「茶旅」カテゴリーアーカイブ

マレーシア茶旅2024(5)タイピン散歩 十八丁にも

そこから別の道を歩いてみる。モスクやヒンズー寺院が目に入る。更に行くと福建会館など華人系の建物が見えるが、その先にはまたモスクがあり、かなり混沌とした雰囲気がある。大きな学校もあり、その向こうの教会が立派だ。100年以上前、この街は今より賑やかで、更に混とんとしていたのではないだろうか。

かなりの距離を歩いて疲れたので、宿で休息する。それでも腹は減り、昼にまた外へ出た。一番近いフードコートでミーレブスというマレー系の麺を食べてみる。かなりスパイシーなカレー麺。中国語では吉霊麺と書かれていて、ちょっと神秘的だ。コーラを飲みながら流し込む。

暑いのに何となく散歩する。湖の裏道を通ると、周辺には古い家が並んでいる。昔の別荘のような木造家屋もあるが、今やだれも住まず、手入れもしていないので、荒れ果てていた。何だかもったいないな、私がここに住もうかな、などと思ってしまう。タイピンが思いの外気に入ってしまったと感じる。

午後は柯さんが迎えに来てくれて、彼の店で茶を飲みながら、六堡茶の歴史などについて聞いた。1930年代の六堡茶も残されていると言い、その歴史が予想外に古いことに興味が沸く。すると柯さんが『それならイポーの人を紹介しよう』と繋げてくれた。折角なので、急に茶旅となり、六堡茶を追うことにした。それにしても柯さんも収蔵家であり、相当に色々な茶や茶器を持っていて驚く。

夕方柯さんが『さあ、いこう』と言って車に乗る。どこへ行くのかと思っていると途中でいきなり炭焼き工場に入っていく。何でもここで作られた炭を日本企業が購入して、日本へ運んでいるのだとか。それでわざわざ寄り道してくれたらしい。150年前、森林を開拓して炭坑が掘られたことと関連があるのだろうか。

それから30分ほど行くと、なんと海に出た。クアラセペタ、中国名十八丁というらしい。何とここはミニ観光地になっており、簡単な宿泊施設やレストランがある。週末はここからボートクルーズ(鷹に餌をやる、ホタルを見るなど)などが出ており、結構賑わうらしい。ただいまは平日の夕暮れ時、人影はほぼない。

柯さんの知り合いの店へ行き、名物だという甘い飲み物を飲む。そして店の人にある場所を聞いている。そこは何とマレーシアで最初に鉄道が敷かれた駅。ということは、午前中に見たタイピン駅はここと繋がっていたのだ。炭坑から出た物を鉄道でここへ運び、船で外へ出していたということだ。

今は誰も顧みない駅の名残。そこには『PORT WELD 1885』と刻まれていた。更に近くに媽祖廟があるというので探したが、見つからなかった。近隣の人は皆親切で、色々と教えてくれた。どうやら個人の家の中にあるらしい。これが潮州系華人の証のように思われたが、果たしてどうだろうか。

雨が降り始めたので帰る。途中に古いお寺があり、その横に比較的新しい船の模型が飾られていた。何となく鄭和を祭っているように見える。まさかここまで来たのだろうか。最後にタイピンまで戻り、古廟を一つ拝見して、見学は終了した。今日も日はとっぷりと暮れていた。柯さんがベジタリアンなので気を使って私をフードコートで降ろしてくれた。好きなものを食べて、という配慮だ。

賑やかなフードコートで、カレー麺があったので、注文してみる。思った以上にスパイシーだ。それに食べたいなと思っていたのはスープ麵ではなく、汁なし麺だったのでちょっと残念。また明日以降探そう。他にも色々と食べる物はあったのだが、何となく腹が一杯で、散歩して帰る。

マレーシア茶旅2024(4)ペナンからタイピンへ

それから町中の薬局に立ち寄る。80代のお爺さんが迎えてくれた。元は潮州から船で来たという。薬局ではあるが、六堡茶は商っていたと言い、美味しいお茶を淹れてくれた。急須などの茶道具にも凝っており、面白い。ここ数年、六堡茶がブームになり、中国や香港、台湾から茶商が古い六堡茶を買い付けに来たというが、こういうところに眠っていたのだろうか。

もう一軒、昨日は日曜日でお休みだったペナン一の茶荘、天一銘茶へも行く。老舗らしい建物の中で、オーナーとお茶を飲みながら話していると、この店が1983年開業であり、当初は台湾の天仁銘茶の代理店として烏龍茶を売っていたことなど、興味深い歴史を聞く。向こうの方には白人が数人来ており、彼らは取材だという。オーナー夫人はもっと詳しいらしいので、次回は話を聞いてみよう。

