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東北、北海道を行く2021(8)初めての旭川で

そこでちょっと休んでから、Tさんに会いに行った。Tさんも北京繋がりだが、東京でも何度も会っていた。お茶の関係で札幌に来る機会は少ないので、このチャンスに会いたいと連絡すると、平日は非常に忙しいという。彼も定年で転職し、今はコロナ関連の助成金申請作業などをしているという。

Tさんが連れて行ってくれたのは小さな居酒屋。コロナ禍もあり、きっと経営は大変なんだろうが、私はあまりお酒を飲まないうえ、昨日の食べ過ぎもあって、それほど店の売り上げに貢献できなかった。Tさんとは昔話などを楽しくお話して別れた。その足で宿に戻り、荷物を持って札幌駅へ向かう。

今晩は旭川に移動だった。何と駅ネットで特急を予約すると、45%割引と書いてあり、迷わず予約しておいた。ほぼ1時間に一本、札幌‐旭川間には特急カムイが走っているのは便利だが、その利用率は残念ながら高くはない。一応指定席だが、またガラガラの車両に揺られていく。途中富良野という文字が見えると、『北の国から』を思い出す。

1時間半弱で旭川駅に到着した。かなりきれいな駅舎だった。さすがに北の夜は寒い。今晩は駅前の宿を予約していたが、行ってみるとかなり若者向けな感じの宿で、チェックインも自動で行うようになっており、そのフロアーは広い共有スペースになっている。今日は土曜日の夜で特にお客が多いようだ。大浴場も完備しているが、かなり混んでいた。

11月21日(日)旭川で

旭川の朝は寒かった。そして小雨が降っていたので、ゆっくりと朝ご飯を食べて天候回復を待つ。この宿の人気の秘密は朝食ビュッフェにあるようだ。何しろ海鮮丼を自分で作れるように、イクラやサーモンがふんだんに置かれている。汁物もうまい。そして普通の朝メニューも充実している。昨晩は気が付かなかったが、家族連れ、老人たちも多く泊まっている。

取り敢えず雨が上がったので、街へ出てみる。旭川へ来た理由は特にない。来たことがなかったので来てみただけ。きれいな駅の観光案内所で地図をもらい、南の方へ歩き出す。川を渡って、旭川市博物館を見学する。正直あまり期待していなかったが、かなりの展示量があり、アイヌから開拓の歴史まで、充実した内容で、勉強になった。

それから駅の北側へ移動する。Google地図に『スタルヒン居住地』との表示が出たので、行ってみたくなる。実は多くの人が旭川といえば『動物園』が思い浮かぶらしいが、私が思い浮かんだのは『スタルヒン』だったのだ。戦前戦後のプロ野球で年間42勝、通算300勝を挙げた白系ロシアの血を引く大投手だが、既に忘れ去られているらしい。因みに駅前のバス乗り場に行列が出ていたのを見たが、それが動物園行だと気が付いたのは、帰りに空港に向かう時だった。

スタルヒン住居地はなかなか見つからなかった。ようやく見つけた表示板は、どこかの住居の柱にプレートが嵌っているだけだった。だがその通りには『八条スタルヒン通り』と書かれており、旭川はスタルヒンを忘れてはいなかった。彼は僅か40歳でこの世を去ったと書かれている。

もうこうなるとスタルヒン球場まで歩いていくほかない。途中石狩川を越えていく。球場の手前に、珍しい建物が建っていた。北鎮記念館と書かれているので、中へ入ってみると、ここは何と陸上自衛隊が運営(隣が旭川駐屯地)しているようで、受付の人からして、きびきびしている。

館内には屯田兵や旧陸軍第七師団の歴史が詳細に展示されていて、かなり興味を惹かれる。北海道に関する、松浦武四郎から北海道開拓、そして日清、日露戦など、様々な資料があり、時間を忘れて見てしまった。これで入場無料とはすごい。記念館の斜め向かいに球場があり、スタルヒン像を見ることができる。年に一度はここでプロ野球の試合もあったはずだが、今はひっそりとしている。その横には北海道護国神社が立派に建っていた。

そこから3㎞ほどをゆっくりゆっくり歩いて宿に戻る。さすがに今回の旅も歩き過ぎでバテテしまったので、早々に大浴場で体を休めた。そして夜、せっかくなので旭川ラーメンを食べようと、近所のラーメン屋に行く。麺にコシがあり、スープにコクがあり、うまい。これならもっと食べておけばよかったと後悔するがもう間がない。

11月22日(月)旭川2

今回の旅の最終日。朝からたらふくご飯を食べて、風呂に入ってホテルライフを満喫した。近所を少し散歩してから、空港行のバスに乗り込む。本当は郊外のアイヌ関連の施設にも行きたかったが、車でないと難しいと言われて今回は断念した。

空港に着くと、思いのほか乗客が多い。よく見ると、今日は平日だが明日は祝日なので、今日が休めれば4連休だった。そんな浮世とは隔絶した今回の旅、予想以上に面白かった。茶旅だけではなく、それ以外の歴史旅もどんどんやっていこうと思うが、果たしてコロナはどう動くだろうか、などと思いながら飛行機は東京に向かって飛んだ。

東北、北海道を行く2021(7)クラーク博士を追って行く

11月19日(金)北大2

翌朝は空いている時間に風呂に入り、朝食を取る。そして今日もまた小雨の中を北大へ行く。もう慣れたので、文書館での作業も順調となる。昨日色々と質問をしたところ、何とその追加資料まで揃えて頂き、感謝感激。今日は特に、卒業生の思い出などを調べる。その人物の人となりを知るには経歴だけでは分からない。

バタバタと資料を眺めていると、時間はどんどん過ぎていき、お昼になってしまった。今回の調査はここで終了として、お世話になった皆さんにご挨拶して去る。予想以上の収穫に驚いており、いつかこれを文章に残さねば、と思うのだが、どうなるだろうか。取り敢えずは内輪の勉強会で発表しよう。

今日のランチは北大近くで旧知のIさんと久しぶりに会う。何と札幌に来たのに、博多料理?とは意外性がある。そして何となく本日のランチ、油林鶏定食を注文する。北海道ならザンキだろうと言われそうだが、ここは博多なのだ。それにしても、日本で油林鶏が出てきたのはいつ頃なのだろうか。これは広東料理の油林鶏とはちょっと違う気がしているのだが、いつだれが持ち込んで流行らせたのか。

