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マレーシア老舗茶荘探訪2019(8)KLをフラフラ

他に当てもないので、バス停に戻ろうとしたが、途中にショッピングモールがあり、タクシーがいたので、クラン港まで乗せてもらった。今やマレーシアでも普通の人はGrabでタクシーを呼ぶので、彼らもその料金を念頭に請求してくる。運転手は日本に行きたい、などと言いながら陽気に運転する。港まで5㎞もあった。そして港はほとんど見えない。観光船が出るターミナルで降ろされる。

 

何だかフェリーに乗って海鮮食べに行く、という感じらしいが、どうも今日はそんな気分でもない。天気も曇りで心も晴れない。取り敢えず腹が減ったので付近を歩いていると、マレー料理があったので、そこでチキン麺を食べた。これが意外とうまく、またマレー系は優しいので、ちょっと癒された。

 

クラン港駅はすぐそこにあったので、列車で帰ることにした。一応バスターミナルも見たのだが、KLまで行くバスはここからは出ない。というより、この付近、殆ど人家もなく、何とも寂しいのだ。列車は朝も乗ったので、途中で地下鉄に乗り換えて、別ルートで帰ったが、路線図が頭に入っていないので苦労した。初めてのクランの旅は完全に空振りに終わった。

 

今晩は、以前台湾で一度会っただけの知り合い、Iさんと会う約束になっていた。彼女は台湾の後、メキシコで働いているとばかり思っていたが、いつの間にか、KLにいたようで、連絡があり、再会した。場所はKLセントラル駅。何だか丁度良い店がなかったので、華人系の麵屋に飛び込む。麺をすすりながら気が付けば3時間近く話しており、店の客も全員帰っていた。メキシコからKLに移り住む、凄い。更には行ったことがない南の島に移住するとか、彼女の話は面白過ぎる。

 

宿へ戻る時、前を盲人が歩いていた。実はここに来てからずっと気になっていたのが、盲人が沢山歩いていることだった。しかも必ず誰かが肩を貸すなど、ごく自然にサポートに入っているのがよい。日本はなかなか優しくなれない社会であるが、ここには優しさがある。盲人が多い理由は、どうやらこの付近に盲人按摩の店がいくつもあるかららしい。それで夜も出歩いていることが分かる。

 

8月24日(土)
KL散歩

今日は午前中特に予定がなかったので、適当に動いてみることにした。まずは博物館に行こうと思い、パサールスニの先でバスを降りたが、なかなか見つからない。観光客向けの道があり、更に行くと大きな広場があった。そこに博物館はあったのだが、何とそれは繊維博物館?のような専門的な物だった。

 

ここで無料バスに乗り、国立博物館に向かおうとしたが、バスの乗り場が分からず、結局歩くことになった。2駅ほど行くと、古めかしい建物が登場する。元々鉄道局のビルだったようだ。その向こうにはマジェスティックホテルがある。KLの老舗ホテルで恰好がよい。

 

晴れてはいなかったが、汗だくになってようやく博物館に到着した。ここも敷地が広く、入り口を探すのも苦労した。入場料10リンギ、先日のシンガポール博物館の5分の1以下だ。中の展示はかなりまとまっており、マレーシアの歴史の外観は掴めた。1階では子供向けの絵画教室が行われており、皆楽しそうだった。

 

無料バスを見つけて乗り、駅の反対側まで来た。腹が減ったので、そこにあったケンタッキーに入ったが、そのサービスは良くなかった。マレーシアのファーストフードにサービスを期待する方が間違いだろうか。午後は地下鉄でKLCCまで行く。旧知のHさんとの待ち合わせは、紀伊国屋。

 

だがそこから延々歩いてブキビンタンまでやってきた。以前も行った肉骨茶屋に入る。以前ミャンマーにいたHさん、そこのミャンマー人店員と親しくなっていた。やはり肉骨茶はうまい。実は昨日行ったクランが発祥と言われているが、食べなかったので、ちょうどよかった。帰りはモノレールで帰る。夜は腹一杯で食べず、早く寝ようとしたが、何と外でお祭りのパレードが始まる。鳴り物の音がすごい。

 

8月25日(日)
スマトラへ

今日はインドネシアに向けて出発するため、宿をチェックアウトした。空港へはバスが安いのでそれに乗る。1時間ほどで到着。エアアジアのチェックインと預け荷物の処理は全て機械化されている。最初は戸惑うが、慣れると早い。ただイミグレはとても混んでいて、30分以上通れなかった。シンガポールほどではなかったが、それでもなかなか機能的な空港ではある。これから6年ぶりのインドネシア、そして初めてのスラバヤへ行く。どうなるのか、ちょっとワクワクだ。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(7)クランの老舗茶荘を訪ねるも

8月22日(木)
陳さんと

翌朝は、まず宿の前の店に入り、カヤトーストとコーヒーで朝食をとる。これはマレーシアの定番朝ごはんだと思うが、ここで食べている人はほぼ観光客。そして店員のサービスレベルはかなり低い。早々に退席する。そして宿をチェックアウトして、近くの別のホテルに移った。まだ朝10時前なので、チェックインできるとは思わなかったが、ここのフロントの対応は非常によく、そのうえ部屋が空いていたので、荷物を入れることが出来た。

 

そこからまた元の宿に戻る。今日は知り合いの陳さんと会うことになっており、陳さんにはチェックアウトしたホテルの場所を教えていたからだ。車で迎えに来てくれ、どこへ行きたいかと、私の希望を聞いてくれる。私が、イポーの梁瑞生さんから教えられた茶荘の名を告げると、家の近くだと言って、まずはそこに向かった。

 

九鼎香茶荘は、ケポンという場所にあった。ここはプーアルなど黒茶類がかなり置かれており、老舗という感じはなかった。聞いてみると、1990年代に店を開いたという。ただ以前、茶葉が足りない時代にキャメロンハイランドで茶摘みをしていた人はいた、ということで、昔からお茶に関わっていると思われているようだった。マレーシアのお茶は紅茶だけだと思っていたが、この茶葉で烏龍茶なども作っていたらしい。

 

