を引いたのは、福佬人という表現。これは台湾で『原住民でも、客家、外省人でもない閩南語を話す台湾在住者』を指す時、たまに見かける言葉だが、ここ香港には明確な福老人がおり、その文化があるとされている。

 

香港伝統文化に詳しいYさんと見ていると、長洲島のまんじゅう祭りなども、福佬文化だというので驚いてしまう。しかしそれでは香港の彼らは閩南語を話すのだろうか。客家と何らか区別するために使われた言葉で、昔は閩南語を使っていたか。潮州語と閩南語も6-7割は意味が分かると聞いており、その辺の違いを今後理解したいと思う。

 

また上の階には、昔の老舗茶行の様子がそのまま展示されており、これも驚く。照明が暗く、写真は撮り難い。1855年に香港で開業した陳春蘭茶荘、1996年に廃業したものをそっくり寄贈したらしい。この茶荘についても極めて興味があるが、今日はほぼ時間切れとなってしまったので、また訪ねてみたい。

 

そこから上環の茶縁坊に回って、高さんと雑談した。彼女も鉄観音茶の産地出身だが、鉄観音の産量は多くないという。またミャンマーの大茶商、張彩雲のことは、安渓大坪では誰もが知っているが、その娘が今も住んでいることは知らないという。歴史とは案外そんなものかもしれない。

 

夜は北角市場で、I夫妻と夕飯を食べる。I夫妻とは北京時代からのお知り合いだが、昨年12月は奥さんだけに会っており、Iさんとは数年ぶりか。今週はレスリーチャンの命日があったためか、レスリー映画が流れていたりする。その横では店員が器用にビールの栓を開け、喝さいを浴びる。古き良き食堂で、海鮮などを楽しむ。

香港で茶旅を語る2019(1)美荷楼に泊まる

《香港で茶旅を語る2019》  2019年4月2-5日

香港に行くのはせいぜい1年に1度、と思っていたが、昨年12月にご縁があり、今回お声が掛かったので、いそいそと出掛けていく。それにしても人生で初めてかな、中国語で長時間、お話をするのは。1か月ぐらい前から、かなり緊張している自分がいた。

 

4月2日(火)
香港へ

1か月ぐらい前に香港航空で台北から香港行きを予約した。先日ハバロフスクで人生初の予約姓名間違い事件を経験して、飛行機に乗るのにちょっと警戒心が生まれていた。今回も早めに予約を確認しようと思ったが、何と予約確認書が来ていない。そうなると突然不安になる。そうだ、あの時予約したつもりだったが、途中で止めてしまったのではないかと。

 

最近の物忘れのひどさは相当の状況に達している。自覚があるからこういうことになる。慌ててネット検索するとそのフライトはまだそれほど料金も変わらずに購入可能だった。再度購入しようと思ったが、その行為に既視感がある。念のため手帳を見てみると、4月2日の欄に予約番号が書かれているではないか。これで検索するとちゃんとこの便が出てくるが、そこには私の名前はない。

 

もう面倒なので、空港で確認することにした。桃園空港までいつものように行って見ると、香港航空のカウンターは本当に端っこにあり、まるで隔離されているように見えた。そこには既に長蛇の列が出来ており、この列に並んでいて、もし予約がない、という話になったら、買い直す時間もないかもしれない。よく見るとそこには自動チャックイン機が置かれていたので、それで試してみると、ちゃんと発券されるではないか。しかも荷物は全て機内に持ち込んでよいと言われ、小躍りして出国審査した。

 

香港航空だし、フライト時間も短いので、機内食はないと思って、空港内のバーガーキングで早めのランチを食べる。どうもここの食べ物はあまりすきにはなれない。機内に入ると、機材は最新鋭の大型でゆったりと座れる。そして何と普通に昼食まで出てきたが、腹一杯で喰い切れない。やはりLCCではないのだ。

 

香港に到着すると、荷物は手荷物だけなのですぐに外に出られ、とても良い。LCCだと必ず荷物を預ける羽目になるのでここでの時間ロスは意外と大きい。携帯屋に行き、『昨年12月に買ったシムカード、まだ使えるか』と聞くと、『トップアップすれば使える』というので、50ドル払って起動させる。これも意外と有り難い。

 

今回はいつもの銅鑼湾宿泊ではなく、深水埗という未知の場所に泊まる予定となっている。空港からどうやって行くのが良いか分からずに検索してみると、いくつものルートが出てくる。その中で空港バスに乗り、黄大仙まで行き、そこでMTRに乗り換えるルートを選択する。

 

