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タイ北部、中部を旅する2019(13)ナコン・パトムへ

7月23日(火)
ナコン・パトムへ

翌朝はどんより曇っていた。宿を出てロットゥ乗り場へ行き、またカンチャナブリへ引き返した。他に行く当て(ルート)がなかったので、3時間半かけて戻ったのだ。早々に助手席に乗り込み、特に疲れも感じずに、到着する。昼ご飯でも食べようかと思ったが、もうこの街には用事もなかったので、まずはナコン・パトム行きバスを探す。

 

ターミナルで聞くと、すぐにおばさんが出てきて、『ついてきて』と言われたので付いていく。何とターミナルを出て道路へ出るではないか。なんでなんだ?その先には大型バスが停まっていた。すぐに出発するバスがあるというので、乗り込む。あのおばさんはなんだったのだろうか。

 

バスはしばらくして出発した。それから途中で何か所も停まり、乗客の乗り降りがあって、余り長距離バスという感じはしなかった。2時間ぐらいかかって、ようやくナコン・パトム近郊までやってきた。ただスマホで確認していたが、バスはあっさり街の外側を通り過ぎてしまった。どうなっているんだ。車掌に聞くと、もうすぐ停まると言い、何とロードサイドで降ろされてしまった。

 

ここはどこなんだ。目の前にはビックCがあったので、取り敢えず中に入る。ちょうど腹も減ったので、腹ごしらえしようと思い周囲を見回すと、マクドナルドがそこにあり、マックチキンがセール中だった。だがこれを注文しようとすると、売切れだ、と言われてしまう。マックにも売り切れってあるんだ?何だかツイてない。仕方なく隣のタイスキ店MKで、ワンタンメンを食べたが、あまりおいしいとは思えない。どうも空回りだ。

 

スマホで近くのホテルを検索するも、歩いて行けるところはなく、外でバイタクを拾って向かった。そこは新しいビジネスホテルで、朝食付き900バーツ。結構リーズナブルな設定になっていた。フロントの若い女性は、大学で日本語を習ったと言い、そこそこの日本語を話したので、気に入ってここに投宿した。

 

すぐに外へ出た。スマホ地図を頼りに駅に向かって歩いた。2㎞以上あったが、何とか着いた。宿は郊外にあり、駅は旧市街地にあると言った感じだった。駅ではバンコック、ファランポーン駅行の列車の時間を確認したが、何と朝7時以外は全てトンブリ行きであり、不便なため、列車移動は早々に諦めた。トンブリに到着しても、そこからの交通手段がないので、ファランポーンへ行きたかったのだが。バスはどうなんだろうか。

 

ナコン・パトムの街の中心、それは間違いなくプラ・パトム・チェーダーという寺だ。旧市街地ならどこからでも見える。駅からも一直線で繋がっている。高さ120mの仏塔は、世界で最も高いらしい。原型は3世紀にインドのアショカ王によって建てられたというから、この街の歴史、そして重要性はよくわかる。現在の建物でも150年以上の歴史がある。入口は四方にあるが、入場料は南の正門で支払うらしく、私の入ったところには何もなかった。この辺もタイらしい。

 

中はかなり広く、仏塔を中心に、伽藍には仏像が多数あり、小さな仏塔も無数に建てられている。もう夕方で、門も閉まる時間だが、それでもたくさんの人がお祈りしていた。これだけわかりやすい街の中心があるのは、珍しいといえるだろう。この小さなナコン・パトムは意外と面白いのかもしれない。

 

一度部屋に戻り、暗くなってから夕飯を食べに行こうとしたところ、突然激しい雨に見舞われた。雨を押してまで外へ行く気にはなれず、そのまま宿の下のレストランの席に着く。ホテルのレストランと言っても、数十バーツの食べ物が並んでおり、屋台よりちょっと高いだけだ。盛り付けがきれいでよいが、ちょっと辛かった。

 

因みに向かいにはコーヒーショップもあり、庶民的で使い勝手の良い宿となっている。また道の向かいにはセブンイレブンもあり、役者は揃っている感がある。そのセブンで、最近お気に入りのオレンジジュースを買うと、何とセール中らしく(タイ語が読めないので分からないが)値段は確実に安いので、ちょっと嬉しくなる。

タイ北部、中部を旅する2019(12)国境の街 サンクラブリー

今日は昨日のカンチャナブリと違い、暑くないので有難い。やはり山沿いだからだろうか。1㎞ぐらい歩いて行くと比較的大きな川があり、そこに見事な橋が架かっていた。なんでも30年以上前に川向うに住むモン族が自力で作った橋だという。それにしては立派な木造の橋で、芸術的でもあり、一見の価値がある。

 

その橋を渡っていくといい風が吹いては来るが、下もよく見えるので、高所恐怖症には少し辛い。橋を渡りきると、そこには観光客向けの土産物屋などが並んでいる。そこを抜けてさらに2㎞以上歩いていくと、左右に寺があるらしい。まずは右に行くと、立派な建物が何棟もあった。タイ式でもあり、ビルマ式にも見える。モン族の高僧、ウッタマ師が建立したという。仏像を拝む。

 

もう一つの寺もウッタマ師の建立らしい。こちらはインド式の高い仏塔で、獅子が鎮座している。ちょうど工事中で中に入るのは躊躇われた。更にもう少し離れた寺へも行こうとしたが、道を間違え、近隣の村に紛れ込む。ここには妙に懐かしい風景がある。こちらが笑顔で少し頭を下げれば、誰も怪しまない。不思議な心地よさがあった。

 

歩いて橋まで戻ってくると、雲行きが急に怪しくなり、ぽつりぽつりと雨が降り出した。慌てて橋を渡るが、意外と長さがあり、途中でかなり濡れてしまった。橋の袂に休憩用の茶店(食堂)があり、そこで飲み物を飲みながら止むのを待つ。雨に降られる木造の橋は絵になっていた。

