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京都ぶらり茶旅2020(4)遂に満福寺、そして鴨川を歩く

午後は暑い中、宇治から一駅電車に乗り、黄檗駅で降りる。今まで何度も通り過ぎてきたが、遂に満福寺を訪ねることになった。駅前にあると勘違いしていた満福寺まで歩いて5分ほどあった。誰もいない山門を潜ると池がある。反対側には木庵和尚ゆかりの場所もあった。

入り口で拝観料を払い、満福寺内のお茶関連の場所について尋ねてみたが、『基本的に何もない』と言われ驚いた。僅かに売茶翁の記念碑と堂があるだけで、あとは年に1度、煎茶道の大会が開催されるだけだという。確かに隠元禅師が日本の持ってきたのは茶だけではなく、生活にかかわる様々な物であったので、満福寺が殊更に茶だけを強調することはないように思う。

境内は非常に広く感じられ、木造の建物がいくつもあり、雰囲気は良い。随所に隠元や木庵直筆と言われる額などが掛かっている。黄檗宗といえば、あの木魚もちゃんとある。一通り歩いて回り、門の外へ出ると、そこには『駒蹄影園碑』があった。これは宇治に茶が植えられた頃、高山寺の明恵上人がその植え方を教えたとの故事に倣って建てられたらしい。明恵と茶に関する話はどの程度真実なのだろうか。周囲を見ると何軒か『普茶料理』という看板も出ており、黄檗宗を感じさせる。

暑いので、電車に逃げ込んだ。夕方は京都市内四条まで戻るので、京阪電車に乗ってみる。思っていたよりずっと近いのでビックリ。これは特急だからだろうか。四条にはアーケードがあるので歩くのは楽だ。今日は急遽福寿園に向かった。本を入手するため、お知り合いのIさんを訪ねた。

さすがにコロナ対策が徹底されており、お茶の試飲は出来ず、Iさんとの会話も2m以上離れて行われた。それでもお茶の話ができるのはやはり嬉しく、話が弾む。お客さんも常連さんが断続的にお茶を買いに来るが、長居する人はいない。福寿園の歴史も知りたいところだが、長居は無用。

疲れたので宿へ帰る。今日も湯が出ずに、さすがに部屋を変えてもらうことにした。日本の普通のホテルで湯が出ないとはびっくりだ。黙っていても客が来ることをいいことにメンテを怠り、コロナで休業期間に入ってしまい、問題が発生したのだろう。この機会にメンテを実施すべきと思うが、その費用が賄えるのか。今日も残念ながらほぼ泊り客に会わない。

夜は疲れたので、京都駅の地下で夕飯を済ませることにした。洋食が食べたかったので検索して店に向かったが、まさかの満員。駅は普段の半分以下しか人がいないのに、なぜここだけ満員なのか。仕方なく、カツカレーうどんを食べたが、わざわざカツをカレーうどんに入れる必然性はあるのだろうか。

6月24日(水)鴨川

一応京都市内を歩き、宇治にも行ったので、今回の旅の目的はほぼ果たしていた。因みに目的というのは、連載中の雑誌の原稿締め切りに合わせて、隠元と煎茶を追い求めることだった。今朝は今まできちんと訪ねたことがなかった京都御所に行ってみた。修学旅行でも行った記憶はない。

御所が今のように公園となり、解放されたのは明治に入ってからのようだ。それまでは公家屋敷などが立ち並んでいた。ちょっとミーハーだが、蛤御門を探した。幕末の歴史、面白い。御所内部の参観は制限されており、塀に沿って歩く。蛤御門のちょうど反対側に仙洞御所があった。後水尾上皇やその妻徳川和子ゆかりの御所であり、ここでは多くの茶会が開かれたという。参観するには事前申し込みが必要で中を見ることは叶わなかった。

その後旧九条邸のいい雰囲気の庭などをチラッと見た。明治になり、公家の多くも天皇と共に東京へ向かったのだろう。私も地下鉄に乗り、次の目的地、北大路橋に向かった。その東側に売茶翁顕彰碑が建てられていた。この碑は比較的最近建てられたものだが、売茶翁に繋がる場所はやはり鴨川かもしれない。

何となく鴨川沿いを歩きだす。コロナ下ではあるが、多くの年配者が歩き、また犬の散歩などが行われていた。記念碑もいくつも建っており、歴史的な場所だとの認識も出てくる。ちょうど空が曇り、眼前の山も少しかすんでみえる。川沿いのせいか、暑さが和らいでおり、とても歩きやすい。

川から離れ、かなり歩いていた。神光院という寺まで行く。この辺りは住宅街で、観光スポットは全くない。何故私がここに来たのか、自分でもよく分からない。金閣寺の方を目指すつもりが、少し道を間違えたのだろう。寺に入ると、実に静かで古めかしく、落ち着きがある。時代劇の撮影などにもよく使われた場所らしい。

この寺は幕末の歌人で陶芸家、知恩院ゆかりの大田垣蓮月が晩年を過ごしたという。境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑、そして茶室(蓮月庵)が残されている。蓮月という人は才能があったようだが不幸で、何度も子供や旦那と死に分れており、出家後最後はこの地で亡くなった。蓮月が生活のために作った陶器は蓮月焼という名で残されている。

京都ぶらり茶旅2020(3)東福寺から宇治へ

さすがに長旅だったので、今日の散歩はここまでとして京都駅前に戻ることにした。近くの地下鉄駅まで歩いて行くと、ちょうど近所の高校から生徒が下校してきており、駅は混雑していた。まさに密な状態があちこちで見られたが、注意する者もない。マスクを外している者もおり、学校の感染予防、ちょっと心配になる。外出が久しぶりだったこともあり、かなりビックリした。ただ地下鉄自体はそれほど混んでおらず、何となく安心感が広がる。

駅前のホテルに戻り、預けた荷物を受け取ってチェックイン。部屋は普通で特段の良し悪しはない。ただすぐにシャワーを浴びたのだが、何と湯が出て来ない。歩き疲れてあまりに暑かったので、そのまま水シャワーで気持ち良く流した。そしてベッドに寝ころび、気だるい至極の時間を過ごす。