本日は天気が良く、バスの窓から気持ちよい風景が広がっている。40分ぐらいで黄大仙に到着。久しぶりにお参りしたかったが、荷物もあるので断念して地下へ。ここから3駅で石硤尾に着く。深水埗駅に行くには更にMTRを乗り換えないといけないが、本日の宿泊先は石硤尾からも徒歩10分程度なので、こちらを選択する。

 

初めて降りる石硤尾では道に迷いそうになるが、スマホがあるので何とか歩ける。公団住宅のような団地が並ぶ一角、そこに美荷楼は建っていた。この付近が火事で焼けてしまった後、1954年に建造された、香港公団住宅の走りであり、今や歴史的建造物に指定されている。政府はそこを貸出、改修されてゲストハウスが経営されている。

 

今回の宿泊手配はTさんがしてくれたので、どんなところは分からない。GHだからやはり若者が多いようだ。部屋は何と、ドミトリー。しかも2段ベッドではなく、普通のツイン部屋だから、隣に知らない人が寝ている感じだ。私の隣人はマッチョ系アルゼンチン人で、韓国でモデルをしているらしい。彼が上半身裸でいると、一瞬ドキッとする?ツイン部屋2つにバストイレが1つ。室内、いや楼内全体はとても清潔だ。

 

部屋にはおじさんもいた。香港生まれで返還前にオーストラリアへ移住した人だった。香港の物価がこんなに高くなって驚いている。彼は一生懸命中国人の若者と普通話を話しているのが微笑ましい。お茶にも興味があるというので、オーストラリアの先住民、アボリジニが飲んでいたお茶について、ちょっと話が弾む。

 

美荷楼を見学する。こちらでは定期的に見学会もあるようだ。居心地のよさそうな中庭があり、建物内にはキッチン、ランドリーなどの設備も整っている。私にとって問題なのは、お茶を飲むのにわざわざキッチンまで来ないとお湯が得られないことぐらいだろうか。ドミトリーで満足できるなら、料金的にお勧めかも知れない。

 

深水埗駅の方へ出てみる。ここには電脳街があることは知っていたが、来たことは一度もなかった。私の目的は、中国大陸で使えるシムカードを購入すること。前回香港空港であまりにも高い大陸用シムカードを買わされた?ので、先日東京で会った香港人の林さんに、安い物を買ってきてもらったが、今回は自分で調達しようと出向いた。

 

シムを売る店は何軒かあったが、皆広東語でサクサク買っている。私も無理して広東語を使ってみたが、あまりにも下手で相手は理解できず、仕方なく英語に切り替える。10日間使えるシムが僅か50香港ドルとは確かに安い。ここではどこの国でも使えるシムを大量に売っていて興味深い。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(8)成都散策

3月25日(月)
四川を去る

翌朝早く、Mさんは北京へと帰っていった。私のフライトは午後3時半なので、午前中は暇だった。実は今回、ロシアから持ち越した課題があった。銀聯カードが使えなくなっていることに気が付いていたが、銀行に行く暇がなかったので、まずはその処理をしようと考えた。

 

その銀行はホテルから2㎞弱あったが、歩いて行くことにした。成都の街を歩くことがあまりなかったからだ。大きな通りを歩いていると、やはり昔とは違い、きれいで大きなビルが多い。それでも上海などよりは随分と落ち着いて見えるのはこの街の特性といえるだろうか。

 

銀行での処理は予想外に時間の掛かるものだった。そしてあまりにも不可解な理由でカードが止められたことに納得は行かなかった。やはり中国はどんなに支払いアプリが進歩しても、人の進歩が追い付かないところだと痛感する。それにいわゆる管理強化が加わると、もう何が何だか分からない。

 

銀行を出て地下鉄に乗る時も、よく見るとチケットの自販機に支払方法が4つも表示されている。よほど支付宝を使って切符を買ってみようかと思ったが、スマホを開けて、支付宝を選び、その金額を入れてパスワードを入れるとは、何と面倒な作業だろう。Suicaなら一発なのにと思いながら、しわを伸ばして現金を突っ込む。本当に中国は便利になったのだろうか。いや勿論以前より便利だが、驚くほど進化したかというと正直疑問だ。

 

地下鉄で錦江飯店にやって来た。32年前、あの暗い夜道をバスに乗り、ここまで来たことが懐かしい。当時成都には外国人が泊まれる宿は少なくて、錦江飯店にチェックインできるとホッとしたものだ。同時にここの朝食でパンを食べると、辛い物を食べなくてよいので何よりも有難かったのを鮮明に記憶している。

 

