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チェンライ・チェンマイ茶旅2020(1)チェンライを散策すると 

《チェンライ・チェンマイ茶旅2020》  2020年2月1日-4日

タイ北部にはこれまで何度も行っているが、今回は華人調査の一環で訪ねることになった。2年半前に訪問した中で、興味を持った茶農家、果たしてどんな歴史があるのだろうか。

2月1日(土)チェンライへ

又ドムアン空港にやってきた。今回はタイライオン航空でチェンライへ向かう。その前に、また一風堂でラーメンと餃子を食べてしまった。水が一本ついているので、これを持って飛行機に乗り込む。コロナウイルスの影響で空いているかと思ったが、国内線の影響はさほどないようで、かなりの席が埋まっていた。国際線の方はほぼ中国人団体の姿が無くなり、かなり空いているように見えた。

ウトウトしていると飛行機は着陸してしまう。実質1時間の旅はやはりバスに比べて楽だ。手荷物も少なく、すぐに外へ出る。チェンライは何度も来ているが、以前は市内へ行くにはタクシーしかなかった。ところが今回路線バスを発見して、思わず乗り込む。路線はよく分からないが、街には慣れているし、Googleもあるので、20バーツ支払って席に着く。

バスは郊外からどんどん進んで市内へ入る。見慣れた風景も出てきたが、最終的には私が望んだ方向に向かわず、市内バスターミナルで降りた。ここは前回来た時は大改修工事中だったのだが、きれいに出来上がっていた。予約した宿までの道は分かっているので軽やかに歩く。

ところが宿に着いてびっくり。なんと昔の定宿が単にリニューアルされただけだった。きちんと地図も見ずに料金だけで予約したのは間違いだった。しかもきれいになった分以上に料金は高くなっている。部屋に入ると間取りは何ら変わらず、バストイレは異常に狭い。これで1400バーツも取るのはどうだろうか。ただきれいなフロント、プール、そして朝ご飯会場が光る。

夕方、P先生がご主人と一緒に来てくれた。Pさんは2年半前の北部タイ茶ツアーでお世話になり、その後も東京や静岡、和歌山でも会っている。だが昨年の彼女主催のお茶イベントには参加できず、最近はご無沙汰が続いていた。今回は、チャンライ・チェンマイでのアポにご協力頂いたこともあり、お忙しい中、会ってもらった。

庭に野菜が植わっている、何とも素敵なレストランでランナー料理をご馳走になる。北タイの料理、エビのてんぷらなどもあり、なぜか好みに合っている。ランナー王国の由来など、もう少し勉強してみようかとも思う。タイの茶産業、やはりコーヒーに押されており、政府の支援もどこまで期待できるか、ということらしい。お茶の歴史を研究する人もタイにはほとんどいないといい、資料も乏しい。なかなか厳しい現実がある。

2月2日(日)チャンライ散歩

翌朝は宿で朝食をとると暑くなる前に出掛ける。チャンライの街はこれまで何度も歩いているが、今回は少しアングルを変えてみる。古めかしい時計台のロータリーを過ぎると大きな市場がある。その裏辺りにも立派な寺があり、よく見ると何となく華人に関連しているようにも見える。その辺をフラフラすると、漢字が書かれた廟などが見えてくる。当然ながら内陸の交易都市チェンライには華人が多い。道路標示にも漢字が書かれているのが特徴的だ。

ムスリムの大きな清真寺もあった。10数年前に改修されたという。華人以外のムスリムも多いのだろうが、清真寺であれば中国系だろうか。よく見れば、漢字で雲南の文字も見え、謎は深まる。その付近にはハラール料理のレストランなどもあるようだ。更に歩いて行くと古墳のような場所があり、広い公園になっていた。何とも今風、インスタ映えする物がたくさん置かれているが、人影はなかった。

山岳民族博物館にも入ってみた。ちょうどビデオ上映があるというので急いで部屋に入ったが、何とドイツ語だった(後で日本人参加者が来たので、日本語版をもう一度見た)。それでも画面から内容は推測できるのが面白い。タイ北部の少数民族の分布など、興味深い内容であり、茶に関連したと思われる民族についても多くを知ることができる。

フラフラ歩いていると1914年に建てられた、チェンライ初の教会が建っていた。更に行くと実にうまそうな食堂があった。華人の店だとすぐに分かる。地元のお客で溢れていた。飛び込んで、何とか席を見つける。出てきた豚バラ入り麺は期待通りの濃厚なスープでうまい。幸せな気分で外へ出ると、隣のマッサージ屋が『中国加油』を掲げていたが、これはオイルマッサージとかけているのだろうか。残念ながら中国人観光客の姿は多くない。

一度部屋で休んだ後、気分がよかったので午後もまた出掛けた。川を越え、30分以上歩いた。向かった先はブルーテンプル。チェンライには白を基調とした美しいホワイトテンプルがあり、観光客で賑わっているが、それにあやかってか、ブルーのお寺も作ってしまった。確かにブルーだ。そして本堂内部が鮮やかだ。だがここも中国人観光客は少なく、白人が少し目立つだけだった。

ヤンゴン茶旅2020(6)チン州のこと、そして

1月22日(水)

チン州を思う

昨晩Iさんに教えてもらったので、川沿いにあるブリティッシュ・カウンシルへ行ってみた。ここには図書室があり、英語で書かれたミャンマーの歴史などがあるだろうというのだ。ストラッドホテルの隣に英国大使館があり、その横に附設されている。セキュリティーはさすがに厳しいが、パスポートを提示するだけですぐに入れてくれた。

にこやかな老人がこちらを見ていたので尋ねようとしたところ、横から女性係員が『係員は私です』と言って私が探している本の内容を聞いてくれたが、『お茶関連の本はない。歴史本なら多少』という感じだ。ここは元々英語教育の教材などを提供する場らしく、英語を勉強する若者が来ていた。それでも2階でミャンマーの歴史に関する古い本を紐解いて、参考にした。

続いて、ダウンタウンに華人図書室を探す。ここは前回訪ねていたが、場所が分からなくなっていた。先日Tさんに再度確認して行ってみるとちゃんとあるではないか。階段を上ると漢字の本がズラッと並んでいる。その中から、華人関連の歴史を探してみる。壁には華人の集合写真などもあり、ここの歴史が少しみられた。ここの利用者は極めて少ない。既に若い世代は漢字が読めないのだろうか。

