「茶旅」カテゴリーアーカイブ

華人と行く安渓旅2019(4)大坪 張彩雲の娘

6月16日(日)
大坪で

今日は安渓滞在実質最終日。明日の朝には厦門に戻る。私は陳さんに我儘を言った。大坪に連れて行って欲しいと。陳さんは承諾し、何と校長先生夫妻が車で連れて行ってくれた。大坪、これまで張さんの茶作りを見に、何度も通った場所だったが、今回はミャンマーの大茶商、張彩雲の娘が生きているとの情報をもらい、その親戚とも連絡がついたので、どうしてもこの機会に訪ねたくなったのだ。

 

その前に一か所、寄り道した。そこは大きなビルの中。安渓県教育局の部屋に行く。陳さんは学校に寄付しているのだから、教育局に行くのは分からないでもない。しかし今日は日曜日、しかもそこに待っていたのは局長だった。実はこの局長、大坪の出身で、勿論張彩雲の名前も知っていた。校長が気を利かせてくれたのだろう。(いや、むしろうまい口実の下に、局長と陳さんを引き合わせた)

 

大坪はかなりの山の上にあり、安渓の街からはやはり1時間かかる。しかも最近新しい道路を造っているのか、車のナビと道路がマッチせず、工事中の道に突っ込むなど、ちょっとスリリングなドライブとなる。大坪に上るのに道がいくつかあることが分かる。その一本はかつて張彩雲が資金を提供したものだったはずだが。

 

その親族の工場は街外れにあった。何と茶を作っているではないか。高さんは、張彩雲の娘、秀月さんが嫁いだ高家の人間だった。すぐに小さな街の真ん中に行く。そこにはかつて栄えた古街があり、驚く。これまでこんな道を歩いたことはなかったからだ。そこには古い建物が残り、中には張彩雲が茶の商売をしたと言われる場所すら残っていた。だが今や、全く閑散としており、往時を思い起こすことは難しい。

 

その道は何本かあったが、その突き当りに家がある。その中で張秀月さんは暮らしていた。数え年94歳。お手伝いさんはいるものの、この歳で一人暮らしをしている。ご主人は早くに亡くなり、4人の子供もすでに他界、孫もすべて大坪を出ていた。手がしびれると言い、箸が持てずにスプーンで食事をとっている。

 

昔話を沢山聞いた。閩南語しか話さないとのことで、親族に通訳をお願いしたが、溢れるほどに話が出てきて、全てを理解することは不可能だった。大坪に生まれ、ヤンゴンで育ち、結婚で大坪に残り、ご主人が亡くなり4人の子を育て、文革の嵐に翻弄された。そこには全く大茶商の娘、お嬢さんという話は出てこない。彼女が大切に持っているのは、80年前彩雲から贈られたという旅行カバンに入った親族の写真。あまりに悲しい話に、親族が途中で話を打ち切るほどで、何とも言えない訪問となった。

 

ここで分かったことは、彩雲や長男の樹根は1950年代、故郷に帰ってきており、樹根などは北京で周恩来や毛沢東にも会っているという事実だった。それが1960年代、ビルマでも革命が起こり、中国も文革で往来は途絶えてしまう。その後も樹根らは秀月さんに援助をしていたようだが、彼らも皆亡くなってしまったということだ。

 

高さんに連れられて、1930年代に建てられたという張家を訪ねる。木造の古い建物だが、所々に彫刻などが残り、往時は街一番の家だった様子も分かる。この時期は土匪が横行し、この家も被害に遭ったらしい。それでもこの家が現存しているということが、張彩雲の生きた証のようにも見える。

 

その横には20年前に4兄弟の末裔が資金を出して建てた5階建てのビルがある。その屋上には張家の歴史と、既に無くなった方の写真などが飾られていた。彩雲には3人の男子がいたが、その一人は養子であったことも分かる。ここの碑に歴史を刻んだのは、あの『中国烏龍茶』を書いた、次男の息子、張水存だった。周囲には長男、次男、三男の古い家もわずかに残っている。

 

大坪からある程度降りたところで、休息だと言って、ある学校に入っていく。その校長が知り合いということで、ちょっと会いに行ったのだ。お茶を飲みながら、話題は教育になるのだが、聞いていると、陳さんたちの学校ができると、ますますこちらの過疎化が進むのでは、と思うような話になっている。確かに田舎の子もいい学校を目指して街に出てしまうからだ。大坪も鉄観音茶の産地として名高いが、昔から今でもずっと、ここで食べて行けず、外に出る人々がいる現実はある。

 

もう一軒寄り道がある。先日会食した建設関連の社長の別荘にも寄った。あの時既にこういう話になっていたのだろう。その別荘は建てたばかりで、皆に見せたくて仕方がない、という感じの豪華なものだった。裏の川の上に、屋外の茶の飲める場所があるなど、雰囲気も良い。そこで豪勢な夕飯も頂く。今日一日の出来事からかけ離れた世界に複雑な思いになる。

華人と行く安渓旅2019(3)華人の出た村で

6月15日(土)
故郷へ

今日はいよいよ陳さんの先祖の出身地に向かう。厦門から車に乗せてくれた親戚が送ってくれた。安渓県と言ってもかなり広い。その中でも山間にある村に行くのに1時間はかかった。天気は抜群に良い。山の道を上って行くと村は晴れやかだった。時折爆竹の音が聞こえる。今日は年に一度の村祭りがあるという。陳さんもそのためにここに来たわけだ。

 

彼と二人、途中で車を降りて歩いて坂を上る。所々に家があり、如何にも田舎、という雰囲気で鶏やアヒルがウロウロしている。古めかしい家もある。顔が見えると必ず『寄っていきなよ』と声がかかる。陳さんはここでも有名人だ。そして寄れば必ず、お茶が出て、お菓子か果物も出てくる。何ともお接待が行き届いている。

 

聞けば、普段は老人と子供ばかり100人程度しか住んでいないのだが、今日は数百人が祭りのために戻ってきており、1年で一番賑やからしい。中には陳さん同様、マレーシアから里帰りしている人までいた。今や故郷は近くなったものだ。100年前なら一度出て行ったら、2度と戻れないという覚悟だったのではないだろうか。

 

