「茶旅」カテゴリーアーカイブ

九州茶旅2019(3)佐賀で講座、そして福岡経由で

12月1日(日)
佐賀で

朝はゆっくりと起き上り、ゆっくりと宿の朝ご飯を食べた。ここのご飯はかなりの種類があった。食べている人を見ていると、中国人やら他の外国人も何人かいた。中国人が納豆を食べる姿はちょっと不思議。何故鳥栖に外国人が泊まるのか、それは謎だった。どこか見るべきところがあるのだろうか、それとも何か買うのか。

 

10時前に宿を出て、佐賀に向かった。駅舎はかなり古く、小さかった。昨日の事故の影響は既になく、定刻に出発し、30分で佐賀に着く。残念ながら今回も吉野ケ里遺跡にはご縁がなく通り過ぎた。と言ってもここの駅から遺跡入り口まで歩いて20分以上かかると聞くと、簡単には行けない。

 

駅には講座の主催者、Oさんが待っていてくれており、車で会場である彼の店に行く。店の周囲ではイベントがあり、駐車場が満員で遠くまでに停めにいく。まずは簡単に準備してから昼ご飯に行く。その店には期間限定のラーメンがあり、今はなすとカボチャラーメンだったので、それを注文する。思ったよりずっとカボチャが合っており、美味しくてちょっと感激する。

 

今日は昨日の熊本と同様、可徳乾三について話をした。午後から雨になり、生憎の天候の中、皆さん熱心に集まってくれた。正直同じ九州でも熊本と佐賀は違うので、どこまで興味を持ってくれるのか心配したが、それは杞憂に終わり、かなり反応は良かった。参加者はお茶関係者が多かったが、かなり意識の高い方がおり、同じ九州人ということもあってか、多くの質問が出た。

 

講座終了後、有志で懇親会も開かれ、その席ではさらに活発な茶の歴史談義が繰り広げられた。わざわざ熊本から来てくれた茶農家さんもいて、驚いた。お酒を飲まない私でも、話題が興味深ければ楽しく過ごせる。お茶を作るにも、販売するにも、歴史や文化を知っている方が有利である、ということは間違ないだろう。ただそれを学ぶ心の余裕が持てるかどうかであろうか。

 

今晩は駅の近くの以前も泊ったホテルに投宿した。明日も講座があるので、その準備もあり、部屋でPCを開いていると、かなり大きな音がした。雷が鳴っている。季節のはずれの嵐か。それとも明日の波乱の予兆か。

 

12月2日(月)
佐賀から福岡経由大阪へ

翌朝は雨だった。宿の朝ご飯は昨日よりさらに充実していたので、ゆっくりと味わう。それにしても毎日朝からコメを食い、おかずをたらふく食べているから、どんどん太っているように感じられ、体は重い。そろそろどこかでダイエットが必要だと突き出した腹が言っている。

 

雨が止んだので、とにかく腹ごなしに散歩に出た。昨年も散歩しているので、特に目的なく歩いていく。道路に水が溜まっているから、昨晩はかなり降ったのだろう。ふと見ると横をバスが通り過ぎたが、そこには福岡空港行と書かれているではないか。今日は講座終了後、福岡空港経由で大阪に行くのだが、このバスでいくのがよいのではないかと思い、駅まで行って時間を確認した。やはり電車を乗り継ぐより早くて便利らしい。お土産に佐賀名物のぼうろを買う。佐賀はなぜか菓子がうまい。

 

今日もOさんが迎えに来てくれ、お店に行く。月曜日は定休日だが、講座のためだけに使用する。この付近は古い昔の街並みが残されており、雰囲気がよい。近所に古い建物を利用した映画館があり、そこでランチもできるというので行ってみたが、ご飯は食べられなかった。すぐ近くのラーメン屋で食べる。佐賀ラーメンというのは、高菜?食べ放題で、あと生卵を入れるのが特徴だと言われ、食べてみる。

 

午後の講座は昨日に続いて参加してくれた人もおり、またタイで知り合った人、四川で知り合った人など、熊本や福岡からも来てくれ、平日にもかかわらず有難い。今日は『台湾茶と日本の深い繋がり』について話をする。特に日本統治時代の茶業の取り組みや、昨日の可徳も係わった初期台湾紅茶の歩みなど、台湾でも知られていない内容が多かったが、果たしてどの程度、関心は得られただろうか。

 

講座終了後は、車で駅まで送ってもらい、朝調べておいた福岡空港行バスに乗り込む。乗客は少なかったが、途中数か所でお客を拾ってから高速道路を通って、特に渋滞もなく、約1時間20分で空港までやってきた。これなら確かに荷物を持って電車を乗り継ぐよりは便利だ。

 

空港には福岡在住で、昨日の講座にも来てくれたYさんが待っていてくれた。午後9時の最終便を予約しているので、まだ3時間ほどあり、夕飯を一緒に食べてもらうことにしていた。博多は食べ物が美味しく、毎年一度は必ず来ると誓っていたが、今年は空港だけになってしまった。

 

空港内にも飲食店はいくつもあったが、博多名物と言われるものは多くはなかった。それでもYさんともつ鍋を食べると、笑顔になれる。次回は福岡でも講座が出来ないだろうかと真剣に思うのだが、なぜかご縁は訪れない。国内線なので食事をしても時間はあまり、更に珈琲を飲みながら話をする。

九州茶旅2019(2)三友堂、そして合志で

11月30日(土)
三友堂へ

久しぶりに泊まった東横イン。昔はあまりよい印象がなかったが、最近はいくつか改善したようで、悪くはなかった。無料で提供される朝ごはんも以前はおにぎりとみそ汁だけだったような気がするが、今日はいくつか選択の余地があった。何よりここは駅の横にあるのが便利だった。

 

今日は合志市で行われる講座に出掛ける訳だが、最後の最後まで調べようと思い、可徳乾三が130年前に設立した茶舗を訪問することにしていた。熊本駅前からバスに乗れば一本で行けるらしい。ただその本数は多くはなく、もし乗り間違えると訪問できなくなるので結構緊張する。駅前のバスは思ったより多く走っているので、目を凝らす。

 

何とかバスに乗り込む。30分ほどでバスを降り、少し歩くとお寺があった。見性寺、そうか、ここが可徳乾三の法要が行われた寺だと知る。そのすぐ近くに三友堂はあったが、その店舗は思ったより小さかった。店主のKさん夫妻が迎えてくれる。聞けば熊本地震で仮店舗での営業を余儀なくされているという。

