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北京及び遼寧茶旅2019(7)営口の街を巡る

12月18日(水)
営口で

翌朝はゆっくり起き上がる。やはり疲れが出ているのかもしれない。ただ朝食は最近泊まった3つの宿の中では一番良かったので、少しテンションが上がる。正直外に出るには寒かったが、きょうは営口の全容をつかもうと思っており、勢いで川沿いへ出た。宿の横には古い建物が残されており、ここが税関だった。今は特に使われている様子はない。

 

それから川沿いにずっと歩いて行く。古い建物がポツンとある。対岸には船の修理場も見えてくる。100年前、この地は東北の玄関口として、貿易を担う港であった。3㎞近く歩くと渡口駅という名の渡し場があり、現在も船が運行されているようだが、冬は川が凍結しており、閉ざされていた。

 

少し川から離れると、遼河老街と呼ばれる古い街並みを保存した場所があった。ただ実際には新しく建てたものもあるようで、最近中国各地でよく見られる老街の一つという感じだった。午前中でもあり、寒さもありで、歩いている人は殆どなく、店も開いていなかった。老人が一人、縄のようなものを振り回して鍛錬しているのが面白い。

 

博物館があるということだったが、とうの昔の閉館しているようで、今や建物だけが残っている。仕方なく、現在の港がある所へバスで行ってみることにした。バスは1元でちょっと小型。宿へ帰る途中の道にはやはりまだ微かに古い建物が残されているが、何があった場所かはよく分からない。

 

バスは宿を越えて更に進んでいく。元々は港を中心とした街だから、港周辺には昔栄えた市場や異国風の百貨店などがあり、興味をそそられる。肝心の港には入ることもできず、何も見られなかったが、途中で焼売屋を見つけたので入っていく。モンゴルの稍麦、焼売の原型で大型だ。この店は漢族がやっているようだが、モンゴル族のものとはまた違う。とにかく寒い中を歩いてきて、あの湯気を見ると幸せを感じる。しかも内臓スープ、羊雑湯も、本当に内臓たっぷりに入っており、もう何とも言えない気分に浸り、頬張る。

 

元気になったので、またバスに乗り、今度はお寺に向かう。九重の塔があるという楞厳禅寺。中国で九重の塔はあまり見たことはなかったが、何しろ新しい。文革で荒廃後、改革開放で立て直したのだろうか。敷地は広いがお参りの人が多いとは思えない。更にフラフラと歩き始める。

 

この街にも万達広場があり、今の街の中心はこの付近になっている。更に行ってなぜかちょっと曲がると、そこに営口博物館があるではないか。しかも無料で誰でも入れる。中もまさに私が必要としていた、天津条約、開港、そして満州時代のことがかなり展示されてあり、大変参考になる。大連も港として有名だが、最初に東北で開港したのは営口であり、少なくとも第二次大戦までは、東北の中心の一つであったはず。日本人もかなり住んでおり、商人も多かった。また茶葉貿易も一時行われていた。

 

博物館で満足したが、最後に日本領事館の痕跡がないか、周囲を訪ね歩いてみた。だがどうやら今は学校になっており、何も見付けることはできなかった。日本への思いというのは、特に東北の地で複雑ではないだろうか。体が凍えてきたので、部屋へ戻った。テレビを点けると、習主席がマカオに到着。そうかマカオ返還20周年なのだ。

 

暗くなると昼間通りかかった四川料理屋が思い浮かび、どうしても回鍋肉が食べたくなって出掛けた。何故東北まで来て四川料理とは思うものの、食べたい物を食べるのが一番良いので、そうする。一人だと一品しか頼めないのは辛いが、質はまあまあだったので、良しとしよう。体も温まった。

 

部屋に戻ると茶専門チャンネルで、何と四川の茶馬古道について、かなり詳しいレクチャーが行われていた。様々なルートの紹介から、女背夫の存在まで説明しているから、相当詳しい。来年3月にはまた四川に行き、もっと詳しい歴史を学んで来ようと計画中だったので、30分ほど食い入るように見る。

 

そうこうするうちにサッカー東アジア選手権、男子の日韓戦が放送されたので見てみた。日本チーム、勿論海外組がいないなどで戦力不足かもしれないが、韓国に押されっぱなしで覇気が感じられず、あっけなく敗れてしまった。テクニックだけが妙にあっても、気迫がないプレーヤーは去るべきだろう。また監督についても、さすがに考える時期ではないだろうか。

 

茶専門チャンネルに戻すと、昨晩に続き、学生による、ストーリー性のある個性的な茶芸が繰り広げられていた。こういうのを見ていると、一つの方向性が見えるのかもしれないが、茶とは何だろうかと本気で考えてしまう。茶芸とはその動作を見せるためにあるのだろうか。私は与えられた茶葉を吟味し、いかに美味しく淹れるか、淹れられるか、そのために道具は何を使うかを考えるのが茶芸師だと思っていたが。

北京及び遼寧茶旅2019(6)レトロな街、営口へ

12月17日(火)
営口へ

翌朝は非常に良い天気になった。昨日は何だったのだろうか、と思ってしまう。朝ご飯を食べてから、外へ出た。実は数か月前にもあったことだが、銀行カードがなぜか急に使えなくなってしまったので、急いで銀行へ行く。歩いて1㎞ちょっとの所にあるのだが、道が広くて意外と遠い。

 

銀行に入ると年配の女性が寄って来て、『どうしたの?外国人なの?』と聞いてきて、窓口まで連れて行き、係員にも一生懸命状況を説明してくれた。中国の銀行ってこんなに親切だっただろうか。だが、窓口では原因がなかなか分からない。今日は営口に移動するので、列車の時間もあり、ちょっと焦る。係員はついに、再度私のデータを登録し直したらしい。すると突然使えるようになる。システム上の問題なのか、本当にこういうのは困る。お金が急に使えないのは外国では致命的なのだ。でも銀行側の対応は有難い。

 

急いで宿へ戻り、チェックアウトする。この宿、とても立派なのだが、受付の対応は残念ながら今一つ。急いでいるのに、私の作業を途中で中断して他のことを始めてしまった。何とかアウトさせてもらい、前に停まっていたタクシーに乗る。駅に着くとまだ40分もあったが、私のチケットの列車より早いのはない、とのことだった。