関帝廟がある。爆竹はそこで鳴らされており、皆がお参りに向かっている。その向こうには陳さんたちが建てた、村の集会所があった。そこでは今日の昼ご飯の用意が進んでいる。それを確認してから、更に上にある親戚の家に行く。最近建てたかなり立派な家だ。是非泊まって行けと言われる。普段は厦門に居るようだが、今日のために一家で帰省していた。商売に成功したのだろうか。

 

昼ご飯を食べるために皆が集会所に集まってきた。1卓10人として、20テーブルはあるだろうか。昨日の鉄工芸の工場をやっている人が取り仕切っている。今回の数百人分のご飯は全て彼が資金を提供したと聞き、驚いた。そしてもっと驚いたのが、その豪華なメニュー。これはいわゆるケータリングで持ちこまれた食べ物だが、魚や肉やエビやカニが、スープになり、焼かれ、煮込まれ、様々な料理となって登場した。

 

凄まじい数が出てきた。しかも食べている人は、到底食べきれないと見ると、半分も残っているのに、どんどん食べ物を捨てて、次のものに切り替えている。この壮大な無駄は一体何だろうか。これが往年貧しくて華僑を生み出した村の今日なのだろうか。本当に信じられない中国の様子に愕然となりながら、それでも箸は動いて食べていた。昼間なので酒がそれほど出なかったのがせめてもの救いだろうか。男性は大体タバコを吸っている。

 

食後、余りに腹が一体となり、陳さんと一緒に坂登をした。どこへ行くのかと思っていると、その上に家が見える。古い家は既に取り壊しかかっているが、何とここが祖先の住んでいた家だったというのだ。陳さんのお爺さんは、100年近く前にここを出て、遥かマレーシアに渡っていったらしい。今でも農作物もあまりできそうにない土地だ。厳しい生活を打開するために決意したのだろうか。そしてマレーシアで見事に成功するのだが、その具体的な内容をきちんと聞いたことはない。

 

古い家は改築して新しくなるのだろう。その横には現在の住まいがあり、そこには陳さんの親族が何人かいた。お婆さんが出てきて、陳さんが来たことをとても喜んでいる。その顔には『次に会えるという保証はないよ。今日会えてよかった』と書いてある。陳さんはひょうきんなところがあり、人気者なのだ。お茶を飲みながら、しばし話し込む。皆さん、当然閩南語で話しているから意味は分からないが、楽しそうである。帰りは安渓に戻るという親戚の車に便乗する。陳さんには一体何人の親戚がいるのだろうか。

 

昼ご飯をあれだけ食べたのに、また夕飯を食べる。陳さんには断り切れないほどのオファーが来ている。ここにいる限り、致し方ない状況なのだ。それが成功者の故郷ということがよく分かった。私などは文句を言えた義理ではない。何の関係もないのに、毎日贅沢に飲み食いしており、お金も全く払っていない。これでよいのだろうか。

 

さすがに疲れたので、夜は早めに宿に帰る。テレビをつけると、卓球だ。何と女子シングルスで、平野美宇と佐藤瞳という日本人同士の試合を、CCTVはゴールデンタイムに生中継してくれている。こんなこと、あるんだろうか。勿論そのあとの中国人同士の試合の合間だとしても、日本では絶対に見られないことだろう。他国の選手の試合を見て、初めて自国選手の実力が分かるということだ。

華人と行く安渓旅2019(2)故郷に錦を飾る学校

6月14日(金)
故郷に錦を飾る学校

さすが安渓のホテル、ちゃんとお茶淹れ道具一式が部屋に置かれており、陳さんからもらった茶を淹れて朝を迎えた。朝食はホテルのビュッフェ、既に食べ過ぎの兆候があるので、かなり抑え気味に過ごす。陳さんも元気に姿を見せたが、私に対して『なんで酒飲まなくなったんだ?』と何度も聞く。今回の旅、陳さんの作負担軽減のために私が呼ばれたらしい。その当てが外れて、かなり不満そうだ。

 

今日は陳さん一族が30年前に寄付して建てられた学校の見学に行く。陳さんのおじさんの名前が付いた学校だ。かなり広い敷地で、車を降りてから校舎まで歩くのも距離がある。現在は3000人の生徒が学んでいるという。陳さんは有名人なので、先生は皆挨拶しに来る。そして招かれて、お茶を飲む。この辺も安渓らしい。すぐにお茶なのだ。明日から中学校の統一試験があるようで、実な皆さんは忙しそうだったが、私がお茶の歴史について聞くと、さすがは先生、色々と情報を提供してくれる。

 

マレーシアで成功して財を成した陳 さんのおじさんが30年以上前に故郷にやってきた時は、大歓迎だったという。そして故郷のために何かしようと考えたが、教育が一番大切、ということで、学校建設となる。その時点では中国も貧しく、教育の機会を与える、という感じだったようだが、今や試験の成績とか、有名大学への進学とか、ポイントはかなりズレてきている。その中で陳さんは『今も貧しい田舎の子供にハイレベルの教育機会を与えたい』と訴えている。

 

そして現在建設中の新しい学校も見に行く。来年開校予定で、校舎建設が急ピッチで進んでいる。こちらは2000数百人を収容する中高一貫学校になる予定だ。今や資金も豊富になった中国だが、『お金はあるに越したことはない』ということで、陳さん一族が資金を提供したらしい。こういう学校ができることは地域にとって果たして良いことだろうか。中国ももう、自らの力で、自らの学校を建てた方がよいのでは、とふと思ってしまった。

 

昼は昨日の親戚の家に押しかけて、食べた。ここは雑貨店を営んでおり、小学生が小銭を握りしめて、ノートを買いにきたりして、何とも微笑ましいところだった。その店のテーブルに電気炊飯器がどんと置かれた。そこにはかなり煮込んだ鶏肉スープが入っている。これ、一口飲んだら、美味いと叫びたくなる。なぜ陳さんがあれほど拘ったのか、その理由は明確だった。

 

親戚としては、食べる場所もないし、大したご馳走でもない、と思っていたかもしれないが、陳さんは既にご馳走を一生分以上食べている。本当に食べたい物は、こういう素朴で、しかもマレーシアでは食べられないものなのだ。豚肉とタケノコも出てきて、ご飯をお替りする程食べてしまった。

 