 

雨が止んでから、別の道を歩いて帰る。サンクラブリーは本当に小さな街だと分かる。こういう場所では夕飯を食べ損ねる恐れがあるので、まだ明るかったが、市場の横の店に入る。ここではタイ語が使われているのか、ミャンマー語なのかもわからないが、いずれにしてもできないので、身振りで豚肉野菜炒めを注文する。これが意外や美味い。

 

部屋はきれいなのだが、ミャンマー式なのか、テーブルや椅子はなく、床に座ってPCを使う羽目になる。腰が痛くならないように注意が必要だった。バストイレは広いのだが、使い勝手は良くない。それでも熱いお湯が出るので良しとしよう。夜は本当に静かな街なので、ぐっすりと眠れてうれしい。

 

7月22日(月)
国境へ

今日は朝からミャンマー国境へ行くことにしていた。タクシーなどを使うとかなりの費用が掛かるらしく、宿の横のターミナルから出るソンテウで向かうことにした。これなら僅か30バーツで済む。ソンテウは40分に一本ぐらい出ているというから、それなりに往来はある。

 

乗客は見る感じ、ミャンマー人だな。満員のソンテウはすぐに出発し、20㎞ほどきれいな道を走っていく。特に山越えもなく、30分程度で終点まで来た。運転手は私の方を見て、スリーパゴダパスはあっちだ、と指さした。だが私以外の乗客で国境方面に向かう人はいなかった。皆この辺で働いているのだろう。

 

スリーパゴダパスとは、小さなパゴダが3つ並んでいる場所であり、そこが国境のイミグレになっていた。タイ側のイミグレで聞いてみたが『第3国人は通行できない』とあっさりと言われてしまう。以前はパスポートを預けて日帰りでミャンマーへ渡れたようだが、何か事件でもあっただろうか。周辺には国境を往来する人を当て込んだ、服や雑貨を売る店、そして食堂などがあったが、お客は全くいなかった。

 

帰りのソンテウまで時間を持て余していた。道路沿いを歩いていると屋台が見えた。麺を食べている人がいる。よく見るとそれはミャンマーの朝ごはん、モヒンガーだった。味もまあまあで懐かしい。1杯20バーツ。それを食べ終わると、先ほど乗客たちが歩いて行った方に行ってみる。そこは完全にミャンマーの街であり、懐かしい路地の風景だった。縫製工場などがあり、ミャンマー人が働いている。

 

女性がその先の小川をひょいと渡ったので私も後をついて行ったら、子供が何か言っていたが言葉が分からない。周囲の大人は特に何も言わず、制止もしなかったが、ただ何となく、『ここはミャンマーだよ』と言われているような気になり、引き返した。確かにそこにあった看板にはミャンマービールと書かれていた。この付近の人々は正式な国境を通過することなどなく、路地の道を渡っていることがよく分かった。陸路の国境とはそのようなものだろう。

 

帰りのソンテウは、乗客も少なく、あっという間に街に戻ってきた。疲れたので、部屋で休み、昼にはまた昨日の店で麺を食べて過ごした。既にこの街にいる理由は無くなっていたが、何となく涼しいし、人も少ないので気に入ってはいた。街から一歩出ると、そこにも寺があり、大きな涅槃像などが安置されている。それを眺めているとまた雨になり、部屋で休む。夕飯もまた同じところで食べて、すぐに寝入る。

タイ北部、中部を旅する2019(11)泰緬鉄道に乗る

列車が発車するとすぐに昨日の橋が見え、そこを渡った。車掌がやって来てチケットを確認すると、冷たいコーラと水、それにお菓子を置いて行った。後ろの車両を見るとそれなりに人が乗っているので、なぜここだけ人がいないのか不思議だった。また車掌がやって来て、乗車記念証を渡される。こういうのが欲しい人もいるのだろうか。

 

列車の窓に吹き込む風は気持ちがよい。だがなんといっても退屈ではある。2015年にSさんとNさんと行ったカンチャナブリを思い出していた。あの時はトンブリから出たが、工事中でカンチャナブリより前の駅で降ろされ、振替輸送されてしまったのだ。ただその駅に『泰緬鉄道の起点』という石碑があったことはよく覚えている。あの時から、いつかはここを訪れ、泰緬鉄道に乗ろうとは思っていた。例え既にミャンマーまで繋がっていなくても、また往時の線路がなかったとしても。

 

そんなことを考えていると、景色が時々変わっており、途中いくつかの撮影スポットはあった。それでも基本的にずっと田舎の田園風景が続いて行くだけだ。多くの乗客はトレッキングや宿泊の目的で乗っており、途中で降りていく者もいて、私のようなものは少ない。結局2時間ぐらい乗って終点に着いた。

 

だが特にやることもなく、次の列車までは3時間ぐらい間があったので、今来た列車に飛び乗って折り返し戻ることにした。急いでチケット売り場に並び、今度は100バーツを払った。特に席は変わらず、乗っている人も多くはないので、特別列車に乗る意味は全くなかったことになってしまった。そして何事もなかったように2時間かけて同じコースもただただ戻った。

 

 

カンチャナブリ駅に着くと、まずは腹が減ったので、その辺で炒飯を食べた。それからさっきの博物館へ行き、展示の続きを見た。そして無料のコーヒーを飲んで休む。窓から見ると共同墓地の横には中国人墓地もみえた。そこへ行ってみるとこちらは戦後に亡くなった人の墓が中心だった。それからまた歩き出す。

 

立派なお寺があったので入ろうとしたが、犬に吠えられてやめにした。タイの寺は犬が鬼門だ。本気で噛まれたら面倒だ。更に進んでいくと、古い町並みが出てきた。ここはなかなか風情があり、一部には表示もされていて、100年以上前のお金持ちの立派な家が並び、栄えた歴史などが垣間見えた。相当古い建物が残っており、華人が活躍した雰囲気もあった。その端にはお城のようなところが見える。