 

何故だろうか。本日向かう営口という街は、その手前で瀋陽と大連方面に分れるのだ。だから葫蘆島を通る列車は沢山あるのだが、私は大連方面行にしか乗れない。このようにして、街の位置関係を理解することも重要だ。大連行きに乗れば1時間ちょっとで営口東駅に到着する。もう列車の旅も慣れてしまい、目をつぶっていると着いてしまう。

 

営口東駅も新しい感じだった。ここから街までは相当に遠い。またバスなども乗り換えないと予約した宿に行けないため、タクシーを使う。日本に比べれば決して高くはないので、つい使ってしまうのだ。営口の街はかなり古びており、歴史好きの私としては、秦皇島、葫蘆島よりはワクワクする。

 

宿も老舗ホテルだった。予約した時は気が付かなかったが、この付近が往時営口の貿易の中心であり、この宿の位置も元々は税関の横であった。裏は川が流れている。天気は良いのだが、川風はかなり冷たい。思えば北京からどんどん北に向かっている。そしていつの間にか遼寧省に入っている。

 

宿の向かいに由緒正しそうなビルがあった。1930年代にできた銀行の営口支店だった。その隣は郵便局の跡、中国赤十字発祥の地とも書かれている。更に道を渡ると珍しい建物が見える。何と旧ロシア領事館だった。実はこの両側にはイギリス領事館と日本領事館もあったらしいが、今はその姿は見えない。ただ更に行くと、立派な教会が今もどんと存在している。往時の営口とはどんな街だったのだろうか。

 

零下の街を歩いていると、実はかなりの疲労感がある。そして腹が減るが、この周辺にはあまり食堂がなく、たまたま見かけた包子の店に入っていく。ドアも2重になっており、急に北国を実感する。包子以外にも豆腐脳も注文し、更にはキムチも出てきてちょっとカオス。だが体は温まってよい。

 

そのまままた歩き出し、宿の裏の川沿いを少し歩いてみたが、残念ながら風が強くて、宿へ戻ってしまった。ベッドに潜り込んで体を温める。テレビを点けると女子サッカー東アジア選手権、中国対台湾をやっている。本来なら北朝鮮が出るべき試合だが、代わりに台湾が招待された。日本にはぼろ負けしたが、今日はかなり頑張って1点差の惜敗。監督も日本人であり、今後向上が見込まれる。

 

夜になると腹が減りまた外へ出た。先ほど見た古い建物はきれいにライトアップされていた。今回は歩いて15分ほどかかる、街の中心部まで行ってみた。小さな街だが、重厚感ある建物も残っている。なぜか水餃子が食べたくなり、チェーン店らしき店に入る。かなりきれいで雰囲気も良く、ここだけお客が多い。

 

餃子は冬至に食べようと思っていたが、今回は冬至の日に帰国するので、東北にいる間に食す。ここの餃子は餡がしっかりしており美味だ。一種類なので飽きてしまわないように、キュウリの和え物も頼んであるので、快調に箸が進む。家族連れもいるが一人客も多く、特に女性が目立つ。これからはこんな店が地方にもどんどんできるのだろう。

 

部屋に帰ってテレビを回していると、何と『茶番組』専門チャンネルを発見した。茶の歴史番組もあり、かなり本格的で一流の先生が講義しており、真剣に見入る。学生の茶芸コンテストはどうかとも思うが、取り敢えずこんなチャンネルがあることに中国の凄さを感じる。日本ではとても成り立たないだろう。

北京及び遼寧茶旅2019(5)氷雨の葫蘆島で

 

夕飯は結局面倒になり、宿の横のウイグルレストランに入って、ラグマンを頼む。出て来た麺、二人分はありそうだ。具も沢山で、自ら麺にかけて食べる。久しぶりに堪能する。小学生の女の子は宿題をしながら、店の手伝いをしており、何となくウイグルを思い出す。もう一度行きたいのだが、今は少し不自由だ。

 

宿へ帰り、またテレビ。もう旅をしているのか、スポーツを見に来ているのか分からなくなるが、年末のグランドファイナルを生中継で見られるのだから、つい見てしまう。バド女子は台湾の戴と中国の陳の戦いとなり、予想を覆して、陳が優勝した。彼女のスマッシュ、コースが独特で実に拾いにくい。

 

併せてサッカー東アジア選手権男子、中国対韓国の試合も見た。どちらも動きはイマイチだが、そこは試合好者の韓国が上手だった。目を引いたのは、中国の監督代理があの李鉄だったことか。彼は中国初のプレミアリーグ選手だったことをよく覚えている。現在中国選手でイングランドに所属している人はいるのだろうか。李の頃は中国ももう少し強かったような気がする。

 

12月16日(月)
葫蘆島へ

翌朝もダラダラ起きる。午前中は休息に当てる。11時前にチェックアウトして、駅へ向かう。今日は高鉄で葫蘆島北駅まで進む。途中昨日行った山海関を通り過ぎ、約1時間で葫蘆島北までやってくる。駅は畑の真ん中に作られた感じが強く、周囲には特に何もない。タクシーで市内中心部へ向かうも、30分ほどかかる。予約した宿に入ると、見かけはかなり立派。区画整理がよくできており、新市街地にいることが分かる。

 

残念ながら葫蘆島で雨が降り出し、かなり肌寒い。昼を過ぎていたが、ちょっと外に出て、麵屋に駆け込み、熱い麺をすする。落ち着いたところで、外へ出るとちょうどタクシーが来たので、港の方へ走ってもらう。港は街から10㎞も離れており、予想以上に遠く感じられた。運転手も『なんでそんなところへ行くんだ』と怪訝そうな顔をする。

 

目的地をスマホ地図で示して、30分ぐらいかけて何とかそこに辿り着く。そこ、とは、第二次大戦後、旧満州などか命からがら逃げてきた100万人の日本人が、海を渡って引き揚げた場所だった。『日本僑俘遣返地』という石碑が建っているが、これは最近地元政府が建てた新しいものだった。

 