午後は茶都へ行く。ここは安渓の茶市場で、過去にも来たことがある。午後はもう取引もあらかた終了しており、人影もまばらだった。一軒のお茶屋に入り、お茶を飲む。そしてその老板が立ち上がり、連れだってどこかへ向かう。茶都の本体ビルに突撃した。そこには博物館があり、鉄観音茶の歴史などが丁寧に展示されていた。これは私にとっては有難いことだったが、興味深い展示に関していくつか質問しても、案内の人は答えに窮したようで、話は進まない。インドネシア華僑から贈られたというものすごい数の急須の展示は圧巻というしかない。

 

夜は学校の先生たちと夕食会。立派なホテルの個室に向かうと、何と反対の会場では高校生の卒業記念会(謝恩会?)が行われており、若者たちが集い、かなりはしゃいでいた。これもまた現代中国の一つの現象だろう。我々の部屋にも立派なしゃぶしゃぶ、刺身などが運ばれ、美味しく頂く。陳さんは今日も酒を飲み続け、先生が連れてきた人々の陳情やら、関係づくりなどに付き合っている。これは故郷に帰るということは毎日大変なのだ、とよくわかる。

 

皆さんはカラオケに行くというので、私だけホテルに送ってもらった。今晩は女子ワールドカップの日本対スコットランド戦がCCTVで生放送されるので急いで帰ったのだ。第1戦を引き分けたため、予選突破が危ぶまれたが、今日はまあまあの出来で、何とかスコットランドを振り切った。その後、ゴルフの全米オープンの放送まで始まってしまい、寝られなくなる。

華人と行く安渓旅2019(1)安渓の伝統工芸 竹藤編

《安渓厦門茶旅2019》  2019年6月12-19日

何と驚いたことに3か月連続で福建省にやってきた。しかも3か月連続の厦門。確かに台北との行き来では厦門は便利ではあるが、これだけ続くのにはそれなりの訳がある。今回は本来KLで会おうと思っていた陳さんの里帰りに同行するという稀有な体験が目的であった。ついでに茶の歴史の一端でも見られるとよいのだが、さて、どうだろうか。

 

6月12日(水)
厦門へ

今回は厦門航空の夜便で厦門へ向かった。単純な台北-厦門の往復便だが、料金は意外と高く困った。金門経由も早い段階で売り切れており、この路線を使う人が多いことを窺わせた。松山空港発は夜便しかない、という不便さだが、桃園に行くよりはよい。まあ、今日は着いて寝るだけと諦めるしかない。

 

空港内では、なぜか日本の茶碗展示が行われている。それもかなり大規模な数で驚いた。台湾人の日本への興味はこのようなところへも波及している。夜便で短距離だからご飯も出ないだろうと思い、空港内でワンタンメンを食べてから乗ったら、機内でもちゃんとご飯が出てきた。

 

夜9時には厦門空港に到着。荷物を預けていないのでさっさとイミグレを通過して、タクシーに乗り込む。今晩は陳さんの親戚が予約してくれたホテルに宿泊するので、そこまではタクシーでないと難しい。実はよく見ると、そこは金門島から来るフェリーが着くターミナルのすぐ近く。こんなことなら、何としても金門経由を予約すべきだったと思ったが、後の祭りだ。

 

ホテルは豪華5つ星。いつもは泊まらないのだが、陳さんのお供だから仕方がない。ロビーも広くて、チェックインにもまごつく。だが、通された部屋を見てびっくり。何と若夫婦と子供が泊まるためのファミリールームだった。子供用に小さなテントまで用意されているのだが、私が必要としているデスクがない。折角広い部屋で申し訳ないけれども、デスクのある部屋と交換してもらった。一体なぜ男一人のお客をこんな部屋に通したのだろうか。翌朝陳さんの部屋に行ってみるとまさにその部屋だったので、単に広い方がよいと思った、ホテル側の配慮だったらしい。

 

6月13日(木)
安渓へ

翌朝は陳さんと朝食を一緒に取った。彼と会うのは雲南省大理以来6年ぶりだろうか。あの時はお茶の買い付けに行く陳さんに付いて行き、色々と体験させてもらった。実は陳さんには昨年久しぶりに連絡を取った。理由はマレーシア華人の大茶商を探すため。彼ならいいネットワークを持っていそうだったのだが、2月は旧正月だから難しいと言われ、8月に行くと言ったら、KLには居ないかもしれないと言われてしまう。

 

今回はそんな陳さんが祖先の故郷である安渓に行くというのを捕まえて同行することになった。これも華人が故郷に帰る、とどうなるのか、その繋がりを見る良い機会だと思っている。ついでに安渓の茶業についても何かしら得られるものがあればよい、という程度でやってきた訳だ。

 

陳さんの親戚という人が車でやってきて我々を乗せて安渓に向かう。この道はもう何度も通っているので、親しんでいる。今は高速道路のような立派な道があり、厦門-安渓間はわずか1時間ちょっとで行けるが、100年前、海を渡ろうとした人々は歩いて2-3日掛けて山の中から厦門の港に出てきたという。それだけでも大変なのに、ここから船に乗り、未知の東南アジアへ渡っていったのだから、それは物凄い覚悟だと思うし、やはりそうするしかない事情もあったのでは、と考える。

 

車は安渓の街に入った。前回は旧市街に泊まったが、今回は少し離れた街一番のホテルというところにチェックインする。また別の親戚という人が現れ、早々に外に連れだされた。街で流行っていそうなレストランで昼食をとる。結構いい料理が出てきて喜んでいたが、なぜか陳さんは不機嫌だった。『俺はお前の家でご飯が食べたいんだ』と言っている。どうして?

