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タイ北部、中部を旅する2019(3)メイオ村の茶畑

続いて山の中に車は入っていく。そしてパントン宮殿という名前の所で降りた。宮殿と言っても、ちょっとした建物があるだけだ。この周囲の竹の庭、実に見事だ。一本一本の竹の幹も太い。ここはロイヤルプロジェクトでプミポン前国王妃が年に一度訪れていた場所らしい。それでパレス、となっているという。立派な椅子が飾られている。プミポン王はすでに亡く、最近は王妃も高齢でこちらに来ることはなくなった、とガイドは残念そうに話す。

 

因みに今日のガイドは私と同年配の男性で、実は生まれはここからかなり離れたイサーンだというので、驚いた。1970年代、まだかなり貧しかった頃、一家でこちらに移住してきたらしい。いい教育も受けられず、様々な苦労があったろうが、当地に根付き、民族や文化にも相当知識が深く、話していて楽しい。また『娘はチェンマイの大学に行っているが、彼氏が日本人なんだ』と気さくに話す。

 

その後、普通のツアーでは滝などを見学するらしいが、私の目的を知ったガイドはそこを飛ばして、一路メイオ村を目指した。こういうアレンジが貸し切りの良い所だ。メーホーンソンの街から45㎞、車で約1時間来ると、茶畑が目に入ってくる。ただその茶畑は、現代のかなり管理されたものとは異なり、株ごとに間隔が開いて植えられている。勿論これも昔誰かが植えたに違いないが、台湾人がやって来て、新たに植えたという感じはない。

 

村は池を中心にかなりこじんまりしていた。急に雨が降り出したので近くの店に入り、そこで茶を飲ませてもらった。ジャスミン茶と烏龍茶だった。やはり30年ぐらい前から茶作りを始めたという。ただそのお茶の質はそれほど高くはなく、メーサローンのように競争にもまれてはいないようだった。

 

雨が小降りになったので、池の周囲を一周した。やはり台湾からの支援で作られたものがいくつか見られ、また漢字で書かれたものもあり、国民党残党の村であることは確認できる。昼ご飯は中華を食べるのがよい、と昨日旅行社の人は言っていたが、ガイドは迷わず、現地の麺を選択した。それは『中華は観光客向けで料金が高いわりに美味しくない』という理由からだった。

 

とにかく私が彼の提案に同意したのは、その麺が『シャンヌードル』だったからだ。俄然ミャンマー国境の気分になる。この村の人口(約500人)の9割は中国系だと言われ、あちこちで華語が聞き取れていた。ヌードルを作っている女性も一見中国系に見えたが、何とワ族だった。『この村で生きていくには華語は必須だよ』といい、お茶を勧められたので、サンプルに2つほど買ってみた。

 

それから食堂の上に登る。ここの茶畑は間隔が狭く、現代的な茶樹の植え方だった。そこにはコテージも作られており、聞けば観光茶園として売り出すための物であり、茶畑を美しく見せる為の造作だった。1泊2000バーツぐらいで泊まれるようだが、果たしてどうだろうか。更に周辺にはいくつかお茶を売っている店があり、華語も通じたが、茶の歴史に関する有力な情報は得られなかった。皆茶作りを仕事とは考えているが、文化とは思っていないらしい。

 

その後車で5分ほど山道を入ると、タイ領の終わりに着いた。ミャンマーには入れないので、そこで引き返すつもりだったが、そこはミャンマー政府の管理が及ばない地域だと分かる。ゲートがあったがガイドと一緒になんなく通過して、ちょっと向こう側を散歩して住民に話を聞いた。難民問題は本当に簡単ではない、とつくづく思った。同時に国境とは何か、領土とは何かを改めて考えさせられた。これは稀有な体験だった。

 

目的は一応果たしたので、街に帰った。帰りはちょっと目をつぶっていたら、あっという間に着いてしまった。まるで夢でも見ているかのような時間を過ごした感じだった。旅行社に戻り、明日のパーイ行きのバスチケットを買おうとしたが、午後4時の便まで満席とのこと。迷った末に、この街ではやることもないので、次に進むことにしてそのチケットを買う。

 

疲れたので一度部屋で休み、また夕飯を探しに外へ出た。結構大きなスーパーがあったので、非常食としてお菓子と飲み物を買う。更に何とか食堂を見つけて炒飯にありつく。田舎町の夜は、ご飯を食べるのも一苦労だ。一軒の店の名前が『しゃぶ屋』と書かれている。しゃぶしゃぶの略だとはわかっているが、ここがある意味、ゴールデントライアングルの一部であることから、とても笑えない。何かやばい店かと思い中を覗くが、店員が暇そうにしているだけだった。

タイ北部、中部を旅する2019(2)メーホーンソンで

7月10日(水)
メーホーンソンへ

今日もコーヒーを飲み、そしてチェックアウトして、タクシーでドムアン空港に向かった。これももう恒例になりつつある。昔は荷物を引き摺り地下鉄からバスを乗り継いで行ったものだが、段々気力がなくなっている。ここでお金を払って時間を節約しても仕方がないが、さりとて、疲れを費用で賄えれば、とも思う。

 

国内線には一風堂のラーメンがあったのを思い出し、そこで食べようと考えたが、何とチェックインカウンターの端の方に、安い食堂があるのに気が付いた。空港にはありえないようなリーズナブルな料金。60バーツでおかず3つを取り、大満足。値段が高くなる一方だと思っていた空港施設にも、違った変化があるのだ。

 

ノックエアーに乗る。以前はLCCなのに、パンぐらいは配っていたが、今では水しかくれない。それでもバンコックからメーホーンソンへ行くにはノックしかないので、あるだけでありがたい。もしこの線がなければ、チェンマイ経由になってしまうのだ。1時間20分ほどで、北西部の地に到着した。

 

地図で見る限り、空港は街のすぐ横にあり、歩いて街に入れた。そのまま街中を1㎞ぐらい歩いていくと、お目当てのホテルにたどり着く。料金を聞くと、フロントの女性が愛想よく英語で答えたので、ここに泊まることにした。部屋は大きいのだが、特に機能的な物は何もない。