今晩は、ご連絡したMさんから先斗町に来るようにとのメッセージがあったので、また地下鉄で先ほどのルートを戻っていく。鴨川の橋を渡って左に折れると、よく京都撮影の刑事もので出てくる風景に出会う。そこをサクッと歩いていると、立派な建物の前に説明書きが見える。土佐藩低跡と書かれているが、建物の前には『角倉了以翁顕彰碑』という文字も見える。更には日本映画発祥の地、という説明もあり、何だか歴史が凝縮されているようで、妙にワクワクしてしまった。

先斗町の狭い路地、人影はまばらでコロナの影響は相当に出ているように思われた。店を閉めているところも多い。そんな中、6年前にも一度行った長竹さんに行く。既にMさんは何か食べながら、ご主人と話し込んでいた。このお店のカウンターに座ると、何となく不思議な安心感があるのはなぜだろうか。酒を飲まない私だが、お茶関係の本が沢山置かれているからだろうか。

Mさんと紅茶の歴史の話を始めるとご主人も加わり、更にはお客さんまでが関心をもってくれ、どんどん茶の歴史話が飛び火し、相当に話が弾んだ。そしてご主人から抹茶パフェの由来などを聞くと、やはり本を読むだけではだめで、実際に旅して分かることもある、と再認識する。そして何より、生の情報に触れることが楽しく、また疑問が湧き、更に調べを進めようという、いい循環が起こってくる。勿論食事も重要で、焼き魚、京野菜などを美味しく頂き、デザートのアイス、あんこ、そしてお茶と満足して、夜が暮れていった。こういう時間を大切にしたい。

6月23日(火)宇治へ

翌朝は天気が良かったので、暑くならないうちに宿を出て、先ずは京都駅前から30分ほど、東福寺まで歩いて行く。この付近、伏見街道沿いにもいくつか寺院があるようで、風情がが感じられる場所だ。東福寺は静岡茶の祖ともいわれる聖一国師が開祖のお寺で、それだけでもお茶関係と言えるが、境内でお茶に関するものを目にすることはほぼない。

ここに来た理由、それはここでも売茶翁が店を開いていたと言われているので、どんなところか、その通天橋と呼ばれる橋を見に来たのだ。入場料600円は少し高いなと思っていると、3月までは400円だったらしい。これもコロナ対策なのだろうか。客殿は改修中で、その費用の捻出だろうか。

中はきれいな小渓谷、そして橋があるが、橋の全貌を撮影できる場所がない。帰りに外を通ると、そこからは全貌が撮れたので、何となく損した気分になるが、まあほぼ人がいない、気持ちの良い庭を歩けることは貴重だろう。敷地は広いので、ゆっくり回っているとかなり時間がかかる。


JR東福寺駅まで行き、電車で宇治を目指す。宇治で降りると、辻利本店が見えたが、ここは昨日の祇園辻利とは同族だが別経営。京都に限らないが、老舗の経営は複雑で部外者にはよく分からない。取り敢えずフラフラと平等院まで歩いて行く。平等院には、宇治茶の碑と辻利の創業者、辻利右衛門の像があると聞いていたので、探しに行ったのだが、入り口の外側に二つともあったので、入らずに写真を撮り、目的を達した。宇治茶の碑は、明治の昔、この建立式典で小学生の三好徳三郎が学校総代で言葉を述べたと言われるものである。

後は宇治歴史資料館へ行って、資料を探そうと考えたのだ。グーグルマップで見ると近道ルートがちょっとした山越えで難儀する。正直かなり暑いし、坂もきつかった。須磨夫のマップには高低差や坂道のきつさは反映されないので、時々困ることになる。何とか資料館に辿り着き、お茶関連の資料をお願いすると、コロナ下にもかかわらず、快く探し出してくれたので、コピー取りに勤しむ。永谷宗円とはどんな人だったのか、宇治茶の歴史は、など、さすが宇治だけに様々な資料があり、色々と勉強になった。

京都ぶらり茶旅2020(2)徒歩で行く京都観光

最後にきつい階段を登りきると、清水寺に出た。ここに来たのは恐らく高校の修学旅行以来ではないか。ただ目的は寺の見学ではなかったのでスルーして、参道に出る。いつもであれば多くの店が観光客を呼び込んでいるはずだが、残念ながら今日は閉まっている店が多く、また歩いている人もまばらだ。学生服も全く見かけない。

三年坂を探す。ここも売茶翁が店を開いた場所と言われているので、一応チェックする。こういう機会でもなければ、わざわざ訪ねることはないだろう。または気が付かないうちにその坂を下りてしまうことはあっても、意識はしないだろう。この辺は如何にも京都に来た、という雰囲気のある場所だが、一方観光客向けになり過ぎてきているともいえる。三年坂とは別名、『産寧坂』(安産祈願)『再念坂』(清水参拝後ここでもう一度祈願)などと書かれているのが面白い。

高台寺に突き当たる。秀吉の正妻おね様のお寺というイメージがあり、お茶会なども開かれている寺だが、今は当然ながら休止中だった。庭が見事な場所だが、スルーして階段を下りていく。ここの階段の風情が好きだ。そして八坂神社までフラフラと歩いて行くのは悪くない。普通はここから賑やかな一帯を散策するのだが、今日はまっすぐ?建仁寺へ向かう。

5年ぶりの建仁寺で桑の碑を眺める。栄西の喫茶養生記、もう一度読んでみようか。この本は喫茶というより薬として効能が書かれているはずだ。その横には平成の茶苑と書かれ、茶樹が植えられている。その前には栄西禅師、茶碑が建立されている。後ろを見ると建立者は祇園辻利の三好さんになっている。台湾から引き揚げた後、作られた祇園辻利の歴史にも興味が沸く。

境内を歩いていると、曹洞宗の開祖、道元禅師がここで修行したとの看板も見える。この当時の宗教については、よく知らないので、各宗派の繋がりなどを含めて改めて勉強する必要性を感じる。お茶の観点だけから栄西を、そして禅宗を見ていても、何も分からないかもしれない。