 

午後は学校へ向かった。華僑職業学校と書かれている。立派な建物だ。その中を行くと、陳さんの親戚で、竹藤編名人がいた。もう80歳近いというのに、伝統工芸の第一人者ということで、この学校で教えている。その作品が沢山展示されていたが、実に見事で驚く。1960年代既に彼の作品は海外要人向け土産として、送られるほど認知されていたらしい。それがここ安渓の主要物産品となっている。これまでお茶のことしか見てこなかったが、安渓には他にも色々とあるのではないか、との予感がする。

 

更には別の親戚の鉄工場にも行ってみる。鉄を使った家具、インテリアを作り、欧米にも輸出しているらしい。シンプルなデザイン、簡易な商品、こういうのがウケるのかもしれない。だが老板は『現在の米中問題が長引けば、中国での生産、輸出は難しくなる。東南アジアなどへのシフトを検討するかも』といい、陳さんに相談を持ち掛けようとしている。確かにそうだな。

 

夜は先ほどの竹藤編名人を含めて、親戚と友人が集い、宴会となる。陳さんは私に『宴会要員(酒飲み)』を期待していたようだが、私がもう酒は飲めないと言うと、かなりがっかりして、自ら相当に飲んで、酔っ払っていた。ここに昨年安渓で会った華僑史の専門家、陳克振先生がいたのには、驚いた。親戚ではないが、マレーシア華僑の陳さんの家の歴史もかなり研究してきたという。ご縁というのはすごい、そして嬉しい。

広東・厦門茶旅2019(7)厦門は休日ムード

厦門で

厦門には昨年11月、そして先月もやってきたので、かなり事情は分かっていた。厦門北駅は相当街から遠く不便なので、今日もわざわざ本数の少ない厦門駅行を選んで乗った。降りたら、後は歩いて、チェーンホテルにチェックインするだけだ。しかしこのホテル、前回も予約より当日の方が同じ部屋が安い。そしてそれを伝えると、ちゃんと安い方にしてくれる。これなら予約しない方がよいのでは、と思ってしまう。

 

バスに乗って王さんの工作室に向かう。先月も訪ねていたので、場所は分かっており、宿からバス一本で行けるので、かなり楽だった。彼は元々雑誌の記者だったのだが、お茶好きが高じて、何と本格的なお茶屋になろうとしていたので、驚いた。王さんは少しお茶を淹れてくれただけで、お茶の包装に余念がない。

 

私はここに置かれているお茶関連の本が見たくて来たのだから、特に問題ない。ここには相当昔出された本のコピーなどもあり、本当に貴重な資料が揃っているので、有り難い。今回は譲ってもらえる本があればと思いやってきたのだが、基本的に欲しいものは大体手に入れることができ、大満足。今後の調査に役立ちそうだ。

 

それから梅記の王さんのところへ行く。今日は海峡茶市場の方にいるというのでバスから地下鉄に乗り換えて向かう。確か2年前、ここを訪れた時は、未だ地下鉄工事中だったのを思い出す。確実に時は過ぎているが、王さんたちのプーアル茶の店は健在だった。ここで20年物の白茶を頂く。これはかなりうまかった。そして夕飯もご馳走になる。

 

宿に帰ってテレビを点けると、今回は卓球をやっている。深圳で行われているチャイナオープン。日本と中国の選手が大挙して出場している。ちょうど馬龍と丹羽の試合を生中継。その後は、何と伊藤美誠を特集している。中国にとっても、最大のライバルが日本だ、ということをかなり意識している証拠だ。

 

6月1日(土)
散策

今日中国は児童節の祝日。そして土曜日でもあり、パパたちは大忙しだ。私が会いたいと思っていた人々も、何かと忙しく、今日、明日は無理のようだったので、自らちょっと歩いてみることにした。昼前にいつもの店に行き、いつもの鴨肉20元の定食を食べる。このコスパはどうしても外せない。

 

そこからフラフラ歩いて、開元路へ向かう。ここは昨年も歩いてはいたが、先日香港で堯陽茶行の王さんが『1930年代に茶行を開いていたビルが開元路にまだ残っているよ』と言っていたので、確かめに来たのだ。ヒントは市場の横のビル、ということで、長いトンネルのような市場を抜けると、その四つ角に確かに古いビルがあった。勿論今は違う店が入っているのだが、ビルの横の壁を見てみると『王』という苗字が見えている。恐らくここだろう。他の大茶商のビルがほぼ消えている中で、ここは貴重な存在ではないのだろうか。

 

それから鎮邦路、中山路、水仙路と歩いていく。何度歩いてももう歴史的な物は発見できないのだが、この何とも迷路のような脇道に入るのもまた楽しい。大通りではひと際、小さい子供を連れたファミリーが多いと感じたのは、気のせいだろうか。何だかみんな楽しそうに見えるのだが、実情はどうだろうか。

 

地下鉄に乗って宿に帰る。この宿は地下鉄駅から近いという利点もある。駅を出るとショッピングモールがあり、そこでフルーツ盛り合わせをチョイスしてテイクアウトした。もう流石に食べ過ぎなので、セーブする。夜は今晩も卓球を見て過ごす。伊藤美誠と丁寧の試合は白熱している。昔『石川佳純の卓球はうまいが、体重が軽すぎるから勝てない』と言った中国の解説者が居たが、伊藤はどう見えているだろうか。

 

6月2日(日)
空港で

香港に始まった今回の旅も最終日となる。宿で朝食をとり、タクシーを呼んでもらって空港に向かった。これも何となくルーティーン化してきている。空港も2時間前にしか、チェックインカウンターが開かないことにも慣れていた。今日はぎりぎり2時間前に到着すると、既に乗客は中に入っており、長い列ができていた。

 

私の番が来ると、係員が『台湾から出国するチケットを見せて』というではないか。そんなこと、これまで一度も言われたことがない。実はすでに東京へ戻る便は予約済みであったが、何とGmailが見られるシムカードはほぼ使い切っており、画面が表示できない。係員は『空港のWi-Fiを使って』というのだが、それでは見られないと告げると、『提示できないなら、この場で購入してくれないと乗せられない』というではないか。

 

これには心底驚いてしまった。そしていつもは厦門航空だが今回乗るのが華信航空だったとようやく気が付いた。華信は中華航空の子会社となっており、元を正せば『台湾からの出国チケットルール』を昔から後生大事に守っているのは、中華だけなのだ。少なくとも中国においてチケットが提示出来ない今回のようなケースには特例があってもよいと思う。

 

だがこの件では常に乗客ともめているので、スタッフは誰一人として同情を示したりはしない。すべてこちらが悪いと言い張る。何かがおかしいこの制度、少なくとも90日ノービザの日本人に関しては、台湾政府に改善を求めたい。最後に奇跡的にGmailが開き、何事もなかったかのように搭乗ゲートへ向かった。