いつかは一度、この地に来ようと思っていたが、その日は突然にやってきた。だがこの石碑以外、この地の歴史が感じられるものは何もない。1945年から46年にかけて、着の身着のまま満州から逃げてきた開拓民がここに集められ、寒さの中、日本への帰国を待っていた。それは今日の零下の気温と小雨の中で見ると、恐怖でしかない。日本人は満州で一体何をして、何を得て何を失ったのか、私などには想像もできない。ただただ茫然と佇むのみである。

 

ここを訪れたことを後日、何人かの日本人に話したところ、『実は自分の母親もここから引き揚げたと聞いている』『一度父を連れて行きたかったが、もうそれは叶わない』など、思った以上に反響があり驚いた。そして満州引き揚げの規模の大きさ、身近さがひしひしと感じられた。もし当時の引揚者が今の葫蘆島を見たら、一体どう思うだろうか。懐かしくはあるかもしれないが、決して良い思い出がある場所ではないはずだ。

 

この石碑の海側にも何かあるというので、小山を登ってみた。ここからは現在の港が一望できるはずだったが、霧でほぼ何も見えない。上には『葫蘆島港開工記念碑』が建っていた。1930年とあり、張学良の名前も見える。この時代、東北軍閥の雄、張学良は父張作霖の爆死後、この辺りまでを勢力圏に置いていたことが分かる。そして僅か6年後、西安事件で幽閉され、次に歴史上に登場するのは、1990年の台北だから、あまりに劇的である。

 

帰りのタクシー内で『ほかに古い町並みが見られるところはないか』と聞いてみると、葫蘆島市内は、戦後の建物ばかりだが、もう少し遠くで良ければ明代の建物が残っている、というので、そちらにも行ってみることにした。何しろ雨で動きは取れないので、今日はこのタクシーを使うしかない。

 

遠くとは言ったが、本当に遠かった。一度葫蘆島市内を通り過ぎ、反対方向へ30㎞も進んだ。もう葫蘆島ではなく、隣の市ではないか。興城古城、という名の城壁に四方を囲まれた観光地がそこに出現した。だが冬で雨のせいもあり、観光客は全くおらず、既に切符売り場も閉鎖されていた。仕方なく場内を散歩したが、確かに古い建物はあるものの、現在も人が住んでいるため、その古さが今一つ感じられず、半分ほどで引き返した。

 

これまでタクシーを使って観光地に行くなど、殆どなかったのである意味新鮮ではあるが、ずっと雨に降られたので、何をしに来たのか、よく分からずに終わった。宿へ帰るともう外へ出る気力もなく、ルームサービスで済ませる。色々な意味でぐったりと疲れが出たのかもしれない。気持ちは非常に重かった。

北京及び遼寧茶旅2019(4)山海関と秦皇島

すぐ近くに立派な門があった。今や観光地の秦皇島だから、テーマパークのような公園でもあるのだろう。だが今日は日曜日だというのに、門は固く閉ざされていた。秦皇島の冬は完全なオフシーズンであり、開門しても採算が取れないのだろう。仕方なくその向こうをぐるっと回って何とか海に出た。

 

ビーチがあったが人影はまばら。夏は沢山の海水浴客が訪れるらしいが、本当に冬は誰も来ない。気温はそれほど低くはないが、今日は曇り空。そこへちょうどいい具合に薄日が射してくる。何となく秦皇島の雰囲気になってきているようだ。海から突き出して橋が架かっており、その先に石碑のようなものが見える。そこを渡るのに2元支払う。おばさんが『釣りの人かい』と聞いてくる。

 

渡っていくと、何となく始皇帝が不老長寿の秘薬を求めて渡海する気分になれる。釣り用のボートが横付けされているが、これに乗れば海の向こうへ行けるのだろうか。日差しが少しずつ強くなり、視界が開けてくる感じもある。だがそれ以上は特に何も起こらない。そしてトボトボと引き返すのみ。2200年前、始皇帝は本当に海を渡ろうとしたのだろうか。

 

バス停に戻り、来たバスに乗り込み、街の中心部でバスを乗り換える。ここでスマホ修理屋が空くのを待とうかとも考えたが山海関に行くバスは分かっているので、取り敢えず行ける所まで行ってしまおうと思う。最近の行動としてはかなり無謀だな。33番のバスは、先ほど乗ったバス停も過ぎ、秦皇島駅も通過して、一路山海関を目指す。路線バスなので何十ものバス停で乗客が乗り降りし、かなりの混み具合の中、1時間後ようやく山海関の街に入る。

 

ここは秦皇島とは別の街であり、電車の駅も別にあるようだ。山海関という文字が見える場所でバスを降り、そのまま中に入っていく。かなり歩くと入り口があり、15元を払って入場する。ここの料金も冬季割引があり、50元のところが15元らしい。まばらながらここには観光客がいた。登っていくと、なかなか眺めがよい。建物があり、天下第一関と書かれており、ここから万里の長城が始まるのだな、と思える。

 

関をずっと歩いて行くと、ここを守った人などゆかりの人の展示もあり、興味深い。元々は明末、万歴年間に建てられた建物が多く、それを1980年代に修復している。異民族の侵入を守る砦、明が滅んだときも、ここから満族が侵入してきている。万里の長城の端を見学するには、ここから更に行かねばならないようだが、私は天気の良いここでの散歩で大いに満足した。

 

更には長城博物館にも立ち寄り、長城が2600年も前から作られ始め、各時代の長城の範囲などが地図で示されているのは参考になった。我々が思う長城はごく一部だったということだ。そして抗日戦争中の長城の写真が展示してあり、日本軍が一部を破壊した様子も見られた。

 

またバスで帰ろうとしたところ、ちょうど屋台が出ており、いい匂いをさせていたので菓子餅が食べたくなる。おばさんに注文すると、『微信支払いできるか』と言われ、現金でというと見せろと言う。10元を見せると、何と10元分、ぎっちり詰め込まれた餅が出てきてビックリ。お釣りはないので現物支給だ、と言わんばかりに10元を取り上げられた。今回北京でも、ここまではっきり現金ノーを突き付けられたことはなく、驚くばかりだ。これも観光地での新手の商売戦略の一環かもしれない。

 