Iさんとは北京時代に一緒だったが、その後故郷に帰り旅行業に転じて驚いた。更に最近はコロナを予感したのかのように旅行業から新たな転身をしており、何とも興味深い。それでも中国からは縁が切れないようで、中国の話で盛り上がる。外へ出ると雨は完全に上がっていた。

午後はお茶屋さんに行くことにした。もう5年以上前、前回札幌に来た時に講座をさせてもらった日本茶専門店を訪ねた。トボトボと歩いて20分以上、途中道に迷いながら、何とか辿り着く。店には平日午後にも拘らず、お客さんが沢山いた。中には講座に参加して頂いた方もいて、ちょっとびっくり。

お茶も何と先日大分で訪ねた茶農家さんのお茶が出てきてまたびっくり。お客さん同士も知り合いが多く、コロナ禍の雰囲気はなく、和気藹々の楽しいお茶会のようだった。オーナーは学校の後輩という気安さもあり、ちょっと長居しながら、皆の話を聞いていたが、先ほどまでやっていた北大の調査が忘れられず、『札幌農学校と台湾茶』の触りをお話してしまったら、興味を持った人もいたようだ。ご当地ネタとしてやるのも良いかもしれない。

オーナーのAさんが、『隣にも行きますか?』と聞いてきたので、え、と思っていると、何とお隣に中国台湾茶を扱う店があった。そういえば2016年に来た時は、お店を作っていたのを突然思い出す。Aさんに連れられて行くと、何と出てきた人が『台北以来ですね』というではないか。

完全に忘れてしまっていたが、こちらのオーナーAさん。台北でMさんと三人で食事をしていた。こちらはちょうどお客さんがいなかったので、台湾茶を頂きながら、思いっきり?台湾茶の話を始めてしまった。気が付くとかなりの時間が経っており、申し訳ない思いだ。

帰りも歩いて行ったが、クリスマスイルミネーションがきれいだった。それを見て写真を撮っていたら、急激に腹が減り、またラーメン屋に飛び込んだ。今回はチャーハンまで付けたので、完全に食べ過ぎ状態となる。まあ満足ならよいか。

11月20日(土)札幌散歩

札幌最終日。今朝はゆっくり起きてゆっくり朝ご飯。さすがに疲れが出てきたので、ギリギリまで宿にいてチェックアウト。取り敢えずバスに乗って羊ヶ丘展望台を目指す。羊ヶ丘は結構遠かった。何とか辿り着くと、そこにはあの有名なクラーク像(あのポーズ)があり、多くの人が写真を撮っている。

ここにはクラーク記念館もあった。札幌五輪の時はバイアスロン競技が行われたらしく、その記念碑もある。非常に広々とした空間で、天気も良くなってきて、北海道を感じさせる風景だった。帰りもバスに乗り、札幌駅付近まで戻る。取り敢えず北大の植物園でも見学しようかと行ってみると、何と冬季休館に入っており、来年3月頃まで入れない。

そこで3日連続北大へ行き、博物館を見学することにした。レトロな館内の展示が新渡戸稲造やクラークだけでなく、札幌農学校を理解するうえで予想以上に為になる。有難い。そうなると、札幌農学校時代の建物が残っている、キャンパスの一番北まで歩くしかない。そこまで行くと、古い建物がいくつも残っており、さすが北大キャンパスと思わせる広い敷地だった。

今日は一日クラーク博士の日だなと思い、最後にクラーク博士住居跡を訪ねることにした。既に日は沈み、薄暗くなっている。Googleの地図を頼りに随分と歩いた。そしてついにその記念碑を見つけたのだが、何とそこに建っていたビルには、昨日訪ねた2つのお茶屋さんが入っており、心底驚いてしまった。思わず中国台湾茶のお店に入り、Aさんにそのことを告げると、『全く知らなかった』と言っていたが、やはり何かの縁で繋がっているのだろう。

東北、北海道を行く2021(6)北大で台湾茶業に従事した日本人を調べる

それから歩いて宿まで戻り、荷物を引いて駅へ行く。今日は珍しく特急に乗ってみる。JRの仕組みが良く分かっていなかったが、先日検索して初めて、駅ネットで予約すると割引がある場合があるということを知る(今まで何やっていたんだか?)。だがこの駅ではSuicaなどが使えず、自動改札できず、切符は事前に駅の自販機で取り出す。

出発20分ほど前にホームに行くと、列車は入ってきたが、そこから車内清掃が始まった。1両に一人が乗り込み、一斉に清掃している。何とも日本的だが、その間乗客は外で待つ。晴れているのに、意外と風が寒く感じられる。残念ながら乗客は少なく(バスの方が安い)、この路線の今後が心配になる。

出発すると五稜郭、新幹線の新函館北斗駅を過ぎるとすぐに街は消えて、原野を走る。途中から海沿いを走り、眺めは良いが、人家は見られない。長万部駅で停まったが、周囲には何も無さそう。日が暮れてしまった洞爺駅は本当に寂しいところだった。以前行った東室蘭を経由して、札幌に到着したのは4時間後だった。

今晩の宿は札幌駅傍の馴染みのホテルだったが、何と同じ名前のホテルが2つ並んでおり、1つに入ると私の予約はもう一つだと案内された。何とも紛らわしい。部屋に入ると急に腹が減り、札幌ラーメンだと思い、駅に取って返して、店を探して食べる。たまに食べるラーメンは何とも美味い。宿へ戻って大浴場に行くが込み合っている。部屋の作りも今一つ。函館の宿と比べるとコスパはかなり悪い。いや、函館の2泊が良過ぎただけだから、比較してはいけない。

11月18日(木)北大へ

翌朝朝ご飯会場へ行くと満員盛況でソーシャルディスタンスも保てない。一応込み合う時間を避けたつもりだったので、その旨を係員に伝えると、非常に恐縮されてしまい、その後はずっとケアーしてくれた。ホテル自体に問題があるのだが、それを従業員が必至でカバーする、いかにも日本的手法だったが、彼女には好感がもてた。