ようやく快晴の中、橋を渡り、ペナンを離れた。これからタイピンへ向かうと思っていたが、車はなぜか反対方向へ走る。高速を30㎞以上走ってスンガイパタニという場所に着いた。ここにローカルな茶荘があった。柯さんがここに来たのは、古い急須に出物があるとの情報からだったが、この店には六堡茶など相当古い茶が沢山置かれており、どんどん飲ませてくれた。こんなところに簡単には来られないな、と柯さんに感謝する。

そしていよいよ車はタイピンへ向かう。既に日が暮れかかっている。ケルビンがなぜ柯さんを紹介してくれたのか、その意味が分かる。もしバスでペナンから向かっていたら、10㎞以上街から離れたバス停で降ろされ、そこからまた自力で街へ行かないといけないのだ。タイピンの街に入ると、既に周囲は暗くなっていた。

まずは腹ごしらえ。柯さんは仏教徒でベジタリアンなのだが、なぜか海鮮料理屋へ入っていく。おかしいなと思っていると、店の中が仕切られており、奥にベジレストランが併設されている。ここで美味い豆腐と野菜を食べた。ベジは疲れた体に優しいのでとても良い。勿論オーナーも華人だ。

そのオーナーが経営しているという湖畔の宿へ向かった。タイピンといえば湖、その景色を楽しむリゾート地として、知られている。宿代はそれほど高くなかったので、シンプルな部屋を取って落ち着く。夜のタイピン湖を柯さんと少し散策したが、涼しい風が吹き、今日の疲れが癒える。

周囲にコンビニはあるかと聞くと、街の方へ行けばある、というので、歩き出す。10分もせずに街の真ん中に来たが、コンビニは遠い。フードコートやホテルがある先を行くと、古い町並みが登場した。広東会館などと書かれ建物もある。さすがに華人の街タイピン。今年で街が開かれて150周年だという。

1月30日(火)気持ちの良いタイピンで

翌朝は気持ちよい朝を迎えた。1階で朝食のサンドイッチを食べて、すぐに湖へ出掛けた。徒歩1分で湖周回路へ。多くの人が朝の散歩を楽しんでいる。このゆったり感、何とも言えないリゾート感。道路に大木が倒れ掛かり、その間を抜けて行くのは楽しい。さすが、マレーシアで一番住みたい街に選ばれるだけのことはある。

取り敢えず駅に向かう。この地ではバスは役に立たないと分かったので、次の訪問地、イポーには列車で行くことにした。街中を通ると、漢字が非常に目に付く。古びたいい感じの建物も多い。ちょっと時間が止まったような雰囲気もある。駅に近づくと1915年に建てられた立派な英国式学校もあった。タイピンは1874年に炭坑開発で街が出来、華人が労働者として大量に入植したと聞いた。その先に駅があり、何とここがマレーシア初の鉄道であり、鉄道駅であると書かれていて驚く。駅舎は新しくなっているが、その横に今や食堂となっている旧駅舎が残っている。新駅舎でイポー行きのチケットを手に入れた。

マレーシア茶旅2024(3)ペナンで食べる

宿に戻って休息していると、ケルビンが迎えに来てくれた。今回は茶旅ではないのだが、4年前にお世話になったので、何となく会いたくなって連絡した。彼は車で来たが、おじさんが一人横に乗っていた。取り敢えず郊外の茶荘へ向かう。雰囲気の良いお店で、茶芸を見る。ここのオーナーは1990年頃から台湾茶芸を習って今があるのだと説明される。飲んでいるお茶はやはり黒茶だった。マレーシア茶復活の歴史の一端を見る。生徒は華人が殆どらしい。

それからペナンの美味しい食べ物を食べに行く。日曜日ということもあり、昼下がりの市場は人が多い。焼きそばが特に美味い。こういうものが食べたかった。ケルビン、ありがとう。おじさんと話していると、何と1960年代に台湾の大学に行ったという。当時マレーシアには大学が少なく、簡単に入れる台湾へ行った、というのだが、その頃は反共政策で、東南アジアの若者華人を台湾で教育する、という歴史もあったようだ。これは思わぬところで貴重な話を聞く。

一度宿へ戻り、夕方また外へ出た。宿の裏にはユダヤ人墓地があった。ペナンも色々な人種を受けて入れてきた歴史を持つ。街中を歩くと、本当に様々な顔が見られる。そして様々な建物も建っている。30分ぐらい歩くと、中国人街が見えた。華人の建物も見え、チャイナロードと書かれていたが、その先に踏み込むと何とインド人街だった。