 

ここ三友堂は1887年(1889年の説もあり)に可徳乾三他2人により設立された老舗茶荘で、往時はシベリア向けの茶を大量に輸出していた。球磨地方などから沢山の茶が運び込まれていたという。可徳はシベリアビジネスに失敗した1908年頃には経営から手を引き、Kさんの祖先が引き継いだが、その後も発展を続けていた。

 

以前の店舗の写真を見ると間口も広く、従業員も沢山いたが、昭和28年の大洪水で茶葉を失い、その補償のために店舗を売り、縮小したらしい。可徳の名前が入った看板があるとのことだったが、残念ながら今は見せられる状態にないとのことだった。戦後宮本常一もこの店を訪れ、民族学の研究をしていた。現在の店主は茶商だけではなく『茶葉の鑑定』などで有名だという。

 

もっとお話を聞きたかったが、講座の時間が迫っており、ここから熊本鉄道に乗り、終点の御代志という駅まで行く。駅は本当に簡易で、その昔の江ノ電を思い出してしまった。二両編成の電車が何とも良い。天気が良いので、車内は温かく、転寝しそうになる。30分ほど揺られていく。

 

合志で講座
駅に着くと今回の主催者市議会議員のUさんが迎えに来てくれ、会場である合志図書館に移動した。ここは前回もつれてきてもらったが、立派な施設であり、今日はその一角を使い、可徳乾三の話をさせてもらう。会場には歴史好きの方やお茶関係者などが集まってくれた。中には台湾埔里でお世話になった日本人Yさんのお知り合いも駆け付けてくれていた。Yさんは熊本出身だったので連絡してみたところ、声を掛けてくれたようで、何とも有り難い。

 

可徳乾三はここ合志の生まれであるが、完全に歴史上は埋もれてしまった人物。その生涯とゆかりの地を追った話は地元の人にはどう映っただろうか。講座終了後、参加者から『合志の人々が戦前多く外国に出ていたことは聞いているが、具体的な話を知ることが出来た』などと言ってもらえたのは良かったが、もっと詳しい話を期待されていたかもしれない。

 

そして昔、熊本ではロシア語や中国語が出来る人は沢山いたという話も出るなど、こちらも色々と勉強になった。次回は可徳本家などから話が聞けるとよいのだが、どうだろうか。因みにほとんどお話もできなかったが、会場で紅茶を淹れてくれたのは、人吉出身の女性で、手作り菓子とお茶のお店をやっている方だったが、何とトルストイ翻訳の第一人者、北御門二郎氏のお孫さんだという。この方は就農しながら翻訳したと言うが、お茶も作っていたのだろう。やはりご縁がある。

 

帰りは高校の先生の車に乗せて頂き、上熊本駅まで行った。車中でも様々な歴史の話が出てきて面白かった。やはり私の対象はお茶好きではなく、歴史好きとの会話ではないだろうか。話も広がるし、各地方の知らないことも沢山けるのがよい。駅からJRの在来線で、一路鳥栖を目指す。

 

この路線は以前も乗っていたので、安心して寝落ちる。いつの間にか冬の田園風景が暗くなっていく。荒尾あたりに着くと、ちょうど台湾紅茶に投資した日本人の末裔からメッセージが来た。彼の先祖も荒尾の出だったことを思い出す。この車両は長距離用ではないので、ずっと座っていると腰が痛くなってくる。1時間半の旅、最後は久留米で急行に抜かれるというので乗り換えて態勢を変えた。

 

鳥栖駅に着くと、長蛇の列が出来ていた。何と佐賀、長崎方面の電車が止まっており、払い戻しなどを求める列だと分かった。普通なら佐賀に泊まるのだが、今晩は禁煙部屋が確保できず、ちょうど鳥栖に泊まることにしていたので、助かった。駅のすぐ近くの宿を予約してもらっていたが、そこの設備・サービスは料金の割にはちょっと・・??とても腹が減っていたので、近所のモールでかつ丼を食べたが美味しいとは思えない。ちょうどサガン鳥栖は残留争いをしており、ホーム最終戦がここのスタジアムで行われていたようだが、どうなったろうか。

九州茶旅2019(1)阿蘇で突然通訳を

《九州茶旅2019》  2019年11月29日-12月3日

九州には1年に一度は行きたいと思っている。昨年6月に熊本、佐賀を旅したが、今年は7月に沖縄に行った。そしてここ3年間でまとめた『九州茶をシベリアに売り込んだ男』の話をついに地元熊本で話す機会を得た。ついでに佐賀でも話す。そして何だか福岡経由で大阪まで飛んでしまった。いつもながら予測不能な旅だった。

 

11月29日(金)
熊本へ

偶にはマイレージを使って国内線に乗ってみようと思った。羽田‐熊本の片道だからそれほどマイルを食うわけでもない。そしてよく見てみると、私には毎年アップグレードポイントなるものが付与されているのだが、今まで一度もアップグレードしたことがなかった。国内線だとちょうど持っているポイントでアップグレードできたので、プレミアエコノミーというのに初めて乗る。

 

座席は一番前。少なくてもここ10年、飛行機の一番前の席に乗った記憶はない。座席もまあまあ広くて快適。そのうえ、国内線エコノミーではドリンク一杯しか出ないのに、軽食まで登場した。乗り込んだらすぐに寝ようと思っていたのに、眠れなくなる。だが実はもう一つ眠れない要因があった。

 

若いCA二人が、私の斜め前でずっとおしゃべりしていたのだ。これまであまり見たことのない光景だった。カーテンの陰というならまだ分かるが、私が見える位置でだから驚いた。そして年配CAが来たので収まるかと思ったが、止めさせようともしない。確かにプレミアム席は空いていたから、やることはなかっただろうが、日本の航空会社もアジア化が始まったか。

 

ほぼ定刻に熊本空港に着いた。先日のウラジオストクのフライトと時間はほぼ変わらない。この空港、3年前に台風直撃の中、成田に向かって飛び立ったことはあるが、降り立ったのは初めてだ。そしてここで35年ぶりの再会が待っているはずだった。大学の1年先輩のTさんは熊本出身で卒業後は地元に帰ったとは聞いていたが、その後全く連絡を取っていらず、今回電話番号を聞いて連絡したところ、わざわざ空港まで迎えに来てくれるというのだ。

 