そのまま四条通へ出た。先ほどの祇園辻利が気に掛かり、その本店を訪ねてみた。店員さんに店の歴史を訪ねてみたが、ほぼ何も知らないようだった。『先代が昨年亡くなりまして、歴史を知る人もいなくなりました』という言葉が、まさに歴史を感じる。戦後の混乱期、着の身着のまま台湾から引き揚げてきた人々の苦労は既に忘れ去られようとしている。

急に腹が減る。元々ランチを探すはずがいつの間にかこんな所まで歩いてきてしまっている。目についた焼肉屋に飛び込み、焼肉定食を食べる。腹が減っており何ともうまいのだが、なぜ京都まで来て、焼肉を食べているのか、自分でも分からない。ランチ1080円と書かれていたので、てっきり税込みだと思っていたら、税別だった。こんなことが新鮮に感じられる。

特に雨も降って来ない。ホテルに帰っても仕方がないので、更に歩きだす。正直これだけ長い距離を歩いたのは数か月ぶりで、足がパンパンに張り、嬉しさにあふれている。やはり旅をしないといられない体になっているのだ。目指すは知恩院。恐らくここも高校の修学旅行以来ではないだろうか。40年前のその時、静かでよい印象を持ったお寺だった。

かなり厳しい階段を上ると、やはり静けさがあった。自分がここへ来た理由など、完全に忘れて、ただボーっとしていた。いつもなら修学旅行生などで賑わっているのかもしれないが、これが私の知恩院だと思う。門を出てフラフラ歩き出す。すると寺の外壁の植え込みがなぜか目に入る。

そこには何かの碑が建っていたが、よく読めないので、植え込みの中へ入りこんだ。そして驚いた。『前田正名君』という文字が見えたのだ。私が知恩院に来た理由は、この前田正名の碑を探すことだったのだ。しかもまさか境内ではなく、こんなひっそりした場所にあるなど思いもよらない。前田正名は明治期の偉人の一人だと思っているが、今や完全に忘れ去られた人物だ。この碑が現在の彼の評価を物語っていた。

更に行くと『大谷本願寺故地』や『蓮如上人御誕生の地』などという碑が見えてくる。花園天皇陵もあり、『ここはお国の何百里』などという軍歌の碑まで現れる。何とも不思議な道を歩き終えると、そこには平安神宮の赤くて大きな鳥居があった。何だか旅が終わった気分になるも、今日最後の目的地へ向かう。

西福寺、そこは南禅寺の参道をちょっと脇に入った、とても小さな寺だった。なぜそこへ行ったのかと言えば、そこに雨月物語で知られる作家、上田秋成の墓があると聞いていたからだ。上田秋成は江戸時代、数寄者として名があり、煎茶にもかなりのめり込んだという。ちょっと意外な人物が煎茶と関連していたので検索してみると、墓は大阪ではなく京都にあると分かった訳だ。ただこのお寺、門のところに説明書きはあるものの、中に入ることは叶わず、墓に参ることは出来なかった。

京都ぶらり茶旅2020(1)ステイハウスからの脱却

《京都ぶらり茶旅2020》  2020年6月22日-25日

バンコックから戻った3月23日以降、私は自主的に14日間、外に出ず自宅で過ごした。その間に東京五輪は1年延期となり、緊急事態宣言が出て、週に1度、1時間以内の買い物以外、外へ出ることもなく5月まで過ごした。6月に入ってもコロナは収まったのか、事態はどう推移しているのか、はっきりしない状況が続いていたが、ベトナムやタイなどでは感染者がほぼいなくなり、次のステップに進むような動きとなっていた。

そんな中、2か月以上体を動かさずにいたところ、体調不調に陥り、やはり散歩ぐらいはしなければと、徒歩訓練と称して近所を歩き始めた。東京アラートなる奇怪な警報も出されていたが、いつの間にか解除されていた。そしていよいよ連載している原稿の都合上、京都だけはどうしても行かなければならない事態となり、県跨ぎ自粛の解除(6月19日)とともに、意を決して新幹線に乗って徒歩訓練遠出に出発することとなった。

6月22日(月)京都まで

京都まで行くには、昔は安い夜行バスなどに乗ったものだが、今回はとにかく蜜を避けるために、一番早い新幹線を利用することにした。新宿あたりで見てみると、いつもは安いチケットを売る販売店で、なぜか『自由席券は売切れ』と書かれているのが目を惹いた。そろそろ出張者などが動き出す頃だが、皆どの程度混んでいるのか分からないため、指定席ではなく、席を自由に選択できる自由席に乗ろうとしたのではないだろうか。

実際品川から新幹線に乗ってみると、指定席でも3席の真ん中はさすがに空いていたが、それなりに乗客はいた。自由席もやはりそれなりに混んでいる。午前10時前の新幹線、いつもなら乗っているはずの観光客の姿がほぼ見られない。勿論外国人は皆無だった。スーツ姿の男性が殆どで、乗りたくないのに無理して乗っているといった感じか。

いつもなら昼時には駅弁を買って食べるのだが、マスクを外すべきかどうかも分からず、食べるのも憚られた。周囲でも誰も食べている人はいない。マスク率は100%で、寝ているか、スマホやPCをいじっており、声も全く聞こえてこない。静まり返った車内が、コロナを感じさせた。

京都駅で降りると、まず目を惹いたのは観光客の少なさ。駅前のバスターミナルには、いつも長い列が出来ていたはずだが、今は殆ど人がない。バスも乗っているのは地元の人なのか、その数も極めて少ない。予約した駅前のホテルでも、お客はあまり見かけなかった。いつもならその便利さから予約が取りにくい宿のはずだが、何とも寂しい。そしてその料金も通常の半額程度ではないだろうか。貧乏旅行の私としては有難いが、如何に異常事態であるかを示していた。この宿の営業は6月1日より恐る恐る再開した、ということで、アクリル板が目新しい。

三十三間堂から清水寺を回り

取り敢えず荷物を預けて外へ出た。このビルの1階には、辻利が入っており、喫茶スペースも設けられていたが、ソーシャルディスタンスで座席が減らされており、お客は一人もいなかった。雨が降りそうだったが、腹も減ったので、フラフラ歩いてみる。以前泊ったことがあるゲストハウスも閉まっており、外国人バックパッカーで賑わっていた宿も廃業したのかもしれない。