 

その先に、戦争博物館があった。日本人が資金を出して作ったという。川沿いに建てられていたが、見学している人はいなかった。恐らく戦争にかかわった人がある思いで作ったのだろうが、日本人は戦争の歴史を見ようとしない人が多いので、風化してしまうのではないかと危惧される。これはアジア各地で見られる光景だ。

 

相当消耗してしまったが、宿に戻る交通手段を見つけられなかった。夕方夜市の準備をしているところなどもあるが、まだ始まってもいない。何とか昨日到着したバスターミナルまで行き、またバイタクのお世話になって宿へ戻った。疲れ果ててしまい、何をする気力も起こらなかった。夜遅く、またあのレストランへ行き、今度はパスタを食べたが、味はイマイチだった。

 

7月21日(日)
サンクラブリーへ

ゆっくり起きて朝食を食べると、宿をチェックアウトした。結局眺めの良いプールに入ることもなかった。フロントでトゥクトゥクを呼んでもらい、またバスターミナルへ向かう。ロットゥに席があり、国境の街サンクラブリー行きに何とか乗れた。9時半に出て、比較的平坦な道を走る。

 

2時間ぐらい行ったところで、休憩が入る。ここで多くの人が降りていく。近くに宿泊施設でもあるのだろうか。ソンテウが迎えに来ている。我々はそこから山道を1時間ほど進んだ。そしてついにサンクラブリーに着いた。まずは腹ごしらえとばかりに、麺を食べたがうまかった。しかもそこの女性が流ちょうな英語を話したので驚いた。タイ人は基本的に英語を話さないが、やはりここは国境だからだろうか。

 

宿を決めるにあたり、ここでGoogle Mapを使ってみた。Agodaなどはここから1㎞以上離れた宿をいくつか紹介しているが、私はこの付近に泊まりたかった。ちょうどよい宿はないか。Googleで引っかかったその宿は300mほど歩いたバスターミナルの横にあった。とてもきれいで、1階がカフェで、2階の数部屋を貸していた。民宿というのだろうか。経営者の女性は英語を話したのでここに決めた。ただ部屋の掃除が終わっていなかったので、着替えだけをして、早々に外へ出た。

タイ北部、中部を旅する2019(10)戦場にかける橋

取り敢えずカンチャナブリと言えば『戦場にかける橋』だから、そちらの方へ歩いてみる。1㎞程度で橋の近くまでやってくる。そこには慰霊の碑が建っていた。昭和19年に日本軍鉄道隊が、泰緬鉄道建設で亡くなった人々を弔うために建てたと書かれている。毎年3月、ここで在タイ日本人有志が慰霊祭を行っているともある。

 

その横には博物館があったので、まずはそこでお勉強、と思ったが、展示物は多いが核心は突いていないように思えた。諦めて出てくると、ドリンクを売るおじさんが『下も見に行け』という。横に川が見えた。慰霊の塔も建っている。日差しがかなり強い。

 

階段を下りてみると、そこには古い木造の橋の一部が残されていた。これが1942年頃に作られた最初の橋らしい。ここから現在の鉄橋もよく見え、ちょうど列車が通過している。博物館の下に本当の歴史があるように思われた。歴史というのはどのように見るのが良いのだろうか、と考えてしまう。

 

博物館を出て、実際の橋に行ってみた。川の袂に駅があり、ちょうど列車が入ってきたところで、列車を降りる人、写真を撮る人、などでごったがいしていた。多くが橋を渡り始める。私も橋を渡り、その景色を眺めた。橋はとても頑強に見え、景色も良いのだが、この橋が作られた際の過酷な労働、そしてそれを日本軍が強いた、という歴史を考えると楽しめるものではなかった。僅かに来ていた日本人の若い女性たちが、橋でポーズを取り、僧侶をバックに写真を撮ろうとしている姿には、思わず嫌悪感が出てしまった。

 

橋を渡りきると寺が見えたので、そちらへ降りていく。寺の裏側には、中国からやってきた遠征軍を慰霊する場所があった。戦場にかける橋では、欧米人捕虜の悲劇だけがクローズアップされているが、中国人や東南アジア人も沢山犠牲になっていることを伝えていた。こういう歴史は誰かが維持し、語り継いでいかないと、どんどん埋もれていってしまう。

 

寺の方は最近できたものらしく、規模が大きくきれいだったが、特にみるべきものはなかった。川沿いにはレストランなどもあったが、今は誰もいない。お茶を飲むこともできない。暑かったので、また橋を渡り、トボトボと宿へ帰った。ただ明日は電車に乗ってみようと思うようになった。

 

思ったよりずっと暑くて消耗した。部屋でゆっくりと休み、夕方夕飯を探しに出た。すぐ近くにレストランがあった。まだ客はなく、子供がテーブルで学校の宿題をしていた。何となく洋食の気分だったので、簡単なステーキを食べた。そこの料金は本当に良心的で、コーラも20バーツしか取らない。我が宿もそうだが欧米人が多く来るところなので、英語も通じる、こういう店ができるのだろう。

 

7月20日(土)
泰緬鉄道で

フロントの愛想はとても良かった。実はこの宿には日本人の長期滞在者が一人いるというのだが、今はちょうど日本に帰っており、明日帰ってくるらしい。仕事での駐在のようだが、観光客と違い、常駐するとなるとやはり大変だ。朝食は宿に付いており、簡単に食べた。既に多くの宿泊者はツアーなどに出かけたのだろうか、食堂は閑散としていた。

 

取り敢えずカンチャナブリ駅まで歩いてみることにした。2㎞以上あり、ちょっと辛かった。列車の出発は10時半だと確認して、まだ時間があるので付近を散策した。すぐ近くに連合軍の共同墓地があった。イギリス、オランダ、オーストラリアなどの捕虜がここで労働して、命を落とした。一人ずつの墓石があり、名前や年齢がしっかりと刻まれていた。悲しいくらいに日差しが強かった。

