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マレーシア老舗茶荘探訪 その後2019(3)鬼門マラッカの老舗茶荘

9月4日(水)
久しぶりにマラッカへ

翌朝も昨晩のパンをかじっていた。今日は実質マレーシア最終日、いやこの2か月に及ぶ東南アジア旅の締めくくりの日と言ってもよい。目指すはあの鬼門、マラッカである。6年前、私がその前後も含めてただ一度だけ窃盗被害に遭った場所であり、そのショックはずっと引きずっていた。

 

マラッカ行きの高速バスに乗るにはKLセントラルから列車に乗り、TBSを目指さなければならない。ここに行くのは何と3本の列車が走っているようで、私は一番安いのを選んだ。乗っている間に、6年前も同じ道を辿ったことが蘇ってくる。列車を降りてもかなり歩かないとTBSには着かなかった。

 

このターミナルにはバス会社がいくつも入っているのだが、切符売り場は統一されており、一番早いバスの切符が買えるのがよい。ただ料金はバス会社により若干違う。それは車体によるのかもしれない。バスは頻繁に出ているので、すぐに乗り込み、すぐに出発する。料金も15リンギ以内だから安い。

 

バスはスイスイと走り、高速道路を経て約2時間で、マラッカ郊外のバスターミナルに着く。ここからバスに乗れば市内に行けるのは分かっている。何しろこのバスの車内でスリにあってしまったのだから忘れられない。だが乗り場が分からずまごまごしているうちにバスは行ってしまい、かなり長い時間待たされた。日本人女性の姿も何人かあり、皆バスを待っていた。マレーシアのバスは安いがタクシーは比較的高いのだ。

 

ようやくバスに乗り込むと2リンギだった。それから30分ほど乗って、市内中心部で降りた。ここは観光客が一番多い場所だ。ここから住所は分からないがチャイナタウンにあると思われる茶荘を探しに行く。真ん中付近から数本北に行くと、ほぼ外れかと思われる道が広い。そこに目指す高銘發を無事発見した。

 

入って声を掛けるとオーナーの高さんが親切に話をしてくれた。ここも1930年頃、シンガポールの支店としてできた店舗で、そのうちにオーナーがこちらに移住して、シンガポールの店はなくなり、今はこちらだけが残っていた。マラッカでは唯一の中国茶を扱う茶荘らしい。

 

マラッカは華人も多いので常連さんがおり、今も中国茶中心に小売している。店舗もかなり趣があり、レトロな雰囲気のマラッカにもマッチしている。だが後継者はいないので、いつまで続けられるかは分からない、と寂しそうに言われてしまい、こちらも寂しくなってきた。

 

これで今回探そうと思っていた老舗茶荘、全てに当たりがついた(すでに無くなっているものもほぼ確認できた)。これは意外とすごいことではないかと自分を褒めてしまった。一応の達成感があると、やはり腹が減る。チャイナタウンをフラフラと歩いているうちに、海南チキンライスを見つける。

 

マラッカの特徴はライスがボールになっていることだ。これは6年前にも味わっているので、特に目新しくはない。もうすることもないので、先ほど降りた場所でバスを待つがバスは一向にやってこない。花をつけたリキシャーに中国人観光客が乗り込んでいるのをずっと見ているだけだった。

 

40分以上待ってついにバスが来た。だがこのバスは循環ルートなので、街をぐるぐる回って、なかなかバスターミナルにはいかない。物凄く時間をロスした思いだ。KL行バスは15分も待てばさっと乗れるだけに、この差はあまりにもデカイ。帰りも目をつぶっているとTBSに着いてしまった。

 

また同じルートで帰ろうとしたが、なぜか私の交通カードはゲートに反応しない。いや私だけではなく、誰もゲートが通れない。何と停電だった。仕方なく、もう一つの路線に乗る。交通カードはチャージしていなかったので、現金で切符を買う。途中でモノレールに乗り換え、KLセントラルの一駅前で降りたが、ゲートが開かない。係員を呼んで聞くと、あと1リンギ払えと言う。

 

おかしいだろうと抗議すると、元々あなたはKLセントラルへ行くのだから、というからまたモノレールでKLセントラルまで行ってみてが、やはり出ることは出来なかった。今度は少し頭に来て係員に聞くと『別路線の切符を買っているから出られない』というではないか。地下鉄からモノレールに乗り換えると料金体系が別だと初めて知るが、それなら乗り換えの所でチェック掛けろよ、と言いたくなる。

 

最後の晩はそんな感じでちょっとイライラ。そろそろ日本モードかな。夕飯は焼きそばと肉団子スープにしたが、これが当たりで気分がよくなる。結局宿も最後まで同じ部屋で、窓がなく、ぐっすり眠れた。

 

9月5日(木)
2か月ぶりに日本へ

翌朝はついに日本に戻る日だった。朝はカヤトーストを食べて支度を整える。空港までのバスにも慣れており、エアアジアのチェックインももう問題はなかった。すっかりホームグランド化している。空港もきれいで居心地は良いので、ゆっくりとネットでもやりながら休む。

 

エアアジアは羽田行きなので便利だった。荷物を預けると一応セットで機内食も出てくる。それを食べるとあとはひたすら寝るだけ。ただ前回、確かフライトが遅れて、終電を逃して、深夜バスで辛うじて家に辿り着いたのを思い出す。今回はそれもなく、楽しいマレーシアの思い出のまま、家に帰り着いた。

マレーシア老舗茶荘探訪 その後2019(2)再びクランへ

9月3日(火)
再びクランへ

リベンジの日がやってきた。先日訪ねたクランだが、結局目的を果たせず、むなしく撤退した。だがその際に今日の約束を取り付けたので、もう一度出向く。しかも訪ねる場所は前回と同じ、自宅だ。場所の位置関係はもう分っているので、特に悩むこともなく、列車に乗り込む。

 

やはり1時間かかってクラン駅に到着し、少し待つと無料バスがやってきた。全く前回と同じ運びだ。だが降りるところが違う。前回はスマホ地図に間違った住所を入力してかなり歩く羽目になったので、今回は一番近いバス停で降りるため、地図を注視して、その場所を探った。残念ながら、前よりは近いとはいえ、歩いて2㎞ぐらいの場所にしか停まらなかった。まあやむを得ない。