宿に戻る途中に、昨日誰もいなかったチンレストランの前を通ると、従業員がいたので入っていく。お目当てのサブティを注文すると、オーナーが出てきて流ちょうな英語で、チン州の魅力を話し出す。やはりチン州は今、コーヒーであり、茶はほぼないという。サブティはチンの雑炊だろうか。チキンを入れてもらったが、かなりさっぱりしていて食べやすい。

私は今回の旅の初めから、インドのアッサム、インパールを目指したいと思ってきた。インド、ミャンマー国境は長年、第三国人(外国人)の通行が制限されてきたが、昨年ぐらいから陸路通行が可能になったらしい。もし国境を越えるなら、ミャンマー側はチン州になるようなので、期せずしてチンに入ることは出来そうで、今から楽しみだ。夢は大いに膨らむ。

午後は疲れたので部屋で過ごす。日本と2時間半の時差があるので、相撲中継は1時半から3時半まである。今日も炎鵬が勝ち、徳勝龍、正代も勝った。果たして誰が優勝するのか、益々楽しみが増えていく。後は帰りの準備をするだけだ。ちょっとスーパーでティーミックスを買い足しておく。これがあれば体調が悪い時などに重宝する。それでもスーツケースはガラガラだ。

夜飯を暗くなってから探しに行く。近くに野菜や果物、魚を売る露店が並んでいる。最後の夜なので薄暗い屋台で食べたい物を注文して食べる。魚の煮付けと煮卵、味が濃くてご飯に掛けると何ともうまい。これぞミャンマーに来た感じがする。何だか昔のミャンマーの思い出に浸る。

1月23日(木)

バンコックへ

翌朝は朝食をしっかり食べてから、チェックアウト。気が付けば1週間、ずっと同じ宿に居た。タクシーは1万チャットですぐに来てくれ、早々にお別れだ。朝の渋滞もそれほど激しくはなく、思ったより早めに空港に着いてしまった。何とタイスマイルのチェックインは2時間前からでまだ始まっていない。

空港内、きれいなカフェなどが増えている。2時間前に行くと既にチェックインが始まっているのがミャンマーらしい。出国審査も簡単に終わってしまい、時間が余ったので、搭乗ゲートより前の店をフラフラ見て回る。空港でもティーミックスは売っているが、市内の1.5倍から2倍ほどする。やはりスーパーで購入して正解だ。

その先に本屋があったので、立ち寄ると、洋書ばかりが置かれている。書店の名前を見てびっくりした。何と紀伊国屋ではないか。なんでこんなところに紀伊国屋があるのだろうか。店員に聞いてみると、ヤンゴン市内に店舗はなく、ミャンマー唯一の店舗が空港だというのだ。そして日本の本は全く置かれていない。一体どんな戦略でここへ出店したのか、是非聞いてみたい。

バンコックにもある和食屋、山小屋もこの空港内に出ている。このミャンマー出国直前に和食を食べる人はいるのだろうか。またタイの国民ドリンク、Cha-Thaiも出店している。東南アジア戦略を加速するこの会社、ミャンマーで果たしてタイ茶は受け入れられるのだろうか。

搭乗時間になり、機内に入ると、中国人観光客がCAからマスクをもらっている。この時点で、中国でのコロナウイルス関連の情報が既に開示され、旧正月前日の今、武漢は封鎖されたと聞く。だが東南アジアの片隅にまで、その影響が及んでくることは、およそ想定で来ておらず、白人も我々もマスクをする人はほとんどいなかった。

ヤンゴン茶旅2020(5)ヤンゴン大学を訪ねるも

『口福』という同じ名前の店が二つ並んでいるが、今日はカジュアルな方へ入る。店内は中国人観光客で満員だ。前回もお会いしたGさん夫妻が待っていてくれた。Gさんは写真家であり、現在はブログなどでミャンマー情報を発信している。更にはインド国境を度々訪れて写真を撮っているということで、非常に有益な旅及び民族情報を幾つも教えてもらった。そしてミャンマーではなぜ茶をラペッというのか、という根本問題にもヒントを頂き、感激。

 

果敢レストランということで、前回は敢えてケシの実スープなども飲んでみたが、特に中国料理と大きくは変わらない。ただ果敢地区はミャンマー側から外国人は実質入れないし、中国側からも簡単には入れないと聞いており、その名に惹かれてやってくる客が多いのは事実だろう。

 

帰りもフラフラと歩いてみる。公園を通りかかったので、ちょっと寄ろうとしたが入場料がいるというので止めた。この近くには餃子の王将が店を出していた。あまりに疲れたので、冷たいコーラを飲んで休む。ひと息つくとすぐに元気になるのはすごい。最後は前回も行ったピンピンの火鍋屋の前を通る。横には新しくマッサージ屋が併設されており、更にビジネスを拡大したことが分かる。若いのにやはり彼女はやり手だ。

 

1月21日(火)
ヤンゴン大学へ行くも

そろそろ疲れがピークに差し掛かる。朝食にも少し飽きてきたので、食欲も落ちる。午前中は休むつもりだったが、何となく散歩に出た。いつもと反対方向へ歩いて行くと、立派な教会があった。モスクもヒンズー寺院もある。ダウンタウンは相当広いのだと分かる。ただ華やかさはない。

 

シティーマートがあったので入ってみる。どんなお茶を売っているか、見るためだ。例の張さんの鉄観音茶も、一番小さい袋は売っていた。果敢茶もあった。でも圧倒的に珈琲が多い。お茶では何といってもティーミックス。私も疲れた体に良いかと、ティーミックスを買って帰る。

 

ついでに昼ご飯を食べに行く。日本食の店で弁当という選択肢もあったが、時間が早過ぎて開いていなかった。結局先日行ったチン州レストランを訪ね、チンのかゆを食べようと思ったが、何と店は開いているのに、誰もおらず、湯気だけが立っていて、食べ損ねた。仕方なく、近くでモヒンガーを食べる。600チャットで、安定のうまさ。