鴨川を越えていくと、蓮華王院が見えてきた。三十三間堂とも呼ばれており、宮本武蔵を思い出す。チケット売り場にも人影はなく、前を通り過ぎた。煎茶道の祖とも呼ばれる売茶翁はここに店を出して茶を売ったというが、どうなのだろうか。勿論その痕跡はない。向かいには国立博物館もあったが、月曜日は休館日で入れなかった。

暫く長距離を歩いていなかったこともあり、何となくそのまま歩きたい気分となる。曇りで暑さも厳しくないのでちょうどよい。北の方角に歩いて行くと、大谷本廟に出た。徳川幕府により改葬された親鸞聖人の廟堂だった。ちょっと気になってお参りしてみたが、人影はなく、厳粛な感じであった。

その先を清水寺へ向かうのに、近道として坂を上った。かなりきつい坂だったが、両脇は墓で、ちょっと面白い。『肉弾三勇士の墓』など、日清日露から太平洋戦争まで、戦死した人々の墓が目立っている。『陸軍伍長』など肩書が書かれているものも多く、中には亡くなった場所や経緯が彫り込まれているものもある。確かに無念の戦死を遂げた親族を弔うために、このような方法になったのだろう。高台から街がよく見えた。

パクセー茶旅2020(4) 老舗ホテルで夕日を

昨晩泊まった宿ではなく、新しく予約した宿で降ろしてもらった。ここは街の名前がついている老舗ホテル。1962年開業だというから、設備は古いだろうが、昨日の宿よりはだいぶマシだろうと昨晩料金を聞き、交渉して安くしてもらい、部屋まで予約しておいたのだ。部屋はさほど広くないが、コンパクトで良い。昨日は繋がりにくかったネットも何とか繋がるのは有難い。何よりクラシカルな作り、窓から街が一望できるのがよい。

昼ご飯を食べようと外へ出たが、かなり暑い。旅行社のパネルを見ると、ここからバスでタイだけではなく、ベトナム、ダナンなどへも行けることが分かる。いつもならノリでバスを使いたくなるのだが、今はコロナがあるので、密閉された空間を避けて、出来るだけ短時間で移動したい。ご飯は地元民しか行かない食堂を見つけ、麺をすすった。これはベトナム風で、安くて意外とイケる。

午後は疲れてしまったので部屋で休んだ。今は疲れを貯めるのもよくない。ちょっとした風邪なども大事に至る可能性があるので、注意が必要だ。取り敢えず早めにバンコックに戻ろうと、明日のフライトを予約した。それでも簡単にタイ入国が出来るのだろうか。厳しいチェックがあるとか、外国人が入国拒否されたとのうわさが出ている。もう流れに任せるしかない。

夕方、このホテルの屋上に行ってみる。ここの屋上からメコン川に沈む夕日がよく見えると言われたので、夕日好きとしては眺めてみようと思ったのだ。まだ陽があるうちから白人たちがビールを飲みながら大声で話している。ハッピーアワーと書かれていたが、私は一人、アイスティーを飲みながら、陽が沈むのを待った。

段々陽は落ちていくが、メコンに沈む夕日、という雰囲気には残念ながらならない。なぜか昨晩も出会った中国人グループがやってきた。その後ろには日本人女性が一人でPCを打っている。午後6時頃、陽は沈んだが、お客たちは誰も帰らず、話し込んでいた。私は一人、部屋に戻った。

暗くなってから、軽くご飯を食べようと思い外へ出たが、やはりピンとくる食堂はない。思い出したのが宿のエレベーターの広告。クラブサンドイッチが食べられるとあったので、急に宿へ戻った。ところが1階のカフェは元々休業中だったようで、スタッフの姿すらない。

フロントに聞くと、たぶん屋上のレストランでサンドイッチを作ってくれるだろうというので、何と先ほど出てきた屋上にまた戻ってメニューを眺めた。ところがサンドイッチはなく、あるのはハンバーガーだけ。それでも面倒くさくなり、大きなバーガーを注文して、ポテトを頬張った。もう完全にバーとして機能しているので、酔っ払いも登場してうるさい。私は食べたらすぐに退散した。

2月19日(水)バンコックへ

翌朝は宿の朝ご飯を食べた。1階のカフェは、朝ご飯会場のみに使われていることが分かった。多くの人が食べており、席の確保が難しい。食事は何といってもパンが美味しい。オムレツも丁寧に作られておりとても良い。もう一泊したところだったが、今回の最大の目的はタイ入国だったので、急いでチェックアウトした。

ラオスではGrabが使えない。ホテルに車を頼むと高そうだし、このホテルの外にいる運ちゃんも吹っ掛けてきそうだし、と思っているうちに『まあ、時間もあるので、ゆっくり歩いていくか』となり、歩き出してしまった。途中までは数年前にも歩いた道で、何となく懐かしい。朝ごはん屋の湯気も好ましい。さっき食べたばかりなのに、また食べたくなる。

空港までほぼ直線で3㎞ちょっと。思えば先日ウボンで空港から宿まで歩いた距離とほぼ同じだ。今回は運動のため、旅に出たのだと分かる。もともと私の茶旅は『歩いてなんぼ』の旅だったはずだが、最近は少しサボっていたのかもしれない。旅の良い所は、適度な運動、気分転換、そして未知との遭遇だろうか。

空港は小さかった。入っていくとチェックインが始まっているが、並んでいる人は多くない。それでも乗客と係員が長い間話しているので列は進まない。やはり他国へ移動するのは難しいのか。だが私の番になるとあっという間にチケットが渡され、何の質問もなかった。

ここはビエンチャン行きの国内線も混在しており、そちらはかなり混んでいる様子だった。まだ時間があったので、空港内を歩いてみたが、特に何もなかった。仕方なく、出国審査に進んだが、何と普通の窓口でパスポートを提示してスタンプをもらう。その横の狭い通路を入ると、荷物検査があり、その向こうが待合室だ。