 

その横には泰緬鉄道博物館があったので、入ってみた。ここにはその関連の展示がかなり多くあった。一番驚いたのは、この鉄道敷設で最も多く亡くなったのは、マレーシアやビルマから徴用された労働者で、欧米人の何十倍もいたことだった。こういう歴史はやはり語られないのだろうか。時間が来たので、駅へ戻る。

 

駅ではチケットの販売は始まっていなかった。その横にデスクがあるので覗くと、『特別チケットを買わないか』と誘われた。特別車両で、座席指定、ドリンクなども出るのだという。この鉄道の料金は、観光用ということか、外国人はなぜか一律100バーツなのだが、特別チケットは300バーツもする。でもどんなものか知りたくてつい買ってしまった。

 

バンコックのトンブリから来るはずの列車はなかなか来なかった。さすがにタイの鉄道らしい。でもなぜか一部車両は既に停まっている。遅れて来た列車とその車両は何とここで連結された。その作業を見ていると、手でワイヤーを繋いでいたので驚いた。私は特別車両に乗り込んだが、私以外に乗ってくる人はおらず、何と一両貸し切りとなった。こんなことは生まれて初めてだろう。

 

タイ北部、中部を旅する2019(9)カンチャナブリへ

その後、シーナカリーン大学のキャンパスへ向かう。今日は同窓のAさんと会う約束があった。先日Aさんの仲間のタイ人から『仏教と茶』というテーマで話しを聞いたので、近況報告と共にその報告を兼ねていた。もう一人以前会ったMさんも同席して、スタバで談笑した。話はやはりどんどんインドの方へ飛んでいく。

 

それからAさん主催のヨーガ教室へ向かった。そこは閑静な場所に立つ立派な建物だった。某財団が所有する施設の2階が広いスペースになっており、そこを借りてヨーガが行われる。ヨーガというのは、やはり街のスタジオでするものではない、と思ってしまう瞬間だ。以前は大学のプログラムだったが、その時から参加しているタイ人メンバーが中心に集まっていた。その中には先日話しを聞いたカビーさんも主催者の一人として手伝っていた。私は少し話をして、ヨーガが始まる前に失礼した。ヨーガは時々やるようにはなってはいたが、まだまだ修行が足りない。

 

地下鉄が混む前に宿に戻った。ラッシュ時の地下鉄は、乗車することすらできない。駅によっては、ホームにすら立てない感じなので、早めに避難する。そのあと、だらだらとお休みモードに入っていた。夜もSさんが戻ってきたら夕飯でも、と言っていたのだが、よく考えてみたら通信手段がなかった。

 

8時も過ぎていたので、取り敢えず外へ出ると偶然にもSさんが近所で一軒だけ開いている店に入っていったので、私もそこへ行き、一緒に食べた。私はこの店には基本的に入らない。それはメニューがなく、タイ語で注文しなければならないからだ。今回はSさんに注文してもらい、鶏肉ご飯を食べた。明日カンチャナブリへ行くにはどうしたものか、とSさんに相談する。

 

7月19日(金)
カンチャナブリへ

Sさんの意見でもカンチャナブリへ行くのには、『南バスターミナルではなく、北を使う』であった。南は行くのにあまりにも不便だからだ。今回は路線バスではなく、タクシーで北ターミナルへ行ってみる。ただタクシーは渋滞を避けて、大いに迂回し、ファランポーン駅の手前から高速道路に乗った。一瞬どこへ行くのだろうかと、ちょっとスリリングで面白い。

 

30分ぐらいで北ターミナルに着いた。料金は200バーツ。バスの8バーツの実に25倍だ。だがもしバスに乗っていれば3時間コースだろう。時間と疲労をお金で買う。200バーツと言っても東京のタクシーの初乗り運賃にも満たない。この辺で金銭感覚は麻痺してきてしまうのだ。

 

ターミナルに着いて、カンチャナブリと行ってみると、何と皆が道の反対側を指す。どうなっているのか?英語のできるスタッフが『カンチャナブリ行きロットゥは専用ターミナルが別にあるのさ』と教えてくれた。何と歩道橋を重い荷物を持ち上げて渡る。何のためにタクシーに乗ってきたんだ、とため息が出る。

 

すぐにチケットを買うことが出来て、ミニバスに案内された。『お前は外国人だから一番前な』と助手席に座ったが、何となく狭い。そしていつ出発するのかも全然分からない。客はそれほど乗っていない。まさか客が集まるまでは、などと思っていると運転手が乗って来て動き出す。これで採算合うのかな、などと考えていると、20分ぐらいで見慣れた場所に来た。

 

何と南ターミナルに寄っているのだ。そこでも何人か客を拾い、ようやく全速力で動き出す。これならタクシーで南ターミナルに来るのもありなのだろうか。ミニバスは快調に飛ばしていく。ほぼ平坦なアジアンハイウエー123号線を走っているらしい。南ターミナルから約2時間半で、カンチャナブリのターミナルに入った。

 

まずは腹が減ったので、ご飯を探す。この付近にはいくつか食堂があり、その一つに入る。ブラウンソースの麺を食べるが、店員の愛想がよくて好感が持てる。今日の宿をどうするかとネット検索していると、日本人に評判の良い宿があったので、バイタクに乗り、そこまで運んでもらった。いつも思うのだが、バイタクは安くて有り難い。トゥクトゥクの運転手は最低100バーツからしか交渉に乗ってこない。これならバンコックからここまでのミニバス料金とそんなに変わらないだろう。

 

そのホテルは清潔でよさそうだったが、1泊1400バーツと少しお高め。ただもう一部屋しか空いていないとの押しに負け、その部屋に入ってしまう。そこは大きな窓で内庭とプールが見え、とても気持ち良いスペースだったので、気に入った。既に夏休みシーズンに入っているとかで、欧米人のファミリーがプールで遊んでいる。金曜日から週末は満員なのだ。