 

何となく腹は減ったが、既にランチの時間は過ぎており、ありつけなかった。仕方なく近くの旅行社に出向く。明日の日程を決めるためだ。今回も特に予定はないのだが、ここメーホーンソンに来た理由は、ずばり茶畑の目撃情報。昨年会ったHさん(既にバンコックからコロンボに転居)から、郊外で茶畑を発見、という知らせを受け、行ってみる気になったのだ。

 

茶畑に行く方法を相談すると、首長族の村に行くなど、いくつかのツアーに組み込まれてはいるのだが、いずれも最低参加人数は2人から。だが今は観光シーズンでもなく、平日に参加者がいるとは思えないので、2人分支払ってくれれば、車とガイドを手配すると言われて、なぜかあっさりと支払ってしまった。以前ならコストを考えて、バスを探すなど何とか自力で行くことを模索したものだが、この辺もまた疲れのせいだろうか。

 

それから周辺を散策する。すぐ近くに池があり、その向こうに何とも美しい寺院が見えたので、行ってみる。寺の前まで行くと、2つの寺が一つの場所にあることが分かる。左側がワット・チョーン・カム、右側がワット・チョーン・クラーンという名前だと書かれている。どちらも銀細工が見事なビルマ様式の寺だ。

 

ワット・チョーン・カムは1827年、この地に最初に建てられた寺院だとある。メーホーンソンの街の歴史はこの頃に始まった。建てたのはシャン族かもしれないらしい。比較的大きな大仏が安置されている。ワット・チョーン・クラーンは、建物自体が古風で銀細工が特に美しい。中に入るとかなり広く、薄暗い中に仏像がいくつも見える。小雨が降ってきており、参観者はほぼいないので、落ち着いてその空気を味わう。

 

雨が止んだので、池の周りを一周してから街を歩いてみる。大きな市場があったが、午後ですでに閑散としており、周辺の食堂も開いていない。メインストリートもお休みムード、神社のようなところもある。結局歩き疲れて宿で休でいるとかなりの雨が降る。そして夕方、飯を探してまた歩く。近所に麵屋があったので、そこで簡単に済ませる。この麺、スープが意外とうまい。食べ過ぎないでよい。夜はかなり静かな辺境の街だ。

 

7月11日(木)
茶畑へ

翌朝は宿で朝食を食べる。それから昨日の旅行社へ行くと、既にガイドが来ており、車も整っていたので出発。要は車とガイドをチャーターしたのと同じで、自由行動だが、取り敢えずガイドの行くところについて行く。車はすぐに郊外に出て、始めは平たんな良い道を行く。

 

最初に停まったのは、お寺があるところ。まあタイ観光と言えばお寺は定番だろうと思っていたが、高台のお寺は素通り。そして竹で編まれたきれいな橋を歩き出す。向こうの方には水田が見え、その向こうには村があることが分かる。何とこの竹の橋は、ここの僧侶が雨期に村まで来られるようにと村民が作ったというからすごい。全長何キロになるのだろうか。雨季はこの辺りも水没してしまうのだろうか。屋根の修理をしている人がいたが、材料は何だろうか。

 

村まで歩いて行くと、西洋人が数人、歩いてきた。彼らはこういうところに来てゆっくりと田舎ライフを満喫する。日本人や中国人はここへ来ても、ただ通り過ぎるだけだろう。私はこの村の中をちょっと歩き回りたいと思っていたが、ガイドはスタスタと歩いて行き、そこには車が待ち構えていて、そのまま乗車してしまい、何も見られなかった。ああ、残念。

タイ北部、中部を旅する2019(1)ヤワラー お茶屋再訪

《タイ北部、中部を旅する2019》  2019年7月8日-28日

年に1度のタイ旅行のシーズンがやってきた。今回こそは茶旅も忘れて、タイ国内の小さな街を回ってみようと思う。そしてこの2年間封印されていた、長期間の旅をもう一度やってみることにした。原則は2-3泊で移動していく。タイ以外に今回はシンガポール、マレーシア、インドネシアなどを加えてみた。更には偶然にもミャンマーに分け入ることになるなど、相変わらず訳の分からない旅となっているのは、我ながら面白い。

 

7月8日(月)
ルーティーンな1日

もう日付が変わった頃、那覇を出た飛行機はスワナンプーン空港に到着した。LCCなのにピーチはなぜかドムアンではない。それはそれで色々と有り難い。夜中ではあるが、空港は眠っておらず、入国審査には結構な列ができていた。それでもあまり苦にならずに通過した。出口を出るとシムカードを購入。今回は期間が長いことなどを考慮して、容量多めの物を買う。タクシーに乗り込めば、深夜だから30分もかからず、定宿に到着する。定宿ではいつもの顔が出迎えてくれる。日本時間ではもう3時なので、ベッドに倒れこむ。

 

朝はいつものようにYさんとコーヒーを飲みながら近況を話す。その後、外に出て、コムヤーンの朝食。一応これを食べないと私のバンコックは始まらない。その後は、深夜到着の疲れが出ているため、部屋でNHKなどを見て大人しく過ごす。昼になれば、またYさんとランチに行く。ヤンマーマなど、定番メニューを食べて、徐々にタイモードになっていく。

 

午後はバイタクに乗ってエンポリアムへ。銀行へ行き、カードを新しくした。これで海外でも使えるだろう?更にTシャツを2枚買う。なぜかTシャツが汚れたり、無くなったりしている。それから同級生のOさんと紀伊国屋で待ち合わせ。これも1年に1度の定番行事となっている。

 

まずはお茶を飲みながら、近況を話し合う。Oさんはお子さんも順調に就職し、着々と老後に向かっている。その後、食事に移り、豪勢な和食をご馳走してもらう。バンコックというのは、いくらでも和食の店があり、それもピンキリなのだとよく理解できる。焼肉を店員が焼いてくれたのだが、部屋が火事になりそう火の勢いだった?