現在のホテルは外から見ると同じようだが、中は凄くきれいに改装されている。これで500元ぐらいであれば、一晩泊ってみてもよかったかもしれない。恐らく水回りなどに問題があるか、部屋はきれいではないのかもしれない。とにかく敷地内を一周すると、いくつか新しい建物も出来ており、なかなか面白い。

 

そこから川沿いに歩いてみた。薄暗い夜の川しか記憶はなかったが、今や市民の憩いの場と言う感じだろうか。ちょっと暖かくなり、風がさわやかで歩きやすい。途中で道を曲がると、先日歩いた錦里辺りに出てくる。このように歩くと地理が少し理解できるが、やはり全体像はよく分からない。

 

バスに乗って帰ろうとしたが、ホテルまで直接行けるバスは見当たらない。仕方なく地下鉄駅まで歩いて行くと腹が減る。その辺で店を探したら、何だかチベット僧が何人も歩いているではないか。よく見ると付近にチベット寺院があるようだ。彼らの現在の境遇はどうなんだろうか。

 

小さな食堂に入る。帰る前にどうしても回鍋肉が食べたくなって注文したつもりだったが、 出てきたのは炒飯だった。何とその名も回鍋炒飯、ところがこれが意外とイケる。肉の油が炒飯に沁み込んで美味い。辛さも全くなく、思わず笑顔になる。これで10元か、コスパも抜群だ。

 

地下鉄でホテルに帰る。駅を出るとパイナップル売りのおじさんがいた。突然興味を持ち『甘いか』と聞くと、ぶっきらぼうに『当たり前だ』というので買ってみると、本当に甘かった。これも8元で、腹一杯になるまで食べた。私にはやはりこんな旅が合っているに違いない。

 

午後1時に居心地の良いホテルをチェックアウトして、タクシーを呼んでもらう。待っている間、本を読むスペースに座ったが、隣でおじさんがタバコをスパスパ。この空間でそれはないでしょう、と思ったが、タクシーが来たので、何も言わないで外へ出た。何とすぐに高速になり、僅か15分で空港に着いてしまった。

 

国際線の方はそれほど混んでいないだろうと思っていたが、今は成都から東南アジアへ向かう便なども多く、意外と混んでいる。出国時に外国人の列に並ぶ人も予想外に多い。そして本日乗る、エアチャイナの成田行きは、恐らくはさくらの花見に行く中国人団体観光客でほぼ満席だった。席の隣の女性はガイドさんで、何と26人分の入国書類を一人で書いて、皆に配り、事細かに説明している。

 

無事に成田に着いたが、雨が降っていた。翌日見ると、桜の花は一部にしか見られない。それでも花が見られただけでもよいと思い、早々に台北に向かった。今回の四川の旅、従来の茶旅とはまた違ったアプローチで、なかなか行けない茶産地や歴史を旅した。今度はゆっくり一人で四川を回ってみたいと思う。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(7)突然彭州へ

3月24日(日)
突然彭州へ

久しぶりに一人で寝たのと、朝ご飯を食べなかったことにより、今朝は身体がすっきりしていた。9時に陳さんが車で迎えに来てくれ、Mさんと共に今日の旅が始まった。成都市内を抜けて高速道路を走る。北西に約1時間、彭州市に至る。そこから田舎道をまた1時間ほど行って、目的地に着いた。

 

そこはきれいな観光茶園のようだった。一体ここはどこだろうか。宝山村とある。迎えてくれたここの責任者、徐さんは茶師で、やはり福建省武夷山から招聘されて、ここで数年前に茶作りを始めたらしい。きれいな建物も、中にある最新設備の製茶機械も、福建の投資家が準備した。『正直この地は歴史的な場所ではあるが、近年茶業はあまり盛んではなかった。我々が再度茶業を始めるためにここに来た』という。

 

裏山に登ると、そこには茶畑が広がっていた。『ここは60年ぐらい前に、茶樹が多く植えられたが、その後放棄された場所。それを数年前に借り受け、茶作りが始まった』という。ということは、ここは中国でよく見かける、政府に指示で茶樹を植え、その後の混乱で捨てられた土地だった。その茶樹も数年の管理で見違えるように復活した。

 

実は昨晩この辺りには雪が降っていた。『本当は向かい側の龍門山系に入れば、樹齢100年を越える茶樹が沢山植わっているのだが、そこはとても滑りやすく、残念ながら今日行くことは出来ない』とも言われてしまう。やはり茶旅だ。そんな簡単に目的地に行ける訳がない。確か昨日陳さんの雑誌で見た、梯子を掛けて茶葉を摘む様子、あの茶樹が見られないのは残念だが、仕方がない。この葉っぱで徐さんは紅茶を作っているという。

 