 

部屋に帰ってテレビを見る。大相撲がいつになく面白い。白鵬も鶴竜も早々に休場。小兵力士が活躍し、幕尻力士が優勝争いの先頭に立つ。ここ数年の面白みのない、停滞した相撲界に下克上が起こり、ワクワクする。せっかくヤンゴンに居るのだからと言われても、面白い物を見たい。

 

相撲が終わったら、外へ出た。昨日教えてもらったヤンゴン大学の図書館を訪ねてみようと思ったわけだ。地図で見ると結構遠い。タクシーの運ちゃんは道が分かるというので乗り込む。渋滞もあり、1時間近くかかって、正門に辿り着き、そこで図書館の場所を訪ねて何とか行き着く。

 

図書館は立派だった。係員も英語ができたので、茶に関連した本を探していると告げると『まずはHPで検索してから来てね』という。折角ここまで来たのだからというと、『実は既に閉館時間で帰るところよ』と言われ、愕然。大学の図書館が午後4時過ぎに閉まるとは、学生はいつここを利用するのだろうか。

 

係員の女性たちは足早に立ち去り、電気も消されてしまった。仕方なくキャンパス内を散歩すると、ちょうど卒業シーズンなのか、記念写真を撮る学生たちがいる。学内は静かで居心地はよさそう。宿舎もあるようなので、もし図書館が役立つようであれば、ここに1泊してみたい気もする。

 

既に閉まっている横門を開けてもらい、外へ出た。ここにはインヤーレイクがある。ちょっと湖の写真に撮ろうと、セーリングクラブに入ってみる。さすがイギリス植民地だから、こういうクラブは沢山ある。更に先に行くと、湖の脇に散歩コースがあり、夕暮れ時、たくさんの人々が歩いていた。私もロッテホテルに向かって歩いてみた。

 

暗くなったので、今晩の待ち合わせ場所へ歩いて向かう。僅か15分ぐらいのお店だったので、楽勝と思っていたが、場所が分からず迷う。それでも予定時刻より早く着いてしまった。ここはこじんまりした、雰囲気の良いカチンレストラン。お知り合いのIさんが選んでくれたお店だった。カチン料理を味わう。日本人に非常に合う味だ。

 

お店でお酒が飲めないのも、私にとっては好都合。カチンの茶をお願いすると、緑茶が出てきたが、質が良い。店主はバンモーの出身だと言い、そこには茶畑もあると言うが、残念ながら外国人は入れないときっぱり。Iさんからも、ミッチーナには行けるけど、山の中はねえ、と言われてしまう。帰りはIさんにタクシーを拾ってもらって、何とか帰る。やはりGrabぐらい使えないと、色々と困る。

ヤンゴン茶旅2020(4)ヤンゴンに留まって

1月19日(日)
再びSSと

ヤンゴン4日目、そろそろ疲れが出てくるタイミングなので、午前中は休養日に当てた。このホテルもNHKワールドプレミアが映るので、先週の女子に続いてボーっと都道府県対抗駅伝を見て過ごす。福島がまさかの出遅れ、長野が劇的な逃げ切り。箱根や実業団駅伝ランナーが多数出てきて、面白い。高校駅伝を見ていなかったので、高校生はよく分からないが、栃木出身の松山君が学法石川所属のため、福島から出ているのがちょっと残念だった。

 

12時半にタクシーを拾う。今日はSSとの約束で、イタリアンレストランに向かう。運転手は分かったと走り出したが、着いたのはピザハット?仕方なくSSに電話して、何とか辿り着く。遅刻してしまったので、既にアイちゃんはピザを頬張っていた。スパゲッティやらサラダも出てきて、テーブルの上はかなり賑やかだ。昔はSSと言えばホットポットだったのだが、今やイタリアンが常道だ。

 

久しぶりのTTMもいた。確か高田馬場以来だろうか。TTMの御主人とも初めてお話しした。TTMは最近自由奔放に動き回っており、今回もバンコックから帰国したばかりであり、午後も集会が入っているという、慌ただしいスケジュールの中を会ったことになる。まあ二人の娘も母になり、自身も落ち着いたので、好きなことをしてもよいだろう。昔はかなり苦労したはずだから。

 

TTMたちとは別れて、またSSの家に行く。アイちゃんとも相当馴染んできており、遊び相手となる。5歳の女の子のことはよく分からないが、言葉が通じなくても非常に楽しい。何でも遊びになってしまうのもすごい。ニセ爺さんを2時間もやっていたら、疲労困憊になってしまうが、アイちゃんの勢いは全く衰えない。

 

結局SSが晩御飯を作ってくれて、それを食べてから帰る。SSは何と先日私がFBに投稿した内容を覚えており、『イカが食べたいんでしょう』と言って、イカ炒めまで作ってくれた。何とも有り難い。テレビではNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の初回が二週間遅れてスタートしていた。何だかきれいな大河ドラマだが、明智光秀の前半生を詳しく描くと言われており、ちょっと気になる。川口春奈も気になるが、やはり門脇麦が気になる。

 

タクシーを呼んでもらい、宿に戻る。NHKを点けると、何と夜中に卓球全日本選手権の男女シングルス決勝が放映されている。男子は張本が、同年代の宇田に競り負けた。これではオリンピックどころではない。女子も準決勝で伊藤美誠を破った早田ひながその気負いのまま、石川佳純に勝ってしまう。オリンピックには一番調子のよい選手、中国人に勝てる選手を選ぶべきだろう。

 

1月20日(月)
まさにフラフラ

本来今日あたりはミャンマー北部へ出掛けているはずだった。そのためにバンコックへ帰る飛行機を23日にしてあったのだ。ところが当てが外れる。出来れば初めてカチン州に踏み込みたいと考えていたのだが、カチン州は現在でもその多くの場所が外国人立ち入り禁止区域になっており、許可がなければ茶畑に入ることもできない。そもそもどこに茶畑があるのかも分からないのだから話にもならない。

 

都市であるミッチーナぐらいにはせめて行きたいと思ったが、そもそもミャンマー国内の飛行機代は非常に高い。国際線であるバンコック行きの2倍ぐらいするのだから驚いてしまう。そして正味二日ぐらいいるだけで、茶畑があっても山に入ることはできないでは、コスパは非常に悪い。これは一度撤退だろう。