 

7月9日(火)
お茶屋さんへ

翌朝はコーヒーを飲み終えるとすぐに出掛けた。今日は昨年出会ったヤワラーのお茶屋さんを再訪することになっていた。他の老舗を探す中で偶然見つけた所だが、今やバンコックの老舗茶荘では一番歴史に詳しいのではないだろうか。ファランポーン駅から歩いて近いのも有難い。

 

集友茶行の歴史について、詳しく聞き取る。その活動がタイの茶業界の一面を必然的に語ることになる。ついでに親戚筋の林奇苑についても更に資料がないか、探してもらう。この厦門の大茶商の歴史、意外とわからなくて困っている。タイとの茶貿易などについてももう少し何かあるとよいのだが。因みに集友茶行の老板のお父さんは今年100歳だが、まだご存命だという。ぜひお会いしたいと言ってみたが、『年寄りだし、住まいも遠いので』とやんわり断られる。確かに100歳の方が見ず知らずの人間に会うのは疲れるだろう。

 

武夷茶などを頂きながら、話しを聞いていると、白人の親子が店に入ってきた。かなりの中国茶好きと見えて、『寿眉茶はあるか』などとかなりツウなことを英語で聞いている。ここのおかみさん、ちゃんと英語で受け答えしているからすごい。やはり昔から海外とのつながりの中で商売してきた人々なのだな、と改めて感じた。

 

昼前ヤワラーを引き上げ、宿に戻るとYさんが待っていてくれ、最近行かなくなっていたおばさんたちの店で、久しぶりに豚足ご飯を食べた。豚足というのがまた、如何にも福建、潮州を想起させる食べ物だが、香港の老人が長生きの秘訣として、『朝から豚足を食べている』と言っていたのが忘れられない。

 

午後はアソークにある床屋へ行く。元々はQBハウスだったところが独立したのだと思うのだが、料金は数年前が100バーツ、その後120バーツに値上がりし、今回店舗が改装されて、サービス内容は同じだが、料金は150バーツまで上昇してきた。東京の家の近くの床屋、タイムサービスが690円だから、いつか料金も抜かれてしまうだろうか。

 

実は旅行カバンが壊れそうになっており、那覇空港でも危うく預け拒否に遭いそうになったので仕方なく、今回バンコックで新調することにした。MUJI当たりのケースが軽くてよさそうだったが、サイズが合わず、別の所で機内持ち込み用最大サイズを買った。果たして今回はいつまでもつだろうか。

 

宿の近くまで戻ってきた。明日から地方回りに備えて、やはりここはとんかつだ、と思い、以前も行ったことがある店を探したが見つからない。ようやく見つけたその店、以前は流行っていたと思うのだが、今はお客も少ない。そして出てきたとんかつが油過ぎて、美味しくない。このようにして、店というのは淘汰されていくのだな、などと勝手に考えてしまった。

沖縄を旅する2019(5)お茶会

7月7日(日)
お茶会

長いようで短かった沖縄滞在も今日が最終日。荷物を持って宿を出なければならないが、やはり雨が降っている。沖縄は梅雨明け宣言が出てから、完全に梅雨に逆戻りしたようだ。窓から外を何度も見てみるが、チェックアウトのタイミングは図れない。どうしようか。

 

10時前雨がかなり小降りとなった。この機会を逃してはならない、と外へ出た。チェックアウトと言っても、支払いは昨日済ませたので、鍵は部屋に置いておくだけで、挨拶もしない。何だかな、昭和の下宿は最後まで素っ気ない。傘をささない程度の雨の中、とぼとぼ歩いてバスターミナルへ向かう。

 

まだ時間的には早かったので、図書館で過ごしたいと思ったが、この大きな荷物をどうするべきか。取り敢えず図書館で聞いてみると、何と預かってくれるという。小さな荷物はコインロッカー(無料)に入れておけばよい。こういう行政サービス、何とも有り難く、助かる。図書館で2時間ほど、昨日の反省をしながら本を読む。

 

 

今日は与那原まで向かうのだが、昨日乗ったバスと全く同じバスに乗り込む。既に一度経験しているので気持ちは非常に楽になっており、緊張感はなかった。それがいけなかったのだろう、ふと考え事をしているうちに、目的地に到着したと思い、慌てて荷物を持ってバスを降りてしまった。ところがそこは『与那原』ではなく、何と『与那覇』という場所。与那まで一緒だったので、つい間違えてしまった。こんなこともあるのだろうか。

 

さて、どうしたものか。与那原まで迎えに出てくれているUさんに連絡を入れると、近いのですぐ来てくれた。地元の人は間違うことなどないのだろうが、なぜこんなに似た地名なのだろうか。きっと何か意味があるに違いない。そんなことを考えているとUさんの車にピックアップされ、茶房一葉に向かった。

 

茶房一葉、こちらも1年半前に紹介されて訪れた場所だ。ただ突然お店に行ったのでUさんが大変驚いていたのは、とても印象に残っている。それからFBなどで近況を相互に見て、コメントなどももらい、交流していたことが、今回の会に繋がった。これも茶縁であろう。このお店は、とても居心地の良い空間であり、またここに戻れたことは何とも幸せだ。

 

今日は10人程度のお茶会が開催され、台湾茶について、雑談しながらご質問を受けるというスタイルで行われる。皆さんが来る前に、Uさんが美味しいお昼ごはんを用意してくれており、有り難く頂戴した。やはり喫茶店を経営するような人は、なんでもうまく作れるということだ。お菓子なども手作りするそうだ。

 

取り敢えず2時間、お話しした。急に質問と言っても難しいと思うので、勝手に話題を見つけて話してしまった。これが皆さんにとって良かったのかどうかは全く分からないが、私個人は結構楽しく過ごしていた。何の筋書きもない話、それは私の茶旅そのものであり、これが本来私のやりたい講座の形ではないかとも思った。特に厳しい質問が出るでもなく、和やかに終了。

 

参加者はかなり遠くから来られた方もおり、満足されたかは心配だが、仕方がない。お茶会後も残られた人の中に、何と栃木の隣町の出身で、あの女優、山口智子とも同級生だった(うちの弟が山口智子と中学の同級であることを、先日息子たちに話したばかりだった)ので、とても驚いた。沖縄には県外から移ってきた人も多い。そのような人々は、本当にお茶の歴史がどうなっているのかを見て、お茶を通じて沖縄の歴史を考えていくのもよいのでは、と思ってしまった。