昼ごはんを食べに行く。ここも誰かが投資して、きれいに整備された場所。野菜も鶏も地元産でこりゃ美味い。その横にはかなり古い建物があり、茶館として使われていた。近くには中国のどこにでもある老街が観光化されている。この地は古くは2000年前の書物にも出てくる要衝の地、茶処であり、唐代の陸羽も茶経にこの地について書き残しているというが、今はその面影はない。

 

実は彭州市は北海道の石狩市と姉妹都市だ、と地元の古老が教えてくれた。きっかけは30年以上前にこの地の若者の農業実習を石狩市が受け入れたご縁だという。全く性格の違う都市が結びつく、こんなこともあるのだな。近年この地はほうれん草の産地だとも言い、1990年代には日本に盛んに輸出していた歴史もあるというのは何とも意外な話だ。

 

午後は寺に行くという。丹景山にある金華寺。幹線道路から山道に車が突っ込み、ちょっと行くと、階段が見えた。その手前の駐車場から、道なき道を突然歩き始めたので驚く。どこへ行くのかと思っていると、そこには古い石碑のようなものが建っていた。『これは唐代にここで出家した新羅の王子の墓だ』というではないか。何の話だ、それは。

 

階段まで戻り、登り始めるときつい。先日の蒙頂山最古の茶園ほどではないが、既に膝を痛めていたので、上がるのは大変だった。何と陳さんは車で上がっていたので、ちょっと恨む?喘ぎながら寺の門に到達した時は、もう死にそうだった。しかもそこで終わりではなく、そこが寺の始まりだった。

 

奥に入っていくと、お坊さんたちが何かしている。その中には、韓国の茶雑誌の社長も混ざっていた。先ほどの新羅の王子の話から、韓国との縁を感じ、やってきたという。見ていたのは、何と王子の遺骨だというではないか。先ほど見た墓から掘り出されたものらしい。急な展開にちょっとまごつく。しかし王子は何故こんな山奥に来たのだろうか。国に後継問題でもあったのだろうか。

 

寺院内でお茶を頂く。お坊さんがお茶を淹れてくれるのだが、このお茶、紅茶を煮出している。渋みなどはない。徐さんのお茶を使っているらしい。ここには市の観光局の人も来ており、今年中に韓国人社長と今年中に何らかのイベントをする話が進んでいた。さすが韓国、日本はこういうのはなかなか出来ないな。

 

今日の集まりの意味がようやく分かり、我々二人の日本人はお邪魔だった?と悟る。因みにこの寺には見るべきものが沢山あったようだが、殆ど見ないで帰ることになった。例えば寺院内の柱には龍が施されており、これは皇帝だけに許されるしるしだと言われた。ここは皇帝が建てた寺院なのだろうか。

 

陳さんの車で成都市内に戻る。午前中は曇りや小雨だったが、帰り道で晴れてきたのは何とも恨めしいが、これも仕方がないことだ。夕日が車の窓に反射してまぶしい。日曜日の游がンで市内はやはり渋滞だ。ホテルの近くで軽く夕飯ということで、魚麺を食べる。これは今流行りらしく、大勢のお客が入っていた。何とか席を確保して、大型どんぶりの麺を頂く。スープが特にうまい。また完食してしまい、腹がくちる。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(6)本当の茶旅が始まる?

3月23日(土)
本当の茶旅が始まる?

ついに茶旅行最終日。今日ご一行は成都から成田へ帰る。そのフライトは午後なので、朝は雅安の博物館を訪れる。あまり期待はしていなかったが、ここには文成公主から始まる茶関連の歴史がかなり展示されており、旅の纏めてしては一見の価値はあった。今回はお茶の歴史に殆ど踏み込んでおらず、不完全燃焼だったので有り難い。

 

更には茶馬古道や蔵茶の歴史に関する本も何冊か売っており、既にパンパンのカバンにも拘らず、また買い込んでしまう。私が昨年北京で買った四川茶に関する本は、ここの元館長が作者だったらしい。だからここの展示が比較的詳細なのだと理解した。清代の大商人の歴史など、もう少し突っ込んで知りたいところだ。

 

高速道路をひた走り、2時間ほどで成都まで戻ってきたが、街中で渋滞に遭う。本当は空港近くで軽くお昼を食べるはずだったが、折角だから老舗の陳麻婆豆腐で、本場の辛い物を食べる事に切り替わっていた。渋滞でロスして時間があまりない。取り敢えず店に入り、席には着いたものの、ちょうどイベントなどと重なり、思ったようなスピードで料理は出て来ず、全部出てこないうちに時間切れ。八宝茶の切れのあるパフォーマンスが見られただけでも良しとするか。実はガイドは前日店側に昼のメニューを連絡していたが、厨房には伝わっておらず、残念な結果に終わる。