事前に最近の写真ももらっていたので、問題なく分かるだろうと思っていたが、何と出口で通り過ぎてしまったらしい。その原因の一つは、明日からちょうどハンドボール女子の世界選手権が熊本で開催されるそうで、私のフライトにもフランス語を話す選手たちが乗り込んでおり、彼女らを歓迎する人々が多かったからだろう。電話をかけてようやく再開にこぎつける。

 

Tさんの車に乗り、お互いの35年を埋めようと話し始めたが、それは簡単な作業ではなかった。卒業後のTさんの波乱万丈の展開だけでも今日中に終わりそうもない。それほど長い時間会っていなかったのに、一瞬にして昔に戻れるのはすごいと言わざるを得ない。下宿で一緒にご飯を食べたことなど、色々と思い出して、若かりし自分が蘇る。

 

周囲は既に暗くなりかけていたが、折角だからと阿蘇方面を走り、写真を撮ろうとしたが、残念ながら暗すぎて見えなくなっていた。それから田楽を食べようと、高森というところにある雰囲気の良いレストランに入った。囲炉裏がいくつかあり、そこで肉を焼いて食べた。向こうでは中国語も聞こえてきており、観光客もいるようだった。

 

いつの間にかお客は皆帰ってしまい、我々だけが話を続けていた。話しは尽きないのだ。ところが突然店の人が騒ぎ出し、こちらに向かって『車をぶつけられたみたいです』という。意味不明ながら急いで駐車場へ行くと、暗がりの中で、Tさんの車に別の車が微かにこすったらしい。

 

その運転手は日本人ではなかった。顔を見てすぐに中国語で話しかけると、相手は台湾人であり、彼らも店の人も言葉が通じたのでホッとしている。台湾人は高齢の両親を連れており、お父さんの具合が悪いので、一度宿に送ってから戻ってくるというが、律義に一人は残っていた。私は車を運転しないので、こういう処理には全く疎く、言葉が出来てもなかなか捗らない。

 

警察もやって来て現場検証と確認が始まった。若いお巡りさんは『いやー、助かります。多いんですよ、外国人の事故が』と言い、いつもは携帯アプリで会話していると告げた。レンタカー会社もちゃんと中国語対応の体制は出来ており、様々あったが何とか解決した。事故を起こした台湾人の方は、実にきちんとしたいい人たちで、『今度高雄に来たら寄ってくれ』などと言いながら分かれた。

 

思えば熊本辺りは戦前台湾に渡って仕事をした日本人も多かったはずだ、などと思っていると、店のおばさんも『うちの主人も台湾生まれで、その両親は花蓮で・・』などと話し出す。明日の講座で話し内容にも、熊本ではロシア語や中国語が話せる人が戦前は沢山いた、というくだりがある。

 

Tさんに熊本駅前に予約した宿まで送ってもらった。何とも有り難い。もっともっとその後の出来事を聞いていたかったが、それは次回にしよう。そういえば、明日の夜、東京では大学の同じクラブのOB会が開かれるので、早々にTさんについて報告を入れておいた。

広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(3)美作番茶、そして大阪へ

9月26日(木)
美作番茶から大阪まで

朝はさわやかに目覚めた。ここ二日間、かなり歩いたので筋肉痛はあったが、疲れがちょうどよく、眠りの質が改善された。日頃如何に歩いていないかが分かる。今日は美作というところへ行く。岡山駅に到着するとすぐに『この駅(目的地)、スイカ使えますか?』と駅員に確認すると『使える訳ないでしょ』と軽くあしらわれた。まあ想定の範囲内だが、そういう場所へ行くのだ。

 

朝8時過ぎに岡山から電車に乗った。JR津山線で津山まで約90分、車窓からの眺めが秋の雰囲気だ。津山駅には一両電車が待っており、20分で林野という駅に着く。途中は田んぼや畑が多く、林も見られた。一両電車はワンマン車で、運転手の横に料金箱がある。確かにスイカなど使えないわけだ。同じ岡山県内だが、2時間10分以上かかった。

 

駅にはKさんが迎えに来てくれていた。この地で美作番茶を作っている若者だ。昨年のティーフェスティバルで、誰かの紹介があり、お茶を少し買った。それを台湾茶業界の重鎮に上げたところ、面白いね、と言われたので、一度産地を訪ねたいと考えていた。ちょうどそこに知り合いのWさんが訪問するというので、橋渡しを頼み、今日が実現した。

 

美作と言えばまず思い浮かぶのは剣豪宮本武蔵だろう。武蔵も飲んだお茶、との広告も見られたが、果たしてそんなに古くからお茶作りがあったのか、それはちょっと疑問だった。そんなことを考えているうちに車で、番茶作りの工場に案内された。何となく茶葉を摘む時期(夏)、大きな茹で釜などの設備、製法などは四国の阿波晩茶などを想起させる。ただ茶葉を煮出した汁を茶葉に掛けるところが、決定的な違いかもしれない。色味がよくなるという。

 

次に店舗に連れて行ってもらい、そこで古い製茶道具や写真などを見せてもらう。勿論この地域でも番茶以外に煎茶などを作っており、戦後は活発な時期もあったという。また写真には昨日訪れた後楽園の茶園が写っており、何とここ美作の人々が茶作りをしていることも分った。古い茶箱にその歴史が感じられる。番茶を飲ませてもらうと、やはりすっきりしていて飲み易い。

 

お昼も過ぎてしまい、次の電車までは時間があるので、ランチを食べに行く。近くに湯郷温泉がある。湯郷と言えば、女子サッカーの湯郷ベルがあるところだ。あの日本代表キャプテン宮間が所属しており、覚えている。温泉もあるなら、ちょっとした観光地とセットでお茶も売り出せそうな感じはする。

 

温泉街に焙じ番茶ソフトクリームやドリンクを出す店があり、繁盛しているとのことで、2号店は何と倉敷にあるそうだ。その後食堂に入りご飯。このあたりの名物、ホルモンうどんは自分で炒める。意外に大きな内臓系が入っており、私は好きなタイプだった。若いKさん、お茶の話しをしていても将来が楽しみだ。

 

また林野駅まで送ってもらい、窓口で大阪までの切符を買う。一番早く行く方法は意外と乗り換えが多かったが、言われたとおりにした。JRで佐用まで行き、そこで智頭急行に乗り換える。それから上郡まで行き、また少し離れたJR駅に戻って、下校の高校生と一緒に相生まで行く。そこで新快速に乗れば大阪まで一本だった。

 