 

今晩は夜便でバンコックへ行く。最後はUさんが車で空港まで送ってくれた。那覇市内を通らない、日曜日の夜は空港まで30分ちょっとついてしまう。それでも雨が降ってきたので、何とも有り難い。そして何より、今回の一連の主催者として、動いていただき、とても感謝している。

 

未だ出発まで2時間以上あるのに、既にピーチには長蛇の列ができていた。ただよく見ると、ほぼ同時刻に台北行きもあり、そちらが先にチェックインをスタートしたところだった。台北行きとバンコック行き、作業速度に明らかな差があった。台湾人はちゃんと準備しているが、タイ人はそこに行ってから書類を探し、荷物が重量オーバーしているからだ。沖縄ですでに、タイを感じる瞬間だった。いずれにしても日本人より外国人が圧倒的に多い。

 

出国審査を終えると、ホッとして少し腹が減る。ところが何と、ご飯を食べるところはほぼ閉まっていた。商売熱心じゃないな、日本は。深夜便の乗客が入ってきたところで店を閉めるなんて、と言っても仕方がない。日頃の食べ過ぎを是正する良い機会だ。だが、飛行機が飛んでも腹が減っていて眠れない。機内食を買おうとしたが、何と搭載していなかった。この時間に食べ物を購入する人がいないのだろう。ひもじくバンコックに向かった。

 

沖縄を旅する2019(4)沖縄茶の歴史を報告する

7月6日(土)
報告会

翌朝は朝方に雨が止んだ。まずは県立図書館で再度調べものをして、それから先日休館だった那覇市博物館に行ってみた。土曜日ということか、見学者はそこそこいた。受付で荷物をコインロッカーに預けられると教えてくれた。今日は報告会のため、荷物が多いので助かる。那覇の歴史変遷などが展示されているが、勿論お茶に直接関わるような歴史は展示されていない。ついでに例えば沖縄と福井の繋がりを示すものなども探したが出てこない。一部尚家の展示の部分で、興味深い内容があったが、全体的には私が知りたいこととはマッチしていなかった。

 

一応早めに昼ご飯を食べようと思い、図書館近くでステーキを食べた。最近は話しの直前にはあまり食べられないのだが、やはり2時間も話すとかなり疲労するので、出来るだけ事前に多く食べるようにしている。そこからバスターミナルに向かう。南風原方面に行くバスはいくつも出ており、よくわからなかったが、係の人が検索して教えてくれた。

 

12時半にバスに乗り込む。もし乗り間違えたりしたら、遅刻になってしまう。そんな感じのバスの本数なのだ。沖縄には電車がないのでバスが発達しているとは聞いているが、初めて乗ると緊張してしまう。何とか指定されたバス停で降りようと、Google片手に眠りもせずにジッとしていた。乗客はそれなりに乗り降りがある。料金はどんどん変わるので、小銭の用意が大変だ。

 

バス停に着くと、少し雨が降っていたが、迎えの人が来てくれて、車で会場まで向かった。南風原公民館、図書館も併設された、立派な施設だった。今日は土曜日のせいか、いくつかのセミナー会場として使われていた。2階の会場に行くと、靴を脱いで入る洋室?よく分からないがこれまた立派なお部屋だった。

 

そして様々な方が準備をしてくれ、30名近くの方が聞きに来てくれた。これは代表して、今回の仕掛人Uさんにお礼を言わなければならない。私としては、昨年色々と勉強させて頂いたので、ご興味のある方に簡単にご報告するつもりでいたのだが、まさかこのような大きな会になっているとは思いもよらなかった。

 

お話しの内容は、球磨茶を訪ねて熊本県人吉に行ったこと、ちんすこうの故郷を訪ねて福建省福清に行ったこと、さんぴん茶の由来、中でも台湾の包種茶が使われていたことなど、最後にブクブクー茶とバタバタ茶、ぼてぼて茶に関連することを一気に述べてみた。皆さん、恐らくはかなり混乱されたことだろう。『そんな話、今まで聞いたことない』という声が聞こえてきそうだが、私の旅の成果としては、そのようになっているのだ。

 

後は地元の皆さんが、皆さんの歴史を検証して、フィードバックしていて頂けると、有難い。セミナー後、さんぴん茶などを飲む懇親会でも数人の方から、更に有益な情報を頂いた。『昔おばあちゃんから聞いた話なんですけど』などというのは、一見理屈もないように見えるが、意外と真実を突いていることがある。

 

全てが終わり、外に出るとなんと晴れていた。これは今日のセミナー、それなりに上手く行ったという証だろうか。また車でバス停まで送ってもらい、バスに乗って那覇に戻った。折角雨が降っていないので、またお散歩に出た。とまりん付近の若狭町を歩き、気が付くと久米のあたりに出ていた。そこには何と孔子廟まであった。これは新しいものではあったが、横には福州園という名前の場所まであった。既に門は閉められており見学は出来なかったが、中国、特に福建省との繋がりについては、さらに調べを進めるべき課題である。

 

夕飯は昨日食べたいと思って食堂は閉まっていた、なかみー汁を食べに行った。この内臓の入った汁、何とも言えず美味く、好物になっているが、なかなかありつけない。この食堂も働いていたのはバングラあたりから来た青年だったが、一生懸命対応してくれて好感が持てる。安い料金で食事を提供してくれる中で、彼らの存在も大きいのだろうと思う。

 

この畳部屋で寝るのも今日が最後となった。住めば都という感じで少し愛着が出てきた。今日は週末なので、さすがにすべての部屋に人がいるようだ。それでもトイレなどではかち合わず、結局どんな人が泊まっているかも知らずに終わった。ウインブルドンテニス、錦織の順調な試合運びを見て、明日に備えた。夜半からまた雨の音がする。