本日はこの旅のメイン、北大文書館に行く。宿から歩いて10分と近くてよい。少し早く着いたので、まずはクラーク博士像にご挨拶し、更にきれいなポプラ並木を横目に、新渡戸稲造像の写真も撮る。下北半島より函館は暖かいように思えたが、さすが札幌まで来ると、それなりに寒い。

北大文書館には、札幌農学校、北海道帝国大学時代の資料が多数保管されていると聞いた。事前にメールで連絡を入れ、調べたいことを伝えたうえで、予約を取っての訪問だった。このような正攻法の調査はほぼ初めての経験で緊張する。今回の調査対象は『札幌農学校と台湾茶』であり、日本統治時代の台湾で茶業に従事(主に試験場)した卒業生、山田秀雄、谷村愛之助、新井耕吉郎らの情報を得るのが狙いだった。更に関係者として大島金太郎、山本亮なども対象となっている。

何とこの分野でこれまで何本もの論文を書いているY先生が自ら、資料を提示してくれた。更には私が疑問に思っていた点について、いくつもの的確な回答を用意してくれていた。これは本当に有り難く、とにかく与えられた資料を全力で読んでいき、必要箇所のコピーを取らせてもらった。

一通り区切りをつけて、午後は数名の卒業論文を見せてもらうため、それを保管している農学部図書館へ移動した。まさか100年以上前の現物が見られるとは思っていなかったので感激する。私が学生時代卒論を書いていないが、自分が書いた論文が歴史となって保管されているのは、感慨深いものがある。ただ農芸化学の卒業生と言っても、茶に関する論文を書いている学生はほぼいない。

根を詰めて文章を見過ぎたので、北大キャンパスを散策する。私が通った大学があまりにも小さかったので、広大な敷地を持つ大学がうらやましい。というか、本当であれば私の第一志望は北大だったのだが、何を間違ったのか、来ることはなかった。やはり寒いのは嫌だったのだろうか。

一旦宿に引き揚げ、6時半に再度文書館に行く。以前お世話になったSさんと会う予定だったが、待ち合わせ場所を文書館にしていたからだ。文書館は図書館だと思い、夜までやっていると勘違いした結果だった。そこから近所に寿司を食べに行く。やはり北海道のネタは新鮮でうまい。また汁ものも豊富でうまい。Sさんは転職で札幌に来ていたが、余暇に『紙の歴史』を研究しているという。紙の歴史、実に重要であり、また茶にも何らかの関連がありそうなので、今後も情報交換していきたい。

東北、北海道を行く2021(5)函館を歩き倒す

そこでまた歩き出す。近所には古めかしい建物が、観光スポットになっていた。ツタが絡まる函館郵便局舎。更に行くと函館港と倉庫群に出る。いい天気で海が青くて雲が白い。近くには日本最古のコンクリート電柱、謎と書かれたものもある。修学旅行生がいるのは新鮮だ。

今日のお目当ては高田屋嘉兵衛。やはり蝦夷地、北前船と言えば、嘉兵衛が一番に思い付く。函館は高田屋にとっても重要な交易地。立派な像が建っている。江戸後期ゴロウニン事件を解決した手腕も評価されている。高田屋屋敷跡も近くにあった。ここは高田屋全盛期、嘉兵衛の後を継いだ金兵衛(弟)が広大な屋敷を建てた場所だった。

なぜか坂本龍馬の記念館や像もある。龍馬自身はここに来たことはなかったようだが、蝦夷地開拓の夢を語っていただけで、有名人は像が建つ。最後に駅の向こうまで歩いていき、土方歳三最後の地に詣でる。ここは8年前にも来たことがあるが、大河ドラマの影響もあり、取り敢えず五稜郭とセットと考えた。午後4時前、朝市まで戻ってくると、腹がグーと鳴る。開いている店で立派な海鮮丼を食べてから、宿へ向かう。

宿は高層ビルで、眺めがとてもいい。簡単な流し台があり、皿なども用意されている。何と驚いたことに、洗濯機まで置かれている。これは完全に部屋で過ごすことが前提に作られているコロナ対応部屋だった。そして大浴場が用意されていて、いい眺めの中で、ゆったりと湯に浸かれる。これぞ極楽だ。夜は大画面のテレビを見ながら洗濯をして過ごす。そして函館の夜景を見ながらゆっくりと眠りにつく。

11月17日(水)函館2

この宿の朝ごはんは朝市の12の食堂から選んで食べに行くシステム(店がやっていれば朝でなくても使える)。部屋にその店とメニューがあり、狙いを定めて向かう。確か8年前は、朝市前の古びた宿(市場の仲買人が泊まりそうな宿)に泊まり、やはり朝ご飯は朝市だった。だがこの8年の間にこの付近もかなり変わり、きれいになっていて、今はそんな木賃宿はない。更にはコロナの影響もあり、閉まっている店も結構ある。そして外国人観光客の姿はない。

お目当ての食堂へ行くと、かなり込み合っており、前の客が食べた皿が残っていた。『時間が掛かりますが』と言われたが、『暇なんで』と返して、座る。思ったより早く料理は出てきた。昨日に続く海鮮丼、それに焼き魚、卵焼きなど豪華な朝飯だった。大満足で宿に戻り、備え付けのコーヒーを頂く。

名残惜しい宿をチェックアウトして、昨日も歩いた方面へ歩き出す。途中に高田屋嘉兵衛の記念館があったが、既に閉館しているようだ。北方民族資料館や民間の資料館など、歴史展示館が多くのあるのも函館の特徴だが、訪れる人は少なく、お休みのところも多い。もう少し行くと、同志社大学を設立した新島襄が1864年にアメリカへ密航した海外渡航の地碑があった。私にはとてもできない海外旅行だ。

その近くには高田屋の本店もあったらしいが、今はその表示だけ。近所の店は今も古風な状態を保っていて、旅館になっている。それから端まで歩いていく。称名寺というお寺に、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があり、また高田屋一族の墓もあった。そこから更に上っていくと、外国人墓地がある。華人やロシア人の墓があり、更には幕末の函館を守護した南部藩士の墓などもある。