残念ながら早々に退散して、陳さんのオフィスへ向かう。彼は既にリタイアしているが、勿論今でも彼の会社である。若者が出てきて話をしてくれたが、なんと彼の息子だった。後継者として修業中。しかし話の内容は、日本大好き。特に仮面ライダーなどに興味があるというので、今度うちの息子を紹介して、一緒に秋葉原へでも行ってもらおうかと思った。

 

そうこうしているうちにお昼になる。当初は陳さんと二人で麺でも食べて軽く済ませようと話していたが、最近滅多に顔を見せない陳さんが来たということで、スタッフと一緒に食事をすることになる。潮州料理屋で美味い飯にありつく。だが不思議なのは、潮州料理屋なのに、店主は広東語を使い、客も広東語で答えていること。

 

しかもボスの陳さんは福建人なのに、皆で広東語を使いあっている(ほぼ全員が福建語もできるはずなのだが)。そして中華料理なのに、箸は出てこない。皆フォークとスプーンで食べている。何だか頭がさく裂しそう。でも逆にマレーシアの言語、華人の生活習慣などにとても興味を持ってしまった。来年はマレーシアにも長く滞在して、こういった些細な謎を解き明かしたいものだ。

 

昼ご飯の後も、陳さんのオフィスに行き、美味しそうなお茶をたくさん飲んで、ダラダラと雑談していた。さすがに眠くなったので、車で送ってもらい、新しい宿へ帰った。陳さんは今や悠々自適、この前まで中国を1か月旅し、今週末からは家族でバリ島に行くらしい。まさに悠悠で、羨ましい。

 

夕方までゆっくりと休む。このKLセントラル駅前、手軽で美味い店をなかなか見つけられずにいた。今晩は軽く、と思っていたのに、突然インド系の店に乱入して、魚、鶏肉など3品もメインを頼み、大盛りの飯も付いてきて、食べるのが大変だった。それでも完食してしまうのは、かなり問題だ。どこかストレスでもあるのだろうか。

 

8月23日(金)
クランへ行くも

今日は建源茶荘に教えてもらった、クランの老舗茶荘を訪ねてみることにする。地図で見ると、列車でクラン駅まで行き、そこからバスに乗るらしい。特に連絡もせず、突然訪ねるのだが大丈夫だろうか。行きつけるのか、ちょっと心配だ。KLセントラルから、クラン港まで列車が出ている。これで約1時間、ダラダラと乗って行く。朝8時台でも特にラッシュはない路線のようだ。どの列車に乗ればクラン港に着くのか迷うが、駅員に聞いて事なきを得る。

 

早めにクラン駅に着いたが、駅舎は工事中。バスはどこに来るのか分からない。2-3人が立っていたので、そこにいると10分ほどでバスがやってきたので乗り込む。料金をどのように払うのか聞くと『これは無料バスだ』というではないか。素晴らしい。それから20分ほど乗って、かなり郊外のバス停で降りる。

 

しかしどう見ても目的地ではない。私はスマホ地図に入れる住所を間違えてしまい、かなり歩く羽目になる。だがその目的地に着いても、どう見ても高級住宅地(パスポートを見せてようやく敷地内に入る)であり、茶荘があるようには思えなかった。そしてその番号の家へ行ってみたが、やはりただの住宅で、看板すらない。この一帯は華人のお金持ちが住んでいるようではある。途方に暮れる。

 

そこで初めて電話してみた。女性が出たが『何で自宅に来たの』と向こうも戸惑っている。遠くにある工場にいるらしい。彼女も困って、息子に電話しろ、と番号を教えてくれる。掛けると、いま遠くにいるので迎えに行くこともできない、と言われたが、その声はかなり好意的。後日にして欲しいと言われ、1週間後に再設定した。それにしてもこんな遠くまで来て、誰もいない、というのは茶旅でも珍しい。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(6)KLの老舗茶荘

8月21日(水)
KLの老舗茶荘

翌朝、もう一度パサールスニに向かった。朝10時前だったが、広滙豊という昨日発見した店に乗り込んだ。古い六堡茶なども置かれており、確かに店内を見ても歴史が感じられる。確か6年前にもこの店に入り、マレーシア華人は六堡茶を飲むんだ、と再認識した記憶が蘇る。

 

店員に聞いてみると、やはり100年近い歴史はあり、KLで最も古い茶荘と言われているという。だがオーナーは来ていないので、詳しい話は分からない。そこで若旦那の電話番号を聞いて、掛けてみるも、歴史なら父親に聞くしかないが、現在国外にいるというので、日を改めて訪問することにした。

 

そちらは諦めたが、店員から広滙豊が現在の会長を務める茶商公会の冊子をもらい、現在のマレーシアの茶商リストを手にすることが出来た。これまで行ったペナンやイポーの茶商の名前も載っており、その役割と共に掲載されているので、これで大体の感じは掴めた。更にこの付近の老舗茶商を紹介してもらい、そこまで歩いて行って見た。

 

建源茶行は、チャイナタウンの端の方にあり、今まで気が付かなかった。入っていくと店主らしき人が、ヨーロッパ系の女性に英語でお茶を説明している。若い3代目許さんが私の相手をしてくれた。この店は戦後、1945年創業となっており、祖父が自転車で茶を売り始めたという。

 

1960年、中国茶を輸入するために茶商たちが設立した会社、岩渓茶行には、聯隆泰(貿易専門会社)という別会社で参加しているので、始めたよく分からなかった。福建茶などの卸を主に、現在も営業を続けている。彼らはとても親切で、茶の歴史にも興味があると言い、お茶を飲みながらいろいろな話をした。

 

そして彼は2つの老舗茶荘を紹介してくれた。1つは巴生(クラン)にあるというので後日行くことにした。もう一つはここから歩いて15分ぐらいだというので、そのまま行ってみた。チャイナタウンを過ぎて、インド系の匂いがしてくれる。元々マレーシアでは華人とインド系は貿易などを行う上で、港の近くのほぼ同じ場所に店を出していた。

 

高泉發、その店舗は暗くて、営業しているのかどうかさえ定かでなく、恐る恐る入っていく。ここは卸が中心だな、とわかる店の作り。往時は相当な茶業だっただろう。店員に話しかけると、中から70歳代の夫人が出てきた。彼女が3代目の奥さん黄さんで、残念ながらご主人は昨年87歳で亡くなっていた。

 