沖縄を旅する2019(3)最北端まで行くも

7月5日(金)
最北端へ

夜中から雨が降り続き、朝になっても止まなかった。今日はHさんが車で沖縄本島観光に連れて行ってくれることになっていたが、あいにくの天候となっている。Hさんには過去何度か車に乗せてもらい、色々な所へ行っている。そろそろ本島ではいく場所がなくなってきており、今回はお茶とは関係なく北部を訪ねることになった。

 

車は小雨の中、ひらすら走っていく。那覇やその郊外までは渋滞などもあったが、その後は車も少なく順調だった。そして2時間後には、ほぼ北の端までやってきていた。まずは沖縄最北端にあるコンビニとして、ファミリーマートに寄った。今はこんなところまでが、撮影スポットになっていることに驚く。まあ、これは商売上のことだろうが。

 

そこから更に20分以上走り、ついに最北端、辺戸岬に到着した。いつもは多少観光客などもいるようだが、この天気では駐車場に車は殆どなかった。車から降りて海を見に行くと、大きな碑が建っていたが、その先は強い風と雨により、傘が飛ばされそうになり、歩くのが難しくなってしまった。折角来たのだが、ゆっくり海を眺める時間もなかった。晴れた日には与論島まで見えるらしいが、残念。

 

ここに長居しても仕方がないと次に向かう。元々の予定では大石林山という奇岩や巨石、亜熱帯の森、大パノラマなどがある、自然環境豊かな場所を散策する計画だったが、さすがにこの雨では難しい。取り敢えず現地まで行ってみると、係員が『博物館だけでも見て行って』と言うので、見学だけした。もし天気が良ければトレッキングして、やんばるの自然を満喫できたのかもしれない。

 

昼ご飯は、この辺で一番有名だという、前田食堂を訪ねた。建屋は昭和の雰囲気だ。午後1時ごろだったが、店内はほぼ満員のお客さんで、辛うじて座ることができた。これは雨のお陰だろうか。名物の牛肉そばを注文した。出て来たものはどんぶりに山盛りのモヤシが乗った麺だった。確かに美味しいのだが、何となく台湾で食べる牛肉麺に通じるところがあるな、と思った。牛肉を入れる発想などはいつ頃からあるのだろうか。

 

雨が少し強くなる。少なくとも屋外活動は難しい状況となっていた。困ったHさんが『塩作りを見に行きませんか』という。まあ行けるところがあるだけよい。車で1時間以上かけて島の反対側、うるま市に向かう。その断崖?の近くに『ぬちまーす』の工場はあった。ここでは塩作りに適した海水を使い、独特の製塩法を用いて、ミネラルの多い、美味しい塩を作っているのだという。

 

工場見学もでき、案内の人が一通り説明してくれた。工場を見ても、機械があるだけで、正直内容はよくわからない。ただショップの方には、この塩を使った様々な商品、飴や菓子からみそなどまで、が販売されており、ちょっと驚く。ソフトクリームは美味しいそうだったが、涼しいのでパスした。社長には著書もあり、かなりの有名人らしい。外に出ると海が見える。断崖に近づくと、遠目に工場が見える。ここなら他社がこの海水を汲むこともできない。

 

それから車は南下して、那覇の方に戻っていく。途中に有名なうるまジェラートという店があり、寄ってみる。ここのジェラートは美味しい。そして味の種類も豊富で、沖縄の紅茶なども使われている。ただこの店の周囲、殆どが閉店しており、実に寂しい状況だ。この店にも客はいなかった。今後は那覇などでの展開が主になるのだろうか。2種類注文したら、もう1種類おまけでくれた。

 

徐々にあたりが暗くなる。那覇に戻る前に夕飯を食べようと、検索して沖縄らしい食堂に行くも、今日はもう閉店していた。仕方なく近くのモールへ行き、その食堂街を歩いてみたが、なぜか韓国料理が食べたくなり、ビビンバ定食を頼む。ここは食券制で事前に購入する。だが券を買ったのは我々だけで、他のお客さんは別のメニューを見て注文し、現金で払っている。きっとメニューも韓国語で違うのだろうし、料金も違うのだろう。キムチなどの小皿も沢山ついているらしい。この店の客は韓国系なのだろうが、こういう韓国的な取り扱いには不愉快になる。せめて分からないようにやって欲しいものだ。

 

一日中、何となく雨の中、Hさんには大変お世話になり、沖縄本島を北から南まで走ってもらった。やはり沖縄は車がないと何もできない。特に雨の日は動けない。明日明後日、バスに乗って出かける予定だが、どうか雨が降らないで欲しい。畳部屋には洗濯ひもが下がっており、濡れた衣服を掛けて寝る。

沖縄を旅する2019(2)ちんすこう屋さんで

7月4日(木)
ちんすこう屋さんへ

翌朝は曇っていた。知り合いのIさんと朝食を食べるために、旭橋の駅をまたぎ、前回私が泊めてもらったIさん所有アパート付近のベーカリーに行く。旭橋には昨年工事中だったバスターミナルがきれいに完成しており、その上に県立図書館が移転してきていたのは嬉しかった。昨年は歩いて30分ぐらいかけて行った図書館が、すぐの場所にやってきたのだ。

 

このベーカリー、やはりパンが美味しい。中国人観光客の家族なども食べに来ており、朝から満員だ。Iさんにも色々と変化があったようだ。昨年やっていた民泊は条例施行により取りやめとなり、普通のアパートになったらしい。私はまた泊まりたかったのに。相変らず朝から元気だったが、昨年1月一緒に訪ねた台湾人の死の話では、暗くなってしまったが、仕方がない。

 

実は1件、ワードファイルを印刷して郵送する必要があったので、Iさんと別れたその足でファミリーマートに行ってみた。勿論機械はあるのだが、何とPDFでないと印刷できないらしい。困っているとIさんがワードをPDFに変換してくれたので、何とか印刷のこぎつけ、そのままコンビニで切手と封筒を買い、コンビニ内のポストに入れた。21世紀もかなり経つというのに、今で原本主義とは、日本の会社も困ったものだ。

 