どうやら国際線も国内線も区別なく、待っている。中国人はいないようだ。バンコック行にはタイ人の他、白人がかなり乗っているが、彼らはどこへ行くのだろうか。日本人は私の他に出張者が一人だけかな。機内は半分以下の搭乗率であり、CAもマスク、手袋。一応簡単な食事は出た。さて、バンコックに無事入れるのだろうか。

パクセー茶旅2020(3)パークソンの茶畑

それから街中をゆっくり散策する。ウボンと比べると少し涼しい感じがするのは気のせいか。ワット・ルアンという大きな寺に入ってみる。かなり歴史がありそうだとみていると、なぜか日本人の団体が入ってきた。学術調査のついでに観光しているといった感じで、細かい所を見ている。ここのお墓にも漢字が刻まれており、華人もいることは分かる。

きれいな建物があった。中には小さな店がたくさん入っているが、お客は全くいない。昔の市場をここに押し込んだのだろうが、効果はあまりなかったようだ。教会も見える。この地には、華人の他、宣教師などもやってきたことだろう。そこから川沿いに出て友好橋を写真に収めようとしたが、うまく撮れないので、どんどん橋に近づいて行き、気が付くと橋の袂まで来ていた。

この橋、日本の資金でできたらしいが、建設したのは韓国の会社か。その名前が刻まれている。そして実際にこの橋を使っているのは、ラオ人の他はタイ人と中国人が多いらしい。これぞ国際貢献、と言って喜べるのだろうか。いずれにしてもパクセーはこの川で栄えた、とは分かる。近くには立派なホテルも建っている。夕陽がドンと落ちていく。

今度は内側に歩いて行くと、市場があり、夕飯の買い物をする人々がいた。宿の方へ戻ると、途中には中国系の廟などが見られたが、既に門は閉ざされていた。結構歩き回ってかなり疲れてしまった。夜外へ出るとすぐ近くにも立派な中華商会の建物があり、やはり華人が貿易していたのだと理解する。

夕飯は、昼を食べた隣のカフェへ入る。そしてシーフード炒めと書かれているのを、イカ炒めだけにしてもらい、たらふく食べた。隣に地元の華人と中国から来た中国人のグループが座った。周囲はちょっと気にしていたようだ。既に中国人団体観光は止まっているが、彼らは個人で来たのだろうか。それとも中国に帰れず、既に1月からここに留まっているのかもしれない。

2月18日(火)パークソンの茶畑へ

翌朝は宿で簡単にご飯を食べてチェックアウトした。やはり隙間風がうるさくてよく眠れなかった。フロントの男が『どうしてチェックアウトするのか』と聞いてきたが、無言で支払いをした。外に出ると、そこには昨日予約した車の運転手が待っており、荷物を載せて出発した。

車はすぐに郊外へ出て、思っていたよりずっといい道をほぼまっすぐ走っていく。山を登っているという印象は全くなかったが、30分後に標高を計ると、100mから800mに上がっていたので、かなり驚いた。そして車は道路わきに入っていく。そこは茶園があるらしい。手前の小屋には簡易な製茶道具が置かれ、奥には確かにかなり古い茶樹が沢山植わっている。

運転手は何が楽しんだ、という顔をしていたが、とにかく茶畑を見ると嬉しくなってしまうのはどうにも止めることができない。思ったよりずっと広い茶畑なので、写真を撮りながら、ずんずん奥へ入っていく。茶樹の間隔は広く、昔の茶畑という雰囲気が漂う。但し直射日光が照りつける、平たい場所にあるので、茶樹の生育としてはどうなのだろうか。

建物の所に戻ると、運転手が女性と話していた。その女性がここのオーナーであり、製茶もしているとのことだった。運転手が通訳をしてくれて聞いたところでは、まだフランス統治下、お父さんがベトナムからやって来て、ここでフランス人の茶作りの手伝いをしていたらしい。

フランスが去った後、その茶園を受け継ぎ、ここで茶業を続けてきた。道路の向かいにはコーヒー園とドリアン畑も広げた。そして父親が亡くなる時、姉妹が相続をした。目の前の彼女が茶園を引き継ぎ、妹が残りをもらい受けたらしい。とにかくここの茶畑は80年以上の歴史があることが分かり、満足。

現在ここで作られている茶は、何と紅茶、烏龍茶、白茶の3種類だった。普通ならあの晩茶のような緑茶が作られるはずだが、どうやら観光客向けに販売するので、フランス人あたりの好きそうなメニューになっているのかもしれない。これ以上、技術的な話は、通訳もできないだろうからと止めた。そして茶を少量ずつ買って、ここを離れた。

更に道を行くと、大型バスが停まっていた。ここでは白人さんが沢山下りてきて、皆でコーヒーを飲みながらガイドの説明を聞いていた。そしてお土産にコーヒーを買っていく。まさにコーヒーツーリズムだ。お茶も同じような扱いだろうが、現在ではコーヒーの方が優勢だ。

もう一つの茶園に行った。こちらはきちんと手入れをしていないようにも見える。完全に平らな土地に茶樹が無造作に植えられている。日もだいぶ高くなり、とにかく暑い。これではいいお茶が出来る、という感じはしない。なぜか茶畑を牛が歩いており、危うく衝突するところだった。

もうこれ以上、ここにいる理由もなく、車は町に帰っていった。途中道路脇に、大きな工場が見えた。Dao Coffeeという有名ブランド。1991年創業のラオスでも有数の企業だという。昨日歩いていた友好橋の袂にも、きれいなカフェを開店させていた。コーヒーの他、茶も商っている。

パクセー茶旅2020(2)バスで国境を越え、パクセーへ

2月17日(月)パクセーへ

翌朝は早めに起きて、宿の朝食を食べた。思ったより多くの人が宿泊していたことが分かる。その中にはやけに偉そうにしているタイ人の爺さんもいた。大声で皆に話しかけているから街の有力者かもしれないが、朝の大声は耳に響く。料理は色々とあってなかなか良い。このホテルの料金が安いのはコロナのせいなのだろうか。