タイ北部、中部を旅する2019(8)バンコックでは和食を

7月17日(水)
バンコックで

朝6時に北バスターミナルに着いてしまったが、宿へ向かうには早過ぎる。街もようやく動き始めたばかりだ。天気は悪くない。取り敢えずバスに乗ろうと思った。私がこれまで一番多く利用したバスはこの136番に違いない。このバスは北バスターミナルから定宿の横まで走っているのだが、これまで一度も全線乗ったことはなかった。時間がたっぷりあるこの機会に乗ってみることにする。

 

まず料金は昔の6.5バーツから8バーツになっていた。バスはボロボロとでエアコンはない。だがこれだけの走行距離を僅か日本円25円程度で乗れるというのはすごい。そしていつの間にか車内に掲示ボードが設置され、次の停留所が表示されているではないか。英語表記も出てきたのでビックリ。これが正確に機能してくれれば、言葉が出来なくても、何とかバスを乗りこなすことができる。

 

問題は渋滞だった。ただでさえバスは遅いのだが、ルート上、スクンビット通りをアソークで横切るのはある意味で最悪の混み具合を想定する必要があった。だがこれも杞憂に終わる。さすがに午前7時過ぎではまだピークではなかったらしく、多少の車が多いという程度で済んでしまった。それでも全行程約1時間半、8時前に定宿に着いた。

 

ちょうどYさんも出勤してきたので、コーヒーを飲み、時間を潰した。10時前には部屋にも入れてもらえたので、早々に洗濯物を出すなど、諸作業に追われる。そしてすぐに昼がやって来て、Yさんと合流した。いつも一緒に食べるスタッフと3人でなぜかタクシーに乗る。近くの日本町まで行くのにタクシーとは、と思うが、200m以上は歩かないともいわれるタイ人的には歩きの選択肢はない。

 

どうしてかここで昼から焼肉屋に入る。Yさんはいつも何も説明してはくれないのだが、何らかの理由で彼がスタッフにご馳走する日に、私が帰ってきてしまったので、このような状況になったらしい。日本町は日本関連の飲食店がずらりと並んでいる。ずっと続いているから、それなりにお客は来るのだろうが、店の入れ替えも常にある。バンコックの日本食は競争が激しい。だから焼肉セットも安い値段で食べることができた。それでも私にとっては贅沢なランチだったが。

 

午後は完全にお休みモード。1週間のタイ北部旅行の疲れをとる。定宿はまるで家に帰ったように寛げるから、不思議だ。ここで充電して、また次の旅に出る。これからはそんな方向性もありだな、とこの時確信した。旅ばかりを続けずに、1週間程度で得た情報を分析したり、調べたりする時間が必要なのだ。これは贅沢な悩みというべきだろうか。

 

さっき昼に焼肉を食べたばかりだった。だが連鎖反応というのはあるのだろうか。またどうしてもとんかつが食べたくなる。一週間前に食べた物が美味しくなかったのでリベンジしたい気持ちが芽生えている。やめろ、という心の声が聞こえる中、やはり外へ出ていき、初めての店に入ってしまった。

 

前から気になっていた近くの店。ゆったりしたカウンターがあり、ゆっくりとご飯が食べられた。結構タイ人のお客が多い。かつもまあまあで、満足した。それにしても、無ければ食べたいなどとは思わない和食だが、バンコックのような街に来ると、このような行動に出てしまうのは、老化のせいだろうか。いや、老化では焼肉ととんかつは続けて食べないか。

 

7月18日(木)
再会

朝いつものようにコーヒーを飲みに行くと、旧知のSさんが到着しており、久しぶりに話した。これから行く、マレーシア、シンガポールなどに関する最新情報を手に入れることが出来て有難い。結局旅を続ける上では、生の情報が役に立つ。ガイドブックは参考程度であり、その雰囲気をつかむことは難しい。ネットが発達した今、ガイドブックの必要性は問われているだろう。

 

午前中は気になっていたことを調べていた。一旦スイッチが入るとすごく集中してしまい、あっという間に昼を迎える。Yさんから連絡が入り、ようやく気が付く。この集中する時間はとても心地よいが、最近は長く続かないことが多くて困っている。気が散らない環境が求められているのだろうか。昼ご飯もSさん、Yさんと、いつもの食堂で食べる。ヤママーマーが実にうまい。

 

午後はバイタクでエンポリに行き、ユニクロを探して(向かい側の新しいビル)、そこでTシャツを買う。わざわざバンコックまで来てユニクロに行かなくても、という声が聞こえるが、先日東京のユニクロで買ってもらったTシャツがとても高かった。バンコックのセール品ならそこまで高くないだろうと思い出掛けると、案の定、1枚200バーツ程度で買えるので、こちらが正解か。

 

モールでの出入り口では、何やらイベントをやっていた。ロボットエキジビション、ガンダム系の展示が多くあり、その奥で販売もしていた。熱心に写真を撮るタイの若者がいる。いわゆるオタクと呼ばれる人々はどこにでもいるものだ。外の招き猫も色が変わっていた??