最初はあまり話に乗り気ではなかった彼女。私が高という苗字なら安渓大坪出身でしょう、と聞くと、日本人がなぜそんなことを知っているのか、と驚いた。そして私が大坪の張彩雲の歴史を調べたことを伝えると、『うちの主人とは同郷で、親戚の中には張家から船賃をもらってマレーシアに渡った者もいる』と急に親しげになり、その後は何でも話してくれた。因みに黄さんは安渓人ではなく広東の客家の出だという。この2人が結びついた経緯などにも興味があるが、それは説明してもらえなかった。

 

日本人も昔はよく店に来てお茶を買って行ったが、最近は来ないという。景気が悪いのかなというので、素直に頷く。マレーシアの茶業もすでに転換期を過ぎ、今後どれだけ続いて行くのかは分からないと言い切る。こういう老舗が続いてほしいとは願うものの、一方で消費者の好みの変化などを考えると致し方ないのかなとも思ってしまう。それでも4代目が既に店は継いでいるという。

 

茶荘を出ると腹が減る。午後1時を過ぎているのに、満員の店があったので覗き込むと店主が華語で話しかけてきたので吸い込まれた。またまたチキンライスを食べる。私は基本的に1日2食ならチキンライスだけ食べていれば十分だ。活気がある店で食べるとその味がまた良くなる。

 

この付近には大きなマスジットジャメ・モスクもある。かなり美しい外観で引き付けられた。1909年建造とあり、KLの中心的なモスクだ。地下鉄も通っていたので、チラッとモスクを見てから、と思ったが、手続きしている人を見ていて面倒になり、そのまま宿に戻る。そして宿の斜め向かいにあるコインランドリーで洗濯。

 

夜はたまたまKLに来ていたMさんと再会する。場所はまたチャイナタウン。何と2日で3回目だが、これもご縁というものだろう。中華レストランで観光客的な料理を食べながら、マレーシア事情などについて話す。Mさんは多言語を操り、旅好きで、非常に興味深い人物だ。初めて知ったのだが、彼は昔KLに3-4年住んでいたらしい。色々と詳しいわけだ。勉強になる。3時間以上話し込んで、夜遅くに地下鉄で帰った。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(5)イポーからKLへ

一度部屋に戻り休息する。その後気を取り直して、宿から近くにある、洞窟寺院を訪ねてみた。そこは炭鉱の町イポーらしい、岩肌が見える小山に横穴を掘り、そこに寺院が作られていた。中に入るとひんやりとした空気が心地よく、ロウソクの火が微かに揺れる中、お参りする。

 

ただ外には犬が何匹もおり、激しく吠えてくるのですぐに退散する。その横には立派なヒンズー寺院も見えたが、閉まっており見学は出来なかった。更に山沿いに回り込むと、古い寺院が遠くの方に見えたが、これは何のためにあるのか分からず、途中で引き返してしまった。

 

街の方に戻ると、なぜか腹が減ってしまい、少し早いのだが、晩御飯とする。カレー麺と揚げ物を注文して食べたが、かなりスパイシーだった。お客は華人だけでなく、マレー系、インド系の家族などもおり、具が自由に選べるので、ベジタリアンにも受け入れられるのが分かる。多民族融合の食べ物として定着しており、マイノリティーである華人の商品開発力を見る思いだった。

 

8月20日(火)
クアラルンプールへ

翌朝は早起きした。実は昨日の午前中に知り合った人の食堂にカレー麺を食べに行く約束をしていたのだ。そこは宿から歩いて20分以上あったが、さわやかな朝なので気持ち良い散歩となった。お店は既にかなりお客がいて、人気店であることは一目で分かる。お勧めの麺を出してもらったところ、カレー麺と福建麺が半々で、カレーなどを少しずつ混ぜて食べるとなぜか絶妙な味になる。スープもうまい。更にはカレーの原汁もちょっと飲ませてもらうが、それほどスパイシーではなく程よい。何とも驚きの麺であり、次回も必ず食べたい麺として記憶に残った。デザートの煮卵、余りスープに入っており、こちらもうまい。

 

宿まで帰ると、朝食付きだったことを思い出し(わざわざ交渉して朝食を付けた)、もったいないのでコーヒーとフルーツをまた頬張る。そうこうしていると時間になり、呼んでもらったタクシーで駅に向かった。今日は12時発の列車でKLに行く。この列車のチケットは事前に購入しておかないと席は確保できない、イポー-KL間の直通列車だ。

 

約2時間半でKLまで行ってしまう。料金はバスより高いが便利なのだ。ずっと田舎の風景を眺めていたが、最後に街に入るとKL駅があった。思わず終点かと立ち上がり荷物を下ろしていると、他の乗客が『終点はKLセントラルだ』と言ったので、荷物を下ろしたまま、腰も下ろす。そして終点で列車を降りる。KLセントラルには何回か来ていたが、実質数年ぶりでかなり迷う。

 

駅からすぐのところにはいくつも簡易なホテルがあり、その一軒に飛び込む。だがこちらもネットの方が安いので、ネットで予約し、代金支払いはセブンイレブンで行った。これだと現地通貨が使えるので、現金が余っている場合は良いことを初めて発見する。このホテル、装備は悪くないのだが、何と夜ダニか何かが出て痒いので2泊して出ることにした。

 

まずはKLでスムーズに動くため、交通系カードの入手に動く。スイカなどは駅でも買えるが、ここのカードは特定の場所に行かないと買えないらしい。そのショップがKLセントラルのモールにあるというので、行ってみた。10リンギ払ってカードを買う。有効期限は10年だが、1年に一度は使わないと失効するらしい。係りの女性から『今日という日を忘れないように。年に一度はKLへ』と言われ、笑ってしまった。

 

折角カードをゲットしたのですぐに使ってみようと思い、近くのバス停を探してバスに乗る。僅か一駅で見慣れた場所に着く。パサールスニ、いわゆるチャイナタウンだ。6年前に数日宿泊したので、何となく見覚えがある。チャイナタウンの中で老舗茶荘を発見したが、資料を持っていなかったので、明日再度来ることにする。

 