午前8時にはGrabで車を呼んで、急いでチェックアウトした。Grabがあるので、交通に困ることはなく、何とも有り難い。月曜日の朝だが特に渋滞もなく、すぐにターミナルに着いてしまった。昨日の切符売り場に行くと、かなりの席は埋まっていたが、私は予約してあったので、一番前の席を確保した。

9時過ぎにバスに乗り込み、出発を待ったが時刻を過ぎても発車しない。誰かが荷物でも運んでくるのだろう。特に急ぐ旅でもないので、ゆっくり構えていた。乗客は意外と白人が多い。子供連れまでいる。20分ほど遅れてバスは動き出す。街の郊外、特に見るべきものはなくウトウトしていたら、1時間半ほどで、ラオス国境に到着した。

特に車掌は指示もせず、皆勝手にタイのイミグレで出国手続きをする。そこからどう行けばよいか分からなかったが、タクシーの客引きや物売りのおばさんから情報を得て、地下道を通り、上に上がるとテントがあり、いきなり検温された。コロナ対策だ。それが済むと、向こうにラオス側のイミグレの建物が見えたので向かう。

窓口がどれか分からなかったので、前の人が出したところに私もパスポートを差し出してみた。すると向こうから『100バーツ』との声がかかる。なぜここで賄賂払うんじゃ、と思い、ノー、と言って見たら、パスポートを突っ返された。何と入国カードを書いていなかったことが判明。直ぐに用紙を探して提出したら、あっという間にスタンプをくれる。入国カード代筆が100バーツか。

その頃、白人たちはゆっくりと歩をラオスに進めていた。そして皆がアライバルビザの申請を行い、その許可をもって窓口の審査を受けるのだから、そんな直ぐに出来るわけない。あっという間に30分が過ぎたがまだバスすら来ない。そんな時、おばさんが『ラオスのシムカード、要らない?』というので、100バーツで買ってみた。おばさんが親切に使えるように挿入してくれた。これでパクセーに着いても安心だ。

バスが来たので乗り込んだが、白人たちが乗っても未だ出発しない。外へ出ようとすると車掌が入り口に座り込んで、邪魔している。誰かがどこかへ行ってしまうと探すのが大変なのだろう。確かこのバス、3時間でパクセーに着くとか言っていたが、もう3時間は過ぎていた。

結局バスは国境で2時間立ち往生した。最後に乗ってきたのは、恐らくはラオス人の若者たちだ。私の隣に乗っていた若者もやってきた。地元民なので、とっくに別の手段で出発したと思っていたのだが。何で彼らだけ検査が厳しいのか。それを説明してくれる人はここにはいない。

そこからまだパクセーまで50㎞ぐらいある。3時間で着く?全然話が違うが、これがアジア旅だろう。バスは順調に進み、パクセーの街に入る時、大きな川を越えた。これがメコン川か。するとこの大きな橋が日本の資金援助でできた友好橋か。そしてついに5時間弱かかってパクセーのバスターミナルに到着した。

バスを降りない人も多かった。これから街へ向かうのかもしれないが、私は尻が痛かったので、とにかくバスから降りた。トゥクトゥクおじさんたちが近づいてきたが、料金が高そうだったので、端にひっそりと立っていたおじさんに乗せてもらった。80バーツ、ここではタイバーツが普通に使える。

街中まで風に吹かれていくのはとても気持ちがよい。大きな街ではないが、川沿いは少し道が入り組んでおり、目指す宿に行くのに迷った。ホテルサイトでは高評価だった宿だったが、フロントの態度も今一つで、部屋も今一つ。料金もさほど安くはない。特に部屋の窓に隙間があり、風でかなりの音がするのには困った。これは早々に逃げ出そうと思う。

とても腹が減っていた。もう午後3時近い。さっき見たカフェが良さそうだったので、入ってみる。客は白人が多く、英語メニューがある。ラオスに来たらパンが食べたかったので、サンドイッチを注文。お茶もアイスグリーンティーにしてみた。これは甘いが意外と満足できる味だった。ラオキープを持っていなかったので、ATMで引き出して、支払ってみる。

旅行会社を探すと、すぐに見つかり、『明日茶畑へ行きたい』というと、簡単に車のチャーターが出来た。パクセーは白人も多くやって来る、観光地だったのだ。そして大きな滝などがあり、自然を見るツアーが多いようで、茶畑だけ行きたいというのはやはり変わった客だったらしい。

パクセー茶旅2020(1)ウボンラチャタニーで

《パクセー茶旅2020》  2020年2月16日-19日

3月初めまでバンコックを拠点に活動する予定だった。そして5年マルチのインドビザを用意し、コルカタ経由でアッサムに乗り込むつもりだったのだが、コロナウイルスの影響で急激に雲行きが怪しくなる。もしインド国内で隔離されたら、と思うと、インド行きに二の足を踏んでしまい、ビザを捨てて、ラオスに走ることにしてしまった。この判断が正しかったのかは、後に分るだろう。今回は行ったことがない南部ラオス、パクセーを目指す。

2月16日(日)ウボンへ

バンコックから直接パクセーに行ってもよかったのだが、それではやはりつまらない。今回は陸路で国境を越えようと思い、ラオス国境に近い街、ウボンラチャタニーまで飛行機で行って、そこに泊まることにした。実は2年前、コンケーンからウボンに行こうとしたことがあったが、バスの時間の関係でシーサケットに行ってしまい、結局ウボンだけ取り残してしまっていたのだ。

国内線に乗るべく、ドムアン空港を目指す。日曜日ということもあるが、MRTは空いていた。マスク姿が殆どだ。チャドチャックから空港バスに乗ると乗客は何と2人だけ。既にバックパッカーなどは随分と減っていることが分かる。ある意味でこれだけ人がいなければ安心かな。

ところがドムアンでは相変わらず乗客がかなりいた。マスクしていないのは、ほぼ白人というのが面白い。白人は感染症に敏感だとずっと思ってきたが、違うのだろうか。それともマスクが買えないのだろうか。飛行機に向かうバスも満員。機内はタイ人が多く、7割程度の乗客だった。