タイ北部、中部を旅する2019(7)チェンマイ散策

7月15日(月)
チェンマイ散策

ホテルの朝食には少し期待していたが、残念ながら少なくとも5つ星のビュッフェではなかった。従業員のサービスは悪くないが、パンにしてもフルーツにしても、何しろ食べ物が質量ともに絶対的に足りない。食べたいと思うものがない。いつものタイのビジネスホテルとそれほど変わらない。つまらない、としか思えない。コスパがよいとは言えないホテルだった。

 

実はこの宿に泊まった唯一の目的は、『チェンマイ博物館』だった。歩いて行ける範囲だと思ったので、ゆっくり見学しようという算段だったのだ。ところが、何と月曜日は定期休館日だった。しかも明日は祝日で、これまた休館。結局博物館に行くことは出来ずに、私の予定は一挙に崩壊した。

 

仕方なく、街の中心部に向かって歩いてみる。Googleだと1㎞ちょっとで城壁まで辿り着くようだが、何しろ暑いので、なかなか着かない。その城壁、そしてお堀を乗り越えて、城内に入ってみた。博物館があるというので訪ねてみると、何だか現代アートだったりする。市の博物館もやはり休館だった。

 

取り敢えず、城内には沢山のお寺が並んでいるので、端から順に入っていく。人気のない寺、お坊さんが道路まで出て、信者の相談に乗っている寺、規模が大きく観光客が沢山来る寺など、実に様々な寺が存在している。私は汗をかきながらも、5つほどの寺を回って、参拝した。

 

あまりに暑くなったので、引き上げることにしたが、また歩いて帰るのはさすがにしんどい。そこへバスが見えた。最近チェンマイ市内に我々でも利用できそうな路線バスがいくつか走っている。是非乗ってみたいと思い、バス停で待ってみたが、何と通り過ぎてしまった。乗る場所が違っていたらしい。ようやく乗り込むと20バーツ払う。乗ったバスは宿の近くのショッピングモールまでは行くので、有り難い。しかもバンコックのBTSで使っている、ラビットカードで乗れるので現金もいらない。

 

午後は休息に当てた。何故だか疲れてしまったのだ。しかも行くべきところもない。夕方気を取り直してチェンマイ大学へ行ってみた。昔も一度行ったが、その時は中国人観光客が押し寄せていると言われた頃。今回はどうだろうか。宿から城壁と反対方向におよそ1㎞歩く。最初は近道しようとしたが、門が閉まっており、入れなかったので、時間がかかった。

 

大学構内は既に授業もなく、閑散としていた。敷地は広いので一部だけ歩いて、また門から出てきた。観光客はいない。門の外に市場があったのでそこに寄り、夕飯を食べる。スペアリブのスープを頼むと、相当ごっつい排骨が入った椀が出てきた。それにご飯となぜか茶碗蒸しのような食べ物。これらは意外とイケており、胃袋はかなり満足していた。

 

7月16日(火)
バンコックへ

今日は夜行バスでバンコックへ行くので、時間はたっぷりあったが、何かをしようという気力が起きない。のそのそと起きだして、遅い朝ご飯を食べて、レイトチェックアウトで2時まではホテルにいた。それから荷物を預けて、市内へ出ていく。バスの乗り方も分かって来たので、マーケットまで行ってみた。

 

マーケットをちょっと見て、ターペー門の方へ歩いていく。途中で疲れたのでマッサージを1時間受ける。それからまたバスに乗り、一旦宿の方へ戻ろうとしたが、路線を間違えて、そのまま空港まで運ばれてしまった。空港には用がないので、また別のバスに乗り換え、宿の方へ行くと渋滞にはまってしまった。

 

何とかショッピングモールまで来てバスを降りる。そこにも屋台街が出ていたので、焼きそばを食べる。これが意外とうまい。料金も40バーツだけだ。ちょっと早いが宿から荷物を取り出し、バスターミナル行のバスに乗るつもりで、バス停で待っていたが、時刻表通りには来なくて焦った。何と30分も過ぎてから来るのだから、やはり当てにはできない。早めに出てきて正解だった。

 

それでもターミナルには早く着いている。予想外に道が混んでいなかったのだ。午後9時まで何もせずにボーっと過ごす。バスが入線して乗り込む。私の席は一人用の一番後ろだ。座席はほぼ埋まっていた。時間通りに出発すると、車掌がすぐにカレーとごはん、お菓子と水を持ってくる。食べるつもりはなかったが、カレーが美味しそうだったので食べてしまった。

 

その後はウトウトしながら過ごす。トイレの近くなので時折人の出入りがあり熟睡は難しい。更に車掌は私の横の僅かな隙間に布団を敷いて、寝る体制をとった。このバスは途中で休憩所に寄ったりはしなかった。朝5時になると車掌がコーヒーを淹れて持ってくる。定刻通り6時にはバンコック北バスターミナルに到着した。およそ9時間の旅は終わった。

 

タイ北部、中部を旅する2019(6)おしゃれなチェンマイ

7月14日(日)
チェンマイへ

昨夜はバカ騒ぎもなく、平穏な夜だったので、比較的よく眠れた。ただ夜半に雨の音が聞こえ、それが私不安にはさせた。やはり出発の時に雨が降るのは厄介なのだ。だが幸い朝、雨は降っておらず、チェンマイへのミニバスの出発は12時を予約していたので、腹ごしらえにブランチを食べに外へ出た。

 

パーイにはいかにもブレックファースト、と言った感じの朝食を出す店は沢山あると思っていたが、日曜日のせいなのか休みのところも多く、またベジタリアン、ビーガン用など特殊なところもあり、手頃なところはなかなか見つからなかった。ちょっとしたカフェを何とか見つけて、アメリカンブレックファーストを食し、心が落ち着いた。さて、いよいよチェックアウトして、出発だ。

 

ミニバスは事前に座席予約もできるようになっており、2日前の夜に既にチケットを買った私は、見事助手席をゲットしていた。ミニバスは安くてよいのだが、何しろ狭苦しいのが玉に瑕。だが、助手席だけは、かなりのゆとりがあり、足も伸ばせて楽だ。たまに席が足りずに助手席にもう一人乗り込んでくると、かなりきついが、今回はそれもなかった。

 

 

途中で一度トイレ休憩があっただけで、バスは順調に山道を降り、ほぼ3時間でチェンマイ郊外のアーケードバスターミナルに到着した。昨晩私はチェンマイに何日滞在するかを決めるために、バンコック行の列車を事前にネットで見ていたのだが、2日後は完全に満席だった。飛行機もなぜか通常よりかなり割高だった。

 