 

そこからフラフラ歩いて見知った住宅地に入った。今回はパスポートの提示を求められなかった。そして門の前に着き、ベルを鳴らすと人が出てきた。有り難い。楊さん、楊瑞香の3代目だ。招き入れられ、お茶を振る舞われた。茶荘は20年以上前に畳んでしまい、現在は紅茶粉の工場が離れた場所に残っているという。

 

2代目のお父さんが出ていて話に加わる。楊瑞香は元々シンガポールで始まり、後にクランにも支店を出し、今はある意味ではどちらも無くなってしまったブランドだ。クランは福建系が多い街であり、楊家も安渓人であった。そんな話をしているとお父さんが『肉骨茶を食べに行こう』と誘ってくれる。肉骨茶はクランが発祥地、ここまで2度も来たら、やはり食べたいと思い、連れて行ってもらった。

 

車はクラン駅の近くまで戻って止まった。駅から歩いてすぐのところに創業80年の老舗肉骨茶屋があった。まだ11時台だというのにお父さんは急いでやってきた。『売り切れたら閉まる』からだという。店にはお客がパラパラ座っている。オーナーは忙しそうに働いている。やはり福建人だという。

 

突然こちらに向かって『どの肉食べる?』と聞いてくる。まさか肉の部位が指定できるのか。出てきた肉骨茶、スープが何とも濃厚で、素晴らしい。肉も厚みがあり、柔らかい。何だか肉骨茶を食べている感想ではない。だが、この店が始まった当初は、とてもこんな良い材料で、作られていたわけではあるまい。そこには華人の努力が詰まっているように思えた。

 

お父さんが、『是非連れて行きたいところがある』と言って、また自宅の方に戻っていく。実は自宅に上がった時、不思議な物を見た。日本の仏壇のようなもの。『僕は創価学会会員』と言われて、ビックリした。ここクランにも相当数の会員がおり、会館まで建てられているという。日本人の私のその活動を知って欲しいと会館にやってきた。

 

かなり大きな会館だった。これを会員の寄付で建てたというからすごい。今も月に1度、皆が集まるという。向かい側にはかなりの敷地を持つ池田平和公園まである。クランでこの規模だから、マレーシア全体では、相当の勢力になっているはずだ。日本の宗教法人、アジアでの勢いはすごい。

 

駅まで車で送ってもらった。次の列車まで30分ほどあったので、駅周辺を歩いてみた。まずは楊瑞香の店舗があったという場所へ。しかし今は完全にインド人商店街になっている。更に歩いて行くと古い教会が見える。駅の方へ戻るとヒンズー寺院もある。さすが港町クランだ、と思ったところで、列車が来た。

 

実はクランは昔の州都だが、現在セランゴール州州都は、シャーアラムだという。KLに向かうとすぐにこの駅があるので、ちょっと降りてみた。美しいスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク、通称ブルーモスクがあると聞き、是非見てみたいと思ったわけだ。

 

ところが駅を出た所で、スマホ地図を使おうとしたところ、何とも動かない。約1か月使って、遂に容量が無くなったらしい。駅前には何と店の一つもなかった。少し歩きだしては見たものの、方向も分らず、シムカードのトップアップが出来そうなところは全くない。これでは完全にお手上げだ。シャーアルム見学は次回として、次の列車でKLに帰った。

 

宿に戻る途中、シムカードの処理をした。10リンギで2GBとか言っていたけど、翌日使うとまたすぐに無くなってしまった。新しいものを探したほうが良かったのだが、何しろ後2日内だから我慢した。夕飯は疲れていたので簡単に済ませようと思い、目玉焼きの乗った焼きそばを食べる。

 

腹ごなしに駅のモールを歩くと、美味しそうなパン屋があった。デザート代わりに1つ買うことにしたが、美味しそうなのが2つあったので、それをトレーに乗せて会計に向かう。すると横の女性が『3つ買えばサービスがあるのよ』と教えてくれ、何となく3つ目を選んでしまう。割引があると期待したらなんと『あと2つ無料ですので、選んでください』と言われ、唖然とする。しかしここまで来たら仕方がないと、なんとパンを5つも抱えて宿に戻る。どうするんだ、これ。

マレーシア老舗茶荘探訪 その後2019(1)王室への道は遠い

《マレーシア老舗茶荘を訪ね歩く(2)2019》  2019年8月31日-9月5日

 

8月31日(土)
メダンから戻って

メダンから乗ったエアアジアはあっという間にKLに戻ってきた。正直インドネシアよりKLの方がホッとする。ホッとすると腹が減ってしまい、空港内の食堂に足が向く。カフェテリアには各種の食べ物がズラッと並んでいたが、私はすぐに海南チキンライスの店に前に立つ。わざわざここで食べなくても、とは思うのだが、食べたい物を食べたい時に食べるのが幸せ、ということだろう。

 

バスを探してKLセントラルまで戻る。今日は前回とは違う宿を予約していた。いつも満室で人気だったので、泊ってみることにしたのだ。このホテルはかなりきれいでその割には安い。私が予約した一番安い部屋は窓がない。だがこの窓がない部屋、というのが、よく眠れるので偶に泊まるとよいのだ。電球が切れていたが、すぐに直しに来てくれたのでサービスも良い。

 

まずは洗濯に取り掛かる。明日はどうしようかとその間に考える。だが皆さん明日は忙しいという。私は全く気が付かなかったのだが、何とマレーシアでは昨日(8月31日)は独立記念日、そして今日はイスラムの新年、それで明日は月曜日ながら振替休日になっていたのだ。3連休の真ん中に戻っていてしまった不幸。これも長旅では仕方がないこと。

 

取り敢えずゆっくり休む。夜は近所をウロウロして、中国系の店で定食を食べてみたが、味も美味しくなく、サービスも悪く、料金も安くないという悲劇に遭う。隣の海鮮の方が良いかと思ったが、一人で海鮮は面倒なので、この選択になった。やはり一人旅は食事には不向きかな。