バスでまた市内中心部へ戻る。僅か2元でこんなに長い距離を走れるのはうれしい。だがスマホが使えないので正直退屈でもある。バスを降り、見つけたスマホ修理屋に駆け込んだ。おばさんが『どこが壊れたんだ』と聞いてきたので、画面が真っ暗だと告げると、ほんのボタンを1-2押して、あっという間に解決してしまった。ようやく私が何かで操作を誤り、画面の明るさを0にしてしまっただけで、壊れてはいなかったのだと分かる。おばさんも呆れてしまい、『早く帰って、商売の邪魔だ』という顔をしたが、私としてはホッと胸を撫でおろした。

 

バスで宿へ戻ると、またCCTVを点ける。今日は日曜日だから各種目の決勝が行われている。バド男子はシングルスで桃田が優勝。最近の彼の強さは際立っている。女子ダブルスは期待の永原/松本が精彩を欠く試合内容でがっかり。中国ペアの良さだけが目立つ試合となった。卓球も女子シングルスは世界ナンバーワンの陳夢が貫録勝ち。

 

あっという間に外は暗くなり、また夕飯を探す旅を始める。すると向こうの方に鉄道チケットを売る店があるではないか。最近は皆がスマホで予約するため、このような店はどんどん減っているのだが、折角あったので、明日の葫蘆島行きだけでなく、営口、瀋陽、北京と回るチケットを全てここで買ってしまった。日程は固定されてしまったが、もうこれでチケット窓口に並ぶ必要はない。外国人にとってはこういう店に残って欲しい。チケット代も全部で400元ちょっと、やはり中国は日本に比べて相当と安い。

北京及び遼寧茶旅2019(3)秦皇島で、壊れる?!

12月14日(土)
秦皇島へ

今朝はゆっくりと起きて、ゆっくりと朝食を食べて、一行と別れ、北京駅へ向かった。チケットは持っているので悠々と駅舎に入る。本日向かう秦皇島行きの列車は1階の古い改札口から出るらしい。レトロ感満載。久しぶりに、昔の北京駅を思い出させる場所に来た感じだ。まだこんな場所が残っていたとは。改札も自動ではなく、係員が切符を切っている。

 

北京発の列車はどんな時でも混んでいると思う。常に満員、やはり人が多いのだ。列車は冬枯れの田畑を縫って走る。何となく北に向かう感じが出ている。約2時間半の道のり、淡々と過ぎていく。秦皇島駅に着くとそのまま地下からタクシーに乗り、予約している宿へ直行した。

 

ちょうど宿の部屋に入ると、女子サッカー東アジア選手権、日本対中国の中継があったので、取り敢えずそれを見た。日本は日テレベレーザのメンバー中心に、上手い試合運びで勝利した。サッカーでは男女とも日本が中国を上回っている現状が続いているが、中国女子は確実に力を盛り返してきているので要注意だ。

 

実は先日北京のホテルで応急修理したスーツケース、残念ながらまた同じ場所が壊れてしまった。今回は修理不能と診断され、新しいのを買わなければならない羽目になる。こんな時は、いくら1年間の保証がついていても、何の役にも立たないことを知る。壊れた物を運ぶこともできないし、旅は継続しなければならい。何とこのホテルには独自ブランドのケースが売っており、サイズもぴったりだったので、思い切ってそれを買う。

 

そして溜まった洗濯物を洗濯機に突っ込んで、街に出た。既に暗くなっており、観光地巡りもできないので、少し早いが夕飯を探す。近所には食堂が少なかったが、麵屋を見つけて入ってみた。ここで出た麺、いわゆる日本の中華そばによく似ており、あっさりしたしょうゆ味だ。こういうものを食べると、戦後引き揚げてきた人が日本でこのようなラーメンを作ったのではないか、と勝手に想像してしまう。

 

部屋に帰ると、今度は卓球が始まっている。水谷/伊藤の混合ダブルス。決勝の相手は許/劉の中国最強コンビ。初めに2ゲーム取ったが逆転負け。中国選手を追い詰めるが、最後に躱されてしまうの、何とかならないのだろうか。これが中国の底力さ、といつまで言っていても始まらない。

 

洗濯物の乾燥が終わった頃、今度は女子シングル準決勝、陳夢と伊藤の試合が始まる。陳は伊藤対策が万全で、やはり届かなかった。中国女子の層は極めて厚い。若手はこの大会で決勝に進んでも、オリンピック代表に手が届かない。日本のマスコミは取り敢えず『金メダル候補』をやたらに持ち上げるが、本当にメダルが取れる選手は簡単に負けないはずだ。

 

すると今後はバドミント女子シングルが始まり、山口茜と陳雨非が対戦した。この日の陳はいつもより動きがよく、期待の山口も疲れが出たのか、最後は力尽きて破れてしまう。バドでは中国が圧倒的に強いという状況はなく、女子シングルは日本の2人、タイ、台湾、インド、スペインが優勝候補。その中で中国も少し盛り返しているのが不気味である。

 

12月15日(日)
秦皇島と山海関

翌朝はゆっくりと宿の朝食を食べてから、外へ出た。秦皇島に特に用事はなかったが、初めて来たので、河北の守り山海関と秦の始皇帝所縁の秦皇島港は見てみたいと思っていた。まずは宿を出ると公園があったので覗いてみる。そこには石碑が建っており、1893年に中国初の通常軌道鉄道が開通したとある。ここの位置付けは当時一体どんなものだったのだろうか。

 

山海関へ行こうと思い、スマホでバスを検索して、バス停に行くとちょうどその番号がやってきたので慌てて乗り込む。ところが発車して少しすると、どうやら逆向きに乗ってしまったことが分かる。バスは市内中心部へ入ったので、仕方なくそのまま乗って行き、途中でバスを乗り換えて、秦皇島港へ向かうルートに変更した。

 

港が見え、鉄道まで敷設されているのをみたところでバスを降りた。そしてここからどう進もうかとスマホを取り出すと、なぜか突然画面が真っ暗になってしまった。再起動しても動かない。こんなところでスマホが壊れるとは、と愕然となる。しかし時刻はまだ朝9時台であり、スマホ修理屋も閉まっているだろう。取り敢えずここ辺の見学はスマホなしで行けるだろうと思い、歩き始めた。