 

何かミャンマー史や北部山岳民族の歴史などでヒントになるものはないかと思い、すぐ近くにあるさくらタワーに行く。そこには日本人会があり、ミャンマー関連の図書もあると聞いていた。行ってみると何と同じフロアーには、昔お訪ねした人材紹介会社のオフィスが規模を拡張してそこにあった。

 

図書室にはかなり本が置かれていた。その中でミャンマー関連の物も一か所にまとめられており、さすが日本だ、効率的で有り難い。係員に断ると、自由に閲覧できた。そして何冊か気になる本を見つけた。借りることは出来ないので、その場で読んでいく。ミャンマー史は通り一遍のものも多いが、かなり詳しい物もあり、参考にする。特にミャンマー人が書いた現地史には、これまで知らなかったことが多く書かれていた。

 

それからゆっくり歩いて博物館を目指した。日差しはそれほど強くはないのだが、歩いているとジワジワと汗が出てくる。鉄道の線路を越えて、西の方へ向かう。30分以上も歩いて博物館に辿り着いたが、何と今日は月曜日で休館日だった。仕方なく、ランチの約束場所がある、更に西に向かった。

 

そこは前回も来た果敢レストランであったが、よく見るとすぐ近くに大きな中国大使館があった。更に少し行くと、何とヤンゴン環状線の鉄道駅もあるではないか。これなら鉄道に乗って来ればよかった、と思ったが、後の祭り。まあ電車もいつ来るか分からないが、歩きで疲れ果てた。

ヤンゴン茶旅2020(3)懐かしのヤンゴンを歩く

1月18日(土)
ヤンゴンをフラフラ

翌朝も宿で朝食を食べてから、外へ出た。今日も香港から来ているIさんと一緒にヤンゴンを歩くことにした。彼女のホテルのすぐ近くには、100年ぐらい前に建てられた教会があったが、そこには厦語教会とも書かれており目を惹く。19世紀半ば以降、厦門には教会が出来、そこで英語を学んだ若者がおり、彼らは台湾や香港など海外に雄飛したとも言われている。もしやラングーンにもやって来て、その支部がここに建てられたのだろうか。その横にはヒンズー寺院があり、インド系との境目になっていた。

 

スタンドで売られている新聞に目をやると、スーチー氏と習近平氏が握手していた。私は知らなかったが、習氏はネピドーを訪問していたようだ。だがその記事はとても好意的な内容とは思われず、今日ヤンゴンでも反中デモが行われるという話まであった。ミャンマーの苦境に忍び寄る中国、という構図だろうか。

 

チャイナタウンを歩くということだったが、何となく東の方に足が向き、インド人街を抜けて、川の方へ向かっていた。昨晩話に出ていた国立図書館のきれいな建物が見えたが、警備員から『オープンは4か月後だよ』と教えられる。ミャンマーのことを調べるためには一体どこへ行けばよいのだろうか。

 

クラシカルな建造物エリアに進む。レトロ郵便局は土曜日だからか人がいない。ストラッドホテルではハイティーが20ドルと書かれていたが、朝からやっているわけはない。まあ、それほど暑くないので、川沿いの重厚な建物を見て回るのは悪くないが、やはり疲れてくる。

 

私の宿に戻った。今日は旧知のTさんと会う約束だったが、昨晩メールで会う場所を変更した。が、Tさんからは何の連絡もなく、どちらに来てくれるのか分からないという事態が発生した。電話も掛けたが繋がらない。こういう場合は、やはり元の場所の方が無難だと思い、待っていると、ちゃんとTさんが現れたのでビックリ。何だかスマホも携帯もない時代に戻った気分だ。

 

昼ご飯は、近くのシャンカオスイの店へ行く。普通のカオスイも美味しいだが、折角なので、トウフヌエを頂く。シャン州に行ったら必ず食べたい麺だった。ついでに揚げ豆腐も頼んだが、こちらはシャンとは少し味が異なっていた。Tさんは最近モン州に引っ越しており、たまたまヤンゴンに出張で来ていて再会できた。ミャンマーのことにはとても詳しいので何でも聞いてしまう。

 

チン州の話が出たところで、場所を移してチンレストランでコーヒーを飲むことにした。話しているとそれが目の前に出てくる、やはりTさんと一緒だと世界が変わる。牛干し肉がなぜか出てきて、コーヒーを一緒に食べる。まあ、ビーフジャーキーかな。こんな組み合わせ、見たことがない。

 

Tさんと別れて、ボージョーマーケットへ行く。2003年の初ヤンゴン以来、何度も行ったマーケットだが、最近は買い物に行くこともない。Iさんは雑貨や服、織物などを物色している。そういえば、ここでチン州の物品を扱っている店があり、昔チンの茶をご馳走になったことを思い出す。あの店まだあるのかな、と思っていたら、Iさんが目指す店はそこだった。だがチンの若者は『チンにはコーヒーはあるが茶はない』ときっぱり。

 

やっぱりパゴダも1つは行こうということになり、スーレーに向かう。ここに入るのは何年ぶりだろうか。ミャンマーのお寺は入り口で靴を脱がなければならず面倒だが、花を買うと靴を預かってくれるのは昔ながらで懐かしい。昔と言えばどんな時にも、参拝客で混雑していたヤンゴンのパゴダ。今や本当に訪れる人が減った。信心より金儲け、と言われて久しいが、ミャンマーらしさが失われていく。

 

お参りは、自分の生まれた曜日の前で行う。これもミャンマーを訪れると最初に知る習慣だった。何だか日本語を少し話すミャンマー人が、一生懸命にIさんに参拝方法を指南している。こういう人は、単なる親切なのか、何か目的があって近づいているのか、現在のミャンマーにおいてはその判断は難しい。

 

疲れてしまったので、カフェに入る。ヤンゴンは急速におしゃれなカフェが増えている。外国人比率が高い。2階はバーになっており、夕暮れ時、酒を求める人々も入ってくる。今日一日、Iさんには様々な情報が入ってきたかもしれない。しかしそれを吸収、消化するのは簡単ではない。ここで飲み物を飲みながら、頭を冷やす。