そこから市内中心に戻りつつ、旧ロシア領事館の建物などを見た。現在修復工事中。更に戻ると元町公園、函館公会堂が見えてくる。その下にはペリー提督来航記念碑があり、周辺には古い建物がいくつも見られる。その先に正ハリストス教会があるはずだったが、全面改修中でその姿は見えない。その向こうには英国系の聖ヨハネ教会、その下にはフランス系のカトリック元町教会がある。10歳の山川捨松はこの辺りに住んだいたのではなあいだろうか。

この教会の向かいには『亀井勝一郎生誕の地』という石碑が見える。亀井というと何となく関西のイメージがあるが、生まれは函館だったのか。今日は午後札幌への移動があるので、ランチを食べることにした。折角なので五島軒へ出向く。創業は1879年、創業者の若山惣太郎と、旧幕府軍として箱館戦争を戦った初代料理長・五島英吉が函館で出逢い、誕生した洋食屋だった。

だが訪ねてみると満席。それでも30分ぐらいで空くだろうというので、護国神社などその辺を散歩してから、席に着く。気になっていた『明治のカレー』を注文するも、さすが老舗。出て来るまで30分はかかる。その間、内装などを観察して待つ。カレーは何だか懐かしいお味がした。

東北、北海道を行く2021(4)大間からフェリーで函館へ

フェリーで函館へ

ここからフェリーに乗ろうと思ったのには訳がある。会津藩家老の娘で斗南藩に移住した山川咲という少女がいた。彼女の家も困窮しており、ついに末娘を函館の預けることにしたというのだ。彼女がどのようにして函館に渡ったかは分からなかったが、青函連絡船もない今、このフェリーに乗ることで少しは雰囲気が分かるのではと思ったわけだ。

因みに彼女こそ、その後岩倉遣欧使節団に同行した5人の女子留学生(津田梅子が有名)の一人、山川捨松であり、10年のアメリカ滞在を経て、帰国後薩摩の大山巌と結婚して鹿鳴館の花ともうたわれた大山捨松である。津田梅子が次期5000円札の顔に決まったことで、山川捨松、永井繁子もちょっとは注目されるのではないかと思っている。

きっぷは簡単に買えた。出発まで1時間。バスはフェリーの時刻に合わせて運行されていた。家族連れなども乗ってきたが、会話を聞いていると『函館までちょっと買い物』という雰囲気だ。船内の一般席は床に座る。上等な席は椅子だが、座席指定であり、床に思い思い座る方が快適だ。だが私は体が硬くなっており、床にごろ寝するのにも難儀する.歳はとりたくないものだ。元気な若者たちは2階で寝ころんでいたが、私は荷物があるので1階で、膝を抱えている。

フェリーはゆっくり進んでいる。海を眺めていると、何となくずっと陸が見えているようだ。Wi-Fiも普通に繋がっており、電波が届く範囲を航行していることになる。1時間も経つと遠くに函館の町が見え始める。だがそこからがとても遠く感じられた。海上に雲が広がったかと思えば、夕日が光る。ちょっとした絵画のようだった。

ようやく着岸したが、車優先社会。徒歩の人は最後に降ろされた。このターミナルには観光案内所もなく、市街地から少し離れているので、バス停で路線を確認して乗り込む。20分ほどバスに乗り、五稜郭近くで下車。今日の宿に何とか辿り着く。老舗ホテルで部屋も広く、大浴場もあり実に快適。それでいて安いから言うことはない。

まずは腹が減った。朝食を食べて以来、何も口に入れていない。外へ飛び出すと5時だがもう暗くなっている。慌てて近くのどんぶり物屋に入り、メニューを見ると、丼はみなミニサイズ。東京なら麵と丼のセットメニューのはずだが、店主に聞くと『適当に組み合わせて、自分で選んで』と言われ、かつ丼とカレーうどんを食す。これが意外とうまい。夜は浴場にゆったり浸かり疲れを癒す。ここのお湯、何だかすべすべして気持ちが良く、長風呂となった。

11月16日(火)函館散策

朝はゆっくりと目覚める。正直下北半島の旅は思っていた以上にハードで疲れを覚えたので、今日はのんびり行こうと思う。函館の方が暖かく感じられるのは天候のせいだろうか。それとも気のせいか。まずは朝食だが、ここのビュッフェは刺身から郷土料理までずらっと並んでおり、実に豪華。更にデザート、フルーツも充実しており、この料金でこんなのあり、という充実ぶり。食事代と入浴だけで元が取れそうで、気分がとても良い。

宿をチェックアウトして、荷物を預け、ゆっくりと五稜郭を目指して歩く。そう遠くはないので良い散歩となる。まずは記念館に入り、土方歳三像にご対面する。それから五稜郭タワーを横目に見ながら周囲の堀をグルっと歩き出す。ランニングしている人が意外と多い。

天気は曇りだが、広々としていて視界が開けている感じだ。ちょうど反対側まで来ると『男爵薯』の碑があった。明治末の終わり頃、北海道七飯の農場主、川田龍吉男爵がアメリカから輸入した芋の品種から、この名が付いたという。川田と言えば、父親は日本銀行総裁になった川田小一郎。本人もイギリス留学経験があり、大会社に重役をしていたが、北海道の農業に賭けて移住したらしい。

更に歩くと、函館図書館が見えたので、ここで調査を開始する。今回のテーマは『山川捨松は如何に函館に渡り、ここでどう過ごしたか』だった。これをそのまま図書館に伝えると、学芸員さん?が『時々ありますよ、こういうご質問』というではないか。だから彼女も何度か調べており、実態はほぼ分かっていないとの結論を持っていた。それでも当時の函館における教会関係や坂本龍馬の従弟、沢辺琢磨などの資料を出してくれ、色々と参考になった。こういう調査は意外と面白い。

そこから宿に戻り、荷物を取り出して路面電車に乗る。函館駅までやってきて、明日の札幌行列車のチケットを取る。それから今日の宿へ向かう。そこは函館朝市の横にあり、その向こうは海だったので、風がとても強かった。宿は新しくできたばかりのようで、きれいだったが、まだ時間が早く、チェックインできず。8年ぶりの函館朝市、ずいぶんきれいになった印象である。

東北、北海道を行く2021(3)バスで大間へ

さすがに歩き疲れた。ちょうどバス停があり、バスが来るらしいので待ってみる。原野、という感じのところに、なぜか日の光が差してきた。ミニバスがやってきたので乗り込む。町まで戻るだけだったが、何と運転手が運賃が分からないというので困る。このコミュニティーバス、近隣の人しか乗らないので、彼らは勝手に料金を放り込んでいくようだ。