 

9月2日(月)
KL散歩

窓のない部屋でゆっくり寝た。今日は本当にやることがないので、また無料バスに乗って当てのない旅に出た。レッドからブルーのバスに乗り換えて、市内中心部を通る。シャングリラホテルなど、90年代に泊まったホテルは何とも懐かしい。何となく肉骨茶が食べたくなり、その専門店を検索して降りる。

 

だがなぜか歩く方向を間違えてしまい、一向に辿り着けない。そのうち思いっきり腹が減ったので、やむなくモール地下のフードコートで焼きそばを食べて終わる。なんでそうなったのだろうか。それからまたフラフラ歩くと、KLツインタワーが見えてきた。ここは20年以上前にKLに来た頃完成したビルで、日本と韓国が半分ずつ請け負っていたと記憶している。前にあるきれいな公園から写真を撮ってみる。観光客がとても多い。

 

疲れてきたのでバスに乗り宿へ帰る。何だか体力が無くなってきている感じがする。さすがに2か月の長旅での消耗はかなりあり、疲れるのだ。それでも窓のない部屋に居ると昼間は寂しくなる。ちょっと検索すると宿の近くに王室博物館があるではないか。歩いて行けそうなので歩き出す。

 

ところが、川を渡ったあたりで地図がかなり怪しくなる。大きな道路があるのに、示す方向は、人が一人歩けるだけの細い道。突然山歩きかと思う。仕方なく歩いて行くと、何とか通り抜けて廟がある所に出た。しかしそこも博物館の裏側なので、ぐるっと回らなければ入れなかった。

 

一体どうしてこんな構造になっているのだろうか。それはこの広い道がほぼ自動車専用道であり、この博物館には原則車でないと来ないからだ(しかもバスも通っていない)と、正門の前に立ってようやくわかる。入場料を払って中に入るときれいな庭があり当然ながら敷地も相当に広い。

 

靴を脱いで室内に入ると、そこは王様が日常生活を送る場所。決して宝石などが並ぶのではなく、洗濯機があったり、歯医者の設備があったりする。こういう王族の日常が見られる博物館は珍しいのではないだろうか。ふつうは王様の偉業などについての展示が多いはずなのだが。更に行くと、別の建物で特別展として、王様の写真が飾られ、歴史が書かれ、玉座が置かれ、剣などが展示されているスペースがあった。こちらが普通の展示に見える。

 

帰りは無謀にも自動道を何とか渡って帰ろうとする。が、どこへ行っても徒歩では閉ざされてしまい、一般道に出られない。バスもない。仕方なくそのチャレンジを中止して、また山道?をトボトボ帰る。こんなところにさりげなく王様の権威が出ているのだろうか。貴重な体験だった。

 

夜は昨日閉まっていた(祝日だから?)中国系の屋台で食べてみた。ここの人は昨日と違ってとても親切で、テキパキしていた。チキンライスも美味しく感じられ、おまけに料金も安い。こういう店が普通にあると、私のような旅人には本当にありがたい。でもマレーシアの美食を味わおうとすれば、もう少し出掛けて行かなければならないのだ。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(7)メダン散策

8月31日(土)
メダン散策

今朝はもう行くところもないので、適当に歩いてみる。当然これまでは違う道を歩くのだが、何だか引き寄せられるものがある。ずるずると歩いて行くと、マーケットがあり、何だかヒンズー寺院が見えてきた。そしてその横にはゲートもあり、リトルインディア、という文字も見えている。ここにもリトルインディアがあるのか。しかしこれは最近政府が観光誘致か何かで作ったゲートらしい。

 

ちょうどMさんからメッセージがあり、インドネシアの華字新聞を探してほしいと言われたのだが、これまで新聞を売っているところを見かけた覚えがない。ところがここには英字紙が普通に売られており、何とその横には華字紙も並んでいるではないか。その意味は一体なんだろうか、と考えながら歩く。

 

まあ先日のペナン島のようなインド感はなく、リトルインディアは過ぎていく。折角なので大回りして帰ろうと迂回すると、かなり立派な邸宅が数軒見える。やはり華人が住んでいるようだ。高級住宅街はこの辺か。更に歩くと、お墓が見えてくる。華人のものもあるが、インドネシア系もここに埋葬されている。イスラムのお墓の習慣はよく分からない。

 

一昨日行った華人の食堂にもう一度行く。やはりここがうまいと思う。調理中の鍋の音がよい。炒飯を食べていると、おばさんが、『故郷福州の餃子』と言って、スープ餃子が登場する。これは常連のお客にしか出さないもので、冷凍してあったのを解凍したようだ。確かに福建の味がする。どのようにして故郷の味を守っているのだろうか。因みに息子はドライバーなので、次回は使ってやって、と言われる。そこは如何にも華人らしい。

 

午前中散策して午後は休む、これはもう日課となっている。その日課も今日でお終いだが、名残惜しいわけでもない。夕方また外へ出て、スーパーのお茶コーナーを当たるも、目新しいものはなかった。更には昨日も行った旧チャイナタウンへ出向き、見つけておいた1930年創業という老舗食堂へ踏み込んだ。

 

ここもウエートレスはインドネシア人などで華語は通じなかったが、おばあさんが理解してくれ、注文は出来た。鶏の細切り肉が乗った汁なし麺。これはあっさりとしていて、とてもいい味が出ているが、量はかなり多い。その分普通の麺より代金は2倍ぐらいしたが、一度食べる価値はある。豆腐の入ったスープもうまい。

 

メダンの街はスラバヤと比べて大きくはないが、何となく安心できる雰囲気がある。古い建物の壁には若者が書いたと思われるアニメなどがあり、かなり目を引く。インドネシアにはある意味で独特の文化もあるが、一方で日本のカルチャーがかなり取り入れられて、漢字の看板がなくても、ホッとできる部分なのかもしれない。

 

9月1日(日)
KLへ

今日はKLに戻る日になっていた。あのスラバヤの初日に買ったフライトにようやく乗る日がやってきたわけだ。僅か1週間のインドネシア滞在だったが、あまりに色々なことがあり、今や記憶のかなたとなっている。ただ今日は駅に泊まっているので、空港まで列車に乗れば着くという安心感は大きい。特に渋滞の多いインドネシアでは、このアドバンテージは絶大だ。