 

最後に串焼きストリートへ向かう。数年前から、チャイナタウンに、路上も含めて、ビールを飲み、串焼きなどを食べる一つの通りが出現した。そこに辿り着く直前、観音古廟から麒麟がお出ましになる。夜に一体どこへ行くのだろうかと、興味本位で付いて行くと、近くの別の廟へ向かっていた。これは練習なのか、本番なのか、何も分からない。折角なので、少し観音古廟も見学する。ライトの光で廟内はきらびやか、且つ幻想的だ。

 

土曜の夜で賑わうストリートに席を見つけて、その雰囲気を味わった。白人も多いが、ミャンマー人比率が上がっているように思われる。ヤンゴンの夜の観光名所として定着しているのだろう。

ヤンゴン茶旅2020(2)ヤンゴンの再会、そして茶旅報告会

1月17日(金)
ヤンゴンの再会、そしてお話し会

朝、ホテルで朝食をとる。ここは老舗だからやはり種類が多い。パンもあればお粥もあり、フルーツもそれなりにあるので十分だった。それから暑くなる前に外へ出た。1年2か月前、何度か歩いたダウンタウンだったが、既に土地勘が無くなり、思い出しながら歩いてみた。途中インド系の多いエリアでは、インド風のチャイが飲まれており、ミャンマーのティーミックスの起源かな、などと思う。それにしてもなぜヤンゴンにはインド系が多いのだろうか。

 

そうこうしているうちに、華人街に入り、漢字が増えてくる。その昔、張彩雲が開いた茶行、張源美のあった場所も懐かしく通り過ぎた。そして彩雲の孫が今も細々とやっている茶荘に何とか辿り着いた。丁国さんは私のことを忘れていたようだが、話をしながら書いた文章を渡すとにわかに記憶が蘇ったようで、嬉しそうに相手をしてくれた。

 

その後、少し離れたホテルに向かう。何と現在は香港在住のIさんが今朝バンコックから飛んで来ているはずだった。彼女と会うのは台湾の基隆以来だろうか。ちょうど到着したIさんと二人で慶福宮に向かい、そこに彩雲の息子を訪ねた。Iさんの北京時代の同僚で、ヤンゴン在住のICさんも加わった。

 

家栄さんも私のことなどすっかり忘れていたのだが、あれから厦門へ行き、安渓へ行き、遂には彩雲の長女にも会ったことを告げると、目を丸くして驚いていた。全てはこの宮から始まったのだ。もう一度会って話ができることは双方にとって何とも喜ばしいことであった。家栄さんがお菓子を勧めてくれたが、これは彼の息子が作っているらしい。やはり張家は実業家一家なのだ。

 

そこへ男性が入ってきた。聞けば家栄さんの長男だという。何と聴診器をぶら下げており、医者だとすぐに分かる。茶業で儲かった家は必ず子供によい教育をさせており、医者や弁護士が出ることは珍しくはない。このお医者さん、政府内幹部にも患者がいるようで、なかなか興味深い人物だ。

 

更に奥さんは華人ではなかった。どうして華人以外の人と結婚したのかと問うと『うちの嫁は美人なんだ』というからビックリしてしまったが、家栄さんも満更でもない、という顔をしている。後で知ったことだが、このお医者さんのお嬢さんは、ミスミャンマーやミスインターナショナルミャンマー代表などの栄冠に輝いた、自慢の娘だったのだ。張彩雲の曾孫はミスミャンマー、知っていればエピソードとして書いたのに、残念だ。次回は是非曾孫にインタビューしに行こう?

 

外を歩いていると、やはり旧正月が近いことが分かる。正月の麒麟舞(獅子舞?)の稽古が行われており、正月飾りなどが売られている。お昼はチャイナタウンで麺を食べる。汁なし麺。豚肉がうまい。スープはホーロー缶で煮込まれている。昨晩ほど高くもなく、満足できる味だった。

 

午後はもう一度丁国さんの店に行く。折角なので、ICさんたちにも、このお店を紹介しておこうと思う。今や張彩雲関連のお茶は、ほぼここでしか買えないからだ。以前はシティーマートに置かれていたが、一部を除いて取り扱われなくなったらしい。ここは看板も出ていないので、一見さんが来るのは難しい。丁国さんも来訪を喜んでくれたのでよかった。

 

ここでICさんとは一度別れて、Iさんと二人、フラフラ歩きながらホテルへ戻った。ロビーで待っているとジュースが振る舞われる。何とも有り難く、美味しく頂く。それから、今日の講座の会場へ向かう。タクシーに場所を説明して、何とか辿り着く。今やGoogleマップもあり、何とも便利になっている。

 

着いた場所は、ダウンタウンから少し離れており、周囲はお寺が多い場所だった。そこにベトナムで成功した日系ビジネスホテルが出来ていた。この宿にはホーチミンで8年ぐらい前に泊まり、経営者とも会ったことがあったので、懐かしかった。会場はその建物の一番上、夕日の沈む、そしてライトアップされたシェンダゴンパゴダがよく見えた。

 

会には駐在員夫人や現地在住者など10数人が集まってくれ、かなり驚いた。これも主催者ICさんのネットワークの広さだと感心すると同時に、ミャンマーに住んでいるのだから、ミャンマーのことを知りたい、という意欲が他国よりも一層感じられた。話の内容はミャンマー茶の歴史及び華人茶商の歴史についてだったが、色々と質問も飛び出し、興味深い会となった。

 

その後場所を移して、夕飯を有志で食べた。中華料理とのことだったが、どこの料理かは分からない。そこでもミャンマー事情を伺うことができ、また少数民族のこと、茶の起源などについて、様々な情報が寄せられた。やはり現地でこのような問題提起の報告を行い、それによって皆さんの知識・経験などを呼び起こすことも大切かな、と思われた。

ヤンゴン茶旅2020(1)アイちゃんと赤ちゃん

《ヤンゴン茶旅2020》  2020年1月16-23日

娘のように長年付き合っているスス(以下SS)が昨年11月に二人目を出産した。可愛らしい赤ちゃんの写真が沢山送られてくる。ニセ爺さんとしては、孫の顔を見に行かねばならない。併せて、一昨年10月に訪ねた張彩雲氏の息子や孫も再訪し、既にまとめて発表した文章を届けてお礼を言いたいと思っていた。