そこから別のバスに乗り換えて、宿の近くを通り過ぎていく。今度の目的地は柴五郎旧居跡。むつ運動公園近くの林の中、クマ注意と書かれた看板の先にそれはあった。これだけを見ても、150年前会津から来た柴家がどんな環境にあったかは推して知るべしだ。その苦難の様子は『ある明治人の記録』に詳しく書かれている。

ここには柴五郎顕彰碑が建てられている。苦労を重ねた柴五郎は、1900年の義和団事件の際、各国公使館と連携して居留民保護を行い、各国に称賛された英雄。その後に締結された日英同盟の陰の立役者とも言われており、会津初の陸軍大将に上り詰めた。彼については、興味深い人生が満載であり、今後も調べていきたいと思っている。

歩いて宿に戻ろうとしたが、途中でエネルギー切れを起こす。ちょうどすき屋があったので思わず入る。午後3時、こんな時間にご飯が食べられるところは他にない。温かい物が欲しくて、牛すき鍋定食を注文。生卵が2個もついていて、感激。なんだかとても美味しく頂く。

また雨が降り出し、急いで宿へ駆け込む。チェックインすると、何と温かい肉まん1個が渡される。こんなサービスは初めだ。今思いっきり食べたばかりだが、冷めてはいけないので、部屋で腹に押し込んだ。疲れて果てて寝込むと夜になっており、腹は相変わらず満腹で、風呂だけ入り、また寝てしまった。

11月15日(月)大湊へ

今朝は天気も回復している。当然早起きして、朝ご飯に挑む。和洋折衷を思いっきり食べた。今日は大間までバスに乗るのだが、出発まで時間があるので、隣駅の大湊まで歩いてみることにした(昨日電車に乗れば乗り放題切符で無料だったのに)。20分ほど歩くと、『斗南藩士 上陸記念の地』という表示が出て来る。会津からこの地にある者は陸路で、ある者は新潟から船でここへやってきた。

線路が続いている。そこを横切り港の方へ。小さな港、その横に記念碑が隠れるように置かれていた。その先にJRの終点、大湊駅があった。ここまで来ると、突き抜けた感じになる。会津から来た人々が見た風景、不安は如何ほどだっただろうか。帰りがけに立派な体育館や公園を見た。公共事業だけが盛んなのはどこの地方も一緒か。

バスで大間まで

宿まで戻り、荷物を取って駅前のバス停に向かう。念のため大間に行くバスを確認すると案内所の女性は『バス停のところに書いてあるでしょ』と素っ気ない。だがそこには終点の佐井行とは書かれているが、大間を通るとは書かれていない。なぜこんな対応を取るのかと訝しく思ったが、最近の傾向として『そんなのは検索すれば、分かるでしょう』なのであろう。でもそれなら『案内所なんかいらないでしょう』と言いたい。でも人がいないよりいた方が安心感はある。

バスに乗り込むと他に乗客は1人しかいない。本当に大間に行くのか運転手に聞いてみると、ちゃんと頷く。料金は高額でしかも現金のみだから予め両替した。バスが走り始めると何と私が昨日歩いた道をなぞっていく。実はこのバス路線、Googleでは出てこない。だから不安だったのだが、乗客も徐々に乗ってきて順調に進む。

バスは軽い山越えを経て、太平洋へ出た。何だか急に視界が開けた。1時間弱で大畑という営業所でバスは停車して休息した。私はトイレを探してまごつき、乗り遅れそうになる。ここは元々鉄道路線があったところのようで、線路が見えた。この付近でも結構人が乗ってくる。彼はどこへ行くのだろうか。

更に海岸線を北上すると下風呂温泉郷なる所で、おじさんが降りた。鄙びた温泉宿にでも泊まるのだろうか。非常に率直な感想を言えば、『こんな場所にも人は住んでいるんだな。温泉もあるんだな』。会津の人も下北でそう思ったのかもしれない。海岸線には漁に出る船も見られ、また漁師小屋もあった。

大間と言えばマグロが有名だが、こんなところにあるとは思っても見なかった。ちょっとした街に出たが、フェリーターミナルはまだ先だという。そして街はずれ、本州最北端の地という表示を見た後、ついにターミナルが見え、バスを降りた。乗車時間は約2時間、料金は2500円を超えていた。

東北、北海道を行く2021(2)下北 会津の惨状を知る

4時過ぎに駅前まで戻ってきたら、腹が減った。そうだ、今日はほぼ何も食べていないことにそこでようやく気が付いた。ここの名物料理はいかめしとせんべい汁と聞いたので、是非食べたいと思い、店を検索するも、駅周辺にはほとんどなかった。ただ宿の下の階の店はやっており、何とか食べられたのは幸いだった。せんべい汁は予想外においしく、もう一杯食べたいぐらいだった。ただ料金は観光客向けだったのだろう、少し高く感じられた。

宿は駅直結だからエレベーターで上に行き、荷物を持って部屋へ行く。夕方5時には暗くなり、周囲に何もないので、駅で明日の下北行電車の時間を確認した。するとガチガチ青森弁の年配駅員さんが『明日はこれだよ』と言って、一日乗り放題切符のパンフを指さす。更に切符はここでは買えないよ、とも言い、驚いていると、若い女性駅員が、何とJRの緑の窓口まで案内してくれた。

窓口で再度確認すると、先ほどの窓口は青い森鉄道(東北新幹線の延長で、JR在来線が第三セクターに移行)で、下北駅へ行くには野辺地から先がJRなので、ここで買うことになっているという。また一日乗り放題と八戸~下北の運賃は、乗り放題の方が10円安いという。あまりに複雑でよくわからないが、そのまま購入し、部屋に戻ってゆっくり休養した。

11月14日(日)下北へ

翌朝は早く起きた。窓から外を見ると、まだ明けたばかり朝だが、既に電車は動いている。鉄オタさんにはいい環境なのだろうか。腹が減ったので朝食へ。宿の朝食を食べる場所はなんと昨日のせんべい汁の店だった。昨日美味しかったせんべい汁が出ればいいなと思ったが、普通の味噌汁だった。