北京及び遼寧茶旅2019(2)久しぶりに

12月12日(木)
久しぶりに

今日は休養日だった。一行はこの寒いのに、万里の長城と故宮観光に出かけていく。周囲からは『凍え死なないように』などと冷やかしの声が掛かるが、皆意気揚々と出掛けていく。今日は氷点下ではないようだ。後で聞いてみると、長城は風がなく、スカイブルーで楽しかったらしい。私は一行と別れて、一人で行動することにしていたので、寒さは気にならない。

 

まずは地下鉄で北京駅へ行き、明後日北京を離れる際の列車の切符を手に入れる。予約はスマホだが、窓口の混み具合が分からないため、事前に取りに来た。15分程度で受け取れたので良かった。それからまた地下鉄に乗ったが、すぐに前門駅で降りてしまい、その付近を何ということもなく歩き回った。老舎茶館など懐かしい建物がある。この辺りは名もなき古い建物が多く保存されている。

 

そのままずっと歩いて行くと、いつの間にか瑠璃廠まで来てしまった。昔はアテンドでよく来たものだが、今や観光客を含め、歩いている人もほとんどいない。骨董や文具などを買う人もいなくなったのだろうか。そこから更に西単まで行き、いつもの図書城で、お茶関係の本を数冊購入する。

 

なぜか地下鉄を建国門で降り、22日の帰国前日に泊まる予定の宿の場所を確認した。ずっと食事をしないで歩き疲れていたので、ここで麵屋に入った。すると出てきた伝統麺というのが、カレー味で驚いた。回族系の経営だろうか。これが意外とうまく、『最近はご馳走ばかりだったけど、こういうのが食べたかった』と思わずつぶやく。

 

一旦ホテルに帰り休息。実は現在韓国で卓球のグランドファイナルが行われており、CCTVで見ることが出来た。女子ダブルス準々決勝には、平野/芝田組と若い長崎/木原組が登場。勢いのある長崎/木原は見事に準決勝に進んだ。中国は一組しか準々決勝に進んでおらず、中国の弱点はダブルスか、と思わせる。

 

夕方、亮馬橋まで地下鉄で行き、懐かしい三全公寓へ向かう。ここは20年前近所にオフィスがあり、よくランチに来た場所で、その和食屋で故邱永漢氏に出会ったりしたのを思い出す。ここには現在知り合いのTさんの和食屋があり、今日は実に久しぶりに彼と再会すべく訪ねた。

 

5年ぶりに会ったTさんは今日本及びアジアを駆け巡っており、北京にいることは少ないらしく、ちょうど良いタイミングだった。体調が悪い中、カッピングをして、無理して出てきてくれた。何とも有り難い。彼との話は尽きることはなく、開店から閉店まで話し続けてしまった。ご飯もウナギをご馳走になり、とても美味しく頂いた。帰りにトイレに行こうとすると全て電気は消されており、スマホの光で見送られた。

 

12月13日(金)
講座で

中国でも近年クリスマスムードは高まっている。今日はクリスマスツリーも用意され、クリスマスバザーが行われているショッピングモールで演奏が行われた。先日よりも更に人が多く、興味を持って聞き入る人の数も増えていた。人が増えると、演奏者もノッテ来て相乗効果がある。

 

演奏が終わるとすぐに公寓に移動した。午後はここの茶室でお話会がある。ランチはここの1階で取る。この公寓に住んでいる日本人向けに1時間ほど簡単なお茶の話をすることになっていた。ここの住人の3割が日本人だという。折角なので、日本茶と中国の繋がりを説明してみるが、内容的にはどうだったろうか。

 

1時間ほど経つと、下の階から音楽が聞こえてくる。何と今回は茶とジャズのコラボとして、1階でジャズの演奏が行われたのだ。こちらは言葉の問題がないので、日本人以外にもたくさんの参加者があり、子供たちも興味津々で聞き入っている。やはり音楽というものはいいものだ、と実感する。

 

夜はショッピングモール内の杭州料理を頂く。店内の様子が実にユニークで興味をそそられる。そして出てくる料理もビジュアル的に良い。いわゆるインスタ映えを狙っている。ここで今回参加したインド系アメリカ人と南アフリカ人の女性と楽しく話をしながら食べた。彼女らはいずれも医学部の博士課程に在籍しており、趣味でジャズバンドに参加していた。まさに多才ということだろう。

 

部屋に帰ると再び卓球。女子準々決勝で伊藤美誠対佐藤瞳の日本人対決があった。佐藤は中国の丁寧を破って上がってきたが、やはり伊藤には敵わない。CCTVの放送でも、日本チームでマークすべきは伊藤のみといった印象で、かなり詳しく彼女について放送していた。更に広州で開催されているバドミントンのグランドファイナルも見る。日本の有力選手が順当に勝ち上がっていた。

北京及び遼寧茶旅2019(1)北京にて

《北京及び遼寧茶旅2019》  2019年12月10日-22日

10月Hさんに誘われて北京に行った。それはイベント準備の手伝いだったが、そのイベント本番が12月にあり、そこにもお呼ばれした。一行は香港から北京入りするのだが、私だけ東京から向かった。更にイベント後は秦皇島、営口、瀋陽などを回る予定を立て、2年連続極寒の東北へ向かった。

 

12月10日(火)
北京へ

昨晩名古屋から戻り、荷物をまとめた。東京が寒いと言っても10度以下という程度だが、北京更には瀋陽となると、氷点下10度台は覚悟しなければならない。しかし荷物が多いのも動きにくいので、少し悩む。北京の天気予報は零度前後で温かいようで、東京も昼間は10度以上あったので、余り厚着をせずに出た。

 

空港もそれほど混んでおらず、スムーズだった。エアチャイナの食事は和のテーストでまあまあだった。北京空港に着くと、飛行機を降りたゲートの所にホテルの人が待っていた。今回はまさに特別待遇、ホテルカーで送ってもらえたのだが、まさか飛行機を降りたところから先導が始まるとは思ってもいなかった。またこのようなサービスがあることも知らなかった。そして空港の外へ出ると、車が待っており乗り込んだ。

 