1時間でウボン空港に到着する。直ぐに外へ出ると、ここにも空港バスが出来ていたので乗ろうとして聞いたら、このバスは、お前が予約した宿にはいかない、と乗せてもらえなかった。タクシーに乗れと言われたが、何となく嫌で、そのまま歩き出してしまう。この空港、街とくっついているので、宿まで3㎞程度だった。ちょっと暑いが歩けないほどでもなく、街を散策しながらゆるゆると行く。

街はゆったりとしており、それほど大きくもない。宿までもう少しというところで腹が減ったので、食堂に入ってみた。そこには何ととんかつなどと書かれている。注文してみると,薄いカツに、不思議なソースが掛かっており、どんぶりでもなく皿に載ってくる。ライスの上には、目玉焼きが載る。完全な創作料理で面白い。

宿は結構立派で部屋も広い。料金は意外と安かったので、嬉しい。早速明日のパクセー行き情報を集めようとしたが、残念ながらフロントの女性たちはあまり英語が得意ではない。それでも一生懸命対応してくれ、何とか分かったのは、ここからかなり離れたバスターミナルから1日2本バスが出る、ということだけだった。

仕方なく、周辺を歩いて、旅行会社などを探すが、見つからない。大きな通りに出ると、ウボン国立博物館があったので、取り敢えず見学してみる。タイの博物館はどこもそうだが、ここも発掘された仏像の展示が中心。見学者は誰もいないので、係員も手持無沙汰でおしゃべりに夢中。

商店街があったが、日曜日のせいかほぼ閉まっていて人気がない。旅行社が一軒開いていたので、入ってみると何とか英語は通じたが、やはりバスの予約はターミナルへ行かないとできないと教えられる。その場所はBigCの近くだと聞く。そのまま川沿いに歩いて行くと、市場があったが、既にほぼ店じまいしており、のんびりした雰囲気。少し川を眺める。

橋の所へ行くと、ソンテウが停まっていたので、『BigC』と言ってみると、乗れ、と合図されたので乗ってみた。大通りをまっすぐ行けばBigCなのだが、ソンテウはくねくねと横道に入りながら、北に向かって行き、最後のBigCで停まった。地方都市のソンテウは10バーツだから安い。

地図で見るとすぐのはずだったが、ターミナルまでは実はかなり距離があった。テクテク歩く。郊外のバイパス道を何とか渡り、ようやくたどり着く。私はウボンで何しているんだろうか。パクセー行のバスは午前9時半と午後3時の2本、料金は200バーツ。午前便を予約したかったが、当日しか売らないと言いながら、座席表に私の名前を書き込んでくれたので、安心してまたソンテウで戻る。

まだ陽が高かったので、もう少し散歩を続ける。大きな教会が見えたので、ちょっと眺めていると、シスターが子供たちに声を掛け、何か話している。その親しげな様子は好ましい。私にも英語で声を掛けてくれた。

国境の街だから、貿易などに携わる華人は沢山いると思うのだが、華人廟も見つからないし、漢字の看板もさほどない。華人は一体どこへ消えたのだろうか。夜は何とか見つけた華人経営の店で麺をすすったが、言葉は英語だった。

チェンライ・チェンマイ茶旅2020(3)チェンマイのコンブチャ

チェンマイで

バスは今来た道を戻り、順調に進んでいく。車内の乗客は6-7割の状況であり、わりとゆったりできる。途中であのタイ茶の工場があり、近くには温泉が出ており、そして休息があった。3時間で着くはずだったが、1時間は遅れているのが何ともタイらしい。更にはチェンマイ市内へ入る道がひどい渋滞でバスが全く進まず、結局4時間半かかって、アーケードターミナルに入った。

バスを降りると、誘導され一列に並んで、何と検温を受けた。一昨日のチェンライ空港でもなかったことで正直驚く。平熱で助かる。既にチェンマイは大変なことになっているのか勘ぐったが、そこを通るといつもの風景。いや、客が非常に少ない状況が見えた。渋滞なので、予約した宿までタクシーには乗りたくなかった。何とかバイタクを探して乗り込む。

西側の老舗ホテルの豪華なロビーは静まり返っていた。日本人観光客の姿が数人見えただけで、スタッフは全てマスクをしていた。部屋は広いが非常にシンプル。テレビはなぜか日本の民放が1つ映ったが、NHKは映らなかった。電気ポットはあったが、インスタントコーヒーすらなかった。これがかつては天皇も訪れたというホテルだろうか。ロビーにその写真が飾ってあるが、今やかなり安いのだ。

ここでOさんと再会した。Oさんは以前バンコック茶会に参加してくれたことがあり、その後いつの間にかインドに拠点を変えていた。一昨年台湾で再会し、その後バンコックで一緒に茶旅した。今はインドが寒い(彼の拠点は北部の山中)ので、チェンマイで避寒しているというのだ。この付近には月極で借りられる部屋が多くあり、日本人もかなり住んでいるらしい。次回は試してみるか。食事も日本人などがよく通う台湾料理屋で食べながら、遅くまで話し込んだ。

2月4日(火)コンブ茶

翌朝Oさんと待ち合わせて、タクシーでTea Galleryへ向かった。ここも2年半前に訪問した場所ではあるが、車で連れてきてもらったので、その一は全然分かっていなかった。それでもGrabで車を呼び、何とか辿り着く。チェンマイ郊外、閑静な住宅街にオフィスがあり、知らない人はまず行けない場所だろう。

1階はドリンクなどが飲めるスペースになっている。入っていくと、何と前回チェンライでプレゼンしていたイタリア人と再会した。Jackはコンブ茶などを研究している博士だった。そしてオーナーのJeedもやってきた。彼女は私のことは忘れていたが、静岡訪問団は覚えていた。

コンブチャはタイのミエンから作られるドリンクで、健康茶としてアメリカなどで人気があるという。日本ではその昔、紅茶キノコと呼ばれていた。ミエンの製造を含めて、Oさんは発酵食品の研究に余念がなく、この手の話には極めて情熱的に反応して、出されたミエンが美味しいと食べている。ミエンから作られるジャムなど、興味深い商品も並んでおり、ワッフルにつけて食べる。もし身近に売っていれば、きっとヒットするだろうが、家訓なのか、大きな商売はしないともいう。