 

しかしこの空港鉄道、料金が高いわりにやはりなんとも使いにくい。機械だけを入れてしまい、乗客はついて行けていないため、係員がずっと横について、チケット購入を指導している。既に1年前に機械化され、『Manless』という見慣れない英語が掲げられているのだが、誰も信じてはいないだろう。それでも空港鉄道があるだけで有り難いと思わなければいけないだろうか。

 

1時間弱で空港に着いた。空港はかなり混んでおり、思ったよりチェックインに時間がかかる。マレーシア航空なら荷物を預けなくてよいサイズだが、LCCではそうもいかない。先日KL空港で、空港内ホテルに簡単に泊まれたのも、荷物を持っていたからであり、もし預けていたら、一度入国して荷物を取らなければならなかったかもしれない。

 

それでも空港に早く着き過ぎた(ちょうどよい時間の列車がなかった)ため、1時間前のKL行きフライトを見送ることになった。あれに乗れれば楽なのに、と思うが、空港に早めに着くのは鉄則なので、遅れるよりはずっと良い、と思うようにしている。今回のインドネシアの旅、まるで初めてきた国かのように混乱し、また稀有な体験もした。次はいつ来るだろうか。ルピアの現金が余っているから、早めに来ようか。いや、言語問題など、この国の壁は高く、解決しなければ成果は出ないことを肌で知る旅となった。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(6)チャイナタウンを探して

8月30日(金)
チャイナタウンを探して

翌朝もまずはスタバに行く。宿ではなぜか2人分の朝食券をくれるので、これでコーヒーとアイスティーを頼み、クロワッサンを2個ゲットできるので、ちょっと豪華な気分になる。これを部屋で食べてから、すぐに出掛ける。今日は昨日聞いたチャイナタウンの夜市を探しに行く。夜市だから夜行けばいいのだが、夜道を探す自信はないので、昼間に行く。

 

実は駅の横に大きな建物がある。そこは何とお寺だった。入って行こうとすると、数人が手を伸ばしてくる。ここに来る信心深い華人を当て込んだ物乞いだった。廟は真新しく、線香の煙がたなびく。マイノリティーである華人のプレゼンスの高まりにより、建てられたのかもしれない。

 

更に歩いて行くと、トイレに行きたくなり、繊維関係の店がたくさん入っているビルに紛れ込む。売り子はインドネシア人が殆どだが、オーナーに華人の顔が見られる。よくよく見ていると、漢字もチラホラみられる。華語を学ぶ学校の宣伝などもみられるのは、やはりニーズが出てきたからだろう。ドリンクスタンドでは抹茶飲料などが売られている。

 

2㎞以上歩くと、街から離れた感覚になる。するとその辺に漢字が増えてくる。個人の廟が出てきたり、最近できたと思われるお寺が出現したりする。恐らくは2000年以降、スハルトの呪縛が解かれた後に中国大陸辺りから進出してきた寺なのだろう。元々いる華人は嵐が過ぎ去ってもそのトラウマに苦しみ、簡単に看板を出したりしないように思われた。

 

ようやく夜市が開かれる場所まで到達する。勿論午前中なので、屋台は全て閉まっている。仕方なく、その横の食堂に入って、汁なし麺を頼んだ。この味は福建とあまり変わらない。飲み物として中国茶をオーダーしたが、ウエートレスにはそれが通じなかった。華語が話せない華人にも数人遭遇する。一方で、華語でカラオケを楽しむ老人たちも見た。華人も世代により分断されているという現実がここにある。この周辺、立派なマンションなども建っており、財力のある華人たちがいるのだろうと思わせる。

 

スラバヤで買ったシムカード、なぜかスマホの動きが鈍くなっている。もしここでスマホ地図が使えなくなると大変なので、急いで携帯ショップを探して、何とか補充を計る。その方法は分からなかったが、店に行くと若い店員が英語を普通に話し、3GBを4万ルピアで購入できた。どうやら地図を使い過ぎてしまったことが原因らしい。

 

宿に帰る時、さっきとは違う道を通ってみた。すると突然華人的雰囲気のある横道を見つけた。そこには古い観音廟があり、広福亭と書かれた同郷会館らしきものもあった。これぞ私が探していたものだったが、会館は閉まっており、情報を得ることは出来なかった。この付近がその昔、華人が多かった場所かもしれない。いや、今でもひっそりと住んでいるのだろう。

 

曇りだったとはいえ、往復6㎞以上を歩いたので、午後は完全に休息した。結局宿は臨時のつもりのステーションホテルに留まる。まあ住めば都、という感じだろうか。予約はネットがかなり安いのでそれで取ると、クレジットカード決済となり、手持ちのルピアを使機会はない。

 

夕方、また外をフラフラしている。既にほぼ今回の目的(取り敢えず雰囲気を味わう)は達成しており、一方それ以上の成果を得られる感触もないので、正直時間を持て余す。ただひたすら街を歩くのは深夜特急スタイルだろうか。すると、突然狭い横町に、華人食堂が並んでいるところに出た。

 

これまでこれほど纏まって中華食堂がある場所はなかった。こういうところをチャイナタウンと呼ぶのかもしれない。時刻は未だ5時前だったが、目に入った海南チキンライスの店に入る。ここの飯、チキンだけではなく、卵や豆腐なども付いており、かなり豪華な一品で満足だった。おばさんに聞いたら、客家だという。その昔からここで商売しているらしい。

 

この付近を歩いてみると、実は華人系の店ばかりだった。ここが昔からのチャイナタウン、午前中行ったのが、新興のチャイナタウンと言えるだろう。ここにもスラバヤ通という道があった。スラバヤに行く時、私もまず思い浮かべたのは、ユーミンの名曲、『スラバヤ通の妹へ』だった。だがあれはジャカルタにあるスラバヤ通が舞台で、スラバヤは関係ないと言われた。スラバヤにはスラバヤ通はないのだろう。インドネシアと日本の関係、これは簡単には理解できないほど複雑な過去がある。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(5)何とかメダンに到着したが