その並びに海南チキンライスの店があったので、まだ夕方だったが思わず入って食べる。蒸しと焼きを半々に注文したつもりが、2皿来てしまい、大量に食べる羽目になったが、これは嬉しい誤算だった。やはりマレーシアのチキンはうまい。その後もフラフラ歩き回り、地下鉄に乗って宿へ帰ったが、6年ぶりのチャイナタウンの大きな変化は見られなかった。夜はダニと格闘して眠りは非常に浅かった。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(4)イポーの老舗茶荘を見つけるも

イポーで

今回のホテルは珍しく、日本人客の評価が高い所にしてみた。予約はせずにタクシーで乗り付け、料金を聞いてみると、やはりネットより少し高い。そのことをフロントに告げると、『実はネットの料金はプロモーション価格だ』と言いながらも、ほぼその料金で2泊泊めてくれたので有難い。この辺の対応が高評価の一因だろう。

 

約100リンギの部屋、こじんまりしているが、ロッジ風で、バスタブがあり、NHKが見られ、何より落ち着いた空間がある。朝食も付いている。こういう部屋が日本人の好みだとよくわかる。ロケーションは駅からはかなり離れているが、街の中心部にあり、前回泊まった大型ホテルのすぐ近くにあり、やはり便利である。

 

まずは街の位置関係を確認するため、駅まで歩いてみることにした。少し歩くと屋台が数軒入った食堂に出くわす。確か前回もここに来た記憶があり、懐かしさもあって入ってみた。イポーは食の街であり、煮麺も名物の1つなので頼んでみる。老夫婦がやっていたが、おばさんは広東語で注文を聞き、こちらが華語で答えるとなんと流ちょうな英語で返してきた。この辺のやり取りが実に楽しい。

 

駅までは3㎞近くあったが、曇りで暑くもなく、ゆっくり歩いた。この街もレトロな雰囲気はあったが、特にある一角には保存された古い街が残っていており、カメラポットになっていて、観光客が訪れている。往時炭鉱の町として栄えたイポーの面影はある。その中にお茶屋を発見したが、今日は日曜日のせいか、閉まっていた。

 

駅は昔のままだが、そこにあった立派なステーションホテルはかなり前に営業を止めていた。駅の周囲には特に見るべきものはない。宿の近くまで戻ると、何軒か食堂があり、その中で目を引いた、魚片粉の店に入る。濃厚なスープに揚げた魚の塊が放り込まれており、何とも美味。かなり満足して宿に帰り、大河ドラマを見て寝る。

 

8月19日(月)
イポーの老舗茶荘はどこに

朝はホテルで朝食を食べ、暑くならないうちに歩き出す。特に情報もなく、何の当てもない散歩だった。昨日と違う道を歩いて行くと、横道にきれいなモスクが見えた。実は私はイポーの街歩きが大好きだが、その理由はおそらく『華人の街』だからではないかと思っている。マレーシアはマレー系が人口の7割近くを占め、華人はマイノリティーだが、ここイポーは華人人口が7割と言い、華人的なにおいが濃厚で、何だかホッとしてしまうのだ。

 

その中でモスクを見つけて近寄ったのは決して偶然ではあるまい。何か見えないものに引っ張られたのだ。そのモスクの向かいの建物には『珈琲茶公会』の文字が見えるではないか。思わずそのドアを叩くと、中から女性が出てきて応対してくれた。ところが茶公会のはずが、『イポーはコーヒーの街だから、会員の多くはコーヒー関係者』だと言い、何と老舗茶荘については分からないという。組合が把握していないのであればもう絶望的だ。

 

だがその女性はとても親切で、どこかに電話を掛けている。すぐに男性が車で駆け付け、私をどこかに連れて行ってくれる。しかも何とその女性も同行してくれた。車はちょっと郊外に出て、瀟洒なカフェに向かった。イポーは白珈琲の発祥の地であり、このカフェでその歴史が分かるという。平日の午前中なのに満席で、しばし古い道具などの展示物を見る。

 

白珈琲とカヤトーストを頂く。この男性は実はお茶ともコーヒーとも関係がなく、イポー名粒、カレー麺を作る食堂の三代目だった。今日はたまたま休日だったので付き合ってくれたというのは、何とも有り難い。彼の原籍は海南島であり、実はイポーで食堂やカフェをやっている人は海南人が多いという事実を知る。この白珈琲も海南人が始めたそうだ。これまで華人の中で海南人について調べたことはなかったので、今後は注意してみよう。

 

彼の車で昨日行った古い町並みの所で降ろしてもらう。結局午前中は茶荘の情報は得られなかったので、ダメもとで昨日見た茶荘に行ってみる。今日は開いており、六堡茶などが店の前に出ていた。梁瑞生茶荘、雰囲気はかなり古い。三代目という若いオーナー易さんとそのおじさんが快く迎えてくれ、彼らの歴史を聞く。創業80年、広東出身のこともあり、ずっと広東系のお茶を中心に扱っており、紅茶粉は商わないらしい。

 

易さんはとても親切に、店にある沢山の資料を見せてくれ、色々なお茶を振る舞ってもくれた。更には易さんに教えてもらい、もう一つ老舗茶荘があるというのでそこまで歩いて行って見た。お店を見ると確かに老舗の匂いがプンプンする。中に入り女性に声を掛けると忙しそうに『オーナーはいない。私は歴史については何も知らないし、資料などの提供はしていない』ときっぱり言われる。

 

尚も取りすがるように『日本から来て、調べている』と訴えたが、『写真は自由に撮ってよい』と言われただけだった。仕方なく店内の写真を撮っていると、何とそこに、イポーの老舗としてリストに載っていた茶荘の名前を発見する。だが、なぜそこに名前があるのか、この茶荘とどんな関係にあるのか全く聞くことが出ず、退散するしかなかったことは残念でならない。まあこれもまた茶旅だ。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(3)ペナンでお茶イベントに参加

8月17日(土)
ペナンの茶イベント

今回ペナンに舞い戻った理由、それは茶芸協会のケビンから『ペナンでお茶イベントがあるから来ないか』と言われたのがきっかけだった。ちょうどKLまでの道中なので、寄り道した。いったいマレーシアではどんなお茶イベントが開かれているのか興味があり、ちょっと覗いてみた。

 