 

渋滞は続いたが、何とか出発1時間半前に空港に到着。空港に着くまで、ガイドは一人ずつの名前を呼び、その思い出を語っている。私は鉈先生との漫才コンビの相方、として記憶されている。そして最後に『今日の日よ、さようなら、また会う日まで』と歌った。日本語ガイドの需要は本当に少なく、また次回彼女に会えるのか、ちょっと心配だ。

 

皆さんはチェックインカウンターに並ぶ。北京に帰るフライトがキャンセルとなり、夜便を取り直したMさんと私はそこでお別れし、街に戻ることにした。私はホテルを予約しており、Mさんの検索により地下鉄が早そうだというので、空港から初めて地下鉄に乗る。今や中国の地下鉄はどこもきれいだ。1度乗り換えたが、意外と近い。そこは最近泊まり歩いているチェーン店だが、部屋は広く快適そうだった。

 

それから魏さんに紹介されたお茶屋さんに出向く。ホテルから近道(地下道?)を行けば歩いて10分もかからない。そこは小さなお茶屋さんだったが、オーナーの陳さんは何と福建人で雑誌の編集などもやっており、自らも茶産地に出向いて、取材を重ねている人だった。現場を踏んだ彼の話には説得力があり、とても参考になる。因みにお茶屋の方は奥さんに任せて、本人は年に数か月は中国各地を飛び回っているのだという。茶旅の先達だ。

 

陳さんが鉄観音茶の歴史を話しながら、工夫茶のセットで古い鉄観音茶を淹れてくれた。それをじっと見つめていたMさんは『この人のお茶の淹れ方、なんて丁寧なんだろうか』と感心している。後で彼の経歴を見て頷くMさん。陳さんは国家級高級茶芸師でもあった。お茶を丁寧に淹れる、とても新鮮な言葉だった。私の最近の興味は歴史だけなので、人の口元は見ても手元を見ることはない。

 

陳さんと色々と話していると突然、『実は明日彭州へ行く予定だが、良かったら一緒に行かないか』という喜ばしいお誘いがあった。明日はもう一軒お茶屋を訪ねるつもりだったが、そこは次回にお願いして、すぐに同行することにした。何しろ彭州は約2000年前から茶があったという記載がある場所だと記憶しており、四川茶の歴史上では重要な場所だと思ったからだ。それを聞いたMさんも迷いに迷った末、何と先ほど取り直した今晩のフライトをまたキャンセルして、明日一緒に行くことになった。これぞ茶旅だろう。

 

明日の再会を約して店を出た。ホテルに戻り、突然泊まることになったMさんもチェックインする。まあこれまでいくつか泊まったが、成都のここが一番広々としており、何だか寛げる。料金はそれなりだが、余計なことを考えなくてよい。おまけにゴールド会員に昇格したらしい。何かいいこと、あるのだろうか。

 

夕飯は近所に食べに行った。フロントでは『道を渡れば色々あるよ』と教えられたが、そんなに色々な選択肢はなかった。食堂に入ると、一皿が大きいので二人では食べ切れないように思う。これまで食べ過ぎなので、抑えたかったが、出てくるとまた食べてしまうのは、何とも悲しい。胃袋が大きくなっていた。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(5)雅安茶廠と茶馬古道

3月22日(金)
雅安茶廠と茶馬古道

今日はホテルをチェックアウトしなくてよい。茶葉ホテルには2泊するので、それだけでも気が楽だ。茶葉枕も快適のようでよく眠れた。これからこの旅の最終目的地、雅安茶廠に向かう。ここが昔から蔵茶を作っている拠点だ。外側から見ると、トレードマークの『中国蔵茶』も見える。

 

メンバーにはあまり自覚はないと思うが、蔵茶もある意味で国家の戦略物資、湖南省安化のように、『国家機密だから見学できない』といわれそうな場所。しかも雅安といえば、チベットとの最前線という感覚もあり、ちょっと緊張する。『謝絶参観』の文字まで見える。だが我々の前に既に上海から来たという団体が、中に入っていく。

 

まずは蔵茶の製造法を説明した展示室へ。この茶作りが如何に力仕事であるかを示している。明代から作り始めたというこのお茶、歴代の茶葉が展示されている。1970年代製造の蔵茶も飾られているが、そこには『川』の文字が。これは湖北省趙李橋で作られるお茶と同じマークか。何だか色々と歴史的な資料があり、とても時間内で見て回れるものではない。

 