相生で座ることができ、後は寝ているだけと安どしていたら、何と事故で姫路から先に行けないという。姫路駅で聞くと振替輸送があると言い、ちょうど姫路城がみえるところから、また別の電車に乗る。しかし振替は三宮までらしく、またJRに戻り、ようやく大阪に着いた時は疲れ果てていた。更に地下鉄で心斎橋まで行く。

 

大阪のホテルは高い、と思い込んでいたが、今回検索すると5000円ぐらいで普通のホテルが取れるようになっていた。心斎橋を歩くとそんなホテルが沢山出来ていることに気が付く。予約したホテルもロビーは豪華な感じだが、中国人観光客に占拠されていた。ただ部屋の装備はアジア仕様であり、欲しい物は皆あったのでこれで十分。

 

ワールドカップラグビーを見るために、すぐに夕飯を済ませに外へ出た。歩いて2分のところに、トンテキがあり、1000円で美味しく食べられてよかった。ラグビーはイングランドが圧勝した。

 

9月27日(金)
大阪で

今日は1年ぶりに梅田でお話しした。午前午後と2講座あったが、また沢山の人に来て頂き感謝だ。ただその中にあれ、と思う二人がいた。東京でお茶イベントを主催するMさんと、大阪で茶文化を教えているOさんだった。この二人とは3月に四川旅行に一緒に行き、楽しく過ごしていた。

 

講座終了後、主催者のMさんが突然サプライズで二人の婚約を祝い、花束を渡した。実は薄々そうではないか、とは思っていたが、まさかここで二人に会うとは思っていなかったので驚いた。これもまさに茶のご縁だろう。その後、場所を移して食事会があったが、そこでも話題の中心はMさんだった。私はひっそりと新幹線で東京へ戻った。

広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(2)鞆の浦から後楽園へ

9月25日(水)
鞆の浦から岡山へ

日本の地方都市に泊まって一番驚くことの一つが、ネット接続。このホテルもサービスは悪くないが、Wi-Fiは基本的に使えない。わざわざルーターを持ってきてもらって繋ぐのだから、アジアから来た観光客もびっくり。朝ご飯はホテルに付いていたので頂く。それはとてもいいご飯だった。

 

今日は鞆の浦に行ってみる。尾道からなら近いと思ったのだが、フェリーは週末しか出ておらず、直通のバスもないとはこれまた驚いた。まずは福山までJRで20分乗り、駅前からバスに乗って行く。荷物が邪魔なのでコインロッカーに預けようとしたが、100円玉両替機が故障。500円玉は入らない。隣のコーヒーチェーンでも断られ、駅の改札まで行く羽目になる。おかげでバスを一本乗り損ねた。それでも20分後にバスが来る。

 

バスで30分、鞆の浦に着く。海風が吹き、さすが汐待の港、何だかいい所に来てしまった、と感じる。海を見ていると、如何にも異国船という形の遊覧船が出航して、観光客を乗せている。坂本龍馬も登場する、あの紀州藩から莫大な補償金を取った、いろは丸事件にちなんだ船だそうだ。

 

すぐ近くに対潮楼があるので、上って見に行く。福禅寺内に江戸時代に建てられたもので、朝鮮通信使の宿としてもつかわれたとある。建物前面からは瀬戸内が一望でき、絶景スポットして名高い。室内にはなぜか上野彦馬が撮影した幕末の志士たちの写真もある。この鞆の浦、往時の位置づけが少し読み取れる。

 

そこから街歩きに入る。古い商家の家並みがかなり残っている。港にはシンボルとなっている常夜灯がある。この辺はかなり風が強い。そこから丘を登っていく。鞆城跡と書かれており、石垣がある。ここからは鞆の浦がよく見える絶景スポットだった。天気が良く、幼稚園児が散歩に来ていた。

 

その上に歴史民俗資料館があったので入ってみた。ところが展示品の写真撮影禁止と聞いて『えー、それじゃあ』と言ったら、係員の女性は『それでは』と言ってさっさと引っ込んでしまった。まるで資料館を見せる気もないお役所仕事、これには呆れて、本当に見ないで立ち去る。

 

太田家住宅、と書かれた古い家もある。ここは幕末に都を追われた公家が長州に落ち延びる途中に立ち寄ったらしい。いわゆる七卿落ち。汐待するのは商船ばかりではない。また別の丘を登る。平賀源内生祠というもあった。長崎帰りの源内がここに立ち寄り、源内焼を伝えたとある。

 

医王寺まで登ると、これまたいい景色が拝める。天気が良いのでついフラフラしてしまう。いくつもの寺があったが、その中には何となく中華風の門や窓なども見える。異国の影響を受けることもあっただろうか。山中鹿之助の首塚などもあり、歴史感は満載だ。半日ゆっくりと見て回り、またバスで福山に戻った。

 

電車で岡山へ向かうが、まだ時間的には早い。ちょうど駅の横にある福山城が見えたので、そこだけ見てから行くことにした。まずは城の横を通り、歴史博物館へ。取り敢えず広島の歴史を一通り勉強したが、特に1階にあった資料コーナーで座りながら、冊子を眺めて時間を過ごす。

 

それから城へ上る。建物自体は、第2次大戦の空襲でほぼ焼失してしまっており、現在は再建された天守閣が見られる。何ともきれいな作りのお城だ。だがなぜかここでカメラのキャパが一杯となってしまい、写真は撮れなくなる。それを潮に、駅に戻り、電車に乗る。

 

岡山行きは沢山あると思っていたが、昼下がりは1時間に一本しかなく、慌ててロッカーから荷物を出して、まさにダッシュでホームに駆け上がり、出発寸前の電車に乗り込んだ。そこからおよそ1時間で、岡山駅に到着した。駅近くのホテルを予約していたが、なぜか迷ってしまい、イオンの中をぐるぐる。何とか着いたホテルはサービスがとても良い、感じの良い場所だった。

 

まだ日も高いので、取り敢えず岡山後楽園に行くことにした。恐らくは30年ぶりだが、何も覚えていない。駅前まで戻り、路面電車に乗る。タイ人が何人も乗ってくる。電車を降りると地下道を通るのだが、そこがとてもきれい。上ってかなり歩くとようやく後楽園の入口へ。

 

後楽園は天気が良かったせいか、思っていたよりきれい。その広大な敷地に配置された池など、その風景は美しかった。更にはかなりの茶園があったのには驚いた。なぜここに茶樹が植えられているのだろうか。昔はお殿様が飲むためとあったが、誰が茶を摘んで、製茶するのだろうか。