今晩はここにあるカレー屋でJさんと会う約束になっている。前回は確かKLで会った。彼女は色々と動き回っており、ここで再会となった。この店の面白い所は、竹筒に入ったライスが出されて、ルーをつけて食べる。これは意外と旨い。Jさんはもうすぐペナンを離れて、また放浪するらしい。ペナンはかなりいい所だと思うのだが、それでも放浪するのだから、放浪が好きなのだろう。またフラフラと宿に帰る。

1月29日(月)ペナンからタイピンへ

今日はペナンを離れることになっており、当初は朝バスに乗るつもりだったが、何とケルビンがタイピン在住の茶商を紹介してくれた。その人は午前中にペナンに来て仕事をこなした後、私をタイピンまで乗せてくるという、何とも有り難い話に乗った。それで午前中が自由時間となる。昨日ちょっと通った日本人街の方へ足を向ける。

日本人墓地にも関連するが、この道は戦前の日本人が多く住んでいた場所らしい。その面影はあまりないが、日本好きのマレーシアらしい感じはある。その付近で朝ご飯を探すと、また麺が目に入る。暑いからだろうか、マレーシアではとにかく汁なし麺が食べたくなる。甘めの味も好みである。更に猪腸粥が目に入ってしまい、そちらの店でも食べてしまう。本当に安くてうまい。

宿に戻り、柯さんの到着を待つ.ちょうど12時、チェックアウト前に柯さんは迎えに来てくれた。何とも有難い。まずはランチに行こうと連れていかれたのが、和食屋さん。メニューを見ると、何と抹茶があり、更にきつねラーメンが目に入る。この意外性が面白くて注文してみる。和といえば抹茶、というのは絵に描いたような日本イメージ。これは世界で繰り広げられている日本文化紹介で、『お茶といえば抹茶』を広げた結果だろう。

きつねラーメンについては日本にも殆どないと思う。ただその中身はラーメンにお揚げを乗せただけかな。実は帰国後近所に一軒あったので、訪ねてみたが、すごく精緻なきつねラーメンで、店主によれば『日本にはほぼないと思う』とのこと。マレー人はうどんが嫌いなのか、店の仕入れの関係でラーメンが良かったのかは分からないが、これが世界に広がっていく和食の一つではないだろうか。

マレーシア茶旅2024(2)ペナンに辿り着く

午後5時半、クアラパリス港に着いた。ネット検索によれば、この付近から午後6時にペナン方面へ行くバスが出ているらしい。一応一番先頭でフェリーを降り、早足にバス停を探すが見付からない。何とかフェリーターミナルを抜け、人に聞いてみると、バスターミナルはその向こうにあることが分かり一安心。

5時40分、バスターミナルのチケット売場で『ペナン』と叫ぶと、今出るところだ、とチケットを渡される。何とかドリンクだけを確保してバスに乗り込むと、あっという間に出発した。もし6時だと思ってゆっくり来ていたら、今日はこの街止まりだったかもしれない。これはもう運が良いとかいう問題はなく、何かに導かれた旅となっている。

バスにはほぼ乗客はいなかった。ゆったりとした気分でいると、すぐにバスは停まり、客を拾い始める。今日は土曜日、その夕方だから、街中は渋滞していて車の動きは悪い。しかも何か所にも停まり、クアラパリスの次の大きな街、アロースターまで何と2時間もかかってしまった。既にとっぷりと日は暮れている。

一体何時にペナンに着くのだろうかと心配し始めた頃、バスは高速道路に乗り、かなりのスピードで走り出した。結局ペナン島の対岸、ペナンセントラルのバスターミナルまで、4時間弱で到着した。思ったほどのロスはなくてよかった。しかしまだペナン島ではない。ここからGrabを呼ぶ手もあったが、折角なので本日三度目のフェリーに乗ることにした。

バスターミナルからフェリーターミナルは繋がっているので、歩いて行く。フェリーはこの時間、1時間に一本だった。何と支払いはKLで使っていたタッチアンドゴーというカードで支払えた。2リンギ。このフェリーの乗客の半分はバイクに乗っていた。対岸が近づくと明かりが見える。香港スターフェリーをちょっと思い出す。

フェリーは僅か10分で対岸に着いた。ついにペナンに入った。サトゥーンの宿で出てから13時間が経過していた。ここでGrabを呼んで、予約した宿へ向かった。ジョージタウンも大きな街ではないので、10分もかからずに宿に着いた。ここは新しいが客はほぼ中国人という感じだった。