マニ車が設置されるなどチベット色も出ている。実際の製造工場も見学できるというので驚きながら中を見る。作られた茶葉は長く保存されるため、竹?にくるまれて積み上げられていく。この茶は如何にしてチベットまで運ばれたのか、実に興味深い。お茶を飲みながら説明を聞く。説明者は地元出身でアメリカ帰りの若者。広報担当だという。ネット販売に力を入れるという。これからの雅安茶廠はどんどん変わっていくかもしれない。

 

バスは高速道路を走っている。これからどこへ行くのだろうか。途中のサービスエリアでランチを取るという。皆がバスを降りて行った時、私はあることに気を取られており、一番後ろの席で、身をかがめていた。少し経ってバスを降りようとしてビックリ。何と既にバスは施錠され、外へ出ることが出来ない。閉じ込められてしまったのだ。メンバーは既にトイレなどに行ってしまっている。遠くに鉈先生の姿が見えたが、叫んだところで聞こえない。どうしたものかと悩んでいると、スマホで連絡することを思いつき、スンでのところで救出された。

 

まあ運転手もガイドも、まさか人が残っているとは思わなかっただろうが、こういうことは過去一度もないと言われると、私の方が悪いのだろうか。確かに出発前の乗車確認はするが、降車確認はしたことないかも。今後気を付けよう。ランチはビュッフェだったが、それほど食欲はなかった。それにしても高速道路のSAも少しずつ質が向上しているような気もする。

 

それから約1時間、ゆるゆると山道を登っていくと、とある街に着いた。既に標高は2000mに近く、小雨が降っていて肌寒い。そこから更に少し上がった村、そこに茶馬古道の起点、といわれる場所があった。ただこの村、村人の服装は昔のままなのに、住宅の建物がやけに新しく、車も停まっている。古道とマッチしていないように見えた。地震後の補助で再建したのだろうか。

 

その先の何もないところに、石が敷かれた道があり、そこが起点だという。どうも観光用として整備されたとしか思われないが、往時この辺りに茶葉を担いだ人足が行き来していたのだろう。茶馬古道は茶葉を馬が運んでいく場面もあるが、実はその多くは人が担いで行く。茶と馬は交易市場の交換商品という意味だとは意外と知られていない。人足のその苦労は想像できないほどであったろう。

 

今日も吹きっさらしの高地は、凍えるほどの寒さで、チベットの方を指して歩いて行く気量はない。防寒対策なしの我々は早々に撤退を余儀なくされる。帰りの道を見ると、政府の奨励で花椒がたくさん植えられており、今や名産品となっているという。また桃の花などがきれいに咲いており、特産品と観光地化を進めている様子も見えた。

 

街に戻って来た。今晩は食べ過ぎなので軽い物が良い、というのでホテルに帰る前に麺を食べることになった。昔某総書記もここで麺を食べたという食堂。地元の人が入れ代わり立ち代わりやってくる中、団体さんが席を占めてしまうのは申し訳ない。辛いのは避けたところ、なかなか美味しい麺が出てきて満足。

 

夜は茶葉ホテルの上の階にあるお茶部屋?に案内される。ここから見る夜景はきれいだ。このホテルの女性社長の招待。2004年のお茶会議に合わせて作られたという部屋は、まさにお茶だらけで、その香りに包まれていた。そこで美味しいお茶を飲みながら、蔵茶の歴史に思いをはせる。社長も2000年頃始まった西部大開発プロジェクトで浙江省からやって来た一人だという。これももう一つの歴史になりつつあるが、西部も常に進化を続けている。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(4)蒙頂山で、そして雅安へ

3月21日(木)
蒙頂山で

翌日もまた朝粥を食べてホテルをチェックアウト。毎日ホテルを変わるのは意外と疲れる。今日は峨眉山から蒙頂山へ移動する。天気は今一つの中、バスは高速道路を走り、1時間半ほどで、蒙頂山と書かれた門をくぐった。そこからすぐのところに、今日の訪問先があった。

 

躍華茶業とは4代目で、ここの茶業を改革開放後に発展させたお父さんの名前が付けられている。とてもきれいな展示館には、茶業の歴史などが書かれ、昔の文物が展示されている。炒青の実演なども行われる。蒙頂山の緑茶も近年かなり有名になってきており、団体のお客が次々にやってくる。外には樹齢100年を越える茶樹が移植されていた。

茶工場の見学、前日同様見学ルートが決められておりそこを歩く。マイクロウエーブ殺青という機械が目を引く。これで鮮やかな緑色を保持するらしい。昨日の工場にもあったので、昨今の流行りだろうか。工場は大型投資により現代化され、展示室にある製茶道具が遠い過去に思える。