8月29日(木)
メダンで

振替便は朝8時半出発だったので、6時過ぎに起きて、ゆっくり朝食を食べて、40分前に宿を出た。もしこれがマレーシアに入国していたら、空港までの足を確保して出国審査に並び、ゲートまで来なくてはならないので、どうみても1時間以上節約できたと思う。ところが搭乗ゲートまで行くと長蛇の列。最後の荷物検査が非常にチンタラしているので驚く。

 

ちょうど私の後ろに来た人、昨日乗り継ぎゲートで同じ手続きをしていた。華語で話が通じたので話ながら待つ。彼はメダンの華人で、商売をしており、出張でスラバヤへ行った帰り。『インドネシア政府は本当に何も考えない。自国内移動に外国のエアラインを使われて平気なんだから』と至極まっとうなことをいう。

 

お茶について聞いてみると『メダンは華人も多いが、中国茶を飲む人は多いだろうか。郊外に茶畑があると言ってもあまりピンとこないし』という残念な回答だった。そんな会話をしている間に、荷物検査が終わり、ようやく搭乗できた。さすがに機内は空いており、ゆったり。約1時間でメダンに着いてしまうのだが、この1時間のための待ち時間は実に長かった。

 

メダンの空港に着くと、また入国審査がある。今回はスラバヤで買った帰りのチケットを差し出し、難なくビザ免除となった。それにしてもやはり出入国は面倒だ。インドネシアの国内線充実に期待したい。スラバヤと比べると、メダン空港は新しいのか、かなりきれいに見えた。

 

この空港には市内に向かう列車が走っていると聞いていたので、乗ってみることにした。ルピアは持っているので切符を買おうとした。係員の女性が英語で説明してくれるが、何と現金では買えず(現金の場合は別途カードを購入、このカード代として2万ルピア取られるという)、クレジットカードを使って機械で買うようにと言われる。インドネシアで現金が使えないとは。10万ルピアのチケットをカードで購入。

 

車両はきれいで座席もゆったりしているが、ドアは後ろの1両目しか開かなかった。乗客が少ないということだろう。発車すると、いきなり田舎の畑が広がる。駅はいくつかあるが乗ってくる人はあまりいない。約1時間かけて列車は市内に入り、メダン駅に到着した。この駅には古いローカル列車が停まっている。

 

実は初めての都市だったので、ホテルの予約をしていた。が、昨日の騒動で、泊ることは出来なかった。だが、朝の10時過ぎに駅に隣接したこのホテルに辿り着いたので、一応ノーショーにはならずに済んだ。そしてもう1泊予定していたので、そのままチェックインした。

 

すると、朝食が付いていますがどうしますか、と聞かれる。その朝食とはスタバのコーヒーとパンらしい。下の階にあるスタバに急いで行っていると、まだ朝食提供時間であり、もらうことが出来た。何となくうれしい。こちらのホテル代は支払ったが、KL空港では無料で泊っている。採算はどうなっていると考えるべきだろうか。この朝ごはん分が儲かった、ということだろうか。クロワッサンが意外とうまい。

 

部屋は掃除中だったが、一番奥だけが空いていたので、そこに入る。決して広くはなく、設備が整っているとも言えないが、寝るだけなら十分だろう。朝ご飯を食べて、ちょっと休んだ後、街の散策に出かける。取り敢えず駅周辺でいいホテルはないか探したが、一長一短で、決められない。

 

突然古めかしい洋風のがっしりした建物を見つける。そこに漢字を発見して思わず入っていく。Tjong A Fie’s Mansion、張躍軒という大物華人の家だったようで、博物館になっており、入場料を払って中に入ってみた。かなり立派な2階建ての屋敷であり、調度品なども豪華で、展示品の数も相当多く、勉強になる。やはりスラバヤに比べ、メダンは華人が目立つ。

 

受付の女性に『チャイナタウンはどこにあるのか』と聞いてみると、すぐ近くにあるが、夜市が立つ場所はここから3㎞ぐらい離れているという。まずはこの付近を散策してみる。だが、なぜか漢字の看板には出会わない。中国風の建物も見られない。この辺はスハルトの影響なのだろうか。

 

ずっと歩いて行くと、きれいなモスクや宮殿などが出てきた。取り敢えず宮殿の中を見学したが、特に目ぼしいものはなかった。モスクは外から写真を撮るだけにした。帰り掛け、漢字が少し見えた。どう見てもうまそうな食堂だったので入ってみた。華語は通じ、おばさんが珍しそうに話をしてくれた。焼そばがとてもいい味出している。これで食べるところも見つかったので一安心だ。

 

 

宿に帰ってゆっくり休む。早起きした上に暑い中を歩いたので相当に消耗した。夕方、駅の反対側にあるモールへ行く。かなりきれいで大きい。地下はロッテモールになっていたが、特に食べたい物もなく、ドリンクだけ買って宿に帰る。部屋にはなぜか無料のカップ麺が置かれていたので、それを食べて寝る。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(4)どこの国でもない一夜

8月28日(水)
どこの国でもない一夜

翌朝は早起きして6時にホテルをチェックアウト。頼んでいたタクシーに乗り込み空港に向かう。渋滞の激しいスラバヤ、飛行機に間に合うようにするには何時間前に出発すればよいのか分からず、4時間前にホテルを出た。案の定、途中でかなりの渋滞に巻き込まれたが、何とか1時間ちょっと空港まで辿り着いた。

 

今日は何とマレーシア航空でKLに飛び、そこからメダンを目指す。何故そんなことになったのか。それはそのルートが一番安かったからだ。インドネシア国内を旅するのに国際線に2回乗って行く。もうネタとしか思えないルートだがちょっと興味はあった。それにしても第2の都市から第4の都市に行く国内線直行便がないインドネシア。広すぎると言うべきか。

 

チェックインを済ませて、出国手続きに向かう。何と審査官は、あの3日前に長時間やり取りしてビザをくれた人だった。彼も私に気が付き、『なぜ3日で出国するんだ』と聞いてきたので、『安いから』と答えると、心底不思議そうな顔をしながら、出国スタンプを押してくれた。確かにこの行動、普通は理解できないだろうな。