それから駅の横、バスターミナルの上にできた県立図書館を覗きに行く。当たり前だがきれい。5階にある沖縄関連本のフロアーに入ると、見たい本がたくさんあることに気が付き、急遽、ここで勉強することにした。土曜日のセミナーでも必要な内容が補足でき、とても有意義だった。それにしても殆ど人がおらず、なんとも贅沢に見える空間だった。これからも時間がある限り、ここで過ごそう。

 

昼ご飯は図書館のすぐ近くにあり、鶏料理屋に入る。ここも前回来たところだったので、勝手は分かっているつもりだったが、修学旅行生などが入ってきて混乱する。ここのタルタルソースと卵、意外とうまい。ボリュームがかなりあるので、食べ切ると腹がかなり膨れる。

 

今日は午後2時におもろまちまで行くことになっていた。雨が降っていれば当然ゆいレールで行くのだが、ちょうど雨は止んでおり、まだ時間もあったので、国際通りを歩いてみた。そこで思い出したのが公設市場。確か無くなってしまったというニュースを見たので行ってみたが、すぐ近くに移転しており、既にそちらでの営業が始まっていた。中国人観光客らが、料理してもらって食べようと真剣に魚を選んでいた。

 

あまり暑くないのでフラフラ歩いていると、いつしかやちむん通りに入る。陶芸の店やおしゃれなカフェがいくつもあるが、雨模様のせいか、お客は殆ど歩いていない。そこを越えていくと、おもろまちに到着した。そこにAさんが迎えに来てくれ、車で彼女のお店に行った。

 

そこは元祖ちんすこうの本店。首里駅からも歩くと15分ぐらいかかるというので、迎えに来てくれたのだ。ちんすこうは以前庶民の食べ物ではなく、王族の物だったから、お店がここにあるのも頷ける。工場はだいぶん前に移転しており、今は店舗が残っていた。観光客が来るような場所でもない。

 

ここでちんすこうについて色々と聞いた。土曜日のセミナー、実は『ちんすこうのルーツを訪ねる旅』の話もする予定なので、もう一度確認しておこうと思ったわけだ。ちんすこうは元々焼き菓子か蒸し菓子か、と言った問いにも、『ちいるんこう』という蒸し菓子があることも分かり、不明な点が多々あることを再認識した。

 

また沖縄茶の歴史についても、昨年お会いしたのち、色々な方に聞いてくれており、その辺の話も聞いた。勿論本に書かれていることは重要なのだが、書かれていない、生の声、情報も本当に必要だと痛感する今日この頃である。かなり昔のことだから思い違いなどもあるとは思うが、聞いたことを一つ一つ検証することが大切な作業となる。

 

お茶も沖縄産煎茶などを入れて頂く。お菓子はちんすこう、ちんるこうなどの他、特製の物までたくさん出して頂き、色々と味わった。本来はお茶とお菓子、この良い組み合わせを見つけて推奨するのがお茶の商売だろうが、私にはその力量はない。お菓子屋さんからの提案は重要ではないだろうか。

 

帰りもまたゆいレール駅まで送ってもらった。県庁前に差し掛かった時、那覇市歴史博物館がパレットに入っていることに気が付き、急に降りて向かった。那覇の博物館なら何か参考になる展示があるかもしれないと思ったからだ。ところが何と今日は休館日だった。これまで様々な博物館に行ったが、木曜日が休館というのは初めてで驚いた。どんな事情からそうなったのだろうか。

 

ちょっと気落ちしながらエスカレーターを降り、地下の食品売り場に向かった。ここで飲み物と、サーターアンダギーなどのお菓子を買い込んだ。レジ袋は有料だった。先進的だな。夜は雨だったので、持っていたお菓子などを少し食べただけで、部屋から出なかった。決して快適ではないと思っている場所でも、雨が凌げればよい、という感覚になる。

沖縄を旅する2019(1)昭和の下宿へ

《沖縄を旅する2019》  2019年7月3-7日

昨年1月、沖縄のお茶について本格的な?調査を実施し、様々なことが分かって来た。更にほぼ同時に『琉球人と茶』という本が刊行されるなど、沖縄のお茶への関心が少しずつ高まっていると感じている。今回はついに沖縄で、沖縄の人に、沖縄の茶の歴史(ついでにちんすこうも)を話す、という大胆な企画にチャレンジすることになった。これはかなりの緊張を伴うもので、果たして反応はどうか、とても気になる所である。

 

7月3日(水)
那覇へ

今回那覇に入ったのは、東京からバンコックまで行く安いチケットを探していたところ、LCCピーチの沖縄経由があったからだった。折角なら、沖縄にも滞在して、何かしようと思い、この便を予約した。成田から那覇まではピーチが飛ぶようになったのは、何とも有り難いことだ。

 

成田空港に行ってみると、第1ターミナルの脇の方に、ピーチのカウンターがあった。何とも小さな空間だが、こういう狭さが安さに繋がっているとも感じられるので、対顧客上は悪くない。そしてチェックインは原則機械で行い、預け荷物が必要な人は隣に並び直して行う。思ったよりずっと効率よく進むので問題はなかった。ピーチの良さは『効率と顧客目線』こんなところにある。

 

搭乗はバスで向かい、タラップを上がる。それから3時間、機内で殆ど何もせず、目をつぶっていた。特に疲れていたわけでもないが、これからの長旅を考えると寝るのが一番かと思われた。ふと気が付くともう着陸態勢だった。乗客は7割ぐらいの搭乗率で、隣も空いており、快適に過ごした。

 

那覇空港に降りると、すぐにゆいレールに乗る。スイカなどが使えないので切符を買う。そのオールドデザインの切符を機械にかざして入る。那覇に来るのは昨年1月以来。あの時はとても寒くて腰をやられたが、今回はちょうど梅雨明けの時期で、夕方は快適な気温だった。旭橋で降りて、予約した宿に向かう。

 

今回の宿、完全に昭和だった。実は半月以上前に国際通りにほど近い新しめの宿を予約していたが、何と昨晩遅くに確認したら、男女混合ドミトリーのベッド1つが予約されていて慌てた。さすがに4泊もドミトリーはおじさんにはきつ過ぎる。よく見ると、前日の23時59分までは無料でキャンセルできるとあった。時間を見ると23時55分、猛スピードでキャンセルに成功した。