 

1月16日(木)
ヤンゴンへ

タイスマイルはLCCではないので、一応サンドイッチ程度の食事は出た。座席も頼んではいないが、非常口の広めの席が用意され、隣もいなかったので、かなり快適な旅だった。と言っても、1時間ちょっとで着いてしまうのだから、どうでも良いか。中国で、新型ウイルスが流行っているらしいが、中国人もチラホラ乗っている。

 

ヤンゴン空港はどんどんきれいになっていくようだ。入国審査もスムーズでよい。預けた荷物もサッと出てくる。初めてヤンゴンに来た2003年から見ると、まさに隔世の感がある。出口を出るとすぐにシムカードを買う。これも前回から簡単に買えるようになり、有り難い。前の中国人が『本当に使えるのか』などと聞いているのが微笑ましい。だが私の番になり、シムを入れ替えた後、なんとタイのシムカードを捨ててしまったらしい。この辺がミャンマーの未熟さだろうか。

 

今日はまっすぐSSの家に行くことになっていた。何しろスーツケース一杯にお土産が詰まっているのだ。しかも一番は粉ミルクだった。どうしても日本の粉ミルクがよい、というので、運んで来たのだが、これは意外と重い。それでも赤ちゃんの貴重な食糧だと思えば、軽く持っていける。

 

空港のタクシースタンドで行先を告げると1万チャットと言われたが、8000チャットでしょう、と切り返すと、それでよいという。乗り込むと若い運転手が片言の日本語を話し出す。どうやら技能実習かなにかで半年ほど広島に行っていたらしい。一生懸命に話す姿が何とも微笑ましい。30分ぐらいで到着したが、結局彼にチップとして2000チャット渡す。

 

SSと娘のアイちゃんは、昨年タイ国境のミャワディからヤンゴンに引っ越していた。アイちゃんの幼稚園の都合らしい。この家には初めて来た。おばさんが来ており、子供たちの面倒を見ている。SSが作ってくれた料理を久しぶりに食べたが、美味しい。アイちゃんは遠くの幼稚園に行っており、夕方しか帰って来ないという。それまでSSと近況を話し、赤ちゃんの顔を見て過ごす。

 

おばさんが車で迎えに行き、アイちゃんが帰って来たのは、本当に夕方だった。車の渋滞もあり、通園時間は片道1時間、大変だ。1年会っていないと、幼女が少女の顔に変っているのは面白い。そして非常に活発になっている。遊ぶところがなくて、元気を持て余しているのだろうか。

 

アイちゃんの顔を見たので、帰ることにして、車で送ってもらった。今回は初めて泊まるダウンタウンの古いホテルを予約した。数年前はどこでも高かったヤンゴンのホテルが、今や軒並み安くなっている。こういうホテルは部屋が比較的広く、設備は古いが一通り整っているところが今の私には有難い。

 

夕飯を探しに外へ出てみる。以前この付近には泊まったことがあるが、何を食べたかは覚えていない。唯一覚えていたのは、レートの良い両替屋だけだった。ちょっと覗いてみるとやはり近所より多少はレートがよいようだったので、100ドル札を出してみると、『この札は10%カットだ』と言われ、ミャンマーの洗礼を浴びる。勿論慣れているので違う札を出して100%両替をしたが、もうそろそろこういう習慣、止めてもらえないかな。

 

その近所にうまそうな麵屋があったので入ってみた。女性は英語ができるので『チキンヌードルスープ』と注文したところ、出てきた麺は大盛りの上に、店にある具材を全種類入れたかのような特盛状態だった。まあなんて盛りの良い店だろうと感心しながら、懸命に碗を平らげた。

 

勘定を聞くと、何と3000チャットだというから驚いてしまった。さすがに『こんなにたくさん頼んでない』と反論するとすぐに『じゃあ、2500チャットでいい』と値下げするから、これはボッタくりだと思い、さらに値下げを要求したところ、男性が出てきたが、英語はあまりうまくなく、何だかにらみ合いになってしまった。

 

こうしていても仕方がないので、2000チャットをテーブルに置いて出てきたが、特に相手は何も言わなかったから、それでも儲かったのだろうか。ただ翌日地元民に聞くと、『今は麺一杯1000チャットなんてない。2000チャットは十分あり得る金額』と言われ、ヤンゴンの物価が1年で相当に高くなったことを実感した。

北京及び遼寧茶旅2019(10)北京ぶらぶら

12月21日(土)
北京で

今朝はいつもより早く起きた。そしてさっさと朝食を取り、8時には宿を出た。ついに北京に戻る時が来た。瀋陽駅から北京駅まで行く列車は多くなく、普通の高鉄より時間も少しかかるが、瀋陽北駅まで行き、北京南駅で降りて戻ることを考えると、自分の選択はすぐに決まった。

 

瀋陽駅までは歩いても行けるのだが、ちょうどバスが来たのでそれに飛び乗り、あっという間に到着した。だが駅に行くには地下道を通らなければならず、エレベーターがない所もあって、荷物を持って上がるのは大変だった。瀋陽駅と言えば、確か映画ラストエンペラーの冒頭で、溥儀が連行される場面がここだったのではなかったか、と突然思い出す。

 

列車に乗り込むと、すぐに寝込む。今回の旅で列車に乗るのはこれが5回目、さすがに飽きた。しかも今回は最も長い5時間だ。この列車はこれまで来た道のりを戻っていくだけでもあり、窓の外を見ることもなく、やることはない。当然列車は満員で、居心地がよいわけでもない。

 

何とか午後2時前に北京駅に到着した。この駅から脱出するにはやはり地下鉄しかない。一駅乗って建国門で降り、歩いて宿へ向かう。瀋陽に比べればかなり暖かく、着込みすぎていて汗が出てしまう。宿に到着し、昼を食べていなかったので、前回来た時と同じ麵屋で麺を食べる。

 

その後、地下鉄駅まで歩き、一駅乗って10号線に乗り替え、また一駅乗って先日泊まった宿に行く。実は一部荷物を預けていたので引き取りに来たのだが、1週間前の荷物が見つからず、ちょっと困る。五つ星ホテルと言ってそこは北京か。最後は出てきたので事なきを得たが?