Jeedの話を聞いていて驚いた。実は彼女の父親も雲南回族。母がタイ人のため、彼女はヒジャブを被らないが、イスラム教徒だというのだ。苗字は雲南回族で一番多い『馬』であり、馬班だったらしい。しかも昨日訪ねたジャルワンとは姻戚関係もあるというから世界は狭い。父親の代は茶業者だったので、バンコックの茶業者との付き合いもかなりあったらしく、知っている名前もいくつか出てきた。

彼女が引き継いでから従来の形態を転換して、現在は科学的な研究を行うラボも作り、健康をキーワードにビジネスを展開している。顧客はアメリカやヨーロッパに広がっているが、タイ国内の需要が高まることを一番期待しているという。タイの茶産業は後発だから、このような健康食品ビジネスが有望ではないかということだ。

Galleryを辞して、ワロロット市場へ行ってみる。いつもは観光客で賑わっているが、中国人の団体がごっそり抜けた感じで実に静かでよい。ミエンを売っている店は僅かしかなく、残念ながらタイではこれを食べる習慣は薄れていることが実感できる。周囲の華人廟などを探しながら散歩してみたが、思ったほどは見つからない。この街で華人はひっそりと生きているのだろうか。

一度宿に帰り、預けた荷物を取ってから空港へ行く。バスターミナルと異なり、こちらは検温など、コロナ関連の対応は特になかった。マスク姿が増えていたものの、バンコック行のフライトはほぼ満員で、影響はまるで感じられない。この時点、コロナは中国だけの問題だと思われていた。

チェンライ・チェンマイ茶旅2020(2)回族の茶業者

そのまま川の方に戻ると、何ともレトロで良い感じの洋風建築のカフェがあった。タイの若者であふれており、川べりの席は無さそうだったので、そのまま歩いて帰る。夜は、かなり気になっていたコムヤーンカレーを食べてみた。豚ネックを使った、それほどスパイシーではないカレーは意外なほどうまい。カレーは北部タイ料理なのかと聞いてみたが、家では食べたことはない、との答えだった。チェンマイカオソイなどもカレー味だが、このカレーは一体どこから入ってきたのだろうか。

2月3日(月)

回族の茶農家

翌朝も宿で朝食を取る。そして昨日インストールしたGrabを初めて使ってみる。本日訪ねる茶農家は、何とチャンライ市内から30㎞も離れており、バスで向かうことは不可能だと聞いていた。ホテルでタクシーを頼めば、法外な料金を請求されかねない。Grabで検索すると300バーツで行けると出ている。だが本当にこんな遠くまで行くタクシーを見つけられるのか。

食後、Grabアプリで予約を押したところ、3分で来るとの表示が出たので慌てて、荷物を持ってチェックアウトする。表に出たところでタクシー到着の連絡はあったが、その車を見つけることができない。仕方なくメッセージでホテル名を再度打ち込むと2分ほどで、その番号の車と合流できた。

車は郊外の道を一直線に走る。車はきれいで、運転手は英語を話した。これなら外国人でも快適だ。目的地に行ってからGrabで帰りのタクシーを探すのは不安だったので、彼に頼んで待っていてもらうことにした。とても良い人で、滞在中の待ち時間は無料で良いという。確かに往復した方が実入りは良いのだろうが、こちらとしては何とも有り難い。

目的地は本当に田舎、それも住宅などもほぼない場所にあった。まさに農地、そして茶畑が少し見えた先に、工場と事務所があった。オーナーのジャルワンさんとは、2年半前に茶ツアーで一度訪問して顔は分かっていた。先方も日本人が中国語の通訳をしていたので、覚えていてくれたようで、にこやかに迎えてくれた。

彼女の特徴は何といっても、ヒジャブを被っており、一目でイスラム教徒と分かることだろう。そしてタイのイスラム教徒なのに、華人であること、これも我々には理解が難しい。今回はこの辺の謎をたっぷり聞こうと訪問したわけだが、その壮大な一族の歴史には正直驚いてしまった。俄かには信じられない話も出てくる。

彼女のお爺さんの故郷は雲南省。生まれた村は全員が回族だという。そしてその先祖はチンギスハンだと言われたが、いきなり言われても歴史が繋がらない。勿論雲南回族は以前馬班と言われ、ホースキャラバンを率いてこのエリアの物流を担っていたと聞く。それと関連があるのだろうか。よく調べてみる必要がある。

現在チェンライのイスラム教徒は、タイ・パキスタンとタイ・雲南の2系統がいるという。そして昨日見た清真寺は雲南系が建てたもので、一大勢力であり、現在その勢力を束ねる顔役は何と、あの鄭和の子孫だというではないか。確かに鄭和は雲南回族出身と言われているが、歴史とは何とも面白い。

話していると彼女の妹が入ってきた。妹はアメリカ留学経験があり、中国語より英語が得意だと言うので、後半は英語で話すことになる。この辺の言語適応力もすごい。彼女らのお爺さんが雲南からチェンライへ来た旅、お父さんが一代で築いた茶園、そして現在チェンライ市内にもスウィルンという名前で2店舗を持つ、姉妹で発展させる茶業、とても面白い。

茶畑の写真も撮った。以前はマンゴなどのフルーツ畑であったが、お父さんが全て買い取り茶園を広げていった。この辺の平地で茶樹が育つと思っていた農家はなかったというから、農業の才があったのだろう。台湾から技術を導入した四季春品種の烏龍茶をお土産に少し購入した。

あっという間に2時間以上が過ぎ、お昼ごはんを出してくれるというのを断って、車でチェンライバスターミナルへ向かう。この道、よく見ればチェンマイへの道ではないか。よく分かっていれば、ここからチェンマイ行きのバスに乗ることもできるのかもしれないが、既にチェンマイ行きチケットを購入していたので、市内まで戻ることになる。

ターミナルに着くと、購入したバスの時間まで1時間以上あったので、早いバスにチェンジしようとしたが、何と変更不可だった。仕方なく新たに購入してバスに乗り込む。何で変更できないのだ。ちゃんと確認しなかったこちらが悪い。しかしそうであれば、少なくとも郊外の新バスターミナルへ行けばよかったと後悔する。