部屋も中国的。そこではたと思い出す。腹が減ったと。何と朝から何も食べていなかったが、時刻は夜の11時。外へ出てみたが、多くの店は閉まっていた。ただ向こうの方に明かりが見え、行ってみると24時間営業のインド系の店があった。その店頭でおじちゃんが焼いている物が実に旨そうで、それを注文した。モットバと教えられたので、そのまま発音するとウエイターも了解した。まあ、お好み焼きみたいなものだが、今日一日の大冒険、久しぶりに旅らしい旅をした気分に実に合う食事だった。

1月28日(日)ペナンに遊ぶ

何だか気持ちが高ぶって眠りが浅い。それでも天気が良さそうなので外へ出る。ペナンは散歩に適した街だ。車の量はそれほど多くはなく、そして何より歴史が感じられる。古い建物が並ぶ一角はなかなかいい。寺院や同郷会館も見られる。その先には4年前に訪ねた老舗茶荘、老翁茶の店があった。朝早くてまだ開いていないが、コロナ禍を生き抜いていて嬉しい。

今朝訪ねたのは、日本人共同墓地。ペナンにあると聞き、来てみたが、残念ながら鍵がかかっていて中には入れない。それでも墓石に日本語が見える。からゆきさんの墓が多いようだが、確認はできない。隣にはマレーシアの有名歌手の博物館があったが、こちらも時間的に早くて開いていなかった。帰りに古い建物の1階にあった食堂で汁なしワンタンメンを食べた。いい感じだった。

バスターミナル付近まで歩き、タイピン行きバスを探したが、よく分からなかった。銀行のATMでお金をおろした。ペナンではなぜかATMをあまり見かけず、探すのにかなり苦労した。宿の近くにはパキスタンモスクがあった。ペナンにはパキスタン人が多くいるのだろうか。

マレーシア茶旅2024(1)奇跡のランカウイ脱出劇

《マレーシア茶旅2024》  2024年1月27日₋2月5日

1月27日(土)ランカウイからクアラパリス、そしてペナンへ

タマラン港を出たフェリーは、ずっと陸地を見ながら進んでいく。途中少し波が荒い場所はあったが、順調に航行して、約1時間半でランカウイ島に到着した。ここで入国審査を受けるのだが、乗客が多く、列が長い。私は係のおじさんに『日本人は早く通れないか』と聞いてみたが、首を横に振る。だが彼は親切にも私の問いに答え『ペナンへ行く直行フェリーはない。ネット検索したら、今日のクアラパリス行きフェリーのチケットはすべて売り切れているぞ』と教えてくれた。

この情報は衝撃的だった。何とか入国するとすぐにフェリーチケット売場へ走ったが、既に窓口に『Sold Out』の文字が貼り出されていた。もう一つの半島の街、クアラケダー行きも同様だった。ということは、ペナンはおろか、半島側にも渡れず、ここで一夜を過ごすしかないのだ。思い余って飛行機のフライトを見てみると夕方5時にペナン行きが1便ある。当然チケットは高いが、それに乗るしかないと覚悟を決めた。

なぜそれほどまでにランカウイを嫌うのか。勿論明日ペナンで知り合いと約束があるからだが、もう一つの理由は、20年以上前にこの島に家族旅行に来た時の印象があまりよくなかったこともある。高級リゾートばかりで、つまらなかった、という思いが20年経っても消えていない。人の記憶とは一度刷り込まれると容易に消えない。

すると、背後から声が掛かった。『クアラパリスへ行く別のルートがあるよ』とその男は言う。どう見ても胡散臭いし、人の足元を見ているようでもある。だが彼は『実はここと別の港からカーフェリーが出る。そちらはネット販売もしていないから、チケットは買える』と言い切るのだ。フェリーの出発は午後3時らしい。

今は1時半だと思っていたら、何とマレーシアとタイには時差が1時間あり、既に2時半。ここから別の港まで車で約20分だという。瞬時の決断が必要だった。私はこの男に賭けることにした。タクシー運転手だと名乗っていたが、どうやら元締めのようで、私をタクシー乗り場へ連れていき、一番前に並んでいた若者に私を託した。

ランカウイの道はきれいで、実にスムーズだった。建物も洗練されていて、ここに一泊するのも良かったのではと思うぐらいだった。だが私はリスクを抱えて車に乗っている。20分後タクシーは港に着いた。運転手は私をチケットオフィスに連れていき、無事にチケットが買えた。タクシー代が30リンギで、フェリー代は25リンギだったが、これは仕方がない。

あと10分で出航だったが、何と私の前に税関が立ちはだかった。一人でスーツケースを抱えて慌てている男は怪しく見えたようで、ケースの中を全部開けられ、チェック(主に酒類らしい)された。それでも何とか船に乗り込み、事なきを得た。いや、あの状況から考えて、奇跡が起こったというべきだろう。