会場は例のタイムズスクエアーだった。宿から歩いて10分ほどの場所にあり、しかも前回行っているので迷うこともない。10時開始だというので、10時頃行ってみると、皆さんまだ準備中だった。それでも10以上のブースが出ており、様々な茶が紹介され、販売されているのは面白い。

 

このイベントはマレーシアの数か所を巡回して、お茶を紹介しようというもの。ケビン達主催者は忙しいようなので、取り敢えず一通りブースを回ることにした。岩茶を扱うところ、六堡茶の老茶を淹れてくれるところ、緑茶を売っているところなど、KLの茶商を中心に、老舗ではなく、新興の人々が集っていて興味深い。そして何より、皆さん親切で丁寧に説明してくれ、お茶を淹れてくれた。

 

そのうち開幕式が始まり、ケビンが司会をしている。彼は器用で何でも屋だ。英語も中国語もどちらも流ちょうに話す。周囲を見るとお客(殆どが華人)が続々と集まって来ており、思ったよりずっと大きなイベントになっている。茶芸というコンセプトが入って20-30年。茶業についてはそれまでとは違う動きがマレーシアにあることが分かって来た。

 

昼の時間は抜け出して、宿の近くの鴨肉飯を食べに戻った。これがうまいんだ。昨日間一髪で閉まってしまったのは残念でならなかったが、今日はちゃんとありつけた。すでにかなりの量のお茶を飲みこんでいた腹には、アイスミルクティーが新鮮でよい。このあたりの建物も、かなり古い物が多く、見ていて飽きない。

 

午後はセミナーが開催されていた。最初は茶芸協会会長が、雲南などを旅した茶旅を、中国語で報告しており、近年流行りのプーアル茶についての紹介を行っていた。その後のブレイク中に、台湾茶や雲南茶などのブースを回る。2つ目のセミナーは茶葉の種類などの基礎講座であったが、華人女性が流ちょうな英語で説明を行っていた。こういう英語講座、日本では難しいだろうな。

 

そして最前列にはインド系女性が陣取り、その講座を熱心に聞いているのが目を引いた。終了後には色々な質問もしている。現在マレーシア茶業が必要なことは、非華人系のお茶好きを発掘することかもしれない。インド系が中国茶を飲みだすのだろうか。如何にも多民族国家らしい光景を見た思いだ。

 

かなりの時間イベント会場に居てお茶を飲みすぎ、腹が減る。帰りに海南チキンライスを食べて満足して、部屋に戻って休息する。明日はイポーを目指すので早めに就寝しようとしたが、なぜか午後9時過ぎてまた腹が減る。仕方なく外へ出たが、既に多くの食堂は閉まっており、困る。

 

かなり歩いて行くと、何と飲茶屋が店を午前零時まで開けている。自分の好きな物を注文するのだが、なぜか相当な量を頼んでしまい、それをまたペロリと平らげた。お茶も鉄観音茶を注文して、一人飲茶を展開する。腹が減っているせいか、この点心が予想以上にうまい。店員の華語が少しおかしいので聞いてみると、何とベトナム人だった。彼の友人の何人もが、今日本で働いており、彼も日本へ行きたいという。私には是非日本で働いてくれ、とはとても言えない。

 

8月18日(日)
イポーへ

翌日はイポーに向けて出発した。前回ハジャイ行きで使ったミニバスが、とても楽に国境越えが出来たのと、列車で行くのが面倒そうだったので、今回もバスで行くことにした。チケットを買い、バスを待っていると、他の家族と一緒に何とミニバンに押し込められた。これで郊外まで運ばれ、そこでまた客を拾い、何とバターワースのバスターミナルで降ろされた。

 

そしてイポー行きは1時間出ないというのでちょっと驚きながら、建物の中で待つしかなかった。騙された気分である。そのバスはイポー経由キャメロンハイランド行き。到着は更に40分遅れたがどうすることもできない。ここから約2時間半、このバスに揺られていく。

 

イポーのバスターミナルと言えば、6年前、マラッカでスリに遭い、失意のうちに辿り着いた場所で、いい思い出はない。あの時は夜10時頃に到着して、既にバスはなく、高いタクシーに乗った記憶がある。しかし6年経ってもバスは整備されておらず、昼間からタクシーに乗る羽目になる。運転手の言い値は25リンギ、6年前と変わらない。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(2)フェリーでペナンに舞い戻る

8月15日(木)
アロースター散策

朝はゆっくりと目覚める。この街の茶荘探しは既に終わってしまい、特に必要な作業もないので、お休みモード。ホテルの朝食も悪くないので、十分に味わう。ただ私の課されたただ一つの作業としては、洗濯があった。マレーシアは洗濯天国、というイメージが強く、これまでもボルネオでもペナンでもコインランドリーは沢山あったので、タイでは洗濯せずに持ち込んでいた。ところが何とアロースターを半日歩いても1つもないのだ。これはどうしたことだろうか。

 

取り敢えず雨が降っていなかったので、近所のお寺を目指して歩き出す。そのお寺はタイ寺。さすがにタイに近いアロースター、大仏などタイ様式の寺があったのだ。そこは平日ながら大勢の参拝客があり、イスラム教徒が多いこの地で、華人が集まる場所となっているようだった。

 

その先を歩いて行くと、何とコインランドリーを発見した。思わず宿まで2㎞の道を引き返し、洗濯物を持って出直した。そしてその洗濯中に、ケダ州博物館まで歩いて往復することを思いつく。と言っても洗濯から乾燥は自動ではないので、洗濯終了まで待って、乾燥機に放り込み、そこから40分の間に往復するのだ。

 

1.5㎞ぐらい歩くと、ホテルがあり、その横にはスタジアムがある。その道の向こうにようやく立派な博物館が見える。無料で入場できる。基本的にはケダ州の民族習慣などが展示されており、コマ回しやじゃんけんなど、日本に通じるものは興味深い。だが残念ながら殆どの表示がマレー語しかなく、何が書いてあるのか分からないので、すぐに退散した。

 

コインランドリーに戻るとちょうど乾燥が終了しており、今日の私の任務も終了した。宿に帰ると強い雨が降り出し、部屋に閉じ込められた。ようやく雨が上がり、腹が減ったので夕飯を探しに再度出ていくと、なぜか夕方5時頃に華人系の食堂はほぼ閉まってしまった。何か暗黙のルールでもあるのだろうか。仕方がないので、マレー系の店でアイステダレを頼み、そしてマレー式洋食を食べた。かなりジャンクな食べ物だったが、偶には良いか。