 

建国門で昔馴染みの足マッサージ屋、いまだに12年前に作ったカードが使えるのは有難い。この10年で店舗は相当きれいになり、そして料金は2-3倍になった。いつものようにマッサージお姐さんから、色々と話を聞き、中国の庶民の様子を勉強する。ついでに凝りもほぐしてもらい、一石二鳥である。中国の農村地帯、話によると激変しているらしいが、行ってみないと、実感が沸かない。

 

夕飯はKさんと食べる。今や貴重な東四の老舗北京料理屋へ向かう。ずいぶん前に来たことがあったと思うが、雰囲気はあまり変わっていない。勿論ここも料金は相当上がっているが、何となく懐かしい味がして、嬉しい。ジャージャー麺や腰花などを食べて満足する。ただ土曜日の夜なのに、凄く満員ではないところがちょっと気になる。

 

Kさんは北京B級グルメをよく知る人物だが、北京からどんどん老舗食堂が無くなっていくことに時に流れを感じているようだ。恐らく老北京人も同じ感慨を持っているだろうが、もうこの国の勢いを止めることはできず、ただただ呆然と眺めていくだけだ。古き良き北京、今や建物だけでなく、料理の味や人々の心も失われていく。

 

12月22日(日)
東京へ

ついに東京へ戻る日がやってきた。外へ出るとさほど寒くはないので、帰る前に懐かしい散歩道を歩いてみる。10年前に住んでいた建国門から二環路の内側に入り、社会科学院の脇を抜けて、川弁へ。ここの四川料理は安くてうまかったが、今はどうだろうか。そこから北へ趙家楼飯店(1919年の五四運動の現場)を通り過ぎ、灯市口の方へ歩いて行く。

 

この付近にも古い歴史的な建物がいくつも残っており、歩いているだけで歴史好きには楽しい。清末から民国時代が目の前に現れてくるようだ。ここは何度も歩いているが、何度でも歩きたい場所である。北京の胡同、開発は一応止まっているようだが、改修などの名目で古い建物が建て替えられている姿を見ると、何とも言えない。

 

宿へ帰って時間までテレビを見た。チャンネルは沢山あるのだが、日曜日の午前中は大体ドラマの再放送が多い。しかもいくつものチャンネルで、いわゆる抗日ドラマをやっている。日本軍人役の俳優が変な日本語を使っているのがおかしい。これまでじっくり抗日ドラマを見ることなどなかったが、これは日本でいえば、水戸黄門や大岡越前などの時代劇に当たるのでは、と思ってしまう。何しろストーリーは安定しており、筋は大体は読める。別に中国人も日本憎しで見ている人は多くはないだろう。

 

昼にチェックアウトすると、外にはフードデリバリーのバイクが列をなしている。今や北京も食堂に行かない時代なのだろう。地下鉄に乗り、久しぶりに空港鉄道に乗り換えて行く。車内はかなり混んでいたが、外国人と中国人が席を譲り合って、座っている姿が微笑ましい。今年に私の茶旅もこれにて終了した。来年はどうなるのだろうか。

北京及び遼寧茶旅2019(9)瀋陽故宮と張氏師府

12月20日(金)
瀋陽で

翌朝部屋から外を見ると快晴だった。それで暖かいのかとちょっと外へ出てみたら、ものすごく寒かった。気温は午前8時で零下15度。ほぼ想定したマックスの寒さだった。疲れもあるのでどうしようかと思ったが、ご飯を食べたら気合が入ったので、予定通り出掛けることにした。

 

今日は王道の故宮と張氏師府に行くことにした。ここは10年前には行ったと思うが、やはり歴史を見る上では外すことはできない。今は地下鉄もあるので、外が寒くても、道が凍結していても行くことはできる。中街という駅で降りる。道を間違えて反対に歩くとすぐに立派な建物を見る。1905年に設立された東北三省官銀号、当時東北最大の銀行だったという。だが1931年に日本軍がここも占拠し、資金を持ち去り、営業停止に追い込まれた、とプレートにはある。

 

やはり道は歩きにくかった。雪が残っているところは凍結していて危険だった。それでも何とか10分歩いて瀋陽故宮まで来た。入場料は50元にもなっている。中に入っていくつかの宮殿を見たが、特に日蔭は凍り付いており、危なくてオチオチ見学もしていられない。北京の故宮の小型版とはいっても、それなりの規模なので、途中で投げ出し、無念のリタイア、外へ出た。

 

数分歩くと瀋陽故宮博物院という文字が見えた。ここにも博物院があるようだが、一般公開はされていない。その横に見慣れた立派な建物が見えてきた。張氏師府、東北軍閥の首領、張作霖、張学良親子の官邸及び私邸だった場所だ。中国的な部分と西洋的な部分が入り混じった独特の建物だ。

 

1914年に作られた大青楼が中心の建物で、会議室では軍閥、日本軍など様々な人々が出入りしたとある。彼らの執務室や寝室もここにあった。また趙四小姐楼は側室の建物で、爆破された作霖はここに運び込まれて息絶えたという。尚張学良の弟たちは共産党に入党して新中国を生きた。更には1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した劉長春の写真がある。彼は中国初のオリンピック選手(陸上100m、200m)だが、張学良の支援があったと書かれているなど、知らないことも多く掲示されている。建物の門の前には張学良の像がスッとが建っている。

 

張氏師府を横に歩くと、辺業銀行という名のかつての銀行の建物が出てくる。今は金融博物館となっており、合わせてここも見学する。中は迷路のようになっており、思ったよりははるかに大きい。ここも清末から民国時代、そして満州事変での影響などの歴史が綴られている。

 

瀋陽にも立派な天主堂があると聞き、そこも訪ねてみた。1878年に作られた建物は大規模で荘厳。1900年の義和団事件、1960年代の文革では相当の被害を受けたようだが、今も立派にそびえている。現在信徒はどれほどいるのだろうか。教会の横にはなぜか瀋陽で一番きれいな公衆トイレがあった。

 