船は大型船。席は8割がた埋まっており、マレーシア人の家族連れやカップルが乗っている。一時は拉致されて貨物船にでも乗せられるかと心配した??のだが、全くの杞憂に終わる。彼らは恐らく半島側から遊びに来て、帰るところではないか。車社会のマレーシアで、船を降りても車が必要なはずだ。だが、カーフェリーの速度は遅い。先ほどの港から出るフェリーなら1時間ほどで到着するはずだが、こちらは2時間半もかかってしまった。その間ボッーとしていたが、水分補給が必要となり、売店でドリンクを買おうとしたが、何とミロしか売っていない。ミロ、懐かしい。

熊本・福岡茶旅2023(4) 博多の日本茶カフェ

外へ出るとかなり強い雨になっていた。歩けないので博多駅まで戻り、地下鉄に乗る。この路線、以前は見たことがない。コロナ中に開設された新路線。この線の開通によって、博多駅まで出るのが非常に便利になったとの声を聴いた。私はこれで渡辺通を目指す。今日は日本茶カフェでYさんと待ち合わせ。

ビルの2階、看板が無ければ通り過ぎてしまうようなところにそのカフェはあった。店主のIさんとは以前一度会ったことがある。そのカフェが最近人気だと聞き、訪ねてみたのだが、カウンターとテーブル合わせて8人を相手にIさんは一人でお茶を淹れている。それも冷たいお茶から淹れ方を変えて4煎ぐらいまで、様々な茶の魅力を見せ、解説してお客を楽しませている。

これは新しいスタイルの日本茶カフェだ。お客も台湾人が来ると、すぐに中国版のガイドブックなどを出してこの店のスタイル、システムを知らせて、あまり違和感なく対応している。これならお茶に興味のある外国人もやってくるのだろう。どうしても質問したければ、Google翻訳なども使える。お茶は静岡辺りの煎茶が多く、ちょっと意外だったが、自分が良いと思う茶を選んだ結果、というから、地域ではなくこだわりで選ぶ時代なのだろう。

2時間もお店にいた。お茶を飲んですっきりして宿へ戻ると腹が減る。近所にその昔行った店があったので、覗いてみるとおやじさんが一人で営業していた。ちょっと昭和感がある店なのか、フランス人カップルがかつ丼を食べていた。こんなところまでインバウンドはやってくるのか、と驚く。私もかつ丼とうどんのセットを食べて何となく昔を懐かしむ。

宿はちょっと面白い。部屋には洗面台しかなく、トイレは各階共用。最近トイレが近いのでちょっと心配したが、あまり人と会うこともない。シャワーは1階に行かないと浴びられない。1階のカフェ部分には本も置かれていて、コーヒーを飲む人、待ち合わせの人などがいる。スタッフは親切でよい。夜は大きめのベッドに横たわり、本を読んだり、テレビを見て過ごす。最近博多も宿代の値上がりが激しい中、駅にも近くちょっと助かる。

12月15日(金)東京へ

朝はさわやかに目覚め、外へ出た。目指すは以前小倉で行ったことがある「資さんうどん」。何と近くには以前訪ねた聖一国師ゆかりの承天寺などがあり、思わず寄り道。朝飯は肉うどんセットを食べて満足。どうも博多に来るとうどんばかり食べてしまうのは、やはり聖一国師のお陰だろうか。更に散歩を続けて、聖福寺界隈を歩く。何だか得した気分の朝。

午前に宿をチェックアウトしたが、フライトまで時間があったので、あまり歩いたことがなく地域に足が向く。さっき朝飯食べたのに、なぜか650円の定食に目を引かれ、早めのランチを食べる。チキ南メンチ定食、チキン南蛮とメンチカツのセットを頂く。コスパはいいのだが、何となくカレーのにおい?味?があるような。何と隣はインド料理屋で、しかも厨房を覗くとインド系の人が料理している。あれ、厨房を共有しているのだろうか。

最後に博多塀のある楽水園を通り、宿で荷物をピックアップ。博多駅から地下鉄に乗れば、すぐに空港に着いてしまうのは、何とも有難い。今回は珍しく、スカイマークに乗る。チェックインカウンターが分からずまごまごする。今やカウンターへ行く人は多くはない。土産に明太子を買おうと思ったが、何となく止めてしまい、後で後悔する。