 

8月16日(金)
ペナンへ

翌朝は晴れていたが、もう外へ出る気は無くなっていた。ホテルでゆっくり朝食を食べ、それから歩いて駅へ向かった。一昨日国境から乗ってきた列車、その同じ時間に乗り、バターワースまで向かうことにした。バスターミナルを探すよりこの方が遥かに簡単だと思ったからだ。

 

ところが駅に着くと、先日と違ってすごい数に人々が列車を待っていた。よく考えたら今日は金曜日。マレー系にとっては休日なので、多くの人が遊びに行くために列車を利用することが分かった。まあ切符は買えたし、一番後ろの車両で座れたので、特に問題はなく、1時間ほどで、バターワースへ着いた。

 

ここからフェリーでペナンへ渡ろうと思っていたが、駅からフェリー乗り場までは結構距離があり、表示も分かりにくい。途中にきれいなショッピングモールが出来ており、何とたこ焼きの『銀だこ』が出店していて、思わず食べそうになったが、気を持ち直して、ターミナルへゴーとなった。

 

フェリーは1.2リンギ、20分でペナン側へ着く。まあ香港のスターフェリーみたいなものだろうが、違うのは船が大型で車も一緒に乗っているところか。風に吹かれながらの船旅は気持ちはよい。ペナン側に着くとすぐに無料バスを探す。この辺はもうペナン慣れしてしまったな。

 

コムタまでバスに乗り、今日泊まろうと思っているホテルに向かった。コムタから近いはずなのに、道が複雑で行くのに時間がかかった(実は手前のホテルの中を通ると早いのだが、さすがにスマホ地図には出てこない)。そしてフロントまで辿り着いて尋ねてみると、ネット予約よりかなり高い料金を請求されたので、急いでネット予約に切り替えた。

 

このフロントの女性(インド系)、かなり言葉遣いがきつく、優しい印象のあるマレーシアでもこれか、と思ってしまった。このホテル、便利な場所にある、眺めも良い、新しいホテルできれいではあるが、サービスは相当に雑なようで、後でネットコメント見たら、酷い評価だった。次に行くイポーにもこのホテルがあったが、真っ先に除外した。

 

腹が減ったので周囲を歩いてみたが、鴨肉飯の店は閉めてしまい、何とか麺にありついた。そのままターミナルからバスに乗り、コロニアル風の建物がある場所まで行った。天気は良すぎて暑いので、フォートに入るのは敬遠し(25年前家族でここを歩いて死にそうに暑かった思い出あり)、海沿いを歩くと、風が吹いて気持ちがよかった。石碑が見えたので何の碑かとみると、第二次大戦で亡くなった人の慰霊碑だった。その中に泰緬鉄道で亡くなった人々が含まれているのが目を惹いた。

 

夕飯は何と宿の下にあった江の島という名の日本食レストランに入ってみた。日本人経営らしく、お客は日本人、華人が多かった。かつ丼を注文すると『うちのかつ丼はチキンカツですが良いですか』と聞かれ、なるほどと思った。食べてみると何だか懐かしい味がした。たまに和食を食べるのは良いものだ。マレーシアも和食好きが多い。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(1)アロースターで

《マレーシア老舗茶荘を訪ね歩く2019》  2019年8月14-25日

タイでのハリラヤ回避の旅を終えて、再びマレーシアに戻り、老舗茶荘探しの旅は続く。アロースター、イポーなど、あまり馴染みのない場所へも行き、ほぼ情報のない中、突撃探索を敢行する。果たして成果はあるのだろうか。

 

8月14日(水)
アロースターで

コミューターに乗って約1時間、冷房がかなりきつかった。窓の外はほぼ原野の風景。そしてその列車の窓が割れているところがいくつもあり、驚く。アロースターに初めて降り立つ。駅のホームから出口に行くには小さなエレベーターを待つか、階段を使って荷物を持って登るしかない。

 

駅を出ると天気も良く、街までは歩いて行けるようだったので歩き始めたが、私以外にそのような人はいなかった。しかしバスが来るでもなく、迎えのない人はどうするのだろうか。途中大きな通りに出たが横断できる場所がなく、車が行き交う中を無理に横断したら、老人に怒られてしまった。どうすればよかったのか。

 

ちょうど手頃なホテルがなく、少し高めのホテルへ行ってみると、フロントの対応がよかったので、そこに泊まることにした。そして腹が減ったのですぐに外へ出てみたが、意外と食事の場所がない。ここはマレー系が主体の街であり、華人経営の食堂を頭に描いて探してしまった結果かもしれない。何とか飯にあり着けて良かった。

 

ついでに街の散策を開始する。10分くらい歩いていくと街の中心、1912年に建造されたザヒールモスクが見える。何とも格好の良いモスクでしばし見とれる。マレーシアでも最も美しいモスク、とも言われているらしい。その付近には時計台があり、如何にもイギリス植民地の様相がある。その向こうにはアロースタータワーが見え隠れする。

 

その先で潮州会館を発見した。この街は華人色が薄いと感じられ、貴重な情報源かと思ったが、不在の札が掛かっていたので、立ち寄ることは出来なかった。福建会館などをスマホで探すも見つからない。モスクの横には広場があり、王宮博物館もあるはずだったが、すでに閉鎖されており見学することは出来なかった。

 

取り敢えず観光地を先に巡ることにして、次に向かったのは、マハティール首相の生家だった。ここは橋を渡ってちょっと郊外という雰囲気の中にあった。第4代マレーシア首相となったマハティールはここで生まれたのだ。実は初代のトゥンク・アブドゥール・ラーマン氏もこの街の出身だった。最近92歳になったマハティールが首相に返り咲き、俄かに注目を集めているようで、マレー系の見学者が多く来ていた。彼の生い立ち、人となりがわかる展示がされていたが、写真不可のため記憶に留めるしかない。あの老獪な政治家は一体どのように誕生したのか、とても興味深い。

 