広東・厦門茶旅2019(6)潮汕工夫茶伝承人を訪ねて

5月30日(木)
潮汕工夫茶伝承人を訪ねて

翌朝、荷物をまとめた。ついに潮州を去る日が来てしまった。何とも名残惜しい。そして去る前に矢張り朝食。張さんも昨日の店が痛く気に入ったようで、2日連続で向かう。私にも全く異存はない。今朝はシラス粥に焼き魚、そして漬物。まるで和食の朝ご飯のようなあっさりした仕立てが実によい。もっと他の物にも手を出したかったが、さすがにそれもできず、次回に持ち越すこととなる。

 

荷物を積み込み、いざ出発。今日はどこへ行くのだろうか。張さんが言うには『潮汕工夫茶の歴史について知りたいのなら、伝承人である有名な鄭さんに聞くのがよい』ということで、彼女はここ2-3日、鄭さんを探していたようだが、ようやくある山にいることが判明して、そこへ追い掛けていくことになったのだ。これまたある意味で凄い旅だ。

 

やはり山道を行き、高峰村という場所に行った。そこも周囲には何もない所だったが、茶畑が見え、茶工場があり、その中にお目当ての鄭恵豊氏がいた。彼は元々国営企業に勤めていたが、その茶の実力で独立し、今は何社もの茶作りのアドバイスをしているらしい。ここもそのうちの一社だという。ここで1時間ほど、その茶の歴史の話などを聞いた。さすがに現代史となると、話が生々しい。

 

お昼は街に降りていき、そこで食べた。またもやうまい。ここでは潮州名物のウナギが煮込まれて出てきた。海鮮系も多く、潮州料理のうまみがにじみ出ていた。食後は近くの茶荘に入り、そこで老板自慢のお茶を頂く。何だか眠気が出てくる。これは確かに極楽旅だ。ここでずっと休んでいたい。

 

何と鄭さん自ら我々を車に乗せて送ってくれるという。何とも有り難い。まずは張さんたちを潮汕駅に送る。彼女らの予約していた広州行き列車、ギリギリになったが、何とか間に合ったらしい。そこから鄭さんの自宅のある汕頭まで私も乗せてもらい、引き続き、質問を浴びせ、回答を得た。これはまた有意義な時間だった。

 

汕頭に着くと、すでに日も暮れており、予約したホテルまで送ってもらい、別れた。本当は明日も一緒に行動したかったが、鄭さんも久しぶりの自宅だというので遠慮した。紹介された汕頭のホテルはなかなか快適だった。取り敢えず外へ出て、駅に向かう。明日の厦門行きの高鉄チケットをゲットしておく必要がある。

 

汕頭に来るのも18年ぶりだが、特に高い建物もなく、非常に穏やかで、あまり変わっていない、という印象だった。潮州、汕頭、なぜここまで発展しなかったのだろうか。この2都市、お互いに競っていると聞いていたが、良い競争になっていなかったのだろうか。まあ、私個人としては、今の中国の中で、ここまで変化が乏しい街はむしろ貴重であり、懐かしむに足る。

 

駅は昨年改装されたばかりできれいであったが、駅の前は大きな道路に阻まれ、渡る所がないなど、インフラ面には問題があった。それでも駅には殆ど人もいなく、切符はすぐに買えて嬉しい。バスで帰ろうとしたが、こちらもよく分からず、結局歩いて戻る。途中の食堂で海鮮粥を食べて、何となく満足。

 

5月31日(金)
面倒な高速鉄道

朝ごはんはホテルで食べたが、料理は沢山あるのだが何とも味気ない。完全な潮州ロス状態に陥っている。これは早く脱却する必要がある。フロントでタクシーを呼んでもらい、乗り込むと、運転手が『どうして潮汕駅へ行かないんだ?』と聞いてくる。もう切符は買ってあると言うと、仕方ないな、と言い捨て走る。

 

駅にはすぐ着いたが、現金で払おうとすると『微信決済ではないのか、タクシーは誰が呼んだんだ?』と聞かれ、ホテルと答えると頭を抱える。ホテルが現金決済と言っていないので、現金は受け取れない仕組み?らしい。でもそれはこちらが困る。何と運転手はホテルへ戻るというので、勘弁してくれというと、ホテルまで戻る分もくれ、と表示以上の料金を要求。何とも良く分からない。

 

汕頭駅には、地下通路に降りるエスカレーターすらなく、何のために改装したのかと思う。皆重い荷物を持って階段を上り下りして疲れる。何と今回普通座席が売り切れていたので、一等車初めて乗ったが、座席が僅かに広いぐらいで特段良くというわけではない。でもたった一駅とはいえ、16元というのは極めて安い。ただ次の潮汕駅では、一等車両は出口から一番遠く、何の優先もないと知り、がっかり。おまけにエレベーターで降りたら、そこは出口に行けず、また荷物を持って、別の階段を探す始末。

 

更に私は切符を2枚持っていた。何故だ?私は乗り換えるのだから、改札を出る必要はないと思っていたが、中国は甘くない。列車が来るまでホームで待つことは許されておらず、一度特別改札を出て待合室へ行き、時間が来たらまた並び直して列車に乗るのだ。だから皆が潮汕駅を使えと言ったのだ。意味は分かったが、もう後の祭りだ。中国の高速鉄道は恐ろしく発展してきたが、ソフト面では不便なことが多い。それから1時間半ほどかけて、ようやく厦門駅に着いた。

広東・厦門茶旅2019(5)双髻娘山へ

5月29日(水)
双髻娘山へ

今朝も朝ごはんを求めて、古い街並みを歩く。張さんはグルメであり、グルメの周囲にはグルメの友人が集まる。彼らから様々なグルメ情報が入ってくるようで、その店を探しまくる。私は道端でお茶をすすっている老人や天秤棒で野菜を売る人などに興味を惹かれ、はぐれそうになる。

 

ようやく着いたその店は、観光客は絶対に行かないだろうと言うローカルな雰囲気。店のおばさんも『あなたたち、どこから来たの?』と聞くほど、地元民しか来ない。そこには焼き魚やつみれ、ゴーヤーなどが置かれており、好きな物を取る方式になっている。それにお粥、大腸のたっぷり入った粥は最高にうまい。これはもうしあわせに到達した域だ。私はここにずっと留まっていたいと思うようになっていた。

 