熊本・福岡茶旅2023(3)出水にあった栄西ゆかりの寺

12月13日(水)出水で

今朝も温泉に浸かりパンを食べてから、荷物を整える。Aさんが迎えに来てくれ、名残惜しいこの地を離れた。そして車で山越えして30分。鹿児島県に入っていた。出水市、そこには若者Kさんが待っていた。Aさんは用事で福岡へ行くというのでお別れ。今回は実にお世話になった。感謝しかない。Kさんは地域おこし協力隊に属しているが、茶業を目指しているという。

Kさんの車で感応禅寺という寺へやってきた。ここは栄西が開山ということで案内されたのだが、何とあの島津氏の初代から5代目までの墓がある、菩提寺だったのでびっくりした。いつもは静かなお寺らしいが、今日は暮れの大掃除の日だったようで、檀家さん総出で庭を掃き、本堂をきれいにしている。

そこには普段は見られない仏像があり、ちょうどお掃除で拝むことが出来、何とも感激。ただ栄西に関しても、特に資料は残されていないという。栄西がここにも茶を植えた可能性はあるということか、最近茶業者がこの周囲にお茶を植えて作っているという話もあった。まあ、何ともご縁だな。栄西はこの地にやってきたのだろうか。

続いて、出水茶業の歴史として知られる、小木原三楽翁が江戸後期に宇治製法を導入した場所へ向かう。今は説明板が作られており、その付近に少し茶畑が残されていた。ご近所の人に聞いてみると、昔は茶業が盛んだったらしいが、あまりよく分からない。やはり歴史は埋もれていく。

お昼をKさんと食べる。彼は以前有名なお茶ショップで働いており、奥さんの実家があるこちらに移住して茶業を目指していた。昔の品種を探して植えてみたとのことだったので、ちょっと調べのお手伝いをした。こういう人たちが出て来ると、茶業界も徐々に変わっていくだろうか。

駅まで送ってもらい、新幹線を待つ。駅周辺は歴史感を出しているが、お客さんは多いのだろうか。そこから僅かな時間で熊本駅まで行く。更に路面電車に乗り、宿へ。更にまた路面電車に乗り、県立図書館で調べ物をしていたら、日が暮れた。夕飯にいつものとんかつ屋へ行くと、何と台湾人が行列している。これに中国人と韓国人を合わせると実に9割が外国人客になっており、大いに驚く。これもTSMC効果だろうか。ポストコロナだな。まあとんかつは美味しく頂き、すぐに退散する。

12月14日(木)博多で日本茶

朝ご飯は宿で美味しく頂く。それからバスで武蔵塚公園へ行ってみる。ここは勿論宮本武蔵関連の場所。園内には武蔵の像が立っており、墓もある。武蔵に憧れ、西南戦争で亡くなった人物の碑まである。武蔵はなぜ晩年をこの地で過ごしたのだろうか。何度来ても熊本は興味深い。

宿へ戻り、熊本駅へ向かう。また新幹線に乗り博多へ。新幹線はつまらないが、とにかく速い。あっという間に博多に着く。そして予約した宿を探して歩く。今日の宿はちょっと不思議。書店ホテルというらしい。看板はほぼ出ておらず、1階はカフェなので、通り過ぎてしまう。フロントも外国人が担当(日本語で会話)。そしてエレベーターの前には本が置かれている。部屋にもある。ここに潜り込んで本を読み耽る、というコンセプトだろうか。

熊本・福岡茶旅2023(2)水俣の山中で

12月12日(火)水俣で

朝は明るくなると川の音で目覚めた。階段の軋みの音が何とも良い。また温泉にゆったりと浸かる。何だか疲れるが取れる。朝飯はパンが置かれており、適当に食べるらしい。みかんもあったので簡単に済ませる。それが健康的でよい。宿では宿泊客同士の交流もあり、和やかだ。

散歩に出ると雨も上がっており、何とも気持ちが良い。この宿、明るくなって見てみると、かなり色々と飾りや置物があり、何とも風情がある。昔は立派な旅館だったのだろうか。6年前に今のオーナーが、いい温泉が出るのでもったいないと、借り受けて温泉重視で再開したらしい。

今日はまずは水俣図書館でお茶の歴史調査を開始する。以前も来たことがあったので簡単に済ませる。その後地元の銘菓、美貴もなかを買いに行く。餡がぎっしり詰まっていて美味しい。有名な店だが、店に行かないと買えないらく、地元民の行列が出来るという。隠れた銘菓、いいね。

水俣城跡をちょっと見る。相良氏が島津に攻められて落城したとある。関ケ原後は加藤清正の支城となったが、すぐに破却された。ここ水俣は国境、常に島津を警戒していたようだ。相良と島津の関係、それは江戸期の沖縄の茶に繋がっていく。なぜかお寺があり、そこに豆腐の行商が来ている。城付近の地名は陳内という。やはり国内だけでなく、中国などとの繋がりもあっただろうか。