 

だが、泊まるところが見つからない。既に沖縄は夏の旅行シーズンに突入しており、特に週末は部屋が取れなかった。今から明日の宿をとる、こと自体が至難の業になっていた。そんな中、一軒だけ4泊取れる宿があった。料金はさほど高くない。しかし一体なぜこの宿はこの時期に空いているのか。怖いもの見たさで予約してみた。

 

旭橋から10分もかからない場所にあったその宿に、昭和の下宿屋、XX荘を思い出した。受付に行っても、部屋番号を言われただけで鍵すら渡されず、お金もいつ払うのか分からなかった。3階の部屋は畳部屋。なかなか見られない骨董品のような場所だった。かなり広いのは2人用の部屋を予約してしまったかららしい。だから思ったより高かったわけだ。エアコンは100円玉を入れないと使えない。小型テレビの映りは悪い。トイレと風呂は共同で、廊下はきしむ。部屋は蒸し蒸しと暑く、学生時代の下宿を思い出した。

 

取り敢えず日も暮れていたので、夕飯を食べに出る。確か前回来た時に近くに手頃な食堂があったはずだったが、いくら探しても見つからない。ちょうどあった別の店に入り、なぜか茄子のみそ炒め定食を頼む。これは意外と美味しく、あっという間に平らげた。これは沖縄料理なのだろうか。因みにこの店の名物はとんかつらしい。

 

部屋の窓を開けておくとスコールが来た時部屋が濡れてしまうが、窓を閉めて出掛けて帰ってくると暑い。エアコンは使わないと決めて、この辺を工夫しながら過ごす。シャワーとトイレ、洗面が一緒なので他人の迷惑にならないようにと思ったが、どうやら3階にはお客はもう一人しかおらず、バッティングすることもなかった。アジアのゲストハウスも段々きれいになっている中、何とも懐かしい雰囲気だ。エアコンはないが扇風機はあるので、夜はそれほど暑くはない。夜中にかなりの雨が降り、その音で少し眠れない。

華人と行く安渓旅2019(6)元気な96歳に会う

6月18日(火)
更に歴史を知る

今朝は先日もちょっとお会いした張彩雲の親族で、張水存氏の息子さんと再会する。目的は今回紹介してもらい、無事に会うことができた大坪の張秀月さんに関する報告であった。水存氏と秀月さんはいとこに当たる。そして合わせて、5階建てビルの上に水存氏が書いた張家の歴史の碑を見たことも伝えた。

 

張一帆氏から、今回さらにこれまで知らなかったいくつかの情報を得ることができた。これは秀月さんと会って、彼女が言っていることを確認する過程で、出てきた新事実だった。勿論家族内のことであり、公にする必要はないのだが、『なぜ彼女はこう言ったのか』『なぜ大坪の秋月さんとヤンゴンの兄弟は疎遠なのか』などを理解する上では重要なことだった。やはり歴史は足で確認していくことも大切だ。

 

張源美の屋号、白毛猴についても、これはあくまで茶の品種名であり、他にもこのマークを使っていることなども分かる。張源美については、既に3回の連載を終えたが、どうしても秀月さんの現状など、歴史に翻弄され、埋もれて行った歴史を理解したいと考え、もう1回書くことにした。

 

昼ご飯に何を食べるか。以前樟州に行った際に食べた麺が美味しかったので、樟州麺を探して歩く。ようやく見つかった店の味も、私の意識している麺とはかなり違う。よく見ると隣のOLさんたちは土鍋麺などを食べている。今度はこちらを試してみたいと思う。まあ麺は、食べ過ぎないでちょうどよい。

 

午後は昨年一度訪ねた張乃英さんの家を再訪した。張さんも大坪の出身であり、前回は台湾木柵に鉄観音を持ち込んだ張乃妙についてヒアリングしたのだが、張彩雲についても知っているだろうと思い、聞きに行ったわけだ。やはり彼らは張家の資料を持っており、その中には彩雲の長男、樹根が周恩来と会っている写真などもあり、かなりの収穫があった。張さんも私が張彩雲の歴史を調べていることを喜んでくれているようだった。

 

更には中国茶業界の泰斗、張天福氏との交流についても訪ねたところ、現在も存命で一番親しかったのは、李さんだと言い、何といきなり電話を掛けてくれた。そして明日の朝会いに行く段取りまで付けてくれたのは、何とも有り難いことだ。実は李さんには会いたいと思っていたが、ここでご縁ができるとは。

 

乃英氏の息子も、歴史や文化に大変興味を持っており、張家一族の歴史を掘り起こしているほか、閩南語と日本語の相関性などについても、その研究成果を発表しているのには驚いた。日本語と台湾語は近い、それは台湾統治の影響もあるのか、などと近視眼的な感覚でいたが、その大きな流れの中では実に興味深い歴史が出てきそうだ。

 

6月19日(水)
96歳に会う

翌朝は早く起きて、昨日言われた場所を目指してバスに乗る。思ったよりスムーズにバスが動き、予定より早くバス停に着いた。李冬水さんは96歳だと言うが、何とバス停まで迎えに来てくれるという。それは申し訳ない、というより、96歳では歩くのも大変だろうと勝手な心配していたのだが、それは全くの杞憂に終わる。

 

私の前をスタスタと軽快に歩いていく老人がいたが、どう見ても80歳、いや70代にしか見えなかった。だがその人がバス停でキョロキョロと人を探していたので、思い切って声を掛けたところ、まさに李さんだったので、本当に驚いた。背筋は伸びており、腰も曲がっていない。

 

李さんは、やはり安渓の生まれで、家が貧しく、9歳から14歳までマレーシアのペナンに働きに行ったこともあるという。その後独学し、更に農業経済の勉強のため大学まで行った努力家だった。そして解放後の1952年、福建省農林庁に勤め始め、その時の同僚が張天福氏だったという。張氏はその後右派として迫害されるが、李さんは旧正月の初日は欠かさず張氏の家を訪ねて年賀を述べていたことから、張氏から『真の友人』として遇されていたらしい。