 

そこまでは順調だったが、予定時間になっても搭乗のコールがない。どうやら飛行機の到着が遅れているらしいのだが、何のアナウンスもないので事態は掴めない。ようやく飛行機に乗ったのは予定時刻を1時間も過ぎていただろうか。そしてまた延々3時間もかけてKLを目指す。機内食を食べると眠りこける。

 

ふと気が付いてみると、すでにかなりの時間が経っており、よく考えてみると、KLでの乗り継ぎに間に合うのだろうか、心配になる。実は乗り継ぎ時間は1時間ちょっとしかないのだ。CAに聞いてみたが、空港でスタッフがアレンジしてくれる、としか言わない。どうみてもメダン行きの便に間に合いそうもない。それでも後続の便に乗ればよいと気楽に考えていた。

 

KLに着いた時にはすでに私が乗るべきメダン行きは出発してしまっていた。乗り継ぎカウンターに行くと、『明日の朝便に振替です』とあっさり言われ、唖然とする。『エアアジアなどの便があるだろう』と食い下がると、『他社便への振替はできません』と淡々と言われる。確かに空港も違うので面倒だが、ではどうするんだ。

 

係員は本当に淡々と、『あなたにはホテル1泊と食事3食が提供されます』という。そこで『私はマレーシアに入国したくないので、エアポートホテルに泊めてくれ』と言ってみるとすぐにアレンジしてくれたので、今晩は空港に泊まることになった。こんな経験できるものではないし、第一メダンの予定は何もないのだから気楽なものだ。因みに同じフライトで11名がここに泊め置かれたらしい。

 

そのエアポートホテルは空港の隅の方にあった。入ってみるときれいなところで、部屋は勿論個室、それなりに整っており、これまで私が泊まってきたホテルより良いのではと喜ぶ。Wi-Fiが若干弱かったが、マレーシアのシムカードも持っているので、問題は特に何もない。

 

設備の整ったマレーシアの空港でWi-Fiが弱かったのは、実は10日以上前に空港のシステムが全てダウンして、数日手作業で空港業務を回すという異常事態があった余波らしい。私がスラバヤに行く時も懸念されたが、既に治っていたので気にならなかったが、こんなところに影響があるとは。これはテロだったのだろうか。

 

ちょっと腹が減ったので、まずは1枚目のクーポンを使う。空港内のショップで20リンギ以内のご飯が選べる。麺からご飯まで様々な店があったのだが、貧乏性な私はぴったり20リンギの食べ物を探し、結果バーガーキングのセットになってしまった。まあ偶にはコーラにポテトも良いか。

 

それを食べていると、インド系の乗客が10人ほど入って来て、飲み物だけを頼み、自分たちが持ち込んだ食べ物を食べている。これ、良いのだろうか、と思ったが、食べられるものが限られているのなら、仕方がないということか。寛容な国マレーシア、店の採算はどうなるのか。しかし外食で苦労する人は多いのだろうな。

 

空港内を散策する。広いことは広いが特にすることもなく、夕日が落ちるのを眺めていた。私は今一体どこの国にいるのだろうか。インドネシアを出国したが、マレーシアには入国していないぞ。真空地帯に放り込まれているのか。推理小説に使えそうだな。夕飯はホテル内の食堂で食べる。ちょうどサッカー中継などがあり、それを見ながら黙々と済ませ、早めに就寝する。特に飛行機の音がうるさいなどはない。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(3)チャイナタウンに突撃

8月27日(火)
再び安渓会館、そしてチャイナタウンへ

翌日もう一度安渓会館を訪ねるべく、昨日と同じ道を歩く。道が分かっていればかなり早く着ける。この会館の向かいは墓地だった。きれいに墓石が並んでいる。昨日と違い、門は開いていたので、中に入って華語で呼びかけた。すると華語で返事があったので、それだけでもうホッとする。

 

ここの世話人さんが、相手をしてくれた。ただこの会館も20年ほど前にできた(その昔は別にあったかもしれないが)ということで、その歴史は古くはない。そして予想した通り、会員に茶を商っている人はいない、との答えが返ってきた。元々スラバヤは華人比率が低く、茶荘は成り立たなかったのではともいう。老人に聞いてみれば、もう少し昔のことが分かるかもしれない。日曜日の午前中に集まりがあるので参加してみれば、と言われたが、私にはその時間はなかった。

 

もう一度福建会館の場所を聞くも、昨日と同じ場所を言われたので、諦めた。これまでシンガポールやマレーシア、タイなどでは、同郷会館に行けば、なにがしかの情報は得られたのだが、ここインドネシアは様子が全く違うことを改めて思い知り、私の挑戦は終了した。

 

これまで聞いた限りにおいては、やはりスハルト時代の影響が大きく、華語禁止などにより昔の資料は何も残っておらず、華人自身も華人の歴史に関心を持つことはなかったと言ってよい。その中で120年前の華人茶商の足跡を追うことは、研究者などがいない限り困難だとはっきり言える。

 

昨晩、パサールアトム辺りがいわゆるチャイナタウンだ、と教えられたので、そこまで歩いてみる。ホテルからはどんどん離れていく。その市場、前面は古い感じで、後ろは新しく付け足されたモールのようだった。特に華人色が強いとは感じられない。昨日教えてもらった地元料理、食堂で名前を言い食べて見るとどれもおいしい。侮れない、インドネシア。

 

別の道をトボトボ歩く。どこかからバスで帰れないか探したが、どれに乗れば良いか全くわからない。運転手に聞いてみても、私が行きたい場所が通じない。ふらふら歩いて行くと、昨日と同じような路地があり、そこはなぜかオアシスのように心地良い。本当に不思議な空間だ。

 

更には鉄道の線路も見えてきた。駅があるだろう方向に歩き出すと、線路沿いは低所得者が住むバラックのような家が多かった。庶民の暮らしといっても、この国には信じられないほどの格差があるのだろう。駅が見えてきたが、列車に乗るわけでもないので、また宿の方向に歩き出す。何とカメラのカードが満杯になり、写真も撮れなくなる。