出発までに時間があったので駅周辺を歩いてみたが、やはり特に見るべきものはない。宿泊しようかと検討していた近所のホテルは休業になっており、本当に人が来ないのだろうなと思えた。9時過ぎに昨日の駅改札に行く。購入済みの切符で簡単に通過できた。

やはり一両列車だった。『JR大湊線 下北方面』と表示されており、この電車が野辺地で乗り換える必要がない直通だとわかる。思ったより多くの乗客を乗せて出発。途中に三沢駅があり、何となく三沢高校を思い出した。野辺地では『サッカー柴崎岳選手の出身地』との横断幕を見た。

JRに入ると、海岸線が出てきて、なんとなく雰囲気が良い。しかし途中に大きな風力発電を見て、急にむつ原子力発電関連の事業に思いが至る。1時間半で下北駅に到着する。『本州最北端の駅』という表記が目に入る。終点は次の大湊だが、緯度では下北の方が北であるらしい。

下北で

駅前の観光案内所で情報収集する。地図をもらって会津藩関連の場所を聞いていると、バスがちょうど出ていく。よく聞くとあのバスに乗ると便利だったらしい。しかも次のバスは3時間後と言われ、愕然としたが仕方がない。安全策で宿は駅前に取ってあったので、まずは荷物を置きに行く。

今日の宿、昔は町一番のホテルでした、という感じ。広いロビー、結婚式なども行われたのだろう。荷物を預けて傘を借りて出発。雨が降りしきる中、田名部川沿いに歩いていく。途中にあった『水道、どうでしょう』という何とも言えないCMが忘れられない。30分ほど歩いて、下北の町に至る。

今回はお茶の旅から少し離れ、昨年行った会津に関連して、斗南藩について学ぶ。まずは会津藩ゆかりの寺、渋い円通寺に向かう。会津戦争に敗れた会津藩は、その後斗南藩となり、1871年に円通寺に仮の藩庁と藩主の居館が設けられ、その後藩校日新館もここに移された。境内には戊辰戦争三十三回忌の1900年に招魂碑(松平容大の揮毫)が建立されている。

すぐ近くにある徳玄寺もゆかりの場所だった。円通寺は曹洞宗で戒律も厳しく、食事では獣肉や魚介類の禁止、静寂を常とした為、若年の容大が生活するには無理があり、比較的戒律がゆるい徳玄寺が食事を摂り、大声をあげ、走り回れる遊び場だったという。又徳玄寺の境内では斗南藩の家臣達の会議場となっていたというから、将来の斗南藩の行く末について熱く議論された場でもあった。現在は特にそれを窺わせるものは何も残ってはいない。

雨が止んだ。そうなると歩くしかない。30分ほど郊外に出て行く。新しい縦貫道路が作られていた。その先に斗南が丘市街地跡がある。ここが斗南藩の生き残りをかけた夢の開拓地だった。しかしあまりに過酷な環境で成功には至らず、現在では当時の様子を伺うことはできない。

敷地の奥に大きな石碑があった。1936年秩父宮と勢津子妃がこの地を訪れたことが分かる。なぜここに碑があるのかといえば、それは勢津子妃が、会津松平家に繋がる人であり、この婚礼により、逆賊朝敵の汚名を拭い去ることとなったからだった。最北端に追いやられた会津の人々のことを思うと、思わず目頭が熱くなる。

東北、北海道を行く2021(1)八戸 根城、是川縄文館を歩く

《東北、北海道を行く2021》  2021年11月13-22日

10月の大遠征で味をしめてしまい、1か月に1度は旅行に出ようと考えた。今月は久しぶりに北海道へ行くことにしていたが、単に飛行機で行くのはもったいないので、普段はいけない(茶畑ないし)下北半島から船で函館に渡るという絶妙な計画を立ててみた。果たしてどんなことになるのだろうか。

11月13日(土)八戸へ

東北は私にとって鬼門なのだ。失意の18歳の思い出が強烈過ぎて、その後ほとんど足を向けたことがない。唯一一度だけ25年ほど前に『みちのく一人旅』を敢行するも、やはり困難の連続だった記憶しかない。今日は大宮から新幹線で八戸まで行くのだが、25年前は東北新幹線の電気系統の故障で、東京から盛岡まで7時間かかったという苦い思い出の再現がないことを願うばかりだ。

そして今回の新しい試み。駅ネットで新幹線を予約して、チケットレスで乗車することにした。これだと割引が得られる場合もあると、ようやく気が付いた。やはり国内旅に慣れておらず、しかもちゃんと検索などもしないと損をする。それが日本だ。ただ新幹線を予約していて、何かの不具合で改札が通れなかったら、全ての日程に影響が出るので、今回は相当余裕のあるものにしておいた。

大宮駅で無事に改札を通過し、新幹線に乗り込んだ。今日は週末ではあるが、さすがに車内は空いていた。私の席は二人掛けの通路側で、窓側に女性がいたので、反対側の3つとも空いている座席に移ろうと思い、念のため車掌に、『こちらに移ります』と告げると、彼は『指定席は現在絶賛発売中ですので』と、暗に予約した席に座るように宣う。

仙台を過ぎて更に乗客も減ったので、もういいかと思い、席を移動した。指定席とは何とも面倒だな。それにしてもネットで座席が指定出来るのなら、乗車後の席の変更にもネットで対応してほしいものだ。まあ日本では無理だろうな。それでも天気が良いから救われる。外をボーっと見ていると、盛岡も過ぎて、八戸に着いた。

今日の宿は駅に直結しているので、すぐにフロントに荷物を預けた。その下の階には観光案内所もあるという便利さ。ちょうど是川遺跡が世界遺産に登録されたらしく、そのプロモーションを行っていたが、私がいくつかをバスで回りたいと告げると、要領を得ない回答で困った。実はこれはよくあることで、係員は自動車通勤でバスなど乗らない人が多く、バス路線などにも不慣れなのだ。せっかく案内するのなら、ちゃんと研修しておいてほしい。

根城から縄文館まで

とにかく面倒なので、バスを使わず歩き出す。駅付近に食堂などでもあればランチでもと思ったが、ほぼ何もない。八戸駅は市の中心からかなり離れていたのだ。30分以上歩いて、最初の目的地、根城に着いた。ここは南部藩の城、『根城にする』などの用語はここから生まれたと聞いている。