車は徐々に山を登っていく。途中いい感じのヤマチャが見られ、思わず車を降りた。この茶葉でお茶を作ったら、美味しそうだと思う。Aさんも頷いている。林の中を分け入ると、そこには昭和3年に茶園が開拓された時の記念碑が建っている。今や完全に埋もれてしまった茶の歴史、実に興味深い。地元でこの歴史を発掘して欲しいなと思う。

標高約500m付近まで行くと、戦前にアメリカ帰りの入植者が茶の栽培を始めた場所があった。石飛という集落で、旧石器時代の遺跡も確認されている。ここに南畝(のうねん)正之助翁顕彰碑が建っている。お名前も独特だが、ここで一体どんな茶業が展開されたのだろうか。残念ながら戦時に茶業は衰退してしまったようで、戦後改めて入植したのがAさんのご先祖たちだということだ。さっき買ったもなかを持って、Aさんの家へ行く。この奥深い土地で丁寧な茶作りが行われている。なぜかイタリア人の若者が研修?している。お父さんから簡単にお話を聞く。

近くの家にシイタケを取りに行く。そこの方は猟師もやっており、最近は大忙しらしい。イノシシなどが沢山出るようだ。昼はラーメンを頂き、宿に戻った。午後は私がちょっと国産紅茶の歴史をお話しする会を開いて頂いたが、お役に立っただろうか。旧知のKさんもわざわざ聞きに来てくれた。この宿にこんなレトロな広間があるとは。これもまた楽しい。

ここ湯の鶴温泉を散歩してみる。この付近にもやはり平家の落人伝説があった。やや鄙びた感じの温泉街、細い川を挟んで両側に建つ温泉宿、その風情が如何にも昭和な日本だった。また温泉に浸かり、夜はまたおでんを頬張り、畳の部屋で寝る。これはなかなかいい生活だ、と強く意識して寝る。

熊本・福岡茶旅2023(1)山中でヤマチャを見る

《熊本・福岡茶旅2023》  2023年12月11₋15日

チェンマイから北京経由で東京に戻ると、何だか寒かった。零下の北京より東京が寒いはずはない、と思ったが、体調不良に見舞われ、4日ほど休息した。それから1週間して今年最後の旅、熊本へ向かった。

12月11日(月)水俣へ

羽田空港で熊本行きのフライトを待っていた。搭乗する飛行機を撮影しようと、一番端に移動して、何とか収めた。ふと振り返ると、何とそこにバドミントンの山口茜選手が座っていた。仲間と一緒にスマホゲームに興じていた。所属する再春館製薬は熊本にあるのだから帰る途中なのだろうか。同じチームの志田松山は世界選手権に出ているが、彼女は怪我のために離脱中。日本リーグの試合に帯同していたらしい。

そんなこんなで、ほぼ満席のフライトで熊本に着いた。出口には今回お世話になる、Aさんが迎えに来てくれた。同道するお仲間お二人も一緒だ。実はAさんも(奥さんも)バドミントン部だったそうで、山口選手が見たかったらしい(熊本に居ても会えるものではない)。もう少し待っていればよかったか。

車は小雨の中、ずんずんと進んでいく。1時間近く乗っていると、山道に入っていく。ちょっと上り始め、川が流れているとテンションが上がってくる。五家荘の標高1000mあたりで車は止まる。ここに峠のレストランがある。まずはランチを頂く。名物やまめそば、更におにぎりと辛子レンコン。外は霧雨が降る寒い日にこれは絶品だった。このお店の人も山仕事をしており、この付近の歴史などを聞いてみたかったが、時間もなく先に進む。

30分ほど山の中を走ると、そこに茶畑があるという。行ってみると、それは我々が想像する茶畑ではなく、ヤマチャの木が集められ、斜面の植えられている場所だった。ちょっと違うが、これは雲南やシャン州で見た茶畑の光景のようだった。基本的にこの辺の山の中には、所謂ヤマチャがたくさん生えており、最近利便性から一か所に纏めたらしい。山に入っていくと、足元がおぼつかなくなり、滑りそうだ。そんな山の中が心地よい。

五木村の方へ向かった。途中に立派な学校の校舎があったが、既に廃校になっているらしい。ほんの少し前まで人が結構住んでいたのだな、と分かるが、今やほぼ消えてしまった。山仕事が先細り、若者は都会へ出て行った。川沿いの斜面に茶畑が少し見えた。この辺でお茶を作っている人はいまだいるようだ。この付近には平家の落人伝説がかなり濃厚に残っている。四国から逃げてきたルートなども示されており、興味深い。