 

蒙頂甘露などのお茶が出され、試飲する。ちょうど新茶のシーズン、すっきりした味わい。蒙頂黄芽という珍しい黄茶も作られており、台湾人にぜひ買ってきて欲しいといわれる。それほど珍しいお茶ということだろう。5代目、イケメン社長が登場して、更に説明してくれる。メンバー女子のテンションが明らかに上がっているように見え、お買い物もヒートアップ。まさかこんなに細かな注文を、しかも現金払いで、10人以上から受けるとは思っていないスタッフは大混乱に。

 

それからバスに乗り、少し山を上がっていく。『茶之都』という石碑が見える。その付近の斜面には茶畑が広がり、茶摘みしている人が見える。1軒のお茶屋さんに入り、そこで昼ご飯を食べる。いわゆる農家菜。地元で採れた野菜中心の優しい食事を味わう。毎日食べてばかりだが、カボチャやゼンマイなど胃腸にも良さそう。何だか食べている皆も、ちょっとホッとしている様子が窺える。

 

そしてここからが今回の旅のハイライトの一つ、中国最古の茶園、を訪ねる。しかしその道のりは想像以上に険しかった。ロープウエーがあるのは分かっていたが、皆歩いて登るという。大きな急須のモニュメントの脇を通り抜け、その急な階段を一体何百段登ったのだろうか。足が痛い鉈先生はお留守番で、逐次メッセージで状況を伝える。こちらまで膝が痛くなってきた。途中の廟で少し休むも、体力の衰えを痛感する。

 

30分ぐらいかかっただろうか。石の門が見えた。潜ると井戸が見えた。古蒙泉とある。その辺には観光客がちらほら歩いている。石の壁には茶が運ばれる様子などが描かれているが、これは後世の物だろうか。治水の神様、大禹像も登場してくる。茶畑は斜面に続いている。

 

ついに皇茶園に到着した。7株の茶樹が植えられているが、周囲は壁で囲まれており、少し高い位置でないと写真には入らない。ここが文献上、人が植えた茶畑で最古だということだが、確か日本でも最古の茶園という石碑を三か所で見た記憶がある。歴史は歴史、物語は物語。呉理真という人の名前も出てくるが、正直あまりしっくりとは来ない。それは私が不勉強だからだろうか。

 

足も痛いので、帰りはロープウエーに乗せてもらう。2人乗り、スピードが速いので、乗り損なう危険あり。高い所は嫌いだが、この程度なら問題はない。まあ脚で登ってこそ、価値があると思うので、この選択は妥当かな。お茶屋に戻ると、なぜか四川茶芸の練習をしており、鉈先生もその人々とお友達になっている。

 

そこからバスで30分ぐらい行くと河沿いで停まる。今日の宿に到着。部屋に入ると、何と蔵茶が置かれている。よく見ると壁にも茶餅がはめ込まれており、いい香りがする。これが噂の茶葉ホテルか。食事のためにホテル内のレストランに行くと、もっとすごかった。至る所に茶葉があり、お茶に埋め尽くされているようにさえ、思えるほどだった。そしてここで頂くのは、やはり茶葉料理。きれいに盛り付けされた全ての料理に茶葉を使っており、その徹底ぶりは見事といえる。

 

食後は小雨の降る中、河沿いを少しお散歩。辿り着いたのは1軒のお茶屋さん。入っていくと、オーナーが出てきて、色々と話してくれる。出てきた蔵茶を飲むと、妙にスッキリしており、イメージが違う。『これは2000年以降、漢族に飲ませるために開発した蔵茶だ』というではないか。

 

確かに長年チベットに運ぶために作られてきた蔵茶は、正直質の良くない茶だった。だが、茶業が民営化されると、儲からないチベット向けではなく、漢族向けに商売するのは道理だろう。ただ小声で『今でもチベット向けの蔵茶は政府の要請で作り続けている。これをしないと事業は続けられないよ』と漏らす。メンバーも蔵茶に対する認識が一変し、美味しい、飲みやすいという。製法も変化しているようで、次回はこちらの工場にも行って見たいと思った。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(3)庶民の茶文化に触れ、そして峨眉山へ

3月20日(水)
茶文化に触れ、峨眉山へ

翌朝は7時にホテルで朝食。前日食券を渡されたのに、鉈先生はなくしたと言い出すが、フロントに言うと難なく再発行。どういう管理になっているのだろうか。とにかくお粥を食べて1日が始まる。外へ出ると濃い霧に覆われており、視界はあまりない。これはスモッグだろうか。

 