今日もまた車に乗って出かける。昨日鳳凰山へ行ってしまったのに、今日はどこへ行くのだろうか。また1時間ぐらいかけて堯平県と潮安県の境にある双髻娘山というところへ向かった。天気は小雨、そして待ち合わせ場所に責任者の劉さんが迎えに来てくれており、ここから先は細い急激な上り坂で、慣れていなければとても運転できないため、車を乗り換えて進む。生態公益林と名付けられた自然体系を守りながら、産業化していくプロジェクトのモデルになっているようだ。

 

海抜1000mのところに茶工場が作られており、ここで数年前より大学の研究と茶業を一体化させた実験的な茶が作られていた。科学的、無農薬、無化学肥料、高海抜などを売りに、茶の生産も軌道に乗ってきており、有機認定などの取り組みも行われている。これまでの鳳凰単叢をさらに進化させ、大きなブランドにしていこうという試みだと受け止めたが、果たしてどうなっていくだろうか。

 

周囲には樹齢100年を超える茶樹も植えられており、山の上に茶樹畑が広がっている。雑草がかなり生え、茶葉には蜘蛛の巣が掛かっており、その栽培法が分かる。天気が良ければ、ここを散歩していれば気持ちがよいだろう。また下までいい景色が見られるそうだが、本日はあいにくの雨。残念ながら、ほぼ視界がない状態で、景色は次回にお預けとなる。所々に大きな岩があり、そこで記念写真を撮り、足を滑らせないように注意しながら、工場に戻る。

 

そのまま車に乗り込み、下へ降りていく。堯平の街まで30分以上かかったか。そこで遅いお昼を取ることになった。自然の中で食べる、という感じで、何やら期待が持てる雰囲気だった。潮州の食は本当に期待を裏切らない。やはり地鶏の肉は歯ごたえがあり、皮がうまい。また地元で採れたイモととうもろこしを蒸かしており、これがまた甘い。既にここ数日、美味い物をたらふく食べて、お腹がパンパンなのに、頭はまた食べることを要求してくる。これって、何だか体の一部が壊れてしまったよう感覚に捕らわれる。

 

夕方宿にたどり着くと、すぐにシャワーに向かった。昨日浴びられなかったお湯、この時間なら出るのではないかと期待していたが、この期待も裏切られず、暖かいシャワーを浴びて、気分は爽快になっている。人間、お湯を浴びるとこんなにも元気になるものかと思うほど、疲れが吹っ飛んでいた。

 

夕方6時すぐには宿を出た。まだ昼ご飯を食べてから3時間ちょっとしか経っていないが、グルメの張さんにはそのようなことは関係ない。行きたい食堂が夜7時前には閉まることを知って、急いで飛び出したのだ。さすがにちょっとしか食べられないだろうと思っていたが、名物だと勧められると口にせざるを得ず、カボチャなど美味しいのでまた食べてしまう。何とここでもまた結構な量を食し、ついに腹が爆発?

 

食後、骨董屋などを冷かしながら散歩するも重たい腹は解消せず。今晩はとにかく失礼して部屋で休もうかと思っていたが、何と張さんはスタスタと茶館に入っていくではないか。『折角だから伝統的な茶館スタイルを体験しよう』ということで、テーブルに座り、お茶を淹れ始める。だが大きな舞台は暗く、茶館の出し物はまだ始まらないということで、この古い建物を散策することにした。

 

潮州は華僑の一大出生地であり、その多くが東南アジアへ移住している。その華僑と故郷を結ぶ便りや送金に関する書類が展示されているのは興味深い。この立派な洋風の建物自体が、そうした海外からの送金により建てられたものかもしれない。茶の流れについても何か資料はないかと探してみるも、何も出てこない。単叢は華僑に飲まれることはなかったのだろうか。

 

茶館の出し物は、歌と劇、そしてなぜか茶芸も入っていた。その昔の茶館で、茶を淹れることが芸になっていたとは思われず、かなり違和感はあるが、今風の分かりやすい演出だと思えばよいか。往時はもっと華やかで、やんやの喝采などもあったのだろうが、今はみな大人しく、茶をすすっている。

広東・厦門茶旅2019(4)烏岽山へ

5月28日(火)
烏岽山へ

朝起きると、『部屋に荷物をまとめておくように』と言われる。どうやら1晩でお引越しらしい。朝ごはんを近所に食べに行く。潮州の腸粉。先日広州でも食べたが、目の前で作ってくれ、熱々を食べる。広州の飲茶で食べる腸粉は白いが、こちらは卵が入っているのか、やや黄色くて、かなり大きい。

 

食事が終わると、車が迎えに来て、乗り込む。今日は鳳凰山へ向かうと聞いている。まあ、潮州まで来て、お茶を見に行くなら鳳凰山、烏岽山へ行くのはごく普通のルートだろう。途中車はなぜか池のようなところで停まる。ここは鳳凰ダムだった。そしてなぜか、このダム施設の見学が始まった。どうやら運転手は元々ここの関係者で、折角だから見て行こうということになったらしい。ダム設備には日本の会社が作ったもの(潮州に工場があった?)も使われているらしい。

 

それから車は山を登り、一軒の茶工場に入っていった。ここは張さんが知り合いから紹介された場所らしく、彼女も初対面で、ちょっとぎこちない対応になっていた。私は鳳凰単叢の歴史を知りたいと思うのだが、なかなかうまく話が進展しない。お茶は単叢を何種類も淹れてくれるが、正直に言うと、単叢は茶酔いになることがあり、余り沢山は飲めないのだ。

 

ところが間が悪いことに、突然大雨が降り出し、外は嵐のようになってしまい、出ることは出来なくなってしまう。ここで昼ご飯をご馳走になりながら(このおかずがまた美味くてご飯が進む)、雨が止むのを待った。ちょっと裏の方を覗いてみると、最新式の設備もある中、女性の皆さんが懸命に枝取りをしていた。

 

雨がほぼ上がったので、お暇して、更に登っていく。18年前も登ったはずだが、こんなにきれいな道ではなく、もっと細い、土の道のイメージだったが、どうだろうか。そしてお目当ての烏岽村に到着した。確か前回はここで樹齢800年の茶樹を見たように思うのだが、今は枯れてしまい?樹齢500年の木が、覆いに囲われていた。今や一大観光地なのだろうが、雨のせいか人はほとんどいない。

 