さすがに渋滞があり、1時間半ほどかかってホテルに到着する。香港から来たHさん一行は団体だったこともあり、かなり予定より遅れて到着していた。ホテルに入る時、スーツケースをボーイが持ってくれたのだが、何と取っ手が壊れてしまった。バンコックで買ってわずか半年のイタリア製。壊れるにしてもちょっと早過ぎだろう。直ぐに専門の人が派遣され、修理が行われた。この辺は五つ星ホテル、手際が良い。

 

既に夜7時を過ぎており、レストランへ行くと、明日のイベントのためのミーティングを兼ねて夕食が始まる。私は立派な海南チキンライスを食べる。主催者はかなり緊張しており、色々と細かい心配をする。普段は大雑把に見える中国人だが、オーナー絡みの大イベントとなると話は俄然違ってくる。

 

その後、一行はホテルのバーに移動して、練習を兼ねてスタンダードジャズを演奏した。これが思っていたよりもずっと上手で驚く。特にインド系女性のクラリネットは目を引いていた。思わず体を揺すって聞き入ってしまった。バーの客も突然現れたバンドに拍手を送っている。自分の好きな曲をリクエストする輩まで出てきて、盛況に終わる。

 

12月11日(水)
イベントにて

翌朝朝ご飯を食べに行ったが、メンバーは誰もいなかった。若者が多く、遅くまで起きていたらしい。私はショッピングモールの茶荘へ行って茶を飲み、それからモール中心部へ向かった。そこでは昼の準備が進んでいた。ここでもジャズの練習会が行われる。折角だからと、モールに一番人が集まるランチタイムに行われた。ジャズをあまり知らない私でも知っている名曲が次々に流れ、思った以上に中国人が足を止め、聞き入っている姿があった。中には子供と踊り出すおじさんまでいた。如何にもジャズが好きなんだと思われる若者もいた。

 

昼ご飯を食べたら、すぐにイベント準備となる。今日は香港の某企業の開業50周年記念パーティーがあり、そのレセプション時に、またジャズが流れることになっていた。初めはちょっとしたパーティーかと思っていたのだが、ふたを開けてみると500人を超える参加者があり、ボールルームは大盛況。その中で、約2時間に渡り、お客さんを迎える演奏をしたバンドはエライ。というか、休みなしでこんなに長く演奏できるなんて、何ともすごいスパルタ練習会だった。

 

パーティーにも参加させてもらったが、ご馳走がどんどん出てくるが、従業員や子供たちの合唱などもあり、企業オーナーの人となり、そして企業の歩みが分かり、とても興味が沸く。ここには中国各地の企業スタッフ・関係者が多く集まってきており、82歳のオーナーは2時間余り殆ど立ったまま、一緒に記念写真を撮ったり、挨拶を受けている。この年齢でこの対応は正直凄い。経営者とは大変なのだ、きっと。

 

更には二次会もあるというので、昨晩のバーへ行ってみると、既にオーナーや親族が奥に座っていた。そこへ大勢の人々が引っ切り無しに訪れて、再度お祝いを述べ、何やら話をしている。我々は特に用事はなかったので、すぐに退散して部屋で、ふろに入り、大いにくつろいだ。

名古屋茶講座の旅2019(2)名古屋三昧

今日は午前中、『鉄観音茶の歴史』を話した。名古屋も熱心な方が多い。参加者の中で、珍しい鉄観音茶を持ってきてくれた人がいた。パッケージは中国福建の鉄観音だが、台北の恵美寿の文字があり、それを大阪の茶商が輸入して日本で販売されていた。ああ、これが台湾で聞いた大陸鉄観音茶だ、と分かってとても面白い。

 

お昼はTさんがご飯を作ってくれ、それをご馳走になる。Tさんの料理は常に美味しいので、食べ過ぎてしまい、眠気も出て、午後の講座に支障が出る。午前と午後に2時間合間があるので、数人で雑談会も開催する。皆さん、色々と茶の歴史に関する疑問を持っているので、質問もなかなか難しい。

 

午後は本邦初公開の『東台湾茶の歴史』を話す。これは今年1月に訪ねた宜蘭、花蓮、台東の茶旅を中心に、これまでに歩いて調べた東側の台湾について報告した。今では蜜香紅茶や紅烏龍などがブランド化され、注目されるようになったが、その歴史を話す人はほとんどいない。

 

私の講座内容は、先ず私的勉強会で話してみて、分かりにくい点などを修正してから、一般公開となるのだが、今回はTさんの要望もあり、ぶっつけ本番で実施した。その結果はやはり時間的なバランスも良くなく、内容にもばらつきが出て、私としては満足できる内容ではなかった。やはりもう少し練ってから話すべきだったと後悔する。

 

参加者の中には、わざわざ静岡から来てくれたMさんがいた。私が今調べている台湾の製茶試験場を作った男、藤江勝太郎の故郷に住み、藤江について関心を持っている方だ。来年は静岡森町で、藤江についての報告会が出来ればよいな、と考えている。名古屋にはご当地ネタ、無いのだろうか。

 

今回は夜の懇親会などは開催せず、Tさんと二人で夕食を食べることにしていた。Tさんは明日早朝から海外に出るのに、忙しい中付き合ってくれた。実は講座を何度も主催してくれているのだが、ゆっくり話す機会がなかったので、ちょうどよかった。Tさんについての理解が深まる。

 

連れて行ってもらったのは、洋食屋さん。名古屋三昧という定食があり、エビフライから手羽先、みそカツまで、凄いボリュームで名古屋が載ってきた。どう考えても若者向きの量なのだが、家族連れなども多く、知る人ぞ知る名古屋の穴場らしい。これには大満足、Tさんご馳走様でした。

 

12月9日(月)
春日井で

翌朝、宿をチェックアウトして、荷物を持って名古屋駅へ。乗る電車は昨日と同じ、中央本線だった。千草までは10分だったが、勝川駅までは18分。春日井市は思ったより近いところにあった。駅で迎えてくれたのは、お茶研究会のMさん。初対面だが、既に私の書いたものなども読んでおられ、勉強熱心で、今回お声を掛けてくれた。

 