 

かなりの疲れを覚えながら帰路に就いたが、途中で疲れがピークに達する。そこにリキシャーの運転手が声を掛けてきたので、遂に乗り物に乗ってみることにした。ホテル名は分かったようなのであとは料金交渉だ。向こうが指を3本出したので、こちらは1本だし、最後は2本で折り合った。これが高いのか安いのか分からないが、乗ってみるといい風が顔に当たり快適で、もう歩く気がしない。

 

午後気を取り直して出掛ける。ネットで検索したところ、チャイナタウンはあの市場の更に向こうにあることが分かり、リキシャーに乗ればさほどの労力もいらないことを知ったので、再チャレンジに出た。リキシャーがなかなかいなくて、少し歩いて拾う。やはりかなり遠い。

 

ようやく川を渡り、それらしい感じが出てくる。橋の所で車を降りた。赤い橋、ジュンバタン・メラ。確かインドネシア独立戦争の火ぶたが切られた歴史的な場所だ。その向こうには門が見え、ここがチャイナタウンだと分かる。古い建物が続き、港が近いためか、商店や倉庫が立ち並び、かなり活気がある。これぞ私が求めていた場所だった。

 

更に歩いて行くと、いつの間にか雰囲気がかなり変わり、アラブ人街に入っていた。狭い路地に店がひしめき、人の往来も多い。通りに車が列をなし、歩く人々も滞る。まるで映画のワンシーンのような光景だった。ここスラバヤが往時、貿易で栄えたと実感できる雰囲気がここにはある。

 

そこから大人しくリキシャーを探して帰ればよかったのだが、またフラフラ歩き出してしまう。かなり長い距離をひたすら歩いた。途中に沢山モスクがあり、英雄記念塔などもあった。何だか楽しくなり歩いてしまったのだが、かなりのダメージだった。最後はホテルマジャパヒまで歩きつく。日本軍占領時代の旧大和ホテル。歴史的な雰囲気はあり、かなり格調高くて、きれい。次回はここに泊まりたい。夜はフードコートで地元料理を満喫。疲れたのですぐに寝る。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(2)福建会館はいずこに

8月26日(月)
福建会館はいずこに

翌朝は天気も良かった。スラバヤにある安渓会館の住所という、ほんの僅かな情報、を基に調べを開始した。交通機関は全く分からないので、スマホ地図に住所を入れて歩き始める。道はかなり広く、横断は難しい。途中にA&Wがある。見るのは沖縄以来か。20分以上歩いたが、目的地は見つからない。地図上では着いているのだが、ここスラバヤでは漢字の看板が殆どない。英語もないので、この建物が安渓会館かどうかもわからず、しかも鍵がかかっていて、聞くこともできなかった。

 

周囲を歩いてみると、何だかお寺があるらしい。行ってみると、鄭和基金会と鄭和清真寺いう文字が見えて驚く。なんでここに鄭和が出てくるのだろうか。入り口から入ると、老人がいたので、華語で話しけると華語で返事があり、ホッとした。ここの創設者だという老人が、話をしてくれたが、このお寺と基金会は2000年頃に創設された比較的新しいものだった。

 

インドネシアにおける華人のプレゼンスは僅か5%程度で非常に低く、しかも何度も華人排斥運動が起こり、アジア通貨危機後の混乱でも、様々な困難があった。スハルト政権は30年以上に渡り華語を禁止したため、漢字の看板は極めて少なく、また今の30-50代の華人は華語を学習していないという。

 

そんな中でスハルト後にインドネシアのイスラム教徒との融和を図るために作られたのが、この施設だという。因みに鄭和とは明代に大航海をした人物だが、ここスラバヤに寄ってはいないらしい。ただ彼は雲南の回族出身で、イスラム教徒ということで、ここに名前が使われたという。

 

お茶について尋ねてみたが、ここスラバヤに中国茶を扱う茶荘は全くないという。恐らくは1960年代スハルトの弾圧があった頃までには、全ての個人の茶荘は無くなっていただろうともいう。現在華人、特に老人が飲んでいる茶は、スーパーなどで売っている中国茶になる。この茶もスラバヤで作られているものはない。

 

この付近一帯には、ほんの少し中国語の看板が見られる。中国語学習の場もあるようだ。だがそれ以外には漢字がない。先ほどの安渓会館について聞くと、恐らく明日は誰かいるだろうという。そして福建会館の場所を聞くと、正確な位置を教えてくれたので、今日はこちらを当たることにした。

 

だがこれもまた困難を極める。最初は道を間違えて路地に入り込んでしまう。そこで英語ができる人に言われて、その先の道を探す。教えられたとおりの建物の前まで来たが、こちらも看板はなく、門も閉ざされており確認しようもない。近所のおじさんに聞くと確かに華人の集会所だとは言うのだが、それ以上踏み込む余地がない。疲れ切って、宿の方へ歩いていく。

 

途中で、道端にあったファーストフード店のようなきれいな店に入る。スラバヤには屋台もいつも出ているが、どうも入る気になれない。この店、やはり言葉は通じずに、写真でメニューを選び、片言英語で何とか店員との意思疎通を図る。向こうもまさかここに外国人が来るとは思っておらず、かなり慌てていた。食べ物は意外に美味しく、甘いドリンクは無料で提供された。

 

そこから博物館があるというところまで歩いて行った。かなりの距離があるが、乗り物に乗れないので仕方がない。博物館は立派な建物の中にあったが、今日は閉まっているようだった。それでも囲いがないので大体の展示物は見えてしまう。あまり必要な物はなさそうだと判断して去る。

 

その後路地に紛れ込む。これがなかなか楽しい。意外と清潔なのはイスラムの伝統だろうか。鉢植えの植物が多く置かれ、鳥かごが掛けられているのは中国的かな。何となく風までさわやかに感じられてくる。インドネシア第2の都市であるスラバヤだが、やはり首都ジャカルタとは大きな違いがある。

 

一度宿で休息して、午後4時前に宿を出た。今日は先日KLで出会ったMさんの昔の同窓生を紹介してもらい、郊外のショッピングモールで待ち合わせていた。だが路上にタクシーはなく、向かいのモールの警備員に頼むと親切にも一生懸命探してくれて有難かった。