 

李さんの健康の秘訣はウオーキングや水泳などの運動だと言うが、体だけでなく、頭も気力もすごい。実は昨晩、彼は張天福氏に関する思い出や出来事などを、紙に纏めてくれ、私に渡してくれたのだ。こんな元気な96歳、考えられない。そして何よりその誠実さが素晴らしい。

 

李さんの中国語は非常に標準的だった。もし厦門や安渓で過ごしていたら、こうはならなかったと思う。長年福州で生活していたからこその中国語だろう。私にとっては、介添え者なしで、はっきりと理解できるのがなんとも嬉しい。そしてその話の内容は、苦労してきた人だからこそ、と思わせるものが随所にあった。

 

因みに李さんのお子さんは日本に留学し、日本企業で働いていたらしい。一緒に朝ご飯でも食べようという李さんのお誘いは嬉しかったが、中茶のお店で李さん持参のお茶を頂いただけで十分だった。漳平水仙、実は張氏も李さんもこのお茶が好きだという。理由は『昔の茶の味がするから』だそうだ。

 

またバスで30分ほど戻り、ホテルで休息した。このチェーンホテルの常連へのサービスは実によい。チェックアウトは午後4時でよい。フライトは午後5時だから、何とも有り難い。昼に鴨肉定食を食べに行き、更にフラフラしてからホテルを出て空港に向かった。今回は前回に懲りて、厦門航空にしたので、台湾から出るチケットを見せろなどとは言われず、さらっとチェックインして、さらっと搭乗、松山空港からフラッと宿泊先に戻れた。これだと厦門はやはり近いな、と感じられる。

華人と行く安渓旅2019(5)コロンス島で

6月17日(月)
厦門へ戻る

ついに今日は安渓を離れ、厦門に行くことになっていた。校長がまた車を出してわざわざ送ってくれた。陳さんは先日のホテルにチェックインして、明日帰国するというので、そのホテルまで同行して、そこで別れた。今回は本当に陳さんに世話になった。そして酒も飲めずに何らお役には立たなかった。

 

そこからタクシーでいつものホテルまで行く。5つ星ホテルよりこちらの方が私には落ち着く。しかしすぐに外出した。出来れば鼓浪嶼、コロンス島へ行っておこうと考えたのだ。もう何年も行っていない。聞けば、昔の船にはもう乗れず、船着き場も別の場所になったというのだ。バスでその船着き場にかなり迷いながら行ってみると、何と昔の金門行きフェリーが出ていた場所だった。色々と変化があるものだ。

 

 

しかも以前は空いていればすぐに乗れた船、今やチケットを購入して乗船時間が決まる。すぐ出ていく船は既に満員で、1時間は待たされる。そして何より昔は1元、その後10元だった船代が、何と50元になっている(35元の船もあるようだ)。船で10分の距離、どう考えても合理性はない。これは入場料ということか。待っている時間がとても暇に思えたが、よく見ると壁に100年ぐらい前の厦門やコロンス島の写真が沢山貼られており、結構楽しめた。

 

船は超満員で座る席さえない。まあわずか20分のことだからどうでもよいが、そう考えると船賃に納得がいかない。コロンス島には確か3つは船着き場があると思うが、そのうちの一つ、見覚えのあるところに到着。早々歩き出す。海辺は気持ちがよく、一体どこに来たのかと思うほどのリゾート気分。しかし途中から上り坂になり、結構疲れる。

 

今回態々ここまでして島に来た目的は1つ。先日紹介を受けた郭春秧の子孫が出演した番組によれば、郭はこの島に別荘を建てており、その別荘は今も残っているということだったので、是非見てみたいと思った次第だ。だがその別荘の場所までは意外と遠い。改めてこの島の広さを実感する。ようやくたどり着いたときにはヘロヘロだった。

 

今その別荘はホテルになっており、建物中に入ることはホテルゲスト以外できないと言われる。仕方なく外からその重厚な建物を眺めた。庭もそれなりにあり、お茶を飲んでいるお客もいた。ここ以外にも、春秧の茶荘の名称から取ったと思われる、錦祥路という狭い道もあるが、特にお茶に関連ありそうな風景は今や見当たらない。

 

しかしこの島、歩いている人が多い。静かで優美な、ピアノの音が聞こえてくる島、というイメージはもうない。人込みを避けて歩くと、旧日本領事館の建物に遭遇した。ここには往時各国の領事館が置かれていた、いわゆる租界地という面もあった。本来はもっとゆっくり昔の建物など眺めながら、歴史に浸りたいところだが、観光客の群れはそれを許さない。

 

仕方なく、近くにあった船着き場から厦門に帰ろうと思ったが、そこは厦門市民専用だった。観光客と島民、市民をここで区別して、観光客から高い料金を取りたてていたのだ。何だか釈然としないが、一方でこれだけの人が島に来てしまえば、島民の生活にも大きな支障が出たことだろうから、この処置はやむを得ないと理解し、歩いて10分ほどの観光客用に行って乗船した。帰りの料金は行きに含まれており、この船着き場から出る船は、すぐ対岸に着岸してくれたので、帰るのは楽だった。

 

バスで宿に帰る。腹が減ったので、近くの新疆料理屋でラグメンを注文する。夕方5時だというのに、漢族の若者が酒を飲み、大声で騒ぎ、そして料理の味付けに文句を言っている。それを黙って聞いているウイグル族の夫婦。もう慣れっこなのだろう。少なくとも同胞というイメージはない。若いウイグル女性はこの暑い中、冷房のない外で、串焼を焼いている。ウイグルの中にも格差社会はあるのだろうか。

 

夜はゆっくりと休んでいたが、なぜか眠れずに、ずっとテレビを点けていた。女子ワールドカップサッカー、中国チームはスペインの猛攻に耐え、何とか決勝トーナメントに進んだ。中国女子は90年代、日本などよりはるかに強く、世界の頂点に居たこともあるが、最近は成績が芳しくなかった。男子同様、奮起が期待されている。中国の監督が試合後涙しているのは特に印象的だった。