会場は、普通の住宅地の中にあり、連れてきてもらわないと分からないところ。皆さん、遠くは1時間以上かけて、車で通ってこられているそうだ。多くが主婦などで、平日の昼間の都合の良い方々だった。中に一人、昨日の講座にも参加された方がおられ、その熱心さには驚く。また中国などの駐在経験のある方もおられ、中国茶に親しんでいる方も多い。

 

話をする前に、既に主催者の方から、たくさん質問が飛んできて、驚いた。そして相当にネット検索などで情報を集めていることも分かった。『台湾茶の輸出は東方美人から始まったのか?』『台湾茶の始まりは原住民?』など、予想もしない問い掛けもあり、ビックリする。なるほど、世の中にはいろんな情報が出回っていることがうっすら分かって面白い。

 

今日のお話は『台湾高山茶の歴史』だった。これは主催者がチョイスしたものだが、果たしてどこまで満足感が得られただろうか。また皆さん、お忙しい方も多く、講座の途中でお昼ごはんの弁当が配られ、それを食べながら話を聞いていた。私だけが話が終わった後に弁当を頂くというこの形式、個人的にはちょっと残念だった。

 

帰りに有志の皆さんと駅前でお茶をしながら(ケーキも食べる)、更に話を進めた。私が書いたこと、調べたことが全て正しいなどというつもりは毛頭ないので、説明に大きく頷かれると、こちらがビビってしまう。どこまでを鵜呑みにして(知識として覚える)、どこからを疑うのか、これは実に難しい問題だ。ただ現地に行っているから分かるというものでもないし、でも行った方が感覚は掴めるのだ。

 

名古屋駅まで戻り、新幹線に乗り込む。参加者の一人は何と新所原から来られており、新幹線で豊橋まで帰るというのでまた驚く。私などは名古屋から掛川でも在来線で行くだろう。というか、本当は帰りもJRバスで帰りたかったのだが、明日から北京なので、さすがに体の負担が少ない交通手段にした。

 

品川まで1時間半で着いてしまうのは、私にとっては、本を読むにも、何かを考えるにも実に中途半端だ。結局ボーっとしているうちに降りることになり、何となくもったいない気がする。電車の中は、私がもっとじっくり本が読める場所だからであり、今回は行きのバスの中でも松下先生の『アッサム紅茶文化史』を熟読して、テンションがかなり上がったものだ。さて、明日は極寒の地へ向かう。果たしてどうなるのだろうか。

名古屋茶講座の旅2019(1)名古屋で

《名古屋茶旅2019》  2019年12月7日-9日

4日前に九州・大阪の旅から戻ったが、すぐにまた名古屋に向かう。お声がかかるのは何とも有り難いことであり、出来る範囲で希望には応えたいと思っている。名古屋は今年2月に伺ったばかりではあるが、話したいことも増えてきているので、若干無理な日程の中、出掛けていく。

 

12月7日(土)
名古屋で

4日前、新幹線で大阪から東京に向かう際、名古屋を通過した。本当はここで降りたかったが、そうもいかずに通り過ぎたので、もう新幹線で名古屋へ行く気はなかった。静岡にも用事があったが、タイミングは合わず来年に持ち越し。それではと、昼間のバスで向かうことにした。バスは空いており、ゆったりと座って行けた。

 

バスタ新宿を昼に出たバスは、途中2か所で休憩して、夕方6時前に名古屋駅に到着する。普通の人なら、日中に5時間以上かけて移動するのは無駄に思えるだろうが、旅が専門の私にとっては、料金は新幹線の約半額で、色々と景色も眺められるので、悪い話ではなかった。天気の良い冬は特に富士山がきれいに見える。今日は土曜日なので、サービスエリアも賑わっており、土産や食べ物なども少しチェックする。

 

JRバスは名古屋駅脇に到着するから移動に便利だ。本日予約したホテルまで歩いて5分、ここは今工事中であり、料金は比較的安かったが、部屋は非常に狭かった。まあ、寝るだけなら問題はなく、テレビでもあれば退屈も凌げるので良い。電気ポットがなく、湯は給湯器で汲むのだが、紙コップなので持つのが熱くてちょっと面倒だった。

 

名古屋駅でIさんと再会した。今年2月に犬山市に彼を訪ねて以来だった。香港で一緒だったのは、もう25年も前になる。北京で再会したのも20年も前になる。その後も断続的に連絡が続いていたが、最近会う頻度が上がっている。今回はもう一人の香港仲間のUさんと3人で、と思っていたが、それは叶わず次回に持ち越し。

 

Iさんが予約してくれた駅から歩いて5分ほどのビルの上にある居酒屋に入り、四方山話に花が咲く。この居酒屋、食べ物は悪くないのだが、何だかすごく混んでおり、厨房も接客も明らかに手が回っていない状態だった。我々が注文した鍋は味がないな、と思いながら食べていたら、若い店員が『これを忘れた』と言って、つゆをポンと置いて行く。すみません、の一言すらない。何だかな、もう少し言いようもあるだろうに。近頃の若者は、などと言うつもりもないが、おもてなし日本はすでに過去のものではないだろうか、とふと思ってしまった。

 

12月8日(日)
茶心居で

翌朝は、朝ご飯を食べに、宿近くのコメダ珈琲に向かう。これまで名古屋には何度も来たが、恐らく名古屋のコメダに入るのは初めてだろう。日曜日のせいか、それほど混んではいない。駅近いこともあり、外国人観光客がチラホラみられる。そして店員は殆どが外国籍だと思われる。

 

コメダに来たのは先日台北のコメダに入ってみたので、その違いがあるかどうか確認する意味もあったのだが、違いは殆どないように見えた。珈琲の味も特に変わらない。料金は台北の方が少しだけ安いかもしれない。小倉トースト、これはやはり美味いように思う。時間があれば、ここでダラダラしていたかった。

 

2月も開催された名古屋、茶心居での講座。これまでは公民館を使用していたが、今回は茶心居の新店舗が会場となった。私は行くのが初めて。前の店舗ともそうは離れていないと聞いていたが、検索すると一番近いのはJR中央本線に乗って行くと出ている。これまでは地下鉄かバスだったので、ちょっと意外な展開。しかも地下鉄よりJRの方が安いらしい。