後で確認すると、2日後はカオパンサー(雨安居入り)で休日となっており、人の移動が多いことが分かった。仕方なく、夜行バスのチケットを買うことにして、ターミナル内で探した。だがこちらも結構チケットがタイトで、夜9時発の便の残り一席を何とか確保した。もう夜行バスの旅は止めようと思いながらも、背に腹は代えられない。

 

今日はちょっと珍しい場所に宿を取ってみた。私としては、極稀に気まぐれで行う、ちょっと良い宿に泊まる、だった。だがそんなに高い代金は払えないとなると、場所が不便であったり、とても古かったりといわく付きにはなる。今回はどうだろうか。まずはそこまでどうやって行くのだろうか。このバスターミナルは意外と面倒で、以前はバスなどの公共交通機関もなかった。

 

仕方なく、近くに停まっていたソンテウに聞いてみると、120バーツで行くというので、乗ってしまった。車は市内に入らず、周回道路を走ったので、思ったより早く着いてしまったが、それでもかなりの距離はあった。しかも大きな道路から中に入っているので、一人で来れば、探すのはかなり手間取ったかもしれない。西側のホテルに泊まるのは初めてだった。

 

宿の付近に何があるのかも分からないので、すぐに偵察に出た。5分ぐらい歩くと、かなり大きなショッピングモールがあり、食べ物も飲み物もそこで買えてしまった。しかもかなりおしゃれで、予想外。チェンマイにもこんなエリアが出来ていたとは。やはり偶には冒険しないと分からないことだ。

 

一旦買った物を持ち帰り、暗くなった頃に夕飯に出た。この付近、ホテルも多く、観光客、中国人や韓国人も沢山歩いていて、かなり賑やかだ。夜市もあり、そこでパッタイを食べたが、何だか物足りずに、屋台の餃子も食べてしまった。タイでは焼き餃子のことを『ギョーザ』と発音する。焼き餃子は日本からの渡来品であり、外来語だ。

 

今回泊まったホテルはフランス系大手ホテルチェーンの一つだが、その中ではビジネスホテル的な位置づけだろうか。部屋のデザインなどはちょっと凝っていて良いと思うのだが、さほどの高級感はない。周囲の環境もよいとは言えず、庭があるわけでもないので、窓からの眺めも今一つ。

 

ただ、バスタオルなどのふんわりした雰囲気が嫌いではない。またフロントの愛想はまあまあかな。昨年開業したばかりだと言うが、古いホテルを買い取って改装したのだろう。屋上には狭いプールがあったが、夕日が眩しくて、誰も入ってはいなかった。部屋にもバスタブがあるわけでもなく、日本人が態々泊まりたくなるホテルではなさそうだ。

タイ北部、中部を旅する2019(5)パーイの中国人村

7月13日(土)
中国人村へ

翌朝はゆっくりと起き上る。昨晩のバカ騒ぎで皆まだ寝静まっているようだった。あるいは早朝からトレッキングにでも出掛けただろうか。私はパーイでゆっくりするつもりだったが、予想外の展開に少し慌てた。そしてどこかへ出掛けようと考え、その行き先を探した。

 

郊外にいくつも観光地があるようだったが、ツアーに乗るか、レンタルバイクで行くような距離の物ばかりだった。その中で比較的近くに『中国人村』なるものがあることが分かった。恐らくはここも国民党残党の村だろう。レンタサイクルを探したがここにはないと言われてしまったので取り敢えず歩いて行って見ることにした。

 

Googleを使えば簡単に行けるはずなのだが、最近の方向音痴は凄まじい。簡単な道で違う方に歩いて行ってしまう。どう考えてもおかしいと気が付いて初めて地図を見返すと違っているのだ。約5㎞の道のりを1時間かけてゆっくり進んだ。途中は山間部ながら道が平坦で助かる。田舎の畑道、何とも懐かしい雰囲気が漂う。大きなお寺を通り過ぎると、何とか村にたどり着いた。

 

山地村、と書かれた門を潜る。急に漢字の看板が増える。その先には、まるで遺跡のような広い敷地に、テーマパークのような村が存在していた。なんだここは、という意外感。覗いてみると、一軒のお茶屋が目に入る。中から『お茶飲んでいってよ』と華語で声が掛かったので、これ幸いと入っていく。

 

ここはやはり国民党残党の村だったが、店主は国民党ではないという。『爺さんが雲南から移住してきたんだ。メーサローンの山向こうさ。あちこち歩き回る商人だったんだ。親父もその商売を継いだ』という。奥さんはここの村の出であるらしい。これは元々もお茶の商売ではないな、と感じる。ここで売っている茶はメイオ村とメーサローン近くから持ってきた茶だった。

 

それからこのテーマパークを歩いてみる。土曜日ということで、タイ人の家族連れなどが遊びに来て、写真などを撮っている。それにしても、中国人村か。中国風の大きな建物や門があるかと思えば、ちょっと古代の雰囲気を持つ池などが配されている。国民党残党とはかけ離れた世界がここでは展開されている。タイ人の中国に対するイメージって、こんな感じなのだろうか。

 

何となく腹が減ったが、どこでご飯を食べられるのだろうか。観光客目当ての食堂は避けた。少し離れた所に、村の食堂、といった雰囲気の店があったので、そこへ入る。メニューが漢字で壁に貼ってある。雲南米線と書かれていたので、迷わず注文すると、大きな鶏肉が骨付きでドーンと入っており、味も悪くなく、コスパは抜群だった。

 

先ほどの茶荘に戻ると、オーナーに『パーイの街に戻るバスはないか』と尋ねた。さすがに疲れたので、聞いたのだが、『定期バスはないが、ちょうどこれから配達があるから、乗せて行ってあげるよ』というではないか。しかも、『せっかくここまで来たのだから、雲来の景色も見て行きなよ』といい、まずはバイクで頂上まで連れて行ってくれた。入場料20バーツ、ここからは周囲が一望でき、いい眺めだった。観光バスがやってくる。歩いてはとても来られない道なので、ラッキーだった。