更に登っていき、村の中を走ってみたが、やはり18年前よりは家々が増え、明らかに豊かになっている。これも鳳凰単叢が有名になり、ブームを迎えた結果だろうか。昔のあの素朴な、茶農家がバイクで行き来する姿はもうないようだ。そう、18年前は村の家でお茶をご馳走になったが、そこの水が甘かったこと。今もそうなのだろうか。茶農家が摘んだばかりの葉を、翌日までに製茶してくれ、買って帰った思い出もある。世の中は大いに変化しているように思える。

 

今回は観光ではないので、車は天池などへは登らず、そのまま街まで降りてきた。そして何度も道を探している。おかしいな、と思っていると、ようやく下車して、細い路地を入っていく。本日の宿は、何と看板も出ていない民宿だった。鍵はオートロックで、宿は我々3人で使うことになっていた。

 

部屋も何となくオシャレな雰囲気で、昨日より格段に広い。荷物もちゃんとここに届けられていた。ただ何と、お湯が出なくて困った。聞くところによると、近所の住民が夜一斉に使うと、湯がなくなる(さらに水も乏しい)という。まさに普通の民家であり、その現状は昔とそれほど変わっていないということが分かる。

 

少し休むと夜になり、夕飯に出かける。今日は地元の潮州料理ということだったが、やはり甘いたれの鴨肉、鹵水鵝片が抜群にうまい。スープ、魚、どれをとっても、比較的あっさりしているが素材のうま味を活かした料理に特色がある。するめや干し魚などをうまく使って、うま味を引き出している。私はこれまで『中国を旅してどこの料理が一番おいしかったか』と聞かれると『新疆ウイグル』と答えて顰蹙を買っていた?が、今後は潮州と答えるようにしよう。

 

食後は今日も散歩に出る。女性2人と旅していると、酒を飲むこともないので、大いに助かるが、買い物はなかなか止まない。目につくものがあると買い込み、量が多いと託送にしている。そんな中で、一軒の古いお茶屋が目に留まり、入ってみる。何だか古そうなお茶の缶もあり、興味津々。ここのオーナーは、元々国営工場に勤務していたが、30年前に今の店を開いたらしい。

 

潮州の茶の歴史について聞いてみると、奥から1冊の本が出てきた。かなり詳しく書かれており、何と張さんが交渉して、買い取ることに成功した。これがあれば、ある程度のことは分かるのではないか。ここのオーナーのお父さんもこの本の中に載っているという。鳳凰単叢はいつからあるのか、など、興味深いテーマだろう。今晩はこれを読みながら眠りに就く。

広東・厦門茶旅2019(3)芳村から潮州へ

527日(月)

芳村で

 

翌朝はご飯を食べると、ホテルを引き払い荷物を持って地下鉄に乗る。ラッシュ時間帯で、乗り換えもあり、ちょっと大変だったが、何とか乗り切り、芳村駅で下車。そしてそこから歩いて、茶葉市場方面へ向かう。かなり荷物が重く感じられる。張さんとの待ち合わせ場所に向かったはずだが、間違って着いてしまったのは、張さんの昔のオフィス。彼女が会を辞めたことは知っていたのに。今はどこにいるのだろうか。

 

 

 

結局電話して迎えに来てもらう。彼女は自らのオフィスを既に立ち上げ、活動を始めていた。これまでの古いやり方の茶葉販売を新しく変えたい、そんな活動だと理解した。折角着いたのに、すぐにまた出掛ける。タクシーが呼ばれたが、行先は芳村駅の向こう側、非常に近い場所だった。しかもここには以前来たことがある。そう、最初に張さんと会った時、予約してくれたホテルがある、インキュベーター向けオフィス群があるところだった。

 

 

 

その入り口付近に、瀟洒な建物がある。入口の前は竹で覆われていた。中に入ると広々としており、キレいな空間があった。器などがすごい数、置かれている。何と向こうの方には畳のスペースがあり、誰かが打ち合わせをしている。ここは一体何なのだろうか。老板はやはり潮州出身で、工夫茶の茶芸なども披露してくれる。『基本的に商売ではなく、趣味で集めている。その方が色々な人が古くてよいものを沢山もたらしてくれている』というではないか。

 

 

 

打合せしていた人を紹介されたが、何と大阪と神戸から来た華僑、しかも福清人だったので驚いた。ここには日本の物もたくさん集められているが、彼らのような人が持ち込んでいるのだろうか。それにしても、日本の茶道の道具が多い。やはり茶道をやっている人が亡くなり、その子孫には価値が分からず、骨董屋が集めて中国に流れていく、ということだろうか。

 

私が見たかったいくつもの、東南アジア各地の老舗茶荘の茶缶などが出てくる。錫製の茶缶は清代の物だろうか。先日訪ねた福建茶行の名前を見ることもできた。ここに居れば、いくらでも自分のおもちゃが出てくるような感じでワクワクする。もう少し勉強してから、もう一度訪ねてみたい場所だ。

 

 

 

昼時となり、老板とお客が食事に出るという。我々も一緒について行くことになった。車はどこからか郊外に出たような感じの場所に行く。そこはどう見ても田舎の村、こんなところにレストランがあるのか思うところだった。だが中に入るとお客で満員盛況。食にうるさい広州人が集まるのだから期待が持てると思ったが、期待以上の味付け、美味しさに思わず涙する。料理が来ると一口食べる間に皆が手を出し、すぐに無くなってしまう。それほどうまいということだ。久しぶりに満足感のある食事だった。

 

 

 

潮州へ

 

我々は広州南駅から高速鉄道に乗る時間が迫っていた。だが最後の最後まで食べた。そして急いで車を呼び、皆を残して失礼した。何とも申し訳ない話だが、効率は実に良い。南駅は遠かったが、何とか時間に間に合う。外国人である私はチケット取得に時間がかかると踏んで、昨日広州駅で取っておいたのが功を奏した。予約が別々のため、彼女らとは別の車両となる。

 

広州から潮州へは約2時間半かかる。そしてその時間以上に同じ広東省内なのに、文化や言語が異なる世界が待っている。そんなことを考えているといつの間にか着いている。だがそこは潮州駅ではなく、潮汕駅という名前だった。汕頭駅は別にあるのに、何故なのだろうか。この辺は複雑な事情がありそうだ。