 

1時間以上歩き回り、一度外へ出て、今度は岡山城へ向かう。お殿様の時代は、城から船で来たらしいが、今は立派な橋が架かっており、夕方の風景はきれいだ。城にも入ってみる。宇喜多家の歴史、今やアニメにも描かれているようだ。日本は城ブームでもあり、若い女性も見に来ている。

 

路面電車の中で『野村のかつ丼』の宣伝が流れていたので、行ってみた。ちょっと高級感のある入り口だが、中では食券を買う。デミグラスソースと玉子とじかつ丼のセットを注文した。1000円と庶民的。ホテルまで帰る道すがらも、何となく風情があり、久しぶりの岡山を瞬間的に満喫。

広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(1)尾道を歩きまくる

《広島・岡山・大阪散歩2019》  2019年9月24日-27日

ウラジオストクから帰って中二日で、また旅に出た。今度は国内旅行だから気は楽だったが、正直体力的にはかなかしんどい。それでも面白いことも数々あり、やはり旅を止めることは今のところ出来ない。今回は広島尾道から鞆の浦、岡山、美作、大阪と行く。

 

9月24日(火)
尾道へ

今年の3月に島根横断の旅をした際、何となく山陽道も歩きたい衝動にかられた。それで何気なく広島行きのチケットを予約する。広島市には以前に行ったことがあったので、今回の目的地は以前から気になっていた尾道と鞆の浦。尾道のお茶屋さんにちょっと寄ってみたい、それだけだった。

 

羽田空港国内線は便利でよい。荷物も軽いのでカウンターにも行かず、するっと中に入る。修学旅行生が沢山いる。修学旅行って、楽しいのかなと思ってしまう。誰もが旅行に行けるこの時代に、なぜ修学旅行が必要なのか。先生の負担も軽くない。いや旅行会社の生き残り戦略だろうか。

 

飛行機はするっと飛び立ち、あっという間に広島空港に着陸した。この空港、広島市内からも結構遠い。私は広島ではなく、尾道を目指しており、インフォメーションでその行き方を聞くと、バスでJR駅まで出て、そこから電車で行く。なぜか広島空港は風が吹き、9月にしてはかなり涼しいので驚く。

 

バスは30分ぐらいするとやってきた。広島行きもほぼ同じだったので、フライトに合わせて来るのかもしれない。20分ほど行くと、JRの白市駅という如何にもローカルな駅に着いた。ここで尾道への行き方を再度聞くと、若い駅員さんが丁寧に教えてくれるので好感が持てる。

 

車窓から田んぼを眺める。田植えが行われていないところもチラホラみられ、後継者問題が頭を過る。三原で乗り換え、尾道に着いたのは11時過ぎていた。三原で乗り換えると、同じホームに岡山行きが来るよ、というアドバイスは荷物がある者には助かる。駅からすぐのホテルを予約しており、そこに荷物を預けて歩き出す。

 

駅の目の前が川?内海?なので、そこを歩いてみると、何だかとても心地よい。この街は映画東京物語の舞台にもなっており、そんな展示がされている。如何にも映画の舞台になりそうな街並みではある。昔ながらの商店街もあり、ちょっとレトロな雰囲気に浸る。

 

その商店街のアーケードが無くなった先、少し入ったところに目指す今川玉香園茶舗はひっそりとあった。店主のIさんとは3年前広島のお茶会で知り合ったが、その後FBでお互いの近況を見ており、今年2月のボルネオでも、『サバティーガーデン』へ行くように勧めてくれていた。

 

Iさんとお父さんから話しを聞く。このお茶屋さん、記録では明治初期の創業だが、実際には江戸時代から茶業をしていたらしい。尾道でもっとも古い茶舗の一つ。尾道という山陽道の主要都市だから、海運を使った人の往来もあり、茶の流れもあったのだろう。長崎から中国系商人がこの街に陶器を売りに来た、などという話が普通に出てくる。

 

茶葉も地元の物もあったようだが、京都や九州からも取り寄せていた。現在でも静岡、宇治、鹿児島茶をブレンドして、地元民に合う味にしたものがよく売れるという。Iさんは世界の茶産地を回っており、スリランカの紅茶や阿里山烏龍茶なども取り扱っている。イベント活動にも力を入れており、地域の文化の中心に位置している、と感じられるお店だった。

 

少し話しているともうお昼を過ぎており、近所の小さなお好み焼き屋さんに連れて行ってもらった。席は3つしかなく、目の前の鉄板でおばさんが丁寧に焼いてくれるのを見ながら、話を続ける。ソースは自分で好みの量をかけてね、と言われる。食べるとまさに『普通に美味しい』。

 

午後は一人で尾道を歩き回った。初めに尾道水道の渡し船に乗ってみたが、帰りに別の船着き場から乗ろうとしたら無理だと分かり、10分で往復する。このゆっくりと動く船からの眺めは悪くない。それから歩いてお寺巡りが始まる。まずは千光寺を目指して登る。道が整備されていて歩きやすい。

 

石段の途中に志賀直哉旧居と見えるので曲がる。今日は火曜日でどこも閉まっているが、取り敢えず外観を見る。千光寺からは尾道の街がきれいに一望できた。鎖を伝って登る奇岩があった。その下には鎌倉時代創建の天寧寺の三重塔が見られる。更にずっと歩いて行くと西園寺という寺があった。ここになると奈良時代の創建らしい。尾道の街の古さがよく出ている。

 

それからもいくつかの寺を訪ね歩いた。姿三四郎の像があった。人形浄瑠璃の文楽の墓がなぜかここにある。図書館も休館日で尾道の歴史全般を知る機会はなかったが、実に興味深い街であることは確かだ。最後に夕日が沈むのを水辺で眺めた。何だか動きたくないような気分が続く。夜はIさんに新鮮な海の幸をご馳走になりながら、更にお茶の話や旅の話をした。そして駅前のホテルまで約20分、ふらふら歩いて帰った。

ウラジオストクを歩く2019(4)ウラジオふらふら

9月20日(金)
ウラジオふらふら

今日は実質ウラジオ最終日だが、もう大体行くべきところには行ってしまっていた。さてどうするか、と考えながら、ホテルの朝食を食べる。これまでは韓国人か中国人が多かったが、このホテルには日本人も泊っていた。食事内容はどこも同じような物だった。この辺はヨーロッパ的?