 

更に店に戻り、今度は車に乗せてもらい、近所にある彼の家に行った。立派な家だった。配達荷物を載せると、ついでに息子も乗せていく。街でアイスが買いたいらしい。有り難いことに5㎞の道を歩いて帰らなくて済んでしまった。これも一つのお茶のご縁、と言ってよいのだろうか。彼にはもっと話を聞くべきだったと後悔する。

 

午後は昨晩の睡眠不足と午前の歩き疲れのため、しっかりお休みして、また夕方から散歩に出た。小さなパーイの街を歩いてみると、川沿いにリゾートホテルがあったり、洒落たバーがあったりと、やはりただの田舎町ではなくなっており、白人が好きそうなアイテムを作って、タイ人も観光地として楽しめるように、店が広がっていることが分かる。

 

夕飯はどうしようかと迷っていたが、折角なのでパーイらしいものを食べようと思い、ハンバーガーを出す店に入る。そこのメニューには何と『鰐肉』があったので、それをチョイスした。一体どんな味だろうか興味津々だったが、ハンバーグになってしまえば、特に普通の肉と変わりはない。そういえば昔、中国深圳で、『タイ産ワニ』が売られているのを見たことを思い出した。

タイ北部、中部を旅する2019(4)喧噪のパーイへ

7月12日(金)
パーイへ

夜中にまたかなりの雨が降っていた。旅の途中で雨が降るのは何とも憂鬱なことだ。特に移動の際、車を持たない私は、常にそのリスクにさらされる。朝起きがあると雨が止んでいる。それだけでもう心が晴れる。朝食を食べたら、取り敢えず散歩に出ようという気になる。宿の朝食、昨日はビュッフェスタイルだったが、今日はメニューから選ぶ方式に変っている。お客が少ないとこうなるのだろうか。

 

この街は小さいので特に行くべきところはない。街の脇に標高400m程度のコーン・ムー山があるので、そこにでも登ってみようか。山に登る入り口にはお寺があり、若い坊さんたちが何やら集まっていた。そのわきの階段をひたすら上って行く。思ったよりずっと大変な行程だと気が付いたときはもう中腹まで来ており引き返せない。息がかなり上がった状態で山頂に着く。上からの眺めは、街の全景が見られなかなかよい。

 

山頂にはワット・プラ・タート・ドーイ・コーンムーという長い名前のお寺があった。メーホーンソン王国の最初の王によって19世紀後半建てられたという。雰囲気はビルマ様式だ。パゴダには曜日ごとの仏が収められており、生まれた曜日にお参りするのは、ミャンマーと同じだ。今日は何か行事でもあるのか、多くの信者が車で上がってきていた。しばらく休憩したのち、また階段をとことこと降りていく。

 

街を歩くといくつもの寺に出会う。この辺もタイというかミャンマーというか。メーホーンソンの父と書かれた、王国初代の像もあった。一旦宿に戻り、荷物を整えて、昼にチェックアウトした。荷物を預けて昼ご飯はチキンライスを食べた。あまり暑くはないので、街をふらふらしたがもう行くところもないので、足マッサージをして時間を潰した。片言の英語を話す女性は田舎から出稼ぎに来たらしい。

 

午後4時前に指定された郵便局脇でパーイ行バスを待つ。何の表示もないので、本当にここでよいのか心配になるが、通りかかったおじさんが、『パーイへ行くのか』と聞いてくれたので、安心する。それでも4時になってもバスは来ない。バスターミナルを出るのが遅れたか。10分ほど過ぎてからようやくロットゥが見えた。このバスも満員だったが、私の席はちゃんと空いていた。

 

山道を1時間ぐらい走っていくと一人が降りた。こんなところで、と思ってみると、何と瞑想センターがあるらしい。隣の隣に座っているおばさんが、何やら奇声を発したり、くしゃみを繰り返したりと忙しない。窓は開けないルールらしいが、それを破ったため、運転手が激怒する。それでもこの女性、自分勝手な行為をやめようとしない。

 

合計2時間半ほどで、パーイの街に着いた。ロットゥはターミナルに行くと思ったのだが、路上で我々全員を下ろした。宿は予約してあったので、後はGoogleを頼りに歩き出す。辿りつたい所は、ホテルとゲストハウスの中間と言った感じだが、プールもあり、部屋は思ったより立派だった。

 

既に暗くなってきたので、外へ出て、夕飯を探す。パーイというのは、チェンマイとメーホーンソンの中間にあり、昔はバス路線の中継点として、バックパッカーなどが宿泊した、とても良い田舎、というイメージだった。だが今回歩いてみると、すでにかなり発展してしまい、ある種の観光地になっていて、正直それほど面白い街とは思えない。夜市もかなりの規模になっており、今晩はそこで食べ物を調達して終了。

 

屋台を見ていると、小中学生の子供たちも一生懸命お手伝いをしていて好感が持てる。私がフライドチキンを買うと、少女がきれいな英語で『これは骨なしだよ』などと受け答えをしてくれる。外国人が多いせいか、ハンバーガーやサンドイッチ、ワッフルなどが少し単価を高くして沢山売られており、どうもタイの夜市とは少し雰囲気が違っている。中国人や韓国人の姿も結構見られたが、日本語に出会うことはなかった。

 

宿に帰ると夜のプールに入っている若者たちがいる。それが済むと、今度は夜市などで酔っ払った白人たちが戻って来て、夜中まで大声で話している。中国人は声が大きいとよく言われるが、白人さんも声は大きい。更にはそれが酔っ払っていればその音量は倍増する。しかも深夜まで延々と続く。眠りはかなり浅くなっていた。私も若い頃はそうだったろうかと反省しながら、耳をふさいだ。ここに静かな田舎町パーイはなかった。