 

名古屋駅からJRに乗り込む。日曜日だからラッシュはない。千草という駅まで行く。駅前を歩いていると、元祖台湾カレーの文字が見える。台湾カレー、初めて見るネーミングだ。名古屋には奇怪な台湾ラーメンなる、台湾にはない辛いラーメンがあるが、カレーまであったとは。台湾のカレーは日本からの輸入品が始まりだと思うのだが、どうだろうか。そういえば、台湾うどんという看板も目に入った。正直名古屋では『台湾と付ければ何でもよい』という風潮でもあるのかと、ちょっとびっくりする。恐らく台湾人もビックリだろう。

 

歩いて10分ほどの住宅街の一角に新店舗はあった。前の店と異なり、一見ここはお茶屋かと思う作りであり、お茶や茶器もあまり並んでいない。店主Tさんによれば、どちらかと言えばイベントスペースとして使っていきたいらしい。10数人は入れるので、確かに勉強会などには適しているかもしれない。ただ日が当たる時間帯はシャッターを閉めるので、秘密結社感もある?

九州茶旅2019(4)大阪民博で客家の勉強を

そして搭乗時間となり、お別れ。ピーチの関空行き最終便は意外と混んでいた。搭乗に手間取り出発は少し遅れた。それでも1時間後には到着する。ピーチが着いたターミナルから、電車の駅までシャトルバスで移動して、何とか11時の電車に間に合った。この電車に乗らないと、終電まであと僅かだった。

 

ラピートは、特急料金がかかったが、既に深夜なので早く着くに越したことはなく、料金を払った。乗車ギリギリだが、窓口で買ったら割引があるというので並ぶ。難波まで行っても、天下茶屋で降りても、料金が同じというのは腑に落ちなかったが、とにかく急いで乗り込んだ。ガラガラなので指定席も意味がない。いや、むしろ座席を探す方が手間だった。

 

時刻検索で見ると、今晩予約した宿は難波まで行くより、天下茶屋で堺筋線に乗り換えて長堀橋駅へ行く方が早かった。ただ最終電車なので乗り過ごすことはできない。堺筋線に乗ろうとしたら、酔っ払いの若者がホームで吐いている。何だかそれを見て『日本だな』と思ってしまう。

 

大阪のホテルは2-3年前まで非常に高騰しており、予約も取り難かったが、その後新しいホテルが雨後の筍のようにできており、9月に来た時久しぶりに泊まると、地方都市より安くてサービスがよい所まで逆転してきていた。今晩の宿も地下鉄駅の真上で、真新しく、深夜なのに若い女性が勤務しており、対応がとても柔らかい。今回は寝るだけなので部屋は簡素だが、簡単な朝食も付いて1泊4000円代とは、素晴らしい。

 

12月3日(火)
民族博物館へ

昨晩遅く寝たので、ゆっくりと起きる。午前9時前に軽く朝食を食べようと食堂に行くと、いたのはほぼ外国人。中国語やタイ語が聞こえてくる。意外と食べ物もあった。掃除のおばちゃんが私に向って『サンキュー』と言ったので、日本人だと告げると、とても恥ずかしそうに去っていく。

 

10時にチェックアウトして、荷物を持って地下鉄に乗り、懐かしい梅田駅前のビルに行く。ここはいつも講座を開催してもらう場所であり、さすがに迷わず来ることが出来た。今日は民族博物館で客家のお勉強の会に参加する。その主催者で台湾擂茶を商っているMさんと合流してランチを食べることにしたのだが、指定された場所はこのビルの地下の洋食屋だった。

 

集合時間は何と10時50分。なぜこんなに早いんだろうか。いくら民博が遠いとしても早過ぎる。行ってみると既にMさんだけでなく、講座主催者でお世話になっているM女史など4人が集まっており、店の前で並んでいる。そして10分前には他に数人並ぶではないか。『予約はできないし、11時過ぎに来ると席がないんです』、ちょっと驚き。

 

11時に店に入ると既に注文してあったので、すぐに定食が出てきた。Mさんはステーキしか食べないと言うが、私はさっき朝ご飯を食べたばかりなので、ハンバーグなどにしてみた。確かにボリュームもあって、美味しい。ふと周囲を見ると、既に席は埋まっており、外には列が出来ていた。

 

それから重い腹を抱えて、荷物も引いて、梅田から千里中央に向かう。千里中央と言えば、35年前、大阪外大との定期線で2回、訪れた場所だが、それ以来来たことはなかった。妙に懐かしい。そこから更にモノレールに乗り継ぐと、万博公園駅に着く。駅からあの太陽の塔が見えるだけでワクワクした。

 

大阪万博から50年が経つ。国立民族博物館は、その公園の敷地内に建てられていた。今日は民博で客家研究をしておられる先生のお話を聞く予定だが、その前に、膨大な展示の一部を見ることにして、荷物をコインロッカーに預け(館内のロッカーは無料)、館内を回り始める。ついでに本などの資料も探してみる。

 

2時になると参加者10数人が集まり、K先生の先導で、館内のアジア、特に中国、華人関連の展示の説明を受けながら見学する。お茶に関する展示は殆どないのだが、華人や客家に関する説明は勉強になる部分があった。またここは、博物館だが、博士課程の大学院生もおり、研究員は教授や準教授の肩書も持っているというのがユニークだ。

 

そして会議室で、参加者が先生に質問する時間がやってきた。皆さんそれぞれの角度で、疑問をぶつけ、先生がそれに答えていくという、ある意味で非常に効率的な形式で行われた。最後に私は『台湾擂茶は客家の伝統文化か』と『広東客家が台湾に茶業を持ち込んだ可能性はあるか』という2つの質問をしてみた。擂茶を商うMさんからすると、ドキッとする回答だったが、真実は真実、商売は商売だろう。客家についても益々興味が沸く内容だった。

 

既に夕暮れが近づいていた。私はこれから東京へ戻らなければならないので、新大阪まで出て、新幹線に乗るべく、皆さんと別れた。駅で駅弁を買って乗り込み、それを食べてからウトウトした。そして来年の計画を考える。やはり少し東南アジアにシフトして、茶商だけではなく、華人や客家について勉強しようと思った。