天気は良いのだが、昼間でも気温は氷点下。かなり疲れてきたので、宿へ戻る。そして宿の前にあった韓国料理屋で昼ご飯を取る。まあこれも東北らしくて良いかと思ったが、ボリュームはすごいのだが、料理の質はイマイチだった。中国では全体の物価も上がっているが、良いものとそうでないものの価格差がかなり開いていることを実感する。

 

ちょっと休んだだけで、また外へ出ていく。ラストスパートと言ってよいかもしれない。バスで旧日本領事館を探しに行く。結局今は瀋陽迎賓館になっており、建物も建て替えられてしまっていた。その横にはそれらしい建物があったが、こちらはどこぞの公館跡だった。

 

そこからフラフラ歩いて、中山広場の方へ向かう。途中から古い建物がチラホラ出てくる。更に行くと欧風街などと書かれている。皆大体1920年代に建てられているらしい。ということは、瀋陽の街が整備されたのはその頃だったのではないか。かなり歩いて瀋陽駅の近くまで来ると、ここは保存地区なのか、その100年前の建物がズラッと並んでいる。往時は日本人も沢山住んでいたのだろう。郵便局の中の展示室があったりもする。

 

夜はまた面倒になり、宿の近くの店に入った。何となく見覚えのあるメニューで、水餃子を頼んだのだが、何と営口で行った餃子屋と同じチェーンだった。そして同じメニュー、同じ味なのに、餃子が2元高かった。この辺りが中国の地方格差を表しているようにも思う。

北京及び遼寧茶旅2019(8)瀋陽 中山広場から九一八紀念館へ

12月19日(木)
瀋陽へ

いよいよ旅も終わりに近づいてきている。それと共に疲労が出ており、疲れていると眠りが浅くなる。今朝も6時台に目覚め、外を見ると日が昇っていく。宿の食事にも飽きてきたが、寒いので外に出る気にはならない。また茶専門チャンネルを見て過ごすことになる。過去に放送された番組も是非見てみたい内容だ。

 

時間になり、荷物を持って外へ出ると、そこにちゃんとタクシーがやって来て、寒さを感じないうちに、駅まで運ばれていった。今日は省都瀋陽を目指す。駅の中のトイレに入ると、各扉の上に『有人』『無人』を知らせる電光掲示があったので驚いた。こんなの今まで見たことがない。先進的だが、そこまで必要なのだろうか。ただその横で『禁煙』と書かれて壁に手をついてタバコを吸っている若い男がいたのは、明らかに時代に逆行していた。

 

改札時間が来て、ホームへ行くと風が冷たくて思わず引っ込みたくなる。わずか数分間だったが、耐えるのに苦労する。一昨日から東北地方では大雪が降ったと聞いていたが、これまでの暖かな冬が嘘のように寒さが堪える。瀋陽もかなり雪が降ったらしいから、さぞや寒いだろう。

 

列車は僅か1時間で瀋陽駅に着いた。瀋陽に来るのは10年ぶりだと思う。いつの間にか地下鉄が走っており、一駅だけ乗って、予約した宿に入る。ここは繁華街のど真ん中だが、上の階なので、うるさくはない。まだ12時過ぎだったので、外へ出て昼ご飯を食べるかどうか考える。

 

日差しがあるものの、気温は零度前後。おまけに2-3日前に降った雪が残っており、道は滑りやすく歩きにくい。地下鉄の駅名が太原街なのに、その太原街が見つからない。そこは満州時代、日本人が住んでいた中心的な場所だったのだが。ようやくその辺りに行くと、きれいなショッピング街になっていて、ちょっとがっかり。確か大連の天津街と同じ構図になっている。

 

 

ただ日本人町だったことを反映してか、日本食レストランがいくつか見える。スマホで見てみると、割烹清水の名前も出てきたので、ちょっと離れていたが、迷わずそこへ行ってみた。ここは昨年大連でも行った、懐かしの食堂だった。だが、午後1時半過ぎに入ると、お客は殆どおらず、店員は日本語を話して丁寧だったが、全体的には和食屋のサービスでもなく、味もちょっと。瀋陽は大連とは違うんだ、と何となく思う。

 

それからやはり中山広場に足が向く。ここの遼寧賓館(旧大和ホテル)はまだちゃんと営業していた。ここに泊まったのは32年前になる。中に入るときれいなロビーで驚く。横浜正金や三井の入っていた建物も残っているが、公安が使っている建物などもあり、写真を撮るのが憚られた。

 

結構疲れていたが、折角なのでここからバスに乗って、一気に九一八紀念館へ向かうことにした。スマホ地図ではかなり遠いとなっていたので、覚悟していく。このバス、柳条湖橋の手前で降りることになっており、なぜか歩いて橋を渡ることになる。橋の上は強風が吹き付け、気温は零下8度。下は雪が凍結しており実に歩きにくい。何だか試練を与えられたような気分で、前に進む。橋から真っ赤な夕陽が落ちていくのが見える。

 

何とか紀念館に辿り着いたが、トイレに行きたくて仕方がない。受付で聞くと、この展示をずっと行かなければない、と言われ、少しずつ見始めると、止められなくなり、しかし限界が来て?展示内容はかなり刻銘であり、残念ながら日本人が見るには厳しい。参観者のほとんどが中国人であり、あちこちで『日本は本当にひどい』などと囁きあっているのが耳に入ると、困ってしまい、結局かなりの展示を飛ばしてトイレに駆け込む。

 

そしてすっきりして出てくると、もう閉館時間が迫り、半分も見ないうちに追い出されてしまった。柳条湖事件とは何だったのか、満州とは何なのか。考えなければならないことは沢山あるが、考えて分かる話でもないかもしれない。先日登場した張学良などに更に関心が高まる。

 

帰りもバスに乗る。瀋陽駅まで渋滞もあり1時間以上かかった。駅に着くと既に暗くなっており、駅舎のライトアップが美しい。宿の周辺も古い建物にライトが当たっており、ちょっと華やかだ。疲れてしまったので、宿の前の牛肉麺の店に入る。ウイグル系の若者が一生懸命麺を打っていたが、その動作にも疲れが見える。きっと苦労して生きているのだろうな。