 

取り敢えず多くの観光客が訪れるという鷹の台展望台を目指す。基本は歩きで、ケーブルカーに乗る気もない。スマホ地図を見ながら、途中までは昨日歩いた旧東洋学院方面を行く。その辺から登り始め、高台の住宅地を抜けていく。だがどうも道がない。住宅の警備員に聞いたが、言葉は通じない。でも行きたい場所は分かったらしく、住宅内を突っ切って行けるよ、と笑顔でジェスチャーをしてくれた。しかし残念ながら、その入り口は閉ざされており、元に戻らざるを得なかった。

 

地図で見ると今来た道を一度下まで降りて、更に道路をぐるっと回って行かなければならなかった。その道路は広い自動車道で、歩くのは大変。何とか入り口に辿り着くと観光客が沢山いるではないか。上に登ると、確かに手前の黄金橋からウラジオストクの港がよく見えた。

 

帰り道をトボトボと行くとまた古い建物に出くわす。特に気になった建物があったのだが、果たしてこれが元々なんであったか、それはロシア語でしか書かれておらず、判然としない。また近所の壁には古い建物の写真が貼られており、ちょっと興味深いものも混ざっていた。この近くに骨董屋があるに違いないが、場所が分からなかった。

 

更に歩いていると、腹が減ってくる。ちょうどカフェが見えたのでメニューを見ると英語があった。しかもペリメニと書かれていたので、迷わず入ってみる。何とこのカフェのメインはペリメニであり、10種類ものペリメニが用意されていて迷う。ゆっくり茹でて出てみたペリメニはかなり美味だったので、じっくり味わった。カフェなので食後にコーヒーを飲むと、何だか新しい感覚になる。

 

 

最後に噴水通りの周辺を丹念に歩いてみた。この通りはとてもきれいなのだが、そこから一歩裏に入ると、昔の雰囲気がいくらか残っている。勿論ここにも観光客目当ての店が出てはいるが、何だかここらあたりを100年前に日本人が歩いていたかな、と思うと複雑な気分になる。

 

一度宿に帰り休む。なぜかまた腹が減り、早めに夕飯を食べてしまう。それから夕陽が落ちてくるのが見えたので、ビーチの方に向かう。先日のホテルと違って、ここからは夕陽がよく眺められたので、しばしそれに見とれる。周囲ではビールを飲みながら騒ぐロシア人たちがいた。

 

宿へ帰り、部屋にあるLG製のブラウン管テレビを点けてみる。普通テレビなど見ないのだが、今日はラグビーワールドカップの開幕戦、日本対ロシアの試合が日本である。もしやと思い探すと、ロシアでもちゃんと注目されており、生放送されているではないか。その実況にはかなりの熱が入っていたが、試合はガチガチの日本が勝利したので、かなりがっかりしているようだった。まあそれにしても、ブラウン管テレビはこんなにも見難かったかと実感する。

 

9月21日(土)
ウラジオストクを離れる

ついに日本へ帰る日が来た。本当は空港まで列車に乗って行きたかったが、昨日駅で確認してみて、私のフライトにちょうど合う列車はなかった。朝7時の列車に乗れば確実なのは分かっていたが、空港に着いても3時間半、何もやることがない。それならばホテルで朝食を食べてから、またバスで行くことにした。

 

バスは特に混んでおらず、時刻表通りに出発した。終点だから寝過ごすこともないので目をつぶる。途中で何人かが乗ってくる。そしてある程度行ったところで渋滞になる。よく見ると斜め前の方で煙が上がっている。何と火事に遭遇した。それもかなり大きな火事だ。後で検索した放送局だったらしい。日本語のニュースにもなるほどの規模だったので、驚いた。

 

1時間ちょっとで空港に到着したが、まだチェックインは開始されていなかった。20分後に開始という表示になっており、皆並び始めたが、いつになっても始まらない。その前に韓国行きの便が終わらないからだろうか。そこへ後から来た子供連れの家族がカウンターに何か言うと、なぜか彼らの処理が始まったので、後ろのロシア人が怒り出す。

 

すると横のカウンターが開き、私の後ろのロシア人がそこへ滑り込み、手続きを始めた。それなら私の方が先だろうと、そのカウンターへ行くと『ここはビジネスクラスだけ』というではないか。何の表示もなく、外国人は勿論、ロシア人にも不可解な処理が行われて困る。

 

まあそんなこともあったが、今回のウラジオストクの旅は順調だったと言ってよい。何より天気が素晴らしく、気持ちがよかった。これからここを訪れる日本人も増えていくだろうが、出来れば歴史にももう少し目を向けてもらいたいと思った。確かに日本から最も近いロシアだから、歴史的繋がりは相当ある。

ウラジオストクを歩く2019(3)モルグン先生と会って

9月19日(木)
モルグン先生と

前日早く寝たので、早めに起きた。気温が相当下がっている。厚手の服を着こんで、食堂に行く。広めのスペースにそれほど人はいない。簡単な食事を取って食べる。まあロシアはどこも同じようなメニューなのだろう。せめて、コーヒーや紅茶がもう少し熱いとよいのだが。

 

今日は今回のメインイベント、極東ロシア交流史に詳しい、ゾーヤ・モルグン先生と会うことになっていた。彼女も前回のハバロフスクでポボロツキーさんから紹介を受けた。モルグンさんには第2次大戦前までのウラジオストク在住日本人達に関する著書があり、その中で可徳については触れられていないが、日本人茶業者についても書かれているので、とても興味を持っていた。先生は日本とロシアの人的交流にも常に尽力している。

 

まずは海辺のホテルをチェックアウトする。やはり手続きになんでも時間を要する。手際よくやる、という感覚はない。ソ連時代の名残だろうか。それから荷物を持って、先日泊まったホテルの近くに歩いて行き、荷物を預かってもらった。こちらの方が良さそうには見えるが、それでも建物は国営時代そのものであり、その雰囲気をかなり残していた。

 

待ち合わせ場所はあの横浜正金が入っていた博物館だ。博物館とはご縁が深いモルグンさんはここに用事があり、まずはそれを済ませてから、カフェに移動する。だがちょうど斜め前に昨日見た可徳のオフィスと思われる建物があったので、まずはそこを見てもらう。にこやかだった先生の顔が厳しくなり、専門家に変身する。この建物については、別の専門家がもし分かれば、聞いてみるとのことだった。心強い。

 