かなり広い外周を間違って一周してから入口に辿り着く。何だか広々とした公園のようにも見える。入場料を払って中へ入ろうとすると、今日は無料だという。前の老人だけかと思っていたが、とても得した気分となる。再現された屋敷、その中の展示を見ていると、南北朝の時代、北畠顕家の指示で南部氏が城を作ったらしい。そして1592年、秀吉の天下が定まった後、蒲生氏郷の奥州再仕置きにより、この城も破却となったと書かれている。

実に天気が良く、秋の雲が高い。そして木々も色づいており、日本の晩秋を感じる風景がここにあった。気分がすごく良いのでそのまま歩き続けることにした。根城から直ぐのところに、八戸市博物館があった。館の前には南部師行の像がある。ここ八戸には、江戸時代中期の思想家、安藤昌益が町医者をしていたとある。八戸は歴史的に見て、意外に面白い場所ではないかと思い始める。

そこから約1時間トボトボと歩いて、是川縄文館に到着した。何と先ほどの博物館で無料招待券をもらい、タダで見学する。さすがに土曜日で家族連れなども見に来ており、多少は人がいる、という感じであった。館内には様々な土偶が展示されており、実に興味深い。昔興味を持った遮光器土偶、青森博物館で見たことがあるが、ここにもあるんだ。そして国宝の合掌土偶も、一人で独占してずっと眺めていられた。

さすがに疲れたので、バスで戻ることにした。直接駅まで行くバスがあるので、それを待っているともう一台、市内中心街へ行くバスが来たので、何も考えずにそれに乗ってしまった。中心街をフラフラしようかと思ったが、バスの接続が悪く、降りたらすぐに駅行バスに乗り換えたので、中心街はバスの窓から見ただけだったが、確かに駅の周辺よりは賑やかだった。

三島日帰り茶旅2021

《三島日帰り茶旅2021》  2021年11月10日

先日三重の亀山で森永紅茶の歴史を調べている中で、『確かに荒茶は三重で作ったが、仕上げは三島工場だった』と聞いたので、気になっていた。森永の方に聞いてみると、紅茶を作っていた三島工場はもうないが、その所在地らしき場所は分かるというので、取り敢えず出掛けてみることにした。

11月10日(水)水がきれいな三島

先月静岡へ向かった際は、成城学園までバスに乗ったが、電車が事故で遅延したので、今回はバスで千歳船橋へ行き、そこから小田急を利用したが、何事も起きずに小田原まで行けた。有難い。ここでJRに乗り換え、熱海を経由して三島へ向かう。やはり三島までだと静岡へ行くといってもかなり近い。

初めて三島駅で降りた。ご飯を食べようかと思ったが、駅前にあまりお店がないので、取り敢えず図書館の方へ向かったが、食堂などは見付からない。代わりにきれいな水が流れる小川があり、ちょっと和む。そのまま図書館に入り、資料を探す。三島工場はもうないので、在りし日の姿など、写真でもないかと探すが、意外と見つからない。むしろ戦中の三島工場は薬品工場で、日本で初めてペニシリンを作った場所だと書かれていた。森永関連の資料は、ここでもほぼ見付からなかった。更に静岡県は茶処ではあるが、三島で茶業が行われた様子もあまり見られない。

またトボトボと歩く。途中にきれいな池がある公園を見た。結局駅前に戻り、そこにあったすし屋に入った。何となく静岡に来れば寿司かな、と思ってしまう。マグロ尽くしという立派な寿司を頂く。そして今度は先ほどと反対方向へ歩いていく。

楽寿園という実に立派な歴史公園に入った。ちょうど落ち葉がすごい季節で、係の人が数人で葉っぱを掃いていた。葉っぱを踏みしめながら中の方に踏み込むと、楽寿館という建物が見えた。なんだろうと説明をのぞき込むと、『これから説明があります』と声を掛けられ、館内へ入った。決められた時間に無料で館内説明ツアーをしているらしい。10人ぐらいがツアーを待っていた。

館内は木造の立派な造り。小松宮家の別邸として明治に建てられたらしい。大きな池に面して建っており、座敷からの景色が良い。飾られた絵画なども素晴らしい。更に洋室もあり、ここには朝鮮併合で王族となった朝鮮の王子李垠が住んでいたことと関連している。

園内には三島市郷土資料館もあり、見学する。東海道で最も賑わった宿場の一つと言われた三島宿の様子、交易などが展示されていたが、茶に繋がるものは見付からなかった。更に園内を散策すると、非常に落ち着いた、木々の多い公園で大いに和む。

森永紅茶の仕上げ工場跡地は

そこから三島駅へは戻らず、南下していくと、伊豆国分寺跡がある。奈良時代、聖武天皇の命で作られた国分寺だが、今はきれいに再建され、国分寺跡の碑が建っている。これは全国にあるので、地図で見付けたら、なぜか行ってしまうスポットだ。そのまま伊豆箱根鉄道の三島広小路駅へ行き、そこから電車に乗る。スイカなどは使えないので現金で切符を買う。

狭いホームに電車がやってくる。何だかちょっと路面電車のようだと思ったが、すぐに郊外に出て、民家の代わりに畑が広がっていく。いくつもの企業の工場も見え、その中には森永製菓のものもあった。私は3つ目の大場(だいば)という駅で下車した。森永紅茶の仕上げ工場があった場所はここだという。

工場の住所は駅のすぐ横だったが、反対側に降りてしまい、遠回りして向かう。だが地図が示した場所には団地があるだけで、工場を思わせるものは何もなかった。あとで調べると茶工場は、紅茶生産が終焉した50年前、すぐに土地が売却され、その跡地には住宅が建ったとあるから、それがここなのだろう。

回っていくと、駅に出る。昔の僅かな写真によれば、駅から工場が直結していたから、その位置関係はそのままである。勿論現在この付近で、ここの工場があったことを知る人はほとんどいないだろう。50年とはそれほどに長い年月なのだということは、紅茶の調査で痛いほど分かっていたが、それでも寂しい。

また切符を買って電車に乗る。終点まで切符を買ったのに、なぜか二駅で降りてしまった。それは三島田町駅が三島大社前、とも書かれていたからだ。せっかくだから三島大社へ行こうと思ったのだが、地図上ではどう見ても、駅から大社は近いとは言えない。大社前とはなぜ付いたのだろうか。