 

 

 

駅には車の迎えがあり、30分ぐらいかけて、潮州の街に入る。潮州に来るのは2001年の春以来、実に18年ぶりであり、どこを見ても見覚えがない。何だか城壁の中に入り、路地に今日の宿があった。そこは今流行りの民宿であり、古い民家を改造して、宿泊施設にしていた。それはそれで雰囲気は良い。

 

 

 

すぐに夕飯の時間となる。潮州と言えば牛肉だそうで、牛肉のしゃぶしゃぶを食べる。確かにこれはうまかった。それよりも、張さんが実は非常にグルメであり、食へのこだわりが強いことに驚いた。聞けば、お父さんは湖北省で特級調理師だったというではないか。子供の頃から、その舌はお父さんに鍛えられたらしい。これは何とも頼もしい。

 

 

 

食後は、川沿いを散歩した。何と午後8時からは、ライトアップまであった。今や中国の多くの街で採用しているが、ここではお客さんが少なすぎだろう、経費はどうなっているのだろうかと思うほど、贅沢だった。特に1000年前に作られた浮橋が見事に浮かび上がり、かなりきれいだった。風も心地よく吹き、良い散歩となった。

 

 

広東・厦門茶旅2019(2)茶博で広州茶会の将来に出会う

5月26日(日)
お散歩

昨晩はずっとCCTVのスポーツチャンネルを見ていた。昔は世界の情報が何も入らなかった中国だが、スポーツに関しては、今や素晴らしい環境が整っている。各種目の世界大会は国営放送が無料で見せてくれるのは何とも有り難い。『世界バドミントン男女混合国別対抗戦2019 スディルマンカップ』を中国南寧でやっている。日本対インドネシア、日本は男女両エースが順当に勝ち、勝利。決勝の相手は中国になった。

 

朝ごはんはホテルで食べる。前回からこのホテルチェーンの朝食券が付くようになり、取り敢えずあるものは食べる。まあどこへ行ってもほぼ同じメニューではあるが、良しとしよう。本当は今日午前中からKさんとお出かけの予定だったが、彼女の都合により、一人で十三行博物館に向かう。

 

この博物館、開館当時に一度来たことがあったが、その後色々と歴史調査が進む中、また確認の意味を込めて地下鉄に乗って訪ねてみる。パスポートを提示すれば無料というのも有難い。展示物はおそらくそれほど変わっていないと思われるが、所々に気になるものが置かれており、茶の歴史としての統計数字などもあり、また当時の茶の名称から気づくこともあり、種々勉強になる。さらっと1時間ほどで見終わったが、何と土砂降りの大雨に見舞われ、動くことが出来ず、もう一度館内を巡ることになったから、気が付くことが増えたようだ。

 

雨は通り雨で、止んだ。外に出て、歩いて沙面に向かう。ところが道を間違えて、沙面の向こう側まで歩いてしまう。最近のボケ具合は相当のものだ。別の橋を渡り、沙面に入る。旧横浜正金ビルはちょうど真ん中ぐらいにあった。その裏のビルは、ギャラリーのようになっており、誰でも参観できる。かなりレトロな雰囲気で、写真に収めている人もいたが、総じて人がいないのもまたよい。

 

何となく疲れてしまい、宿へ戻る。駅近くの店に入り、ランチをテイクアウトした。ホルモン系のスープがうまそうだ。勿論中国の物価は以前と比べると高くはなっているが、こういう食事を見ていると、まだまだコスパは悪くない。これを部屋に持ち帰り、ちょうど始まったバドミントン決勝の試合を見ながら、ゆっくり食べた。日本チームは戦力的には有利に思えたが、アウエーの中で思うような試合が出来ない。ついでに明日からの旅に備えて洗濯もする。

 

茶博
夕方再度出かける。今日は広州で開催されている茶博の最終日。会場近くの駅まで地下鉄に乗り、Kさんと待ち合わせて見に行く。会場前ではダフ屋が入場券を5元で販売している。もうすぐ終わるので投げ売り状態だった。会場に入っても、既に大かたの人は帰ってしまったのか、ゆっくり見学できた。

 

私には特に目的はないので、Kさんの後ろをついて歩く。湖南安化茶は作り方から伝統的な飲み方まで再現している。雲南の高山茶があり、先日行ったばかりの四川雅安の蔵茶も出てくる。そして六安茶のブースでピタッと足が止まる。現在の六安瓜片とは異なる、老六安茶とは何か。その歴史には非常に興味があり、私も聞き入る。

 

2階に上がっていくと、茶空間の展示会場がある。近年中国でも単にいい茶を飲むだけではなく、どんな器で飲むか、そしてどんな場所で、どんな雰囲気で飲むかが、問われ始めている。そんな設計を競っているようで、かなり力が入っており、驚くような空間が演出されていた。将来は日本の茶道のような、いや中国独特の茶空間が出現するだろうと思えた。

 

Kさんと会場下で夕飯を食べる。ちょっと落ち着いた空間があり、お茶を飲みながら、簡単なものが食べられるようになっていた。やはり広州、そのちょっとしたものが美味しい。何気ないものが美味しいのが本当に美味しい料理だと思う。食は広州にあり。ついでにお茶も美味しい。

 

茶博の終了した夜8時から、広州茶文化促進会の黄会長などを中心となって、『広州の茶文化をどのようにしていくのか』といったテーマで、シンポジウムのようなものが開かれ、私もKさんと一緒に参加した。Kさんは日本の代表、そして以前知り合ったコロンビア人のジェロも発言者として登壇した。

 

100名上の参加者、それも広州で名のある茶関係者が一堂に会する集まりであり、6-7人ずつ分かれてテーブルに座る。そこはお茶席になっており、各席主が工夫を凝らした設えをして、かなり良いお茶を持ち込み、いい雰囲気で淹れてくれる。私の席ではいい岩茶が出てきて嬉しい。

 

一方壇上では、何人もの発言があり、ディスカッションがあり、これだけの人間が広州にはいるのだと伝わってきた。そしてそれぞれが本当に広州の茶の将来を考えようとしている、これからを指向した集まりを目指していく様子がよく分かった。中国茶は本当に曲がり角に来ているな、と思われる。すでに角を曲がった?日本にはこんな真面目な集まり、あるのだろうか。