フラフラ歩いていると、川沿いにある中華街に出くわした。この中に老舗茶荘があるのではないか、と歩いたが、この中華街は実にひっそりしており、お客の姿もあまり見られない。諦めかけていた頃、ついにその店、振華茶荘を奇跡的に発見した。だが雨の降りそうな午後、人影はなく、私も資料を持っていなかったので、一度宿に帰り出直すことにした。

 

雨が少し降っていた。止まないようなら明日にしようかと思った頃、なぜか降りやんだので、外へ出た。先ほどの道を舞い戻り、振華茶荘にやってきた。中に入ると4人の華人がお茶を飲んでいたが、突然の闖入者に皆が、『あんた誰?』という顔をした。私は老舗茶荘を訪ねている旨を伝えると、そのうちの一人が立ち上がった。ここのオーナー、李さんだった。

 

彼もやはり原籍は福建省安渓だった。第二次大戦前に父親がマレーシアに渡り、ペナンの栄華茶荘で働いていたらしい。その支店としてアロースターに出てきたのは戦後すぐだったという。この地はマレー系が多いため、中国茶を売るのではなく、テダレの原料である、紅茶粉の販売が主だった。

 

李さんも70歳を過ぎ、今この茶荘は近所の華人たちの集会所のようになっており、皆でお茶を飲みながら雑談していた。『誰もこの仕事を継ぐ人はいないよ。儲からないから』と呆気ない。それより華人の高齢化、子供や孫がどんどんこの街を離れてしまう方が問題らしい。勿論このような茶荘は街で唯一だが、早晩無くなってしまうのだろうか。

 

李さんたちが教えてくれたので、華人街の中にある、福建会館に行きついたが、既に用事はなかった。帰り掛けに、美味しそうな匂いに釣られた。焼きそばが実に香ばしく、思わず座って注文してしまった。ここで初めて『中国茶』とドリンクを注文すると、氷が入った(でも砂糖は入っていない)冷たい茶が登場した。しかも料金は0.7リンギで格安。これからはこのお茶を飲もう。恐らくこれは六堡茶だろう。因みに部屋に帰ると、初めてボーティーのティーバッグが置かれていた。

ペナンで老舗茶商を探す2019(3)ペナン散策

8月6日(水)
ペナン散策

今朝も天気が良い。朝食後、張さんから連絡があり、今日の午前中、茶荘に行こうと誘われる。場所はまたしてもちょっと郊外。タクシーで来て、と言われたが、昨晩で十分に慣れたので、余裕を持って出掛けた。だがほぼ現地までやってきても、住所だけでは、なぜか上手くたどり着けず、やはり電話で場所を聞く羽目になる。

 

人和茶荘は、そんな道路沿いにこじんまりとした店舗があった。張さんも車でやって来て合流した。ここも市内中心部からは離れており、小売りというより卸がベースなのだろう。安渓人の劉さんは、1952年にペナン最大の茶商、龍泉で働き始め、25年間務めた。元々岳父が経営していた人和に1977年に参加して、岳父が引退後店を引き継いだという。

 

龍泉の時代は、マレー半島東海岸を担当しており、交通が不便だったので2日も掛けて行っていたらしい。お客はマレー系が多いので、テダレの原料となる紅茶粉を売るのが仕事で、福建茶などは扱わなかった。キャメロンハイランドのボーティーは輸出用で、国内ではあまり流通しかなったともいう。

 

劉さんは80歳を過ぎても元気で、自らお茶を淹れてくれる。そして昔話はとめどなく流れていく。以前は六堡茶がかなり飲まれていたが、今ではプーアル茶に変っているように、お客の方向性はどんどん変わっていく。果たしてどのようなお茶屋が必要なのか、いつまであるのか、将来はかなり不透明な状況と言わざるを得ない。

 

張さんとも別れて、またバスで戻ることにした。スマホ地図に示されたバス停で待っているとバスが来たので乗り込む。まあ宿の近くに行かなくても港には行くだろうから、これに乗って行く。バスはかなりくねくねと運行しており、どこへ行くのかさっぱり分からない。20分ぐらい乗っていると、昨晩張さんが教えてくれた古い茶荘の近くに出たので、そこで降りた。

 

この付近は古い建物が多く残っており、チャイナタウンという感じで歩いていても楽しい。その茶荘、ちょうど昼時で店に人がいなかったので外から眺めるだけにした。ちょうど無料のバスが来たので思い切って乗ってみた。ペナンには無料で乗れるバスが走っており、実はこれが便利で市民も利用している。

 

無料バスで宿へ帰ろうかと思ったが、途中にきれいな建物が見え、思わず降りてしまった。コロニアルスタイル、なかなかいい。この付近には博物館もあるというので探してみると、いいデザインの教会も見えてくる。その横にあるはずだった博物館は、改修工事で遠くに移転しており、残念ながら見ることは出来なかった。

 

宿まで歩いて帰り、お向かいにあるマレー料理屋に入り、ミー・ゴレンを注文する。とてもうまそうな鍋の音が響く。なぜかこういう時のドリンクはコーラを頼むことにしている。ミー・ゴレンは焼きそばではあるが、福建麺とはまた違った味わいがありよい。料金も安い。宿に帰って休息する。

 

実はこの宿、当初2泊しか予約していなかった。もう一泊延泊を申し出るとフロントで言われた料金はどう見ても高い。フロントからもネット予約の方が安いと言われたので、予約してみたのだが、何と一段上の部屋を予約してしまったようで、『部屋を移動して』と言われてしまう。面倒だったが、仕方なく荷物をまとめて新しい部屋に行くと、ビューもよいし、バスタブなどもあり、かなり良い部屋になっていて驚く。それほど料金が違うわけでもない、最初からここにすればよかった。

 

 

部屋が気に入ったせいもあり、夕方までゆったりと休む。日が西に傾いたころ、部屋を出て、ペナンの夕日を探しに行く。だが海岸沿いは建物が建っており、なかなかいいスポットが見つからない。かなり苦労してようやく陽が沈むのを眺めたが、特に印象的な風景にはならなかった。街を少し散策すると、美味しいそうな食堂があり、叉焼などを食べる。

 

8月7日(木)
ハジャイへ

今日はペナンを離れ、タイのハジャイへ行く。ゆっくり移動するため、12時のバスを予約しており、午前中は部屋で過ごした。やはり体力がなくなってきている。歩いて10分のコムタに荷物を引いて行く。タクシーに乗るほどでもないが、暑さは厳しい。