現地の人が普通に飲む紅茶などを注文してもらう。甘いケーキも出てきた。そしてこちらが聞きたかったことをどんどん質問していく。長年研究を続けてきた人だけあって、当然ながら色々と詳しく、非常に勉強になる。ただ中にモルグンさんにとっても初耳だったこともあったようで、こちらの話にも非常に興味を持ってくれ、話が弾んで面白い。70歳を過ぎても現役で日本語を教えている(場所は昨日行った旧東洋学院)という先生は、やはりパワフルだ。

 

カフェを出て、少し散策した。観光客でにぎわう噴水通りを見て先生は『ここは100年前日本経営の女郎屋さんが多かった』というので驚いてしまう。今の我々には全く分からない残酷な歴史がそこには存在しているのだ。そして旧日本総領事館などの周辺を回り、更に色々と教えてもらう。NHKのファミリーヒストリーを見て、さだまさしの祖父がスパイだったことを思い出したが、何と先生はこの番組に出演していた。ゆっくりと先生は広場からバスで帰っていった。また教えを請いたいと思う。

 

戻って博物館を見学した。まずは建物のレトロ感がよい。そして土偶から甲冑まで、実に様々な展示がなされており、実に興味深い。日本との繋がりも十分に感じられる。先住民族の歴史もかなり展示されており、勉強になる。先住民族の地に、ロシア、中国、そして日本人も入って来て、街が形成されていった。

 

遅い昼ご飯は、近くの食堂へ行く。先日行ったところよりかなりきれいで客も多いのだが、店員の対応は更にひどい(店員の方も待遇などに不満があるのかな、とも思う)。観光客など外国人は来なくてよい、ということかもしれないが、観光で売り出す街としては、サービス業に弱点があるのではないか。モルグン先生と行ったきれいなカフェの店員もずっとスマホを触っていて、遊んでいるようにしか見えなかった。そしてスープも今一つだったのでがっかり。

 

今日のホテルに戻り、チェックイン。初日より高い料金を払ったが、設備などは良くない。昔の一流ホテル。だから部屋が空いていたのだと納得する。午後は裏側の海を見に行く。遊園地があり、船着き場がある。実にクリアーな天気で気持ちがよい。恐らくウラジオストクの秋、最高の季節なのだろう。平日だが多くの人々が午後の散歩をしている。ビーチがあり、何とこのひんやりとした中、水着で泳いで人、日光浴にいそしむ人もいた。

 

そのまま1時間ほど市内散歩を続け、宿に帰って休息する。ウラジオストクの歩ける範囲はほぼ歩いた気分になる。ちゃんとした机もない部屋で、PCを開いて今回の旅のまとめを始めるが、腰が痛くなる。夜までそうしていると、やはり腹が減るも、余り歩きたくなかったので、先日の食堂へ行き、まあまあだったスープを飲むことにした。急速に秋から冬になろうとしている雰囲気が嫌いではない。

ウラジオストクを歩く2019(2)歴史の街を歩く

9月18日(水)
ウラジオストク歴史散策

今朝も晴れて気持ちがよい。ただ夜中の気温は急激に低下したようで、起きるとちょっと肌寒く感じた。ホテルに朝食が付いていたので、パンなどを食べてから出掛ける。まずはとにかく可徳が120年前に開いたオフィスの場所を確認したいと思い、歩き出す。住所は3月のハバロフスクでお世話になったポボロツキーさんからもらっていたので、簡単に辿り着いた。

 

但しオフィスは2か所あったという。何故途中で引っ越したのだろうか。スヴェトランスカヤ街の緩やかな登り、そこに立つ古い建物。それが引っ越した後の事務所ではなかったかと思われる。今はカフェと革製品を売る店が1階に入っているが、ここの2階に事務所が置かれていたのでは。斜め向かいにはアルセーニエフ沿海地方州立博物館という立派な建物が角を占めている。ここはその昔、横浜正金銀行の支店が入っていたらしい。

 

そこから少し歩くと、アレウーツカヤ街に大型のショッピングモール、クローバーハウスがある。ここが元々の事務所があった場所らしいが、今やその面影はない。ただ道の向かいには日本の商店がいくつも入っていたという如何にも古い建物が保存されており、往時の雰囲気が少し味わえる。この2つの場所を確認し、写真を撮ったことでかなりホッとする。

 

そのまま北の方に歩いて行くと、日本時代に本願寺のあった場所まで行く。今は碑が建っているだけで寺院はない。その先にはなぜか仏像が置かれているところがあり、その横にはなんと与謝野晶子の歌が刻まれた碑がある。彼女は燃えるような思いを持って、ヨーロッパに旅だったようだ。更には素敵な教会もある。

 

そこから南下すると、いい感じの建物がどんどん出てきて、気分が乗る。最後の方には旧日本総領事館などの建物があり、この周辺が当時の中心だったことがよく分かる。日本人関連の商店などもこの付近に集中しており、ほんの少し行くと、先ほどの可徳のオフィスがあったところに出るから、可徳もこの辺を行き来しているのだろう。ただ彼はハバロフスクにも行き、日本にも帰っているから、どの程度この地にいたのかは疑問ではある。

 

今日はホテルを代わらなければならない。折角なので海の見えるホテル、に行ってみることにした。そこは地図で見ると近かったのだが、かなりのアップダウンがあり、また細い道を行くと木造の古い家があったりする。何とか通り抜けて、今度は海まで下り、ようやくたどり着く。

 

このホテル、何だか映画に出てきそうな海辺の大型ホテル。勿論廃墟ではないが、バルブ崩壊のような、かなり寂しい感じだ。国営ホテルの匂いもぷんぷんしており、とても満室とは思えないが、2時まではチェックインできないというので、荷物を預けて出掛ける。実は海の方からでなくても、上の階に出口があり、こちらの方がかなり近い。

 

また駅に行き、その先に泊まっている大型客船に見入る。駅と港がくっついており、実にコンパクトだ。その向こうには大きな広場があり、教会が見える。更に先には市立博物館がある。この場所に二葉亭四迷が住んでいたことがあるらしい。その横は、ニコライ二世の凱旋門だ。

 

海沿いに歩いて行くと、橋が架かっており、そこを越えた所には、なぜか嘉納治五郎の像もある。ロシア柔道発祥の地ということらしい。そこでエネルギー切れを起こし、スタンドでホットドックとコーヒーを買って食べる。かなり風がよい中でも、外で食べるのは気持ちがよい。

 