結局15分歩いて、何とか三島大社へ。なかなか古めかしい神社で雰囲気は良い。頼朝と政子の腰掛石などとあり、ここが源頼朝ゆかりの地であることが分かる。来年の大河ドラマを考えると、ここへの参拝者は増えるだろう。さすがに疲れてしまい、ふと見ると和菓子屋があったので入ってみる。お菓子とお茶で200円というので頼んでみると、これがこしあんの草餅で意外においしい。縁起餅とも書かれており、お土産に1箱買った。そしてまたトボトボと三島駅まで歩いていき、今日の活動は終了となった。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(5)城崎温泉にて

10月25日(月)城崎温泉へ

満腹の腹を抱えてゆっくりと睡眠をとった。今回の旅に出てから10日近くが経ち、さすがに疲れが出てきていたので、何とも良いタイミングでリラックスできた。宿を後にして、豊岡市に向かった。まずは豊岡の図書館へ行く。但馬の国の歴史に関する展示があり、山名氏と茶の関連を窺わせるものもあった。そしてNさんのお知り合いが丁寧に説明してくれたので、てっきりここの学芸員さんだと思っていたら、違うらしい。

お昼に出石そばを食べに行って正直驚いた。さほど大きいとは思えない出石の町には、何と43軒もの蕎麦屋が並んでいた。そして小雨の平日にもかかわらず、多くの人が車でそばを食べてきており、その人気も実感した。なぜこの街にそばがあるのか。江戸時代信州上田の藩主が国替えでこちらに来た折、そば職人を連れてきたのが始まりとか。

そのそばの出し方も独特。『割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で出す時に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まった』という。五枚一組を一人前と言われ、テーブルの上はそばの小皿で埋め尽くされていく。

食後の散策。この街には沢庵和尚がいたお寺もある。大河ドラマ『八重の桜』でみた山本八重の最初の夫、川崎尚之助の出身地でもあった。川崎は八重の兄、覚馬と同門の秀才。そしてなんとあの中嶋神社まであった。この神社は菓祖と呼ばれ、お菓子の神様なのだが、実は先日佐賀の伊万里に行った時もこの神社に出会っている。田道間守が垂仁天皇の命で常世の国に渡り、橘を持ち帰り、これが菓子の始まりという話も全く同じで驚いた。なぜここにもあるのだろうか?

それから車で1時間、城崎温泉に入った。志賀直哉の小説、中学生の頃に読んだだが、名前しか覚えていない。ずっと気にはなっていたが、とうとうここに辿り着いたという感覚だった。如何にも温泉街という雰囲気の一軒に入る。何とも老舗旅館だったが、これもNさんのお知り合いということで泊めて頂く。

なんと幕末禁門の変に敗れた桂小五郎が隠れていた宿の後継だという。内部には多くの展示があり、かなりの興味をそそる。私は一人で立派なお部屋に案内され、大満足。この部屋は内庭を眺められ、そして文机が置かれており、まさに小説が書けそうだった。

お風呂は内湯もあるが、外に七つの温泉があり、やっていればどこでも入れるという。取り敢えず雨だったので、内湯に浸かり、夕飯はNさんたちのお部屋で、但馬牛やカニなどごちそうを頂く。特にお願いしたわけではないが、2日続けてこんな贅沢な旅、いいんでしょうか?いいんです!

10月26日(火)城崎を回る

翌朝は早めに目覚めた。小雨の温泉地、浴衣で出掛けた。宿の向かいには立派な宿があった。城崎温泉の風情、素晴らしい。周囲を散策した。小川を挟んだ写真映えのする風景。志賀直哉もそんな気分だったのだろうか。小学生が学校に行くのに出会う。彼らは毎日こんな温泉客を見て育つのだろう。

朝ご飯を頂く。これまた立派。こんなに食べて小説など書けるのだろうか?私ならこれで温泉に浸かれば一日ボーっとしておしまいだ。数分歩いて外湯の一つに入る。朝から結構お客がいる。広々とした湯船に浸かると極楽気分になれる。ゆっくり風呂から出て、更に周囲を散策した。

宿に戻るとNさんたちはご主人から展示品の説明を受けていた。桂小五郎、志賀直哉など様々な資料や写真が展示されている。よく見ると、お茶を淹れる道具も揃っている。老舗旅館には色々と見るべきところがあるものだ。Nさんとご主人に感謝。

宿を出て、城崎温泉元湯を見る。薬師源泉と書かれており、薬効があるのだろう。それから薬師堂へ行く。そこから歩いて温泉寺に向かう。普通はロープウエイで行くのだろうが、運動すべきと歩いていく。かなり急な坂道で驚く。ようやくたどり着くと、そこには立派な本堂があった。

我々がここに来た理由、それはご本尊が33年ぶりにご開帳、しかもあと数日でお目に掛かれなくなるからだった。ここもNさんのお知り合いであり、丁寧にご案内頂いた。このお寺は聖武天皇の命名で、十一面観世音菩薩像もその時代の作だという。1300年の時を超えて、ご対面できるとはなんと幸せなことだろうか。お寺から眼下の街を眺めるのも良い。

急な坂を転げ降り、城崎文芸館に行ってみた。ここは現代的な施設で、先ほどの空間との対比がすごい。文芸館、取り敢えず志賀直哉中心の展示かと思ったが、城崎温泉ゆかりの作家を多数登場させていた。志賀直哉がこの温泉に来たのは東京で山手線にはねられ、重傷を負った、その療養だと知る。

帰る時刻となった。私はここから京都まで行き、新幹線に乗り換えて、東京へ戻る。Kさんと京都まで同行して、そこで別れることにした。城崎温泉初の特急、平日の昼下がり、かつコロナ禍だから、ガラガラだろうと自由席を買うと、この車両だけかなり込み合っていた。何と自由席は一両しかないらしい。皆考えることは同じだ。

特急城崎18号は2時間半で京都駅に着いた。各駅停車を乗り継ぐより、1時間程速い到着だった。新幹線に乗る前に駅弁を買い込む。ここから品川までは2時間しかかからない。新幹線はやはり早いがつまらない、と思ってしまう。