 

コムタにある旅行社に行き、バスを待つ。12時過ぎてやってきたのは小型バス。乗客はタイ人、華人など数名のみ。まあ予定通りに行けばバスを乗り換えることもなく、国境を越えてハジャイに着く。ところがこのバス、ペナン島内で、更に乗客を乗せるため走り回る。予約していた中国人乗客はバスと遭遇できずに、怒りの電話を入れてくる。何とか彼らの場所に行くと、キャンセルだと言って乗ってこない。

 

ようやく半島側に渡り、高速道路を走ると快適。1時間ほどで国境に着く。国境には驚くほどに人がおらず、あっという間に出国し、少し移動して入国手続きを行い、何となくタイに入った。そこから更に1時間、合計4時間でハジャイまで行った。ここで一旦マレーシア旅は終了した。

 

ペナンで老舗茶商を探す2019(2)老舗茶荘と茶藝に巡り合う

そこから更に2㎞ほど歩いて、ついに老翁茶の店舗を探し当てた。看板を見る限り、ここが1929年創業だとは分かったが、例の資料にこの茶荘の名はなかった。中に入って聞いてみると、何と元の名前が資料にあった陳烈盛だと分かり、歓喜する。やはり残っていたのだ、こういう店が。置いてある茶道具や茶缶なども古めかしく、テンションが上がる。だがオーナーは不在で詳細は分からない。午後もう一度来て、と言われたので、一度宿に戻ることにした。

 

ただ流石ここから歩いて帰るのは辛い。私はGrabなどのアプリを使わないので、タクシーを呼ぶこともできない。近くにバス停があったのでみてみると、どうやら市内にはいけるようなのでバスを待つことにした。すると華人の年配女性が英語で『どこへ行くの?』と声を掛けてくれ、一緒にバスに乗った。

 

彼女はタイ生まれの華人で、5つ以上の言語を流ちょうに話せるらしい。聞いたら80歳近いというのに非常に元気で活発だ。これも華人パワーの1つだろうか。宿の近くでバスを下ろしてもらう。料金は1.4リンギ。バスに乗る時は行き先の距離により料金が違うので、行先が言えないと乗れないことを知る。

 

場所とバスルートが分かったので、午後はバスに乗って老翁茶へ向かう。店には3代目のオーナーがいて、暖かく迎えてくれた。そしてすぐに様々な資料を出して、見せてくれる。熱心に写真を撮っていると、あげるよ、と言って、茶商公会の本までくれた。更には奥に行き、元の茶荘名である張烈盛の看板も探して見せてくれた。

 

 

ここの一族は珍しく広東省から来た客家であった。お茶は安渓茶など中国茶を多く扱っており、現在も小袋に鉄観音茶などを詰めて販売していた。実はペナンでは老舗茶荘が後2つ、リストに載っていたが、残念ながら2つとも既に廃業しており、ここが一番古い茶荘になっているとの情報も得た。

 

お店を出て、またバスに乗る。途中にコムタという場所があり、そこがバスターミナルだと分かったので、降りてみる。ある意味で町の中心はここだった。私の次の目的地は、タイのハジャイになるので、そこへ向かうバスを探すと、意外と便利で安いのだと分かり、満足して歩いて宿へ帰る。

 

その途中、ちょうど食べたかった福建緬があったので、立ち寄って食べた。福建緬も汁ありとなしの2種類あるが、私は汁なしが好きだ。アイスレモンティーを加えても、8リンギほどで食べられるので、軽食にはお手頃でよい。取り敢えず宿へ帰り、今日の成果を見ながら、休む。

 

日が暮れた後、宿の隣にある、フードコート?へ出掛けてみる。規模がかなり大きく、多くの屋台が出ていて、食べ物の種類は豊富。外国人観光客などはここで食べる人が多いのかもしれない。私はサーモングリルとライスを注文した。ちょっと和食テイストで案外イケる味だった。

 

今晩はこれで終わらない。午前中に連絡した茶芸協会の人から連絡が入り、夜9時に会いたいというのだ。しかも場所はペナン市郊外。場所が分かりにくいので、ホテルのフロントに相談したが、『表に居るタクシーに乗って行け』と非常につれない返事で困る。仕方なく、タクシースタンドに行き、住所を見せると、ちょっと高い料金を吹っ掛けられた。

 

それならばと、他へ行くそぶりを見せると、慌てて料金を下げてきた。どう見ても暇なのだが、大丈夫だろうか。車はすぐに郊外に出た。夜道はどこを走っているのかさっぱり分からないが、今はスマホ地図で追えるのが何とも有り難い。20分ぐらい走ると目的地に着いたが、そこは郊外の大型住宅地で、その住所には辿り着かない。電話して、最後は迎えに来てもらう。

 

その家は、林さんの自宅だった。夜9時に、全く面識のない人の家に突然上がり込む、これ海外では普通ならあり得ない状況だと分かっていたが、そこは茶の繋がり。ズカズカと上がり込む。部屋には沢山の急須があるのが目に入る。2階に上がると、心地のよい空間でお茶を頂く。張さんと林さん、この二人が十数年前に設立された茶芸協会の主要メンバーで、茶芸について日々研究する場所がここであるらしい。

 

珍しい、年代物のお茶が沢山出てきた。茶器はよく見ると日本の茶碗が使われていたりする。茶碗の本来の意味を考える。茶芸というのは工夫が重要であり、またおしゃれだなと思うが、私とは別世界、とも感じる。マレーシアの茶の歴史についても、色々と話が出てきて大変参考になる。やはりお茶の繋がりは初対面でも何の違和感もなく話に入れるのがよい。

 

夜も11時過ぎまで居座ってしまった。帰りは張さんの車で送ってもらった。彼らは本業を持っており、茶芸は趣味だと言い、連日遅くまで仕事をしたのち、お茶を飲むらしい。宿に付く前に、市内の茶荘の場所など、いくつか聞きながら行く。また明日は連れて行きたいところがあると言われ、その連絡を待つことになる。何の情報もなかったペナン、1日にして、これだけの進展を見せた。如何にも茶旅らしい。