更に進んでいくと、東洋学院(現極東連邦大学)の赤いレンガの建物が見えてくる。これもかなり古く、入り口には何となく日本を思わせる石が置かれている。1899年に設立されたこの学校は日本研究なども行われており、日本とのゆかりは深い。その建物を抜けていくと、裏の道路の反対側にはプーシキン劇場がある。ここはバレーなどが今も上演されているようだが、戦前は松井須磨子が舞台に立ったこともあるらしい。

 

あまりに歩いてしまい、へとへとになって、宿まで戻った。部屋に入ると確かに海は見えたが、結構遠い。窓も汚い。このホテル、Wi-Fiはほぼ使えない。部屋数はかなり多いのだが、一体どれだけ泊っているのか。やはり一晩でおさらばしよう。夕方、夕日を見ようと海辺に行くも、フェンスで覆われて入れない。

 

仕方なく、ちょうどFBでTさんに教えてもらったピロシキ屋に向かう。駅のすぐ近くの小さな店で、テイクアウト専門。何と日本語メニューが登場したので驚く。おかずパンの定番、チキンレバー入りと煮キャベツ入りを注文、合わせて暖かい紅茶もテイクアウトして、駅が見える場所でゆっくり味わう。これは予想以上のうまさ。しかもとても安いので有難い。

 

帰り道を行くと、日がどんどん落ちて行くので、色々な角度から見てみた。海は風が強く、非常に荒れているので、空はきっくり見える。日が落ちてしまうと真っ暗になり、風の音だけが聞こえて本当に寂しい。如何にも北の海という感じだ。まあ一晩なら耐えられるかと、早めにシャワーを浴びて寝込む。

ウラジオストクを歩く2019(1)日本から一番近いヨーロッパへ

《ウラジオストクを歩く2019》  2019年9月17日-21日

2か月におよぶ東南アジアの旅。久しぶりにカバン一つでフラフラ歩き回り、自分もまだまだできるじゃん、と思ったのだけれど、やはり体へのダメージは相当なもので、おまけに家のごたごたに巻き込まれ、日本の行政システムの後進性をいやという程味わい、疲れ果てていた。

そんな中、3月のハバロフスクに続いて、今回はウラジオストク訪問が実現した。3月同様目的はただ一つ。可徳乾三の足跡を追うことだけだったが、今や『日本から最も近いヨーロッパ』を売りに、日本からの観光客も増えていると聞き、ちょっと興味を持って出掛けてみた。ビザは前回同様電子ビザで簡単に取得する。

 

9月17日(火)
ウラジオストクまで

前回のハバロフスク同様、成田から出る。今回はS7ではなく、アエロフロートの子会社、オーロラ航空で飛ぶ。オーロラと言えば、3月、突然ハルピンに飛ぶ飛行機となったが、特に悪い印象はなかった。チェックインカウンターに2時間40分前に着いたが、日本人は自動チェックインが出来ませんと言われて待つ。今回は預け荷物無し、10㎏以内に荷物を抑えたので、問題ないと思っており、機械で搭乗券を打ち出したのに。

 

結局ビザなどの要件を確認している。最初からちゃんと伝えていればよいのに。後に搭乗ゲートで何人もが呼び出されていたのはこのためだったのだ。中にはビザ要件不十分の外国人がおり、かなり揉めていた。そういえば、出国審査終了後の場所に、セブンイレブンがあったのは新鮮だ。ドリンク1個買うのに搭乗券を要求される。広い共有スペースでPCをいじることもできて快適な待合室。

 

機内はS7とほとんど変わらない雰囲気だったが、3月は日本人が5人しか乗っておらず、完全なアウエー状態だったのに、今回は日本語がかなり聞こえてきて、最後は後ろの女性が日本語で話しかけてきた。これはウラジオとハバロフスクの違いなのか、それとも季節の違いなのか。機内食もパサパサのサンドイッチ。隣の人がジュースとコーヒーをもらったので私も習った。

 

結局2時間もならないうちに、定刻前にウラジオに到着。空港の入国審査は早かった。係員の女性は『幼稚園のお迎えが間に合わない』のかと思うようなイライラした表情で、あっという間にスタンプを押した。預け荷物もないから、そのまますぐに外へ出た。だがやはりATMに銀行カードを差し込んでもルーブルは出なかった。

 

それでも両替所もあり、私の場合は既に手持ちのルーブルがあるので、問題なくシムカードを購入できた。シムカードを売っていた若い女性は英語も堪能で、かなり親切、しかも笑顔だった。この国際空港は当然ながら、ハバロフスクよりかなり環境がよい。

 

この空港には市内行の列車があると聞いているが、1日に5本しかなく、既に今日は終了していた。バスもあるが、ミニバスはいつ出るのか聞いても言葉は通じない。そのうちに乗客が沢山乗り込んできたが、その殆どが日本人で、地球の歩き方などを持っていて驚いた。初老の夫婦は『どこ行くかわかんないけど、何とかなるよね』などと会話している。やはりウラジオ観光はプチブームなのか。

 

結局午後6時にバスは出た。市内まで40㎞以上あり、渋滞もあったので1時間以上かかった。料金は200ルーブルで、大きな荷物は別途1つ100ルーブルらしい。ハバロフスクのトロリーバスが35ルーブルだったことを考えると市内へのアクセスは断然高い。終点はあのシベリア鉄道の起点、ウラジオストク駅だ。

 

未だ周囲は明るかった。取り敢えず今日泊まろうかと思っている宿を目指す。思っていたよりきつい坂を上り、何とかそこに辿り着く。特に予約はしておらず、部屋はあるかと聞くと、間髪を入れずに『1泊だけならね』と言われてしまい、ちょっとびっくり。まあまずは1泊してみることにした。部屋は広くはないが、整っていて、居心地はよさそうだ。

 

暗くなり始めたので、急いで外へ出て夕飯を探す。すぐ近くにスーパーがあり、まずはドリンクなどを買い込む。韓国人観光客などが沢山いた。続いて駅へ行き、中を少し見学。これがシベリア鉄道の出発駅かと思うほど小さい。駅の周辺も思ったほど食堂がなく、かなり歩き回る。

 

メインストリートでようやく大衆食堂を発見して、列に並び、好きな物を選ぶ。若者が横入りするし、会計のおばさんの態度は悪いしと、ハバロフスクに比べて、印象は良くなかった。それでもスープが飲めて、サラダが食べられたことはよかった。それから明日の夜泊まるところを何となく探してみたが、どうもしっくりこない。周辺には日本の居酒屋があり、おしゃれなバーもあったが、私には無用の長物だ。