今日は天気が悪いのでここまで。道の駅でちょっと買い物をして、水俣方面へ向かう。暗くなった頃、今日の宿に着いた。細い川沿いに数軒宿が建っている如何にも温泉場という雰囲気だ。部屋も畳で何となく鄙びた感じが良い。温泉が出ているようで、入ってみると、これは誠に気持ちが良かった。かなりの効能が見込めそうなお湯だった。近隣の人たちが温泉に入りに来ている。

夕飯はみんなで向かいの小屋に入っておでんなどを食べる。実は宿の人たちが夜7時になると、この小屋を開き、宿泊客のために食事や酒を提供している。ジンジャーエールを飲みながら、だし巻き卵と焼きそばを食べて満足。後はずっとお茶の話をしてしまった。水俣のお茶の歴史はどんなだろうか。

極寒北京旅2023(4)寂しい茶城

北三環の北側にある茶城へ行く。昔馴染みのお茶屋さんがあったので顔を出してみたのだが、そこはかなり寂しい状況になっていた。午前中とはいえ、半分以上の店は閉まっていた。馴染みの店も移転して小さくなっていた。コロナがそんなに大変だったのかと聞いてみると『コロナ中はまだよかったが、今年は本当に景気が悪くて、お茶が売れない』と嘆いている。日本の報道でも中国経済の低迷は言われていたが、ここでそれを実感した。いや、思っていた以上に深刻なような気がした。

それでも馴染みというのは有難い。美味しいお茶を淹れてくれ、スマホアプリで食事を取って、ご飯を炊いて、もてなしてくれる。出会った頃に生まれた長男は今や高校生になっているという。月日の経つのは早いものだ、と思うと同時に、彼らの将来がちょっと不安になる。まあ日本も同じような状況ではあるので、大きなお世話というものか。

そこからバスに乗り、西直門へ向かった。交通カードがあるので思い切ってバスに乗れた。バス代は市内中心なら1元と地下鉄より安い。そのせいか、寒い中を老人が沢山乗っている。数日前に降った雪も解けておらず、道は滑りやすくなっていたが、何とか目的地まで辿り着く。まあ北京では昔からこうだったのだ。

西直門をちょっとフラフラすると、胡同と書かれた場所があったが、既にすっかりきれいになっていて、私が思う胡同ではなかった。駅のところには大きなショッピングモールがそびえており、これがどこにでもある日常風景となってしまっている。その中に入ると、なぜか日本のアニメキャラクターなどが登場して驚く。

待ち合わせに指定された書店へ行く。うわさでは聞いていたが、本屋へ入ると三島由紀夫や川端康成など、日本人の作品が目を引く。そしてこの本屋、奥にカフェが併設されており、多くの若者が本を読んでいる。友達とお茶しながらしゃべっている人などいない。店内に静寂が走る。これが今の北京か。

待ち合わせたが、とてもこのカフェでは話が出来ないので、別の店へ入る。こちらは、携帯で通話しているおじさんもいて、普通に話が出来る。Sさんとは以前1₋2度会ったことはあるが、それほど多く話をした記憶はない。先日ベトナムへ行き、以前北京に住んでいた方と会った時に名前が出たので、懐かしいと思い、連絡してみた。最近は新刊本も出版して、順調のようでよかった。色々と北京の内輪話も聞けて楽しかった。

帰りは2号線で東直門へ行き、そこからバスに乗る。バス停近くから見上げると、空が何ともいい感じだった。以前の北京はスモッグが酷かったが、今や空が澄んでいる。少し腹が減ったので、羊湯を飲んで温まる。しかしこの辺はどこもかしこもチェーン店ばかりで面白みはない。

11月28日(火)東京へ

北京最終日の朝。寒さの中、散歩に出る。風が強いと寒さが増す。三元橋付近はオフィス街なので、面白そうなところはない。ちょっと行くと北朝鮮レストランがあったぐらいか。早めに宿を出て、車を呼び、空港へ向かう。空港タクシーは100元近くかかったが、今回は時間的にも早いし、代金が50元代と半額近かった。やっぱりボラれたんだ。

チェックインも東京へ帰るだけなので至極簡単。緊張感はまるでない。今回は日系の航空会社で楽ちんと思ったが、まずは冷たいドリンクしか出て来ず、機内食は選択できず、最後にはこの寒いのにハーゲンダッツのアイスが出る。まるでお腹が痛くなってしまうようなラインナップに閉口した。まあ昔からそうだが、とうとう乗客の主体が中国人に移ってもサービスは変えない。素晴らしい持続性だった。私も心を穏やかに持続して機内で過ごした。