ホテルをチェックアウトしてバスに乗り込む。日本人の団体だから時間に遅れる人はいない。まずは朝の人民公園に乗り込む。庶民の茶文化体験ということだが、天気も良くなったので、屋外で茶を楽しむのはとても気分が良い。そして池のほとりでお茶を飲み始めると、隣に座っていた老人たちと何となく交流が始まってしまうのが、何とも面白い。

 

一人は息子が日本にいると言い、簡単な日本語を話し、スマホで家族の写真を見せ始める。もう一人は中医の医者だといい、朝から何やら難しい本を読んでいる。中医学を勉強している人はすぐにそこで即席の勉強を始めて、教えを乞う。庶民が安い料金で皆が仲良くお茶を飲み、談笑する。これは私が思う茶文化の一つの形であり、決してお茶は高貴なものではない、と考える所だ。ただここのお茶も随分をいい値段を取っている。お湯だけでも10元する。

 

成都にはこのような茶文化が残っていて、何と羨ましい限りだ。実は中国でも以前あった厦門の路上茶や広州の廉価な飲茶がどんどんなくなってきており、とても残念に思っている。経済成長と共に、儲かるシステムが優先され、金の取れない従来のスタイルは淘汰されている。ある意味では仕方ないことだが、結局誰のためにもならないことのように思えてならない。そんなことを考えながら、緑茶を啜る。

 

1時間ほどそこにいた。今日はずっとここに座っていたかったが、茶旅行には日程が決められており、そんな自由は全くない。歩いて正門から出る。ガイドはスルーしたが、そこには抗日兵士の像が立っていた。路上では新疆のウイグル人が旨そうなナンを売っている。これも一つの現代の光景だ。

 

次に向かったのは、昔の陝西会館。今はホテルになっているようで、その奥には改修中の古い建物が残っていた。1885年に建てられたものだとある。今回のメンバーの中には、『なんでこんなところに来たんだろう?』と首を傾げた人もいたと思うが、陝西商人が四川茶、蔵茶に果たした役割が分からなければ、確かにそうだろう。そして全中国になぜ陝西会館、山西会館があるのか、お茶とどんな関係にあったのか、それは旅に出る前、事前に学習する必要がある事柄だろう。ここは私の茶旅、茶の歴史を追う場所としては必須の地である。唯一中国茶の歴史を研究しているI先生だけが大きく頷いて、石碑をじっくりと眺めていた。

 

成都市内を離れ、高速道路に乗る。2時間ほど走って、サービスエリアで停まる。何とここは、あの天福銘茶が作った、お茶がテーマのSAだった。中では子供たちのケーキ作り教室が行われており、賑やかだ。ここには茶畑、博物館、お茶屋などが併設されており、このSAに入れば、お茶のことが一通り分かるシステムとなっている。しかも規模がデカい。我々は時間が無いので、ここでランチを食べ、ちょっとお茶を見ただけ。博物館は入場料30元も取るらしい。天福の中国ビジネス、スケールが大きい。

 

さらにバスは1時間走り、峨眉山に到着した。山の中に入っていき、峨眉雪芽と書かれた看板を目にする。有機茶園に桃の花が咲いており、何ともきれいな光景だ。建物もきれいで、ここがある意味で観光茶園であることが分かる。最初にちょっと茶工場を見学すると、メンバーは早々に茶摘み体験に繰り出したが、私はMさんと足の悪い鉈先生と残り、お茶を頂きながら、下の茶畑の活動を見ていた。40分ぐらいすると、摘まれた茶葉が運ばれ、すぐに鍋で炒め始めた。店長自ら炒めたが、その手つきは慣れてものだった。子供の頃からやっているのだという。

 

元々ここは国営茶廠が母体。2006年に峨眉市の旅行会社が出資して、茶業が民営化された。だから観光茶園に力を入れているのだと分かる。峨眉市にはもう一つ、今回は行かなかったが竹葉青という有名ブランドがあり、街中に大きな茶工場が見えた。この街の二強らしいが、広告宣伝では完全に竹葉青が全国展開して有名になっている。メンバーはお買い物タイムとなり、張り切ってお茶を買い込んでいる。

 

それから山を下り、市内のホテルにチェックイン。どこのホテルもまあまあキレイだ。夕飯もホテルのレストランで食べる。ここでもきれいに盛り付けされた料理が出てきたが、やはり辛さはない。旅行会社とホテルの契約があり、最低消費に満たないと言われ、料理がいくつか追加される。この辺が団体旅行だ。食後は特に予定はなく、早々に部屋に戻り、眠りに就く。このホテルには温泉もあると聞いたが、見てみると、中庭に小さなプールのような場所。勿論入っている人などいなかった。