 

夕方のスラバヤ、かなりの渋滞になっていた。指定されたモールまで、約1時間もかかる。それでも車代は空港から来た時の半額だった。それにしても名前からしてでかいこのモール。本当に広くて驚く。2つのモールが繋がっており、ただ歩いても端まで2㎞ぐらいある感じだった。何とか落ち合うことが出来たのは奇跡的だ。

 

彼女はここで台湾人学校に勤めているという。台湾人学校といっても台湾人より現地華人の子弟が多いらしい。フードコートで地元の名物、ビーフボールとカレー、油条などをご馳走になる。これは確かにうまい。その後ご主人も合流して、スーパーで売られているお茶などを観察する。華人の雰囲気を出しているパッケージだが、中身はどうだろうか。更には実際にドリンクスタンドで薬用茶を買って飲んでみる。

 

ご主人が態々、宿まで車で送ってくれた。この夫婦は郊外に住んでおり、別々の車で通勤し、夜ここで落ち合って食事・買い物してから帰るらしい。ご主人からは現在のインドネシア情勢やスラバヤのことなど、非常に有意義な話を車中でたっぷり聞いた。こういうことがないと、現地に来ても何も分からないな、ということがよく分かった。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(1)スラバヤ空港の珍事

《スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019》  2019年8月25日-9月1日

インドネシアを訪ねたのはもう6年も前のこと。ジャカルタの渋滞に嫌気がさし、言語の通じなさを嘆いて、それ以来脚が遠のいていた。だが、台湾茶の歴史には必ずインドネシアが出てくる。今回は何の足掛かりもないまま、取り敢えずビザ免除にもなっているので、第2の都市スラバヤと、第4の都市メダンを訪ねてみることにした。かなり困難な旅が予想されるが、果たしてどうなるのか。

 

8月25日(日)
スラバヤで

KLを離陸したエアアジアに乗っていた。スラバヤまでの飛行時間は約3時間。そんなに遠いのかと思い地図を広げると、確かにジャワ島の東の端だから、遠いのだ。6年前は香港人のトミーの後ろに付いて、ジャカルタ入りしたのだが、今回は一人。しかも何の情報もない中を行く。ただ一つ、日本人はビザ免除になっているのが救いだった。

 

だがインドネシアはそれほど甘くはなかった。スラバヤ空港は大きくなく、すぐにイミグレに辿り着く。パスポートを出したところ、『帰りのチケットは?』と聞くではないか。『これからメダン経由でKLに戻るので帰りは未だ手配していない』というと、すぐに別室に案内されてしまった。これは恐ろしいことになるかもしれない。最悪KLに戻ることになるかも、と悪いことが頭を過り、緊張が走る。

 

それからさんざんすったもんだの挙句、ビザ免除のスタンプを得たのは1時間後だった。預けていた荷物も無事に回収できた。昔のインドネシアなら、わいろを要求されるところだろうが、今はきちんと正規の要求、手続きをしてくれたのは良かった。まあ、旅にはトラブルが付きものであり、また何とか解決法があるのだ、と久しぶりに旅の醍醐味を感じる。

 

出口を出て、まずはスマホシムカードを探す。色々と手続きがあるとか聞いていたのだが、あっという間に購入完了。すぐにスマホは起動した。そしておじさんがタクシー要るかと聞いてきたので、一応料金を聞くと、15万ルピア。ちょっと高そうだったので、断って背を向ける。するとすぐに言い値が下がり、見事にタクシーゲット。スラバヤ空港も市内行バスはないとのことで致し方ない。

 

スラバヤ郊外は緑豊かで快適だった。日曜日のせいか、道は比較的空いており、1時間弱で市内に予約しておいたホテルに入った。大型の古めのホテル、料金はそれほど高くなかったが、何だかビジネススイートという部屋に通される。入口に机があり一部屋だが、使うことはない。それでも居心地は悪くなさそうだ。

 

隣にショッピングモールがあるというので行ってみる。かなり小さな店が入っている、タイなどによく見られるタイプだ。両替所でもあれば、と思ったのだが、何とエスカレーター故障で上の階に登れず。ATMの機械に銀聯カードなどを差し込んでみたが、空港同様現金は出てこない。

 

急激に空腹を覚えたので、そのビルにあった吉野家に駆け込む。インドネシアで牛丼か。メニューを見ると、チキンやベジもある。私は迷わず、マヨ玉牛丼をチョイスした。ここでこれが食べられるとは何だか幸せだ。このメニュー、日本にはあるのだろうか。マヨ玉、やはり美味い。インドネシア入国初日にこれはないだろうか。

 

ホテルのフロントに聞くと、両替は1㎞ほど歩いたショッピングモールにあるというので、散歩がてら出掛けてみる。すでに日は暮れていたが、交通量は多く、信号などはないので歩行者にはかなり厳しい環境だ。それでもライトアップされた古い建物もあり、歴史を感じさせる。ようやくたどり着くと、そこは立派なモールで、日本関連の店もいくつもあった。

 

ただ両替所では『米ドルの旧札は両替しない』と言われてショック。空港では両替してくれたのになぜと聞いても取り合ってくれない。取り敢えず持っていたマレーシアリンギを両替した。さっきのモールでドリンクを買おうとしたが、レジが大行列だったので、こちらのスーパーで買う。既にインドネシアの国民飲料となっているポカリスエットは勿論、ビタミンウオーターなど日本製のドリンクが並んでおり、日本より安いのがよい。きっと生産はインドネシアで行われているのだろう。

 

部屋に帰って何気なくテレビを点けると、バドミントンの世界選手権を生中継で放送していた。昔バドミントンはインドネシアの国技とも呼ばれていたが、最近は日本の方が上回っている。男子の桃田は圧勝、女子の奥原はなぜかインド選手には勝てない。女子ダブルスは日本勢同士の対決となり、最後の男子ダブルスでインドネシアペアーが日本を下して、実況席も大騒ぎになった。こんなのをインドネシアで見られるとは面白い。